reviews: November 2013アーカイブ

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 休日に聴くレコードって言われたら、どんなものを思い浮かべるんだろう。暖かい日差し、ぽかぽかとした気温、ゆっくりと流れる時間に乗せて鳴るような、そんなレコードがいい。ポニーのヒサミツ『休日のレコード』は、そんな理想の休日の音を気ままに、ゆるやかに奏でてくれる。


 ポニーのヒサミツは、シャムキャッツの夏目知幸が参加する"夏目知幸とポテトたち"で活動をしており、2008年にソロ活動を始めた。2012年には「分相応」というCD-Rも発売している。今作『休日のレコード』は彼の中に根付いたカントリーの香ばしいにおいを感じる、極上のアコースティック・ポップだ。


 今作は歌もの9曲とインスト6曲の全15曲で構成されている。アルバム全体にのんきで気怠い空気が蔓延していて、アコースティック・ギターやバンジョー、マンドリンが印象的に用いられている。どの曲をとっても、別の世界に連れていってしまうような超越的なことを歌っているわけではなく、あくまで日常に根付いた感情に寄り添い奏でる。ありのままの生活をありのままの音で、決してきばらず、決して背伸びせず、今日のことをぼんやりと考えている、そんな曲たちが収録されている。


 コーラスとヴォーカルの柔らかな絡みが心地よい「続きを聞かせて」では、出会ったばかりの君が知りたいけど全然わからないから話の続きをどんどん聞いてしまうし、「明日は休み」は休みの前日に明日のことを考えていると、まだ休日でもないのにふわふわと浮かれてしまう時のようなのんびりとしたリズムとメロディーが特徴的。小気味よいリズムに身を任せたくなる「休日」は、やることがないけどとりあえず靴を履いて外に出てみたり、夜になって今日一日を思い出してみたらなんだか嬉しくなってしまうという、なんてことない平凡な休日を描いている。他にも、あこがれの君に話しかけたいけど勇気がなくて話しかけられない「あのこのゆくえ」など、自分の半径5メートル以内の世界が歌の中で広がる。


 ドラマみたいに特別なことが起きるわけでもない日常に、それでも嬉しくなってしまうのは、自分で小さな幸せを日々見つけているからなんじゃないか。それは決して大仰なものではなくて、外がカラッと晴れていることだとか、ジャケ買いしたレコードがすごくよかっただとか、そんなレベルのものだ。自分の欲求に沿ってやったことがもしくだらないことだとしても、自分にとって意味があったら、それは素晴らしい日常だ。


 ちょっとだけ嬉しいことが続いて、毎日が進む。『休日のレコード』は、そんなささやかな日々にのんびり気ままに寄り添ってくれるだろう。



(竹島絵奈)

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Logos『Cold Mission』.jpg

 ロゴスのデビュー・アルバム『Cold Mission』についてまず目がいくのは、アルバム・タイトルだろう。往年のダンス・ミュージック・ファンはお気づきだと思うが、ドラムンベースの発展に多大な貢献を果たしたユニット、4ヒーローの別名義と同じなのだ。実際アルバム・タイトルには、4ヒーローへ向けたオマージュが込められているそうだ。


 ロゴスはロンドンを拠点に活動するアーティスト。これまでに「Medicate」「Kowloon EP」といった作品を発表してベース・ミュージック・シーンに受け入れられたものの、決して多作というわけではなく、正直目立つ存在ではなかった。それにしても大層な名前を掲げたものだ。そもそも"ロゴス"は、古典ギリシャ語で"理論" "思想" "意味"など、様々な含意を持つ言葉。ストア哲学や論理学をかじった者ならよく見かけたのではと思う。


 そんな言葉をアーティスト名にしたせい、かは知らないが、本作の音楽性は実に多彩である。ざっと思いつくだけでも、グライム、ドローン、インダストリアル、テクノ、ジャングルなどなど。そして、これらの要素が撹拌され生まれたのは、《Night Slugs》や《Fade To Mind》周辺のサウンドに通じるメタリックで硬質なベース・ミュージックだ。


 とはいえ、それらのサウンドと比較すれば、本作はいささか急進的に聞こえる。例えば《Night Slugs》からリリースされたジャム・シティーの『Classical Curves』は、ありえないタイミングで音が鳴る実験的ビートを打ち出していたが、同時にビートの反復性もかろうじて維持されており、ゆえに没入できる分かりやすさもあった。しかし本作のビートはお世辞にも聴き手に優しいとは言えない。むしろ聴き手にどこでリズムを取るのか選ばせる、言ってみれば能動性と想像力に依拠している。


 だが、そこが本作の面白い点なのだ。オープニング曲の「Ex 101」を例にしてみよう。この曲はチープなシンセ・サウンドで幕を開けるが、突如キックが鳴り響き、かと思えばリムショットの連打が交わるなど、とても忙しない曲。一定の間隔で刻まれるのはざらついたハイハットのみで、ほとんどの音はランダムに現れては消えるという有りさま。これではさすがに踊れないと思うところだが、注意深く聴きいってみると、確かに踊れるリズムを見いだせる。そういった意味でこの曲は、ブライアン・イーノが提唱したアンビエント・ミュージックの定義をベース・ミュージックの文脈で解釈している。


 こうした「Ex 101」のような曲で本作は占められ、それゆえ『Cold Mission』は聴き手の解釈、もっと言えば誤読を促す内容になっている。そのような作品から1曲でもダンスフロアでプレイされたらどうなるだろう。それぞれ自分のダンスを踊りはじめ、多様性あふれる新たな共有の形、普遍性、一般性が現れるかもしれない。様々な価値観、様々な人種が集いひとつの熱狂を生み出す。そんな可能性に本作は手を伸ばしている。


 ちなみに本作は、ロゴスいわく「海賊放送で流れていたグライムを懐かしむ気持ち」がコンセプトだそうだ。ダフト・パンクが『Random Access Memories』で70年代のソウルやディスコへの愛情を示せば、カット・コピーは『Free Your Mind』でセカンド・サマー・オブ・ラヴに対する憧憬を鳴らすなど、いわば過去を用いて未来を切り開こうとする動きが多いなか、ロゴスも同様の道を選んだということか。もしかすると、看過できないほどにノスタルジックの波は広がっているのかもしれない。もちろんそれをどう捉えるかはあなた次第だが、筆者はもう少し深く考えてみようと思う。



(近藤真弥)

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 不安や孤独で一杯だった幼い頃の僕に、成長した現在の僕が手を貸してそっと包み込む。「大丈夫だよ、お前はきっとなんとかやっていけるから」。現在の僕は幼い僕にそう呼びかける。


 京都、大阪在住、オルタナティヴ・ギター・ロック・バンドbedの新作を聴いてそんなイメージが浮かんだ。ファースト・アルバムを名古屋の《iscollagecollective》から発表し、2011年の7インチを同じく名古屋の《STIFF SLACK》からリリースしていることや、LOSTAGEやOGRE YOU ASSHOLE、bloodthirsty butchersらとの交流から、ある程度彼らの音楽性は想像できるかもしれない。ゆらゆら繰り返されるギター・リフは心地よいゆりかごのようで、芯には熱がみなぎっている。


 粒ぞろいの曲が並ぶこのレコードをかけて縁側に寝転ぶ。時間の流れが変わる。例えば5曲目「ピリオド」のコーラスでなんだか泣きそうになってしまう。子どもの頃、親が共働きで、不定期に祖父母の家に預けられ、友達もろくにおらず、一人で蝉のぬけがらを集めていた夏の日を想い出す。続く6曲目「言い訳」になぜかほっこりする。架空の二人が挨拶をかけ合うような不思議な歌詞。


 Bedの歌は我々を派手に鼓舞したりはしない。その代わり、忘れていた「怯えた自分」を見つける手助けをする。彼のあやし方を教えてくれる。後悔も、それを打ち消すために口にした言い訳も含めて、過去から現在まで一貫して自分は自分。そこからやっていく、間違いを一つ一つ訂正していくしかない。彼らの音楽を聴いていると、そう語り合っている気になってくる。


 話は少し変わる。bedのインタヴュー、レヴュー等をまとめたメンバー公認の電子書籍が発行されており、そのなかでタワーレコード京都店の堀田慎平はこう書いている。「今作では派手な展開やアレンジがあるわけではないし、シャウトも控えめ。言うなれば常に平熱で続いていくアルバムだ。(中略)人は平熱のときが一番心地良いものだ。高熱にうなされてばかりではいられない」。


 全くその通りだし、私はこのレヴューを読んで、躁うつ病への精神療法を思い出した。例えば激しいハード・ロックを聴くのが楽しいのと同じように、躁状態の人が徹夜で仕事をしたりクラブ通いをするのは病みつきになるのかもしれない。躁うつ病の人は少し気分がハイ(躁)な状態を正常だと考える傾向がある。だから正常の状態を調子が悪いと勘違いして、「自分はうつではないか」と精神科を受診することがある。まさに平熱の心地よさに慣れる必要があるのだ。最終曲「僕ら」でbedはこう歌う。《僕らは僕らでやってる それなりに楽しくやってる》。そういうことなのだ。



(森豊和)

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汚染水.jpg

 「やっぱ自分の踊り方で踊ればいいんだよ」。マシンガン・ラップに切れ味のいいビート、最高に踊れるファンク・チューンで、私は何度リピートしたか分からない。


 彼の思想や今までの経歴とかはどうでもいい。現在の曽我部恵一は飛ばしている。アルバム『超越的漫画』からわずか1ヶ月のインターバルで突如リリースされた本7インチは、可愛らしいジャケットに踊れるビート、言ってみればそれだけ、そしてその即効性はポップ・アート、ポップ・ミュージックが持つ最大の武器だ。ずぶずぶしたダブに、一聴、意味のない対語の羅列のようなラップは、我々のハート(心臓)を的確に打ち、ビート(鼓動)を加速させる。


 B面が小沢健二「痛快ウキウキ通り」のカヴァーというのもたまらない。リヴァーブをかけた懐古的なガレージ・ファンク仕様のサウンドは、この曲がヒットした90年代がもう帰ってこない事実を我々に突きつける。モノクロ映画、あるいはドラマの回想シーンのよう。たまらなくメロウでせつない気持ちにさせる。


 A面に話をもどせば、小気味いい言葉の乱舞のなか、汚染水という言葉は巧妙に処理され耳に残らない。私は《君の汚染水を》というサビの歌詞を「君のセンスいいよ」と空耳したくらいで(笑)、サウンドそのものが脳に突き刺さる。汚染水とはこの曲を聴いている君のことで、曽我部はそれを受け入れると歌っているが、別に歌詞を聴き取らなくとも、曲全体のフィーリングとして伝わってくる。攻撃的でシニカルで、しかしどうしようもなくラヴ・ソングだ。ほとんど誰も賛同してくれないだろうけど別にいい。OTOTOYのインタヴューで曽我部自身もこう語っている。「たとえば、《与党も野党も政治家も芸術家も被害者も加害者も部外者もバカばっかり》と俺が歌ったときに、みんながその通りだと思わなくたって、俺はぜんぜんいいんだ」。


 最後に一つ付け加える。ミュージック・マガジン2013年11月号のインタヴューで、曽我部はじゃがたらのヴォーカリスト江戸アケミについて言及している。彼の台詞が書かれた、三軒茶屋のレコード店フジヤマの看板を最近よく見に行っていたという。冒頭に書いた台詞がそれで、そして全てだ。



(森豊和)

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音速ライン.jpg
 優れたポップ・ミュージック...というか、ぼくが好きなタイプのそれには、「出会いと別れ」の要素が同時に入っている。だから、悲しいんだか楽しいんだかよくわからない...みたいな。


 ぼくと音速ラインとの出会いは結構古くて、00年代前半なかばごろまでさかのぼる。実はそれから...00年代後半は少しごぶさたしていた。当時彼らがいろいろヒット曲を出していることは知っていたし、そういう曲はもちろん普通に聴いていたけれど、忙しさにかまけて「アルバムをちゃんと聴く」ことはできずにいた。でも、この新作のタイトルを見て、たまげた。「おお! これは...!」みたいな。


 素晴らしいと思った。上記のような理由から、いわゆる「彼らの従来のイメージ」と比べてどうこうはできない。それが口惜しい。でも、基本的に(かなりマニアックな)洋楽ファンでありつつ、日本語の素晴らしい歌も聴きたい...と常に思っている自分のような者に、ずっぱまり。これはたしかなことだ。


 今この時点でどうなのかは寡聞にして知らないけれど、少なくとも00年代の末ごろまで、中心人物の藤井(男性)は出身県でもある福島に住んでいた。もちろん、人気者になったあとも。いや、むしろ、がんがんヒットをとばすようになってから、そうなったんだったかな? とにかく、そんな「ちょっと変わった形の、地方出身者としてのこだわり」みたいなものが、彼らの音楽には常にはりついているような気がしていた。本人が意識しているかどうかは別として。


 つまり「ジャンル的なものの越境の仕方」が、いい意味で、ベタなのだ。このアルバム・タイトルについて、セルフ・ライナーノーツで中心人物藤井は「昔、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインが本気で好きだったし、実際、内気だった。でも、今はライヴで『しゃべりすぎ、MC多すぎ』みたいに言われる。不思議だよね(笑)」といった意味のことを書いている。「彼らの世代」で「こういう音楽をやっているミュージシャン」のコメントとして、なんというか、100回くらい「いいね!」したくなってしまった。


 彼らが「シューゲイザー」かどうかなどという議論をする気はさらさらないと断ったうえで言っておけば、このアルバムには強烈にライドを思わせる部分もティーンエイジ・ファンクラブを思わせる部分もある。アルバムも終わりに近づいた10曲目の「Bye Bye Blackbird」というタイトルからは、ちょっとストーン・ローゼズを思いだしたものの、アレンジや曲調自体は、むしろいわゆる「渋谷系」に近い? しかし、この直前の2曲...「東京」「ゆうれい」を聴いてぼくは、むしろ「従来の、いわゆる『東京的なもの』に対する強い批評性」を感じた。そのあとに、これ...? だけど曲名でも「バイバイ」と言ってるしな...という...!


 はっきりしないといえば、はっきりしない(笑)。だけど、ぼくは、この「はっきりしなさ加減」から、吉田拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を思いだしてしまった(わざわざリンクした理由? 実は、このアルバム・タイトルおよび藤井のコメントを見た時点で、咄嗟にこれが頭に浮かんでしまっていたので...。すみません:汗)。


 このアルバムにおける彼らの音楽を表現するには、初期スピッツとかをひきあいに出すべきなのかしら? とか思いつつ、まあ、音速ライン、00年代後半には、吉田拓郎トリビュート・アルバムに参加したこともあった。ちなみに、彼らは当時ほかにも、ブルー・ハーツ、ニルヴァーナ、そしてレディオヘッド・トリビュート・アルバムにも参加していたけどね!


 この文章の最初で「出会い」に関してはっきり言えなかったのは、かつて00年代前半、クッキーシーンが編集部の住所を(新宿に移る前、まだ渋谷にあった時期に)公開していたころ、彼らはそこにデモ・テープを送ってくれていたから。そんな縁もあって、ぼくは06年のセカンド・アルバム『100景』のライナーノーツを担当した。今となっては、なにを書いたか忘れてしまったけれど(どんな「思い」をこめたかは、もちろん今もはっきり憶えている)、そのアルバム、とくに愛知の自宅に戻って車に乗っているとき、本当によく聴いた。大好きだった。


 本作のオープニング曲のタイトルは「G.B.V.」。瞬時に、あのバンド(もともとザ・ストロークスも、彼らのフロント・アクトでその名が知れわたったことが最初の一歩だった)の略称? と思ってしまった。それこそ(そのバンドがクッキーシーンに頻出していた)90年代や00年代前半のことを思いだして。


 ガイデッド・バイ・ヴォイシズ(声に導かれて)。いい言葉じゃない? もちろん、彼らがその略称のつもりで、この言葉を使ったのかどうかは、よくわからない。


 そしてラスト曲「彼女といえば」。最初に聴いたときは、普通に「なんか悲しい、でもどこかポジティブなラヴ・ソング」として耳に飛びこんできた。だけど、次に聴いたときは「そういった昔のマニアックな音楽に対して、猛烈に感謝しつつ、次のステップに進むために、とりあえずの別れを告げている歌」にも聞こえた。まあ、どっちでもいい...というか(ぼくにとっては)後者ともとれてしまうだけに、なんとなく胸が痛む。だけど、もしそうだとしたら、それは彼らの「強さ」を意味する...と評することも可能だ。


 『100景』ほど、ぼく自身何度も何度も聴きまくるかどうか、それはまだわからない。だけど、少なくともこう言える。きっとまた、折にふれて聴きなおすだろう。そんな予感に満ちている。


 グレイト!





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RECONDITE『Hinterland』.jpg

 昨年リリースしたアルバム『On Acid』ではアシッド・サウンドを追求し、かと思えば、今年ダブステップ以降のベース・ミュージックとベルリン・テクノが交わるEP「EC10」を発表するなど、実に幅広い音楽性を持つレコンダイト。音楽活動を始める前は理学療法士として働いていたが、スーパーピッチャーのミックスCDを聴いたことがキッカケで音楽制作にのめり込んだらしい。


 そんな彼が作り上げる音楽は、作品ごとに違いはあるものの、基本的には曖昧ながらも不思議と惹きつけられるメロディーが常に存在している。豊かで広がりのあるサウンドスケープも特徴のひとつで、ヘッドホンで聴いていると、的確なパンニングと磨き上げられた音粒のクオリティーに驚かされる。DJ活動は一切しないというテクノ・シーンでは珍しいタイプだが、多くのDJがスピンするだけあってフロアで映える曲も多い。


 そうした彼の音楽にある魅力は、本作『Hinterland』でも健在だ。フィールド・レコーディングした音を加工して使用する手法はミュージック・コンクレートに通じ、ひややかながらも温もりあるサウンドに4つ打ちのビートが絡むさまは、優美かつ官能的だ。腰を振らせる肉感性はないものの、そのかわり心を飛ばすマインド・ミュージックとしてのダンス・ミュージック、言ってみれば"チル"なトラック群が本作には収められている。


 また、ストイックな抑制美も印象的。音の抜き差しによって起伏を作りだす巧みなプロダクションは、聴き手を徐々に高ぶらせながらも完全には昇天させず、それはさながら心地よい愛撫をずっと楽しんでいるかのようだ。先に"官能的"と書いたが、本作には健全な彼のライフスタイルからは想像できない粘着質な狂気が宿っている。そしてその狂気は、聴き手の心を少しずつ解きほぐし、五感を支配する。


 普段の生活で溜まった欲求を音楽にして発散するアーティストは多いが、あまり酒を飲まずドラッグもやらないというレコンダイトも、そのひとりなのは間違いない。ただ、レコンダイトが他の多勢と異なるのは、自身と作品の間にかなりの差異があるということ。例えば、多くの辛い経験を持つパッション・ピットマイケル・アンジェラコスが、自身の作品では強迫的にハッピーなポップ・ソングを鳴らすように、作品とパーソナリティーは必ずしも一致するわけではない。


 音楽を作る理由は人それぞれだが、もしかするとレコンダイトやマイケルにとって"音楽を作る"という行為は、一種のセラピーなのかもしれない。それゆえレコンダイトやマイケルの音楽には、多くの感情にまみれながらも力強いピュアな側面がある。いわば正直なのだ。


 表現者には、多くの人の前で自らを曝け出すことが求められ、ゆえに正直さが必要となる。そういった意味でレコンダイトは真の表現者だ。彼の音楽を前にすれば、生半可な自己顕示欲を見せつけるだけの音楽など跪くのみ。



(近藤真弥)



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FU-MU POP EYE SNOB.jpg

 とにかくすごいユニットだ! 二人で複数の楽器とループ・システムを使い分け、あっと驚く音の磁場を作り上げる。名古屋在住の石井健太と中溝悦雄によるツイン・ヴォーカル・ユニットFU-MU。彼らはファンク、ジャズ、ヒップホップ、エレクトロニカ、様々な要素を組み合わせたトラックに、90's J-POPばりにキャッチーで郷愁さえ誘うコーラスを乗せる。打ち込みを一切使わないリアル・タイム・サンプリングによる即興性の高いライヴ・パフォーマンスは独特だ。緻密でパワフルな演奏、アート方面に向かいがちなところを、ギリギリ踏みとどまっている肉体性、そして最終的なポップさといったら! 


 例えば「models」を聴いてみてほしい。不敵にもMr. Childrenに影響を受けたと自ら公言する甘いコーラスが、弾けるようにうねるファンク・ビートに乗るさまは、聴く者にいびつな多幸感をもたらす。サンプリングによる音の重なりが立体感を生み、時に風の匂い、小川のせせらぎ 小鳥の声を幻出させる。アルバムを通して一本の映画を観ているような、違った大陸に住む人々の生活の息吹が伝わってくるような、そんな感覚を与える。かつて伊藤英嗣はフレーミング・リップスを「どうしてこんなポップなバンドがバカ売れしないんだろうと思うと同時に、なぜここまでアバンギャルドな音楽で続けられるんだろうとも思う。彼らの音楽には明らかに二面性がある」(※1)と評した。FU-MUにも私はまったく同じ言葉を捧げたい。


 「とてもごちゃごちゃしてまとまりがないかもしれない。おもちゃ箱をひっくり返したようなって表現があるけれど、僕らの場合は楽器箱って感じでしょうか。伝えたい気持ちはシンプルに曲のタイトルのままです。皮肉を言いながらも、でもわかる人には聴いてもらいたいし、やはり人とつながりたい」。そう石井は語る。同じく名古屋で活動していたOGRE YOU ASSHOLE出戸学の発言を思い出した。彼はインディー時代に「僕らの音楽なんて誰にも分からないと思う。自分達だけでいいものを作っているだけ。お客さんに伝わったらすごいよね」(※2)と語っており、実際、当時のライヴで出戸に感想を告げると戸惑ったような、少しはにかんだ表情をしたもので、FU-MUの2人もやはりそんな感じだ。彼らの音楽は名古屋のみならず、日本中見渡しても珍しく流行から外れているように思う。しかしSTUDIO VOICEで「シーンの鬼っ子」と評されたように、現在の音楽シーンを大きく変える可能性を秘めたアクトだ。実際、そんな彼らにも徐々に仲間が増えつつある。盟友のFREE CITY NOISE、ダモ鈴木との共演にも誘ったドロロニカ、彼らを慕うsukida dramas、一緒にツアーするPOP-OFFICEなど、狭い名古屋のシーンで異端同士が惹かれ合い集まっていくのかもしれない。


 彼らは元々、ソニック・ユースに影響を受けた4人組バンドを組んでいた。そこから1人、また1人メンバーが抜け、それでも続けようとした時、今の音楽性が生まれたという。彼らは「欠落」から始まっている。不完全であること、逆境を逆手にとって生き延びるための音楽。私はそう解釈したし、あながち間違いではないはずだ。そしてFU-MUの音楽が時代の求める音の飢え、欠落とリンクする時が来ることを私は確信している。



(森豊和)



※1 : 伊藤英嗣著『ネクスト・ジェネレーション―ロック&ポップ・ディスクガイド1980‐1998』より引用。


※2 :『Rockin'on JAPAN 2008年11月号』インタヴューより引用。


【編集部注】文中におけるメンバーの発言は、執筆者がおこなったメール・インタヴューからの抜粋です。

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 不思議だ。ニュー・ウェイヴ/ネオ・サイケ直系の生々しいサウンドは、なぜか明治大正期のピカレスク・ロマンの香りがするし、乱れ飛ぶノイズの隙間からはユーモアやペーソスが漂う。5曲通して聴いて脳裏に浮かんだのは宇宙旅行の妄想から死後の世界、果ては永劫回帰。そう、彼は何にでもなれるのだ! ガーディアンの記事を読んで驚いた。この音楽は「ディストピアでの孤独」と評されている。似たようなことを考えるものだ。


 サヴェージズとの親交でさらに注目度が増したBo Ningen、2014年2月にフル・アルバムをリリースするテンプルズ等、国内外でサイケデリック・バンドの台頭著しい昨今、本稿の主役Hysteric Picnicも注目すべきニュー・アクトだ。彼らは2011年結成、リズム・マシーンを操るヤマシタシゲキとヴォーカルのオオウチソウからなるデュオである。二人ともギター、シンセサイザーを使いこなし、パソコンではなく、わざわざカセット・テープを頭出ししてライヴのオケに使う。リード・トラック「Cult Pops」のメロディーは童歌の「かごめかごめ」を連想するし、「潮騒」という曲は流麗な単音ギターがまるで三味線のよう。ダーク・ウェイヴを日本人が今の感性で解釈したミニマルな楽曲に、クールだがどこかユーモアを感じさせるシャウトが絡まる。曲が始まった瞬間から他のバンドとは違う奇妙な響きを醸し出す。


 曲に含まれるユーモアについて指摘するとオオウチは私にこう語った。「結成当初からユーモアは重要なキーワードでした。日本語の歌詞にしたのもユーモアが入る余地を残したかったからです」。一方、「眩暈」という曲では地の底から響くうめき声のようなギターが耳をつんざく。めまいで倒れた男の苦痛がダイレクトに伝わってくる。実際、「生々しい緊張感を出すために、ほとんど録音し直さず、ミキシングも偶然を重視した」と話してくれた。彼らは結成当初ニューヨークのライヴ・ハウスやバーで即興演奏を繰り広げていたという。そういえば2013年秋に七尾旅人がニューヨークでライヴをした際に、「日本で受ける曲はそのままの形で演奏しても受けない。日本では客を集めづらい地味な弾き語りや尖った即興の方が受ける」と語ったが、同じことを彼らも肌で感じていたのだろう。またオオウチは現在もソロで海外レーベルからリリースしている(最近ではデンマークの《Metaphysical Circuits》というレーベルのコンピに参加)。


 ところで、『Unknown Pleasures』 のライナーでピーター・フックはこう語っている。「イアンが全てのリフを見つけ出したんだ」。イアン・カーティスは他のメンバーがセッションで無意識に演奏した埋もれがちなアイデアの断片を、素晴らしい耳で選び取って曲に生かしたという。2013年の今、遠い異国、日本に住む若者の感性でHysteric Picnicはその美学を継承する。ジョイ・ディヴィジョンの魂は何度でもよみがえる。



(森豊和)

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CUT COPY『Free Your Mind』.jpg
 パソコンを使ってきた人であれば誰でも知っていることだが、テキスト・データ(もしくは音声データもしくは画像データ)のある部分を選択してコマンドXを入力すれば、そこが消え、メモリーに保存される。これが「カット」だ。でもって、次にコマンドVを押せば、先ほど消えた部分が、あら不思議。カーソルを置いた部分に現れる。これを「ペースト」と呼ぶ。選択部分を消さずにそのまま残しておいて「ペースト」用に保存したければ、コマンドCを押せばいい。パソコン用語で「コピー」というのは、これを指す。


 今や日本では「コピペ」という短縮形がひとり歩きしてしまっている感もあるけれど、それがパソコン用語の「コピー・アンド・ペースト」からきていることは言うまでもない。


 彼らカット・コピーは、2001年にオーストラリアのメルボルンで結成されたエレクトロニック・バンドだ。当時は、まだまだパソコンやインターネット文化が新鮮だった(ちなみに、1997年にクッキーシーンを雑誌として創刊したころは、まだすべての原稿をファックスで受けとり、それをタイピングしてMacにつっこんでいた。00年代に入って、ようやく半分以上のライターさんがメールで原稿送ってくれるようになった。ぼくも最初はiTunesじゃなくMDで付録CDの選曲やってたし...)。90年代にハードディスク・レコーダーが廉価一般化し、いわゆるサンプリングが身近になった。それも、つまりはハードディスク上で(パソコンと同じように)データをやりとりするもの。カット・アンド・ペーストもしくはコピー・アンド・ペーストもお手のもの。このバンド名を見て、素晴らしいエレクトロニック・ポップに酔いつつ、当時ふと思ったのは「あれ? カット・ペーストとかコピー・ペーストじゃなくて、カット・コピーなんだ。ふーん...」という...。


 2004年にファースト・アルバム『Bright Like Neon Love』を発表してから約10年、待望のニュー・アルバムがリリースされた。前作『Zonoscope』から2年半ぶり、通算4作目となる。そのすべての発売元となってきたモデュラー・レコーズともども、オーストラリアのオルタナティヴ・エレクトロニック・ポップの屋台骨を支えつづけ完全にその顔役となったカット・コピーだが、その音楽に内在する新鮮さはまったく失われていないどころか、フレッシュそのもの。気持ちいいことこのうえない。


 タイトルとアートワーク(文字の色づかい)が、とてもサイケデリック。ラスト・ナンバーは「Mantra」だし...。音楽的にもそんな要素に充ち満ちているのだが、よりユーフォリック。60年代のサマー・オブ・ラヴというより、80年代後半のセカンド・サマー・オブ・ラヴ~90年代初頭のいわゆるUKインディー・ダンスを思わせる部分を、うまくとりいれている。


 全14曲中10曲目は「Meet Me In A House Of Love」。冒頭の「Intro」につづくタイトル曲「Free Your Mind」が結構『Screamadelica』っぽいこともあって、思わず80年代後半にクリエイション・レコーズからデビューしたハウス・オブ・ラヴというバンド名なんかも頭に浮かんだが、彼らはかなりオールドスクールなギター・バンド。それより、こっちだよ! とばかり思いだしたのが、80年代なかばにウォズ(ノット・ウォズ)が出したシングルの曲名「Spy In The House Of Love」。ぼくが「ハウス・ミュージック」という用語を最初に知ったのは、今野雄二さんによるこれの解説をとおしてだった。実は、もともと50年代に出版された小説に『A Spy In The House Of Love』というものがあり、60年代のザ・ドアーズの曲「The Spy」でも《I'm a spy in the house of love》などと歌われているのだが...。


 カット・コピーの、どこかムーディーかつポップな音楽を聴きながら、こんな妄想がどこまでも広がっていく。引用の引用、そのまた引用...。しかし、それらは無限のイマジネーションとクリエイティヴィティに裏打ちされている。


 それで、最初の話に戻る。ぼくが90年代前半にMacを使いはじめたのは、あくまでDTPのため。でもって、それで原稿を書く際に「コピー・アンド・ペースト」はほとんど使わなかった。文章の順序を変えたり推敲する際「カット・アンド・ペースト」はがんがんに使うけれど...。いや、こんな原稿書きが「クリエイティヴな作業」かどうかはよくわからない(笑)。例を変えよう。


 たとえば小説を書くときや、音楽なら生演奏の編集をするときのことを想像してみてほしい。まさか小説で既存の文章をまるごと引用することは(本人作の未発表原稿などをひっぱってくる場合を除いて)ないだろうし、ノリを重視する生演奏の編集にもそれは使わないだろう。ドラム・ループを作ったり、打ち込みのパートをコピーしたり、既成の曲をサンプリングする場合以外は。


 こんなふうに、つらつら考えていると、00年代前半に初めて見たときはスルーしてしまったカット・コピーというバンド名にも、なんかすごく深いものを感じてしまう...というのも、もちろんぼくの妄想(笑)。


 まあ、それもいいでしょ? 彼らも『Free Your Mind』と言ってるわけだし。そして、このアルバム、最高!





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 やめておけばいいのに、平賀さち枝をフォークの文脈で聴くことなんて。ジャンルに意味がないとまでは言わないが、もはや続々と登場してくる新世代のアーティストの音楽を聴く際に、既存の文脈で聴くことはほとんど効力がなくなった。音楽が持つ自由度を狭めてしまうからだ。


 思えばいつからか、「これはロックだ、ジャズだ、フォークだ」といった議論が生まれなくなった。15年ほど前は音楽を特定のジャンルで囲い、ジャンルの文脈で聴く(というか聴きたがる)聴取スタンスは確かにあった。しかしそれは、「自分の価値観にねじ込んで楽しむ」というリスナーの欲求からなる定義付けであったし、ジャンルや歴史の文脈に沿って楽しめない音楽を"ポストロック"という言葉で回避する向きすらあった。だがいまは、多くのリスナーが「定義せずとも楽しめる感覚」を当然のように持っている。音楽を楽しむための定義付けはほとんど機能しないと誰もが気付いているのだろう。


 それらはアーティスト・サイドにも言える。昆虫キッズソニックアタックブラスターはロック・バンドを自称しているものの、既存のロックの文脈で聴こうとしてもその文脈からするすると抜け出し、未知の音世界を見せてくれる。平賀さち枝も同様だ。ファースト・フル・アルバム『さっちゃん』は繊細でフォーキーかつシンプルなスタイルだったが、瞬間的に昂ぶる歌声と朴訥としたギターの鳴りが共立し、アンビバレンスな側面があった。続いて発表されたミニ・アルバム「23歳」は、即興演奏と絡み合いながらもごく自然に、素直に歌をリスナーに届けることができるアーティストだと証明した作品だった。心理描写的な音と素直な歌詞が鮮やかに平賀さち枝の等身大の姿を映し出す。それは聴き手の前にリアリティーとして現れた。


 これはダブルA面ニュー・シングルである本作「ギフト/いつもふたりで」にも言える。ゲストに気心の知れたoono yuuki、シャンソンシゲル、池上加奈恵、中川理沙、林宏敏らを招き、前作、前々作同様に等身大、それでいて音響に工夫を凝らしたサウンドの数々はスマートであると同時に、良い意味でミーハーになった。ジャケットに映る彼女の姿がそれを端的に表している。例えるならば、それまで古着で高円寺を散歩していた女の子が、本作ではオシャレをして原宿の街を歩いているイメージ、とでも言うか。


 ほんのりエコーを効かせた歌声にギター、キーボード、コーラスが触れる程度に沿い合う様はなんとも甘美。ハーモニーとともに小気味よくステップを踏んでいるようなリズムの鮮やかさに喜びの心地が宿っている。しかも日本人である僕らでもエキゾチシズムを感じる"和"のような歌声は、過去の作品同様に本作でも変わらない。EGO-WRAPPIN'の癖の強いそれとは違い、縁のある地域の方言を聞いている感覚に近いのだ。その親しみやすさは他の女性ヴォーカリストとは異なる点であり彼女の魅力だ。冒頭曲「ギフト」が、千葉テレビ『ハピはぴモーニング~ハピモ~』やFMぐんま『KAMINARI RECORDS』の11月度エンディング・テーマ曲になったのも、彼女の音楽に多面性と親近感があってこそ。


 過去の作品との最も大きな違いは、滑らかに洗練された音の鳴りが全曲貫かれているところだが、サウンド全体を見渡すと"洗練の美"というよりは、平賀さち枝の幼げな歌声と楽器の音色との対比がより浮かび上がっている。良い意味でオトナの音ではなく、とても無邪気。煌めいていて力強くもある音の数々はもともとバンド志向だった彼女が理想のバンド・スタイルを手に入れた結果だろう。


 思えば平賀さち枝は、等身大であることを大切にしながら、作品を発表するたびに新機軸を打ち出してきた。しかしそれは、彼女が歩んでいる道とはあらかじめ用意されていたわけではなく、苦難によって見つけた道を歩いているわけでもなく、平賀さち枝が歩いた場所に道が生まれるという、とても自然なものだった。本作でもそれは変わらず、カラフルで自然に流れるサウンドは、知らない道が生まれる瞬間とは彼女自身が音を鳴らした時なのだという、平賀さち枝自身が素直に音を信じているがゆえの可能性である。「楽しい音楽にしたかった」と本人が言うように、笑顔で歌っている姿が目に浮かぶ本作を聴くと、何らかの枠で音楽を束縛することなく、聴き手もアーティストも一緒になって、自由にめいっぱい音楽を楽しむことが何よりも音楽の可能性を広げているのだと実感できる。「単純に、音楽を楽しめる」と書けば、ややもすれば陳腐な言いだと思われるのだろう。だが僕はそれが音楽において、いま最も求められていることだと思う。


 そう、この音楽は過去の作品以上に軽やかなスウィングで聴き手の気持ちを弾ませる。シンプルに言って、楽しいし面白い。そういった音とともに平賀さち枝はこう歌う。


 《はじまって溶けてゆく恋も 強がって崩れてく嘘も 光に投げた時 唄えば風の中》

 (ギフト)


 彼女はいつだって音楽を偽らない。本作で鳴っているのは楽しさと喜びの心地そのものである。



(田中喬史)

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