reviews: January 2015アーカイブ

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James Murphy『Remixes Made With Tennis Data』.jpeg

 ジェームス・マーフィーは、00年代のポップ・ミュージックを語るうえで欠かせない人物のひとりである。このことに異論はないと思う。DFAの主宰者としてザ・ラプチャー『Echoes』を2003年にリリースし、ディスコ・パンク・ブームを牽引した。かと思えば、自身のバンドLCDサウンドシステムとしても、『LCD Soundsystem』『Sound Of Silver』『This Is Happening』という3枚のアルバムを残している。もちろん、いずれも1度は聴いてほしい名盤だ。


 そこに、ぜひ聴いてほしい1曲をくわえるなら、やはり2002年のシングル「Losing My Edge」だろう。〈1968年ケルンでカンのコンサートを観た〉〈1974年ニューヨークのロフトでおこなわれたスーサイドのリハーサルを観た〉など、1970年生まれのジェームスが歌うにはあまりに不自然な一節が次々と飛びだしてくるこの曲は、YouTube以降の状況、つまり音楽の細分化が進むことで、個々の音楽史が他人とかぶることが少なくなった状況の到来を予言していた。インターネットを介して、容易に過去の名ライヴや名曲にアクセスでき、個々の音楽史が築きあげられる世界。そこでは、90年代に行ったら次は30年代へ飛び、その後は2000年代に戻るといった、まるでタイム・トラベラーにでもなったかのような全能感を得られる。


 かぶることが少なくなるということは、それだけ多様になるということでもある。絶対視されてきた音楽史なり文脈の有効性は薄れ、ネット上にアーカイブされていく数々の名ライヴや名曲を浴びるように聴いたうえで鳴らされた音楽があふれる。そんな状況に突入する前夜の興奮が、「Losing My Edge」には記録されている。2002年当時に「Losing My Edge」を聴くことは、未来を見ることと同義であった。


 とはいえ、どんな未来もいずれは現在となり、過去となる。それはジェームス・マーフィーも例外ではなく、彼は2011年にLCDサウンドシステムとしての活動をストップさせた。今では、LCDサウンドシステムやDFAが提示したディスコ・パンクというスタイルも、目新しいものじゃない。それでも、ジェームス・マーフィーは今も音楽活動をおこない、DFAは良質な作品をコンスタントに発表しつづけている。ジェームスはトレンドセッターの座から降りてしまったが、筆者はトレンドセッターとしてのジェームスが好きだったわけではない。彼の鳴らすポップ・ミュージックが好きだったのだ。ポップ・カルチャーに対する愛情がたっぷり詰まった、彼のポップ・ミュージックが...。


 そろそろ想い出話を切りあげて、本作『Remixes Made With Tennis Data』について書くとしよう。本作は、ジェームス・マーフィーとコンピュータ企業のIBMがコラボレーションして制作されたアルバム。なんでも、2014年の全米オープンテニスでおこなわれた全試合のデータを特定のアルゴリズムに落としこみ、音楽にするということをジェームスとIBMはやっていたらしい。そうして生まれた音源の中から12曲を選び、リリースされたのが本作というわけだ。2013年には、2メニーDJズとデスパシオ(Despacio)なるプロジェクトを始動させているが、その次がIBMというフットワークの軽さ。自由にもほどがある。だが、ジェームスの音楽に対するモチベーションが高いことは素直に嬉しく思う。


 そんな気持ちを抱きつつ、本作に耳を傾けてみると、ほどよく肩の力が抜けた雰囲気で驚いた。アルゴリズム云々の話を聞いたときは小難しい音楽でもやってるのかと想像したが、音の抜き差しで起伏を作りあげていくミニマルなサウンドは、それこそLCDサウンドシステムを連想させる。「Match 176」なんかは特に。


 ただ、全体的には電子音の割合が多く、静謐な雰囲気が際立つ。ゆえに踊れる曲はないものの、静謐でひんやりとしたアンビエント作品として楽しめる。ビートとフレーズの反復が多いのも特徴で、微細な変化で音に味つけするその手法は、クラフトワークを彷彿させる。ひとつひとつの音が洗練され、音と戯れる無邪気な遊び心が本当に心地よい。新しい楽器や機材を手に入れて、いろいろいじってるうちにニヤけてしまう。そんなジェームスの姿が目に浮かんでくる。「Match 184」では、聴き手を酩酊にいざなうアシッディーなサウンドが展開されたりと、随所で覗かせるスパイスもグッド。


 また、ラフなマシーン・ビートと流麗なピアノ・フレーズが印象的な「Match 181」が、最近大きな注目を集める1080p周辺の新世代ハウス・ミュージックに通じる曲なのも興味深い。そういえば、去年DFAから発表されたダン・ボダン『Soft』のカセット版は、1080pがリリース元だった。もしかすると、ジェームスなりに今の潮流を解釈したのが「Match 181」なのかもしれない。こうした時代への目配せには、レーベル主宰者としての顔がうかがえる。


 トレンドセッターの座から降りたとはいえ、時代を嗅ぎとる抜群の嗅覚が衰えたわけではないようだ。ジェームス・マーフィー44歳、まだまだ健在である。



(近藤真弥)





【編集部注】『Remixes Made With Tennis Data』はIBMのサウンドクラウドからダウンロードできます。

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 いま、僕の手もとにひとつの音源がある。黒く、やわらかいフェルトのポーチには小さなバッヂ。そこにはアルバム・タイトル『Ballet』とアーティスト名である〝FourColor〟の文字。よく見ればカタログ・ナンバーもしっかり記されている。第一印象は「かわいい!」だった。手に取ってみたくなるデザイン、遊び心にあふれたパッケージは所有欲をくすぐる。それはレーベルやアーティストの「この音楽を楽しんでもらいたい」という気持ちの表れなんだろう。


 でも音楽って、もともとそういうもんじゃなかったっけ? いや、CDやアナログ・レコード、デジタル配信の音源が悪いってわけじゃくて、僕がいま手にしている〝カセット〟は、そんなふうに「楽しむ」気持ちを素直に表現しやすいフォーマットだということ。(ラジカセやカセット・デッキがあれば...だけれど)再生も録音もシンプル。だから、磁気テープに刻み込まれたサウンドもパッケージ・デザインもアイデア次第で自由にできる。「Do It Youreselfは、やっぱり面白い!」ってことに改めて気づいたり。ここ数年の間にまた注目され始めているカセットとの再会を、僕はこんなふうに楽しんでいる。


 僕がカセットを10数年ぶりに手にしたのは、とあるクラブ・イヴェントの物販にちょこんと置かれていた『duenn feat nyantora returns part I』『duenn feat nyantora returns part II』を見つけたことがきっかけ。それは、リリース元である福岡のカセット専門レーベル〈Duenn(ダエン)〉のメイン・アーティストであり主宰者でもあるダエンと、元スーパーカーの中村弘二がニャントラ名義でコラボしたアンビエント・アルバムだった。やわらかな電子音のはざまに聴こえるのは、浅瀬を流れる水のせせらぎや遠くへ走り去る自動車のエンジンのうなり。静かに、目の前に風景が広がってゆくような感覚が心地いい。そのサウンドのせいなのかもしれない、久しぶりにカセットを手にしたときに感じた微かなノスタルジアは消え去っていた。


 カセット・テープに封じ込められたアンビエント・ミュージック。提唱者であるブライアン・イーノの言葉にもあるとおり「聴き流してもいい音楽」と定義されたその繊細なサウンドと、一度は消滅しかけたアナログなフォーマットの組み合わせを不思議に感じたことも確か。けれども、その音楽に耳を傾けているうちに気づいたことがある。


 生活にとけ込む限られた音数のサウンド、言語の不在、そして、先に述べたとおりのカセットならではのフォーマットの自由さとは裏腹に、その音楽を鳴らすことができるのは(現在では持っている人がそう多くないはずの)再生装置が整っている場合だけという限定性。なるほど! アンビエント・ミュージックが持っているもうひとつの側面である〝ミニマリズム〟は、(流通方法も含めた)カセットというフォーマットだからこそ体現しやすいのかも。そして僕はもう一度、かわいらしいフェルトのポーチを手に取る。


 FilFla(フィルフラ)、Minamo(ミナモ)、Fonica(フォニカ)などエレクトロニカ系のユニットから映画/演劇への楽曲提供、大手企業のCM曲まで、〝多彩/多才〟という言葉がぴったりな活動を展開している杉本佳一によるFourColor(フォーカラー)名義の新作は、こうしてカセットというフォーマットでリリースされた。


 抽象的なサウンドの断片が折り重なって躍動感をも生み出す音像は、アンビエント(環境)というよりも僕たちの鼓動に似ている。それは、アルバム・タイトルである『Ballet』とも響きあうようだ。周縁と内面、優雅さと不穏さ、テクノロジーと肉体性、デジタルとアナログ。相反するイメージが静かに、スリリングに混ざりあう。そして、カセットが持つ〝限定性〟は、このアルバムを手にしたときに〝可能性〟へと変化するはず。


 「このアルバムは3万枚しか売れなかったけど、聴いた奴らはみんなバンドを始めた」。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファースト・アルバムにまつわるそんな言葉を思い出した。そう言ったのも、またブライアン・イーノだ。事実かどうかもわからないし、ロマンティックでナイーヴすぎるけれど、音楽が持つ可能性を言いあらわしている。


 「どれだけ多く」ではなく、ひとりひとりに「どれだけ深く」届くかということ。杉本佳一が意識的に選び取ったカセットというフォーマットとFourColorとしての40分ほどのアンビエント・ミュージックには、そんな思いが込められていると思う。



(犬飼一郎)

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 ピアノと声を軸に、打ち込みやギターをそえて、最低限の音数でシンプルにまとめられた本作は、高島匡未(タカシマ マサミ)という女性のソロ・プロジェクトだ。ヤング・マーブル・ジャイアンツを連想させるチープなリズム・マシーンのようなシンセ音から始まる「美しきコラージュ」をはじめ、80年代ニュー・ウェイヴ/ポスト・パンクの香りが全編に漂う。それは単なる焼きなおしではない。90年代以降の日本のポップス、オルタナティヴ・ロックを通過した感性で再構築されている。タイトル通り、繊細なガラス細工のコラージュのように、彼女の人生を彩る音の記憶を切り貼りしていく。


 タイトルからスーパーカーを思い出させる「SODACREAM」は、ピアノのループと打ち込みによるベース音が絡み、まるでらせん階段を上昇、あるいは下降していくような錯覚を与える。インスト曲「WHISPER」では、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインOnly Shallow」を連想させる轟音のなかに、あるはずのない囁き声を聞く。同じくインストの「ルーリードに花束を」は、タイトル通り、ルー・リードの「Vicious」を髣髴とさせるギター・リフに、教会の賛美歌のようなメロディーが重なり、まるでルーの魂を祝福し包み込むように広がっていく。


 また、元々ファッション・ショーのサウンドトラックとして作られたという本作は、聴きやすい一方、男性の私には近づきがたい雰囲気もある。女性だけの世界、もっといえば彼女の部屋、あるいはプライベートを覗き見したような気分にさせられる。それは香水さえ漂ってくるようなフィジカルな感覚だ。終盤に収録された、はかないピアノの響きが印象的なバラード「ガラスのガール」では、少女の乗るメリーゴーラウンドについて歌われている。小さな闇を抱えた彼女が乗る馬は戦いのペガサスだという。そこで私は、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を思い出した。ホールデン君が最愛の妹フィービーを回転木馬に乗せて見守る終盤のシーンを。そして、はたと気づいた。ひょっとしたら、本作にちりばめられたノイジーな擬似バンド・サウンドは、少女たちのイノセンスを守るための鎧なのではないか、と。どんな女性にも(そして男性にもアニマという形で)永遠の少女が息づいている。それは象徴的な意味で守られるべきなのだ。


 この作品は、ファッション・ショーというきらびやかな場のためという建前で作られている。しかし同時に、あらゆる少女たちにささげる、自らの闇と戦い生き残るための物語なのかもしれない。美を競うファッション・ショーは一見華やかだが、彼女たちがいずれ放り込まれる過酷な現実世界の縮図でもあるのだから。



(森豊和)



【筆者注】GLASS COLLAGE』はライヴ会場、通販限定です。通販先は公式サイトに順次追加されます。

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 深みのある色あせたアコースティック・ギターの音が耳に流れこむと、すぐさま《小さな守り神が 白と赤の旗を振って こっちを見ている》と紡がれる。これは、Satomimagae(サトミマガエ)による『Koko』の1曲目、「Mikkai(密会)」の冒頭である。この冒頭を聴いた瞬間、筆者は『Koko』に魅了されてしまった。


 Satomimagaeは、都内で数多くのライヴをこなしてきた女性シンガーソングライター。本作はセカンド・アルバムにあたり、ファースト・アルバムは2012年発表の『awa』。それから、2012年に公開された映画『耳をかく女』でも音楽を担当したりと、幅広い活動をおこなっている。弾き語りが中心にある彼女の音楽をジャンル名で表せば、アシッド・フォークということになるだろうか。しかし、フィールド・レコーディングも用いることを考えると、ミュージック・コンクレートの文脈を汲んだ音楽とも捉えられる。シンプルに聞こえる彼女の音楽だが、注意深く耳を傾けると、実に多くの要素で彩られているのがわかるはず。


 といったところで、本作に話を戻そう。本作での彼女は、呟きすれすれの繊細な歌声を響かせている。押しつけがましい熱さであったり、今にも聴き手に掴みかかりそうな激しさはない。それでも彼女の歌声は、聴き手の興味を否応にも引きつける。同時に凛とした佇まいを脳裏によぎらせ、がなるだけのマッチョなバンドもどきよりも力強く見える。くわえて、妖艶。阿部芙蓉美(アベフユミ)や森田童子を想起させる、どこか孤独な雰囲気も魅力的。


 歌詞のほうも、幻想と現実の境目が曖昧な風景を描いていて面白い。「Ishikoro(石ころ)」は少し殺伐とした空気を漂わせるが、アルバム全体としては母性的な温かさを垣間見せるのが興味深い。これはおそらく、本作における彼女の歌い方が、母親が子供に童話を読み聞かせるときのテンポに近いからだ。ひとつひとつの言葉を丁寧に発し、まるで大事な我が子に言葉を刻みつけるかのように。それゆえ、淡々としているように聞こえるその歌声には、彼女の豊かな感情表現を見いだせる。


 また、ミックスとマスタリングをドローン/ アンビエント作家のChihei Hatakeyama(畠山地平)にまかせた影響か、本作は優れたアンビエント・アルバムとしても楽しむことができる。彼女の歌声は、聴き手のほうから歩み寄ることを求める受動性が色濃いゆえ、その歌声に傾ける意識を薄くすると、何かしらの風景を彩る一要素に変身してしまう。川の流れる音だったり、風が吹く音、あるいは風鈴が鳴る音と一緒の自然的なものに近づく。Satomimagaeという記号を捨て去り、〝誰かの歌声〟になるというか、さながら残留思念に触れてるような気分。


 とにかく、非常に面白い聴体験が待っている。




(近藤真弥)