reviews: June 2014アーカイブ

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may.e「REMINDER」.jpg

 やはりというべきか、may.e(メイ・イー)の最新ミニ・アルバム「REMINDER」がリリースされてから、何度も聴いてしまう筆者がいる。『Mattiola』 『私生活』と、作品を重ねるごとに早耳リスナーの間で話題を集めていった彼女。優しいメロディーに、耳馴染みのよい歌声と言葉が多くの人に知られていくのは、may.eの音楽の虜になったひとりとして嬉しい限り。また、シチュエーションによってその響きが変わるのも、may.eの音楽が持つ魅力だ。電車に乗りながらでもいいし、あるいは街を散歩しながらでもいい。may.eの音楽は、どこで聴いても心にスッと寄り添ってくれる。筆者にこうした感覚をもたらしてくれる音楽は、may.eとニュー・オーダーくらいのもの。


 その魅力は、「REMINDER」でも相変わらず。"デモ・ミニ・アルバム" というだけあって、これまでの作品よりも少々ラフな質感が際立っている。とはいえ、それが欠点にならず味となっているのがまた面白い。なんというか、寝そべりながらラジオやレコードを聴いている感じに近い。以前に筆者がおこなったインタヴューでは、「私はキレイにしたいんです」と言っていたが、筆者からすればこれはこれでアリ。喜怒哀楽、そしてこれらにまつわる複雑な機微も喚起するサウンドスケープは、本当に心地よい。もちろん、キレイに録れる環境で作られた作品も楽しみにしているが・・・。


 そして、「REMINDER」を浴びるように聴きながらあらためて思ったのは、may.eの音楽にはアンビエント・ミュージックに近い要素があるということ。アンビエント・ミュージックはブライアン・イーノが提唱した音楽ジャンルであり、リスナーを無理に引き込んだりはせず、むしろリスナーがどれだけ能動的に聴くかで聞こえ方が変わってくる音楽だ。こうした要素がmay.eの音楽にもある。例えば、そこにあって当たりまえな空気のようなもの、もしくは夏の青空に浮かぶいくばくかの白い雲、あるいは森を歩いていると聞こえてくる虫の鳴き声でもいい。言ってしまえば、may.eとはアンビエント・シンガーである。まあ、そんな筆者の戯れ言は放っておくとして、まるで日常の一部であるかのようにmay.eの音楽は存在しているということ。それは、ひとつの曲に膨大な量の音楽的要素や情報を詰めこんだ昨今のJ-POPとは異なるもので、ゆえに彼女がオルタナティヴ的側面を孕むことにも繋がっている。



(近藤真弥)




【編集部注】「REMINDER」はmay.eのバンドキャンプでダウンロードできます。

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 大友良英も関わる『音遊びの会』という取り組みがある。知的障害者とその家族、音楽療法家や様々なアーティストが集まり、即興演奏を通して新しい表現を開拓する試みだ。そのメンバーである原山つぐみが、2013年に神戸でスタインウェイ・リレーという順番にグランド・ピアノを演奏していくイベントに出演したのを観た。故・佐久間正英や早川義夫、モーマスにDODDODO(ドッドド)といった顔ぶれに挟まれて。極めて直感的なプレイ、というか瞬発的な叩き方、感情が染み出してくるようなパフォーマンスだった。


 既成の常識にとらわれないゆえに素晴らしい表現をするアーティストがいる。彼らこそ新しい普遍的なポップスを作る可能性がある。札幌出身のSSW沙知を中心としたプロジェクト、ハリネコもそのひとつだろう。勢いと艶のある彼女の歌がまず心臓をわしづかみする。さっぱりとした色気と生命力あふれる声。時にギリギリな響き、喘ぎ、あるいは切実な祈りを思わせる。ギター、シンセサイザー、ベース、チェロ、ドラムからなる彼女を支える演奏はシアトリカルというか、歌舞伎、浄瑠璃のような日本古来の伝統芸能、舞いと演奏が一体になったパフォーマンスを想起させる。次々と展開していき、とりとめがないようで整合性がある。収まる所に収まる。また、沙知の声はもちろん大人の女性のそれだが、歌いまわし、声色の端々に年端もいかない少女が見え隠れする。全体として大人の豊満な女性の質量ではなく、中性的で軽やかな響きとなる。演劇をイメージさせると書いたが、ある少女の波乱に満ちた成長を描く物語に聞こえてくる。


 ここまで書いて、ハリネコの音楽から冒頭に書いた原山つぐみの演奏を思い出した理由が分かった。その日の演奏中、妨害する街頭の騒音にさらされた彼女はその場を立ち去りたい衝動を必死にこらえているように見えた。何度も中断しながらも、しかし演奏を途中でやめなかった。つらさの尺度は人それぞれ、泣きたい、叫びたいくらいの苦しさを乗り越えて表現する。彼女の演奏が終わると観衆は一際大きい拍手を送っていた。そのとき微笑んでいた彼女が沙知のなかに居る少女とだぶったのだ。拍手する観衆は彼女にとってのバンド・メンバー。北の都から出てきた少女は東京で7人の小人ならぬ精鋭ミュージシャン達と巡り会う。誰の人生においても困難を乗り越えるためには仲間の存在は欠かせない。アバンギャルドなようでスタンダードな安心できるものにちゃんと行き着くのは、多彩なメンバーが彼女を支えているからなのだろう。



森豊和

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#INTERNETGHETTO #RUSSIA.jpg

 「Someone's Missing」という曲で、《ここにあるのは成長中のカルチャー 死体の奥深く さまざまな時代がまじりあい その源へ》と歌ったのは、確かMGMTだったか。今から4年前、2010年のことだ。もう少し時を遡って、2002年。LCDサウンドシステムことジェームズ・マーフィーは、「Losing My Edge」のなかで、インターネットが一般化して以降、誰もがさまざまな時代の音楽や文化に触れることができる現在を予言するような "神の視点" を歌った。《1968年ケルンで最初のカンのコンサートを観た》《パラダイス・ガラージのDJブースにラリー・レヴァンとともに俺はそこにいた》といった具合に(ちなみにジェームズは1970年生まれ)。この歌は、音楽マニアによるうんちくとレコード・コレクションの自慢に聞こえるが、その豊富な知識がもはや特権ではないことも告げていた。知識は "占有" ではなく "共有" されるものと認知され、多くの者がネット上に資料をアーカイヴとして次々とアップする、いわば "記憶の外部化" が進んでいるのだから、それも致し方ないというもの。そして、この流れが行き着いた地点こそ、《Ninja Tune》などから多くの作品をリリースしているミスター・スクラフが筆者に語ってくれた、「昔に比べて細分化されたから、自分の音楽史というか履歴が他の人とかぶることが少なくなったかもしれない。みんなインターネットを介して、個々の音楽文化を築き上げている」(※1)という現況だ。


 そんな現況がもたらした興味深い作品が、『#INTERNETGHETTO #RUSSIA』である。本作はロシアの《Hyperboloid》というレーベルによって企画されたコンピレーション・アルバム。ジューク、ダブステップ、ラガ、トラップ、EDM、ジャングルなどが混在した内容で、フロア映えするトラックが多く収められている。ちなみに、本作のメガミックスがアップされているサウンドクラウドのタグには、"techno trap" "tropical bass" "webpunk" といったジャンル名がある。このあたりは、単一タグで括れない表現が当たりまえになった現在だからこそであり、面白くはあるが、決して珍しいものではない。筆者からすると、《R&S》が2011年にリリースし、テクノ、IDM、ダブステップ、ヒップポップが交雑したコンピ『IOTDX』のアップデート版にも聞こえるが、アルバム・タイトルに "GHETTO" があることからもわかるように、『IOTDX』と比べたら本作は享楽的で、汗臭さが漂う。それゆえアゲアゲなグルーヴが際立っている。


 また、そんなグルーヴがアルバム全体を支配しているのも興味深い。コンピレーションともなれば、色彩豊かな雑多感を少なからず醸すものだが、本作はそうした雑多感を残しつつも、刹那的でアッパーなレイヴ感、それからハドソン・モホーク『Butter』以降のツルッとしたアーティフィシャルなシンセ・サウンドという2点が全曲に通低している。ゆえに本作は雑多感よりも統一性を強く感じさせ、言ってしまえば、とあるアーティストによるオリジナル・アルバムと紹介されて聴いたとしても、何ら違和感がない。


 先に引用したミスター・スクラフの発言には筆者も同意できるし、レヴューやライナーノーツといった場を借りて何度も繰り返し書いてきたことでもある。だが、本作の統一性は、みんなが同じ方向に傾いた画一的な熱狂や連帯とは違う、いわば新しい帰納的な連帯の形、それこそ「個々の音楽文化を築き上げ」た先を示しているように見える。音自体の面白さはもちろんのこと、人と人の繋がり方に新たな視点を提示したという点でも、本作は多くの人の興味と好奇心を促す作品だ。



(近藤真弥)



【編集部注】『#Internetghetto #Russia』は《Hyperboloid》のバンドキャンプからダウンロードできます。



※1 : ミュージック・マガジン2014年6月号掲載 ミスター・スクラフのインタヴューより引用。

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Chromeo-White-Woman.jpg

 2014年も、すでに半分すぎてしまった。今年前半の、ぼくの最高の「愛聴アルバム」は、テンプルズサム・スミス、それは結構揺るぎないとして、もちろんほかにも素晴らしいものがたくさんあった。ちょっと俯瞰的に、比較論もまじえれば、こんな言い方もできる。


 2014年の「インディー・ロック」トップ・アルバムがフォスター・ザ・ピープルだったとすれば、彼らクローミオによるこの『White Women』こそ、まぎれもない「インディー・ポップ」トップ・アルバムだと。


 まあ、どちらもiTunesにつっこんだとき(Gracenoteをつうじて)表示された「ジャンル」は「インディー・ロック」だが(笑)。というか、彼ら...カナダのクローミオに関しては、ちょっと意外だ。00年代のポスト・パンク/ディスコ・ リヴァイヴァル・ブーム期に世に出た男性ふたり組ユニット。今調べてみたら、前作にあたる2010年のサード・アルバムのジャンル表記は(「ヒップホップ」ではなく:笑)「ラップ」だったし。


 もともと彼らの名前を耳にしはじめたころ、LCDサウンドシステムのジェームズも「注目してる」と言ってたから「エレクトロニカ/ダンス」でもおかしくない(ただ、同じく今ぼくのiTunesライブラリを確認してみたら、LCDのファーストとセカンドは「オルタナティヴ&パンク」だった。自動的に出てきたものなのか? それとも、ぼくが勝手に変えたんだっけ? 今となっては記憶がないぞ...:笑)。


 そういった「ざっくりした」話は、ちょっと置いといて、ぼくのなかにおける彼らの位置づけに関して言えば、ほぼ同じころ好きになりはじめたオーストラリアのカット・コピーや、フランスの(かつてのダフト・パンクフェニックス→)ブレイクボットあたりと近い。「ギターやベースやドラムスと同じようなものとして、それが使われはじめたころ」、つまり70年代末~80年代っぽいエレクトロニック感覚を継承しつつ、なによりエヴァーグリーンなポップ・エッセンスが、むちゃくちゃ気持ちいい。


 そんな意味で、この『White Women』、彼らの最高傑作だ。ヨーロッパ盤は名門パーロフォンから出てるだけあるというか。全盛期のプリンスに勝るとも劣らない完成度。ぼくはプリンスの80年代の作品を今もときどき聴く。やはり「当時のサウンドだな」と感じつつ。あくまで「アーカイヴ」として楽しんでいる。それに比べると、こっちは、もちろん「今の音」そのものだし、「とにかく楽しい」という意味ではプリンスより、もっと「普通のヒット曲」寄りかもしれない。


 そう、このアルバムは、本当に、ちょっとどはずれなくらいに楽しい。楽しすぎる。だから、ぼくは「精神的にはめをはずしたい、思いっきり逃避したい」とき、これを聴いている。


 だからこそ「インディー・ポップ」なのだ。フォスター・ザ・ピープルの新作セカンドも素晴らしかった。しかし、そこには「社会のなかにおける自分の位置づけ」に対する苦悩がすけてみえた。もちろん、いい意味で、エンターテインメントに徹しつつ。ピンク・フロイドの『Animals』や『The Wall』と、ためをはるくらいの深さで。それゆえ「ロック」だと思った。


 そして、ぼくは疑心暗鬼に陥ってしまった。フォスターのセカンド、噂によるとファーストに比べてあまり好きじゃないという人も多い、すごく賛否両論...らしい。えっ、なんで? もしかして、あれなのかな? 「インディー・ミュージック」ファンって、「社会」というファクターが音楽に入ってくると、拒否反応を示してしまうことも多い...ってこと?


 はあ...。正直に言おう。ぼくは長年クッキーシーンというメディアをやりつづけていた。だけど、その「イメージ」も含め、自分自身がそれを「完全にコントロール」できるわけではない...ってことも長年やっていて痛感した。とりわけつらかったのが、「雑誌」時代の後期...00年代末ごろ。そういった意味での「インディー・ファン」が読者に多くなってしまったのではないか? という...。


「政治? 社会? 知らないよ。選挙? 関係ない。われこそセカイの中心...みたいな(笑)」。


 やめてくれ...。素晴らしいポップ・ミュージック/ロックには「逃避」的側面がある。それは、たしかなこと。だけど、これは違うだろう。そんなふうに「閉じこもって」ばかりいたら、「逃避」をとおりこし、そのうちやがて「死」がやってくる。きみのわきに、しのびよってくる。それは、今の日本の社会に暮らしていれば、わかるはず...じゃないか?


 英語版ウィキペディアによれば、彼らは自らのことを「人類の文化の曙以来、はじめて『成功』した、アラブ人とユダヤ人のパートナーシップのたまもの」と称している。この音楽を聴き、ユーチューブでそのヴィデオを鑑賞したとき、『White Women』というアルバム・タイトルから、なにより強く伝わってくるのは「あー、きれーな白人ねーちゃんと遊びまくりてー、あわよくば結婚してーよー!」という、やむにやまれぬ感覚(笑)だが、その裏にある「批評性」は、上記の自己認識からして、もう明白だろう。


 さらに、アートワークに使われている車を見たとき、今さらながら気づいた。ずっと「クロームという金属名と(ジュリエットに対する)ロミオという人名の合成語」かと思っていたバンド名の、もうひとつの意味...ニュアンスに...。そっか「Chromeo」というつづりは、なんか「シボレー・カマロ(Chevrolet Camaro)」にも似てるぞ!


 今回、彼らがアートワークに使ったカマロは、80年代後半~90年代初頭の古いもの。ちょうどウルトラマンティガの(世界平和機構TPC傘下で最初は「武器」を持っていなかった)防衛隊GUTSの使用車(黄色いシャーロック)として使われたのと、ほぼ同じ年式。ちなみに、それより新しい年式の黄色いカマロは、トランスフォーマー実写版で複主人公たるバンブルビーにトランスフォームする。


 すごく「男の子」っぽい車だし、もうひとつ言っておけば、カマロはシボレーのラインのなかで、わりと低価格帯に属する比較的「庶民的な」スポーツカーだ。80年代初頭のプリンスに「Little Red Corvette」という大ヒット曲がある。スポーツカーに仮託して《あなた(のちんぽは「Little Red Rooster」ならぬ)赤い小さなコルヴェット...(いくの)速すぎ(フラストレーションたまっちゃう)!》と歌われたそのコルベットは、GM(ジェネラル・モーターズ社)全盛期におけるシボレーのフラッグシップたる高級車だった。でもって、クローミオは白い(古いし、たぶんそれほど速くもない)カマロ。こんなところにも、クローミオの「特質」が、よく現れているではないか...!


 最後に、ひとつ意地悪な? ことを言っておこう。


 このアルバムには、さまざまな人たちがゲストとして参加している。(LCDサウンドシステムの、わりと「パンクな面」を支えていた者のひとり)パット・マホニーや、(そういう名前のユニットがあることは知ってたけれど、ぼくも聴いたことがない)フールズ・ゴールドの人たち。そして、これが「でかい」んだが、ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラや、トロ・イ・モワまで! ただし、彼らのフィーチャーのされ方は、決して「インディー・ミュージック」を「知的シェルター」として捉えている人たちが喜ぶような形ではない。むしろ「下世話なポップ・ミュージックの典型シンガー」として、そんなタイプの「インディー・ファン」たちが眉をひそめるか、もしくは「はあ? 関係ないよ、ぼくには...」などと言ってしまいそうな役割を与えつつ。その典型が、トロ・イくんをフィーチャーした「Come Alive」のヴィデオだろう。彼自身すごく「楽しんでいる」ように、ぼくには見えるのだが(笑)。


 ぼくは「最高!」と思った。さて、あなたは、どんなふうに感じるだろう?



(伊藤英嗣)

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 奇しくも日本政府が集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を決定した201471日、新メンバー加入後としては初となるPANIC SMILE(パニック・スマイル)の作品が店頭に並んだ。カヴァー・アートには医学書からとられたような臓器の模型や化学構造式、顕微鏡の視野等が白黒でコラージュされている。フロント・アートに映る七三分けの男性は、おそらく人体模型なのだろうが、三つ折りジャケットを広げた下部にあるデモを想起させる群衆の写真と相まって、このご時世、否が応にもヒトラーを連想させる。


 本作のタイトル『INFORMED CONSENT』とは、正しい情報を伝えられたうえでの合意を意味する、主に医療現場で用いられる概念。自分たちに降りかかる運命について我々は知る権利がある。しかしインフォームド・コンセントは訴訟社会であるアメリカで、訴えられるリスクを減らすための医師の自衛手段として広まった側面がある。現在の社会情勢においてますます皮肉に聞こえてくる用語だ。医師は騙そうとして難解な話をするわけではないが、政治家は意図的に本質を外した答弁をする場合がある。表題曲「INFORMED CONSENT」は、インターネットで能動的に情報を得ているようで知らないうちに誘導され操られ、放射能という十字架を背負わされるさまを歌っているとも解釈できる。英詞の「NUCLEAR POWER DAYS」ではもっと露骨に原発や核戦争の恐怖を叫ぶ。「DEVIL'S MONEY FLOW」は一聴、経済について歌っているようで、漁船、国境といった単語を混ぜ込み、裏にある政治的意図を暗示する。何より《こっちに選ぶ権利がない》のが問題だと。


 歌詞カードには男性がUFOに吸い込まれていく漫画が描かれている。大きな力に操られ踊らされる男性。恐怖体験であるが、ビュルルーン、パワワーといった気の抜けた効果音でなんだか喜劇的だ。そのUFOに乗る宇宙人はロールシャッハ・テストの図形に似せた風貌をしている。つまり宇宙人もPANICSMILEの音楽も無意識に由来することを示唆しているのかもしれない。不動のヴォーカル吉田肇に、保田憲一がベースからギターへ転向、新たなリズム隊としてドラムに松石ゲル、ベースはDJミステイクという新メンバーで紡がれるバンド・アンサンブルは、緻密さが自然にほぐれ、かつてないほど開放的でユーモアも見え隠れする。それこそ歌詞カードの漫画みたいに明快で、その辺のJ-POPより爽やかだと錯覚してしまうほどだ。変拍子でどんどん展開していくプログレッシヴ・ロックのような小難しい曲ばかりなのに難解に聴こえない。1曲目の「WESTERN DEVELOPMENT2」で吉田は《とりあえず反旗を振っている 敵タナトスは馬鹿でかい》と歌うが、彼がデビュー後21年間保ち続けてきた闇雲な焦燥感、そのテンションにジャストな時代がやっと訪れたのかもしれない。ラストの「CIDER GIRL」では《ツイートをしたって絶対一人》と歌いながらも、不安な闇の彼方に一筋の希望を探す。優しい女性コーラスも添えられて、彼らにしては驚くほどストレートな90`sオルタナティヴ・ギター・ロックだ。盟友NUNBER GIRL(ナンバー・ガール)とともに博多の街を熱くした吉田の若き衝動は今なお続いている。



森豊和

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 激しい高揚感と、全てが過ぎ去ったあとの静けさが同居する。平沼喜多郎の叩くドラムに加えて、ギター/ヴォーカル/プログラミングの松村勇弥は今回ベースも自ら演奏している。よりヴォーカルを前面に出すプロダクションも施した。エレクトロ・ミュージックの様々な方法論を折衷しているが、もともと彼らの表現の芯にはギター・ロックのスピリットがある。それが生演奏の比重を増すことでさらに強調されている。


 かつてどこにもなかった国と名付けられた3曲目「Never Ever Land」やシングル・カットされた5曲目「Superneutral」ではその傾向が特に顕著だ。マッドチェスターからブリット・ポップの夢を2014年の日本で再現する。ストーン・ローゼスのようにポスト・パンク、サイケデリック・ロックをダンス・ミュージックに落とし込む手法に、オアシスが体現した単純で(だからこそ無敵な)カタルシスを注入する。かと思えば2曲目「I.D.」はLCDサウンドシステムが紐解いたニュー・ウェイヴ・ディスコの歴史をもう一度俯瞰する試みだ。4曲目「Experience Auras」はミニマルな冒頭から徐々に高まっていくダンス・ナンバー。ブリアルワンオートリックス・ポイント・ネヴァー等を愛聴する松村の嗜好が垣間見える。


 アルバムの構成は一本の映画のようだ。そのストーリーは歌詞やタイトルからも推測できる。例えばオープニング・ナンバー「Instant Dupe」は、すぐ騙される間抜け、カモの意味。6曲目の激しいダンス・ロック・ナンバー「Escape Line」は逃げ口上を意味する。続いて複雑な感情の揺れをイメージさせる「Counterfeit Rainbow」はまがいものの虹。DVD収録のVJ田嶋紘大が制作したMVではダイヤの指輪が粉々になるアニメーションが描かれ、《I'll make something wondrous(素晴らしい何かを成し遂げたい)》と歌われる。ジューク以降の流れを意識したかのような9曲目「Civilization」は文明化、ナイン・インチ・ネイルズのようなインダストリアル・ロックを彼らの感性で高速化させた10曲目「Manifold」は機械の枝分かれした排気管を意味するが、すると「Counterfeit Rainbow」のMVでは、工業化された物質文明をダイヤの指輪に例えたのかもしれない。それをまがいものの虹だとして粉々にする。アニメーションではその瞬間、真の美しい虹が現れるように見える。それこそが彼らの音楽なのかもしれない。


 ハムレットの悲劇のヒロインの名を冠した8曲目「Ophelia」は甘いシティー・ポップ・チューン。そして11曲目「Lust For Love」は彼らなりのインディーR&Bで最後にできた曲、今最もやりたいことの結晶だという。一方でラストの「Melt With You」ではアンダーワールドが体現した、しだいに加速度を増し、天上まで登りつめていくムードが2014年型にアップ・デートされている、9分近いこの曲は彼らの真骨頂。全体を通して伝わってくるのは揺るぎ無い信念。高機能なダンス・ミュージックとしてのテクノ、ハウス、アンビエントを越えて彼らが目指すのは、より多くの人に届くポップ・ミュージックだ。



森豊和