reviews: January 2014アーカイブ

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Temples-Sun-Structures.jpg

 昨年のEPで、「おお、なんだ、こいつら? すっげーよくないか?」と猛烈に感じさせてくれた、UKの田舎...地方都市バンド、テンプルズ。先頃リリースされたファースト・アルバムを聴いて、その思いはさらに強くなった。こうやって50分以上のアルバムを何度プレイしても全然飽きがこないどころか、さらに聴きたくなってしまう。極めてポップなメロディーの魅力が、それに大きく寄与している。なんというか、とても間口が広いのだ。


 そんなこともあって、ぼくはこのアルバムから突然「グループ・サウンズ」などという言葉を思いだしてしまった(ここ日本での習慣にのっとって、以下GSと略す。まあ、これは「ほぼ」日本でしか通用しないタームですが:笑)。


 古い記憶をたどれば、70年代、とりわけそのブームが下火になったころの日本で、GSは「ダサいもの」の象徴だった。メンバーたちの思いは考慮にいれず巨視的に見てしまった場合、「ビートルズ以降にロックの本場である英米で起こったバンド・ブームを芸能界が商業的にとりいれたもの」というマクロな図式が、誰の目にも明らかな形で提示されてしまっていたから。


 しかし、80年代のレア・グルーヴ・ブーム以降に再評価されていくなかで、GSのもうひとつの(いわば、ミクロ面の?)本質がクローズ・アップされていった。60年代なかば以降のUSで、まさに雨後の筍のごとく登場した、いわゆるガレージ・ロック/ガレージ・サイケデリック・バンドとGSは、実は音楽的にとても近かったのではないか?


 そんな評価の流れにとどめをさしたのは、70年代の末ごろからリヴァプールをベースにガレージ・サイケデリックな音楽をやりつづけてきたジュリアン・コープが07年に本国で出版した『ジャップ・ロック・サンプラー(Japrocksampler)』。「ジャップ」という単語が日本人に対する蔑称として(とくに第二次世界大戦を経験した世代とかに)一部で使われていたことは、たぶん彼も知っているだろうが、彼はそれより10年以上前に『Krautrocksampler』という本も出している。その書名はドイツのファウストというバンドの「Krautrock」という曲名からとられている。その造語には、実は「イギリス人がドイツ人をみたときにありがちな、ちょっとバカにするっぽいニュアンス」もこめられていた(つまり、ファウストにしてみればある種の「自虐的」センスをこめたものだった。まあ、80年代の日本に、ジャップ・レコーズというパンク・レーベルがたしかあったことと同じように:笑)。


 『Krautrocksampler』出版後、ファウストやカンやノイなど、ドイツの60年代~70年代ガレージ・サイケデリックをクラウトロックと呼ぶことが、世界中で定着した。ジュリアンの思いとしては、『Japrocksampler』はその「続編」という意識があったはず。対象に近寄りすぎることのない「客観性」に貫かれた(UKっぽいブラック・ユーモアもまじえつつ)作られたガイド本。もしかすると「専業評論家」にはできなかったもしれない優れた仕事を、彼は10年という時間の流れをへて、2度もなしとげた。残念ながら(少なくともここ日本では)ジャップロックというジャンル名は決して定着しなかったものの、ぼくはあえて(もう一度)こう言いたい。


 テンプルズの音楽って、まるで「最も優れた60年代~70年代前半のジャップロック(もしくはGS)が、今の空気をいっぱい吸いこんで突然変異を起こしつつ、現代に甦ったようだ」と!


 ここまで書き進んだ今、昨年クッキーシーンに載った彼らの「Shelter Song」EPのレヴューをチェックしてみたところ、筆者である(ぼくと同じく日本人の)森くんも、その音楽からGSを連想していたらしい。やっぱ、そうだよね...と同意しつつ、彼らは「自らの音楽をネオ・サイケデリックと称している」とも書いてあった。


 なるほど。ちなみに、この「ネオ・サイケデリック」というターム、80年代の日本では(主に『フールズ・メイト』誌をとおして)ちょっと日本独自のイメージをまとっていったのだが、もともとUKでは70年代末ごろ、先述のジュリアン・コープ率いるティアドロップ・エクスプローズや、彼らと同じリヴァプールのクラブ(エリックス)を根城にしてたエコー&ザ・バニーメンらの音楽を指すものとして使われはじめたものだった。


 なんとなく、感慨深い...。


 そして、もうひとつ。ぼくは、この音楽の開放感からGSを思いだしたのだが、昨年のEPもこのアルバムも1曲目は「Shelter Song」。シェルターって言葉と開放感は理論的に並立しないのでは? などという「自己つっこみ」に対する返答(笑)で、この原稿をしめくくりたい。


 だから、あれを思いだせばいい。


 やはりエリックス周辺から育っていったバンド、ペイル・ファウンテンズが80年代なかばに残した、傑作ニュー・ウェイヴ・ロックンロール・アルバム『...From Across The Kitchen Table』冒頭を飾る「Shelter」って曲の歌詞。《隠れてみよう、このちょっとしたシェルターに、ぼくと一緒にさ!》。朗々と歌われるその一節を聴くたび、とても広々とした風景が、なぜかぼくの頭の中に拡がっていった。


 『Sun Structures』は、まさにそんなアルバムだ。



(伊藤英嗣)

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ミツメ『ささやき』.jpg

 どこか異邦人の匂いがする。浮世離れしているというか、別の世界から奏でられた音というか、でもたまらなく親近感を感じる。ミツメのサード・アルバム『ささやき』のことだ。このバンド名から私は最初、手塚治虫の漫画『三つ目がとおる』を連想した。超能力を有した古代人「三つ目族」の唯一の生き残りである写楽保介の物語。名前が似ているからではない。シーンにおける孤高の立ち位置も似ている気がする。


 ミツメはこれまでの音源全てを自主レーベルから発表している。JAPAN TIMESのインタヴューでメイン・ヴォーカルの川辺素は、「僕たちは誰のコントロールも受けていない。できることはなんでも自分達でやりたい」と語っている。ドラマーの須田洋次郎によれば「まず曲をレコーディングしてネットで公開していた。(結成当初は)東京のインディー・シーンをよく知らなかった」という。ギターとシンセサイザーを操る大竹雅生はMOSCOW CLUBのメンバーでもあり、ベースのナカヤーンは近くソロ作を発表する。彼らの活動は柔軟かつ自由でどこにも属さない。


 本作で彼らはより彼岸に向かっている。もともと抑制されていた感情はミニマルでエレクトロなビートの奥へさらに後退している。エコーがかったヴォーカルはもやの中に隠れて、しかし、なお意味を失わない。現代の感性と技術で70年代のサイケデリック・ロックやファンク・ロックの空気感を表現しようとしたらこうなるのかもしれない。


 個人的にはアナログ・レコードA面からB面へのつなぎが白眉だった。A面ラスト、肉体性を削ぎ落とし精神性をダークに突き詰めたかのようなファンク・ナンバー「いらだち」から、続くB面1曲目、対照的に力強くポシティヴなギターが鳴らされるタイトル・トラック「ささやき」への流れ。この2曲から私は、プリンスが一度封印した『The Black Album』と次作『Lovesexy』をイメージした。


 彼らは情報過多のインターネット世代に生まれ、それを使いこなし活動しながらも、その音楽は過剰さを避け、音数を抑制していく。最新のネット上の音楽から影響を受けながらも、古典的なロックの方法論へ、その起源に近づいていく。逆にネット世代だからこそ容易なのだ。過去の音楽史を全て参照できる彼らの世代ならではの共通無意識を辿っていく。ユングの云う共時性の概念を思い出す。全ての事象が原因であり同時に結果でもあり等しくそこに在るのだ。



(森豊和)


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Katy B『Little Red』.jpg
 アルーナ・フランシス(アルーナジョージ)やジェシー・ウェアなど、ここ最近のイギリスには良質な歌姫がたくさんいる。ロンドン出身のケイティ・Bもその良質な歌姫のひとりだ。


 ケイティは10代の頃からヴォーカリストとして活躍し、2000年代半ば頃にベース・ミュージック・シーンで頭角を現した。DJ NG「Tell Me」、ジンク「Take Me With You」、ジーニアス「As I」といった曲に参加して、着実に知名度も得ていく。これらの作品がリリースされた時からベース・ミュージックを追いかけてきた筆者にとってケイティは、いわば "青春" みたいな存在。


 そんなケイティが多くの人に知られる大きなキッカケは、マグネティック・マンの『Magnetic Man』に参加したことだろう。この作品で全英アルバム・チャート5位を獲得したマグネティック・マンは、ベンガ、スクリーム、アートワークによるユニット。言ってみればベース・ミュージック界のドリーム・チームであり、そんなユニットにプッシュされたのだから将来は約束されたも同然。実際ケイティは2011年のデビュー・アルバム、『On A Mission』で全英アルバム・チャート2位を奪取した。


 さて、そうした成功を経てリリースされた本作『Little Red』は、前作以上にポップ・ソングとして聴かせることを意識した内容になっている。多くの曲が3〜4分台に抑えられ、ガイ・チェンバース、ジーニアス、ジョージ・フィッツジェラルドらによるサウンドはトランシーなグルーヴを生み出し、プロダクションも秀逸。全体的には昨今盛り上がりを見せるEDMに接近しながらも、「Next Shings」といった曲は90年代ハウスの要素を感じさせる。このあたりはおそらく、ディスクロージャーやゴルゴン・シティーといったハウス・ユニットが注目を集めるイギリスの音楽シーンに反応した結果だろう。


 また、ケイティは本作において、『On A Mission』と同様にソングライティング面でも奮闘している。5曲目「I Like You」以外は"Written"に彼女の名があり、そのせいかキャッチーな曲が多い。ヴァリエーションが少なくワンパターンなのは否めないものの、聴き手を一発で惹きつけるメロディーはとても親しみやすい。現時点では才能花開く、とまではいかないが、このまま順調に曲作りを経験していけばさらなる飛躍も可能だ。



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WANDA GROUP『A Slab About Being Held Captive』.jpg

 《NNA Tapes》からリリースされた『A Slab About Being Held Captive』は、ナース・ウィズ・ウーンドの『Echo Poeme: Sequence N° 2』を模したかのようなジャケットに包まれ、盤面には "Lupo" ことアンドレアス・ルビック(去年までDubplate & Masteringのエンジニアだった)による "Loop_O / Calyx" の文字が小さく刻まれている。A面に針を落とすと、分厚く重苦しい低音が鳴り始め、すぐに凄まじい高音のノイズ・エレクトロニクスで充満される。この時点で大抵のリスナーは不快を覚えるだろう。ノイズが鳴り止むと、静かな風景へと移動する。近くで水の流れる音と人の喋り声が聞こえる。鳥の鳴き声も挿入される。そこにあるようで無いような、不明瞭な音質である。その間、不気味な低音がずっと唸っている。巨大な飛行物体が近づいてくる音が聞こえ、どこかへ去ってゆく。そこから数分間、なにも起きない。後半に差し掛かると喘ぎ声とグロテスクなエフェクト、金属音が立て続けにあらわれ、激しいカットアップとインダストリアル直球の轟音が繰り返される。目紛しく場面は展開し、最後、スッと音圧がフェードアウトすると、不気味な低音は消え去る・・・。


 ワンダ・グループ、本名ルイス・ジョンストンの名前が最初に世に知れたのは、2010年に《Leaving Records》から『Caveman Smack』という名のカセットテープを発表した時である。その時はデム・ハンガーという名義を使用していた。このカセットに収められた奇々怪々としたサウンドスケープは、当時賑わっていたロサンゼルス界隈のビート・ミュージック(フライング・ロータス『Cosmogramma』やティーブス『Ardour』、トキモンスタ『Midnight Menu』は同年発表である)を確実に意識していた。「意識していた」というのは「距離感を見定めていた」ということであり、言い換えれば商業主義に染まりだした気運とは一歩距離を置こう、ということである。とにかく音粒が細かく、大量の情報を1曲に詰め込む。泥臭くゲットー的で清潔さはまるでない。今でこそ《Dirty Tapes》や《bootlegtapes》、D/P/Iや日本のcanooooopy(キャノーピー)といったカットアップ・シーンのパイオニアたちは注目を浴び始めているが、ルイスはそれに通ずる青写真をもうこの時すでに描いていたのである。彼はその年の末にベルギーの新興レーベル《Vlek》の第1弾リリースの役目を全うすると、早々とデム・ハンガー名義での活動は終え、その後はワンダ・グループでの活動をメインとする。ワンダ・グループは、多くのドローン/アンビエント作家が醸すような陶酔性と同時に、過度にパフォーマンス・アート化しないノイズ・ミュージックの可能性を突き詰めたようなサウンドで、インダストリアルが持っていた狡猾な精神と反社会性を帯びている。


 持田保氏が著した『INDUSTRIAL MUSIC FOR INDUSTRIAL PEOPLE!!!』によれば、77年から始まったインダストリアル・ミュージックという音楽の特徴は下記のとおりである。


"その音楽形式をザックリと表現するなら「ズタズタになるまでロックを解体し、ノイズ(エレクトロニクスから具体音まで)を導入する」であり、また音楽同様か、もしくはそれ以上にアート・テロリズム的なメディアへの情報戦略が重要視された。"


 近年、こうしたインダストリアル・ミュージックに源流をみてとれるような音楽が世界中から観測できる。それは、《Opal Tapes》や《Vlek》《Alter》《Further Records》といった硬質で灰色のイメージをまとった地下テクノ/ハウスの音楽たち、あるいは阿木譲氏が「コンテンポラリー・モダン・ミュージック」と提唱する《Editions Mego》《Modern Love》《Blackest Ever Black》《Downwards》《PAN》といった、主に英国やドイツのレーベルが発信する、暗闇の奥から鬱屈とした怨念を吐き出したかのようなアンビエント/ドローンとテクノの境界をゆく電子音楽であったり、ざっくざっくと切り刻んでコラージュした、サウンドクラウドやバンドキャンプに無数に巣くうヒップホップを土台としたサンプリング・ミュージック群であったりする。これは、インダストリアル・ミュージックが当時のロックに反撥する流れで生まれたムーヴメントであることの相似形として、物と情報が行き届き過ぎた結果の副作用として限定生産を行い(50部限定はザラ)、曲自体はインターネットで無料ストリーミング再生が可能であることがしばしば(従来のメディア・複製権利観を揺るがす)、そのサウンドは大衆性とは程遠い場所で鳴っている(聴衆の選別)。これらの音楽は、総じてインダストリアルとして括ってしまうのが惜しいくらいに多様な進化を遂げており、周辺文化を侵蝕しながらもどこか共通した理念を持つ運動体としてテン年代に広がりつつある。例えば、これらの音楽はカットアップをよく行う。カットアップは古くは1910~20年代のダダに始まり、50年代ではガイジンやバロウズが、70年代には彼らから直々に継承したアーティストら(インダストリアルの中心人物たちを含む)が用いた技法である。カットアップとはその名の通り、切ることである。意味を断つことであり、既成概念の否定である。同書の言葉を借りるなら「高度情報社会に対するアクション装置として」のカットアップは、いまや世界中の至る所で試され、一貫して仄暗く陰鬱とした表象で自らを覆い、時には聴く者の気分をどん底に、時には高揚させたりする。


 針をB面に落とす。何かが激しく摩れる音がする。遠くからまた不気味な轟音がやってくる。ホワイトノイズ、灰色雑音が織り重なったようなキメの細かい音の群れは、嘗てのグリッチ・エレクトロニカを思わせなくもない。が、これといったメロディーは皆無。高周波のモスキート音が鳴りだすと、もはやドローンとも似つかない何かになってくる。気分は悪くない。一つ一つの音を、風景を構成する要素の一部だと思ってしまえばヒーリング効果さえあるのでは。ただしこれをBGMに眠りたくはないが。しかし・・・いったいこういった音楽が我々に訴えるものとは何だろう。私は、この音楽を人に勧めたいとも思わないし、理解してもらおうとも思っていない。そしてこんな音楽に入れ込んでいる孤独と背徳に苛まれながらも、そんな自分を楽しんでいる節がある。なぜかこういった音楽を嫌いになれない。ああ、奇妙な音楽を聴くようになってしまったものだ・・・と思いながら、私はまた針を落とすのである。外は政治だとか社会問題の話で煩い。隙を見せればすぐ邪魔しにくる。新手の宗教か何かだろうか。やんややんや言わないでほしい。まったく、音楽だけあればいいじゃないか・・・ただ、そうもいかないらしい。面倒な世の中だ。



(荻原梓)

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MOODYMANN『MOODYMANN』.jpg

 2013年12月3日、財政破綻したミシガン州デトロイト市に対し、同州の連邦破産裁判所は連邦破産法9条の適用を認めた。とはいえ、これで終わりというわけではない。デトロイト市の弁護人は、期限である3月1日までに再編計画を提出しなければいけないし、さらには破産法適用に反対してきた市職員や労働組合などが異議申し立てをすれば、新たな法廷争いも生じるだろう。言ってしまえば、先行き不透明。


 かつてデトロイトは、ゼネラル・モーターズ、フォード、クライスラーといった自動車産業を中心に工業都市として栄えた街だ。しかし、その自動車産業が衰退すると、企業に勤めていた人たちは大量に解雇され、大企業の下請け会社の多くが倒産に追い込まれた。これに伴い人口も減少し、そうなると所得税といった市の税収も減るのは必然。それでも公共サービスを縮小し、市民から税金をむしり取ることでなんとか債務返済をおこなってきたが、当然そうした "無理" を続ければ都市機能は崩壊してしまう。2013年7月18日、ミシガン州デトロイト市は連邦破産法9条を申請した。


 今年1月に本作『Moodymann』をリリースしたムーディーマンは、デトロイトを拠点に活動するDJ/プロデューサー。これまでに数多くの素晴らしいハウス・トラックを残し、1967年にデトロイトで起きた暴動(43人もの死者を出した "トゥエルフス・ストリート・ライオット" だと思われる)がテーマとなったアルバム『Det.riot '67』を発表したりと、メッセージ性を打ち出すことも多い。しかし本作は、そのメッセージ性があからさまではない。歯が獣のように鋭く、レミーマルタンを手にでっぷりとしたお腹を見せつける男が印象的なジャケットは暗喩とも取れる。それでもサウンドのほうはハッピーでファンキーなダンス・ミュージックとなっており、ハウスを基調にファンク、R&B、ディスコ、ソウルなどなど、実にさまざまな要素が混在し、ムーディーマンを知らない者も楽しめる間口の広さがある。LP版は全12曲入りだが、比較的手に入りやすいCD版はなんと全27曲入りで、しかもラナ・デル・レイ「Born To Die」のリミックスが収められていたりと、サービス精神も旺盛。おまけにセクシーでお水なノリも。まさにパーティー・アルバムと言える内容だ。


 また、本作に関してひとつ気になることがある。そもそも本作、昨年11月にリリースがアナウンスされたときは、『ABCD : The Album』というタイトルだった。同時に収録曲である「Come 2 Me」のMVも公開され、2013年発表のミニ・アルバム「ABCD」の続編的作品になると見られていた。この時点で、かなり具体的なリリース・プランがあったと思われる。そうしたなか、なぜあえて自身のアーティスト名をアルバム・タイトルにしたのか? 筆者は、この自らのアーティスト名を掲げるところに意味があると考える。そうすることで、本作の内容がケニー・ディクソンJr.(ムーディーマンの本名)としての姿勢を示すものであると聴き手に伝えたかったのかもしれない。その姿勢とはおそらく、"それでも楽しむ"ということ。ハードな状況だからこそ、踊り、楽しみ、笑う。そんなッセージが本作には込められていると思う。


 本作でムーディーマンは、できる限りのユーモアと反骨精神を表現している。いわば "逃避のための享楽" ではなく、"闘うための享楽"。それが『Moodymann』という作品である。



(近藤真弥)

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orange juice.jpg

 若き日の衝動もそのあげくの失敗も、青春は一度きりの刹那のきらめきだからこそ美しいのかもしれない。しかし、全く同じではないにせよ、年老いても同質の輝きを再現することはできる。むしろこれまでの経験を生かせば、より一層みごとに輝ける。


 2014年2月、オレンジ・ジュースの4枚のアルバムが《Domino》からリマスター再発された。フリッパーズ・ギターの二人によって90年代に日本盤CDとして再発され、10年代の今も再評価され続けている。オレンジ・ジュース、ひいてはその中心人物であるエドウィン・コリンズの音楽は、作られたハイプでも一過性のムーヴメントでもなかった。30年以上の歳月がそれを証明している。


 本作は記念すべきオレンジ・ジュースの1stアルバムである。一聴、さわやかなギター・ロックと思わせて、腰にくるリズム隊のグルーヴと、若さと老成が同居した奥行きのあるヴォーカルが耳に飛び込んでくる。パンク以降の感性でソウル・ミュージックやオールディーズのロックを再解釈した楽曲群、その歌詞は失恋について歌っているともとれるし、この世界の様々な矛盾に唾を吐く意思表明ともとれる。


 一方で、2013年に発表されたエドウィン・コリンズの新作『Understated』は、シンプルに削ぎ落された自然な躍動感に満ちていた。年輪を重ねた今の彼の姿が反映されている。しかし本質は変わっていない。1つのことを継続していくのは簡単なようで難しく、とても重要だ。真の意味で生きるとは、そういうことだと私は思う。


 遡ること2005年、エドウィン・コリンズは脳出血に倒れ、会話すらままならない危機的な状況に陥った。しかし、そこからリハビリを続け、右半身マヒは残っているものの、再びレコーディングができる状態にまで回復した。2011年には来日公演も果たし、機材ケースに座りながらではあるが、バンド時代からソロ曲まで満遍なく披露してくれた。ドラムスのジョナサン・ピアースとの共作曲「In Your Eyes」では息子のウィリアムとデュエット。息子を心配げに見守り、堂々と歌い上げるさまに安堵の表情を浮かべていた。「まあ、上出来だ」というような(笑)。そして代表曲の一つ、「A Girl Like You」では杖をついて立ち上がって熱唱、迫真のパフォーマンスだった! 


 わずか4分間、棒立ちで歌う彼の姿が今でも目に焼きついている。派手なパフォーマンスばかりが胸を打つのではない。その人がその人なりに自身の限界に挑み全力を尽くす姿、その誠実さにこそ人は感動するのだ。本作『You Can't Hide Your Love Forever』は彼の原点であり、現在に至るまでの彼の魅力、その全ての萌芽がある。



(森豊和)



【編集部注】『You Can't Hide Your Love Forever』リイシュー国内盤は3月5日リリース予定です。

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トリプルファイヤー スキルアップ.jpg

 "高田馬場のジョイ・ディヴィジョン"の異名を持つ若き純音楽集団トリプルファイヤー。彼らは柔軟なユーモアのセンスとルサンチマンを武器に、ザクザク心臓に切り込むビートを、殺伐とした歌詞や溌剌とした笑顔とともに四方八方に撒き散らす。プレス・リリースに「メンバーは皆性格が良く、友達が多い」とあり、さらに大森靖子ミツメ、スカート始め、彼らに好意を寄せるミュージシャンは多い」ともある。ういうスタンス、私は嫌いじゃない。


 「これ、本当に笑えますよ」。本作の録音エンジニアであるPANICSMILEのドラマー松石ゲルが、意味ありげな笑顔でCDRを渡してきたのは2013年秋のことだった。そのCDRには、本作のタイトル・トラックである「スキルアップ」のライヴ・ヴァージョンが収められていた。延々と繰り返すギター・リフが閉塞感を極限まで高めていった末に、爆発する歓声のようなヴォーカルの叫び。


 最初聴いたときは戸惑った。歌詞の意味もよく分からなかった。ヴォーカルには基本的にメロディーはない。かといってラップのようなリズムもない。ただの語りだ。その語りの内容と絶妙に展開するリズム隊が絡み合い、「魂の叫び」として我々の胸に迫ってくる。自然と体が反応する。踊れる。言葉の意味を理解できなかったとしても伝わる。そもそも言葉だけで通じるなら詩や小説でいいのだ。彼らは音楽という表現形式を選び取った。音楽でしか表現できないミラクルがこの銀盤には収められている。


 彼らの楽曲はじわじわ染み込んでいく。少しずつ笑みがこぼれてくる。何度となく聴くうちに松石ゲルの言葉の意味が分かってきた。最高に踊れるだけでなく最高に笑えるのだ。皮肉でも現実逃避でもない。この時代を生きる苦しみを乗り越えていくために必要な笑いだ。トリプルファイヤーの音楽は、みっともないくらいもがく自らの姿を映し出す鏡である。そんな自分を哀れみ正当化するのではない。客観的に可笑しみをこめて表現する。その風刺のセンスの凄さといったら、もうこれは天然だし本物だ。



(森豊和)

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MOGWAI『Rave Tapes』.jpg

 もともと「歌詞のないインスト・バンド」という地点からスタートした、モグワイ(バンドとしては。メンバーは、それ以前にハードコア・パンク・バンドをやっていた)。それゆえ、だろうか? 彼らの表現は、「総合芸術~トータル・アート~ポップ・アートとしての完成度」が非常に高い。


 たとえば、最近、彼らは自分たちの名前を冠したウィスキーを発表した。スコットランドといえば(日本でも「スコッチ」という言い方があったくらいで)ウィスキーの本場。日本でいえば「バンド名入り地酒を造る」ってな感じ? この行為、あまりにグレイトすぎる。


 この原稿が発表されて数日~1週間くらいしたころ、彼らは来日公演をおこなう。そこでは限定生産の(って、あたりまえ! 酒を大量に造れるのは専門家だけ)その酒も売られるそうだ。うわっ! 飲みてー! ぼく(現在愛知県在住)も東京に住んでたら絶対行きたかったわ! モグワイ・ウィスキー飲みつつ彼らの轟音に...どっちに酔ってるんだかわからない。ああ、素敵すぎる...(笑)。


 これはディスク・レヴュー。なので、酒は関係ない(笑)。今回のアルバムについて言えば、そのタイトルおよびアートワークに、ぼくは完全にぶっとばされた。


 仕事がら、まずはディスクを手にせず音だけ聴いた。もう15年以上彼らの音楽を聴きつづけている自分だが、相変わらず素晴らしいと思った。まだ彼らの音楽を聴いたことのないファンがこれを聴いても、きっと「いい!」と思えるだろう。今回の特徴のひとつは、シンセサイザー系の音が(とりわけ)効果的に混ざっていること。彼らのライヴを何度も体験してきた自分としては(とくに、そこでは以前からシンセサイザー系楽器の使い方に感服していたので)「レア! これまでにないアルバム!」とまでは言えないけれど、それがこのタイトルおよびアートワークで「作品」としてまとめられると、やっぱ(自分にとって)目から鱗、「新展開」だと思ってしまう。


 モグワイがデビューする前、80年代後半~90年代前半に盛りあがった、いわゆる「レイヴ・カルチャー」には、いろんな意味があった。「パンクの自由さ」を10年ぶりに復活させたりとか、それよりさらに10年前のヒッピー・カルチャー的な「ちょっと常軌を逸してフレンドリーな感じ」にも近いとか...。そこ...「レイヴ」に集うディープな音楽ファンのあいだでは、ミックス・テープをやりとりするとか普通のことだった。著作権? いや、それはみんな「個人的な楽しみ」のためだけにやってたことだから(笑)。


 『Rave Tapes』を聴いていると、そんな「カルチャー」に通じる「自由さ」に今も包まれている気がして、頭がくらくらする。さらに言えば今回のアートワーク、その「(いい意味での)しょぼさ」が当時のレイヴ風。もっと言えば、テクノ系というより、レイヴ周辺でむしろ音楽的にはヒッピー・ロックに近いことをやっていた一部のバンドのそれを(わりと直接的に)想起させたりする。


 うーん、やっぱ、モグワイ「ややこしくて深い」ぜ...って、たぶん(とくにアートワークに関しては)「意識せずやってる」気もしますが...。


 でも、(逆説的に)だからこそ、いいんだろう!



(伊藤英嗣)

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Oleg Poliakov - Random is A Pattern.jpg

 鍵盤、ストリングス、ダブ、インダストリアル、カール・クレイグ......『Random Is A Pattern』はあまりにも多くのものを飲み込んでいる。そのせいで、ハウスをベースにした全10曲のテンポは上がったり下がったり、ゴタゴタとしている。序盤のミニマルなトラックからピアノを基調にしたスペーシーな「A Quiet Storm」に入っていく部分も、ベースがディープな「Ethereal Thoughts」とカール・クレイグをサンプリングした極上のハウス・トラック「C.A.V.O.K」の並びも、どちらも強引に感じられる。フレーズ・サンプリングから始まるダビーな「Lies」をテック・ハウスで挟んでいる後半の3曲もそうだし、最後の最後にヒップホップのサンプリングを持ってくるのもそうだ。しかし、全く不快ではない。あまりにも突然に雰囲気が変わるため、トラックのインパクトが大きい。4つ打ちは妙に気持ち良く響き、ベースは身体を包み込むように深い。そして、アートワークにソンヤ・ブラースの『Tornade(竜巻)』(『The Quiet Of Dissolution』シリーズより)が使われていることを考えると、多少の荒さは意図してできているのだろう。そうなると、このアルバムのプロダクションはもはや鮮やかであると言える。


 『Random Is A Pattern』は、オレグ・ポリアコフことフレデリック・オーバーグのキャリア初となるアルバムである。彼はオレグ・ポリアコフ名義での活動を始める数年前にスカットという名義でもデビューしているが、どうやら今作のリリースと同時にスカット名義での活動は"過去のこと"にしたそうなので、彼にとっては新たなフェーズに入る決断としての作品でもあるのだろう。とはいえ、サンプリングの使用量、ハウスというジャンルの中を動き回るように変化に富んだトラックを作る姿勢は、オレグ・ポリアコフになってもあまり変わっていないように思う。"変わっていない"というよりも、彼はスカット名義の作品も飲み込んだところでこのアルバムを完成させている。


 ちなみに、フレデリック・オーバーグがこれまでリリースしてきた作品はすべて12インチだったので、今作が初のCDリリースだ。クラブ・ミュージックにおける12インチでのシングルカットとEPリリースの、あの異様な量を目の当たりにすると、やはりクラブ・ミュージックはレコードで聴くべきなんだろうな、と思ってしまう。が、ほぼ毎週リリースされる12インチや7インチのシングルを追うように買っていくのは、学生の僕にとっては経済的にかなり厳しいことだ。待望のファースト・アルバムに収録されたのがリード・シングルとしてリリースされた「C.A.V.O.K」と「Subterranean Rivers」だけだったのは残念だが、《Circus Company》ならまたユニークで豪華なコンピレーションを出してくれるだろう。このレーベルは、今やロック・ファンにも知られるニコラス・ジャーをピックアップし、そして何と言っても、素晴らしいハウス・マイスター、オレグ・ポリアコフを世に出したのだ。



(松原裕海)

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LakeMichigan「ADVENTURE」.jpg

 チルウェイヴ以降の音楽は、地域性が薄くなってきているように見える。もちろん完全になくなったわけではないが、アーティスト間の交流はSNSで頻繁におこなわれ、ゆえに外部のアーティストがひとつのジャンルに多大な影響をあたえる、なんてことも珍しくない。どこに住み、何を聴き、誰が周りに居るのか? そういった違いによる距離感なり文化的背景の差異は徐々に均されていき、それは今も進行中だと思う。


 一方で、そうした現状だからこそ、自らを強調する必要性が高まっているのではないか? と、最近考えるようになった。実際、ここ2~3年の間に生まれた日本のインディー・ミュージックを聴いていると、"日本で育ったからこそできる表現"みたいなことに少なからず意識的な作品に触れる機会が増えた。例を挙げると、cero『My Lost City』森は生きている『森は生きている』、それからミツメ 『eye』といった作品。ここにシャムキャッツの『たからじま』を加えてもいいだろう。これらの作品に刻まれたサウンドと言葉は、洋楽を真似ただけの引用バンドでは生み出せない日本的な匂いを漂わせる。それこそ、はっぴいえんどから脈々と受け継がれる日本語ロックの遺伝子なのかもしれない。


 穂崎結実によるソロ・プロジェクトLakeMichigan(レイクミシガン)のファースト・ミニ・アルバム「ADVENTURE」にも、日本的な匂いがある。とはいえ、彼女の音がはっぴいえんど的かといえば、そうじゃない。ドラムにリヴァーブが深くかかり、スネアが "パコーン!"と鳴っている曲が多いせいか、90年代のJ-POPやアニソンを想起させるものだ。特に「泣いてるあの子なぐさめてあげたいけど」は、アニメ『魔法騎士レイアース』のオープニング・テーマ、田村直美の「ゆずれない願い」を連想させる。このことがおそらく、「ADVENTURE」を聴いて"懐かしい"と感じてしまう所以だろう。


 また、「Summer, Wells River, Blues」はアッシュといったロック・バンド、それから「Noah's Bird」はニュー・オーダーに通じるギター・サウンドを鳴らしていたりと、UKロックの要素が随所で見られるのも「ADVENTURE」の面白いところ。イギリスの音楽を愛してきた人なら琴線に触れること間違いなし。


 彼女は「ADVENTURE」で、これまで聴いてきた音楽に自らの感性を注ぎ込み、オリジナリティーを獲得している。ゆえに懐かしさがありながらも、フレッシュな響きを携えているのではないだろうか? もっと言ってしまえば、これまでなら "古い" の一言で一蹴されていたであろう音楽を、"好きだから"という気持ちを原動力に鳴らせる素直な姿勢。この姿勢がLakeMichiganの魅力だと思う。



(近藤真弥)

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