reviews: August 2013アーカイブ

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010FRANZ FERDINAND『Right Thoughts, Right Words, Right Action』(Domino Hostess ).jpg

 女の子が踊り、軍人も涙するダンス・ミュージック。疾走感と懐かしさの奇妙な同居。祭囃子や80年代SFのテーマ曲みたいなシンセに、つんのめり痙攣しながら疾走するギター・カッティングとビートのいびつな調和。引きこもりの青年が転じてヒーローになる、少年漫画の王道を行くような物語性。オーケー、言ってしまえば今回もそれだけ。フランツ・フェルディナンドはどこまで行ってもフランツ・フェルディナンドなのだ。


 トーキング・ヘッズやロキシー・ミュージックをよく引き合いに出されるが、この独特な感触は、他の人が見過ごすような細かいことを、延々と考え続けた末に行き着いたシンプルさかもしれない。難しいことを簡単にまとめたともいえる。中心人物のアレックスはNMEのインタヴューで、スコットランドの作家アラスター・グレイの小説『Lanark』が本作のテーマとして重要だったと語っている。内向的な人間が社会と向き合い自身をさらけ出す勇気を持つことについての壮大で引き込まれる物語だ。クッキーシーンのインタヴューでは、僕らの曲がアニメ映画『ピューと吹く! ジャガー いま、吹きにゆきます』に使われたのは最高にクールだとも発言していた。主人公ジャガーは、音楽で世界を支配しようと企む秘密結社で育てられ、超常的な音楽の才能と引き換えに感情を無くし自分の殻に閉じこもっていた。しかし育ての親による捨て身の愛情のおかげで彼に感情が戻る。これはアレックス自身の過去にあてはまりはしないか? 江口寿史の 『ストップ!! ひばりくん!』でデヴィッド・シルヴィアンと忌野清志郎が言及され、冨樫義博の『幽遊白書』では戸川純が後半の雰囲気を示す重要なキーワードとして使われていたように、音楽とある種の物語は相互補完する。


 またアルバム・タイトルは仏教における八正道という教えに影響されたという。快楽と苦行の両極端を否定した適切な行い(Right Action)のことだ。鳥山明の国民的漫画『ドラゴンボール』に例えるのを許してほしい。孫悟空とベジータは最後の戦いに備え精神と時の部屋という亜空間で修行する。ひたすら筋力増強を唱えたベジータの態度はフランツでいえば2作目に相当する。一方で特別なことはしない、基礎鍛錬が大事だと考えた孫悟空は3作目の考え方に近い。3作目『Tonight』では心臓の鼓動である80前後のBPMを意識し、再び楽曲の基本構造を強化した。その結果、何をやってもフランツになる完璧な自信と基礎体力を得た。アレックスは言う、アティチュードが大切だ。過去のミュージシャン、地元の友人達から様々なことを吸収した。彼らへの敬意を忘れない。人々を食い尽くそうとする魔人を、全世界の仲間から集めた勇気の元気玉で討ち果たした孫悟空のようだ。スコットランド、グラスゴーの音楽シーンにおいて同胞や後輩と影響を分かち合っている。彼らはとても博識で理屈っぽいことを考えるけれど、最終的には本能と勘を優先させる。それは理性に裏打ちされている。自分はしょせん道化だと言い切れる人間は信用できる。「ユー・ウィル・ビー・オーライ!」、アレックスは宣言する。君もきっと大丈夫だ、と。



(森豊和)

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Rhucle.jpg

 Rhucleの作品は、音楽と呼べるぎりぎりの場所でリスナーを誑かすように華麗に舞っている。いや、もっと正確に言えば、些細な日常音と普段われわれが聴こうとして聴く類いの音楽には境がないのだと言っている。波も、雑踏も、映画のワンシーンも、美しいヴァイオリンの旋律も、毒にも薬にもならないポピュラーミュージックの破片も、彼にとってはすべて同じ"音"なのだ。


 しかしこう書くと、彼の作品はジョン・ケージの表現行為やブライアン・イーノのアンビエントのようだが、そうではない。両者の哲学は、本来は音楽の外側にあったものを内部へと侵蝕させる芸術であっただろう。それによって音楽の範疇はたちまち肥大した。


 Rhucleの行為はその逆である。今まで音楽と呼ばれていたもの、あるいは音楽となり得た音たちを、外へ外へと押しやり音楽から遠ざけようとしている。それは、音楽に疲れた一人の人間の拒絶反応ともとれるし、無邪気に音楽を楽しめていた二度と戻れない時代への憧れともとれる。


 無邪気に音楽を楽しめていた時代――。


 "群衆協奏曲"と名付けられた4曲目「Throng Concerto」では、流麗なヴァイオリンの演奏を遮るようにまったく関係のない効果音や邪魔なノイズが挿入される。妨害は曲が進むにつれて増してゆき、最終的に人間の喋り声が支配して次のトラックへ移ってしまう。まるで、ひとつの曲に集中しようとしても集中しきれない現代人の散漫な意識を、音楽が、音楽らしきものへと成り果てる様子で表現しているかのようである。


 40秒ほどの2曲目「Cosmic Chorus Through The Over Head」では、小鳥のさえずりをバックに馬が駆け抜ける足音とフューチャリスティックで淡白な女性の歌声が響くのみで、そこにあるのは種の無常観と、音に対する幾ばくかの冷めた視線だ。彼は何も主張しない。叫べとも楽しめとも言わないし、踊れとも、悲しくなれとも言わない。そんな真っ白な(というより真空な)気分で聴かされる7曲目「Hawaii's Guest Room "Chicken's Boiler"」の、このあっけらかんとしたハワイアンの中身の無さったらない。この無味乾燥のハワイアンに象徴される、音を心から楽しまない冷徹なアティチュードが、この作品全体を覆う空気となっている。どんな情感にも迎合しない、どこか真理を悟ってしまった人の心を覗きこむ望遠鏡のような音楽、とでも言うべきか・・・。


 しかし、こんな調子で流れる10トラックの後に待っている「The Night Cataract」に、筆者は不覚にも心を奪われてしまった。こんなにも楽観的で、超現実的で、ロマンティックで、根拠の無い過度の幸福感に癒される自分自身に驚いた。これが自分の求めている音なのだろうか、これが聴きたかった音なのだろうか?


 人は、どんなに喉から手が出るほど欲しかったものでも手にしてしまった瞬間に価値を見出せなくなってしまう時がある。音楽を外へ外へと遠ざけ、あとに残ったユメかウツツかもわからない白昼夢のような音の残像に、Rhucleは、そして我々は、救いを求めている。


 『The Space Theory Of The Dreams And Phantasms In A Small Box』="小さな箱の中の夢と幻想の空間理論"


 Rhucleはこのアルバムにそんなタイトルを付け、彼の求める"夢と幻想"を300円のカセットテープに収めた。冒頭とは逆の結論を書こう。この小さな箱の中には真の意味で"音楽"が詰まっている。そしてもう一度ひっくり返す。


 Rhucleの考える本当の音楽とは、何だろう。



(荻原梓)




【編集部注】『The Space Theory Of The Dreams And Phantasms In A Small Box』のデジタル・ヴァージョンはRhucleのバンドキャンプでダウンロードできます。

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STEVEN TANG『Disconnect To Connect』.jpg

 1980年、アメリカで『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』という映画が公開された。ケン・ラッセル監督によるこの映画は、アイソレーション・タンクの開発者である脳科学者ジョン・C・リリーがモデルだとされており、劇中にはアイソレーション・タンクを使用するシーンもある。おおまかなストーリーは、ウィリアム・ハート演じる精神心理学者エドワード・ジェサッブが生命の根源を探るというもので、その過程で幻覚剤を用いた実験もおこなうため、ヴィジュアル的にエキセントリックなシーンが頻出する。


 こうしたドラッギーな映像演出は、1996年に公開され話題となった『トレインスポッティング』でも見られるが、『トレインスポッティング』の監督であるダニー・ボイル、そして先述のケン・ラッセルは共にイギリス出身の人物。イギリスといえば、エクスタシーというドラッグを広く普及させるキッカケとなったセカンド・サマー・オブ・ラヴの震源地。なぜイギリス人は、生命の根源だったり本質に近づこうとしたがり、あるいはこれらの要素が多分に含んだ表現を多く生み出すのか? こうしたことは、日本で生まれ育った筆者には完全に理解することは難しいが、"生命"を追究する過程でコミュニケーションに強い興味を持ち、その取っ掛かりとして喜怒哀楽などの感情、さらにはセックスといった事柄に触れるのは自然だと思う。実際『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』には、ケン・ラッセルの手によってかなり歪になってはいるものの、エロティックな性愛描写が頻繁に登場する。キス、愛撫、なんでもいいが、生活を営むうえで多くの人がするであろう愛情表現は、人という生き物の本質に近づくための入口なのかもしれない。


 シカゴに住むアジア人アーティストのスティーヴン・タンによって作られた本作『Disconnect To Connect』は、ハンブルクに拠点を置き、ヨーロッパのハウス・シーンで絶大な存在感を放つレーベル《Smallville》からリリースされていることもあり、ラリー・ハードやドリーム・2・サイエンスの流れを受け継ぐ、ロマンティックな雰囲気漂うハウス・ミュージックが収められた作品となっている。スティーヴンは、1998年の「Windy City」を皮切りに上質なシングルを作り続けており、アーティストとしてのキャリアは10年以上になるが、なんと本作がファースト・アルバムだそうだ。しかもResident Advisorのニュースによると、全収録曲のうち「Interstice」「It's Perceived As Sound」「Brink Of Dawn」の3曲は、1999年~2000年頃に完成したトラックらしい。とはいえ、本作においてこの3曲が古びた印象をあたえることはなく、むしろそのコールドスリープ的な過程を経たことによって、本作にSFチックな壮大さをもたらす重要な曲となっている。


 それぞれオープニング(「Interstice」)、6曲目(「It's Perceived As Sound」)、そしてラスト(「It's Perceived As Sound」)と、アルバム全体の流れを司るリンクマン的な位置に収録されているのも見逃せないポイントだろう。そうすることで本作は、我々が身を置いている時間軸から軽々と逸脱しているからだ。森は生きている『森は生きている』もそうだが、本作もまた、どの時代に生まれた音であり作品なのか、聴き進めていくうちに曖昧となり、終いにはわからなくなる。それは結果として、恍惚感で覆われたサウンドスケープにつながり、本作におけるまどろむようなシカゴ・ハウスのリズムが生々しく、さながら生きた心臓の鼓動みたいに思えてくる。


 そういった意味で本作は、良質なハウス・ミュージックが詰まったアルバムという枠から遥かに飛躍し、聴き手にある種のフロー体験をもたらす変性意識的アルバムとして、妖しくも甘美な魅力を放っている。



(近藤真弥)

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SELLOREKT/LA DREAMS『Avenue Electric』.jpg

 アンディー・ストットの『Luxury Problems』は、インディー・ミュージック側から更新されたドローン/アンビエント、再評価され盛り上がるインダストリアルなどの禍々しい潮流を巻き込みながら、チルウェイヴ以降にドリーミーなカーテンを纏いだしたベッドルーム・ポップにとっての劇薬として機能した。「Numb」から最後の「Leaving」まで、聴き手を甘美な悪夢に導く高い誘眠性が貫かれている。


 そしてその悪夢は、チルウェイヴ以降のドリーミーなカーテンに守られたリスナーやベッドルーム・アーティストを目覚めさせるための、いわばファンタジーに身を沈める者に突きつけるリアリズムとして、ある種の冷血さを内包するものだった。その冷血さはピート・スワンソンの『Punk Authority』にも引き継がれ、多くの者が大鎚で頭を揺さぶられ、やっとチルウェイヴ以降の夢から覚めつつある。


 しかし、そうした流れに逆らうかのような音楽がここ最近増えている。それが以前にレヴューを書いたベータマックス『Sophisticated Technology』などに代表される《Telefuture》周辺の作品、そして本作『Avenue Electric』だ。


 本作を作り上げたセロレクト/LAドリームズは、バンドキャンプ上でその名もズバリ『Nostalgia』を2012年8月に発表してから、かなりのハイペースで作品をアップしつづけている。筆者の目にはその姿が焦燥として映り、まるで大切なナニカを失わないために抵抗しているかのようにも見える。去年まではスーパーファミコンのゲーム・ソフトを思わせるジャケット・デザインが多かったものの、今年に入ってからは映画のポスターみたいなジャケットが増え、80sポップの要素が色濃くなった。本作を聴いて思い浮かんだのは、ジョー・ジャクソンの大ヒット曲「Steppin' Out」、それから『Mystery』期のラー・バンドだったりする。


 本作はバンドキャンプでダウンロードできるアルバムだが、そこでつけられているタグを見ると、ドリーム・ウェイヴ、アウトラン、シンセ・ポップ、シンセ・ウェイヴなど。妥当だとは思う。しかし筆者は、ここにイタロ・ディスコを加えたい。本作に収められたほとんどの曲におけるリズムやベース・ライン、シンセの重ね方はイタロ・ディスコを想起させるからだ。


 それにしても、またもやイタロ・ディスコとは・・・。先日《Telefuture》から「Summer Love EP」というモロにイタロ・ディスコなシングルがリリースされたばかりだが、ソフト・メタルズの『Lenses』にしろ、ここ最近のインディー・ミュージックはこの手のサウンドが多い。ピエール瀧は、電気グルーヴのYouTubeチャンネルにて配信されている番組のなかで、ドイツにもイタロ・ディスコのような音があると語ったあと、「イタリアってドイツより見てる未来が手前」と述べているが、いわばそうした近未来的な雰囲気がいま求められているのだろうか?


 筆者からすると、去年あたりから急に浮上してきた潮流に見え、それゆえ"なぜいまイタロ・ディスコで『Nostalgia』なのか?"という疑問に対する明確な答えは持っていない。しかし、それでも言えるのは、"昔は良かった"みたいな懐古主義者のしみったれた"ノスタルジー"が本作にはなく、こうした"ノスタルジー"を抱くことで生じる情感、いわゆる"ノスタルジック"そのものに興味が向けられているということ(これは『Nostalgia』も同様で、そういった意味でこのタイトルは矛盾しているが、おそらくアイロニーだと思う)。それゆえ本作は、過去を滲ませながらも、少し遠く、それこそ"近未来"を見つめるオプティミズムが渦巻いている。


 ダフト・パンクの『Random Access Memories』は、少々痛々しい哀愁を漂わせているせいもあってなかなかコミットできなかったが(それでも惹かれてしまう魅力を内包しているが)、本作にはそんな哀愁の代わりに、チープながらもキラキラとしたポジティヴィティーが詰まっている。雑なフェード・アウトなど、もう少し曲全体のディテールに気を配ったほうがいいのでは? とツッコミたくなる部分もあるにせよ、メタリックながらも温度を感じさせる本作のシンセ・サウンドは確かに心地良く、この点だけでも多くの聴き手を惹きつけることができる。少なくとも筆者は、虜になってしまった。



(近藤真弥)




【編集部注】『Avenue Electric』はセロレクト/LAドリームズのバンドキャンプでダウンロードできます。

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011VARIOUS ARTISTS『Music Alliance Pact August2013』(The Pop Cop).jpg

 世界はつながっている。狭い。Music Alliance Pact(MAP)は世界30カ国以上の音楽サイトが集まって素晴らしい曲をフリー・コンピ配信する企画である。英ガーディアンも2013年4月まで約2年間参加し普及に協力している。主催国であるスコットランドの音楽サイトThe Pop Copにて過去のアーカイブもまとめて聴ける。


 Music Alliance Pactとは直訳すれば音楽同盟協定。世界各国の良質なインディー・ミュージックを紹介し交流を促進するための決め事。頭文字をとってMAP(地図)だ。音楽による世界旅行という意味にもとれる。異国語の不思議な響きに惹かれたり、友人の母国だから興味を持つこともあれば、その国特有の事情、地理、歴史に感動することもあるかもしれない。言葉の壁? 音楽は世界共通語だ。フィーリングをたやすく伝える。この企画で紹介された日本勢にはMoscow ClubOKLobbyLLLL、Buddy Girl And Mechanic(オウガ・ユー・アスホールの『Homely』に語りで参加)といったクッキーシーンでも以前紹介されたミュージシャンが多数含まれている。


 さて、2013年8月の紹介ミュージシャンに話を移す。世界各国の特色に加えて、全体的にサイケ、ポスト・ロック色が強い面子となっている。ではThe Pop Copでの紹介順に記していく。マスト (スコットランド)はグラスゴー出身の癖になるドリーミー・マスロック。パブロ・マローリー(アルゼンチン)はミニマル・サイケ・フォーク。イスク(オーストラリア)は伝統的なパブ・ロックとポスト・パンクの融合。モーア・デュー・アンド・リッチャー(オーストリア)は軽やかでラウンジ向けなサマー・エレクトロ。イーオンズ(カナダ)は厳しい北風のようなメロディーとリリック、それをしのぐ深い情熱を内に秘める。メリエ (チリ)はグリズリー・ベアを連想するハーモニーが美しい荘厳なポスト・ロック。シュトマート・トリオ(コロンビア)はメランコリーな響きのポスト・ロック。オーノオノでも演奏していたプレ・ビー・アン(デンマーク)は80年代にビートルズが活動していたら? というサウンド。チノ・シング(ドミニカ共和国)は打ち砕かれた希望、熱帯の幻想とレゲエ・ビート。ジョダマッサ(エクアドル)は熱い強固なラテン・ビート。パール・シーズ(イングランド)は小さな港町が生んだサイケなダーク・ロックだ。ブラッド・パビロン(エストニア)は不穏なサンプリング・ビート。アンナ・アンド・ミキ(フィンランド)は東洋の影響を感じるアコースティック・ソング。カット・オフ(ギリシャ)はアセンズのファスト・コア・バンド。ファー・トラベル・ミュージック(インド)はプログレッシブ・ロックからダブステップへと切れ目なく続く。MGMTの前座に抜擢されたサジャマ・カット(インドネシア)はローファイでシンプル、繊細で美しいメロディー。イディオット・ソングズ(アイルランド)はドストエフスキーの現代的解釈、その時代の室内楽のよう。M+A(イタリア)はフェニックス・ミーツ・ホット・チップ、遊び心溢れる洗練されたダンス・ポップ。芳川よしの(日本)は有名アーティストのリミックスも手がけるエレクトロ・プロデューサー。ティノ・エル・ピングイノ(メキシコ)は人種差別を皮肉とユーモアを混ぜてラップする。アース・マーク・ツー(オランダ)はジャコ・ガードナーの幼馴染みでゾンビーズ、シド・バレット、ニルヴァーナに影響されたネオ・サイケデリア。スペース・ビー(ペルー)はアラビア音階とヴァイオリンを用いたクラシック・サイケデリア。ラグーナ・ピアンカ(ポーランド)は青春の疾走感、透明感を宿す。中盤のピアノ・ソロは初期フジファブリックを連想させる。ピクシ-・アヴィーオ(ポルトガル)は激しいリフが美しいメロディーを徹底的に切り刻む逆上のロック。ラス・アベジャス(プエルトリコ)は夏の高速回転オールディーズ・ダンス。ステューア・デ・メア(ルーマニア)は異国情緒漂う折衷インスト。プログレ、ダブ、サイケにジプシー・ミュージックをミックス。シアター・エイト(韓国)は漢江の橋にちなんだみんなの歌。ラ・プレッサ(スペイン)は80年代エレ・ポップに3人のラップが乗るダンス・ミュージック。シャーク?(USA)はブルックリンのバンド。キャッチーなフックやグルーヴが気だるい色気あるヴォーカルと共にザクザク迫る。ラヴ・デュバン(ベネズエラ)は伝統的かつワイルドなロック・スタイルだ。


 ざっと駆け抜けてきたが、ひたすら武力、経済力を高め隣国を威嚇するより、こういった文化的交流のほうがよほど素敵でマシなことに思える。タバコジュースというバンドの松本敏将がかつて語ったように、同じ歌を歌う違う国の二人が殺しあう必要はまったくないのだから。



(森豊和)




【編集部注】本作はThe Pop Copのサイトでダウンロードできます。

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Sampha - Dual EP.jpg

 サブトラクトやジェシー・ウェア、最近だとドレイクのコラボレーターとして知られるサンファ。彼はシンガーというイメージの方が強いが、プロデューサー(トラックメイカー)としての顔も持っている。トラックメイキングは13歳の時にスタートさせているというだけあって、10年を越えるキャリアに裏打ちされた実力の持ち主でもある。最初の頃は、グライム・トラックを作って近所の友達をプロデュースしていたらしい。2010年にリリースしたEP「Sundanza」は、様々な音が入り乱れながら激しく展開していくダンサブルなトラックの方が目立つ作品だった。加えて、「Sundanza」でもヴォーカルを披露してはいるものの、翌年リリースされたサブトラクト『SBTRKT』での素晴らしい歌いっぷりに比べると、"片鱗を見せたに過ぎない"という感じだった。なので、余計に"プロデューサー"という印象の方が強く残ったのだろう。


 しかし今作では、ピアノとヴォーカル(ヴォイス・サンプリング)をキーに、機械的で無駄がないビートとシンセで作ったメロディーをループさせて、シンプルかつ歌が引き立つトラックを作っている。また、今作へと繋がるトラック・メイキングの模様は、イントロの「Demons」と4曲目に入る「Hesitant Oath」のようなデモ風のトラックから垣間見ることができる(「Hesitant Oath」はレコードだとB面のイントロに位置している)。特に「Demons」で登場する留守番電話の音声録音のような声が、「Can't Get Close」の冒頭に繋がっていく作品展開には、かなりハッとさせられた。こういう細かい仕掛けには本当に感動する。


 そしてヴォーカルは、スモーキーに歌い出したかと思えば、明るい空に向かって突き抜けていくようなファルセットを使ったりと、作品を通して表情豊か。さらに、総じて『SBTRKT』の時よりもソウルフルになっているようにも感じられる。しかしその一方で、弾き語り風のストレートなソウル「Indecision」と、エフェクトを多用した「Beneath The Tree」の様に、ヴォーカルの持つ二面性の部分もしっかりと立たせている。また、苦悩や悲哀や愛など、彼の心の内を実直に詠った詞の内容も、ソウル/R&Bに近づいたもうひとつの要因として少なからず影響しているのかもしれない。因みに、「Indecision」はエイミー・ワインハウスが亡くなった頃に書いた曲で(これも影響のひとつとしてあるかもしれない)、曲中で連呼している"Let it all work out"というフレーズは、なかなか勇気を持って一歩踏み出せない時に言い聞かせる「まじない」だそうだ。


 サンファと同系統のジャンルで、UK発の黒人プロデューサー兼シンガーは少ないような気がする。男性限定となると、グライム・アーティストの方が先に思いついてしまったり、クウェズやキング・ミダス・サウンドのロジャー・ロビンソンぐらいしか思いつかないので、ますます少ない気がしてしまう。なので、サンファの登場と活躍は非常に嬉しいし、彼を筆頭にもっとこの手のアーティストがUKから出てきて欲しいな、と願うばかり。最後に今作に関して言うと、このEPの後にしっかりとしたアルバムが続くのであれば、例え少し趣向が変わったとしても、「Dual」は真によくできたプロローグになると思う。





(松原裕海)


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森は生きているjacket.jpg

 待ち望んでいた森は生きているの1stアルバム『森は生きている』がいよいよ発売された。森は生きているは東京を拠点に活動する6人組のバンドで、一枚のデモ音源が話題を呼び、各所でその名を轟かせていた。そんな森は生きているが今回出したアルバムは、日本の音楽シーンにおいて歴史的名盤になるであろうマスターピースだと、私は断言したい。


 彼らは"はっぴいえんど的"だと各所で言われているが、それは70年代初期のはっぴいえんどに見られた"ヴォーカルもまたサウンドである"という考えに通じる姿勢を感じるからだろう。当時、それまでの日本のポップスは歌に偏り過ぎていた。それは恐らく現代にも少なからず見られる流れで、森は生きているはそういった点で日本語ロックの新しい可能性を追い求める、非常に稀有な存在だと言える。


 だが、彼らの音楽そのものを"はっぴいえんど的"だと言うのは少し短絡的すぎる。彼らは自らの音楽を、メンバーの雑多な音楽をごった煮した「チャンポン・ミュージック」と称しているが(このネーミングは、各国の音楽をごった煮した細野晴臣による『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』『はらいそ』の"トロピカル三部作"が"チャンキー・ミュージック"と呼ばれていたことから想を得たのではないだろうか)、森は生きているのメンバーのほとんどが、非常にマニアックなヴィニール・ジャンキーである。それゆえ影響を受けている音楽は国もジャンルも多岐に渡る。しかし彼らの凄いところは、カントリー、アンビエント、アフロ・ジャズ、ブルースなど、数々のジャンルを吸収しつつもそれを一度咀嚼して消化し、現代でも普遍的に聴かれ得るポップ・ミュージックへと昇華しているところだ。それゆえひとつのバンドをピックアップされ、"リヴァイヴァル"や"フォロワー"などと言われると違和感が残ってしまうのは致し方ないのだが、今作は、そんな野暮な括りすらひょい飛び越えてしまった。


 全9曲から成る今作は、メンバー全員20代らしからぬ渋いサウンド・アプローチを持ちながらも、柔和なヴォーカルや青さの残る文学的歌詞が耳に残り、懐かしくもどこか青臭さを感じる。各所で鳴り響く管楽器やアメリカン・ルーツ・ミュージックを色濃く漂わせる鍵盤のアレンジなど、心地よいサウンドとともにノスタルジックな情景が運ばれる。また、抒情的な歌詞の中では「夢」がひとつのキーワードとして印象的に用いられ、今作の中で反芻して歌われている。


 私たちは信じられない現実に立ち会ったとき「夢みたいだ!」と形容するが、その逆で、リアルすぎて現実と錯覚してしまうほどの夢だって存在する。夢と現実は全く対極のものとして捉えられがちだが、思っているほど明確な境界はないのかもしれない。《いつか夢で見たような景色が あるような気がしたから 僕も行くよ》という「回想電車」の歌詞が象徴するように、森は生きているには、そんな曖昧な"夢"と"現実"の隙間に滑り込んで奏でているような浮遊感を孕んでいる。その浮遊感は思春期に音楽ばかりを拠り所にしていたような心情にも、少し似ている。


 また、今作の収録時間は約40分。ちょうど、レコードの収録時間と同じだ。アルバム・ジャケットを飾るモノクロの観覧車が象徴するのもレコードなのだろうか。人を乗せてくるくる回る観覧車と音楽を乗せてくるくる回るレコード、回るごとに景色が変わるその様は、観覧車もレコードも同じだ。それならば『森は生きている』というレコードは、くるくると回りながら変わりゆく風景を写し出し、人々にノスタルジックな感情を呼び起こす名盤だろう。


 森は生きているという素晴らしい音楽を奏でる若者たちが同時代を生きているなんて、こんな幸せな音楽体験は滅多にない。そんなことを当たり前に思わせてしまう彼らの音楽がこれからどう展開していくのか、楽しみで仕方ない。



(竹島絵奈)

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Walton - Beyond.jpg

《Hyperdub》は2004年に始まって以降、ヒットとチャレンジとフックアップを重ね、現在までダブステップ・シーンを最前線で引っ張ってきたレーベルのひとつと言っても過言ではない。そんな《Hyperdub》からこのアルバムがリリースされたというのは、ターニングポイントを迎えつつあるシーンに対する、新たな才能のデビュー・アルバムをキッカケとした新たなチャレンジと捉えられるだろう。


 ウォルトンことサム・ウォルトンは、マンチェスター出身で現在22歳。ちなみに彼は、2011年にデビューした時はスクール・オブ・サウンド・レコーディングス・マンチェスター(SSR Manchester)に通う学生だった。トラックメイクはそれ以前からおこなっていたそうで、UKガラージ、UKファンキー等の音楽に影響を受けながら、グライムやダブステップのトラックを作っていたという。確かに、これまでに彼がリリースした2枚のEP「Walton」と「All Night」は、UKガラージやUKファンキーの色が出ており、しっかりルーツを踏まえた"正統派"という印象だった。


 しかし今作は、これまでの印象を崩してから再びウォルトンの姿ができあがっていくのと同じ様に、彼なりにリズム/ビートを分解していったところからトラックができている。奥深くで渦巻く4つ打ちが印象的な「Need To Feel」や「Amazon」もあれば、「Love On The Dancefloore」や「Frisbee」といったビートそのものを排除したようなトラックもあるので、聴いている間はそのギャップに振り回される。強いて言うなら、彼のベースでもあるUKファンキーやUKガラージっぽさを保ちながらハウスに近づいている。はっきり「斬新!」とは言えないが、新たなフェーズに差し掛かったサウンドでもあるように感じる。ビートや音階ではない、ウォルトンが再構築していきながら新たに加えた何かが存在感を放っている。筆者はそんなにあっさりと表現できてしまうモノではないような気がするのだが、その「何か」に関してウォルトン本人は「ヴァイブス」という言葉を用いて説明している。


 そして、このアルバムのキーとなっているのはR&Bのサンプリング。トラックにデトロイト・テクノ的な「黒さ」を纏わせているだけでなく、トラックタイトルもサンプリング元に由来しているものがほとんど。特に、イントロ「Beyond」で使われている"A song for yesterday, today, tomorrow and beyond"というフレーズは、メアリー・J. ブライジの「Forever No More」をサンプリングしたもので、本家以上にアトラクティヴに感じさせてくれる。また、「Love On The Dancefloor」と「Every Night」では、アディーナ・ハワードの「(Freak)And U Know It」からの一節、"Making love on the dance floor with clothes on"をそれぞれ異なるカットで使っている。2つは繋がっているのか、それとも別々なのか、ここでも惑わされてしまう。アディーナ・ハワードのサンプリングは「Need To Feel」と「Can't U See」でも登場するのだが、このR&Bのサンプリングが不規則な展開を見せるビートの連なりをひとまとまりに仕上げていると言える。それだけの力を持っている。


 ハウスと言えば、一昨年リリースされたコード9の『Black Sun』も、スキューバが昨年リリースした『Personality』も、それを臭わすものがあった。ただ、彼らのようにダブステップの繁栄に関わってきたアーティストと、今作でアルバム・デビューのウォルトンとでは、「ダブステップからのシフト」といっても意味が変わってくる。ここ数年から今、彼らが意識的に、自らの流れを変えようとしているのは明白。あとは、リスナーである我々がシフトするシーンへ参加するのみだ。



(松原裕海)

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009cinema staff「Great Escape」(PONY CANYON ).jpg

 耳鳴りと地響き、誰かの絶叫、長い思春期の闇を抜けて走り出す、壁の外へ。TVアニメ『進撃の巨人』エンディング・テーマ、岐阜出身のロック・バンドcinema staffの新曲である。メジャー・デビュー後のある時点から、彼らの世界に対する照準が定まった。一人で俺かわいそうと自己憐憫に陥っていても仕方ないから。大人になるのが怖いといって爆音の陽炎のなかで永遠に隠れることなんてできやしない。


 2006年に南山大学アメリカ民謡研究会で結成。エモ、ポスト・ロック、ハード・コア、様々な音楽要素を折衷し組み合わせ、とどめとばかりに、あらがいようのないキャッチーな歌謡メロディーを落とし込む。変拍子満載のパフォーマンスはすぐさま名古屋で話題となり、2008年《残響record》からデビュー、満を持して2012年メジャーへ。ニュー・シングル「Great Escape」は亀田誠治(ex.東京事変)プロデュース。勢いや生々しい触感を殺さずに、重厚かつ丁寧なサウンドに仕上げられている。やはり全く変わらない彼らそのものだ。全て自分で決めてきたからこそ若者のアンセムになり得た。彼らは事務所の力関係だけで出演イベントを決めたりしなかった。本当に好きで尊敬し合っているバンドとならスケジュールを無理してでも共演した。そのために必死で《残響record》の社長にかけ合ったという。友人との信頼関係を大切にするのはsoulkidsやfoltといった名古屋シーン先輩バンド達から受け継いだ伝統でもある。栄に《stiff slack》というインディー・レーベル兼レコード・ショップ兼バーがある。そこの店長である新川氏はcinema staffを無名時代からバック・アップしていた。いまだにCDのスペシャル・サンクスに彼の名を挙げる、そんな所からもバンドの姿勢がうかがえる。


 タイアップに話を移す。曲作りにあたって彼らは原作漫画『進撃の巨人』を読みこんだという。人類を食いつくす巨人の侵攻を防ぐため壁に覆われた社会、その壁すら乗り越え地響きとともに現れる悪夢。『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』の伝統を受け継ぐ世界観。違うのは戦闘ロボットではなく生身で戦わなくてはならないことだ。『機動戦士ガンダム』のアムロ・レイが抱いた思春期の葛藤と挫折、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジが陥ったアイデンティティー・クライシス。なぜ、何に対して戦わなければいけない? cinema staffは今までこもっていた殻を壊し、壁に囲まれた小さな王国を抜けだし世界へ打って出る。青春のメモリーや居心地のいいコミュニティーにはもう頼れない。世界の動向を意識する。たかがアニメ・ソングかもしれない。しかし彼らは原作に忠実なテーマを提示しようとして、はからずも自己変革をもたらした。今も耳鳴りと地響きはすぐそばにあるのだ。




(森豊和)

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ナンシー・ヴィエイラ―.jpg

 そんなに世界中に足を運んだことはなく、異国でも同じところには何度も訪れたりするが、なぜか縁のない場所に焦がれる。特に、南国やバカンス的なイメージがついた場所だろうか。日本も、もはや酷暑続きになってしまったが、『異邦人』のムルソーのように、燦然とした太陽の下での不条理な内的感情を海に浮かべ、空へ投げてみたくなる。ただ、ハワイアンのコンサートや、地球の裏側から来たブラジルのカエターノ・ヴェローゾマリーザ・モンチなどのライブを生で体感すると、行ってはいなくてもそこの風がぼんやりと想像できる。今は映像越し、音像越しで何かと疑似経験できるようになったが、現場で体感することで、何より分かることがあるというのは本当なのだと思う。


 こういったご時世に合わせてか、快適音楽、リラクシング・ミュージック、心地良く眠りを誘う音楽、そんな文言とともに、ジャズやポップス、ハワイアン、ボサノヴァのカタログ群が並べられていることも増えたが、日本に居ると、グアム人気もそうだが、ニューカレドニア、国内でも島といったものに魅せられるのは「自然」を聴きに行くという疑似的な逃避なのかもしれない。


 日常が人工的かつシステマティックになってゆくと、対立事項に「自然」が置かれるのかというと、もはや違うと思う。そのまま投げだされた自然など今は存在し得ないからであり、今西錦司著『自然学の提唱』を紐解けば、少しは可視出来るだろうか。生態学者として彼は前線で研究をしながら、動植物から人間の全体の統合可能な原理は不可能だ、という想いに至り、社会学へと舵を切り、80歳を越えて自然学という考えに至った経緯。自然は"ひとつ"ではなく、生存適応者を社会が包含するのと比して、非適応者でさえも自然は包み込もうとするところに、生物としての人間は意味を見出し、最終的にはヒトは雑踏に還る、または、どこにも還らないのではないか、ということ。


 生活の定義の導脈とは、社会形成内での連関で成り立つからであり、このたび、カーボ・ヴェルデという国を調べるほどに、イメージ的に時間の流れが穏やかで牧歌的な印象を受けながらも、アフリカに根付く戦争の歴史を刻んだ痕も深く察せられた。カーボ・ヴェルデとは、アフリカ西沖合にあるマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島とソダヴェント諸島からなる国。


 その国の音楽といえば、アフリカの影響が色濃いソダヴェント諸島ではバトゥーケ、フィナソン、タバンカなどリズムを重視したもの、ポルトガルの影響が強かったバルラヴェント諸島ではヴァイオリン、ポルトガル・ギター、カヴァキーニョなどを使用したモルナというメロディーを重視したジャンルがあり、このナンシー・ヴィエイラはモルナの形式をコンテンポラリーな形で体現する。


 カーボ・ヴェルデという国を知らなくても、セザリア・エヴォラの名前を知っている方は多いと思う。マドンナや多くのアーティストが彼女を称賛し、グラミー賞をとったほどの存在で、あの声は一度聴くと忘れられないものがある。


 彼女からすると、ナンシーの声は都会的でスムースな優しさと淡々としたものを帯びるやや匿名的なものであると言えなくもないが、その分、非常に心地良く、時おり見せる抒情は美しい。モルナをベースに、アコースティックな質感が活かされた柔らかな4枚目となるオリジナル・アルバム『そよ風のリズム、愛の歌』では、ブラジル音楽にも造詣が深い彼女としてのそういった向きも感じられる。


 エウジェニオ・タバレス、マリオ・ルシオ、テオフィロ・シャントン、アントニオ・アルヴィス、ホランド・セメンドなどを選んだ曲群は、古典/伝統から今を見越したうえでのものと察するが、時代、温度差を均すような流麗としたアレンジメントになっており、プロデューサーのナンド・アンドラーデの手腕が活きている。ポルトガル・ギター、カヴァキーニョの音がクリアに響き、シンプルに絞られた音のなかで、決して難解なことも含まない自然や人間そのものへの慈しみを歌う彼女の声は、"スロウ・ミュージック"と称しても不思議ではない。ただ、粗製乱造されるヒーリング・ミュージックやすぐに消費されてしまう音楽と違うのは、彼女自身が育ったカーボ・ヴェルデへの愛郷心が要所に深く残響し、今はポルトガルのリスボンに住みながら、その距離分だけより何ともいえない慕情の行間が迫ってくるからなのかもしれない。


 音楽を通して知ることはほんの僅かしかないが、その背景に込められた情念、伝統、来し方、また、生きてきた場所という情報量は凄まじいものがあるのを常に感じるが、こういった形で、モルナの寂寥を世界中の日常生活に預けるように歌うナンシー・ヴィエイラというアーティストの今後が楽しみだ。



(松浦達)

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