reviews: May 2014アーカイブ

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ナマで踊ろう.jpg

 音楽も含めた "表現" は、ひとつの時限爆弾になり得る。発表当時はなんとなく流していた部分が、突如として心に突き刺さる棘となってしまう。例えば、《この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ》と言葉を紡ぐザ・ストリーツの「Empty Cans」が、10年の時を経てより深く私たちの心に問いかけてくるように。良くも悪くも、"表現" とは時代ごとにさまざまな解釈をあてがわれ、含意も変わる。それを良しとしない者も少なからずいるだろうが、場合によっては希望という名の可能性に繋がるのだから、一概に悪いとは言えない。表現とは "切り口" であって、"答え" ではないのだから。 "答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。決して誰かが教えてくれるものじゃない。


 坂本慎太郎は、実に多くの "切り口" を残してきた。明確な政治的主張をするわけではないが、ゆらゆら帝国時代に生み出した「ソフトに死んでいる」なんて、"今" に相応しい言葉を歌っている。


《いっけんやわらかい すごくなまあたたかい おわらない にげられない わすれたふりはもう やめよう よう よう よう よう》

(「ソフトに死んでいる」)


 とはいえ、ソロ・アルバムとしては2枚目の本作『ナマで踊ろう』は、文字通りの直球勝負。右傾化(というより筆者は "幼稚化" だと思うが)が著しいと言われる現在の日本に対する痛烈なメッセージ性を持ち、諸星大二郎や楳図かずおの漫画に通じる、SF的な寓話性を備えている。それは例えるなら、小さいころ両親に読み聞かせてもらった絵本のようなものだ。布団に入り、うとうとしながら聞いていたそのお話は、実は風刺や社会的教訓が込められたものであったという。このような側面が本作にはある。


 しかもそれは、歌詞だけではなく音にも通底するものだ。本作の初回盤にはアルバムのインスト・ヴァージョンが同梱されているのだが、そこで聴けるひとつひとつの音も "言葉" として伝わってくる。みんなで聴くより、ひとり部屋で寝転びながら聴いていたいトリッピーなサウンドスケープには、本作のコンセプトを築きあげることに腐心する坂本慎太郎の姿、それからファンク、ディスコ、ソウル、イージーリスニングなど彩度ある音楽的背景もうかがえる。もちろんコンセプトも重要ではあるが、本作はひとつの心地良い音世界を示してくれるという点でも、素晴らしい作品だ。


 ちなみに、クッキーシーンを中心に活躍する音楽ライターの近藤真弥、つまり筆者は、某誌で書いた本作のレヴューで次のように述べている。


「まるで地中から這い出てきたゾンビが演奏しているような音楽」(※1)


 これはおそらく、キノコ雲と骸骨というこれまたわかりやすいジャケット、それから「この世はもっと素敵なはず」で歌われる、《見た目は日本人 同じ日本語 だけどもなぜか 言葉が通じない》という諦念が入り混じった一節に影響されたからだろう。これについては今も変わらず抱いている印象だ。本作の1曲目「未来の子守唄」にしても、"未来の人間" というよりは、"未来の死者" が歌っているように聞こえてしまう。言ってしまえば本作は、未来の人々からすれば "過去" である私たちに向けられた、一種の恨み節なのかもしれない。とは言っても、繰り返しになってしまうが、"答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。そういった意味で本作は、"切り口" としての余白を残しており、聴き手を完全に突き放す作品ではない。このあたりに坂本慎太郎という男の優しさ、そして皆が同じ方向へ傾く画一的な熱狂とは別の連帯を求める意思を見いだしてしまうのは、筆者だけだろうか?



(近藤真弥)




※1 : ミュージック・マガジン2014年7月号のクロス・レヴューにおける坂本慎太郎『ナマで踊ろう』評より。

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吉田ヨウヘイ.jpg

 草原を突き抜ける風のようなフルート、揺りかごのようにスイングするサックス。幼き日に駆け回った田舎の野山を思い出す。ジャズ、ファンクのリズム、コード進行にやわらかなメロディーが乗る和風ポストロック。ダーティー・プロジェクターズからの影響を公言し、聴く者を包み込むように鳴らされるギターと心和ませる管楽器と女性コーラス。豊饒な音楽だ。


 「新世界」を夢見て、はるか地平を見渡すために背伸びする、少年のような吉田ヨウヘイの声も魅力的だ。多彩な楽器隊や工夫を凝らしたアレンジに耳を奪われがちだが、総体として表現しようとしていることは、唄の表情にこそ端的に表れている。青年期も半ばを過ぎて少年の頃を振り返り、失われた情景や大切だった人間関係を想う歌詞が中心だが、2曲目の「ブールヴァード」では運転中のトラブルに、5曲目「12番ホーム」では列車のトラブルに例えるといった風で、日常の情景描写に心象風景を託している。そして3曲目の「アワーミュージック」では、人は時期が来れば諦めなければいけないことがたくさんある。それが大人になることだと歌われる。しかしその時期がないこともあると彼らは続ける。決して諦められないこともある。それが彼らにとっての音楽であり、信条なのだろう。


 話はそれるが、子ども向けの名作は、実は大人も楽しめる深い何かを隠している。ジブリ映画『となりのトトロ』は冥界からの使者であるという解釈もできるし、『千と千尋の神隠し』は精神分析で言えば子どもの発達過程を表すと同時に社会の暗部のカリカチュア。吉田ヨウヘイgroupのアルバムも同じで、やさしい音色なのに突き刺すような響きも含まれる。子どもの頃の懐かしく淡い感動を思い出させるが、そのなかにはお化けを怖がるような気持ちも含まれている。アルバムを通して聴いていて、不意に背筋が凍る瞬間を何度か体験した。自ら手放した大切なものについて歌う8曲目「ロストハウス」は特にそうで、苦しいほど胸が締めつけられた。岡田拓郎(森は生きている)がペダル・スティールを、三船雅也(ROTH BART BARON)がバンジョーを弾くこの曲は本作の核心だろう。ネガティヴな気持ちも包み隠さず歌われるからこそあたたかい音色が生きる。そして最終曲「錯覚が続いている」では本作中、最も牧歌的なメロディーが鳴らされ、大久保淳也(森は生きている)のトランペットが厳かに旅の始まりを告げるようだ



森豊和

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Caro kissa『Door』.jpg

 1990年代に流行った "渋谷系" といえば、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴが代表的存在とされ、自ら「全員平成生まれの遅れてきた渋谷系宅録ユニット」と称しているOK?NO!!、それからOK?NO!!のメンバーであるreddam(リダム)など、いまでも多くのフォロワーを生み出しているムーヴメントだ。とはいえ、いまでも明確な定義はなく、"渋谷系" と呼ばれていた音楽に通じる匂いがあれば "渋谷系っぽい" と言われているのが、現状だと思う。強いて "渋谷系" に欠かせない側面を言うと、多様な音楽的背景が感じられること、くらいだろうか。


 そういった意味では、sunachu(すなちゅ)とtakahiro(たかひろ)による男女ユニットCaro Kissa(カーロキッサ)のアルバム『Door』も、 "渋谷系っぽい" と言えるかもしれない。本作は、親しみやすいメロディーと平易な言葉で紡がれた歌詞を特色とし、モータウン、ファンク、ブルースの匂いを醸す多様な音楽性が魅力だ。


 加えて、ニューミュージックの色がまだ濃かった1990年代初頭あたりのJ-POP、いわば普遍的なポップスを感じさせるのも本作の面白さである。いま "J-POP" と呼ばれている音楽のほとんどは、複雑なアレンジや忙しない転調が繰り返される過剰なプロダクションを特徴としている。だが、本作のJ-POP感は、そうした現在の "J-POP" に対するオルタナティヴ性を孕むものだ。例えが悪いのを承知で言えば、ブックオフの280円コーナーでよく見かける、1998年をピークとするCDバブル期に制作された作品のような音。念のために言っておくと、筆者はこの例えをポジティヴな意味合いで使っている。値段と内容がイーブンではないのは言うまでもなく、しかもCD不況と言われる前に作られた作品だけあって、売れた売れないに関わらずそれなりの制作費を元手に作られており、ゆえに音が良かったりするのだから。もっと言えば、レア・グルーヴというものがあるように、リリース当時は見向きもされなかった作品が、時を経て多くの人たちに聴かれている光景は文字通り "希望" と言えるはず。筆者は本作に、そうした時代の面白さも見いだしている。


 もしかすると、本作を聴いて "懐かしい" と思う聴き手はいるかもしれないし、あるいは、"これなら過去に聴いたことがある" と一刀両断する者もいるだろう。しかし、秀逸なメロディーと言葉でもって、"かつてのJ-POP" を2010年代に蘇らせた『Door』が、なぜ "今" 生まれたのか? このことについてはいろいろ想像ができるはずだ。そういえば、"渋谷系" が出てきた当時、同時期に流行っていた "ビート・ロック" なる縦ノリの音楽があって、"渋谷系" にはそうした時代の潮流に対する反骨精神があった。この状況、現在にも当てはまりません? 


 というわけで、あとはあなた自身の耳で確かめてください。



(近藤真弥)




【編集部注】『Door』は《Positive Records》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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Guided By Voices - Cool Planet.jpg

 やはり、やつらは「本物」...D.I.Y.ロック・バンドの鑑のような存在だった。この春、たてつづけにリリースされた(リリース・ギャップはわずか数ヶ月...。あいかわらず好き勝手流...だし、そのギャップの短さはイーノ&ハイド以上...というか彼らがGBVを真似た...のかしら?:笑)2枚のニュー・アルバム『Motivational Jumpsuit』と『Cool Planet』を聴いて、まじでそう思った。


 がさつだけど緻密。クールだけど熱い、そして「激しい」けれどスーパー・ポップというGBVならではの世界は、キャリアや年齢を重ねても、まったく衰えていないどころか、まずます磨きがかかっている。


 ある程度年期の入ったインディー/オルタナティヴ・ミュージック・ファンの方であればご存知と思うけれど、彼らがワールドワイド・ブレイクを果たしたのは90年代初頭。グランジ・ブームとシンクロしたUSにおける「その手の音楽」の盛りあがりのなか、当時は一介の新進レーベルにすぎなかったマタドールを、ペイヴメントや(UKの)ティーンエイジ・ファンクラブと並んで(レーベル本国USでは彼ら以上に?)盛りあげた。日本では、ベックや(これまた)ペイヴメントと並んで「ローファイ」ブームの旗頭となっていた。そんな「タグ」、今となってはまったく「有効」ではないだろう。ただし、「D.I.Y.だから、どうしてもハイファイ(Hi-Fi)志向は無理」という意味では、彼らは本当にそんなノリを今も貫いている...と、むしろ感心してしまう。


 『Motivational Jumpsuit』も『Cool Planet』も、20曲以上入って、時間は40分前後。だらだらと50分以上1枚のアルバムにつきあわされる必要もない。まあ、それはそれで、もちろん「あり」なんだけど、GBVの「今を生きる」疾走感には似合わない。おおげさに言ってしまえば、ポスト・パンク時代...70年代後半にワイアーがデビュー・アルバム『Pink Flag』(オリジナルは全21曲入りでトータル約35分という潔さ)でやらかした「極端さ」を、今も継承している。そのたとえ無理があるだろう、って? いや全然そんなことないよ。先述のとおり、彼らの名前が「世界にとどろきわたった」のは90年代だけど、もともと結成は80年代初頭。それも、ペル・ウブやディーヴォと同じ、オハイオ州で。


 とりあえず、彼らのことを知っている方も知らない方も、できれば2枚とも聴いてみてほしい。比較するなら『Motivational Jumpsuit』のほうが、よりストレートにガレージ・ロックンロールっぽく、『Cool Planet』のほうがストレンジ・ポップ度が高い。たとえば、彼らは00年代なかばに一旦解散する前...90年代末にはクリエイション・レコーズからUK盤を出したこともある、という情報にピンと来た(彼らのことを知らなかった)方には『Cool Planet』のほうがお薦め...かもしれない。


 10年代初頭の再結成以降、彼らは本国USでは「自らの名前を冠したレーベル」から、UKではファイアー・レコーズ(わお!...とジジイは言う:笑)から作品をリリースしている。そんな形も、今という時代にふさわしい。まあ、本国におけるウェブ・メディアでのプロモーションは手薄になっちゃうから、それらを基準に音楽を聴いてる方には「誰それ? あそこで褒められてなかったじゃん」って感じかもだけど(いや、実際に褒められてるかそうじゃないかは「あそこ」をまったく見てないので知りませんが:汗&笑)、まあ、騙されたと思って、一度アルバムを聴いてみてほしい。できれば、歌詞など「言葉」の使い方にも、是非着目しつつ!



(伊藤英嗣)

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The Feast Of The Broken Heart.jpg

 アンディー・バトラー率いるハーキュリーズ&ラヴ・アフェアのファースト・アルバム『Hercules And Love Affair』が発表されてから、6年近く経った。このアルバムは、妖艶で甘美なサウンドをまとったハウス・ミュージックでありながら、ザ・ラプチャーLCDサウンドシステムなどを中心とした、2000年代前半のディスコ・パンク・ブームを牽引したレーベル《DFA》からのリリース。このインパクトは、当時をリアルタイムで過ごした筆者からすると、相当デカイものだった。


 『Hercules And Love Affair』が面白かったのは、ハウス・ミュージックの持つエロティシズムを2000年代に蘇らせたこと。ハウスという形式を用いるだけでなく、ハウスが主にゲイから支持された音楽であり、ハウスの創始者フランキー・ナックルズや、フランキーの友人ラリー・レヴァンがDJを務めたニューヨークのクラブ《Paradise Garage》といった起源にまで及ぶ愛情がほとばしっていた。いわばハウス・ミュージックの精神を受け継いでいたのだ。そんな『Hercules And Love Affair』は、エドゥアール=アンリ・アヴリルなどが有名な芸術のジャンル "エロティカ" を連想させる作品でもあった。


 おまけに、ヘラクレス(Hercules : 英語形はハーキュリーズ)という言葉がグループ名に入っているのも暗喩的だった。ヘラクレスといえば、古代ギリシャ時代の伝承などによって作られたギリシャ神話の登場人物として知られるが、その古代ギリシャ時代の哲学者プラトンは著作『饗宴』で、もともと性は "男男" "男女" "女女" の3種類あったと書いている。さらにプラトンの師匠ソクラテスは、アルキビアデスという名の美男子と恋人関係だったのは有名な話。言ってしまえば古代ギリシャ時代は、"同性愛" と深く結びついていた。


 また、古代ギリシャの要素は、「僕は人々の踊ることができる公共の場を作りたい。人々がいる場所で踊ることが重要なんだ」というかつてアンディーがガーディアン誌で語った持論に関しても重要なものだ。古代ギリシャ時代のアテナイ(アテネの古名)に住む人々は、スタジアムや寺院、劇場、さらにこれらを繋ぐ公共空間が豊かになれば、良質な都市空間が生まれることを知っていた。それゆえアテナイは民主主義発祥の地として幾度も言及され、哲学、芸術、学問の中心となり、ヨーロッパ全土に絶大な影響力を及ぼした。こうしたアテナイの優れた都市機能は、先述したアンディーの持論に少なからず影響をあたえている。ゆえにハーキュリーズ&ラヴ・アフェアは、世界中にある多くの都市が殺伐とした消費主義の苗床、いわば単一目的化していくなか、異なる文化や要素が混合し響きあう "多様性の容れ物" としての可能性を持つに至った


 このように、アンディー・バトラーはハウス・ミュージックの伝承者であると同時に、ひとりの思想家とも言える存在だ。『Hercules And Love Affair』にしても、サウンドそのものが革新的だったかといえばそうじゃない。多くの人がハウスの精神を忘れていた時期に颯爽と現れ、その精神をみたびインディー・ミュージックの文脈に接続したことで、ハーキュリーズ&ラヴ・アフェアは "衝撃" となった。そうした伝承者としての側面は、本作『The Feast Of The Broken Heart』でも健在、いや、より強くなっている。前作『Blue Songs』でも、ハウス・クラシックとして知られるスターリング・ヴォイド「It's Alright」のバラッド・カヴァーに挑戦するなど伝承的側面をうかがわせたが、本作ではそういったメランコリーな雰囲気はどこへやら。ひたすら享楽的で、踊らせることだけに焦点を絞ったハウス・ミュージックの快楽で埋めつくされている。トリッピーなアシッド・ハウス「5:43 To Freedom」、そして粗い質感が印象的なシカゴ・ハウス「Liberty」といった具合に、フロアで映えるダンス・ミュージックとしての機能性を追求したトラックが目立つのも特徴だ。このあたりは、2012年にリリースしたミックス『DJ-Kicks』で、幾多のハウス・クラシックを振りかえった影響が少なからずあるだろう。


 2014年3月31日、フランキー・ナックルズが59歳の若さでこの世を去った。それでもハウス・ミュージックは鳴り止まない。「It's Alright」でも歌われたように、《今から3千年も経とうとも 音楽はつづいているだろう 時間を超越した波長に乗って》ということだ。本作には音楽という文化の自由さとロマンが刻まれている。



(近藤真弥)

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MARTYN『The Air Between Words』.jpg

 ハウスは偉大というべきか、永遠というべきか、どちらにしても、"死んだ" "終わった" みたいな言説とは無縁の音楽なのは間違いない(まあ、そもそも、そうした言説自体が理解できないものではあるが)。新しいジャンルや潮流が現れ、一時は音楽シーンの片隅に追いやられても、いつの間にか大きな潮流として戻ってくる。例えば、ダブステップ以降は非4つ打ちのトラックが横溢したイギリスでさえ、スタイリッシュなハウス・ミュージックを鳴らすディスクロージャーが全英アルバム・チャート1位を奪取し、ルート94がセクシーなハウス・トラック「My Love」を全英シングル・チャートの頂点に送り込める現在なのだ。ダブステップ以降のベース・ミュージックにしても、"ベース・ハウス" なんて言葉が至るところで見られるように、ハウスを取り入れている。やはりハウスの万能性は、多くの人にとって魅力的なものなのだろう。言ってしまえば、4つ打ちであれば何をやってもいいのが、ハウスという音楽だ。


 本作『The Air Between Words』を完成させたマーティンは、ダブステップ以降のベース・ミュージック・シーンにハウスを逸早く接続したひとりである。前作『Ghost People』が《Brainfeeder》によってリリースされたことからもわかるように、マーティンはフライング・ロータスを中心としたビート・ミュージック・シーンで評価され、同時にポスト・ダブステップというタームの代表的アーティストのひとりとしても見られていた。しかし、《Nonplus》がリリースしたコンピレーション『Think And Change』に提供した「Bad Chicago」、そして「Newspeak」などのEPが表していたように、ここ最近のマーティンはハウス/テクノに傾倒していた。


 本作は、そんなマーティンのモードが明確に反映された、ハウス/テクノ・アルバムに仕上がっている。アンソニー・ネイプルズのようなハウス界の新進気鋭を抱える《Mister Saturday Night》と共振するローファイでラフな質感が際立ち、初期のシカゴ・ハウスやデトロイト・テクノといった、いわゆるオールド・スクールな音に接近している。インガ・コープランドフォー・テットを迎えて描きだしたサウンドスケープは、ザラつきながらも、ダンス・ミュージックが持つ甘美な享楽性を上手く抽出してみせる。特に高い中毒性を持つ「Forgiveness Step 2」のグルーヴは、1度身を任せてしまったらなかなか抜けだせないものだ。



(近藤真弥)

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Sam Smith『In The Lonely Hour』.jpeg

 先日、映画『チョコレートドーナツ』を新宿シネマカリテで観てきた。この映画は、1979年のカリフォルニアを舞台に、ダンサーとして働きながらもベット・ミラーのようなシンガーになりたいと夢見るルディ、世界を変えるために法律を学び検事局で働いているポール、そして薬物依存症の母に育てられたダウン症の少年マルコという3人の "愛" にまつわる物語だ。同性愛者であるルディとポールは、マルコの母が薬物所持で逮捕されたのをキッカケに、マルコを我が子のように育てはじめる。3人で一緒に暮らしながら、学校へ通わせ、毎日朝食を作り、マルコが眠る前は、彼が大好きなハッピーエンドの話を聞かせる。


 それは3人にとって幸せな時間であった。ルディも、ポールからプレゼントされたテープレコーダーでデモを制作し、それがひとりのクラブ・オーナーに気に入られ、シンガーとしての道を歩みはじめた。しかしある日、ルディとポールが同性愛者であることが周囲に知られ、マルコは家庭局に連れて行かれてしまう。ポールも仕事を解雇されるが、それでもルディとポールは立ち上がり、周囲の偏見と差別、そして法律に挑んでいく。


 ロンドン出身のシンガーソングライター、サム・スミスの名が多くの人に知られるキッカケは、ディスクロージャーの大ヒット曲「Latch」に参加したことだろう。この曲でサムは、繊細で甘い歌声を披露している。その後もノーティ・ボーイの「La La La」に参加するなど、いくつかの客演をこなしつつ、自身のEP「Nirvana」もリリース。着実に歩みを進めてきた。


 そうした道のりを経てリリースされたファースト・アルバム『In The Lonely Hour』は、儚くも美しい "哀しみ" に満ちた作品に仕上がっている。もしかすると、「Latch」や「La La La」でサムの歌声を初めて聴いた者は、肩透かしを喰らうかもしれない。というのも、このアルバムに収められた曲のほとんどは、私たちに語りかけるようなサムのヴォーカルを際立たせたバラッドだからだ。それゆえアップテンポなトラックは少なく、サムが幼い頃から聴いてきたというソウル・ミュージックの影響が色濃く反映されている。言ってしまえばノリノリなアルバムではないし、みんなで聴くよりはひとりベッドルームで聴き入るのが相応しい。


 それでも本作は多くの人に聴かれ、愛される作品になるだろう。先ごろ公開されたFADARのインタヴューでサムは、同性愛者であることを告白している。痛切な片想いを綴った歌詞の内容が多いことからも、本作が "報われない愛" をテーマにしているのは窺えたが、その対象は男性だったということだ。とはいえ、それは本作を楽しむうえでは関係ない。『チョコレートドーナツ』と同様に、本作もまた、他者を求める者なら誰でも味わうであろう "愛の物語" について描かれているのだから。ゆえに本作を、愛する対象が同性であるということで、"性的少数者の物語" と括ってしまうのは些か狭隘ではないかと思う。愛した者が同性であったというのは、人それぞれ性格が異なると一緒で、ほんの些細な違いにすぎない。あくまで本作は、サム・スミスという名の青年をめぐる抒情と物語で作られているのだ。


 このような普遍性が根底にあるからこそ、『In The Lonely Hour』は眩しいほどの輝きを放っている。




(近藤真弥)

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SHARON VAN ETTEN『Are We There』.jpg

 「恐れるものは何もなかった」。このアルバムを繰り返し聴いて、こみあげてくる感情についてずっと考えて、たどり着いた言葉。パティ・スミスやスザンヌ・ヴェガを連想するヴォーカルが胸を貫く。エレクトロニカ、ポストロック、インディーR&Bの要素をさりげなく取り入れながら、骨格はあくまでシンプル。一聴するとオーソドックスなブリティッシュ・フォーク、生活感のこもったブルース、あるいは息が詰まるほど甘いソウル。最小限の音数で、本当に大切なことだけを紡ぎ出そうとしている。何回か聴いたのち、ふと1曲目のタイトルを見ると「Afraid Of Nothing(何も恐れない)」。なんだ、はっきり歌っているじゃないか。そうだよ、とても近い感覚。冒頭に書いた言葉はレディオヘッドPyramid Song」の一節《Nothing to Fear》からの連想だが、あの曲も当時の最先端音楽の影響を吸収したうえで伝統的な歌を再現していた。とてもスイートであまりに繊細で孤独、けれど力強い点も共通している。


 ボン・イヴェールとのコラボレーション、前作『Tramp』をザ・ナショナルのメンバーがプロデュース、セルフ・プロデュースの本作にもザ・ウォー・オン・ドラッグスのメンバー始め盟友ミュージシャンが多数参加など、ここ最近シャロン・ヴァン・エッテンのトピックは尽きない。しかしそんなことより気になるのは、彼女の唄を聴いていると、愛するとはどういうことか絶えず問いかけられているようであること。3曲目「Your Love Is Killing Me」は命がけで向かい合う恋について。6曲目の「I Love You But I'm Lost」では恋人との損なわれてしまった関係を告白し、私たちはお互いに尊敬し高め合うことができるはずなのにという内容を歌う。7曲目の「You Know Me Well」では恋人との関係がたとえこの世の地獄であったとしても、向かい合っていく覚悟を切々と歌う。そしてラストの「Every Time The Sun Comes Up」では困難が続いていく毎日について淡々と歌い、最後の一節で、全ては幻覚かもしれないと笑い飛ばす。聴き手に最終的な判断をゆだねているようだ。


 トム・ヨークが「Pyramid Song」で歌ったように過去、現在、未来、この世、あの世、全ては地続きかもしれない。今生きている現世こそ、ひょっとしたら地獄なのかもしれない。シャロン・ヴァン・エッテンは決して安易な希望を歌わない。シニカルな絶望にも傾かない。ただ在りのままの自分を、世界を包み隠さず歌う。



(森豊和)

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Kate Tempest ‎- Everybody Down.jpeg

 イギリスのラッパーであり2000年代を代表するリリシスト、ザ・ストリーツことマイク・スキナーの最高傑作『A Grand Don't Come For Free』が世に出たのは、今から10年前の2004年5月。このアルバムでマイクは、一見代わり映えしない日常を淡々と描いている。それは、オープニングを飾る「It Was Supposed To Be So Easy」の一説からもわかるはずだ。


《今日やること DVDをレンタル屋に返す 銀行で金をおろす 母ちゃんに夕飯を食べに行けよと電話する それから貯めた金を持って 待ち合わせ場所に走るんだ》

(「It Was Supposed To Be So Easy」)


 そんなアルバムを聴いて筆者が口にした言葉は、「普通!」。いや、内容が凡庸だとか言いたいのではなく、マイク・スキナーの歌詞が日本に住む筆者の日常とほとんど変わらないことに驚いたのだ。おまけに逃避願望もほとんどなく、そもそも "日常" とは本当に代わり映えしない退屈なものなのか? というマイク・スキナーの鋭い視点とタフな精神が、アルバム全体を覆っている。ゆえに『A Grand Don't Come For Free』は、 "日常" に隠された面白い側面を切り取るユーモアと好奇心で溢れている。


 2014年5月、筆者は久々に、聴き終えた瞬間「普通!」と(心の中で)叫んでしまう作品に遭遇した。その作品の名は、『Everybody Down』。現在27歳のイギリス人女性ラッパー、ケイト・テンペストによるアルバムだ。ケイトはサウンド・オブ・ラムのメンバーとして、アルバム『Balance』を2011年に発表するなど、音楽活動歴はそれなりに長い。さらに詩人や小説家としての顔も持ち、2015年発表予定のデビュー小説『The Bricks That Built The Houses』は出版権がオークションにかけられるなど、出版前でありながらすでに話題作となっている。このようにケイトは、言葉を扱う才能に恵まれた才女なのだ。


 『Everybody Down』でも、その才気は文字通り煥発。テンポのよい韻の踏み方は迫力を持ち、聴き手の心に深く突き刺さる。もちろん言葉の組み立て方も秀逸。それなりに英語を理解できればより楽しめるのは間違いないが、たとえ完全に理解できなかったとしても、冷静と情熱の間を行くケイトのエモーショナルなラップに聴き入るだけで、気持ちが自然と昂ってしまう。言ってしまえば、それだけでも『Everybody Down』は必聴レベルに達している。ケイトの声、呼気、温度に触れるだけで、目の前の景色がほんの少し変わるのだ。だからこそこのアルバムは、マイク・スキナーと比べればいくぶん寓話的にケイトから見た日常が描かれていながらも、日本に住む私たちにも響く "普遍性" を備えている。


 フランツ・フェルディナンドホット・チップとの仕事で知られるダン・キャリーをプロデューサーに迎えたサウンドも、聴きごたえ十分。ドラムマシーンとアナログ・シンセをメインに制作されただけあって、良い塩梅のラフな質感が耳に心地よく馴染む。音数が少ないミニマルなプロダクションも際立ち、ケイトの言葉を聴き手に最短距離で届けてくれる。また、「Lonely Daze」ではダンスホール・レゲエの定番リディムのひとつ "スレンテン" を取り入れたりと、挑戦的な姿勢を垣間見せる。「The Truth」のベース・ラインがダブステップを感じさせるのも面白い。


 こうした具合に、『Everybody Down』はサウンド面にいくつもの要素が込められた作品だが、強いて括るならばヒップホップということになる。それゆえヒップホップ好きに聴いてほしい、と締めるのが妥当かもしれない。だが、それではあまりにもありきたり。そこで筆者は、ミツメシャムキャッツ、それから森は生きているといった音楽を聴いている人に『Everybody Down』を勧めたい。というのも、ミツメ、シャムキャッツ、森は生きている、ケイト・テンペスト、4者は視点や手段こそ違えど、"日常" に潜むささやかな光や楽しみ、あるいは世にも奇妙な世界に繋がる扉を指し示すという点では共通しているから。"日本の音楽" と "イギリスの音楽" なんて区分けは無意味だ。日本語と英語、言語は異なるが、その言語だって音に過ぎないのだから。そんな言語の音に惹かれたあと、言葉に込められた意味を理解していくという楽しみ方もアリなはず。確かに『Everybody Down』は、"日常" から逃れられないという諦念を抱きながらも、そこで生きる人々の想いが込められた言葉で埋めつくされている。だが、その言葉をまずは "音" として楽しんでみてほしい。それでも魅力は十分伝わる。住んでいる場所なんて関係ない。


 とはいえ、理解を深めた先に見えてくる風景がどんなものなのか、それは筆者の口からは言えない。マイク・スキナーは、『A Grand Don't Come For Free』のラスト「Empty Cans」で、《この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ》と言葉を紡いだが、それから10年後に生まれた『Everybody Down』は、果たして「本当の始まり」から生まれたのか? それとも10年前よりハードになっただけというシビアな現実を突きつけるのか?  その答えは、あなたの耳と心で直接確かめたほうがいい。



(近藤真弥)