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Second Toughest in the Infants CD, Import Underworld .jpg

 あけましておめでとうございます。今回の年末年始も筆者は日本から脱出し、海外へ行ってきました。場所は韓国と台湾。久々にのんびりと過ごすことができ、リフレッシュ! 今年も何卒よろしくお願いいたします。


 さて、のんびりしている間、筆者が頻繁に聴いていたのは、アンダーワールドのアルバム『Second Toughest In The Infants』(1996)である。実は本作、去年11月に4枚組のリマスター盤として再発され、それで筆者も購入して聴いていたというわけだ。現在のアンダーワールドは、カール・ハイドとリック・スミスのユニットだが、本作リリース当時はダレン・エマーソンをくわえた3人組だった。今よりもダンス・フロア向けの音作りが際立ち、ダンス・トラック特有の反復による高い中毒性がいま以上に出ていた。


 本作でいうと、「Pearl's Girl」などがその高い中毒性を象徴している。トランシーなシンセ・サウンドから始まり、ジャングルの要素を取りいれたアグレッシヴなビートが印象的な「Pearl's Girl」は、アンダーワールドの代表曲であり、今もライヴで頻繁にプレイされる。〈crazy crazy crazy crazy...〉というリフレイン、音の抜き差しで起伏を作りあげる手法など、根底にあるのはダンス・ミュージックの方法論。


 しかしアンダーワールドは、そうした曲をポップ・ソングとしてアウトプットするのが抜群に上手い。これはやはり、街中で聞いた会話などを常にメモし、それを歌詞に反映しているカール・ハイドの貢献が大きいと思う。カール・ハイドの言葉は抽象的なものが多く、聴き手の想像力が入りこむ余白を多分に備えている。ゆえに聴き手は、アンダーワールドの音楽に対して、能動的にコミットできる。こうした親密な関係性を築けるところに、アンダーワールドの魅力がある。


 アンダーワールドは、〝踊らせる〟というダンス・ミュージックの機能性に、文学的要素が色濃い歌詞を絡めることによって、独自性を獲得した。このような接合は、今でこそ多くのアーティストによって実践されているが、先駆けはアンダーワールドだろう。さらにアンダーワールドは、音や言葉だけでなく、ヴィジュアル面でも面白い表現を生みだしている。この点は、アンダーワールドも設立メンバーであるデザイン集団、TOMATO(トマト)による働きが大きい。数多くの秀逸なMV、そしてライヴでの凝った演出などなど、アンダーワールドは〝視覚〟でも私たちに刺激をあたえてくれる。アンダーワールドの表現は〝聴く〟だけにとどまらない、全身で〝体験〟するものだと言える。


 本作は、ブレイクビーツ、トランス、ジャングルなど、さまざまな音楽的要素が溶けあっているが、興味深いのは、時代に迎合したサウンドがほとんど見られないことだ。本作に限らず、アンダーワールドは、トレンドとは距離を置いた音を鳴らしてきた。だからこそ、ダブファイアやアップルブリムといったプロデューサーを迎えいれ、アンダーワールドなりにトレンドを意識した『Barking』(2010)はイマイチだったのだが...。それでも、今年リリース予定の最新アルバムが楽しみであることに、変わりはない。


(近藤真弥)

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Oneohtrix Point Never『Garden Of Delete』.jpg

 ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティン。彼の音楽にこそ、孤高という言葉が相応しい。ビートに依拠することなく、エフェクトや奇異な音響空間によってグルーヴを生みだしていくそのスタイルは、多くの人を驚かせた。ゆえにフォロワーが続出してもおかしくないが、いまのところ、〝OPNフォロワー〟と明確に言えるアーティストは現れていないように思う。彼の作品を聴いて、エフェクトの使い方や音響空間の作り方を模倣することは可能だろう。だが、こちらの予想をことごとく裏切りながら、音の抜き差しをしていくあのセンスは、ダニエルだけの特権。だからこそ彼は、同時代性や流行にとらわれない場所で、驚きに満ちた音楽を鳴らしている。


 そんなダニエルの最新アルバム『Garden Of Delete』は、自ら同時代性に接近したという意味で、非常に興味深い内容だ。実は筆者、本作についてダニエルに質問をする機会があった。その答えのなかで特に面白かったのは、テイラー・スウィフトはクールだと感じていること(それ以上にクールなのは初音ミクだそう)、そして、ナイン・インチ・ネイルズとツアーしたのがインスピレーションになったということ。また、自分なりのポップ・ソングを作ろうとしたという話にも、驚かされた(※1)。


 ダニエルは本作を作るにあたって、お金がたっぷり注ぎこまれたビッグなポップ作品に関わっている人たちとのコラボレーションも考えたという。しかしダニエルいわく、そのような人たちは会おうともしないらしく、クレジットのことしか頭にないらしい。文字通り、怒り爆発。こうした反骨精神が、本作には多分に含まれている。その結果生まれたのが、ダニエルなりのポップ・ソングを詰めこんだ本作というわけだ。


 この怒りについて、もう少し掘りさげてみる。まず、ダニエルの音楽的嗜好は、実に多様だ。本作を作るヒントになったアーティストやバンドに、オウテカ、ブラック・サバス、ナイン・インチ・ネイルズなどを挙げ(※2)、先にも書いたように、テイラー・スウィフトや初音ミクも好む。同時に、本作でもサンプリングされている、90年代のインダストリアル・バンドであるグロータスや、クラシック音楽家ジョン・アダムスの作品も聴く。音楽に対して寛容な姿勢を持つダニエルからすれば、クレジット云々を気にする輩の思考回路などナンセンスだろう。そこには、寛容性に繋がる自由がないからだ。そう考えると、本作のアグレッシヴなサウンドは、その自由を称揚しているようにも聞こえる。


 本作は果たして、どのカテゴリーに入るのか。テクノ? アンビエント? ノイズ? メタル? IDM? 答えは、そのすべて。そのすべてが、本作にはある。どこまでも細切れにされ、撹拌された形で。ダニエルは、既存のセオリーや常識にとらわれない。当然、メジャー/インディーという形骸化した二項対立にも。むしろ、そうした安易な構図やレッテルから抜けだそうと常に試みる。そのためには、聴き手の予想だって裏切ってみせる。なんとも痛快じゃないか。


 この痛快さからわかること。それは、ダニエルもまた、「既存の価値観や固定観念を解きほぐす存在」だということ。ん? この言葉、どこかで書いた記憶が...。そう、グライムス『Art Angels』のレヴューでしたね。ダニエルとグライムス、共通点も多い。ナイン・インチ・ネイルズやテイラー・スウィフトが好きで、共に最新作ではど真ん中のポップ・ソングに接近し(ダニエルのそれは、かなりひねくれた形だけども)、その作品を同じ年にリリースしている。これ、面白い共振だと思いませんか? 


 本作はアルカよりも、グライムスやテイラー・スウィフトと一緒に語ったほうが、より多彩な表情が浮かびあがると思う。



(近藤真弥)




※1 : 『bounce』385号掲載、筆者によるワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの記事を参照。



※2 : 『ミュージック・マガジン』2015年12月号掲載、筆者によるワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの記事を参照。

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ELO_Jeff Lynnes ELO_Alone In The U_J.jpg

 子供のころ、自分が50歳以上まで生きられるなんて思ってなかった。いや、それは大げさにしても、当時の親の年齢(30~40代)以上の自分の姿など想像もできなかった。まあ、今現在70代とか80代である親が、ときどき「自分らは先が長くないからねえ」とか言う辛気くささがちょっと鼻につくこともあるし、生き死にの話はこれくらいにしておこう。とにかく、そんな感情を持っていたガキ、思春期のころから夢中になって聴いていたELO、エレクトリック・ライト・オーケストラ、もっと正確に言えば今回は中心人物自らの名前を冠したJeff Lynne's ELO待望のニュー・アルバム。1曲目が「When I Was A Boy」ゆえ、つい先ほどのようなことを言いたくなってしまった(笑)。そして、その曲の素晴らしさに度肝を抜かれた。


 今回は前作『Zoom』から約15年ぶり、前々作『Balance Of Power』から約30年ぶり。もちろん70年代初頭から、ジェフ・リンがプロデューサーとしてもスーパー・ビッグになってしまった80年代後半(つまり前々作のころ)までは、2~3年に1枚という普通のペースでアルバムを出していた。


 こういうパターンだと、最も心配されるのはレイド・バックしちゃってること。まあ「枯れた味」というニュアンスでの褒め言葉的に使うこともあるロックの世界ではいいのかもだけど、ガキのころにパンクを通過した自分は、それが少々苦手。そしてポップ・ミュージックがレイド・バックしたら、かっこわるくない? とりわけ、デビュー時からずっと、その都度の先端電気技術とオーケストラルな大風呂敷感をうまく融合させつつ、いい意味での売れ線ポップ・ロックをやってきた彼らにとっては。


 冒頭曲を聴いて、そんな杞憂はふっとんだ。ぼくのような年増耳を持つ者は、「ちょい待ち、これ、ELOっつーより、ビートルズっぽくないですか? あっ、でもそれはジェフがからんだときのやつだわ。だから、あれ、ビートルズの『アンソロジー』プロジェクトで、残された未発表曲をジェフがプロデュースしたときの...」なんて連想が一瞬にして頭をかけめぐってしまう。


 ELOにせよ、ポール・マッカートニー自身のウィングスにせよ、70年代時点でのポップ志向ロックはどうしても解散済のビートルズと並べられ、「それに比べりゃ、ださくない?」と評されがちだった。ジェフはインタヴューなどでビートルズに対する深い愛を口にしていただけに、なおさらのことだ。しかし、逆に今となっては、そして「When I Was A Boy」なんて曲でこれをやられると、逆にかっこよすぎ。だって、そうでしょ? ジェフはある意味、子供のころの夢のひとつを、たとえばビートルズ本体とからむようになった80年代後半から90年代前半にかけて、堂々とかなえてしまったのだから。それを、決して自慢げにではなく、むしろちょっとばかり儚げな情感もこめて、それでも堂々と歌っている。なんて、かっこいいジジイなんだ。


 アルバム全体のサウンド/アレンジ的には、まるで当時のトラウマをかき消すように、そろそろ「最先端であること」が厳しくなってきた『Secret Messages』(1983年)の「骨太さ」と、『Balance Of Power』における「身軽さ」が、実にほどよくブレンドされ、かつてジェフもメンバーとなっていたトラヴェリング・ウィルベリーズに通じる部分もある。少なくとも80年代以降のELOの最高傑作であるとは即座に断言できる。


 さらにいえば、タイトルとアートワークが...。


『スター・ウォーズ』でもりあがる世間を尻目に、その第一弾とほぼ同時期に公開されたSF映画『未知との遭遇』のキャッチ・コピー、「We are not alone(我々はひとりぼっちじゃない:人類は宇宙/世界で孤立してるわけじゃない)」を思いだす。それへの、ちょっと皮肉っぽい返答になりえている。いや、そうとも言いきれない。だって、カヴァー(ジャケット)写真では、ちゃんと「誰か」が迎えにきてくれてるじゃないか。


 70年代後半当時、『スター・ウォーズ』派というより、どちらかといえば『2001年宇宙の旅』『宇宙大作戦(スター・トレック)』『未知との遭遇』派だったぼくは思う。ちょっと、見事すぎじゃね? 泣きたくなるほど、いい意味で。



(伊藤英嗣)

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猫とアレルギー.jpg

 今年4月にリリースされたシングル、「桜が咲く前に」を聴いたときから、予感はあった。この曲には、きのこ帝国のトレードマークである、聴き手の胸ぐらを掴むような轟音がほとんどなかった。親しみやすいシンプルなメロディーに、 耳馴染みがよいアコースティック・ギターの響きを際立たせたサウンド。一瞬、『eureka』(2013)収録の「風化する教室」みたいとも感じたが、「風化する教室」にあった、ヒリヒリとする緊張感やシニシズムはない。かといって、『フェイクワールドワンダーランド』(2014)と地続きだと思うには、あまりにも距離がありすぎる。「こりゃあ、次のアルバムはどうなるんだろう?」。怖いもの見たさという、一種の不安を抱きつつ、筆者はきのこ帝国の最新アルバムを楽しみに待っていた。


 そして、『フェイクワールドワンダーランド』から約1年。届けられた最新アルバムが本作だ。タイトルは、『猫とアレルギー』。本音を言えば戸惑った。メンバー全員が猫を抱える新しいアーティスト写真も、面白いというよりは、頭にクエスチョン・マークがたくさん浮かぶものだった。


 とはいえ、肝心の内容は、悪くない。むしろ良いアルバムだと思うし、これまでも窺えた高いソングライティング能力を堪能できる内容だ。メロディーもシンプルなものが多く、きのこ帝国史上もっとも親しみやすいものに仕上がっている。歌詞は平易な言葉が目立つ。まさに、「桜が咲く前に」のような曲がほとんど。まさか、アルバム全体がそのようになるとは...。しかし、「YOUTHFUL ANGER」は異質なものとなっている。ヴォーカルはノイズのなかに埋もれ、〈褒められなくたっていいや 飼いならされるよりはマシ〉と歌われる歌詞は、攻撃的だと言える。サウンドも、初期のニルヴァーナに通じるラウドなもの。いわゆるグランジというやつだ。ちなみに「YOUTHFUL ANGER」、きのこ帝国の変化に戸惑った筆者のような者に向けた曲だと思うのだが、どうだろう?


 正直、ここまでスロウな曲を揃えてしまったのは、どうかと思う。もちろん、歌いたいことやサウンドの志向が変わるのは、よくあること。だが、きのこ帝国は、「クロノスタシス」というヒップホップの要素を打ちだした曲、あるいは「FLOWER GIRL」のように、音響面での実験を果敢におこなうなど、引きだしの多さも特徴であり魅力だった。


 本作を聴いて強く思ったこと。それは、その魅力まで封印する必要はなかったのでは? ということ。きのこ帝国は、本作で見せた親しみやすさを保ちつつ、サウンド面の多様性も発揮できるポテンシャルを持っているのだから。そういった意味で本作は、きのこ帝国の才能がフルで解放されているとは言いがたい。というわけで、最後は愛情を込めてこの一言。


 これでいいのか? きのこ帝国!



(近藤真弥)

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GRIMES『Art Angels』(4AD : Hostess).jpg

 ビヨンセやロードが自らをフェミニストだと公言し、同性愛者であることを告白しているサム・スミスは、第57回グラミー賞で4冠を果たした。チャーチズのローレン・メイべリーは、ネット上での女性蔑視に対する批判を積極的に語り、音楽以外でも興味深い活動をおこなっている。


 一方で映画界。マシュー・ヴォーンの『キングスマン』(2014)は、誰を生かすか恣意的に決める傲慢な強者の選民思想にNOを突きつけ、ナンシー・マイヤーズの『マイ・インターン』(2015)は、〝男らしさ〟や〝女らしさ〟といった、従来のジェンダー観に疑問を投げかけた。スタイリッシュな映像と共に、マイノリティーが受ける抑圧を描いてみせるグザヴィエ・ドランも忘れてはいけない。映画『マトリックス』シリーズで知られるウォシャウスキー姉弟が、ジェンダー、差別、偏見、貧困などさまざまなテーマを取りいれたドラマ、『センス8』(2015)という傑作を作りあげたのも記憶に新しい。


 そして、アンドレイ・ペジックやハリ・ネフなど、トランスジェンダーのモデルが世界を席巻していたりもする。これが、2015年のエンタメ界、ひいてはポップ・カルチャーの現在だ。


 こうして昨今のエンタメ界やポップ・カルチャーをざっと眺めてみると、既存の価値観や固定観念を解きほぐす動きが目につく。そのなかで多彩な表現が多く生まれ、面白い動きもたくさん見られる。もちろん筆者は大歓迎だ。最近よく見かける〝ポリティカル・コレクトネス〟という言葉にしても、表現の幅を狭めるものではなく、表現の幅をより豊かにするための概念だと思う。〝昔は許されたのに!〟みたいな言い訳で、〝ポリティカル・コレクトネス〟を否定するなんて愚の骨頂。


 しかし、こうした世界的な動きに、ここ日本は追いついていないように思える。たとえば、先日公開されたばかりの『ギャラクシー街道』。この映画は三谷幸喜によるものだが、〝スペース・コメディー〟という体裁を隠れ蓑に展開される性的表現がいちいちゲスい。これでは、差別や偏見に満ちていると言われてもしょうがない。特に、登場人物のひとりムタの描写なんて、買春そのもの。またひとつ、「いまは2015年だぞ...」と呆れはてる映画が生まれてしまった。フジテレビのドラマ『問題のあるレストラン』や、現在日本テレビで放送中の『偽装の夫婦』など、興味深い作品もあるにはある。だが、牛を擬人化したことで問題となった『ブレンディ』のCMを見てもわかるように、まだまだ日本では、ジェンダー、差別、偏見、さらにはこれらの根幹となる人権意識が低いと言わざるをえない。


 グライムスことクレア・バウチャー。彼女は、3枚目のアルバム『Visions』(2012)を4ADからリリースしたことがキッカケで、世界的なポップ・スターになった。1枚目の『Halfaxa』(2010)、2枚目の『Geidi Primes』(2010)と、基本的に彼女の作品はすべて歌もの。ただ、『Visions』が前2作と決定的に違ったのは、彼女のヴォーカリストとしての表現力が格段に高まり、メロディーを強調した曲も多かったこと。ゆえに『Visions』は、多くの人に届くキャッチーさを獲得できた。デビュー時からカルト的な人気を得てはいたが、『Visions』によって、その人気を幅広いものにしたというわけだ。


 一方で彼女は、歯に衣着せぬ発言でも注目を集めてきた。性差別を受けたことで音楽業界に対して幻滅したとFADERに語り、2014年には、筋萎縮性側索硬化症協会への寄付を募る活動として、日本でも話題になったアイス・バケツ・チャレンジを拒否した。拒否した理由について彼女は、当時カリフォルニア州で起こっていた水不足の問題を引きあいに、そうした問題があるのに水を浪費するのは適切じゃないと語っている。代わりに彼女は、教育こそが世界中に蔓延るさまざまな問題を解決するために重要として、マララ基金に寄付した。さらに最近では、地元カナダで今年10月におこなわれた総選挙へ行くよう呼びかけた。彼女は、スティーヴン・ハーパー前首相(と彼が率いる保守党)を退かせたいという立場だった。その右翼的な政策に多くのカナダ国民が不満を持っていたようだが、彼女もそのひとりだったのだろう。反同調圧力的に、自分の意見を積極的に語る彼女の姿勢は、なにも突然生じたわけではない。たとえば、先述したFADERのインタヴュー以前にも、自身のタンブラーなどで女性アーティストに対する性差別や偏見への怒りを述べている。このような姿勢をさまざまな形で示している彼女もまた、「既存の価値観や固定観念を解きほぐす動き」を象徴するひとりなのは言うまでもない。ちなみに、同じくカナダ出身のグザヴィエ・ドランも、ハーパーには良い印象を持っていなかったようだ。保守党が総選挙で負けたため、首相の座から降りることになったハーパーへ向けて、ツイッター上でユーモアたっぷりの〝バイバイ〟をプレゼントしている


 『Visions』以来となる彼女のニュー・アルバム、『Art Angels』を繰りかえし聴いている。端的に言うと本作は、2010年代を代表するアルバムの1枚であり、傑作だ。まず、『Visions』以上にポップでキャッチーな曲が多いことに驚かされる。歌メロやシンセ・リフは〝ベタやなあ〟っと呟きたくなるほどシンプルで、1度聴けば覚えてしまう。かつてのカオスは一切ない。文字通り、ど真ん中のポップ・ソング集。MVで先行公開された「Flesh Without Blood」なんて、テイラー・スウィフトの「Shake It Off」を想起させる曲調だ。ビートも、なんとなく似ているような...。ヴォーカリストとしての表現力にも、ますます磨きがかかっている。全曲歌い方が異なり、それゆえこれまでの作品群とは比べ物にならないほどカラフルなヴォーカルを楽しめる。


 ヴォーカルといえば、「REALiTi」での歌い方がすごく面白い。それは次の箇所。


〈Oh, baby, every morning there are mountains to climb  Taking all my time Oh, when I get up, this is what I see Welcome to reality〉(「REALiTi」)


 この箇所での歌い方が、さながらJ-POPなのだ。日本のポップ・ソングには、日本語の特性上、メロディーの1音に対して1文字を割りあてたものが多い。一方で英語の場合、1音に対して1単語を割りあてたものがほとんどだが、この箇所だけは、メロディーの1音に対して1文字を割りあてたものに近い。だからこそ、〝さながらJ-POP〟と言ってみた。もちろん、日本語と英語は特性が異なるため、〝まったく同じ〟というわけではない。とはいえ、〝似ている〟というだけでも興味深いと思う。彼女は、インタヴューなどで日本のカルチャーに対する愛を幾度も公言しているが、その愛を深めるなかでJ-POPに触れていても不思議ではない。逆に、子音が強調されることで、日本語でも英語的に聞こえるのが宇多田ヒカルの「Automatic」(1999)。この曲と「REALiTi」を関連させて、いろいろ考察してみるのも面白そう。


 Entertainment Weekly(エンターテイメント・ウィークリー)のインタヴューで彼女は、本作の曲はヴァンパイアのギャングの視点から書かれたと語っている。いわば本作は、寓話的な性質を持った作品だというわけだ。しかし、ラストを飾る「Butterfly」は、このような一節で幕を閉じる。


〈If you're looking for a dream girl I'll never be your dream girl(もしあなたが理想の女の子を探しているとしても 私はあなたの理想の女の子には絶対にならない)〉(「Butterfly」)


 この一節は、グライムスでもヴァンパイアのギャングでもない、クレア・バウチャーというひとりの人間による力強い宣言だ。すでに何度か引用したFADERのインタヴューで彼女は、芸術に関しては誰かに合わせる必要はない、でも人には見てもらいたいという旨を率直に述べている。こうした考えは、作品はもちろんのこと、ライヴ・パフォーマンスにも表れている。ポップ・スターになり、たくさんの人脈を得た現在でも、彼女は基本的にひとりで機材を操り、マイクを握る。筆者は彼女のライヴを生で観たことあるが、その姿は本当に忙しない。YouTubeなどで観れるライヴ映像では、汗だくな姿も見た。それはまるで、〝自分はここまでできる!〟ということを必死にアピールしているかのよう。なぜ、ここまで必死になれるのか? 音楽業界で味わった性差別、あるいはもっと純粋な承認欲求、さまざまな要因が複雑に絡んでいるのだろう。だから筆者には答えがわからない。それでも確実に言えるのは、彼女にとって境界線など存在しないに等しく、だからこそ〝自由〟だということ。それは、ヒップホップ、テクノ、インダストリアル、ロックなどが細切れにされたうえで交雑した、彼女の音楽性からもうかがえる。以前、『Visions』のレヴューでも書いたことを引用すれば、「歴史やルールから逸脱」したポップ・ミュージック。現在27歳の彼女は(奇しくも筆者と同い年)、ナップスターのような音楽サービスが子供の頃からあった世代。その世代が音楽を作るようになった2010年代から、ひとつのジャンルでは括れない、キメラのようなポップ・ミュージックが急激に増えたのは、おそらく偶然じゃない。くわえて彼女は、音楽制作に関する教育を一切受けていない。このことも、セオリーや常識とされるものにとらわれない音楽性に繋がった一因だろう。そんな彼女が、2010年代を代表するポップ・スターになり、「既存の価値観や固定観念を解きほぐす」存在となったのは、必然なのだ。


 2015年11月4日、カナダで10年ぶりの政権交代を果たした自由党のジャスティン・トルドー新首相が、新内閣発足の会見をおこなった。この内閣が注目を集めたのは、男性15人、女性15人の男女同数だったこと。さらに、若手からベテランまで幅広い選出がなされ、アフガン難民としてカナダに移住してきたマリアム・モンセフや、先住民の血を引くジョディ・ウィルソン・レイブルドなど、顔ぶれが多彩なのも驚きだった。このような内閣にした理由を記者に訊かれたトルドーは、こう答えたという。


「2015年だからね(Because it's 2015)」(※1)


 世界は確実に変化している。



(近藤真弥)



【編集部注】『Art Angels』の国内盤は12月11日リリース予定です。



※1 : この発言が飛びだした新内閣発足会見の様子は、CBCのニュース記事で見れます。

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TRACEY THORN『Solo- Songs And Collaborations 1982-2015』.jpg
 寂しさに心を支配され、何かにすがりたいという気持ちになったとき、ひたすらポジティヴな歌声よりも、陰りがある歌声を求めてしまう。単一的なポジティヴィティーよりも、哀しみも含む多彩な感情表現のほうが、心に潤いをもたらしてくれるから。例をあげると、エコー・アンド・ザ・バニーメンのイアン・マッカロク、ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティス、そして、エヴリシング・バット・ザ・ガールのトレイシー・ソーンなどなど。仕事柄、家から遠く離れた場所へ行くことも多いが、どこへ行くにしても、いま挙げた3人の作品は必ず持ち歩くようにしている。


 その3人のなかのひとり、トレイシー・ソーンが、ベスト・アルバムをリリースした。名は、『Solo: Songs And Collaborations 1982-2015』。本作は彼女のソロ活動に焦点を絞り、オリジナル楽曲を集めたディスク1、他のアーティストとコラボした曲やリミックスをまとめたディスク2の計2枚で構成されている。エヴリシング・バット・ザ・ガールはもちろん、かつて彼女が在籍していたバンド、マリン・ガールズの楽曲も収録されていない。もしかすると、この点に批判的な人も少なからずいるだろう。


 しかし、優れたソングライターとしての側面、さらに魅力的な歌声を持つヴォーカリストとしての側面を存分に堪能できるという意味では、とても素晴らしい作品だと思う。ディスク1は、まだオリジナリティーを確立するには至っていない初期の楽曲から、成熟を感じさせる深い楽曲まで、実にさまざまな面を披露してくれる。ただリリース順に並べたわけではなく、作品としての流れを重視した曲順なのも、彼女の強いこだわりが感じられる。彼女のソロ作品をコンプリートしている者も、新鮮さを感じる内容だと思う。


 ディスク2では、彼女の歌声が持つ高い順応性を見せつけられる。マッシヴ・アタック「Protection」から始まり、ラストのアダムF「The Tree Knows Everything」まで、ディスコ・クイーンなトレイシー・ソーンを楽しむことができる。あるときは冷ややかに、あるときは柔らかく、そしてあるときは優しくといった具合に、いろんな感情が渦巻いている。特筆したいのは、ジ・エックス・エックス「Night Time」のカヴァー。原曲はダークでメランコリックな曲調だが、彼女はそのメランコリックな部分を受け継ぎつつ、より華やかな景色を描いてみせる。



(近藤真弥)



【編集部注】国内盤は11月13日リリース予定。

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Little Simz『A Curious Tale Of Trials + Persons』.jpg

 言葉は面白い。たとえば、〝彼女いるの?〟ではなく、〝恋人いるの?〟と訊くだけで話のレンジが広がる。さらには、使い方次第で多彩な風景を生みだすこともできる。


 日本語だけをとってみても、その魅力はわかるはずだ。ここでは類語を例にするとして、〝お礼〟の類語をいくつか挙げてみる。〝謝礼〟〝謝儀〟〝謝意〟〝感謝〟などなど、たくさんある。こうした数多くある言葉の中から、自分にとって最適なものを選び、相手に意志を伝える。そして、この意志こそが、〝個性〟である。その個性を作るための言葉選びは、何者にも制限されることがない自由なものだ。


 しかし、ツイッターやフェイスブックに投稿される言葉を見ていると、その〝自由〟を自ら放棄しているのか? と勘繰ってしまうものが多すぎて、げんなりする。それは言うなれば、安易に単純化されたがゆえ、不必要に他者をなぶる暴力性を帯びてしまった言葉たち。


 最低限の生活すらも送ることが難しくなりつつある〝不自由な現在〟において、言葉選びの自由が持つ多彩さは、不安や抑圧に対抗する武器になる。そしてこの武器は、異なる価値観を持つ者たちを繋ぎ、不安や抑圧と戦うための支えになってくれる。そんな素晴らしい支えをやすやすと手放すなんて、本当にもったいない。


 もちろん、手放さない者もいる。それが、去年『Everybody Down』という傑作をリリースしたケイト・テンペストであり、このたび最新アルバム『A Curious Tale Of Trials + Persons』を発表した、リトル・シムズだ。


 リトル・シムズは、ロンドンを拠点に活動するラッパーで、ナイジェリアをルーツに持つ。これまでに彼女は数多くのEPやミックス・テープをバンドキャンプで発表してきたが、実は役者として、『Spirit Warriors』(2010)という子ども向けのTVドラマに出演したこともある、興味深いキャリアの持ち主。


 そんな彼女の言葉は、詩的かつ内省的なものとなっている。人にまつわる機微をすくいとり、それが色濃く反映された物語を描く言葉は、とても複雑だ。直截的なスローガンなども、ほとんどない。だが、その複雑さに批判をくわえるのはお門違い。そもそも、人という生き物が単純ではないからだ。喜怒哀楽に収まらない感情をいくつも備え、それゆえ他者と衝突することもある。こうした人の矛盾や罪も、彼女は受けいれてみせる。こうした、複雑なことを複雑なまま表現する誠実な姿勢は、先述のケイト・テンペストや、『A Grand Don't Come For Free』(2004)という2000年代を代表するアルバムを生みだした、ザ・ストリーツことマイク・スキナーに通じるものだ。


 複雑さを単純化しない本作は、安易な希望や共感を訴えたりはしない。むしろ、多くの人が目を背けがちな側面を見せるという点では、聴いていてヘヴィーな気持ちになるはずだ。しかし、それでも言葉を紡ぎ、顔も見えない誰かにメッセージを伝えるという姿自体が、希望になりえる。もっと言えば、だからこそ本作は、多くの人を奮い立たせる知性とパワーで満ちている。


 先に筆者は、「彼女の言葉は、詩的かつ内省的」と書いた。しかし、だからといって、本作のベクトルが〝外〟へ向いていないというのは違う。確かに、2曲目「Wings」の冒頭で、リトル・シムズは次のようにラップする。


〈これは私の物語(This is my story)〉


 ところが、彼女はその言葉をすぐさま、〈wait, nah(いや、そうじゃない)〉と退ける。そのあと紡がれるのが、次の一節。


〈これは私たちの物語(This is our story)〉


 そう、本作の物語は、リトル・シムズという〝私〟のものであると同時に、〝あなた〟のものでもある。〝my(私)〟から〝our(私たち)〟への変化。些細な変化だが、この変化が本作にダイナミズムをもたらしている。〈これは私たちの物語〉以降に飛びだすフレーズも書いておこう。


〈これは私たちの王国(This is our kingdom)〉

〈これは私たちの自由(This is our freedom)〉

〈これは私たちの苦闘(This is our struggle)〉


 他にも、〝痛み〟〝愛〟〝場所〟などが〝私たち〟のものとして登場する。最後に、ふたたび〈これは私たちの物語〉と念を押すようにラップされ、「Wings」は幕を閉じる。全曲必聴の本作だが、迫力という点では「Wings」が群を抜いている。


 「Wings」が終わると、〈あなたも死体を見たい?(Do you wanna see a dead body?)〉(「Dead Body」)など、人が持つ負の側面を聴き手に突きつける曲や、孤独や哀しみをモチーフにした寓話的な曲が次々と鳴り響く。また、その寓話に、宗教的な世界観を用いることが多いのも興味深い。「God Bless Mary」はタイトルからしてそうだし(〝Mary〟は聖母マリアのこと)、〈私の翼を返して(Give me back my wings)〉という一節がある「Wings」は、天使が元ネタだ。本作でのリトル・シムズは、さながらプリーチャー(伝道者)である。


 本作は、〝人〟という存在にどこまでも迫った、非常にストイックな内容だ。それゆえ、他人の言動を盲信するだけの無知な姿勢に胡座をかくことはせず、己の醜い部分を隠して知らん顔という卑しい真似もしない。リトル・シムズは、己の醜い側面もしっかり見つめている。


 こうした内容だからこそ、本作は国を越えてあらゆる場所に届くのだ。多くの問題を抱え、〝ブロークン・ブリテン〟と言われて久しいイギリスはもちろん、何かと大変なここ日本にも。



(近藤真弥)

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Kate Simko & Tevo Howard『PolyRhythmic LP』.jpg

 今年も残すところ、あと2ヶ月と数日。ライヴハウスやクラブに行けば、「今年面白かった音楽は?」と訊かれ、映画館に行けば「今年最高だった映画は?」という話で盛りあがる。


 映画の話は後日するとして、ここでは音楽の話を。今年は、ハウスのレコードにグッとくることが多かった。たとえば、ルーマニア出身のメロディー(Melodie)。彼が今年リリースした「Influences EP」は、巧みな音の抜き差しが生みだすグルーヴを堪能できる、素晴らしい作品だ。ここ数年、日本では〝ルーマニアン・ミニマル〟という言葉と共に、ペトレ・インスピレスク、ラドゥー、ラレッシュといった、ルーマニアのテクノ/ハウス・シーンで活躍するアーティストをよく見かけるようになったが、こうした流れの新しい芽がメロディーである。掘れば掘るほど、ルーマニアのテクノ/ハウス・シーンの奥深さを実感する今日この頃。


 とはいえ、ハウス・ミュージック誕生の地、アメリカも負けてはいない。事実、ケイト・シムコとテヴォ・ホワードによる『PolyRhythmic LP』は、今年リリースされたハウス作品のなかでは群を抜いた出来である。本作には、ふたりともシカゴ出身ということもあり、「Exotica Exhibition」など、音数が少ないラフなビートを打ちだしたシカゴ・ハウスも収められている。だが、洗練さの極みを見せつける「No Regrets」こそ、本作のハイライトだ。優雅な心地よさをまとうシンセから始まり、そこからキック、ハイハット、ヴォーカル、タム、クラップといった具合に、音が加えられるたびに増していく高揚感は絶品。多くの人々が集うダンス・フロアはもちろんのこと、ドライブのお供に最適なポップ・ソングとしても機能する。


 また、TB-303風の音が織りなすベース・ラインと、メタリックでキラキラとしたシンセ・フレーズが反復される「PolyRhythmic Theme」は、いなたい雰囲気を醸すあたりがイタロ・ディスコみたいで面白い。とは言っても、細かく刻まれるハイハットとリムショットが印象的なビートは、シカゴ・ハウスそのものだ。TB-303といえば、「Fall」は「PolyRhythmic Theme」以上にTB-303風の音を前面に出したトラック。それは文字通りアシッド・ハウスと呼べる内容だが、ピアノ・リフ、シンセ・ストリングス、ライド・シンバルの3つが上品に鳴りわたる様は、ラリー・ハードのディープ・ハウスに通じるものを感じさせる。


 このように本作は、一口にハウス・ミュージックといっても、さまざまなタイプのトラックを楽しむことができる。さながら、絵柄が矢継ぎ早に変わる万華鏡のようなもの。耳が喜び、心が躍るハウス・ミュージックを求めるあなたに、本作をオススメしたい。



(近藤真弥)

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Lana Del Rey ‎- Honeymoon.jpg

 だいぶ前の話になるが、キム・ゴードンの回想記『Girl In A Band』を読んだ。サーストン・ムーアやコートニー・ラヴなど、これまでキムが関わってきた人たちについて書かれたもので、ユーモアと優しさにあふれるキムの人柄が伝わってくる良書。


 その本でキムは、ラナ・デル・レイにも言及している。なんでも、ラナはフェミニズムが何たるかをわかってないとのこと。これはおそらく、ラナがFADER(フェーダー)のインタヴューでおこなった、フェミニズムには興味ないという旨の話を指している。確かにラナの発言は、〝フェミニズム〟を大雑把にとらえすぎなところがあると思う。とはいえ、そうした乱暴さが魅力的な表現に繋がることも事実。音楽も含めた表現の役割のひとつは、現実では実現できない世界を表出させることだが、そんな表現の特性をラナは存分に活かしている。


 それは、4作目となる本作『Honeymoon』を聴いてもわかるはずだ。これまで以上に倒錯的かつ依存度が高い関係性を描き、妖艶な雰囲気を漂わせるサウンドスケープは、甘美なメランコリーを醸している。どこまでも耽美的で、どこまでも自己破壊的。こうした世界観を〝尊崇〟の次元にまで昇華して表現する手腕は、もはや達人の域だ。これは、物議を醸す発言も含めて、一種の芸と言っていい。ラナがどんな背景を持ち、いかなる考えの持ち主なのか、ラナの作品においてはそれほど重要じゃない。もちろん、倫理や道徳、教訓といった領域も関係ない。そんな100円ショップに売ってそうな3点セットはクソ食らえ、とでも言いたくなる豪胆さが、本作の根底にはある。その豪胆さに依拠した姿勢は言うなれば、〝芸術のための芸術(l'art pour l'art)〟。19世紀のフランスで用いられはじめたとされるこのスローガンは、本作にこそ相応しい。ラナも2曲目「Music To Watch Boys To」で、こう歌ってみせる。



〈抑制する必要はない 慣習を壊すためにここにいる(No holds barred, I've been sent to destroy, yeah)〉(「Music To Watch Boys To」)



 とはいえ、サウンドが破壊的かと言えば、そうじゃない。ひとつひとつの音は繊細で、聴き手の性感帯をなぞる艶かしさが印象的。ラナの歌声も〝パーツのひとつ〟として扱うプロダクションは、ポップ・ソングというよりも映画のサウンドトラックに近い。すべてのパートが〝調和〟を目指しており、どれかが強調されることはほとんどない。妖しくも心地よいラナの歌声でさえ、である。このような本作を聴いて思い浮かべたのは、デヴィッド・リンチやアンジェロ・バダラメンティも関わった、ジュリー・クルーズのアルバム『Floating Into The Night』(1989)。このアルバムはジャズの要素があり、本作はヒップホップの要素が顕著などの違いはあれど、メロウで静謐な空気が特徴という点は共通する。そういえば、ラナは過去にボビー・ヴィントンの「Blue Velvet」(1963)をカヴァーしていた。そう、デヴィッド・リンチが1986年に制作した映画、『Blue Velvet』でも流れるあの曲だ。



(近藤真弥)

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Nicole Dollanganger『Natural Born Losers』.jpg

 カナダのシンガー・ソングライター、ニコル・ドールアンガンガー。彼女のことを知ったのは、音源ではなくインスタグラムがキッカケ。友人に「おもしろいセンスの写真をアップする人がいる」と教えてもらい、それがニコルだった。さっそく、彼女のインスタグラムを覗いてみると、ゴスロリの格好をした彼女自身、愛犬のパグ、メルヘンチックな自室など、さまざまな被写体が並べられていた。それらから漂ってくる雰囲気はどこか病的なものだったが、筆者の興味を強く引きつける切実な〝ナニカ〟も漂わせていた。


 そこで、彼女のバンドキャンプにアップされている作品を、一通り聴いてみた。まずは、コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフにしたカヴァー集「Columbine EP」(2013)。犯人が影響を受けていたとされたマリリン・マンソンのカヴァーを収録し(※1)、ジャケットには事件当時の写真を使うという徹底ぶり。他には、作家/イラストレーターのエドワード・キャリーによる著作、『Observatory Mansions』(2001)からタイトルを拝借した『Observatory Mansions』(2014)や、日本のヴィデオ作品シリーズ、『ギニーピッグ』の英題と同名の『Flowers Of Flesh And Blood』(2012)など、カルチャー全般への興味をうかがわせる作品もあった。しかも、曲のほとんどが彼女の弾き語り。これは面白いということで、彼女の作品はしばらくの間、筆者の耳を占領することになった。


 そんな彼女が、グライムスが設立したレーベルEerie Organization(イーリー・オルガニゼーション)から最新アルバムを発表した。タイトルは、『Natural Born Losers』。彼女のことだから、オリバー・ストーンの映画『Natural Born Killers』(1994)をネタにしたのだろうか? この映画は、ヴァイオレンスな描写が特徴の作品だが、本作も随所で似たような描写が登場する。なにしろ、1曲目「Poacher's Pride」の歌いだしが、〈私は父のライフルで天使を撃った(i shot an angel with my father's rifle )〉(※2)である。本作の歌詞は、ドラッグや銃といったキーワード、くわえて宗教的な世界観が際立つものになっている。全体としては、聖と俗を行き来している印象だ。このような歌詞を彼女は、美しくも儚いウィスパー・ヴォイスで紡いでいく。ただでさえ痛々しい歌詞が、彼女の歌声によってさらに痛みが増している。正直、聴いていて重苦しい気分になってくる。ところが、メロディーはやたらと人懐っこい。誰かに私を見つけてほしいとばかりに、とてもキャッチーだ。しかし、そのおかげで、なおさら痛々しさが沁みてしまう。


 それでも、筆者が本作を繰りかえし聴いてしまうのは、彼女の病的な振るまいやヴィジュアル・センスが表層的ではないからだ。たとえば、8曲目の「American Tradition」。日本語では〝アメリカの伝統〟と訳せるこの曲は、寓話という形でアメリカに対する批評眼を発揮しているように思えるし、そもそも全曲、日々の生活で見逃されがちな機微を掬いあげたような言葉であふれている。それは言うなれば、痛み、哀しみ、慈しみが交わる極上のリリシズム。そして、このリリシズムに宿るのは、〝愛と憎しみは紙一重〟を体現するヒリヒリとした緊張感。


 このように本作は、危ういバランスのうえに成り立っている。さながら、孤独に耐えながら必死に立ちあがろうとする、弱々しくも凛々しい姿。そこに、グライムスやスカイ・フェレイラのような鼻っ柱の強さはない。あるのは、心を剥きだしにしたニコル・ドールアンガンガーという人間だけだ。しかし、そんな作品が、聴き手の心を揺さぶる多彩な情動で満ちているという事実に、ただただ感動する。なぜならこの事実は、〝生きる〟ことそのものが、何よりもドラマチックで尊いということを証明しているからだ。




(近藤真弥)




※1 : のちの報道で、影響を受けていなかったことが明らかになっている。


※2 : ニコルのバンドキャンプに掲載されている歌詞から引用しました。