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dark_night_of_soul.jpg このアルバムの発売を一度は見送ろうとしたレコード会社の人たちは頭がおかしいのかも。素晴らしい作品をどんなことがあってもリリースすることがレコード会社の役割だとしたら、なおさらだ。そして今、ようやく僕たちの手にこのアルバムは届いたけれど、それまでに色々なことがありすぎた。失ったものが本当に大きすぎる。このアルバムのメイン・ソングライターであるスパークルホースのマーク・リンカス、そしてゲストとして参加しているシンガー・ソングライターのヴィック・チェスナットの2人は、リリースを見届けることなく自ら命を絶ってしまった。僕たちの心を揺さぶった2つの悲しい出来事が、このアルバムに暗い影を落とすのも事実。でも、それ以上にここで鳴り響く13曲は美しくて、皮肉にも生命力に満ちあふれている。

 ゴリラズのプラスティック・ビーチへの冒険のように音楽ファンをワクワクさせるアルバムとして、この豪華なコラボレーションはもっと注目されるべき。ただし、冒険の行き先は南の島ではなく、「魂の暗夜」だけれども。『Dark Night Of The Soul』は、ナールズ・バークレイやブロークン・ベルズでの活躍も素晴らしいデンジャー・マウスが、映画監督のデヴィッド・リンチとスパークルホースことマーク・リンカスとスタートさせたユニット。デヴィッド・リンチが視覚化するビジュアル・イメージ、スパークルホースが紡ぐ優しいメロディ、そしてデンジャー・マウスによる繊細なプロデュース・ワークが呼応し合って、美しくも深遠な世界を描き出している。耳を澄ませてみよう。

 フレーミング・リップスが元恋人への復讐を歌い、スーパー・ファーリー・アニマルズのグリフがそれに続く。ストロークスのジュリアンにはローファイなサーフ・ポップがぴったりだ。ピクシーズのブラック・フランシスはいつもよりキーが低い。イギー・ポップはファズで歪んだギターと共に舞台へ登場する。音楽を聴きながら、ジャケットやブックレットを眺めてみる。自分の気持ちのコンディションによって深みが違う闇と生々しい原色が混ざり合う。それはデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」や「ブルー・ヴェルベット」そして「マルホランド・ドライブ」での時間軸の歪み、観念の揺らぎを思わせる。どの曲も残酷なほどメロディは優しく、ハーモニーは儚い。ヴィック・チェスナットの歌はホラー映画の1シーンのよう。元グランダディのジェイソン・ライトル、スザンヌ・ヴェガのアコースティック・バラードも素晴らしい。

 僕はこのアルバムをCDショップで手に入れてから家に帰り着くまで、iPodでオアシスを聞いていた。「Whatever」とか「Live Forever」とか。ずっと聞きたかったアルバムなのに、2人の大好きなミュージシャンの死が重すぎて、びびっていたのだ。オアシスというバカみたいなバンド名、ほとんどの曲から漲る生命力に心を預ける。ベタだけど、僕はそうした。数年前、僕が同じように大切な人を失った時もそうだった。フレーミング・リップスが「Do You Realize??」で歌っていたように、幸せな時に泣きたい。でも、「知っている人だって、いつかみんな死ぬ」ってことを、僕はまだ「Realize」できていないから。

 もう一度、再生ボタンを押して『Dark Night Of The Soul』を聞く。マーク・リンカスがカーディガンズのニーナとデュエットしている「Daddy's Gone」がいちばん好きだ。「目を閉じて。夢がやって来るまで」と歌われる父と子の歌。僕はこの歌を、このアルバムをずっと聞き続けるだろう。デヴィッド・リンチ、デンジャー・マウス、スパークルホースと彼らのもとに集まった仲間たちの想像力(=創造力)こそが生命力だ。僕はそこに助けられた気がした。ひとりでも多くの人に、この音楽が届きますように。

(犬飼一郎)

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underworld.jpg カール・ハイドという人は、やはりロックだ。というか、やっぱりロックをあきらめきれてないんではないか? カール・ハイドのロックスター願望が、アンダーワールドをロックな存在にしていると僕は思う。リック・スミスは、フロントマンの役割をほぼカール・ハイドに任せているように、自分から積極的に前へ出る人ではなく、ひたすら音を生み続ける、プロデューサー的な性格の人だし、そういう意味でも、アンダーワールドは、やはりカール・ハイドの存在によって、ロック的な文学性やポップ性を獲得している部分が大きい。それでも、アンダーワールドがフロアの最先端とリンクして、所謂「現場」と呼ばれるところや、そこに属する人達から一定の評価を得ていたのは、二人が(ときにはダレン・エマーソンも)、常にアンテナを張って、時代やフロアの感覚を感じ取って吸収し、それをアンダーワールドなりの返答(曲)として作り上げるのがリック・スミス、その返答をより分かりやすく、より多くの人々に届ける役割を、優れたバランス感覚でもってこなすのが、カール・ハイド。これがアンダー・ワールドのメカニズムだと僕は思う。

 『A Hundred Days Off』のときから、僕はアンダーワールドに対して「あれっ?」と思い始めていた。ダレン・エマーソンが脱退してから初のアルバムということで迷いがあり、その影響からか、内省的な雰囲気が強く、様々な音を必死で集めた感が、少し痛々しくもあり、その必死さが、ギリギリのところで自分の心を惹きつけるエモーションとなっていた。次の『Oblivion With Bells』は、さらに内省的な内容になっていて、分かりやすさという点では、過去のアンダーワールドのアルバムと比べて、お世辞にも分かりやすいというわけでもなければ、とっつきやすいわけでもない。しかし、クリック・ハウスやミニマル系など、当時注目され始めていた音楽を取り入れたり、少し先を予見したワールド・ミュージック系のテクノなんかもあったりして、「調子戻してきたかな?」と思っていたのだけど、最新作『Barking』を聴いて、僕は複雑な気持ちになってしまった。

 『Barking』は、外部の人材を多く招き制作された。でも、その割には、あまりにも統一感がありすぎると思う。もっとアレンジなんかに影響があってもいいし、何より影響がないほうがおかしい人達と組んでいるんだから。新しい空気を入れて、ポジティブな気分になるために、外部から人を招いたとすれば、それは安易に思えてしまう。アンダーワールドは、さながらフェリーとイーノのように、カール・ハイドのひたすらポップであろうとする姿勢と、リック・スミスの趣味性が高い曲、それらがせめぎ合い融合し、音のシャワーとなって放出される。それがアンダーワールドというバンドマジックであったと思うし、僕もそのマジックから生まれる「無血的にあらゆる人を支配しようとする幸福感と恍惚感」が好きだった。しかし、『Barking』には、そのバンドマジックはなく、あるのは、ひたすら上機嫌なアンダーワールドの姿である。そして、その上機嫌さというのは、アンダーワールドの昔からの本質であり、わざわざ外部から人を招くまでもなく、持っていたものだった。つまり、「こうまでしなければ、こうしたヴァイヴを持ったアルバムを作れなくなってしまったのか?」という確信に近い疑問を、『Barking』を聴いて抱いてしまったのである。

 決して駄目なアルバムではないし、音作りの技はさすがだと思うし、カール・ハイドの力ある歌声は、過去最高と言えるかも知れない。ライヴで鳴れば、アンセムになるであろう曲もある。なんだかんだ言っても、愛聴するだろう。しかし、しばらくは、『Barking』を聴くたびに、「もはや、好きだったアンダーワールドは戻ってこないのか? だとしたら、なぜ僕は今でも、アンダーワールドを聴いているのだろうか?」という複雑な感情と疑問に向き合わなければならないだろう。

(近藤真弥)

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les_savy_fav.jpg 快進撃はまだまだ続いている。

 2007年の『Let's Stay Friends』がUS/UK両方から絶賛されたレ・サヴィ・ファヴ。このアルバムのエッジの立ちっぷりは尋常ではなかった。その後、バンドはフェスティヴァルの常連になり、フロントマンのティム・ハリントンはテレビ出演もこなすようになった。90年代半ばから活動し、活動休止期間を挟んだ6年ぶりのこの作品まさにブレイクスルーしたわけだ。

 とはいえ、彼らは名声にどっかりとあぐらをかくような連中じゃない。特に、ベースのシド・バトラーはレーベル、フレンチキッスのオーナーとしてパッション・ピットやドードーズ、ローカル・ネイティヴスなどを世に送り出しているだけあり、多くのバンドの兄貴分であろうとしているのだろう。3年ぶりとなる今作『Root For Ruin』でもクオリティの高さを見せつけてくれた。

 まず印象的なのは、2人のギタリストによる技巧的なプレイ。時に轟音をまき散らし、時に緻密なメロディを鳴らす共演にはぐいぐいと引き込まれてしまう。ドラムだって負けてはいない。地響きの力強さで曲を鼓動させる。そして、何よりティムのヴォーカル。パワフルなハイトーンや落ち着いた歌いぶりなど、そのレンジの広さには驚かされる。

 方向性は前作と基本的に変わらないものの、不穏なギターのイントロからシャウトが印象的なコーラスになだれ込む「Poltergeist」、ミドルテンポでしっとりと聴かせる「Dear Crutches」、そして群を抜いてキャッチーなメロディの「Let's Get Out Of Here」など傑出した楽曲揃い。確かに、『Let's Stay Friends』のときの衝撃はないかもしれない。だが、変わらずクオリティの高い作品であることは間違いない。

 このアルバムの曲をひっさげて、彼らは相変わらず熱狂のライヴを繰り返すのだろう。そして、ティム・ハリントンは嬉々としてカオティックなパフォーマンスをするのだろう(半裸でオーディエンスにキスしまくるからね)。ライヴバンドとしての名を馳せた彼らが、再び渾身の作品を届けてくれたのだから、ぜひここ日本でも早く彼らが見れる日が来るといいな。切に願っています。

(角田仁志)

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kisses.jpg「誰ひとりとして他人が現実に存在することを本当には許さない、と私には思われる。他のひとが生きており、私たちと同様に感じたり、考えたりしていることは認めることができるだろう。だがつねに、自分とは異なるという匿名的な要素なり、物理的なハンディキャップが残るだろう」(フェルナンド・ペソア)

 「アメリカのバンドは僕らがファンとして夢中になるようなメロディーや音楽により才能があるように思えるよ。イギリスのバンドは大抵悪い真似に聴こえたり、そんなに誠実や特別には聴こえないな。」とは、アメリカのアーティストを中心に良質なインディ・サウンドを掘り下げて現在の「シーン」を牽引する、イギリスはロンドンにあるトランスペアレントの創設者の一人の言葉である。「僕らは特定のジャンルとだけ関わったり、リリースしたいというのはないんだ。素晴らしい曲を探しているんだよ。」--音楽のジャンルの壁を「transparent(=透明)」にしようという意図から命名されたというこのレーベルのロゴはしかし、「今」は兎角、よく目に入ってくるような気がする。

 「この1年半くらい、僕はプリンストン(Princeton)にありがちなフィーリングとは違う曲を書き始めている。元々はストリングスやホーンが入ったディスコ・レコードをやろうと思ってたんだけど、お金もないから自分の家のガレージで録音することにしたんだ」--ジェシー・キヴェル(Jesse Kivel)

 プリンストンといえばカリフォルニアはサンタモニカで育った双子のキヴェル兄弟をco-フロントマンとし、アーサー・ラッセルの紆余曲折と暗中模索にニュー・オーダー的なニュー・ウェーヴ、電子音楽のエッセンスをマッシュアップした浮遊感のあるシンセ・サウンドにジルベルト・ジル的トロピカリアの風を吹かせたような、幅広い参照点を折衷した音楽性を持つインディ・ニューカマー・バンドの旗手だが、マット・キヴェルがサイドプロジェクトとして始めたミステリー・クロウズ、スリーピング・バッグスでそれぞれ、リアル・エステイト、ビッグ・トラブルド的な「古き良き、ギターポップ」への憧憬と、マイブラ、ライド的なシューゲイズ・サウンドを展開する中、双子の片割れであるジェシー・キヴェルはキッシーズとして、自身のパートナーであるジンジー・エドモソンとフォーキーでトロピカルなサーフ・ポップを始めたというのが面白い。

 最大公約数的なメタディスクールが社会の中で成立している状態の崩壊、或いは理想が共有されている状態としての集団的転移の衰退が現代だとするならば或いは、小崎哲哉氏が指摘するような「浮遊するジェネレーション」的な「地に足が着かない、漠たる不安」を私たちは「現在」、抱えている状態にある。そうした条件下においてMGMTがソニック・ブームをプロデューサーに迎えたのも、或いはビン・ジ・リンのような軽やかなディスコ・サウンドの希求が為されているのもだからある意味では、「そういう時代」の起こした因果なのかもしれない。
 
 そうなるとウィークエンド、スミス・ウエスタンといったシューゲイザーのフォロワーや、或いはウォッシュト・アウト、アクティヴ・チャイルドのようにフォグでアンニュイなヴォーカルに空間を含ませるようなシンセサイザーが乗ったフローティングなブリージン・ディスコ然としたアーティストが大半を占めるトランスペアレントから今年5月にリリースされたキッシーズ「Bermuda」EPの即日ソールド・アウトという反響の大きさも頷ける。それに、今回のアルバム『The Heart Of The Nightlife』の配給元がシミアン・モバイル・ディスコ、リトル・ブーツ、ブラック・ゴースツ等のディス・イズ・ミュージック・リミテッド、更に世界に先駆けて発売された日本盤が100%オレンジのジャケットと共にカイト、ヨット、タンラインズらの作品を扱う本国インディ・レーベルの雄、金沢のラリーからとなっていることも実にリマーカブルである。

 「きみと踊っていたら何だか、友達がいなくなっちゃったような気がするよ/ああ僕は独りだよ」--「Bermuda」に於ける「きみ」は最早「人間としての君」の実体を失っていて、センチメンタルなビートに乗って一人称の彼は記号と手を繋いでいる。「何だかもう、よくわからないんだよ/きみは何者なの?(People Can Do The Most Amazing Things)」「恋人のために時間を潰さないようにしなきゃ...だってもう、十分な気がするんだ/もう飽きちゃったよ/ねえ、でもきみが恋しいんだ(Kisses)」--キッシーズが謳う「人間が二人居る」というこの事実は、かくも切実にリスナーの胸に突き刺さってくる。

 地に足の着かない不安を真っ直ぐに見据える「そこ」に真新しさはそれほど感じられない。しかし、パウル・ベッカーは言う―私たちが「他者」という異物の中に見出すのは常に自分自身である。足場を失った「若者」は、不可知で不安定な視座に立って、「そこに、在る」ものとしての交わされることの無い情報、即ち「空洞」を見つめる。

 そういった意味でも、本作を聴くにつけ、閉塞する自意識のセカイを謳うジェシーの「時代を感知する優秀なアンテナ」と、ウエスト・コーストから押し寄せるその「波」をサーフする音が「今」、メランコリックな響きと共に視えて来るのではないだろうか。

 グローファイ/チルウェーヴというタームの胎動が確認されてから約1年、ブルックリンのネオ・サイケデリアや新世代のノイズ・ポップ、或いは「国境の垣根を越える象徴界のスマートなロック」のウェイヴスを踏襲しつつ、キャッチーなメロディ・ラインはそのままに、ファジーで温度感のあるオーガニックなダウン・ビートがオーヴァーグラウンドに出て来たのは私はだから、偶然ではないと思っている。

(黒田千尋)

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drivan.jpg なんだかんだで人は宗教的とも言える自分だけの世界を持っていて、それは誰にも言えない、または言いたくない類のものであったり、人には理解されないものであったりする。とは思うのだが、現在では、その自分だけの世界がオタクという言葉で称され、フランクに誰にでも提示できる環境が整っていると感じる。思えば少し前ならば、人をオタクと呼ぶことには蔑称の意味も含んでいたが、今ではオタクであることがカッコいいという風潮がある。その風潮が出来上がったからこそ、エレクトロニカ・アーティストの機材オタク的な音楽世界や自己満足的な世界観がここ日本で受け入れられる環境が整ったのだと感じる。

 例えば一部のクラブ・イベントにおいて、アンダーワールドでもダフト・パンクでもなく、オウテカを流す方が、場が盛り上がるという状況は何度か目にしたし、ヤン・イェリネクやハーバートといった、盛り上がるというよりは音マニアあるいはオタク的な側面が強いアーティストの楽曲しか流さないことを強調し、それらの音楽がオシャレであることを強調したイベントも存在する。もう「オタク」も「マニア」も蔑称ではなく、カッコいいものなのである。少し前の書籍になるが、菊地成孔の『聴き飽きない人々』という対談集において、音楽評論家の岡村詩野氏と菊地成孔氏の対談で、最近の若いリスナーは聴きやすいポップスを知らず、聴こうとせず、やや難解な音楽を聴きたがる傾向にある、という旨の発言があったが、それはリスナーの、オタク属性化を示しているように思う。そこには音楽によって誰かと繋がることは頭になく、自己の世界にどっぷり浸かりたいという欲求があるように僕には思えた(僕にもそういうところはあるのだけど...)。

 ドライヴァンの本作『Disko』は、ノルウェーを代表するデザイナーであり、エレクトロニカ・アーティストであり、音楽オタクでもあるキム・ヨーソイが結成した北欧の女性3人を加えたバンドのデビュー作である。北欧だからなのか、ムームの2ndや3rdと似た雰囲気を持つ。どの楽曲もクオリティは高く、ヴァリエーション豊かとは言えないが、寂しげなこの音楽はひとりだけで聴きたいと思わせる。もともとダンス・パフォーマンスにキム・ヨーソイが楽曲を提供したのがバンド結成のきっかけらしいが、4つ打ちのダンス・ミュージック的なところはなく、どちらかと言えばフォーク・ミュージックと表した方が適している。歌詞は全てスウェーデン語で女性ヴォーカルの涼しげな歌声が全曲つらぬかれているが、プロデュースも務めたキム・ヨーソイは女性ヴォーカリストの最も深くにあるもの、つまりはヴォーカリストの宗教的なまでの深い部分を引き出そうとしているかのような音響処理や暗いトーンの音色を配置している。そしてそれが奏功している。まるでつぶやいているような歌声。冷酷で淡白。しかしだからこそ迫ってくるものがある。どうしようもなく寂しいがゆえに、歌に、音そのものにすがろうという姿が見える。

 TVゲームであろうと漫画であろうと、いわゆるオタクと呼ばれる人々がそれらに夢中になるのは何かを得るためではなく、自身を満足させるための救済の行為なのかもしれない。それがドライヴァンの場合、音楽に身を預けることだったのではないだろうか。音楽をまず鳴らしたいという欲求よりも、音楽によって自分で自分を認めたいという欲求。そんなことを聴いていると思うのだ。「認められなくてもかまわない。音楽はわたしを救うのだ」と。音楽家は自分の音楽によって救われる。聴く側は音楽を聴いて浸り、分析し、または批評し満足することで救われる。それらは誰にも理解されないものかもしれない。しかし、そうしなければオタクは自分を保てない。本作はそういう類の音楽であると僕は思う。もはや音楽オタクという言葉が一般化し、ブログやツイッターなどで批評する環境が整い、作品をどう受け止めて、どのように評するのかが意識的にも無意識的にもオタクにとって自分の存在価値を示すものになった現在、需要のある一枚に成りうる作品かもしれない。

(田中喬史)

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garda_die_technique_die.jpg 知る人ぞ知る良質のインディー・バンドの産地、ドイツのドレスデンを拠点に活動するバンド、ガルダ。ヴォーカリストのリーマンと、ドラマーのロニーの二人を中心に、流動的にチェロやトランペットを含む最大9人のミュージシャンがライヴやレコーディングに参加している。 
 
 リーマンのアコースティック・ギターの弾き語りを中心に、多くの楽器が重なり合いながら、時に静かに、時にエモーショナルに展開する楽曲は、かつてのブライト・アイズや、カリッサズ・ウィアード(バンド・オブ・ホーセズやグランド・アーカイヴスのメンバーが所属していたシアトルのバンド。少し前に再結成して現在も活動中。)を彷彿させる。マーク・アイツェル率いるアメリカン・ミュージック・クラブのドイツでのライヴのサポートをつとめたこともあるというのにも、納得だ。 

 その美しいメロディーと、繊細な響きを持ちながらも力強く響くリーマンの歌声は、スロウで静かな音楽を愛するリスナーの皆さんの琴線に優しく触れるだろう。

(山本徹)

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viridian.jpg ポップだけど強さもあって、ピュアでロマンテイスト。そして、どこか品格のようなものもあるビリジアンの2ndミニ・アルバム。

 「やり手側としては、気合いだろ!! みたいな感じだったので、そういう解釈は嬉しいですね。前作出してから人間的に成長したので、そういうのが音に表れたんだと思います。凛としたところとか。」(Dr、神谷佑。以下K)

 愛知県在住の3ピースバンド、ビリジアン(viridian)。エコ・バニからtoe、soulkidsまで幅広いバンドをフェイバリットにあげる彼らは地元のライブハウスで知り合い、約5年前から現在のメンバーで活動しているという。「バンド名決める時に色の名前も良いなってなって、好きな色が深緑色と紫色だったんですよ。ビリジアンとモモーヴで迷って、最後は音の響きで決めました。」(Vo/AG、佐野仁美。以下S)というバンド名もナイーブさと鮮烈さが同居していてかっこいい。

 今作は前作よりサウンド面で大人っぽく、そして小気味よくなっているのだが、何か意識していたのだろうか。「ライブ感と衝動、これは意識してましたね。レコーディングのやり方もそういう風にして、フレーズとかもきっちり決めずに勢いで。それが十二分に発揮された作品になってると思います。」(K)

 ライブ感と衝動、それに直結するような歯切れの良いリズム・セクションも素晴らしく、佐野仁美の歌声に絡み付く哀愁のメロディもまた鳥肌もの。ヴォーカリストである佐野仁美の書く詞には出会いと別れ、君と僕の距離、孤独など目に見えないものが描かれていて、それを聴く度に私たちは勇気をもらう。「前は聴き手を意識してキャッチーなものとか、覚えやすいものを作ろうとしていたんですけど、今回は内から出るものを一方的にぶつけています。どうしようもなくて吐き出したって感じなんです。」(S)

 表情豊かな女性ヴォーカルとフォーキーで透明なバンド・サウンドは、年齢にたがわずかなりの本格派志向。そして、激情と乾いた詩情を往復しながら昂っていくその歌世界は強烈な訴求力を放っている。シンプルでありながら印象的なタイトルについて。「シグナルは信号や合図って意味があって...。タイトルとして僕的にしっくりきたんですよね。(この作品が)何かの合図になるのかな、と。」(EG、宮地貴史)

 絶え間なく進歩を続ける彼らの現在を映し出す一枚。これからにも勿論期待なのだが、まずはこれを聴くべし。

(粂田直子)

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prince.jpg 初期のロックンロールにおいて、「弾圧」というものは白人優越主義のヘゲモニーが強く動かされたために、暴力的装置が働いたとヘゲモニー論で解釈出来る。僕はロックンロールという言葉を聴くと、ふと彼のこの歌詞を思い出す。

"赤ん坊が会話して 
スターウォーズが飛び交い 
近所は暗号で合図 
もし夜が来て爆弾が落ちたら 
誰か夜明けをみることはあるのだろうか"
(Sign O' Times)
 
 まだまだ夜明け前。19世紀半ば~後半にアメリカの芸能でミンストレル・ショウというものがあったのを知っているかもしれない。ミンストレル・ショウとは「白人が黒人に扮して」歌入りの演芸会を開くというもので、顔を「黒く塗った」白人の芸人たちが歌い踊り、そこを濾過して伝達されるのは「南部の黒人の実態などを知る由もない北部の白人たちのバイアスのかかった"黒人らしさ"のモティーフ」でしかなく、そこには無論、今も根付く「白人/黒人」の差別構造に依拠した上でのエキゾティシズムが前景化される訳だが、そういうのはスティーヴン・フォスターなんて歌手を問わずよくあるものでもあり、「声大きい者」達の偏見と歪曲によって幾つもの歴史は捻じ曲げられてきているというのは音楽史を除いても常だ。逆説的に、例えば、白人のエミネムが「ヒップホップ」という分野で上を向こうと思った時にどうしようもなく立ちはだかる障壁、それは形容し難い暗黙にして歴史の桎梏だったりするのだ。

 奴隷制度が堅固だった時期は、黒人と白人の実質的接点などないに等しかったが、差別意識や優越意識は温存されたまま、一般社会的に問題はなかったものの、南北戦争の時と言えるだろう、数多の奴隷が「自由の身」となったことで、紛糾する瀬は凡そ推測の通りになった。ま、現代でもそうだが、既得権益を護ろうとする人たちの根深さは革命や政治システムの変化を先刈りするからだ。

 勿論、常識的にミンストレル・ショウの場所に、観覧者としても、黒人は居なくて、白人の下層労働者達は息抜きの為にそういった道化を笑い飛ばし、日々の生活のガソリンに充てていたという見方は出来る。そこでは、19世紀後半に増えたアイルランド、ドイツ、イタリア、東欧系などからの「新移民」層によって支えられていたというのは紛うことない。白人たちが顔を黒く塗り、パフォーマンスするという行為性を通じて、連帯し、アメリカ人としてのナショナル・アイデンティティを保持しようとしていた文脈を僕は否定出来ない部分があるし、昔、大阪の劇場とかで見ていた景色というのは、僕は鮮明に覚えていて、「此処」でしか現実感がない人達も居るのだろう、と思った事もあったし、彼等の居すまいは凛ともしていた。

 この「黒人のイメージ」は、ミンストレル・ショウだけではなく、このアメリカの大衆芸能のルーツから枝分かれし、発展していったヴォードヴィル、バーレスク、ミュージカル、ダンス、映画などにも引き継がれた。今でも、「一方的な黒人描写」が多いのは一概に言えないにしろ、知らず知らずのうちに、芸能が巻き込んでしまった「暗部の舞踏会に僕達が無意識に足を運ぶこと」によって、礎が築かれていっているかもしれない。そんなイメージと現実。そのイメージとしての自分を時に「記号」に変えたりして、シーンを攪乱させ、自分の前さえ呼ばせないようにするエゴというより、信念を持ってブラック・ミュージックの刷新を試みたアーティストにプリンスが居る。

 彼のこの10年の動きの凄さは寧ろレディー・ガガなど比べ物にならないくらい芳醇で、広がりのあるものだったことは知っているだろうか。00年代のプリンスの速度と強度は凄かった。1作品毎に色を変えてくるクリエイティヴィティ。01年の『Rainbow Children』ではジャジーに生音のバンド形式でネオ・フィリーソウルへの回答とも形容できるスムースな演舞をしてみせながらも、歌詞はスピリチュアルで内省的という面白い作品だった。03年の『N.e.w.s』までにはサイト会員への限定のアルバムやライヴ盤もあったが、この作品は長尺のインストが代表するように兎に角、グルーヴがうねっていた。06年の『Musicology』ではロックチューンからメロウなバラッドまで網羅した盤石な内容で、グラミーにおけるビヨンセとの共演やツアーも成功して、完全にプリンスは「過去の人」ではないことを巷間に知らしめた。引き続いての『3121』、更に07年の『Planet Earth』の多種多様な曲を縦横無尽に捌いてみせ、08年のコーチェラでは「Creep」をカバーするなど盤石のステージを見せた。

 そして、この新作『20Ten』はニューウェーヴとポップ・ファンクのケミストリーが生まれている好盤と評していいだろう。10曲40分というコンパクトさながら、オープニングの「Compassion」なんてまるで「Let's Go Crazy」のようなキラキラしたシンセが遠景化して聴こえ、彼自身のギターのリフも格好良く、敢えて狙ったのだろう80年代的な音に仕立てあげた手腕は功を奏している。過去の名盤『Sign O'Times』辺りの重厚さはないが、音はかなり絞られており、ストイック。白眉は「Future Soul Song」で見せる伸びやかなバラードだろうか。オールド・ファンは「相変わらずの殿下」として、ここから入るファンは普段聴いているものとは、少し違うキュリアスなブラック・ミュージックのバネを少しは感応出来るかもしれない。ディアンジェロの沈黙がいつの間にか、忘却にしか繋がらないのではないか、という危惧があっても、プリンスはまだまだ手綱を緩めない。

 惜しむらくは、ヨーロッパでのみ新聞・雑誌の付録CDとして無料配布され、その他エリアでのリリースは限定状態であることだ。80年代回帰がヒップな今にこんな新作を出してくる彼のセンスこそがまたもや評価されるべきであるし、今はあの黒と白の垣根を越えようとした偉大なポップスターも居ないのだ。居ないからこそ、プリンスには黒や白の軸を対象化するべく、精力的に真摯に思いっきり弾けて欲しい、と希ってやまない。まだ、「夜明け前」なのだから。

(松浦達)

 

*本文中でも触れられているとおり、本作品は通常の販売ルートでのリリースではなく、イギリスの新聞デイリー・ミラー紙(Daily Mirror)の付録CDだったと思しきものが輸入盤として日本にも限定入荷されていた模様。以前はAmazonやHMV、タワーレコード等で購入可能であったが、今現在は在庫切れの状態が続いているようである。また、プリンス本人の意向によりインターネットによる本作品の楽曲配信は一切行われていない。【編集部追記】

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tokimonsta.jpg 音が古い。いや、悪い意味じゃなくて古い音をどのように新しく聴かせるか、ということに意識的だと思えるエレクトロニカを鳴らすトキモンスタことジェニファー・リー。フライング・ロータス率いるデイデラスやガスランプ・キラーが所属するレーベル、Brainfeederの紅一点。LAを拠点に活動するコリアン・アメリカンの彼女の『Midnight Menu』、これはもうやっちゃった者勝ちみたいなところがある。音の質感自体は古いエレクトロニック・サウンドに琴や韓国伝統音楽を大胆に取り入れ、「マイナス×マイナス=プラス」、みたいな、「古いサウンド×古いサウンド=新しい音」という具合に音楽を構築し、ひょいと自然に差し出された音に、嗚呼、これは気持ちがいいや、となって新しいとも感じてしまう。もちろん古けりゃ悪い、新しけりゃ良いってもんでもないのだが、エレクトロニカにアジアの古き音楽性を取り入れることは誰かがやりそうでやらなかったことではある。キワモノ的と言ってしまえばそれまでだけれど、いやいや、ファースト・アルバムならキワモノ的でもいいじゃないか。逆に流行に忠実な作品がファーストならばむずむずするよ。
 
 童顔、眼鏡女子という、もうそれだけで萌え要素たっぷりな彼女。眼鏡を外しても美人。どうせなら顔写真をジャケットにした方が売れるんじゃないか、などと、余計なお世話を言いたくなってしまったけれども、「リスナーの為に音楽作ってるわけじゃない」という旨の発言は、ツンとして媚びない彼女の姿勢を端的に表している。そう、傲慢でいい。匿名性の高いエレクトロニカにルックスは関係ない。いや、ちょっとあるけど...。エレクトロニカは売れない音楽であるわけだし。4千枚売れれば大ヒットらしいし。でもツンとしていながら綿菓子のような甘さが口の中で溶けていく。そんなふうに感じられる本作はやっぱり女の子だなあと思わせる。理詰めではなく、あくまで感覚で作っていると思える本作は過剰にアート志向でもなく、複雑でもなく、とにかく大音量で聴けば最高だろうな。フジのフィールド・オブ・へヴン辺りで鳴っていたら、さぞ気持ちいいであろうという音に溢れる。しかもポップなこの音楽はけっこう売れる作品なんじゃないかなと、これまた余計なことを言いたくなった。音がとっても緩やかで、奇をてらっていないのです。だからいい。ボーズ・オブ・カナダから哀感を抜き取ってスウィートにしたようなエレクトロニック・サウンドは何かに誘惑されているみたい。その何かはちょっとだけセクシャルな甘くて酸っぱい恋の味というやつで、いや、まあ、その、かなり、萌える。それはさておき。
 
 ツンとした彼女であるが、しかし、音楽そのものは実にリスナー・フレンドリー。ビートの弾力は柔らかく、ヒップホップ的であったりランダムだったりと、工夫があり、メロディとビートをはっきり別けた音楽性はその両方が同時に耳に入ってきて少しだけ混乱しながらも、こりゃあトリップ感が心地いいや、という、混乱が心地の良さに繋がるパラドックスが良いじゃないか。さらには先に記したようにアジア伝統音楽の要素が強調された音が鳴る。「韓国伝統音楽の深みを知った」と言う彼女が鳴らすその音は奥が深くエキゾチックで神秘的。やはりその伝統音楽の奏でと、音楽性が相反するエレクトロニカと同時に雄弁に鳴らされているところが本作の良さで面白く、コリアン・アメリカンの彼女にとって自分の中に流れている血には逆らえないところもあったのだろうさ。そりゃもう否応なしに。
 
 そもそも本作以前に創作されたアルバム以外の作品が、ジャジー・ヒップホップと捉えられていたことに嫌悪感を露にしていた彼女が別の新たなサウンドを創作しようとしたのは必然で、多くのリミックスやプロデュースで知名度とともに実力を上げ、現在はLAに限らずアジアやヨーロッパまでツアーを周り、ハドソン・モホークと共演する予定もあるとかないとか。唯一無二とまではいかなくとも、ビート・ミュージックとしても面白い。そんなこんなでこの作品、とても気持ちがいいんです。ゆらゆらと揺らされるんです。良作です。

(田中喬史)

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russian_pianism.jpg 「音とは顕われた瞬間に消えていくものだ、そしてその音の連続が音楽である」とは、ピアニストのアファナシェフの言葉だが、記憶の中で点が散在しながらも結び合わない「あったはずの記憶」を現前化させるデモーニッシュな引力がロシア・ピアニズムと言われる(些か、ジャンル内ジャンルとも言える)一連の音色、旋律には宿っている気がする。例えば、ショスタコーヴィッチ『自作自演集』を聴いたときに感じる「有得ない重厚さ」、とは社会主義圏の持つあの特有のストイシズムと暗がりの美はハイパーキャピタリズムの進捗してしまったこの世界では最後のローファイ(人工的技巧主義)だとも言える。

 91年にソ連が崩壊してから、そこまで保存されていた貴重な音源が全世界に知られることになったが、ホロビッツやリヒテル、ソフロニツキーなどのピアノ演奏が「再発見」され、更にはモスクワのグネーシン・アカデミーは或る種の聖地化をしたのは記憶に新しい。近年では、「のだめカンタービレ」やアーノンクール評価、クラシック・ブームの翳で、ロシア・ピアニズムと呼ばれる静謐にしてオルタナティヴな流れはより美しく深度を増していた。ロシア・ピアニズムにあって、他にないものと言えば、「歌」と「エレガンス」と言えるかもしれない。カンティレーナを特徴として、ロマンティシズムに殉ずるべくフォルテさえもエレガントに弾く。その隙間に零れ出る過剰な表現欲求はなかなか味わるものではない。

 僕自身とロシア・ピアニズムの出会いは佐藤泰一氏の『ロシアピアニズム』(ヤングトゥリー・プレス)だった。関係資料と膨大な歴史背景と取材を合わせて、書き進められるダイナミクスを帯びた本で読んで、ここに載っているレコードは欲しくなるくらいの熱量を含んだ良書だった。

 この書物でも触れているが、ロシア・ピアニズムという「歴史」はそんなに旧くはない。

 アントン・ルーゼンシュタインが音楽院を創設してから30年でロシア革命がおき、作曲家やピアニストの大半が流出したり、亡命してしまった訳だが、WW2後、リヒテル、ギレリス、ユーディナのような腕利きのピアニスト達が世界コンクールで注目される事になった。例えば、ポーランド・ピアニズム等は演奏技巧優先主義を厭うが、ロシアの技巧レベルは教育システム含めて、かなり高度なもので、ただそれが故の前衛性は乏しいかもしれない部分はあった。でも、「良い譜面をより良く演奏する」という、素晴らしさこそが大事なときもあり、ロシア系ピアニストのあの重厚なタッチには音楽が本来持っていた「何か」があるような気もするという意見もまだ多い。
 
 しかし、残念なことに現在、ロシア・ピアニズムは衰微の段階に入っている。その代わり、再発見の循環構造の中で、アレクサンドル・スクリャービン、ゲンリッヒ・ネイガウス、セルゲイ・プロコティエフ、ショスタコーヴィッチなどは特に別分野のリスナーの耳も捉えて離さない状況も生んでいる。「ロックだからロックを聴く」という規律は今はなく、かといえど、精神性と音楽の繋がりは心理学的に確実にある訳だから、クラシック音楽のジャンル内ジャンル、とも言えるロシア・ピアニズムへ魅かれるオルタナティヴで貪欲なリスナーが居てもおかしくないとしたら、その音楽の持つロマンティシズムと重さに、他のジャンルにはない別の哲学を視ているのかもしれない。分かりやすいことはなんて分かりにくいのだろう。また、分かりにくいことは何故に分かりにくいままなのだろう。

 最後に、「ロシア・ピアニズムを想う」とき、僕はバタイユのこういう表現を想い出す。生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがあり、私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体である。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし、自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいる。それに耐えられる人なら、必要の無いものなのかもしれない。少なくとも、僕は耐えられないが、皆はどうなのだろうか。

(松浦達)

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kirinji.jpg 十二角形の意味を持つタイトルが掲げられた前々作『DODECAGON』では、打ち込みを多用し文字通り"角ばった"サウンドを聴かせていたキリンジ。前作『7-seven-』を経てリリースされた2年振りの新作『BUOYANCY』は、浮力や浮揚性の意味を持つタイトルが示すように、角が取れて丸みを帯びた物体が、あっちへプカプカ、こっちへプカプカと漂いながら、あらゆる要素を取り込みつつ大きくなっていくようなイメージだ。これまでの彼らのアルバムの中でも、最も振り切れた内容と言って良いだろう。
 
 基本的なサウンド・プロダクションは前作の延長上にある。『DODECAGON』でエレクトロニカ的手法にどっぷりと浸った彼らは、『7-seven-』で再び生楽器によるアンサンブルへと回帰しつつも、通常のアレンジを逸脱するような譜面を書くようになる。本作ではそれがさらに突き詰められ、月並みな言い方ではあるが「テクノ/エレクトロニカを通過した視点での、ポップ・ミュージックの再構築」がなされている。それは、先行配信されたシングル「セレーヌのセレナーデ」における幻想的なコーダ部分などを聴けば一目瞭然だ。また、バンジョーやブズーキ、スティールパンのような"背景の見えやすい楽器"を、敢えて背景から切り離して演奏する、ということをかなり意識的に行なっていることは特筆すべき。要するに、バンジョーをカントリー&ウェスタンっぽくなく弾くこと、スティールパンをカリブ音楽っぽくなく演奏することで、時空を超越した響きを生み出しているのだ。この話を彼らから聞いたとき、筆者が瞬時に思い出したのがハイ・ラマズだ。彼らもバンジョーやマリンバといった楽器を、背景から切り離して用いていた(そういえば彼らの98年のアルバム『Cold And Bouncy』のタイトル、本作にちょっと似ている気がする‥‥)。
 
 閑話休題。サウンド・プロダクションだけでなく、楽曲そのものも従来のキリンジ・サウンドとはかけ離れたものが多い。本作を作るにあたって兄の堀込高樹は、「これまでの自分の作曲スタイルを、出来るだけ打ち壊すよう心掛けた」と語っていた。確かに、彼の得意とする70年代後半のポップ・ミュージック的な楽曲は影を潜め、これまで聴いたことのなかったような楽曲が次々と登場する。中でもアルバム中盤に登場する「都市鉱山」は、もろ80年代ニュー・ウェーヴ・サウンド。イアン・カーティスやロバート・スミスを彷彿させるような、しゃくり上げるヴォーカル・スタイルにも高樹自らが果敢に(?)チャレンジしており、一瞬、「本当にこれがキリンジの曲?」と我が耳を疑ったほどだ。また弟の泰行も、レゲエとフォークロアを融合し歌謡曲風味に仕上げた「Round and Round」など新境地に到達。自らのソロ・プロジェクト、馬の骨での経験がフィードバックされた結果だろう。
 
 とはいえ、キリンジの持ち味であるメロディや和声の美しさは、どの曲にもしっかりとまぶしてある。先行シングルにもなった冒頭曲「夏の光」では、「牡牛座ラプソディ」や「アルカディア」「Drifter」といった名曲群に匹敵する美メロと、桜井芳樹(ロンサム・ストリングス)によるEBowギター+シンセ・ストリングスのウォール・オブ・サウンドが、聴き手に圧倒的な多幸感と高揚感をもたらす。
 
 おそらく、「キリンジ印」の楽曲を量産し続けたとしても、向こう10年は安定した地位を約束されているだろう。にも関わらず、自ら確立したスタイルを迷いなく打ち壊し、新たなスタイルをつかみ取ろうとするバイタリティは感動的ですらある。

(黒田隆憲)

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klaxons.jpg ちょー最高! このアルバムさえあれば無人島に島流しにされても構わない、というくらい最高。「これはリスナーの求めているクラクソンズのサウンドじゃない」というバンドとレーベル双方の判断で、一度は出来上がったセカンドもお蔵入り。程なくしてもうアルバムなんて作るクリエイティヴィティもモチヴェーションも失われてしまったんじゃないか、という最悪のスランプに陥ってしまうが、いや、おれたちはポップ・ソングをやってなんぼなんや! という単純明快にして大正解な結論に辿り着いたクラクソンズの復活第一声が、ニュー・アルバム中盤に配された「Flashover」だった。

 アルバム全体を聴いてみても前作とさして変わりないサウンドだが、現在のロック・シーンを根底からひっくり返してしまうくらいの強度を新たに獲得している。私がかつてキラーズやジェットのセカンドに感じた興奮を、彼らのセカンドにも感じることができる。やっぱりクラクソンズは無敵だぜ、と彼らを(何だったら彼らの母国であるイギリスの音楽シーンを)全肯定してしまいたくなるようなアルバム。おそらく最初から最後まであなたのテンションは下がらず、興奮しっぱなしのまま最初の「Echoes」をリピートすることになる。「Echoes」、これは2010年を代表する大アンセムだ。いまのところぶっちぎり。叩きつけるようなピアノと頭を揺らさずにはいられないダイナミックなドラミング。そのサウンドの中核を担うはギュインギュインのベース。ギターも負けじとばかりにホットなフレーズを繰り出す。
 
 さっき私は誤解を招くようなことを書いた。イギリスの音楽シーンのなかでクラクソンズは異端のはずなのに、なぜ「イギリスの音楽シーン万歳」という話になるのか。彼らが新しいメインストリームになるからだ。フェスのトリを任せるならクラクソンズしかいない、という時代の到来を予感させるくらいスケールのでかいセカンドだからだ。そして今作の日本盤の帯に書かれた「衒いのないロック作品」というコピーそのまんまだからだ。だからキラーズやジェットの名前も引用した。こりゃもうバカでかい会場でライヴを観るしかない。グリーン・ステージか、マリン・スタジアムか。クラクソンズはリスナーの期待に見事に応えた。もしかしたら批評家のあいだで賛否両論あるのかもしれないが、そんな意見はこの際おまけで構わない。ナイスすぎるよ、ロス・ロビンソン。

(長畑宏明)

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herajika.jpg 「ヘッドホンをすれば現実は夢になる」。そういうことなのだろう。ロマンチストだろうとなんと言われようとかまわない。音楽は時として魔法に成りうる。なんて言ったところで陳腐な言いとして受け止められるのがオチだけれどもやっぱりあるのだ。綺麗事だと捉えられそうな言葉を、音によって説得力を持たせ、表現してしまう音楽が。東京を拠点に活動し、インディーズ・シーンで話題になっている男2人女3人の5人組のヘラジカ(herajika)。彼らの音楽を聴くと確信を持ってそう思える。本作「Herajika Test 01」は、3曲入りのデビュー盤。ディスクユニオンの通販では発売日に完売した。

 エレクトリック・ギターやアコースティック・ギター、ドラムに加え、トイ・ピアノやピアノ、メロディオンなど様々な楽器を扱う箱庭的音楽性はトクマルシューゴと比較される。けれどもトクマルシューゴよりも良い意味でわずかに土くさく、洗練されていないがゆえの素朴さが、ちいさいスタジオで、あるいは部屋で演奏されているような身近な雰囲気を醸し出し、同じ目線でやさしく耳に入ってくる。あえてジャンルで言えばフォークということになるかもしれない。
 
 アコースティックを基調とした本作は大袈裟なところはなく、お高くとまらず背伸びもせず、コロコロと鳴る可愛らしいトイ・ピアノの音色も手伝って聴き手を童心に帰してしまう。いわゆるおもちゃ箱をひっくり返したような音楽だけれど、ひっくり返したというよりは、箱に詰まったおもちゃを一つひとつ丁寧に取り出し、見たこともないおもちゃに驚かされるような音が鳴る。また、美しい音を寄せ集め、音楽を創出するのではなく、いくつもの何気ない音と音をハーモニーによって茶目っ気たっぷりな音にしてしまうところがこのバンドの真骨頂なのだと感じる。例えばノイジーなエレクトリック・ギターが入る場面であっても、そのギターはフェミニンな歌声によって中和され、攻撃的なところも耳障りなところもなく、さらりとした質感に変わり必要最小限に鳴っている。さほど工夫していないコーラスも演奏と一体になればとてもキュートな色を含み、違和感が全くない。どんな音もぴたっぴたと、はまっていて、職人的気質すら窺がえるのだ。

 ヴォーカルもメロディの中核として存在感が広く、聴き手に安堵の心地を与え、その心地が聴いていくうちに染み込むように広がっていく。そうして見えるヘラジカの音楽を通した景色。それは些細に彩られた日常の楽しさ。視点を変えれば目に映る風景は変わるとはよく言われる。それは音楽を聴けば感情が変わるからだ。ヘラジカはあらゆる音が持つ可能性を可愛らしさとして創出する。それはたぶん、ヘラジカのメンバーに見えている風景はとても素敵でカラフルで、どんな種類の音であろうと音を認めているからだと思える。いわば演奏で、たとえ荒削りな音であろうとなんであろうと、音というものの全てを認め、音を取り込み洒落た感じにしてしまう。要はどんな音も肯定する音楽をやっている。そして遊び心に溢れる音が、聴き手をも肯定する。その循環が感情をプラスの方向へ向けてくれる。だからこの音楽を僕は信じる。そして聴いてほしいと強く思う。

 何かの映画で「音は心の中で音楽になる」という言葉があった。「ヘッドホンをすれば現実は夢になる」という言葉もあった。そんなふうに、音楽を聴く行為とは、音楽から何を受け取っているのか、ということが最も重要でもあるのだ。ヘラジカが鳴らす音は聴き手を傍観者にしない。常に気持ちをふわりと浮かばせる。驚くほどあっさりと浮かばせる。

(田中喬史)

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natacha_atlas.jpg ベルギー・ブリュッセル生まれで現在はワシントンD.C.在住。モロッコ、エジプト、パレスティナ、イギリス人の混血、そして音楽のルーツは北アフリカやらインディア、アラビックという既にその存在自体がミクスチュア(死語と言わないで~)な彼女の2010年最新作。キャリアはもう20年くらい経つ大ベテランの彼女のバイオをおさらいするのもなんだが、イギリスでエスノ・ダンス・ミュージック・グループ、トランス・グローバル・アンダーグラウンドで活動していた彼女のイメージが強烈で、彼女のソロ作品の多くはリズミカルで踊れるサウンドが特徴。

 然し、コンテンポラリなR&B風にもチャレンジしたりと現代音楽への融合を試みてきた彼女だが、08年にリリースした『アナ・ヒナ』でルーツに立ち帰るように披露したアコースティックな作風に続き、今作もエレクトロ・サウンドは控えめに、ジャズ風味のピアノとエスニックな生楽器が織りなすオーケストレイションにしっとりと音を耳で感じ取れる。ストリングスは重厚にアブストラクトなベースを作り出して、艶やかに情感たっぷりに歌い上げるのだから、うっとりしない手はない...。

 ただ、前作に続いてのアコースティックな編成とは前述したが、アラブの歌謡曲中心で構成されたものとは違って、今作ではアラブ古典やオリジナル曲の他にもニック・ドレイクやフランソワーズ・ハーディの曲をナターシャ風にカヴァーしてみせたり、全編に渡りワールド音楽とジャズ、そしてダーク&ポップに彩られているのである。そしてインターミッションを随所に設け、作品全体を通してまるで映画や演劇を鑑賞するような楽しみ方を提示し、コンセプティヴな作りを感覚出来るのだ。

 そのコンセプトの元は、インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(インド国家の作詞作曲者でもある)の詩にインスパイアされたという辺り、日本にも馴染みのある彼の哲学の片鱗にも音楽を通して触れられるし、そんな東洋の神秘がまた西洋から届けられるというこのミラクルと言うかミステリーを存分に楽しんでほしい。溢れ出るアシッド・フォーク勢とは全く違った夢見心地を味わえる。

(田畑猛)

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computer_magic.jpg かなり唐突だけど、オタクって自分の趣味にちょっとでも理解を示してくれる女の子と知り合うとすぐ恋心を抱いてしまいますよね。あの心理ってなんだろう。自分のことをわかってくれそうだから? 会話が弾みそうだから? アイアン・メイデンのライブに付き合ってくれそうだから? でもオレたち、冴えないんだぜ? それってほとんどバズコックスの「Ever Fallen In Love」の世界じゃん! 相手が誰でも"You Shouldn't've Fallen In Love With"だよ! バズコックスってボンクラの味方だよね。

 冴えないくせにオタクって贅沢で、ただ相手がオタク気質をもってるだけでは満足できず、ルックスについても高いハードルを設定したりする。その一方で、自分より明らかに濃ゆい異性を見つけると、スンナリひれ伏たりもする。素直になれなくて。「かわいいは、正義」とはよく言ったものだけど、かわいいガチヲタって本当に神々しい。僕もそういうコは好きだ。見つけるたびに興奮して、間違って話しかけられると挙動不審になる。公の場でそんなふうになっては困るし、競争率が高くても戦える気がしないので、ネットを駆使して自分のアイドルは自分で探すに限る。

 そんなわけで見つけたのが、ブルックリンで活動する(またかよ)とびきりのオタ女子Danielle Johnson。愛称・ダンジーちゃんによる一人ユニットがこのComputer Magicである。まずはルックス。彼女のfacebookを見てみよう。整った顔立ち、可憐な金髪、野暮ったい服装。何点つける? 僕は120点くらい。こういうちょっと野暮いのが好きなんですよ...。MySpaceのアルバムも最高。なんか如何にもって感じですよね。こういう人がいっぱいいたのが90年代ってイメージ。憧れるわ。僕もこの世界観の住人になりたい。いっしょに変なポーズとりたい。
 
 アメリカのナードなリスナーのあいだでは、好きな曲をミックスにして自分のブログに載せるのが何年も前から流行っていて(日本だとそういうのにウルサイ人多いよね)、ダンジーちゃんもご多分に漏れず作ってます。スター・トレックに始まり、ザ・クリーン、ELO、クランプス、ブライアン・ジョンストン・マサカー...。グダグダだったり暑苦しかったりひときわポップだったり。これって完全ボンクラ趣味じゃないッスか...。媚びようと思ってもなかなかココまで出来んぞ?

 そんな彼女が作り出す音楽は、自身が愛する『バーバレラ』や『2300年未来への旅』『アルファヴィル』といったレトロ・フューチャーなSF映画や、古き良き任天堂ファミリーコンピュータへの憧憬がモンド・ミュージックを思わせるシンセの音色にたっぷり詰まった(ブライアン・ウィルソンが標榜したのとはちょっと違う)ティーンエイジ・シンフォニー。Computer Magicとしては今年に入って活動開始したばかりということで技術的にはメチャクチャ拙いが、そういう拙さがいつだってポップを魅力ある姿に変えてきたはずだ。そして、意識的なのか無意識的なのか、音のほうはチルウェイヴとも密接にリンクしていて、気だるい空気と密室的ぎこちなさはウォッシュト・アウトやデザイアといったあのシーンの代表格にも通じるものがある。インターネットとテレビゲームが中心の世界で笑ったり呻いたり愛を叫んでいたりするような音楽。

 何より、散々書いてきたボンクラ的世界観が音に如実に顕われているのがイイ。「Teenage Ballad (High School)」というそのものズバリなタイトルの曲では"I'm Just wanna be free"とサビで連呼しているが、そこまであっけらかんとしたフレーズをこんなゆるフワな音で歌われたら...! ベスト・コーストのド直球っぷりにも驚いたけど、自堕落であること、自分らしくあることにここまで寛容な音楽には久しぶりに出会った気がする。個人的には、元フェルトのローレンスがデニムの次に結成したゴーカート・モーツァルトでのピュアすぎる楽曲を聴いて以来...かな(ちなみに現在、ローレンスはクスリの摂りすぎで相当具合が悪いそうだ。心配...)。

 適当にクリックしていると、すぐこういうお下品でスカムなtumblrに飛んだりして彼女のホームページは厄介なのだが(間近の記事だと、このスリッパはちょっと欲しい)、このEPもそちらでフリーDL可能。キッズが完全武装しているこのジャケ写は誰かの他の作品でも使われてたような。気のせいでしょうか...。いずれにせよ、ダンジーちゃんはこのまま朗らかでいてほしいものだ。スーファミのF-ZEROを朝までいっしょにプレイしたい。妄想しながらパソコンの前にずーっといたら目が乾いて痛くなってきたので、そろそろ寝ますね。

(小熊俊哉)

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mirrors.jpg 最近、イギリスが好きな僕としては、USインディに影響を受けすぎているイギリスのバンドが多すぎて、少し寂しかったのだけど、見つけました。僕にとっての「これぞイギリスや!」というバンドを。ミラーズです。シンセサイザーが3人に、エレクトロニック・ドラムが1人の4人編成。イギリスに住む親戚に教えてもらったのだけど、いろいろ調べてみてビックリ。なんと、元マムラのジェームスによるバンドでした。でも、自主制作でリリースした「Look At Me」に、Moshi Moshiからリリースされた「Into The Heart」と、良い曲ではあるんだけど、特別な要素というのが見当たらなかった。水で薄めたデペッシュ・モード的な感じで、元々マムラが好きでもなかった僕としては、だんだんと興味を失っていたんだけど、「Ways To An End」で、化けたと思う。

 まず、かなり売れ線な曲調になっている。といっても、安易な構成にはなっていなくて、U2のヴァイヴと、デペッシュ・モードのダークさに、プライマル・スクリーム「Swastika Eyes」を思わせる、ロマンティックなシンセのシークエンスが気持ち良い。最近で言えば、ホワイト・ライズとか、ハーツに近いのかも知れないけど、ミラーズは、闇から光へ広がっていく感じ。

 僕は、ペット・ショップ・ボーイズを聴いていると、田舎町から都会へ飛び出すような、高揚感と不安を感じるんだけど、ミラーズの音にも、高揚感と不安を感じる。でも、その高揚感と不安は、ミラーズの場合「未来への高揚感と不安」に聞こえる。何故かは分からないけど、純粋な希望には聞こえない。それが素なのか、それとも仮面なのか、本当は複雑なバンドなのかも? 僕としては、抑制的な美が、良い意味で矛盾になっているような気がするのだけど。その矛盾に、ミラーズのソウルを感じる。ミラーズは、絶対スタジアムで観たいバンド。そこで初めて、ミラーズの本質が、見えてくるはずだから。それが実現するまで、追っかけていたいバンドです。日本でも、「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ!」の大合唱が、聞けるといいな。

(近藤真弥)

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salyu.jpg ご覧のサイトはMUSICAではありません。紛れもなくクッキーシーンのサイトでございます。--------そんな前置きも必要なぐらい、違和感のあるチョイスかもしれない。しかし、クッキーシーンの読者こそSalyuを聴くべきだ! と、今こそ声を大にして言いたいのです。7月に発売された七尾旅人の傑作アルバム『billion voices』にて、「one voice (もしもわたしが声を出せたら)」と「検索少年」の2曲で美声を響かせていたので(七尾のレコ発ライヴにもスペシャル・ゲストとして飛び入り)、そこではじめて彼女の存在を認識したリスナーも多いだろう。ワンマンではジェフ・バックリィやジョニ・ミッチェルなどのシンガー・ソングライターから、ビートルズやU2といったロック・バンドまで幅広くカヴァーすることも有名で、その歌唱力の素晴らしさはもはや説明不要。

 本作「LIFE」は彼女にとって14枚目のシングルであり、恩師である小林武史がプロデュースを務めた、"真夏"の季節感と疾走感溢れる、太陽のように眩しいポップ・ソングだ。カップリングの「CURE THE WORLD」は、自ら書き下ろしたという歌詞にflumpoolやYUKIの諸作で知られる百田留衣が曲を乗せた、切ないバラード。こちらはラジオや映画などで多くの音楽を手がける、マルチ・アーティストのトベタ・バジュンも編曲に名を連ねている。初回限定盤には、今年3月にリリースされた3rdアルバム『MAIDEN VOYAGE』に伴う春の全国ツアー最終日の模様を収めたダイジェストDVDが、通常盤には3つ目のトラックとしてSalyu×国府達矢が12thシングル「EXTENSION」以来およそ1年ぶりのタッグを組んだ、散文的で変拍子なピアノ・ソング「タングラム」がそれぞれ収録という、どう見積もってもダブル買い必須のニクい演出。

 自身初のブラス・セクションを導入したという表題曲の「LIFE」は、本人も認める通りまさに"新境地"と断言できる(ジャケット撮影では水着にまで初挑戦)。レインボー・カラーのウィッグをまとった女の子たちがサーフィンに繰り出すというミュージック・ビデオからも窺えるように、サザン・オール・スターズやTUBEもかくやの軽快なサマー・チューンに仕上がった。どこまでも突き抜ける高音ヴォイス、ギターとストリングスとピアノが幾重にも絡むオーケストラルなアレンジ、ポジティヴでまっすぐな歌詞......まるですべてがSalyuの味方をしているかのよう。前述のツアー・ファイナルで小林武史を招いて初披露されたのだが、幻想的なリリィ・シュシュ時代より彼女を追い掛けているファンからは「Salyuらしくない」との否定的な意見も多かったこの曲。おそらく、そんなことは本人がもっとも強く自覚していただろう。メジャー・フィールドにおけるポップスの歌い手としての意識、アーティストとしての脱皮。それは、「うた」が"大衆性"を獲得するための第一歩に他ならない。

 「色んな物差しが/この世界にあるよ/私のはかり方は/あなたとふたりのバランス」という一節は、近年の「会いたいよ/出会えてよかった/生まれてきてくれてありがとう」などと臆面もなく歌う、自己憐憫と承認欲求にまみれた数多のJ-POPナンバーを軽々と突き放す。というか、Salyuの音楽性を「J-POP」とカテゴライズしてしまうのは、あまりにも安易だ。国内屈指のシンガー・ソングライターである安藤裕子が、最新アルバムにあえて『JAPANESE POP』という衝撃的なタイトルを名付けたように、ケータイで音楽が消費され、違法ダウンロードが横行し、平成生まれのお仕着せアイドル達が蔓延る日本のマーケットに対して、Salyuや安藤、あるいはSuperflyの越智志帆など昭和生まれのアーティスト達は危機感を抱き、本気で抗っている。そんな彼女達が、古き良き時代の音楽への愛情とDIYスピリットを糧に、我々の元へ「うた」を取り戻そうとしている姿には興奮を禁じ得ない。それは、冒頭の七尾旅人だけでなく、山本精一のようなアンダーグラウンドが根城の男性アーティストまでもが、新作で「うたもの」へ回帰したという事実とも間違いなく共振する。

 Salyuはインタビューでよく自分の声を「楽器」と表現している。だからメンテナンスが必要なのだと。そう考えると、本作「LIFE」から迸る陽性のヴァイブは、心身ともに充実のコンディションであることは想像に難くない。「この宇宙(そら)はLIFE(ライフ)の先にある/心に描いてみたいな」--------そう、これは日本の音楽の未来であり、大きな希望。秋には今年2回目の全国ツアーが決定しており、早くも次のアルバム制作にまで取り掛かっているという。かつてなくワーカホリックな彼女の最新モードを、再びステージで目撃できるのが楽しみだ。

(上野功平)

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micmacs_a_tire_larigot.jpg 01年に世界的にブレイクした『アメリ』の提示したファンタジーで囲い込んだ作為性、仕組まれたブラック・ユーモア、模範的教科書には成り得ない寸前のロマン、そして、ヤン・ティルセンの程好いサウンド・トラックはどれも及第点を越えるが故に、味気なかった。つまり、ディズニー映画が時にマッドな領域を超えて、勧善懲悪を全うする為に「仮想敵」を集団的な自意識の中に植民地化して、夢でオチを作るような所作からすると、『アメリ』の描く素朴な残酷さは僕にはナイーヴが過ぎた。

 そういう意味で言えば、主人公であるAmélie Poulainのアナグラムから、Oui à l' ami Le Penになるという指摘も踏まえると、「ジャン=マリー・ル・ペン」の存在を想い出すのは少しクールな気がする。彼が右を向いている間に、例えば、アブダル・マリックを代表とした「スラム」という音楽がパリの郊外の暴動と「共振」して、ダブ・ステップやグライム的な下辺音楽を待備せしめたというリアリズムに振り回される内に、ゼロ年代におけるフランスのファースト・レディーにカーラ・ブルーニが「なってしまう」という皮肉が受容されてしまうことがどうも偶然に思えないからだ。カーラは元々、70~80年代フレンチ・パンク、ニュー・ウェイヴ・シーンの人気バンド、テレフォヌのリーダーのルイ・ベルティニャックがファースト、セカンドをプロデュースしていたこともあって、スーパーモデルなどといった側面以外に、音楽的センスの良さは様々な国の人たちに認証されるところはあった。それが、サードでのドミニク・ブラン=フランカールを招いての「失速」と言ってもいいだろう、ビッグなバランスが象徴していた。ゲンズブールの国はいつもフェイクが似合う。
 
 そこで、実質的なリリースは09年にはなるが、日本公開として10年代の幕開けを『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネの新作『ミックマック』が「冒険」と「ブラック」という原点に回帰したのはとても興味深いと言える。権力装置への「装置」を外す試みとして、今回、レンタル・ビデオ店の店員のバジルは発砲事件の関係で頭の中に流れ弾が入ったままになってしまう。この「流れ弾」はある種のシンボルであり、一つのメタファーだ。何故なら、昔に地雷で父親の命を奪われたバジルにとってその弾を構成している巨大な兵器産業へのアゲインストを心掛ける契機になる訳で、バジルは廃品回収をしながら底辺的な暮らしをおくる共同生活仲間と共に「結託」をする。しかし、その「結託」とは「連帯」ではない。一つの目的の為に、お互いがお互いの特技を許し、託し合いながら(一人はスーツケースに体が入ることが出来るほど体が柔らかい、など)、まるで日本で人気の漫画の「ワンピース」のような活劇のような瞬間さえ浮上させるときもあるロマンティックなピカレスク・ロマン。

 『アメリ』が持っていた過剰なファンタジー性、つまり、ジュネのイマジネーションの飛距離は今回も活きているが、もう少しシビアな形での軟着陸を示している。それは、流れ弾が頭に入ったことで様々な意識が膨れ上がるバジルをモティーフにしながら、肥大し、暴走してゆくように。時には、バジルの「妄想」はフリーキーでバレアリックで、「世界そのもの」の解析を試みるようなものになる。

 今、大人が描く世界がとても味気ない「セカイ」か、3D仕掛けのフェイクのリアリスティックな世界になってゆく中、この作品で描かれる世界はチャイルディッシュで悪意もあって、どちらかというと、残酷で救いのないファンタジーだ。ただ、それは子供が視たままの「世界」であり、例えば、それは、ホッブズがリヴァイアサンを「発見」したのが、社会に「自然状態」というフィクションを想定できたからだったという部分に連結することは出来ないだろうか。国家も法律もない社会における、裸の人間として、フィクショナルに踊ってみせる所作。このラインでのブースターは生命原理に回帰する。生命原理はバイタリティと訳すのも良いだろう。

 その根源的なバイタリティに満ち足りた映画がこの『ミックマック』だ。予想通りの夢も現実もないが、フランクな映画というファンタジーがもたらすカタルシスがここに溢れている。

(松浦達)

*日本版 公式サイト
http://www.micmacs.jp/

*9月4日より東京のみで先行公開。9月18日より全国ロードショー。【編集部追記】

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jamaica.jpg 思えば、意味がなくても、ビルドゥングス・ロマンの夢に乗れなくても、「強度」(世界を濃密に体感すること)さえあれば人間は生きていけると説いた日本の社会学者は、今は何を啓蒙しているのか。例えば、ニーチェは、意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがると言ったが、ニーチェの本を読み、強度を勘違いして「無意味な生」をセルフ・ヒーリングされている人たちは、十分に「意味的な存在」であり、反ニーチェ的であるとしか言いようがないのも残念だ。00年代以降は「強度」のように世界を濃密に分かり合えるように、「濃度」としてグラデーションの境目を見極める視力が必要になったのは「グラウンド・ゼロ以降、ビルが荒野に視えてしまう」という錯覚さえ孕んだ感性や表現を保持しないと、何一つ意味も浮上しないという事が自明の理になったからだ。だから、90年代の最高の産物であるアンダーワールド「Born Slippy」はどんな場所でも、どんな環境でも間に合うように、星を降らせた。

 07年辺りに勃興したニューエレクトロは殆どが「意味」の音楽だった。但し、ゆえにフロア・ユースとヘッドホン・リスナーにとっては、乖離している部分があり、例えば、デジタリズムは後者サイドでふと街の景色と混ざり合う時にその本領を発揮する代わりに、フロアにおいては単調で盛り上がりに欠ける「荒さ」があったのはステージを観た人なら分かり得るだろう。シミアン・モバイル・ディスコなどはその双方の橋を上手く渡せていた器用さがあったが、セカンドは目配せをしてしまったが故に地味になってしまい、どうにも座りの悪いものになってしまった。そんな中で、ジャスティスのあのコンプレッサーがかかった音と硬質で過剰なサウンドスケイプはヘッドホンには耳触りで、フロアでは一方通行のマッシヴな悪意のような熱だけが放射された「強度」の音楽を示唆した。彼等は、周囲が想っている以上に「センス」のユニットでもなかったのは、放埓なステージ以外のオフまでをおさめたDVD「A Cross The Universe」を観れば瞭然で、どちらかというとロック的(旧態的な)な捨て鉢さがチャームのユニットであったから、次はダフト・パンクのようなバズを産むか、潜航期間が長くなるかという選択肢しか見えない気がした。

 そんなジャスティスの新曲と勘違いした人も多かったかもしれない「I Think I Like U」のギター・カッティングの軽快さとマッシヴなデジタル・ビートは久々に何かをブレイクスルーをする新しさを持っていた。ジャマイカというアントワン・ヒレール、フロー・リオネからなる二人組。プロデュースにはジャスティスのグザヴィエもクレジットされており、全体にジャスティス的なコンプレッサーが強めの音が続くが、合間にフェニックスやタヒチ80のようなフレンチ・ギター・ポップの血も受け継がれており、全体のイメージはとてもクールとしか言いようがないものになっている。

 ジャマイカとして影響を受けたアーティストは、トッド・ラングレン、AC/DC、ポリス、ニルヴァーナというのも、何だか微笑ましい、「大文字」に挑む頼もしさがあると同時に、ルーリードの名前も出してしまう所はフランスの鬼っ子たちの憎めなさなのだろうか。同時代的な共振をヴァンパイア・ウィークエンドに感じると言いながら、歌詞に散りばめられたロマンティックなフレーズはフレンドリー・ファイアーズが希求したパリを既に内包したフランスという出自を逆手に取って、甘美で、故に頽廃的なからくりも見える。国内盤のボーナス・トラックに入っているデモ・ヴァージョンなどを聴くと、瑞々しさが先立つ内容になっており、シンプルなネアオコ~ギターポップへの近接も感じるが結果、出来上がったこのアルバム『No Problem』を貫き通したモードは、グザヴィエの過剰さと彼等の意図が加わって、意味から強度を抜けて、深度へと一気に降下していく乱暴さを再構成しているものになった。ラフなまま振り切らず、タフなものに仕上げ直すという捻じれ方は流石、フランスという国から出てきたという矜持とも言えるかもしれない。パリに行かなくても、ここに居れば星は見えるから、「あの子は綺麗ではなかったね、ただ若かっただけさ」と、ニヒルに言い捨てるジャマイカはやはり、クールだ。そのクールはスノビズムも孕むが。

(松浦達)

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here_we_go_magic.jpg ぶっきらぼうなのに丁寧だ。計算されているようでされていない。とかく音は複雑で、それでいながらシンプルだ。ヒア・ウィ・ゴー・マジックはブルックリンのシンガー・ソングライターのルーク・テンプルによるソロ・ユニットとして始まり、ファースト・アルバムはダーティー・プロジェクターズなどをリリースしたテキサスのレーベル、Western Vinylから発表された。そして、現在はバンド編成となった彼らにとって二枚目となるアルバムが、この『Pigeons』である。

 09年にグリズリー・ベアやザ・ウォークメンらとともに北米・ヨーロッパをツアーし、音楽の完成度と人気が一気に高まり、発表された本作は、間違いなくルーク・テンプルのメロディが中心になってはいるが、ジャム・バンド的な演奏あり、ガムラン的な要素あり、ヴァン・ダイク・パークス的なところありと、実に面白い。

 ファンキーで程よいグルーヴ感を鳴らすベースもあれば、クラウトロックを思わせるところもある。ジャケットが暗示するように様々な要素が交じっているが、スフィアン・スティーヴンスからも絶賛されているルーク・テンプルの気持ちのいいメロディによって楽曲に一本筋が通っているから乱雑ではなく、ポップスとして大きく息をしている。実験的な音楽なのにドリーミーで甘美。するっと耳に入ってくる。まるで眠りに誘っているような奏では、夢の中でこの音楽を聴けたらな、と思わせ、思考の弛緩を誘い、「眠り」というもうひとつの現実を表現しているかのようだ。

 意識と感情が無に近くなる眠りの世界とは、村上春樹が『アフター・ダーク』で描いたように、もうひとつの現実で、人間が最も無防備に、無意識になれる状態でもあり、そこに感情はない。もし、無意識の世界に落ちてしまいたいと思ったら、僕はこの音楽を薦めたい。いわゆるサイケデリックと呼べるサウンドではあるけれど、本当に心酔し、自分の意識を失って、この音楽の住人になってしまいそうな作品なのだ。聴いているうちに溢れてくる豊かな心地。その心地は千差万別であろう。10人いれば10人の心地良さがあるのだろう。そうして思うことがある。無意識とは無限の創造なのだと。人間そのものが無限なのだと。だから音楽とは無限なのだ。そして音楽とは人間への圧倒的な肯定なのだ。本作は、気持ちよく麻酔を打たれてしまう危険なスウィート・トリップ・ミュージック。

(田中喬史)

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magic_kids.jpg 今年のUSでは「夏」ムードのアクトがひしめいている。その多くは、いわばビーチ・ボーイの子供たち。特に、ザ・ドラムスやベスト・コーストなど、シーンを代表するバンドはシンプルなサウンドと甘いメロディでノスタルジアを演出しているものが多い。

 このテネシー州メンフィスの5人組、マジック・キッズもきっと同じムーヴメントにくくられるのだろう。彼らの曲を聴いて、まっさきに思い浮かぶのは間違いなくビーチ・ボーイズのはずだ。コンパクトながらスウィートなメロディとキャッチーなコーラスワークが曲の中心になっているのだから。

 だが、彼らの手法は異なる。ゴージャスで躍動感があるのだ。このデビュー・アルバム『Memphis』は、もし『Pet Sounds』『Smile』(当時は完成しなかったけど)のあとにブライアン・ウィルソンが作品を作っていたとしたらこんなじゃないだろうか、と感じさせる作品だ。つまり、実験性とポップネスが絶妙のバランスで同居しているということ。スフィアン・スティーヴンスやスコット・ウォーカーを思わせるオーケストラや、フレイミング・リップスのサイケデリアなど、多彩な要素をふんだんに盛り込んでいる。リヴァーブがかったドラムが刻むビートはオモチャのようでイノセンスを感じるし、あまたの楽器のレイヤーを分厚く重ねたサウンドには角がない。いわば、オモチャ箱をひっくり返したような楽しさがある。

 例えば、「Hey Boy」でのフィル・スペクター風の桃源郷の2分間に、「Superball」のバロック・ポップぶり、「Good To Be」での初期エルヴィス・コステロに通じる軽やかにドライヴするリズムなど、一貫してレトロな雰囲気が漂う。だが、ただのコピーから更に一歩先に進んだオリジナリティがある。だから、肩肘張らずにみずみずしい恋愛を描いたリリックが活き活きと伝わってきて、何度聴き返しても新鮮に輝きだす、そんなエヴァーグリーンな魅力をもった作品だ。たった28分ながら、あまりに美しく若々しい、メンフィス流の「夏」がここにある。

(角田仁志)


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woodstock.jpg
 Zガンダム、マリオ。そして、今回は引用ではなく、ひとつの漫画について書くことにした。これで僕がどんな人間か、少し化けの皮が剥がれてきただろう。
 
 『ウッドストック』コミックバンチに連載されていた作品で(コミックバンチは、週刊から月刊となり、「@バンチ」という名で、2011年の1月21日に新創刊するそうで、『ウッドストック』もそこで連載が続くらしい)、浅田有皆という漫画家が書いているロック漫画だ。僕と『ウッドストック』の出会いは、とあるコンビニの漫画コーナーに置かれていたコミックバンチがキッカケだった。表紙に「新連載スタート!」というフレーズと共に、『ウッドストック』の名があった。まずは立ち読みで試しに読んでみた。すると、凄く強烈な熱が、僕を襲ってきた。なんていうか、熱気バサラの、「俺の歌を聞け!」という熱気に近い「俺の絵を見てくれ!」という感じ。立ち読みだけで済ませられず、オレンジジュースと一緒にレジに直行して買ってしまった。家に帰っても、何度も読み返してしまった。それ以来僕は、『ウッドストック』の虜になってしまった。
 
 僕は『BECK』が苦手だ。もちろん「ハロルド作石はロックを分かってない」とか言うつもりもないし、ハロルド作石は、ロックが好きだからこそ『BECK』という漫画を描いたのだろう。ただ、僕は、『BECK』で描かれているロック観が苦手だというだけの話。僕にとって、『BECK』というのは「波乱万丈の物語」だ。仲間が集まってバンドを結成して、夢に向かって突っ走るけど、挫折を味わったりして、それでも、力を合わせて困難を乗り越え、立ち上がり歩いてゆく。でも、現実ってそう都合良くできているわけでもなくて、一回の挫折で終わってしまうことが多いし、最初ギターを抱えて大きな音を鳴らすと、「俺もロックスターになれるんじゃないのか?」と思うけど、大概はすぐに、ハッピー・マンデーズが歌ったように「誰もが英雄になれるわけじゃない」と悟ってしまう。僕もギブソンのレスポールを抱えて歌ったり、ローランドのJUNO106とTB-303でダンス・ミュージックを作ったり、ジェフ・ミルズに憧れて、ターンテーブルを3台買って、「リトル・ウィザード」を名乗ったりしていたけど、その全てが趣味に終始している。僕がひねくれているだけかも知れないけど、僕には、『BECK』がどうしても綺麗事だらけに見えてしまって、読んでいて息苦しくなる。
 
 もちろん『ウッドストック』にも、挫折から立ち上がって困難を乗り越えるみたいな物語はあるんだけど、たまに「無」が訪れる。本当に退屈な、何も面白くはない場面が『ウッドストック』にはある。「それって漫画としてどうなの?」という声も聞こえてきそうだけど、僕はそこに「リアル」を感じる。ロックとは瞬間風速的に突然降って来るものなのだ。ジーザス・アンド・メリーチェインのリード兄弟は、5年間無職という何もしてないなか、美しいノイズを鳴らした。ロックとは、鳴らすものではない。ロックのほうから、「俺を鳴らせ」と囁いてくるのだ。だからこそ、僕にとってロックというのは、特別な存在なのだ。
 
 僕は、音楽について書いているとき(今回はロック漫画だけど)、劣等感に苛まされる。その劣等感は、「ライターは基本的に、音楽界においては負け犬」という僕自身の考えからきている。僕がこうして、音楽について書いているのは、「この音楽を聴いてほしい。もっとこのアーティストを知ってほしい」という思いがあるから。しかし同時に、音楽について書くということは、「自分の音楽観を、他人の作品を借りて主張すること」だと、僕は思っている。この行為は、僕にとってズルイことでしかない。謂わば、アーティストがゼロから作り上げたものを、後出しジャンケン的に好き勝手解釈するものだから。もし、「今の音楽界はクソだ。こんな音楽があれば、音楽界も良くなるのに」と思ったら、自分で曲を作り、詩を書いて歌う。しかし、僕は、何かを生み出す才能がない。だけど、それでもあきらめきれず、僕はこうして言葉を紡いでいる。劣等感に苛まされながらも、自分の音楽観を主張するために。だけど、「文字」という形で、どれだけ頑張っても、「音楽そのもの」には敵わない。何故なら、「音」という形あるものではないものを聴いて、自分の心に浮かぶ風景や匂い、それこそが、音の立派な主張であり告白だからだ。つまり、究極的に言って、音楽というのは「言葉」なのだ。嫌味なインテリ風の奴らは、「それは自己矛盾であり思考停止だ。何故書き続けるのですか?」と言うかも知れない。もしそう言われたら、僕は、「音楽が好きだから」としか言えない。未練タラタラなのである。しかし、その未練が、そんなに悪くないのだ。
 
『ウッドストック』は、僕の考えとシンクロするところがたくさんあって、感情移入してしまう。というか、僕みたいに、音楽に夢を見て、日々音楽について考えている人ならば、心の中にある純粋なものを掻き毟る何かが、『ウッドストック』にはある。浅田有皆自身は、劣等感から『ウッドストック』を描いているわけではないと思う。自身がリアルタイムで体験したと思われる、80・90年代の日本インディ・ロック・シーンを背景に、純粋に「こんなバンド居たらいいな」という思いで描いている。しかし、その「こんなバンド居たらいいな」という思いを、漫画という形で主張しているところに、僕は自分と同じ匂いを感じてしまう。
 
  「主人公の成瀬楽が作り上げたバンドである『チャーリー』は、マイスペ世代的な成り立ちをしていて、若者に受け入れられやすいだろう」「"4REAL"や"ロウパワー"など、ロック・ファンならニヤリとしてしまうバンドが登場する」とか、ウィキペディア的にレビューを書くことも出来たけど、『ウッドストック』には、そんな陳腐な説明を不要とする、感情に訴えかけてくる力がある。音楽に夢を見たものならば、一度は体験するであろう喜びや快楽、挫折や受け入れ難い現実。そして、希望なき退屈。その全てがある。ぜひ読んでみてほしい。読み終わった後、こう思えるはずだ。「音楽を信じてきてよかった」と。
 

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coral.jpg お!? 何だか耳障りがいいぞ? というのが本作を聴いての第一印象。2007年リリースの前作『Roots & Echoes』がかなり骨太でブルージーなフォーク・ロック・サウンドに傾いていたこともあるのかもしれないが、アクが抜け、時に爽快感さえ感じさせるカラフルでサイケデリックなサウンドは「何だか渋い」ザ・コーラルというバンドのイメージを覆すのには十分なのでは。彼らの熱心なファンからすると物足りなさを感じるようなコメントも出てきているようだが、個人的には本作の路線を断然支持したい。

 それぞれの楽曲についても、マイナー・コードが基調となったコーラル節は健在だが、これまで以上によく練られており、完成度の高い3分間のポップ・ソングに仕上がっている。1曲目「More Than Lover」のヴァース→サビ→盛り上がりが最高潮に達するブリッジに至る流れだけでノック・アウト。各楽曲の並びも緩急がしっかりついており、アルバムトータルとしてのまとまりも良い。この辺りはプロデュースを担当したジョン・レッキーの手腕だろうか。アレンジャーとして彼らの初期の作品のプロデュースを担当していたイアン・ブロウディやちょっと意外なショーン・オヘイガンの名前も。

 前作リリース後にギタリストのビル・ライダー・ジョーンズが脱退、そしてシングル集の発売を経てバンドとしての活動に一つの区切りをつけた感のある彼らの新たな出発となる作品、なんていうとかなり陳腐に聞こえるが、本作はそんな謳い文句がピッタリなくらい、彼らの前向きでポジティヴなエネルギーで溢れている。ファーストの頃のインパクトには欠けるかもしれないが、バンドとして成熟したその姿は実に頼もしい。

(川名大介)

*日本盤は8月25日リリース予定です。【編集部追記】

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buffalo_daughter.jpg やめときなよ、それに手を出しちゃいけないよ、というものが、バッファロー・ドーターにはない。ヒップホップをやろうがマスロック的なアプローチを見せようが、それらの音楽性を取り込み、まさにこれだよと言わされてしまう説得力が宿った楽曲に、やっぱこれだよねと言うしかないのだった。とにもかくにも、93年に結成したシュガー吉永、大野由美子、山本ムーグの3人から成るバッファロー・ドーターの、ドラムにザゼン・ボーイズの松下敦、6曲目のヴォーカルに羽鳥美保を迎えた4年ぶり、通算6枚目の本作『The Weapons Of Math Destruction』も、ニュー・ウェイヴへの愛情たっぷりに、そして愛情を、壁をぶちやぶる力に変換して突き進む姿勢を貫く。
 
 いやむしろバッファロー・ドーターそのものが、音楽という漠然とした観念としての壁への解答であり否定であったのかもしれない。ポリシックス、あるいはコーネリアスよろしく、メロディ、リズム、音の質感、音の配置、その全てを依存の音楽プロットに当てはめず、定型化させることなく新鮮性に溢れたサウンドを常に表現してきた。そんなバッファロー・ドーターの『The Weapons Of Math Destruction』、タイトルは数学破壊兵器の意。そして物理がテーマ。物理とはありとあらゆる現象にひとつの集約点を設けることでもあるのだが、同時にどうすることもできない現象に伸るか反るか、という判断を行なうことでもある。バッファロー・ドーターは、のった。しかし反ってすらいる。
 
 前進していても力学はマイナスに働き、殻を破ろうにも痛みがともなう。つまりは過去を見つめなければならず、自分たちの過去の音楽を見つめながらも自らの音楽を破壊するかのように様々な要素を取り入れ、楽曲をばらばらに解体させた上で自分たちの解釈で音楽を創作し成り立たせる。その音楽はあまりにも素晴らしく、いわば、ばらばらに砕かれた音というものを強い重力によって一体化させているような印象すら受け、その様にカッコいいじゃないかとシャウトのひとつもしたくなるのだ。要は、否応なしに興奮が腹の底から湧きあがりガツンとくるのだ。
 
 そうして次々と踊り出てくるオルタナティヴな音の数々が野生的に飛び跳ね、一体となったときの重量感に溢れた圧迫の迫力に打ちのめされる。メロディを聴くというよりは音そのものが吐き出す声を聴く作品だと思えるが、歌が入った楽曲のメロディは抑制の美を静かに聴き手に与え、トリップ寸前の昏睡の色が濃くもある。いや、それは全曲に言えることだ。抑制された美的サウンドを解放すれば、音は力みなぎり、エコーを聴かせた音も、コーラスも、エレクトロニック・サウンドも生楽器も、水を得た魚というやつくらいに活き活きと音響空間を泳ぎ回る。すなわち公式からの解放。アルバム・タイトルにあるように数学破壊的。それらを生意気なほどチャーミングに、しなやかにやってしまう。
 
 破壊、構築、解放によって成り立つ本作は、それまで漠然と信じていた音楽というものが通用せず、そしてバッファロー・ドーターにとって本作は、この音楽性には強く、この音楽性には弱く、あるものに対してどれだけの耐久性があり、ある方向へどれだけ傾くかというような、種々の細かい特質が明らかになったのではないだろうか。ギャング・オブ・フォーを思わせるギター・サウンドに関しては絶対的な強度を持ち、ヒップホップに関してはアメリカ黒人的でなくとも、バッファロー・ドーターなりの尺度のものが構築できるのだと。そしてそれは、新たなオルタナティヴの方向へ傾くのだと。そうして分かるのは、もう決してこのバンドはどんな空虚にも安息にも耐えられないということだ。もう後戻りはできない。そもそもメンバーは後戻りする気などないのかもしれない。空虚に浸ることのナルシシズムなんてものも、さらさら興味がないかもしれない。それは過去の作品を聴けば明らかなのだ。
 
 オルタナティヴであることとは、本来の正当な秩序から外れ、別の方向の高みへ昇ることなのではないかと、本作を聴いていると思えてくる。いや、もはや「本来の正当な秩序」というものがなくなった今、逆説的にバッファロー・ドーターがオルタナティヴのレファンスに成りうる傑作が本作なのではないか。そう思えるほどに最高なのだ。さりげなく、しかし激しく胸に火をつける。ほんとうに、素晴らしい。ただ聴いているだけじゃ物足りない。もっと音が欲しくなる。ライヴを観なきゃと思う。観なきゃいけないんだと思わされる。チケットを買いに自転車のペダルを深く踏んだ。

(田中喬史)

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philip_selway.jpg 「であること」と、「すること」は丸山眞男の「日本の思想」という本に詳しいが、「である」ことに充足していると、本質が流動的に変質しているケースがある。例えば、家族「である」ことというのは「前提条件」ではなく、「十分条件」であり、更に言うならば、父親「である」ことというのは、人類の発明の一つと言えるからだ。霊長類でも、父親が育児に参加するのはタマリンやマーモセットだけであり、更にもっと突き詰めると、「自分が父親であること」という認証は究極的にどうなされるのか、DNAを鑑定しても、よく分からないのかもしれない。意識の面で父親を「する」というのは、不確定なものであり、とても抽象的になる反面、母親という存在は具体的に「子供を産む」という形を取り、輪郭付けられ易くなる。つまり、父親を「する」という事には、幾つもの障壁が待備させられている。

 今回、レディオヘッドのドラマーであるフィリップ・セルウェイが初のソロ・アルバムを作り上げたが、タイトルからして『Familial』であり、「母親の死」に向き合うことから始めた部分も含め、家族を巡っての、また既に3児の父親である彼のセルフ・アイデンティティを巡っての昇華作業の中で生まれた作品と訝るのは容易いだろう。また、内容も父親「である」ことを再確認しながら、母親の子を「する」という行為性を見つめ直している点からも、自己浄化の空気感がある。

 寡黙な彼のソロと言ったら意外に思えるかもしれない。ただ、伏線はあった。振り返ってみるに、01年4月、クラウデッド・ハウスのニール・フィンが中心となったジョニー・マーやエディー・ヴェダーらがニュージーランドのオークランドで5夜に渡り、ライヴを行なった際、その中に彼の名前を見受けることが出来た。その後、この模様は『7 Worlds Collide』としてライヴ盤として纏められたのは周知だろう。更に、このプロジェクトが再集結して、09年末にはウィルコのメンバーが加わるなどしてリリースされた、2枚組のスタジオ・アルバム『The Sun Came Out』では初めてその繊細な「歌声」も披露していたのは記憶に新しいと察する。その声はとても素朴で、決して巧いと言えないが、僕はアーサー・リーやエリオット・スミスのような柔らかい翳りを感じた。

 結果的に、『Familial』は、その声に最低限の楽器が加えられたシンプルでフォーキーな質感を残すアルバムになった。基本は爪弾かれるアコースティック・ギターが全面に押し出され、時折、レディオヘッドを思わせる奥行きのある音響空間も浮かび、フォークトロニカのような曲もある。一曲目の「By Some Miracle」のカウントを数える所から、一気に彼の世界観が広がる。「家族への想い」、「母親の死への悼み」まで人柄が伺える優しい視点が通底しており、よくあるシンガーソングライターの作品のような痛々しさはなく、どちらかというとウォームな雰囲気があるのも彼らしい。派手さは無いが、ロン・セクスミスの諸作やマグネット、ホセ・ゴンザレス辺りの音や紡ぎだす世界観が好きならば、必ず琴線に引っ掛かるものがあると思う。

 「レディオヘッドのドラマーのソロ・アルバム」といった余計な冠詞は全く必要が無い、フラットな繊細さに満ちたアルバムであり、この作品を通す事によって、彼はレディオヘッドのメンバー「である」ことの桎梏を相対化して、一つの家族を持つ人間であり、父親を「する」ことの儀式を経ようとしたのかもしれない。基本、彼が自分自身に向き合ったアルバムなのだが、外部者としてウィルコのグレン・コッチェとパット・サンソン、元ソウル・コフィングのベーシストのセバスチャン・スタインバーグ、リサ・ゲルマーノなどの参加もささやかに色味を加えていることで、立体感が増しているのも良い。

(松浦達)

*日本盤は8月25日リリース予定です。【編集部追記】

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ghost_society.jpg 今、全てのシューゲイザー・ファンと北欧ファンに捧げたいのがこれだ。ゴースト・ソサエティ。デンマークのブルー・ファウンデーションのメンバーによるバンドだ。彼らはゲスト・ヴォーカルに同じくデンマーク出身で友達のミューのヨーナスを迎え、実にクリエイション的でマイブラとニュー・オーダーを足して割ったようなアルバムを作り上げた。ヨーナスは言う。「ゴースト・ソサエティは薄汚れた地上で私的なノイズ、美しさ、耽美な曲、愛と希望に覆われた圧倒的な存在。あなたはこの素晴らしい音楽を手にとるべきだ」と。この女性ヴォーカルと男性ヴォーカルによるアンニューイな雰囲気は、聴く者すべてを幻想の世界へと導いてくれる。

 ただ筆者が思うに、ヨーナスの歌う「トゥイステッド・マインド」はいわゆる普通の音程である。つまり、ヨーナスは友達とはいえデンマークのベスト・シンガー・オブ・ジ・イヤーに表彰された人物で、音の低音と高音の差に最大の魅力がある。正直、彼を起用する意味はあったのだろうかと疑問に思えてならない。だがアルバムの真ん中に位置されたことでアルバムそのものに変化を与えてはいるのでその点では評価したい。とにかくデンマークというお国柄をよく反映させているアルバムだ。シューゲイザーの宝庫であるデンマークならではが生み出した名作。もちろんミューの『フレンジャーズ』とそれ以前の作品にも通じるところがあり、彼らのファンにも聴いてもらいたい。

(吉川裕里子)

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ishino_takkyu.jpg 僕は、スーパーマリオブラザーズというゲームが好きなんだけど、どこが好きって、プレイしている人だけではなく、そのプレイの様子を見ている周りの人まで楽しくなるところ。赤い帽子に、特徴的なヒゲ。ファミコンでの荒いドットでも、何故か一度見ただけで覚えてしまうマリオというおっさん。Bダッシュで走る姿、ブロックを叩いてコインが出る音、キノコを食べて大きくなるときの音。全てがいちいちツボに入って、自然と笑顔になる。

 石野卓球の音は、変わらない。変わらないというのは、音そのものではなく、その音に込められてる「何か」。僕は、その「何か」というのは、「想像の快楽」だと思う。石野卓球のファーストシンセは、ローランドのSH-2。ツマミをいじっているときの悪戯心や、悦に入っている様子。そんな石野少年の姿が『CRUISE』には窺える。もちろん、現在の石野卓球は40代に入ったおっさんで、少しばかりお腹が目立ってきてはいる。しかし、そのメタボなお腹には、今も変わらない夢や想像、悪戯心。そして、それらの裏に隠された努力家な一面や、汗と涙がたくさん詰まっている。

 『CRUISE』が今までの石野卓球のソロ作品と違うところは、大人の色気、エロスと言っていいのかも知れないけど、そういった、大人の男の余裕が感じられる。すごくあっけらかんとしていて、素っ裸な音。そんな素っ裸な音が、すごく気持ちいい。そして、その気持ち良さしか『CRUISE』にはない。純度100%の気持ち良さ。しかし、それで十分なのだ。明るいキック、パキッとしたハイハット、心地良いベース、キラキラとした浄化的なシンセ。それらが交わるとき、アシッディでふわふわとした世界へと導いてくれる。その世界とは、静岡にある石野少年の部屋である。

 マリオは、ファミコンからスーパーファミコン、ニンテンドー64にゲームキューブ、そしてWiiと、ハードの進化と共に、姿は洗練され、動きも豊かになっていく。しかし、それでもプレイする者を惹きつける根本的な気持ち良さ、プレイする者だけではなく、見ているだけの者すら惹きつける気持ち良さは、変わらない。そして僕は、そんなマリオと石野卓球が重なって見える。石野卓球が生み出す音も、石野卓球を愛する者だけではなく、石野卓球を知らない者まで惹きつける魔法がある。その魔法というのは、言葉では説明できない、すごく感覚的なもので、理屈では説明できないもの。そんなことを言ってしまったら、レビューを書くものとしては、失格だろうか? しかし、これが、僕が石野卓球の音を聴いて思うことだ。

 石野卓球も、メリー・ノイズ、人生、電気グルーヴ。音を生み出す場所も、自分の部屋から、スタジオに移った。要は、「想像力と創造力」なのである。カール・クレイグは、ドラムマシンを所有していなかったときも名曲を生み出した。オービタルは、4トラックのカセット・レコーダーから文字通り「Chime」を鳴らした。季節が流れて、世界が変わろうとも、表現すべきものは変わらない。石野卓球とは、そういう人なのだ。石野卓球は、自分の「想像」しか「創造」しない。その想像に、多くの人が惹きつけられ、惹きつけられた者は「夢」を見る。その「夢」が、今度は「それぞれの可能性」に化ける。もっと言うと、その可能性を肯定する七尾旅人という人も居る。ギンズバーグは、『ファン・ゴッホの耳に死を』という詩の中で、「デトロイトはゴムの樹と妄想から百万の自動車をつくった」と書いた。しかし僕は、「石野卓球は音と想像から百万の可能性をつくった」と思う。その可能性は今も作られ、求められている。これは奇跡だと僕は思う。七尾旅人の曲から引用すれば、「なんだかいい予感がするよ」。能天気だって? 笑いたい奴は笑えばいいさ。


(近藤真弥)

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pin_me_down.jpg このアルバム、踊れます。って、そりゃそうですよね。何と言っても、この英米混合2人ユニットのギターを担当しているのは、かのラッセル・リサックなんだから。「誰?」と言う方はクッキーシーンをお読み下さっている皆様方の中には少ないとは思いますが、もう一度おさらいをすると彼は、現在、活動休止中の英国発ニューウェーヴ・リヴァイヴァル・ムーヴメント(最早、この言葉自体が過去のものになってしまった感すらあるが)を先導したブロック・パーティにおいて、その特徴的なアシンメトリー・ヘアーを振り乱して一心不乱にテレキャスターをかき鳴らしていたギタリスト。そのラッセルが米国のミレーナ嬢と組んだのが、このPin Me Down。

 ブロック・パーティのフロントマンのケリーがソロ活動を活発化し、そのサウンドが肉体的でありながら彼のウィットさも随所に垣間見えるダンス・ミュージックに傾倒したものだったのに対し、彼らPin Me Downは同じくダンス・ミュージックでありながらも、打ち込みのリズムに、ニューウェーヴと言うよりもポスト・パンク色がきいたラッセルの鋭利なギター・サウンドで隙間無く埋められたソリッドなサウンド。その彼のギター・プレイの上にのるミレーナの歌声とのコンビネーションは相性バッチリで、その挑発的な歌詞も相まって、踊らずにはいられないだろう。ラッセルのギターは、ブロック・パーティと言う時代を代表する大きなプロジェクトからいったん離れる事で、久し振りに童心に戻った子供のように自由奔放に鳴らされているのも、微笑ましい。
 
 もう一つ、特筆すべき点は、彼らはかのフランス発のエレクトリック・ダンス・ミュージック専門レーベル、キツネ所属バンドである事だ。確かに、彼らのサウンドはどこか北アイルランドのツー・ドア・シネマ・クラブのような鋭角で突き刺さりながらも、どんどん高揚していくような手法の曲も多い。一曲目の「Cryptic」は過去のキツネのコンピレーションである『Kitsune Maison Compilation 5』に収録された経緯もある。

 とにかく踊れて、高揚できるサウンドの彼らだが、僕はもう少し、奥行きを感じたかったと言う感想を抱いたのも本音であることを蛇足ながら書いておこう。さすがに、ブロック・パーティのような世界を期待するのは野暮であろうが、踊れる、アガれる以上のビジョンも見せてほしかったと言う思いもある。ラッセルのギターは決して、ブロック・パーティでしか活きることない訳ではない。ところが、彼のそのクールながらエモーショナルなギター・スタイルは、ケリー・オケレケの隣でかき鳴らされている時が、やはり際立つのだとも思えてしまう。しかし、だからこそ彼ら、Pin Me Downがこれからどんなビジョンを僕たちに見せてくれるのかもゼヒ期待していきたいだろう。

(青野圭祐)

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smilelove.jpg 時々思い出す。夏の空気がぼんやりと横たわり始めたころ、コーカスのライヴを観るために缶ビールを片手に立っていた僕の前をするりと横切り、前座としてステージに立った4人組のことを。その4人組は何気なく歌い、何気なくドラムをベースを、そしてギターを奏でた。その笑顔のようなやさしさを持った演奏は苦労して考えて創出されたというより、どこからか自然に自由に湧き出てきたというおおらかな雰囲気があった。僕にはその演奏が、音楽性うんぬんではなく、何か、あるひとつの、重要なことを雄弁に語っているかのように思えた。
 
 スマイルラヴ(smilelove)のオフィシャル・サイトでフリー・ダウンロードできるその日のライヴ音源を聴くたびに、僕は再び思い出す。コーカスやルミナス・オレンジでも活動している川上宏子がリーダーを務めるスマイルラヴのライヴのことを。その人懐こさが窺える名前が付けられたバンドは、個性というものが何かをゆったりと、朗らかに、そして雄弁に語り出す。僕らの意識は常に感情の中にいる。それが人を動かせ、立ち止まらせる。その連続の中に住み、いままで生きてきた中で出会った人々、そして選んだ選択の総和が個性なのだと、音が、歌声が語っていると僕には思えた。時代は変わったと言われる。価値観も常に変わり続ける。だがどんな時代であっても、このバンドの個性というものだけは、まるで青春の空気を身にまとうように醸し出される。スマイルラヴはそれを知的な理解に訴えず、概念にたよらず、埃をはらうくらい簡単に音にしてしまう。その音楽は、口に含んだビールの苦みをやわらげた。辺りの無秩序な制約がほどけていく音楽。

 装飾を薄くした音楽性はペイヴメントを彷彿させる。複雑性の一切を排除し、シンプルなフレーズがループする。音楽を通して演奏者の感情の昂ぶりや哀愁が真っすぐ胸に程よく当たり、やがて染み込み、不思議なくらいあっさりと消えていく。感情の移り変わりが季節の移り変わりと同じくらい自然に表れ、気が付くとまた別の楽しみの心地として浮かび、消え、また浮かんでは消えていく。ある人はスマイルラヴの音楽とともに眠るであろう。聴きながら街を歩くであろう。空を眺めるであろう。この音楽は、聴き手が音を受け入れる準備を必要としないのだ。準備などしなくとも、そっと、静かに、そして明るく、音が聴き手を受け入れる。
 
 聴いていると、音楽とは、楽器や楽譜によって成り立っているわけではなく、アーティストが吸い込んできた空気や見てきた風景によって出来あがるのだと思えてくる。音楽は理屈じゃない、とまでは言わない。しかし時として、感動は理屈を超える。笑顔に理屈がいらないように。このバンドはそんな説得力を持っている。人間は不変ではないが、スマイルラヴの笑顔のやさしさを感じる音、それだけは変わらない。たぶん、ずっと変わらない。

(田中喬史)

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squeeze.jpg
 "きみがぼくのベッドを直してくれた 指のあとが残っている
 これが愛、なのだろうか 冷静になればなるほど
 愛とはたやすく見つけられるもの そう、それが愛というものなのだから"
 (「Is That Love」)

 「シンプルにいい曲を書く」人たちというのはいつの時代も(一部を除いて)冷遇されてしまうようで、00年代以降に80年代ニューウェイヴは散々再評価されているのに、その当時に「80年代のレノン/マッカートニー」と賞賛された、クリス・ディフォードとグレン・ティルブルックを擁するスクイーズの日本での扱いに、後追い世代の僕はいつもこっそりむくれていた。素敵な曲ばっかりなのに!(とはいえ、日本におけるNW再評価のきっかけのひとつとなった、音楽評論家の小野島大氏監修による「UK New Wave Renaissance 2004」シリーズの一環で、彼らにとって三枚目のアルバム『Argy Bargy』が再発されたことには今でも本当に感謝している)

 音楽ファンがひときわ愛する映画『ハイ・フィディリティ』の原作者であるニック・ホーンビィも文学界のディフォード&ティルブルックを目標にしてきたというし、初期のブラーもマーク・ロンソンもリリー・アレンもカサビアンも、いわゆるイギリス臭い大御所ミュージシャンやバンドの大半は彼らの影響下にあるといっても過言でない。アメリカにおいても、ファウンテインズ・オブ・ウェインはモロだし、エイミー・マンのアルバムにもかつてクリスとグレンは参加し(『I'm with Stupid』、最高!)、ディアハンターも昔、自身のMySpaceで音楽性が結構異なる彼らの名前を挙げてリスペクトしていたり(彼らのブログの過去ログを読み返すとわかるが、ブラッドフォード・コックスは相当の英国ロックオタク)、つい最近だとシンズがもっとも有名な曲のひとつ「Goodbye Girl」をカヴァーしている。こんな話をしだしたらキリがない。それほど彼らは偉大で、優れた曲をいくつも残している。

 バンドの解散後もグレンとクリスは00年代に各自ソロ名義で秀逸な作品をいくつか残してきたが、このたび何度目かの再結成を果たし、そしてバンド名義としてはなんと12年ぶりに発表されたのが本作である。

 『Spot The Difference』、「間違いを探せ」と題された本作は往年の名曲をバンド自らの手で再録したアルバム。で、間違いを探そうにも、冒頭の疾走感溢れる「Another Nail in My Heart」からラストの「Up The Junction」に至るまで、基本的にオリジナルのアレンジに恐ろしく忠実であるのが特徴だ。当時アメリカでも大ヒットした「Tempted」もご丁寧に当時と同じくポール・キャラックがヴォーカルを担当しているし、「Slap and Tickle」の時代を感じさせるイントロのチープなキーボード・サウンドもうまい具合に再現されている。メイン・ヴォーカルを務めるグレンの歌声もそれほど衰えてはいない。一見後ろ向きな所作にも見えるが、ファースト・アルバムのプロデュースを担当したヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルから、名作『East Side Story』でのエルヴィス・コステロとデイヴ・エドモンズ、さらに後期の作品に至るまでの音を今になってわざわざ完コピするというのは、たとえばと元XTCのデイヴ・グレゴリーがビートルズの「Strawberry Fields Forever」を宅録で完全再現したのと似た、英国バンドらしい極端さと捻くれたユーモアも感じさせる。その反面、曲順の滑らかさに「ベスト・ヒットをうまい具合にまとめているなぁ」と感心していたら、単純に収録曲をアルファベット順に並べていただけだった! というテキトーさもまたいい。今もバンドがそれだけ勢いに乗っているということだろうし、音の方からもそれが伝わってくる。

 こうして聴き返すと彼らのもつメロディの豊潤さとポップの奥深さに改めて唸らされるわけだが、間違い探しを原典抜きで行うというのもヘンな話なので、未聴の方々には(先述のジョン・ケイルのプロデュースによるファーストはバンドの魅力を正確に伝えきれていないし、超兄貴みたいなジャケもややダサいのでひとまず後回しにして)二枚目の『Cool For Cats』から時代順に聴いてみることをお薦めしたい。それこそ今でいえばニュー・ポルノグラファーズ辺りのファンの琴線にも触れまくるフックをもつ尖った、いかにもニューウェイヴなパワーポップ集である『Cool~』から、その次々作である(当初はポール・マッカートニーもプロデュースを手掛けるという話があった)『East Side Story』のもつ「うた」の魅力に至るまでの流れは感動的だし(この流れはポストパンク時代の流行の変遷を先取っていたといえるかもしれない)、ブリット・ポップの勃興で再評価されることとなる80年代後半~90年代の作品も聴き応えがある。また、クリスが手がけてきた小粋で味のある歌詞の魅力については、かねてからグレンの来日公演をサポートしているミュージック・プラントのブログ「Song by Song」にタイコウチ氏による素晴らしい対訳が紹介されているので、そちらをご参照いただければ。

 ちなみに、グレンはLove Hope and Strengthという、山登りを通じてガン撲滅のための寄付を募る団体に参加しており(他の参加ミュージシャンも凄いメンツ!)、富士山でのトレッキングのためにただいま絶賛来日中。一方、バンドのほうはアメリカではチープ・トリックやイングリッシュ・ビートとツアーを周り、そして11月からはイギリスに戻ってライトニング・シーズと...って! なんかどの組み合わせも(ちょっと世代を感じるけど)豪華...。日本にもそれでぜひ来てほしいですよ?

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arcade_fire.jpg 僕がクルマの免許を取るずっと前のある日曜日。当時、世界最強だと言われていたマイク・タイソンが日本で試合をすることになった。試合開始のゴングは午後だったと思う。僕はレコード1枚分のおこづかいをポケットに入れて、市営バスに揺られていた。「試合開始までに帰れるかな。タイソンの試合はすぐに終わっちまう」。そんなことを考えながら、僕はバスを降りてからレコード屋まで急いだ。

 アーケイド・ファイアの『ザ・サバーブス』を聞いて、歌詞を読んで浮かんできたいくつかの記憶のうちのひとつ。不思議と懐かしさはなく、「その時、僕はそこにいた」という確信だけがある。ニュー・ウェーブ、パンクのエッセンスを器用に取り入れたサウンド、ブルース・スプリングスティーンのストーリーテリングを継承するような情景描写に、何かを発明したような新しさはない。それでも全16曲という決して短くはないこのアルバムを繰り返し聞いている。

 何種類か用意されたアートワークには、どれも無人のクルマが停まっている。色褪せる直前の住宅の写真は、何かが失われることを予感させる。遠い記憶ではない。それは、ほんの少し前の出来事だ。過ぎ去る時間の中で、僕たちは何を失うんだろう? この不気味な住宅は、帰ってくるべき場所なのか? それとも出て行くための場所なのか?

 「葬式」と名付けられた1stアルバム、現代の宗教観と資本主義を描いてみせた2ndアルバムを経て、いまアーケイド・ファイアは「郊外」に目を向ける。アメリカ大統領選が終わり、時代は変わったかのように見えた。でも、本当にそうだろうか? 変わったこと、変わらなかったこと。僕たちは結局、その両方を受け入れて生きて行かなくちゃならない。ある人はこのクルマに乗って出て行くだろう。そして、またある人はこのクルマで帰ってくるかもしれない。最初っから、どこにも行けない人もいるだろう。きっと誰の心の中にでもある「郊外」の風景。アーケイド・ファイアは、「時代」や「アメリカ」という背景を抜きに、僕たちの心に問いかける。歌の普遍性は前2作を超えている。

 結局、僕はマイク・タイソンの試合を見ることができたのか憶えていない。憶えているのは、帰りのバスの中でトーキング・ヘッズの『ネイキッド』をレコード屋の袋から出して、心ゆくまで眺めていたこと。窓の外を通り過ぎる友達が住んでいるマンション、電信柱、広い駐車場、古ぼけた商店の看板。「そろそろ降りる準備をしなくちゃ」。いま僕は、そこからどれくらい遠く離れた場所にいるんだろう?

(犬飼一郎)

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yakenohara.jpg ここまで清々しくて初々しくて、楽しいサウンドを滴り落ちるほど贅沢に取り入れた音楽も中々ないであろうよ。DJ、ラッパー、トラックメイカーなど、やけのはらの活動は多岐にわたり、近年はバンド、ヤングサウンズ(younGSounds)に参加。また、七尾旅人とともに「Rollin' Rollin'」を発表したことは記憶に新しい。ファースト・ソロ・アルバムの本作『This Night Is Still Young』は、「Rollin' Rollin'」のアルバム・ミックス・ヴァージョンを収録。同じく七尾旅人がヴォーカリストとして参加した「I Remember Summer Days」を収録し、ライヴで共演の多いドリアンがキーボード、アレンジとして参加している。
 
 大胆なまでの打ち込みを軸とするアルバムだけれどエレクトロニカ的な志向すら持つ七尾旅人と打ち込みの相性が良いのは必然で「Rollin' Rollin'」のアルバム・ヴァージョンも気持ちのいい仕上がり。もちろん淡々としていながらもチャーミングなやけのはらの声と電子音の相性も抜群だ。DJとして数々のイベントや、多数のパーティーに出演してきたやけのはら自身が言うように、ラッパーというよりはDJ的な視点で作られた本作は、間隔の広いヒップホップのリズムと、ころころ転がっているような電子音と涼しげなサウンド・エフェクトを中心に、女性のヴォイスや弦楽器、子供の声がサンプリングされている。さらには管楽器やエレクトリック・ギター、ボコーダーを使った音なども取り入れ、ドリアンがキーボードを鳴らすタイミングも絶妙だ。それらは夏の空気や海辺で人々がたわむれる雰囲気を描写する。様々な音、ジャンルが混じっているが、乱雑な印象はない。DJ的な視点で作ったというだけあって適材が適所で鳴らされ、必要最小限に音をとどめているがゆえにすっきりまとまり、それが本作の爽快な音に繋がっている。
 
 棒読みに近いラップは朗読とまではいかなくとも詩を読んでいる感覚に近く、過剰な主張や激動はない。韻を踏むことすらあまり意識していないと思える。まるで話しかけてくれているようで、そして詩的で、爽やかなサウンドということもあってリゾート・ミュージックとして聴こうと思えば聴ける作品だ。しかし、それだけで終わらないメッセージ性もある。

"俺達が見ている景色が夢だとしたら
最高にアホらしく笑えて スリル満点の夢にしよう
一瞬のまやかしだとしても 錯覚や幻想だとしても
信じていたいと思える何かを見つけたんです
この夏はきっと終わらないって なんとなくそう思った"
(「Summer Never Ends」)

 閉塞感に満ちていると言われる世の中にあって、何か面白いものを見付けようというメッセージ。その何かが、まさに『This Night Is Still Young』。それは都会の鉄の匂いをさえぎって香る。やはり清々しくて初々しくて、楽しい。

(田中喬史)

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sky_larkin.jpg 表立った大きなムーヴメントこそないものの、ロス・キャンペシーノス! やジョニー・フォリナーなど、イギリスのバンドでありながらペイヴメントの系譜を受け継ぐようないびつなUSインディ・マナーのスタイルを貫くバンドがいくつもいる。そして、特に上記2組に顕著なのだが、彼らは頻繁に楽曲を製作・リリースしていく傾向がある。

 このリーズの3人組、スカイ・ラーキンもその例に漏れていない。アイデアは沸いて出てくるのだろう、昨年デビュー・アルバム『The Golden Spike』を発表したばかりだというのに、早くもセカンド・アルバム『Kaleido』をリリースしてしまった。

 と、そのスピードだけを見ると驚いてしまうが、路線は全く変わっていない。紅一点のヴォーカル、ケイティ・ハーキンのさえずるような歌声と、ブロークン・ソーシャル・シーンを思わせるようなメロディの3分間ポップという性質まったくそのままだ。

 だが、このアルバムには「変化」はないが、「成長」がある。クリブスを始めとするアクトとのツアーで鍛えられたのだろう。以前には安定感がなく危なっかしかったサウンドが、今はがっしりとしたバンドアンサンブルにかわっている。「Still Windmills」や「Kaleido」でのタイトなプレイはもちろん、例えば、「Anjelica Huston」ではアーケイド・ファイアを髣髴させるようなスケールが垣間見られるし、キーボードを主体とした「Year Dot」でのファニーでラウドなコーラスはファイト・ライク・エイプスを思わせるよう。プレイヤビリティの向上がそのまま作品に反映され、クオリティの向上として現れている。

 ソングライティング能力は実はかなり高いし、今後に一層の期待を抱かせてくれる作品だ。このバンドをまだ聴いたことがない、という人であれば、僕は迷わずこちらのアルバムを薦めるな。

(角田仁志)

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we_are_scientists.jpg 今回EMIを離れ自主レーベルからのリリースとなった為話題性こそ少ないものの、これは今年の名盤の一つである。キースのギターはバラエティに富み、メロディー・ラインはファーストの頃に戻ったようにしっかりとしている。音楽的にもセカンドの80年代サウンドより純粋にギター・バンドとしてギターを奏でており、1曲1曲は短いが彼らの持ち味が濃縮されている。もちろん自慢のコーラス・ワークも健在。更に日本のファンのために日本のSNS、Mixiコミュニティにビデオ・メッセージを送るなど驚きのサービスが満載の彼ら。国内盤にはアコースティック・ヴァージョンも多数収録されている。

 完璧なロック・アルバムとなった今作サード・アルバムは、以前インタヴューで語ってくれたような"音の隙"をも作られている。それはつまりドラマーのマイケルが脱退してからも3ピース・スタイルを持続するにあたり音が弱くなっているわけではなく、むしろ4ピース・バンドと思える程の重圧感があり、しかしながらギターだけで埋まらないようベースやドラムが上手く入り込む場所を作っているということだ。よりパワー・アップしたWASをこれを期に是非騙されたと思って聴いてほしい。

(吉川裕里子)

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sebastianx.jpg まるで、太陽を飲み込んだような歌声だ。春夏秋冬、冬の寒さと春の暖かさを通りすぎて、真夏の太陽を待ち焦がれるような、とにかく、この歌声はサンサンと輝いている。そう、これは待ち焦がれた太陽だ。と、言いながら前作までこのバンドの音源を聴いても、僕にはまぶしすぎたようで、Sebastian Xだなんて、スパルタンXみたいだなと思ってたぐらいで、そのサンサンと輝く、ド級に力強い歌声に拒否反応を示していたのも事実。例えるなら、ジョジョの奇妙な冒険の第三部は「絵が気持ち悪くて...」と言って損をしていた読者みたいな話。わかりにくいかな。まあ、つまり、マイナス印象からの、にわかリスナーなんです。とは言ってもこのバンドの結成はおよそ2年、今作が2枚目のミニアルバムなわけで、そもそもが間もないわけだけど、いったいこれからどうなっちゃうのよ、というような期待の若手(新世代バンドと言うべきか)なのである。
 
 このバンドの成り立ちは2年前より少しさかのぼって、前身バンドでのハードコアな曲長からはじまったようで、なるほど、そう言われるとヴォーカルである、永原真夏の歌声はハードコアになじむ! 実になじむぞ! と、ついつい、わかる人にしかわからないジョジョネタを前段落にひっぱられ文章に織り交ぜてみたりしたが、伝わるかな?でも、しょうがないんです、このアルバムを聴いていると楽しくて仕方ないのだから。僕だって少しは遊びたくなるってもんだ。
  
 さて、そんな曲の大半は、楽器の弾けない永原真夏がアカペラ等を駆使して持ち込み、ドラム、ベース、キーボードのギターレスのメンバーで具現化されているらしく、時折、調子っぱずれに歌われる歌声も、実はそんな独特な工程からきているのかもしれない。それは一聴すると、歌声と楽器隊がまるでケンカしているようにも思える曲群なのだが、よくよく聴くと実は仲良くじゃれあっているだけで、今作のリード・トラック「世界の果てまで連れてって!」ではホーン隊までも加わり、よりいっそう楽しげである。実は、それが、稚拙な僕の耳に、このバンドの魅力を気づかせるきっかけになったわけで、その音数を増やす方向性とは個人的に大歓迎である。もっともっと、彼女の歌声を音の渦に投げ込んで、じゃれあって、楽しんでほしい。勝手な妄想ですが、上原ひろみのピアノとじゃれあったら最高だなと思ったりもする。

 今作に話を戻すと、ここではのっけから「フェスティバル」と歌い、前述したリード・トラック「世界の果てまで連れてって!」が続き、その後もアップテンポな曲が続くのだが、後半につれ歌声もグッと引き締まり、ハキハキと歌われる歌詞がストレートに響いてきて、あれれ、いつに間にかほろりときたりする。なんだか、楽しいと言ったり、ほろりときたり。兎にも角にも、この一枚を通して喜怒哀楽動かされまくりなのである。ただあっけらかんと太陽のように明るいだけではなく、心に強く響くアルバムなのである。仮に、僕のようにマイナスにふり幅を向けたリスナーがいたのならば、あらためて手にとって聴いてみてほしいし、前作からのファンの皆さんとは、僭越ながら手に手をとり高らかと笑いあいたい気分である。

(佐藤奨作)

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sakura.jpg 重苦しいのも当然、痛々しいのも必然。情念が籠った歌とサウンドなのだから。御歌とギターの升あけみ、御殴りドラムのロデムの前身バンドからの駆け落ち(♀×2)編成だが最近流行りのマス・ロッキンなタイプとは違って、如何わしさが薫る和風ガレージ色にクラっとしてしまうロック・デュオ。今年は話題の神聖かまってちゃんらと対バンしたり、そんな彼女たちが今迄にリリースした音源、通称『白盤』と『黒盤』に続いて今回の6曲入りのミニ・アルバムは画の通り『赤盤』を発表したのだが、これが初の全国発売と相成った。

 そのイメージ・カラーの如く今作品は"赤裸々"に剥き出しに、耳から心臓を突き刺す様に、聴く者が持ち合わせる感性の急所まで最短距離で音が飛び込んでくる...。然し、撲殺でもあり絞殺でもあり、毒殺でもあり刺殺でもあり! 何れにしても曲がスタートした刹那、瞬く間に空気を一変させるのだ。然しその何れもがその行為自体の快楽性などを唄ったものではなく、衝動に駆られた理由や背景を物語った上で全編に渡り二人称が登場した、パーソナルに響く世界。でもやっぱ魅力的な女の子って肉食だな~って思わせたり、端々に感じさせるのはエネルギーに満ちた若さと可愛さだったり。懐かしいたて笛の音色とエレピでほっこりさせるM-5の「目はうずまき特急列車」なんて、なんてキュートなんだ!とか。

 平たく言えばホワイト・ストライプスmeets初期の椎名林檎と言った様が想像し易いとは思う(ヴィジュアル的に)が、敢えてそう評する向きを不肖が嫌わないのは強ち間違いではないと思うし、この音楽をして"アングラ"なんてレッテルを貼るのは凄く勿体なく思うのだ。確かにアッパーではないにしても十分にポップだし。所々耳馴染みのあるフレーズが聴こえたりする部分にもニヤリとさせられる。特にM-3の「歩こう」はナックの「マイ・シャローナ」を彷彿とさせるリフに乗せて、メロディはストレンジに捻くれながらも、エッジは尖らせたままストレートにロック!言葉を届ける甲高いヴォーカルはノイジーなサウンドに映え、その通り名の通りに殴りつけるようなドラムは、一心不乱故に楽曲の持つシリアスな感情と共鳴しながらグルーヴを生み出して、、、って、この辺りは生(LIVE)を見てもらえれば一発で感じる事が出来るだろう。音源で感じ取れるドロドロ感が半端ないから。

 とにかくラストのトラック「サイレン」という爆音ハイライトで締め括る粋の良さを含めて、今後も注目したいロック・バンドである。

(田畑猛)

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empire_empire.jpeg ミシガンで結成された4人組ロックバンド、エンパイア!エンパイア!(アイ・ワズ・ア・ロンリー・エステイト)のファーストアルバム。
 
 一聴してわかるのが、90年代中期から後半にかけてサニー・デイ・リアル・エステイトやミネラル周辺のバンド達によって確立された当時の「エモ」と呼ばれた音楽的エッセンスが集約されていること。00年代にメインストリームで鳴らされていた代表的なエモ・スクリーモと呼ばれたバンドたちが感情を激しいシャウトなどで表現していたとするなら、それ以前のアンダーグラウンドで鳴らされていた音楽は、私的な例え方をさせてもらうなら「負け犬の遠吠え」である。屈折した者たちが鳴らす痛々しさ、切実さが全編にわたって伝わってくる。
 
 そんな空気が彼らのアルバムにも詰め込まれている。ギターのひたすら反復するアルペジオ、タメ気味なドラム、そしてボーカルの不安定さまでいわゆる90年代エモのマナーにのっとっている。これを「焼き直し」だと思われるかどうかは人それぞれだろうが、ゲット・アップ・キッズが新作を出したとはいえリヴァイヴァル・ブームのようなものが起こる気運など感じられないこの状況で、このような音楽が生まれることは興味深い。時代を遡り当時の音楽を語るうえでの、現代における「踏絵」(このシーンを語るならばまずこれを聴くのが早い、と言う意味での...)と位置づけてもいいと思う力作。

(藤田聡)

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sunahara.jpg 例えば、石野卓球がDJではドープなデトロイト・テクノでロング・プレイするときに、そこにはホアン・アトキンス、カール・クレイグ、デリック・メイからジェフ・ミルズへのリスペクトを孕んでいるのは勿論として、アンダーグラウンド・レジスタンスへの視座をより意識している時が必ずあって、「Hi-Tech Jazz」が挟まれた時のクラウドの熱量を捉えた時に浮かぶ「ダンス」はガブリエル・アンチオープの『ニグロ、ダンス、抵抗』におけるそれを彷彿とさせる。

 捕捉しておくに、この書物は奴隷制の変遷をたどった制度史ではなく、17~19世紀という近代国家の黎明期にあって、カリブ海地域を舞台に、いかに「ダンスという行為=文化表象」を通じて人種や民族、ジェンダーが配置され構成されてきたかを分析すること、そして更に、支配と従属のなかに生きてきた奴隷=ニグロにどのような「抵抗の道程」があったのかを明らかにするものであり、S・ホールのような、奴隷制プランテーションに対してそれを生産様式の関係性だけで捉えるのではなく、イデオロギーの次元の関わりをも重視している。ヨーロッパ中心主義的な史実の「書換え」をもダンスという文脈で行なう。奴隷にとっては、ダンスは単なる娯楽ではなく、それは、政治的な意味を持ち、抑圧からの逃亡を可能にするものであり、更にはニグロの定義を更改する。彼らは完全にはマスターに従属した存在ではなかった。

 彼は、電気グルーヴというペルソナではシビアに道化を演じながら、ソロ作品でハードなものからミニマルまで跨ぐ嗅覚にはいつも「現場」を可視化している優しいシビアさがある。それは、一晩で消費されてしまうアルコールの量や求愛の数、そして、鳴り止む音楽と、汗。フロアーが空けた後に戻るそれぞれの日常の辛苦を弁えているということでもある。だから、音楽は「永遠と一瞬を止揚する」なんて甘えた認識よりもその音楽が鳴っている瞬間が永遠であればいい、というスタンスを取っているように思える。そうでないと、あれだけのハード・スケジュールで日本以外の世界も含めて小さな箱もDJで回らないと思う。

 その彼が電気グルーヴ内でも一時期、全幅の信頼を置き、今でも時折繋がりを持ち、奇妙な事に捩れながらも、シリアスなスタンスが似てきているというのが、砂原良徳だった。無論、饒舌でスタイリッシュな石野氏と比して、彼はどちらかというと、テーマ設定の中で「音」を作る職人的なタイプだったので、ツアーやDJといったものより、リミックス作業やプロデューサー業に傾いでいたし、石野氏よりは寡黙に居場所を確認している所があった。その一理として、01年の『LOVEBEAT』が、隙間の沈黙さえも音にしてしまった部分があり、越えられない壁を自ら作ってしまったからとも言えるかもしれない。モンド・ラウンジ、クラフトワーク、飛行機といったテーマから逸れて「一」から構築した音の強度は容赦がないくらいに、クリアーでハイファイであり、また雑多な音を拒むストイシズムを帯びていた。踊るには少し緩やかなエレクトロニック・ファンク、リズムと最小限の音を纏った清冽な意志に貫かれた音の粒子。また、エイフェックス・ツイン、オウテカ、ボーズ・オブ・カナダなどのポスト・エレクトロニカ勢との完全なる共振が行なわれた実験室での未必の悪意は、「LOVE BEAT(ビートを愛する)」ではなく、「LOVEBEAT(愛のビート)」というイロニーを提示した。

 その後、ほんの僅かなリミックス・ワークを除き、以降、沈黙をする。沈黙の間、エレクトロ・クラッシュ、乙女系ハウス、ニューレイヴ、ドラムンベース、フレンチ・エレクトロなど幾つもの音が壁一枚隔てたクラブで分化され、鳴りながら、トライヴは決して噛み合うことなく、散逸され、その中、リバイバルでアシッド・ハウスからジャーマン・テクノ、勿論、デトロイト・テクノまでが巡り巡っていた。猥雑な喧騒を傍目にスタジオで彼は音を研ぐように、次の作品への模索を繰り返していた。

 09年にはサウンド・トラックとしてあくまで試作品的なモードを示してみせていたが、今年に入って彼の漸く「次の視点」が現れていると言えるEPがこの「Subliminal」になる。来るべきアルバムへのパイロットになるのか、彼の事だからまだ分からないが、十二分に密度が詰まった4曲が詰まっている。ここには明確な逃げ場がなく、かといって、誰もが参入できる入口もない。途中参加が赦されるような生ぬるい音像でもない。『LOVEBEAT』時より鋭角的に切り詰められながらも、ふくよかさも増した音は聴き手の安心や予定調和を拒む。ファンタジーというのはデ・ジャヴを何度もインストールし直すだけの非創造者側の怠慢だと定義付けるとしたならば、この作品のファンタジー性は、マッドなリアリズムを切り取り、曝す。YMOが野外で緩やかなパフォーマンスをする今、チルドレンの彼はまだ日和らない。「音の政治性」を認識したとても辛辣な作品だと思う。

 「Subliminal」は具体的に、ダンスを想起させる音像ではないかもしれないし、踊れる音楽ではないかもしれない。しかし、「ダンスが催される空間」の意味は再定義せしめる。その場では身分が可視化され、その差異を画定し続ける政治・社会的な戦略の場でもあり、一方、再創造として仮構された起源としてのダンス文化をヨーロッパにもアフリカにも回収できないようにせしめる。そして、「ダンス」が娯楽や祝祭に関わった振舞いであった以上に、政治的・社会的・文化的なマイノリティの主体化を賭した行為だということをリプレゼントする。

(松浦達)

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best_coast.jpg 『あなたに夢中』―これほど臆面もなくストレートなタイトルは久しぶりに見た気がする。数々のEPやシングルを発表し2009年より注目を集めてきたLAのベスト・コーストのデビュー・アルバムはそのタイトルに違わず、飾らない言葉とストレートで甘いメロディが詰まった作品だった。

 シンガー/ソングライターのベサニー・コセンティノとマルチ・インストゥルメンタリストのボブ・ブルーノによるデュオの特徴は、ジャングリーなギターとスウィートなメロディにある...なんていうと、ヴィヴィアン・ガールズやダム・ダム・ガールズといった最近のガールズ・バンドが頭に浮かぶかもしれない。だが、ベスト・コーストの魅力はシンプルさにある。

 まず、リリックは驚くほど単純明快。基本的には、「あなたと私がいて幸せ」、という笑ってしまうほどピュアなテーマを、中学生英語並みにシンプルな言葉で綴っている。だが、スペクター風のもやがかかったようなプロダクションと、ドゥー・ワップのポップなコーラス、そして初期パンクを思わせる直線的なメロディの組み合わせが簡素な愛の言葉にロマンを与えた。電話を待つ甘酸っぱく切ない気持ちを込めた「Boyfriend」や、ギター・ノイズとロールするドラムで胸の高鳴りを表現した「Crazy For You」にはきっと10代の青春を思い出すだろうし、一緒にいられる幸せを歌った「Happy」でのラモーンズ風の疾走では力強いビートが心臓の鼓動とリンクするようだ。「60年代のポップを多く聴いてきた」というベサニーのペンによる楽曲は多くの人に共感を呼び起こす。

 海や夏といったフレーズがキーワードとなり、リアル・エステイトにサーファー・ブラッドといったサーフ・ロックや、ウォッシュト・アウト、ワイルド・ナッシングといったチルウェイヴ系アーティストが活躍する現在のUS。このシーンにおいて、ザ・ドラムスと並んで大衆にアピールする存在といえる。今回もアンセム化必至のコンバースのキャンペーン・ソング「All Summer」でも、キッド・カディとヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムというユニークな2人に囲まれながらメインをとっているし、今年の夏女はベサニーで決まりだろう。

 それにしても、スウィートな楽曲とアルバム・タイトルは彼氏であるウェイヴスのネイサンに向けたものなのか、それとも溺愛する猫に向けたものなのか、そこが個人的には気になってしょうがない。

(角田仁志)

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chilly_gonzales.jpg これはかなり面白い。洒落ているが気取っていない。ダンサブルだが、ただのダンス・ミュージックというわけでもない。彼の作品を聴くのが初めてだった僕でも興味深く聴けたし、本作で初めて彼の作品を聴く方も十分楽しめると思う。ボーイズ・ノイズをプロデューサーに迎えた本作『Ivory Tower』、それは単にひとつのジャンルとして片づけることの出来ないサウンドだとアルバムを通して聴くと分かる。

 カナダ出身、フランスはパリを拠点に活動しているゴンザレス。ビョークやダフトパンクからも絶賛されている彼はピアニストでもありラッパーでもあり、プロデューサーでもありと、多くの顔を持つ。ジェーン・バーキンやファイストをプロデュースし、ジェイミー・リデルの新作にゲスト参加した彼の、良い意味でわずかにねばり気のあるピアノは同じフレーズを繰り返すことが多い。しかし、瞬間的にさらっとした音色やフレーズを奏で、ベースやコーラス、電子音が曲の中で動いていようと何だろうと、ピアノが常に中核にある。歌があればラップもあり、歪んだ電子音も強調されているが、やはりというべきか、ピアノの音色が移り変わるごとに楽曲の雰囲気は瞬時に変わり、その瞬間は心拍数が上がるスリルに似たものがあって面白い。とはいえ見惚れてしまうような美しい「Final Fantasy」という曲もあるから良い。

 以前(今もあるのかもしれないが)、渋谷にはパラパラという動作を共有することで連帯感を高めるダンス・ミュージックがあった。そして、それに対するカタチでムーディーな、大人が楽しめるようなハウスがDJカワサキを筆頭に登場した。しかし本作『Ivory Tower』は、踊るためだけのものや大人っぽさといった、何かに特化した、あるいは何か別の音楽へのカウンター的な作品ではないと感じる。

 もし本作をダンス・ミュージックと位置付けるならば、かつて一部(あくまでも一部だが)のレイヴ・カルチャーがただ騒げればいい、といったものとして働いていた、それに対してのアンチである鑑賞を目的としたIDM。それらを内包しつつも、より実験性を高めた実験音楽的な側面を持つ大衆音楽としてリスナーの耳を楽しませるものとして息をしている。このアルバムの楽曲をライヴで披露するときは音源以上にダンス・ビートを強調するのだろうけど(ちなみに、9月にはピアニストとしての来日公演が決定している)、作品においては滑らかで聴きやすく、かつ、耳をそばだてれば興味深いサウンドに満ちている。

 しかし過剰に快楽を与えないところが面白い。快楽によって踊り、または真摯に音楽を聴く行為はある種の救いとして働くが、本作を聴く限り、リスナーを救おうという意志があまり見られない。「ただ楽しめばいいじゃないか!」という声が音楽から聞こえてこないのである。もしかしたら、楽しむこととは、「楽しもう!」と、あらかじめ意気込むものではなく、聴いている最中に、そして結果として、楽しみの心地とは湧いてくるのだということをゴンザレスは知っているのかもしれない。また、彼がダンス・ミュージックを行事的なパーティーで披露する姿が目に浮かばなくもある。爆発的な快楽を与えず、いつ、どこで聴いても興味深く感じられる本作は、計算的化された、とでもいうべきか、パーティーの行事性へのアンチとなりうる音楽なのではないか。そうだとすれば、本作は音楽そのものが持つ、どのような場面でも耳を楽しませてくれるという現在の聴衆の聴取欲求を肯定する。そんな快作でありパーティー的快楽への焦点をずらした異色作でもあると思う。本作は感情の発露のみではなく、ポジティヴな感情の発生として働く。 

(田中喬史)

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i_am_kloot.jpg
 もう駄目だ。もう死にたい。というところが、ない。とどのつまり、ネガティヴな印象を打ち消してしまう音なのだ。歌の強さである。歌の存在感の広さである。決して過剰にポジティヴなわけではないが、歌声はトム・ウェイツやボブ・ディランなど大御所アーティストを彷彿させる。元リバティーンズのピート・ドハーティにも絶賛されているジョン・ブラムウェルの声が苦みを帯びて淡々とうたわれる。その様に悲しさがあり、暗さもあるのだが、歌はもちろんのこと、ギターもドラムも己の感情を抑制した音の全てが胸を静かに、しかし強く打つ。

 マンチェスター出身の3人組、アイ・アム・クルートが発表した5作目となる『Sky At Night』。プロデューサーにはUKで権威ある音楽賞「マーキュリー・プライズ」を受賞したエルボーのガイ・ガーヴェイ(彼はマッシヴ・アタックの新作にも参加)とクレイグ・ポッターを迎えた。メロディもまた素晴らしく、奥行きを十分作ったミックスも手伝い、神聖な森の中でどこからともなく聴こえてくるようで耳を傾けてしまうのだった。そして訪れる胸がすく気持ち。聖域を見付けてあぶり出してくれるようで何度も聴いてしまえる。ソロの、純粋なギター一本のみの弾き語りも聴いてみたくなった。声がアコースティックな感触にはまりにはまっている。

 演奏スタイルは弾き語りに近い。が、しかし、バンド・サウンドとして重心が座っている。幻想的でもドリーミーでもない。その目の前に立って音を奏でているような親密性がより自然に耳を音に傾けさせる。丁寧に選ばれたアコースティック・ギターの音色。残響音までしなやかに伸びていくストリングス。ドラムはあくまで丁寧だ。時にドラマチックに盛り上がる楽曲の構成が暗闇を思わせる音の空間にぽっと明かりをつける。ジャケットにあるような光が感じられ、ジョン・ブラムウェルもまたジャケットに映る木のように、か細くとも堂々と立っている姿が目に浮かぶ。

 木とは本来曲がりくねり、奇形であるが、アイ・アム・クルートは垂直な木なのである。それはひたすら天に向かっている垂直の木のように、偽りの弱さがないゆえ、とても強い。僕らは何気なく死にたいと、口にしてしまうことがあるが、その死にたいという言葉を太宰治と同じレベルで言える人間は少なく、ほんとうならば、弱さを口にできるのは、強く生きた者のみなのである。弱さを見せられる強さ、というものもあるが、アイ・アム・クルートは弱さを発露するのみではなく、弱さを抱えながらもジャケットに映る木のように強く立っている。彼らならビル・エヴァンスが鍵盤の上で亡くなったように、死の直前まで音を奏で続けるだろう。それは音楽が全てである音楽家としての強さなのだ。このバンドには、生きていること自体が強さを、または弱さを醸し出す姿勢がある。そんな本作に、妙に反省させられる。

(田中喬史)

*日本盤は9月8日リリース予定です。【編集部追記】

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sslyby.jpg 「ボリス・エリツィン(初代ロシア連邦大統領)、誰かがまだあなたを愛している」、USインディー・ロックの熱心なリスナーなら、この長くて変な名前をどこかで目にしたことがあるだろう。本作『レット・イット・スウェイ』は、彼らの三作目となるニュー・アルバムだ。 

 人気ドラマ『The O.C.』の劇中曲として使用され、ブレイクのきっかけとなった「Oregon Girl」をはじめ、キャッチーなメロディーとチープなサウンドでローファイ~インディー・ポップ好きのハートを鷲掴みにしてきた彼らだが、本作では一回り成長した、より完成度の高い楽曲を聴かせてくれている。それは、彼らのバンドとしての成長に加え、プロデュースを担当したデス・キャブ・フォー・キューティーのクリス・ウォラの功績によるところも大きいだろう。(良い意味での)青臭さや勢いを残したまま、よりクリアにメロディーの良さが伝わるサウンド・メイキング。同じくクリスが手がけたシアトルのバンド、テレキネシスの昨年のデビュー作にも通じるものを感じる。

 もちろん、一度聴いたら忘れられないグッド・メロディーは健在で、初期ウィーザーやティーンエイジ・ファンクラブ、ナダ・サーフなどを引き合いに出すまでもなく、ポップなロック・バンドが好きな人ならきっと一発で彼らのことを気に入るだろう。2010年、最新のギター・ポップ名盤がここに誕生した。

(山本徹)

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patrick_pulsinger.jpg パトリック・パルシンガーが新しいアルバムを出すと知って、前作『Easy To Assemble.Hard To Take Apart』のようなアルバムでなければ良いなあと思っていたのだが、それは杞憂に終わった。もちろん内容を悪いと思っているわけでは決してなく、傑作とさえ思っているのだが、彼のそれまでの輝かしいキャリアを振り返ると、やはり数々のシングルで見せたテクノ、アシッド・ハウスや、スラッツン・ストリングス&909(Sluts'n'Strings & 909)名義で出した名作『Carrera』の様なサウンドを個人的には望んでいたのだ。

 一聴してダンサブルでありつつも整理されてない感じがFour Tetの『There Is Love in You』に似てるようにも思えたが、Four Tetの音楽が雑踏のような温度があるのに対して、パルシンガーのそれは地下室のようなひんやりとした質感がある。アルバム中「A To Z」は歌メロがクラフトワークの「The Robots」を思わせるし、「ライズ・アンド・フォール」の2:16のディレイの使い方、「グレイ・ガーデンズ」の盛り上げ方など、古典的な手法が多いと思うのだが、この雑然としつつもひんやりとした質感こそが彼の個性だと思う。

 アルバム中、6組のアーティストがフィーチャーされているが、正直言ってフェネス以外はほとんど知らなかったので調べてみた。残念ながら音源を含んだ詳細がわからなかったアーティストもいるので一部になるが参考まで。

 「グレイ・ガーデンズ」でフィーチュアされている、フランツ・ホウツィンガー(Franz Hautzinger)はデレク・ベイリーや AMMの面々とも共演しているトランぺッター。音源をyoutubeで探してみたのだが、これを聴くとエレクトリック期のマイルス的。プロフィールを読んでもっとインプロしてるかなと思っていたのだけど。

 「ライズ・アンド・フォール」のジー・リッツォ(G Rizo)はエレクトロ系の女性ボーカリスト。本人のMySpaceにYouTubeのライヴ映像がリンクされている。かなりパワフル。

 エレクトロ・グッツィ(Elektro Guzzi)はオーストリアの3ピース・インスト・バンド。ステファン・ゴールドマンのMACROからアルバムが出ている。ギター、ドラム、ベース、という構成ながら、サウンドはテクノ。そのアルバムにもパルシンガーは関わっているようだ。これもmyspaceがある。

 このアルバムを入手してからもう何度も繰り返し聴いている。このクオリティのリスニングにも耐え得るダンス・ミュージックというのもありそうでなかなかないものだ。コンスタントな活動を期待したい。

(田中智紀)

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nsukugawa.jpg 増子真二(ボアダムス、DMBQ)をプロデューサーに迎え、やっとこさ完成したセカンド・アルバム。まずはN'夙川ボーイズの説明から始めよう。彼らはその名の通り、神戸の夙川を拠点に活動する3人組ロック・バンド。誰が何を弾くかは特に決まっていない。演奏は私がいままで観てきたバンドのなかで1番下手。そもそも私が彼らに注目したきっかけは「Candy people」という超がつくキラー・チューンを聴いたから。そう、彼らは誰でも一生懸命練習すれば身につく演奏力をかなぐり捨てた代わりに、誰もがうらやむ「ジザメリがJ-Popを演奏しているような」刹那的に美しいバンド・サウンドを手にしていたのだ。ほとんどの日本のバンドが特筆すべき個性を必死になって探し回っているのに、彼らにはそれがとっくに備わっていた。今作からは「アダムとイヴがそっと」が新たな「Candy people」になるだろう。

 かつて私はペイヴメントのファーストを聴いたときにまったく意味が分からなかった。「金もないのにこんなもん買っちまった」とまで思った。しかし、当時の若者がリアルタイムで彼らの登場を目の当たりにした衝撃とは、まさに私がいまN'夙川BOYsを聴いて感じたものと同じだったのだと思う。それと最後に「MA.DA.KA.NA」、名曲!

(長畑宏明)

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d_rradio.jpg 収録時間40分弱に対し19曲という短編集のようなD_rradioの4thアルバムがディストラクションよりリリース。 

 清澄なドローン・サウンドが波のように起伏を繰り返し、遠くではシンセによるストリングスのオーケストラが鳴り響く。短い映画音楽が穏やかに流れるサウンド・トラックのようだ。雲の上を歩くような夢見心地の陶酔感に溺れられる。本盤は、サウンド・スケープは水で滲んだように不鮮明だが、ジャケットまでも含めて、古色蒼然とした映画の連なりを彷彿させる世界観で統一されている。 

 全て集約させることで壮大な物語が初めて浮かび上がってくるように、一つの枠内に収まっている。枠内に収まるというのは、似た曲ばかりで凡庸という意味ではない。かといって似た曲を寄せ集めてアルバムを作っても棚差しされないし、抑制された音楽にはならない。一つの物語をあらゆる側面から眺めた結果として、初めて統一された音楽性、世界観が産声を上げる。 

 蛇足だが、彼らのMySpaceの音楽ジャンル欄は、3つともpopで統一されている。「それは彼らがポップな音楽をやっているのではなく、ポップでファンタジックな映画世界を対象としているだけに過ぎない!」と強引に理由付けることもできるが、単純に彼らがストイックになりすぎず、脱力しながら創作に取り組めている良い兆候だと解釈した方が良いだろう。

(楓屋)

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0.8.jpg 誤解を恐れずに言えば、このバンドの個性は今度の新作(今回はEP)で確固たるものになるだろう。ファーストの時点での彼らのサウンドはメインストリームとハード・コア、あるいは洋楽とJ-POPの間にあるフェンスの上で何とかバランスを保っている、というものだった。既存の枠に収まらないだけに、曲は大衆ポップス以上にメロディアスでそこらへんのアヴァンギャルド・バンドよりエキサイティングだったのだが、どんな言葉を尽くしても説明できるものではなかった。だから私もファーストの時点では、とりあえず「バラッドが素晴らしい」とか、そういうことしか書いていなかった。そして待望のEPがリリースされた。今回は確信を持ってこう言える。塔山忠臣とJMの2人のボーカルが、何よりも素晴らしい。芯の通った塔山忠臣のロッキン・ヴォイスにJMの透き通ったファルセットが乗っかるとき、私は抗えない。「めちゃくちゃ良い曲だ!」と叫びたくなる。つまりこれは今回のEPに収録されている「Fork Guerrilla」のことなんだけど。またバラッドが気に入ってしまった。もちろん、アークティック・モンキーズを早回しにしたような「ビートニク・キラーズ」だって、ちょっと怖くて切なくて最高。うん、切なくて怖い、というのは0.8秒と衝撃のサウンドを30パーセントくらい説明できているかもしれないな。

 このバンドのルーツは掘れば掘る程どんどん「本当の音楽好きが狂気乱舞しそうな」ものが出てきそうだが、私はアーケイド・ファイアのあとに「ビートニク・キラーズ」を聴いたり、あるいはM.I.A.のあとに「21世紀の自殺者」を聴いたりする。つまり私にとって彼らは脈絡が無いから「超魅力的なバンド」なのだ。頑張って聴く必要はない。あなたは必ずこのバンドが好きになる。アークティック・モンキーズ...もっとぴったりの引用があれば良いんだけど。

(長畑宏明)

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sanah_brasko.jpg とても、とてもいいルックス...。美しいジャケットに心底惚れ惚れする。憂鬱げに視線を逸らしながらも、バックに陣取るキラキラした色合いをした幾何学模様のおかげでポジティブな気分も演出した、秀逸なバランスを保ったデザインだろう。

 簡単にスノッブと一蹴しづらくさせる想像力をかきたてるのは、この「夢見る女の子」ポーズを支える手の配置だろうか。たとえば同じポーズをとっているカメラ・オブスキュラ『Let's Get Out of This Country』と比較すると一目瞭然だが、人間の関節の構造からすると腕の角度がややおかしい。肩の描写を意図的に省くことでこのジャケットのファンタジーは成立しており...可憐さをアピールしておきながらも、いざ腕をほどくと(カルトな人気を今でも誇る、カナダ出身ながらヨーロッパに思い焦がれた退廃的耽美派SSW)ルイス・フューレイの『Sky Is Falling』みたいなろくろ首が間違えて出てきそうで、このアルバムが一筋縄でいかないのであろうことを予感させているようだ。

 本作はシドニー出身のサラ・ブラスコ(Sarah Brasko)の自身三枚目となるアルバムである。本国オーストラリアでは既に昨年の時点で発表されて爆発的な人気を誇っていたそうで、それもあってようやく今年8月にヨーロッパやアメリカでリリースされ、日本でも入手しやすくなった。

 音のほうもジャケットやそういった評判を裏切らない、折り紙つきの素晴らしい内容になっている。陰りをもったオーガニックなオーケストラ・サウンドとピアノの旋律に、ロリータ・ビョークとでも呼ぶべき彼女の歌声に耳を傾けていると、アルバムのタイトルどおりに夜を想起させられる。眠れない夜の夢見がちな妄想を形にしたような。プロデュースを手掛けたのは"口笛ソング"で日本でもお馴染みピーター・ビヨーン&ジョンのビヨーン・イットリング(Bjorn Yttling)で、録音はストックホルムで短期間のあいだに行われたようだ。ビヨーンのプロデュース・ワークといえば本作とも少し似た音楽性のリッケ・リー(Lykke Li)もそうだし、これまたカメラ・オブスキュラの近年の傑作『My Maudlin Career』での印象的なストリングス・アレンジも彼の仕事。本作でも多少メロドラマ的ですらある大胆なアレンジ・ワークを見せつつ、暗さ一辺倒には陥らない舵の取りぐあい、洗練のされ方はスウェディッシュ・ポップに通じるものもあるし、サラもきっと抱いているであろうヨーロッパ的な世界観への憧憬もうまく表現している。この音が大ヒットするというのは羨ましい話ですね、オーストラリア。

 いい意味で浮世離れした、ある種のアンニュイさとピュアネスはエル・ペロ・デル・マー(El Perro Del Mar)に通じるものがあるなぁ...と思ったら既に彼女とツアーを一緒に周っていたり、「Over & Over」という曲でアウトロの節回しにトーキング・ヘッズの「Road To Nowhere」のそれをさりげなく引用したり(跳ねる曲調にも少し通じるものが)、既に発表されていた本作のデラックス・エディションではボーナス・ディスクとしてアニー・ホールやサウンド・オブ・ミュージックの楽曲に、ザナドゥのカヴァーが収録されていたりと、ポップスとその歴史に対して敬意や愛情を思わせるトピックに事欠かないのも好印象。一級品のメロディが書けるのも頷ける。最近はホリー・スロスビー(Holly Throsby)やサリー・セルトマン(Sally Seltmann、元ニュー・バッファローにしてファイストの大名曲「1234」の作曲者。こちらも今年リリースされた『Heart That's Pounding』もソングライティングが冴えまくった傑作!)といった同郷の優れた女性SSWたちとレコーディングに取り掛かっているそうだ。リヴィング・シスターズもそうだが、こういう仲良しっぷりは大歓迎。今後の活動にも期待がもてる。

(小熊俊哉)

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kirino.jpg 男性が上位であり女性が従属物であること(家父長制)の否定から始まったフェミニズムが「フェミニズム」という政治的力を持つ大きな団体として社会進出をするとき、そこから漏れ出るものが出てしまうのは『統一』に拘る限りは必然となる。だが、マイノリティである女性を救い上げることを目的として集まった女たちであったはずなのに、フェミニズムを組織化したい多数派が押し出す『統一』というスローガンの下に零れ落ちてしまうフェミニストが出てしまうというイロニーについてジュディス・バトラーは触れている。

 そんな「統一」を拡散させるように、桐野夏生は「個」の内部に降りてゆく。彼女はサスペンス作家の括りになる場合もあるし、最近では、実際の事件をモティーフにした『残虐記』や今夏映画化される『東京島』という社会性を帯びた作品も増えてきた。ただ、僕自身としては彼女の決定打は泉鏡花文学賞を取った『グロテスク』だと思う。文庫本の解説で、文芸評論家の斎藤美奈子が書かれている悲惨で、絶望的で、陰惨な出来事の連続なのに、「読後感は妙に爽やか」だと言う言葉も首肯するところがある。高村薫が現代のドストエフスキーと称されているが、文体は抜きに心理描写の執拗さでは、彼女の方が近い気がする。そして、「ナラティヴ」がまだ持ち得る対・現実への可能性の「何か」を見せてくれる意味での飛距離が長い。
 
 例えば、個人的にこの作品の読後感は、ドストエフスキー『白痴』や大江健三郎『われらの時代』を一気に読みきった時の感覚やスミスのアルバムを聴き通した眩暈のような感覚、ランズマンの『ショアー』を観た感覚に近いと言えるだろうか、兎に角、人間の「深いところ」まで降りていって(井戸掘り)、逆説的にカタルシスと爽快感があるところが「絶望を見つめ尽くした故の希望」なんて態の良いレヴェルではなく、胸に響く。

 主軸となる人物は四人。外国人を父に、日本人を母に持つハーフである「わたし」。その妹であり、誰もが憧れと羨望のまなざしを向けるほど美しいユリコ。懸命な努力の上で、学力で他者より高みに立とうと必死で藻掻く和恵。優秀な成績をとって周囲に一目置かれる存在のミツル。その四人が、エスカレーター形式で歪な差別構造のある中高大一貫私立学校での出来事を軸に、それぞれの人生が展開していく。この作品の一つの主題である「女性社会のヒエラルキー構造」というのは兎角、ややこしいのはよく知っている。ましてや、美/醜、異性、地位を巡っての駆け引きの陰湿さと周到さは自分達男性の矮狭な想像力や感応力では追いつかない「生物として本能的なもの」だとも思う。
 
 美しくて、若くて、家柄が良くて、お金があって...という女性の持つ刹那さと引換えの富裕や「なにもない」が故に、懸命にサヴァイヴする女性の果敢なく根源的な美麗さ。こういったファクトを受容すると、男性は、仕事とか地位とかで様様な生理的なコンプレックスや先天的な何かを置換出来る生き物だという「社会的事実」に時々救われる気分になるがでも、その分、男性性の持つ触れれば壊れるような脆弱さと頑迷さもよく分かるのだが。男性の苦悩は、「抽象性」に抜け、女性のそれは「具体性」に抜ける、なんて凡庸な物言いをしていた人が居るが、それは「一部層」に限ったことであり、男性のエンヴィーや悪意の根深さは存外、タナトスが巻き付いている。

 上記の、ニンフォマニアでセックスを通じて、男を介しながらも快楽と頽廃の一線上を持ち前の美貌で渡り歩きながらカタストロフィーへと傾いでいくユリコ、東電OL事件のモティーフとして昼は一流企業に勤め、夜は街娼をする和恵、悪意と理論武装で俯瞰的に現実を捉えながら、ユリコの影を常に意識して生きてきた姉(自分)、東大医学部へ行き、常に上昇運動を続けようとしたあまり世間的な価値からドロップしてしまい、横軸としての承認獲得の為、宗教に走って大きな事件を起こすミツル、はたまた中国の内陸地から密入国してきたチャン、それぞれ「真っ当」でなく、(そもそも「真っ当」とは何か僕はよく判らないが)、どれにもアイデンティファイ出来ないどころか、都度これでもかとばかりにどす黒い憎悪や悪意やシニシズムや絆の縺れが重層性を持ちながら、絡まり、点と点が線を結ぶように、しかし、その線が図形を浮かび上がらせないレベルの曖昧な模様でドライヴしていきながら、壊れてゆく。

 アイデンティティの確立を巡る、数多の刻苦と駆け引き、ストラグルは悲愴ですらあるが、人間の本質はこんなものじゃないか、と思わせる本能的な滾りに充ち満ちてもいる。

 基本構成は、姉(自分)の手記がメインだが、ユリコ、和恵、ユリコと和恵を殺したとされるチャンの上申書などが絡まっていき、それこそ、各自が各自なりの感情の文脈沿いに言葉と主観性を持って、露悪的な自己顕示欲、他者への冷徹にして歪んだ視線を向け続け、そして結果的に、どれが真実で、どれが間違っていて、なんて事自体を「問う」行為性そのものがナンセンスで無的なものだと(読み手側は)思い知らされるような着地へと向かう中、「藪の中」にある人間(的生物)の持つエグみと果敢なさと、醜いまでの美しさが滲み出てくる最終的な消失点において、視界が「変わる」ように薄いヴェールに包まれた幾つものブルーの残影が具視化されるとき、妙なカタルシスがあり、「こんな世界」に生きている事を恥じるでも、避けるでもなく、当たり前のものとして受け止められる様な気分になることが出来る。

 強いて言う事では無く、イジメとか差別とか権謀術数とか性差とか弱肉強食とか駆引きとか妬みとか悪意とかもうそんなのは生きていくにあたって「前提」でしかなく、それら数多の負性を掻い潜って生きなければならない様態こそが「人生」であって、だから明朗で底の浅い希望的観測なんて深遠な絶望しか惹起しない。ちなみに、別に自分がそうとかではなく、エリートとかインテリとか高学歴社会の方がその実、凄まじい差別や醜い確執抗争があるのを実際よく知っているし、実際、知り合いに聞いた某・私立一貫校でのヒエラルキーの敷かれ方はこの小説よりもっと生々しかった。

 この小説を読んで、新しい視界は開けないだろうし、相変わらず世界は何処までも憂鬱で、時折とても美しく「視える」ときもあるだけのものだろう。但し、表面的にブラッシュアップされた事象や小綺麗にコーディネイトされた(ような)人間の生きる背景には色々な渦巻くものがあるんだよ、という事を教えてくれる重石のような作品として今でも有効な暗みを孕んだナラティヴを描いていると思う。

 人間は安心するために群れるのではなく、より孤独になるために集まるのかもしれない。

(松浦達)

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menstruation_machine.jpg <生理マシーン>とは、女性特有の肉体現象である生理を再現するマシーン。装着すると腹部に微弱な電流が走り、タンクからは模擬の血液が流れる。
 
 女の子になりたい、女の子の気持ちを本当に分かりたいという欲求を持つ男の子タカシ。そのため、女装するだけではなく、<生理マシーン>を作成する。本作は、彼を主人公とした楽曲とミュージックビデオ。ビデオではスプツニ子本人がタカシに扮する。その上で女装してマシーンを装着し、女友達と街に出て遊ぶ模様が描かれている。 
 
 この作品の大きな特徴は、<生理マシーン>がスプツニ子によって作成された実在するマシーンで、そのプロモーション作品でもあるということ。楽曲の制作もビデオの監督もスプツニ子本人により手掛けられている。全てを観ないと評価しにくい一面はあるが、背景を知らなくてもそれぞれを楽しめるようになっている。私には、楽曲でのヴォーカルのキャラクターごとの使い分けと、映像で吉祥寺をブレードランナー的に描いている点が面白かった。とはいえ、後者については<生理マシーン>の存在自体が私の見方を変えてしまっているのかも知れない。
 
 ジェンダーを鋭く衝いている作品なだけに、センセーショナルなものとして捉えられる事は避けられない(実際に発表後には英語圏で毀誉褒貶が激しかった模様)が、これは彼女の抱いているテーマであり、自覚しているからこそ持ち得る軽やかさが良いと思う。

 スプツニ子(愛称・スプ子)はロンドン在住の芸術家。英国の大学で数学を専攻し、フリープログラマーを経、大学院でDesgin Interactions(コンセプチュアルなデザイン論)を修める。本作はその卒業展示で発表された作品で、発表後に英語圏で話題となった。その際、彼女が男性だと誤解されたという逸話がある。

 また、本作はダウンロードの形で販売されているのだが、利益を全額次作に投入している点も興味深い。ブログ等で表明されているアーティストの利益についての考えも地に足が付いているものだ。余談になるが、やはり自らのポリシーの元、独自に活動しているまつきあゆむと旧知の仲というのも面白い巡り合わせだと思う。

 

(*参考リンク)

http://www.sputniko.com/

http://www.sputniko.com/works/sputniko/menstruation-machine

http://n-a-u.jp/video/nau00027-sputniko.html

(サイノマコト)

 

*販売方式についての記述を一部修正しました【9月7日(火)追記】

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caetano_veloso.jpg「僕の音楽は音楽が嫌いなジョアンという詩人の詩の音楽から来ている」(ポートレイト)

 アメリカ大陸の中で、ブラジルだけが何故、「8年も」遅れて発見されたのか、考える事がある。コロンブスでもカブラルの所作でもなく、偶さかポルトガルの漂着船に発見され、しかも当初はインドと間違われた、という歴史の認識はブラジル人のみならず、その音楽にも影響を与えてきたのはカエターノ・ヴェローゾの最初のソロ・アルバム『Alegria,Alegria』を聴けば明瞭に分かる。カブラルの船よりポルトガルの王様へ宛てた手紙のパロディー、シニシズムから、幾つもの暗喩的な暴力性と幾つものカット・アップ。

 今更、トロピカリズモというムーヴメントの説明は不要かもしれないが、60年代が終わろうとする頃、既に彼はジルベルト・ジルやガル・コスタなどと「ロック」はアメリカの帝国主義が不可避的に生み出した反体制的なムーヴメントという「ベタ」に認知していた。だからこそ、レフトフィールド≒ロックという狭い檻を破る為に、68年に彼は第三回国際歌謡フェスティバルで「E Proibido Proibir」を敢えて歌う。「禁じることを、禁じる」という歌。勿論、この歌は拒絶されることになるが、それは「禁じることに禁じられていた」些か無邪気な人たちには違和として響かなかった証左であり、それはグラムシ的に言う「有機的な知識人」が言葉を発した時に起こる影響の震度を明確にしていた。

 僕はいつも思うのだが、60年代のヌーヴェルヴァーグ、ファクトリー、などのマス・カルチャーとアンダーグラウンドな藝術と臨界点を解析して、ヴェルヴェッツやゴダールの「クールネス」を再評価していく波はいまだ尽きないのだが、本来、語り得るべきものはトロピカリズモだったのかもしれない、ということだ。カエターノは、公のバラエティ番組で"「バナナ」(ステレオタイプ的な熱帯)を持っていること"を歌うというオーバープロテストな行為を行なうが、これはオズワルド・ジ・アンドラージの捉えたブラジルを対象化する意味を含意した。"悲しき熱帯"で生まれ、ロックというモダンネスに魅かれたカエターノは案の定、非・モダンネスの反駁を受け、ロンドンへ亡命を余儀なくされる。

 71年の作品では、ポルトガル語を封じて、英語で内省的で悲哀に満ちた世界観をフォーキーなサウンドで提示する。ほぼ同時期のニック・ドレイクの『Bryter Later』との「共振」が今聴くと、感じられるのが興味深い。

 帰国してからの作品群の中で、やはり白眉なのは75年の『Joia』になるだろう。ビートルズの「Help」の弾き語りカバーを含めながら、混迷の時期を抜け、当時の妻であるデデーと息子のモレーノと映ったジャケット画も象徴するように、この時のカエターノはトロピカリズモで必然的に受けたスケアリーも過剰なまでの知的オブセッションも無くなっており、全体的に透き通った美しさが通底している。しかし、作品として評価していくならば、70年代~80年代の概ねの作品は実験精神が先立つというよりは彼の「日記」的な側面と不安定な音楽的な試みが同居した作品群が多いのは否めない。1985年の彼がNYでライヴを行なった際に知り合ったアート・リンゼイでの化学反応がとても良いものをもたらした。

 アート・リンゼイとは少し説明すると、1970年もほぼ終わるころ、ニューヨークのアート・シーンの中でハードコアバンドのDNAを請け負いつつ、ラウンジ・リザーズでのギタリストも受け持っていた「前衛の前衛」たるアーティストで、今でも坂本龍一との交流やソロ作品で見せる多角的な側面をして、マルチな才人だが、彼とカエターノが組んだ1989年の『Estrangeiro』は兎に角、素晴らしく、90年代以降のカエターノの躍進を「確約」させるに余りある内容だった。リズム・パターンの多様さ、「ネオ・トロピカリズモ」を表象した曲などこの先進性はベックなど90年代のオルタナティヴ・ミュージックの潮流を青田刈りしていたとも言え、更には指針にはなっていた。並列上に様々な音楽要素を並べ、位相を少しずつズラす「センス」の音楽。

 80年代以降のブラジル音楽の新進勢がもはやUSよりニューウェーヴ勢のキュアー、U2、ザ・スミスなどUKの音楽の影響を受けてきたものが多い中でのカウンターへのカウンター。そういう意味で言えば、カエターノという人は常に「カウンターへのカウンター」を意識している。ニルヴァーナ的なグランジへの解釈を00年代に確認してみたり、近年のライヴでは良い意味で「非・構成」的なものになっていたり、「出来あがったもの」には「出来あがってきてないもの」を、「出来あがってきていないもの」には「出来あがったもの」を配置する。オルタナティヴという音楽が『Odelay』によって、沸点を迎え、97年にレディオヘッドの『Ok Computer』で墓標を建てられようとした同時期の『Livro』という作品は、オルタナティヴの先を行くマルチ・カルチャリスティックでエクレクティックな内容であり、それは必然的に「代案は本案に回収される」というイロニーを脱構築する早さがありながらも、決してポストモダン的な小文字の音楽ではなかった。

 「退屈することにも退屈している」僕のような人間には、カエターノ・ヴェローゾという人の倦んだインテリジェンスはとても魅力的であり、今でも刺激的だ。05年の来日公演で観た彼はアンドロジナス的な風情を保ちながら、紡がれる音楽はとても蠱惑的で身震いするようなセクシーさがあった。それ以来、来日公演は残念ながらまだ叶っておらず、また、モレーノたちと組みだして、ラフなロックをやりだしてからの動きは僕は正直、乗り切れないところがあるのだが、今年、ボブ・ディランのライヴを観た時に、彼が今プリミティヴなロックへ戻った理由が分かった気もした。つまり、今彼はグローバリゼーション、帝国の時代において、総てが一瞬で皆と「共有」されてしまう磁場へ対抗する為、ライヴでこそ映える「一回性」のダイナミクスに賭けているのではないか、ということだ。事実、カエターノの最近のライヴ映像を画面越しに観ても、伝わるものは少なく、「現場」に居合わせることで漸く感じるパトスがあると思う。配信でイメージが大きくなっていくアーティストが多い中で、反・イメージの肉体性で挑む彼はまたしても、「カウンターのカウンター」に依拠する。自意識で凝り固まった音楽的なコロニアルを「内部」から拡張してくれるという意味で、ライヴという場の美しさを弁えているのは世界で今、有数のアーティストなのかもしれない。

 発見が「8年」遅れたからこそ、彼はその「8年」先を行く。この10年代に愈よ70歳を越えるにあたり、どのような在り方を示すのか、僕は常に追いかけていきたい。

(松浦達)

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versus.jpg 一昨年の奇跡の再結成・来日に感涙した方も多いであろう、ヴァーサスの実に約10年振りとなるニュー・アルバムがここに届けられた。 

 最初に、ヴァーサスについて簡単に説明しておこう。ヴァーサスはリチャード・バルユットを中心に1990年に結成されたバンドで、ティーンビート、キャロライン、マージといったレーベルから5枚のアルバムと多くのシングルをリリースし、90年代のUSインディー・ファンの間で高い人気を博した。2000年に大傑作『Hurrah』をリリースした後にバンドは解散。メンバーはそれぞれ個々の活動を始める。ちなみにヴァーサスに在籍していたリチャードの弟のジェイムス・バルユットは自身のユニット、プラス/マイナスで精力的に活動、00年代を代表するUSインディー・バンドの一つとして高い評価を得ることになる。 

 10年振りとなる本作『オン・ザ・ワンズ・アンド・スリーズ』でも、ヴァーサス・サウンドの根幹となる部分はほぼ変わっていない。絶妙な男女ヴォーカルの絡みに、どこか不穏な雰囲気を醸すコード進行、そして無二のグッド・メロディーの連続。静かに始まり徐々に盛り上がり豪快にバーストする「Invincible Hero」で幕を開け、「Afterglow」EP辺りに近い、暖かい雰囲気を持つ「Gone To Earth」など、ヴァーサスにしか書けない楽曲が並んでいる。往年のファンには懐かしく、若いファンには新鮮に響く、そんな作品になっているのではないだろうか。 

 2000年代に入って10年。多くのバンドが現れ、ジャンルは細分化され、いくつかのムーヴメントが沸き起こっては淘汰されていった。シーンは大きく様変わりしたように見えて、そんなに変わっていないようにも思える。良いものはずっと変わらずに、私たちの耳と心を捉えて離さないだろう。

(山本徹)

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 本作は8トラックのホーム・レコーディング狂であり、宅録ロック界の才人/怪人としてかねてから一部で知られていた(アニマル・コレクティヴに才能を見出され、彼らが主宰するPaw Tracksからも過去作はリリースされていた)アリエル・ピンクが、暗黒耽美レーベルからストレンジでハイグレードなロック/ポップスの梁山泊へとレーベルの性質を変えつつある4ADに移籍し、自身初のスタジオ録音されたフルアルバムである。70年代のAORや80年代のエレポップの影響を感じさせる洗練されたコード・プログレッションと、スタジオ録音とは一聴信じがたいくぐもった酷い録音が特徴で、依怙地なまでにドラムの録音レベルは低い。ダサい青春映画のフレーバーもあるし、サイケもソウルもパンクもロカビリーも、イーグルスもカート・ベッチャーもここにはある。彼は(彼と同じように、山のように夢の島のように宅録音源をこさえまくった)R・スティーヴ・ムーアの熱烈な信望者であったが、単純なフォロワーとしての従来の彼の立ち位置から本作は完全に脱却させ、多くのリスナーにとっての購入指針となっているピッチフォークで9.0の高得点を叩き出し、アルバムリリースから日も経って既に日本でもその存在は周知となりつつある。ちなみに、ジャケットは少しダムドの『Machine Gun Etiquette』に似ている...のかな。

 それにしてもインターネットとは便利なもので、今回のアリエル・ピンクみたいに(若干のハイプも込みで)祭り上げられたアーティストのデータや感想なら特に山ほど転がっており、適当に検索をかけてうまいこと繋ぎ合わせれば上記のような情報をさも自分が初めて発見したように書くことができるし、感想だって後出しジャンケンでよければ目配せの利いためざとい内容をサラっと書くことができる。アーティスト/バンド(名)についての多少の知識と常識的な言語能力、ヒマを持て余すほどの時間、あとは辞書をひけばなんとなく理解できるていどの英語力とお人よしな性格があれば、今は誰でも音楽ライターになれるのかもしれない。

 実際、00年代に登場したビッグネームのなかには上記のような作業を音楽制作にそのまま転化させた"優等生"はたくさんいた。もっと規模の小さい動きでなら山ほどあった。無難なセンスで音楽を作り上げ、無難な誉め方をされ、良心の名のもとに作り手と聴き手の共謀関係が働き、共有言語を用いて生温かいコミュニケーションを楽しみ、内輪で視野の狭い審美眼を競いあうのが今も昔もインディーの世界の暗部であり、そのぬるま湯に心地よく浸ったことも、辟易させられ自己嫌悪に陥ったことも何度だってある。そして、このように告発することすら既に何万回何億回と繰り返されたことであり、≪視野の狭い審美眼を競いあう≫ことの対象となり...うーん、ややこしい。

 ムダに毒づいてしまったが、しかし、アリエル・ピンクの音楽は不思議とそういったものとは一線を画しているように僕には聴こえる。単に思い入れの違いでしょと言われればそれまでだが、この人も先述のような雑食性と膨大な音楽知識の再構築の仕方が器用といえば器用ではあるけども、その裏には小奇麗に飾ることとは真逆の執念めいたものが見え隠れする。あるていど音の整頓が施された本作においても、フリーク・アウトしまくった過去の宅録音源においても、理解しづらいとっつきづらさが聴きこむことで不思議と心地よい人懐っこさへと変わっていく。ファッションとして音楽を楽しむというか、流行の先端を追ったりニッチなCDをひっそり聴いたりしてニヤニヤ悦に浸ることよりは、もう少し有意義でふくよかで人間味のある快楽をもたらしてくれる。この人懐っこさはなんだろう。フライパンで焦がしたネズミの匂いと、冷蔵庫の隅に放置された腐ったバナナの甘みみたいなものが共存する彼の音楽のどこから人懐っこさが?

 彼が宅録人である前に一流のナード・ロッカーであるのは、趣味の悪い学園映画のワンシーンを切り取ったようなPVもある意味で鮮烈だった本作二曲目の「Bright Lit Blue Skies」からも伺うことができる。これはロッキン・ラムロッズ(Rockin' Ramrods)というボストンのガレージパンク・バンドの66年に発表された曲のカヴァー(ちなみに、ダムドも覆面バンド-ナード・ロッカーとしての所作であるところの-"Naz Nomad and the Nightmares"名義でこのバンドの「She Lied」という曲をカヴァーしている)。FACTマガジンで発表されている彼選曲によるMIXもそう。たとえば、一曲目のНИИ Косметики というバンドの「unknown」という曲。曲名どおりでバンド名も知らないし、そもそも読めない。以降に並ぶ名前もふつうのリスナーには聞き馴染みのないであろう名前がずらっと並んでいる。僕だってほとんどわからない(そして、このMIXは最低なことにほとんど終始グダグダで俯いたままてらいもなくキラキラしていて、今みたいな真夏に冷房のない部屋で聴いていたらそのまま溶けてしまいそうだ)。

 興味深いのはそんなリストにプリンスの名前が並んでいることだ。何年か前にアリエル・ピンクの過去のアルバムである『Scared Famous』をCD屋で視聴して陽気に狂ったイントロの10秒で購入を決め、ついでに冒頭曲の「Hardcore Pops Are Fun」というタイトルがカッコいいというだけの理由で『House Arrest』もいっしょに購入し、一週間か二週間、二枚のアルバムをひたすら交互に聴き返していたが、そのとき連想した名前がやはりプリンスだった。アルバムでいえば『Parade』や『Sign O the Times』。ミュージシャンシップや作曲の手腕は比べるまでもなくプリンスのほうが上だが、宅録でしかなしえないファンキーなドライブ感覚や、ときおり瞬間最高風速的に魅せる陽性なメロディの豊かさ、そしてドメスティックな閉塞感とそれに相反する風通しのよさには似通ったものをおぼえた。

 この時期のプリンスといえば、渋谷陽一氏の言説を僕は条件反射的に思い出してしまう。『Sign O the Times』が23年前にリリースされたときに封入された渋谷氏による解説にこんな記述がある(関係ないけど、この解説の冒頭で渋谷氏が「音楽評論家なんて職業は尊敬されることも少ないし、収入も少なく、どう考えても割のいいものではない」といったことを述べているのが、23年後の今となっては実に味わい深い)。

「プリンスを支えるラジカリズムは単純な前衛主義ではない。人より先に変わったことを演りたい、時代をリードしたいというエリート主義ではない。彼をラジカルな音に向かわせるのは彼のシンプルでストレートな、しかし限りなく激しいコミュニケーションの意志以外の何ものでもない」

 後追いの身としては、プリンスと彼のコミュニケーション渇望についての一連の議論はあわよくばギャグとも受け取ってしまいかねないくらいに青臭くベタな内容だとも思ったりした。十分売れてるしチヤホヤされてるじゃん、みたいな。しかし、この文章の主語をアリエル・ピンクに置き換えてみたら...。ピンとこないでもない。なるほど、彼がプリンスに憧れないはずがない気もしてくる。

 そして極めつけはアリエル・ピンクのこのインタヴューだ。

Q.Are you still aware of what people think of you? Do you still care?
A.I think I've got a very good read on my fanbase. I think I do enough research that I'm the expert on who listens to me.

 困った。彼みたいな音楽をやっている人間でも、別に仙人のような浮世離れした思考に陥るわけでもなく、それどころか、フツーの人と同様にウケを狙っているのだ。普通にモテたいだけなら、ルックス自体は整っているのだから、ヘンな音楽を作っているヒマがあればそのだらしなく伸びきった前髪を今すぐ切って、布袋寅泰といっしょにスーツを買いに行ったほうが間違いなく早い。05年の初来日時には便所に籠ってひたすら体に消臭スプレーをかけまくり、自分のバンドのメンバーに手洗いをきちんとしたほうがいいと陰口を叩かれる男が、まともなコミュニケーションに飢えているという事実。そして彼は、ステージではいっぱしのロックスターのように客席に我が身を投じるわけだ。なんだろう。涙が出そうになってくる。

 そんな不器用の結晶である彼のせめてもの成長の証となるのが本作である。既に誰かが何度も論じているように、宅録時代の音源と比較して恐ろしく聴きやすくなりながら、最低の腐臭と人見知りしまくってそうな(あるいは人を小馬鹿にしていそうな)ハニカミ笑いは健在のまま。以前より楽曲にあるていどの尺をもたせたことでキャッチーさと物語性も有することになるが、どの物語も下劣なホラー趣味や常人には理解しがたい愛情表現について歌っているものばかりで、プレス・リリースに書かれた"最高級のイタリア産大理石に吐き散らされたゲロ"という表現がまったくもってお似合いだ。

 特に3曲目以降は彼の独壇場で、不穏でけばけばしく猛烈なテンションによる演奏(曲終盤の展開の目まぐるしさがすばらしい)とともに、御屋敷のマダムや彼女に仕えるメイドへのよくわからない愛情を歌った(素っ頓狂に裏返る声や、"チアーアップ! ポン!" の口角泡が最高に人をくった)「L'estat」や、キーボードの旋律/浮遊感は極上なのに歌詞のほうは"僕は黒魔術師 みんなの血も吸っちゃうよー"で、だからなんだよと首を絞めたくなる「Fright Night」、はみ出し者のホームレスやゴシップへの賛歌や恨み節ともいえる「Beverly Kills」(この曲なんてうねまくるベースも最高だし、まともな人間が演奏したらスティーリー・ダンみたいになりそうなのに、残念ながら恐ろしくグチャグチャだ...)、70年代の黒魔術系ハード・ロックへのリスペクトを思わせる、5分間に渡る激しいリフの反復とうめき声のようなサビのフレーズがインパクト大な「Little Wig」、先行リリースされた際には「お前がまともな曲を作るんか!?」と多くのファンの度肝をぬいたソウルフルな「Can't Hear My Eyes」...と続き、最後は"革命なんて嘘さ"と嘯く、B級ガレージ・サイケ調の「Revolution's A Lie」で緩めのジャム演奏が気だるく続いてアルバムは終わる。

 珠玉は先にシングルカットもされた5曲目の「Round and Round」で、曲名どおりにあらゆる≪既に何万回何億回と繰り返された≫思考や妄想の袋小路に陥ることへの諦念が滲み出ている。呻いている様、救済を求める様、自らを責める様...。イントロのコーラスからブツブツつぶやく惨めさを挟んでサビの神々しさに至るまでの何もかもが美しい。世界の暗部をニヒルに曝け出すことで、膝小僧をかかえたくなる孤独にそっと肩をたたくようなやさしさを、AORとソフトロックのいびつすぎる奇形児といえるこの楽曲はもっている。

 さまざまな音楽的要素を消化吸収し、演奏の達者なバンドを従えながら、どれもこれも一番イヤな方向に機能するよう仕向けられ...。そんな作品がなぜか求心力を生み、結果として彼は彼の望んだとおりにヒップ・スターとなった。僕にとって本作は先述のダムドの覆面バンドや後期ユートピア、ラトルズ、XTCのデュークス・オブ・ストラトスフィアから80年代~現代までのカレッジ・ロック、近年のマックス・ツンドラ...挙げればキリがないが、そういったナード・ロックの系譜に記すべきひとつの到達点である。そのボンクラでナーディな資質と音の鳴りをもって新進の若い世代が彼を「Father Of Chillwave」と評価するのも必然で、その音楽の汚らしさも愛らしさも不器用さも何もかも突き抜けすぎていて共感せざるをえなくて、だからもう...。最後は検索するまでもなく使い古された言葉で締めるしかなく、恥ずかしくて仕方がないのだが、この音楽を愛しているとしか...。そうとしか言えない。

(小熊俊哉)

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local_natives.jpg 格好付けていないのに格好良いというのは実にカッコいいことなのだなと思う。サウス・バイ・サウスウエストで話題となり、海外メディアから注目を集めているUSの5人組インディー・ロック・バンド、ローカル・ネイティヴスの海外デビュー作『Gorilla Manor』。ロサンゼルスはシルヴァー・レークを拠点に活動する彼らのサウンドは過剰にならず、抑制された熱が生み出す音の数々が渋い。が、しかし、ユーモアたっぷりに弾ける曲あり、ドラマチックに盛り上げる曲ありと目まぐるしく移り変わる。
 
 それは楽曲単体にも言えて、ほんのりとエコーを効かせ、音の輪郭をぼやけさせることがあれば、民族音楽的なパーカッションが躍動の色を濃くし、鋭くギターが切り込むなど、多種多様。まるで聴いていると密林の中に迷い込んだかのようだ。しかしそれでも、あくまでもポップでステップを踏みたくなる衝動に駆られる。そして、綺麗なのだ。
 
 ローカル・ネイティヴスの狙うところは具体的に分からないが、とても遊び心のある音楽を作ろうとしたのではないかと感じる。もちろん真摯に音と向き合っているとも感じるが、聴いていて純粋に楽しいのである。ハーモニーに対する解釈が抜群に深い。コーラスはばっちりきまっているし、エレクトリック・ギターのアルペジオや、かけ声に似たコーラスもまた、きまっている。ややノイジーなサウンドすら和音として奏でてしまうところには正直おどろいた。
 
 音量レベルの駆使、ダウン・テンポからアップ・テンポへ、その移行も絶妙で、トリップを誘う数々の音も手伝って魅了された。8曲目のトーキング・ヘッズのカヴァーも良い。本作が絶賛されているのも頷ける。それにしてもこの完成度の高さは素晴らしい。かなり垢抜けている。まだ早いが、この先、どこへ進むのか気になってしようがない。彼らならどのような方向へも進めるだろう。個人的には本作の音楽性をより深く追求してほしい。きっととんでもない作品になるはずだ。それにしてもジャケットもカッコいいな。

(田中喬史)

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mowmowlulugyaban.jpg まず、確認してみよう。セクシュアリティとは、次のように定義されている。「性にかかわる欲望と観念の集合で、自然と本能ではなく、文化と歴史に帰属する」(女性学事典,岩波書店,2002) 。加え、アメリカ心理学会の見解では、「セクシュアリティの構成要素」を4つに纏めている。

 まず、性的指向のある特定の性(gender)を持つ人に対する持続的な魅力(例えば、情緒的魅力、恋愛対象としての魅力、性的魅力を注ぐ対象としての魅力)ゲイ、ヘテロ、バイセクシュアル、これらに加え、異性と同性の双方に魅力など感じない「Aセクシャル」というものもある。第二に、 生物学的性としての、性器における男女差。セクシュアリティを構成するものとして、生物的な性も含むが、これらも男女の二分法だけで考えていけないのは周知だろう。第三に、性自認(gender identity)。これは、自分が男性である、あるいは女性であるという自己意識のこと。戸籍上の性、養育上の性、身体の性、社会的性役割が一致していると認識されている状態に比して、性別違和感を持つ人もいる訳で、この違和を一つの疾患単位としたのが、「性同一性障害」という概念。性同一性障害とは、「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性別に属しているかをはっきり認識していながら、その反面で、人格的には自分は別の性に属していると確信している状態」を指す。つまりは、身体の「性別」と心の「性別」が引き裂かれている状況内でも、身体性と精神性の溝に対して強い不一致を感じている人も多い。第四に、社会的性役割(gender role)。社会的に規定された性役割や身体理解などの文化によって後次につくられた「性差」。

 「君は大嫌い でも君のパンティーは好き」と歌う「パンティー泥棒の歌」での「君」はセクシュアリティを帯びていないのは上記の見解の枠内に落とし込めば、容易に解析出来るだろう。だからこそ、下着という「記号」にロジカルなパッションをリプレゼントする訳であり、例えば、くるりが昔に「男の子と女の子」で「いつも女の子のことを考えている」というメタ・ベタな「無」を弁えて、別に、男の子は「いつも」女の子のことを考えていないとすると、女性の下着に拘り、クールにジャム・セッションする後ろにはNO NYの影だって不思議に視えてしまうのは当然で、モーモールルギャバンは昨今の「セカイ系」バンドではなく、引き目のメタ俯瞰で「世界」を観ている。その世界の中に在る自己も冷静に責めているナイーヴなバンドだ。

 「裸族になれば優しくなれるのかもね」(「裸族」)

 第一次世界大戦での経験もあり、1920年にフロイトは『快楽原則の彼岸』(Jenseits des Lustprinzips)において、それまでの「性の本能」、「自己保存本能」の二元論からエロスとタナトスの二元論へと転回した。前者は生の衝動、後者は死の衝動と言えるだろうか、つまり、人間を含めた「生物」といったものは、「生の本能」によって物事を作り出し、建設して行くかにみえるが、その深層内で、それをぶち壊して、「無」に再帰していこうとする死の本能に裏打ちされている訳であり、人間という種においてそこから派生して、一般的欲動には性欲動(リビドー)と攻撃性(アグレッション)という欲動に分類される。

 そうすると、「対象関係論」においての攻撃性、つまり「死の欲動」がモーモールルギャバンの佇まいには在ると言えないだろうか。

 彼等の音はどちらかというと、ジャンクな音ではなく、整合的な破綻を示すスウィング感のあるドラムに合わせてのディスコ的なベースのうねるグルーヴをトーンとしながら、ノン・ギターなものの、ピクシーズ、ナンバーガールといったバンドが見せていた鋭角的な疾走感も強く、また、鍵盤の効果が大きく、独特のローファイさと隙間に溢れたサウンド・プロダクションであり、新進系のバンドの中では演奏技巧力やスムースな演奏スタイルは抜きん出ていると思う。但し、パフォーマンスとその歌詞に過剰なアテンションが集まっているのも周知だろう。ドラムでボーカルのゲイリー・ビッチェの上半身裸で汗だくになってハイテンションに「パンティー」コールを皆に煽る様、そのゲイリーに影響を与えたのが銀杏BOYZだから、そういった青春パンク的なものに回収されてしまう、衝動的なバンドなのか、と言えば、僕は精緻には違うと思っている。

 ドラムを叩きながら、セクシュアルなこと、下世話でどうしようもないことを乱射砲のように叫ぶゲイリー、紅一点のユコ・カティーのシビアな目線、低音のグルーヴを受け持つベースのT-マルゲリータのトライアングルが浮かび上がらせる熱量はとても低温火傷しそうな知的な佇まいさえあるからだ。これはただ「無邪気」だけでは出ないアウラがある。

 『野口、久津川で死す』から、メジャーデビュー・ミニアルバム『クロなら結構です』までの速度と存在の大きくなり方は性急過ぎる気もしたが、自らJ-POPを名乗り、その文脈で、過激にJ-POPを嘲笑うかのように、駆け抜ける中、ふと今回、「悲しみは地下鉄で」という曲でタナトスに張り詰められたディプレッシヴなバラードが入っていて、「僕は死ねばいい」とダウナーに真面目に歌う。

 色モノとして彼等を捉えるには、その色がmono(chrome)であるという視座で捉えると、カラフルなステージと比して、まだスタジオワークは単一色なのがよく分かってくる。このグラデーションが噛み合ってきたとき、「下着」や「テンション」に頼らなくても、正統なポジションと評価を得ると思う。

(松浦達)

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wolf_parade.jpg この音の堂々ぶりたるや頼もしい。それにも増してふてぶてしい。とはいえ、彼らの持ち味のひとつである力の抜けたところもあり、メロディのセンスも良く傑作だ。
 
 アーケイド・ファイアやモデスト・マウスから絶賛されているカナダはモントリオールのウルフ・パレード。彼らの2年振り、3作目となる『Expo 86』。それはかなりの力強さを持ったサウンドがまさに堂々と溢れてくる。前作では様々な音楽要素を駆使し、起用に扱っていたところがややあったが、本作ではどんな音楽要素も飲み込み、はちきれんばかりの迫力がある。まるで音でぱんぱんに詰まった箱から様々な音が堪え切れないとばかりに飛び出てくる。それは時にアクセントになり、時にアクロバティックに宙を舞う。へヴィなギター・サウンドもカッコよく、煌めく電子音も楽曲の表情を豊かにしている。変拍子も良い。怒りのパワーをポップに昇華しているところも巧いのだ。そこにひねくれた歌声が乗っているから楽しい。
 
 特に「Pobody's Nerfect」での切り込んでくるギターと良い意味でぬけた歌声のアンバランスな感覚がユーモアたっぷりでいて痛快。そして豪快。ギター・ソロも決してナルシスト気味になっていないから気持ちがいい。コーラス(かけ声?)もまた痛快なのだ。そしてアルバム冒頭曲からして、今、バンドが良い状態であることが分かる。「行くぞ!」という声が聞こえてきそうなほど突っ走る。全曲通してひたすらに走り続けている本作は、バンドのエネルギーをそのまま何かに変換せずに押しだしている。だからいいのだ。聴くと昂ぶるのだ。一皮むけたという感じなのである。
 
 いわば素をそのまま出している。熱く、濃く、しかしユーモアを忘れずに。出す音の一切に迷いがない。全ての音が一体となったときのカタルシスは凄まじいものがあり、素を出すことに躊躇がなくなったことはアーティストとしての、表現者としての成長だと僕は思う。本作はウルフ・パレードにとってひとつの転機になるのではないだろうか。全てを出しつくした上で、この先どう出るのか。いや、先を考えるのは野暮かもしれない。彼らは今に全力を注いでいる。その姿は美しさすら感じさせる。

(田中喬史)

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books.jpg コンスタントに無難な良作を作っていくアーティスト。それに対し、駄作も発表するけれど、とんでもない傑作も生み出してしまうアーティスト。どちらが魅力的かと言われたら僕は迷うことなく後者と答える。が、しかし、00年にニューヨークで結成し、プレフューズ73とも関わりがあり、9月にはオール・トゥモローズ・パーティーズへの出演を控える2人組、ザ・ブックス。彼らは僕にとって前者であった。箱庭的なフォークトロニカを実に上品に作り、これからも無難に良作を発表していくのだろうなと思っていた。そこにきてこれだ。『The Way Out』。約5年振り、4作目となる本作に、無難なところはなく、大暴投覚悟の勢いがある。
 
 まるでiPodをシャッフルで聴いているようなヴァリエーション豊かな楽曲の数々。初期のフォー・テット的なサウンドが現れたかと思えばポエトリー・リーディングもある。ダンス・ビートを強調し、やりたい放題やらせてくれとばかりにサンプリングしまくった曲もある。その予兆は前作からも窺えたが、まさかここまで出してくるとは思ってもいなかった。DJシャドウ的かと言えば違う。プログレ的かとも一瞬思ったがそれも違う。アクフェンの『My Way』を彷彿させるところもあるが別物だ。などと思っていると綺麗な歌ものも混じっているから捉えどころがないのだが、逆にその捉えどころの無さが興奮を沸き起こす。アコースティックなサウンドにファンクやロックの要素をぶち込んでいるところなど、アコースティックにこだわってきた彼らにとって新境地と言えるだろう。
 
 例えば「I Didn't Know」や「A Cold Freezin' Night」はまさになんでもあり。ずたずたにカットアップされた女性や子供の声がファンキーなベースとヴィブラフォン、エレクトリック・ギター、チェロと絡み合い、やがて音は膨れ上がり、意識がひゅんと飛んでしまうトリップ感がある。「I Am Who I Am」の、ノイ! のビートとドリルンベースが混じったような低音は体にずっしりくるし、吹き飛ばれそうな勢いだ。
 
 この変化は、フォークトロニカと呼ばれる前作(ブライアン・イーノにも絶賛された)が、彼らにとってひとつの極点であり、彼ら自身が満足しきった作品だと感じたからではないだろうか。そうして満足感に浸らず、新たな音楽性を提示する姿勢は音楽家としての高い志しがあってこそ。ただ、どんなに破天荒な楽曲であろうと、彼らの核にあるアコースティック・サウンドが持つ温もりへの愛情が窺えるから、暴力的なところがないゆえ構えず聴ける。アルバム冒頭で語られる「新しい始まりへようこそ」という言葉どおり、ザ・ブックスが表現する新しいサウンドに飛び込んでほしい。


(田中喬史)

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kenseth_thibideau.jpg 彼のバンド参加遍歴(ツアー含む)を羅列していくと、ハワード・ハロー、プリンツ、ルマ・サキット、スリーピング・ピープル、タレンテル等のテンポラリー・レジデンス周辺や、ピンバック、スリー・マイル・パイロットと、実に多彩だ。そんなテンポラリー・レジデンスにとって不可欠な存在であるケンセス・シビデューの初ソロ名義のアルバムがリリースされた。


 レーベルもそうだが、彼の残した軌跡から、本盤もポスト・ロック、マス・ロックの系譜に属するものだろうと勝手に頭から決めてかかっていたのだが、以外にもローファイで抑揚の抑えられたインディーロックだった。フラットながらもグルーヴを感じさせるドラムの上で、ディレイで彩られたギター、サイケデリックでスペイシーなシンセ、囁き声が漂う。どことなくテンポラリー・レジデンスの音楽性を咀嚼した跡もあるが、ここにあるのは純粋培養された彼の本質だけである。


 反復というアルバム名を象徴するように、本盤は平面的な美的感覚を備えており、贅肉がなく、淡々としている。けれども決して歩みを止めないような頼もしさもある。バンドの脱退と加入とを繰り返した彼だからこそ辿り着けた境地のようにも受け取れた。

(楓屋)

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haruka_nakamura.jpg 静かな風に揺られ、小雨の冷たさを感じながら微妙に景色が移り変わる。聴いた途端、そんな心地になる奏でに心を奪われた。坂本龍一や高木正勝などに絶賛されている東京在住の日本人アーティスト、ハルカ・ナカムラ(haruka nakamura)。良質なアンビエント・サウンド、エレクトロニカをリリースしてきたレーベル、Kitchen.から約2年振りに発表したセカンド・アルバム『Twilight』、それは室内音楽的でいて、なおかつ手作り感覚の味がある。「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」と本人が言うように、ピアノを中心とした演奏が眠りに落ちるほど自然に、聴き手の気持ちを夕日が沈む儚い瞬間の中に導いていくアンビエント・サウンドだ。


 鍵盤に水滴を丁寧に落としているようなピアノの奏で。残響音にも気持ちが込められたサックス。やさしいドラムの音色がリズムとしてではなく、ぽっかり空いた心の隙間を肯定するように鳴っている。瞬間的に演奏の表情が変わることはなく、季節が移り変わるほど、気付くか気付かない程度に表情が変わっていくから聴き手も微妙な感情の揺れを体感できるから面白い。ジャジーでありながらもクラシック的な香りがする演奏からエコーがかけられた女性ヴォーカルの、妖しく魅惑的な歌声は可愛らしくもエロティック。過度な主張や激動はないが、ピアノ、サックス、ドラム、ギター、そして歌声が穏やかに絡み合い、夕方から夜までの物語を紡ぎ出す。そのストーリーを貫いているがゆえ、演奏にぶれがなく、音の世界観に包まれてしまう。だがその世界観は哀しみの色を帯びているのだ。


 人は出会い、わずかに理解し合い、多く誤解し合い、無数に邪推しあう。無垢な美しさの中にも日常における違和感が存在し、「The Light」での歌声は清涼感に満ちているのに孤独も同時に紡ぎ出す。日常の喜びと同時に哀しさも含んでいるのだ。この音楽を聴くことは現実逃避には成りえない。本作はフィクションではないのだ。ありのままの生活を切り取った本作は胸に刺さるところもある。音楽に吸い寄せられ、音の中に身を置き、清々しさを感じ、また、涙しそうになりもした。
 前作は本作より装飾されていたが、装飾を脱いだ本作は、前作以上に親密で、裸の姿を押し出したと言っていい。それはとても孤独な音、そして姿だ。しかし音楽を聴くこととは孤独を慰めるためだけにあるのではない。時と場合によっては孤独だからほっとすることもある。音楽はもともと人々が団結するために生まれたが、その本来の意味から離れ、儚さと孤独を提示する本作を聴くと、孤独というひとりの時間が、とても尊く、必要なものだと感じられる。


 「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」という、音による風景描写が心理描写に繋がった本作。それは感性豊かな者ではないと決してできない。嘘のない感受性を聴いてほしい。

(田中喬史)


*最初にアップされた原稿では、ハルカ・ナカムラを女性と誤解した部分がございましたので、訂正した原稿をあらためてアップさせていただきました。大変申し訳ありませんでした。【8月12日追記】

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move_on_ten.jpg やはりオウテカはリスナーを愛している。だが同時にあまのじゃくだ。彼らの音楽を語る際、その複雑性ゆえに難しく捉えられること多々。僕もまた難しく捉えるひとりではあるけれど、今年発表された『Oversteps』同様、本作「Move Of Ten」EPも、リスナーを戸惑わせることなく00年代の作品より親しみやすい。つまり、よりポップなのだ。ミニマル・テクノもマントロニクスのようなリズムもカジュアルに着こなしているところがクール。迫ってくるのではなく音の全てが個別に耳に入ってくるシンプル性があり、それが一つひとつの音が持つ表情の豊かさを聴き手がはっきり感じ取れるものとして働いている。
 
 『Oversteps』に比べ、本作はビートが効いた楽曲が並ぶが、ダンス・ミュージックを意識しているオウテカなりの、人を踊らせるリズム、サウンドがある。徐々にビートの弾力を変化させるところや音の質感を変え、ファズを効かせたように歪ませるのも、聴き手を飽きさせたくない、驚きを常に与えたいというリスナーへの愛情として僕は受け取った。特にストリングスで不穏な空気を醸し出したかと思うと、次の瞬間、ぐっと絞られた電子音にスカッとし、協和音も不協和音も躍り出てくる。その瞬間的に移り変わる音色が聴き手の感情を揺さぶり、時に乱れさせ、清々しい音と危険性を感じる音を交互に、または同時に鳴らしてしまうのは彼らのひとつの特徴だ。本作でそれを押し出し、乱れ、踊ることの快楽を与えられることに興奮する。
 
 それはディファ有明で行われたライヴでも窺えた。スリリングでいて馴染みやすく、踊れる。彼らの核にあるものはダンス・ミュージックであると、ライヴを体験し、本作を聴くとより強く感じる。本作「Move Of Ten」EPは、『Oversteps』ほど音そのものの情報量が豊富だとは感じなかったが、ライヴ盤感覚で聴ける作品でもあると思う。
 
 それにしてもメロディを重視した『Oversteps』を発表した後でリズムを強調した本作を短いスパンで発表するところに「僕らはメロディ志向になったわけじゃないんだよ」というメッセージが透けて見える。メロディ、あるいはリズムといった側面だけではなく、あくまでも多面性のある音楽をやりたいしやっているんだ、というオウテカの意志があるのではないか。オウテカは『Oversteps』と「Move Of Ten」EPで、彼らが持つ多面性の中で、メロディとリズムという2面性を分かりやすく提示した。それはオウテカにとって音楽性を整理するという意味もあったのかもしれない。そうだとすれば「人間の脳を刺激したい」と言うオウテカだ。このまま終わるはずがない。むしろ創作意欲は脂ぎっている。まだまだ早いが彼らが次にどうでるのか楽しみだ。それまでの間、『Oversteps』とともに本作「Move Of Ten」EPを楽しもうじゃないか。無論、この作品そのものも格好良い。

(田中喬史)

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hanson.jpg 1曲目の「Waiting For This」から最高にご機嫌でスウィンギンなポップ・ナンバー。まさに私たちも「これを待ち望んでいた」。サウンドはモータウンを基軸としているものの(フランク・ブラザーズのベーシストが半分の曲で参加)、かつてアメリカを嬌声の渦に巻き込んだデビューの頃の溌剌とした印象はぜんぜん失われていない。渋みを増すことはせず、ひたすら音楽的な技術と、自らのバンドが持つ天性のメロディ・センスに究極まで磨きをかけた結果、誰もがハンソンのことをテイラーも参加したティンテッド・ウィンドウズ以上に優れたポップ・バンドだと認めざるを得なくなった。大人になったのではない。彼らは本質的には何も変わっていない。そもそも彼らのサウンドは「若さ」と「アイドル性」を抜きにしてもきちんと語られるべきものだったのだ。すでに日本盤も発売されているし、彼らのサウンドの素晴らしさを再確認するにはうってつけのアルバム。最初ははまるかもしれないけれど、何度も聴いたら飽きるんじゃない、って? 彼らが歩んできたキャリアはそんなに薄っぺらいもんじゃないぜ。たしかにミッキーがドラムを叩いていたって不思議はない音だろう。だが、ハンソンはそんなに簡単に醒めてしまう夢ではない。

(長畑宏明)

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liveing_sisters.jpg 好きとか、思い入れとか、それ以上の好意を示す言葉あるとすれば、それは愛という漠然とした言葉になるのかもしれないなと思う。ザ・リヴィング・シスターズのファースト・アルバムは、古きアメリカン・ミュージックへの愛情に満ちている。まったくこの柔らかさといったらなんであろうか。綿毛に包まれているような心地の良さ。フォーク、カントリー、ジャズを愛しているといわんばかりの音楽性は懐古的と言えばそうなのだけど、ふわふわしたサウンドにすっとオルタナティヴな響きが入ってきて品の良いスパイスみたいに香る。

 ザ・バード&ザ・ビーのイナラ・ジョージ、ラヴェンダー・ダイアモンドのベッキー・スターク、そしてシンガー・ソングライターのエレニ・マンデルの女性3人によるグループ。彼女たちの『Love To Live』、それはシェルダン・ゴムバーグとの共同プロデュース。再生した途端、体に暖かい明かりを灯してくれるウィスパー・ヴォイスやコーラスには甘い解放感があり、サックスもギターもさりげなく朗らかで眠りの昏睡に似た感覚がある。ベッシー・スミスとナンシー・ウィルソンのカヴァー2曲を含む全10曲。気付けばディスクが回るのをやめている。

 彼女たちにはこの作品を作らなければならない理由があったと思える。アメリカン・ミュージックをルーツとする3人それぞれのリヴィング・シスターズ以外での音楽活動を、自分で肯定できることを目指し、つまりは過去を肯定できなければ現在を肯定することはできないわけで、どの楽曲も肯定という名の愛情に満ち溢れているものだから、ああ、ほんとうに、彼女たちはアメリカン・ミュージックをリスペクトしているのだなという気持ちが音を通して伝わってくる。それが心地いいのだ。

 セクシャル・ハラスメントのつもりはないけれど、歌声にどこか処女性を感じさせるところがあり、清楚というかイノセントな響きが感じられる。なおかつロマンティックで瑞々しい美しさに意識が埃を払うくらい簡単にさらわれてしまうよ。それは甘美なトリップ感。歌声だけでも素晴らしいのである。伴奏も素晴らしく、職人的な巧さがある。遠近感を意識したミックスや間の取り方も絶妙だ。いわば自らのルーツ・ミュージックへのオマージュ的作品として位置づけできるのだけど、茶目っ気あふれるサウンド・エフェクト。重なっていく音の層。凝ったアレンジ。そのどれもが新鮮性に満ちている。より高みへ登ろうとする意識があって現在の音楽シーンから外れてはいるものの、それがなによ、という気質も窺えて聴いていて嬉しくなる。ぜひこのメンツでセカンド・アルバムも発表してほしい。やっぱり音楽に愛って大切なんだなあ...。

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gutevolk.jpg 押しても引いてもびくともしない。小鳥である。光である。無垢である。あくまで西山豊乃なのであって、彼女のソロ・ユニット、グーテフォルク(Gutevolk)は、約3年振り、レーベル移籍第一弾の3作目となる『太陽のシャンデリア』においても小鳥のようであり、光のようであり、押そうが引こうがびくともしない個性が確立されていることを示す。やはり無垢なのだった。
 
 ウィスパー・ヴォイスとともに強すぎず弱すぎずの電子音が静かに跳ねて、ストリングスが気持ち良さそうに伸びていく。そこに鐘の音色やヴォイス・パフォーマンス、水の中で弾ける泡の音色をサンプリングし、刺のないメロディとともにゆったりと流れていく。もしクリスティンがいた頃のムームが2010年に作品を発表していたら、本作のような音楽になるのではと一瞬思った。
 
 細野晴臣や高木正勝、矢野顕子などから絶賛されている彼女の音楽はいわゆるフォークトロニカと言えるが、室内音楽的なファースト・アルバム、大胆なまでに電子音を強調したセカンド・アルバムに続き、『太陽のシャンデリア』では過去2作の良い部分を取り出し、余計な音を削ぎ落とし、必要な音だけ鳴らしているから耳にひっかかるものがない。次から次へと顔を出してくる音が西山豊乃の歌声に寄り添い無個性だった景色にひとつの集約点が生まれていくようだ。美しい記憶の断片を拾い集め、音にし、それは谷川俊太郎の詩のように美しい。さながらジャケットに描かれている木に小鳥が集まって音を奏でているみたいでもある。
 
 そんな音に包まれれば邪気なんてものは消えてしまうし、特に彼女のロリータ・ヴォイスと言っても差し支えのない歌声を聴いていると、その歌声の破綻の無さも手伝って、ゆっくりと風船がしぼんでいくように体の力が抜けていく。まるで全てを肯定されているような心地。それこそが彼女の真骨頂ではあるけれど、イージー・リスニング的にだけ聴けるものではなく、ほら、踊りましょうよ、という具合にややダンサブルなビートを交えている曲や、ビートをずらしているところ、ひねたアコースティック・ギターの音色すらあり、ちょっとした刺激を与えてくれる。それが面白くて楽しくて興味深くて耳をそばだててしまう。お釣りで一万円札が返ってきたときのような驚きを忍ばせているから何度も聴ける強度を持っている。
 
 そこにグーテフォルクの成長が窺えるから嬉しい。音楽に遊びを入れられる余裕が今の彼女にはあるのだ。チルアウト的な音楽だと捉えられそうだけど、そう捉えるリスナーに、ふふふとちいさく笑う彼女が音の奥にいるのが見えてきそう。「実はね」と。「実はけっこう複雑なことしてるのよ」と。そんな余裕もまた無垢だ。西山豊乃自身が「現時点の最高傑作」と呼ぶ本作。これはチルアウト的ミュージックの極点、あるいはカウンターになりうるかもしれない。この作品を聴いて受け身で癒されるだけじゃ何も起きないなと思いもした。面白いことやらなきゃ何かが起こる以前に何も響かないのだと。


(田中喬史)

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no_one_knows_about_persian_cats.jpg ポップミュージックの規制厳しいイラン。首都テヘランを舞台に若者たちの音楽への情熱と自由への希求を描く。実在の事件、場所、人物に基づいて、名作『亀も空を飛ぶ』のバフマン・ゴバディ監督が当局に無許可でゲリラ撮影を敢行した作品。

 ストーリー・ネガルと、そのボーイフレンドのアシュカンはともにミュージシャン。インディ・ロックを愛する彼らは、自由な音楽活動ができないテヘランを離れてロンドンで公演することを夢見る。そのために2人は危険をかえりみず、偽造パスポートを取得しようとする。2人は音楽のためなら何でもござれの便利屋ナデルを頼るのだが...。

 出演者のほとんどは実在のミュージシャンたち。主役の2人は、撮影が終了したわずか4時間後にイランを離れた。この物語は彼らの実際の経験に基づいている。コンサートもCD発売も許されていないミュージシャンを撮影するために、ゴバディ監督は、当局に無許可でゲリラ撮影を敢行。テヘランの市井の人々の逞しきユーモアと若者たちの音楽への情念...そして自由への溢れんばかりの痛切な想いを映画に込めて。ゴバディ監督も本作を最後にイランを離れた。と、以上公式サイトから参照。

 セルフドキュメンタリーのようなモキュメンタリーのような作品の印象を受けるのは実際のミュージシャンたちが簡単なプロットを元に即興で演技をしているのだけど、それは彼ら自身でもあり、彼らの言葉や思想となんら変わらないからだろう。 庵野秀明監督『式日』という作品で「監督」役を実際の映像作家である岩井俊二氏がそれを演じたようなことに似ている。小説のことは小説家にしかわからないと言うような、映画監督の事は映画監督に、ミュージシャンのことはミュージシャンにしかわからないのかもしれない。

 「ここではない何処かへ」行きたいという希望、ここでは息をするのも苦しい、音楽が好きで自由にやっていたい、だけどもそれを政府は許してはくれないという苦悩とすべての35ミリの機材は当局に帰属しそれらを使うには当局の許可が必要な映画監督の気持ちが重なっている。

 バフマン・ゴバディ監督がスタジオでアンダーグランドのミュージシャンと知り合う。しかし政府は彼らがまるで悪魔崇拝する危険な人間だと中傷して彼らのことが国民に知られないようにしている。
 
 監督はイランにいる本当の若者を撮ろうとした。実際にネガルとアシュカンは拘留されて釈放されたばかりで18日後にはイランを離れる予定だった。その短い間に撮影されたイラン映画史で初めて反体制的な若者に対する政府の厳しい対応を公然と批判した作品になっている、検閲されていないテヘラン、許可を得ていない撮影がそれを可能にし世界にイランにいる若者の姿を伝える事ができている。

 ミュージシャンたちの音楽と共に流されるテヘランの映像が、今まで見た事のない街の風景が色鮮やかに映し出されてくる。少しばかりPVを何本も見ているような感じにはなるのだが、ロック、フォーク・ロック、リズム&ブルース、ヘヴィメタル、ラップと多様な音楽が鳴り響く。

 現在イランで最も広く聴かれているラップミュージシャンのヒッチキャスと便利屋のナデルのやりとりを観ていてラッパーってのはどこにいても同じような事を言うんだなって思ったりした。社会問題を歌うラッパーって世界のどこにいてもなんだか意識的には似てるし、それがラップの根本なのかもしれないなあって思った。僕のイメージだとTHA BLUE HERBのMCのBOSS THE MCみたいな人だなって。

 ネガルとアシュカンがコンサートをするためにいろんなバンドに会ってメンバーを集めていく。その中の一人はストロークスのTシャツ着てるし、アシュカンは夢を語る時にアイスランドに行ってシガーロスを観るんだと言う。どれだけ政府や当局が何かを押さえつけようとしても彼らはネット等で国外の事を知っているしそれ故に自分たちの国の不自由さにムカつき抵抗しようとする。

 しかし、国内で音楽活動ができないのなら国外に出て行く彼らは音楽という翼で世界に羽ばたこうとする。映画を撮り終えて彼らは国外に出て行った。監督も現在はイランを離れている。

 しかし彼は去年の東京フィルメックスで来日予定だったがヴィザの発給が間に合わない理由で中止されている。そして本作が公開されるプロモーションのために来日しようとしたがパスポートの更新ないし査証欄増補が認められずに来日を拒まれた。現状においては彼はイラン国民として来日されている事自体を拒絶されている、それはイラン政府の意志でありそれに消極的ながら加担してしまっている日本政府の意志であるとのこと。イランの政治が現状のまま続く限りもはや国帰ることはできない。帰国すれば即逮捕され不当な扱いを受けることが明白に予測できるからだ。

 閉塞された国から飛び出していく事でしか伝えられないものがこの映画にはあり、現時点では戻る事ができない彼らが世界に伝えるのは自分たちと同じような若者がイランにはたくさんいて閉塞した中でも音楽活動し音楽を楽しんでいる人達がいる。それを阻もうとする政府があり、その現状が世界に伝えられていないということを彼らの音楽とテヘランの街の風景と疾走感がヴィヴィッドに映し出されている。

 だがネガルとアシュカンは中流階級というか裕福な家の出だと思うし、彼らはこの国から出て行くことができる。テヘランの若者を描いているが彼らのように自由に自らの意志でこの国を出て行くことができない若者達の方がたくさんいる。「ここではない何処かへ」行きたくても行けない若者はそこに留まり現状の政府に対して行動し政治を変えていくこと以外に方法はないのだろう。

 いつだって、そこから羽ばたいていく者とそこに留まる者がいる。選べる者と選べない者がいる。僕が気になるのは羽ばたいていった彼らではなくそこに留まりこれからもそこで生きていく多数の彼らの物語だったりするのだけど。それが観れるのは現時点では無理だろう。だからこそ今は出て行った人達が語ることで少しでも現状が変わるきっかけになるのならばこの作品が世界で観られる事に非常に意味がある。

(碇本学)

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gold_panda.jpg  『Companion』リリースに伴ってのインタヴューで名前の由来を聞かれたゴールド・パンダは「好きな物を2つくっつけたら、って彼女が言ったから」と、"インダストリアル・メタルバンドみたいだからやめた〈ピンク・ワーム〉"に次いで出てきた〈ゴールド〉と〈パンダ〉をそのまま採用したのだと返していた。ゴールドも動物名も現代のシーンにおいては頻出単語であるとの追撃に対しては「彼らとは音楽性が似てないから」と断って、「別にいいや」とあっけらかんと応える彼のことがわたしは、気になってしょうがない。



  「ドラムマシンのビートにオリエンタルなサウンドをミックスした音楽を今後も作り続けて行きたいね」(CINRA/ 16 Apl,10)

彼の住んでいたイースト・ロンドンはタワー・ハムレッツという場所は、インド、パキスタン、バングラディシュ系の人間が犇めくコミュニティのある、曰く子供は「モスクから流れる音楽を聴きながら育つ」ようなところで、インド人であった彼の祖母の影響で「サンライズ・ラジオ」というインドのラジオ・ステーションから流れてくる音楽によく耳を傾けていたという。そうなると彼が「Quitters  Raga」、或いはアルバム・リリース後にドロップされた「You」 EPに於いてエスニック対する傾倒が見られるのもさもありなん、である。



 彼のオフィシャルな肩書きは「UKはイースト・ロンドンのダブステップのプロデューサー/リミキサー」で、クリエイション・レコーズのスタッフでもあったマーク・ボーウェル、ディック・グリーンが00年に設立し、現在はハー・スペース・ホリデイ、エスパーズ、ビート・コーストらを従えるUKの名門インディ・レーベル、ウィチタ(Wichita)がマネジメントをとっている。レーベル・メイトであるシミアン・モバイル・ディスコやブロック・パーティー、またはリトル・ブーツのリミックス・ワークで先に、プロデューサーとしての彼の名前を耳にした方も多いかもしれない。ただし「ダブステップのプロデューサー」という括りは彼の目は懐疑的に映るようだ。確かに、彼の持ち合わせるジャジー・ヒップホップ、オピエイト(Opiate)然としたアブストラクトなビート、メロディックにシンコペイトしたリズムとそれに合わさる東洋的なエキゾチズムは、その「複雑」性からして、既存の「ダブステップ」なる概念とは素朴に重ねることが出来ない。例えば新気鋭のダブステップ勢として同列に語られることの多いパンクス・サウンドチェック、ヘッドマン、ラスコ、デッド・フェーダー等を見ていると一目瞭然だが、カラーの全く違う彼らの場合、「ダブステップ」は異なるジャンルをミックスしていくためのプラットフォームに過ぎないのかもしれない。

 ダブステップのセカンド・フェイズに位置付くポップなトラック・メイキング、メロディックでシンコペーションの強調された変則的なリズム、ミニマルで、センチメンタルなアプローチに、フォー・テット、サーレム(salem)的インディー・エレクトロ、クリス・クラーク、リチャード・D・ジェイムズの繊細なテクスチャ、或いは美しいアンビエント。ノー・フューチャー(NO FUTURE)一派としてテクノ・ユニットであるサブヘッド(subhead)の一人でもあった彼は、相方フィル・ウェルズの死をきっかけに、「自信はなかったけど、もう少し音楽をやってみようと思った」という。「音楽は僕の憂鬱な気分を揚げてくれるから、だから音楽を作ってるんだ(Hard To Explain/ 28 Feb,10)」。

 「チルアウト」や「センチメンタル」といったアティチュードを通底して持ちつつ09年後半以降、US,UKインディー界を湧かせている彼らについては、既に水面下での遣り取りはあったものの、それは言わば噴火寸前の活火山のようなもので、明らかな熱量を帯びておきながらも広く伝搬されることはなく、一部のインディ・ファンの間で沸騰していただけだった。それが『Companion』を始め10年代にリリースされたアルバム群によって愈よ、顕現化されてきたように思う。

 そもそもわたしは「ニュー・レイヴ」、「ニュー・エキセントリック」といった一連のムーヴメントには全く「乗れ」なかった。アフロ(ビート)への傾倒やら、シンセサイザーをフィーチャーしたハイトーンで無機質な音楽はどうも「祭り」の「喧噪」のようで、カラフルな衣装を身に纏って無邪気に踊(っていたと思われ)るキッズ達を傍観していたら、多文化主義の孕む強烈なリジェクトといえばイスラム系の女性が信仰を「露」にすることを「マス」に認可されなかったことが記憶に新しいが、アフロビート、若しくはハイライフを語るにつけ、その独特の「昏さ」ばかりが見えてきてしまって、過剰なセンチメンタリズムに浸ることの方が多かったからだ。宗教的・歴史的側面を引用するまでもなく例えば、「愛する人が欲しかったら、クラブに行けば良いかもね。でも君は踊ることが出来なくて倦んでしまうだろう。そして家に帰って、泣きたくなるんだよ」と歌ったモリッシー宜しく、「祭り」は楽しいばかりのものでは本質的にはない。

 先に挙げたムーヴメントを「パーティーの喧噪」と記述したが、だから「パーティー」の後に「チルアウト」というタームが来たのも当然の流れであるように感じるし、踊り疲れて捌けていく客の波を縫ってDJブースのセンターに付くわたしは俄然、元気になる。「音楽体験は本来、個人的なもの」なのだ。因みに、先に引用したスミスの「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」ではこう続く-「今っていつだい?いつになったら僕は、人から愛されるっていうんだい?」。

 「そんな瞬間」は多分訪れないからして、「個人的な動機」を胸に「不可能」性に着いて踊るのは、私は悪くないと思っている。


(黒田千尋)

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chkchkchk.jpg この世に存在する数多くのライヴ・バンドを悩ませているのは、"アルバムを聴くより、ライヴの方がいい"という、何とも微妙なニュアンスの台詞だろう。褒め言葉のようにも聞こえるけど、受け取り方によっては"ライヴはいいけど、アルバムはいまいち"ってことだもんね。瞬間の熱量が重視されるライヴと違って、繰り返しのリスニングに耐えうる面白みのあるプロダクションや、ソングライティングの力量が問われる"作品性"は、多くのライヴ・バンドにとって、越えなければならないハードルなのである。

 パンク&ファンク&ダンスで時代をリードしてきた生粋のライヴ・バンドである!!!も、メンバーの脱退などを経て遂に"作品性"と向き合うことになった。そして本作は、ベルリンでのレコーディングによってミニマル・テクノからの影響を消化し、DFA人脈のエリック・ブルーチェックを共同プロデューサーに迎えてプロダクションを強化することによって、一定の成果を収めることに成功している。クールな「AM/FM」でスタートし、ストリングスを配した本作一ポップな「The Most Certain Sure」で勢いをつけると、そこから手を変え品を変え、じわじわとグルーヴを生み出していき、女声コーラスが華やかな「Even Judas Gave Jesus A Kiss」から、本編ラストの「The Hammer」で大爆発! というミックスCDを聴いているかのような流れもばっちりで、間違いなく、及第点を与えられる作品だ。

 あれ? ミックスCD? そう、このアルバム、明らかに"作品性"を追求したアルバムなのだが、曲順だけは現場=ライヴを意識したものになってしまっている。"作品性"を追求するのであれば、むしろこれまでのアルバムのように、最後は静かな曲で終わっていた方がよかったのかもしれない。まあ、空間を生かしたプロダクションにしてもリリックの面白みにしても、比較するならLCDサウンドシステムの方に一日の長があるように思うし、ソングライティングにしても、ほどほどにポップではあるが...。つまり、本作は!!!というライヴ・バンドが初めて"作品性"を重視して制作した意欲作ではあるものの、まだ"ライヴ>アルバム"という不等号の向きを変えるまでには至らなかった、ということになるのだろう。

 とはいえ、やはりフジでのライヴは楽しみでならない(今年は堂々初日ホワイト・ステージのトリを飾る)。"作品性"を重視するあまり、肝心のライヴ・バンドとしての魅力が損なわれてしまうケースも時々あるが、!!!に関してはその心配は無用だろう。「The Hammer」でステージを駆け回るニック・オファーと、それに熱狂するオーディエンスの姿が容易に想像できるというものだ。あ、あと『Strange Weather,Isn't It?』っていうこのタイトル、コロコロと変わりやすい苗場の天気にぴったりのタイトルだよね。ははは。

(金子厚武)

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sun_kill_moon.jpg 濃密な静寂を堪能できる60分である。レッド・ハウス・ペインターズのフロントマンであるマーク・コゼレクのアコースティック・ソロ・プロジェクト、サン・キル・ムーンの4thアルバム。

 モノクロの写真は往々にして、カラーにしても趣深いものであるのだが、モノクロだからこそ比類なく輝く変種的な写真も存在する。本作も文句なくそれであり、余計な装飾がまとわりついていたとしたら、この淡くて心もとない魅力は成り立たない。声とギターだけの編成による白黒のアルバムでなくてはならない。

 ナイロン弦のぽそぽそした音色で紡がれる幽玄なアルペジオは、人を不安にさせるようなコード感を伴い、マーク・コゼレクの声は以前にも増して無気力に浮遊している。非現実的で危うい音像。湧水のようにモノクロのノスタルジアが溢れだし、淡々と似たような曲が繰り返され、次第に私達は眩暈の一つでも起こしそうになる。美しくなんかないし、サン・キル・ムーンに美しさはいらない。隔絶されているし、溝が決して埋まらない。だから地味なアルバムで終わらない。傑作。

(楓屋)

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axel_ krygier.jpg アルゼンチン音響派としての日本でのブレイクはやはり、01年のフアナ・モリーナの『Segundo』になるだろう。大文字の「タンゴ」のイメージしかまだなかった国に流麗でスマートなエレクトロニカを鳴らすアーティストが次々現れている、ということで、ワールド・ミュージック・コーナーには山本精一氏やバッファロードーター辺りのアーティストの後押しと共にフェルナンド・カブサッキ、ガビー・ケルベル、モノ・フォンタナなどが犇めいていた。

 所謂、IDM的な流れが00年代に配信ツールの台頭と共に生成されてゆく磁場とそれはリンクしていたのかもしれないし、アルゼンチンという移民の国で生活してきたアーティストたちのレファレンスする音楽がクラシック、プログレ、ポスト・ロックというのも功を奏したのかもしれない。イタリア系、スペイン系を始めにして、ヨーロッパ系の移民が多くを占め、白人が人口の90%以上いるというのも大きいのだろう。そして、そこから自然と日本のとの親和性が生まれ、フアナ・モリーナはすっかり人気のアーティストになり、ROVOのメンバーとフェルナンド・カブサッキなどたちとのセッションが行なわれるなど、と「クール」な音楽の胎動があった。何より、南米タンゴやフォルクローレなどのトラディショナルな響きが後景化されており、そこが電子音と混ざって得も言われぬ郷愁(サウダージ)を醸し出すというのが日本のリスナーの体質にも合っていたのかもしれない。

 06年には、音楽評論家の土佐有明氏の編集の下に『トロピカリズモ・アルヘンティーノ(Tropicalismo Argentino)』という編集盤が出され、その推薦を青柳拓次氏、クラムボンのミト氏が寄せるといった具合に着実にその音楽は伝播していった。しかし、どうにも狭い中でのアーティストの青田刈りの様相も伺えるようになり、90年代初頭のワールド・ミュージックのブームの際の「兎に角、飛距離のあるものを紹介出来ればいい」という投げ槍さも出てきたのは否めなかったが、その中で、一足先にマドリードのHI-TOPより紹介されたアクセル・クリヒエールのアヴァンギャルドさは痛快だった。

 初日本盤化された05年のサード・アルバム『つぐみ(Zorzal)』の段階で、既にストレンジ・ポップにラウンジから伝承音楽までを跨ぐストロークの広さを見せたが、どうにもまだそこまでのバズは起きなかったが、今回、4年振りとなる新しいアルバムである『Pesebre』では才気が愈よ爆発している。ギター、ベース、アコーディオン、シンセ、クラリネット、ムーグ、ピアノなど数多の楽器を駆使しながら、ダブからエンニオ・モリコーネ的なラウンジ風の曲からタラフ・ドゥー・ハイドゥークスやファンファーレ・チォカリーア辺りのジプシー・ブラス的な曲、ふと挟み込まれる美しいポップ・ソングなど音楽的語彙の多さとその咀嚼する強靭な感性には唸らされる。そもそも、彼はルイス・ブニュエル、ジャン・コクトー、フランク・ザッパ、トーキング・ヘッズ、ボリス・ヴィアン、セルジュ・ゲンスブール、エルメート・パスコアールから坂本龍一、コーネリアスまでの影響を公言しているからして、こういったハイブリッドな内容になるのは自明の理だが、それにしても、原要素をデ・コンストラクトの所作が鮮やかで、今隆盛のデジタル・クンビアへの目配せもされており、グローバル・スタンダードのストレンジ・ポップが展開されている。もしかしたら、このまとまりのなさに気が散るかもしれないが、このまとまりのなさこそ、統一的な概念があるわけで、それは「余白(marge)」は「辺境(marche)」と同じ語であるということにも依拠する。ニーチェの「ハンマーを持って哲学する」という言葉を孫引くまでもなく、音楽とは「その鼓膜を破裂させるほどに鳴り響かせること」というメタファーも使ってもいいかもしれない。無論、その「鼓膜」は現代音楽の行き詰まり、閉塞の例示になる訳だが。

 要するに、これまで依存してきた音楽の文体をもう一度バラバラにして、もう一度新しく再構成しなければ、「出口」を探すことさえ、どうにもならないとしたら、アクセル・クリヒエールは「出口」などもはや信用していない「余白(marge)」を生きている。それは頼もしい。

(松浦達)

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effi_briest.jpg 2000年代のNYブルックリンは、アニマル・コレクティヴ、ギャング・ギャング・ダンス、ダーティー・プロジェクターズと、様々なバンドがアンダーグラウンドからメキメキと頭角を現し、大きく世界的な音楽シーンへと飛躍して、様々な音楽メディアでこの地域は取り上げられてきたし、正に豊作の年代であったと思っているのだけれど、2010年代に突入した現在においても、この土壌の快進撃はまだまだ陰りを見せていないようだ。クール&ビューティーかつ不思議系なオール・フィメール6人組バンド、エフィ・ブリーストのファースト・アルバムを聴いていると、そう思わずにはいられない。催眠的でポエトリーな静けさから魔術のように大きく歌い唱えるタイトル曲「Rhizomes」に始まり、スモーキーな靄の中で極上のサイケデリアを咲かせてみせる「Long Shadow」、トリッキーでリリカルな歌い回しとトランシーでいて鋭いキレも見せるギターとの掛け合いがすこぶるカッコいいデビュー・シングルともなった「Mirror Rim」と、もう病み付き系トラックが目白押し。サイケデリック、フリー・フォーク、エクスペリメンタル、トランス、ノー・ウェイヴなブレンド・サウンドを、クラウト・ロック、ポスト・パンクのリズミカルなフィルターでじっくりと抽出したかのような、極上サウンドの数々を創出している。ゆらゆらと落ち着いたリズムながらも緩急に富んだ展開と曲運びもいい。スーサイドのアラン・ヴェガ70歳を祝すピーチズとのスプリット企画盤や去年来日したテレパシー(Telepathe)とのスプリットもリリースされていたり、メンバーの中には同じくブルックリンのPhychic IllsやSkintのメンバーも在籍していたりと、これからの活動にも大きな期待が出来そうです。

(星野真人)

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rangers.jpg CDやレコードをレヴューを参考に聴いて、それがとてつもなく良い作品だった場合、そのレヴューを書いた人まで評価してしまいたいような気分になるから不思議だ。そういう意味では、このアルバムを取り上げることができるのは幸運だとしか言いようがない。

 とはいえ、本当のことを言うとあまり紹介したくない気持ちもある。というのも、このレコードを出している、<Olde English Spelling Bee>の作品はどれも入手がかなり難しいのだ。このレヴューを期にレコード店の入荷枚数が増えますように...。

 この記事を書くにあたって集めた資料によると、このレンジャーズ、テキサス出身、サン・フランシスコ在住のジョー・ナイトのオルター・イーゴだとあるのだが、バンドが路上で演奏している写真もあり、実態は詳しくはわからない。音を聞く限りでは一人で宅録しているようには思えない。

 このレーベルのものは総じてそうなのだが、一聴して孫コピーしたカセットテープではなかろうかと思うほど、音が悪いのが印象的だ。オープニング「Deerfield Village」は、今どき聴かない、スラップというよりは、かつてチョッパーと呼んでた雰囲気のベースのリフで始まり、歪ませまくったボーカルは、何を言ってるのか全く聞き取れない。こう書くとローファイ以降のアメリカのインディロックを思い浮かべるかも知れないが、それらよりは一時期のジェネシスや80年代のいわゆるエレクトロの方がサウンドのイメージは近い。
 
 全編通じてチープなシンセとリズムマシンだか生のドラムなんだかわからないほどしょぼい音のドラム、コンパクトとおぼしきエフェクターを過剰に使ったエレクトリック・ギター、メロディックにいくでもなく、ルートにとどまるでもないスラップベース、これらが文字通り混ざり合ったサウンドは非常に視覚的だ。それは、地球から月に人々が行き交うための透明のチューブが繋がっているような、子供が画用紙に描くような既視感のある未来。映画のエンドロールだけをずっと見続けているような感覚。どの曲もとにかく展開や起伏が少なく、1リフで1曲という感じのものも多く(コード進行がシンプルなものは少ないのがまた変わってる)、そのリフのループが作りだすカタルシスのない余韻だけの世界は妙にリアルだ。

 そして、ためらいつつもあえて言うのだが、このアルバムを聴いてデビッド・ボウイの『Low』やハルモニアなどの共作、またはイーノ・アンド・バーンの1枚目をやっていた頃のイーノの仕事を思い出した。もちろんあれほど緻密に練り上げたサウンドだとは思わないし、本当にためらいつつ言うのだけど、雰囲気は、ある。このアルバムがイーノの目に止まり、次のアルバムは共作なんてことになれば良いのに。

 それにしても、MySpace"影響を受けた音楽"の項目に、ナイル・ロジャース、Guitar On Heaven Or Las Vegas(コクトー・ツインズのアルバムのことだと思う)、ジョニー・マー、バーナード・バトラー、ミック・ロンソン、カルロス・アロマーとあるけれど、なるほどなあと思うものがひとつもないのが笑える。ジョニー・マーやバーナード・バトラーはもちろんだけど、特にナイル・ロジャースは間違ってもこの音楽をやらないだろう。
 
 そんなわけで、けなしているのか、ほめているのかわからない文章になってしまったが、このアルバムは文句なしの(私的)年間ベスト・ディスク候補。次のアルバムが待ち遠しい。

(田中智紀)

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the_medium_necks.jpg Sonic Plate傘下のレーベル<F.E.E.S>からソロ・デビューし、Org.やInternational Friendship Societyのバンド・メンバーとして活躍し、現在は今後ジャッキー・オー・マザーファッカーのレーベルからリリース予定の日米混合5人組バンドのHELLL(ヘル)のフロントを務めている飛田佐起代が、ビジュアル・イメージを担当する吉田苑子とスタートさせたユニット、ミディアム・ネックス(略してミディネク)。前作『Stars, Stars』より早2年半、3作目となる待望の新作が、遂に完成された。アコースティック・ギターと歌声というシンプルな曲構成ながら、柔らかな感触と憂いを帯びた情感ある深い音色のコンビネーション。その歌の合間に挿入されるどこかストレンジで不可思議なんだけど、まるで夢見心地のようにひたすら心地良い響きで魅せるクラシカルなピアノ・ソロ。今作ではそういった彼女たちの創出した唯一無比のサウンドによって、より一層の音の深みと音色の美しさを感じさせると共に、現実/非現実を行き交うように緩やかな音像を脳裏に浮かばせる。音を具現化したかのような画像と映像と共に演奏される彼女たちのライヴでは、より一層その音世界を堪能できること請け合い。早くその世界に飛び込みに行きたくて仕方ないところだ。

(星野真人)

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fujifabric.jpg ベンヤミンの複製技術に対する「哲学」は幸福の確約であると共に不幸の源泉である、と「否定弁証法」でアドルノは指摘した。つまり、文明の記録で同時に野蛮の記録でないものはないという中で、「救済」とは何なのか。現在に組み込まれた過去の人間の「苦悩の叫び」つまり「希望の声」を一瞬のうちに聴き取ることの可能性に賭けようとしたベンヤミンにはいささか商品至上社会への幻想に耽りながらも、瞬間的にそこからの覚醒を経験しようとする問題意識で今まで通りに進むこと自体が破局だというイロニーを含む。

 死ねば伝説、狂えばカリスマ、生きればただの人、なんて事は「ロック」という分野に付き纏う暗黙の呪詛のようで、オーディエンスやジャーナリズムは実質的な「音楽の死」を求めるのではなく、「音楽を形成する磁場の死」を積極的に希求して、過ぎたものへ「今の言葉」で加筆修整してゆく。としたならば、作品は「作品論」として語られず、作者論としてすり替えられてしまう危惧があるということならば、額面そのままの記号に脊髄反射出来ないクリティークとは何の意味があるのだろうか。

 初期の四季三部作、セカンドの『FAB FOX』以降、の彼等には僕自身は退行の気配しか感じ得なかったし、初期の情景描写の巧みさと片寄氏と組んだサウンド・ワークからすると、作品毎に「荒く」なっていく歌詞やアレンジメントをして、正当に評価するのが難しく、またイベントで観る度に選曲が「TAIFU」や「銀河」といった単純に揚がるものに固定されてしまっていたり、ワンマン・ライヴでもファンとの密室的な共犯性の中でふと放たれる「地平線を越えて」などのサイケデリアには魅せられる部分があったが、どうにも全体として彼等を捉えようとすると、J-の冠詞から懸命に逃げようとして、独特のエアポケットに陥落している気がしてならなかった。

 しかし、テレヴィジョンなどポスト・パンク的なものから60年代から70年代の大文字のロックやナンバーガールやくるりといったものに影響を受けているのは分かるが、どうにもその嚥下の仕方が捻じれていて、未消化な部分もあったものの、ボーカルの志村氏の奥田民生氏への敬愛含め、何よりユニコーン的な「真面目にふざけている」風情があると想えた近年で珍しい新進のバンドだっただけに、例えば、志村氏が影響を受けていたブラジル音楽やオルタナ・ミュージックを真っ当にアウトプットしても良かった気がしていた。

 セカンド以降の「サーファーキング」、ホーンを入れての「パッション・フルーツ」という茶化し系のシングルを踏まえてのストレートな「若者のすべて」は「よい曲」だったが、今更、ミスチルの桜井氏が歌ったり、藤井フミヤ氏が取り上げる意味はよく分からない、ベタな「ストレートさ」だと思う。あれは、青春期を振り返った故の青さが滲み出ている分、例えば、「赤黄色の金木犀」や「Birthday」にあったメタなリリシズムとは距離があった。

 サードでの『TEENAGER』という在り方も僕自身としては、彼等は「成熟」から始まって、よりラフになっていこうとしているとさえ感じた。そういった自家中毒状態に自覚的だったのか、彼等はストックホルムでの海外レコーディングを敢行する。そして、そこで出来あがったアルバムはどうもドラムのアタック感とデッドな音質と志村氏の「一人称の懊悩」が組み合わさった歪な様相になった。ただ、シングルとしての「Suger!!」のエレ・ポップの高揚感はタイアップ効果もあり、新たな代表曲になった。

 そんな折、昨年末にボーカルの志村氏の急逝の報が入って、フジファブリックというバンドを巡る状況が一変する。それは良くも悪くも「過剰」になった。彼等が出る予定だった昨年末の大阪のイベントでは、楽器が置かれ、ライヴ映像が流れるという処置が取られ、僕はその場所に行かなかったが、かなりの人が流れていっていた。また、くるりの岸田氏や奥田民生氏や気志團といった面々が彼(志村氏)の追悼を行なうように、曲を奏で、今年はベスト・アルバム、レア・トラック集、更には過去に志村氏が残していたトラックにメンバーが付加したニューアルバムが出ることになり、彼等主催の富士急でのイベントも錚錚たるメンツが集まった。死者を悪く言うつもりは僕は全くなく、フジファブリックというバンドはどんどん今後面白くなってゆく「兆し」は常に感じていただけに、残念な部分はあったのは事実だというのは明言しておく。

 但し、シビアに分析するに、五枚目のアルバムとしての『MUSIC』は僕はジェフ・バックリィーの『素描』のようなムードさえ感じさえしまった。「ロスト・アルバム」という気がしない、スケッチ集としては秀逸だし、残ったメンバーの懸命な気概が執念的に焼きつけられているのも感じるし、よくここまで様々なアレンジメントの幅を広げ、アイリッシュ・トラッド的なものから、シンプルなロックンロール、大胆な打ちこみ、ピアノ・バラッド、サイケデリックまでを消化したと思うし、正直、これまでのアルバムの中でも多種多様な曲が揃っているのは確かな力作だと思う。

 亡くなった志村氏の意志はもう慮ることは出来ないが、彼の遺したものに対しての誠実なオマージュと愛が捧げられているのも十二分に感得出来る。ただ、僕からすると、この作品を「正当」に評価する意味がよく分からない。ここから入るリスナーも居るだろうし、過去のファンもこれを聴くだろう。でも、ここには「終わり」がある訳でもなく、「始まり」さえもなく、作品としての傷痕が膿んでいるだけの物悲しさが浮いている郵便性がある。生き、あるいは死の中に「遺棄」する権力のもとで、もっとも剥奪された状態たる「単なる生」。しかし、それはまた、かならず非知の要素を含む、充溢する生の様態を名指すものでもあるとしたならば、その両義性を手放すことなくそこに立脚するとき、新しい何かが始まるパルスは僕は感じなかったのは寂しさもおぼえたが、よりダイレクトな彼等の想いがぶつけられたこのアルバムの生真面目さは「何か」を射抜くのかもしれない。心とか感受性とか不確定なものではなく。

(松浦達)

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twin_sister.jpg 最初、このアルバムを聴いたとき、なにか間違ったものをかけたのではないかと思ったのだった。確かにそれは輸入盤で、ニューヨークのバンドだったと記憶していた。デジパックのCDのケースを手に取り、クレジットを確認しようとするがほとんど情報はない。

 こんな風に驚いたのは、その音楽があたかも日本のポップスのように思えたからだ。具体的に言うと、コーネリアスの『FANTASMA』、砂原良徳の『CROSSOVER』辺りはすぐに思い浮かぶし、1曲目のリズムなどはノイ! っぽいのだけど、90年代に日本で消費されたそれの方がより近い気がする。

 このバンドについてググってみたのだが、たいして情報が得られず途方に暮れていた所、運良く中心人物のエリックとコンタクトがとれた。それによると、彼らはニューヨーク出身の20歳から26歳の5人組で、作曲は誰か一人が受け持っているというわけではなく、全員がいろんな楽器を持ち替えアレンジしていくトータス方式でレコーディングしているようだ。

 ノイ! もコーネリアスももちろん好きだ、というコメントの後に驚かされた。メンバー全員が矢野顕子の音楽に影響を受けているというのだ。意外な名前が出て来たと思ったが、言われてみるとなんかわかるような気がした。最近矢野さんに会えて嬉しかったとか、『ただいま』はすごいアルバムだ思うといった、矢野さんへの敬愛が綴られたあと、こう付け加えていた。「日本のポップ・ミュージックの多くは80'sやライヒ、ハウス・ミュージックの影響を受けているよね。」と。日本の音楽がどういったものの影響下にあるかまで正確に分析できているようだ。もしくは、アメリカ(やヨーロッパ)の音楽の変異体として日本の音楽を捉えているのかもしれない。

 とにかく本当に20歳のメンバーがいるのかと思うほど、聴いてきたもの、研究しているもののレンジの広さを感じさせるバンドだ。このアルバムを聴いて、他にはストロベリー・スウィッチブレイドや、キャンディ・フリップなんて名前も思い出した。

 アメリカのインディーズ・バンドには珍しく雑なところのない(失礼!)、丁寧にレイヤーされたドリーミーな音がすごく心地よい6曲だ。もう少し練っても良いかなあと思う所もなきにしもあらずだが、こういう音楽はちょっと足りないくらいがちょうどいいとも思えるし、これからフル・アルバムでどうなるかすごく楽しみだ。個人的2010年サマー・アンセムだと言ってるのだが、リリースされたのは4月でなんだかなあという気分にもなるのだった。推薦。

(田中智紀)

*フランツ・フェルディナンドでおなじみのDominoからデビューEP、「Vampires With Dreaming Kids」とこの「Color Your Life」のUKのリリースが決まった模様。現地発売日が9月6日で、CDとヴァイナルともに2枚組。それに伴って10月UKツアーも決定。来日公演が待ち望まれるところだ。【筆者追記】

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ceo.jpg 本作はタフ・アライアンス(The Tough Alliance)という、つい最近まで活動していたスウェーデンのポップ・デュオの片割れ、Eric Berglundのソロ・プロジェクト始動後最初のアルバムである。

 タフ・アライアンスは本当に愛すべきグループで、M83辺りを≪エレクトロ・シューゲイザー≫の先鋒と位置付けるなら、彼らの音楽性を言い表したジャンルはまさしく≪エレクトロ・ネオアコ≫。ワム! やギャングウェイ、スクリッティ・ポリッティに通じるポップ極まりない陽性の青臭いメロディと、80年代終盤~90年代初頭のマンチェスター・サウンドからの色濃い影響やトロピカルなムード(それこそ今のシーンの流行を先取りしたような!)に、アヴァランチーズのもつ現代性も兼ね備えたバレアリック・シンセ・サウンドがとても心地よい高揚感に満ち満ちていた。一方で自ら<Sincerely Yours>レーベルを立ち上げ、ジェイジェイ(JJ)やエール・フランス(Air France)といった自身の音楽性と共振する優れたグループも輩出し、ここ数年のインディ・シーンでもひと際異彩を放っていた。

 ユニークなのは音楽性だけではなく、楽曲の与えるイメージとしての線の細さに反した、己の幻想を貫くための思想的過激派な一面を兼ね備えているところにあった。「First Class Riot」という曲で、美しすぎる光景や人生における輝かしい瞬間について「今もまだ死んでない、そういったものは買うことができない、(そのことが)First Class Riot」と歌ったところや(俗にいう「青春ポップス」のなかでも自覚的でインテリ趣味な楽曲がもつ攻撃性を一言で言い表した、とても鋭いラインだと思う)、ライブにおいてはほとんどカラオケで、メンバーの二人は金属バットを振り回したりスニーカーを手にはめたりしてひたすら踊り騒いだというエピソードなど狂気スレスレの芯の太さを感じさせるし、それを聞くと少女たちが縄跳びをして戯れる光景を延々垂れ流すだけの「Silly Crimes」のPVも違った見方をすることが出来る。たとえば40代を超えたカジヒデキが今でもあのスタイルを継続することである種の凄みを帯び出しているように、ある一線を越えると悶々とした中二病妄想癖は遁世的でいたまま「反抗」へと転化し得る。

 で、最近もそういった路線で話題になったバンドがいた。そう、ザ・ドラムス。僕は彼らがタフ・アライアランスにシンパシーを抱いているという(当然といえば当然な)事実が以前から面白くてしょうがなくて、インタビューでそのことに触れたときのジョナサンの満面の笑みと饒舌っぷりも可愛らしく、今でもとても印象に残っている。

 しかし、気がつけばグループは解散し、そしてCEOである。「あるとき海に行くと嵐に見舞われ、途方もない孤独にさい悩まされていたら突然、啓示が訪れ、数千の天使が囁いたんだ。ceo、ceo、ceo...って。すると大波も怖くなくなった」そんな本人の実体験がCEOと名乗るきっかけになったそうだ。って、何ともコメントしづらい...。色々なインタビューに目を通した限り、彼はとても繊細で、理屈っぽくて、変な拘りと美学をたくさんもった人物のようだ。それぐらい緻密で傍目から見て面倒くさいエゴに満ちた人物でないと、先に挙げた「反抗」なんて到底なしえないのだろう。

 そんな彼のパーソナリティが反映されたのか、このアルバムにはタフ・アリアランス時代に比べて若干のアーティスト志向が目につくところはある。冒頭「All Around」で流れるストリングスは従来のダンス・ミュージックのアレンジメントというよりは室内楽的で、同様の演出は「Oh God, Oh Dear」にも用いられている。曲名やジャケットのアートワーク(タイトルもアートワークも自分が大好きな「白」を強調することから決定したとのこと)、オフィシャル・ページにおける少しキナ臭い声明文にも見られるように、過去よりも幾分スピリチュアルでシリアスに、そして一人になったぶん内省的な方向に傾いているのはたしかだ。解散したのもなんとなく頷ける。

 いずれにせよ、そういった要素もアルバム全体の統一感を損ねることはなく、ドリーミーで天真爛漫だった音楽性はそれほどは大きく変わっていない。抜群のフックをもった二曲目の「Illuminata」からテンションは上向きにシフトしだし、ネオアコ・マナーに則った出だしの手拍子も素敵な「Love And Do What You Will」や、4分半程度のリズムの反復が快楽的すぎるあまり永遠に続きそうな錯覚を引き起こす「White Magic」は、まるでアニマル・コレクティヴ『Merriweather Post Pavilion』の楽曲をセイント・エティエンヌがリミックスしたような、独特の清々しさとダイナミズムが漲っている(ザ・ドラムス同様、CEOも<Sincerely Yours>の面々も、当然のごとくセイント・エティエンヌをこよなく愛しているそうだ。そろそろ彼らの功績に見合った再評価の動きが出てきてほしい...)。バタバタしたトライバル・ビートに神々しいコーラスが重なる「No Mercy」もいい。楽曲中でところどころ鳴る「キュイーン」という音は日本刀を使っているそうだ。刃物の類で一番鳴りがよかったからとのこと。なんじゃそりゃ...。

 そして何より特筆すべきは、オフィシャルHPで先行リリースにシングルカットもされ、先述のインタビューでジョナサンも一日30回は聴いていたと告白していた「Come With Me」だろう。煌めくシンセ・サウンドにチルディッシュなサンプリング・ヴォイスを伴い、訴えかけるように「一緒においでよ」と連呼される。透明感漂うエレ・ポップ調の美しいこと...。トトロと変な仮面が一緒に出てくるおかしな味わいのモノトーン調PVもよかった。自身が子供のころに繰り返し歌ったというスウェーデン語の「Den Blomsterid Nu Kommer」でしおやかに締められるというのも後ろ向きで内向的な夢想家といった趣でアリだと思う(関係ないけど、同じくスウェーデンのロビンも近作を同様の構成で締めていたのも面白い)。

 ここまでハラハラするほど美しいアルバムの収録時間が28分だなんてイジワルだけど、その食い足りなさのおかげで何度も何度も聴きたくなる。昔より少し生真面目になったぶんメロディはより哀愁を帯びて、エンドレス・サマーなフィーリングも以前より高まりつつ、MGMTの近作がもっていたシニカルさともチルウェイヴ/グロファイ勢のアンニュイさとも違う、気高く瑞々しいポップ・サイケデリアがここには展開されている。

(小熊俊哉)

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rox.jpg エイミー・ワインハウスやアデル、ダフィといった、オールド・マナーのシンガーはUKでヒットを飛ばしている。やはりモッズの伝統がある国、ソウルやブルースといったブラック・ミュージックをルーツとしたサウンドはウケるのだろう。

 このロックスも、その流れを汲んだ2010年の注目株。毎年、その年のヒットを予測するBBC SOUD OF 2010にもノミネートしている。本名ロクサーヌ・タタエイという名の21歳は、ジャマイカ人とイラン人のハーフで、幼少のころからロンドンのミュージカル劇団に所属しステージに立ってきた実力派。待望のデビュー・アルバム『Memoir』も質の高い内容に仕上がっていた。そして、何より上記のシンガーたちより、最近ではコリーニ・ベイリー・レイなんかに近いような、記録や記憶より、耳の奥にずっと残る感じ、そんな印象を受けた。

 ジェイZやアリシア・キースを手がけたアル・シャックスがプロデュースし、ローリン・ヒルやメアリー・J・ブライジ、シャーデーなどをフェイヴァリットに挙げるセンスが前面に押し出されている。楽曲においては、シングルとなった「No Going Back」や「My Baby Left Me」といったキャッチーなトラックはあるものの、全体的にはダウンテンポのしっとりとしたメロディと歌声が際立つ。モータウンやソウル、レゲエなどをベースにしたサウンドもとても美しい。華々しくヒットチャートのトップを駆け上がることはなかったのが残念だが、このロックスはジワジワと人の心を捉えていくタイプのシンガーなのだろう。

 筆者は幸運にも、一夜限り行なわれた彼女の日本でのステージに立ち会うことが出来た。アコースティックのみのセットで、伸びやかで可憐な声にはしばし聞き惚れてしまった。失恋をテーマにしつつ、悲しみを提示するだけではない強いリリックのように、まだまだシーンに生き残って欲しいと思う。今後の期待を感じさせる逸材だ。

(角田仁志)

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exlovers.jpg すでにコアな音楽ファンの間では話題になっているエクスラヴァーズ。ちょっと前にそのウワサを聞きつけた筆者は、まずMySpaceでその音を確かめたのだが、トップに貼られていたデモ曲「Starlight, Starlight」のイントロを数秒試聴しただけで、ふっ飛ばされるような衝撃を受けた。つんのめるようなドラムのフィルに続く、シンコペーションの利いたA△9/AとD△7(-5)/Dの繰り返し(ネオアコ~ソフト・ロック黄金律!)。バート・バカラックばりに美しい男女混成ハーモニー。そして、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートがさらに加速度を上げたような演奏に、あっという間に虜になってしまったのだ。
 
 ピーター・スコット(ヴォーカル、ギター)とクリス(ギター)を中心に、イングランド南西部のコーンウォール周辺で結成された5人組バンド。本作は、そんな彼らの日本デビュー盤である。先にUKでリリースされた最新シングル「You Forget So Easily」に、ファースト・シングル「Just A Silhouette」のB面曲「Clouds」と、セカンド・シングル曲「Photobooth」、そして、冒頭に紹介したデモ曲「Starlight, Starlight」を追加した、ファンはもちろん彼らを初めて聴くとっても必須の内容だ。
 
 ピーターによる儚くも美しい歌声&メロと、そこに寄り添う紅一点ローレンスの控えめなハーモニーから、エリオット・スミス(それも『Either/Or』時代)を連想する人は多いはず。中でも、「New Year's Day」や「The Moon Has Spoken」、「Clouds」の歌い回しやスリリングなコード・チェンジ、悲しくも凛とした佇まいは、エリオット・スミスのそれを強烈に感じさせる。ピーターは10代の頃、アメリカン・ハードコアに夢中になっていたそうだが(腕全体に掘られたタトゥーが、華奢でナイーヴそうなルックスとは対照的)、キラキラとしたネオアコ風味のサウンドの奥に潜む暗い情念や衝動が、ハードコア・パンクを通過したフォーク・ミュージックを奏でるエリオット・スミス、あるいはロウやアイダらの音楽性と共鳴するのは、何ら不思議なことではないだろう。
 
 とにかく、彼らのソングライティング能力はアートスクールの木下理樹も「年間ベストに入る位」とtwitterで絶賛するほど。ただし本作を聴いた限りでは、メロディの"引き出し"がそれほど多くなさそうで、割と似たような曲が並んでしまったのは惜しい。そう言う意味では、おそらく最新音源であるデモ曲「Starlight, Starlight」のような突き抜けた曲を、今後彼らがどれだけ書けるかどうかが勝負になってくるのではないか。

(黒田隆憲)

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sokabe_summer.jpg 個人的に、夏になってくると、メルロ・ポンティ的な意味で「視」る人になる。それは薄着の女性や汗を掻いてはしゃぐ子供たちや含めて、どうも夏の粒子というものが可視化されると言おうか。「人の視覚能力は特定波長」に限定されており、赤外線・X線など見えない。でも、他の生物は色々で「周囲に磁場を持つ(魚類など)」「熱を感じ取る(蛇など)」といったように『光=波でかつ粒子』の物理学上の"光の特殊性"(重力などと並び4つの基本)にも関連し、「人間の皮膚にそれらを感知出来る器官・能力の可能性」が「視線を感じる」に結びつくと、パトスが夏の催いに掻き消える。

 Ototoyで7月15日まで無料DLを敢行していた曽我部恵一の「サマー・シンフォニー」は「視る」人の歌。だからこそ、タイトなビート感、青く締まったリリックが速射砲のように景色を切り取る。トーキョーNo.1ソウルセットかランタン・パレードかと思わせるようなメロウネスだが、ピンと張った空気で「夏」を誤差なく鮮やかに切り取る。今年のサニーデイ・サービスのリユニオンがあり、曽我部恵一氏自体の活動も益益、活性化する中、ソロ名義でふと届けられたこの曲の透き通り方はどうだろう。サニーデイ・サービスには「サマーソルジャー」という名曲が、ソロ名義でも「夏」があったが、それとは別位相で、今回の新曲は確実に夏を射抜く。

 過去の曽我部氏の「夏」とは「失われた青きものの象徴」でもあり、また、「限りなく純粋で青かった気持ちの原点」でもあるからで、彼等が野暮ったくそこらにいる大学生然と現れた時も、どういった距離感を置けばいいのか正直理解らないようにデコレイトしており、ラヴィン・スプーンフルもはっぴぃえんども大瀧詠一も山下達郎もカタログ化されていた90年代半ばの「失われた10年」の真ん中辺りで、昔の四畳半フォーク的世界の再現と脱構築をせしめようとする試行には無謀ささえも感じたし何を葬ろうとしているのか、また何を始めようとしているのか、正直、よく把握出来なかったし、既にフィッシュンマンズが鮮やかに「夏」「休み」は歌っていた筈だった。80年代のポスト・モダンの残映の中でエコーするビートに「細部にしか神は宿らないよね」という暗黙の了解で結ばれたサバービアのインテリ崩れの僕からしたら、例えば、今年ライヴで観た小沢健二の"狙ったインでアウトな感じ"とか「レイドバックよりラジカリズムだ」、と意気軒昂に思っていた浅愚な状態が今更、気化する。

 夏の気怠い空気の中、明け方5時過ぎ、始発を待ってドトール・コーヒーで必死にレポートを書く青年。カラオケボックスでとりあえず寝てから、スタジオ入りするつもりのバンド少年少女達。「総て嫌いなの」、と嘯く水商売の右耳に3つのピアスが光っている女の子。「ロックってあの"外れていく感覚"が堪らないんですよね。」という心優しき全身タトゥーのステディ・ボーイ。グレッチのあの重さが堪らなくて、という大学生の可愛い女の子。ファッションホテルの明滅。それらの要素群が「サマー・シンフォニー」の中で浮かんでは消える。光が見えるかい?

 BABY BABY You are the ONE

 昔、ある雑誌で曽我部氏は『BLUE』というアルバムの「朝日のあたる街」という曲目に関してのインタビューでこう言っていた。

「...この作品には、労働者階級、ワーキングクラスの人達の視点から見た歌しか入ってないけど、アッパークラスのお金を凄く儲けてる人達にとっても、やっぱり心境は一緒だと思う。海が見たい、そこに何か絶対的なものがあるんじゃないか、今の自分を変えてくれる何か、もしくは優しく自分を包み込んでくれる何かって。そういうふうに思ってるのが現状だと思う」

 僕もそれは同感の旨がある。

 アッパーもアッパーミドルもミドル・ミドルもロウアー・ミドル、ロウアーも今の時代、何かしらの空虚感を持っていて、それぞれにとっての「海」を観に行きたがっている。その「兆候」は感じる。フリッパーズがバブルの終焉間近に『海に行くつもりじゃなかった』と言っていた時代から10年以上が過ぎて、どうもそういう事になっているようだ。

 繰り返そう、「サマー・シンフォニー」に劇的な「何か」はない。簡素なビートと、芯のあるベースラインが太いグルーヴを作り上げ、その上に爽やかなアコースティック・ギターのコードストロークがかき鳴らされ、鍵盤は印象的なフレーズが並べられる。ポエトリー・リーディングのような、かのフィッシュマンズの問いかけのように彼のボーカリゼーションが新しいフェイズに入っているのも含めて、これは夏休みを終わらせる為の「シンフォニー」じゃないだけの曲だ。「空中キャンプ」の中で過ごしていた人にアイスクリームをお供に、無限の夏を確約する。その確約は共約不可能性を帯びるのだが。

(松浦達)

*12インチ・シングルは8月前半にリリース予定とのことですが、かなりのD.I.Y.リリースゆえ、このレヴューのアップ時現在まだ日程が確定していないようです。曽我部恵一オフィシャル・ページでご確認ください。【編集部追記】
http://d.hatena.ne.jp/sokabekeiichi_news/

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mi_ami.jpg このアルバムをCDショップで見かけて、「あ、ボブ・マーリーだ! 夏だね~」とか言って買ってしまったうっかり者も(世界に5人ぐらいは)いるかもしれない。聞いてみて「なにコレ!」って、腰を抜かす可能性は大。そんな人でも気に入ってくれたらいいのにな、と僕は思う。MI AMI(ミ・アミ)の2ndアルバム『スティール・ユア・フェイス』には、ジャケット・デザインも含めて、不思議な魅力がぎゅうぎゅうに詰まっているから。

 ミ・アミは、ワシントンD.C.のDischord Recordsに所属していたBLACK EYESのメンバーが中心となって結成された3人組。09年の1st『Watersports』は、<Touch and Go>傘下のQuarterstick Recordsからのリリース。しかしその後、<Touch and Go>は惜しくも活動を休止。どうなることやらと思っていたら、これまた名門レーベル<Thrill Jockey>に移籍して、しっかりアルバムを発表してくれた。

 裏ジャケットを見て、さらにびっくり。ジェリー・ガルシアの遠い目を見つめながら、肖像権は大丈夫なのかな?って、ちょっと心配になる。レゲエとフリー・ジャムの王様にサンドイッチされた全6曲。知的なパンク・スピリットを感じさせるコンセプトは最高にクールで、鳴っている音楽は最高に熱い。ダブ、ラテン、ファンクからフリー・ジャズまで、ハードコアのざらざらした感触をそのままに、踊り狂えとぶちまける。シンプルなカッティングのリフからピュンピュンピュ~ン系のエフェクター・サウンドまでが自由に飛び交うギター、歪みながら広がっていく空間を泳ぐようなベース・ライン、そしてトライバルでテクニカルなドラムが気持ちいい。踊れ! 踊れ! 踊れ!

 ハードコア~ポスト・ハードコアというと、アルバムをリリースするたびに、どんどんストイックになっていく印象がある。とんでもない熱量をある一点だけに集中させていく感じ。僕にとっては、フガジ、トータス、シェラックなどの印象が強いのかも。でも、ミ・アミはちょっと違う。まだ2枚目だけど、どんどん自由に無邪気になっているような気がする。今、いちばんライブが見たいバンド。「Latin Lover」なんて、エフェクターとコール&レスポンスできそうだし。このクオリティなら、ジャケットに拝借されたヒッピーの王様たちもきっと許してくれるはず。21世紀のパンクは、こんなに自由でカッコいい。

(犬飼一郎)

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bombay_bicycle_club.jpg これには驚いた。

 昨年6月に1st『I Had the Blues But I Shook Them Loose』をリリースしたばかりだというのに、早くも2ndアルバムを完成させたスピード。しかも今回はアコースティック・アルバムである。ボンベイ・バイシクル・クラブ恐るべし、と思うとともに、ファズ・ギターの轟音とUSインディ的ないびつさが前作では印象的だっただけに、どのような作品になるのか全く予想ができなかった。

 実際、アルバムを再生してみると、前作との差は明白だった。それが最も顕著に現れているのが、前作にも収録されていた「Dust On The Ground」だろう。以前のものとは違い、シンプルなサウンドで、メロディがむき出しになったこのトラックは牧歌的な緩やかさを感じさせる。しかも、アルバムではUKフォークの重鎮ジョン・マーティンの「Fairytale Lullaby」や、(ボーナス・トラックではあるが)ジョアンナ・ニューサム「Swansea」のカヴァーまで収録している。基本的にはアコギの絡み合い。更に、約半分の曲においてはドラムすら使われていない。つまりは本格的なフォークへのシフトチェンジというわけだ、これが非常にハマっていて、彼らの優れたソングライティング能力を見せ付ける内容になっている。

 全体的なプロダクションも前回と一変、アークティック・モンキーズのなどを手がけたジム・アビスにより作りこまれた前作と違い、今回はヴォーカルのジャック・ステイドマンとギターのジェイミー・マッコールの父によるプロデュース。しかも、地元ロンドンの教会でレコーディングという環境もあってか、アットホームな雰囲気だ。その肩の力が抜けた緩やかさが、ディスクを何度リピートしても聴ける充実振りに繋がっている。

 レイト・オブ・ザ・ピアやユック(YUCK 元ケイジャン・ダンス・パーティー)といった、ごく最近までティーンエイジャーだったバンドたちの才能のほとばしりぶりは驚くばかり。しかし、このロンドンの若き4人は同世代のバンドの中でも一歩進んだ成長をしていることを本作で証明して見せてくれた。

(角田仁志)

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milkymee.jpg 制約に束縛されることは、時と場合によっては快楽である。ジェフ・ベック、ウェス・モンゴメリーなど挙げればきりがないのだが、彼らは「ギターという楽器の束縛」の中で自分は一体なにが、どこまで出来るのか、というギターによる表現力をぎりぎりまで追求し、挑戦した。その追求した結果がテクニックであることも時としてあった。そしてテクニックの向上とは、楽器という束縛の中でもがき苦しむことと同時に、人間が持つ「挑戦する・したい」という欲求・快楽から生まれた。人間の欲求に際限は無いのだから、これからも、使われる楽器の束縛の中で人間の挑戦は続いていくのだろう。
 
 だが、もともと、なぜ楽器が生まれたのかというと、人間の頭の中で鳴っている音を実際に鳴らすためであった。「鳴らしたい音を鳴らす為に作られた楽器」が、今では「楽器でどんな音が鳴らせるのか」というふうに、逆になってしまっているわけである。それ自体は悪いことではないが、超絶的なテクニックを誇るアーティストを聴くたびに、楽器の誕生の意味をあらためて考えさせられる。
 
 スウェーデンを拠点に活動し、現在は日本在住のフランスの女性シンガーソングライター、ミルキーミーのセカンド・アルバムは見事なまでにギターという楽器の束縛をかわしている。ファースト・アルバムも同様で、楽器が誕生した意味の根源を提示する。
 
 アフロ・アメリカン音楽の要素と技巧を取り除いたアーニー・ディフランコと例えるのは安易だが、ミルキーミーが奏でるアコースティック・ギターの音色は実にシンプルで、ぱっと頭に浮かんだものをためらわず音にしている潔さがあるから演奏に嘘がない。大げさな様も微塵もない。これぞ演奏者の楽器との一体化と言いたくなる。彼女にとってギターとは純粋に頭の中で鳴っている音を具現化するものなのだ。そして最も聴き手の感情に響いてくる歌声が素晴らしい。繊細でいて大胆。哀感も楽しみの心地も含むその歌声は、そっと背中を撫でてくれるかのように響く。かと思えばパティ・スミスみたいな歌声も発するから良い。中にはPJハーヴェイ? なんて思う楽曲も含まれている。しかしそのどれもがやさしいのだ。自分の音楽スタイルを彼女自身が「雪とミルク」と表するように、雪のようにひんやりとしているが、部屋でホット・ミルクを飲んでいるような、ゆったりとした時間が再生すると溢れ出す。まるで時計の針の音のように生活に溶け込んでしまう音楽だ。
 
 本作をファースト・アルバムと比べてみるに、最も異なる点は使われている楽器の種類の多さと、様々な音楽要素を足しているところだろう。トランペットやヴィブラホンなどが使われているが、それもまた、楽器による束縛とは無関係に、ひょうひょうと鳴らされる。エレクトリック・ギターの音色だってとてもシンプル。だからこそ、どのような楽曲であれ歌声を邪魔せず嫌味にならない。然るにボサノヴァのようなジャケットそのままボサノヴァっぽい土臭さも感じさせる。上品なのではなく華がある。なにより彼女はあくまでもテクニックの限界に挑むのではなくギターをひとつのツールとしてしか見立てていない。それゆえ逆説的に限界が存在しない。挑戦を意識していないところに無垢がある。

(田中喬史)

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mia.jpg 新技術が登場すると世界の見え方が変わるのだろうか。メディアはメッセージで本当に成り得たのか、シャノン=ウィーバー・モデルを敷いて、所謂マクルーハン的な「メッセージ」の通俗的な解釈をしてみるに、メッセージには、既にある意味「運用」するだけではなく、新たに意味を創出する機能があり、メッセージは「線的」なものではないと言える。
少なからず「メディアはメッセージ」と考えると、宛先不明のメッセージが定式化できないという「分の悪さ」があり、ここには批判もなされてきたが、「受信者の状態変化」の在り方を
 
  suusiki_mia.jpg

 このように式化した際に、見えてくるのはメディアが変える「受信者」はおそらく「個」の集合体=社会であって、社会がメッセージを「受信」して変化せしめるということだ。もはや、今は「個」がメッセージをメディアにバイアスをかけることが出来る時代だからして、4月26日に彼女の「Born Free」のPVが突然、ドロップされたときに、コントロール制御出来ない世界の反応のカオスはマクルーハンが言う所の電子メディアは集団形式であり、文字文化以降の人間が利用する電子メディアは世界を収縮させることで、一つのムラを形成させる。そこには、あらゆることがあらゆる人に同時に起こる場所であり、あらゆることは起こった瞬間にそれを知り、参加することになるという文脈で言えば、LAの民兵グループが子供たちを集め、砂漠においてなぶり殺すという光景の一視聴者/参加者になることは造作もないことだった。僕個人としては、「Born Free」には意味はあったが、メッセージが無かった為に、有機的に機能しなかったのだろうと思うし、今更ながら肥大していたM.I.A.のイメージ戦略としても決して功を奏していたとは思えなかった。

 簡単に振り返ってみるに、M.I.A.とは「反逆者」とイメージに囚われ続けてきたきらいがある。マヤ・アルプラガサムの故郷のスリランカの内戦におけるシンハラ人とタミル人との衝突。タミルの血を引く彼女は父親が活動に身を投じる中で政府から追われ、また闘争の中で大勢の友人や親戚を亡くし、自らも転々と地を移り、11歳の頃、スリランカを出て、ロンドン南部の低所得者用公営住宅に住み、そこで、ヒップホップやダンスホールを学び、そこからアートスクールへ行き...と、バイオグラフィーには彼女の過酷な遍歴が詰め込まれている。多くの人もよく知っていることだろう。

 ただ、その来し方も勿論、大事なのだが、00年代の半ばのロンドンのクラブに行った事がある人なら周知だろうが、その時はダンスホール、レゲエ、グライム、バイレ・ファンキが重なり合うように流れており、それはグラウンド・ゼロの世界の中で新しい敵が仮想ではなく、明確に浮かびあがってきた狼煙かもしれなかったと言えた。対象はアメリカの新保守主義だったかもしれないし、グローバリゼーションという名の怪物だったかもしれないし、既にプレ状態でおかしくなりかけていた金融経済システムだったかもしれない。そのフロアーでM.I.A.は「地球市民」といった言葉を用いながら、いささか手荒い言葉を吐き、ファットなビート、それに反した凛としたルックスが合わさって、急速的に、「イコン」化していった。

 しかし、今の耳で05年の『ARULAR』を聴くと、如何せん雑だ。それは「猥雑」でもあるということなのだが、想ったより「こじんまり」としているという印象さえ受けた。ディプロ(Diplo)の「Bucky Done Gun」のイメージが強かっただけにケイヴメン辺りのものは少しソフィスティケイティッドされ過ぎている。ポップ・カルチャーの中で反戦を、平和を唱えることの意味はジョン・レノンの時代から延々と続けられている議題でもあり、宿命だが、彼女の場合は少しファスト過ぎた。

 このファーストから、PCを抱え、全世界を彷徨し、インドでは30人程のドラム奏者を集め、「Birdflu」を作り上げ、発表し、とスキゾに「行きあたりばったり」の中での砂金を探すようなレコーディングを続け、比例して、音楽シーンの中で彼女の存在はどんどん大きくなっていき、カバーを飾る事も増え、例えば、いつぞやのビョークの『Volta』、「チベット発言」的ヒップさよりも彼女のネクスト・アクションを待つ層が今回の新譜をどうジャッジするのか、僕には興味があった。07年の『Kala』の評価軸はある意味、ブレが無く、ファーストのローファイさを好んでいた人たちからはポップに鮮やかになった、とか、商業主義的な気配がより先立つようになった、とか、ボルチモア・ブレイクス、バイレ・ファンキといったゲットーミュージックの咀嚼の仕方が鮮やかになった、とか、ブレは無いからこそ、世界的な評価を得た。加え、このアルバムで名だたるプロデューサーを招聘し、グウェン・ステファニーとUSツアーを行ない、ティンバランド、ミッシー・エリオットと共演を行なうなどもあり、「セレブ」的な目配せを強烈に持つようにもなってきたからこそ、彼女の存在価値は「闘争」にあるのではなく、「逃走に近い何か」とアイロニカルに捉える事も出来た。

 さて、最新作『MAYA』に関しては僕は残念ながら、今までのように彼女に対する何らかの魅力を感得出来なくなった内容になった。ここにはダブ・ステップ以降の低音がきいた重さが通底しており、いつものスウィッチもディプロなども参加しており、エスニックなワールド・ミュージックが「展開」されているのだが、そこには強度がなく、いささか表層的だ。ラガ・マフィン、ディスコ、R&Bの消化の仕方も正直、僕には巧く手綱を握れているようなクオリティとは思えない。全体的にとっ散らかった印象なのはこれまで通りなのだが、どうにも、「整然と構築されたカオティックな渦」があり、その渦の目に立って、彼女自身が茫漠と虚空を眺めているかのような雰囲気さえある。何だか、エネルギーには充ち満ちているが、方向性が見えない寂しさがここにはあり、その寂しさはマクルーハンを使って説明できるかもしれない。

 ムラの条件が整えば整うほど、断絶や分裂、相違点が増す。地球ムラではあらゆる点において最大限の不調を確実にもたらす。統一感や安定感が地球ムラの特性では決してない。悪意やエンヴィーが増え、人たちの間から空間と時間が抜き取られてしまうとき、深いところで出会う世界は部族的でどんなナショナリズムよりも分裂的である。ムラの本質とは分裂(fission)であって、融合(fusion)ではない。とすると、彼女が掲げた理想や反抗は引き裂かれたまま、宙空に浮いてしまったのだろうか。

(松浦達)

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stars.jpg これはもう、ジャケ買いでしょう。ライトなホラー感のあるモノクロ写真。背後には薄っすらと人影が。でもバンド名はピンクだからポップ・センスを感じさせる。音の方も男女ツイン・ヴォーカルによるデュエットがロマンティックでいてポップ。5人組の彼らが繰り出すサウンドはヴァリエーション豊かだが、そのどれもがポップ感十分だ。アンドリュー・ホワイトマンがゲストとして参加。ブロークン・ソーシャル・シーンと共にカナダを拠点とするスターズが、自ら立ち上げたレーベルからの1作目『The Five Ghosts』、それはロマンチシズムをひょいっという具合に提示する。
 

 特に女性ヴォーカルの歌声がキュートでいてセクシー。ドット・アリソンとムームの元ヴォーカリスト、クリスティンを意識しているのか? と思えるような一人二役的な歌声が楽曲の雰囲気の幅を広げている。男女のヴォーカルを何重にも重ね幻想感を出したかと思えばシンプルに艶っぽい歌声を押し出す。さらにエコーを効かせてどんどん歌声を伸ばしていき、ぱたんと途中で途切れさせ、次の瞬間、おとなしかった歌声が軽やかにステップを踏み出すところにキュンときた。確信犯的なロリータ・ヴォイスはトミー・フェブラリー級だ。
 
 どちらかといえば、「ありそうでなかった」というよりは「ありそうで、やっぱりあった」というインディー・ポップスでとんでもなく目新しいわけではないが、そんなことはどうでもいいよというノリが良い。室内楽的なストリングスもアコースティック・ギターも、そっと触れ合う程度に添えられて、茶目っ気のある電子音もエレクトリック・ギターもピアノの音色もかわいらしく、つまりはアルバム全編がチャーミングなのである。しかし糸を切られた操り人形が意志を持ち、勝手に繰り広げる劇を観ているような奇妙な風景が目に浮かぶところもあるからたまらない。大げさで強引な例えを出せば、ビートルズのサージェント・ペパーズの世界をチャーミングにした感じ(とはいえ、なんとかリヴァイヴァルみたいなものでは全然ないよ)。凝っているけどお高くない。庶民的な朗らかさがあるというか、身近な暖かさがじんと伝わる。かなりの傑作だ。
 
 ただ、ボーナス・トラックは賛否両論だと思う。アルバム・リーフやオブ・モントリオールなど、「おお!」となる名前があるけど、妙にエレクトロニカっぽくしていて奏功しているとは言い難く、実験が実験の域を脱していない。ボーナス・トラックだと割り切って聴けばそれはそれでいいのかもしれないが、個人的には輸入盤の方が好みかな。

(田中喬史)

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yes_giantess.jpg 30年周期で巡ってくるタームというのはあるのだろうか、思えば、90年代には60年代のロウな音をディグするのがクールな要素因はあったし、00年代は70年代のラフさを好む傾向にあった。前者はベックにしろ、コーネリアスにしろ、サウンド・レファレンスの引き出しを多く持つ人間こそが、ブルーズやフォークへの目配せをしたのもあり、ポップ・システムのサイクルが構築されてから以後のスタイルや音には殆ど興味を向けなくなったというのもある。それを対象化する形で、後者側においてザ・ストロークスやザ・リバティーズは≪反≫ではなく、≪非≫を望んだら、ニューヨークの「なにもなさ」にサウンドがドロップインして、グラウンド・ゼロの荒野を鑑みた。見渡した時に、アート・ロック的なファクトリー的な無為なステーションが浮かび上がることになった。まるで、いつかのデヴィッド・ボウイのように。

 事実、ボウイの70年代で近年、最も再評価されたアルバムはベルリン三部作の『ロウ』だったりもするから不思議なもので、00年代後半から犇めくニューエキセントリックやブルックリン勢がまだまだ漸進的に80年代の「手前」で停まっていたと想えば、10年代に入ってのザ・ヴァンパイア・ウィークエンド、MGMT、イェーセイヤー(YEASAYER)、フォールズなどは見事に「80年代」的だった。サウンド・レイヤーの薄さは、今のソリッドなリスナーには目新しく響き渡ることになり、スクリッティ・ポリッティ、ソフト・セル的なハネは野暮ったくなくなり、ポリシックスは日本武道館を埋める代わりに、ニューウェーヴという言葉を使うにはリスキーな響きも存分に孕むようになった。

 反面、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手だったゴダールは新作をカンヌで発表しながら、「新しい波」という概念はどちらかというと、「Sleepyhead(眠れる頭)」のままで、「This Momentry(この刹那)」として回収されるようなナーディズムが輪郭線を結んだのは皮肉だが、周知の通りだろう。

 その輪郭線は今年一旦は、ボストンからの四人組のバンドYES GIANTESSの無邪気なポップネスに切り取られることになる。00年代の瀬戸際で現れた「逃走という闘争」を演じる青きシンセ・バンドのパッション・ピットのアダムの他に、エコー・アンド・ザ・バニーメンなどを手掛けたリアム・ホウ、ケイティ・ペリーのシンセ・ポップの軸を支えたスタースミスがプロデュースで参加したこともあってか、ビッグ・アレンジが揃った煌びやかさを、マイケル・ジャクソン亡き地平に、80年代の何処までも世界が繋がれた感覚をビートに乗せて、リプレゼントする。アーバン・ソウル、R&Bのリズムが軽快に撥ねながら、オプティミスティックなムードで麗しき「you」への愛、希求を綴る。

 シビアな見方をすれば、これが如何様にオンになる10年代の最初というのは僕自身は相当にキツいものを求められていると思うのだが、逆に解釈すると、ポップ・ミュージックにロマンティシズムを求めないでいる厄介な人種はまだまだ死滅しない、し得ないという証左でもあるというのは頼もしい。09年の「Tuff 'n Stuff」のシングルの時点で、大々的で古めかしいバンドの音だな、とまさか現在進行形の彼等のものとは思わなかったが、この度のファースト・フルの『SIREN』にて全体像を見渡すと、見事なまでに、80年代のマイケル、プリンス、ワム!、ニューオーダー、ペット・ショップ・ボーイズなどのバウンシーなユーフォリアが展開されていて、隙がないが、ストロークは広い。

 ユースはこれを「新しい」と言うのか、「ロマンティックで、最高だ(レトロフューチャーだ)」と言うのか、僕には分りかねる部分が多大にあるし、アレンジメントの80年代センスと比して、メロディーの冴えが気になる甘さもあるが故に、どうにもパースペクティヴの中でクラウドが手を上げている絵が明快に想起しにくいのは否めない。

 無邪気の裏には、権謀術数が張り巡らされているのは当たり前としても、彼等のこのメタな無邪気さはベタな周回遅れを意図しないだろうか。ホメオスタシスがどう機能するのか、アルバムの矛先に広がる景色を考えている間に、40分程の時間は蒸発する。そういう意味では成功作で、僕も「してやられた」のかもしれないが、どうだろう。

(松浦達)

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thieves_like_us.jpg 例えば色香、あるいはエロス、もしくは狂気、そしてエレガンス。その全てが、スウェーデン人とアメリカ人によるトリオ、シーヴス・ライク・アス(情報があまり見付からず、どこを拠点にしているのかイマイチ分からない...)のセカンド・アルバムに存在する。このバンドの多面性は不思議なことに思えるが、同時に必然だとも思える。耳元でささやかれる歌声、柔らかい電子音、気持ち良さそうに浮遊するその全てのサウンドが巧妙に溶け合って、聴き手をここではないどこかへ、それはきっと本作の世界へと眠りに落ちるように導き浸らせる。セックスに乙女のようなロマンチシズムを抱くティーンが、ドクロが漂うディズニーランドで無邪気に遊ぶ。そんな世界観を持つこのエレクトロ・ポップスは、優美とほんの少しの狂気を合わせ持つ。
 
 エレクトロニカを通過した視点で作られたエレクトロ・サウンドは時にニュー・オーダーやチャプターハウスを彷彿させる。だがきちんと「いま」の音になっている。エレガントであることを貫き、ギターも歌声もリズム・セクションも、暗闇にわずかな明かりを灯す程度に暖かく、すっと意識の糸を抜かれてしまう心地に満ちるトリップ感。それはひとつの色香の狂気。夢遊病者と化すであろう幻想的なエコーやノイジーなギター・サウンドをタイミングよく鳴らすセンス、熱気の一切を排除した音の全てはエロスという言葉がふさわしい。さながら村上春樹が表現する救いとしての性行為のように。
 
 音楽を聴く行為とは聴き手と音との同一化に似ている。同一化とは「同一ではないこと」を肯定して初めて生まれるのだ。本作『Again & Again』は人と音楽は別ものであることを肯定し、決して簡単に分かち合えないことを肯定する。そうして親密性の高い、色めいた音色を奏で、音と一体になりたいという欲求を聴き手に生じさせてしまう魅惑がある。性行為と同じように。
 
 エレクトロニカに近い本作をエレクトロニカと比べてみるに、アンビエント的なエレクトロニカには演奏者との会話は生じることがほとんどなく、聴き手に他者、または演奏者の妄想を強いる場合が時としてある。だがそれは、聴き手の自意識によって作られた偶像で、妄想によって他者を作り上げ、対比のかたちで自分という主体を守っていると言える。自意識に害の無いものを求める現代にあって、一部のアンビエント色を押し出すエレクトロニカは他者(音楽)との会話を排除したひとつの功罪という現代性を端的に表している。
 
 だがシーヴス・ライク・アスは会話を迫る。聴き手と音楽は別個の存在ということを前提として『Again & Again』を目の前に差し出し、聴き手と対面させ、同一化を欲する。それは場合によって、他者の介入を許さないアンビエント系のエレクトロニカを好むリスナーの視点で見れば、あまりにも美しい他者(本作)との対面であり、ある種の狂気だ。いや、もしかしたら優美である本作そのものが、優美なものが薄い現実世界の中にあって、狂気なのかもしれない。そうしてやがて訪れる音との同一化。本作はエレクトロニカではないが、一部のエレクトロニカのアキレス腱、そこへの問題提起に成り得ている。美しさとともに。
 
 美というその曖昧な観念への解答は、僕はまだ示せていない。おそらく答えなどないのだろう。だが雨が止むから晴れるのだ。涙が枯れるから笑顔になるのだ。この音楽が、僕には泣いているように思える。静かに、しとしとと雨が降るように。しかし、それでいい。笑顔より、静かな哀しみの方が美しく感じられるときがある。

(田中喬史) 

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rooney_eurika.jpg LA出身の「永遠の夏を歌うナイスな奴ら」ルーニーが3年ぶりのニュー・アルバムをリリースした。前作が5年振りだったのでなかなかのスロウ・ペースだ。欧米では根強いファンがついていて(日本人が大好きなサウンドだと思うのだが、不思議なことに熱心なファンには遭遇したことがない)、アーティストからも人気が高く、彼らはストロークスやトラヴィスともツアー経験がある。シュガー・レイのようなサーフ・ポップ(夕焼けを受けてキラキラと光る砂浜...)が魅力のルーニーだが、時間をかけているだけあって彼らのアルバムのソングライティングのレベルは最高峰と言っても過言ではないだろう。ファウンテインズ・オブ・ウェイン並みだ。ジョージ・ルーカスの「アメリカン・グラフィティ」が2010年に制作されたとすれば、ルーニーのナンバーがそのサウンドトラックに名を連ねることは間違いない。私が彼らに深く入れ込んでいるのは、中学生のときに彼らのファースト・アルバムの虜になって、それ以来その感覚を忘れられずにいるからだ。ノスタルジアと言われればそれまでかもしれないが、何か特別な風景を思い出させてくれる音楽というものはとても愛おしく、いつまでも手放せないもの。前作は終始はち切れんばかりのハイ・テンションで次々にキラー・メロディが飛び出してくるような印象だったが、今作は少し落ち着いて後半はルーニーの新たな一面(AORのような)も見ることができる。こりゃまた素晴らしいサマー・アルバムを作ってくれた。また現実逃避してしまいそう。

(長畑宏明)

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Gifts_ From_ Enola.jpg 一昨年辺りから話題を集めるポスト・ロッキンなレーベル、The Mylene Sheath。07年に始動し始めてから早一年でCaspianや、筆者が必死にお薦めするBeware Of Safety、そして飛ぶ鳥を落とす勢いの残響レコードからも見染められたYou.May.Die.In.The.Desertらの音源をリリースしている。そしてここに紹介するGifts From Enolaもまた例に漏れず、破竹の快進撃を極めんとするヴァージニアの暴れん坊4人組なのである(You.May.Die.In.The.Desertとは以前にスプリット作もリリース済み)。

 大胆不敵(!)なバンド名に面喰ってしまうが、彼らの特徴→所謂武器となるサウンドの核はシンプルな爆音ロック。然しインスト系のバンドを紹介するにあたってよく引き合いに出されるモグワイやエクスプロージョン・イン・ザ・スカイ、はたまたシガー・ロスやゴッドスピードらとは全く異なる性質。そして何か革新的であるかと言えば、別段"新しい"といった代物でもない。但し、絶対的に新鮮なのだ。

 フガジが築いたエモの系譜を更に現代風=ポスト云々にアレンジする手法は、今年惜しくも解散したフロム・モニュメント・トゥ・マスィズにも共通項を見出せるが(曲中に流れる台詞のSEを挿入する部分など含め)、彼らの場合はモダンでありながらもハード・ロックな荒々しさと、ハードコア気質な「キレ」を兼ね備えた瞬発力と爆発力を上手く楽曲中に組み込んでいる。プログレッシヴな要素は抑え目に、へヴィなリフ・ワークでゴリゴリと押しまくる男臭いグルーヴが堪らなくアツい! 思わず握り拳を作りたくなるほどにエモ―ショナルなメロディとの相性もバッチリ。

 アルバムとして前二作を経て発表された自信漲るセルフ・タイトル作。前作『From Fathoms』から凡そ1年で制作され、このスピード発表まで扱ぎ付けたのだが、その期間の短さが物語るのは、鍛え上げられたタイトな演奏と沸き起こる制作意欲に他ならない。基本インスト系だが咆哮あり歌ありとアプローチも多彩なのは、あのパーティー・ハードな鼻血兄さんアンドリューW.K.とのツアーも果たし、力強くビルド・アップした経験も一役買っているのだろう。プログレよりも完全にマス・ロック寄りで小難しいことなど抜きにビシバシとフィジカルに感覚出来るカッコ良さったら...! アイルランドのAnd So I Watch You From Afarもそうだが、今後シーンのカギを握るのはこういった様々なジャンルの境界線上に居て、その垣根を打ち壊し、よりデフォルト出来る存在なのだろうと再認識させられた全5曲。

(田畑猛)

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hot_hot_heat__future_breeds.jpg そりゃそろそろ真っ当なのは避けたくなるよね。セカンド、サードととにかくポップを全面に打ち出した作風で、しかもそれが大受けしていたので、反動で今度はファーストの頃の「ヘンテコ」感が戻ってくるだろうな、という予感はしていた。アメリカのポップ番長、オーケー・ゴーは最新作でファンクとも取れる新たな領域に踏み出したが(そしてそれは見事に成功した)、カナダのポップ番長もまた3年のあいだにバンドの音楽性を一歩も二歩も先へ推し進めた。ふむ、たしかにこれは初めてホット・ホット・ヒートを聴く人にお勧めするようなアルバムではない。だが、少しでも彼らの音楽に興味を持ってきた人ならばその進歩をありありと感じることができるはずだ。一度正面切ってポップに取り組んだバンドが、再び自分のルーツに立ち返り(彼らの場合はやはりニューウェイヴ。そしてアヴァンギャルドというフレーズも欠かせない。)、一枚のアルバムを完成させるというのは並大抵の作業ではない。ましてや彼らは2000年代に「Goodnight Goodnight」という最高のポップ・アンセムを残しているだけに、あえて安住を嫌ったのはそれだけでも賞賛に値する。アルバムの「実際の」出来も文句なし。私が個人的にホット・ホット・ヒートを追いかけ続けてきたということを抜きにしても、いますぐ輸入盤をゲットしたほうが良い。

(長畑宏明)

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innocence_mission.jpg 大きなフードのついた服を着た横向きでモノクロの少女を、ヴィヴィッドな色合いの丸い葉をもった二本の木が両脇から挟んだ美しすぎるジャケット。2007年にリリースされたイノセンス・ミッションのアルバム『We Walked in Song』は当時、気がつけば音楽誌から個人ブログ、レコード店など至るところで目にした記憶がある。僕も思わずデザインに惹かれ手にとってしまい、スピーカーから流れた穏やかで清浄な音に感極まってしまった。そこから遡って聴いた2003年の『Befriended』にも強く胸を打たれたし、更に遡って1999年の『Birds of My Neighborhood』にも感動を...ちょっとクドイか。

 そして先ごろ、本作『My Room In The Trees』がリリースされた。同じ学校の出身で舞台劇の制作をきっかけに85年に結成されたペンシルヴァニアのフォーキー・トリオ、イノセンス・ミッションは、91年リリースの二枚目のアルバム『Umbrella』以降、(2004年にリリースされた、伝承曲やクラシカル・ナンバーをカバーした子守唄アルバム『Now the Day Is Over』を除けば)ほとんどの場合3~4年の均等な期間を開けて、大きく音楽性を変えることのないままリリースを続けている。

 このバンドとはだいぶ異なったアプローチながら、「静謐で美しい音楽性を職人的に続けてきた」という点で大きく共通するブルー・ナイルという英国、グラスゴーのバンドの「(ファースト・アルバムから数えて)5年→7年→8年」というリリース間隔(と、伝説的ともいえる寡作ぶり)もそうだが、両者とも商業ベースとしては自殺的ともいえるマイペースぶりながら、その生涯を捧げるかのように作風は貫き通され、遠方へ離れた友人から届く手紙の如く忘れかけていたときに新作が発表されるたび、変わらぬ姿を見せては安心させてくれる。ただでさえシーンの消化速度が目まぐるしい現代で、こういった人たちの存在には本当に励まされる。その良さが冒頭に書いたように話題となって広まり評価されるのは(それこそ、イノセンス・ミッションはかのジョニ・ミッチェルにまで見出され、共演も果たしている)本当に喜ばしいことだと思う。

 繰り返しになるが、今までもそうだったように、この新作においても彼らの特性である奥行きのあるサウンドは微塵も揺らいでない。遠くで鳴る脈拍のように暖かみのあるアップライト・ベースに、柔らかなタッチのピッキングで奏でられるアコースティック・ギター。そして、瑞々しい少女性を孕んだ、バンド(名)の目論むイノセンスなミッションを何度でも遂行しうる純真さをもったカレン・ペリスのヴォーカル。ときおり鳴るピアノやクリアーなエレクトリック・ギターの音色も明るみをもたせている。カレンと(ギターの)ドン夫妻の自宅でライブ録りされたというラフな録音もいい。

 ささやかなマイナー・チェンジとしては、本人たちも言及しているとおりでパンプ・オルガンの多用が挙げられるだろうか。「学校からの帰り道」がテーマだという本作は、歌詞において晴れの日と雨の日が曲のほとんど交互に訪れ、「雨」「レインコート」といった単語が頻出する。童心とちょっぴりの湿り気をもつ詩世界(よく見るとカバー・アートも曇り空だ。デザインは前作に引き続きカレン・ペイジが担当)のもたらす淡い憂愁を、アコーディオンに似たほのかな低音も違う形で表現している。

 幻想的な演奏はときに雨空を、ときに差し込む日差しを描写し、カレンはポジティブにもネガティブにも陥ることなく、感情的でありながらストーリーテラーとして一歩引いた客観性も保ちつつ、神への愛や幸せな月曜日について歌う。甘やかすことも説教くさくなることもせず、穏やかな物語はただそこに在り続ける。いつだってそうだったが、日常と非日常のあいだの、もっとも詩的な好奇心をくすぐるラインの上をイノセンス・ミッションの音は静かに流れていき、耳元と心に安心をもたらし、離れてもふとしたときに戻ってみたくなる。このアルバムの4曲目のタイトルは「Gentle The Rain At Home」。"家のなかにいれば雨もやさしく感じる"というのは、まさしく彼らの音楽についてうまく表しているような気がしないでもない。

(小熊俊哉)

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jam.jpg 困っちゃうんだよなホント。こんなに良いエレクトロ・ポップスを作られてしまうと、(エレクトロニカ・ファンの僕としては)エレクトロニカはもはや大衆音楽として働いていないのかな、なんて、思ってしまう。というのも、Chees Clubからデビュー7inchシングル「NO SURPRISE」をリリースし、絶賛されたイギリスのジェームズ・ユール(彼はジャケットのイラストそっくり)。親日家でもある彼が<Moshi Moshi Records>から発表した本作『Movement In A Storm』は、エレクトロニカだろうとテクノだろうと、ハウスだろうとトランスだろうと、結局のところ全部文字通りの意味でポップじゃないか! という具合に、ぱぱっと手品みたいな手さばきでポップな部分を選り抜く。そして誰もが楽しめるエレクトロ色満載のポピュラー・ミュージックにしてしまう。
 
 冒頭の「Give You Away」からして気持ちいい。4つ打ちを上品に響かせ、抑制されたジェームズの歌声と女性ヴォーカルのコーラス、そして破綻のないメロディが、ただのダンス・ミュージックではなく寝起きに聴いても心地いいであろうポップ・ソングとして息をしている。2曲目の「Crying For Hollywood」だって4つ打ちの上に乗るアコースティック・ギターの音色がソフトで良い。思わずほほが緩んでしまう。クラブではなく太陽の下で聴きたいエレクトロニック・ミュージックなのだ。
 
 しかしエレクトロニクス音のみで語れるアーティストではなく、彼のメロディはセンス抜群である。仮にハー・スペース・ホリデイが浮遊感を目指したとしたら、ジェームズ・ユールはたとえギター一本と歌声でも真っすぐ胸に響く甘美で地に足がついたメロディを奏でられるシンガーソングライターだ。ニック・ドレイクから多大な影響を受けた彼のメロディはゆったりと、しかし哀感を含んでいてたおやか。その様がもっとも窺える楽曲は4曲目の「Foreign shore」だろう。するりと染み込み、感情の温度を下げられてしまう演奏の素晴らしさ。彼のシンガーソングライターとしての誇りの高さを感じた。ジェームズ・ユールのMySpaceのジャンル名に「フォーク」という文字があるのも納得できる。
 
 それにしてもエレクトロニクス音の使い方が本当に巧い。これはテクノかエレクトロニカなのか、なんていう議論が起こらないほど自分のものにしてしまっている。良い意味でジャンルへのこだわりがないのだ。もしかしたらエレクトロニック・ミュージック界も、様々なジャンルを同列に見立てるアーサーラッセル的な、つまりはジャンルによる区別がさほど重要ではないところまで来たのかもしれない。それを「ムーヴメントは激動の中」というアルバム・タイトルが物語る。でもタイトルとは裏腹に、踊ってよし、鑑賞してよしのかわいいサウンド。ただしジャケット同様、お酒はあまり似合わないです。ビスケットかじりながら聴きたい感じ。そんなところもかわいい。

(田中喬史)

 

*日本盤は7月21日(水)に Imperialよりリリース予定。スペシャル・エディション版はデビュー・アルバム『ターニング・ダウン・ウォーター・フォー・エアー』をカップリングしたスペシャル・プライス盤となっている。【編集部追記】

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UNBUNNY.jpg  シアトルのSSWであるJarid del Deoによるプロジェクトであり、6年振りにして6枚目のオリジナル・アルバムである。 アコースティックギターの弾き語りを基盤に、フォーキーでアメリカンなロックを渋く歌い上げる。ポップというよりは、ニールヤングに憧れる少年がそのまま大人になってしまったような、ノスタルジーさが魅力的のアーティストだろう。 私は一聴して溜め息をもらした。あの時代のフィルターを見事に透過している。ミックスの云々では突き抜けられない質感と哀愁の境地に立っている。舞い上がる砂が目に入ってくるようなリアルな音像だ。そのようなごつごつした質感に辿り着いたのには、背後で鳴るギターソロであったり、コーラスであったり、ピアノであったりの要素も不可欠であっただろう。しかし彼らは自己主張をしない。良いメロディが練り上げられている以上、過多の主張は野暮なのだ。 アルバムのタイトルがそうであるように、本盤の哀愁は夜道の哀愁である。広大で暗然とした夜の荒野を俯き気味に歩いている。だが本当に暗い夜道になるほど、我々は改めて青白い月の光の優しさにはっとさせられるのだ。

(楓屋)

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korn.jpg 90年代半ばになり、モダン・ヘヴィネスというジャンルができあがり、代表格としてはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがいた。つまり、ヘビーロックのサウンドスケイプを参照点に、ラップ的に速射砲的なボーカルを乗せるスタイルと言えるだろうか。セカンドの頃のリンプ・ビズキット『Significant Other』はその優秀なモデルであり、最大公約数であり、マリリン・マンソンをして(揶揄込みで)「スポーツ・メタル」と言わしめるだけの軽やかさと徒花性を前景化させたが、当時、世界中で大型のフェスが台頭している中、確実に機能的に多くのクラウドを煽動させることが出来るサウンド・スタイルとしては発明だったのも確かだった。そこには、メタルもヘビーロックもヒップホップも平準的に煮込まれており、非の打ちどころのないサウンドスケイプを築き上げており、その代表格のバンド勢はそれぞれの色を強く打ち出した。例えば、冒頭のレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは硬のようなバンド・サウンドにザックの政治性の高いライムが乗るというシリアスさを提示し、311はレゲエやヒップホップの影響を上手く咀嚼したミクスチャー・ロックの反射神経の高さを表象するといったように。

 その中でも、異端だったのがKORNだろう。

 それは幼児期~少年期のいじめやトラウマ、死体置き場でのバイト体験をベースにした怨嗟にも満ちたジョナサンの"泣き喚く"ようなボーカル・スタイル(その後、実際にレディオヘッドの「Creep」をカバーしたりしたが)にも依拠するだろうし、どうにも凡百のヘヴィーロック勢とは違う不穏な不協和音が混ざるサウンドをして、ニルヴァーナやナイン・インチ・ネイルズ的な集合的無意識的なダークネスを担う分だけの巨大な存在になるべくしてなっていき、自ら「FOLLOW THE LEADER」と銘打ち、コアなファン以外にもポップなフィールドにも切り込んでいった。

 しかし、彼らを語る際の「闇」とは記号論にしか過ぎないものであり、それは猟奇殺人事件の犯人の心を語るときの卒業アルバムや、個人のナラティヴとその表現物を「ダイレクト」に結び付けるくらい、無為なものだ。例えば、デカルトは普遍的懐疑において、感覚的事物の確実性について疑うが、その懐疑のプロセスで「狂気の人」に触れる。そして、『第一省察』の中で次のように言う。「彼らは気が違っているのであって、もし私が彼らの行ないを真似たりするなら、私自身彼らに劣らず同じような扱いを受けるであろう」。それに対して、フーコーは『狂気の歴史』で、このデカルトの言説をこう解釈する。この懐疑の手口がどのような社会的な、イデオロギー的な意味をもつか、ということをベースに、私が、彼らと同じようだと言ってしまうと、私が非理性的な人間になるので、私は彼らと違う。デカルト自身は、その懐疑におおげさな社会的な意味をもたせているわけでないと思うものの、以後の歴史を見ると、倫理的な空間で大きな問題が起きてくるという訳だ。大きな問題とは、もっと敷衍して考えてみると、デカルト以前には、「モンテーニュ的な理性」というものがあった。それはモンテーニュの『エセー』で、「人間というのは、理性的であって、かつ非理性的だ」、といった記述に代表される。それに対して、考える精神である「私」は狂ってはない、とデカルトは断定する。それが所謂、「デカルト的な理性」の時代。それは、非理性の排除を実践する時代においてコーン的な世界観は大いに有効だったし、同一化出来る余地があったのは確かだ。

 しかし、フーコーは、デカルトの場合は、人間の中にある、もしくは人間そのものの本質を形成しているかもしれない非理性的なものに、狂気というレッテルを貼り、人間の中からそれを外に「追放」してしまう構造論に言及する。つまり、現実の政治的権力から見ると社会的に不都合な人たちを特定の施設の中に囲い込む、閉じ込めていくという実践的なプロセスが始まる一つの尺度がデカルトの掲げた理性である、と。となると、デカルトのような形而上学的ディスクールも歴史的ディスクールを離れて存在しえないことは自明になってくる中で、モダン・ヘヴィネス(近代の重さ)とは解体される。

 レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは解散、再結成の中で明らかに「エッジ的な何か」を失っていき、リンプ・ビズキットはどうにも空中分解した。メンバーを変えながら、生き延びたコーンは今回、ロス・ロビンソンと再び組んで、原点回帰を掲げ、プロトゥールスを使わない録音を敢行して、『Ⅲ』とアルバムタイトルに付すように、これが自分たちのサード・アルバムだという意味を含めたが、もはや「形式」だけが輪郭を結ぶ絶妙な重さが破綻なく、おさまった内容になっている。リンキン・パークやマイ・ケミカル・ロマンス辺りの音が既に提示されている今にこの音は或る人にはノスタルジーを、或る人には目新しさを発見するかもしれないが、このサヴァイヴの仕方をして成功例として括るには浅愚が過ぎるし、彼等の原点回帰の原点とは「あるようでなかった、幸せな90年代の景色」だったとしたならば、この作品が受容される磁場は如何に健康的なのか想像するに難しい。何故ならば、世界は此の音よりもっと先で荒んでいるからだ。

(松浦達)

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subarashiki_sekai.jpg 生きていればきっと、
 いつかいいことがある。 
 僕らの生きる
 優しくも悲しく、
 楽しくも切なく、
 そして強くはかないこの素晴らしい世界で...。


 浅野いにおという漫画家を知らなくても今年公開された宮﨑あおい主演『ソラニン』を知っている人は多いと思う。『ソラニン』はゼロ年代の初期のロスジェネ世代のモラトリアムを描いたものだった。
 
 この作品をリアルタイムで雑誌連載時から読んでいた僕には作中に出てくる彼らは僕自身の分身のようにリアリティのあるものだった。僕はバンドや音楽をしているわけではなかったけど、その流れる空気感の中で二十代の前半をゼロ年代を過ごした一人だったから。

 『ソラニン』の雑誌連載が終わった07年に「リーマン・ショック」が起こった。この世界的な大不況は僕らが二十代前半に味わえた、味わう事でなんとか現実に向き合う事から少しだけ逃げ出すこと可能だったある種の逃避ができないまでに世界の構造を変えてしまった。

 僕らの下の世代はもはやモラリアムを過ごす余裕すらも奪われてしまった。そういう意味で『ソラニン』という漫画での登場人物たちに憧れてしまっては困るし肯定できるわけではないと浅野いにお氏も雑誌インタビューで述べていたが、この作品は『ロストジェネレーション』と呼ばれる世代にかなり思い入れが強い作品となってしまった面がある。

 映画『ソラニン』で楽曲の『ソラニン』と『ムスタング』を提供したASIAN KUNG-FU GENERATIONの最新アルバム『マジックディスク』の中には『さよならロストジェネレイション』が収録されている。浅野いにおとボーカル・後藤正文が同時代を生きて似た体験をしているからこその映画への楽曲提供、雑誌での彼らの対談のある種の意思疎通や共闘感が窺えた。

 『さよならロストジェネレイション』を聴いた十代のアジカンファンには「ロスジェネって何?」「バブルって何?」という人もいるらしい。「ロスジェネ」の意味なんか知らなくてもいいけど、そのぐらいにかつてあったことはすぐに忘れられている。今の不景気の元凶や流れの根本すらも若い世代には共有されていないのかもしれない。

 そのキーワードとしての「ロスジェネ」と「ゼロ年代」という単語。浅野いにおは2000年に『ビッグコミックスペシャル増刊Manpuku!』で読み切り作品『普通の日』でデビューをした。
 その後月刊サンデーGENE-Xの第一回GX新人賞に「宇宙からコンニチハ」が入選し、翌年から同誌で『素晴らしい世界』が連載開始された、それが著者の初の単行本となる。それは二巻からなる連作短編集で一話完結だが、登場人物たちが微妙に繋がっている世界の話である。

  GX創刊10周年スペシャルエディションとしてその『素晴らしい世界』が完全版として発売された。コミック二巻と違うのは雑誌掲載時のまま掲載順に特別編集されている点と、コミケ会場限定版小冊子収録スピンオフやPR用に書き下ろされたショートストーリーが完全網羅されている点だ。

 僕はコミック一巻が店頭の新刊コーナーに置かれている時にその表紙(熊の着ぐるみの頭を被って走る絵のやつ)が気に入ってジャケ買いしたことから浅野いにおという作家を知り追いかけるようになったので雑誌掲載時の状態を知らなかった。今回のスペシャルエディションを読むとこうだったのかと思うところが多々あった。
 
 コミック二巻の最後に掲載されている『桜の季節』が一番最初に掲載されている、しかもコミック版よりも絵がまだヘタで微妙に違う。コミック二巻に掲載された『桜の季節』はラストプログラムとして載っているので見比べるのもいいと思う。

 『桜の季節』と言えば亡くなってしまった志村が在籍していたフジファブリックの名曲と同名タイトルではあるが、『素晴らしい世界』という作品は中村一義の作品からの影響を受けていると浅野氏が『QJ』でのインタビューで答えているように九十年代からゼロ年代にロックンロールをかき鳴らした、ポップな色彩をまき散らした日本のバンドたちの影響が見られる。

 スペシャルエディションに掲載されている順にタイトルを挙げると「桜の季節」「脱兎さん」「坂の多い街」「森のクマさん」「ワンダーフォーゲル」「白い星、黒い星」「サンデーピープル」「mini grammer」「Untitled」「シロップ」「バードウィーク」「雨のち晴れ」「砂の城」「おやすみなさい」「月になると」「素晴らしき世界」「あおぞら」「春風」「桜の季節」「それから」「花火」「デッド・スター・エンド」「愛のかたち」「HARRY STORY」と並んでいる。

 何個か思い出せる曲名とタイトルが一致する。その光景が、かつて過ぎ去っていった風景が、極めて僕らが過ごして通りすぎたモラトリアムな時期を救ってくれた、並走してくれた、慰めてくれた曲と同じ名前を持っている。そういう意味でも『素晴らしい世界』に流れる空気感は極めてゼロ年代的なものをもち、それらの楽曲を過ごして十代から二十代へ、学生から社会人となる過程を過ごしていた「ロスジェネ」世代には極めて身近な作品になりえる。
 
 ただ、身近な友人の中で浅野いにお作品が苦手な人を見るとそれらの楽曲に思い入れがない、好きではない人にはやはり苦手な作家となりやすいというのもこの十年でわかったことではある。浅野いにおが描く世界観はそれらの影響下から派生しているのでそれらに親近感を持つ人はその世界に違和感なく入り込める。『ソラニン』という作品もそういうものだったのでないかと思う。

 浅野いにお氏がイメージイラストを描いているTBSラジオ『文化系トークラジオ Life』という番組がある。この番組は06年から開始され現在まで続いている。番組名に「文化系」とつくようにサブカルチャーから社会時評をするトークが人気な番組だ。浅野いにおの本を絶対に見かける場所といえばサブカル好きには外せないスポット「ヴィレッジヴァンガード」だ。どの店舗にいっても浅野いにお作品は平積みされている。

 僕はそうやって出会ってしまうのがいいなって思う。ある日初めて聴いたラジオで、興味もないのに友達に付き合った本屋で、たまたま入ってしまったCD屋で、僕らには「未知との遭遇」が必要だ。その遭遇は僕らを知らない場所に連れて行くし、出会う事のなかった誰かを引き寄せる力を持っている。今まで知らなかった痛みを教えてくれる、あるいは忘れられない景色を、そしてふと思い出してしまう後ろ姿や匂いみたいなどうしようもない気持ちも、きっと。

 読み終わると家から飛び出して散歩したくなる。このどうしようもなく素晴らしい世界の色彩を確かめに、僕以外の誰かの生活があることを感じるために。この世界は時々は素晴らしいと、すれ違うあの人の人生がいつか、いやもうすでに僕の人生と関係しているのかもしれない、世界はそんな風に回っているんだと思うとなぜだか嬉しい。

(碇本学)

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thegeese 1.jpg ザ・ギース(THE GEESE)はコントのワークショップで知り合った高佐一慈と尾関高文の2人組のコント師。シティボーイズに憧れていたという通り(同じ事務所に入った)、シュールな設定とそれでいてベタなギャグも織り交ぜたネタが持ち味。本DVDは第6回単独ライブを収録したもの。

1本目の「テレパシー美容室」は、テレパシー能力を持った者同士が美容師と客として出会い、表向きの会話とテレパシーでの会話が同時になされる。2つの筋が交錯していく様はギースの持ち味が十二分に出ており、このライブへの力の入り様が感じられる。
「じゃない方OL」は、前回公演『Dr.バードと優しい機械』での「逆」(言葉の意味を逆に受け取ってしまう癖がある男のコント)のバリエーション。シュールな設定を噛み砕いて再構築しており、彼らのファン以外へも伝わりやすくなっている。
「CUT」は短い1シーンが演じられた後に「カット!」の台詞で新たなシーンに移り設定が上書きされていくもので、後半の畳み掛けと伏線の回収が見事で、力と技を存分に味わえる。
1番の大作はラスト(※)の「大人の階段」。中学生が、実在する"大人の階段"を一段ずつ上るにつれて実際に成長していくもの。段の高さによってキャラクターが変わっていく様が素晴らしい。

この公演は2010年4月に新宿シアターモリエールで8回に渡って行われた。若手芸人としては珍しい長さで、全回がソールドアウト。テレビでの知名度自体はまだ高くないが、現場では着実に人気が上がっていることが分かる。以前REVIEWで紹介した『東京コントメン』などを初めとしてライブ活動も積極的に行っているので、DVDやテレビで観て興味を持った方には、地理的な条件が合えば劇場に是非足を運んでいただきたい。

 

*ライブでは「BOOKOFF2010」というコントがラストだったが本作では未収録。諸般の事情でカットされたと思われるが、他と比べて格落ちの感が強いネタだったので却って良かったように考える。

(サイノマコト)

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  houhou_douu.jpg 新鋪美佳と福留麻里によるダンスデュオ、ほうほう堂。2人ともに身長155cm。

 この2人のダンスを観ていると、よろこび、という言葉が浮かんでくる。

 まずは振付。小柄な身体全体を使ってダイナミックに踊ったかと思えば、リズムに乗ってユーモラスな動きをする。仕草も含めたチャーミングさは凶悪ですらある。
屋外へ突然走り出たりといった自由な展開は観ている者へインパクトを与えるのだが、ただそれだけに止まらずストーリーをきちんと完結させるため、独りよがりのものではなく、外に向かって開かれている。
 また、劇場だけでなく、日常風景の中でも踊っていることも重要。例えばそれは喫茶店であったり、ビルの屋上であったり(観客は他の建物から観る!)、町なかにある大きなサボテンを仰いでみたり。彼女たちにとって、ダンスが非日常的なものではなく、生活と地続きであるという印象を受ける。
こういった全てのことが、内にある感情を自身の身体を通して、文字通り等身大で表現していることを、表現するよろこびの感情を伝えてくる。

 最近では、同じ振付を複数のDJのプレイで踊るという、「ほうほう堂 vs DJs!!」という企画を行っている。同じ動きなのに見え方が変わる刺激的な試み。次回は7/24、六本木SuperDeluxeでの「WOSK」にて。まずは、毎月更新されているサイトの映像を観ていただきたい。

 にかスープ&さやソースとのコラボレーションを通してご存じの方もいらっしゃると思う。最近でも『HEADZ 15 Anniversarry』(2010/05/28@O-nest)でテニスコーツとのコラボレーションが行われた。お互いが次にどんな手で来るのかという手合わせをその場で行いつつ観客の前で演じている緊張感と、それでいてゆるっとしたユーモアが同居しているもので、観ているほうも両方の空気をそのまま味わう素晴らしい舞台だった。「バイババビンバ」は元々優しく開放されている曲だが、この時の共演は祝祭感を纏っており、とても善い時間だった。

 

公式サイト
http://hoho-do.net/


(サイノマコト)

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hataraki_man.jpg 「オレは仕事しかない人生だった。そんなふうに思って死ぬのはごめんですね」と、登場人物のひとりが言う。それに対し、主人公の松方弘子はこう言う。「わたしは仕事したなーって思って死にたい」。どちらも正しいと僕には思える。いや、どちらが正しくて、間違いなのか、といったものはないのだろう。ただ、漫画『働きマン』の帯には大きくこう書かれている。

「僕らはみんな働くために生きている!」
 
 生きるため(生活のため)に働くのではなく、「働くために生きている」とは、かなり大胆な発言だが、この漫画で描かれているものは働くことに生きがいを感じる女性編集者の、まさに大胆この上ない仕事ぶりである。
 
 安野モヨコという漫画家は恋愛漫画を描いていたが、『働きマン』に恋愛事はあまり出てこない。ひたすらに、仕事、仕事、仕事である。週刊誌「JIDAI」の女性編集者である松方弘子は、一生懸命というより、死にもの狂いで、と書いた方が適切と思えるほど仕事に打ち込む。その結果、スクープを取るなど、雑誌に貢献している。自分が体験したものを他の誰でもない自分自身で判断し、ありのままを記事にする彼女の姿勢は素晴らしいし、「これは絶対に記事にするべき」という発言や行動もまた潔くて素晴らしい。そして何より松方弘子にとって、自分の仕事である原稿書きや編集が認められたときこそ、最高に快感を覚える瞬間なのだ。
 
 しかし、ときとして、主人公の過剰な必至さがあだとなり、自分を見失う場面がしばし見受けられる。そんな中、上司の励ましや、取材相手の言葉にハッとし、今まで以上に精進するなど、人との出会いにより、タイトルで言うところの「働きマン」(決めポーズはウルトラマン)としてさらに成長し、仕事を達成することで自分の存在価値を得ている。いわば取材、編集を通じた人間の成長を描いている漫画だ。
 
 数年前に転職を煽る広告がネットにおいても電車内の広告においても多く見られた。そして、いわゆる転職ブームなるものが起こった。それは「僕には、私には、もっと自分を活かせる職業があるはずだ」という空気であり、その空気は今もあると僕は感じる。自分がやりたい仕事をやれば、それが自らの存在を証明し、いわゆる生きがいという価値を得ることができるという自意識。しかし、安野モヨコは『働きマン』でそれを描かない。あくまで与えられた編集者・ライターという仕事の中で、登場人物自身が生きがい・やりがいを見付け出す様を描いている。
 
 主人公の松方弘子は編集者という仕事に満足はしていないが、だからといって他の職を探すことはしない。満足できないのは仕事のせいではなく、満足できるほど編集・ライターという仕事に打ち込んでいないからだ、ということに主人公が気付くのだ。これは他人事ではなく、僕にグサッと刺さった。
 
 理想の仕事を探し転職することは悪いことでも何でもない。しかし最も重要なのは、「どんな仕事をするのか」ではなく、「与えられた仕事の中でどのように生きるのか」である。人の為に職があるわけではない。職の為に人がいるのだ。天職という言葉があるが、もし天職という言葉を使うのならば、たとえどのような職であろうと、その職の中で自分の存在価値を見付けられた瞬間が、天職と感じられる時ではないだろうか。僕はそれを、帯に書かれていた「僕らはみんな働くために生きている!」に対する解答としたい。

(田中喬史)

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thelike.jpg パッとジャケットを見た限り、どこからどう見ても2010年のアルバムとは信じがたいデザイン。スウィンギン・ロンドン? モータウン? 即座に想起させられるのは麗しの60年代ポップス黄金時代。フランス・ギャルもビックリなメンバー4人のルックス偏差値のハイスコアっぷりも、彼女たちのとっている決めポーズも、どれもいちいち素晴らしい。出来ることならCDでなくアナログ盤で所有して部屋に飾りたくなる。

 しかし一方で、メンバー各々の衣裳に≪LIKE≫とゴシック体で書いてしまうセンス。これはとても2010年の気分を感じさせる。うまく言えないけど、たとえばOK GOの最近出したPV(「This Too Shall Pass」)がとても今っぽいというのと同列の意味で今の気分。

 どんなレコードも基本的にそうだが(例外もままあるが)、ジャケットは音を裏切らない。とはいえ大半は《ジャンル的には》裏切らないという程度の話でしかないなかで、見た目に対する期待を裏切らないどころか大いに上回るクオリティーの作品となるとイマドキ随分珍しい。ロネッツからダム・ダム・ガールズまでに通じる甘酸っぱい疾走感をもった、ジャケットの世界観そのままの60年代マナーなガレージ・ポップがアルバムのほぼ全編で展開されているが、特筆すべきは楽曲のテンションと完成度が異常なまでに高いこと。そして、先述のとおりで音のほうもこの手の意匠を貫きながら強く「今」を感じさせるところも目を惹く。

 プロデューサーがマーク・ロンソンというのも興味深さに拍車をかけている。広義の意味でのポップスに関して、過去から現代に至るまでの抜群の教養と応用能力をもつことで知られる人物だ。彼のもっとも有名なプロデュース・ワークであろうエイミー・ワインハウスの『Back To Black』で披露されたソウル~R&Bから多岐に渡るブラック・ミュージックの引用/咀嚼と現代的解釈に基づいたアプローチが、本作ではそのままガールズ・ポップに品を変えて応用されている。とろけそうなバブルガム・ポップ的コーラス・ワークを始め、ツボを押さえた匠の技が目を見張る。

 バンド側もしっかり彼の仕事に応えている。メロウでときおり歪まされる音色が白昼夢のようですらあるオルガンのフレーズや、モッズ・バンドやリバプール・サウンドからインスパイアされた(というか拝借スレスレ)であろうソウルフルなベース・ライン(楽曲でいえば特に「Narcissus In A Red Dress」辺りに顕著な)の存在感は格別だが、弾いている二人はどちらも新メンバー。間違いなくこの路線を貫くためのメンバーの入れ替えで、彼女たちは劇的なまでに活躍している。

 楽曲のもつ現代性をより引き立たせているのは彼女たちのもつ先天的なセンス。そもそも、このバンドの音楽性はかつてぜんぜん異なるものだった。バンビちゃんジャケが愛らしかった4年前のファースト・アルバム『Are You Thinking What I'm Thinking?』は、適度な攻撃性が心地よく、売れる要素としての人懐っこく大味な「ヌルさ」も併せもった(これは誉め言葉)メインストリーム向けのオルタナ・ロックで、まったくこんなにレイトバックしてなかった。そんな出自でもある彼女たちの紡ぐメロディ・ラインは、特にサビにおけるフックの捻り方において、60年代ポップを気取るにはどうにも垢ぬけすぎているが、何度聴き返しても飽きさせない享楽性を楽曲に孕ませている。収録曲全体でも随一の疾走感を誇る「Trouble In Paradise」辺りはもはや完全に、いい意味で「フツーのインディ・ロック」。うわべの模倣の完成度と隠せない地の部分の強固なまでの不一致、オールド・タイマーなノリと今っぽい気分の衝突が、楽曲にアンバランス且つワン・アンド・オンリーな推進力をもたせている(この辺は、アークティック・モンキーズの前座も含めて長年ツアーを回った成果もあるかもしれない。実際、アレンジの装飾を抜きにしても、前作と比べてサウンドがとてもタフだ)。

 そして、この手の志向を標榜するバンドの多くが陥りがちな内向的オタク性とも、最近のバンドでいえばザ・ドラムス辺りがもっている過去の音楽への病的なまでの郷愁と執着心とも本作は無縁だ。あくまで「ただ何となく好きだからノリでやってる」というスタンスが心地いい(別にオタク系バンドが悪いとは言わない。むしろ大好き...だけどね)。

 この辺の根の軽さは、彼女たちのセレブリティなバックグラウンドから起因する余裕から生じているのかもしれない。元々、オリジナル・メンバー三人は著名なミュージシャン/プロデューサーの娘たちで(シャーロット・フルームのみ前作リリース後に脱退。彼女はあのミッシェル・フルームの娘...)、本作に収録されたシングル曲「He's Not A Boy」のあまりに浮世離れしてスウィンギンなPVを撮影したのがコッポラ・ファミリーであるGia Coppolaで。名だたる大物バンドとツアーを回っていたり、先述のマーク・ロンソンとドラマーのテネシー・トーマスは過去に付き合っていたり。そのテネシーは「HOT FUZZ」「ショーン・オブ・ザ・デッド」で日本でも知られる映画監督、エドガー・ライトの新作「Scott Pilgrim vs. The World」にも女優として出演しているそうだ(これは素晴らしい。というか早く観たい!)。

 話が逸れたが、そういった今も昔もある程度の天真爛漫が許される環境にいたからこそ、リカちゃん人形的着せ替え気分で選んだ今回のモードがたまたまコレだった、というちょっとした趣味性でしかない確固たる芯の不在が逆に痛快でもあり(とはいえ、親が親だけに過去の音楽への聴き込み方もまた半端ないレベルだろう)、全く頭デッカチにならない風通しのよさを生む要因となっている一方、次回は次回でまったく違うことをしそうでありつつ、バンドが今回選んだ進路を突き進む為には容赦なくメンバーを入れ替え、適材適所でVIPを据え、見た目から演奏に至るまで選択したモードを徹底する意志の強さも逞しい。ユニークなバランス感覚をもったバンドだと思う。

 そういう意味で偏ったジャンル物の落し込み方として、ピペッツ(こちらもフロントマン全員総入れ替え後、初の新譜がもうすぐリリース!)やラッキー・ソウルにもたしかに近いが、それ以上に『エクスターミネーター』までのプライマル・スクリームのノリを少し思い出した。当たり前の話ではあるが、ここまで極端なコスチューム・プレイが誰にでも許されるわけがないのだ。にしても、フロントマンのZ・バーグ始め各メンバーはすっかりハマリすぎている。可愛い。超可愛い...。

 いずれにせよ、本作に関してはあまり小難しいことを考えず、出来るかぎりの爆音で聴き、音楽に合わせて踊りまくるのが正しい鑑賞法だろう。ほぼ全曲クラブ・ユースに耐えうるし、YouTubeで観た限りライブも物凄そうだ(どうか来日を...)。ポップスの旨みと軽みを今一度思い出させてくれる、本当の意味での感動作。

(小熊俊哉)

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SVIIB.jpg 2008年10月にリリースされたファースト・アルバム『Alpinisms』に衝撃を受けて以来、翌年明け深夜に代官山UNITで行なわれた初来日公演、サマー・ソニック2009での初日ソニック・ステージ1発目、そして、昨年暮れに英国マインヘッドで行なわれたAll Tomorrow's Partiesのスピンアウト的フェスNightmare Before Christmasの最終日ヘッドライナー(キュレーターであり、メイン・アクトでもあるマイ・ブラッディ・ヴァレンタインより後に登場!)と、ここ1年あまりの彼らの活躍を要所要所で目撃してきた筆者としては、個人的にも非常に思い入れの深いバンドである。元シークレット・マシーンズのベンジャミン・カーティスと、元オン! エアー! ライブラリーのアレハンドラ & クラウディアの双子姉妹による3人組ユニット、スクール・オブ・セヴン・ベルズ。セカンド・アルバムとなる本作は、そんな彼らのここまでの成長の跡がしっかりと刻まれた力作である。
 
  タイトルは、ブライアン・イーノが画家のピーター・シュミットと考案したカード・ゲームの一種「オブリーク・ストラテジーズ」に記された一節を借用したもの。「願望(情熱)から切り離せ」とは一瞬ネガティヴな印象を受けるフレーズだが、作業が煮詰まるたびにこの言葉を思い出しながら本作のレコーディングを行なっていたというベンジャミンにとっては、むしろポジティヴな意味合いとして捉えていたようだ。この、少々仏教的な響きが彼らのオリエンタルな要素に何かしらの影響を与えた...と考えるのはいささか深読みが過ぎるとしても、聴き手に圧倒的な多幸感を与えつつも、決して熱くならないクールな佇まいや楽曲の数々は、まさしく『ディスコネクト・フロム・デザイア』という言葉に象徴されていると言えよう。
 
 ポップかつ幻想的な(彼らの歌詞の大部分は、アレハンドラの見た夢を書き記したものが基になっているという)メロディとハーモニー、シンセサイザーとディストーション・ギターの融合、リズムマシンによるタイトかつトライバルなグルーヴ。そうした彼らの軸となるサウンド・プロダクションは、これまでの延長線上にあるものだが、本作は格段に「開いている」印象を受ける。どちらかと言えば閉じた箱庭的な印象の強かったファーストと比較すると、今作は1つ1つの音を、確信を持って鳴らしているように感じられるのだ。

 例えば、シンプルなリフやメロの反復がキャッチーで心地良い「Windstorm」(先行シングル)、疾走感あふれるエレクトリック・ビートと双子姉妹の美しくも妖しいハーモニーが絡み合う「Heart Is Strange」や「Dust Devil」、コクトー・ツインズ直系の耽美サウンドが胸にしみる「I L U」や「Dial」など、どの曲もライヴとフェスで鍛えた演奏力や表現力が力強い武器となっている。前作の「Half Asleep」のような、聴いた瞬間に心を鷲掴みにされて何処かへ連れ去られてしまうほどの、圧倒的な力を持つ楽曲は少ないかも知れないが、アルバム全体で聴いたときの「開放感」や「高揚感」は間違いなく本作に軍配が上がる。そういう意味でこの2つのアルバムは、MGMTのファーストとセカンドの関係にも似ているのではないだろうか(どちらのバンドも、セカンドの方が繰り返し聴き込む回数が増えそうだ)。
 
 一般的に、「ロック~ポピュラー・ミュージックのアルバムは、セカンドが勝負」と言われる。デビューまでに用意してきた様々なアイディアを一度に披露出来るファーストに比べると、ゼロから作り始めなければならないセカンドは、そのアーティストが持つ本質を露にするからだ。「ディスコネクト・フロム・デザイア」というキーワードを頼りに、本来の自分たちを見失わず渾身のアルバムを作り上げたスクール・オブ・セヴン・ベルズ。彼らは、その「勝負」で見事勝利を手にしたようだ。
 
 なお、日本盤にはボーナス・トラックを2曲収録。初回限定盤は、歌詞付タロットカード11枚が封入された、スペシャル・ボックス仕様になっているので要注目である。

(黒田隆憲)

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scissorsisters.jpg 予想通り、なんていうと聞こえが悪い。それは重々承知している。だが、シザー・シスターズと、ザ・キラーズ『Day & Age』を手がけたスチュアート・プライスがタッグを組む、といったら思うことはひとつ。セカンド『Ta-Dah』収録の「I Don't Feel Like Dancin'」で見せ付けた特大のアンセム力を目一杯、伸ばす。実際、その通りだった。だが、両者のハマりっぷりは想定の範囲を遥かに超えていた。

 「今夜はゴムが必要」(「Whole New Way」)なんて、卑猥さフルスロットルのリリックもシザーズならではで笑わせてくれる。それに、ペット・ショップ・ボーイズにビー・ジーズ、そしてフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドといったバンドのポップさに、ちょっとだけ『Low』期のボウイの実験性を取り入れたハイテンションには、こちらもノるしかない。キレッキレのハイトーンのヴォーカルに、80'sディスコ直系のグリッターなビートに比肩できるアクトはなかなかいないだろう。

 サンティゴールドが作曲に参加し極上のグルーヴを展開する「Running Out」や、スリリングにアルバムを締めくくる6分の大作「Invisible Light」など、一切捨て曲なしの豪華ぶり。だが何より、極めつけは先行シングルとなった「Fire With Fire」。はっきり言ってしまえば、シザー・シスターズ版「Human」(もちろんキラーズですよ)。前半の静かなイントロから一気にバーストするところといい、メロディラインといい、使い回しじゃん、というツッコミを入れたくなるのも分かる。とはいえ、いいものはいい。間違いなく2010年のアンセムの1つになることは確実だ。

 オリジナル・ドラマーのパディ・ブーンの脱退という悲しい出来事あり、一度作った作品をボツにされ新たに全て録り直すという苦労あり、の結果、よくぞここまでハジけることが出来たと思う。この作品が2010年最もエキサイティングなパーティー・アルバムの1つであることは間違いないし、紫色のキラめき120%の出来には快哉を叫ぶばかり。あえて言うなら、欠点はオシリどアップのジャケ写ぐらい、か。

(角田仁志)

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Feyz.jpg 完全に一皮剥けた! 突き抜けている! いきなりよくわからない手放しの賞賛から入ってしまったが、聴いているあいだ、ひたすら拳を握り締めたまま意味もなく何度もガッツポーズをとりたくなるような音源となんて、片っぱしからCDやレコードを聴き漁っていてもそうそう巡り会えるものでないのだから許してほしい。極彩色の散りばめられたジャケットが何より力強く表明しているエレクトロ・サウンドが、27分弱の収録時間において終始フルスロットルのまま、一瞬も弛緩することなく怒涛の勢いで迫ってくる。本当に好盤。まずはここで彼らに対して全面支持を表明しておきたい。

 既に雑誌時代のクッキーシーンでも取り上げてきているが、改めて紹介を。Paraele Stripesは福岡を中心に活動している二人組のエレクトロ・ユニット。爽やかであどけない顔立ちながら獰猛な攻撃性も内に秘めたアメリカ帰りのヴォーカル、MARS(イケメン)に、丸っこく大柄、しかも引き篭もり気質でゲーマーだという松下(ヲタ)の組み合わせもキャラが立っていて素敵だ。そもそも、MARSと松下なんて名前もそうそう共存しえないだろう。

 ルックスもそうだが、こと音楽性においても「エレクトロ≒気取ったオシャレ」という、00年代に確立された安易な図式とはちょっと距離をとった佇まいも個人的に好感を抱いている。耳馴染みよく聴こえるよう小手先の洗練を目指す代わりに、勢いと疾走感を重視した粗めのサウンド・プロダクションが際立ったオリジナリティーを見せ付けている。冒頭の「Prototype」にそれはもっとも顕著だ。イントロで聞かれるヴォコーダーを介したロボット・ボイスから、ニュー・オーダーとダフト・パンクを同時並列で想起させられるいなたいメロディーがソウルフルな英語詩ヴォーカルに乗って飛び出してくる。アッパーでノイジーなバック・サウンドも強烈だが、「アッアッアー」と力任せに挟まれるコーラス・ラインが何より涙腺を刺激する。この曲は(先にリリースされたシングル『De:Prototype』収録の別アレンジだが...)バンドのmyspaceで視聴可能なので是非とも聴いてみてほしい。最高のパーティー・チューン。

 この、限りなくシンプルにエモくてパワフルなサウンドはそれこそ、今となっては「デジ・ロック(笑)」とバカにされて一蹴されることの多いものの、最高にメロディアスで尖った楽曲に溢れていた90年代ダンス・ロックを、00年代内向の時代を経て熟成させ、2010年型にアップ・グレードしたようでもある。日本から欧米のダンス・シーンを一歩引いて見渡した批評眼も反映されているし、ブンブン・サテライツのような日本のバンドの影響も見られる(もっとも、アチラと比較すれば遥かに繊細な音楽性であることは、両者のバンド名を比較すれば一目瞭然だろう)。続く「In Reach」「Take Down」といった楽曲も勢いそのままに駆け抜けていく(「テイク・ダーーーウン、イェー!」なんてベタなフレーズの連呼は、<Kitsune>系バンドやフレンチ・エレクトロ勢は到底やりたがらないだろう。このベタさが最高なのに)。

 ここまでだと「時代錯誤な連中なのかな?」と思われかねなさそうで心配だが、「日本からのポスタル・サーヴィスへの回答」と謳われた(実際、明らかに色濃く影響を受けている)内省的ポップ・エレクトロニカ・アルバム『Phirst Tense』(こちらも秀逸な内容!)を2007年時点でリリースしていて、ときにはアコースティック・ライブも披露する(!)彼らはさすが引き出しも多い。楽曲でいえばメロウでスローなイントロから入る「518」辺りに過去の名残りも見え隠れするが、サビでの爆発は筋の通った現行の彼らのモードを再確認させて頼もしい。点滅するキュートな電子音と太いベース・ラインの印象的な「Love」、8-bit的な音色とサビの小慣れた転調が面白い「Musiq」、最終曲のパンキッシュ・エレクトロ「4th Night」と、飽きさせない趣向を凝らしながらもEP全体に統一感があり、自分たちに見合った音楽的文法を発見したことに対する悦びと幸せに満ちている。冒頭の「突きぬけている!」というのはつまり、そういうことだ。進むべき道を迷わず突き進んでいる人たちの作る音楽がつまらないわけがない。

 唯一、贅沢な不満を挙げるとすればライブでの鬼気迫った荒々しいテンションを更にもう一押し反映してほしかった...というところだが、これは録音が物足りないというより、それだけライブが凄すぎるという意味で。福岡のバンドなだけ東京や他地域のファンはなかなかお目にかかるのは難しそうなところはあるが、ライブでは音源を余裕で上回る、跳ねて暴れての演奏が繰り広げられる。リリース・ツアーも控えているようなので、このEPを繰り返し聴き込みながらその日まで想像を張り巡らせてほしい。


(小熊俊哉)

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polock.jpg  日本でも人気急上昇中のデロリアンも所属する、スペインのMushroom Pillowからのデビューとなったヴァレンシア発の5人組インディー・ロック・バンドのファースト・アルバム。プレイ・ボタンを押して1曲目の「High On Life」が流れた瞬間から、何だかドキドキが止まらない。太陽ギンギンの真夏のアスファルトの上をスイスイと自転車で走り抜けるような、爽やかな青春時代を呼び起こす、ちょっぴり切なくて甘酸っぱいあの気持ち。その何とも言えない気持ちに拍車をかけるかのように、「♪1、2、3、4、5~」と軽快な歌い出しでキラッキラと眩しいメロディが炸裂するキラー・トラック「Fireworks」が続く。程よくキレのあるバンド・アンサンブルと、フックの効いたダンサブルな曲展開も良い。その後もこれでもかと至極のポップネスをズラリと並べて、こちらはもうメロメロ。ずっと置いてきぼりで長らく忘れていた大切な何かを呼び起こしてくれる、そんなマジカルなグッド・メロディとグッド・ソングが詰まった、この夏にぴったりな1枚です。

 (星野真人)

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qururi.jpg ソシュールの概念としてラングとパロールというものがある。

 ラングは「言語構造」で、パロールは「言語現象」と訳すことが出来るが、簡単に説明すれば、言葉の、聴覚で聞く音列や目に見える文字列には、無数のパターニズム(ミームではなく)、様々なテクストが作ることができ、そのテクスト内には予め言い損ねたものや不完全な部分も含まれる。これらの実際の言語の表面現象をパロールと言い、その無数のパロールを生成している言語の本質としての言語能力がラングと表象出来る。ラングは或る程度、「一定した体系」を、保持して、ラングが無数の非限定的なパロールを生成する。だから、ラングというのは、概念であって、実体はない。ラングが実体として現れたものがパロールだとしたら、「くるり」と発語したとき、それは本当に「くるり」なのかそれぞれの記憶の中の何か指すのか、全くの記号を示唆するのか、分からないことになる。だから、実際にはパロールしか確認できず、そこからラングを仮定する作業しか出来ない。

 くるりというのは「バンドだが、バンドではない」のはそういう意味も含む。

 それは来し方を振り返れば、分かる。立命館大学でのサークル時代の形式からインディーズでのデビュー、「東京」での或る種、大文字の記号としての全国進出、ジム・オルークと組んでポスト・ロックを模索しながら、明らかにミレニアムの狂騒のモードをシニカルに切り取った『図鑑』、ダフト・パンク、アンダーワールドのユーフォリアに影響を受けて、急激にダンス×ロックのエクレクティズムに走った「ワンダーフォーゲル」から「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の流れ。サークルの先輩だった大村達身氏を入れて、民俗音楽や辺境の音楽にインスパイアされながらも、どうにも散漫になった『The World Is Mine』。そして、ここで、実質、くるりは「終わる」。初期メンバーのドラムの森氏が抜けたのもあるのだが、長い沈黙があり、同世代的なシーンを彩ったスーパーカーやナンバーガールといったバンドの活動を停め、バンプ・オブ・チキンやアジアン・カンフー・ジェネレーションといったバンドのブレイクにパラダイムが容赦なく変わる中、03年に出された「How To Go」というシングルはとても象徴的なヘビーなリフを持った重厚なロック・チューンになった。そのままクリストファー・マグワイアのアタック感の強いドラムを入れての『アンテナ』におけるプログレ、セッション指向は明らかに孤高でもあったし、当時観たライヴでのジャムは時に、もう「くるり」という記号体を拒否するかのような密室感と共犯性もあり、辛くなることもあったが、それでも、彼等は(ロックン・)ロールしてゆくことを辞めず、60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンの3分間ロックに魅了された05年の『Nikki』においては、まさかの「Baby I Love You」という彼等にしてはレイドバック、大文字過ぎると言えるかもしれないシングルも含みつつ、セルアウト/バーンアウトの際どい境目を潜り抜けた。

 ベスト・アルバムでの総括を経て、愈よ岸田氏と佐藤氏だけの二人に正式メンバーになったしまった折、日本のロック・バンドとしては異例にして初のウィーン録音へ飛ぶ。07年のシーンの一端を射抜いたクラシックとロックのハイブリッド性、そして、もう「くるり」という記号が音楽を結び付けるのかもしれない、という純然と「音楽」だけが前に現出した『ワルツを踊れ』で、ハイブロウなブレイクスルーに成功する。勿論、このブレイクスルーは「内破」の文脈であり、J-POP、J-ROCKの持つ大雑把な荒さを対象化した上で、内側から蹴破ろうとする野蛮さがあった。

 何より、くるりが常に興味深いのは都度、一旦、「終わる」ことであり、それはレディオヘッドが次の一歩を進むために、寧ろ過去を否定するように、昨年のブラーが自分たちを清算するのにあれだけの時間が必要だったのと同じで、次を想うあまり、昔さえ相対化してしまう律義で危うい部分があり、そこが逆説的にいつも興味深く、その都度のモードがマニフェストになってしまうというエッジを孕んでしまうのだが、『ワルツを踊れ』とその関連のライヴ後は本当に、一歩でも進めるのか、もうここで何もかも終えてしまうのではないか、という感覚はあったし、僕自身、ここまで来たから、もうくるりは十二分に役割期待を果たしたという慰労の念さえ持っていた。案の定、その後のライヴでの新曲群は裸身のラフなものが多く、反動というよりは、もうシンプルにバンド・サウンドを鳴らすしかないという所まで追い詰められていたとも言える。実際、NYで録られたものの、洗練というよりはアーシーでダウン・トゥ・アース的な風情を持った09年の『魂のゆくえ』では、全くシーンへの目配せは無く、くるりの「くるり」自体への浄化作用だけが働いており、岸田氏と佐藤氏の「関係性」がフロートするようなものになっていたのは周知だろう。但し、キャリアも10年以上も越えてきており、自らイヴェントを主催しながら、都度のモード・チェンジにより、ファンを置いていったり、連れてきたりした傷が膿んでいた気配が露骨に表れていたのは辛かった。

 そして、僕は「くるり」を確認出来なくなった。

 それはパロールとラングを合わせてランガージュに「なる」、という文脈もあり、目に見えるパロールとしての彼等ではなくその奥に隠れた見えない本質であるラングを可視化する意味が敷けなくなった。そんな中、今年のB面集とその関連ライヴに対峙したが、何故かそこには清清しさが漂っていたのが妙に不思議だった。三人でラフにバンド形式で昔の曲(しかも、B面の曲)をやりながら、そこにノスタルジアは無いものの、何故か、98年の頃に観た京都の小さいライヴハウスでの無名時代の彼等と変わっていない音がふと頭に浮かんで、胸にくるものがあった。

 そのライヴでも披露された新曲にして、次のアルバムのリード・シングルとなるのが今回の「魔法のじゅうたん」だ。非常に既視感はあるが、アルペジオが美しい清冽な8ビートの切ないラヴソングになっており、BPM的には120台でメロディーはティーンエイジ・ファンクラブやマシュー・スウィート辺りの「ポップ」を参照にしながら、何となく現在進行形のザ・ドラムスやザ・ヴァンパイア・ウィークエンド辺りの軽快さが漂っているのが「らしい」曲になっている。歌詞は「君との距離」をモティーフしている切なさを孕むが、その「君」はくるりの場合は明確に恋人であったり、家族であったり、友達であったりするだろう小文字の具象性を帯びているのがはっきりと分かる。兎に角、最近の大文字の記号論としての余白を許さない「君」への想いへの対立項とした曖昧なままに、余白を残し「君のことたくさん知ってるつもりだった」のに、「こんなにわからなくなる」と歌う。また、今回初の両A面シングルとなる片方はユーミンと組んだブギー・チューン「シャツを洗えば」をくるり版で再構築している。

 過去にないくらいのポップな輝き方を持つ二曲が並ぶシングルになったが、B面集のタイトルからして『僕の住んでいた街』だった訳だから、ここには「無邪気さ」は全くなく、どうにもくるりでしかない構造を保つ為の一定の熱量のエントロピーが働いている。構造は一定なのだが、それが無限の現象を生成するという見方をするならば、来るべき新しいアルバムは大文字の社会や文化的な個々の現象背景を掬いあげるような「何か」を示唆するものではないのだろうか、期待出来ると思う。


(松浦達)

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morningbenders.jpg 信じ込むこと、これは怖い。カリフォルニア出身の4ピース・バンド、モーニング・ベンダーズの本作を初めて聴いた時は、アニマル・コレクティヴっぽいな(あくまで「ぽい」だが)、という印象が強かったのだが、聴いていくうちに、ちょっと待てよ、と、なったのだった。彼らの根底にあるものは、メロディ・メイカーとしての素質であり、凝ったサウンド・エフェクトも、ヴォイス・パフォーマンス的な歌声も、軸ではない。サウンドの表面の見せかけに、騙されちゃあイケナイんだ。
 
 軽快なステップを踏んでいるメロディ・ラインを盛り上げるところではきっちり上げる。エレクトリック・ギターのリフだって格好いいじゃないか。室内楽的なストリングスを淡くすることの幻想の粋が効いている。いや、それだけではなく、サウンド全体を淡くし、それと対比するかたちでメロディの良さを際立たせている。不協和音も聴こえるが、それすらも霧のようにうっすらと忍ばせアクセントになっているから面白い。メロディ以外は全て曖昧に加工されていて、それはやわらかく、聴いていると生まれたばかりの暖かい空気をかき分けて歩を進めている心地が浮かんでくる。
 
 アルバム後半ではスリントやモグワイを思わせる音楽性を、やはりやさしく、やわらかく押し出し、安堵という興奮が静かに浮かび、暖かい轟音の中で眠れそうなほどの音のなかでいつしか我を忘れてしまう瞬間すらある。様々な音楽要素が見受けられるが、全面に押し出している曲は少ない。ブロークン・ベルズやグリズリー・ベアの前座を務めた彼ら。ジョイ・ディヴィジョンのカヴァーもやったのだから、きっと彼らには本作に収められていない領域があるはずだ。その領域とんでもないものだと、予想は付くが、あくまでも彼らは小出しに、これ見よがしに出すことはないであろうなと感じられ、音楽とともにその姿勢に潔さを感じるのだ。音楽シーンの中で際立った存在ではない。しかし、きらりと光るセンスに吸い寄せられる。

(田中喬史)

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sonnets.jpg いや、これには、まったく、おっどろいたね、という感じのザ・ソネッツの『Western Harbour Blue』。(ここ日本にて1カ月以上先行で7月14日にリリースされる)。カジヒデキのコメントを引用すれば、「加速して世界中から現れる新世代のネオアコ・フォロワー。しかし彼らのスタカンなりっぷりには脱帽です! (中略)最高に気持ちいいです。」とのことで、いかにもカジくんが好きそうなアルバムだなと思うし、僕も好きだ。まさに夏に聴きたい爽やかなサウンド。清らかなメロディ。洋服セレクト・ショップで流れていてもおかしくないオシャレっぷり。あまりにもオシャレなサウンドとポップ過ぎるほどポップな音楽性に僕は驚いたのだった。(個人的に資料に書かれている「青春ネオアコ」という言葉の意味が全く分からないけれども)。
 
 五人組、スウェーデンで生まれ育ったこのバンド。ペイル・ファウンテンズやスタイル・カウンシル、ワム! などをルーツとし、室内楽的な響きをあくまでもポップに昇華。涼しげな歌声も気持ちが良い。ピアノもパーカッションも歩み寄るようにメロディに吸いついていくその様はメロディの大切さを語る。音の全ては丁寧に奏でられ、ラストの9曲目(国内盤はボーナス・トラック3曲収録)はまさにこれぞバラード。ドラマチックに歌い上げる。もちろんスポーティーな楽曲も聴きやすく、ストリングスが、すーっと伸びていき、コーラスも抜群。
 
 そんな本作は、絶対にCDウォークマンやiPodに入れて、散歩でもしながら聴けば、より気持ちいいことこの上なし。部屋で聴くより外で聴きたい作品なのだ。いや、外で聴くべき音楽なんじゃないかと思えるほどに、辺りの風景を瞬時に清々しくさせてしまうであろう音に溢れる。さらに言えば前述したように今の季節に丁度いいサッパリとした音楽性。実際に僕は部屋で聴いているより散歩しながら聴いた方が心地良かった。
 
 これって新たな音楽のカタチで、ポータブル・プレイヤーを持っていない方がめずらしいこのご時世にあって、本作はドライブしながら、散歩しながら、公園のベンチに座りながら聴いてほしいと言っている。間違いなく言っている。その意味では今日的な、あるいは近代的な音楽だと言えるだろうし、音楽の新しい聴き方ないし現代の音楽の聴取方法を明確に提示しているとも思える。彼等の音楽のテーマとなっているのは「何気ないの休日の始まり。でもちょっと高揚感のある爽やかな一日」とのこと。これには素直に頷ける。だからこの作品を持ち歩こう。常に持ち歩こう。そうすれば、僕らはいつも笑顔になれる。

(田中喬史)

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art_school.jpg 今年で10周年を迎えたアートスクールが新たに提示する、今作のタイトルは「麻薬」あるいは「無感覚」を意味する『Anesthesia』。旧知の友であった志村正彦(フジファブリック)の死、共にツアーをまわり、度々共演していたスパルタ・ローカルズの解散、公私共に親交深かったポリシックスのメンバー脱退などの、木下を取り巻く様々な環境の変化を乗り越えて制作された今作は、全編を通して、今までにない濃密さをもった耽美さに満ちている。

 僕は、最初に今作を聴いた時、この耽美さにファクトリー・レコード周辺の古き良き80'sポスト・パンクあるいはザ・キュアーやバウハウスのような、これまた古き良きゴシック・ロックといったシーンやアーティストが描いたモノクロの世界を思い出した。木下のボーカリゼーションも、今までの絞り出すような、か細くも力強いそれではなく、ジョイ・ディヴィジョン的とも言える低音を活かした歌唱になっている。
 
 それらの特徴をふまえ、サウンド面は、まさしく木下自身も公言している通り、『Adore』期のスマッシング・パンプキンズを彷彿とさせる、バンド・サウンドとは一転した打ち込み主体のものになっている。これは木下自身が「バンドでセッションして作っていくことで濃度が薄くなってしまったものを、今はどうしても収めたくない」と言う思いによるものだ。また、そのプロダクションの上に、ニューゲイザー勢を通過したような酩酊感を伴った轟音ギターが重なることで、耽美さがより強靭なものになっている。
 
 ジャケットのアートワークも『Mellon Collie and the Infinite Sadness』期のスマッシング・パンプキンズのそれを思わせる儚くも物悲しい近世ヨーロッパの絵画のようで、作品の世界観がより伝わってくる。

 そのサウンドに乗せて木下が歌う詞は、「君を無くした僕」、「君に触れる事のできない僕」、そして「汚れて歪んだ世界をどうにか生き延びる君と僕」の姿だ。もちろん、熱心なアートスクールのファンは、これらは今までにも歌われてきた世界であることは分かるだろう。しかし、このアルバムで歌われている情景は、今までのそれよりも鮮明であり、濃い。「二人だけの世界か、あるいは死か」という、まさにザ・キュアーのロバート・スミスばりの切迫感をもって歌い上げているのだ。

 また、今作の各曲のタイトルもルシール・アザリロヴィック監督による、静謐な処女性を映した同名の映画を思わせる「Ecole」、そのルシールのパートナーであるギャスパー・ノエによる現在公開中のドラッグ・ムービー『Enter The Void』を思わせる「Into The Void」、デビュー当時のスマッシング・パンプキンズの同名曲を思わせる「Siva」など、相変わらず映画ジャンキー兼音楽オタクである木下による、ささやかなオマージュがみられるのも面白い。

 近年、試行錯誤を繰り返しながら色々なサウンド・アプローチに取り組んでいるアートスクールだが、今作は、アートスクール流の『マジックディスク』かも知れない。なぜなら、ここで歌われているのは、既に歌われた「羽根を焼かれた君と僕」の姿ではなく、どこに向かうか分からないけれど、お互いのことを完全に分かり合えないけれど、それでも手を繋いでどうにか歩き出そうとする「君と僕」の姿であるからだ。

 このアルバムで木下が示しているのは、ただの内省だけだろうか?

 「Waiting For The Light」のサビで木下はこう叫んでいる。「いったいどれくらい飛んで君に届くかなんて、分かるはずも無いけれど、逃げるつもりも無いさ」。

(青野圭祐)

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thebitters.jpg ファックト・アップといえば、凄まじいステージ・アクションを見せる巨漢、ピンク・アイズがどうしてもすぐに浮かぶだろう。そのピンク・アイズのオタクぶりには尋常ならざるものがあるが(だって、日本のアンダーグラウンド・ハードコアまで熟知してるんですぜ!!)、ギタリストであるベン・クックも負けてはいなかった。ベンの趣向が全開に現れているのが、サイド・プロジェクトであるこのザ・ビターズだ。

 オルガンにドラム、シンセ、そしてサックスもこなす女性ヴォーカル、イーリン・フォーゲルをパートナーに迎えた2人組は、グランジ風のノイズを撒き散らし、クランプスを思わせるローファイなガレージ・ロックを繰り広げる。吐き捨てるような歌唱法といい、ささくれ立ったプロダクションといい、一歩間違えばただのゴミ、ともいわれかねない。

 だが、このバンドがブログメディアを中心にリスナーをひきつけているのはそのポップセンスにある。スウィートでフックの効いたメロディはポップだし、要所要所での男女ハーモニーはきっちりと息が合っている。特に、ハイライトとなる「Travelin' Girl」は激キャッチーな歌メロが印象的なナンバー。おそらく、初回ではジャンクすれすれのサウンドに耳を塞ぎたくなるかもしれないが、繰り返し聴くと新たな発見がある。そんな作品だ。

 シングルを大量生産してきて、今後もスプリットの予定がいくつもあるファックト・アップ。ベンさん、やりたいことをやりきったところで、この成果をファックト・アップへフィードバックしてくださいな。

(角田仁志)

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billion voices.jpg 「初めに言葉があった...すぐ後からドラムと原始的なギターが続いた」そんなふうに聖書の言葉を引用しながら、自らの音楽を語ったのはルー・リード。そう言えば、七尾旅人もライブで「ワイルド・サイドを歩け」をカバーしていた。歌詞を日本語に置き換えたシンプルなアレンジ。オリジナルの印象的なベース・ラインよりも、登場人物たちに深い眼差しが向けられていた。その眼差しの向こうから、愛すべきオカマたちが言う。「坊や、ワイルド・サイドを歩きなさいヨ!」と。オカマたちの声がルー・リードの歌になり、七尾旅人に歌われて、また、オカマたちの声になる。「初めに言葉があった...」確かにそうかもしれない。その時、僕は愛すべきオカマたちの声を聞いた。

 そんなオカマたちの声に感化されてしまったようなサラリーマンが会社に辞表を叩きつける「I Wanna Be A Rock Star」で、このアルバムは幕を開ける。今は2010年。その姿をどこかで、誰かがYouTubeやUstreamで見ているかもしれない。その声は僕たちにも聞こえる。あるいは僕たちの声そのもの、なのかもしれない。10億の声がある。

 歌うことへの気づきとためらいが描かれる「One Voice(もしもわたしが声を出せたら)」、君の声をパソコンで探し続ける「検索少年」、ろくでもない風景がぶよぶよに肥大する「シャッター商店街のマイルスデイビス」と「BAD BAD SWING!」。前半は声をモチーフとした様々なイメージが描き出される。そして後半。「なんだかいい予感がするよ」からは、その声が今を語り始める。まるで夢からさめたように。そこには、暗がりに手を伸ばす男がいる。止めようもない時間の流れがある。過去と現在が交差する。そして、生命の誕生から未来へ。

 ジャケットデザインは偶然にもM.I.A.の新作と同じく、パソコンの動画画面がモチーフ。ウェブをフル活用したコミュニケーションや音楽制作への柔軟なスタンスなど、この2人のソロ・アーティストには共通する意識が感じられる。このプログレスバーが意味することは、たぶん「見る=自覚」と「動く=行動」ということ。まず、声を出してみよう。そして、誰かの声に耳をすまそう。

 初めに言葉があった...。すぐ後からフォークやブルース、R&B、そしてポップなエレクトロニカまでが続いてゆく。自由に。


(犬飼一郎 aka roro!)

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heian_sento.jpg 平城京遷都から丁度1300年にあたる今年に向けて、古の都である奈良では様々なプロジェクトが推し進められており、その中の一環にオフィシャル・キャラクターの発案、その後の紛糾という問題があったのは周知だろう。

 鹿の角が生えたお坊さん、せんとくんがその姿を現したときは圧倒的に「違和」しか取り囲まなかった。「仏様を侮辱している」、「フォルムが気持ち悪い」、そんな意見が「前」に出され、裏では「別にこの可愛くなさがいいのでは」という諦念的な集合的無意識、つまり、「どうでもいい」が取り囲む中、ゆるキャラのブームの流れの中、僕は08年に彦根でのゆるキャラのフェスティバルに行ったことがあったが、とても無為でそれが故に、健康的だった。

 僕が、ゆるキャラに求めるのは「大いなる徒労」と「大の大人の知恵を尽くした結果の、ローファイさ」と「アシッドな郷土精神」という側面に集約される。捻って提出したつもりの造詣があまりにも歪だったり、シンプル・イズ・ベストでもなかったり、ザ・ビートルズもセックス・ピストルズも最初から対象化していたら、いつの間にかKISSへの周縁を巡ってしまうようになったり、とその迷走が面白い訳であって、あれだって、役所の方々、クリエイター、広告代理店など多くの人の知が集っての「結晶」であり、その後の導線付けも何かしらの意図も含んでいる。それが市場に出た際の、せんとくんは酷かった。たまたま、彦根の際にせんとくんが出て踊っているステージを見ていたら、何処かのTV局のアナウンサーがマイクを向けてきて「せんとくんのどこが好きですか?」と言われたのでは、「いや、好きではないです。」みたいな意見を返した。「好きで何かを見る」のはそういう簡単な行為ではないし、「良い」の反対が「良くない」だとしたら、「悪い」というのはもはや自意識固着の視野狭窄の中でのYES/NOになってしまうような気がして、僕はゆるキャラの「カウンター」というものはメインストリームが盤石でないといけないと思ってもいるし、「カワイイ」で全部片付く世界じゃない。そういう意味で言うと、誰も「メイン」じゃない中での、ゆるキャラたちのあまりにUSインディーロック的な脱臼精神には精励された気もしているのは確かだ。

 そういう意味で、多くの時間をここで過ごした記憶はあるものの、恩恵は然程感じない平城遷都1,300年祭に先頃に、足を運んできた。平城京跡は広大な空き地という感じで、近鉄の大和西大寺駅から団地を歩いて、すぐに主要会場に着くことができる。昔の都。

 「都」という事で、ふと想いを馳せてしまう。

 近代では民主主義というのは「民主国家」と密接的な連関を持っていた訳だけれども、国家の権限範囲と役割の分化次元を弁えないといけない、となると、「グローバリゼーション」ってのは諸国家の基準値を平準化し、均したというオプティミストが居たりして、でも、その際は「オルタナティヴィティ(二者択一性)」の中でのストラグルが前提だった言える。グローバル社会のポストとして「帝国」って置かれたのだけれども、「帝国」、ってのは、国境を無化するというより(認可する)、柔軟にして移動・行き来可能な国境しか認めない限界なき主権フォルムってことで、君主政治、貴族政治、民主政治という三列を「越境」する為に、現代における「帝国」は君主政体的であり、しかしながら、精緻に「帝国」は貴族政治と言えるのは、限定されたエリートやインテリがそれらを廻しているという証左が示している。ただ、諸国家権力の「中心性」への希求を脱構築する試みを図ろうとして、民主的な意見が、人民の代表が貴族性を後押ししているという意味では、帝国は民主的「でもある」。支配/被支配の構造のグループとしての国民国家群が、それぞれの民を何らかの形でリプレゼントしているか、その如何によって「権利範囲」、「役割測定」は為される。

 さて、となるとグローバル社会においての主権は脱中心、脱領域性に依拠する「べき」だというのが「帝国」になる。単一の支配論理の下で、一連の国家的、また超国家的な組織体から成って、それを「帝国」と名付けるのならば、こんな催しも脱構築されるべきなのか、ただの「催し」として嚥下すればいいのか、分からなかったが、会場を訪れてみると、ノスタルジーと歴史教科書の上で遊んでみようという催しに過ぎなかった。平日の雨催いの昼だったからか、間延びした雰囲気はより強く、空いていた。フードコートの混雑具合や、昔の着物を来た子供たちやどことなく緩いムードが漂っている。先ず、正門の朱雀門を行った。

 
 

朱雀門.jpg

  朱雀門

 そこから、僕は平城京歴史館と遣唐使船を観に行った。ここは整理券が必要だが、行った際は10分程待って貰えた。ちなみに、別途500円要る。復元された遣唐使船の後ろに歴史館がある。歴史館の中での見ものは遣唐使シアターという3面のワイドスクリーン、平城京VRシアターという5面のマルチスクリーンを使って、歴史を振り返るもので、なかなか迫力があった。

 

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  復元された遣唐使船

 その後、今回の催しでも大きい意味を孕む大極殿を観に行く。
この催しのために再現されたものでいわば目玉であり、「第一次大極殿」と称されている。第二次のものは、ここの近くを跡地としている。正面約44m、側面約20m、直径約70cmの紅柱が44本使われ、約9万7,000枚の屋根瓦が使われた平城京で最大の宮殿。

 
 

大極殿.jpg

  大極殿

 

 

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  大極殿の内部

 上海万博と比較する「べき」ではないし、比較対象にもならないこちらは記念事業だが、あくまで平城遷都の1,300年を祝うには全体的にローファイで程良い管理化の極まった社会の中での余白が設けられたぬるさがあった。ロックのフェスティヴァルにあるような檻の中で躍る、感じよりももっと隙だらけの「投企」が為されていたのが印象的だった。つまり、「世界の中に否応なしに投げ込まれていた者」が、不安を通してそれを自覚し、そこから新たに自分を捉えなおし、新たな生き方を始めるという流れが捻じれることで、死の自覚を通して、人間は自分を新たな可能性に向けて投げ込むことができる。人間は不安を通して被投性に直面させられるが、逆にこれにより、存在と自由の真の意味が得られるのであるとしたならば、この平和で穏やかなイヴェントにはタナトスの誘因が働いており、せんとくんがスクリーンを背景に踊る姿に微笑ましさを持てなかったのもあったのも事実だった。

(松浦達)

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mystery_jets.jpg
 『NME』が勝手にネーミング付けをした「テムズ・ビート・シーン」は根付かなかったが、そこにはイメージの罠もあるとは思っている。

 例えば、ジル・ドゥルーズは、モーリス・ブランショを参照しつつ、ニーチェのアフォリズムの麗しさは、「外との関係」に由来するものだ、と述べた上で、「内部」という概念については、魂や意識の内部であろうと、本質や概念の内部であろうと、結局は、いつも哲学の原理となっており、哲学の様式をなすということは、外部との関係がそのなかでいつも疎外され、なんらかの内部によって、内部の中に解消されているということだとしたら、ニーチェの概念は反対に、思考やエクリチュールを外との直接の関係のうちに築いているとも言う。そもそも、美しい「何か」とは額縁に収められたその線が、よそからやって来るということであり、その線が額縁の枠内で始まるのではないということがわかり、そしてそう感じる瞬間を差し、強度の線は額縁の枠の外からやってくる、ということも含む。

 また、そういうコンテクストで言うならば、芸術とは外部の強度と「接続」されるものであり、芸術とは外部からやって来た強度に横断されてしまうものである。となると、テムズ・ビートの故郷と言えるイール・パイ・アイランド(-トゥイッケナム)というトポスは、多様な外部からの諸力がやってきて交錯し横切ってゆくような場所として機能しており、ボヘミアン的要素が強い訳で、芸術が横断し易い磁場を提供していたと言える。

 過去にしても、イール・パイ・アイランドは有名な場所で、様々なロック・レジェンドが訪れつつ、THE WHOがレコーディング・スタジオを作ったりしている。なお、テムズ・リバーの小島のイール・パイ・アイランドとロンドンを繋ぐ橋のロンドン側がトウィッケナムで、全くロンドン「ではない」ムードが漂う。当時では、解散したLARRIKIN LOVE、JAMIE T、THE HOLLOWAYS、MYSTERY JETSを始めとして一連の音に共通するものはトラディショナル・フォーク、スキッフル、ケルト・ミュージックへの憧憬であり、要はヒッピームーヴメントの共振という側面性「だけ」で言えば、近年のフリーフォークに近似値を描いていた。また、リリックは明確にワーキング・クラスとしてのシビアな吐露とデカダン的な文学要素の強い内容に終始し、「ストーリーテリング」の様相も強くあり、僕自身は、ここをシーンとして「名づけてしまう」ことには抵抗感があったものの、それぞれのサウンドスタイルも近いものの、スピリチュアリティ、アティチュードは「一貫」していたとは思ったし、ランボオ的な無為さを感じたが、周知のように、「シーン」としては隔絶した形を取った。

 そこでの生き残り組にして、ロマンティックにサイケなロックを求め続けているMYSTERY JETSのサードアルバム『Serotonin』がなかなか面白いことになっている。XTC、10cc、ELOなどの名前を挙げてもいいだろう極上のメロディー・センスとサイケデリアはセカンドより更に推し進められて、しかしながら、ネオアコやアノラック的なムードとは疎遠なのが面白く、今回、ラフ・トレードから出るという意味含めて、どうにも麗しいまでのオルタナティヴィティを発揮している。

 プロデューサーにビートルズやロキシー・ミュージックとも仕事をしてきたクリス・トーマスを選んだ時点で、僕にはジェームス・フォード、エロール・アルカンと渡ってきた彼等の迷走の気配も感じたのだが、これまでで一番、ボトムの落ちた音になっているのは功を奏したと言え、シンプルに締まっている。ファースト時点では、ブレイン・ハリソンの父親が混ざっていたのもあり、どうにもヒッピー的な雰囲気が漂っていたが、セカンドでは意識的に4人の音としてファーストの自分たちを対象化してみせた。ヒットした「Two Doors Down」の80年代のMTV全盛時代に流れていてもおかしくない、キラキラした旧さは、「新しかった」。

 そして、日常生活、恋愛から、うつ病や神経症などの精神疾患(無論全てではない)に至るまでの影響があるとされる「セロトニン」というキーワードをアルバム・タイトルに付与して、更にファンタジーを曳航させた。これをして三部作と称しているだけに、彼等が描いてきた軌跡を総括するような鮮やかな作品になった。次への橋渡しとしても、期待が出来る。いつの時代でもこういったロマンティックな音楽とは、「外部」を内部化しながら、内部から外部への横断を試みる。

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 アドミラル・ラドリーは、元グランダディのヴォーカル、ジェイソン・リトルとドラマーのアーロン・バーチ、アーリマートのアーロン・エスピノーザとアリアナ・マーレイというメンバーからなる新ユニット。06年に解散したものの、未だに根強い人気を誇るグランダディと、美麗なメロディーと繊細なアレンジで多くのファンを獲得しているアーリマート。この2組のメンバーが一緒にやっているというだけで、USインディー・ファンにとっては垂涎ものと言えるだろう。

 後期グランダディ〜ジェイソン・リトルのソロ作では、ゆるい空気感とグッド・メロディーが安定して全編に溢れていたが、時折単調に感じるところが無かったと言うと、嘘になるかもしれない(もちろん、いずれも素晴らしい作品であることは間違いないけれど)。その点、このアルバムには節々に良い意味での緊張感が感じられるし、バラエティに富んだ仕上がりになっている。ジェイソン節が炸裂しているオープニングの「I Heart California」、いやに若々しいノリの「Sunburn Kids」「I'm All Fucked On Beer」、疾走感のある「Ending Of Me」など、様々なタイプの楽曲が収められている。個人的にお気に入りなのは、アリアナがヴォーカルを取る「The Thread」。Lo-Fi室内楽といった趣きのこの曲には、このユニットの魅力が端的に現れている。

 過去にクッキーシーンのインタヴューで、ジェイソン本人が「グランダディの再結成は無い」と断言していたが、ファンの皆さんは寂しがらずにアドミラル・ラドリーの音楽に耳を傾けてほしい。そして、彼らの「今」の音楽を感じてほしい。

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 COALTAR OF THE DEEPERSのナラサキ氏がTwitter上で絶賛し、日本でもコアなリスナーの間で話題になりつつある、「ブルックリンで最もやかましいシューゲイザー/ガレージ・バンド」の異名を持つ3人組の通算2作目。ヴォーカル&ギターのオリヴァー・アッカーマンは、以前このサイトでも紹介したセレモニーのメンバーと共に、ヴァージニア州フレデリックスバーグでスカイウェイヴというバンドで活動していた人物。現在は、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのケヴィン・シールズやTV・オン・ザ・レディオ、U2、ウィルコといった、錚々たるアーティストを顧客に持つペダル・エフェクター・ブランド「Death By Audio」の創設・経営に携わりながらこのバンドを率いている。

 セルフ・タイトルが付けられた前作(2007年)は、それまで会場で売られていた自主制作音源をマスタリングしただけの、言わば"寄せ集め"的な内容だった。しかし今作は、アッカーマンが所有するDeath By Audioの工房に併設されたスタジオにて一気にレコーディグが行なわれたという。そのためサウンドの統一感も前作とは比べ物にならないほどあるばかりか、本作こそが彼らにとって実質上のファースト・アルバムと言えるだろう。ちなみに本国では、デペッシュ・モードやアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、スロッビング・グリッスルらを輩出してきた老舗レーベル<Mute>からのリリースである。

 とにかく、様々な種類のフィードバック・ノイズや残響音、エフェクトされたギターが乱れ飛び、それが大きなうねりとなってスピーカーから押し寄せる。本作を聴けば、所謂シューゲイザーやノイズ・インダストリアル系のバンドが、単にバカでかい音を鳴らして稚拙な演奏を覆い隠しているだけではないということが分かるはずだ。音を歪ませることで増幅される倍音や、リヴァーブやエコーの残響で滲んだ音の輪郭。それらが幾層にも重なることによって、これまで聴いたことのないようなサウンドスケープを生み出していく。ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズは、そうした手法を間違いなく自覚的に、しかも現存するバンドの中で最も過激に実行しているバンドであろう。

 日本盤には6曲のボーナス・トラックを追加。先行シングルのB面曲や、英国ブライトン出身の5人組バンド・ユニット、サウス・セントラルによるリミックスなどが収められているので要チェック。まるで「Death By Audioのショーケース」のような本作は、ペダル・エフェクター・ジャンキー必須である。

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 スウェーデン出身のSSW、クリスチャン・マットソンによるソロ・ユニット。主にアコースティック・ギターやバンジョー(一部の曲では鍵盤も)を使ったシンプルな弾き語りを中心に、枯れた味わいのフォーク・ソングを聴かせてくれている。ボブ・ディランを引き合いに語られることが多い彼だが、本人もディランからの多大な影響を公言しており、デイトロッター(様々なアーティストのライブ音源を公開しているアメリカのサイト)では、ディランの「I Want You」のカヴァーも披露している。

 もちろん、彼の音楽は単なるディランのモノマネにはとどまらず、歌詞やメロディー、歌声やギター・プレイなど楽曲の節々に、独特の工夫や味が見受けられる。どこか飄々とした雰囲気のディランに対し、マットソンの歌声は、よりダイレクトに聴き手の心を揺さぶる、切実さを孕んでいる。

 本作でめでたく日本デビューを果たしたザ・トーレスト・マン・オン・アース。ジョン・ヴァンダースライス、ボン・イヴェールらとのツアーや、SXSWへの出演を通じてアメリカでは既に高い知名度と人気を獲得しているが、日本でも大ブレイクを果たすか!? 「地上で最も背の高い男」から、今後も目が話せない。

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 アジアン・カンフー・ジェネレーションが主催するフェス「Nano-Mugen」や、去年に引き続き今年のFuji Rock Festivalへの出演も決まっている、PREDAWN(プリドーン)こと清水美和子。これまでにANDYMORIやQUATTRO、ECCYの作品に参加したり、自主制作によるCDR「10minutes With Predawn」をリリースしたり(下北沢Mona Recordsで異例の売上枚数を記録)と、すでに耳の早いオーディエンスの間では話題になっていた彼女による、本作はファースト・ミニ・アルバムである。

 クレジットを見ると、作詞・作曲はもちろん全ての楽器演奏からプロデュース、ミックスまでを彼女が1人でこなしているようだが、一聴してまず、あまりのクオリティの高さに圧倒された。アコースティック・ギターによる弾き語りを基軸としつつ、そこに彼女の1人多重コーラスやハーモニカ、トランペット、あるいはタンバリン、グロッケンシュピールといったパーカッション類が、極々控えめにオーヴァーダビングされている。その箱庭のようなパーソナルなサウンド・プロダクションは、シンプルだが豊かで奥行きを感じさせ(イラストレーター野田まさ子によるアート・ワークも、彼女の世界観を見事に表現している)、例えばポール・マッカートニーの『マッカートニー』や、細野晴臣の『Hosono House』を聴いたときのような(どちらも自宅スタジオに籠って作られた初のソロ・アルバム)、穏やかだがどこか孤独で切ない感覚に包まれる、と言っても決して大袈裟ではないのだ。

 どちらかと言えば線の細いインドア系のアーティストなのかと思いきや、ライヴでのパフォーマンスを観てさらに驚いた。少しハスキーでキュートなウィスパー・ヴォイスは、あるときは力強く、あるときは伸びやかに宙を舞い、聴き手の胸の奥までストレートに届く。「和製ノラ・ジョーンズ」と評されたりもしているというが、個人的にはザ・サンデイズのハリエット嬢やリンダ・ルイス、メアリー・ルー・ロードといったアーティストを思い出した。そう、いわゆる"ナチュラル""癒し系"などという言葉で評されるような今どきのシンガーとは一線を画す、"凄み"のようなものすら感じさせてくれたのである。

 日本人離れした、などというフレーズが今どき褒め言葉にもならないのは重々承知している。が、彼女ほど日本人離れしたワールド・スタンダードな才能を持つシンガー・ソングライターはそういない。今後の活躍も本当に楽しみだ。

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 ジョーボックスのJロビンズをエンジニアに迎えた前作「Turns Red EP」から早くも9ヶ月。作品毎に進化の一途を垣間見せているライトが、今度はシカゴの音響/ポスト・ロックの巨匠ジョン・マッケンタイア大先生を迎え、数々の名盤を生み出しているシカゴのSoma Studioで制作された新作ミニ・アルバムを完成させた。

 鋭角的でスリリング、立体的で切れのあるタイトなインストゥルメンタル・ロック、という従来の彼らのサウンド・イメージとは少し異なり、音響/エレクトロニカ的アプローチで幕を開ける1曲目のショート・トラック「Drops」が予期させるように、これまたバンドの新たなる一歩を感じ取れる作品に仕上がっている。素早い手さばきで目を見張るような目まぐるしい曲展開はグッと抑えられ、前作同様のシンセサイザーやアートワークにもなっているマラカスなどがバンド・サウンドに加わり、どっしり地に足の着いた、ジワジワと攻め上げていくメロウなスリルさを持った楽曲がずらりと並ぶ。不思議と聴けば聴くほどあっと言う間の全5曲。早くも今後のフルレングスでの作品に、より一層の期待がかかります。

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 Gラヴに見出され、ベン・ハーパーの<エンジョイ・レコーズ>第一弾アーティストとしてデビュー以来、サーフ・ミュージック・シーンを牽引し続けるジャック・ジョンソンの前作『スリープ・スルー・ザ・スタティック』よりおよそ一年半ぶりとなる5作目のオリジナル・アルバム。

 これまでに比べ、幾分開放感のある楽曲も目に付くが、本作でも変わらず緩やかでオーガニックなサウンドが心地良い。

 今でこそサーフ・ミュージックと言えばジャック・ジョンソンの名も多く挙がるであろうが、それまでは恐らく大半がベンチャーズに代表されるエレキ・インストをイメージしたはずだ。

 スポンサー契約を結ぶ程のサーファーであった彼が奏でるアコースティック・サウンドがサーフ・ミュージックと括られ、我々リスナーにとってもそれが共通言語となっていく感覚と過程。それは僕等にとてもフィットしたし、画期的とさえ感じられた。
 
 加えて、自らブラッシュファイアー・レコーズを立ち上げ、ドノヴァン・フランケンレイターのリリース/プロデュースを行った事は、意識的に芽吹いたばかりのこのシーンを本格化させる意図もあったのかもしれない。(意図はないにせよ少なくとも無自覚ではないはず。)

 こうして使い古されていたサーフ・ミュージックのイメージを刷新し、サーフ・ミュージックを若者の手に戻した立役者である事がジャック・ジョンソンが5作目にして尚、求心力を失わない所以であろう。

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 轟音サウンドも泣きのメロディも樽で丹念に熟成されたかのような深みを備え、コクのある、そして哀切すらも感じさせるギターが素晴らしい、2ndアルバムを完成させた千葉発クリーン・オブ・コア。3人組のプログレ・インストバンドなんだけど、ハードコアの匂いがしたり変拍子だったり、ポップだったり!!! 独自のグルーヴとシンセがカッコ良く絡み合い、唯一無二の世界を作り出している。また、ダンス・ミュージックのエッセンスをポスト・ハードコアなバンド・サウンドに落とし込み、メロディアスな部分を押し出していることで、一層多彩な音が聴けるようになっているのも、かっこいい。別にギターの音が小さいって訳じゃないけど、全体のイメージとしては低音が出てるロック。曲全体のエッジをリズムで出してて、シンセやギターはさりげなく、かつ効果的に存在感をアピールしている。タイトなビートと超高精細な音響の配置は間違いなく時代の最先端にある。凄い。

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 キャロル・キングの『つづれおり』のような「健全」なモノローグと寂寥を聴いた後に、ふと聴きたくなるローラ・ニーロとか、ハイファイでアタック感の強い音塊に囲まれている耳に流し込むようなフアナ・モリーナとか、真夜中の酒によく合うジョニ・ミッチェル、「蘇州夜曲」をジャジーに歌い上げるアン・サリー、憂鬱な時の混沌とした頭に染入るシャルロット・ゲンスブールに近い形で、彼女のミニアルバム『I Don't Belong Anywhere』を聴いている。

 今は、工藤鴎芽としてのソロでの活動を行なっているものの、MySpaceで、SEAGULL名義でやっていた彼女のことを見つけたのはほんの数ヶ月前のことだったと思う。「Kiss And Kill」という映像でギターを弾きながら、「何処にも居場所なんか無い」という事を体現するように、歌う姿に心打たれた。そこには悲痛と言えるよりは、まだ拙さの方が先立っていたが、それでも余りある強烈な世界への違和感が溢れていた。カート・コバーンは「ジェネレーションX」の中で名前を無くしたとしたならば、彼女はロスト・ジェネレーションの中で「世代」を喪っているかのように。
 
 現在、退歩として縁取られた懐古主義的なロックやキッドナップ的な名前だけのオルタナティヴが溢れつつ、バック・カタログを漁れども彷徨してしまうのがオチで、自分の歩幅を合わせて聴くことが出来る音楽や、所謂詰まるところの「尖った音楽」が少なくなっていくばかりの趨勢で、音楽的感性をベースにした同期性から「降りる/降りない自由」は勝手にしても、年齢を重ねれば重ねるほどに聴く音楽は、その実広がっていくようで完全に狭まっていくのは仕方ないことなのかもしれない。要は、経験則、知識から自分にとって必要か/必要ではないかの取捨選択が明確になるからで、数万曲のストックから瞬間的にその時に聴きたい曲を「選べる」環境にいながらも、再生頻度を探れば、ますます自分の聴く「音楽の幅」は狭まっていくのか、そして、その狭まった音楽の幅で更にピンポイントで、何が、「音楽なのかジャンクなのか」さえも曖昧に砂上の楼閣みたく消えてもゆく。それでも、個人は無限に音源をUPし続けて、「誰か、分からない誰も」がそれをスルーする。

 彼女の音楽性はとても幅広く、ローファイな質感を持っている。ベックを始めとした90年代的なオルタナティヴ性を「ロック」にメタ解釈したもの、IDMの音とギターの音色が浮遊的に交じり合う曲、ソニック・ユース的なグランジ的な曲、内省的なバラッド。音楽ジャンルは違えど、セックスを決して売りにしないエイミー・マンが醸すような孤独と知性や空気感がこの作品群にも通っていて、でも、最終的にはとても穏やかで優しく、「曖昧な温度」だけを残してくれる。だから、安心して「真摯」に向き合う事が叶えられる作品として、緩やかに気負わずアイデンティファイ出来る。孤独なベッド・ルームを覗き視ている様な背徳感と誰でもそのベッド・ルームから音楽を奏で出しているのだろうという安心感の鬩ぎ。如何にも今の時代の音だと思う。

 彼女の歌詞世界は所謂、汎的な女性アーティストに多い「大文字のラヴソング」は少なく、観念的な要素が多いが、それでも、「ラヴソング」としか言えない部分も孕んでいる。何故なら、ラヴソングにも色々な定義があるからだ。果たしてラヴソングとは一体、「何」から「何」へと放たれるものなのか。よく考え、そして、巷間に溢れる音楽の殆どを占めるラヴソングのベクトルとは一体、何を指し示そうとしているのか、考えてみればいい。

 また、このEPを聴いていると、どうしても頭を擡げてくるテーゼであり、日々と言ってもいいレベルで量産され、食傷気味とも言える数の「I Love You(及び、その変形型)」が意味化するより記号化されてしまうような速度の中で、切実な想いと熱のこもったラヴソングでさえ排除されてしまう気がする。だからこそ、少しだけ掘り下げてみたいと思う。

 「君と僕」の関係性を煎じ詰めると、究極的な意味でラヴソングへと「昇華し、抜けていく」とかの一般的でカジュアルな原則(個人的な事を突き詰めれば、普遍性に繋がる、というもの。)はどうだってよくて、僕なんて単純に、普通に経済を語るように政治を語るように社会を思うように未来を憂う様に、このテーマについて切実で押し迫った気持ちを抱えているし、そうあるべきだとも思うからして、ロックの役割とか時代的な参照点としての意味とかは二の次に、エヴァーグリーンな気配や影を「感じ取ろう」というアンテナで音楽に向き合う事がよくある。ラディカリズムや刹那的な衝動、を飛び越す絶対的な色褪せない熱としての、音楽という意味を越えた「質感」。それは、1970年代のスティーヴィー・ワンダーの『キー・オブ・ライフ』前後の諸作に感じるような、歴史的な文脈やカテゴリーを抜きに、触れた途端「名曲」の温度を感じとってしまう―そんな情動に近いとも言えるだろうか。

 「ラヴソング」とは、①♂→♀のミニマルなもの(または、その逆。)。②♀→♂→?という♂を仮想対象として設定し、普遍的なもの、汎的なものにアプローチしようとするもの(♂→♀→?という構造性が成り立ちにくい理由はここでは詳述する必要もないだろう。♂は「現象」で♀が「存在」だという免疫学的な観点を援用するまでもなく。)。③性別性を越えた記号的羅列としてのもの。に大雑把には括れると思うが、③の商業主義として芯の強さ、"形式主義故の「深さ」"とかはもはや論じる必要も無いだろうし、"浅さ/深さ"をメタ・レベルで「敢えて」述べる必然性も無いからここでは割愛するが、①に関してミニマリズムを極めたが故の反転としての、時代を捉える瞬間というのは今でも音楽の持つ偉大なカタルシスの一つであり、感動的なものだと思う。その登場人物やディティールは絞られ限定されている筈なのに、聴いた人がそれぞれのコンテクストを敷き、感情的同化をする、という-そこには様々芸術や娯楽が栄えようとも、音楽が放つ稀有なマジックがあるからだ。

どんな汚い世界でも愛しているんだから
(ワンダーウォール)

の矢印の先に、「君」は居ないかもしれないが、彼女は自分と対峙するほどに零れる感情に名前を付けようとする時に零れるジャンルに意味を付けるなら、「ラヴソング」にしか思えないのだ。彼女は「殆どラヴソングはない」と言うが、独りを意識するほど、「大文字の他者」が明滅する訳だから。

 工藤鴎芽の今回のEP『I Don't Belong Anywhere』は精緻なエクリチュールの差異はあれども、徹頭徹尾、自分への藻掻き、観念的懊悩に照準が定められているが故に、標的の見えないラヴソング集とも言える。危うく繊細な線を行き来する「大文字の言葉」が均衡さえ無視した歪な「枠外」へとブレイクスルーされてゆくような生々しい感情の表出を感じさせるものでもあり、僕はこのあまりに"本能的な揺らぎ"に関して一部のフィメール・アーティストにだけ感じる女性性ならではの凄みや過剰さと、♂の自分として「はじめから越えられない」何かを握っている確信を感応した

いつまで経っても消えない
切離された街灯の星と星
忘れることなんて容易い筈なのに
何もないこの庭で夢をみる
(無所属に尽き)

 ラヴソングという括りにおいては、お気軽でコンビニエントな内容で完結してしまうものばかりだけではなく、最終的には殆どが、愛の過程における絶望の鈍みもニヒリスリックな視界もありふれた退屈も「込み」で描かれるものも含まれざるを得ない、として、「孤独も含まれる」。ポジティヴで、オプティミスティックな指向性で、ずっとこのままの状態が続いていって、「煌びやかな未来」が待っていて、なんて視野狭窄的なヴィジョンは、どんな歌でも関係なく、荒唐無稽でしかないし、幻想に盲目的な希望を上塗りして、それぞれの傷を隠し合っても自分の内層を見て見ぬ振りしても現実は残酷に追い越していく。良いところ取りだけで成立し得るものなんか「なく」、ハッピー・エンドというのは「基本的に」有り得ない訳で、ずっと続いていく/続いていかざるを得ないライフタイムの中で、都度に打たれる楔をどのように意味付けして、自分なりの脈絡を見出していくのか、そこにこそ、リアリズムが純粋濾過した故のロマンティシズムの原型と呼べるものが顕現することがあるのではないかな、と個人的に思う。

 その中で、彼女の言葉や音楽への切実な対峙の仕方は、サーフィシャルな言葉群に埋もれて空虚に踊ってみるのもいいという処世術の一つかもしれないと言える。でも、切実な構えで本質的な深さと重さに目を向けてみるっていうのも存外、悪くないし、そこらに転がる態の良いキャッチコピーより自分を「癒して」くれるのかもしれない、と僕は考えもする。

 ありふれた日常に溢れる、ありふれた数多のシニシズムやニヒリズム、ペシミズムと生温い諦め、悪意が通奏低音になって、ユージュアルに生きている空気の中にも当たり前に混在してきているのを察しながら、自分は戦時下でサイレンに耳の鼓膜を破られるような気分を先取る感性で、ラヴ・ソングばかりを選りすぐって聴くときがある。それは、例えば、過去、レイジ・アゲンスト・ザ・マシーンの一連の曲が、「政治的な意味ではなくラヴソングだと思っている」、なんてザックの言説に沿う場合もおおいにあったりする訳で、チェット・ベイカー、サラ・ヴォ-ン、Madeleine Peyrouxを聴くような耳で、工藤鴎芽を聴いてみると面白い。

 このアルバムは語弊を承知で言うならば、ベックの『メロウ・ゴールド』の気配を忍ばせつつ、初期スピッツの無為さが混ざっている。都会の影にひっそりと咲く「一輪の花」みたく可憐に逞しく響き渡る「都会(的生活)人の為の孤独な音楽」だと思う。そんな、「引き裂かれた」中で咲く花の美しさ。花は枯れるのを孕むから美しいのだ。その美しさはとても儚い。

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 日本人女性メンバーをフロントに据えた、イギリスはブリストルのポスト・ロック・バンドを皆さんに紹介したい。結成して未だ2年も経たない新人バンドであるが、この度ボーカルのYuka Kurihara嬢にとって7月には凱旋帰国となる来日ツアーも控えているのだ。

 <Lost Children>というシューゲイザー界隈では話題のネット・レーベルから音源が無料配信されているので是非御視聴戴きたい。M-1『Number 3』の冒頭からエコーがかったさざ波のような優しい歌声は、遥か彼方へと広がるサウンドへの期待を募らせる。1つの曲の中に序章〜数エピソードを交えフィナーレへと誘う長尺な楽曲が3曲。たゆたうトレモロとディレイの織り成す美しいギター・サウンドのレイヤーに連れられ徐々に昂揚し天へと突き抜ける高音のエンジェル・ボイス。この英語と日本語を交えたボーカルの魅力が確実にバンド・サウンドの魅力として成立させている。そして至福のアンビエントから一転して怒濤の美轟音バーストも交え、緩急がしっかりと表現されており、典型的な溜め〜爆発(静〜動)といった展開もだれる事なく幽玄な世界感からリスナーを現実に戻させない。

 近年のポスト・ロック勢の傾向として「轟音バーストに頼らない」オーラスの表現方法を試行錯誤している向きがあるのだが、彼らはその逆で「轟音バーストを如何に、よりオーラスとしての効果を発揮出来るのか」を追求したかのような、その他数多よりもハッキリとした静と動のコントラストを提示する事によって音楽として具現化しているのだ。シガー・ロスやエクスプロージョン・イン・ザ・スカイの愛好家なら堪らない恍惚の瞬間。ボレロのようなリズムを刻み、クラシカルなチェロの音色の装いも全体に重厚感と深みを与えて曲のストーリー性を引き立たせている。

 ST.VINCENTやBLUE ROSESとの共演が彼らの初のライブで、その人気に拍車がかかるUKロックの気鋭GRAMMATICSらとも対バンの経験を経ている点も興味深い。満を持して彼らが日本の地を踏みしめ、幻想的なサウンド・スケープで我々を現実から引き離してくれるに違いない。いや、引き離すというよりは非現実に吸い込まれるといった表現の方が似合う。柔らかで涼しげ、幽玄という言葉が正に当てはまるサウンドと、怒濤の轟音ギター・ノイズのコントラストを是非体感して戴きたい。

THIS IS MY NORMAL STATE + 34423 Japan Tour 2010
7/22(木)東京 下北沢 THREE
w/ SHEEPRINT, KANDAN , 王舟
7/23(金)愛知 名古屋 TIGHT ROPE
w/ 未定
7/25(日)大阪 北堀江 Club VIJON
w/ BONEVILLE OCCIDENT, SGT. ,KANINA ...
7/27(火)福岡 小倉 FUSE
w/ ANTHEM OF DYING DAY, WATLEEP ....
8/1(日)山口 Organ's Melody
w/ LITTLE PHRASE ...
8/2(月)京都 Whoopee's
w/ HOUSE, SOW , MIGS
8/5(木)東京 下北沢 ERA
w/ HIS WEDNESDAY, ANRIETTA , SUR

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 アシッド・フォーク調のバッキングに乗って、愛らしいカレン・Oの歌声が聴こえてきた瞬間、はっと息を飲んだ。オープニングを飾るヤー・ヤー・ヤーズによる「The Love I'm Searching For」、ムーグもディストーション・ギターもヴァイオリンも、印象的なコーラス・パートさえも大胆に削ぎ落としたこのアレンジからは、ヤー・ヤー・ヤーズの表現者としての優れた手腕を感じるとともに、世に出てから15年経った今も全く色褪せないレンタルズの楽曲の普遍的な魅力がひしひしと感じられた。

 トリビュート・アルバムには2つの楽しみ方がある。ひとつは「そのアーティストの影響を受けたアーティスト達による、それぞれの解釈での楽曲の再構築」を楽しむこと。そしてもうひとつは「カヴァー・バージョンを通しての、オリジナル・バージョンの魅力の再確認」という楽しみ方だ。このアルバムは、その両方を十二分に楽しめる作品になっている。例えばモーション・シティ・サウンドトラックのように原曲に忠実なアレンジで盛り上げてくれるバンドもいれば、コープランドのように楽曲の新しい側面を覗かせてくれるバンドもいる。

 参加アーティスト陣も豪華で、アッシュのような中堅どころからトーキョー・ポリス・クラブのような若手バンド、<ラフ・トレード>のコンピにも参加していたエジンバラのアバーフェルディや、<サブ・ポップ>のポップ・デュオ、ヘリオ・シークエンスまで、幅広い個性的なラインナップで聴き手を飽きさせない。

 ラストのアジアン・カンフー・ジェネレーションによる「Hello Hello」(レンタルズのレイチェル・へイデンがコーラスで参加!)や、ボーナス・トラックのレンタルズとアジカン後藤氏による「A Rose Is A Rose」の日本語バージョンはさすがの仕上がり。とにかくレンタルズ、そしてマット・シャープというアーティストへの愛がひしひしと感じられる、そんなトリビュート・アルバムだ。頭三曲がレンタルズのファースト・アルバム『レンタルズの逆襲』と同じ並びになっているところも、イイネ!

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 2008年に双葉社より刊行され、2009年度本屋大賞を受賞しベストセラーとなった湊かなえのデビュー作『告白』の映画サウンドトラックです。

 なんといっても特徴的なのが、これに収録されているアーティストの並びです。

 これが初の日本映画への楽曲提供となったレディオヘッドに、渋谷慶一朗、Boris、相対性理論のやくしまるえつこと永井聖一による共作曲に、AKB48、The xxなどなど、明らかに異様なこの顔ぶれ(笑)!

 秀逸なミステリィに必要不可欠なポイントとして挙げられるものの一つに、プロット(構想)の組み方の巧さがあると思います。プロットが生み出すテンポの緩急が、非常に重要だということです。そのテンポの緩急、受け手側の感情意識の流れを引き立てるように、そして物語の展開に呼応するように選曲されたサウンドトラックだと思います。

 AKB48が流れたと思いきや、レディオヘッドや渋谷慶一朗のクラシック要素を含んだ楽曲が流れるという、この不気味でシュールな感覚。この一見不自然で、違和感を感じるのだけれど、どこまでも現実的であるという部分が『告白』という作品とリンクしているように思います。

 サントラとして聞いても非常に面白いのですが、個人的には是非映画も見てほしいと思います。『下妻物語』『嫌われ松子の一生』などを手がけた中島哲也が脚本、監督を担当し、主演の松たか子の演技も非常に良いです。是非!

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 統一感のあるスタイリッシュなジャケットでお馴染みのドイツのレーベル、<Sonic Pieces>より、夏に向けての新作が届けられた。電子音がアコースティックギターの周りをたゆたうように泳ぐ音楽を届けているフランク・シュルゲ・ブラムと、Goldmundあたりよりもさらにクラシカルなピアノ・ソロアルバムで好評なナイルス・ファームによる共作。

 ポスト・クラシカルな雰囲気はなく、Mountainsあたりのエクスペリメンタルでフリーフォームなスタイルを築いている。内容が近似しているのは、どちらかといえばBLUMMのアルバムであろうか。五月雨系のアコースティックギターは伸び伸びと爪弾かれており、可愛らしいベルや、ピンポン玉が床を跳ねる音など、小さなものがひそひそと談笑するような、こまごました音が配置されている。それらが各々、フリーフォームでアブストラクトに自分のペースで静かに動きだす。そこに潤沢なピアノとギターとが基盤となることで、エクスペリメンタルでありつつも優しい子守唄のような温かみが生みだされている。

 全ての楽器や電子音が気持ちの良い音を鳴らしたいだけ鳴らしている。それらからメロディの欠片が抽出され、全体として大きなメロディが浮かび上がってくる。リビングにある雑貨だけで作れそうなプライベートな音楽だ。とても肌触りが良い。

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 例えば、『(500)日のサマー』で、主人公が聴いていた「There Is A Light」。また、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートやザ・ドラムスといったバンドの音楽性。そう、現在のUSにはザ・スミスの影があちこちに見られる。英国的なセンスが強く、活動していた時代には見向きもされなかったものの、今のUSインディのキーワードとして、ザ・スミスは大きなものになっている。

 さて、今回紹介するワイルド・ナッシングも明らかにスミスの系譜を受け継いだアクトだ。ジャック・テイタムという青年のソロ・プロジェクトなのだが、この青年、エイブ・ヴィゴダのサポートでギターを弾き、トロピカル・パンク・バンドのフェイスペイント(Facepaint)やジャック&ザ・ホエール名義でシンガー・ソングライターとしても活動する、という多彩な活動をしている青年だ。いや、それだけの活動ぶりと音楽ギークなところがなければこのデビュー・アルバム『Gemini』は生まれていないだろう。

 スミスを思わせるキャッチーなメロディに、マイブラ譲りのホワイト・ノイズ。それはまるで美しき白昼夢。ウォッシュト・アウトやリアル・エステイトなどUSインディ界を巻き込んだ夏ムードもGlo-Fi/Chillwaveのテイストも含みつつ、キラキラとした電子音とファルセットのヴォーカルとコーラス、そして軽快なギターのカッティングのサウンドがただただ耳の奥で光っては消えていく。淡い水彩画のような優しいタッチで、80年代のインディのエッセンスを凝縮し昇華させた良作だ。

 ケイト・ブッシュの「Cloudbusting」をカヴァーしたり、PVでは60年代の映画を引用したりと、通のツボをつくセンスも含め、このジャック君はモリッシーの遺伝子を受け継いでいるといえるだろう。僕には彼が、インディ界のオタク中のオタク、ブラッドフォード・コックスの「次」じゃないかと感じられてしょうがない。

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 矢継ぎ早に次ぐ矢継ぎ早、攻撃的な轟音ファンタジー!

 ひとたび音が轟き渡れば、普段意識しない血流の流れや、胸の鼓動が早まるのを感覚するほどに心身が研ぎ澄まされる。耳にすれば圧倒的に聳え立つウォール・サウンドと、不思議な世界観を紡ぐ言葉でありながらパーソナルに響く詩によって、ハイにもなるし、メロウにもなるが、その何れもが"それ(音楽を聴くという行為)"に追随するリアクションを取る以外に成す術がないのだ。

 茨城県出身の3人組(ナカヤマ/Vo&Gt、ハル/Ba、ホソヤ/Dr)というバイオ以外の詳しい情報は明確ではない。瞬時にインパクトを与えるドールの顔のアップが目を引くアートワークといい、ルドルフ・ウィトカウアー『アレゴリーとシンボル』にインスパイアされたと思われるが、フロントマンのナカヤマ氏のバンドの中核を担う絶対的な個性を誇るセンスは、ぎらつく野心も同時に感じさせる。とにもかくにもスメルズ・ライク・オリジナル・スピリット。そしてシンプルな楽器編成でありながら、緻密で高度に組合わさる業の応酬は、さながら少林寺の演武を開いた口が塞がらず眺めているかの様に、人間業ではないのでは?と、現実から非現実の扉を打ち鳴らされる轟音で押し開く。その力強さはハル嬢とホソヤ氏のバキバキとタイトでありながらしなやかに"うねる"柔と剛が入り混じるグルーヴも一因しているのは間違いない。

 加えてエモ、ポスト・ロック、オルタナなど90年代以降のロックを基調としているのも間違いない。メロディの美しさも特筆すべき点で、急上昇&急降下を繰り返す唯一無二のスリルを体感させ、落ちそうで落ちずに超低空でグライドする緊張感を伴った爽快感。自由奔放な日本語が踊るナカヤマ氏の伸びやかな歌も、安易に和のテイスト漂わせればよしといったものではない。全7曲を通して物語が出来上がり、我々は激しくも甘美な堂々巡りに迷い込む。時に美轟音に雪崩れ込む展開に身を委ねていると、ENVYらが切り開いたポスト・ロックとポスト・ハードコアの境界線を貫いた新境地に、新たに揺れ動かぬ普遍性=ポップを携えて見事に時代を出し抜いた彼らの自信に満ちた笑顔が脳裏に浮かぶ。

 ライブを観た者なら分かるのだが、ただ歌っている訳ではない。ただ叩いている訳ではない。ただ鳴らしている訳ではないのだ。全てのサウンドを踊るように演奏している。結果、全てのサウンドが踊るように灼熱を放った。踊るとは、全身全霊で体現する事なのだ。そして掻き鳴らされる、そのサウンドも全身全霊で踊っている。そんなサウンドを耳にした我々もまた、全身全霊で踊る他ない。

 エモーションなんて言葉は後日談に使えばいい。後日談を当分語れぬ程の感動が現在を進行するポスト・ロック世代が求めるポスト・ポスト・ロック。彼らはとっくに先へ行っていて、不肖達をずっと先で待っている。俺たち=今の時代なのであれば、時代はもうこれ以上彼らを待たせてはいけない!

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 ドゥルーズ=ガタリはリゾームという概念によって体系的な形態から外れたものであってもそれは混沌ではなく多様体という別の秩序によって成立していることを示した。要は、伝統的な知や組織体の態は、ツリー式とみることができ、それは、物事を幹、枝、さらに小さい枝へというように、そして、また、このツリーから外れた知は混沌としたものとして扱ってきた。

 しかし、これに対し「リゾーム(地下茎)」とは幹や枝といったものはなく、これは、中心を持たず多様な流れが縦横無尽に横断し交差し連結しているからして、このリゾーム的な形態は決して混沌ではなく、言語もリゾームであると言えることになる。つまり、リゾームは、ツリー型の反対に位置する多様体というもう一つの秩序だった組織や知のあり方であるとしてリゾーム的なあり方を復権させようとせしめる。

 リゾーム/ツリーの二項対立は、スキゾ/パラノ、脱コード化/再コード化、分子的状態/モル的集合、遊牧性/定住性、平滑空間/条里空間といった様な二項対立の図式として表れてくる訳だが、この対概念は仕切りではっきりとした区切り(横断線や逃走線)がある訳ではなく、グラデーションのように互いに浸透し合っている。

 このような秩序を持ちつつ、「他と連結してゆくリゾーム」をベイトソンの用語を用いて「プラトー」と呼ぶが、プラトー的な佇まいを常に保持してマイペースに遊牧する日本のバンドにsleepy.abがいる。

 北海道、札幌在住のスタンスを崩さずに、全国のフェスにイベントに積極的に参加しては、その一瞬で空気を下げるような、凍度と優しさを持ったサウンドで着実にリスナーを確保していた彼等の、オリジナルとしては、本当に満を持しての2年8ヶ月振りのアルバム、にしてメジャーへの移籍での昨年の『Paratroop』が想ったより巷間に影響を与えることが出来なかったのは、セッション的で攻撃的な部分を押し出しすぎたあまり、彼等特有の浮遊感や寂寥やリリシズム、センチメントが霞んでしまい、キャッチーな「メロウ」などはパワープレイされたものの、どうにも過渡期的な作品だったからかもしれない。

 そもそも、今、sleepy. abは歴史が長いバンドで前身バンドの形式を含めれば、10年を越えている。シューゲイジングさえ出来ずに、自分の不眠症を治す為に自分で音楽を紡ぎ始めたボーカルの成山氏のぶれなさはそのままに、今は「黙示録」的な大文字の世界観はグッと減り、抽象的ながら、深みのある言葉が増えていった。とはいえ、相変わらず、水槽の中の揺蕩う、光のようなサウンド・テクスチャーが展開されつつも、これまでに無いラウドな様相も閉じ込めて、更に、独自の彼等の持つ物悲しいトリッピーな浮遊感も充溢しているような展開になってきた中、今回の彼等初となるシングル「君と背景」はこれまでにない「拓け方」と「光」が溢れている。それでいて、SIGUR ROS、KYTE辺りの浮遊感、初期のCOLDPLAYのような透明感、また、柔らかく組まれたサウンドスケイプはまるで『空中キャンプ』以降のフィッシュマンズのような、メロディーの繊細さはスピッツ的というと、過大評価が過ぎるだろうか。ただ、ここには昨今の所謂、「J-」ものが持つ過剰な郵便性や過度な振り切りがなく、あくまで「宙空を揺らせるだけのサウンド」が鳴っている。

 想えば、セカンドの頃の「メロディ」が彼等の中でも分岐点になった曲で、それによって大きく彼等の存在性は注目されるようになったが、あれは要はRADIOHEADの「High And Dry」のようなもので、抒情的なギターロックを繊細に奏でようとするとき、それまで「自己内」で完結していたものが、ふと他者性を見つけてしまった、そんな類いの曲であった。でも、RADIOHEADは今や、その曲を殆どライヴではしないが、彼等は必ず「メロディ」は演奏する。それは、sleepy. abという主体が多分、(Something Like A) sleepy. abを客体化出来ていない証左だったのかもしれないが、確かめるように、「メロディ」を演奏する時、確実にその場が皆にシェアされているようなアトモスフィアが発現した。反射鏡のように帰ってくる光を自分が受け止めるように。しかし、今回で言えば、「メロディ」的なものを越えようとした「メロウ」を更に新しい形で改変して、今回の「君と背景」は確実に彼等の名刺的なアンセムに交代するかもしれない。「メロウ」は自覚的に「緩やかなる、全体性の消失」を歌っているからこそ、強かった。今回は「君」が「散る」様に繋がりと光を示唆する。但し、それはポジティヴなラブソングめいたものではない。漸く、彼等が「彼等の出す音像」に十二分に意識的になった事を感じさせる手応えがある。「喪失と再生」、なんか他のバンドが幾らでも歌ってくれる。

単純な生活を
簡単につないでく
不安をめくった先の未来を
君はずっと選べない
(君と背景)

 例えば、BUMP OF CHICKNENの新曲は何故、あんなにぬるくなってしまったのか、RADWIMPSはそこまで「君」にセカイを反射させるのか。彼等が言葉数を増やして、君を描くのに比して、sleepy. abはどんどん「行間の多さ」が増える。「ねむろ」と言っていた彼等の緩やかな意思が丁寧に編み込まれている事が感じ取れるがしかし、此処には実は、僕も君もいないのだ。歌詞内の「君」は記号として「君」であって、別に君で何でもいい訳で、それは人間じゃない何か、かもしれない。そして、「想う僕」だって恣意的だ。青く想えるような曲でも、人生を見据えているような前向きな曲でも、何処かぼんやりと空疎な感じが付き纏い、決して楽観的でも前向きでもない。それが良い。

 透明的で気怠い成山氏のあの独特の声と、それを支える確固とした柔らかなバンドサウンド。得も言われぬ希望的な、何かを待備させるが、精緻には、ただ、それは「希望、ではない」のだ。

 絞られた歌詞、ミドル・テンポのリズム、4分程の音の揺らぎ。前作含めて過去から追いかけてきた人も、新規参入者も拒まない茫漠とした「空間」がここにはあって、椅子はあるが、誰が座るのかどうかも分からない。ただ、確実にこのシングルによって、全く独自のポジションを確立したと言える。不眠症は癒えなくても、君は描けるのだ、背景として。

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 軽快に跳ね回るメロディに、複雑な展開をするメロディ、ファルセットのヴォーカルと整ったハーモニー――アート・ポップ×プログレと表現されるその音楽性は、膨大な情報量とキャッチーさを同居させている。しかも、韻を踏んだり、ダブル・ミーニングを込めてみたりしたりした歌詞にはヴァンパイア・ウィークエンドもかくやの知性の高さとユーモアを感じるし...この「Schoolin'」という曲を形容するのに僕はほとほと悩んでしまう。それほど、オリジナリティがあるのだ。

 ビートルズやスミス、それにレディオヘッドやクラフトワークにスティーヴ・ライヒといった実験的なアーティスト、更にはマイケル・ジャクソンやRケリー、ビヨンセといったメインストリームまでを並列する影響源には驚くが、楽曲を聴くとなるほど、納得してしまう。このマンチェスターの4ピース、エヴリシング・エヴリシングはそんなバンドだ。

 これまでに4枚のシングルをリリースしただけのニュー・カマーだが、本国UKでの話題は凄いことになっている。毎年、その年のヒットを予測するBBC SOUND OF 2010にノミネート。また、参加したバンドはほぼ特大のブレイクをしていくNMEレーダー・ツアーではヘッドライナー、今後絶対無視できない存在であることは明白だ。

 1stアルバム『Man Alive』は秋のリリース予定。だが、その前に彼らを知るのに最適な日本企画盤EPがこの作品だ。冒頭に上げた最新シングル「Schoolin'」を筆頭に、『Kid A』時のレディオヘッドを思わせる「Making Some New Sense」やフューチャーヘッズばりに突っ走る「DNA Damp」など粒ぞろいの楽曲を収録。デルフィックやハーツ(Hurts)と並び、マンチェスターの新世代を担うこのバンド、サマソニのステージは絶対見ておいたほうがいい。
(角田仁志)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 スクリャービンの音楽に対する神秘主義に依拠した思想にこういったものがある。「音楽とは単なる娯楽ではなく、世界の背後に存在する神の智恵の表れであり、だからこそ、これを使って人々を法悦の境地へ導き、神との合一を経験させ、通常の人間を超越した存在へと解脱させることができる」。何とも、昨今のスピリチュアリズム界隈の気配とリンクしてくるものさえ感じるが、実際に生まれた彼の作品における交響曲第4番「法悦の詩」での調性の超越や交響曲第5番「プロメテウス--火の詩」では、鍵盤操作に応じて7色の光をスクリーンや合唱団員の白い衣装に映し出す「発光ピアノ」を考案するなど果敢なトライアルをしたのも事実で、加えて、とても光彩豊かな音を放っていた。特にスケールの大きさ故に、未完に終わった「神秘劇」では、さらに踊りやお香も加える構想でもあった。

 スクリャービンを参照にするまでもなく、スペクタクル、神秘主義とスケールの混ぜ合わせた大文字の音楽への希求を目指したバンドには枚挙にいとまがないが、ブリット・ポップと言われるムーヴメントの中で華麗に現れたクーラ・シェイカーはその一つだろう。

 ここで、ブリット・ポップについて補足説明をするに、狭義として93年~96年に起こったブリティッシュ・ビート懐古主義的なムーヴメント(でも、確かに95年8月のブラー「カントリー・ハウス」対オアシス「ロール・ウィズ・イット」シングル同時発売とかUKの公共放送でも流れていたので、やっぱり「社会現象」なんだろう。)を指す。

 とはいえ、ブリット・ポップを「音楽面」としてだけ捉えるのは浅愚というもので、アート・カルチャー側からのルネッサンスの様相もあった訳でもある。ただ、日本のバブルの時のように「何も残らなかった」現象性の高さ(その裏で秀逸な作品もあまた出たが)について、僕は蜃気楼のようなものを感じてもしまう。

 作品的には、94年のオアシス『Difinitely Maybe』、ブラー『Palk Life』、95年のパルプ『Different Class』、ザ・ブー・ラドリーズ『Wake Up!』、96年のザ・ブルートーンズ『Expecting To Fly』辺り、その他、ジーン(GENE)やシェッド・セヴン(SHED SEVEN)とかスリーパー(SLEEPER)などが犇き合っていたが、その狂騒の中で、燦然と96年のクーラ・シェイカーの『K』があった。クリスピアン・ミルズのスマートなルックス、アロンザのベースやインド文化や仏教のエッセンスを程良く入れながらも、シンプルなギターロックを鳴らす様など、全てが眩いまでに、格好良いロック・バンドとしての基準を整えていた。ディープ・パープルの「Hush」のカバーも手堅かったが、クリスピアンの神秘主義への傾倒、物議を醸した幾つもの発言、そして、バンド総体の不調和、セカンド・アルバムで膨大な制作費を投じた結果に辿り着いた表層的なサイケデリアの頃には、ブリット・ポップは完全に終焉を迎えており、彼等自身の役目も終える事となった顛末は周知だろう。

 その後、クリスピアンは3ピース・バンドで簡素なロックンロールを鳴らすザ・ジーヴァスを結成したり、他メンバーもバンド活動を行なうようになり、元々構成されていたクーラ・シェイカーとしての4人は離散することになった。

 しかし、まさかの06年の再始動、その年のフジロックでの鮮やかなパフォーマンス、レイドバックはしたものの、バンド名義としての手触りがしっかり感じられる07年のサード・アルバム『Strangefolk』は軽やかだった。セッションを楽しむような通気性の良さだけが刻印され、バンドとしての上昇気流も闇雲なヴァイヴも、もうそこにはなく、オーガニックで有機的な音楽を続けて行く、という意志に満ちていた。そのフェイズは更に推し進められ、今回の新作『Pilgrim's Progress』にも継承されている。ただ、これが決して悪くないのだ。「Hey Dude」、「Tattva」はおろか、ドライヴするロックという要素因さえないのに。

 このアルバムを聴いていると、70年代初頭のブリティッシュ・フォーク・トラッドのムード、また、フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパン、ペンタングル、リンディスファーン、インクレディブル・ストリング・バンド、ドノヴァン、などの音が自然と想い浮かぶ。そこに、シタールやタブラといったインド風のまろやかなサウンドが加えられ、全体的に力が抜けており、エッジはない。ふと気付けば口ずさんでしまうような伝承歌のような可愛いらしいメロディーが並び、楽器にしてもチェロ、サントゥール、パイプオルガンやマンドリンなど多数を使いながら、基軸はアコースティック。かといって、ザ・コーラル辺りがふとみせるディープなサイケデリアもなく張り詰め方もなく、森の中で輪を囲んで楽しくセッションをしているような内容を喚起せしめる。実際、ベルギーのアルデンヌ・フォレストの中に建てたスタジオで余計な情報を遮断して、これらの音を一から固めていったのだという。

 ロック・バンドには、色んな転がり方がある。ずっとエッジを尖らせ、ラジカルに方向性を進めていくものもいいし、形態を変えながら、それでも、初期衝動を忘れないでゆくのもいい。但し、彼等のように、「緩やかに円熟してゆく」というのも一つの正解なのだと思う。遠景にモリコーネの影が視え、ジョージ・ハリスンの笑顔が浮かぶ。こんなに誰も非難せず、「仲間を要求する」音楽には久し振りに会った。

 ちなみに、スクリャービンの話に戻ると、彼は若い頃には後年の作品からは想像が付かないほどロマンティックな美しいピアノ曲を書き、一時は"ロシアのショパン"と呼ばれていた。逆に、クリスピアン・ミルズの書く曲がここに来て、もっとも美的な閃きが高いようなものになっているのも非常に興味深い。柔らかい質感にも芯が通った佳作だ。

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 安全なロックってどうなのよ! なんて感じながら、良くも悪くも当たり障りのない、このロック・ミュージックを聴いていて思うわけです。が、しかし、同時に、「これ、かっこいいじゃないか」と、思ってしまうのも確かで、全然好きじゃないよ、こんな音楽、などと毒づきながらも、なぜだろう、どうしよう、聴いちゃうんです。悔しいけど。

 ザ・ストロークスやベックと比べられているらしいけど、なるほど、確かに初めて聴いたときはストロークスに似ている、であるとか、ベックの『Modern Guilt』っぽいところもあるよなあ、と、僕も思った。けれども、ストロークスほど遺脱したロックではないし、ここ数年のベックほど作り込んでいない。ニューヨーク出身、ダーウィン・スミスのソロ・プロジェクト、ダーウィン・ディーズの『Darwin Deez』、これは良い。

 何が良いって平和的。高らかに不満をぶちまけるわけでも皮肉を発するわけでもなく、終始和やかに奏でられる音の全ては決して敵を作らないやさしさに満ちている。いわばこの音楽は無敵である。敵を作らなければ無敵なのです。ロックがカウンター・カルチャーである時代は終わったのです。なんてことを思わされ、気持ちが広々としたまま一気に聴ける本作。実にグッドじゃないですか。そもそもがシンガー・ソングライターである彼の紡ぐメロディは繊細で、ぶっきらぼうなところはなく、あくまで丁寧。エレクトロニック音やギター・サウンド、渋みのある歌声もやはり丁寧。時々見せるファルセットもまたしかり。アルバム全体の表情は豊かとは言えないけれど、1+1を4や5にするのではなく、1+1を2にすることの足し算の正当性をきっちりやり続けている真面目さがあって、良い意味で優等生的な音楽になっている。かつ、シンプルなロック&ロールへの敬意がうかがえるサウンドは清々しい心地に溢れ、だから聴いてしまうのだった。やはり、これは、良いのである。

 ただ、だからこそシンプル性で勝負してほしかったなと思ったのも事実。歌声にエコーを効かせ、大胆にハンド・クラップをサンプリングし、遠近感を巧く使ったミックスも功を奏しているけれど、それはアニマル・コレクティヴや他のバンドにも共通するもので、他のアーティストと比べた場合、埋没してしまう可能性も孕んでいる。今後は自分のアイデンティティは何なのかを探り、それを深く追求することが課題になるのではなかろうか。しかしそれを差し引いても良い出来。ダーウィン・スミスによるギター一本の弾き語りも聴いてみたくなった。きっと素晴らしいに違いない。とにもかくにも、まずは本作を堪能しようじゃないか。一曲目だけ聴いてストロークス・フォロワーなどと言う輩がいようものなら、ドロップキックをお見舞いさせて頂きます。

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 NYの不良達がロックンロールを燃料に縦横無尽と転がっている。4ピース・バンド、エレクトリック・ティックル・マシーンの記念すべきデビュー・アルバムからは、ヘッドフォンやスピーカーからはみ出すような熱気や奔放さが伝わる。骨太にギターが掻き鳴らされ、トーマス・オリビエが飛び跳ねるような声を張り上げるロックンロールもあれば、古き良き時代を継承した、サイケデリックでメロウなメロディラインが響く楽曲も垣間見える。吐き捨てるようなロックというよりは、馬鹿騒ぎに近いか。

 アルバムを通して聴いた後の気持ちよく汗をかいたような爽快感は、全力疾走後の余韻に酷似している。ボーナス・トラックのガス欠っぷりがまさに象徴的でたまらない。テンポ的には早い曲は多くないのだが、その勢いと躍動さから、どの曲も爆走しているような錯覚を体感する。その律儀で不器用なまでのストレートさを武器にして、どこまで飛躍できるか、これから非常に楽しみである。それはすなわち本作がアルバムとしての完成度が高いだけでなく、今後の更なる進化を期待せざるを得ないアルバムにもなっているということであろう。

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 シカゴを拠点に活動する宅録系シューゲイザー・バンド、パンダ・ライオット。本作は、2007年に自主レーベルPanda Riotからリリースされたファースト・アルバム『She Dares All Things』から、およそ3年振りの新音源(5曲入りミニ・アルバム)である。元々は2005年、マルチ・プレーヤーのブライアンとレベッカ(ヴォーカル)により結成されたユニットで、今作からはジャスティン(ベース)とメリッサ(パーカッション)も加入し男2女2のバンド編成となった。とは言え、基本的なサウンド・プロダクションに大きな変化なし。アルバム・クレジットを見ると、相変わらずシカゴの自宅スタジオにて録音からミックスまで、全てを本人たちが手がけているようだ。

 彼女たちの特徴は、なんといっても清廉で無垢な楽曲にある。ハーモナイザーで加工したと思しきレベッカの声が、ポップで耽美的、かつオリエンタルな風味も散りばめられたメロディに乗って、ふわふわと天上を舞う。さらにエンジェリックなコーラスが幾層にもレイヤーされていく、この世のものとも思えぬような多幸感は、コクトー・ツインズやラッシュ、最近ではスクール・オブ・セヴン・ベルズ辺りを彷彿させるものだ。タイトなリズム・マシンと流麗なシンセ、ファズやコーラス、リヴァース・リヴァーブなど様々なペダル・エフェクターを組み合わせた、ノイジーなグライド・ギターの組み合わせも心地良い。この辺りのサウンド・センスは、先に挙げたスクール・オブ・セヴン・ベルズはもちろん、M83やマップスらとの共通点も見出せるはずだ。

 捨て曲なしの名盤だが、中でも最終トラック「16 Seconds」は白眉。トレモロ・アームによって歪められた、たった3〜4コードの上でコロコロと展開していくメロディが聴き手を白昼夢へと誘う。

 昨今、絶賛リヴァイヴァル中のネオアコにも通じる清涼感あふれるサウンドは、うだるような暑さが続く、これからの季節にピッタリだ。

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 こんなこと、レビューで書くのはあまりにも当たり前すぎるし、何だか言い訳じみて聞こえてしまうのだが、やっぱりバンドは見た目じゃない。例えばザ・ドラムスの格好があまりクールじゃなかったとすれば「もったいない」と思うかもしれないが(実際は激クール)、バンド・オブ・ホーゼズの場合、彼らのような「冴えないアメリカン」がやっているからこそ信用できるということもあるのだ。音楽的には前作とほとんど同じ牧歌的なフォーク・ロックだが、それらは一層深い深い悲しみを湛えていて人々の心に染み込んでいく。「Is There A Ghost?」という大アンセムが一際光っていた前作と比べ、全体の楽曲のクオリティも格段に進歩している。「良いけど印象に残らない」という声を完全に払拭した傑作だ。ふむ、やはり音楽がパソコンやiPodで聴かれる時代になろうとも、みんな温もりを求めているんだね。「角の立っていないフリート・フォクシーズ」では失礼になってしまうか。「アメリカのコールドプレイ」ではどうだろう。これは決して揶揄なのではなく、(私がコールドプレイの大ファンであるという事実も踏まえながら)最大限の賛辞として彼らに送りたい。
(長畑宏明)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 紛らわしいので最初に説明しておこう。このリッシーというアーティストは、昨年デビューEP『Self-Taught Learner』が話題を呼んだNYのモデル兼SSWとは一切関係ない。

 本名はリッシー・モーラス、カリフォルニアのSSWだ。だが、同じくSSWといっても、音楽性は全然別。こちらはカントリーやフォークなどとロックのヴァイブをあわせたサウンドが特徴的だ。

 デビューEP『Why You Runnin』は、バンド・オブ・ホーセズのベーシストであるビリー・レイノルズがプロデュース。スティーヴィー・ニックスやシェリル・クロウを引き合いに出される、たくましさと麗しさを兼ね備えたサウンドにブロガーが反応、話題を巻き起こしてきた(特に、レディ・ガガ「Bad Romance」のカヴァーは必見!)。そして、この1stアルバム『Catching A Tiger』が到着した。トム・ウェイツやキングス・オブ・レオンを手がけたジャクワイア・キングがプロデュースし、全体的にはワイルドでトラディショナルな彼女の魅力が光る出来になっている。シングルとなった「In Sleep」では、広大で岩がちなLAの大自然が眼前に広がるようだし、ゴスペルの要素を取り込んだ「Bully」では彼女の力強く澄んだ歌声を聴くことができる。気高く、美しい作品だ。

 00年代にはニーコ・ケースやジェニー・ルイスがいた。そして、始まったばかりの10年代、僕らを魅了するアメリカーナの候補はこのリッシーだろう。ピアノ1本で広大な自然について歌いあげる、ラストの「In Mississippi」を聴くにつけ、豊かな金髪と青く澄んだ瞳のこのSSWに僕は期待してしまうのだ。

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 ポートランドを拠点に活動する6人組。<サブ・ポップ>移籍第一弾リリースで、彼らの名を世に広く知らしめることとなった前作『Furr』では、カントリーからハード・ロックまで飲み込んだサイケデリック・ロックを聴かせてくれたが、昨年リリースされた「Black River Killer」EPでは少し落ち着いた...例えばウィルコの近作のような手触りの、メロディの引き立った曲が多く見受けられた。

 そして5枚目のフル・アルバムとなる本作では、「Black River Killer」EPの路線を更に深めた、まさに独特のブリッツェン・トラッパー・サウンドを確立したと言えるのではないだろうか。前作で顕著だった雑多なポップ感覚は減衰し、よりルーツに寄り渋みを増したアレンジが印象的だ。ひたすら美しいメロディーとコーラス・ワークはフリート・フォクシーズにも通じるところがあり、彼らのファンにも聴いてみていただきたい。

 M8「The Tree」では、<ラフ・トレード>から作品をリリースしている女性SSWのアリーラ・ダイアンをフィーチャー。美しい歌声で作品に華を添えている。エフタークラングやホース・フェザーズとの活動で知られるヘザー・ウッズ・ブロデリックとピーター・ブロデリックの姉弟がストリングス・アレンジを担当。プロデュースは、ブライト・アイズやM.ウォードとの仕事で知られるマイク・コイケンドールとグレッグ・ウィリアムズが手がけている。
(山本徹)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 「男は度胸、女は愛嬌」なんてことわざがあるけれど、カリフォルニアの4人組ガールズ・バンド、ダム・ダム・ガールズは「女は愛嬌? 何それ?」とツンとする。「ワタシ誰にも媚びる気ないし」と。黙って私たちの音楽聴きなさいよ的スタンス。いいねえ、クールだ。彼女たちのデビュー作を聴いていると、そんなツンとした表情が目に浮かぶ。中途半端な感情移入などしようものなら「あんたホントに分かってんの?」なんて一言も飛び出してきそう。ヤー・ヤー・ヤーズのニック・ジナーが参加。プロデューサーはリチャード・ゴッテラーの『I Will Be』。

 女性にとってカワイイがほめ言葉である日本にあって、彼女たちはかわいくない。欧米の女性にとってほめ言葉であるセクシーもまたダム・ダム・ガールズには似合わない。かといって彼女たちに魅力がないわけではなく、いわゆるツンデレだ。ぜひツンデレ好きの男性諸君に聴いて頂きたい。それはさておき。ジーザス&メリーチェインのファースト・アルバムを絶対に意識しているであろう本作(意識していないと言おうものなら嘘だと思う)。ジザメリのファーストは甘いメロディという、フィード・バック・ノイズを中和する要素があると思えるが、ダム・ダム・ガールズにはまるでそっぽを向いて歌っているような、ぶっきらぼうなところがあり、熱も抑制されている。メロディは甘美といえば甘美だけれど、それ以上にこのバンド、ツンツンしているのである。

 要は先に記したツンデレを感じるのだが、ツンデレとは「こんなそっけないワタシだけど実は受け入れてほしいのよ」という最上級の愛情表現である。それを感じるからこそ、ジザメリのファーストを暗いトーンにし、ガレージっぽくし、なおかつキルズのブルース・フィーリングを取り入れたような本作のダークな楽曲のどれもに顔を深く突っ込めば、そこにはオノ・ヨーコのアートでジョン・レノンが見たような「YES」の文字が浮かび上がる。

 婚活だとか女子力だとか、はたまたキュート・メイクだとかモテ・ファッションだとか、そういったものはこの作品にはないのです。装飾美なんてものもこの作品にはないのです。4人の女性が、ひねくれた、でも純粋な愛を奏でているだけなのです。シンプルに作られた本作は、何百通の長文ラヴ・レターより、「愛してる」という、そのたったの一言がとても素敵で、胸に響くものだということを語っているのです。ただし彼女たちはそっぽを向いているけれど。そんなところにツンデレ的かわいさをやっぱり感じてしまうんだな。歴史に残るような作品ではないけれど、かなりの快作。いや、改削作。

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 先日、オッカーヴィル・リヴァーとの共同名義でニュー・アルバム『True Love Cast Out All Evil』をリリースした(当サイトでも紹介されている)、ロッキー・エリクソン率いるサーティーンス・フロア・エレヴェイターズ(13th Floor Elevators)のトリビュート・アルバム。発売元は、いわゆる「シューゲイザー」系のイヴェントなどをロンドンで定期的に行なっている<Sonic Cathedral>で、これまでにもKYTEやスクール・オブ・セヴン・ベルズ、M83などニューゲイザー系のバンドや元ライドのマーク・ガードナーらが参加した『Cathedral Classics Volume One』のような良質コンピレーション・アルバムをはじめ、昨今話題の新人バンド、ザ・タンバリンズ、YETI LANEなどのカタログをリリースしている期待の新鋭レーベルである。

 参加アーティストの豪華さについては、リリース前からNMEなどで取り上げられ話題になっていた。例えば冒頭曲は、エリクソン本人がザ・ブラック・エンジェルズを率いてセルフ・カヴァーした「Roller Coaster」。他にも、エクスペリメンタルなガレージ・バンド、オール・ザ・セインツによる「Don't Fall Down」のローファイなカヴァーや、ブルックリンを拠点に活動し、MUTEから傑作セカンド・アルバム『Exploding Head』を昨年リリースしたダーク系シューゲイザー・バンド、ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズによるフィードバック・ノイズまみれのインダストリアルな「Tried To Hide」、ニューヨーク在住のシンガー・ソングライターCheval Sombreによる、アコースティックな「You Don't Love Me Yet」(彼を以前プロデュースしたこともあるソニック・ブームとの共演)、そして、元デス・イン・ヴェガスのリチャード・フィアレスによる新バンド、ブラック・アシッドがフライング・ソーサー・アタックばりの轟音で埋め尽くした8分越えの大作「Unforced Peace」(圧巻!)等々、一筋縄ではいかない楽曲が並んでいる。

 そんな中、個人的に最も印象に残ったのは、フランス人シンガーCharlotte Marionneauの1人ユニット、Le Volume Courbeによる「I Love The Living You」のカヴァー。エリクソンが1999年に発表した、アシッド・フォークの名盤『Never Say Goodbye』(ブラック・アシッドが料理した「Unforced Peace」も収録)のこの曲を、彼女の恋人であるケヴィン・シールズと共に披露した。ここでのケヴィンはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインで聴かせる轟音ギターは横に置き、ざっくりとしたアコギのストロークとメロディカの演奏に徹しており、そのシンプルなアレンジがシャルロットの少し掠れたロリータ・ヴォイスを引き立たせている。プライマル・スクリームやポール・ウェラーとの仕事で知られるブレンダン・リンチによる、控えめなミックスも秀逸だ。

 ともかく、本トリビュートはエリクソンの持つソング・ライティング能力に光を当てたばかりでなく、本家サイケデリックとシューゲイザーを結びつけた、Sonic Cathedralらしい非常にユニークな内容に仕上がっている。

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 近代においての歴史的な視線は声を常に、「声」の方へと、イデオロギーの方へと、呼び寄せてしまう。声は「物質としての声」であることを剥奪される事になり、一個の根源からの「声」へと還流してしまう。音楽という分野は、抽象的な何かを孕むからこそ、その経験を幻惑的で個的な体験へと転化する。いわば無媒介な根源の到来の場を提示する。例えば、それはジェフ・バックリィーやエリオット・スミス、アントニーの「声」にふと出会ってしまった感覚を想起すれば早いように、声には総てが宿り、またある種、何もかもが無い。

 しかし、「声としての音楽」を考察する際には、政治という領域を辿る懊悩が付き纏うのは周知だろう。ルソーは「言語起源論」の中で、声について語る際、それは政治という言説を形成するものに他ならないと言った。「声」の、また、音楽の体験はそれが個的なものであるにも関わらず、根源への参入の場でもあるが故に、共感の構造の内に共同体を形成させる。近代では、声の共有化の内に、換言すれば音楽の権能の内に機能する。芸術の非政治主義が政治主義そのものに転化する近代のパラドキシカルな構造を此処に可視出来る。

 98年という「近代」に、コール・ポーター、ジュディ・ガーランド、エディット・ピアフ、ランディー・ニューマンなどのポップ・ミュージックのレジェンドからモーツァルト、ヴェルディ、ワーグナーといったオペラの影響を折衷させる力技を試みた時から、ルーファス・ウェインライトは「声の政治性」に自覚的であり、また、ゲイであることの意味を包み隠さない真摯な表現を挑み、その後、必然的に『Want』二部作で豪奢なサウンド・ワークを極め、オペラとロックのダイナミズムを折衷させたパフォーマンスを行なうようになったのは周知だろう。ただ、僕はその過剰になってゆく彼の佇まいとオーバープロデュースとも言えなくもないクラシカルな重みにしんどさをおぼえてきてしまっていたのも事実だ。例えば、セカンドの『Poses』のようなささやかな小品のようなアルバムをまた作ってくれないか、という気になることも多くなっていた。

 6枚目となる今回のアルバム『All Days Are Nights:Songs For Lulu』は全編ピアノの弾き語りで大袈裟なアレンジもなく、全体的に悲痛なトーンで貫かれており、モティーフになったのはシェイクスピアの詩集『ソネット集』であり、昨年のベルリンで上演したロバー・ウィルソン監督の演劇『ソネット』の為に書いた曲の中からも選ばれている。そして、歌詞の内容は闘病の結果、この世を去った彼の母親への想い、妹でアーティストでもあるマーサ・ウェインライトへの呼びかけ、プライベートなものに終始しており、彼の美しい声も伸びやかというよりは、抑え込むように切々とした翳りがある。また、アルバムのタイトルに入っている「ルル」とはドイツ映画『パンドラの箱』でのルイーズ・ブルックスが演じた踊り子の名前であり、彼独特の美意識は徹頭徹尾、ここでも敷かれている。

 これは彼のモノローグにして自己浄化の為のアルバムだと思うが、ニック・ドレイクの諸作をふと想わせる儚さと剥き身の優しい悲しみが充溢していて、ふと涙腺が緩みそうになる瞬間が多々訪れる。ルーファス・ウェインライトという人は完璧主義者というイメージを個人的に持っており、それが故に、入り込めない壁も感じられたのだが、このアルバムから彼の「声」がしっかりと聞こえてくる。

 現代の音楽の地平で、あえて唯物論的に闘うとするならば、そこで発せられる声は、声である訳にはいかない。声は根源であれ、何であれの指示物たることを辞め、「声自体」としてあらねばならないとしたら、「全ての声は既に発せられてしまった」という事実に対峙しないといけなくなる。それは即ち、「新たな声の発見の禁忌」であると言い換えられるが、新たな声はそこに「新しさ」という属性が付与されているが故に、声を放逐してしまう。つまり、新しい声の探求とは、声という象徴性のもとに再び観念化し、寧ろのこと、声の統括能力を補正する機能を担うものになってくる。このアルバムでの彼の孤独で純粋で無垢な声は、まさに政治的でもある。

 このアルバムの閉ざされ方への否定が滞留する内においてのみ、客体は主体の軛(くびき)を逃れ、声は自らを開示するとしたならば、初めてルーファス・ウェインライトは重い観念の鎧を脱ぎ捨て、裸身になれたのかもしれない。

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 ロンドンのパンクスは、盗品や中古のギターを手にした。NYのキッズは、捨てられていたテクニクスのターンテーブルを持って帰った。ジャマイカでは、巨大スピーカーをセットした移動式ディスコがサウンド・システムと呼ばれるようになった。ひらめきと大胆な行動力。いつの時代も、そこから新しいサウンドが生まれる。そして、コンゴのコノノNo.1には自動車やラジオの廃品があった。自動車やラジオの廃品って!

 コンゴの伝統音楽に根ざす強烈なアフロ・グルーヴ。そのサウンドの核になっているリケンベと呼ばれる親指ピアノ(カリンバ)は、自動車やラジオの廃品から手作りされている。パーカッションも自動車のホイールキャップだという。リケンベにはちゃんとストラップがあって、見た目もかなりカッコいい。リケンベをアンプにつないで歪ませるなんて最高でしょ。ミニマルとも言えるシンプルなリフを、踊るためだけにデカい音で鳴らす。しかも大人数で。

 1stアルバム『コンゴトロニクス』から5年。なにやら物騒なタイトルの2ndアルバムが完成した。もはや作曲という概念すら軽く吹き飛ばす、ありったけのグルーヴに身をまかせよう。あえてリケンベを封印してパーカッションでぐいぐい引っぱる3曲目の「Thin Legs」や果敢にもアンプラグドに挑戦したラストの「Nakobala Lisusu Te」など新機軸も確かにある。ギターとベースが加わって曲の輪郭がはっきりした。でも、基本はやっぱりリケンベとパーカッション。そして雄大なコーラス。このアルバムを手に入れたら、ヘッドホンでも部屋でもクラブでも、とにかく大きな音で聴こう。きっと体を動かさずにはいられないはず。

 ビョークがアグレッシブな姿勢を見せた『Volta』。コノノNo.1は、その冒頭を飾る「Earth Intruders」に客演している。それは彼らの音楽が最高のダンス・ミュージックなのはもちろん、レベル・ミュージックとしての存在意義も孕んでいるからだと思う。自動車の廃品を拾い集めてまでも鳴らす必然があった音楽。ダンス・ミュージックとしてのポジティブな輝き。パンクやレゲエ、そしてヒップ・ホップと同じ生命力が躍動している。1969年以来、不安定な国内情勢や内紛でメンバーを失いながらも今、ここで鳴らされているという事実が熱い。グルーヴも力強さも不変だ。いろんな意味で奇跡のダンス・ミュージック。最高!

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 Ars Electronica 2006でのHonorary Mentionの受賞をはじめ、SUNN O)))、大友良英、山本精一など国内外のツワモノとのガチンコ共演、円盤ジャンボリーへの参戦など、東京、岐阜、新潟とメンバーがそれぞれ離れた場所に居つつもゆっくりと着実な歩みを進める3人組のフリーセッション型ノイズ・ユニットのみみづ(MIMIZ)が、初となるプレスCDをリリース。

 今作は、2008年の夏に行われた岐阜と新潟でのライヴ・セッションの模様を収録した全2曲。ギター、ミキサー、躍動的なアラブ打楽器のレクやハンド・ドラムなどを駆使して綿密に創り上げられていくノイズ、アンビエント、ドローン、エレクトロ、エクスペリメンタルな音像を、PCでリアルタイムに分解/再構築し、創り上げられていく。明確なメロディがあるわけではないが、それが心地良かったり、はたまた高揚させられたりと、発せられる音の数々につい食い入ってしまう。その独創的に創出される様は、宇宙や未来、と言うよりもこの世の次元とは全く違う、「異次元空間」という言葉が一番しっくりくる。ゆっくり、激しく、うねって、どよめく。ひとつの曲に様々な展開を見せる彼らのセッションを、目を閉じて聴くと、そんな別世界へと誘われるようだ。

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 聴きやすく、ポップだが、実のところ問題作と言える。あるいはアーティストの意図から離れ、リスナーの音への意識改革作とでも言うべき作品になっている。このエレクトロニック・ミュージックをスルーするのは勿体ない。

 個人的にオウテカが音楽の未来を背負っているかいないか、ということや、エイフェックス・ツインはテクノの神と呼ばれるということに興味がなくなり(先に挙げたアーティストの音楽は大好きだし、功績も理解しているけれども)、そんなときに見付けたこの作品は面白く興味深くあるのだ。ムームのリミックスを手掛けたことでも知られるアイスランドのアーティスト、ラックスピンの『I Wonder If This Is The Place』。

 まるでエイフェックス・ツインの『Selected Ambient Works 85-92』や初期オウテカ、スクエアプッシャーなどの音楽性をサンプルと見立て、取り込んでいるかのようなリミックス中心のこの音楽は、もはや先のアーティストの音楽性はスタンダード化し、素材として自由に使ってもかまわないものだと言っているかのよう。ドリルン・ベースもミニマルな奏でも、いまはもう大衆的な音楽性であり、珍しくないことを雄弁に語っている。

 過去の作品を聴けばラックスピンが敬意を払いつつ他のアーティストの音楽性を取り込んでいることは想像に難くない。だが、それこそエイフェックス・ツインをフリー・ダウンロードしているような本作が、実際にn5MDのサイトでフリー・ダウンロードできるということに皮肉を感じるし、このユニットの、敬意を払いつつも神格化されているアーティストを神格化しない姿勢が、本作そのものを「神格化の否定」という批評として成り立たせている。

 そうして涼しげで爽やかな、なおかつ甘美で透明な美しさを閉じ込めた音色を前面に押し出し、聴き手を魅了する『I Wonder If This Is The Place』。それは、オウテカ、エイフェックス・ツインの音楽性を大衆化、または娯楽化を促進させているという意味においても大きな意義を持ち、なおかつポピュラー・ミュージックとして十分、息をしている。

 無論、本作は単なる模倣に終始しない。やわらかなエレクトロニック音が耳にするすると入り、風船が尻もちをついたような豊かな弾力が攻撃性の一切を取り除く。とてもリスナー・フレンドリーな音楽として聴ける。それもまた、ビッグネームの音楽性は難解なものではなく、とても親しみやすいものだということを示し、やはり興味深い音楽だ。前述したようにフリー・ダウンロードできるのでぜひ聴かれたい。音に酔うことができる作品にもかかわらず考えさせられるものがある。

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 元々、07年に、人づてに「(自分が出た大学)のバンドの中でクールな新しい音を鳴らしているのが居る」というのを聞いて、関心を持ち、MySpaceでチェックしてみたら、そこには幾つかの音源と、如何にもなヴィジュアル・コンセプトが設定されていた。簡単に言えば、15世紀から16世紀にかけての、ルネサンス前の中世建築やアートに中指を立てたアントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリのような高貴さ、と「ゴート風」な全体像と言えるだろうか。それは、当時、全員が同じ大学で出会ったという事実から、「クラーク記念館」的なドイツ・ネオ・ゴシック様式に魅せられた「よくある学生」という感じもした。翌年に、ライヴを観たことがあるが、演奏は拙いものの、低温火傷を起こさせるようなパフォーマンスで細身のスーツ姿の四人の佇まい、バウハウスをラルク的な希釈的な解釈じゃなく、しっかりと鳴らしている感じには好感を持てた。それは、セカンド前のザ・ホラーズ辺りとも共振もしていたし、スーサイド、ジョイ・ディヴィジョンやインターポールの匂いを強烈に感じもしたし、歌詞世界はザ・キュアーのロバート・スミスではないか、と思った。同時に、漸く、堂々と胸を張って、こんな暗い音をスタイリッシュに鳴らす事が出来る日本のバンドが出てきた事に、シーンの変化の胎動も察知出来た。それは、当時のニューエキセントリック・シーンの盛り上がりの中で、ミドル・クラスの子たちが「敢えて音楽をやる」意味解釈が自分の中で再定義出来てきていたという背景もあった。

 この日本で所謂、ゴシック系の音を鳴らすのは実際的に難しい。ともすれば、すぐヴィジュアル系、耽美系と侵食し合ってしまうし、また、デモーニッシュなものが「現前」しているアメリカとかUKでは成立しても、そういった「デモーニッシュな何か」を持ち得ていない、この国だと「ただ暗いだけ」の音楽だけで片付けられる可能性もあるのは実際に海外のそういう人たちと話せば分かる。それは、ナイン・インチ・ネイルズやレディオヘッドのライヴに足を運んで、確実に少なくない数でいる「黒の誘惑」に魅せられた集団や、彼等の文脈で、意味が付与されているバンドの音の回収のされ方とも繋がってくる。勿論のこと、それは、各々の信条、生き様、宗教性にも連関してくるので僕は良いと思うが、日本という独特な国で基本的に、成立しにくいのはカタルシスが「別方向にある」という快楽指数の問題だけに依拠する。「神」は寧ろ、「八百万」なのだから。

 インターポールのストイシズムの美学とかは日本では「受けにくい」のはサマーソニックという大きいイベントのライヴで観ていても思ったし、大文字の「理解り易さ」を受容する磁場がマスを設定しているのだ、とも別解出来る。パワー・コードやヴァース・コーラス・ヴァースのカタルシスが仕掛ける感情のタイプキャスティングには勝てないということだろうか。

 でも、だからこそ、僕は彼等に期待していた。それは、「上品な翳り」があって、スタイリッシュでメロディーも締まったバンドとして。アンサンブルも引き締まっていて、それでいて何処と無く厭世感が漂っているというデビュー期のザ・ストロークスに似たような温度のニヒリズムと熱さに対して。

 局地的にバズが起こった08年のデビューEPの「Moralist S.S.」は、興味深かった。特に、表題曲の持つキャッチーさと、思索的な歌詞、そして、感情の襞の内側を潜行、内破していくかのようなエッジ。インタビューに依ると、フロントマンのKENTの意図で「S.S.」は大江健三郎の「日常生活の冒険」の斎木斎吉から取ったと聞いた時、そのベタさに苦笑いしてしまった。ベタさ、というのは、僕は大江健三郎というチョイスではなくて、「個人的な体験」でも「万延元年のフットボール」でもなく、「日常生活の冒険」というのが「らしい」な、という文脈だ。71年の作品で、或る程度、彼がオブセッシヴに性的なモティーフに駆られていた時期のもので、斎木斎吉は模範的なモラリストとして生きる事を予め設定されている。18歳でナセル義勇軍に志願したのを始めに、「当時の現代」を旅とタナトスをベースにサヴァイヴしていく青年像が彼の盟友であった伊丹十三氏を参照に描かれるという、大江作品群の中では比較的、地味で、評価的に決して高いものではない。それにKENTが敢えてインスパイアされたという捻じれ方に僕は逆説的な「出口なき、時代を生きる典型的な若者像」を可視化出来た。
その後、東京に居を移したり、メンバーの変遷がある中の混沌とした様相、09年のファースト・フルアルバムの『Part of Grace』の「幅の狭さ」、「音楽的な語彙の少なさ」もあり、自然と僕は期待より不安の要素が大きくなりつつあったのは否めない中で、届いた今回のEPはとても吃驚した。

 「Meru(メール)」というタイトルはサンスクリット語で言う須弥山という意味であり、インド宗教の世界観の名中で、その世界の中心にそびえ立つ山を指す。サンスクリット語とは、古代インドの有識者を対象にした 「人為語」であり、ヴェーダ語から発展し、紀元前4世紀頃パーニニによって文法が体系付けられたものであり、パーニニによって完成されたサンスクリットは、その後二回補修されただけで、二千数百年経った今も変化していないという独特の言語であり、そこから更に意味深い「Meru」という単語を孫引いてくる辺り、新しいモードに入っている事が如実に分かる。そして、KENTの意図に沿って、6曲のそれぞれにストーリーが付加されており、コンセプチュアルなものではないと言っているが、6曲を通してこそ、見えてくる世界観もある。

 例えば、リード曲の「devaloka」を通底するテーマは「無常への恐れ~仏教的世界観との出会い」といったものだが、流れるコードは耽美的なものであり、メロディーも思索に潜る雰囲気といい、それまでの彼等の延長線上にある曲と言っていいだろう。「Moralist S.S.」に続くピンポイント・アンセムとして、今後も要所で活躍すること紛う事ない。そして、この曲だけでも明確に分かるのが、リズムの重厚さへの意識的な変化だ。ニューウェーヴ的な翳りを纏い、金属的でエッジのきいたギターで駆け抜けるような繊細さからの脱却。それは、デビュー期から比較対象に挙げられていたザ・ホラーズが「Sea Within The Sea」でクラウト・ロックへの目配せを入れて、パースペクティヴを拡げた鮮やかさも彷彿させる、と言えるかもしれない。でも、僕は、彼等の変遷は、東洋的な、和的な変遷があるという気がしている。「Devaloka」や「Decline Together」に関しては、これは私的な感想だが、世界的に今も活躍するBUCK-TICKの95年の名盤『Six/Nine』の持つスマートな重さ、を思い出した。今井寿氏は彼らを評価していたと聞くが、BUCK-TICKという孤高の暗みを描いてきたバンドと、現代になって「共振」してくるのは非常に示唆深い。

 3曲目の「A Life As Something Transient」では冒頭からダヴィーなサウンドスケイプの中、BPMをグッと落として歌う部分には、『K』~『Peasants、Pigs And Astronauts』の際のクーラ・シェイカーのようなムードも一瞬感じたが、そういったスピリチュアルなムードを払拭するように、テンポを変え、鋭角的なギターで切り込む展開はとてもスリリングで、今のバンドの良い温度感が伝わって興味深いし、今の彼らにはまだ「Shower Your Love」は必要ない故に、納得できる。

 細かく列記していくことも出来るが、何よりも先に、今回のEPと、これまでと大きな違いは、METALMOUSEを共同プロデューサーに参加していることもあるのか、音響空間的な幅が出ているのに尽きる。これまでの彼等は優等生的に、真摯にバウハウスやジョイ・ディヴィジョン的なモティーフを輻射することに命を賭けていた所があった。しかし、それが逆に形式主義的になってしまう所は垣間見えたのも事実だ。僕は真面目な話、ポーティス・ヘッドのジェフ・バーロウと彼等が組めば面白いことになるのに、と思っていた時期があった。今作はそんな勝手な自分の思惑を跳ね除けるように、別の角度から応えるように、新しいリリーズ・アンド・リメインズ像を提供してきた。世界というシリアスな難物に対峙するとき、方法論を変えるのも、スピリチュアルに潜るのも一つの手としたならば、このEPで得た手応えをベースに更に彼等は先を描ける筈だろう。

最後に、2部構成の「Tara」における、オーウェン・パレットが築き上げたような壮大なサウンド・タペストリーには心底、僕は感動したし、その冒険心に拍手を送りたい。

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 今、アジカンは過渡期にある。

 いや、自らの置かれた状況の中に、何らかのアンチテーゼを見つけ、それらを止揚させることによって、常に新しい自分たちのスタンスを更新し、確立していっているこのバンドの場合、過渡期でない時の方がむしろ少ないのかも知れない。しかし、それでも僕はもう一度、今のアジカンは過渡期にあると言いたい。もちろん肯定的な意味で、だ。

 このアルバムの先行シングルとして、明らかに今までとは異なる実験的なアプローチの「新世紀のラブソング」、漫画・映画の同名作品とのコラボレーションであり、初めて後藤以外の人間による作詞の曲「ソラニン」、彼らのキャリア史上初のホーンセクションを大々的にフィーチャーした「迷子犬と雨のビート」の3枚がリリースされていた。

 これらのシングルで共通しているのは、言うまでも無く、どの曲も今までのアジカンとは違うスタイルを意図的に取り込んでいることだ。それらの楽曲を聴いて、僕は、ニュー・アルバムは、期待するのと同時に、少しとっつきにくいような、実験性に満ちたアルバムになるのでは、と少し不安になっていた部分も正直、あった。

 しかし、アルバムを一度聴いただけで、それはただの杞憂であることが、すぐに分かった。

 確かに、今までとは違うアプローチで鳴らされた曲も多い。しかし、例えば、陽性のアップビートで歓喜を鳴らす「迷子犬と雨のビート」も、どこか空虚なセックス・ソングを思わせるセクシャルなゆるやかさを持った「架空生物のブルース」も、タイトル通りのダンス・チューンの「ラストダンスは悲しみを乗せて」も、ブルックリンのインディ・ポップ・シーンを凝縮したようなシンセが鳴り響く軽快な「マイクロフォン」も、どの曲も全てがアジカン新機軸の斬新さを持ちながら、見事にギター・ロックあるいはパワー・ポップと言った地点に着地しているのだ。

 そう。思い返せば、アジカンはアーティストとしての表現欲を剥き出しにするあまり、リスナーを「置いてけぼり」にするような事は一度もした事などなかった。

 詞世界の面も触れておきたい。

 このアルバムの歌詞は、どれも完全に外に、社会に、今この瞬間の世界に向いている。内省はもう既に、しきった。自分が何者でもなくて、何も持ち得ないことも分かった。だからこそ、これから始めるのだ。痛みを背負ってでも、他者に、世界にコミットしていくのだ。そう言った、現実を見据えながらも陽性な、後藤正文の意志が、強く表れている。

 特筆すべきは、やはり「新世紀のラブソング」で始まり、表題曲の「マジックディスク」へと開かれていく流れだろう。「新世紀のラブソング」は、既にゼロ年代のムードに終わりを宣言する曲である。それは時代へのリセット・ボタンでは決してなく、コンティニュー・ボタンである。続く「マジックディスク」は音楽がハード・ディスクに、ダウンロード制に移行していく現代に呼応した、時代を象徴した曲である。これらの流れでこれまでの旧時代・旧体制に終わりを突きつけて、現実を恐れず見つめているのだ。

 「さよならロストジェネレーション」もまた、何も無い地平を嘆くのではなく、それを受け止めた上で、内省によって自ら築き上げた檻を出て、世界と向き合おうと歌う。これこそが後藤正文自らの世代の閉塞によるアンサー・ソングだ。「イエス」にいたっては、安直な共感も、孤独のバイブルも僕らにはいらない、とまで歌っている。

 内省の時代、自分探しの時代、ゼロ年代は長らくそうだった。それはそれで、悪い時代と言うわけではない。しかし、もうそれは終わりだ。確かに、自己を見つめることほど、大切で主体的なことはない。しかし、それによって自らを閉じ込めてしまっては、本末転倒だ。これからは痛みを背負った「個」でありながら、「個」のまま社会にコミットしていく時なのだ。そして、「そう、いつか君と出会おう」。

 アジカンはまたこのアルバムを出すことによって、過渡期を越えて、新たなアンチテーゼを自らの中に見つけ、更新されるだろう。この実験的ポップ・センスが向かう先を期待せずにいられようか。

 まだまだ10年代がどうなっていくかなんて、誰一人分からない。

 しかし、この先の見えない無秩序な社会に「個」のまま関わっていこう。『マジックディスク』を携えて。このアルバムは、それを乗り切るための、僕たちの羅針盤なのだ。

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 昨今のSATCを巡る熱狂というのは奔放な女性(女の子ではなく)の人生を生きる事が出来ない女の子(女性ではなく)の生物的なフラストレーションが歪な形で爆発したというコンテクストを敷けばいいと思うが、勿論、そこには「男」は介在しないのが面白い。そもそも、韓流ブームにしても、婚活ブームにしても、実はそこに「実在の男」は存在しなくて、彼女たちが描く「在るとしての、男」が幻像的に揺らめくだけであって、人間しか残らないという考えを援用した上で、ハイデガー的な解釈論が必要になる。

 けれども、凡庸な男性/女性への彼岸の目だけでは掴めない。寧ろ、その男性の「生の事実」だって、ふだんは茫漠としたままになっているか(生の朦朧性)、あるいはそこに埋没した耽落(Verfallen)のままにあるというのが現代の陥落でもあって、死や否定や負といった回路をいったん媒介にして、「現存在」(Dasein)という新概念として、次に投入する必然性が女性側に求められているとしたならば、今とは、リトル・ブーツにしても、ラ・ルーにしても、女性の感度は弱くなっていると言わざるを得ないのだ。現在のリリーアレンだってそうだろう。何故なら、朦朧と存前する男性に翻弄されているのは逆説的に女性側だからだ。

 そういう意味で言うと、2006年から熱狂的に男性/同性からも愛され、ファッション・アイコンとしての存在も大きくなっていたアフィの存在とは「在る、女性」そのままだった。

 MySpaceで発見されたという意味ではリリーアレンには近い部分があるのだが、彼女の場合はもう少しクラブ寄りでスタイリッシュさがあり、サブカルチャー的な雰囲気を忍ばせていた。ミルウェイズ、セバスチャン、フェッズといったフレンチ・ハウスのブレインが彼女を固めたという意味もよりクールな度合いを強めていったのも大きいだろう。

 素晴らしいEPを発表しながら、また、それらが全てクラブでパワースピンされるという状況にありながら、フルアルバムに関してはなかなか出る気配が無かったが、今回満を持して、『SEX DREAMS AND DENIM JEANS』という彼女らしいタイトルの作品が届けられた。これまでのシングルも勿論、全部入っており(特に「Pop The Glock」はポップさとキュートさを併せ持ったエレ・ポップの名曲)、リード・シングルのファレルとの「ADD SUV」も3曲目に入っており、他にもスージー・アンド・ザ・バンシーズの「香港庭園」のカバーなど、ファーストにして彼女のポテンシャルがいかんなく発揮されたものになっている。いかんなく発揮されたということは、つまりは、もう曲の表情はバラバラで、エレ・ポップもあれば、マッシヴなダンス・チューンもあれば、ヒップホップまでスキゾなこの数年間の実験結果を詰め込んだというものになっているということだ。それなのに、ポップ・ミュージックを聴く時のような軽やかさが全体を通底しており、散漫な印象は全く感応出来ない。

 今や、「一定方向のコース」を懸命に走り続けるパラノ型の資本主義的人間類型は、デッドエンドを迎えるしかない。そのあとに来るべき、アフィとは、ありとあらゆる方向に逃げ散っていくスキゾ・ガールとしたならば、ハードな管理下で懸命に自分の存在を捉えさせないようにする絶滅危惧種とも言える、「女の子」なのかもしれない。そしてまた、制度的な〈大文字の他者〉はもとから〈象徴界〉の次元であったとして、〈大文字の他者〉を脱構築することは象徴交換のヒエラルキーなきゲームを可能とするのではなく、〈象徴界〉それ自体を無化してしまうことだとしたならば、その結果として〈想像界〉的なアイデンティティに沈み込む「居直った子供」が現れるのは当然なのだ。アフィの居直りと逃げ方は多くの人を救う可能性を秘めている。レディー・ガガのような振り切り方じゃなくても、こういった形でちゃんと「女の子」はスマートに時代を泳いでみせるのだ。今年のダンスフロアーで彼女の声を聞かない日はないのではないだろうか。キュートで好戦的な快作。

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 ...えーと、このジャケットを見てもらえれば、あとはもう何も語る必要もない気もする。パロジャケ考現学を標榜した『すべてのレコジャケはバナナにあこがれる。』(安田謙一+市川誠・著)は僕も大好きな一冊だが、いつか改訂版を出される暁にはぜひともカラー・ページにて本作を紹介してほしい。『ミート・ザ・ビートルズ』に対する『ミート・ザ・レジデンツ』、ノイバウテンをパロったときのライアーズetc....に匹敵する、いい加減ながら適切で、悪意を漲らせつつそれに勝る愛情をもった引用。かつてレイプマン時代に「Kim Gordon's Panties」という曲を作って本人たちに大目玉をくらったアルビニ先生も、まさか10数年後にこんな素敵すぎるパロディの矛先となる羽目になるとは思わなかっただろう。ロック・ファンならアルビニ関連作品のベストは何かを議論すればそれだけで一晩過ごせそうだが、今後はこのジャケットも立派な候補になるかもしれない。もちろん本人は直接関わってないけど。

 <Important>というノイズ/アヴァン系のレーベル(それこそ、日本のメルツバウやアシッド・マザー・テンプル、灰野敬二といった方々までフォローしている)からリリースされた本作。ジャンルとしてはグリッチ・アンビエンドとなるのだろうか。ハーシュノイズで表現されたときにセンチメンタル、ときに無軌道なメロディと、シナプスが枝分かれを繰り返す様を顕微鏡で覗くような崩壊寸前のリズムによって構成された音楽は、耳に痛く突き刺さる瞬間も多分にあるが、包容感のある温かみも垣間見せ、捉えどころがないというのもそうだし、人間らしいといえばどこまでも人間らしい。かつて辣腕を振るい無茶苦茶の代名詞として、レーベルやシーンを横断しつつ溢れんばかりの悪意を振りまいた彼は、一方で恥ずかしすぎるほどセンシティヴな一面を時折覗かせた(僕はそんな彼の一面がとても大好きだ。キャリアで一枚挙げるなら迷わず『P.S. I Love You』を選ぶ)。

 不思議といえば不思議な、音のもつウォームな触感については、「このアルバムの曲は全てアナログ音源(アナログ・シンセ、AM/FMラジオ、マイク)によるものをコンピューターで構成し、2トラックのアナログ・テープでミックスとマスタリングを施した」という、ライナーノーツにある記述がそのまま要因を説明しているだろう。かつて元ネタとなったアルバムの裏ジャケで「Fuck Digital」を標榜したアルビニ先生の精神は、きちんとこういった形でリスペクトされている。単なるウケ狙いのパロディではなかったわけだ。

 意識が遠のきそうな教会音楽的低音のドローンからシンプルなメロディの萌芽が現れ出す「Dim Ego Prelude」で幕を開け、「Mild Pureed Ego」では連続的な進行のノイズが脳を揺さぶる。「Lou Reed Gimped」なんていう曲もある。このスタイルでこの曲名なら連想するのはもちろん例のアレだが、インダストリアルなノイズの狭間でサンプリングされた声が分裂神経症気味に鳴る様は、メタル・マシーンというよりはもう少し生物的な響きをもっている。15分以上に及ぶ「Periled Emu God」はノイズの音波に浸ることを許さない、漂流物が目まぐるしく通り抜けていくような展開が面白い。「Deep lid Morgue」は警報及びその被害報告が延々鳴り続くような鋭い騒音の連続で、最後の「Die Rumpled Ego」では悪夢的な金属音が讃美歌のような神々しさも兼ね備えている。変な音楽だ。

 面白いのは、今まで挙げたものも含めた収録曲のすべての意味深げなタイトルが、すべてKid606の本名「Miguel De Pedro」のアナグラムによるものだということ。彼がそうしたことで何を表現したかったのか、また、彼が自分の名前を並べ替えて全曲分のタイトルを搾り出す作業にどれくらいの時間を費やしたかまではわかりかねるが、ひとまずこのアルバムがジャケットの見た目より遥かに大真面目で、パーソナルな表現の顕われであることはそこからなんとなく検討がつく。たぶん彼の今回の試みはうまくいっていると思う。繰り返し聴けばチルアウトとしての効用も生まれそうな人懐っこさもここにはあるし。移り変わりの激しすぎるエレクトロニック・ミュージックのシーンにおいて、彼の放つ悪意は変わらず孤高なままで、何よりそのことに一番安堵した。

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 UKロック・シーンで最も気難しい男と呼ばれるマーク・E・スミス率いるザ・フォールがドミノに移籍してのアルバム。バズコックスを中心としたマンチェスター・パンク・シーンの一端を担いつつも音楽的にはポスト・パンクと言えるものをすでに体現していたということもあり、近年のポスト・パンク的バンドから尊敬される存在となったが、日本では相変わらずの立ち位置であると思う。聴く人は止められない。出たら買う、そんなかんじ。誰々が尊敬しているから聴け、みたいな言い方をよくされるバンドでもあるが、それでも手を出す人はそんなに多くないのかな、と思うが、こうして連続して日本盤も出るわけなので、それなりの広がりはあったのか。

 いつもどおりだがいつもどおりではないという感じで細かいところを言えば様々な変化はあるが、一聴して、フォールなんだ、これは。厭味な言い方をすれば、フォールによるフォールらしさの再現と言えなくもないが、それが唯一の存在であって誰も真似できないというところに大きな意味がある。フォールとは労働者による芸術の爆発であり、マーク・E・スミスはその体現者である、ということを今更ながら強く意識させる、いつになく粗野で生々しい録音。これがバンドである、と言わんばかりの音。タイトなバンド・サウンドにマーク・E・スミスの吐き捨てるようにぶっきらぼうなヴォーカル。90年代初頭にフォールは一度だけ来日しているのだが、そのときの、シンプルでクールで淡々としているのだけど段々と観ている方が熱くなってしまうような感覚を思い出した。つまり、いつもどおり「聴くべき」アルバム、だということだ。

 通して聴いていて、最後の方でふと聴き憶えのあるメロディー(?)にブチあたった。おお、これはワンダ・ジャクソンの「ファンネル・オブ・ラヴ」じゃないか。クランプス経由で知った人も多いと思われる妖しい魅力を持った曲なんだけど、ここではかなりアレンジされていて、唄い方もかなり崩しているが、「ファンネル・オブ・ラヴ」に間違いない。以前、彼らはキンクスの「ヴィクトリア」をかなりストレートにカヴァーしてたこともあったけど、今回、どういうつもりでこの曲を持ってきたのか、興味が湧く。

 前作は2007年だったし、同時にマウス・オン・マーズとのユニット、ヴォン・スーデンフェッドやゴリラズへのゲスト参加などもあったから、いいペースでの新作と言えるのではないか。フォールが新作を出したというと、なんか不思議な安堵感があるな。フォールの新作が出ないという時がいつかくるのだろうけど...。

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 6月2日に残響レコードより発売されたルミナス・オレンジの新作『Songs of Innocence』。ルミナス・オレンジの中心人物である竹内氏と、ベースに河野岳人(LAGITAGIDA , ex-マヒルノ、他)、ドラムに西浦謙助(相対性理論、進行方向別通行区分、他)、アヒトイナザワ(VOLA&THE ORIENTAL MACHINE)クリストファー・マグワイヤ(ex-くるり)、ギターに柳川勝哉(CAUCUS)をサポートミュージシャンとして迎えている今作。

 僭越ながら本当に大名盤であることに疑いの余地無し。

 「Sea Of Lights」や「Untold」などのソリッドで、フィードバックや轟音の持つ圧倒感と、リズムの持つ説得力と格好良さに綺麗な旋律が融合した曲や、「Autumn Song」や「Violet」などの、透明感のある竹内氏の歌声と、タイトなリズムに様々な打ち込みの音色とギターの紡ぐ浮遊感の隙間から印象的に響く日本語の歌詞(個人的にこの歌詞が凄い好き)の曲など、バリエーション豊富であっという間に引き込まれてしまうアルバム。

 唐突だけれど、ルミナス・オレンジを紹介する場面でよく出てくる言葉が「シューゲイザー」という単語だと思う。自分はシューゲイザーというジャンルが好きでノイズやフィードバックの幻想感にいつも憧れるのだけれど、このアルバムを聞いて、誰かに伝えるときに、シューゲイザーの大本命!みたいな紹介はしたくないなと思ったのです。それはこのアルバムがシューゲイザーか否か!といったそういうったつまらない矮小な問題ということでは全然なくて、ルミナス・オレンジをそういった意味を限定してしまう言葉で表現してしまうということは、表現の手法だけに焦点を当てているだけで、その本質を捉えて表現できていないように僕は思えてしまうからということ。ではどう表現するのかと言われれば、僕はオルタナティブという広義な意味合いをもった表現を使いたいと思う。オルタナティブって何だ?っていう話になるけれど、僕がここで言いたいのは、オルタナティブな音楽に潜んでいる危うさや焦燥感といった心の負の部分に共鳴する要素と、それらと同時に背中合わせで存在している無邪気さや純粋さのような要素が、このアルバムでは並列して存在し、そして素晴らしく表現されているということ。そしてまたそれらの要素が、竹内氏の持つオリジナリティ溢れるコード感や楽曲の展開、メロディラインなどのセンスが、素晴らしいサポートミュージシャン達と融和し、演奏力や完成度といったさまざまな面において説得力を持ち、圧倒的な強度と完成度で表現されているのだ。

 そしてなにより普遍的な魅力を持った音楽だと僕は思う。

 ジャンルやキャリア、流れとかそういったことに捕われずにっていう表現自体がもう既に捕われているのかもしれないし、定型文だし、押し付けがましいけれど、それでも僕は、この「今」のルミナス・オレンジの音楽と、個として還元された自分とが対峙したときに感じた切なさや感動を共感したいと思うのです。

 是非、聞いて欲しい一枚。

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 最初に彼らの音楽を耳にした時は、70年代の幻のサイケ・バンドの発掘音源か何かと勘違いしてしまったが、彼らは歴とした現代のバンドで、このアルバムは2010年リリースの作品。アヴィ・バッファローは、カリフォルニア州ロングビーチを拠点に活動する男女4人組で、驚くことにリーダーのアヴィドーはまだティーンエイジャーだそうだ。

 キラキラとしたギターの音色が印象的な、緩くレイドバックしたサウンドは、サブ・ポップの先輩バンドであるビーチウッド・スパークスやオール・ナイト・レディオを思い起こさせる。そして、その上に乗るアヴィドーの中性的なハイトーン・ヴォイスがアヴィ・バッファローの音楽の個性を決定付けている。まずはシングルにもなっている2曲目の「What's In It For?」を聴いてみて欲しい。胸を締め付けるようなメランコリックなメロディーは、一度聴いたら忘れられない。

 先述のビーチウッド・スパークスの『Once We Were Trees』と、オール・ナイト・レディオの『Spirit Stereo Frequency』は、ともに<サブ・ポップ>の00年代を代表する大名盤だが、このアルバムはその系譜を継いで、これからの10年を代表する一枚となるだろう。

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 『存在』というタイトルに違わず、巨大な存在感を感じる、そんな作品だ。

 60年代のブリディッシュ・ロックのブルース臭さと、アーケイド・ファイアばりのコーラス・ワークとシンフォニックなサウンド――アルバムをプレイすると耳に流れ込んでくるその音楽は、壮大なスケールで広がっていく。時にはシタールを加えたり、轟音でうなるギターを鳴らしたりしてサイケデリアを演出する。その一方でフォークやカントリーの要素も濃厚に取り入れることで、メロディは深みを増している。また、ゴスペルの崇高さを備えた「Chemistry」、ベックの「Loser」を思わせるようなビートとヴォーカルの「Silver」など、強烈な個性を放つ曲が並ぶ。そして全体的に漂う、プライマル・スクリーム風の「ヤバさ」。自然とアルバムを繰り返し聴いてしまうのは、何よりきっそこに魅了されてしまったためだろう。

 このデトロイト・ソーシャル・クラブはUK北部、ニュー・カッスルでスタジオ・エンジニア兼プロデューサーをしていたデヴィッド・バーン(David Burn)のスタジオ・プロジェクトとしてスタートしたもの。友人ミュージシャンを集め、6人のメンバーで活動を始めてから、そのライヴが評判を呼びNMEヤクラシュ・マガジンなどの媒体で取り上げられてきた。その後、オアシスやプライマル・スクリーム、レイザーライトなどとツアーを行い、UK国内でのバズを高めていったバンドだ。

 僕はこのアルバムを聴くたび、デトロイト・ソーシャル・クラブにはこのまま巨大なスタジアム・バンドになってほしいと願って止まない。オアシスが解散して約半年。大文字の「ロック」を鳴らすバンドがいなくなったUKでは、後任の可能性がありそうなのは3組だけ。アークティック・モンキーズとカサビアン、そしてミューズだ。だが、そのレースに、このバンドも加わり、ロックを求める人々を熱くして欲しい、そう思う。フジ・ロックでの初来日公演では、その器の大きさをぜひ確かめてみたい。

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 07年だったか、クラブでディプロに影響を受けたという日本人のDJで踊っていた時に、クドゥルを知った。クドゥルとは、主にドラムン・ベース、ダブ・ステップからの影響を受け、アフリカのアンゴラから発生して、アンゴラ系の移民によってポルトガルに伝来したハイブリッドでラフなダンス・ミュージック。ブラカ・ソム・システマの野卑な音を想い出せば早いかもしれないが、そのクドゥルとバイレ・ファンキを混ぜ合わせて、トライバルに煮込んだ「Soobax」という曲がとても印象に残り、後で誰の曲かを彼に確認してみたら、ソマリアのラッパーのケイナーン(K'NAAN)というアーティストだという事を知った。ソマリ語と英語が行き来するライムに躍動感のあるバックトラックが鳴り、PVにはソマリアのモガディシオのストリートを行く彼の姿とそれを取り囲み踊る街の人たちが奔放に映っていた。

 ソマリアという国は91年以降、内戦が激化する中で無政府状態が続いており、治安も良くなく、世界最貧国の一つでもある。また、ソマリランドとプントランドが面するアデン湾は海賊行為の多発海域としても名が通っている場所であり、国際問題としても槍玉に挙げられる事が多い。そこで、78年に生まれたケイナーンは12歳の時、内戦の激化前に民間旅行機でニューヨークに逃亡し、その後、カナダのトロントに移住し、そこをベースにラッパーとしての活動を進めた。英語はそこで独学で習得したと言う。

 彼の名前が本格的に浮上したのは06年の『The Dusty Foot Philosopher』であり、07年リリースのコンピレーション『Urban Africa Club』だった。後者に関しては『ツオツィ』という映画に曲提供をしていたゾラ等に混ざって、彼の名前がクレジットされており、そのライムの巧みさとバックトラックの猥雑さに注目がいった人も多いと思う。そこから徐々に世界中に「発見」されていき、A&Mが目を付け、メジャー配給としての09年の『Troubadour』でブレイクすることになった。但し、このアルバムにはメジャー配給ゆえの規制が掛かったのか、ストリートやゲットーミュージックに根差したシビアさは抑えられ、エドワード・サイード的なオリエンタリズム的な要素因を含むようになってしまうことになった点は否めないものの、ソマリアの現実を切り取り、世界へ伝えたという側面は評価すべきだろう。「T.I.A.」という曲にはボブ・マーリィーの「Simmer Down」がサンプリングされていたり、一部、タフ・ゴング・スタジオで録られていたり、「グライム以降」の生命力が溢れた曲もあったり、モス・デフやマルーン5のアダム・レヴィーンが参加した曲などグローバル対応になっているものの、強烈にレベルの気配が充ち満ちており、彼の確たる意志が貫かれている。アフリカのリズム、エチオピア音楽のサンプルの仕方もなかなか巧妙だ。

 ただ、ここで先述した「グライム以降」という表現には注意が要るかもしれない。グライムとは00年代のUKのガラージの流れを組んだ音楽形態とも言えるが思想形態とも言えるからだ。サウンド・テクスチャーとしてはテンポを落とした低音を強くしたダウンビートにラップが乗るものを一般的には指すが、ディジー・ラスカルや初期のM.I.A.の音を想い出せばいい。そこから、インスト面が強くなる事でダブ・ステップに繋がってくる訳だが、ルーツ的には90年代の初期のレイヴから派生したという考えもあり、僕も06年くらいにグライムやダブ・ステップのパーティーに行った時には、2ステップやジャングルも混ざっていた記憶があるから、その論に賛同出来る部分がある。当時は、蛍光色の服に身を飾ったお洒落なニューレイヴと差異化されて、Tシャツ一枚で「ただ踊る為に、踊りに来る」トラッシュな人たちが溢れていて、その切実なまでの音楽に対しての希求の熱量が心地良かった。異性を口説く訳でもなく、ファッション的にクラヴィングを気取る訳でもなく、ただウィークエンドで溜まった鬱積した感情を昇華する場所にグライムやダブ・ステップの低音は効果的に響いており、スクワット・パーティーすれすれの清冽なヴァイヴがあった。SkreamやDigital MystikzやBurialや、ふと混ざるマッシヴ・アタックのマッド・プロフェッサーがリミックスしたアルバム『No Protection』からの曲など独特の禍々しい麗しさが通底していた。そこではクールとは程遠いが、優美なダンスをアフォードされている人たちの姿はまるで、自分が辿り着けなかったウェアハウス的なユーフォリアも包含していた。その波を受けた形で、クドゥルとバイレ・ファンキのバイタリティと猥雑さを取り込んだのがケイナーンの音楽であり思想という訳だ。

 しかし、それが皮肉にも今年の南アフリカのW杯の某グローバル企業のオフィシャルのキャンペーン・ソングに搾取される形になってしまったのは何とも言いようがないところがあるが、ケイナーン自身が見据える視線にはいつかのボブ・マーリィーに似た透き通ったものはあるのは確かでもあり、「ONE LOVE」へ向けての祈念がある。今夏のサマーソニックで初めて日本に来るが、必ず素晴らしいパフォーマンスをしてくれる事だろうと思う。彼は時代の要請としてワールドワイドに「なった」のではなく、なる「べき」方向を選ばざるを得なかったという意味で、ソマリアの現状やゲットーミュージックの強度をこれからも伝道していくに違いない。ここには掛け声だけのラブ・アンド・ピースはない。

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 00年代のアーティストで「レディ・ガガより先にレディ・ガガをしていた」といえば、まずはローシーン・マーフィー(ガガの特徴といえるファッションに多大なインスピレーションというか、元ネタを提供している)。そして、スウェーデンのポップ・アイコン、ロビンの名前が挙げられるだろう。

 元々はスローでソウル・マナーな、いわゆる「90年代ポップス」で一度チャートを席巻したアイドルだった(デビューも早い。最初のアルバムは95年リリース。当時彼女は16歳!)彼女は00年代初めに一度自分の方向性を見失いかけたが、2004年にエレクトロに急接近。同じくスウェーデンを代表するエレクトロ・デュオ、The Knife(日本じゃ無視されすぎ...)の音楽性に大きく影響を受けた彼女は、自身による自身のためだけのレーベル<Konichiwa>(「こんにちは」のミススペル)を立ち上げ、大きくアーティスト指向を強めたセルフ・タイトルのアルバム『Robyn』を2005年に発表。2007年にワールドワイド・リリースされたアルバムは結果的に6曲もシングル・カットされるほどの超ポップな特大充実作となり、なかでも「With Every Heartbeat」はイギリスのチャートで1位に輝いた。華麗な転身による大逆転セールスの一方で「リアル・インディー・アーティスト」としても、ピッチフォークを始め多くの海外インディー系メディアの支持も集めた(意図的にメジャーを離れるアーティストが増えている、昨今の潮流の先駆けといえるかもしれない)。

 マドンナのヨーロッパ・ツアーの前座に起用、フィッシャースプーナーやロイクソップといったエレクトロ・シーンの大御所とのコラボ(特にロイクソップの去年のアルバム『Junior』に収録された「The Girl And The Robot」は涙が出るほどポップな名曲...)、何よりエネルギッシュ極まりない、リズムを強調しまくったライブ・パフォーマンスで盛んに話題を集めまくった彼女の次の一手は、「既に年内中にEP3枚をリリースする準備が整っている」と本人が豪語する、『Body Talk』シリーズ(最近はこういう三部作、四部作...ってのが多いですね。シングル曲DLがスタンダードな時代に対するアーティスト側のコンセプチュアルな抵抗。あるいは、リリース費用の問題もあるのかも。このミニ・アルバムも、CDのレーベル面をわざわざCD-RWをそっくり模したデザインにして、チープさを強調している)。彼女の創作意欲はここ極まれり。本作はその第一弾である。

 エレクトロ化以降の彼女の音楽性は《チャーミングでおバカ》と《トゥーマッチなほどシリアス》の対極する二つのバランスがとにかく素晴らしいのだが(前作でいえば前者の代表曲が「Konichiwa Bitches」、後者は「With Every Heartbeat」だろう。特に「Konichiwa Bitches」のPVは彼女の世界観を知るうえでも必見。僕は初めて見たとき泣きました)、今作でもそのバランスは過不足なく保たれている。感情をもった女アンドロイドについてチャーミングに歌った「Fembot」は、ついに待望のアルバムもリリースされたUffieが代わりに歌っても何の違和感もなさそうな、軽快なライミングの心地いいポップ・チューン。「私はあなたに全てを捧げた。だけどあなたは違う女を家に連れ帰った。(それでも)私は踊り続ける。」というサビの印象的すぎるフレーズが図太く攻撃的なブリープ・サウンドに載せて歌われる先行シングル「Dancing On My Own」は、そのまま彼女らしい独立独歩な姿勢を貫くことの所信表明のようでもある。それこそ、アルバム冒頭曲のタイトル「Don't Fucking Tell Me What To Do」が、彼女のすべてを言い表しているといえるだろう。

 前作でも好タッグを組んだスウェーデンのKlas Ahlund、Kleerupの他に、ディプロ、ロイクソップといった強力なプロデュース・チームに支えられた楽曲は、以降も今年31歳を迎える彼女だからこそ成立しうる、成功する/したことの難しさを歌った「Cry When You Get Older」、ダンスホール・レゲエにモロな影響を受けた(まんまな曲名の)「Dancehall Queen」、"退屈だからこの街から連れ出して。新しい音、クソ不真面目な音を聴かせて"とのたまう、これまた挑戦的なトライバル・チューン「None Of Dem」と、多様な趣向を凝らしつつ「Body Talk」の名に恥じない曲が続き、かと思えば一転してピアノとストリングスをバックに、悲しい愛について感傷的に歌いあげる「Hang With Me」、そしてスウェーデンの伝承曲であり、彼女がかねてから得意としたメロウなカバー「Jag Vet En Dejlig Rosa
(I Know A Rose So Fair)」で30分のミニ・アルバムはあっという間に幕を閉じる。

 あまりに充実しまくりな前作に比べるとさすがに半歩落ちるところはあるが、年内にこのクオリティー(あるいはそれ以上のものが...と期待したい!)のレコードがもう2枚出ることが決定的だとすれば、それはもはや驚異だ。ここまで読んでいただければおわかりのとおりのボンクラ気質のせいか、カイリー・ミノーグのようなエロ要素が希薄すぎるからか(ロビンは今年で31歳だから仕方ない...ボーイッシュなのもハマってるし...と言い訳もできるけど、42歳で今度出た新曲の、あのPVを出せてしまうカイリーが異常すぎる)どうにも日本ではウケが悪いが、いやいや。ボンクラだからこそ最高です。あくまでアイドル的スタンスのままインディー/DIY精神を発露しまくる、真に信用できる人だなー、と。

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 そう、「感情のバロメーター振り切っちまえ」だろ? ブルックリンにて結成された男女2人組のデビュー作『Treats』、それはノン・ブレーキ、アクセル深く踏みっぱなしの、ギターを全面に押し出したエレクトロ・ポップ・ミュージック。M.I.Aが立ち上げたレーベルから発表されたこともあってか、音楽性はM.I.Aに通じるが、しかし、この荒削りな音楽性は凄まじい。乱雑とキュートな様が入り混じったサウンドが絶え間なく打ち鳴らされ、吐息は絶え絶え、体温上昇、エレクトロニック・ビートは腹にくるほど力強く、理性なんていうややこしいものは、ブレイカーが落ちたみたいにストンと消えて、ああ、そうだよ、最高じゃないか。

 噛みついてくるノイジーなギター・サウンドの連続とそのリフ、叩きつけられるビート、そこに絡まるヴォーカルが生み出す音に燃えるんだ。グッとくるどころか、カッとなる。だからいい。音の全てに、完全に、迷いがない。端的に言って、耳をつんざく。曲ごとに歌い方を変えるヴォーカルがアルバム全体の表情を豊かにし、みだらに歌ったかと思えばウィスパー・ヴォイスや絶妙なコーラス、ヴォイス・パフォーマンスを魅せもするが、荒々しい電子音、ビート、ギターが乱雑性を醸し出し、本来の正当なバランスなどあったもんじゃない。決して素通りできない音の洪水が続く30分。いわば、音が、キレている。本作は他人事じゃあ済まないんだ。しかしこの聴き終えたときの清々しさは何であろう。

 いつの間にか僕らは社会性の中にあって、本能的欲求を閉じ込めざるをえなくなった。だからして作り笑いや愛想笑いなど、本能的なものすらコントロールするようになってしまったかに思える。バイアグラをかじり、睡眠剤を飲む行為も本能をコントロールしているという意味では本質的に同義だ。無論、それらは悪いことではない。しかし忘れてはいないだろうか。人間とは社会によって突き動かされるのではなく、感情によって突き動かされるべきであることを。

 この作品はそれを思い起こさせる。音がややチープであろうと、バランスがおかしかろうと、乱雑性を持つ『Treats』は、感情の一切を吐き出しているからこそ、僕らを打ち、聴き手の感情を引きずり出し、放心に似た清々しい気持ちに溢れるのだ。これほど勢いのあるデビュー作らしい音楽は中々ないだろう。一度バンジー・ジャンプでもしてみようじゃないか。そんな具合に聴いてみるのも悪くない。リアルを感じられるから。一回でいい。聴いてほしい。

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 東京を拠点に活動を続ける4人組、ザ・マンマルズ。彼等の1stミニ・アルバムとなるのが本作『Instant Classics』だ。

 キングス・オブ・レオンやザ・ストロークスを想起させるブルージィーなロックンロール・サウンドを武器に、数多のライヴで着実に力を付けてきた生粋のライヴ・バンドである。

 ライヴ・バンドというと音源にその魅力をパックしきれていない場合も少なくはないが、本作には叩き上げてきた現在のバンドの到達点が実に見事にパッケージされている。ドライヴするビートにリーディング調のヴォーカルを乗せた「(It's So Easy To) Leave You Alone」や、印象的なリフを持つアンセミックなビッグ・ナンバー「Escalator」といったライヴでの人気楽曲の完成度も特筆ものだが、「Down Town」、「You've Gotta Believe Her」でのモータウンやスタックスのクラシック・ナンバーを踏襲した彼等のルーツとも言えるソウル・ミュージックへの目配せも見落とせない。

 MODS MAYDAY 30周年への出演や、久保憲司氏によるアーティスト写真などトピックには事欠かない彼等だが、このリリースの先に何を見せてくれるのか今から楽しみで仕方がない。

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 オルタナ・カントリーの静謐なる先駆者でもあり、25年間に渡ってオリジナル・メンバーのまま活動を続けているカウボーイ・ジャンキーズ。彼らのみならずカナダ・ロック史をも代表する『The Trinity Session』(超低予算で教会を借り、マイクを一本だけ立てて14時間足らずで録音。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「Sweet Jane」の美しすぎるカバーも含むこのアルバムは、ピッチフォークの80年代トップ100アルバムにもリスト入りしている)を、ライアン・アダムス、ナタリー・マーチャントといった面々も交えて再演し、映像作品化もされた2007年の『Trinity Revisited』以降、久々となる新作は「Nomad(=流浪者) Series」と銘打たれた4部作の第一弾。

 バンドのギタリストであり、メインのソングライターでもあるMichael Timminsと彼の家族が三カ月に渡って中国の靖江市に滞在した日々からインスパイアされた、異なる世界で育ち、永遠に結ばれない男女の物語を歌ったコンセプト・アルバム、タイトルもずばり『Renmin Park(=人民公園)』...という設定もかなり目を引く、キャリアを通じてもかなりの異色作といえる。(海外のレビューではソフィア・コッポラの映画『ロスト・イン・トランスレーション』となぞらえて評価されているようだが、たしかにテーマは相通じているのかもしれない)

 本作では琵琶や二胡といった楽器が用いられるなど、バンド自身がかなり中国の音楽に接近している。かなり賛否あるだろうが、元々ゴシックでアンビエンタルなルーツ・ミュージック解釈を提示し続けてきた彼らの世界観と中国音楽の相性は抜群で、たとえば冒頭三曲目の"Sir Francis bacon At The Net"では、シリアルな中国/香港映画のスコアで多く用いられるような旋律でディストーション・ギターが唸りまくり、近年発掘ぶりが目覚ましいアジアン・アシッド・フォークの雰囲気そのもの。また、Michael自身がフィールド・レコーディングして中国から持ち帰った音素材がアルバム全編で効果的に 用いられており、サイケデリック/オリエンタルな演出に貢献している。もちろん、本来の持ち味である洗練された風通しのいい楽曲も多く収録されており、アルバム全体の粒がかなり揃っている。ホープ・サンドヴァル~ベス・ギボンズの系譜に連なるだろうMargo Timminsの冷ややかでアンニュイな歌声にも相変わらずウットリさせられる。

 また、中国ロック界の大御所ふたり、许巍(Xu Wei)と左小诅咒(Zuoxiao Zuzhou)のゲスト参加と、本人たちの楽曲の英詩訳カバー(それぞれ、「My Fall(我的秋天)」「I Cannot Sit Sadly By Your Side(我不能悲傷地坐在你身旁)」)も披露されている。カバーの出来も秀逸だが、リンク先を参照のとおりオリジナルも抜群にかっこよく(特に许巍は欧米のオルタナ・ロックの影響をモロに受けており、とても聴きやすい)、中国ロック・シーンのエデュテイメントとしても機能しているといえるだろう。

 バンド自身も相当熱を入れている様子の「Nomad Series」では来年11月までに残り三枚のアルバム・リリースを予定しているそうだが、次作『Demons』は、バンド自身とも交流が深く、先述の 『Trinity Revisited』にも参加し、昨年のクリスマスに亡くなったシンガー・ソングライター、Vic Chesnuttに捧げる彼の楽曲のカバー集になるとのこと。生前の彼も参加した『Dark Night Of The Soul』もまもなく発売の見通しだが、それと併せて今後のカウボーイ・ジャンキーズの活動も目が離せない。

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 1994年4月、アメリカのシアトルで27歳で自らの頭をショットガンでぶち抜いてその人生の終始を打ったアーティストがいた。そう「ニルヴァーナ」のカート・コバーンだ。彼の死によりグランジも終わり、新しいムーブメントや若者にとっての「神」であるかのような次世代の新しい指針が必要になった。何かの終わりは新しい何かの始まりでしかないのはいつの世もそうであるように。

 同じく4月、ノエルとリアムのギャラガー兄弟を軸にしたバンド「オアシス」は時代を作り上げたかつての少年、若者のカリスマになってしまったカートが神への供儀として捧げられ、失われた世界で「スーパーソニック」としてデビューを果たす。

 カリスマ自体が時代を作るわけではなく、カリスマは磁石のようなもので、彼らに惹かれるファンや支持者はある種の砂(鉄)として強力な磁場に吸い寄せられていく。その砂の流れが時代と言ってもいいのかもしれない。だからこそ時代の流れができあがった後に新しい磁場が発生すると砂はまた次なる時代の流れに向かっていく。役割を終えたものは自然と回収されるかのように神の元へ帰っていく。

 マイケル・ジャクソンの死による彼の再評価はこの新しいディケイドにポップな散乱銃による色とりどりなものが溢れる前兆として最後に咲き誇ったように僕には思えた。

 「オアシス」は三枚目のシングルとして「ニルヴァーナ」の「I Hate Myself and I Want to Die(自分が嫌いだし死にたい)」への反発として「Live Forever(永遠に生きる)」と歌った。この1994年にデビューアルバム『Definitely Maybe』を発売し英国初登場一位を記録し彼らの歴史が始まった。

 そしてそのデビューから16年の歳月が経った今、2010年に発売された『Time Flies』という彼らの歴代シングルを網羅している作品がリリースされた。バンドのリーダーでありソングライティングをメインで務めていたギャラガー兄弟の兄・ノエルの脱退によってオアシスという時代は終わり実質的にこの作品が最後の「オアシス」作品となるだろう。

 彼らが第一線でロックンロールバンドとして活動していた16年という歳月の中であまりにも大きく世界の流れが変わってしまった。その中でも彼らは言いたい事をいい、暴れてたりケンカをしたりと様々な問題を起こし、ロックンロールの最後の生き様を見せていたように僕には思える。そしてその限界が訪れたのが2010年だったということだろうか。彼らは、リアムやノエルはこれからも音楽を続けて行くだろうし、ビッグマウスは健在だろうが、彼らのようなバンドはもう現れないだろうと収録されている曲を聴きながら思う。

 洋楽ロック不振は海外バンドを呼ぶフェスのラインナップを見てもわかるように客を以前のようには集 められない、昔だったら考えられない日本のアーティストを呼ぶ事でなんとか集客を増やそうと努力しているのがわかる。音楽業界自体の落ち込みと若者の洋楽離れがそれにさらに拍車をかけている。

 そう意味でもオアシスというバンドのように日本でも売れるロックバンドというものはこれから少なくなっていくし、彼らの楽曲のように僕らですら口ずさめるようなロックが出てくるのかは疑問だ。

 彼らがこうやってビッグバンドとしての「オアシス」に区切りをつけて終焉したことで次世代のロックが、新しいムーブメントがゼロ年代終わり頃から萌芽しつつ、それらが今のテン年代に入り一気に実ろうとしている事と符号させる。

 しかし、彼らが残した楽曲はこうやって残る。いつしか彼ら自体が「Champagne Supernova」のようになってしまったなと思っていただけにこうやってきちんと終止符を打ったことは嬉しいような哀しいような複雑な気持ちになる。

  ノエルの脱退で浮かんだのは旧約聖書『創世記』に登場するカインとアベルの兄弟の話だった。彼ら兄弟が神ヤハウェに各自の収穫物を捧げた。兄・カインは農耕で取れた収穫物を、弟・アベルは羊を放牧し肥えた羊を。神はアベルの供物には目を留めたがカインの供物は無視(シカト)した。カインはそのことによる嫉妬でアベルを殺してしまったが、アベルの血は神に向かってこのことを訴えた。神ヤハウェはカインにアベルの行方を問うと「私は永遠に弟の監視者なのですか?」と答えた。

 ノエルはリアムを殺さずにすんだ。でも彼らの「オアシス」を殺すことで互いを生かすことを選んだ。そして「オアシス」は完全に僕らの、ファンのものとしてこの16年のロックンロールの記憶として残った。

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 例えばザ・ストロークスやフランツ・フェルディナンドがそうだったように、その年、時代のトレンドを象徴するアルバム...ザ・ドラムスのセルフ・タイトル・デビュー作はきっとそう評される作品になるだろう。

 今年、インディ・ロックのブライテスト・ホープといえばこのNYブルックリンの4ピースであることに異論を唱える人はいないはず。サーファー・ブラッドやベスト・コーストといったローファイ・バンドたちと作り上げてきた「夏ムード」の中心。NMEやクラッシュといったUKのメディアにおいても、USのピッチフォークにおいても、期待の新人リストのトップを総ナメ。ここ日本でも、アルバムのリリース一週間後に予定されたDUO MUSIC EXCHANGEでの初来日公演がソールド・アウトしてしまったことからも、驚くほどの人気の高さがわかるというものだ。

 すべての始まりは昨年の夏、ネットにアップされた3分足らずの1曲、「Let's Go Surfing」だった。話題は一気に広まっていき、世界中のリスナーのハートを掴んでしまった。シンプルなフレーズをリフレインするギターや軽快な口笛とハンドクラップが心地よい。まぶたの裏に浮かぶサウンドスケープは真っ青な空と海の、夏。だが、それはまだ始まりに過ぎなかった。なぜなら、続く3枚のシングルとEP『Summertime!』でもしっかりと、類まれなるセンスを証明したのだから。

 そして、待望のセルフ・タイトル・デビュー・アルバムが到着。事前の大きな期待にたがわない名盤といえるだろう。

 もちろん、代表曲「Let's Go Surfing」をはじめ、「Best Friend」「Forever And Ever Amen」といったシングル曲を配した、みんなが求めていたザ・ドラムスがのサウンドがある。フロントマンのジョナサン・ピアースはモリッシーばりに歌い上げ、ビーチ・ボーイズ譲りのコーラスワークがフックを作り上げる。ローファイなギターでドライヴするポップは本当に気持ちがいい。

 だが、それだけではなく、これまでの楽曲では見られなかった姿も浮かび上がってくる。「It Will All End Of Tears」では、ジョイ・ディヴィジョン「Love Will Tear Us Apart」を思わせるようなポスト・パンク風のビートが刻まれているし、「I'll Never Drop My Sword」では悲しみを帯びたヴォーカルが印象的だ。また、さんさんと降り注ぐ太陽が輝く海を思わせたシングル曲に対し、「Down By The Water」はまるで夜の海。ぐっとテンポを落とし、センチメンタルな雰囲気がぐっとムードを盛り上げる。これらの楽曲により、ローファイ・バンドとは一線を画すソングライティング能力があることを見せてくれる。「夏」ムード一色になりつつある2010年USインディにおいて、間違いなくシーンを象徴するアルバムだ。

 そもそも、フロントマンのジョナサン・ピアースとギターのジェイコブ・グラハムは幼少からの親友同士。かつてはゴート・エクスプロージョン(Goat Explosion)というシンセ・ポップ・バンドを一緒に組んでいたが解散。続いて、ジョナサンはエルクランド(Elkland)、ジェイコブはホース・シューズ(Horse Shoes)というバンドを組むも、それぞれ徒花として消えてしまう。その後結成されたのがザ・ドラムスというわけだ。3度目の正直とでも言うべきか、このバンドには一切嘘がない。正直だ。ビーチ・ボーイズにニュー・オーダー、ザ・スミス、オレンジ・ジュース、それにフィル・スペクターなど、彼らがリスペクトしてやまないレジェンドたちの影響を隠すことなく表現、モダナイズした楽曲を作ってきた。きっと、ジョナサンとジェイコブの堅い友情がこの奇跡のようなアルバムを生んだのだろう。アルバムの1曲目が、お互いが死んだときのことを想定し絆を確かめあうという内容の「Best Friend」で始まっているのも、きっとそのためだろう。

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「伝説」だからいいなんて、まったく思わない。60年代にはレッド・クレイオラと並ぶ「テキサス・サイケデリック」の両雄などと称されていたサーティーンス・フロア・エレヴェイターズ(13th Floor Elevators)の中心人物ロッキー・エリクソン。

 レッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンは、70年代末~80年代初頭のUKポスト・パンク/ニュー・ウェイヴ期に同地で裏方としてもアーティストとしても一時代を築き、90年代後半以降いわゆる「シカゴ系」のひとりとしてみたび盛りあがっていた。それに比べ、サーティーンス・フロア・エレヴェイターズのロッキー・エリクソンは、イマイチ地味ではあった。もちろん90年代のいわゆる「ローファイ」期にカルト的な人気を高め、スペースメン・スリー(もしくはソニック・ブーム)からマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(ケヴィン・シールズ)をへて現在にいたるノイズ派にも根強い支持を得てはいる。

 たとえば最近、いわゆる「シューゲイザー」系のUKレーベル、ソニック・キャシードラル(Sonic Cathedral)から、ケヴィン・シールズも参加したロッキー・エリクソン・トリビュート・アルバム『The Psychedelic Sounds Of The Sonic Cathedral』がリリースされている。このタイトルは、60年代サイケデリックの定盤と評されるサーティーンス・フロア・エレヴェイターズの傑作ファースト・アルバム『The Psychedelic Sounds Of The 13th Floor Elevators』をもじったもの。ポスト・パンク以降とのつながりで言えば、傑作セカンド『Easter Everywhere』もでかいと思う(ニック・ロウやザ・ポップ・グループを出していたワーナー傘下レイダー・レーベルから、後者の『Y』と同じ79年に再発)。

『The Psychedelic Sounds Of The 13th Floor Elevators』収録曲からバンド名をとったファイアー・エンジンズというポスト・パンク期スコティッシュ・バンドのサウンド自体は、どちらかといえば『Easter Everywhere』のほうに近い気がする。彼らの直後の世代にあたるスコティッシュ・バンド、プライマル・スクリームは『Easter Everywhere』冒頭収録曲「Slip Inside Your House」をカヴァーしていた。ちなみにレイダーは同年、レッド・クレイオラの新譜もリリースしていた。そのころはラフ・トレードのプロデューサーとしても大忙しだったメイヨ・トンプソンが、87年のプライマル・スクリームのファースト・アルバムをプロデュースしているのも、おもしろい。プライマルのボビーとか、アラン・マッギーって、「ポスト・ポスト・パンク派」って感じですな(ぼくと同世代。共感できる:笑)。

 閑話休題...というか、マジな話、ロッキー・エリクソンによる、このニュー・アルバムを聴くときには、今つらつらと述べてきたようなことはすべて忘れたほうがいい、ような気がする。というわけで、冒頭のフレーズに戻る。

 ここで聴ける、滋味にあふれた、そしてUS南部の大地とかを思わせるうたそのものが、あまりに感動的なのだ。オッカーヴィル・リヴァーとの組みあわせも、まさにずっぱまりと言えるだろう。

 最初アルバムをかけると、あまりに劣悪な音塊が飛びだしてくる。ああ、サイケですか? ローファイですか? みたいに、ちょっと鼻白んだのだが(いや、そういった音楽は、もちろん好きですよ。だけど、あまりにロッキー・エリクソンのパブリック・イメージそのまま、って感じで...)、2曲目からは、もう正統派ど真ん中。カントリーやR&Bからちょっとエキゾチックなノリまでを感じさせるサウンドは、ジョー・ヘンリーやニーコ・ケース、トム・ウェイツからドクター・ドッグまでを擁するアンタイ・レコーズにふさわしい見事さ。『True Love Cast Out All Evil(真実の愛は、悪しきものを追い払ってくれる)』というフレーズが、ニュー・オーリンズっぽいノリで、素直に頭に飛びこんでくる。

 ラスト・ナンバーでは、ふたたび劣悪な音質になるのだが、それこそ南部の埃っぽい町のAMラジオから聞こえてくるようで、まったく不自然さはない。この曲のフレーズの一部が「Waltzing Matilda」を思わせるところが、たとえばポーグスのセカンドのラストや映画『渚にて』を想起させ、泣ける。「God Is Everywhere」。普通だったら、宗教がかって好きじゃない...みたいに感じるであろう曲名も、心にしみる。

 オッカーヴィル・リヴァーも、いい仕事をした。ロッキー・エリクソンと彼らや、アンタイとか、UKのライセンシーであるケミカル・アンダーグラウンドとの出会いの素晴らしさも、この曲名のフレーズと響きわたって、ああ、とりあえず生きててよかった、なんて思ったりする。

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 エピステーメーは、ミシェル・フーコーの概念の一つだが、ある時代の社会や人々の生産する知識の在り方を特定付け、影響を与える、知の「枠組」のようなものであり、『言葉と物』での「エピステーメー」における、人の思考はそれが持つ思考体系、メタ的な知識構造に従順になるという構造主義的な見解を示しつつ、ある時代の社会を支配するエピステーメーから開放されるには「エピステーメー」の破壊でしか解決しないという描写があるが、そういう意味で言うと、ポスト・パンクに影響を受けたバンドが犇めいていたニュー・エキセントリックと呼ばれるムーヴメントに属していたバンドがセカンド・フェイズにあたってニュー・ウェーヴ的な意匠へよりギアを変える中、そのニュー・エキセントリック勢が放っていた無邪気な破壊衝動を更に知的に分析する巧妙なテクニックと熱を帯びたバンドにイタリアのディドが居る。

 既に早耳のリスナーの中では、ニュー・エキセントリック勢からの影響以外にも、そのビート感をしてザ・ラプチャーやレディオ4、LCDサウンドシステム、初期クラクソンズの影も見受ける事が出来ると言われているし、実際、サウンドの構築の仕方は70年代のオリジナルのポスト・パンクの香りと攻撃的な脱力性があるクールな格好の悪さは新しく何かを感じさせるし、歌詞の中では「世界が灰色に見える」、「僕らのジャンルって何なのか考えさせて」、「パーティーのためだったら雨だって止められる」といったナイーヴで繊細なものが散りばめられるのにも、今の温度がある。パフォーマンスに関しても如何にもな、アート的な佇まいでセンスが切れたものを見せてくれる。例えば、最初の頃の7インチのシングルにもジーズ・ニュー・ピューリタンズのリミックスを入れるなどぬかりが無い部分があり、確実に射抜くべき対象にブレはなく、その「ポスト-」性は同世代者への安易なコミュニティー意識や共振さえも厭うように、だからこそ、時代遅れとも言えるDFA以降の生音×ディスコ・ビートのスタイルを積極的に援用するのだ。

 デヴィッド・ボウイの「チャイナ・ガール」を想わせるようなチープさとザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」的なフロアー対応までいかない「藻掻き」が彼等の若さと誠実さと経験値の少なさだが、まだ今の段階では命取りになるようなものではなく、チャーミングささえも感じさせる。何にしても、「今」のバンドという気配が充溢しており、後ろも前も見ていないところは頼もしい。

 作品としては、真面目なバンドが現在進行形で影響を受けてきたものをそのまま嚥下して、適切な閾値でアウトプットしたというもので、バリエーションも豊かで鋭角的な曲からバウンシーな曲、ヴァンパイア・ウィークエンドのような玩具箱を引っ繰り返したような可愛らしさを持った曲など、現時点での引き出しの多さも言う事は無く、僕自身としては、ホット・ホット・ヒートやブロック・パーティー辺りに並べたい独特のギクシャクしたムードと、実験を優先している部分には好感を持っている。世界的にどれだけ波及していく音かどうかは正直なところ未知数だが、ディドがやろうとしているトライアルは決して無謀なものではなく、また時代への批評装置として有機的に機能するだろう可能性を秘めている。

 ジグムント・バウマンの言葉でいえば、今、生きている近代社会の特徴を「リキッド・モダニティ(液状化する社会)」と称することができる。その中で、ヴィジョンは、ソリッド(固体)ではなくリキッド(流体)になってしまう。それは「私たちが生きる近代は、全ての流体がそうであるように」、あらゆる想念は長い時間、同じ形にとどまらないからだと言える。バウマンの文脈で、あらゆる要求は、その要求に応えようとする提供者に犠牲を求め、提供者は犠牲の見返りとして幸福を感じることが出来る。しかし、幸福の追求が消費社会と結びついた現代では、マネーが仕掛ける構造の犠牲の意味になってしまい、表現も回収されてしまう事になったのは周知だろう。

 だから、ディドは明確なヴィジョンなど持たずにリキッドなサウンドスタイルを選ぶように「なってしまった」とも解析出来る。ハイパーグローバリズムが名付けたシステムの中での「最良の被害者」としての側面もダイレクトに見られるのにはいささか悲しくもあるが、必ず内破の導線を敷いてくれることを期待出来る、始めの一歩として基点はぶれていないところは応援したい。

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 グループ・イノウ(group_inou)を最初に観たのは代官山UNITでのスペシャ烈伝でのライブだったと思う、その時の印象が強くてそれ以来新譜が出れば聴いている。その日に「COMING OUT」「MAYBE」の二曲で完全にやられた。

 最高にカッコ良くてリズムが早くてこんなにヒップホップでまったく聴いたこともない曲で乗れまくっている自分に驚いた。そしてライムがアイロニーをすかさず入れている辺りもとてもキャッチーに響いた。

 ライブ中にMCのcpがステージから降りていて僕の前方二メートルもないくらいの場所に立っていた女性の真ん前に立ってずっと目を見て「君の彼氏は絶対に浮気してるさ」とひたすら連発していた。あまりにも現実味のない光景とそのライムが示すものの皮肉で僕はあまりにも面白くてずっと笑ってしまったのを今でも印象深く覚えている。

 前々作『FAN』収録「COMING OUT」「MAYBE」や前作『ESCORT』収録「RIP」は電光石火のごとくリズムとライムが聴く者の中にある感情を動かす言葉の強さとポップを兼ね備えていた。グループ・イノウの特徴の一つはそれらが挙げられると思う。

 最新作『_』はどうだろうか、アルバムタイトルは3曲目「STATE」の歌詞にある「俺たち なんだか 記号 ずっと前からアンダーバー」から取られているはずだ。

 このアルバムは全体的に非常にポップだ。「COMING OUT」「MAYBE」「RIP」のように一気に持って行くタイプの曲はオープニングナンバー「ZYANOSE」。

 全曲9曲はどの曲も粒ぞろいで前の二枚のアルバムよりもアルバムとしての完成度や強度は比較的に高いものになっている。

 5曲目「HALF」上での「全ては システマティックになってく 答えろ 試されていること分かるだろ?」は脳内リフレインを始めて僕はその言葉の意味を考えてしまう。グループ・イノウのライムはニッチというか心や感情の隙間に入り込んでくる。柔軟さと強さがある。

 なぜだろう、ここまで染みてくるのは、そして聴くものの中に入り込んでいろんなことを考えさせてしまうのは。そのライムが乗っかっているリズムや音はポップで体はそれに反応して乗れるし、ライブならばダンスして暴れて揺れるのには持ってこいだ。ライムの歌詞だけならば非常にシニカルなのに音に乗ると反比例するようにポップに聴こえてくる。そして聴こえて届くとシニカルなライムが強く響いてくる。

 彼らのライムの中には「光景」「景色」が何回も出てくる。今現在の「景色」や「光景」はやがて消えて行くし姿を変えて行く、だからこその「景色」や「光景」の変化に苛立つしそれを見ていた誰かのことを思い出したりする。だけどもその変化の中でしか僕らは生きていけない。

 「永遠」とは「一瞬」の中にしか存在していない。僕らは永遠の中に生きている、一瞬の連続だ。永久凍土に閉じ込められたマンモスは氷が砕ければマンモスもろとも崩壊する。

 グループ・イノウの音楽は「一瞬」を生きている、僕らと共に時間を進んでいくサウンドトラックになる。

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 彼らのファースト・アルバムのインパクトは、とても大きかった。「ラジオから流れてきて気持ちいいポップ・ミュージック」という意味で。最初の頃は、ラジオでかかるのを聴くたび、何度も(ぼくが大好きな)70年代の(ちょっとAORがかった)曲かと勘違いしてしまった。その後ザ・フィーリングス、そしてスカウティング・フォー・ガールズへとつづく道を切り開いたというか、この3バンドは、ぼくの中で非常に大きな存在となっている(ちなみに、あとで知ったのだが、この3バンド、関わったプロデューサーも共通していたりする)。キーンの場合セカンドでちょっと「悩み入った自省ロック」に傾いて残念だったものの、サードでふたたび(メランコリックではあっても、あくまで)「ポップ」方面に...。意味がありそうでなさそうでありそうな、『Perfect Symmetry』という素敵なタイトルがそれを象徴している。ファースト・アルバムのタイトルは『Hopes And Fears』。セカンドで"Fears"に流れたとしたら、サード以降、とくにこの8曲入りミニ・アルバムでは、むしろ"Hopes"なベクトルが目立っているというか...。

「夜行列車」という表題からして(いい意味で)ポップ・クリシェっぽい。ぼくなどが聴くと、たとえばオーケストラル・マヌーバーズ・イン・ザ・ダーク(Orchestral Manoeuvres in the Dark:通称OMD)など、80年代のエレクトロニック・ポップに通じる部分も感じる...というか、単に「けっこうOMD寄り」なのかな? キャッチーすぎるフレーズが耳に残るライトなポップ性とか、ちょっと「青い」感じとか...。ちなみにOMDは、1980年にファクトリーからマーティン・ハネット・プロデュースのシングルでデビューしたのち、モノクローム・セットもアルバム・デビューを飾ったヴァージン傘下ディンディスクと契約、さらにヴァージン本体に移籍して「エノラゲイの悲劇」「ロコモーション」(注:カヴァーではない。タイトルだけ頂戴したオリジナル)「イフ・ユー・リーヴ」など、素晴らしいヒット曲を連発したバンドだ...といったところで、キーンの話に戻ろう。ここにおける彼らの音世界も、もちろん「後ろ向き」なものではまったくない。音の感触や、細かいリズムのセンスなど、バリバリ今っぽい。

 3曲目と7曲目にはケイナーン(K'naan)、5曲目にはティガラー(Tigarah)という、かなり若さを感じさせるラッパー/シンガーがフィーチャーされている。ググってみた。前者はカナダ国籍ソマリア生まれの黒人男性ポエット/ラッパー/シンガー・ソングライター/マルチ・インストゥルメンタリスト、後者は日本国籍LA在住の黄色人女性プログラマー/グライム・シンガー・ソングライター。ティガラーのヴォーカルを聴きながら、これは絶対日本人ではないと思っていたため(いい意味で)意外だった。彼女がいわゆるバイレファンキに影響を受けていたということを知り、なるほど、と思った。でもって、ここまで(わざとらしく)隠していた(笑)のだが、5曲目「Ishin Denshin (You've Got To Help Yourself)」とは、OMD...ではなく(笑)YMO...イエロー・マジック・オーケストラ「以心電信(You've Got To Help Yourself)」のカヴァー!

 はっきり言っておくが、これはリリース当時から「クール」な曲ではまったくなかった。「君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)」が『ザ・ベストテン』クラスのヒットとなり(彼らが実際に出演したかどうかは憶えていない:笑)、その前の『Technodelic』がアヴァンギャルド性を最大限に発揮した超名作アルバムだっただけに、マニアはかなりひいていた(ところで、正直こういう類の「マニア」ノリって、ぼくは苦手です...)。そのうえNHKのキャンペーンとかでも使われていた、最高にポジティヴな歌詞を持つ曲。「虚飾をすてて、素直になろうよ」「誰かのために生きることが、自分のためになるんだよ」みたいな...(だけど歌詞をよくよく聴くと、一抹の皮肉みたいなものがスパイスのようにふりかけられてて、また、いい)。

 YMOの全レパートリーで一番好きかもと思うこの曲(日本語詞)が、いい意味で日本人とは思えないアクセントによって、キーンのミニ・アルバムで歌われる。アレンジもナイスだし。なんか涙が出るほどうれしい。全8曲の流れや、それぞれの曲の、ポップ・ミュージックとしてのクオリティも素晴らしい。最高、ですね。

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 霞立つ森を通り抜ける開放感。しぶきを上げる激流が過ぎた後に残る静寂。川の上流から下流まで流され大海へ辿り着き、そこで待ち構える広大な平穏。雲の切れ間から刹那的に零れる曙光。流麗なギターの音色から想起される寓話は限りない。今まで聴いたことのない、神秘的なソロギター集である。『Parables』とは、おとぎ話・寓話という意味だが、それは、本作が彼の指先だけで紡がれる物語であることへの暗喩であろう。

 本作はRFというエレクトロニカ・アーティストとして、ジョアンナ・ニューサム・バンドのメンバーとして、ザ・トイズやトリオ・モプムのギタリストとして、幅広く活動を繰り広げているライアン・フランチェスコーニによる本人名義での処女作である。そしてその処女作は大胆にも、アコースティックギター一本による、清廉で身を浄化するようなソロギター集となっている。既存の参加アルバムの色合いからは大きく変貌を遂げているが、彼の音楽性の源流、基盤であるブルガリアン・トラッド・フォークが今作の象徴となっているということは、より本作が等身大のライアン・フランチェスコーニを描写した記念すべき作品であるということを証明している。

 彼は、この種のアーティストにありがちな、どこかノスタルジーなコードを響かせることに酔っているだけの二流ギタリストではない。ギター雑誌の表紙に抜擢されても遜色のない、一流のギタリストである。清冽な雨のアルペジオは唯一無二であり、時間を忘れるほどに美しい。

 本作は4月1日にリリースされたアルバムなのだが、おそらく私にとって2010年の最名盤になりうる作品であったため、6月現在、恐縮ではあるが、レビューを書かせていただいた(ジャケットも秀逸!)。

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 元Qアンド・ノットUのドラマーであるジョン・デイヴィスが、ジョージー・ジェイムズというユニットを結成し、アルバム『Places』で突き抜けたポップ・ソングを聴かせてくれた時は新鮮な驚きを感じた。アルバム一枚を残してジョージー・ジェイムズは解散してしまったが、そのメンバーだった女性シンガー、ローラ・バーヘンが新たに立ち上げたユニットが、このTHE MYNABIRDSだ。

 アズール・レイやO+Sのメンバーとして知られるオレンダ・フィンクがゲスト・ヴォーカルとして参加し、 トム・ナトゥ(ジーズ・ユナイテッド・ステイツ)、ネイト・ウォルコット(ブライト・アイズ)といったサドル・クリーク周辺の腕利きミュージシャンが脇を固める。そして、ソロ・ミュージシャンとしても高い評価を受け、先日リリースされたダミアン・ジュラードの最新作などでもその手腕を振るっているリチャード・スウィフトがプロデュースを担当。

 ジョージー・ジェイムズの作品でも垣間見られた60年代ポップス〜R&Bへの愛が、よりストレートな形で表出した楽曲が並ぶ。ボビー・ジェントリーを思わせるローラのハスキー・ヴォイスを、あなたもじっくりと堪能して欲しい。

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 批評家であり思想家である東浩紀氏の処女小説『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』)は09年の年末に、そうゼロ年代の最後にこの世にドロップされ、このテン年代(by 佐々木敦)の最初の年2010に第23回三島由紀夫賞を受賞した小説だ。

 例えば、批評家・思想家としての東浩紀を知らなくてもこの作品は存分に魅惑的だし、ある意味では世代間で分断されてしまっているジャンルとしてのSF、今やあらゆるカルチャーは世代間において分断されてしまっているように思える。その分断の中SFというジャンルが若い世代にもまた広がる可能性を秘めている小説であり文学である。

 ゼロ年代最後の年に若くして三作の長編を残して亡くなってしまったSF小説家の伊藤計劃がいた。『QF』と彼の処女作である『虐殺器官』は新しい時代のSFのスタンダードとして後世に語られる作品だろう。

 僕らが今、生きているこの世界は9.11以後の世界でテロリズムと言う言葉がもはや一般化し、グローバリゼーションという新しい宗教が完全に物事の根本を変えてしまった世界だ。そこで生活する僕たちにとって、物語は何を教えてくれるのだろうかという問いに対してこの二作のSF小説は想像することの萌芽を読者に与えてくれる。

 82年に死去したアメリカのSF作家であるフィリップ・K・ディック(代表作は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『高い城の男』『ユービック』等)が81年に発表した『ヴァリス』という作品と85年に村上春樹が出版した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という二作が『QF』の中で大きな役割を果たしている。

 主人公である葦船往人はこの二作品と村上春樹が以前に書いた短編について作品の中で言及し、それらがキーとして作品に関わってくる。上記の二作品を読んでいるとこの物語はさらに奥行きを増す。

 あらすじ・2035年から届いたメールがすべての始まりだった。モニタの彼方には、まったく異なる世界の、まったく異なるわたしの人生があるのだ。高度情報化社会、アリゾナの砂漠、量子計算科学、35歳問題、幼い娘、ショッピングモール、そして世界の終わり。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。

 例えば『35歳問題』は作中においては『ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。そして、その両者のバランスは、おそらくは三十五歳あたりで逆転するのだその閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。』と物語の序盤で書かれている。

 この問題が並行世界と結びついているのは言うまでもなく、誰もが思い描いてしまう《かもしれなかった》世界の物語の根本として提示されている。

 物語は往人がいた世界、娘の風子の世界、息子の理樹の世界が繋がり、往人は存在しなかった幼い娘の風子がいる世界へ人生がリセットされるかのように移動する。妻の友梨花や風子の世界で彼女が作りだした最初は単なるソフトウェアだった汐子と物語は繋がって行き、彼ら家族の物語が少しずつ集まり寄り添いながら展開していく。並行世界で出会うことのなかった彼らが互いに出会う時に物語が収束し始め世界の謎が少しずつ解かれていく。

 並行世界がひとつの世界に集まる時に家族は何をするのか、どこに向かうのか。そして物語を操っていたのは一体誰なのか、誰の思惑が反映していたのか、そして最後の第二部の後の物語外2が何を意味するのか、世界の終わりとは何なのか、ハードボイルドとは何か、読み終わっても全ての物語がキレイにわかるようにはできいないのかもしれない。それは読者によってどう受け止めるかが違ってくるタイプの小説だからだ。

 この『QF』から新しいSFの流れが始まるだろう。新しい何かを感じさせてくれる作品には過去の作品からのオマージュや影響がありながら現在と未来を見据えてた表現がある。だからこそこの作品がテン年代最初の『三島由紀夫賞』を受賞したことは新しい希望がこの作品の中にあると思う。

 東浩紀は明確な意志で小説家として物語る事を決意した作家だとこの『QF』は教えてくれる。

「ゲームのプレイヤーはそれがゲームであることを忘れたときにもっとも強くなれる」

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 今やグラスゴー・バンドではヴェテラン組となったティーンエイジ・ファンクラブの、2005年の前作『Man-Made』以来5年ぶり、通算8作目のオリジナル・アルバムとなる新作『Shadows』。その前作と同じく自身のレーベルPeMaからのリリースとなる作品は、メンバーのノーマン・ブレイクが「今までの作品とは違う綿密なアレンジが実現できた」と語るように、セルフ・プロデュースで自分たちが満足いくまでじっくりと作られたサウンドが印象的だ。とはいえ彼らの持ち味である温かいメロディーとさわやかなハーモニーはもちろん健在。前述のノーマン、ジェラルド・ラヴ、レイモンド・マッギンリーの3人のソング・ライターが仲良く4曲ずつ(日本盤はボーナス・トラックを2曲収録)というここ数作でのフォーマットも変わらず、それぞれが今までのキャリアでも最良の曲を書いていて、完成度の高いアルバムとなっている。

 昨年のサマーソニックでのインタヴューではアルバム・タイトルについて「ダウンビートな曲が多かったり、歌詞も少しダークな内容だったりするから」と語っていたノーマン。確かに轟音ギターや性急なリズムは影を潜めているし、歌詞にも「Past」や「Dark」といった単語が繰り返し出てくるが、それは年齢的にも40歳を越え多くの人生経験を経た彼らの優しさに満ちたまなざしであり、決して後ろ向きなことではないだろう。先行シングルとなった「Baby Lee」や、サマーソニックでも披露されていた「Sometimes I Don't Need To Believe In Anything」と「The Fall」、ゲスト参加のエイロス・チャイルドのピアノと彼らのアルバムには常連のジョン・マッカスカーのストリングスが美しい「Dark Clouds」、これぞギター・ポップ!という「When I Still Have Thee」からラストのバラード「Today Never Ends」まで、すでにクラッシックに響く収録曲からはしなやかさと力強さが感じられ、結果アルバム全体としてこれまでの彼らのどの作品以上に前向きな希望を感じされてくれている。

 派手なサウンドもギミックもないけれど、彼らの曲がこんなにも心の琴線に触れるのは、そこに音楽への愛情と歌心があるからに違いない。タイトルである「影」がひとときも体から離れないように、そっと寄り添い僕らの心を満たしてくれる永遠のポップ・アルバム。往年のリスナーから、この作品で彼らのことを初めて知る人まで、一人でも多くのポップ・ミュージック・ファンに聞いて欲しい。

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 2004年の結成以来、超絶なライヴ・パフォーマンスで着実にファンを増やし続けてきた、カナダはトロントを拠点に活動するホーリー・ファック。本作は、前作『LP』からおよそ3年振りのサード・アルバムである。

 バンドの中心となるのは、キーボード&エレクトロニクスを担当するブライアン・ボーチャートとグラハム・ウォルス。昨年のフジ・ロック・フェスティヴァルにおける彼らのライヴを目撃した人ならご存知のように、ステージではこの2人がフロントで向かい合い、テーブル状のスタンドに並べられた小型キーボードやエフェクター、グルーヴマシンなどを巧みに操りながら演奏を進めていく。いわゆるラップトップや、最初からプログラムされたオケなどは一切使わず、リアルタイムで鳴らされるブレイクビーツやアルペジエイター(シンセ等に内蔵された、アルペジオを自動的に作り演奏する機能)に生のドラム&ベースを融合させていくパフォーマンスは圧巻の一言だ。彼らはレコーディングもライヴ同様、リアルタイム演奏による「1発録り」をデビュー当時から貫いてきた。ライヴの勢いをそのまま封じ込めるサウンドは、もちろん今作でも健在だ。

 冒頭曲「1MD」は意外にもドラムレスのアンビエント・ソング。ボーズ・オブ・カナダやブラック・モス・スーパー・レインボー辺りを彷彿させるシンセの音色が次第に重なり合いながら、まるで洪水のように押し寄せる様はシューゲイジング・サウンドにも通じるものがある。続く「Red Lights」は、ゴリゴリのファンキーなベースがザ・ポップ・グループの「Thief of Fire」を思わせるダンサンブルなナンバー。この曲といい、先行シングル・カットされた「Latin America」や、ヒップホップ・ビートが腰にくる「Lucky」といい、これまで以上にリズムに重きを置いた楽曲が目立つ。これまでライヴのサポート・メンバーだったドラムのマット・シュルツが、正式メンバーとして加わった頃も大きいかも知れない。1つ1つの楽器の分離も良く、エレクトロニカ色が強く荒々しい音像だったファースト『Holy Fuck』、バンドを「塊」として捉えたような音像のセカンド『LP』に比べると、まるで霧が晴れたように「奥行き」を感じさせるサウンドスケープだ。

 もちろん、前作収録の「Lovely Allen」で展開した多幸感あふれるサウンドも、「Silva & Grimes」や「Stilettos」といった曲の中で、よりパワーアップした形で引き継がれている。疾走するリズム、フワフワと揺らめくパッド・シンセ。その間を行き来しつつ、次第に高みへと駆け上がっていくヒプノティックなシーケンス音は目眩がするほど気持ち良い。

 傑作『LP』さえをも、軽く超える作品を作ってしまったホーリー・ファック。彼らの勢いは、未だとどまることを知らないようだ。

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 ブライアン・イーノが78年に創った『Music for Airports』はなだらかな漣のようなサウンド・レイヤーが醸す美しさを静かに付与し、当時では不明瞭とも言えたアンビエントという概念を定着させただけでなく、空港内で機能する音楽が決してラウンジ的なものばかりではない、ある種の弛緩への緊張を要求されるものだということをリプレゼントしたが、実際には空港利用者には批判を受け、タイトル通り、空港内で定着するには至らなかった。結局は、フュージョンとかイージーリスニングとか流れるように柔らかく人の耳に極力、残るようで残らない音楽があの喧騒の中には「馴染む」という事なのかもしれない。

 それでも、僕は空港に行った時に、そういった音楽よりも(嫌いではないが)、イーノのアンビエント作品が聴きたくなってしまうのは何故なのだろうか。それは、一つ言うならば、多くの言語や様々な人が行き交う場所からこそ、耳が鋭敏化してしまい、その耳に流し込むには逆に精緻に隙間を組み立てた音楽こそが安穏をもたらすから、とも置き換えられる。百貨店で流れるオルゴールのような音楽に辟易した人も居ると思うが、実は、喧騒には緊張で対応しないと、不快に感じてしまう要素因もあるのだ。

 06年に日本語書が出た、Peter Morvilleの「アンビエント・ファインダビリティ」という本はイーノのアンビエントからインスパイアーされた書で、見つけやすい環境とWEB社会の進化性を多角的に分析した本だったが、世の中のアンビエント化とfindabilityを結びつけ、アークテクトを描こうとする力技が過度に働いたが故に、散漫になってしまった。とはいえ、その後のハイエンドな仮想社会を可視するには良い見取り図を提示したかもしれないが、今現在、アンビエントという言葉を再定義するのは広義におけるイージーリスニング的な感覚から言葉を置く事は出来ず、混沌から行間を見出す導線付けを必要とする、と言えるならば、MySpace以降に散見されるエレクトロニカ、IDM紛いの設計図だけが綺麗に描かれて、その中身が空疎なアンビエント的な音楽とは実は、自閉の末に中毒状態になっている性質も感得出来るだけでもある。つまり、表現することの郵便的誤配を怖れる以前に、郵便的であることに関してさえ、無自覚な気味の悪さを孕んでいるケースの少なくない数の兆候化を示している。それは、そういった音楽のロールモデルとして必ず挙げられる、ポスト・エイフェックス・ツイン『アンビエント・ワークス』下の、クラークがふと見せる穏やかな表情、そして、近年のオウテカが何処までも沈み込むように見せる内省的な美しさに、近付く為の試行に見えて、ただの退行である。

 その「退行への対抗」として、UKインテリジェンス・テクノの始祖的存在でもあり、Plaidと暖簾を分け、今はSomaをベースに置くTHE BLACK DOGが3年間で200時間の空港でのフィールド・レコーディングを含み、ダブステップや最新鋭のビート・センスを混ぜ、冒頭に挙げたイーノの名盤のアップデイトをはかった『Music For Real Airports』が面白い。タイトル通りを想い聴くと、肩透かしを合うくらい、基本ビートレスでかなりドープなシリアスな内容になっており、空港でのレコーディングされた音も破片的に浮かびあがるだけで、かなり挑戦的な姿勢を貫いている。この作品が流れる空港こそ、想像さえ出来ないが、でも、今や空港とは誰かの移動の為のトランジションではなく、数多の人たちの不穏の折衷点でもあり、あらゆる恐怖が渦巻く明確なメタファーであるとしたならば、例えば、アドルノ言ったような、以下のようなレトリックが当てはまる。

 つまり、この音楽は、「音楽について語っているだけ」に過ぎず、しかしながら、対位法的な問いがもはや宙空化する「葛藤」を明顕しているような世界の状態性を均質化せしめる。生の硬直性が、不気味とも言える規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じている領域を反照しているならば、音楽の中での生とは今や、こんなに混乱したものに「なる」ということだ。人々への音楽への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである訳で、空港やイーノをモティーフとしながら、異形のこういった音を作らないといけなかったUKインテリジェンス・テクノの旗手の20年のキャリアの積み重ねの果てのヘビーな心境を考えると複雑な想いにもなるが、これが「空港」という場所を経由して次へと繋がる一歩とするならば、この作品が提示するシリアスさは決して時代とずれていない。次の時代もクリアーにしない。ただひたすらに宙ぶらりんな現在形のクライシスを投げ掛ける。その投げ掛けられたクライシスにビートは必要なかったという訳で、だからといって、アンビエントといった概念もメタ的に回避するとしたら、この作品が本当に求められる場所は何処なのか。タイトルの"Music For Real Airports"の意味が錯綜する。

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 去年の2月、ナイン・インチ・ネイルズとしての活動を停止させると発表したトレント・レズナー。「ウェイヴ・グッドバイ」と称されたフェアウェル・ツアーも盛況に終わり(ツアーの一環として、サマー・ソニック09にも出演したのが記憶に新しい)、とうとう隠居生活に入る...わけでは決してなく、塚本晋也監督の映画『鉄男 The Bullet Men』のエンディング・テーマとして曲を提供したり、ナイン・インチ・ネイルズとしてのライブ映像を公開したりするなど、水面下で積極的に活動していました。そこで突如、発表されたのがこの新ユニット、ハゥ・トゥ・デストロイ・エンジェルズ。

 英国のインダストリアル・バンドであるコイルのシングルから名前を拝借したこのバンドのメンバーは、先述のトレント・レズナー、その妻となった元ウェスト・インディアン・ガールのマリクィーン・マーンディグ、古くから『With Teeth』、『Year Zero』、最新作である『The Slip』などの作品のプロデューサーとして長くトレント・レズナーと関わってきたアティカス・ロスの3人。プロジェクトの構想自体はナイン・インチ・ネイルズが活動を停止する前からあったようで、「(新プロジェクトの)関係者の一人と結婚している」と公言していましたし、トレント自体、長いあいだ女性ボーカリストと仕事がしたいと言っていたので、ついにそれが実現した形になるようです。

 さて、サウンドの方は乾ききった電子音、ところどころで突如として残虐に放たれるノイズ、この世の不条理を暴き出したかのような無機質なインダストリアル・マテリアル...と、明らかにナイン・インチ・ネイルズのそれを踏襲したものになっています。これは、トレントがFacebookでの質問に答えたところによると、「ハゥ・トゥ・デストロイ・エンジェルズとしてのセッションの、最初期のものをあえて公開したいと思った」ところであるから、とのこと。そう言った意味で、今の段階では、バンドのイニシアティブを取っているのはトレントと認識しても間違いではないでしょう。とは言え、ボーカルに関しては、トレントは「Parasite」といった曲で、所々でコーラスをしているくらいで、そのほとんどをマリクィーンが歌っています。やはり、これはフロントマンとしての役割は、妻に任せると言う形でしょう。ここでのマリクィーンのボーカリゼーションも、インダストリアルなリズムに乗りながらも、単語を淡々と歌い上げるスタイルで無機質な触感をさらに増していて、冷たく不気味に感じさせることに一役かっています。

 バンドの世界観としても、ナイン・インチ・ネイルズを脱ぎ捨てて、殊更にハッピーになっている...と言うものでもありません。既に公開されている、アルバム始まりの「The Space in Between」のPV。ホテルのような建物の一室で、トレントが血を流して死に絶えていて、マリクィーンも同じくベッドにもたれて、血を流しながら淡々と無表情で歌詞を歌いながら、出火が起こり、マリクィーンを、部屋全体を燃やしていくという相変わらずの痛快な悪趣味で、やはりこれも、往年のナイン・インチ・ネイルズのそれを思わせます。

 現時点では先述のように、どうしてもトレント主体のバンドと思ってしまいそうですが、それは、このEPが「初期の賜物」であるからで、今現在、彼らはフル・アルバムとしてのリリースのため作曲、プロダクションに励んでいるのでマリクィーンのオリジナリティがもっと発揮されることも考えられますし、個人的にもコラボレーションとしての作品を期待したいところです。そして、「フル・アルバムが発表されたあかつきには、2011年頃にツアーもしてみたい」とトレントも意欲的な姿勢を見せているので、まだまだ目が離せません。

 ちなみに、この作品、通常版は無料で配信されており、有料版(2ドル)では、よりハイクオリティな音源と「The Space in Between」HD音源もついてくるとのこと。まずは何はともあれ、そのサウンドを世界観をご堪能あれ。

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 セルフ・タイトル、セルフ・プロデュースでの堂々たる復帰。この音、この魅惑的な声。1曲目「Between The Lines」のギターを一発聴いただけでストーン・テンプル・パイロッツ(以下STP)だとわかる。本当に様々なことがあったけれど、やっと「おかえり!」と言える。

 2008年、それぞれ別々に活動していたメンバー達が、なんとSTPとして再集結することが発表された。これには正直驚いた。なんせヴォーカル、スコットの度重なる薬物問題で、解散する数年前からメンバー間には亀裂が入った状態で、当時は逮捕、リハビリ、脱走、暴力といった悪いニュースばかりが続き、何度もツアーが中止になり、これではバンドが崩壊しても仕方ないと思わざるを得ない状況だった。そんな中でも良い作品を作ってくれていたけれど、これほど悪い状況が重なればもう修復は無理だろう...と思っていた。しかも再結成ライブから今作発表までは約2年を要しており、その間ひやひやしたファンも多かったことと思う。けれどこうして無事に届けられた新作は、9年の歳月を軽々と飛び越え、再び戻ることがわかっていたかのように、堂々と誇らしげな音を鳴らしている。

 このところ90年代のグランジ/オルタナティヴを代表するバンド達が次々とカムバックして、当時どっぷりだった私には嬉しい状況となりつつあるわけだけど、やはりグランジ/オルタナティヴというと、そもそも音楽性で括られたのではないということもあり、90年代という時代の空気感を色濃く映し出したジャンルというイメージが強い。再結成にはつきものの心配事ではあるが、グランジ/オルタナティヴには特に、やはり90年代の匂いがついてまわるのだろうか? 今の音を出せるのだろうか? という懸念があるのは確かだ。USオルタナの代表として挙げられるSTPも、少なからず当時の時代の波に影響を受けていただろう。

 しかしこのアルバムを聴く限り、彼らにはもはや時代感など関係ない。むしろブルースやカントリーの要素がこれまでよりも更に強くなり、影響を受けたというビートルズやレッド・ツェッペリンを思わせる60〜70'sの空気も漂っている。それは回帰や方向性の変化ではなく、自分達の中に根差した音楽を、ジャンルや時代に捉われることなく、ただただ自由に表現しているだけなのだと思う。様々な問題や衝突、空白期間を乗り越えて、結局は(いい意味で)収まるところに収まって、今とても自由になったのではないか。そして、同じく再結成したオルタナ勢のスマッシング・パンプキンズやホールがヴォーカル以外総入れ替えになったのと違い、STPはオリジナル・メンバーで戻ってきたということが何より大きいだろう。この作品から、自信に満ち開放感溢れる音を感じるのは、自分達の根底に流れる音楽を素直に表現すること、この4人でしか出来ないことを存分にやったからに違いない。

 元々幅広く独特の音楽性を持つバンドだが、今作ではますます広がりを見せていて、印象的なギターリフで「これぞSTP」と思わせる楽曲郡から、解散中の活動からの影響であろうハードロック色の強い「Fast As I Can」、スコットの歌声とピアノが美しく絡み合う「Maver」、ボサノヴァ調の「Samba Nova」へと繋がっていき、聴き終わる頃にはまるで別の作品かと錯覚するほどだ。その流れは、時が止まった9年前からそれぞれの経験を持ち寄った今現在に辿り着く時系列のようで、彼らが別々に生きてきた日々を音楽という形で表現しているようにも思える。アメリカン・ロックの豪快さ・軽快さと幻想的で繊細な美しいメロディ、猥雑さと突き抜けるような透明感、そんな正反対とも思える様々な要素をスコットの七色の歌声によって混ぜ合わせ、くるくると表情を変えながら、しっかりと「今」の音を鳴らしている。

 バンドとは不思議なものだ。あんなに人間関係が壊れていたはずなのに、ひとたび音を出せばそのバンドの音になるのだから。悪いニュースを耳にして、この人はいつ死んでもおかしくないと思った事もあったけれど、こんな風に同じ音を出せるのも生きていればこそ。こうして再びバンドに命が吹き込まれ、自由に音楽を奏でている彼らに会えたことを、純粋に嬉しく思っている。

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 オリジナル・アルバムとしては、およそ3年半ぶりの新作。彼女にとって本作は、2つの重要な意味を持つ。1つは、キャリア20年(1990年に嶺川貴子とのユニットFancy Face Groovy Nameでレコード・デビュー)にして、初の作曲・編曲に挑戦していること。そしてもう1つは周知の通り、結婚、妊娠、出産という、女性にとって非常に特別な時期に作られたということである。

 収録曲の半分以上が彼女の作曲によるもの。「月刊サウンドデザイナー」7月号でのインタビューによれば、作業は主にGarage Band(アップル社が開発した初心者向けの音楽制作ソフトウェア)を用いて行なわれ、驚くべきことにほぼ全てのアレンジまでデモの段階で作り上げてしまったという。前作に引き続きレコーディングに深く携わった大友良英とジム・オルークは、「ちょっとしたメロディの欠片を彼女が1つでも作ってくれば、後はアレンジで幾らでも何とか出来る」というふうに考えていたが、いざスタジオに持ち込まれた彼女のデータには、ギターやピアノ、リズムの細かいフレーズまで書き込まれていたそうだ。これには流石の2人も舌を巻いたことだろう。おそらく、今まで数多くのレコーディング現場や曲作りの瞬間に立ち会ってきた彼女の中では、すでに「曲を作るための準備が整っていた」のだ。

 レコーディングにメインで参加したのは、カリィ、大友(ギター)、オルーク(ベース、キーボード)に加え、山本達久(ドラム、パーカッション)、山本精一(ギター)の5人。ほぼ固定メンバーによってレコーディングされたことにより、まるでライヴ・レコーディング・アルバムのような統一感がある。2003年の『Trapeziste』辺りから徐々に現代音楽やフリー・ジャズ的アプローチを取り入れていった彼女だが、これまでの作品は曲により菊地成孔や小山田圭吾、ヤン冨田などコラボする相手を変えた、カラフルでヴァラエティ豊かなサウンドだった。それのに比べると本作は一見地味に感じるかも知れない。しかし、聴き込めば聴き込むほど各曲に散りばめられた音響的なアイディアや、アレンジの仕掛けに驚かされる。この辺り、全てのミックスを自宅のプライヴェート・スタジオにて手がけたオルークの手腕による部分も大きいはずだ。

 それにしても、なんて伸びやかで開放的な声なのだろう。「偶然のアクシデントや、演奏のミスでさえ積極的に取り入れていく現代音楽やフリー・ジャズに触れることで、曲を作ることへの気構えがなくなっていった」カリィだが、そうした心境の変化はヴォーカル・スタイルにも如実に現れている。決めごとの多いロック〜ポップ・ミュージックの世界から解き放たれ、自由に音と戯れる彼女の声には「強さ」や「逞しさ」さえ感じるほどだ。

 本アルバムで彼女が作曲に取り組む気持ちになったのは、やはり結婚や妊娠、出産が大きく影響しているのではないか。そう安易に予想したのだが、実は今の夫と出会ったのは、曲を作り始めた後だったそうだ。「曲を作ってみようと思うようになったことが、結婚や出産という環境へ自分を導いたのかもしれない」とカヒミは言う。「生きること」と「表現活動」が密接に結びついている彼女こそ、真のアーティストと呼べる存在ではないだろうか。

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 ここまでやってくれると逆に気持ちいいですホント。最初はキワモノ的なヒップ・ホップだなと思いながら聴いていたけれども、にゃはとポジティヴに笑える瞬間に溢れている。それはエイベックスとのメジャー契約を破棄したECDこと石田義則のラップが「今日の残高」や「しがないバイト暮らし」「CD自分で作って売ってる」など、歌詞は深刻だが、貧乏な自分の自虐をスキップしているような声でひょうひょうと飛び越えていく姿が爽快であって、ある意味、達観していると思えるからだ。正直サウンド・プロダクションはチープに思えるものの、その分、ラップがすこーんと耳に飛び込んでくる。

 とにもかくにも、これ以上ないほど等身大の貧乏な自分を発する石田。少し前に流行った「負け組」「勝ち組」という言葉が死語と化した今、いわゆる勝ち組がもう枕を高くして眠れないことは皆さんご存知でしょう。その言葉に対するカウンターも何気ない語気で「マネーは紙だ。口に入れても腹は膨らまねえ」と石田は何食わぬ顔で発するものだから痛快で、これまた、にゃはと頬が緩むのだった。

 しかし思うのは、「共感」にも2種類あるということだ。おそらく「マネーは紙だ。口に入れても腹は膨らまねえ」といった旨のソーシャル・カウンター的な言葉は聴き手の共感を生むと思えるが、それは誰もが共感できる言葉に過ぎないとも言えるわけで、僕としては「誰も気付いていないが、否応なしに共感させてしまうもの」を発してほしいと思う。つまり石田義則にしか見えていない心情を、風景を、共感させてしまうレベルにまで引き上げて、高らかと発してほしいと思うのだ。

 アルバム後半では文学的なラップも聴けるが、いや、そんなお高いものじゃなくて、貧乏な自分をさらけ出している石田の目には、僕らには見えていないものが映っているはずで、一杯の酒がどう見えているのか、金とは何か、もっと言えば人生とは何か。それを彼の独自の視点で斬ってほしい。

 本作は決して駄作ではない。かといって、とんでもない傑作でもない。しかし本作を聴く限り、彼なら説教臭さなど微塵も感じさせず、ひょうひょうと、そして重みを宿して世を斬り、リスナーが発見を感じる「今まで気付いていなかったが共感させられるラップ」をやってのけてしまえると思う。にゃはと頬を緩ませるほどのユーモアを交えて。

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 三月に三枚目のフルアルバム『Toparch』を発表したMiyauchi Yuri氏は、実は同時期に『本日の音楽集』というアルバムをHP上で無料配布していた。「新作アルバムにまつわるリリースブログを開催したは良いものの、ブログのネタが浮かばないので、曲を公開した」というのがアルバム制作に至る経緯なのだという。前作は、窓辺から環境音を拾い集め、そのアンビエンスからメロディをインプロヴァイズしていった----といえばスタイリッシュに聴こえるが、徐々に「環境音とインプロヴァイズ」という当初のコンセプトは霧散し、最終的にはまるで彼の日記のようなアルバムに変貌していた。結果、そのラフさが人懐っこく、『Toparch』と同じくらい聴きこんでしまったことは大声では言えない。

 今回の『ほんじつのおんがく集 2』は少しコンセプトを変容させて臨んでいる。ミュージシャンでも素人でも誰でもいい「おんがく家」に録音してもらった音を用いて曲を作るという、一種のコラボアルバムになっている。録音された音は、子供の声でも環境音でもメロディでも何でもいい(詳しくは彼のHPを拝見した方が良いかもしれない)。

 そんなバックグラウンドが起因しているのかもしれないが、今作には親近感を抱くというか、私達との距離がない。すぐ傍でギターが爪弾かられている。風がそよいでいる。子供が笑っている。温度が伝わってくる。そしてパーソナルなのに自己完結しておらず団欒としている。

 私はこの日記のようなアルバムが好きだ。本作は、音楽なのか音の欠片が散りばめられただけなのか分からないし、時間も労力も大きく費やされているわけでもない。それでもこのアルバムには「なくてもいいけど、あったらすごくいい」という彼の理念が豊かに実っている。ごちゃごちゃと情報を堆積させただけの音楽が胡散臭く聴こえてくる。晴れた昼間や夕暮れに是非。

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 音がひょっこりと現れる。こてん、と尻もちをついて、ころころ転がる。時にはちいさな雲みたいにゆらゆら揺れる。キセルの音楽はいつだって人懐こくて、手を伸ばせば触れられそうなほど身近にある。約2年半ぶりのアルバム『凪』もまた、警戒心の無い小動物みたいに聴き手にとことこ寄ってきて、音との遊びに誘ってくる。このフォーク・ミュージックは辻村豪文と辻村友晴の兄弟ユニット、キセルにしか作れない。

 ほのぼのとした『凪』を再生した途端にジャケット同様の涼しげな草原が目を閉じれば瞼の裏に浮かんでくる。カーテンを開ければその風景が目の前に現れるんじゃないかと思ってしまえるほどに。ゆっくりと歩いているような速度の楽曲のメロディは和やか。ゆるやかな曲線を描いているようなメロディに肩の力が抜けた歌声が乗っていて、メロディと歌声に沿ったアコースティック・ギターのサウンドがふわっとヴォーカルの上で広がり、浮かんでは消えていく。まるでキセルの二人が草原にすとん、と腰を下ろして太陽と一緒に歌っているみたいだ。

 本作は過去の作品と比べると、かなり音数が減り、ほとんど装飾されていない。「穏やか」という意味を持つアルバム・タイトル『凪』がそのまま反映されている。思えばキセルの作品のタイトルは音楽性を表していた。ファースト・アルバム『夢』で夢の世界をさまよい、セカンド・アルバム『近未来』で未来を想像し、続く『窓に地球』で未来を描いた。そんな彼らが『旅』を終え、『Magic Hour』の体験を経て、ひとまわりも、ふたまわりも成長した。そうして行き着いたところがリズム・パターンの多彩であっても、あくまでシンプルに聴かせるフォーク・ミュージック『凪』だったことは、高田渡を愛するキセルらしい。彼らは様々な要素を取り入れることが音楽性の高さに繋がる風潮があるシーンの中で、装飾に頼らない音楽の大切さを訴えている。

 手作り感覚の、輪郭がはっきりとした音の一つひとつと漂うような歌声の相性の良さが、音数を少なくしたことでより強く表れ、特に、ひゅーん、ぽろろん、という何気ないサウンド・エフェクトが、ベース音を強調した3曲目「夜の名前」で効いている。なおかつベース音には程よく湿った土を踏むような弾力があって気持ちがいい。わずかにサイケデリックな辻村友晴作曲のインスト「見上げる亀」を中盤に挟み、哀感ただよう「星のない夜に」への流れは曲名どおり夜の到来を告げ、続く「夕凪」では人との別れを歌う。曲順もよく練られていて、聴き手を飽きさせず気付けばディスクが回るのをやめている。

 弾き語りに近い本作の中にいるキセルの二人には隠すものなど何もない。天気の話でもするような調子で音を奏でる。過去の作品よりも自由に、平和に、なにより分かるか分からないほど静かに感情を込めて。その姿勢がごく自然に出会いの喜びや別れの哀しみを音に宿らせ、キセルの核にあるシンガー・ソングライターとしての気質をより浮かび上がらせている。そして二人の人間性まで伝わってくるのだ。もしフォーク・ミュージックが人間性を映す鏡だとしたら、キセルは一音に自分を宿せるまでに成長した。もうキセルは『夢』の中にはいない。『近未来』にもいない。生活の中にいる。それが、彼らが選んだ場所なのだ。かわいらしくて素敵な、でもほんの少し哀感を含む音楽。劇的な感動はないけれど、誰もがやさしい気持ちになれる。誰もがほほ笑む。だから聴きたくなる。だから聴いてほしいなと思う。

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 ザ・ビートルズ『White Album』とジェイZ『The Black Album』をマッシュ・アップした、デンジャー・マウスの『The Grey Album』、それに、ヴァンパイア・ウィークエンドやジ・アーキテクチャー・オブ・ヘルシンキの楽曲に新たな命を吹き込んだザ・ヴェリー・ベストのミックス・テープなど、すぐれたDJの作品は、楽曲の新たな側面や新鮮な驚きを僕らに提示してくれる。

 そして、またユニークなミックス・テープがここに。ディプロとスウィッチによるユニット=メジャー・レイザーの『Guns Don't Kill People...Lazers Do』と、ラ・ルーのセルフ・タイトル・デビュー・アルバムをマッシュ・アップ(そして一部の曲ではゲストMCをフィーチャーした)し作られた『Lazerproof』だ。

 まず、ジャケット画像を見てほしい。メジャー・レイザーの画像にラ・ルーが取り込まれている。だが、エリー・ジャクソンはその画像に十分マッチしているばかりか、特徴的な髪型が見るものに強いインパクトを与えることだろう。実際の楽曲のイメージをこのジャケ写のとおり。リミックスというメジャー・レイザーの土俵上にありながら、ラ・ルーの個性は一切失われていないのだ。

 例えば、ラ・ルーのNo.1ヒット曲「In For The Kill」を使った「Independent Kill」と「In 4 The Kill Pon De Skream」の2曲を聴いてみるとよく分かる。トラックはほぼ原曲そのままでヴォーカルのパートをまるまる、ヒューストンのラッパーであるキャンディ・レッド(Candi Redd)が担当している。一方後者では、一部ビートを入れ替えてはあるものの、同曲のスクリーム・リミックス版をほぼそのまま使用。ラストのスリリングな展開はそのままだ。きっと、ラ・ルーの歌メロの良さやファルセットの歌声はそれだけ魅力的だということだろう。

 だが、もちろんメジャー・レイザーだって負けていない。「Colourless Artibella」や「Cover My Eyes」は完全にレゲエのトラックとして生まれ変わらせているし、「Bulletproof」はよりドラマティックなトラックになっている。特に、アルバム後半では『Guns Don't Kill People..Lazers Do』でみられた猥雑なダンスホール・レゲエのビートでトラックを陽気に彩っている。まったく先を予想させない、変幻自在のビートには脱帽するしかない。これだけのクオリティを見せ付けられると、M.I.A.をはじめとする、ディプロとスウィッチによる今後のプロダクション・ワークに期待が高まるばかりだ。

 こんなにクオリティの高いミックステープがフリー・ダウンロードだとは驚きだ。ゲストMCもアマンダ・ブランクやラスコ、グッチ・メインなど豪華な顔ぶれが揃っているし、スルーしてしまったら後悔すること必至だろう。

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 マーティン・スコセッシ監督のライヴ・ドキュメンタリー『Shine A Light』では、3人のゲストがストーンズと共演している。バディ・ガイはブルース・ナンバー「Champagne & Reefer」で貫禄を見せつけ、クリスティーナ・アギレラは楽しげに「Live With Me」をミックとデュエット。そして、ブルースを21世紀に継承するジャック・ホワイトは「Loving Cup」をいつになく緊張気味に歌う。「俺は不器用だから、ろくにギターも弾けない(I'm Stumbling And I Know I Play A Bad Guitar)」という歌詞に合わせた演出なら、すごいのに。

 『メイン・ストリートのならず者』には、その映画のタイトルにもなった「Shine A Light」とジャックの課題曲「Loving Cup」が収録されている。オリジナルは、ウォーホールがデザインしたジャケットがカッコいい『Sticky Fingers』に続くアルバムとして1972年に発売。このアルバムのジャケットにも注目しよう。ビートニクの時代からアメリカを撮り続けてきた写真家ロバート・フランクによる「追放された者たち」のポートレイトが最高にいかがわしくてぴったりだ。税金対策のために母国イギリスから「逃れた」ストーンズが、ピアニストとホーン・セクションを引き連れてメイン・ストリートに立った。ブルース、カントリー、ゴスペルそしてサイケデリックまでも飲み込んだ「流れ者たち」の音楽を鳴らすために。「ならず者」もカッコいいタイトルだけど、「放浪者」というイメージで聴くと印象が変わる。これは音楽のロード・ムービーだから。

 そして、この音楽のロード・ムービーには続編があった。リマスターされて、なんとCD1枚分11曲のボーナス・トラックを追加して登場! DISC1のオリジナル・アルバムはルーズな印象をそのままに、解像度がぐんとアップした。キースのリフに絡むミック・テイラーのスライド、そしてギター・ソロの繊細さが素晴らしい。「Sweet Virginia」のブルース・ハープは、ミックの息づかいまで聞こえそう。こもった感じを残しながらも、太さが増したビル・ワイマンのベース・ラインとチャーリー・ワッツのドラムを追っかけてるだけで18曲なんて、あっと言う間だ。

 そして、未発表曲とアウト・テイクで構成されたDISC2も聞きどころ満載。「Pass The Wine(Sophia Loren)」はラフでファンキー。壮大なバラード「Following The River」にはストリングス・アレンジでベックの親父デヴィッド・キャンベルが参加。「So Divine(Aladdin Story)」のイントロはまるで「Paint It Black」みたい。どの曲も完成度が高い。それもそのはずで、クレジットにはなんとドン・ウォズの名前がある。つまり、これは未発表曲を最新技術でアレンジし直したもの。発表するからには、歴史的価値よりもクオリティを重視する。そんなストーンズ(たぶん、ミック)の転がり続ける石ころっぷりは不変。要するに新曲じゃん!

 「ロックの名盤」だとか「ストーンズの最高傑作」だとか言われているこのアルバム。まだ聴いたことがないなら、自分の耳と心で確かめるべき。2枚組で3800円はちょっと高いけれど、その価値は充分にある。リマスタリングされた最新の音質から聴けるなんて、最高だと思う。未発表曲も新曲だと思って聴けば、余計な予備知識なんていらない。ただ楽しめばいい。

 ストーンズはこのアルバムの後、『山羊の頭のスープ』を煮込むためにジャマイカへ飛ぶ。ロバート・フランクはなぜかニュー・オーダーの「Run」のPVを監督している。放浪者たちの旅は楽しそうだ。

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「なんという上演か。世界がそこに含まれている」。

 マラルメの言葉を借りなくても、1988年から10年以上もの歳月をかけて撮った『映画史』という作品には世界が「含まれている」。たった4時間半程の中に、チャップリン、ヒトラー、ロッセリーニなどの亡影が交錯して、ゴダールの子供時代の顔がぼんやり浮かび、ストラヴィンスキー、バルトークといった交響曲が、断続的に切り入れられる。開扉と回避。相対と総体。緻密な網の目から零れ落ちる映像が沈黙する瞬間さえ、歴史が映り込んでいる。戦後、既に撮られ尽くされてきた様々な映画に対してのメタ認知を行なうべく、ヌーヴェル・ヴァーグ期の映画監督たちは紆余曲折して、実験・試行して、その後、彼等はそれぞれの道を往くようになったのは周知だろうが、ゴダールは一番の「被害者」でもあったのはあまり知られていない。

「被害者」という表現に関しては、69年『東風』辺りからのジガ・ヴェルドフ集団期の何作かを想い出すと早いかもしれない。50年代末期から60年代の半ばにあった軽やかさはそこに全く無く、息苦しささえ漂う自家中毒的な状況がそのままに転がっていた。また、結局、お蔵入りした『勝利まで』という作品などはアジテート映画を創ろうとしてパレスチナまで行き、しかも、そのパレスチナでフィルムにおさめた戦士たちは全員、殺されてしまうというトラジェディーも生み出すという悲惨な結果さえも「巻き込んだ」。その戦士の一人一人の「死」と対峙する中で、1976年の『ヒア&ゼア』が現前化した。そのヒアが、何でゼアが何なのか、ここで語るまでもないが、ここで大事だったのは「&」なのは確かだ。左的なロマン主義へ純然と埋没する自分を高次でアウフヘーヴェンすべく、メディアの可能性的な溝を埋める為に「間」を置いた。その「間」を突き詰めた『映画史』はだからこそ、悲痛ではないし、その後のゴダールの完全なる復活の狼煙を立てるには余りある評価を付加した。ナチス・ドイツ-ユダヤ人、イスラエル-パレスチナ人の断線を執拗に彼は追い続け、映像に刻印して、20世紀を「なかったこと」には絶対しない。そこに鏤められる幾つものモティーフ、セルフ・パロディーはゴダール自身のスティグマをどう治癒するかどうかではなく、どう膿ませるかどうかの実験でもあったと言える。「1968年のレフト・アローン」という言葉が醸した「アローン」は結局、その字義通り、彼を一人にさせた。ただ、独りにはならなかったという訳だ。

 だから、2004年には『アワーミュージック』という傑作を上梓したのだ。「アワー」にはゴダールは含まれており、世界も含まれていた。ダンテの新曲をモティーフにしながら、「女の子」を撮りまくるというクールネス。セクシャルな映画であり、映画館で観た僕はゴダールのカタルシスのポイントがロマンティシズムとエロティシズム以外の何物でもないことを確信したという意味は大きかった。

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 クエンティン・タランティーノの一時期のプロダクションの名前は「A Band Apart」と言い、これはつまり、ゴダールの64年の「はなればなれに」(原題:Bande A Part)を英語読みした訳だが、兎に角、ゴダールを語るには映画内・内文脈の葉脈を考えると、眩暈を起こしそうになるくらい、複層的に入り乱れている。

「複層的にしてズレてゆくフィルム片」という概念で輻射してもいいと思うくらい、ゴダールほど、アフォリズムとスキゾ的なクールさと思考停止に塗れて、それでいて、しっかり評価された上で、神棚にも祀られない監督も珍しい。ゴダール節とも言えるシーン内で急に音楽が盛り上がり、突然で途切れたり、全く俳優陣と関係ない部分で船酔いのように揺れる効果音など、それはカット・アンド・ペーストが当たり前になったモダン以前に彼は行なっていて、初期の短編などは、彼は自宅のバッハやヴェートーヴェンのレコードを援用して勝手にカットアップを行なっている節がある。54年~58年の短編(『コンクリート作戦』、『コケティッシュな女』、『男の子の名前はみんなパトリッシュ』、『シャルロットのジュール』、『水の話』)に関しては音楽以外にもアイデア一発で創られており、習作の域は全く出ていないものの、何故かその後の奔放無頼な活躍を期待させる萌芽はある。その後に、すぐ例のヌーヴェル・ヴァーグの決定打と言える『勝手にしやがれ』が来る訳で、ゴダールは自分で自分を試していたのではないか、とさえ僕は邪推してしまう。つまり、ゴダールとはゴダール自身をメタ対象化するのが巧い映画監督なので、自分がどう撮るかよりも、如何に映像に自分が撮られるかを意識しているところはあり、結果的に彼のフィルムというのはいつも批評的になってしまうのはシビアな意味で言うと、他の映画監督と比して「中に入り込めない」からだとも言える。だから、1959年の『勝手にしやがれ』のあのジャン=ポール・ヴェルモンドとジーン・セバーグとの冗長なベッドでの会話シーンなどは意図ではなく、投企だろう。あれによって、ストーリー全体の間延びした感じに「退屈」というスパイスを加味する事が出来て、歴史の中でも燦然と輝く物憂い温度感を全体に焼き付けた。ジャンプカット、即興演出、瞬時の映像のアドリヴの際立ち。

『小さな兵隊』以後のアンナ・カレーナ期の作品はただ、女として彼女を押し出そうという明確な意味があったが故に、作品のレベルとしては傑出してはこないが、ミシェル・ルグランと組んだ1961年の『女は女である』はカオティックな美と破綻したストーリー、自棄気味な音楽の絡み合い方が高度に結晶化されており、大きなハーヴェストだった。1965年の『気狂いピエロ』は別格としても、そこから自家中毒の捻じれをもたらしていく方向性を進まざるを得なかったのは先に書いた通りだろう。モダンをブレイクスルーする為にはポストを置けなかった。だから、彼はモダンを遡及した。遡及していった結果、『新ドイツ零年』、『映画史』、『アワーミュージック』という作品をものにして、2010年の新作がなんと『ソシアリスム』というタイトルだ。

 この『ソシアリスム』は果たして、老境に差しかかったゴダールにとってどのような意味を持つのか、考えて身構えると、それに応じた充実した重みを与えてくれる訳では無く、ゴダールの被害者性が表象される内容になっていると察せられる。今のゴダールに対峙することは、モダンをどう越えるか、モダンの前で立ち止まるか、ポストモダン側からモダンを見返すか、なんていった、幾つかの事項を脱化してくるストレートな映画へのパッションと今のヨーロッパを巡る懐疑の想いが幾重にも重ねられたものになっているに違いない。ゴダールはおそらく、全部忘れないのだ。そして、観る側はいつもゴダールを忘失してしまう。その「間」の点で、ゴダールはまだ生き続けるのだと思う。ForeverとはFor everと分けられる。ゴダールもいつも「瞬間という永遠」でフィルムを廻し続けているのだ。この作品をして、ゴダールは漸く大衆的な映画監督としての椅子に座る事が出来るのではないだろうか。彼の前に神棚なんて元々無かったのを皆が気付きだしているタイドと呼応した上での、老境の彼のアンコール的に見えた本編としての本当の意味を想い知らしめるだろう。

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 大感動の初来日からもうすぐ一年、サマーソニックでの再来日(東京のみ)も決定しているナダ・サーフから届けられた新作はカヴァー集。これまでもザ・ディービーズ(The dB's)やピクシーズなどの楽曲を取り上げてきた彼らだが、本作も音楽オタクを唸らせる通好みな選曲となっている。彼らが影響を受けてきたであろう大御所アーティストから、スプーンのような同世代バンド、ソフト・パックのような若いバンドの楽曲まで、音楽への愛がひしひしと感じられる選曲になっている。

 原曲のメロディの良さを活かしながら、しっかりとナダ・サーフらしさの感じられる演奏になっている曲が多いが、ムーディー・ブルースの「Question」のカヴァーのように、大胆にパワーポップ風にアレンジされている曲もあり、聴き手を飽きさせない。かつてスピンアートから作品をリリースしていたビル・フォックスなど、地味ながらも素晴らしいアーティストの楽曲が選ばれており、興味を持った方はこの機会に是非オリジナルと聴き比べてみてほしい。

 日本盤ではボーナス・トラックとして、昨年のナノ-ムゲン・フェスティヴァルでのライヴ音源と、アジアン・カンフー・ジェネレーション「ムスタング」、少年ナイフ「Bear up Bison」、スピッツ「空も飛べるはず」などのカヴァーが追加収録されている。

編集部より:近日中にインタヴューをおこなう予定です。この素敵なアルバム・タイトル(『If I Had A Hi-Fi』つまり「もしぼくがステレオを持っていたら...」)についても尋ねる予定ですし、それがアップされる際に、より詳細なカヴァー曲のラインアップも紹介します。

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 決して「にーにーにーぜろず」とか、言わないように。「トゥエンティートゥー・トゥエンティーズ」だからね。声に出して言ってみると、とってもカッコいい!そして僕は純粋に「トゥエンティートゥー・トゥエンティーズが帰って来た!」と声を大にして言えることが、とても嬉しい。スキップ・ジェームスというブルース・マンの「22-20 Blues」という曲から名付けられたバンド名であることは、みんなが知ってる通り。そんなブルースの世界に魅せられたキッズたちが、たった1枚の(最高の!)アルバムを残して僕たちの前から姿を消して6年になる。それは活動休止ではなく、解散という2文字で伝えられた事実。若くしてブルースの虜になった彼らは、21世紀のクロス・ロードの真ん中で「悪魔に魂を売る」こともなく、別々の道を歩むことを選んだ。そこに伝説はなかった。現実として、憔悴しきっているその姿がとても痛々しかった。

 6年前には想像もできなかったこと。それはクロス・ロードの先が、ひとつにつながっていたということ。たどり着いた先には、悪魔も神様もいない。もう一度、22-20sと名乗るために自分たちだけがいた。そして、この『Shake/Shiver/Moan』が最高だってこと。オリジナル・メンバーのマーティン・トリンプル(Vo/G)、グレン・バータップ(B)、ジェームス・アーヴィング(Dr)の3人にギターのダン・ヘアが新たに加入して、22-20sが本当に帰って来た。

 とてもカラフルなアルバム。ロックという音楽そのものがブルースを基礎として様々なスタイルを飲み込んでいくように、22-20sもそれぞれの6年の間に進化していた。揺らぐことのないブルースこそが核になっていることは間違いないけれど、より豊潤になった表現方法がどの曲にも色彩を与えている。2本になったギターの絡み合いが耳を奪う。前作よりもメロディアスになった歌が心に届く。
 シンプルなカッティングと不穏なサイド・ギターの響きが印象的な「Heart On A String」から、22-20sの第2章は始まる。全速力で突っ走るドライブ感がたまらない「Latest Heartbreak」、グルーヴするブルースのタイトル・トラック「Shake, Shiver, And Moan」、バーズを思わせるギター&メロディの「Ocean」と「Let It Go」、そして「4th Floor」や「96 to 4」のようにポップな曲もある。ラストの「Morning Train」は、アコースティックなアレンジが秀逸。どの曲も最高にカッコいい!「ぶっちゃけ、1st聞いてません」「ブルースって苦手かも」という方も「Ocean」だけでいいから聞いてみて!名曲だから。

 6年前には想像もできなかったこと。それは、こんなにも最高なアルバムで、もう一度出会えるという奇跡。1stとこのアルバムの曲を織り交ぜたライブは、どんなことになるんだろう?ひとつにつながったクロス・ロードの先には、フジロックの2日目もある。そして、その先もずっと続くはずの道が見える。22-20sの帰還を心から祝福したい。

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「エロい」と「セクシー」は違うらしい。チノの歌声を評して「エロい」と言う表現を使う側の意図としては、上品であろうが下品であろうがそんな品位などには余り意味を置かずに使っている筈である。時にピュアな怒り、時にナスティな下心を曝け出したりと自身の内面を抉り取ったようなボーカリゼイションであるが故に、受動する側の感情の襞を振動させる。そこには下品や上品などの隔てなど無い、解放された感性に満ちる妖しさが充満するのだ...。

 何よりその歌声を引立たせているのは彼らの音楽性であるのは言うまでもなく、オルタナ/メタル・シーンとは本当の意味で一線を画している事をこの凡そ4年ぶりのアルバムで証明してみせたのだ。そもそもチーム・スリープでピンバックのロブ・クロウらと共演したりとインディー音楽通の間でもその特異性は知れ渡っていたのだが。

 タイトで鋼鉄的なギター・リフは一聴すれば完全にUSラウド/メタルなのだが、キャッチーになり過ぎないダウナーなコーラスや、やや捻りを加えたリズム・パターンはそこらのキッズには勿体ないアダルトな内容。

 特に8曲目に収録されている「Sextape」ではドリーム・ポップや初期シューゲイザーなどの影響を公言するかの如く、浮遊感漂うメロディに歪んだギター・サウンドが揺らめいていて...もうこれは確信犯。更にはシングル曲「Rocket Skates」をフランスのシューゲイザー・ユニットのM−83がリミックスを手掛けた経緯もあることからも間違いない(アルバム未収録)。

 とは言えチノ本人よれば『ホワイト・ポニー』からの3作品の実験的なアプローチではなく、セカンド・アルバムの『アラウンド・ザ・ファー』に近い仕上がりとの談だが、確かに6曲目の「Prince」のイントロの質感は上記作品の「Mascara」を彷彿とさせるし、3曲目の「CMND/CTRL」では、ここ最近聴かれなかったあの頃のヒップな感覚が戻ったかのように心身をバウンスさせる。

 ベーシストのチ・チェンが回復しないままサポートに元クイックサンドのセルジオ氏が加わり制作されたが、これで万全の状態でチの帰還を迎え入れる体勢も整った。そして余談だがチノも痩せた!

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 実際のムーヴメントとして意味があったと思うが、06年程から起きたニュー・レイヴに個人的に積極的には乗ることが出来なかった。それは、「ファッショナブル過ぎる」という文脈ではなく、健康的なパトスが当時のクラヴに溢れていて、原色、蛍光色系の服で身を纏った若人がクラクソンズやCSS、ホット・チップ、等のクールなサウンドに合わせてスイングする様は気分的に悪くなかったし、ふと混じるマンチェスター・サウンド、アシッド・ハウスへのレファレンスを示した音にも懐かしさを感じたのも事実だ。ただ単純に、元々、レイヴとはもっといかがわしさを帯びており、歪みが少ない点が気にもなって、実際、表層的なカルチャーのうねりに還っていく中で、実効性を喪っていったのを傍目で見ている分に辛さを感じたというのが大きい。

 デリダがバイザー効果という概念を提示したが、そこでは「見る/見られる」の関係を分析していた。そもそも「亡霊」とは、魂と肉体の二項対立を考えたときに「精神は魂でも身体でもないと同時にその双方でもあるといった"モノ"となる」と命名しがたいモノとなる精神のことを差した。要は、彼は二項対立の図式で考えた時にそのどちらでもなく、どちらでもないという差異を発見する作業を行った。また、「人が知という名のもとに了解していると信じているものの管轄には属していない。それが生きているのか、死んでいるのかは知られていないのである」と言ったが、これこそが「共時性を解体し、錯時性にわれわれを引きもどす」という、バイザー効果の理由付けとするならば、僕は明確にニュー・レイヴをして「亡霊」を視るような錯時性を持っていた。だから、「喪に服すように、躍っていた」自分は常に時間に、引き裂かれていたと言える。

 また、プロディジーがニュー・レイヴに否を唱えていた理由も分からないでもない。元々のレイヴが持つ一夜限りの「絶望的ではない、饗宴」は希望を示唆しなかった代わりに、閉塞した「今日」の順延をせしめたと言えるものの、ニュー・レイヴには「明日」はあったが、「今日」が無かった気がする。<非・日常>がレイヴではなく、実のところ、クラウドが日常に虚飾を巻いて、その瞬間に自己の忘失を描こうという背景があるとして、記号に何らかの名称を付けるべきではなかった。

 僕はもう少し記号的なダンスをしたかったと言えば、少しメタ的になるかもしれない。その意味で、ニュー・レイヴ的な渦の中で、どうにも気分が滅入るのも確かに現前していた。

 そこでの異端の異端にして救いがクリスタル・キャッスルズだったところはある。カナダはトロントのアンダーグラウンド・シーンから出てきた安っぽいエレ・ポップを鳴らすユニット。ノイズ・バンド出身のボーカルのアリスとガレージ・メタル・バンド出身のイーサンのトラッシュでニート(Neat)な音は何もかもから浮いていたし、ニュー・レイヴ勢にも、デジタリズム、シミアン・モバイル・ディスコ、ジャスティス辺りのニュー・エレクトロ勢にも、「含まれる」ことがありながらも、全くの違和の塊としてはみ出していた。そもそも、彼等のフェイヴァリットはヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、ジョイ・ディヴィジョン、ソニック・ユースな故に、自然とはみ出すのは当たり前なのだが、「Crime Wave」辺りの耳触りの良さが誤配を生んでしまったのかもしれないし、かなり振り切ったライヴをするのと比して、音がコンパクトで小綺麗だったのも問題があったのだろうか。

 その後、必然的に、ニュー・レイヴ勢は停滞し、代表格のクラクソンズの次の一手を打ちだせないという状況下、シーンは明らかにシフト・チェンジした。アンダーグラウンド・シーンの充実と相反するように、表層的なレイヴの狂騒は疎外されていき、ロック×ダンスといったタームも衰微していった。そこで、届いた彼等のセカンドが実に美しい出来になっているのには、或る程度、想像は出来たといえ、嬉しかった。ローファイな質感と、シンセのたおやかさは磨きがかかり、咆哮系の曲よりも、ニューオーダーや初期のデペッシュ・モードを想わせる耽美なニューウェーヴ的な意匠の曲が断然、良い。「Celestica」などまさか彼等の曲とは思えないほどポップで、リトル・ブーツやラ・ルー辺りのサウンドさえも彷彿させる。しかし、打ち消すような変則ビートの曲やゴシックなムードも随所に挟み込まれ、異質感を耳に残す。アイスランドの教会、デトロイトのコンビニ裏のガレージ等を渡って録音されたというのも含めて、散漫さを否めないながらも、ロマンティックなまでに頽廃的な意志を前景化させた深化作と言える。

 個人的に、もっと傍若無人にフリーキーに振り切って欲しかったとも思う部分もある。だが、おそらく彼等の事だから、またそれさえも裏切るような展開を見せてくれる事を確信させてくれる透いたREBELに溢れているという点は評価したい。

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"See? Hamster on my mouse mat. (Sounds like a morrissey title...)"

 これはトレイシー・ソーン本人による5月30日のツイート。きちんとTwitpicで写真も添えられている(マウスマットのうえ、PCのマウスの隣で餌を齧っているハムスターちゃん)。たしかに"Hamster on my mouse mat "はモリッシーのアルバムのソングリストに並んでいても収まりがよさそう(イヤーな感じの歌詞が目に浮かぶ......)。大好物のドーナッツやハムスターの話題を彼女はたびたび挙げている。

 一方で、少し遡って5月14日には、グリーン・ガートサイド(スクリッティ・ポリッティ)から作品を賞賛するメールが届いて冷静さを失っている様子もツイートされている。英ガーディアン紙に掲載されたインタビュー上においても、彼女のドライな筆致で記されるユーモラスな一面は" one of the most entertaining musicians on Twitter "と評されているが、それにしてもモリッシーにグリーンにトレイシー。なんと素晴らしい2010年っぷりだろう。ポストパンク・ジェネレーション万歳!

 そんな彼女のソロ名義としては2007年リリース『Out Of The Woods』以来三作目となる本作は、先述のチャーミングな姿が一見ウソみたいな、渋みと苦みに溢れたアダルト・オリエンテッドな内容に仕上がっている。そのタイトルからして重い。『愛とその裏側』。ことプライベートにおいては、かの偉大なるエヴリシング・バット・ザ・ガール結成以降、長年パートナーとして歩みを共にしてきた(2009年、ついに結婚!)ベン・ワットと、彼の病気など七難八苦こそあれど愛に溢れた生活を過ごしてきたイメージのある彼女の今作における作風は意外といえるし、実に興味深い。

 冒頭の「Oh! The Divorces」は離婚について歌い("次は誰? 次は誰の番かしら?")、次の「Long White Dress」ではマリッジ・ブルーを("それって私の勝手な思い込み?")、さらに三曲目の「Hormones」では母子の在り方の難しさを歌っている("あなたの場合は思春期の、私の場合は更年期のホルモン・バランス。あなたはトンネルに入ったばかりで、私はそこから抜けるところ")。独り者の集うバーで失った若さを嘆きながら手入れの行き届いた爪を見つめ、見通しの立たない救いを求める「Singles Bar」のような曲も収められている。トレイシー本人曰く「40歳を過ぎてからの人生についての作品」とのことだが、不安定な大人の現実がここではことさら厳しく率直に描かれている。

 プロデュースは前作に引き続きイワン・ピアソンが担当。デルフィックやM83『Saturdays = Youth』といった作品のプロデュースや多彩なリミックス・ワークでも知られる、本来はエレクトロニック畑の人物だが、本作では過度の装飾は控えられ、シンプルなSSW作品としての方向性が徹底されている。ホット・チップのアル・ドイル(ナード軍団のなかでは比較的マシなルックスの、ギター担当な人)をはじめとしたゲストも素朴なアレンジに華を添えている。メジャーを離れ、ベン・ワットのレーベル<Strange Feeling>からリリースされたのも功を奏しているのかもしれない(ちなみにアメリカではインディーの一大勢力として盛り返しつつある<マージ>から)。

 歌詞の世界観が過酷だからといえ、本作は心の傷口をライターの火で炙る類の作品では決してない。トレイシーの低く通った歌声は昔より丸みを帯びて慈愛の響きに満ちつつも、28年前の『遠い渚』から変わらず優しく寄り添ってくれる(国内盤でボーナス・ディスクとして収録された5曲入りのデモ音源は、彼女の表現がブレてないことの証明という意味でも聴き応えがある)。同じポストパンク世代であるフォールの新作における変わらぬ破天荒さも爽快だったが、年齢にふさわしい彼女の成熟も愛おしすぎるほどに愛おしい。そして本作にはきちんと救いも用意されている。最終曲の「Swimming」は厳しい世の中に生きる人々の心の闇をほんの少し照らしてくれるような内容になっている。

"Right now we are just keeping afloat
 But soon we'll be swimming,swimming"
("今はただ流れに身を任せ、漂っていればいい。
だけどもう少し、もう少しすれば泳ぐようになるから")

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 心配御無用。安心すべし。もはやフィード・バック・ノイズの奏での中で、浮遊感のあるメロディと歌声を軸とする音楽性が定型化し、その音楽性を絵に描いたように押し出すバンドが溢れかえっていようとも、海外でも活動し評価を高めている日本の5ピース・バンド、コーカスがいれば大丈夫なのだ。コーカスもまた同じような音楽性だが凡庸なところはなく、これからのフィード・バック・ノイズ・ミュージックとでも言うべきサウンドを、新たな次元へと昇華するであろうと、彼らの「Going For A Lonesome Dream」EPを聴いて、僕はガッツ・ポーズをとったのだった。

 このバンドのサウンドを聴いたのは本作が初めてという腑抜けな僕だが、だからこそ衝撃度が高かった。懐に切り込むノイズ。かと思えば頭上でノイズが渦を巻く。しかもそのノイズの質感といったら無添加無農薬の野菜のようにサッパリとしていて、少々不格好な味がある。格好付けるのもいいのだが、やはり、不格好なロックは燃えるよねと、本作を聴いた僕は言う。英語を日本語のように平らな発音にした上手く使った歌声が功を奏し、すっと胸に沁み入って溶け込んで、僕はそのセンスの良さと清々しさに心打たれた。なおかつ、ときどきおどけた表情を見せるヴォーカルの余裕にニヤリとなり、「してやられた」と舌を巻く。静かに燃えるサウンドにユーモアを交えるという巧妙な「Going For A Lonesome Dream」EPは、フィード・バック・ノイズを武器とする多くのバンドの中にあって異彩を放っている。

 録音にROVOや大友良英を手掛けた近藤祥昭を起用。ミックスとマスタリングは藤井真生ということもあり、サウンドの質感、構築法に関して巧妙でエスプリが効いている。初めて聴いてもビュンと突き抜けるサウンドの心地良さは、じわじわと、ではない。瞬時に伝わる。それでもぜひ何度も聴き込んでほしいと思う。音の一つひとつが練られているのだ。

 音楽性は全く異なるけれども本作を聴いたとき、僕はザ・バーズのファースト・アルバムを聴いたときの気持ちになった。これから何か新しいことが始まる予感。未来はきっと輝いているだろう。そんなふうに思ったのだった。いや、きっと聴き手にこの作品はそう思わせてしまう力があるのだ。未来は「今」という無数に訪れる瞬間の連続によって成り立っている。だからこそコーカスは「今」を楽しませる。「今」の気持ちを豊かにする。しかして希望を感じさせる。僕は言いたい。この作品を「今」聴こう。「今」を聴き続けよう。

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 2010年は、USのインディ・ロックにおいて記念すべき年になるのではないだろうか? なぜなら、USのインディをメインにしたがるピッチフォークでベスト・ニュー・ミュージックを獲得する作品が続出しているから。それに、ヴァンパイア・ウィークエンドやMGMTといった事前に大きな期待を集めてきたバンドがクオリティの高い新作を発表し、チャートでも大成功を収めている。だが、まさかこのバンドもここまで凄いことになるとは僕はまったく予想していなかった。そのアルバムとは、ブルックリンを拠点とする5ピース、ザ・ナショナルの5枚目となるアルバム『High Violent』だ(この作品もピッチフォークでベスト・ニュー・ミュージックに選ばれている)。

 ザ・ナショナルの特徴を簡単にいうなら、ポスト・パンクの鋭角的なビート×ゴシックな雰囲気。それは『High Violet』でも存分に発揮され、漆黒の闇が作品のなかに広がっている。また、このアルバムでは、スフィアン・スティーヴンス(前作『Boxer』に続く参加)やボン・イヴェールなどのゲストミュージシャンが参加、非ロック的な楽器を導入することでカントリーやフォークなどのルーツ・ミュージックの深みを取り込み、オーケストラによってサウンドスケープのスケールをぐっと増している。いわば、アーケイド・ファイアとウィルコが一緒になり、ジョイ・ディヴィジョンの曲をプレイしているようなもの。間違いなくこれはアメリカ人にしかできないものだろう。

 加えて特筆すべきなのは、暖かい人肌の温もりだ。それを生み出しているのはリリックと歌声だろう。レナード・コーエンとトム・ウェイツ、ブルース・スプリングスティーンからの影響を感じられる、ロマンスやシニカルなユーモアを綴った文学的な歌詞は、ヴォーカルのマット・バーニンガー(Matt Berninger)のペンによるもの。『High Violet』でも、マットは溢れんばかりの感情が詰まったバリトンで高らかに歌い上げ、ハーモニーがそれを優しく包み込んでいる。

 アルバムは、穏やかなイントロから滑り出し、ダイナミックなドラマツルギーがほとばしる「Terrible Love」でスタートする。その後の曲もドラマツルギーに満ちたものばかりだ。うなるようなキーボードから一転、静寂をへてオーケストラとファズ・ギターがぶつかり合う「Little Faith」や、シングルにふさわしい力強いビートや高揚感がありアンセミックな「Bloodbuzz Ohio」、脈打つようなドラムが印象的な「Lemonworld」などが続く。そして、「England」でクライマックスを迎え、「Vanderlyle Crybaby Geeks」にて厳かにエンディングとなる。すべての曲をつなぐものこそ何もないが、このアルバムはまるで1本の映画。それも、摩天楼の一夜を描いたようなスペクタクルな内容で、ただただ気高く美しい。

 この『High Violet』は世界中の音楽メディアから大絶賛で迎えられた。しかも、セールスにおいてもビルボード総合チャート初登場No.3に輝くという快挙を成し遂げた。確かに、3rd『Alligator』(2005年)とそれに続く『Boxer』(2007年)では英米の音楽メディアでその年の年間ベストを総ナメにしていた。とはいえ、この快進撃には驚くばかりだ。結成から10年あまり。長いキャリアをかけてザ・ナショナルがたどり着いた、ひとつの到達点となるこの作品は、2010年のUSを代表する1枚になるはずだ。

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 このメイル・ボンディング(Male Bonding)はイギリスはダルストンの3ピースで、現在ザ・ビッグ・ピンクでドラムを担当しているアキコ嬢がかつてヴォーカルを務めていたバンド=プレ(PRE)の残りのメンバーによって結成されたバンドだ。

 だが、残り物というなかれ。2007年に活動を開始して以来、ペンズ(Pens)やダム・ダム・ガールズとのスプリット・シングルをリリースしたり、ヘルスやザ・スミス・ウエスターンズ(The Smith Westerns)、ザ・ソフト・パックなどとツアーを行なったりしてきた実力派だ。

 と、ここで「ん!?」と感じた方もいるかもしれない。そう、上記のバンドはすべてUSのバンド。このメイル・ボンディングはいつしか本国UKよりUSでの人気が高まってきた珍しいバンドだ。というのも、彼らの音楽を簡単に言ってしまえば、グランジ・リヴァイヴァルだからだ。ハスカー・ドゥやダイナソー・Jr.を思わせるジャングリーでノイジーなギターと、ラモーンズやバスコックス譲りのポップなコーラス&フックの効いたメロディのサウンドはUKよりUSのほうがしっくりくるし、USでは名門サブ・ポップと契約しているのも納得がいく。

 そんな彼らのデビュー・アルバムがこの『Nothing Hurts』。全13曲ながら、30分にも満たない長さだ。ギタリストでシンガーのジョン・アーサーは「長い曲は好きじゃない」とコメントしているが、まさにその通り。3分を超える曲は一切なし。直線的でポップなメロディが一気に駆け抜けていく。

 ザクザクと切り刻むようなギター・リフの「Year's Not Long」でアルバムはキック・オフ。以降、地響きのようなドラムがこだまする「Franklyn」、歌うようにメロディックなギターとツイン・ヴォーカルの「Weird Feelings」、ヴィヴィアン・ガールズをフィーチャーした「Worse To Come」など、ノイズと2分間の制約がありながら収録曲は非常にヴァラエティ豊かだ。歪んだ轟音が鳴り響くサウンドは、まるで90年代のシアトルにタイム・スリップしたように感じられる。決して斬新ではない。だが、人をひきつけられずにはいられないパワーと魅力がメイル・ボンディングにはある。

 自国びいきでイギリスのバンドには辛口評価のピッチフォークがこのアルバムをベスト・ニュー・ミュージックに選出。このままアメリカのインディ・キッズを熱狂させてほしいと願うばかりだ。

補足:日本盤は6月16日リリース予定となっています。

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 アップルズがSpaceとTimeをTravelするのだから、期待通りの直球アルバムであった。彼らが本来備えていたポップさが、電子音を介することによってよりカラフルに彩色されており、潔いほどの直接さが伝わる。車内のラジオで流れでもしたら、それだけでもうドラマティックな雰囲気を演出できるだろう(高速道路推奨)。

 甘酸っぱいメロディセンスや、ロブ・シュナイダーのハイトーンな声という要素らは、良い意味でAORを彷彿とさせる。曇りのない曲達はしかし、夢と希望だけを詰め込んだ理想世界を能天気に紡ぐわけではない。シニカルさというか、酸いも甘いも含ませたポップ感とでも表現し得るのか、馬鹿騒ぎに耽っているわけではない。考えてみれば、メンバーらも若くはない(ロブの声と外見のギャップをとやかく言うつもりはない)。直球サウンドであってもそこに簡素という文字はないのだろう。

 冷たいコーラや窓から注ぐ風のような、気持ちの良いアルバムだ。ここにきてキーボーディストを導入する創造への探求心にも頭が上がらない。ポップとは? という命題に対する一つの理想的な解答である。

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 90年代半ば頃からヴァージニア州フレデリックスバーグで活動をしていたスカイウェイヴのポール・ベイカーとジョン・フェドウィッツが、グループ解散後に結成したバンドによる約3年振りのセカンド(スカイウェイヴのもう1人のメンバー、オリヴァー・アッカーマンは、現在ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズ<以下APTBS>のメンバーとして活動中である)。

 前作『Disapear』では、鼓膜を破壊するようなフィードバック(というよりハウリング)・ノイズにまみれたダークで不穏なシューゲイジング・サウンドを展開し、APTBSとの共通点を随所に感じさせた彼らだが、スクリーン・ヴァイナル・イメージやセリーヌ、ヴァンデルスらが所属するニューヨーク拠点のSAFRANIN SOUNDから、サウンドプールらを擁するボストン拠点のKiller Pimpにレーベルを移籍して作られた本作では、そこから一歩踏み出したサウンドスケープの構築に成功している。

 例えば冒頭曲「Stars Fall」では、フロントマン2人のハモリを強調し、続く「Never Make You Cry」ではJ−ポップも顔負けの哀愁メロディを披露。タイトな打ち込みビートとシンプルな循環コード、キャッチーな旋律やギター・リフがジーザス&メリーチェインを彷彿させる「Marianne」「It's Too Late」など、全体的にメロディの際立つ楽曲が並んでいるのだ。

 スカイウェイヴ譲りの爆音ギターも健在で、「Don't Leave Me Behind」では"アンプがふっ飛ぶんじゃないか?"と思うくらい歪みまくったギターを幾層にもレイヤー。ファズ、ディストーション、ワウの応酬はAPTBSとタメを張るほど凄まじい。

 この辺りのサウンドは、ニューヨークやロンドンでの人気に比べると日本での評価はまだまだ低いのが残念。特にペダル・エフェクター好きのギター・キッズにとっては、たまらなくツボなサウンドのはずなので是非チェックして欲しい。

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 本年度上半期、情けない男NO.1認定でございます。何なのこの情けないヴォーカルは! きらめくギター・サウンドは! まるで透明度の高い地下水脈を眺めているようだ。いまにも消え去りそうなファルセット。触れれば割れてしまいそうなガラスの歌声。哀感たっぷりのメロディ。言ってしまえばザ・スミスみたいな音楽なのだけど、だからといって素通りしてしまうのはもったいない。このバンドは弱々しい。だが、強気である。

 僕らは好むと好まざるにかかわらず、弱さを感じる音楽に惹かれてしまうところがある。実際、エリオット・スミスを代表に、弱々しさや情けなさが自然と滲み出てしまい、それが良さだと捉えられているアーティストは多い。しかし弱々しくもデンマーク出身の5ピース・バンド、ノーザン・ポートレイトのデビュー・アルバム『Criminal Art Lovers』は、開き直っていると言ってもいいんじゃないか。「俺たち弱々しいんだよ!」という逆ギレに似た男気を僕は感じてしまったのだった。もはや男気という言葉が仁義の世界でしか使われなくなってしまった時代にあって、情けなさというものを男気として押し出すこのバンドから僕は少しおかしな新世代感を覚えるのである。

 それが良い方向に働いているというのも、これまたおかしな話ではあるけれど、実際、サウンドの弱々しさが力強いというパラドックスがあり、「情けない音楽を作ろうとしている気迫」という男気を感じる。その気迫が生むサウンド・アンサンブルが絶妙で、繊細な美しさを持ち、するすると胸に沁みこむ音楽であるにもかかわらず、逆にスカッとするところもあるから不思議だ。本作の音が流れれば、曇り空など吹き飛んで、晴天と化すであろう。憂鬱などというものも吹き飛んで、瞬時に笑顔になるであろう。その爽やかなギターや決して肩がこらないリズム隊の清々しさといったら木漏れ日に文字通り力強い光を感じたときの気持ちになんだか似ている。

 男として生まれたからには堂々と生きたいものである。『Criminal Art Lovers』がまさにそうなのだ。ノーザン・ポートレイトは泣き出しそうな歌声で、情けなさを確信犯的に武器にする。ためらいなく武器にする。弱々しさを音楽性として捉えているそのさまの、開き直っている感じは堂々としていて新鮮だ。「情けなくて何が悪いんだ」とこのバンドは言っている。その強気な姿勢をこれからも貫き通せ。それが彼らの生きざまだ。ただ、ともすればザ・スミスそのまんまだと捉えられそうな音楽性は、もうちょっと薄くした方がいいと僕は思うよ。

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 地味ながらもいつも素敵な歌を届けてくれるシアトルのシンガー・ソングライター、ダミアン・ジュラード。最新作となる本作は、本国でのレーベル・メイトでもあるポップ職人、リチャード・スウィフトとの共同作業により制作された。これまでもケン・ストリングフェロー(ポウジーズ他)やデイヴィッド・バザン(元ペドロ・ザ・ライオン)などとのコラボレーションにより、様々な魅力を引き出してきたダミアンだが、本作でも新鮮な一面を覗かせている。

 ニール・ヤング直系の素朴なアコギの弾き語りを基調に、フィル・スペクター風のウォール・オブ・サウンド的なアレンジを大胆に導入し、フリート・フォクシーズやボン・イヴェールにも通じる美しいコーラス・ワークが効果的に挿入され、これまでの彼の作品の中でも最も洗練された手触りのサウンドに仕上がっている。

 マグリノリア・エレクトリック・カンパニー〜ソングス:オハイア、マーク・コズレック(レッド・ハウス・ペインターズ、サン・キル・ムーン)、ヘイデンといったアコースティックなSSWもののファンのみならず、普遍性を持ったポップ・ミュージックとして多くの人の耳に触れてほしい一枚。

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 音響、アンビエント、ミニマル・テクノ、ドローンなどあらゆる音楽ジャンルの垣根を自由自在に行き来し、エクスペリメンタルでフィーチャリスティックなサウンドを構築するブルックリンのユニット、グロウイング(Growing)が、早くも8枚目となるアルバムをリリース。しばらくデュオで活動していましたが、2009年の初来日ライヴではI.U.D.(ギャング・ギャング・ダンスのリジーとのユニット)やボアドラムとしても活躍する女性メンバーのセイディ・ラスカも加わって新生トリオとなって登場。デュオ当時の清涼的なアンビエンスやギターとエフェクターを駆使して生み出されるグルーヴとカラフルな音色にプラスして、ミニマルなリズム・マシーンとエフェクト・ヴォイスが効果的に入り混じり、更にとんでもないサウンドの極地へと到達して魅せてくれました。トリオ編成となって初のアルバムとなる今作は正に待望、そして期待通りの逸品。無数のエフェクトを駆使してサウンドを構築していくそのライヴ感と、更に強靭に磨き上げられたグルーヴィーなリズム・ワークで、もう完全ノックアウト。リズムを強くしたことによって、全体的にグロウイング史上最もポップな作品となり、もう病み付き系です。要ご注意を!

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14_TheHundredInTheHands_cover.jpg 洋服を選ぶセンスというものがあるように、今はもう、情報を選ぶセンスを持っていなければならないのだなと思う。音楽にも同様に言えて、いわゆる、おもちゃ箱をひっくり返したような音楽にしても、その箱に「何が入っているのか」が重要なわけなのだ。思うに、なんでも詰め込めばいいってもんじゃあない。そこにおいてNYはブルックリンの男女2人からなるユニット、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズの顔見せ的EP「This Desert」がWarpから発表されたのだが、いや、これ、すげえ、いいじゃねえか、と、なってしまったのだった。ほんとうに、センスが良いものしか詰め込んでいない。

 一口に言ってしまえばエレクトロ・ポップスで、もうひとつ言うならばブロードキャストのビートを強くしたような作品なのだけど、澄ました顔で風を切って歩くようなスマートなその音楽性は、選びに選び抜いた高級ブランドのスーツやら時計を身にまとっているみたいな、とでも言うか、エレクトロニック音も、ダブも、高級感を感じさせる部分のみを抽出し、取り入れ、エコーを効かせ、つまりはエレガント・ポップスここにあり、なのである。エレノアが時々歌うウィスパー・ヴォイスも確信犯的なエレガンスがあり、悔しいほどスタイリッシュ。ギター・リフはソリッドだが、あくまで聴きやすく熱を抑制している。アナタちょっと格好付け過ぎでしょうよ、というところもあるがそれがいい。

 そもそもNYはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやテレヴィジョンなど、アートの匂いがするバンドを生みだした場所でもある。中でもアート文化が盛んなブルックリンにあって、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズはアートの匂いがするもののみ、自らの審美眼で選び、取り入れ、たちまち泥臭さなど微塵も感じさせないアーティスティックな佇まいの音楽を作ってしまう。同じくWarpのナイス・ナイスの新譜がおもちゃ箱になんでもかんでも詰め込んだ音楽だとしたら、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズはバッグに香水やら趣味のいい財布を入れてる感じ。タイム感も抜群で、最近の流行の、あるいは話題のものを取り入れる。他のバンドを横目でにやりと笑いながら、さりげなく胸ポケットからサングラスを取りだす感じなんである。実際にサングラスかけてるし。

 とはいえ、秋に発表されるアルバムではメンバーのジェイソンいわく「僕たちの全体像が見える作品になっているはずだよ」とのこと。要はこのEPは彼らのひとつの側面に過ぎないわけだ。しかし、ここまで格好付けているからには、アルバムでは田村正和ばりに気取ってほしい(嫌味ではなくて)。さて、アルバムではどんなオシャレ・サウンドを詰め込んでくれるのか楽しみだ。スマートな音楽に違いはないのだから(嫌味じゃなくて)。

 ただ、ひとつふたつ言いたいのは、流行を追うだけのユニットには、なってほしくないし、ベックのセカンド・アルバムがそうであったようにダサおしゃれな一面も見てみたい。というか見たくてしようがない。しかしそれすらも難なくやってのけてしまうんじゃないかというエリート気質すら窺える。こんな良質なのに聴いていると悔しくなってくる音楽なんて中々ないよ。

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 まず、この変わったバンド名に驚き、引いてしまう人もいるかも知れない。恥ずかしながら筆者自身が実はそうで、名前は知っていたがしばらく彼らのことを敬遠してしまっていた。しかしジャパニーズ・シューゲイザー界隈での評価はすこぶる高く、その存在は気になる一方で、あるとき本作を偶然手にしてからというもの、今はことあるごとに聞き返してしまうほど中毒的にハマっている。

 死んだ僕の彼女、あるいはmy dead girlfriend(大阪のシューゲイザー系レーベルに所属するboyfriend's deadとは別)という名で活躍している彼らは、男3女2で構成されたバンドである。08年にNATURAL HI-TECHからリリースされた、少女スキップとのスプリット・アルバム「Sweet Days And Her Last Kiss」には、cruyff in the bedroomのハタユウスケ(ヴォーカル&ギター)がプロデュースを手がけた4曲が収録されているが、本作は、そんな彼らのファースト・ミニ・アルバムだ。

"イシュタム"と発音するアルバム・タイトルは、マヤ神話に登場する同名の「自殺を司る女神」から取ったものだろう。だとすれば、「死んだ僕の彼女」が「どのような死を遂げたのか」も否応なく想像出来てしまう。しかも本作の歌詞を見てみると、「腐乱した君の死体 最後の夜だとしても 一緒にいれてよかった」("WATASHI NO AISHITA MANATSU NO SHINIGAMI")、「汚れた 水の中 浮かんだ 右足」「浮かぶ死体 つまずいた」("12GATSU, POOLSIDE, UKABU SHITAI")など、不穏でグロテスク、一縷の救いも希望もないようなフレーズが並んでいる。

 だが、ひとたびアルバムを再生してみると、拍子抜けするぐらい穏やかで暖かなサウンドが流れ出す。ざらついたコード・バッキングとキラキラしたアルペジオが、ゆったりとしたリズムの上で混じり合う様子は、まるで春の木漏れ日のように心地良い。シューゲイザーだけでなく、ギャラクシー500やマジー・スターら、ヴェルヴェッツ直系のサイケデリアからの影響も強く感じさせる。男女混成ヴォーカルによって甘く囁くように歌われるメロディも、一度聴いたら病みつきになるほどポップだ。

 絶望的な歌詞と、夢見るようなメロディ。しかしこの組み合わせが実は曲者で、油断しているとまるで体に毒が回っていくように聴き手の希望を奪いさる。気付けば黄泉の淵で1人呆然と立ち尽くす自分がいる。永遠と続く死の世界で流れ続けているのは、きっとこんな音楽なのかもしれない。

 レコーディングとミックスを手がけたのは、元スパイラル・ライフの石田ショーキチ。彼らの類い稀なるポップ・センスを見事に引き出している。

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 USインディー・ファンの間ではすっかりお馴染みの、マット・ポンドPAの最新作。地元フィラデルフィア(=PA)を離れ、ブルックリンに越してから4枚目のアルバムとなる(時間が経つのは早い...しみじみ)。前作『ラスト・ライト』が、明るめのアップ・テンポな楽曲が多い比較的ロック寄りな作品だった(その中にもニーコ・ケイスとのデュエット曲「Taught To Look Away」のような、美しいバラードもあったが)のに対し、本作はメランコリックな響きを増した、どちらかというと初期の彼らの雰囲気に近い作品になっているように感じられる。相変わらずマット・ポンドの今にも泣き出しそうな歌声は味わい深く、彼らのサウンドの象徴となっているストリングスは、華やかに楽曲を彩っている。「代わり映えがない」「新しい刺激がない」と言われると否定は出来ないが、彼らの奏でるメロディーの美しさはひたすら聴き手の心に沁みるし、彼らの音楽を愛する理由はそれだけで充分だろう。

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 90デイ・メン(90 Day Men)、ザ・ポニーズ(The Ponys)のブライアン・ケイスを中心に結成された、同郷シカゴのボース(Boas)のメンバーも含むニュー・バンドのデビュー・アルバム。孤高に鳴り響く耽美的な世界観を見せていた90デイ・メンの影はほとんどなく、今作で聴けるのは全編を通してサイケデリックでシューゲなリヴァーヴの効いたギター&ヴォーカルと共に、勢いに満ちたガレージ・ロック~クラウト・ロックで捻じれながら最後まで突っ走る、紛れもないロックンロール・サウンド。前述のバンドやドローンやエクスペリメンタルなKrankyのレーベル・イメージとはかけ離れているものの、これはこれでメチャクチャカッコいい! 重厚なドラミングとレイヤードされたスモーキーなサウンド、そしてクールな熱量を爆発させたその音の佇まいに、ただただ痺れまくりです。音源でこれだけの重厚感とドライヴ感ってことは、間違いなくライヴはやばそう。来日を熱望せずにはいられません!

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 まず最初にアルバム・タイトル『僕の住んでいた街』がすごくいいなって思った。くるりは京都で結成されたバンドで現在は岸田繁と佐藤征史の二人がメンバーであり、メンバーが増えたり減ったり、サポート・メンバーも様変わりしている。日本だけには留まらずグラスゴーやマサチューセッツ、パリ、ウィーンなど海外でもレコーディングしている。

 このアルバム・タイトル『僕の住んでいた街』がバンドを結成してから14年の歳月を思わせる。いろんな人と出会い別れ、いろんな街に行って滞在し去り、また新しい街へ、時には昔住んでいた街にまた向かってみたりと今現在自分たちがここにいる理由やその過程があり、収録されている曲たちにも様々な景色がある。

 シングルのカップリングを集めた二枚組のアルバムで、一枚目の一曲目「東京レレレのレ」のみが新曲として入っている。この曲は盆踊り的なリズムでくるりらしい、なんだかくるりって天の邪鬼な事をするんだけどどこかしたらポップで時折ロックになったりとギアチェンジしていくバンドだなと前から聴いていて感じる事が多い。

 二曲目以降はシングルに収録された年代順に収録されている。流れで聴いていくとシングルやアルバムのリード曲ではないだけにさらに自由度が高い感覚を受ける。それは違う言い方だと冒険しているかもしれないし、リード曲にはならないがその分バンドの色が濃くなっている部分もある。

 アルバムやベストにも収録されている曲もたくさんあるが、それらだけを聴いていた人にもぜひ聴いてみてほしい。表に対しての裏というのではなく同じ時期に作られてもベクトルや意識が違うとこんなにも違うものができているんだと感じれるし、それ故にこのくるりというバンドの奥行きや音楽に貪欲な事に気付いてさらに好きになれるアルバムだ。

 個人的にはライブに行くといつも期待してしまう「すけべな女の子」や「The Veranda」「pray」「ガロン」「サンデーモーニング」「りんご飴」など好きだった曲以外にも今まで聴けてなかった曲がシングルで聴かないでも聴けるというのはいい機会だ。

「The Veranda」

 外の空気はきれいだろう
 梅の花びらしか 季節の到来教えてくれなかった

 春になったら変わるだろって
 言った通りになるのかな
 君からの便りもなく 一つの季節は過ぎてって
 しかめっ面したとき
 ちょっと思い出してまた消えた

 二枚とも17曲入りで収録できるギリギリまで曲が入っている。彼らのいろんな想いや時間が溶け込んでいる。このアルバムからくるりを聴き始めてもいいだろうし、今までアルバムでしか聴いてなかった人にもくるりの音楽の自由さを感じられるものになっている。

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19_DinosaurFeathers_cover.jpg ここ数年、こと音楽に関して世界中でもっとも熱気に溢れた都市が(少なくともインディー・ロックのファンにとっては)ブルックリンであることに全く異論はないが、それにしたってここまで目まぐるしい速さで流行がアップデートされると、いくらネットがあっても、現地に居を構えないと情報を追えないよ...と、弱音を吐きたくなるほど新陳代謝が活発な状態が継続されている。いいことだと思う。

 とはいえ、露骨すぎるアニマル・コレクティブのフォロワーみたいなのには個人的にはあまり興味が湧かなくて、そういう連中も一括りにされるネオ・サイケデリック勢のムーブメントのなかでも、極端にトロピカルに純化したバンド/ユニットを去年くらいから特に面白がって聴いている。そろそろ気候も夏めいてきて、そういう音楽がいとおしくなる時期にまた差し掛かってきた。

 その流れでも、たとえば去年話題になったレモネードは随分アッパーだし(デロレアンも彼らの曲をリミックス)、この5月に国内盤もリリースされるタンラインズ(tanline=日焼け跡の意。この単語を入力して検索するとイイ画像がたくさん出てくる)の"Pokemon Dancehall"とも評される緩くチャラいビートは、もはやイージー・リスニング的ともいえるほどトロピカルに特化している。

 一方で、少し前に頭角を現し、僕にとってもアイドルの一人であるメアリー・ピアソンを擁するハイ・プレイシズは、最新作『High Places Vs Mankind』で、空気よりも軽かった(当時、他の誰よりもトロピカルな音質を具現化していた)ビートを捨て、シューゲイズな音とトライバル要素の醸し出す、ひんやりした冷たい空気の満ちている作品を提示してきた。これまたブームになっているネオン・インディアン、ウォッシュド・アウトら"Glo-fi"(オフビート・トランス+シンセ・サウンドによるアンビエント)のシーンにも共振する内容ともいえるが、また一方でそのGlo-fiも既に時代遅れで、今はWitch House(Gothic Chillwaveなどとも)だとする動きも。トロピカル→ゴスは80年代のニューウェーヴをそのままなぞっているような流れではあるが、やっぱりあまりにも消費が速すぎてもう、何が何やら。

 このように、昼食のバイキングで皿に好きなものを盛って口に運ぶような感覚でその日聴くものを選 べそうなほど「ムーブメントのなかのムーブメント」は入り乱れている状態だが、そんななかで自分が繰り返し愛聴しているのがDinosaur Feathers。やはりブルックリン在住の3人組である。

 何が素晴らしいか。まずは手っ取り早く彼らのMySpaceで「Family Waves」という曲を視聴してみてほしい。イントロのちゃかぽこした音の鳴りから牧歌的なコーラス、そして目が覚めるような気持ちよすぎる転調と、ひねくれポップ好きにもきっと響くものがあるだろう、興奮必至の楽しすぎる4分間。

 その他の楽曲も陽に当たりながら思い思いに過ごす気怠げな人々の光景が印象的なジャケット同様にピースフルでありながらどこか突き抜ける瞬間の連続で、オーストラリアの素敵なバンド、アーキテクチャー・イン・ヘルシンキ(この人たちも<キツネ>のコンピに収録されたりしてるのに、なかなか日本で話題になってくれない...)や、<K>レーベル所属のバンド、レイク(昨年リリースされた『Let's Build A Roof』は傑作!!)にもどこか相通ずる、のどかな世界観とそれに相反するひねくれ具合の両方を見せてくれる。

 曲名に「Vendela Vida」(アメリカの作家。日本でも『行く先は晴れやかに あるいは、うろ覚えの詩が世界を救う』などの著作が訳されている)と冠したりもしているが、音からはスノッブ臭は皆無。奇跡的なバランスを保たれている(こういうセンスの気配りは、ヴァンパイア・ウィークエンド以降のマナー......、なのかな?)。ここまで挙がってきた名詞にひとつでも引っかかりを覚える方には是が非でも推しておきたい。

 このアルバムは今年の3月初頭に既に発売されていたが、セルフリリースなこともあって届くべきリスナーの耳にまでなかなか行き届かなかった印象がある。とはいえ、そういう事情なので残念ながら国内での入手はいささか手間取るかもしれない(Amazonなどでは入手不可)。iTunes Storeでも購入可能だが、フィジカルで入手するなら彼らのmyspaceあるいはホームページ経由での注文が一番早いかと。全曲視聴も可能。

 さらに、アルバムに先駆けて昨年リリースされた4曲入りEPは現時点でもフリーダウンロード可能なので、気になる方はまずはここで彼らの音を試してみてほしい。

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 上海に万博視察含め行ってきたので、その簡単な紀行を纏めてみます。

5月22日(土)

 日本も既に蒸し暑さを帯びる中、昼過ぎに関西国際空港へ。

 空港内の入りの寂しさは毎回の事ながら、特にお盆や正月やGW等を除いてのオフ・シーズンの閑散具合は心配にもなる。行き交う外国語は中国語かロシア語が多く、何をもって「景気」が良いとか悪いとか抜きにしても、こうした場所に来ると、明らかに「景気の良い国の景気の良い人たち」のパトスをダイレクトに見受ける事が出来る。

 今回、通称・上海万博は実は国際博覧会であって、万国博覧会ではない。万博は直近だと、ドイツのハノーヴァー万博以来開かれていない。その後に条約が改定され、旧一般博が登録博、旧特別博が認定博になった。「General Category」という意味では、登録博も変わらず、一般博だと、1970年の大阪、1992年のセビージャ(スペイン)、2000年のハノーヴァーと不定期開催だったのが、5年ごとになった。次回は2015年のイタリアのミラノで行なわれる予定だ。ちなみに、愛・地球博も上海も登録博になる。今回、僕自身の目的はそんなに大きいものは無く、バブルの様相を呈していた中国経済の臨界点、リミッター・ラインを、北京五輪、上海万博という大きな催しの中で示すのではないかという些かペシミスティックな興味に尽きた。不動産バブル、ITバブルの中での変節における人たちの蠢きとはどのようなものか、経済格差が極まってゆく過程で疎外されてしまうものは何か。

 チケットが取りやすかったのもあり、JALに搭乗。サービスは良好。

 機内のポップ・ミュージックのプログラムではザ・バード・アンド・ビー、ミュージック・ゴー・ミュージック、シー.・アンド・ヒム、エリカ・バドゥ、カーキ・キング、ニュー・ヤング・ポニークラブなどという締まったメンツ。メニューは魚のムニエル、サラダなどで、途中アナウンスで現地は曇り24度位との情報が入る。

 2時間程のフライト。夕暮れ時に上海浦東空港に着くと、曇天、斜めから景色を切り取るように強烈に雨が降る。定西路のホテルに入り、今回、万博の日本館で働かれている方にアポイントメントを取り、近くのレストランに食事に行き、色々と話を聞く。天候に左右されるのは大きいが、人気なのは中国館、日本館、日本産業館、フランス館辺りだそうだ。それぞれテーマの打ち出し方と体験型の形式が受けているみたく、特に、中国館に関しては予約整理券を取っても、なかなか中に入れないような混雑状況が続き、日本館も4~5時間待ちも普通にあるとのこと。今日に行こうと思っていた上海環球金融センター(492メートルの超高層ビル)も曇天で景観が良くないみたく辞めて、少し彼のマンションに寄る。今回の万博に際して、会社からあてがわれたマンションだが、なかなか立派な作りで広く、五人がシェアしている。夜になると、肌寒さと中国独自の「原色」のネオンが混じり、風情があった。活相のレベルが日進月歩で高くなっている。

5月23日(日)

 9時頃到着を目的に、地下鉄で中山公園駅から人民広場駅、そして、浦西地区の最寄駅まで、4元。駅に降りると、既に上海万博に行く人たちの息吹が凄い。

 入場料は160元(1元が約15円)という決して安くない値段であり、相変わらず凄まじい所得格差のある国でもあり、敷居の高さはある故に、結論から言うと、客層は、二日行って通して感じたのは、ニューリッチ層や不動産で利鞘を稼いだ層や品の良い家族たちの姿が多く、やはり学生の姿はかなり少なかったということだ。夏休み位になれば、修学旅行等で増えるのだろうが、日本人も殆ど会う事無く、また異国人もアメリカ人が多かった。そこから、ゲートを潜り、浦西地区に。兎に角、広く、地図の感覚で行くよりも一つ一つを歩くのはかなりな体力が要る。しかも、突貫工事のような部分もあり、導線付けも儘なっていないところもあった。

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上海万博の入場券

 最初に、60分待ちだったが、上汽GM自動車館に並んだ。上汽GM自動車館のテーマは2030年の自動車社会。大気汚染、電気自動車、色んなテーマの映像モティーフをウォーキングで観た後、シアターに入り、振動する自動車のシート形式の物に座り、覆い囲むようなスクリーンと呼応して、非常に高精度なストーリー(ラブ・ストーリー的な体裁は取っていた)を見せてくれ、なかなか楽しめた。ただ、3D形式だともっと迫力がありそうだったと思う。その後、スクリーンが落ち、パフォーマーの諸氏が近未来型自動車を操り、派手に演舞してくれた。ちなみに、今回、日本の一部ニュースで言われているような、予約券を巡っての暴動的なものは僕が見受ける分には無く、皆、しっかり列を護り、時間を厳守して、規律を保っていた部分には民度の向上を感じた。

 その後、韓国総合企業館(サムスン主体)、日本企業館と回った。

 前者は20分待ちで直ぐに入る事が出来たが、催しは非常によくある企業打ち出しもの。タッチパネルで触ってみたり出来るものの、結局、サムスンがこういうイノヴェイティヴなものをやっていて、技術力を持っている、というだけの展示。

 後者は1時間半待ちだったが、複数の企業のプレゼンが連鎖したものだった。ただ、個人的に面白かったのが、最初に為される総合的なプレゼンにおいて、ねぶた祭、舞妓さん、ガールズ・コレクションなど今の「大文字」の日本のイメージが重なる中で、都度、流れたのが相対性理論の「LOVEずっきゅん」だということで、これは明らかに広告代理店か何かの作為性を感じたが、今の日本の「クールネス」が定義出来る限界効用性も垣間見えた。帝人、テルモ、大塚製薬、ユニチャーム、日本郵政、トステム、INAX、キッコーマンといった各企業の催しに関しては過不足なく、非常に日本的で、逆に言うと面白みが無かった。それぞれ部屋を移り、10分程のプレゼン的な映像やアニメなどを見せてくれる。テルモは映像に3Dを使っていた点以外、然程魅かれるものはない、ステロタイプな企業イメージの更新を狙ったものだった。

 浦西ゾーンの路を歩く分には非常に空いている感じさえするが、パビリオンの混み方は凄く、石油館など3時間を超す待ち時間だったり、また基本、飲料等の持ち込みが出来ず、フードコートではビールが25元したりするのに、それなりに人が入っている。

 様々なモニュメントの展示されたテーマ館を巡り、日本から上海に初出店となる、はなまるうどんに行った。はなまるうどんのオーナーに聞くと、上海は初めてらしいが、その後、何処かの中国内の土地への展開を考えていると言っていた。「健康志向とジャパニーズ・フード・イズ・クール」の影響もあるのか、納豆、おくら、卵を混ぜたうどんが流行っていた。

 今日の視察はこれくらいにして会場を後にした。

 その後、南京西路の新光酒家という上海蟹の店へ行き、季節外れだが、茹で上海蟹を食した。紹興酒が毒消しになるとかで、合わせて食べるとなかなか美味しかった。

 そして、東方明珠塔(TV塔)へ向かい、高層から上海を見降ろした際に、蜂の巣のようなマンション群や高層ビルの乱立にこの街の不動産バブルに対しての論考を体系的に纏めたいとさえ想うくらい、ネオンの眩さと煌めきに眩暈を憶えた。上海の夜の先の深みには何か得体の知れない欲望や寂寥が渦巻いている気がしたのかもしれない。

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東方明珠塔の展望台からの黄浦江を見降ろした景色

5月24日(月)

 朝から晴天。30度を越えるとか。TVでは万博500万人突破とのニュース。今日は浦東地区へ。9時くらいに着いたが、入口時点からかなり盛況。荷物チェックも厳重。やはり、こちらに主要パビリオンである中国館などがあるからか、昨日の雰囲気とはまた違った巨大な熱がある。耀華路駅を降り、ゲートを潜ると、明らかに今までと次元が違う大きさとスケールの中国館が目に入る。入りたいが、予約券も含めて本日分は全てないみたく、団体客含めてもう既に長い行列が出来ていた。

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中国館

 日本館も行くが、4時間待ちということで諦める。早く電子予約券のシステムを取って欲しいものだ。サウジアラビア館に至っては5時間40分待ちという凄まじさ。こうなると、各国館を細々と廻るべきか、と思い、バスに乗ってCゾーンへ。イギリス館は40分待ちだったが、印象としてはカルチャーの表象をする訳でも視角に訴えかけるものでもなく、外観と比して、インスパイアーされるものは少なかった。外観自体は大量の触角の先にカラー光源があり、風向きなどで細かく変化をするのが面白かった。その後、昼食を食べ、スイス館へ。情報では屋上に庭園があり、ゴンドラがあり、遊園地のようになっているというのもあり、2時間程待ってみるが、ゴンドラが故障との事で、結局、展示物を巡るだけで終わった。映像もスイスの風景を写したもので大したものではなかった。

 万博内を行き来する無料バスに乗り、再び日本館の近くに。今回、少し話題になった北朝鮮館に行ってみる。報道通り簡素な作り。夕暮れ時になってきたので、もう空いている所も出てきて、イラン館、カタール館、パキスタン館と廻る。個人的にパキスタン館のロータスフォード(16世紀の建築)を復元した作り、自分達の国の文化の打ち出しの仕方には好感を持つことが出来た。

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日本館の様子

 今回、上海万博の「現場」に行ってみて思ったことは、中国という国の繁栄の強度と、また、比して、北京五輪と同じく「底上げ」されている強引な力技の部分も目立つという事だった。確かに、現地の方の民度や倫理観は上がっているし、かなりムードもアグレッシヴだ。富裕層の台頭もダイレクトに感じる事が出来たが、それは別文脈で言うと、金融経済と実体経済との乖離も感じさえした。つまり、金融経済上で成り立っている薄氷の要素因がある中、平易な例で言えば、160元の万博入場券、20元の寿司の人気と、10元そこらでお腹いっぱい食べられる街の庶民的なお店の差異が露顕してきた際にどういった民衆感情は喚起されるのだろうか。TVプログラムの万博に「無関係」な人たちはどうでもいい事と捉えているのか、今後はそういった深奥に切り込みたい。

 最後に。僕にはどうしても、上海万博に関してはあまり肯定的な意見を持つ事が出来ないのはそこにはロマンティシズムとか繁栄の象徴が代象されていたのではなく、貼り子細工の不気味なハイパーキャピタリズムの行く先を観たような気がしたからだ。無邪気にマスコット・キャラクターと戯れる子供、持参のバナナや林檎を食しながら、嬉々と行列を並ぶ現地の方。皆、懸命に働いて、中国という巨大な国の栄華をリフトアップして、その象徴的な万博の在り方を享受しているのかもしれないが、14億人という人口の罠が仕掛ける経済システムはそんなにフラットなものではない。

 会場から観る事も出来る蜂の巣のようなマンションに灯る生活者の影、今から建設されるだろう高層ビル、商業ビルなどの乱立の仕方は或る種、異様とも言えたし、また、そういったものは上向きの景気曲線と近似する筈なのだが、僕にはメガロマニアックな暴走都市のイメージを抱かせる事も行く度に増えてきた。莫大な量のエネルギーが渦巻いているのだが、何処か空疎でフィクショナルなのだ。万博以前/以後という短期的フェイズではなく、中長期的なスタンスで捉えていきたい。何度か調査を続けていこうと思っている。

参考
上海万博HP

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 困ったな。こりゃ傑作だ。もともと内輪ノリのパーティー・ミュージックとして作られたこの音楽を、傑作と言ってしまうのは少々ためらうのだけど、アバやカーペンターズを思わせるメロディにキュンときてしまうからしようがない。

 笑顔のようなやさしい音色。音でゆっくりマッサージされているような奏で。そこに美人女性ヴォーカリスト、ガラ・ベルの破綻のない歌声が乗っている。これが気持ちいい。カリフォルニアを拠点とする男2人女1人の3ピースバンド、ミュージック・ゴー・ミュージックのデビュー作『Expressions』を聴いていると、朗らで和やかで体がぽかぽかしてくるよ。この人懐っこさはメンバーいわく「自分達の本当に親しい友人達に聴かせるため」に作られた音楽だからこそ醸し出されるのかもしれないが、親しい友人じゃなくても、お、いいじゃん、という具合に、鼓膜をやさしく揺らしてくれる。ファッション誌で紹介されていてもおかしくないオシャレ感もある。

 こう書くと、「なんだよ、単なるスウィートなポップスかよ」と思われるかもしれないが、侮るなかれ。ただのポップスだと信じ込むこと、これは怖い。70年代を意識しているという彼らは、ファンクからハード・ロック、プログレッシヴ・ロックなど、数々の要素を難なく取り込んでいる。とはいえ、それ自体はめずらしくない。取り込み方が面白いのだ。センス良く、ぱっぱと洋服を着こなすようなステップの軽さでもって様々な音楽要素を我が物にし、さあどうですかという表情でファッション・ショウのモデルが歩いているみたいな、良い意味でスノビズムを楽しんでいるところがある。気取っているけどそれを上手く隠す術を持っているものだから、まったく、にくい。

 冷静な判断力に基づいた客観的な視点で様々なジャンルをサンプルと見立て、音楽の適材適所に配置するそのセンスはユーモアがあり、ポップ感に溢れ、DJ的なサンプリング能力に恐ろしいほど長けている。そんな確信犯じみたところは最近流行りのエレクトロ・ポップスや、サイケデリック・ポップスには無いもので実に新鮮なのである。ジャンルの融合ではなく、様々なジャンルの音を自分達の音楽に切り貼りする。そこに職人的な気質すら見えるのだ。

 手のひらにすっぽり収まって、持ち歩けそうな、とってもポップなポップ・ミュージックなのに、その実、計算された音楽性に背筋を正され、スピーカーと睨み合いながら聴いても面白い。何度聴いても飽きがこない。聴き手にリピート・ボタンを繰り返し押させてしまう本作は、夜を通り越して朝まで聴いてしまう。参ったな。やはり傑作だ。

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 サリンジャーの哲学とは青さを「青」のまま定義せずに、彼岸の視点からユースフルな遣り切れなさを筆致した点に尽きると思う。かの『ライ麦畑でつかまえて』にしても、実は通底するキーワードはまがまがしさ(phony)だ。既存のヒーロー崇拝主義に対して冷水を浴びせ、アンチを唱える事で、また一種の神秘性を自分のナラティヴに持たせることに対しても懐疑的な視点を持ち、意味ありげなアフォリズムめいた独白をカットアップさせ、クールに「見せかける」所作は発表当時よりも現代社会のシステム構成論が堅固になっていくにつれ、より響くようになったが、主人公コールフィールドのヴァルネラヴィリティとは結局、何をサルベージして、何を突き放したのか、見定めないと、サリンジャーの仕掛けた単層的な罠に自意識側が飼い慣らされたままになってしまう。

 だから、勘違いされているきらいがあるが、90年代後半に風のように現れて熱狂を攫ったベル・アンド・セバスチャンはサリンジャー的なイコンでは決してなく、98年の「This is Just A Modern Rock Song」という批評的で挑戦的なタイトルの曲内で歌われる「ぼくはドストエフスキーほど悲愴でもないし マークトウェインほど賢くも無い」という真面目なシニシズムを額面通り受け止めるべきであって、そこに余計な青さを付加する必要性など無かった。つまり、R.E.M.が標榜するヴァルネラヴィリティとは、知的体力の強靭さを奪回せしめるように、参照点や教科書はそう簡単ではなく、一元的である筈がない。

 前置きが長くなったが、憂鬱の、未成熟の、多義的な、「青さ」を確保し続けてきたプロジェクトとして、時に、過剰になってしまうサウンドの振れ方をして、アンクルは常に反射鏡的な存在だったし、僕はその「浮き方」をいつもストリート・カルチャーに収斂させることなく、良質な一音楽として語れない(語らない)評論磁場にも少しだけ辟易もしていた。

 アンクルとは、つまり平易に言えば、大人が懸命にふざける、という所作であり、自分の足許を見られてはいけないというスタイリッシュな逃避意識が逆説的に「シーン」内で括られ、「名札」を付けられてしまうアイロニー的な装置化をどう軽やかに越境してゆくかを考え続けたジェームズ・ラヴェルの切実な内面と嗜好性に準拠した大人の実験工房なのだ。

 アブストラクト・ヒップホップを地表化させる為に、Mo'Waxレーベルを立ち上げ、常に話題になった客演アーティストのフックアップと、ベック以降のセンスをゴリラズ的なエクスペリメンタル性で煮込んだ音像は常に先鋭性を持ちながらも、異端であり、時に、ストイック過ぎるきらいもあったが、いつも刺激的だった。98年の『サイエンス・フィクション』でのリチャード・アシュクロフトやトム・ヨーク、マイクD等の招聘を掻き消す(寧ろ、拒絶する)ような、非・意味的な在り方は、マッシヴ・アタック『メザニーン』やレディオヘッド『OK Computer』的な深く重い音がデフォルトになっていた当時のシーンには、多大なる影響を与えた。DJシャドウとのタッグを離れての03年の『Never Never Land』はオーガニックでメロウな滋味深いものになったが、そこで客演していたクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オムのモードに引っ張られたのか、07年の『War Stories』ではストーナーロックへと舵を切り、不穏でダークで分裂的な様相を極め、初期にあったストリート・カルチャーに目配せをしていたプロジェクト性は実質的に、記号化しており、ジェームズ・ラヴェルの個人的な関心に準拠した展開を見せていった。そのアンクルの展開は自然とストリートの音楽がグライムやダブ・ステップといった音楽の流れと結びつき、エッジを極めるのと比して、シーンとの接合点がぼやけていき、センスが先走る孤高のプロジェクトと化していった点は否めない。

 今回、デビューから12年目にして、通算4作目になる『Where Did The Night Fall』は清冽でサイケリデリックでクオリティの高い内容で、アンクルが築き上げてきたサウンド・ワークの集大成とも言える洗練を持つが、どうにも「90年代的な音」になった。それは、マッシヴ・アタックの佇まいと同じく、世界は別に変わらないから、スタイルを変える必要もない、という大人の諦念と寛容が彼岸的な観点から切り取られているとも換言出来る。アートワークはウォーレン・デュ・プリーズとニック・ソーントン・ジョーンズが担当しているが、これはトマト×アンダーワールド的な感じも思わせるし、10年代的なゴリラズのヴァーチャル的な凄味を持ったハイエンドなワークを越えるものではなく、サウンドもダヴィーで多国籍な音楽の上澄みを掬いあげているが、フライング・ロータス辺りのビートが提出されている今、どうにも野暮ったさが残る。そう、ウェルメイドなのだが、どうにも居心地の悪い作品になっている。3D、デーモン・アルバーン、ボビー・ギレスピー辺りの亡霊がちらつく磨き抜かれたサウンドスケイプはだがしかし、アンクルが試みてきたオリジナリティも確かに明滅するという理由を相対化はしない。

 10年代に入り、混沌としてきた今に、この作品を積極的に敢えて評価する意味は僕には正直、あるのかどうか分からないし、そんな意味など考えなければ、存分に「クール」なアルバムとして楽しめるし、今現在のロンドンの持つ多次元文化主義的な雰囲気を持っているのも含めれば、個人的には好きな音が集まっていると言えるのだが、どうにも批評し辛いのは、簡単にサイケだとかアフロだとか言うには切実な、phonyがあるからだ。

「ここは高みではなく、淵だ」ということを示す圧倒的な整合性は遂にここまで来たし、まだまだ往くだろうという確信が伝わってくる充実したものになった。その過程であり、結実では無い。

 ジェームズ・ラヴェルという人が、90年代の幸せだった(だろう)カルチャーの生き証人でもあり、00年代をどうにかサヴァイヴしてきた重みを強烈に感じさせる作品として、意義は深い。

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 本当に終わりなのか!?

 LCDサウンドシステムとしては最後の作品になるとアナウンスされているこの『This Is Happening』を聴いて以来、僕の頭からその疑問が消えない。それくらい、素晴らしいアルバムだからだ。

 ディーヴォ風のコミカルでポップなサウンドから、コーラスでは天駆けるようなキーボードがインする「Drunk Girls」は「North American Scam」に負けずとも劣らない充実したシングルだ。他にも、タイトなコンガとイーノの実験性がぶつかりヒートアップする「Pow Pow」、ファンキーなベース・ラインにのせてアイロニカルにヒットについて歌う「You Wanted A Hit」など、ミニマルなビートのループで構成された9曲にはグルーヴ感が息づく。間違いなく、これらの曲はフロアで人々を踊らせることになるだろう。

 そして、印象的なのはジェイムスのヴォーカルだ。メロウに歌い上げる「Dance Yrself Clean」や、ハイテンションでまくしたてる「Drunk Girls」、ボウイばりにセクシーに歌い上げる「I Can Change」など、広いレンジの表現力をみせる。現在40歳にしてのこのパワーに驚かされるばかりだ。だからこそ、この作品は「通過点」に過ぎないのではないか、と思えてしょうがない。

 そもそも、21世紀最初のディケイドは、ジェイムス・マーフィーの功績の上に成り立っている。DFAとしてザ・ラプチャーやレディオ4、最近ではロックンロール・リヴァイヴァリストのフリー・エナジーを輩出した。DJやプロデューサーとしての活躍もある。そして、2002年にLCDサウンドシステムとしてシングル「Losing My Edge」でのデビュー以来、2004年の『LCD Soundsystem』、2008年の『Sound Of Silver』など作品は高く評価され、ダンス・ミュージックのドップ・クリエイターとして君臨し続けた。今ではありふれたものになった、ディスコ・パンクやダンス・ロックもLCD抜きに語ることなんか出来ないじゃないか。

『This Is Happening』はLCDがオリジネイターとしてまだまだ革新的であることを十二分に示す作品だし、本誌のインタビューにおいてジェイムスはLCDとしての活動を終えることに感傷的な表情を一切表していない。これからフジを含むワールド・ツアーに出て精力的にライヴを行う予定なわけだが、ツアーが終わる一年半後が早くも気になる。初めて自分自身の写真を使用したジャケットでの前のめりのファイティング・ポーズに、期待が募るばかりだ。まだまだ彼にはダンス・ミュージックを牽引していける力があるのだから。

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 初めてトロントを離れ、シカゴでレコーディングを行なった約5年ぶりとなるニュー・アルバム。主要メンバーに加え、ゲスト・アーティストとしてリサ・ロブシンガーやジェイソン・コレットなど12人招き、プロデューサーにトータスのジョン・マッケンタイアを迎えた。これらから「新しいことに挑戦する」というブロークン・ソーシャル・シーンの本作にかける気合が窺える。

 シューゲイザー・テイストでドラマチックに展開する曲があれば、弾き語りに近くとも、どんどん音数を増やし、ソフトなサイケデリック感を醸し出す曲あり、はたまた打ち込みと浮遊感のある女性ヴォーカルが際立った曲ありと、ヴァラエティに富んでいる。室内楽的な響きすらある曲も収録されているのだ。しかも、どの曲も全く隙がなくクオリティが抜群に高い。これには感心し、驚きもした。ただ、難を言えば、ヴァラエティの豊かさゆえに焦点が見付からず、掴みどころがないと思ってしまったのも事実。それでも通して聴かせてしまう。その所以は、ずばりメロディの良さにある。

 なめらかな曲線を思わせるメロディが、突如、折れ線グラフのようにぎこちないが、しかし茶目っ気に溢れた味のあるメロディに移り変わり、良い意味で次の展開が分からないそのメロディ・メイクのセンスが音楽と聴き手の距離を近づける。ヴァラエティ豊かで凝った音響を構築する本作は、どんな種類の楽曲であってもポップに聴かせてしまうという意味で、ブロークン・ソーシャル・シーンのメロディ・メイカーとしての素質を浮き上がらせている。勢いがあった前作でファンになったリスナーは、その勢いが薄れたことで少々残念に思われるかもしれないが、ブロークン・ソーシャル・シーンは良くも悪くもリスナーを裏切る音楽を創作するアーティストであると僕は思う。

 かつてジョニ・ミッチェルが「リスナーに否定されるかもしれないけど、音楽家は常に変化する勇気を持つべきだ」と言ったように、ブロークン・ソーシャル・シーンもまた、変化する勇気を持っている。変化したいからこそ環境を変え、シカゴでのレコーディングを決行したのだろう。この音楽から「僕らにはまだ先があるんだよ」という声が聞こえる。「ここで終わらせるつもりはさらさらないんだ」と言っている。彼らの作品は常に野心的だ。でも、とびきりポップ。大人の遊び心と野心を持ったポピュラー・ミュージックなのである。

編集部より:日本盤は5月26日(水)リリース予定。

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 2008年に昼下がりのフジロックで見たジェイミー・リデルのパフォーマンスには本当に驚かされたものだ。(おそらく)本人の資質以上に、過剰なほどエンターテイナー然としたパワフルなソウル・アルバム『Jim』の世界観そのままに、締まりのきいたバック・バンドの演奏に合わせて感情豊かに歌いあげたかと思うと、ラップトップをいじくりだしてバンドの演奏や自らの声を取り込み分解・再構築し、電子音とともにループさせながら放出。小気味いい音の刻みは観客を熱狂させた。<ワープ>の誇る鬼才がどういったセンスの持ち主なのかをショーケース的にも魅せる、圧巻のステージング。この人は何でも出来てしまうんだな、と関心させられた。

 テクノ畑からR&B的な歌ものに転向し異色の道を歩んできた彼は、この2年で更なる変化を迫られたようだ。大きかったのはパリからNYへの転居、そしてベックが最近熱心に取り組んでいるRecord Clubのレコーディングへの参加。その光景はベック自身のホームページで観ることが出来るが、たった一日でクラシックな名盤を丸ごと再現するこの企画は、ジェイミーに限らず参加しているどのミュージシャンもそのセッションを心底楽しんでいる様子が印象的だ。その経験がよほどのインスピレーションを生んだのだろう。彼はそのとき組んだミュージシャンと共に自分の変化を表現することを選んだ。

 既に各メディアで報じられているように、本作『Compass』においてはベックやジェイミー作品の常連メンバーであるチリー・ゴンザレス(むしろ、本当はこの人こそがもっと語られるべきだと僕は思うけど)の他に、レスリー・ファイスト、ウィルコのパット・サンソーンといったRecord Club人脈でもある豪華ミュージシャンの参加が話題となっているが、サウンドの肝となっているのはドラムのジェイムス・ガドゾン(かつてクインシー・ジョーンズのバンドにも参加、過去にはマイケル・ジャクソンやマーヴィン・ゲイともプレイ)と、ベースのダン・ラスチャイルド(シェリル・クロウやMIKA等のライブで演奏)が主に担っているボトム・ラインだろう。

 前作『Jim』が軽快で晴れやかなソウル・サウンドなら、本作の前半に収録された楽曲はねちっこくディープなファンク的要素が滲み出ている。太く柔軟な音の出せるリズム隊とブレイク・ビーツに支えられ、奇抜でハイファイなエレクトロ・サウンドと卓越した生楽器の演奏が飛び出し、そして表現力を増したジェイミーの歌声がもつ存在感は、さながら過去のレジェンド・シンガーのそれに匹敵するようですらある。白眉はやはり、ジャクソン・ファイヴへの露骨なリスペクト精神みなぎる「Enough's Enough」だろう。イントロのひしゃげたキーボードの音色はある種のノスタルジーを喚起させ、ファイストとニッカ・コスタによるコーラスは楽曲にチャーミングな幅をもたせている。最高にファニーな一曲だ。

 アルバムの後半における暗く静謐で、ときにフォーキーなナンバーからは、これまた本作の制作に参加しているグリズリー・ベアーの面々からの影響が色濃く反映されている。既に<ワープ>の20周年BOXにおいてもジェイミーは彼らの「Little Brother」をリミックスしてその愛を表明していたが、ここまで影響を受けるとは正直、意外だった。前作までのファンは、あまりにも赤裸々な彼の姿を前にして、ここで一度面喰ってしまうかもしれない。

 2年間のあいだに彼に訪れた最たる変化が「愛する女性との別れ」であることは容易に検討がつく。この、人間の制作意欲を最も駆り立てる普遍的なテーマは、作中の歌詞においてところどころ匂わせられている。たとえば、先行シングルでもあるエレクトロ・ソウル「The Ring」では"She is just a dream, he is just a dreamer"と身も蓋もないフレーズが何度もリフレインされる。日本国内のメディアの一部は「最高のエンターテイメント」といった賛辞をところどころ寄せているようだが、本作はそういった単純明快な類のものでなく、(青臭い表現を許してもらえば)深く悲しい困難と対峙したジェイミーが、自らの心が次に赴くべき行き先への道しるべとなる「コンパス」を探し求めるあいだの葛藤を複雑なサウンドで描いている。娯楽として楽しむにはやや重苦しくプライベートな作品だ。

 そういう流れがあるにせよ、僕個人としては(クレジットはジェイミー本人になっているが、実質上の)ベックのシリアスすぎるプロデュースは、先にリリースされたシャルロット・ゲンズブールのアルバム『IRM』に引き続き、少し生真面目すぎる気がしないでもない。シャルロットの作品でも彼女及び彼女の父親であるセルジュ(特にベックが無人島レコードと位置付ける名盤『メロディ・ネルソンの物語』)への偏愛ぶりは過剰なほど伝わってきたが、もう少しポップに消化・発露できたのではないかという不満は残った。ここ最近のベックの活動で、かつて「何でも出来てしまった」頃の彼が溢れんばかりにもっていたユーモア・センスがいささか減退傾向にあるのは正直、寂しく思う部分もある。

 とはいえ、ジェイミーの真摯な姿勢には心から拍手を送りたい。一か月の短いスパンでほとんどの楽曲が収録されたとは俄かには信じがたい、緻密でダイナミック、そして彼にしか表現できないハイブリッドな音世界がここでは展開され、さらに今後のさらなる成長をも予感させる。一曲目の「Completely Exposed」で彼は自らの心を(その曲名どおり)完全に曝け出すことを決心し、最終曲の「You See My Light」で愛という名の光明をもう一度見つけなおしてアルバムは幕を閉じる。強い既視感を覚える成長物語ではあるが、だからこそなんとも素敵じゃないか。

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 マンハッタン・ラヴ・スーサイズの主宰レーベル、Squirrelに所属するメルボルン出身の3人組サンデイ・リーズをはじめ、「マイブラ・ミーツ・グランダディ」と評されたこともあるシドニー出身のアイズ・オブ・スペース、チェロを含む6人編成のポストロック・バンド、ラウラなど、オーストラリアには"シューゲイザーの遺伝子"を受け継ぐ良質なバンドが多く存在する。07年にシドニーで結成された、このザ・ブラック・ライダーもその1つだ。彼らは元モーニング・アフター・ガールズの中心メンバー、エイミー・ナッシュとスコット・ヴォン・ライパーによる2人組で、08年からブラック・レベル・モーターサイクル・クラブやザ・レヴォネッツ、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカー等と共に精力的にライヴを行なっていた。日本でも、今年の初め頃からMySpaceの音源がシューゲイザー好きの間でたびたび話題に上がっていたが、今作は、そんな彼らの記念すべきデビュー・アルバムである。

 逆回転ギターのヒプノティックなループに導かれてスタートする冒頭曲「To Never Know You」から、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの気違いじみたインスト曲「Glider」を連想させるイントロがたまらなくカッコ良い「Let It Go」までは、いわゆる"シューゲイザー・マナー"に則ったギター・サイケデリアを鳴らし、その手のファンを喜ばす。が、以降はさらにディープな世界へ。シャッフル・ビートとオルガンがサイケデリックに絡み合う「Grass」や、ザクザクとかき鳴らされるアコギが印象的な「Gone Without Feeling」などは、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカー辺りのブルーズ・ロックを彷彿させるし、スプリング・リヴァーブにどっぷり浸かったような「The Greatest Fall」や、ひび割れたヴォーカルと口笛が妖し気な「Sweet Come Down」などは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやギャラクシー500、あるいは久しぶりの新作『Through the Devil Softly』を昨年リリースしたホープ・サンドヴァル&ザ・ウォーム・インヴェンションズなどに近い感触もある。最近よくあるニューゲイザー系のバンドの1つ、などと油断していると、あっという間に異次元へと連れ去られてしまう危険な作品なのだ。

 なお、本作にはブラック・レベル・モーターサイクル・クラブのレア・シャピロとピーター・ヘイズ、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカーのリッキー・マイミー、元スワーヴドライヴァーのグラハム・ボナーら豪華メンツが参加し、全面的にバックアップ。新人バンドとは思えぬ力作に仕上がった。

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 正直に言って、デッド・ウェザーの1stアルバム『Horehound』は熱心に聞き込んだお気に入りの1枚というわけではなかった。ホワイト・ストライプス、ラカンターズに続いて登場したジャック・ホワイトの第3のバンド。ザ・キルズのアリソン、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのディーン・ファーティタ、ラカンターズからはリトル・ジャックが参加。またしてもスーパー・バンドと言えるメンツが揃った。さて、ここまで豪華なメンバーでどんな音を鳴らすのだろう?ジャックがドラムを叩き、アリソンのヴォーカルが叫ぶ。ブルースを基調としたカッコいい曲が揃ったアルバムだったけれど、そこには想像を超える発見が少なかった。3つめのバンドを結成してまでも鳴らしたい必然性が、あまり感じられなかった。

 だけど、そんな印象もライブを体験した後では、大きく変わる。「ジャックがドラムを叩く姿を見てみたい」という下世話な好奇心も手伝って、僕はZepp東京に向かった。3月31日、デッド・ウェザー一夜限りの来日公演。真夜中の水の底のような暗闇と青のライティングに浮かび上がる凶暴なノイズとブルース。自由なジャムやメンバーのパート・チェンジを繰り返しながら、一瞬も目をそらすことのできない熱い演奏が続く。ジャックは、手数こそ多いが、おかずは少なめで叩きまくる。そのドラムは、ギターと同じように吠えまくっていた。ヒップ・ホップ、クラウト・ロックという言葉さえもアタマをよぎる壮絶なグルーヴ。「第3のバンド」という思いは、2時間後に完全に吹っ飛ばされていた。

 ステージの青いライティングは海。そして、臆病者たちの色。『Sea Of Cowards』と名付けられたこの新作を聞きながらそう思った。アルバムは、来日公演でもプレイされた「Blue Blood Blues」から始まる。シンセサイザーとキレのあるスネアのイントロに導かれて、中盤で一気に爆発する「The Difference Between Us」やブルースとクラウト・ロックが合体した「I'm Mad」、そしてアリソンとジャックのヴォーカルが二重人格のように絡み合う「Die By The Drop」など、ライブでのグルーヴをそのまま封じ込めたナンバーが並ぶ。ディーンのギターとリトル・ジャックのベース・ラインは前作よりも存在感を増し、アリソンのヴォーカルと同調する。

 鋭角な言葉と一体になったリフの嵐。死の天候の中で、仮面を被った4人の臆病者たちが進む海。そこに放り込まれた僕たちは、ジャックの思い通りにブルースに翻弄される。その姿はたぶん、踊っているようにしか見えないだろう。

編集部より:日本盤は5月26日(水)リリース予定。

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 先日、友人のバンドのライブを見に行った。「ホワイト・ストライプスと同じステージに立ったよ」。汗を拭いながら冗談っぽくそんなことを言う彼の後ろには、薄暗い小さなステージが見えた。新宿URGA。ジャックとメグが日本で初めてライブをしたステージは、僕たちにこんなにも近かったんだ。もちろん、僕はその瞬間には立ち会っていない。でも、そのステージに上がる2人の姿が一瞬、見えたような気がした。そこには何ひとつ違和感がなかった。

 2007年の『Icky Thump』発表とその後のツアー以来、活動を停止しているホワイト・ストライプス。みんなが知っているとおり、ジャックはラカンターズやデッド・ウェザーとしてサイド・プロジェクトとは言えないほどの名作アルバムを作り上げ、ライブ活動も休みなく続けている。メグの不在がこんなにも長く続くとは思っていなかった。間もなく発売されるデッド・ウェザーのアルバムはもちろん楽しみだけど、ホワイト・ストライプスの活動再開がいちばんうれしい知らせになるんだろうな。ホワイト・ストライプスにとって初めてのライブ・アルバムとなる『Under Great White Northern Lights』を聞いて、僕はそう思った。そしてドキュメンタリーに描かれているジャックとメグの姿に涙がこぼれた。

 このライブ・アルバムとドキュメンタリーには、結成10周年を記念した2007年のカナダ・ツアーの様子が克明に刻みこまれている。ジャックとメグの間合いだけで成り立つスリリングで圧倒的な熱量の演奏。時に暴走するかに思えるジャックの演奏にも、メグはプリミティヴなビートでしっかり応えている。崩れ落ちる寸前、爆音の中で確かめ合う2人の眼差し。そして2人だけのブルースは成立している。

 ドキュメンタリーでは、ジャックとメグの「眼差し」そのものと言える関係が描き出されている。小さな町でのシークレット・ギグ、何気ない会話を交わす2人のオフ・ショット、旅先での様々な出会いなどから、ホワイト・ストライプスが音楽に立ち向かう姿が明確になる。もはや姉弟というギミック、恋愛という関係性すら超越してしまったブルースが結びつけた運命。それは呪縛かもしれない。だからこそ2人が離ればなれにならないためには、お互いの存在を確認する「眼差し」が大切なんだということ。

 ジャック・ホワイトがロックの歴史に永遠に名を残すことは、間違いない。そのジャックの才能に見出され、圧倒されながらも、音楽そのものに「選ばれてしまった」とも言えるメグの姿が愛おしく、切ない。やっぱりメグがいないとホワイト・ストライプスじゃないから。お互いの運命に寄り添うような2人だけのラスト・シーンがとても美しい。

 日本の小さなライブ・ハウスで、まだそれほど有名じゃないホワイト・ストライプスのギグが始まる。自信満々のジャックに手を引かれて、ステージに上がるメグ。そして、視線を交わしながらブルースを鳴らし始めた2人。いつかきっと、そんな感じで戻って来てくれるはず。もう一度、ホワイト・ストライプスの音楽が鳴り響く日を待っている。

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 まさか、これほどまでの完成度だとは!

 デロレアンは2000年代初頭から活動を開始した、スベインはバスク地方の4ピースだ。これまでに『Delorean』(2004年)と『Into The Plateau』(2007年)という2枚のアルバムをリリースしているが、その内容は当時の80'sリヴァイヴァルのシンセ・ポップ・バンドが雨後の筍のように現れた中において、決して突出した内容とはいえなかった。

 しかし、昨年リリースされた3曲(とボーナス・トラック)入りの「Ayrton Senna」EPで彼らはまるで別バンドになったかのように大きく変わった。90年代のハウスやテクノとニュー・オーダー風のシンセ・ポップを下敷きに、ファンキーなベースやストーン・ローゼスを思わせるようなギター、女性コーラスなどを組み合わせた楽曲。それは完璧なダンス・ミュージックだった。その幾重にも層を成す音のレイヤーの重ねぶりは、カット・コピーの『In Ghost Colors』を思わせる充実ぶりなのだから。しかも、このころからザ・ビッグ・ピンクやレモネードなどの楽曲をリミックスし発表、その完成度の高さも追い風になり、徐々にネットメディアやブログを通じて彼らの名前が広まっていった。

 そして、ついに届けられた3枚目のアルバムが『Subiza』だ。昨年の夏にレコーディングされたこのアルバムはもちろん、「Ayrton Senna」EPの延長上といえる音楽性。だが、そのレイヤーの数と複雑さは更に増している。例えるなら、アニマル・コレクティヴの『Merriweather Post Pavillion』。だが、アニコレが密室的でサイケデリックなのに対し、デロレアンは開放的でエキゾチック、まるで地中海の海辺の風景をそっくりそのまま切り取ったかのようで、ただただ美しい。

 ダブステップのビートを配した「Stay Close」でアルバムは幕を開け、続いてオールドスクール・ヒップ・ホップ風の「Real Love」、レイヴの高揚感をたたえた「Infinite Desert」など、トラックごとにビートやサウンドは様々な表情をみせる。だが、シンセやギター、キーボードに加え、ハンドクラップやサンプリングされた子供の声などのマテリアルを配したサウンドは一貫してイノセントでポップだし、シンガーのエクヒ・ロペテギ(Ekhi Lopetegi)の澄んだ歌声がとても心地よい。そう、バリアレック・リヴァイヴァルやインディー・ダンス...といったカテゴリーの枠には決して収まらない、広大なスケールのダンス・ミュージックが『Subiza』には広がっている。

 もうすぐ夏が来る。だが、こんなに心躍る夏のサウンド・トラックを手に出来た今年の僕たちはとてもラッキーだ。

編集部より:日本盤は6月23日(水)リリース予定。

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「不安も苦悩もないけれど、何かが足りない」。そんな思いに、ふと駆られたら「360°Sounds」EPを聴こう。イルリメは日々の中で忘れていた種の楽しみの心地や、すっと胸がすく気持ちを、粘土をこねるように音にして、ひょいっと僕らの前に差し出してくれる。そして聴くと思い出した気持ちになる。音に込められた豊かな心地を僕は忘れていたんだ、と。

 ジャンルで言えばヒップ・ホップなわけだけど、それはあまり関係ない。ファンク、エレクトロニカ、テクノ、ジャズなど様々なジャンルの音楽性を持つイルリメが、最終的にヒップ・ホップというカタチに落ち着いているだけで、重要なのは谷川俊太郎の詩のように石ころだろうと愛だろうと、かわいらしく、でもそれらのありのままの姿を提示するところにある。ジャンルなんて関係ない、という言いは時として陳腐なものになりがちだけど、いや、やっぱり関係ないんだと、本作を聴いていると思えてしまう。

 人気曲「トリミング」を再録。「とらべるびいつ」はYSIGのモーリス氏が参加。「Hello Mellow」はキリヒトの「君にメロメロ」をサンプリングした楽曲。それらを含むEP、全5曲。爽やかな声質の、韻を踏むことを過剰に意識しないリズミカルなライムがメロディアス。雪が溶けるように耳にすうっと入ってくるサウンドは心地が良くて、強すぎず弱すぎずのビートが高ぶった感情の温度を静かに下げてくれる。ここには怒りや哀しみを思わせるサウンドの一切がない。だから寝間着で聴いてもいいようなリラックスした音楽であるとともに、聴き手は高度な音楽性をも同時にリラックスしたまま聴けるのだ。

 この音楽は傍観者の視点で客観的に眺めるよりも、音の中に身を置いた方がずっと楽しい。本作をiPodに入れて外を歩けば、いままでどこかに置き忘れていた、あるいは見過ごしていた楽しみに気付けるんじゃないか。そんなふうに思えるほど360°の視界が開けてくる。そしてまた、本盤は個人の気持ちをふわりと浮かせることにおいても重要な意味を持つようになった今日的な音楽だと僕は思う。もちろん悪い意味じゃない。ヒップ・ホップだからといって毛嫌いしている方にこそ聴いてほしい。本盤は、ヒップ・ホップはアメリカ黒人音楽だとか、ジャパニーズ・ヒップホップは邪道だとか、そういうことは全然関係ないんだと思えるポップ感に溢れる。

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 マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、チャプターハウスが再結成に沸くなか、当時のシーンのなかで後続(特にエレクトロ方面)に与えた影響、という意味では恐らく最も大きいスロウダイヴの編集盤。コクトー・ツインズから耽美さを薄め輪郭を曖昧にして、幻想を生み出す1st『Just For A Day』、メロディが際立ち甘美さが増した2nd『Soulvaki』、エレクトロ方面に大幅に移行した3rd『Pygmalion』、そしてシングル3枚、EP2枚から。
 
 音源を振り返り感じさせられることがある。乱暴に言うと、バンド・サウンドでいうところの、彼らの音楽に影響を受けたシガー・ロスを筆頭とする(シガー・ロスを筆頭としてしまうのも語弊があるが、あくまで音の感じとして...)いわゆる音響系とも呼ばれたバンド群は、"荘厳さ"を伴ったり、"壮大さ"を纏ってい る印象がある。洗練されたイメージ。
 
 しかし実は彼らは違う。ぜひ初期のシングル3枚、そして前述の『Just For A Day』のジャケットを見て欲しい。まさにそんなイメージ。霧で覆われた洞窟から抜け出せないでいる音。現実と幻のあいだにあるような、まるで三途の川で流れているかの感覚は、1曲目から最後まで一貫しているといえる。そんな世界を覗きたくて、この音源に手を伸ばす。浸る、というより、覗く、漂う。
 
 90'sオリジナル・シューゲイザーの再評価がされて久しいが(90年代後半から2000年前後にはどのCDライナーノーツを見ても、そんな言葉は死語として避けられるか、否定的な文脈で語られていたように思える)、当時の市場の規模は小さく、普遍的に語られるべきバンドなんて実際ほんの一握りだと思っている。そんななかでも、現在のシーンを考えても最も知られて欲しいバンドだと思っている。

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 ミシガン州のカラマズーを拠点に活動するクラッシュ・シティ・セインツは、ジョシュア・ガーマンとクリス・ワーハマキの2人のギタリストに、レコーディングやライヴ時のメンバーで、紅一点女性ヴォーカルであるエイプリル・モリス、マット・マッサッチ、ネイサン・ガーマン(ジョシュアの弟)の3人を加えた5人組。本作は、彼らが07年にリリースしたシングル「Returner」の全収録曲と、08年のファースト・アルバム『The People Were Even Stranger』からチョイスした8曲に、書き下ろしの新曲「Broke」を加えて新たにマスタリングし、クインス・レコードよりリリースされた世界デビュー作である。

 米国には初期リリーズを筆頭に、轟音番長スコット・コルツの1人ユニットであるアストロブライト、先日奇跡の来日を果たしたフリーティング・ジョイズ、もうすぐファースト・アルバム『COLOUR TRIP』をリリース予定のリンゴ・デススターなど、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(MBV)の影響をダイレクトに受け、それを何の衒いもなくアウトプットするバンドが数多く存在する。「僕らはケヴィン・シールズへのリスペクトを、一度たりとも忘れたことはない」と公言するクラッシュ・シティ・セインツも、その一つと言えるだろう。「『Isn't Anything』に対する返答」と自負する「Every Face Is A Mirror」をはじめ、『Loveless』移行期のケヴィンが書きそうな切ないメロが印象的な「Council Of Elders」、さらにはMBVの「Only Shallow」を思わせるリフと、コルム・オコーサク(MBVのドラマー)ばりの機関銃ドラムが効いた「Returner」など、「どんだけ好きやねん!」と思わず突っ込みたくなるような、ぶっちゃけて言えば"まんまMBV"な楽曲がズラリと並んでいる。それでも憎めないどころか、たまらなく愛しい気持ちになってしまうのは、先に挙げたバンドと同様、そこにはMBVへの"狂おしいほどの愛"が込められているからだろう。ちなみに本作の中で重要な要素となっているのが、紅一点エイプリル・モリスのヴォーカル。MBVのビリンダ・ブッチャーというよりは、カーヴのトニ・ハリディやコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーにも通じる耽美で妖艶な歌声が魅力だ。

 シングルやアルバム収録曲、書き下ろし曲の寄せ集めなので、アルバムとしてのトータル性が希薄なのは正直否めない。しかし、彼らのソングライティング能力の高さを知るにはマストな一枚と言えるだろう。今後が楽しみのバンドだ。

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 ほとんどの音楽は、聴く前から大体どのような音なのか、なんとなく分かっているものが多いと思えるが、もし、破滅覚悟の気持ちで、そして暗闇に身を投げる度胸でもって未知の音楽体験をしたいと思う人がいるならば、僕は迷わずこの作品を薦めたい。本作もまた、破滅する覚悟を持つアーティストの音楽だ(クッキーシーン読者にそういう音楽を求めている方が多いか分からないけれども...)。  

 聴けばたちまちのうちに心揺さぶられ、飲み込まれ、放心寸前の心地が胸の深くから湧いてくる。唯一無二のビート・メイカーかつ西海岸アンダーグラウンド・シーンきってのプロデューサー、マッドリブが別名義で創りだした『Slave Riot』、それはまさに、今まで以上に緊迫の色が濃いインストゥルメンタル・ミュージック。重心を低く保った重量感のあるグルーヴにはまり、四方八方から聴こえてくるパーカッションが思考の弛緩を誘う。ファンキーなベース音や妖しげなサックスとストリングスが鼓膜に飛び込み、その魅惑的な音の全てが辺りの重力を歪ませる。一瞬でも気を許せば夢遊病者と化すであろうサウンドに痺れる53分。一気に聴かせる。

 これはちょっとBGMとしては聴けないな、という感じであり、面と向かって一対一で聴くべき音楽だ。決して歌心に溢れているとは言えないが、「え?」っとなったり「お?」っとなったり、はたまた「ん?」っとなったりと、奇妙キテレツな音色に溢れているものだから突発的な新鮮性に驚き、ざわめき、聴いているうちにもっともっと音が欲しくなる。中毒性がある音楽とはこのことかよと驚愕した。クールでいて危険な香りがエキサイティングであり、狂乱、乱雑、それらが醸し出す不謹慎とも言える快楽に焦がされる。しかも耳を近づければスウィング感が十分あるのだ。

 マッドリブはイエスタデイズ・ニュー・クインテット名義でクラブ・ジャズ的な音楽も、ジャジーなヒップ・ホップも発表しているが、この作品でフリーに突入し、自由という名の束縛の中で自分は一体どれだけできるのかと賭けに出た。それが伝わるからなおさら痺れる。僕は乱れろと言いたい。マッドリブの過度期にあたるであろう本作で乱れなさいと。そうして訪れるは狂乱の渦に焼かれる快感。痺れが止まらない。

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「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」
「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」
「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」
 
 これらは「虹色の戦争」の歌詞の一部分で初めて聞いた時からこの歌詞の部分のインパクトがすごくて頭の中で巡る、巡る、めぐる、廻る、メグル、巡って脳内リフレインした。

「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」って巡る。

「世界の終わり」の『EARTH』のアルバムのジャケットはバンド名「世界の終わり」をローマ字表記したもので「SEKAI NO OWARI」とある。

SEKAI
NO
OWARI

 で「NO WAR」って部分が虹色でデザインされていて、それがメッセージだったと気付いたのは買ってしばらくしてだった。すごいネーミング。

「世界の終わり」のイメージって最終戦争とか、大事な人が奪われたりいなくなったりこの世界が崩壊して彩りを失うことを意味するのに、ローマ字にして虹色で「NO WAR」が隠されている。この精神は何だろうかと僕は思った。それによりさらに彼らに興味を持った。何度も繰り返してアルバムを聴いた。

 世界を終わらさないための「NO WAR」であるのが本当の意味での彼らのバンド名なのか、意図的なダブルネーミングか。だとするとこのバンドはかなりひねくれててアイロニーもたっぷりだ。期待値が上がってくる、どこまで行くのか。

 どこまで本気で世界を変えようとしているのか、戦おうとしているのか、ポップなメロディにそれに反するような歌詞や言葉がそれらに乗って聞き手の中で巡り、その意味を考えてしまう。

 ツイン・ギターにピアノにDJという四人編成でそのDJはピエロのお面を被っている。しかも名前は「LOVE」で二代目だそうだ。メンバーのインタヴューを読むとヴォーカル・ギターの深瀬慧は中学もほとんど行かず、その後に二年間アメリカに留学するつもりが二週間でパニックになり、その後精神病院に入り退院し音楽を始めている。

 その後、プロ・ミュージシャンになるよりもライブハウスを作るよう方が簡単だとバンド結成よりも前にライブハウスを作り活動を始めた。そこに集まったメンバーが今の四人であり、深瀬の学歴もなく、将来に対しての不安や夢も希望もない状態、そして「死にたくない」というもの、それらの危機的な絶望的な状態からの「生きる」という理由を探し、もう一度歩き出すために考えに考えた末の決断がライブハウスを作りバンドを始めることだった。

 ライブハウス「EARTH」にはスタッフが15人いるらしい。彼らはひとつのコミュニティである。「世界の終わり」というクリエイティブカンパニーでもある。

 同じ意志を持ったコミュニティとして世界と向き合おうとしているような感じがする。この感覚はとても正しいのでないかと思う。グローバリゼーションが破壊したある意味での経済活動やインタネーットの普及で変わってしまったクリエイティブの表現の中で僕ら個人は戦うものが多すぎるし、孤独だ。

 その孤独を武器に世界に自らを表明する創造的表現をしていくのか、あるいは集団としてカンパニーという仲間と共に世界に向かい合うかという選択ぐらいしかないのかもしれない。

 大きなレコード会社だとかを抜いてしまい、自分たちのカンパニーで今までだったらレコード会社がしていたことを自らの手でやり、活動していくというのが「テン年代」(by 佐々木敦)のスタンダードな音楽活動になるのかもしれない。

 それがスタンダードになるのなら彼らの鳴らす豊潤な音楽と刹那的にも思える歌詞の相互作用により多くの支持を得ていくバンドになるだろう。このアルバム『EARTH』はその「世界の始まり」になるはずだ。極めて「テン年代」的な、このディケイドを代表するバンドになる可能性が高いと思う。彼らがこの先どう展開していくのかが楽しみだ。

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「ガールズ」や「ドラムス」など検索し難いバンド名が流行中(?)の昨今だが、このバンドもちょっと検索し難い。彼らの名はマーチング・バンド。スウェーデンのリンシェーピン出身の、エリックとジェイコブという2人の青年によるユニットだ。本作は、各方面で絶賛されたファースト・アルバム『スパーク・ラージ』に続く2ndアルバムで、エド・ハーコートやカメラ・オブスキュラ、コンクリーツの作品で知られるヤリ・ハーパライネンがプロデュースを手がけている。美麗なピアノで幕を開ける「ANOTHER DAY」から、ほとんど産業ロック(?)なギター・ソロがフューチャーされた「OKEY」まで、前作よりもアレンジの振れ幅が広がり、聴き手を飽きさせない構成になっている。もちろん彼らの持ち前のキラキラした美メロは健在で、二人のヴォーカルのハーモニーもバッチリ。同郷のローニー・ディア辺りにも通じる、丁寧に作り込まれた楽曲群は、インディー・ポップ・ファンのハートを鷲掴みにして離さないだろう。

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「書を捨てよ、町へ出よう」とはいったもんで、引き籠ってばかりじゃあ頭でっかちになるばかり。おまけに人との会話も億劫になってしまうから困ったもので、「書を捨てよ、町へ出よう」に賛成だ。町へ出て、色々なことを体験した方が良い音楽作れそうだし。ところがどっこい、数学博士でもあるダン・スナイスことカリブーは、まさに部屋に閉じ籠る音楽オタクなのだった。

 オタク属性特有の「できれば分かってほしいけど、分かってもらえなくてもかまわない」という、音のこだわりをもってして、もともとは純粋と言えるエレクトロニカを奏でていたが、作品を発表するたびに音楽性は変化し、それはエレクトロニカ・シューゲイザーであったりサイケデリック・ロックと表してもいい作品だったりした。そのどれもに彼の音マニアとしてのこだわりとシューゲイザーへの愛が刻印されていた。

 本作『Swim』はダンス・ミュージックではあるものの、それは表面上だけで彼の音マニアとしてのこだわりは絶対的なまでに貫かれている。しかしダンス・ミュージックという非常に分かりやすい要素を取り入れたことで、彼の「分かってもらえなくてもかまわない」というオタク的スタンスは崩壊し、リスナーの「うん、分かる、分かる」という共鳴を生んだ。と同時に、同じオタク属性の、音マニアからも支持を受ける結果となった。もしリスナーを強引にクラバーと機材オタクに別けたとしても、本作はその両極端のリスナーを同時に包容してしまうほどに作り込まれた音とダンサブルな音に溢れる。そこにこの音楽の魅力がある。

 同じく音マニアのフォー・テットと比べてみるに、両者の違いはジャズをルーツに持つフォー・テットが豊かな演奏技術に裏打ちされた音楽性を押し出す中、カリブーは部屋に引き籠り、うんしょ、うんしょと、脳内世界を具現化しようとしている感じである。いわば、仮にフォー・テットが体育会系ならばカリブーは理系である(実際に数学博士なわけだが)。ひょろひょろで肌は青白く、太陽は僕の敵という感じの、絶対クラブに行かなそうな音楽オタクが脳内で奏でるダンス・ミュージックがここにある。それはピンク・フロイドの1stのように甘美であり、わずかに狂気の香りがする。

編集部補足:日本盤は6月16日(水)リリース予定。

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 今作はノルウェー出身の新世代シューゲイザー・バンド(ニューゲイザーではなく)、セレナ・マニーシュの4AD移籍後、初のアルバム。

 最初にアルバム全体を通して聴いた時に、前作との作風の変化に驚きました。端的に言うと、セルフ・タイトルを冠した前作よりも、はるかに耽美的で閉鎖的。

 もともと、シューゲイザーからの影響を公言していたけれど、それを執拗に押し出すのではなく、あくまでサウンドの一要素として取り入れていた彼ら。中心人物でありギタリストのエミール・ニコライセンと、その妹でありベーシストのヒルマ・ニコライセンは音楽家一家に生まれたこともあり、ロック以外の音楽からも影響を受けており、その雑多なバック・グラウンドをヴァイオリンやオルガンのパートもいるこのバンドで鳴らすことによりカオス的になり、それが結果的にシューゲイザー・サウンドとして成り立った、と言った感じでした。デビュー・フル・アルバムである前作を聴いた感触としては、シューゲイザーと同時に80'sポスト・パンクやゴス周辺のようなカラーを前面に打ち出しているな、と思いました。

 このアルバムは、その前作から垣間見えていた、そういった要素をより色濃く表したアルバムと言えましょう。もちろん、あえてジャンル区分をするのなら、やはりシューゲイザーとなるとは思いますが、その一方でザ・ホラーズにも決して引けを取らないような耽美的なサウンドに仕上がっています。確かに、前作の雰囲気からこう言ったサウンドになることは、少しながら予測はできたとは思いますが、自分のような多くのリスナーはやはり困惑してしまうのでは、と心配してしまうところでもあります。これはやはり耽美派の総本山とも言える4ADに移籍したこともたぶんに影響しているのでしょう。

 厚い雲がたれこめて、雷鳴が鳴り始め時のような不穏なこのアルバム幕開けを飾るインスト曲「Ayisha Abyss」。その嵐が去った後に、まだ降り止まぬ雨の中を駆け抜けて行くような「I Just Want To See Your Face」。やはりこの始まりの二曲の展開が、アルバム全体を表すカラーであり、自分達のスタンスを今一度示しているかのようです。中盤の「Melody For Jaana」や「Blow Yr Brains In The Morning Rain」の酩酊感は隣国、デンマークのザ・レヴォネッツもたじろぐほどで、「Honeyjinx」はソニック・ユースの「Shoot」を彷彿とさせます。

 書けば書くほど、カオスさが浮かび上がる今作。アルバム全体を通して聴くと、前作よりまとまった印象を受けますが、かといってリスナーに歩み寄った、聴きやすいサウンドかと言えば、そうではなく、あくまで今の自分達のスタンスを突きつける色合いが濃いように思います。今作の歪つなまでの酩酊した耽美さも良いですが、前作ではシューゲイザーやポスト・パンク的ながらポップ・ソングをところどころに散りばめていた彼らなだけに、次作は再びそう言ったサウンドも思い返してくれると嬉しいな、と感じたり。

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 2009年にリリースされたアルバムも素晴らしかった、イッツ・ア・ミュージカル(It's A Musical)や、ボビー・ベイビー(Bobby Baby)名義でも活動しているスウェーデン人女性ヴォーカリストエリノア・ブリクシ(Ellinor Blixt)と、いわゆるエレクトロニカ・アーティスト、F.S.ブルム(Blumm)というドイツ人ベテラン・ギタリストによるデュオ、ボビー・アンド・ブルム名義まさかの2作目。続編が出るとは思わなかった。

 良質なインディー・ポップを量産しているMorr Musicの諸作の中でも異色といえるほど、リラックスしたムードに溢れた良盤だ。決して生演奏だけにこだわった作品ではないのだけど、部分的には室内楽と言ってもいいような、落ち着いたエレガントな雰囲気にあふれている。

 F.S.ブルムのエレクトロニカ系のプロダクションは、リバース再生などが所々にちりばめられているがかなり抑えめな印象だ。フェンダー系のギターの音もノン・エフェクトじゃないかというほど生々しいクリーン・トーンで録られている。

 エリノアのヴォーカルのかすんだ質感もすごく良い。イッツ・ア・ミュージカルの時の様な張った唄い方も良いのだけど、このアルバムでの深呼吸の様なリラックスした唄い方の方が彼女の本来の持ち味だと思う。

 流す程度に聴いていたら、「Seascape」の最後、ベースの余韻がフェード・アウトせずに、10秒以上しっかり収められているのを、じーっと聴いてしまった。一度に鳴っている音数も少ないので、ひとつひとつの音に自然と意識が向くのだろう。「Take A Sip(NO.2)」後半の、16分音符5個取りのシーケンス・パターンも、ポリリズムを強調するでもなく、音量抑えめでそれだけが際立たないよう注意深くに配置されている。エレクトロニカ的と思える箇所はほとんどなく、アルバム通じてライヴ・バンドのようなナチュラルさだ。全編通じてチェレスタの音がすごくきれいに録られているのが印象的なのだが、これって本物なんだろうか。実物を見たことがないんだけど。

 このアルバムを入手したのは、4月半ば、異様に雨の多い春だったのだけど、ある日、部屋で鳴るこのアルバムをBGMにベランダに出てぼんやり三軒茶屋の景色を眺め、この曇った空のちょっとけだるい感じと相まった、ナチュラルでリラックスした雰囲気に浸っていた。しばらくすると、iTunesが別のアルバムを再生し我に返った。以来、何人かの友人に聴かせたところ、晴れてる日に緑道を散歩するときにこういうのを聴きたいだの、自転車に乗ってちょっと遠出してみたくなるだの、喫茶店で死ぬほど聴いたボサノバなんかがかかるよりこういうのがかかると良いのに、などという感想を僕にはずかしげもなく語ってみせた。なんか木漏れ日っぽい音楽だよね、と言った人もいた。いい歳こいた人間を、こういう感情に駆り立てるのだとしたら、これほど危険な音楽はない。

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 いとうせいこう氏がヒップホップ黎明の時期に発表した「Mess/Age」という曲は知っている人も多いだろうが、それは70年代の後半にNYで誕生して、USで80年代以降に台頭したヒップホップの持つ内在的なややこしさ、切実さ(例えば、人種差別の壁や経済格差の問題)を形式的に、ラングとパロールの対立軸を脱構築して、問題性から日常的抽象性にスライドさせた意義として大きかった。

 社会的に共有される言語上のコードと、個人的側面の言語運用の解析をした結果、日本ではゲットー的な何かとは、「仮想化」されるべきものでしかない部分もあり、ハードな表現するには、どうにも「大文字の他者(Grand Autre)」が許さなかった。としたならば、小沢健二&スチャダラパーの「今夜はブギーバック」やフィッシュマンズ「Baby Blue」の「何も言ってなさ」が現在進行形でずっと残り続ける意味は容易に解析出来るだろう。

 つまり、日本という磁場で「何かを言う」には「何も言わない」周到な自意識の回避が付き纏うということである。集団的な自意識をポスト・コロニアル化してくる大きな言葉や物語に当惑している時間よりも先に、積極的に「Mess=混乱」「Age=世代」として切り分けるしかない導線の上での綱渡りを試行する為には積極的に「黙る事も雄弁」であり、ラカン的に、どうやっても言葉では現実そのものは語れないが、同時に、人は言語を用いないと現実を切り取れないからだ。人が言葉と出会う事は、「不可能なもの」だ。

 98年にデビューしたSpangle call Lilli lineが10年以上に渡って創り上げた音像には美しさと静寂が同居していて、エレクトロニカとバンド・サウンドの有機的な組み合わせとポスト・ロック性、は軽佻浮薄な日本の音楽シーンの中でエコーのように現前し続け、その雄弁な沈黙の行間から滲み出る意味はとても批評的だった。また、例えば、僕のような、シカゴ音響派勢で言うトータス『Tnt』、ザ・シー・アンド・ケイク『Oui』、サム・プレコップ(Sam Prekop)『Sam Prekop』、タウン・アンド・カントリー『It All Has to Do with It』辺りの質感を愛する者にとっては、彼等のセンスの良さと、声の小ささにはいつも胸躍らされたし、日本では貴重な存在だという認識を持っていた。

 12年目に入った今年、その沈黙がどんどん大きな声にアンプリファイドされていっている事を感じる。先ず、相対性理論の永井氏をプロデューサーに迎えてのシングル「dreamer」のポップさと麗しさは今までにない開け方があり、それまで門外漢だった人たちも多く巻き込んだ。ちなみに、僕は相対性理論というバンドも小声の素晴らしさを持つバンドという印象があり、そこに鏡像性を持ち込むか、「対象a」的に捉えるかしかない部分があり、オタクやサブカル文脈で回収される意味が分からない所があるのだが、今回、永井氏とSpangle call Lilli lineの化学反応がとても良い形で、健康的な奥行きの深さをもたらすことになったのは、素直に嬉しかった。そして、セカンド・アルバム『Nanae』以来、8年振りに組んだ益子樹氏と組んだ新作の『View』はとてもユーフォリックで祝祭的な輝きを放っている。アッパーで派手な幕開けを示す「eye」、カントリー調のリラックスした「Shower Beige」。その他、これまでの彼等の持ち味が存分に発揮された曲が陽的に提示されているが、いつも通りの浮遊性とポップ感に、今回は大人の成熟、色気が加わっているのは大きい。今までに比べ、ボーカルの大坪女史のキーを抑えた歌唱が効いているのかもしれないが、全体に独特の艶美さがある。そこに、益子氏が意図しただろうストリングスが大胆に絡んでくる快楽は大きい。ともすれば、アルバム・リーフ、カイト(Kyte)の新作との共振さえ感じるこのドリーミーなムードはなかなか稀有なサウンド・センスを持っていると思うし、これだけポップに開けながらも、やはり限りなく小声な佇まいも素晴らしい。

 6月にはtoeの美濃氏と組んだアルバム『forest at the head of a river』が早速リリースされる。その前に、リキッド・ルームでのライヴがあるが、そこで当面のライヴ活動自体の中止を宣言しているので、とても自覚的な形でのこのリリース・ラッシュと作品の方向性の舵取りを決めたのだろうが、この充実振りを看過するのは勿体ないと言える。

『View』には劇的に世の中を変える大袈裟な仕掛けもこれみよがしなフェイクもないし、大きな意味は無く、彼等の来し方をずっと愛してきた人にはささやかなプレゼントのような作品かもしれない。ただ、3D映像用の眼鏡のような現実を仄かに浮かび上がらせるスペクタクルがある。そのスペクタクルは巷間に溢れるダイナミズムの力学を忌避する類のものであるのは言うまでもないだろう。

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 シカゴ音響派でこそないが、ボニー"プリンス"ビリーことウィル・オールダムといえば、あの界隈における仙人のようなSSWである。外見も仙人さながらなのだが、フォークやカントリーから半身ぐらい乖離した(脱線しすぎるとかえって胡散臭くなる。その塩梅が素晴らしい)独特の孤高感と距離感がまた仙人的なのだ。悟りや真理に指先で触れたかのような神秘さまで孕んでいる。
 
 ここ数作において、曲に明るみが増したり、トータスとカヴァーアルバムをドロップしたりなど、彼のサウンド・スケープには静かな変容が伺える。今作もまたカイロ・ギャング(事実上エメット・ケリー)とのコラボレーションという名目(オリジナル盤のアーティスト表記はBonnie 'Prince' Billy & The Cairo Gang)ではあるが、エメットは既に二枚のアルバムに参加している。極端に言えば「なにも今更そんな名義で出さなくても、エメットがいるのは当然というか...」という心境で新譜に臨んだのだが、確かに違う。コラボ名義でドロップする意義が大いにある。
 
 今作では、ほっこりする暖かさが見え隠れしている。彼らの談笑がどこからか聴こえる。ボニー特有の内省的な姿勢は健在しているが、彼らの間でその厭世を相互理解したような、一種の温もりがある。「仲間しか知らない秘密基地」の共有意識に似ている気がする。
 
 実は歪んだギターがそれなりの割合を占めている。やはりクリーンな音色の方が美しさを想起させるのが常なのだが、どうしてかボニーの楽曲は、ロジックを跳躍して美しく響くことがある。元々私達自身が歪んでいるから、なにかとシンクロする部分でもあるのだろうか。なんにせよ、言語化できない神秘性が潜んでいる。

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 ラヴ・イズ・オールのポップの定義は明確だ。キャンキャン歌う女の子のヴォーカルが飛び跳ねる。とどのつまりはその一点。「もっとハイに! ポジティヴに!」と言わんばかりの歌声とギター、ベース、ドラムス、サックスのスピードに乗った演奏が突っ走る。一切ロウに入ることのないハイなテンション。夢にまで記憶が残る鮮烈なサウンド。もしこの音楽を辞書でひくなら出てくる単語はストレート。

 その姿勢はアロハやオーウェンなどで知られるレーベル、Polyvinylに移籍し、発表した3rdアルバムとなる本作『Two Thousand & Ten Injuries』(初国内盤化)でもぶれていない。デビュー当初はポスト・パンク・リヴァイヴァルと評され、2ndアルバムではガレージと評されたスウェーデン出身、男4人女1人の彼ら。ポスト・パンクやガレージの要素を残しつつ、エレクトロの要素を取り入れ、わずかにシューゲイザーも取り入れ、なおかつ凝ったサウンド・エフェクト、立体的なミックスが功を奏し、本作では、もはやムーヴメントに収まらないほど音楽性のふり幅は広がった。が、しかし、やはり真っ先に耳に飛び込んでくるのはキャンキャン、ポップな女の子ジョセフィーヌのヴォーカルだ。

 アート・ブレイキー並のドラミング、フリー・ジャズを思わせる歪んだサックス、すっとんきょうなギターが、ジョセフィーヌの歌声に絡みつき、整頓されないまま飛び出てくる。ぶっきらぼうだがそれがいい。愉快痛快とはまさにこのこと。あえて例えれば、ヤー・ヤー・ヤーズの1stアルバムをキュートにしたような作品だ。

 ラヴ・イズ・オールはトーキング・ヘッズにも、TVオン・ザ・レディオにもなれる素質を持っている。しかし彼らはそうならなかった。それはあくまでも自分たちのアイデンティティは、苦労も苦難も高らかに笑い飛ばしてしまうシンプルなポップ性だという自覚がはっきりしているからなのだ。ゆえに聴くたび真っすぐ耳に飛び込み、スカッとするしグッとくる。メロディをわずかに崩し、ちくりと刺す程度の毒っ気ある歌声を忍ばせているところもグッド。ネガティヴな物事のみではなく、ネガティヴ思考が渦巻く現代にあって、本作はネガティヴ思考をも実にチャーミングに蹴散らしてしまうのだ。そこにまた、スカッとする。

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 ドゥルーズの言い回しに「逃走線」という言葉がある。

 諸々の逃走線は社会野のリゾーム、地図作成法となっており、それは脱領土化の運動と同じものであり、自然への回帰では全くない。もっと言うならば、欲望の編成行為のエッジと言える。故に、諸々の逃走線は必ずしも革命的であるわけではなく、反対に権力装置が縛りまとめるものである。そこで、彼は「戦略」を持ち出す。戦略とは、逃走線に対し、その統合や方向付け、そして、収斂や分岐に対して、二次的でしかない訳だ。欲望とはまさに、諸々の逃走線の中にある、流れの統合と分離である。欲望は逃走線とは、区別される。アントニオーニの「欲望」を想い出すまでもなく、そもそも欲望はとても不条理なものであり、その不条理なものを装置的に囲い込むのが社会システムと言えるとしたならば、マシュー・ハーバートが試みてきた数々の実験と果敢なチャレンジはどのような成果をもたらしたか、を敷衍して考える余地はあるかもしれない。

 現在進行形で常々動く、彼の長い歴史の説明は寧ろ必要がないかもしれない。

 ただ、簡単に纏めると、ビョークの『Vespertine』のプロデューサーに起用されてから、その後のリミックスでの優秀な仕事、ドクター・ロキット、レディオ・ボーイ名義など様々なものをスキゾに縦横無尽に渡りながら、ハーバート名義での3作目の01年の『Bodily Functions』でシーンを揺らがしたのは記憶に新しい。この作品により、クリック・ハウス文脈からも称賛を受け、また、生活音を取り入れコラージュをする手腕、プリセット音を使わない職人的な音作りや美麗なサウンドレイヤーへの意識への高さからも、注目を浴び、彼を絶賛していたジャイルス・ピーターソンの名前を挙げるまでも無く、世界的な評価を得た。特に、「Audience」に至ってはよくFMで聴いた(日本でも、かのKREVAも自分のラジオでお気に入りでかけていた)。その後、室内楽的ビッグバンドへ接近した03年の『Goodbye Swingtime』、05年の食品産業へのアイロニーを込めた『Plat Du Jour』、06年の会心作『Scale』など常にぶれのない姿勢を続けてきた。

 余談だが、僕個人としては、彼の音響工作の妙とダイナミクスの力学を端的に示すのは『Bodily Functions』も勿論なものの、実は、リミックス・ワークを纏めた02年の『Secondhand Sounds』といまだに思っている。何故なら、リクルースからセルジュ・ゲンズブール、更には自身のワークまでを跨ぎ、独特の揺らぎと美麗さを極めたサウンド・コンクレートの為され方はここに凝縮されており、ある種、以前/以後の彼の音像を「規定」した作品群がおさめられていると言えるからだ。それにしても、どのワークにしても、どこまでも美麗でソフトな手触りの音、ダブやクラシックやジャズを参照点にした上手な咀嚼の仕方には唸らされる。

 また、彼は、「音」自体の側面以外にも、ハンバーガーや世界的アパレル・ブランドの商品を潰してそれをサンプリングして、即興的にビートを構成するパフォーマンスや明確に反グローバリズムを発言する活動家としてピックアップされる部分があったのは否めない。そして、ジャーナリズム・サイドも、その姿勢を面白がり、付随するサンプル数や品物の種類や過激な発言を敢えて抽出するようなところがあったのに対して、僕は妙なもどかしさも感じていた。何故ならば、バルトーク的に「音の政治性」というコンテクストを敷けば、もっと皆が彼の創る音楽の美麗さに最短距離で近付けるかもしれない、と思っていたからなのもある。

 そんな中、ソロ三部作と銘打って、彼はマシュー・ハーバート名義で「世界」ではなく、遂に「自分」と対峙する事になった。今回は、「1人の男」をコンセプトとして、彼の人生の「とある一日」を描写したものになっており、ソングライティング、演奏、サンプリング、レコーディング、ミキシングに至るまでの全制作過程をハーバートが完全に1人でこなしている。今後も、1か所のクラブで一夜の間にサンプリングされた音源だけを用いた第2弾『One Club』と、1匹の豚が生まれてから屠殺されて食べられるまでをサンプリングで音楽に仕立て上げた第3弾『One Pig』が順次リリースされる予定となっている。

 さて、第一弾の『One One』はどうなのか。結論から言うと、これがしかし、良い意味でいつものハーバート以外、鳴らせない音が鳴っている。エレガントにダルで、捻じれた音の位相が微妙に緩やかに変わってゆき、曲名は徹頭徹尾、マンチェスターやバレンシアという地名に統一された記号的な有り方という、センスは相変わらずな部分がある。しかし、一つ、これまでと違うのはパーソナルでメランコリックに、よりミニマルな様相になっているということだろうか。反・グローバリズムや常々、コンセプトを標榜して世界へ音を届けようとしていた彼が、自分自身と向き合った結果、どうにも零れ出る自省のムードがベッドルーム・シンガー・ソングライターのそれに似て、非常に面白い。

 僕は、この『One One』での、一人の人間としての、マシュー・ハーバートが紡ぎあげる狂おしいサウンドの先に、何故か、オウテカの新作『Oversteps』の美しい静謐性に似た感覚を想い出してしまった。オウテカの新作も非常に緻密に編まれた優美でメロウな内容だったが、その音の隙間から滲み出るものには今までにないマッドネスを感じた。そういう意味で言うと、余計なバイアスを除いて音だけに耳を澄ますと、柔らかく日常が歪んでくる、そんな相変わらずのフリーキーさも備えているところがやはりハーバートの本懐だと思う。これから続くONEのシリーズを期待させる充実した内容の力作だろう。

 逃走線上にまだまだ、彼は戦略を練る。

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 シューゲイザー? レイヴ? それともシュー・レイヴ?

 日本でのみセカンド・アルバムとして発表された前作『Science For The Living』のイギリス版というコンセプトの下に制作が開始され、新曲も加えたこのアルバム『Dead Waves』を聴くと、上記の形容のどれもが彼らカイト(Kyte)のサウンドを捉えきれていないことが、すぐに分かるでしょう。今作は本国では彼ら初のフル・アルバムとしての、デビュー盤となっています。

 まず一聴しただけで、今までのどの作品よりも電子音を大々的に取り入れていることに驚かされます。いや、前作のタイトルが『Science For The Living』だったり、今作にも収録されている「The Smoke Saved Lives」や「Designed For Damage」といった曲のタイトルを見ただけで、文系・文科系の数のほうが多いだろうインディ・シーンにおいて、明らかに理系っぽい異質な雰囲気を漂わせていた彼ら。今作は、その理系的スタンスが見事に活きたエレクトロニックなサウンドの攻めのデビュー作と言えましょう。

 前作では序盤の流れのなか、ゆるやかな印象すらあった「The Smoke Saved Lives」。今作では再録され、力強いボーカルと、より動と静が強調したサウンドを手に入れて、アルバムの幕開けを飾ります。続いて今作を象徴するような、新曲「Ihnfsa」の吸い寄せられるような吸引力をもったイントロを聴いただけで、気がつけばリスナーは既にカイトの世界に引き込まれています。アルバム全体に過去に発表した曲の新録を散りばめながらも、明らかにそれらを上回りながら、新曲でもその世界観を余すところ無く見せつける本作。シューゲイザーやレイヴは感じさせるものの、そのどれもが、限定的な範囲にとらわれず、しなやかに鳴らされています。旧来のファンも取りこぼすことなく、新たなフィールドを開拓していく彼らの積極的な姿勢が強く表れているでしょう。

 ところで、日本での単独公演は軒並みソールド・アウト、去年のサマー・ソニックでの来日でも力強いパフォーマンスを繰り広げてくれた彼らですが、まだまだ本国では、そのUKシーンでは異質なサウンドからなのか目覚しいほどの人気は確立していないようです。前作をふまえたデビュー・フル・アルバムとなる今作が、本国ではどう受け入れられるのでしょうか。気になってしまう作品です。

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 オランダのデザイナであるディック・ブルーナがミッフィーことうさこちゃんを生み出したのは1955年。今年で生誕55周年ということで、福音館書店からは色(所謂ブルーナ・カラー)を初めとして絵本が大幅に改訂され、本展が開催されることとなりました。

 展示はまず、デザイナとしての仕事の紹介から始まります。あくまでミッフィーが主役の展示会という性質からコンパクトにまとめられていますが、ペーパーバックの<ブラック・ベア>シリーズの宣伝ポスターや本自体の装釘に見られるシンプルかつ洒脱なデザインから、後の仕事への繋がりが見えてきます。また、友人の誕生日が書き込まれたカレンダーも人柄が偲ばれるものでした。

 そしていざミッフィーのコーナーへ。何と言っても、不採用のものも含めた原画(原画なのです!)が豊富に展示されていることが素晴らしいです。ブルーナがどのように描いたのか、線の具合や修正の様子も含めて間近に観てとれます。ブルーナ・カラーと称される色を直に観られるのは特に興味深いです。また、最終テイクに到るまでの異なったバージョンを同時に展示しています。そのため、絵やデザインだけでなく、ストーリーやテーマについてもバランス良く紹介されています。

 最後のコーナーでは、多くの方がメッセージを寄稿しており、個性的なミッフィーが展示されています。また、ブルーナ・カラーの家具に新装版の絵本が収納されており、実際に触れて読む事が出来ます。

 会場を出るとグッズコーナーがあるのですが、展示で盛り上がったところに充実したアイテムが揃っているため、大変な危険地帯となっています。特に祖父江慎デザインのグッズは遊び心に溢れています。ここまでなら出せる、という線を決めていかないと大変な事になってしまいます。

 そして、本展については、福音館書店による新装版と密な関係にあるように思います。特に、図録および改訂版の装釘を手掛けた祖父江慎の役割はとても大きいものです。ブルーナの意図や翻訳の意味を考えた上で、フォントまで作成しています。そこに、ブルーナへの敬意を感じました。同時に、Twitterで読めるその過程の楽しそうな事と言ったらなく(4月近辺を読んで下さい)、読んでいるこちらもとても楽しい気分になります。

 東京会場は10日で終了しましたが、今後全国を巡回します。今回見逃した関東の方も横浜会場へ是非。中国と九州が各地から遠いのと、東北地方では全く行われないのが残念ではあるのですが、行ける方にはお勧めします。

 なお、東京会場では開催最初の週末に、先着申し込みでミッフィーと記念写真というイベントがありました。お子様と行かれる方は会場毎の情報を確認して行かれた方が良いと思います。

【参考サイト】
 ゴーゴーミッフィー展公式サイト
 ゴーゴーブログ
 祖父江慎 on Twitter
 福音館書店うさこちゃん誕生55周年記念キャンペーンサイト(2010/05/31まで)
 福音館書店キャンペーン担当者 on Twitter(2010/05/31まで)

【巡回スケジュール(2010/05/10現在確定分/大阪会場以外は図録による)】
 東京:松屋銀座(8階大催場) 2010/04/22-05/10
 札幌:大丸札幌店(7階ホール) 2010/05/26-06/07
 神戸:大丸ミュージアムKOBE(大丸神戸店9階) 2010/07/21-08/04
 名古屋:松坂屋美術館(松坂屋名古屋店南館7階) 2010/08/07-09/05
 横浜:そごう美術館(そごう横浜展6階) 2010/09/11-10/11
 福岡:福岡県立美術館 2010/10/16-12/05
 松本:松本市美術館 2010/12/10-2011/01/23
 香川:金刀比羅宮高橋由一館 2011/01/29-2011/04/30
 大阪:会場未定 2011/05/
 広島・ひろしま美術館 2011/07/16-2011/08/28

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 音楽を聴いていて、うかつにも笑ってしまったとき、やられたと思う。だけど笑ってしまうと思うのだ。これを聴いたら。近年、ここまでアクの強いヴォーカリストがいただろうか。アルバム2曲目、「A Walk On The Bleach」のイントロ、エレクトリック・ギターを爪弾くか細い音と、2拍、4拍を刻むハイハットの薄いバックに、唄うライアン・サンボルの声を聴いて、片岡鶴太郎のやる浦辺粂子のモノマネ(古いか)を思い出して笑ってしまった。そうして、彼の声にひかれ、なんとなく繰り返し聴いているうちに、いつのまにか彼らの音楽への真摯で挑戦的な姿勢に胸を打たれていた。

 このテキサスはダラス出身の6人組の音楽に触れたのは、この『Be Brave』が最初で、もう10年近く活動していることを知って驚いた。なるほど、カントリーやフォーク・テイストの、いなたい、だけどぐっとくるグルーヴ感(聴いてるより印象よりはるかに難しい)も、うなずける。実はこのレヴューを書く前に、渋谷に『Be Brave』以前のリリースを探しに行ったのだが入手できなかった。そればかりかこの『Be Brave』さえなかった。彼らがどういう道を辿ってきたのか知る術がないのが非常に残念だ。

 ここ最近、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ(Anthony And The Johnsons)やアリラ・ダイアンのリリースで好調のラフ・トレードからリリースで、僕がレコードの5倍はいいだろうと推測している、ライヴのクオリティの高さが認められたのではと思う。ネオ・フォークなんて呼ばれている人たち、エミー・ザ・グレイトやアリラ・ダイアンのファンにはもちろん自信を持っておすすめできるのだが、批判を恐れず言えば、ボブ・ディランのファンにこそ聴いてほしい。ボブ・ディランを長く聴いてきたファンには、きっと僕と同じように、ライアンの声を笑った後には、彼らのすばらしい演奏にじっと耳を傾けてくれるはずだ。

 これからも、このアルバムをかけるたびに、その「うた」の純粋さに胸打たれ、アルバムが「Friday In Paris」にさしかかる頃には、もうほとんど泣きそうになるくらいの感動を覚えるのだろう。いつしか、ライアンのおかしな歌声を笑っているのは、そんなこっぱずかしい感動への照れ隠しではないかと、疑いはじめるのだ。

 ラフ・トレードのページで試聴できます。

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 Jonas A(ミューのヨーナス・ビエーレ)、Martin
A(マーティン・テレフェ)、Magne A(アーハのマグネ・フルホルマン)、Guy A(コールドプレイのガイ・ベリーマン)の4人から成る覆面バンド、アッパラッチク(Appa-rat-chik)。エレクトロ・サウンドを駆使してバキバキな音から浮遊感たっぷりな音、綺麗で可愛い音までを美メロに合わせて聴かせてくれる。とても4人の力とは思えない迫力と圧倒的な音圧で魅了されるこの作品は、オープニングのミューのヴォーカルから次々と変わるヴォーカルで色とりどりの色彩を持ち、比較的アップテンポながら中にはシガー・ロスのように自然を感じさせたりオウテカやボーズ・オブ・カナダのように喜びや悲しみを感じさせたり、音そのものがまるで生きているようだ。デジタル・サウンドとヴォーカルだけでここまでのことが出来るのかとうっとりすると同時に感動でうずくまってしまいたくなる傑作。マイスペースにも"Keep it secret"と書かれているが、覆面にしておくのが本当に勿体ないと思えてならない。もっと多くの人に知ってもらって聴いてもらいたいと思う。

補足:現状このアルバムはMP3配信のみ(2月1日に開始されています)。CDは今のところ6月15日リリースが予定となっています。

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「インディー・ロック界のスターが集結したスーパー・グループ!」と、鳴り物入りでデビューして以来、着実に良質なポップ・アルバムをリリースし続けてきた彼ら。07年の4thアルバム『Challengers』以降、A.C.ニューマン、デストロイヤー(&他いろいろ)、そしてニーコ・ケイスのソロ作品など、各メンバーの課外活動を経て、満を持して5枚目のアルバムがここに届けられた。

 本作は、各自の活動の中で培われた要素がバンドに還元された一枚だと言えるだろう。例えば、随所に導入されたストリングスのアレンジはA.C.ニューマンのアルバム『Get Guilty』の流れを汲んでいるし、相変わらずパワフルで美しいニーコの歌声は昨年のソロ作『ミドル・サイクロン』を経て、切ない響きを増したように思える。ダン・ベイハーの書くメロディは、デストロイヤーやスワン・レイクで聴く時よりも仄明るく、力強く響くし、映画監督でもあるキーボーディストのブレインが監修した「Our Hands(Together)」のミュージック・ビデオも面白い。このように、メンバーそれぞれの持ち味、それぞれの表現が組み合わさる(文字通り『Together』する)ことで、作品に深みが生まれている。そして、そんな『Together』の輪はメンバーの間だけに留まらない。ベイルートのザック・コンドン、オッカヴィル・リヴァーのウィル・シェフ、セイント・ヴィンセントことアニー・クラークなど、現代のUSインディー・ロック・シーンに欠かすことのできない面々がゲスト参加。

 このように、完成度・話題性ともに高く、この作品がこれまでより多くの注目を集めることは間違いないだろう。ポップ・ミュージック・ファンで、この作品を好きにならない人はいないのでは?とさえ思えてしまう。「ストリングスやホーンが使われている」「何重にも重なったコーラス・ワークが美しい」という音楽的な側面だけではなく、あらゆるものを引き寄せ巻き込むエネルギーを持った、そんな一大ポップ・シンフォニー。

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 コートニー・ラヴという人は本当に! スキャンダラスな話題ばかりを振り撒いて、すっかりゴシップクイーンに成り下がってしまったかと思っていたら、いつのまにこんなアルバムを作っていたのか! しかも12年ぶりのホールの新作とは! 曲作りをしている、レコーディングをしているという話だけは伝わってきていたが、ホール復活どころか再び歌ってくれるのかどうかすらわからなかったこの数年、彼女の声を待ち侘びていた者としては、どんなに悪い噂が彼女を取り巻こうとも手放しで迎え入れたい気持ちだ。

 なのに、首から下のマリー・アントワネットの肖像といい、「ジェーン・グレイの処刑」の画といい、随分と不吉な暗喩を含んでいそうなジャケットには、華々しいカムバックの雰囲気は感じられない。昨年末にカートの忘れ形見フランシスの親権を再び剥奪されるという、最近で一番悪いニュースであったに違いない事件の後に『Nobody's Daughter(親なき娘)』というタイトルを冠してしまうなど、この作品には悲痛で哀しい彼女の数年が刻み込まれているのだ、ああどれほどつらい日々を送って来たのか、と私は思った。実際、前作『Celebrity Skin』を包み込んでいた、ロサンゼルスの波のようにキラキラとした希望の光は見当たらず、どこか陰欝で暗い雰囲気が漂い、コートニー独特のポップさも派手さも鳴りを潜めている。意外にもファースト・インプレッションは暗く哀しい作品というものだった。

 しかし、シンプルなギターのストロークと彼女の声がいつまでも耳に残る。ヘッドフォンを外しても頭の中で彼女が叫ぶのだ、「あたしは生きる、あんたはどう?」と。昔と少しも変わらない、ハスキーで投げやりにも思える歌声には随所に彼女の鼓動が息づいていて、咆哮とも叫びともつかない生への渇望に満ちたその声が、これまでのどの作品よりも生々しく、そして痛々しく私達に届く。無駄なものを一切入れずストレートに作られたサウンドは、より彼女の声を引き立たせてリアルなものにし、心の深いところに容赦なく真っ直ぐに入ってくる。美しい言葉とスラングが混在した歌詞には絶望や希望が交差し、混沌としながら愛を欲する彼女の内面がとても私的に記されている。タイトルトラックである「Nobody's Daughter」はコートニーの手を離れてしまったフランシスのことだとすぐにわかるし、「Honey」にはカートへの想いが綴られている。「Samantha」で娼婦に自身を重ねつつも、「Letter To God」では"Can you help me?"と神に救いを求める。その叫びは痛々しくこそあれ、弱さは少しも感じられない。これは哀しい作品なんかじゃない。生きようとする強い意思の表われた、まさに復帰にふさわしい作品だ。これこそが彼女の傷だらけの生き方なのだ。悲劇のヒロインなどコートニーには似合わない。

 コートニー・ラヴという人を知ってから15年近く経つ。彼女の声が好きで、ルックスが好きで、破天荒な生き方が好きで、ずっと彼女を追いかけてきた。しかしここ数年、耳に入ってくるのは心配なニュースばかり。ゴシップやトラブルにまみれ、彼女の姿は見えなくなりかけていた。私の好きなコートニーはどこかへ行ってしまったのか...と思いかけた時、この力強いアルバムとともに彼女は戻ってきた。苦しい時ほど歌えと言わんばかりに。見失いそうだった彼女は今しっかりとここで歌っている。失って失って傷つけ傷ついてきた彼女は、それでも生きるのだと再び前を向くことを選んだ。そして今の彼女にはホールという居場所がある。支えてくれるメンバーがいることで、もっともっと自由に歌えるはずだ。コートニーにはソロアーティストとしてよりも、もちろん女優やパーティーに顔を出すセレブとしてなんかよりも、バンドを率いるフロントマンとしてステージに立つのが似合っている。下着のようなドレスから白く長い手足を放り出して、ギターを掻き鳴らしがなる姿はこれからもずっと私の憧れだ。

 彼女を好きじゃない、むしろ嫌いだという人は多いかもしれない。ほとほと愛想を尽かしたという人もいると思う。けれど自分にまとわりつく数々の雑音を、ここまで力強いパワーで跳ね返せる人はそうはいない。どうか彼女の外側で起こる出来事に目を向けるのではなく、内側から生み出される力を感じてみて欲しい。私達が思っている以上に必死に、一生懸命に、純粋に生きているのがわかるはずだから。

 PLAY THIS RECORDING VERY VERY LOUD PLEASE. - 彼女がこうライナーに記した通り、ぜひ大音量で彼女の鼓動を聴いて欲しい。

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 1999年の結成以来、言葉を持たない音楽を、言葉以上のメッセージに変換して、世界各地のあちこちで魅了しつつ、インストゥルメンタル・ロックの可能性を押し広げてきたMONO。今作はそんなバンドの結成10周年を記念して、24人のオーケストラ(Wordless Music Orchestra)を従えてニュー・ヨークで演奏されたライヴを音源、映像を完全パッキングした2枚組の作品。オーケストラを従えて制作された最新作『Hymn To Immortal Wind』からの曲を中心に、「Where Am I」や「Are You There」など過去の作品からの名曲も交えた全10曲、90分のセットリスティング。最新作の曲は、オーケストラルなアルバムを完全再現して圧倒し、過去の曲はオーケストラとの協奏により新たな命が吹き込まれ、どの曲もクラシカル・ミュージックが持つ荘厳なスケールと、MONOというバンド本来の持つ静寂と激動による爆発的なダイナミズムが合わさり、とてつもないエネルギーの創造に成功している。録音には元Minus The Bearでも知られる敏腕エンジニアのマット・ベイルズが担当し、バンドとオーケストラの息遣いのみならず、会場の張り詰める空気感やオーディエンスが高揚する様を、生々しく、余すことなく収録。バンドが体現したかったであろう、シネマティックで音像的な世界観と、その場で起きた歓喜の連続を、より一層耳と目で堪能することができる作品です。

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 いきなりだけど、アーチー・ブロンソン・アウトフィット(Archie Bronson Outfit)の2006年にリリースされた彼らにとってのセカンド・アルバム『Derdang Derdang』は本当に素晴らしい作品だった。クリーム以来のハード・ロック/ガレージ・ロックの伝統である重たいギター・リフと煙ったい空気。髭ヅラ野郎ども(見た目もわかってる)のスリーピース演奏は重々しくも一体感が生む躍動感に満ち溢れていた。楽曲のツブが高いレベルで揃っていることもあり、個人的にも当時のお気に入りの一つだった。こんな格好いいバンドをバーで発見したというドミノの社長、ローレンス・ベルはさすが、大した彗眼の持ち主だ。

 彼らにとって不幸だったのは、リリースされた時期がちょうど00年代におけるガレージ・リバイバルのピーク・タイムだったことで、だからこそ注目は浴びたが、悲しいかな作品の良さに見合った評価はそれほど得られなかったように思う。日本でも残念ながらそれほど彼らの名前を聞く機会はなかった。そのシーンで突出した成功を見せた、レーベルの同僚でもあるアークティック・モンキーズの『Humbug』が好きな人たちには、ぜひあのアルバムも聴いてみてほしい。どちらが上とかは言わないけど、結構気に入ってもらえると思う。

 そんなこともあってかどうかはわからないが、次の作品を産み出すのに彼らは4年近くかかってしまった。そして、彼らの音は変わった。

 どう変わったかはPVを見比べるとイメージしやすい。まずは先に挙げた『Derdang Derdang』からの一曲「Dart For My Sweetheart」のPVを見てみよう。モノクロの映像。ずいぶん密接したバンドの演奏。それに合わせて踊り狂うグルーピー。チープなアニメーションも実に60年代的でわかりやすい。

 では次に、最新作『Coconuts』からシングル・カットされた「Shark's Tooth」を。宇宙船に乗りこみ、バイキング風の妙な衣裳を身に纏う3人。惑星に着陸してなぜか演奏を開始。大地は裂けて未来都市が突然聳え立つ。ベースからビーム! 両手からもビーム!(ホット・チップ「I Feel Better」のPVもアホすぎて素敵だったが、今年はビームがPV業界のトレンドなのかもしれない) 今様な映像はエフェクトも凝りまくってる。にしても、変なPVすぎだろ。

『Coconuts』ではプロデュースをティム・ゴールドワージー(Tim Goldsworthy)が担当。DFAレコーズの共同オーナー、U.N.K.L.E.の元ドラマーにして、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアや、カット・コピー『In Ghost Colours』、ラプチャー『Echoes』など、エポック・メイキングな作品の数々を手掛けてきた一方、過去には学校を中退して英国中でマイブラの追っかけをしていたという愛すべき人物である。

 バンドの音は彼の経歴と実に忠実に、とてもわかりやすく変化した。ニュー・ウェーブ的で金属質なエフェクトとけたたましいノイズが幾重にも張り巡らされ、ヴォーカルにも全編エコーがよく効きまくっている。楽曲はグっとダンサブルになった。ただ正直にいえば、特にアルバム中盤の数曲においては試みの全てが成功しているとも言い難く、過度期の作品と見なすべきかもしれない。(昔からのファンからは特に)賛否両論となりそうな作品だが、個人的には彼らの大胆な人選と遊び心をぜひとも支持したい。

 音像がブルージーな路線からディスコ・パンク気味に変化しても、リフ主体の獰猛でトライバルなサイケデリック・ロックの本質は変わっておらず、もっとも重要な魅力である「単純にかっこいい」部分はそのまま貫き通されている。冒頭の数曲の熱気は生半可な気分で流行に乗ったバンドには出せない迫力があるし、ジャケットの青くて丸い何かがコロコロ転がっていく画が浮かびそうな「Chunk」はほのぼのとしていて可愛らしい。暴走するノイズに乗せてひたすら叫びまくるだけの「Wild Strawberries」にしても、ヴェルヴェッツ・マナーに則ったキック・ドラムの連打に合わせて朗らかに歌われる「Run Gospel Singer」にしても、本当にかっこいい。かっこいいというその事実以上にあと何か必要だろうか。来日公演は必要だ。ぜひ生でライブ見てみたいです。凄そう。

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 絵本の表紙のような、物語の始まりを感じさせるハンドメイドなジャケットがまず眼を引く。ノスタルジアが湧き上がるこの作品につけられたタイトルは『風向計』。収録曲からは『かいじゅうたちのいるところ』を思わせるようなノスタルジアが広がり、南風がそよいでくるようだった。

 このフリーランス・ホエールズ(Freelance Whales)は、2008年に結成した、NY・クイーンズを拠点とするニュー・カマー。NYの路上や駅でのバスキングを繰り返して実力をつけてきた5人組だ。ネットにアップされた楽曲がブロガーに注目され、ピッチフォークやNMEなどで取り上げられて話題を集めてきた。そんな彼らがリリースしたデビュー・アルバムがこの『Weathervanes』だ。

 アルバムを貫くのは、オーガニックで土着的なサウンドと人肌の温もりあるエレクトロの融合。言いかえれば、スフィアン・スティーヴンス+ポスタル・サーヴイスといったところだ。バンジョーにグロッケンシュピール、ハーモニウム、ギター、チェロ、ドラムなどによる素朴なサウンドに、シンセサイザーやテルミンによる電子音を加えている。シンプルなメロディと豊かなコーラスで構成されたシングル曲「Generator 1st Floor」でアルバムは幕を開ける。その後、パッション・ピットの「Sleepyhead」を思わせる「Starring」や、スフィアン・スティーヴンスのアルバムに収録されていてもおかしくないような「Broken Horse」など、ヴァラエティ豊かな楽曲が並んでいるが、そのどれもがトウィーなセンスとセピア色の郷愁をたたえている。リード・ヴォーカルのユダ・デイドン(Judah Dadone)はファルセットの優しい歌声を聴かせてくれるし、男女混声のコーラスはとても和やかだ。だからきっと、13曲45分を聴き終えるころには、あなたの表情も優しくなっていることだろう。

 そういえば、彼らが所属しているのはレ・サヴィ・ファヴのメンバーが運営するレーベル=フレンチキス・レコーズ。パッション・ピットやドードースといった、ポップネスとダンサブルな要素を兼ね備え、インディ・リスナーの注目となったバンドがいるところだ。このフリーランス・ホエールズも続くことができるか? アルバムを聴きながら見守ろうじゃないか。

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「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴を持っている。情熱の根源には、たいてい、汚れた、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外から刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。」(エリック・ホッファー『魂の錬金術』)

 旧くはブライアン・ウィルソンが表象していたようなパラノイアじみたポップへの意識の深さ、または、70年代のトッド・ラングレンの見せていた無菌室的なポップ、CTI界隈のスムースな音像、日本で言うならば、はっぴぃえんど、大瀧詠一、山下達郎、高野寛、青山陽一など各諸氏、初期のキリンジ辺りが体現するロマンティックながらも、どうにも聴き手側の勝手な同一化を拒む透徹とした佇まい、「YOU&I」を描きながら、それをメタ認知で筆致しつつ、緩やかに完璧に固められたサウンド・ワークの背景に潜む創り手の凄まじい情念に触れてしまった様な人は多い事と察する。僕自身、高度に構築された「ポップ」というのに或る種、畏敬と畏怖を同時に感じてしまうのは、スッと耳を流れていくように思えて、良いステレオ・システムやライヴで聴くと、その楽器のバランス、アレンジの緻密さにアーティスト側の過激なラジカリズム(急進性)を垣間見えるからだ。下手な大文字の「ロック」よりも業の深さが滲み出ているとでも言えるだろうか。そういえば、かのエリック・クラプトンがジョアン・ジルベルトのコンサートを観に行った際、彼の「正確で複雑なリズム感覚」にインスパイアされた、という逸話などもそこには付加出来るかもしれない。クラプトンのあのリズムのジャスト感というのも時に凄いものがある。

 今や結果的に、田中拡邦氏のソロ・プロジェクトとなってしまったが、彼がファースト・アルバム『Mamalaid Rag』時のインタビューで、ボサ・ノヴァと言えば、アストラッド・ジルベルトを挙げていて、サンタナのAOR方面への傾斜期の『Festival』というアルバムの「Give Me Love」への愛を語り、アレンジメントの例として、ギル・エヴァンスの名を挙げていたのも非常に面白かった。それは、とても、「旧き良き、アメリカ」へのオマージュと共に、一本筋の通った美意識が貫かれている頼もしさを明確に受け止める事が出来たからなのもあるし、その純然たる覚悟に感銘を受けたというのもある。

 思えば、初期の彼等のライヴを観た際に、たまたま同席した40代の女性が「彼等を聴くと、もう死語かもしれないけど、シティー・ミュージックって言葉を想い出すのよね。」と言っていたが、僕は少し違う角度から、彼等の音楽には「仮想化された都市へのアーバン・ブルーズの捧げ方の麗しさ」と「"白い"ブルーズへ向けたノスタルジアの現代的な再現」を忖度していた。特に、インスト曲内で、ジャム的になだれ込む演奏は、CCRの影さえちらついた。

 しかし、周知かもしれないが、ママレイド・ラグの道程とは、とても困難を極め続けた。02年のメジャー・デビュー当時からの老成した佇まいの音と、その音楽性の純度の高さ、プロフェッショナリズムと比して、セールス的な評価とのアンバランスさと、田中氏の凄まじい職人気質と音質への拘り、コントロール・フリーク振りが時に、玄人、好事家筋の審美眼内で回収されてしまうきらいもあり、どうにも凡庸なイージー・リスニング的な括りの中で語られてしまう事も多い存在であったとも言える。03年の5曲入りの「きみの瞳の中に」(ここに収録された「泣きたい気持ち」は今でも、"60年代の3分間ポップ"の躍動感を閉じ込めた、屈指の名曲だと思う)、タイアップもついた04年のシングル「そばにいたい」辺りでは一瞬、シーンで地表化する気配も見えたが、「完全なる手触りの音」を求める為にマイクの立て方、8トラックのアナログ・レコーダーを取り入れ、レコーディングの模索を試みる中で頓挫した結果(その一瞬の成果は05年のシングルの「街灯/ふたりで目覚めたら」で味わえる)、スタジオ・ワークに戻り、作った06年のセカンド・アルバム『Mamalaid Rag2』は決して、悪くないものの、既発曲の多さに埋もれてしまった感もあり、不完全燃焼的なムードと、今後の展開を予期せしめるような物悲しさも備えていた。そして、バンド形式から田中氏のソロ・プロジェクトとなり、稀なライヴと客演等がありながらも、本体の音信が途絶えつつある中で、08年にレコーディングに入り、シングルとして、「Ophelia」、「空に飛ぶ想い」、「すてきなダンス」という完成度の高い音源を次々と発表した。

 そんな中、今年に入って、満を持しての4年振りの『Spring Mist』が届けられた。良い意味で本当に変わっていない、田中氏のポップ・マエストロ振りが発揮されながら、今までで一番、軽やかで爽快感に溢れた内容になっている。02年のメジャーでの最初のミニ・アルバムが「春雨道中」という象徴的なタイトルだったからして、また紆余曲折を経て、「春(Spring)」に戻ってきたというのも手応えも感じる事が出来るし、自らの過去を既にある種、対象化して、新しい道を進もうという多種多様なサウンドへの試みも詰まっていて、言うことが無い。ジェームス・テイラーやジャクソン・ブラウン辺りを彷彿させるフォーキーでトラッドなウォームな肌触りの曲から、これまでの流れを継承したジョン・メイオール&ザ・ブルーズブレイカーズ、レオン・ラッセル、エリック・クラプトン辺りを現代的な解釈にした曲、ナイアガラ・サウンド的な曲、宅録的な様相を持った曲、ストリングスが絡んだ流麗なバラッド、ザ・ホリーズ、初期のザ・ビートルズ、ポール・マッカートニー&ウイングス辺りを参照にしたビート感溢れた曲など、これまで以上にバリエーションに富んだ内容ながら、全体を通した一貫性はムラが無く、通気性が良い。このアルバムには、潔癖症的なまでに音楽への確かな情熱に裏付けられた美学が充溢している。

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 様々なイメージの断片が交錯しつつ、どうしようもなくポップ。京都出身だが現在は東京で活動している小野暁のサード・アルバムは、彼が経てきた様々な体験が理想的な形で結実した作品となった。

 ほぼ彼ひとりによる多重録音ファースト・アルバムにつづいて、ライヴ・バンドを率いてレコーディングされた2007年の前作は『The Days Of Perky Pat』と題されていた。フィリップ・K・ディックの短編から引用された言葉。「小説の内容との関係性を強く感じてつけたというより、言葉が想起させる非現実的な日常といったイメージに強く惹かれた部分が大きいと思います」と彼は語っていた。実際、表面的に「フィリップ・K・ディック的な音楽」というより、彼の世界の奥底にある「泣きたくなってしまうほどの暖かい人間性」に通じる部分があると感じた。

 そのときおこなわれたインタヴューで彼は、とくに影響を受けたソングライターとして、プリファブ・スプラウトのパディー・マクアルーンとXTCのアンディー・パートリッジを挙げていた。一方、テニスコーツの準メンバーとして、さらにはマヘル・シャラル・ハッシュ・バズへの参加歴でも知られていた。『The Days Of Perky Pat』にはセカンド・ロイヤルのレーベル・メイト、ルーファスやコレット、そして(BMXバンディッツの一員として来日した際に共演したことが縁となり)パールフィッシャーズのメンバーも参加していた。こういった様々な要素がようやくまとまりかけていたのが前作だったとすれば、今回の『Tales From Cross Valley』ではプロデューサーにデヴィッド・ノートンを迎えることで、その多面的な魅力が自然にまじりあい、過不足なく表現されている。

 スコットランドはグラスゴーで活動を開始、ロンドンをへて、現在は東京をベースに活動しているデヴィッド・ノートン(David Naughton)は、ティーンエイジ・ファンクラブ、ベル・アンド・セバスチャン、モハーヴィ・スリー(Mojave 3)、ライラック・タイムのスティーヴン&ニック・ダフィー、そして最近ではセカンド・ロイヤル期待のニュー・フェイス、ザ・ニュー・ハウスといった人たちと関わってきた。『Tales From Cross Valley』では彼自身がベースをはじめとする様々な楽器を手がけ、ニック・ダフィーやメトロ・オルガンなど彼ゆかりの人たちも参加している。京都のユニット、ナイト・テラー(Night Teller)をフィーチャーし、彼らがヴォーカルをとっている曲さえあるのだが(ソングライターでありヴォーカリストである個人名を冠したユニットとしては異例...)それさえ難なく溶けこんでいる。

 牧歌的とも都会的とも言いきれない、人なつっこいんだけど、不思議なひっかかりのある世界。楽しい、でもどこかに悲しみをたたえている。ちなみに彼はモンティ・パイソン/ニール・イネスの大ファンで、ラトルズのカヴァーをライヴでずっとやっていたらしい。ちょっとクセのあるヴォーカルも、なんとなくその系譜。オシャレというより、洒落ている。そこが好き。

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 数々のエレクトロニック・ミュージシャンがメロディ志向や生楽器の大胆な投入、またはダンス・ビートの強調へ向かう中、そんなことはおかまいなしと突き進むオウテカ。音を徹底的なまでに研ぎ澄ませ、繊細でいて複雑な一つひとつの音が持つ情報量に圧倒される本作『Oversteps』は、まったく、ほんとうに、作り込まれた一音が尋常じゃない。それだけでオウテカは聴き手を自陣に一気に引き入れる。もうその時点で勝負ありだ。

 初期の傑作『Amber』や、かなりIDM的な『Incunabula』と比べられることが多い本作であるが、とぎれとぎれのポップ性を散りばめ、精密な構築美と、乱暴とも言える破壊美。その両極端の美しさを同時に鳴らしてしまう点は、いやはや、耳を刺激し、昏睡と覚醒をも同時に誘う音の強度が増したことと相まって、過去最高なんじゃないかと叫びたくなる。しかも隙あらば背中を狙って叩きのめしにくるような緊張感があるからたまらない。ランダムなビートが渦巻くこの音楽に顔をうずめてしまえば理性など吹っ飛ぶよ。とにかく、最高潮に興奮する。すなわち、カッコいい。

 しかしこのふてぶてしさといったらなんだ。カリブーや、同レーベルWarp所属のクラークなどがダンス・ビートを強調した作品を発表する中にあって、オウテカは『Oversteps』を目の前にしたリスナーに向かって不敵に笑ってみせる。踊るのか? それとも鑑賞するのか?

 すなわち、音楽が与える人間の原初的欲求と、近代の「鑑賞する」という概念欲求を同時に煽る音を鳴らしている。しかもそれをリスナーが選択できる余地を与えるかのごとく、ノン・ビートの楽曲を交えるという、巧妙なトラップを設けているからエスプリが効いているというか、にくいというか...。

 とはいえ、べらぼうに難しい音楽ではない。紛れもなく美しく、ポップであり、聴き終えたときの清々しさといったら過去の作品にはなかったものだ。「暗すぎる」「冷たすぎる」と批評された00年代の作品を、爽快で、清々しくある本作で痛快に払拭し、光を一点に込めたような音が次々と溢れる音楽性が大胆なまでに開花した。『Incunabula』や『Amber』よりもイノセントな匂いたっぷりに。それはおそらく、音が持つ最も美しい奏でを抽出し、なおかつ楽曲にスペースを残し、様々な音を泳がせるという意味で、無意識的にマイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』にも通じる美をも獲得した結果だろう。

 『Oversteps』は彼らの次なる一歩の記録である。それは実に鮮やかだ。オウテカを敬遠している方にも薦めたい。素晴らしいよ。

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 宇宙? 夜空? それとも誰かの心の闇? ピンクのトゲトゲの球体が宙に浮いている。よく見ると小さな窓が開いていて、中から光がこぼれている。ザ・シンズのジェームス・マーサーとデンジャー・マウスのユニット、ブロークン・ベルズの初めてのアルバムは、そんなジャケットが象徴するように浮遊感あふれる美しい歌がたくさん詰まっている。

 このアルバムを入手してからすぐ、 YouTubeでライブの映像を見た。僕はデンジャー・マウスが動いている姿を初めて見て、とてもビックリした。ドラムを叩いてる! 考えてみれば当たり前のことかも知れない。いくつもの名作アルバムでトラック・メーカーを努めてきたんだもの。ドラムが叩けて当然でしょう。でも、やっぱり僕には新鮮だった。ジェームス・マーサーとデンジャー・マウスにとって、ブロークン・ベルズは「コラボ」や「ユニット」というお互いの線引きをはっきりさせた関係性ではなく、ひとつのバンドなんだという印象を持った。2人の音楽性を有機的に絡め合わせること。だから、こんなにも親密でソフトな歌がいくつも生まれたんだと思う。ナールズ・バークレイやゴリラズの『Demon Days』、ベックの『Modern Guilt』のような斬新なビートのアプローチは控えめ。ジェームス・マーサーが紡ぐ極上のメロディに寄り添うようなサウンド・アレンジが心地良い。

 ロックの歴史は数多くの優れたメロディ・メーカーによって作られてきた。その歴史はこれからも変わらずに続くだろう。そして、いつの時代も耳を傾けさえすれば、素敵な歌が聞こえてくるはずだ。数年前、ヒップ・ホップからやって来たデンジャー・マウスは、「ジャンルなんて関係ねーよ」と僕たちに教えてくれた。ロックだろうとヒップ・ホップだろうと、そこにある言葉とビートが基本。白も黒も混ぜてみろと。そこから、ほんのちょっと歴史は動いたのかもしれない。

 もうみんなが知っている。デンジャー・マウスは美しいメロディをもっとキラキラさせる魔法を持っている。ちょうど、ピンクのトゲトゲの球体からこぼれる光のように。

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 10'sを牽引する可能性を秘めているオールディ・ワールディ(沼田壮平)によるファースト・フル・アルバム。邦楽の匂いが完全に剥落しており、けれどオルタナティヴの教科書をなぞっただけのような洋楽志向もない。日本人にとっての新たなパラダイムにもなり得るアルバムかもしれない。

 中性的な声と荒々しいギターと優しいメロディの共生。転じて涼やかなポップ・ソング。そして他の日本人アーティストと比べて、とにかく一聴した時の情報量が膨大だ。重厚なコーラスもアコギのじゃりっとした音も、それらは虚飾になることなく楽曲を彩色させており、どこから切っても世界基準に準拠した質感のそれである。

 日本のロックはといえば、左右に配置された二本のギターとドラムとベースとヴォーカルだけで楽曲が構成されており、良くも悪くも余計な音がない。それは既に日本独自の方法論と化しつつある。オールディ・ワールディは、その格式から逃れようとしている数少ないアーティストの一人と言えるだろう。アレンジの卓越さにしろ、情報量にしろ、両者の間には歴然とした差があると思うのだが、シンプルさを好む日本人に必ずしも享受されるわけではないようだ。勿論、音楽が情報量の多さや派手さを基盤としたものでないことは認知しているつもりだが。

 この新作も前作と同様に、ロック、ポップ、フォーク、ヒップホップと無造作に楽曲が揃っており、彼の多様な側面を覗かせる。統一感がないといえばそれまでだが、それは溢れて止まらない個性の洪水を汲み取るには、ロックやポップという一つの器だけでは足りないからである。事実、ビルト・トゥ・スピルを彷彿させるような13曲目を聴き終わった後に得られるカタルシスは凄まじい。

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 ブログのコメントに書かれた一言で人は自殺してしまうし、悩みを口に出せずに飲み込んでしまうこともある。無防備なままでは生きていけない、なんて言われても、つい頷いてしまうことがあるかもしれない。決して、人間は、強くない。僕もそうだ。不安や怯えやわだかまりが、常に亡霊のように付きまとう。でも、前作も欧米で高い評価を得たグラスゴー出身のギター・バンド、フライトゥンド・ラビットの通算3作目となる『The Winter of Mixed Drinks』を聴いたその瞬間、僕は震えるほど嬉しくなった。本作を聴くことは、音楽性の高さと同時に、偽りの無さを、音に宿った体温を、なによりもやさしさを肌に触れ合わせるほど親密に感じることなのだから。

 聴いていると音が寄り添ってくるようだ。前作同様、ザ・ナショナルや、シガー・ロスのヴォーカリスト、ヨンシーなどのプロデューサーでもあるピーター・ケイティスがプロデュースを務めたことで、地に足が付いた落ち着きの、その一息つけるような音の余白が奏功している。余白を埋めるシューゲイザー風味のギター・サウンドや弦楽器によるストリングスの優雅なオーケストラ・アレンジの中で、スコット・ハチスンの、ほんの少しひねくれていて、でも程良く苦みが効いた声で歌われるうたの全ては丁寧に言葉を選びながら和やかに発せられ、絡まった気持ちの糸をほどいてくれる。それが嬉しくて清々しくて気持ちが良くて、感情の不安定な揺れはするすると抜け落ちて消えてしまう。

 特に「The Wrestle」や「Skip The Youth」においては、ポップにして哀感を含んだグラスゴーらしい胸の深くに染み込むメロディ、それとともに歌声やコーラス、ストリングス、アコースティック・ギター、新メンバーとして加わったゴードン・スキーンのマンドリンやキーボードなど、数々の音が幾重にも重なり、ちいさく渦を巻き始め、それは次第に大きくなり、やがて高くへ解き放たれたその刹那、希望と言っても差し支えのない光に満ちたサウンドに包まれて、放心、昏睡、あるいは心酔。甘美な音と心地が溢れ出す。

 攻撃的な音の一切がない本作は、打ちつけられるようなビートを奏でても、フィード・バック・ノイズを奏でても、どれを取っても無防備だ。触れれば壊れそうなほどに無防備なのだ。しかし、いや、だからこそなのか、僕は、そしておそらく誰しもが、この音楽が鳴っている間は警戒心など丸めて窓から投げ捨てて、あけすけになることを許される、そんな音の中に身を置いてしまう。

 そうして気付く。無防備でいることは強さなのだと。全てを抱擁してしまうやさしさなのだと。僕はその強さに、涙をこらえた。『The Winter of Mixed Drinks』は僕らの弱さを肯定する。武装しても、敵を作るだけなんだ。

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 本作『Port Entropy』はトクマルシューゴの最新作にして、これまでのキャリアの一つの集大成であり、現時点での紛れもない最高傑作である。正直、感動した。圧倒された。

 たとえば。彼と同時代を生きるバンドであるダーティ・プロジェクターズもキャリアの初期をひとりぼっちの、ややコミュニーケーション不全的なローファイ・ポップからスタートさせたが、『Rise Above』にて女性シンガーと強靭なバンド・メンバーを従えるスタイルに転向、絶妙な配置をすることでストレンジなソウル・ミュージック像を提示し、そのスタイルを次作の『Bitte Orca』で完成させた。

 しかし、トクマルはライブにおいては(もちろん、私生活などにおいてもそうだろうが)多くの仲間に支えられつつも、ことアルバム制作においては「ひとりぼっち」に拘り貫いたまま、以前からの彼のスタイルである箱庭型トイ・ポップを洗練に洗練を重ね、理想的な形で提示している。ある種絵本的な、純度の高い音の妄想空間がここでは広がっている。

 これまでどおりのプライベートな音像でありながら実にリスナー・フレンドリーな肌触りであり(こちらの慣れもあるのかもしれないが)、Ele-Kingのサイトに掲載されている岩崎一敬氏の本作へのレビューにおける「初期の作品で描かれていた風景は、どちらかと言えばトクマルの脳内を覗いているような感覚があった。新作は彼がCDの中に箱庭をつくった、そんな感じだ」という一節は実にこの作品についてよく言い表している。手招きにつられて部屋に入って、そのまま居座っても笑って許してくれそうな居心地のよさというか。

 先にリリースされたEPにて既に発表されていた「Rum Hee」は、彼が前作アルバム収録の冒頭曲「Parachute」以上に「真っ当な」ポップ・ソングを書けるようになったことを証明した、印象的なフレーズのリフレインとリズム・パートのダイナミズムが心地いいナンバー。「River Low」や「Drive-Thru」といった曲では手癖ともいえる小慣れたメロディとともに彼の十八番的なトイ・ポップが展開されている。以前の作品ではやや線の細さも目立ったが、本作は「Straw」のような音圧の太さの目立つ楽曲も収録されていている。

 にしても、多種多様の音が鳴っている。先日、彼が特集され話題になったNHK「トップランナー」番組中でも披露された、観客も交えた非楽器による即興演奏には観ていて圧倒されたが、あのとき見せた鮮やかな手つきでもって膨大な数の楽器・非楽器が演奏、録音された様子が目に浮かぶようだ。

 カラフルな音色の有機的な配合とその整頓具合、近年のブルックリン勢にも通じるひねくれた感覚・曲進行、そして自身の夢から着想を得ることが多いという風変わりな歌詞、爽やかな歌声。アルバムは一寸の隙もなく、37分弱という収録時間も繰り返し聴き返すのにちょうどいい。彼の音楽が既に広く世界中の賞賛と支持を集めているのは周知の通りだが、それらがまったく過大評価ではないことはこの作品に耳を傾ければ簡単に理解できる。

 ただ、贅沢をいえば。この作品は傑作であるが、想定外の作品かというとそうでもない。

 先日、本人がパーソナリティーを務めたUstreamでのプロモーション番組において、(何ともミスマッチで愉快なゲストであった)ロマンポルシェ。の掟ポルシェ氏が彼の音楽性について「Charaみたいな」と、ポロっとこぼしていたのが僕にはとても印象的であった。

「Charaみたいな音楽」の良し悪しも、実際にトクマルシューゴの音楽がそういう音楽なのかどうかもここで論ずるするつもりはもちろんないが(僕はそこまでとは思いませんよ!)、彼の幼馴染にしてライブにおけるバンド・メンバーでもある盟友、シャンソンシゲル氏のデザインした本作のジャケットにせよ、過去の作品と比べてもやや安全な「オシャレ」に迎合しすぎている気がしないでもない。

 もしそうだとして、音楽が広く聞かれるための選択としてそれももちろん間違いではない。しかし、iTunes Store上で既に公開されている彼の選曲したプレイリストや、本人が日頃から言及している、敬愛する音楽家やバンドの名前を眺めてから本作を聞き返すと、どうも本人の資質や志向性とは別の安全すぎる方向に進み、リスナーからもやや無難な消費のされ方をしているように映る。

 もっと露骨に書けば「たまには毒も吐いてよ、トクマルさん!」というか。前にも"草食系男子コンピ"『Sweet Voices - Gentle Boyfriends』に楽曲が収録されたりもしていたが、なんかそういうのだけじゃなくて! スマートな姿勢だけでなく、もっと感情や皮肉も露わにしたシンガー・ソング・ライターとしてのトクマルシューゴだって見たい。そういう性格ではないのかもしれないけど、結構似合うだろうし面白いと思うんですが。

 それに比べると最近活動を再開した、彼と彼の幼馴染によるバンド、ゲラーズの風通しのよさとメンバー間の緩いノリのほうに僕はどうしてもシンパシーを抱く。先日観たライブにおいても、楽器の弦はすぐに切れ、MCもグダグダで、演奏も勢い任せであったが、そのぶん「何が起こるかわからない」空気がフロアに満ちていた。その危なっかしい刺激こそが、音楽のもたらす感動と直結しているようにも思う。

 それこそ、彼のようなコントロール・フリークの箱庭型ポップ職人であれば(だいぶ例えは古くてすいませんが)、過去にはトッド・ラングレン『魔法使いは真実のスーパースター』(敢えて邦題で)や、XTCの『Big Express』のような、過剰にアイディアを詰め込みすぎてリスナーを突き放すような歪すぎる怪作も世に放たれている。本来は優れたメロディ・メイカーでもある彼らが放った、ああいった狂気の沙汰のようなスリリングなポップ・ミュージックも、彼なら涼しげな表情のまま平然と作り上げてしまいそうで、才能が図抜けているだけにどうしてもそういう方向にも期待してしまう。

 繰り返すが、本作は彼の現時点での最高傑作であり、一寸の隙もない充実した音楽作品である。彼の現行のスタイルは完成間近で、円熟期すら迎えつつある。トクマルシューゴはそのルックスもあって、小沢健二以来の、日本の音楽シーンにおける待望の「王子様」だと言い出す人も出てくるだろう。王子様なら多少のご乱心を見せてもファンは笑って支持してくれるのではないか。ひとまず足場が固まったなら、次はポップ・ジーニアスの壊れた姿も一ファンとして見てみたい。

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 ブルックリン・シーンと呼ばれるものの成熟と岐路を指し示していたのが、何よりも09年のアニマル・コレクティヴの躍進と世界的な高評価だったと僕は思う。Tv On The Radio、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー然り、どうにも「始点」自体が捻じれたバンドが推し進めていった方向性の中で、結実した深みをして、ジャッジする瞬間にピークは過ぎる訳で、ダニエル・カーネマンの言説に沿うまでもなく、そもそも体験の記憶は(集合的な)「主観」によって変えられる。例えば、苦痛の大きさが10として、時間が、5分経過し、終了時の苦痛の大きさが8の場合、仮に苦痛の量を58とする。苦痛の大きさが10で、時間が10分の経過で、終了時の苦痛の大きさが3だった場合、仮に苦痛の量を103とする。苦痛の時間が長く、全体の苦痛の量が大きくても、最後が3だった場合、最後の苦痛が98だった場合より、「より、ベターな記憶」が残る。

 ならば、集合的無意識の誤作動がブルックリンを取り巻く磁場に確実にあった筈で、それは決して他の音楽シーンが退屈で面白くなかった訳では無く、昨年のアニマル・コレクティヴが「My Girls」で描いたサイケデリアの曲線が例えば、コーチェラや苗場に虹を架けるような美しさを持ってして、09年のサウンドスケイプは「本当」に描けるのだろうかという疑義に繋がる。要は、もうブルックリンは熟していた。

 ブルックリンという都市は、経済的に人口区分するならば、区内の労働者人口は44%であり、その他は区外、つまりはマンハッタン等に出る。また、移民の流入率の高い都市でもあり、混在した文化要素が流入するメルティング・ポットでもあり、音楽にも自然と雑成分が高くなるからこそ、面白いバンドが出てくる背景がある。

 そういう文脈で言えば、イェーセイヤーはブルックリン的な混沌と人種の多様性を象徴するバンドであり、ピーク・エンドを弁えたスタンスを持っている。初期構成としてはヴォーカリスト、マルチ・インストゥルメンタリスト、ソング・ライター、聖歌隊という奇妙な構成を保っていたサイケデリックなバンドだった。07年の『All Hour Cymbals』はじわじわと草の根的に世界に伝播していき、その熱量の高いパフォーマンスは多くの人を魅了したのは周知だろう。既に、昨年の時点でPV含め、局地的なバズを起こしていたリード・トラックの「Ambling Alp」では、フレンドリー・ファイアーズ「Paris」以降の感覚論で、野卑なダンス×パーカッシヴな躍動感をリプレゼントしていた。

 今回の、満を持してのセカンド・アルバム『Odd Blood』は明快に「ポップ」な振り切れを為している。ファーストの頃のミステリアスでレイジーなムードは後退したが、その分、アレンジがソフィスティケイティッドされ、3分前後から5分程の曲まで「間延びのしない」タイトな内容になっている。これは或る意味で、MGMTの話題のセカンド『Congratulations』とサウンドの洗練のされ方が似ているのもあり、参照点が違うだけの"失われた双子作"とも言えるかもしれない。MGMTがアノラックやネオアコやブライアン・イーノに目配せしつつ、ソニック・ブームを招く「旧さ」と並行して、彼等は今回、メンバーの変遷を経て、ティアーズ・フォー・フィアーズやピーター・ガブリエルの仕事で有名なジェリー・マロッタのホーム・スタジオを三ヶ月借りたなどのエピソードを踏まえるに、こちらも「旧さ」で言えば、ニュー・ウェイヴの影響が強く、バネやリズムはア・トライヴ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルの「それ」を彷彿とさせる。このサウンド・ワークの明快さが吉と出ているのは特に「O.N.E.」かもしれない。ディスコ・ビートを援用しながら、バウンシーにクラウドを鼓舞させるコンパクトなキラーチューンになっている。ブッシュ政権下でのヒッピーイズムの申し子たちが、オバマ政権下で唱えるサイケデリアはどうにも煌煌とした鮮やかさがある分だけ、資本主義を「意識」してしまったという歯切れの悪さも含んだ、非常にウェルメイドな作品になった。今年のフジロックで満を持して、彼等はパフォーマンスを行なうが、どういったものを見せるのか、個人的に興味をそそられる。00年代のUSインディー・シーンを牽引してきたLCDサウンドシステムが自発的に役割を終える中、何らかのバトンの方向は彼等の近くを廻るかもしれない。

編集部注:日本盤は5月19日(水)にBeatよりリリース予定。

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 何かに名前をつけるとそこに意味が生まれてその名前による因果が始まる。名前とはそのものを解放し呪縛する。そして名前はひとつだけではない、例えば親から付けられた名前は変わらないが(法律的には変える事は可能だがほとんどの人はしない)、その人と対する人との関係性で愛称は変わるし、呼び名も変わる。

 古川日出男著『MUSIC』の冒頭は「その猫にはまだ名前がない。いずれは名前が付けられる。その雄猫にはスタバと。しかし、いまはまだ名前がはない」と始まる。夏目漱石著『我輩は猫である』の冒頭は「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ」と始まる。

 前者は名付けられるが、小説は猫の視点だけで語られてはいない。後者は名付けられないままに、その我輩と自ら名乗る猫が語り手として小説を語る。

『我輩は猫である』は有名な「猫小説」である。ならば『MUSIC』は「猫小説」であるか否か。もちろん「猫小説」だ。

『MUSIC』の前史には三島賞受賞作品『LOVE』という作品がある。もちろんこの『LOVE』も「猫小説」であり、対となるのは直木賞候補になった「ベルカ、吠えないのか?」という著者の作品で犬たちの系譜の小説で第二次世界大戦から冷戦終了までを犬の視線でその一族史で語る「犬小説」だった。

『LOVE』は目黒川が流れ東京湾に注ぐ流域の目黒区、品川区、港区が舞台となっている。僕は以前目黒川の始まりである国道246で区切られた世田谷区と目黒区の目黒川の始りから東京湾まで歩いた事がある。天王洲アイルまで、その後そのまま東京タワーまで歩いていった。東京タワーに歩いていったのは僕の理由があったからだったが。

 僕は歩きながら小説の中に出てきた品川駅が港区にある事を確かめたり、国立自然教育園に立ち寄ったりした。歩いて僕が感じたのはここはかつて海だったんだという事。

「LOVE」=「愛」は明治維新以降に英語が入ってきてその訳として「愛=あい」という言葉が当てられ定着した言葉。だから「愛」という漢字は存在していたが「愛=あい」という意味ではなかった。

 首都・東京は海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語。だからきっと「LOVE」なんだと僕は思った。その続編にもなり、数名の同一人物のその後が描かれているのが『MUSIC』だ。

『LOVE』の文庫のあとがきに古川さん本人が『LOVE』『ゴッドスター』『MUSIC』は同じ系譜にあると書いている。『LOVE』が新潮文庫から発売されたことでこの三作は新潮社から刊行されている。

 古川日出男新潮三部作とも言えるかもしれないが、僕はこの三作の舞台がさきほど書いたようには海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語である共通から「古川湾岸三部作」と名付けたいと思う。

 ただし新作『MUSIC』は東京と京都という二都が舞台になりさらにスケールを拡げている。京都には僕が目指した東京タワーではなく京都タワーが存在している。もちろんシンボルは物語の中で重要な意味を持つ。

 作者の古川日出男氏は「朗読ギグ」やイベント等で自身の作品を朗読している。彼の作品の特徴は声に出して読むことで文体が、単語がさらに強化される「小説」である。そこには何があるのか? そうリズムがある。

 文体のリズムがあり、声を出して読むことでそれは「音楽」にもなりえる言葉の強さがある。古川さんと「朗読ギグ」をしたZAZEN BOYSの向井秀徳さんが作る音楽のように言葉とリズムがせめぎ合い新しい音楽と文学を創造する。そして作品を読んでいくと古川さんの小説と向井さんの音楽が共鳴していることに気付く。彼らは共犯者なのだと僕は読みながら感じて嬉しくなった。

『MUSIC』はスタバだけの物語ではなくスタバと邂逅する人物たちの物語でもある。彼らはもちろんスタバと邂逅するし(一人はスタバと名付ける名付け親だ)、そして物語の主軸になるスタバが「MUSIC」を鳴らし、ニャつがどしどしと蹴って歩いて横断して連鎖させて地面という譜面に音符を書きなぐる、もちろんその肉球で。

 スタバと邂逅する人物たちも彼らも彼らの行動や思惑で音符を、そして各自の物語が、音符が鳴り響いて音楽が生まれて「小説」になる。この作品はそういう小説であり音楽だ。ハーメルンの笛吹きのような猫笛で数十匹の猫を引き連れていっていても、物語の始まりにはスタバがいる。そうこれは現在進行形の僕らの時代の「猫小説」なのだ。

 物語の最後は畳み掛けるように終結していく。様々なピースが、音符がそこに集結して一気に鳴らす。文体のリズムは音楽だとも思うし、そういうことを意図的に書いているのが古川さんの小説の特徴だ。ジャンルのクロスオーバーみたいだ。

 古川さんらしいというかお得意でもある言葉遊びみたいな単語の使い方やルビ。それが物語の展開にしてもそこから起因している所が大きいし、だからやっぱり読みながら、読み終わって思うのは古川文学は、古川さんは小説を「マジメにふざけて」やっているということだ。

 そこには覚悟とか自信とか自分にしか出来ない事をやろうという明確な意志がないと無理だからだ。新しい何かを生み出そうとする明確な意志だ。それが「マジメにふざける」ことができる本質というかコアだ、そう核だ。だからこそ僕は惹き付けられる。

 あなたが今現在最高にエッジが効いてて、音楽が鳴り響き、笑っちゃうぐらいにふざけている小説が読みたいのならこの『MUSIC』がある。

 笑ってしまうぐらいにカッコいいのか、カッコいいから笑ってしまうのか、どっちなのかわからないけどそれは新しい時代を作る最先端を疾走するエッジの効いた音楽も小説も一緒だと思う。

 古川日出男作品を読むと無性に歩きたくなる。僕らの人生に「物語」が溢れていることを教えてくれる、あるいは再認識させてくれる。そこには著者が歩いて見たその景色の肌触りが小説を通して僕らに伝わってくるから。

 僕らは歩いて生き、生きて歩いていく。

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 冬だった。僕はコートの襟を立て、首をすくめ、西荻窪駅の改札口を出た。駅前は会社帰りのサラリーマンや女子高生、買い物帰りの主婦で溢れている。彼らや彼女達のしゃべり声、電車の音が嫌に耳についた僕はCDウォークマンのイヤホンを耳に突っ込もうとバッグに手を入れた。その瞬間、かすかではあるが、バイオリンの音色が聞こえてきた。

 どこかの店がラジオでも流しているのかなと思ったが、駅の路地を出るとバイオリンを持ったひとりの白人男性が立っていた。年は三十代半ばに見える。すらりと背が高く、高級そうな黒い紳士服を着用し、顔は端正だ。彼の仕草、振舞いは、まるでクラシックのコンサート会場から飛び出てきたようだった。演奏を一通り終えると彼は丁寧にお辞儀をし、周りに集まった人々に文字が書かれている青い紙を手渡していた。集まっていた人々と言ってもわずか5人程度だが。

 紙には「ヤレック・ポヴィフロフスキ」と書かれている。名前のようだ。僕は全く知らない。経歴も書かれていて、首席で有名な音楽大学を卒業し、権威ある賞も取って、かなりのエリートなのだが、「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」という持論から様々な国を転々とし、路上で演奏をしているとのことだ。笑顔を忘れず、聴き入っている人々に愛想良く振舞う彼の紳士的な佇まいに好感を持った僕は足を止め、しばらく演奏に耳を傾けた。

 新宿駅を出た辺りでロック・バンドやどこかの国の民族音楽を演奏する人たちを目にするが、たったひとりでバイオリンを弾く人は見たことがなかった。外で演奏するということは、当然騒音も入ってくる。車の音。電車の音。人のしゃべり声。決して音が大きいとは言えないバイオリンを外で弾くことは、周りの雑音によって音がかき消される可能性が高いわけで、ある種、自殺行為のように思えた。それゆえ、ジョン・ケイジのように雑音をも音楽として捉え、自分の音楽に取り込むような演奏をするのか、もしくは即興演奏をするのかな、と思ったのだが、全くそのような素振りは無く、有名なクラシックの楽曲を楽譜どおりに演奏していた。三分か二分に一度の割合で、ガタンゴトンと電車の音が不器用に聞こえて来る。その度、バイオリンの音はかき消される。全くと言っていいほど聴こえない。僕は外でバイオリンを弾く意味を解せなかった。

 そこで一通り演奏が終わったとき、僕は片言の英語で尋ねてみたのだ。「なぜ外で演奏するんですか?」と。きっと皮肉に聞こえたのだろう。彼の表情は一変した。文字通り全身のジェスチャーを交え、「何を言っているんだ! どこで演奏したっていいじゃないか。僕はただ、みんなに聴かせたいだけなんだ!」。そう説明してくれた。いや、訴えたと書いた方がベターかもしれない。僕は英語が苦手であるから意訳ではある。ただ、彼の表情は真剣だった。

 そうなのだ。元々音楽は生活に密着したカタチで存在し、鼻歌や口笛や、それこそ人がなんとなくリズムに乗って膝を叩く音が音楽であったりした。音楽評論家の小泉文夫氏は代表的な例として「わらべうた」を挙げている。どこで演奏したって、どんな音を奏でていたっていいのである。つまり、「音楽=CD」「音楽=コンサート会場で聴くもの」という概念は音楽を商業または芸術として捉えて初めて出てきたものなのだ。音楽はCDやライヴだけではない。小波の音を音楽として聴く人がいるし、東南アジアにはにわとりの声を音楽として聴く人が存在する。僕らは、いや、もしかしたら僕だけかもしれないが、音楽はCDに収録されているもの。ライヴ会場で演奏されるもの。そんなふうに音楽を物凄く限定された世界に押し込めてはいないだろうか。

 もちろん音楽が芸術、そして商業として捉えられたことで発展してきた部分は大きい。CDもレコードもラジオもなかったら、僕らはここまで音楽に夢中になることはなかったかもしれない。だが、発展したがゆえに、芸術や商業として捉えられるようになったがゆえに、リスナーに優劣を付ける風潮があるのも事実だ。なんだか、それが、哀しいのだ。

 ヤレック・ポヴィフロフスキ。彼が西荻窪駅前で奏でたバイオリンの音色は人々の心に届かなかったかもしれない。無視して通り過ぎた人も多くいただろう。それでも彼は今も世界のどこかでバイオリンを弾いている。「音楽をコンサート会場に閉じ込めてはいけない」「音楽とは自由だ」という意思を込めて。

 だが、その演奏に聴き入っていた僕の右手には、見事にパッケージングされたCDという名の商業音楽が、「NO MUSIC NO LIFE」と書かれた黄色く眩しい袋とともにあった。

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 曽我部恵一の00年代の活動は目まぐるしく、そして、一つの日本の音楽界でのメルクマールだったと言っても過言ではない。インディー・レーベルのローズ・レコードの立ち上げ、主宰、新進アーティストの発掘、自らもソロ、バンド形式で多数のライヴ活動をこなしながら、縦横無尽にインディペンデントな形でただ、音楽を少しでも多くの人たちへ届けようという意志だけに支えられているかの様な佇まいで駆け抜けながら、日記で見せる父親としての穏やかな佇まい、全てがとても魅力的だった。

 ただ、僕にはその魅力的過ぎる部分を些か引いて見てしまう事も多かったのは確かだ。何故ならば、フェスで曽我部恵一BANDとしてファストなアレンジで汗を掻きながら、髪を振り乱し、「青春狂走曲」をシャウトして、コール・アンド・レスポンスする場に乗れなくなっている自分のシニシズムと単なる年齢がいったという問題もあったのかもしれないし、単純に彼の生真面目さを対象化してしまう自分の在り方を恥じていたのかもしれない。それでも、まだサニーデイ・サービス解散後のソロとしても模索していた時期の梅田のタワー・レコードのインストアのライヴで来られた時にちらっと話した際のその温和な語り口と笑顔にも救われ、拙いながらも、以前、ローズ・レコード所属のランタン・パレードのレビューもロッキング・オン・ジャパンという雑誌に書いた事があったり、ほぼ彼を巡る関係の音源は集めていたこの10年程だったが、そこまで「聴き込む」熱心なリスナーではなかったし、積極的にライヴに足を運ぶ類の人間ではなかった。

 ただ、今回、サニーデイ・サービスが8年振りに08年のライジングサン・ロック・フェスティバルで再結成ライヴを行ない、作品としては10年振りとなるアルバムを出すというアナウンスを聞いた時、何だか胸がざわめいた。

 今のサニーデイ・サービス。40歳を前にした「若者たち」が描く青い世界観というのは想像出来なかったのもあるし、だからこそ、極力、映像も現場も含めて、今回のサニーデイ・サービスを巡る場所を迂回しようとした。「フジロック・フェスティバルの演奏が最高だったよ」、「新曲、良いよ」と、それでも、色んな声は聞こえてきていたが、アルバムを聴いてから、ちゃんとジャッジしようと思った。

 そもそも、僕の個人的な体験と照応するならば、サニーデイ・サービスというバンドに触れたのは94年の『コズミック・ヒッピーEP』だった。渋谷系文脈で、大阪のHMVでふと買ったのだったが、正直、フリッパーズ以降の温度を継承した大学生的なバンドのアマチュア的なムードが充満していて、それはその頃の日本の音楽界隈のバブルさと比例して、僕には「誰でも音楽が出来る時代なのだな」という印象論をもたらせてくれるもの以外、特別なものはなかった。その評価が変わってくるのは95年の『若者たち』以降のとても透徹としたプロフェッショナリズムに裏付けされた作品群だった。また、ライヴで観る彼等の相変わらずヘロヘロでローファイで、その「らしさ」と70年代的なフォーク文脈を再解釈して現在進行形でどんどん舵を切っていく様には、興奮も感動もしたし、「自分語り」だらけの音楽が溢れる中で、決してそれをしない「風景描写の巧みさ」にも皮膚感覚が合った。

 90年代の彼等の活動と僕の青春時代は重なっていて、大学受験の時は97年の彼岸的な『愛と笑いの夜』を聴いていたし、大学に入って鬱屈していた時は98年の『24時』のドロドロとした雰囲気に同一化出来たし、99年の『MUGEN』は大学を辞めるかどうか悩んでいた頃の大学図書館でよく聴いていた。周囲がオウムやドラゴン・アッシュや小林よしのり辺りの「大文字」に感性が回収されていく中、僕も抗う事は出来なかったが、サニーデイ・サービスの「小文字」にはいつも助けられた。「あることは、つまり、ないんだよ」、という徹底した透徹とした音像とメロウネスと混沌。そして、バレアリックに打ち込みを入れた00年の『LOVE ALBUM』という記号を投げかけるように、その流れで解散してしまった。

 余計な話になった。但し、そんな文脈で、ある種、「サニーデイ・サービス」という記号に私的にはオブセッシヴなものがあるので、新作も最初は封を切るのが怖かった。「今更、どんな音鳴らすのだろう」という懐疑の念と「90年代が甦るのは嫌だな」というトラウマ的な感情の相克。でも、一曲目のカウントを数える声と、その後に響くもたつくリズムと相変わらずセンチメンタル過ぎる歌詞、曽我部氏のメロウネスを極めた声を聴いた時、不覚にも泣いてしまった。「今のサニーデイ・サービス」がそこにあって、ちゃんと歳がいっていて、でも、全く変わってなくて、ラヴィン・スピーンフルやバッファロー・スプリングフィールドやニール・ヤング、勿論、はっぴぃえんども含めてフォーキーなサウンドを鳴らすバンドやアーティストを参照ベースにしながら、アナログな音質でコンパクトに10曲が纏められている。一発録音的なノリもあって、ウェルメイドな作品ではないし、曲によってはクオリティのムラがあるのは確かだ。

 でも、サニーデイ・サービス内でしか見せない曽我部氏の「情景描写の巧みさ」や丸山氏のアタックが弱めのドラム、田中氏のベースラインは何とも言えない透明度がある。その生々しさが僕は堪らなくなってしまって、思わず過去のサニーデイ・サービスのアルバムを聴き返すような日々を送る事になった。このアルバムは出来るだけ多くの大人に、そして、多くのユースに聴いて欲しいと素直に思った。前者は「もう音楽なんて」と生活に追われている中で、ふとこの音が日常を優しく持ち上げてくれるかもしれないよ、というささやかな祈念と、後者はソカバン系譜で知っていたとしても、曽我部氏のこういった優美な面はあるんだよ、というのを知ると、セカイ系やら絶望的な何か、を回避出来るかもしれない、という個人的な想いがある。

 本日は晴天なり。

 でも、晴れの日に傘を差していても全然いいんだ、本当は。

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 ティム・バートン×ジョニー・デップ×不思議の国のアリス、ときたらヒットしないわけがない! という話題の映画『アリス・イン・ワンダーランド』のインスパイア・アルバム。

 映画からインスピレーションを得て全アーティストが新曲を提供したもので、一見若者に人気があるイマドキのバンドばかり...に見えるのだが、なんといっても目玉は9曲目、ザ・キュアーのロバート・スミス! 彼がカバーした「Very Good Advice」はディズニー映画『不思議の国のアリス』のテーマソングで、なんとも彼らしいファンタジックな仕上がり。ロバート・スミスという名前があるだけで、アリスの世界がより一層美しく妖艶に思えてくるから不思議だ。そしてこの顔ぶれに意外なもう1組がフランツ・フェルディナンド。フランツとティム・バートンという未知数の組み合わせから生み出されたのはダーク・ファンタジーの世界。イマジネーションを掻き立て、物語へと誘っていく表現力はさすが。モーション・シティ・サウンドトラックの参加は映画やコミック好きを公言しているだけあって大いに納得。活動休止中であるフォール・アウト・ボーイのピート・ウエンツ+昨年活動を再開したブリンク182のマーク・ホッパスといったコンピレーションならではの取り合わせや、オール・アメリカン・リジェクツの「The Poison」のようなしっとりと聴かせる良作があったりと、若者向けと敬遠するにはもったいない内容。もちろん、今のシーンで活躍しているバンドを知りたいという人には、言うまでもなくオススメです。

 意外にもミドル~スローテンポの楽曲が多く、その辺から映画のイメージも湧いてくる。それぞれにとっての「ワンダーランド」が綴られた歌詞も、まるで短編集を読むようで面白い。

 このオムニバスとは別に、劇中で使われているダニー・エルフマンの楽曲は『アリス・イン・ワンダーランド オリジナル・サウンドトラック』として発売中。

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 5曲入り約15分の前々作『シフォン主義』、9曲入り約33分の前作『ハイファイ新書』につづいて、今回は11曲入り約40分。こういった言い方自体古いような気もするが、「初のフル・アルバム」みたいな表現も可能だろう。実際それだけの充実作となった。

 ローファイなバンド・サウンドの『シフォン主義』が話題になりはじめたころ初めて見たライヴで、リズム隊の生みだすしなやかなリズムに感銘を受けた。それゆえ『ハイファイ新書』における「歪んだAOR」的サウンドも自然な成長に思えた。そして今回、ある種の違和感やスポンティニアス性を内包したままのソフィスティケーションはさらに進み、最も魅力的だったときの歌謡曲がこの10年代にまだ(普通に)棲息していたかのような錯覚さえ覚える。

 やくしまるえつこのヴォーカルも、ずいぶん印象が変わった。まだ子どもっぽさを感じさせた1作目の衝撃から、よりアニメ度(そんな言葉あるのか?)の強まった2作目をへて、これまでになく人間っぽい。エキセントリック「ではない」、通常の会話に近い部分の発声方法が、新鮮な衝撃。以前とは明らかにレベルが異なる。一抹の「二次元性」もしくは、ある種のアンドロイドっぽさとそれの併存ぶりは、アリソン・スタットン(ヤング・マーブル・ジャイアンツ~ ウィークエンド。ぼくの最も好きな女性ヴォーカリスト)さえ想起させる。

 数ヶ月前に、ツイッターを始めて以来、もともと曖昧な部分もあると感じていた「機械と人間の境界線」が、ぼくの中で、またさらにぼやけてきた。この新しいコミュニケーション・ツールは、普段の生活の中にも無数に存在しているシンクロニシティを顕在化させる。そういった状況に、このアルバム・タイトルは (そして、それが象徴する内容も)よく似合う。

 資本主義ではなく『シフォン主義』を唱える相対性理論というバンドのファースト・(ミニ・)アルバム冒頭曲は(ウルトラ警備隊ではなく)「スマトラ警備隊」。長めのイントロのあと「やってきた恐竜、街破壊」とか、女子が歌いだす。おそろしく今っぽい、そしてSF的な体験だった。未来が見てみたい、と思った。そこで抱いた期待を裏切らないどころか、さらなる驚きが、この新作にはある。

 前作も前々作も、実はデータのみで所有していた。『ハイファイ新書』を聴いて、意外に早く限界が来るかも? などと醒めた見方になってしまった部分もあり(すみません...)今回どうしようか迷った。でも、このアートワークを事前に見て、思わずCDを買ってしまった (個人的な話で申し訳ないのだが、これ、うんこ次郎先生のマンガにしんくろにしてぃーん! みたいな...。ちなみに、うんこ次郎先生とは、初期クッキーシーンに連載してくれていた人です)。そうしたら、あまりに良くて、つい前2作もCDで買い直してしまった。また、もう少し未来をのぞいてみたい、そんな気分で。

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雨の中、傘を差さずに踊る人間が居たっていい。それが自由というものだ。(ロジャー・スミス)
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 今回の新作に際してのインタビューで、彼がセオ・パリッシュ、ドナ・サマー、ジョージ・デュークへの愛慕の念を示していたのが僕は一番、興味深かった。というのも、兎に角、シリアスなイメージが常に纏っていたフライング・ロータスの存在を今、再解釈するのに良い文脈かもしれないと思ったからだ。

「ディスコ」の起源は第二次世界大戦にまで遡らないといけない。

 戦争の激化に伴い、バンド演奏の生演奏が不可能となったフランスのナイトクラブで、しかたなく演奏の変わりにレコードを掛けて踊るようになったのが発祥と言われている。そもそも、「ディスコ」という言葉もフランス語のdiscotheque(レコード置き場)の短縮形であり、生演奏の代替物として発生したディスコも、生演奏よりも曲を「客に合わせて再生できる」というメリットが受けて、第二次世界大戦後のパリに「ラ・ディスコティーク」というクラブが開店したことでフランスに新しいディスコというカルチャーが定着する。

 そして、生バンドの代わりにスピンされるレコードの価値が本格的に世界的なブレークの契機になるのは60年代のアメリカのゲイ・シーンである。ヒスパニック、黒人層、移民達のマイノリティの磁場が熱狂的に支持をするが、その背景には彼等のアンテナの鋭度が流行曲、大衆歌を越えて、世界中の音楽、特にブラック・ミュージックのソウル、ファンク、のバネの強さに反応して、ダンスの機能性と共振した結果、ユース・カルチャーと根付いていき、クールでファッショナブルな場所として様々なディスコ・クラブを産む。有名なものではパラダイス・ガラージ、フラミンゴ、ギャラリーだろうか。特に、パラダイス・ガラージにおけるDJのラリー・レヴァンの影響力は大きかった。単純にレコードをスピンさせて、原曲で踊らせるという形式からオリジナルなテイストを組み込むこと、二枚のレコードを繋げてミックスして流す所作、クラブ向けの12cmのヴァイナルといったものも広まっていくことになる。そして、60年代の、まだ黒人差別やゲイ・カルチャーへの偏見が根強かったアメリカにおいて、カウンター・カルチャーとして有為に機能した。

 70年代に入り、伝説の番組『SOUL TRAIN』をして、トライヴや垣根を越えて、アメリカでブームが起きる。このディスコ・ブームと呼ばれるものは元々のディスコが内包していた強度を漂白して、商業化への波へと舵を切る事になり、各国に輸入されたものはこの時のブームの要素が強く、マイノリティやゲイ・カルチャーへの目配せというよりは、もう少し「表層」的な部分も含意していた。
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 そして、表層から深層、深層から実相、実相から空洞へ。

「空洞」の中に、際限なく多種多様な文化的産物から派生したドローン音が響く現代で、こういった文化的背景を踏まえて、フライング・ロータスことスティーヴン・エリスンの2年振りの新作『Cosmogramma』(Cosmo+Gramma、宇宙+原理)への解析をすると面白い。この作品が表象する、こんがらがった「小宇宙的世界観」はサン・ラー、ファラオ・サンダース、ジョン・コルトレーン辺りの「それ」(例えば、コルトレーンで言えば、『LOVE SUPREME』的)なものでもあるが、これは希釈化されたビート・ミュージックの「カウンターへの、カウンター」が「内在化されている」という意味では仄かな深度がある。精神的な「何か」を希求する為の意志的なビートとアタック感、そこで脊髄反射されるクールなモダンネスとスキゾ性。スティーヴ・ブラナー、レベッカ・ラフ、ミゲル・アットウッド・フォーガソンと多くの面で組みながら、ヒップホップ、電子ノイズ、グリッチ音、テクノ、ゴスペル風コーラス、ダブ・ステップ、ガラージ、エレクトロニカがハイブリッドに撹拌され、マッシュアップされた上で、「46分のボードリヤール以後の、ナラティヴ」としても捉えても良いだろう中で繰り広げられるマッシヴな音像は「均質と差異」を行き来しながら、微妙にサウンド・レイヤーをずれていく構造を更に対象化していく。
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 この音像の混沌たる「美意識」が示す、「気高きマイノリティをスイングさせる」強度は時代を越えて、ラリー・レヴァンのスピンしたレコード群に混じりながら、確実にフロアを上気せしめるかもしれない。J・ディラ、エイフェックス・ツイン、インドープサイキックス、今回のトム・ヨーク客演などの「外部」要素は越えて、この作品は「内部」に潜航していきながら、「内部の<内部性>」から外部的な道筋に快楽をセットインする。そういう意味では、マルチチュード的な佇まいもある。
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 想うに、ビート・ミュージック系のハイエンドな音に触れるということは「現実の退路を断たれる」意味さえも孕む気がする。(エレクトロ・)ビートの先にアルコール、ドラッグやささやかなこの瞬間の永続性を願う祈念や等が待備せしめる瞬間、クラウドの総てが万能になるの「ではなく」、観念の肥大にダンスが、ステップが追いついていかないもどかしさ、とそこにカットインされる「大文字のセンチメント」が前景化するのが常だからだ。そこが今におけるダフト・パンク、ジャスティス的なものの「デッドエンド感」やWARP勢にしても時折、ちらつく悪しき選民主義もサジェストしたとも言える。WARPという事で言えば、新世代的なビート・メイカーのクラークやハドソン・モホークが畳みかける判り易い変拍子、歪みは個々の生体リズムに仮託(マップ)されて、「不自由」な刻みでヘドニズムを感応することができる導線は敷いたが、複層性は無かったように。

 そんな中で、フライング・ロータスとはコルトレーンの甥という出自もあるのか、この(非自覚的だろう)「浅さ」を逆手に取ったドープさの先に見える、「終わりの中での、始まり」への意識をビートに乗せて、その位相をスライドさせるのが巧みだ。しかも、それがオーディエンスの自意識の「ソト」でちゃんと響くようにセッション的に乱雑に音を「畳みかける」ので、音像への同一化の余地を許さない代わりに、音楽の「音」自体への耳の反応を鋭角化させる。
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 ほんの少し前、ポスト・パンクやニューレイヴで酔っていた輝かしい都市生活者、キッズ達のパーティーはクールなブランド服で固められたある種の護られたユニティが出来ていた。並行して、ダブ・ステップやグライムのクラブには「完全に世から離れている」トラッシュ達の咆哮と欲動を感知する事が出来たが、すぐさま「離散」した。だからこそ、今、本当の「外れし者たち」や「メトロポリタン主義者」とは「ディスコ」や「ダンス」にさえ繋がっていないのではないか、と思いさえする。
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 ラリー・レヴァンがソウルやファンクのブラック・ミュージックに並べて、日本の歌謡曲をスピンしたような位相としてスーパーフラット的に、「現代のラリー・レヴァン」が居るとしたならば、皿に真っ先に乗せるレコードはこのフライング・ロータスの新作ではないか、というのは穿った妄想ではないかもしれない。この作品には徹底的な記号的なラジカリズムへの求心的で皮肉な視点と古のスピリチュアル・ジャズへのオマージュ、90年代以降のIDM、エレクトロニカ文化、更には西海岸アンダーグラウンド・ヒップホップへの明確なポスト性がある。

 この作品は決して「郵便的」ではない。IDチェックや管理下の五月蠅い閉ざされたドアを開こうとする真摯な外れし者たちが46分程で、脳内でインナー・トリップする為の入構証のアウラがある。既に戦時下の世界で、2010年代最初の、ハーヴェストと反抗のステイトメント。LAからコスモス、そして、内的宇宙、素粒子レベルに還流して、ウロボロスの蛇のように何もかもが「消失」する点(ヴァニシング・ポイント)の上に、この作品の「真価」が可視化出来る。

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 かつての盟友、ブライアン・イーノとの「再開」を経て作られた感動的なゴスペル・アルバム『Everything That Happens Will Happen Today』、及びトーキング・ヘッズ時代の名曲も含むイーノとの共作曲の数々を斬新な演出とともに披露した一連のライブ・ツアー(昨年の来日公演も鳥肌モノでした)を始め、各所に出ずっぱりな客演なども込みで近年充実した活動を続けているデヴィッド・バーン。

 そんな彼が新たに届けてくれたのは、数年間に渡って構想の練られ続けてきた渾身の力作コンセプト・アルバム。物語の主役はフィリピンで20年に及ぶ独裁を続けたフェルディナンド・マルコス大統領の夫人で、自らも政治介入して辣腕を振るった一方、「3000足の靴」を始め、かのビートルズをブチ切れさせた逸話などその立場を活かした贅沢でやりたい放題なエピソードの数々を誇る悪名高き美女、イメルダ・マルコス。

 ディスコでのナイトクラビングも愛してやまなかった彼女の栄光とその落日までに至る半生と、当時のフィリピンにおけるクラブ・カルチャーの強烈なバイブスに着眼したバーンは、その魅力と妖気をいつもながらの特異な探究心とロマンティシズムでもって追求。数回のライブにおいて試行錯誤を重ねられ熟成したダンス・ミュージックは、現代性と懐古趣味の両方を併せ持ちながらもどこにもなかった音触りで、これまたバーンのキャリアの代名詞ともいえる「フェイク」に満ちている。

 音作りのパートナーはBPA名義の近作でもチャーミングなユーモアを撒き散らしていたファットボーイ・スリムことノーマン・クック。彼の手による洒落と抑制の利いたビートと、気品溢れるガーシュイン風のストリングスを軸に、ディスク2枚組90分に及ぶ物語は進行していく。

「音源ダウンロードが全盛の時代において、どうやったらリスナーにアルバムという記録形態の価値を認められるか腐心した」と述懐するバーンは、物語の担い手としてそれぞれ異なるシンガーを一曲毎に適材適所で配置。

 フローレンス&ザ・マシーンのフローレンス・ウェルチにセイント・ヴィンセントといった若手インディー・シーンの看板娘に、グライム・シーンのヒロインであるサンティゴールド、あのレディ・ガガの奇抜なファッションの元ネタと一部で噂されている元モロコのローシーン・マーフィーや、ゼロ7との共演でも有名なシーア・ファーラーといったかっ飛んだポップセンスを誇る才女たち、B-52'sのケイト・ピアーソンや元10,000マニアックスのナタリー・マーチャント、シンディ・ローパー、トーリ・エイモスといったロック界の生きる伝説から、最近ではエイミー・ワインハウスのバックヴォーカルも務めたシャロン・ジョーンズ、フレンチ・ポップを代表する歌い手カミーユなど、錚々たるメンバーが集結してそれぞれの個性を発揮。バーン自身もお馴染みの伸びやかなヘタウマ声を披露。

 こういったトピックに事欠かない作品でありながら、結果的にはバーンのコンポーサーとしての腕前が話題負けすることのない強度をこのアルバムにもたらしている。長年のインチキ・エスノポップ路線がひとつの結実を果たした2001年作の『Look Into The Eyeball』(余談だが、このアルバムでメキシコの国民的ロックバンド、カフェ・タクーバのルベンと共演している事実は、単独ライブやサマソニでの驚異的なパフォーマンスで日本でも彼らが知られるところとなった今こそ再評価されるべき)辺りから安定して高品質のポップスを作り続けてきたバーンのペンは今作でも冴えわたり、AOR的でもありながら刺激に満ちた独特のバランスを生んでいる。

 ちなみに、アルバム・タイトルの『Here Lies Love』は80歳を迎えますます意気軒高なイメルダ夫人が墓碑銘にと望んでいるフレーズとのこと。数奇な人生を歩んだ彼女の悪びれない美意識がそのエピソードに集約されているようでもあるし、そのフレーズをそのままタイトルに採用してしまうバーンの表現の軸はヘッズ時代から微塵もブレていない。

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 昨年9月、2005年の解散から3年半を経て再始動したゲット・アップ・キッズ(以下TGUK)に会うべく、私は彼らのUSツアーへと向かった。そこでは新曲が演奏され、この活動再開は一時的なものかどうかという懸念は、その瞬間きれいに吹っ飛んだ。その時演奏された「Kieth Case」を含む全4曲入りのEPが、遂に! 6年ぶりに! TGUKの新作としてリリースされる!

 そのツアーで聴いた印象は、4作目『Guilt Show』の雰囲気と近いな、というもので、後に他の収録曲を聴いてもやはり同じことを思った。そしてそれは正しい、と。『Guilt Show』は解散前の最後のオリジナル・アルバムで、つまりは前作にあたる。その前作の延長にある音を出しているということは、今の時代に合わせたものでも、みんなが聴きたいであろうイメージに沿ったものでもなく、彼らの人としての成長と音がリンクしている証であり、それはとても正しい形だと私は思う。TGUKというバンドはいつでも彼ら自身を音楽に投影して来たのであり、5人の密な関わりがなければ保てない絶妙なバランスで成り立っている。3年半の空白期間は、彼らの生活や人生と、音楽、バンドが密であるが故に少しだけ休息が必要だったのであって、仲違いでも音楽性の相違でもない。そして休息はもう終わったのだ!

 新たにレーベルを立ち上げ、12インチ、CDともに限定リリース(itunesでも配信中)というところからも、自分達の望むやり方で活動していこうという意思が感じられ、これからますます等身大の彼らを見せてくれるだろうこと、再び彼らと共に年を重ねていけることが、私は楽しみでたまらない。このEPは、そんな嬉しい再会の1枚。

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 音楽だろうが演劇だろうが、最先端のものは現場で表れる。お笑いに関してもそれは例外ではない。いくつかの主要なお笑い番組が終わり、ブームが終わりつつある(もしくは終わった)と喧伝される今こそ、お笑い好きで行ける環境にある人はライブに足を運んでみてはいかがだろう。テレビにほとんど出ていなくても、自分の信じる面白さを日々観客にぶつけている芸人が沢山いる。

 東京コントメンはシティボーイズ擁するASH&Dという事務所のライブ。新宿の地下にある小劇場で、隔月にひっそりと行われている。ライブ名が表す通り、出演陣は全てコント師。司会がいてそのナビゲーションによって演者がネタを演じるのではなく、ムロツヨシという役者が狂言回しとなっているため、観客の空気が素に戻る時間がない。また、観客もコントを観るという姿勢で臨んでいるために、独特の雰囲気がある。東京のコントは、演じ始めてから設定が明らかになるまでの時間帯が重要なので、コント好きにはその醍醐味が十分に味わえるライブ。お勧めです。

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 例えるならレディオヘッドのヴォーカル、トム・ヨークのソロのように、このアルバムはヴォーカルの音量が大きく、強くフィーチャーされている。シガー・ロスのヴォーカル、ヨンシー・バーギッソンは、別のサイド・プロジェクト"ヨンシー&アレックス"でのフル・アルバム・リリースを経て、遂に満を持してのソロ・デビューと相成った。その作品はシガー・ロスの最新アルバム『残響』でのオープニングのように壮大であり、ポップであり、美しい。むしろ筆者としては『残響』以上にお薦めしたい。何せその世界はリード・シングル「ゴー・ドゥー」だけに留まらない。どの曲も繊細なエレクトロ・サウンドとバンド・サウンドが見事に入り交じって異国のヴィジョンを映し出す。

 聴くほどに思い描かれるアイスランドの自然溢れる景色は、シガー・ロスに決して劣ってなどいない。これが奇跡と呼べるサウンドスケープの歌と光だ。

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 2007年のデビュー・アルバム『Oracular Spectacular』で大きな盛りあがりを見せた彼らだが、次作ではそのセールス・ポテンシャルを無視した「わけのわからない」ものを作るつもり...というアナウンスが昨年流れていた。プロデュースを手がけるのは、アンダーグラウンドにその名をとどろかせるソニック・ブームという情報を聞いたとき、こいつらマジだよ、と...。そしてカヴァー・アートは、モロ、E.A.R.(Experimental Audio Research。ソニック・ブームのユニット)じゃん...と思ったら、そのシングルを手がけたこともある人が、そのままやってるらしい。これは、さぞ、ぐしゃぐしゃな音楽になってるに違いないと、おそるおそる聴いてみたところ、驚いた! これは、もう、むちゃくちゃポップじゃないですか!

 もちろんヘンな音はたくさん入ってるし、ヒット・チャート・シングルを聞き流すだけという人がそう感じるかどうかはよくわからないのだが、そうではないものを普通に聴いてる耳であれば、躁病的かつドリーミーな世界に横たわるポップ性に、まずはうっとりしてしまうはず。

 ロック・スター、ロック・ヒーローに対して痛切な皮肉をかませつつ、彼ら自身がそれになってしまいそう...そんなアンビバレンツな魅力が『Oracular Spectacular』には、あった。しかし、この『Congratulations』では、それが徹底的に排除されているような印象さえ受ける。パワフルかつ骨太ととらえられかねない要素を避け、わざと軟弱であろうとしているかのごとき、確信犯的ふにゃふにゃぶり。

 最初に聴いたとき頭に浮かんだのは、今や日本ではいくぶん形骸化してしまった印象もある、ギター・ポップとかインディー・ポップという言葉。90年代後半のエレファント6系とかも思い出した(そういえば、エレファント6系と日本でシンクロしていたコーネリアスの最初のUSツアーは、フレーミング・リップスが企画したものだったけど、その前半にはソニック・ブームも出演していたんだっけ...)。だから、フリッパーズ・ギターを思い出すという意見にも納得がいったのだが、いや、それ以上に、プライマル・スクリームの『Sonic Flower Groove』! あくまで、ノリとして。

 レコード・デビュー前は、PILやスロビング・グリッスルなどに通じるノイジーな音楽をやっていたプライマル・スクリームだが、クリエイションからレコード・デビューしたときには(わざと軟弱であろうとしているかのごとき)ドリーミーなポップ・バンドに変容を遂げていた。その集大成が『Sonic Flower Groove』。MGMTの人も好きらしい(そしてベル・アンド・セバスチャンのスチュワートも好きだった)フェルトのキーボード奏者も、5人目のメンバー的に参加していた。プロデューサーがサイケデリックの大御所メイヨ・トンプソンだったことも、『Congratulations』におけるソニック・ブームの起用と、妙にかぶってしまう。

 こう考えると、「Song For Dan Treacy」という曲の存在にも合点がいく。プライマル・スクリームの音楽仲間であったアラン・マッギーがクリエイション・レコーズを始めたとき、なにより憧れていたのはダン・トレイシー、そして彼率いるテレヴィジョン・パーソナリティーズだった。

 ネオ・モッズの始祖のひとつ(どちらかとえば、そこから派生したザ・タイムスの方がそれっぽいけど)でもあり、ポスト・パンク・インディーを代表する存在(「Part Time Punks」は本当に名曲!)。「I Know Where Syd Barrett Lives」という曲も当時話題になっていた(ダンは、どうやら本当にストーカー的にシド・バレットの住所を調べていたらしい。ピンク・フロイドの前座に起用されたとき聴衆の前でそれを披露して、翌日からツアーを追いだされたという...)。ワーム!というインディー・レーベルを主宰し、話題になりかけた頃、ワム!がデビューすることになった。ダンは彼らのレーベルだかマネジメントだかに大金をもらって、レーベルの名前を変えた。それはそれでよかったのだが、そのお金で大量にドラッグを入手、それ以来ひどい中毒になってしまった(と、テレヴィジョン・パーソナリティーズのオリジナル・メンバーであり、ザ・タイムスを始めたエドワード・ボールに聞いた)。そして、なにより、オレンジ・ジュースと並ぶD.I.Y.ポップのゴッドファーザーとして、現在も多くの人たちに敬愛されている。

 こういった文脈で、このアルバムをとらえないのは、明らかに片手落ちではないか?

「Brian Eno」という曲もたしかに入っている。それも「アンビエント・ミュージック」を提唱する以前、ロキシー・ミュージック在籍時から70年代なかば頃までの彼が得意としていた狂騒的ポップ・センスを思い出せば、なんの不自然さもない。「Siberian Breaks」というタイトルで長い曲をやっているところは、イエスの「Siberian Khatru」を思い出す...というのはウソ...ともあながち言い切れないが、それより、やはりビーチ・ボーイズだろう。幻の『Smile』がもし完成していたら...。いや、サーフィンは終わった(Surf's Up)。プライマル・スクリームが、シングルB面で故デニス・ウィルソンの曲をカヴァーしていた、などということが、またもや頭をよぎる。

 収録曲中、最もソニック・ブームのイメージに近い「Lady Dada's  Nightmare」は、レディ・ガガを意識した曲だという噂も聞いた。彼ら、意外に(?)レディ・ガガも嫌いではなさそうだが(ちなみに、ぼくは嫌いじゃない)、彼女に「勝とう」などとは、夢にも思っていないだろう。どうして、彼女と競わなくちゃいけないの? まったく違う場所にいるのに(笑)。

 変な逆エリート意識とか、選民主義ではない。そうなってしまう、もしくは、そうせざるをえない(それしかできない)のだ。

 クッキーシーンのモットーは、always pop and alternative。「オルタナティヴを目的化している」などと、見当外れの後ろ指をさされることも少なくない。そんなとき、ぼくはこう思う。ああ、この人はけっきょく「大きな物語」しか認めないんだな、と。そして、ロック的な「大きな物語」を、まずはあえて回避したようなこのアルバムに、限りないシンパシーを覚える。

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 90年代に見せた小室哲哉のプロデュース作品の持っていた躁的なムードと市場での受容のされ方は、経済学的に言うと「失われた10年」という記号と共振するところがあって面白く、それは日本のガラパゴス化が既にその頃から始まっていた証左だと思う。金太郎飴のようなエレクトロ・サウンド、15秒のサビに全てを掛けた構成、大きい文字の羅列の歌詞、あらゆる要素が「自意識」のソトで鳴り響いてしまうという皮肉を内包していたが故に、その後の小室哲哉の衰微と比して、ミスチルが「自意識」のウチで勝ち続けたという事は象徴的かもしれない。

 ポスト・モダンからロスト・モダン、そして、パスト・モダンへ。

 過去を振り返る為に「近代」があるとした時期に、中田ヤスタカはブレイクしたと定義付けるなら、大胆な80年代的なニュー・オーダーに代表される薄いサウンド・レイヤー、ダフト・パンク的なコンプがかかった意匠、露骨なハウスの元ネタへのオマージュを「メタ」に再構築して、一気に時代の寵児になり、街中にこれの過剰なまでの情報量の多いサウンドが溢れさせる事にした時代の要請とは僕は逆に漸く、日本は「戦時中」だという事を無意識裡にでもインストールさせたのか、と思った。

 それは例えば、『地獄の黙示録』の船で「王国」を目指すべく、川を昇る時にラジオから流れるローリング・ストーンズの「サティスファクション」と、プライマル・スクリームが00年と共にケミカル・ブラザーズと組んだアシッドな「Swastica Eyes」のPVに出てくる次々と衣装(意匠)を変え、挑発的な女性の持つ蠱惑性と僕の中では繋がってくる。そこを汲み取り、08年から急激にポップ・イコンとして地表化したPERFUMEの三人の持つ完全なパフォーマンスと中田ヤスタカの嬉しい誤算は演繹出来るだろう。

 免疫学的に女性は「存在」として認知出来るが、「男性」は現象でしかない。だからこそ、女性はリアルを生きる。男性はロマンを生きる。中田ヤスタカのロマンの中でリアルに三人の女の子がリアルに踊る、そこにセルジュ・ゲンズブールとフランス・ギャルの関係性を見た僕のような人間が居てもおかしくない気がする。

 そして、10年代に入り、中田ヤスタカのロマンがついに女の子のリアルに回収されてしまったのが、この「不自然なガール/ナチュラルに恋して」の二曲と いえる。「不自然なガール」はMEGの「甘い贅沢」や彼女たちの「love the world」辺りを彷彿させるアッパー・チューン、「ナチュラルに恋して」は「I still love U」系の80年代のブラコン風。ただ、そこで出てくるマーケティングされた「女の子像」は素直な乙女心の揺れ動き、「婚活」というターム以降の感性論で語る事が出来るというのが、とてもシミュラークル的で興味深い。

「いないのに、いる」女の子、「いるのに、いない」男の子、その深い溝を埋める術はあるのかどうか僕には分からない。でも、愈よPERFUMEという大きな「自我」が暴走し始めた作品としてこれは分水嶺になるのではないだろうか。

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 本DVDは、2009年6月30日に明治安田生命ホールで行われたライブの模様を収録したもの、番外編と銘打っているように、通常のコント・ライブとは違い、バカリズム升野英知が色々な案を提示するというもの。ライブの告知時にもコント・ライブではない旨強調されていた。とはいえ、そこはバカリズム。自己紹介代わりに周囲の人に聞いたというアンケートを持ってきている時点からして一筋縄ではいかない。設問自体も意表を突いてくるものばかりで、バカリズムを電化製品に例えると何? 怪我に例えると全治何ヶ月? 等々。勿論本編の各案も充実した内容で、バカリズムの発想がコントの時よりもより生に近い状態で味わえる。...と、楽しんで観ていると、徐々に、これは案を 発表するという体の大掛かりなコントではないのかという疑念が湧いてくる。途中で投げたら戻ってきそうなひらがなランキングなどという秀逸なフリップ・ネ タを持ってこられると尚更その思いは強くなり、エンディングの趣向はそれを示している。が、そのような仕掛けを読みつつも、翻弄されながら観るのが一番楽しい見方だろうと思う。

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 ゴールドフラップが凄いのは、実験性を一切失わないままメインストリームを突き抜けていくところだと思う。というのも、このデュオはアルバムごとに音楽性をがらりと変え、しかも、ケイト・ブッシュの遺伝子を受け継いだ独特の奇妙にねじれた感覚をみせながらチャートを席巻していくからだ。難解なフォークの 『Felt Montain』でデビュー、硬質なエレクトロに転向した『Black Cherry』、よりダンサブルになった『Supernature』、そしてフォークに立ち返りながら明快なメロディを奏でた『Seventh Tree』とアプローチは毎回大きく変わっている。そして、5枚目となるこの『Head First』で鳴らしたのは80's風シンセ・ポップで、これまでで最もわかりやすく、グリッターな内容だ。だが、今回はアバを思わせる複雑なコーラス ワークを使ったり、ジョルジオ・モロダー風のファンキーなディスコのビートを取り入れたりと一筋縄ではいかない。特に、アルバム最後に収録されている 「Voicething」なんて、ほぼ声だけでリスナーをトリップさせるような不思議さを宿しているエクスペリメンタルな曲で、決してポップなだけの作品で終わらせないとの意思を示しているようだ。確かに、かつてのエロディックでミステリアスな魅力は薄れたかもしれない。だが、万人に開かれたプロダクショ ンのあちこちに仕掛けを施した出来に、アリソン・ゴールドフラップは高笑いしているんじゃないだろうか。

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 ポスト・ロック/エレクトロニカという音楽は、それまでのロックを更新するための挑戦として始まった。アルバム・リーフことジミー・ラヴェルは、このジャンルにおいて常に、存在感を放ってきた音楽家として知られている。
 
 しかし、このポスト・ロック/エレクトロニカという音楽は、今では一部の音楽オタクのものとなってしまった。彼らの音楽への探究心。それは果てなき実験の連続である。しかし、そこでは歌、そしてそれを聴くオーディエンスという存在が忘れられがちになっていたと僕は思っている。そして、ジミー・ラヴェルについてもこのような音楽家に含まれる一人だと思っていた。

 ところが...である。アルバム・リーフの最新作は、以上のようなこれまでの僕の思いを大きく裏切る、ジミーのシンガー・ソングライターとしての姿をはっきりとリスナーに届けている作品となった。バンドが演奏し、歌が流れてゆく。それは僕にとっては嬉しい裏切りである。そして、これまでの彼のファンを裏切ることもない、彼の音楽への探求心について知ることのできる作品。彼のフェイヴァリット・アーティストはニール・ヤングだという。このアルバムを聴いた今、とても納得のできる話だ。

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 声が、すごい。かつてのささやくような歌声は、もうない。今の彼女の声は深く、力強く、感情が込められている。17歳でデビューし、可愛らしくほのぼのとしたフォークを鳴らしたアルバム『Alas, I Cannot Swim』で高い評価を受け、スターダムへの道を歩むことになった。だがその一方、かつて彼女も所属していたバンド、ノア・アンド・ザ・ホエールのチャーリー・フィンクとのロマンスと別れもあった。おそらく、一般の同年代の子より遥かに膨大な経験を経てきたことだろう。その経験が、20歳になった彼女がリリースしたこのセカンド・アルバム『I Speak Because I Can』に現れているように感じられる。キングス・オブ・レオンのプロデューサーによる大陸的な広がりのあるサウンドに載るリリックでは、ギリシャ神話を引用しつつ、人と人との関係性を淡々と語っていく。その点は、どこまでも内省的に悲しみを綴ったノア・アンド・ザ・ホエールの『The First Days Of Spring』とは非常に対照的だ。バンジョーとピアノ、ギター、そしてストリングスを用いた演奏はこれからの彼女の決意を示すように、シンプルでとても気高い。このアルバムを経て、彼女は僕らの世代のジョニ・ミッチェルになってくれることを証明するような、彼女の新たな第一歩は生命力に満ち満ちている。

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 ゴリラズの3rdアルバム『Plastic Beach』の登場だ。ここまで来れば、ボビー・ウーマックからマーク・E・スミス(!)まで、前作以上に豪華(でマニアック)なゲストが参加したことにも妙に納得。

 かつてポール・ウェラーがジャムを解散させてスタイル・カウンシルを始めたとき、そこで刷新されたのは楽曲のコンセプトはもちろん、バンド時代では表現しきれなかったグルーヴだった。僕はデーモンがGorillazを始めたことに同じような印象を持った。ドラマー(&ベーシスト)不在なんて気にしないで、色々なやり方でダンスする感じ。だからゴリラズの1st、2ndで音作りの軸になっていたのは、それぞれのアルバムに参加したトラック・メーカーだったと思う。

『Plastic Beach』には、ダン・ジ・オートメーターやデンジャー・マウスのようなトラック・メーカーがいない。でも、冒険心が失われたわけではない。ヒップ・ホップ、ファンク、エレクトロなど相変わらずバリエーション豊かなアプローチは、今まで以上にポップでわかりやすい。コンセプトが統一されているから、アルバム全体にメリハリがあって聞きやすい。

 1st、2ndは、デーモンがミュージシャンとしてグルーヴを追求する実験作だったのかもしれない。この『Plastic Beach』は、ストーリーテリング、ソングライティング、ビジュアル表現までを含めたデーモンのプロデューサーとしての才能が際立っている。映画を見たり、小説を読むとき、僕たちのアタマの中には制作者の顔なんて浮かばない。そのストーリーを存分に楽しむだけだ。『Plastic Beach』でも同じことが体験できる。

 ミュージシャンが、あくまでも「楽曲」の中で自己表現を追い続けるのは当然のこと。でも、デーモンは歌が生み出すイメージさえも大衆化しようとしている。実験(=グルーヴ)と引き換えに、今まで以上の大衆性(=ポップ)を手に入れた。個人的には、ダブっぽさがなくなったのはちょっと残念だけど。

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 時々叫んでみせるハイトーンのヴォーカルはとても線が細いし、「君にサブミリナル・メッセージを送ってる」なんて歌詞の一節はまさに草食系男子の思考回路。サウンドの端々からナードさが伝わってくる。弱っちい、そんな印象だ。だが、そんなベッドルームの少年が、ジャングリーなギターとポップなコーラス、それにいびつだが耳にこびりつくメロディを鳴らしたとき、その音楽は愛さずにはいられないものになった。名門サブ・ポップ所属、ヴァーモント州を拠点とする3人のデビュー・アルバムはそんな、キャッチーなローファイ・ポップが詰まった作品といえる。そもそも、このバンドの中心人物カイル・トーマスはダイナソーJr.のJマスキスによるサイド・プロジェクトであるメタル・バンド=ウィッチでヴォーカル/ギターを務め、一方でフェザーズというアシッド・フォーク・バンドのメンバーでもある人物。そんなカイルが、無邪気なティーンエイジャーのころを思い出して作ったんじゃないかと思うようなこのアルバムは、どこから聴いてもピュアネスが溢れ出てくる。

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 2009年の後半になってようやく気分的にアトラス・サウンドやらアニマル・コレクティブやらに追いついた私は(遅!)、あろうことか調子に乗って「イギリスは元気ないですね」なんてことを口にしてした。よく考えればその時には既にデルフィックもトゥー・ドア・シネマ・タウンもシングルをリリースしていたので、改めて自分がミーハー精神丸出しでアメリカのアヴァンギャルドに浮かれていたのがアホみたい。だって、そもそも私は「アメリカのやたらアーティスティックなバンドとそれに群がるお洒落な奴」の構図をすごく嫌っていたはずなのに、ってその話はまあ置いといて、2010年こそメインストリームはラ・ルーに頼りっきり、なんていう事態にはならないはず。さあ、これから私が紹介するのは、テスト・アイシクルという異常に寿命の短かったバンドを経て、アンタイ・フォークの先駆けにもなったファースト・ソロ作をリリースし、2010年の初頭に再び予想をはるかに上回るクオリティの作品を作り上げたライトスピード・チャンオンという男である。オタク・ポップ? いやいや、彼はファッション誌で逆に浮いちゃうくらいスタイリッシュで、私からすればそれでこんな素晴らしい曲を書けるなんてパーフェクトな才能じゃないですか。私、最近のユーフォリックなサウンド志向も大好物なんですが、それってもちろん逃避しちゃう気持ちよさも含まれてるわけでしょ? 私はこのアルバムの曲みたいに、メロディのなかに素直に高揚したりセンチメンタルになったりする部分が散りばめられているのも最高だと思うのです。1曲目、まさに最高ですよ、これ。彼の感性はなんとも絶妙な領域に平気で手が届く。2曲目もマジでいい。というか、全部いい。

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 2010年代に入って、スプーンだオーウェン・パレットだヴァンパイアだと怒涛のリリース・ラッシュに興奮しながらも、私はこのボルチモア出身の2人組が書いた「Norway」という曲に夢中でした。フロア・タムを効かせた浮遊感のあるリズムに不安定で胸が張り裂けそうな旋律が絡むヴァースから、太陽の光のもとへと連れ出されるコーラスへ移るとき、あなたはどこか遠くの異国に思いを馳せないでいられるだろうか。あるいはノスタルジックになる心地よさみたいなものを思い出さずにいられるだろうか。現代には様々な役割を持った音楽があり、あえて何の役割を持とうとしない音楽がある。アーティスティックな側面を保ったまま、いくつかのバンドは自分たちが生活できるくらいのリスナーを身につけることができた。ダーティー・プロジェクター然り。アニコレなんてそのまま安住し続けていられたであろうユートピアから抜けてポップに転換してもなお批判の矢面に立たされることがない。そういう音楽の素晴らしさは商業的成功よりも、むしろ1人1人の生活にどのような影響を及ぼしたかで評価されるはずだ。2010年代にストロークス級の衝撃が訪れるかは微妙なところだが、個人にとって毛布になってくれるこのアルバムには人生に必要な優しさまでが備わっている。全ての曲が統一感を持ちながら、どれもが珠玉の名曲。

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 7年ぶりの新譜。それ程の年月が経っても誰もが待ち続けてマッシブが「更新」されるのを待っている。もうそれだけでも物凄い話だ。イギリスのシーンからも常に自ら隔絶して新たな音楽を更新し続ける唯一無二のマッシブにまたも驚かされてしまった。ゲストの多彩さ、それこそ古くからの盟友ホレス・アンディがいればマッシブが蒔いた種とも言えるTV on the Radioのトゥンデ・アデビンデも居る。新旧の様々が織り成すゲストが如何に何年間と沈黙していようと常にリスペクトされているのが窺い知れる。

 1曲目の「Pray For Rain」からゆっくりと海の底へ沈澱していくような感覚に陥る。1曲の中に様々な展開や表情を魅せ後半のキーボードが入ってくる所など堪らない。先行カットされた「Splitting The Atom」も淀み、徐々に歪んでいく圧倒的なサウンドスケープに引きずり込まれていく。詩の暗喩的な警鐘が心情を揺さぶる。「Girl I Love You」は今までの沈んでいくベースが上昇し牽引していく重く激しい曲だ。ホレスの声も力強くソウルフルに響く。ダブステップや時折垣間見せるオーガニックな楽器の音が見事に混ざり合い新しいマッシブを提示して魅せる。ただ、前半と後半の中間2曲、「Psyche」「Flat Of Blade」が少々蛇足のように思えた。アルバム中、白眉と言える美しい「Paradise Circus」に上手く繋がらない気がした。その「Paradise Circus」を後半の始まりに、これぞとマッシブと言える様な世界が繰り広げられていく。3DがVo.をとっている2曲は圧巻の出来だ。張り詰めた空気が途切れることなく緻密に作られたサウンドと共に進み、最終曲「Atlas Air」で収束される。不穏なピアノ音が耳にこびりついて離れない。

 唯一のオリジネイターとしての貫禄をまざまざと見せつけられた。

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 前作から2年ぶりの新作。1年のオフを経てじっくりと制作されたという本作は、どこかひんやりとしているけれども、これまでの作品にはなかったような 「温かみ」のような耳触りがある。一聴すると地味に感じるかもしれないが、繰り返し聴いていく内にその「慈悲の念」にも似たアレクシスのソウルフルな 「歌」が心をじんわりと暖めてくれるのがわかる。そもそもの出発地点はデリック・メイのクラシック「Strings Of Life」だという話だけれど、2008年末にコラボレーションをしたロバート・ワイアットの影響もここにはあるのかもしれない(実際、カンタベリー・ シーンとも関わりのある元クワイエット・サン~ディス・ヒートのドラマー、チャールズ・ヘイワードが数曲で参加)し、また、よくミュージシャンが「このアルバムは前作からの反動だ」と語ることが多いように、例えば「Ready For The Floor」のPVでアレクシスが演じた「バットマン」のジョーカーみたいな道化役(いわゆる「今のダンス・シーン」の先導役?)という自らが置かれた立場に対する反動という面もあったのかもしれない。そういう点ではいかにもイギリスのバンドらしいヒネクレ方だなぁと思うのだけど、しかし、本編(日本盤は ボートラ2曲収録)の最終曲「Take It In」で展開される、内省的なつぶやきからサビへと至る瞬間に一気に視界が開けていくような感覚にはきっと誰もが心を揺さぶられるはずだ。ひどく率直に捩じれながらも、それ故に人間臭くて感動的な作品だと思う。

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米ヴァージニア在住の40代中盤のシンガー・ソングラーターのニュー・アルバム。日本でも"ハンドメイド・ポップ職人の好盤"として話題になった前作『For Those Who Like To Pop』以来10年ぶりのアルバムだが、音楽性はそのままで、ブライアン・ウィルソンやポール・マッカートニー、バート・バカラックといったポップ・マエストロの影響を自身の感性で発酵・熟成させた、まさに良質ポップ見本市のような作品になっている。捨て曲なく、どの曲もいいメロディ。基本的に一人でピアノの弾き語りで、そこに気心の知れたメンバーがサポートしてレコーディングされたのだろう。転調は多いが、凝ったアレンジは少なく、シンプルな編成で演奏されている。その音の隙間に漂う、ほのぼのとした空気が心地よく、何度リプレイしても飽きない。休日の午後に聴くのが最適といえる。ソフトなヴォーカル、産みの苦しみを感じさせないメロディアスな作風はなんとなく、ポール・マッカートニーのデモ・テープのような感じでも聴ける。もっと早く聴いていたら、2009年のベスト・アルバムの1枚になっていたな。
(竹部吉晃)

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 ミニマル・ミュージックの美しさ。ダブステップの暗闇からの誘い。そしてエレクトロニカの繊細さ。フォー・テットの新作は、僕らの生活にそっとロマンスを足してくれる。素晴らしいサウンドトラックである。

 フォー・テットこと、キエラン・ヘブデンのキャリアは、ポスト・ロック・バンドであるフリッジのメンバーとして始まる。その後、彼はフォー・テットと名乗り、99年に『ダイアローグ』というアルバムからソロ・プロジェクトをスタート。これまでに6枚のアルバムをリリースし、そのキャリアを通して彼は、フォークトロニカを代表する音楽家として認知されることが多い。

 これまでの作品に触れてきたファンは、今作についてもフォークトロニカが美しく鳴らされることを期待するかもしれない。しかし、このアルバムが再生されると、スピーカーからは4つ打ちのキックが鳴り始める。それを意外に思う、またがっかりしてしまうファンもいるかもしれない。ただ、音楽にちょっと身を任せてみればすぐにわかる。こんなに美しい音楽が他にあるだろうか。

 今作を細かく分析すれば、冒頭で挙げたような、様々な音楽の影をこの作品から受け取ることができる。キエランがいかに様々な音楽を聴き、そこから影響を 受けていることがわかるだろう。これまでの作品を通して鳴らされてきた彼らしさ、そこにダブステップのような新たな風が吹き込んでいる。

 しかし、このアルバムを一度通して聴けばわかるように、ここで鳴る音楽は、その音の一つ一つが本当に美しい。そしてロマンスに溢れている。こんな美しく素晴らしい音楽の前では、誰もが立ち止まり身を委ねてしまうだろう。