reviews: May 2013アーカイブ

retweet

印象派「Nietzsche」.JPG

 2011年に「HIGH VISION/ENDLESS SWIMMER」をリリースし、2012年は「SWAP」と、サウンドクラウドやバンドキャンプで矢継ぎ早に発表されることが当たりまえになりつつある現在にあって、何ともゆったりとしたペースで活動を続けている印象派。「SWAP」リリース後は、ハンサムケンヤが主催するイベント《RadioHandsome NIGHT !》に出演するなど、ライヴもいくつかこなしていたそうだが、作品の制作に関するニュースはほぼ皆無。らしいと言えばらしいが、そろそろ新たな作品を出してもいいんじゃない? と思っていたところに突如届けられたのが、印象派にとっては初の1stミニ・アルバム「Nietzsche」である。


 これまでも彼女たちは、確信犯的に聴き手の想像力を掻きたてるような姿勢を時折見せてきたが、今度は「Nietzsche(ニーチェ)」ときた。ニーチェといえば、哲学者として知られているのはもちろんのこと、随所にアフォリズムを使用するその文体も高い文学的価値を得ている。確かに本作の歌詞は散文的手法を巧みに取りいれたものが多いし、断続的に言葉が紡がれる「[Nietzsche's] HEAT BEAT」は、モラリストの要素も見え隠れする。


 「[Nietzsche's] HEAT BEAT」には聴き手の考察心をくすぐる小ネタも多くあり、例えば《ナイフとフォーク 豆腐店と峠超えのコラボレーション》という一節は、おそらく漫画『トリコ』と『頭文字D』のことではないか? "ナイフ"と"フォーク"は、『トリコ』の主人公トリコが持つ技の名前で、『頭文字D』の主人公である藤原拓海は、親が経営する藤原とうふ店で働きながら、峠を舞台にレースをする走り屋の青年。車つながりでいえば、同曲に登場する《ケン&メリー》は、日産スカイラインのCMに使われたBUZZの「ケンとメリー ~愛と風のように~」という曲を指している、かもしれない。《はっぱしようよ》なんてのも登場するが、筆者からするとどうしてもマリファナを想像してしまう。こうして考えてみると、本作に収められた「SWAP」以上に、「[Nietzsche's] HEAT BEAT」はストレートかつ毒のある曲だと思う。さらに「OUT」では、グーグルマップのルート検索で出た経路案内らしきものを早口で読みあげたりと、本作の歌詞は奔放な遊び心を発揮したものが多い


 サウンド的には、ザ・ラプチャーLCDサウンドシステムといった、いわゆる初期《DFA》を思わせるディスコ・パンクにニュー・レイヴ(懐かしいね!)、そこにジャーマン・エレクトロや80年代ニュー・ウェイヴをふりかけ、これらの要素をキャッチーにまとめるポップ・センスが光る。他にもラウドなギター・リフでグイグイ引っぱっていく「HIGH VISION [VersionB]」は、どことなくレッド・ツェッペリンの匂いを醸し出し、「OUT」のトランシーなサイケデリアはボアダムス『VISION CREATION NEWSUN』を想起させるなど、引きだしはたくさんありそう。


 90年代の音楽から影響を受けたサウンドが多く見られる現在において、2000年代前半の音楽的要素を素直に反映させているのは興味深い。もしかすると、2000年代の音楽も"過去"として参照されるものになりつつあるのだろうか? ウルトラデーモンの『Seapunk』もそうだが、本作もまた、過去/現在/未来が混沌とフラットに共立する"今"に通じるセンスを含んでいる。



(近藤真弥)


【編集部注】「Nietzsche」は6月19日リリース予定。

retweet

These New Puritans『Field Of Reeds』.jpg

 今作を自然的変化というには過度とも思える。ジーズ・ニュー・ピューリタンズは、00年代後半のニュー・エキセントリックと括られたシーンの中でも、一際スタイリッシュにポスト・パンクを纏い、耽美的で英国的な翳りを持って鋭角的な存在感を兼ね揃えていた。ファッション、アート界からの称賛もあり、ややイメージ先行だったところもなきにしもあらずといえた08年のファースト『Beat Pyramid』から、自然音と伝承へ回帰し、深い森の中に帰るような10年のセカンド『Hidden』では、音楽メディアから賛美の声があがったのも記憶に新しい。


 不穏なコーラスにループ・エフェクト、更には和太鼓や金管、木管楽器などを取り入れ、BPMを落とし、より深遠なサウンド構築を優先したなかで、彼らは「We Want War」と歌ったが、視界を拡げる音風景に聴覚を刺激する本質的な差異が伴っていない、そんな印象も受けた。


 例えば、仏の哲学家、美術史家であるジョルジュ・ディディ=ユベルマンは数多くの著書のなかで「イメージ」を巡る数多の痕跡に対して、イメージの断片は全体性を安易に流通せしめてしまい、非=交換性を貶めることになってしまうと懸念を示している。


 つまり、イメージの可読行為が他リソース群との共振、差別化により、構成しないからであり、認識を阻害するのはときに想像力であるのかもしれず、彼らが『Hidden』で求めた(とされる)「戦争」はまさしく、現代の「それ」ではなく、想像内での疎外された異地を意味するとしたならば、当初から、ジーズ・ニュー・ピューリタンズというバンドは現代という時間感覚から錯誤した異端者である定めだったとも察せられる。


 ひとつのイメージですべてを切り取ろうとするのではなく、複数をモンタージュ化して、イメージさえも逸らす所作を選ぶこと。ゆえに、今作はチェンバー・ポップ的な曲やクワイワ風の曲が並び、ピアノとホーンが牽引してゆくアンビエンスが際立つ。カテドラル内での残響が似合うような、反復を軸にじわじわと重ねられるサウンド・レイヤーのなかに漂う木霊のような声の破片も含めて、時間芸術のような節もある。


 特筆するに、9分を超える4曲目の「V(Island Song)」ではポスト・クラシカル的にかつ、ジャック・バーネットのボーカルが幽玄に揺蕩い、ミニマルなリズムがヒプナゴジガルに怪しげな雰囲気を作り上げ、6曲目の「Organ Eternal」ではタイトル名どおり、オルガンの音色が主軸に置かれながら、子供の嬌声がふと混じってきたり、荘厳さと不気味さを往来する。9曲という単位ながら、53分ほどに渡る音絵巻は、全く違うバンドのものとして、もしくは映画のサウンド・トラックのように感じられるかもしれない。ボン・イヴェールことジャスティン・ヴァーノンが参加していたヴォルケーノ・クワイア辺りのカームな空気感を思わせながら、あの"声"がないこと、また、昨今のチルウェイヴ的な趨勢とリンクするには、そういった流れが確実に変わっていることからすると、この2013年という時間軸からは異端に浮く。


 興味深い内容だが、やや爛熟されたイメージと音像への意味目的そのものが想像過多になっているように感応してしまう。



(松浦達)



【編集部注】『Field Of Reeds』の国内盤は6月26日リリース予定。

retweet

Mount Kimbie『Cold Spring Fault Less Youth』.jpg

 時の流れは本当に早いもので、ドミニク・メイカーとカイ・カンポスによるマウント・キンビーの名盤『Crooks & Lovers』が発表されてから3年近く経つ。3年前の彼らを語る際の捉え方としてもっとも多かったのは、"ブリアル以降のポスト・ダブステップを象徴するユニット"かもしれないが、だとすれば、"ポスト・ダブステップ"という枠組みにおける彼らのことを、異端的に見つめる者もいただろう。


 というのも、彼らはダブステップから離れた場所で音楽を生みだしていたし、そもそもポスト・ダブステップ自体が、音楽性が固定化していくダブステップとは距離をおいていた音楽、いわばダブステップの大波から逃れるためのシェルター的側面があった。ダブステップとポスト・ダブステップは、文脈的には繋がっていても、それぞれが持つベクトルは違うものだといえる。


 言ってしまえば、彼らはもちろんのこと、同じくブリアル以降の存在として注目を集めたジェームズ・ブレイクにとって、"ポスト・ダブステップ"というタグは、多くの人に誤解をあたえる"ありがた迷惑"だったのかもしれない。一要素としてダブステップを取りいれてはいたが、彼らやジェームズ・ブレイクの音楽は、決して"ダブステップそのもの"ではないからだ。事実、ジェームズ・ブレイクは最新作『Overgrown』にて、ベース・ミュージックの要素を減退させ、より"歌"を際立たせるサウンド・プロダクションに至っている。


 そしてマウント・キンビーもまた、本作『Cold Spring Fault Less Youth』において、"歌"を前面に押しだしている。『Crooks & Lovers』をリリースして以降、音楽フェスやライヴハウスで演奏する機会が多くなり、さらにはスタジオ中心の制作環境になったからだろう、本作は明らかにライヴという場を想定した音作りが目立つ。生音の割合が増え、彼らはヴォーカリストとしてその歌声を披露する。甘美なメロディーは、丁寧かつ繊細なアレンジを華麗に纏い、そのアレンジも、ここ最近のJ-POPばりにさまざまな試みがなされている。


 クラウトロック、アンビエント、ジャズ、ヒップホップなどを雑多に混在させた作風からは、彼らがもともと持っていたフットワークの軽さにさらなる磨きがかかっていることを窺わせる。それゆえ、いささか散漫な印象を抱いてしまうのは否めないが、これが音楽を生みだすモチベーションの高まりゆえの結果ならば、前進するための過渡期として受けいれられる。


 また、キング・クルールが参加した「You Took Your Time」「Meter, Pale, Tone」の2曲は、キング・クルールの渋みあふれる歌声を上手く音像に溶けこませるプロダクションの妙が光り、コラボレーションが最良な形で結実したことを知らしめる絶品ポップ・ソングに仕上がっている。3人でアルバム1枚を作ってほしいと思わせるくらいの出来で、この2曲のために本作を手に取るのもアリだと思う。



(近藤真弥)

retweet

HOW TO DESTROY ANGELS『Welcome Oblivion』 校正.jpg

 ハウ・トゥー・デストロイ・エンジェルス(以下HTDA)はマリクイーン・マーンディグ、トレント・レズナー、アッティカス・ロス、ロブ・シェリダンによるバンド。トレント以外のメンバーの存在が見えにくかったナイン・インチ・ネイルズ(以下NIN)に比べ、女性ヴォーカルという個性がある。


 ちなみに今回カタログ番号が"Sigil 04"となっているが、"Sigil"とはHTDAの作品にだけ冠された記号で、NINの"Halo"と同等のバンド固有のナンバリング・クレジットになっている様子。それはこの名義である程度の数をリリースしようとしているとも取れるし、トレント・レズナー・アンド・アッティカス・ロス『The Girl With The Dragon Tattoo』でもマリクイーンが4曲ヴォーカルを取っているなど、HTDAが現在のメイン活動であることが窺え、女性ヴォーカルの作品を作りたいというトレントの意向が更に強くなっているのではと思わせる。


 デビューEPより更に暗く、迫り来る恐怖があるのもトレントの成せる業だと思う。アルバムは全体的にスロー・テンポだが、中盤の「How Long ?」では厚みのあるコーラスが新鮮だ。NINでは聴いたことのないポップ・ソングとしてのアプローチでもあり、『The Girl With The Dragon Tattoo』で披露したブライアン・フェリーのカヴァーなど過去のルーツに繋がっているように思える。そんな中でもジョイ・ディヴィジョン~ニュー・オーダーのベース・ラインに似ている節が出てくるのは、かねてから影響下にあることを公言していた彼らしいサウンドで、この曲は不協和音が並ぶなかでは唯一のきれいなコードである。


 否、きれいな、とは言っても美しいのとは少し違う。トレントの場合むしろ不穏な音の方がはるかに美しいわけで、逆にそれを一番感じさせたのは「Strings And Attractors」という曲の、サントラにもNINにもなかった不思議なコードだった。こうした新たな側面が見られるのは非常に嬉しいし、もちろん今までのトレント特有の乾いた不協和音の連続にも感動させられる。


 自分の中にあるものを吐き出す手段として激しい曲調でシャウトをしていたNINだが、今のトレントにそれは必要ないのだろう。荒ぶるギター・サウンドも当然ない。トレントがこれまで見せてきた凶暴性は、今はただ静かにゆっくりと浸食していく液体か何かのように感じられ、「Ice Age」という曲があるように、氷で覆われた世界さながらだ。だから敢えて言えば、ただスロー・テンポというだけでなく、そもそもNINで見せている激しさがない作品になっている。落ち着いているという意味ではなく、例えるならオウテカの作品に似た冷たさがある。


 マリクイーンは元々自由な表現をする人なのか、トレントがさせているのか、同じ女性が歌っているはずなのに曲によってその表情を大きく変える面白さがあり、女性ヴォーカルをプロデュースするかのように素材として考えている節も窺える。そしてメンバーであるロスがNIN後期作品を手がけているのに対し、ミキサーのアラン・モルダーは初期作品を手がけており、その2人が関わった結果、初期作品のドライなサウンドが色濃くなっているのは興味深いところ。ある意味では原点回帰しつつ、しかし同じものを作りたくないという意図的なものなのだろうか。そういったことも含め、まだこの先の可能性を秘めたプロジェクトだと言えよう。



(吉川裕里子)

retweet

Daft Punk『Random Access Memories』.jpg

 「世代と言葉の壁を超えて人々の心に直接訴えかけるのは、音楽とアニメに共通する素晴らしい魅力だ」

(2ndアルバム『Discovery』のライナーノーツより引用)


 この言葉は、ダフト・パンクの大ヒット曲「One More Time」のMVを制作するにあたって、彼ら自身が残したものである。人によっては青臭さを感じるであろう、言ってしまえば、子供心を持った夢見がちな大人の言葉。だが彼らはこれまで、その夢で見たことを次々と実現させ、それを可能にする先見性と行動力があった。


 それがもっとも明確に表れているのは、2001年にリリースしたアルバム『Discovery』だろう。このアルバムは、トッド・エドワーズや先日他界したロマンソニーことアンソニー・ムーア、さらには松本零士などを巻きこみ、ハウス、ディスコ、メタル、AOR、ファンクを大胆に溶解させた、さながらポップ・ミュージックの一大絵巻といった様相を呈していた。


 驚くべきは、『Discovery』はリリース後も進化する作品であったということ。リリース当時もかなり話題になったが、『Discovery』にまつわる重要なコンセプトのひとつに、"Daft Club"というのがあった。"Daft Club"とは、リスナーのメール・アドレスと名前、そして『Discovery』に同封された"Daft Card"なるものに書かれた16桁の番号を"Daft Club"のサイトにアクセスし入力することで入れる、いわばインターネット上の遊び場みたいなもの。その遊び場では、ダフト・パンクの未発表曲といったコンテンツに触れることができ、今でいうフェイスブック的性質を持つコンセプトであった(そういえば『Discovery』には、「Face To Face」なんて曲も収められている)。


 その"Daft Club"が生まれた当時は、音楽データの圧縮技術が大きな注目を集めだし、ある程度未来を予見できる者からすれば、音楽の在り方が変化することで生じる問題を憂う状況にあったと、当時13歳だった筆者の記憶には残っている。とはいえ、そうした状況にあっても筆者は、ダフト・パンクの壮大な実験に心を躍らせていた。文字通り、「Why don't you play the game?(ゲームに参加しない?)」(※1)とダフト・パンクに誘われ、まんまと参加したわけだ。実際、インターネットの可能性を提示してみせた"Daft Club"には、とてもわくわくさせられた。


 一方で、その実験精神をプリミティヴに爆発させた2005年の『Human After All』は、不評で塗れるアルバムとなってしまった。今でこそ、ニュー・エレクトロの隆盛を先取った作品として評価されているが、リリース当初は酷評のほうが多かった。確かに、約8週間という短い期間で制作されたがゆえのパンキッシュなワン・アイディア勝負の作風と、「The Brainwasher」「Technologic」「Television Rules The Nation」に顕著な社会批評的側面は、『Discovery』からの流れをふまえればあまりに唐突過ぎたかもしれない。しかし、彼らがあそこまで反骨精神をあらわにするのは珍しいし、だからこそ『Human After All』を愛聴していたのだけど・・・どうやら世間様は違ったみたい。


 何はともあれダフト・パンクは、自身の実験精神と好奇心に従いながら活動してきた。ライヴ・アルバム『Alive 2007』に結実するツアーや、映画『Tron : Legacy』の音楽を担当したときも同様だ。その結果、彼らは常に何かしらの新たな視点や価値観を提供してくれる、いわば開拓者としての側面が色濃くなっていった。


 そんな彼らが完成させた、『Human After All』以来約8年ぶりとなる本作『Random Access Memories』は、その開拓者としての側面は影を潜めている。もちろん、ほとんどの曲で生演奏が大々的に導入されたのは、彼らにとっては新たな試みだ。ファレル・ウィリアムズ、アニマル・コレクティヴのパンダ・ベア、ザ・ストロークスのジュリアン・カサブランカスといった現代のスターたちを揃えながら、ジョルジオ・モロダーとナイル・ロジャースというリヴィング・レジェンドも招きいれる大胆さは、挑戦的と言っていい。


 だが、肝心のサウンドはというと、これまでの彼らが生みだしてきた作品群と比較すれば、自身の音楽的嗜好に忠実なサウンドである。ジョルジオ・モロダーが参加した「Giorgio By Moroder」におけるプログレッシヴ・ロックな展開など、実験的試みもいくつか散見されるが、基本的にはオーセンティックなディスコが全編に渡ってフィーチャーされ、そこに彼らが共に愛聴する70年代ソウルやモータウン・ミュージックを随所に挟みこむような形だ。


 先行シングルの「Get Lucky」がそうだったように、奇を衒うトリッキーなエフェクト使いやイコライジングは少なくなり、親しみやすいメロディーと生演奏によるオーガニックな響きが強調されているのも特徴的。言ってしまえば、本作における彼らはまっすぐなポップ・ソングを作ることに腐心している。しかもそれは、"良い曲は揃っているが派手さはない佳作"と言われかねない作品を生みだしてしまうリスクを孕む姿勢だ。事実、本作には『Homework』の初期衝動も、『Discovery』の華やかさも、『Human After All』の鋭利なインパクトも存在しない。


 とはいえ、その内容だけを見て本作の評価を決めてしまうのは、あまりにも拙速ではないだろうか? 本作のもっとも重要な点は、ロボットになってまで、テクノロジーの発展とシンクロする形で自身の頭の中にあるヴィジョンを現実化してきた彼らが、初めて開拓意識を脇に追いやり、時代の空気に沿うコンセプトを掲げているということだ。


 アルバム・タイトルの『Random Access Memories』、これはコンピューターに使われるメモリの一種"RAM(Random Access Memory)"の複数形だが、このタイトルは、そのRAMの機能と類似するかのように、ネットを通してさまざまな時代/文化にアクセスでき、そこから知識やデータを得られる現在を分かりやすく示唆している。これだけでも容易に示唆を感じとれるが、"世代的に幅広い参加アーティスト群"というトピックを付けくわえることで、彼らはその示唆をことさら誇示しているようにも見える。


 だとすれば、本作を作りあげるうえで彼らが至った心情も、なんとなく想像できる。おそらく彼らは、音楽の在り方が変化している"今"の大部分を肯定している。もっと言えば、その"今"こそが、KISSのポスター、地球儀、ラジオに囲まれた部屋(そう、『Homework』の中ジャケットで見られるあの部屋だ)で見ていた風景なのだ。しかし同時に、その風景が具現化しつつある現実を見て、一種の哀しみ、戸惑いを抱いているようにも感じる。


 これまでの彼らは、ソニー・エリクソンのCMに「hello」と登場し、iPod/iTunesのCMでは「Technologic」が使用されるなど、テクノロジーの発展と拡大に多少なりとも寄与してきた。だがその結果彼らは、自分たちの"感情"をすり減らしてきたのではないか? あくまで自身の音楽的ルーツと嗜好に従う本作を聴いているとそう思えるし、だからこそ、本作における"ダフト・パンクとテクノロジー"という関係が、現実世界の"人間とテクノロジー"を表すメタファーとして浮かびあがってくる。


 テクノロジーの発展により、日常を過ごすうえでの利便性は向上し、コミュニケーションも容易くなったのは間違いない。例えば、クラブやライヴハウスでツイッターのタイムラインと向きあいながら音楽を楽しむ光景は、もはや当たりまえであり、そのことで新たな繋がりが生まれ、コミュニケーションの幅も広がったのは事実である。


 だがそんな状況を彼らは、素直に楽しむことができないのだろう。本作が従来のホーム・スタジオではなく、いくつかの本格的なレコーディング・スタジオを使用して制作されたこと、それから「Get Lucky」の歌詞で描かれた、生身の人間同士がパーティーで出会い惹かれあう様子などから察するに、彼らは現代には"肉体性"が足りないと考え、その"肉体性"を本作に収められた音楽で取りもどそうとしているのかもしれない。だからこそ彼らは、オープニングに「Give Life Back To Music」を選び、この曲に哀愁混じりのノスタルジーをヴォコーダー・ヴォイスと共に仮託した。


 正直、今の時代に生まれて心の底から良かったと思える筆者からすれば、彼らのノスタルジーはいささか頑固に見えてしまうが、ロボットになってから初めて窺わせる彼らの人間臭さは、そんな筆者を惹きつけるのに十分な説得力がある。


 ダフト・パンクを名乗る2体のロボットは、抗えない喪失の哀しみを思いだすよう促している。



(近藤真弥)



※1 : 『Discovery』に収録された「Digital Love」の歌詞より引用。

retweet

吉田ヨウヘイgroup.jpg

 私たちは、あらゆる万物に名前を付けて、わかりやすく理解できるものに変化させている。子どもの頃は感覚で捉えていた物事にも、ちゃんと名称があることを成長とともに理解し、まるでパズルのピースをはめるかのように感覚と言葉を合致させてゆく。


 けれども、大人になってからも言葉では説明しがたいものだってある。言葉では説明できないというか、その状況を表すであろう言葉がたくさんありすぎて、どの言葉がしっくりくるのかわからない。"雨"という漢字をひとつとっても、五月に降る雨を"五月雨"といい、夏の夕方に短く降る雨を"夕立"というように、日本人の感性は情緒豊かであるゆえに、はっきりとしない四季の狭間で揺れ動く天気だったり、心の奥底にある実体の見えないうごめく感情だったり、そういう曖昧なものはいつだって言葉にできない。ただ、そういうものはだいたいニュアンスで感じ取っていたり、本能で理解していたりする。


 吉田ヨウヘイgroupは、「ユーレイ」の歌詞にある一節、《静かにすれば感じられるだろ 少し張り詰めた辺りの気配を 椅子が軋む音、微かに増えた湿気 もう少しかな、声は出さないで》を聴くとわかるのだけど、そういう"言葉に出来ないもの"を柔らかい歌い口で丁寧に歌っている。


 ここで指す"言葉にできないもの"というのは、不幸な状況に陥った時に神様を信じるとか、友達から好かれているという見えない信頼とか、将来良いことがあるように祈るなどといった、一種の"信仰心"を「ユーレイ」に例えて歌っているのではないだろうか。


 柔らかい歌い口と先述したが、《大きな借金を背負ってないのとかも》といった、なんだこれは? と、考えさせられる面白い歌詞が所々にあり、さらにはダーティー・プロジェクターズを彷彿させる華やかな女性コーラスに、pre-schoolの再来かと感じさせるキレッキレのギター。そして、タイトル『From Now On(これから)』の由来となった、工藤礼子と工藤冬里のデュオ・アルバムのような、すっと沁み入る歌声に優しく寄り添うピアノ。ポップスとジャズが融合された吉田ヨウヘイgroupのサウンドは、音源もいいのだけど、まもなく開催される企画ライヴで是非体感してほしい。これからの活躍が非常に楽しみだ。



(立原亜矢子)

retweet

Radio Slave.jpg

 DJという存在は、編集的手法を駆使することで、新たな解釈や文脈をあたえる創造者である。過去の音楽にまとわりついた価値観を塗りかえ、聴き手の固定観念や先入観を取り払い、新しい視点を示してくれる。


 もちろん、その場だけの雰囲気を作りあげることもDJの役割だし、立派な創造的行為だ。しかし、常に音楽の可能性を追求しているDJは、雰囲気を作りあげつつ、実験精神に基づいたチャレンジングな姿勢を忘れない。踊り狂う人々の予想を、期待を、感性を良い意味で裏切り続けながら、次々と曲をスピンしていく。こうした駆け引き上手なDJによるミックスは、プレイに身を委ねる心地よさを生みだしながらも、聴いていてヒリヒリとする先鋭性を突きだしてくる。これは文字通り、スリルに満ちた"飴と鞭"といったところだが、これがDJプレイを楽しむ際の醍醐味だし、だからこそ、マジカルな空間を求め、今でもパーティーに足を運びつづける。


 レディオ・スレイヴことマット・エドワーズは、そんなマジカルな空間を作りだせるDJであり、同時に数多くのオリジナル・トラックを生みだすことで、テック・ハウス・シーンを牽引してきた。さらにジョエル・マーティンとのクワイエット・ヴィレッジでは、レゲエ、ソフト・ロック、AORといったさまざまな音楽をサンプリングし、チルなサイケデリアを醸しだしていたりと、その豊富な音楽的引きだしは多くの人に認められているが、それはマットの最新ミックスCD『Balance 023』でも堪能できる。


 本作はダンサブルなCD1と、ディープかつチルアウトなCD2の2枚組となっているが、特に聴いてほしいのはCD2だ。初っ端から坂本龍一「Only Love Can Conquer Hate」が聞こえてくるCD2は、ヴィンセント・I・ワトソン「Hidden Behind The Eyes」、ポルティコ・クァルテット「Laker Boo」などの新しめなトラックがある一方で、ハービー・ハンコック「Nobu」、フレンチ・ディスコ・クラシックのリンダ・ロウ「All The Night」といったオールド・スクール・トラックを織りまぜることで、あらゆる時代を奔放に行き来するマットの横断性が際立っている。ジャンル的にもダウンテンポ、ハウス、ヒップホップ、ディスコ、ジャズなどを巧みに溶解させ、それゆえ生じる甘美なアトモスフィアで聴き手を包んでくれる。


 また、DJとしてのテクニックが光るCD1と比べ、CD2は選曲のセンスがより剥きだしになっているのも素晴らしい。ビートを繋げていくのがCD1だとしたら、曲が持つ空気を馴染ませながら紡いでいくのがCD2とでも言おうか、その紡がれ方があまりに流麗なもんだから、適温の海に身を投げだしたような陶酔感に襲われる。


 そして、本作を必聴の域に押しあげている重要な要素が、マットの音楽に対する寛容な姿勢だ。この姿勢は、それぞれ異なる背景を持つ者たちが、ひとつのフロアに集まり踊るというクラブ・カルチャーの懐の深さを聴き手に見せてくれる。もちろん人には好き嫌いがあり、すべての人を受けいれろと言われても無理なのは承知。しかし、せめて自分とは違う他者の存在を認め、そのうえで共存していくことはできるかもしれない。強引に他者と交流させる必要はないが、いつでも他者と交流できる環境はあってもいいのではないか? そうした考えをクラブ・カルチャーは一側面として孕んでいるが、そんな一側面をマット・エドワーズは本作において表現しているように聞こえる。そういった意味で本作は、クラブ・カルチャーが持つ最良な部分を教えてくれる作品だと言える。



(近藤真弥)

retweet

さめざめ.jpg

 ネット上でまとめサイトが増えたのもあり、個々人の凄まじいツイート的な感想や情念のようなものさえ、ツリー状に束ね上げられているのを見ると、中りもするものの、基本、衣食住、健康、そして、「性」を巡る周囲での当たり前と思える要因が、人気が高く見受けられる


 そんな中、女子会、女性は強くなった、メス化する社会などと多くの言葉も往来しながら、なぜかそういった際に私は、パスクァーレ・フェスタ・カンパーレが監督した、1967年のイタリア映画『女性上位時代』を想い出す。


 その映画内容の女性「上位」というのは旧弊的な縦割のマチズモ的な男性社会の縛りの中で自由を手に入れ、性的/社会地位的上位性を獲得するという「含み」を持ったもので、そこで「隠匿」されていたのは、"フェミニズムの波"ではなく、おそらく、カトリーヌ・スパークを通して可視化できた幻像なのかもしれず、社会的性をジェンダーと置き、また、生物的性をそのままでセックスと置換し、そこの結び目をどうするのか、という討議はこの2013年でも曖昧になってくるサブテクストが表出する。


 さめざめ、こと主体の笛田さおりの表現はポップながらも少し直截的であるがゆえに、多くの誤謬も批判も同調も巻き起こしながら、こういった一億総評論家的に、ネット、SNSで繋がってしまう趨勢で、何らかのスラングで語られてしまう磁場があったのも否めなかった。


 メロディーからアレンジメントは、とても歌謡的で古き良きJ-POP文法に沿った、遍く郊外型書店でも有線放送でも耐久可能な響きを持った拓かれ方を持っている。また、彼女自身の声もメジャー・デビューというのと無関係ではないかもしれないが、それにしても、先ごろ4月だったか、深夜に、京都市内の寂れた古書店に、ふと日々の疲弊と紛れ込んだときに流れてきた「愛とか夢とか恋とかSEXとか」は、反則のように心の機微を攫ったのを想い出す、とても、デッドエンドな情景。


《愛とか夢とか恋とかSEXとか 嘘とかずるとか頑張る意味とか もういやだ もう疲れた もう誰も信じない 愛とは夢とは恋とはSEXとは あたしにとってなんだろう》

(「愛とか夢とか恋とかSEXとか」)


 とても、大きな、誤解を生みかねない言葉が切々と響きながら、店内に明らかに倦怠を持て余したような上下ジャージの女の子や居場所を探しあぐねているような少年が居たりするのは道理で、自身はさめざめが「性」に向き合い、そこで倦怠を誠実に記すことに「生」を感じもした。


 このたび、『さめざめ問題集』という過去の曲群などをコンパイルした名刺的ベスト・アルバムがメジャーからリリースされるにあたり、より多くの人たちに、さめざめの存在は伝わることになるのか、ならないのか、また、彼女はメディアで子宮頸がんを告白するなど混乱した状況が既にある(筆者注:子宮頸がんに関しては早期発見であり、手術も無事に終えているとのこと)。


 「コンドームをつけないこの勇気を愛してよ」「ズボンのチャック」などのタイトル自体が何らかの好/悪を既に分けてしまいそうだが、笛田自身がさめざめを巡るフレーズに対してインタビュー形式で意味を応える配信用の付録「さめざめ単語帳」では、至極真っ当で誠実な感性が垣間伺える。


 「愛とか夢とか恋とかSEXとか」は、渋谷駅の東横線の乗り換え改札口を渡ったときのいちゃつく安物ドラマを"している"カップルに舌打ちをしながらも、満員電車内で「自分はこのままでいいのだろうか」という嫉妬、被害妄想、孤独、自省が結実した上で、曲になると言っており、いわゆる、避妊具ながら、最近はドラッグ・ストアやコンビニでも簡易に並んでしまっているコンドームというものに関して、"大人になった日常"の延長線上にあるようなものだという言及をする。また、旧来的な言葉、ズボンのチャックにしても、秘匿の前に立つ精神的禁忌性の快楽に置き換えるようなニュアンスを含む。


 亡き澁澤龍彦は、今や認知も為され、名が残った学者・作家だが、彼はサドをアカデミックに取り上げると、アカデミズムからは村八分を受けた。『悪徳の栄え』にしてもそうなのだろうが、なにかしら、日常にもっともらしく明るく埋め込まれているスローガンどおり、世が廻ることはあったのならば、非常に退屈なものになってしまうだろう。ジョルジュ・バタイユを主にして「エロティシズムの社会化」という意味がサドを経由し、はかられたこともあった。


 例えば、サドは『悪徳の栄え』内で、「悪徳こそ人間に固有なもの、それにくらべれば、美徳は利己主義のファルスのようなものだ」なんてことを記している。エゴ、本能と社会性の拮抗は、つねに不自由に制約条件だけを仮定している。日曜日の昼間から新婚の方が出てくる長寿TV番組では、朗らかに「性」が語られるが、つまり、ヒトという生物の因業とはそんな高度化・抽象化したところで、プリミティヴに反転し、それを窃視的に各々が「耳打ちし合う」ことは際立っている。


 後次にて付加される"社会的な性"、と、そこを内側から再定義、蹴破る生々しい性的衝動。それが少しの弾みでは、犯罪が絡むようなことになるのかもしれず、永遠に解決しないような煩わしささえも用意するとしても、さめざめは「みんなおバカさん」という曲で、自身の執着心や孤独に振り回されながら、逆切れのようなテンションで、攻撃性でみんなに対して"おバカさん"と言う。


 但し、「バカばっか」と伝えるがしかし、伝わらないのは、「そういうあなたがバカでしょう」っていうループが郵便性を帯びてくるからだ。


 敷衍するに、「あなたがバカだと思います。」という伝達を、宛先を指定して送ったとしても、届かない。もし届いていたとしても、開封前に漂流してしまうという不完全な構造がいびつに現前する。その構造内で、ただし、誤配的に、宛先じゃない複数的な「幽霊」へ向かってしまう可能性が出てきてしまうのは常ゆえに、だから、さめざめが多少、露骨で直截的な言葉で性的な表象をしても、メタではなく、ベタ認知で「イタさ」を嗤う人たちが居るのだろう。


 さめざめは、とても「真っ当」で「生真面目すぎる」と想ってしまう自身の感性もある。何気なく、ファッション・ホテルに無機的に枕元に置かれている避妊具、ポップ・アップの形式で、広告で浮かんでくる婚活の名の下の綺麗な方々、また、真面目そうな男性の方々、年収や条件の書かれたもの、街を歩いていると、同じ時間に、同じ場所で出会うなんとなく綺麗な女性の方、そして、"I Will Die For You..." 思うに、恋人を喪うことが世界の破局を迎えるかもしれないといういつかの"セカイ系"という概念は、今は少しいびつな文脈が置換され、双方に悲劇の登場人物であるかのような結末をときに過程として備えること。


 「あたしがいなくなれば」という曲では「自己」の喪失、全否定、嘆きをディプレッシヴに突き詰める。身体、心、言葉、あなたという他者を経て、再び「孤」に還らざるを得ない人間の業といいましょうか、そこで、ただ、「ふざけるなよ」という叫びが堰を切ったように発せられるのはひとつのクライマックスだろう。


《ふざけるなよ》


 それは、いつかには通じ合っていたかもしれない「幽霊」への手紙だとしたら、もしかしたら、彼女が投函した手紙の宛先は指定されていなかったのだろうか。同性同士の嫉妬や悪意を晒し、軽やかに語呂も合わせて歌うような曲でも、情念は迸りながら、着地点は切なく残響する。


《あたしがいなくなって あなたは哀しむかな やっと あたしのこと 愛してくれるかな あたしは馬鹿だよ 信じていたんだよ》

(「あたしがいなくなれば」)


 「不在たる性」へ向けた、絶対的で一方的な信頼。女々しいという言葉が死語になりつつある瀬にて、「あたし」はあなたであり、私なのかもしれず、女性ではない主語なのかしれないディレンマ。


 悪徳は、健康的なもっともらしい倫理を剥ぐために機能するのか、ただ、剥がれたあとも「仮面」があるのが今という複層的な時代にて、多重に「ポーズ」が装われてしまう中で、何が真実か、事実かさえも藪の中に掠れる。


 "さめざめ"というネーミングもだから、如何にもと思ってしまい、孤独を誤魔化しがちな今において、「問題集」を提示する姿勢はとても果敢な錯綜という気がする。「生」とは「性」や「業」が絡み合いながら、なんらかの虚しい夜があけたときに、朝が来て、またなにも変わらず残り香だけが、漂流させてしまう。


 この一歩目はまだ、多くの先人たちの「性」から「生」の間を縫う翻訳作業の途中過程に過ぎない。



(松浦達)

retweet

RP BOO『Legacy』.jpgのサムネール画像

 こいつは凄い。最初の音が鳴った瞬間、興奮と緊張が入りまじった不思議な感覚に襲われる。これがおそらく、よく言われる"ヤバイ"というものなんだろうけど、ジューク/フットワーク・シーンの重要人物RPブーのアルバム『Legacy』は、その"ヤバイ"匂いを発している。


 RPブーは、フットワーク・スタイルを明確に固めたトラック「Baby Come On」を生みだし、「Off Da Hook」といったアンセムも残すなど、トラックスマンと比肩する絶大なリスペクトを集めるレジェンド、みたいな背景を押さえたうえで本作を手に取るのも悪くはない。


 しかし本作には、ジューク/フットワークについて何も知らない者が聴いたとしても、シンコペーションを多用したリズムとヴォイス・サンプリングによって生じる奇怪なグルーヴに触れるだけで、聴き手を虜にする魔力がある。言ってしまえば本作は、ジューク/フットワーク云々というところからとてつもなく飛躍した狂気的かつ未知なビートを宿し、そんなビートを平然と鳴らしてみせるRPブーはマジ狂ってる。


 筆者からすると、3分以上のジューク/フットワーク・トラックは長すぎると感じることもあるが、RPブーは尺など関係なくトラックに十分な破壊力を宿し、さらにはクラウトロックに通じる反復の美学も難なく取りこんでしまう。全曲合計約65分の本作に収められたトラックはすべて3分を超えているが、それでも退屈することなくあっという間に聴き終えてしまうのは、音の抜き差しによって曲を組みたてるミニマル・テクノ的手法で、ラフな質感のサウンドを上手く扱っているからだ。その結果、『Strange Weather, Isn't It ?』以降の!!!が強く打ちだす粘着質な酩酊感と類似するグルーヴを獲得している。


 この方法論を如実に反映させたのが、3曲目の「Red Hot」。最初は少ない音数で進行していくこのトラックは、1分10秒あたりからクラップが入ると、そのテンションが徐々に沸点へと向かっていく。そして、1分50秒を過ぎたころに鳴らされるホーン・サンプリングがキッカケとなり怒濤の展開になだれ込んでいくのだが、それゆえ生じるダイナミズムが荒々しくもあり、同時にディープな色気を漂わせているのだから、素晴らしいとしかいいようがない。こうしたトラックを多数収めた本作がリリースされてしまった今、この先も生まれるであろう数多くのジューク/フットワーク・トラックは、とてつもなく高いハードルと比べられることになるのかもしれない。


 そういった意味で、RPブーはまたひとつ、世界中のトラックメイカーに厄介な挑戦状を突きつけたと言える。



(近藤真弥)


retweet

611qkeLy0XL._AA1000_.jpg

 以前にレヴューを書いたDSTVVに関わる《Teen Witch Fan Club》や、ウルトラデーモンを中心とするシーパンクなど、ネット以降における新たな文化創造とコミュニティー形成のプロセスを経た表現は本当に面白い。これらの動きは、様々な文化を渡り歩く軽やかさと全能感を携え加速しているし、「もはや自分が孤立した個人であるとは感じなくなり、自らが、急速に統合するグローバル・ネットワーク、すなわちめざめたグローバル・ブレインの神経細胞の一部であることを知る」(※1)状況をもたらしている。青臭いことを言えば、すでに革命は起きていて、あとはそれに気づいたうえで行動すればいいんじゃないかとすら思える。おそらく、ニューヨークのバンドであるアナマナグチも、そうした状況を愉快犯的に楽しんでいるのではないだろうか?


 アナマナグチは、海外版ファミコンのNESやゲームボーイを駆使した音楽性が特徴で、いわゆる8ビット/チップ・チューン・サウンドを鳴らす4人組バンドである、というと、ニッチな層に好まれるバントと思うかもしれないが、いやいや、彼らのサウンドには実に数多くの音楽的要素が混在している。ロックを基調としながらも、EDM、エモ、さらに「Japan Air」ではJ-POPを大胆に取りいれるなど、あらゆる音楽にアクセス可能となった"今"の恩恵をフル活用した爽快さを纏っている。さらに彼らのメロディー・センスには、聴く人を選ばない親しみやすさがある。


 しかし何より面白いのは、彼らのオタク的側面が爆発した曲名群。「Endless Fantasy」というRPGのタイトルみたいなものもあれば、ネット上で行われている音楽フェスの名称である「SPF 420」。大友克洋原作のアニメから引用したであろう「Akira」。たぶん"暴走族"の「Bosozoku GF」。さらには顔文字を掲げた「(T-T)b」もある。こうした感性は初期のハドーケン!に通じるものだが、アナマナグチはそこからさらに飛躍した過剰さを持っている。真面目な話、これが現在(いま)なんだと思う。



(近藤真弥)




※1 : ピーター・ラッセル著『グローバル・ブレイン』の第5章「進化する現代社会」130頁より引用。

 1  |  2  |  3  | All pages