reviews: April 2013アーカイブ

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ULTRADEMON『Seapunk』.jpg

 ここ1~2年のあいだでよく見かけるようになった"シーパンク"というジャンルだが、特定の音楽を指す言葉ではなく、ファッションなども含めたムーヴメントを表す総称のように思える。


 音楽的にはレイヴ・ミュージックのハイな部分を抽出し、それを土台にダブステップやLAビート・ミュージック、それから80年代のオールド・スクール・エレクトロといった要素をぶちこんだような印象を受ける。そういえば、友人が「Seihoの『MERCURY』はシーパンク」と言っていたが、筆者からするとシーパンクは、ラスティーハドソン・モホークからの影響を多分に含んでいるように聞こえる。異論はあるかもしれないが、筆者がシーパンクを聴いて真っ先に思い浮かべたのは、いま挙げたふたりのアーティストである。


 ヴィジュアル面では初期《Transonic》のコンピレーション・アルバムのジャケット(これこれなど)を想起させるデザインが多く、いわゆる90年代的なセンスを醸しだしている。あえてチープさを強調したCGからは、そのチープさを面白がっている節も見受けられるが、秀逸なデザインになるとそれがスタイリッシュに見えるのだからびっくり仰天。古いか新しいかではなく、面白いか面白くないかという判断基準を重視するポスト・インターネット世代が中心のムーヴメントだからこそ為せる業なのだろう。


 ここまで書いてきたことから推察すれば、シーパンクは音楽的にもヴィジュアル的にもあらゆる要素や文化を折衷させることが前提としてある。これと類似する前提を持っていたムーヴメントといえば、90年代末期から2000年代始めに隆盛を極めたエレクトロクラッシュを思いださせるが、エレクトロクラッシュは意識的にファッション性を打ちだし、その結果として、フォトグラファーや俳優までをもサポート・メンバーに迎えたフィッシャースプーナーのような集団が現れたりもした。こうした流れは、音楽ジャーナリストのポール・モーリーをスポークスマンとしてメンバーに迎えいれたアート・オブ・ノイズにまで遡れるかもしれない。


 しかし、時代の流れや状況に促される形で発生した側面もあるシーパンクと意識的だったエレクトロクラッシュを接続し、そこからアート・オブ・ノイズにまで遡るのは少々無理がある。意識的だったエレクトロクラッシュと、環境に規定された無意識をベースとするシーパンクは断絶しているのでないか? 無意識と意識的の差はかなりデカイと思うし、無意識がゆえの偶発性を持ち、それが従来の文脈や歴史からの逸脱に繋がっているのがシーパンクの面白いところだ。


 その逸脱に寄与した重要な要素がネットであるということに異論はないと思う。事実、シーパンクの多くは、サウンドクラウドやバンドキャンプといったデジタル・リリースが主流だ。だがついに、初のオフィシャルCDがリリースされた。それが本作である。


 本作を作りあげたのは、ウルトラデーモンことアルバート・レッドワイン。シーパンクの第一人者とされていて、過去にはなんとジョセフィーヌ・コレクティヴというバンドのキーボーディストとして《Warner》と契約していたそうだ。しかしわずか18歳で独立し、ファイアー・フォー・エフェクト名義を経て、現在のウルトラデーモンに改名してからは、シーパンクのイメージやサウンドを形作り今に至っている。


 そのアルバートが上梓した本作は、様々な音楽的要素が入り乱れたものとなっている。1曲目の「Chatroom With Enya」は、TR-808風のドラムが淡々と4つ打ちを刻み、それこそ、初期のティガを想起させるエレクトロクラッシュ風味に仕上がっている。さらには『Epiphanie』期のパラ・ワンに近い雰囲気を漂わせる曲もあり、他にもベース・ミュージック、スクリュー、トラップといった要素も取りこむなど、2000年代以降に登場した音楽を網羅的に吸収したようなサウンドが本作の特徴となっている。言ってしまえば、圧倒的なオリジナリティーを聴き手に刻みこむような作品ではない。


 だからといって、音楽的につまらないとするのは早計だ。そもそも過去の音楽を現在の価値観に沿って解釈すること自体は価値ある行為だし、その行為を通して多様な音楽的要素を折衷させ、それをフレッシュに響かせる才能を持つアルバートはもっと評価されてもいいアーティストだ。さらに言えば、そんなアルバートの才能こそが本作の醍醐味である。


 そう考えると本作は、アティチュードとしてのシーパンクを提示した作品であり、もっと言えば、シーパンクはアティチュードであるというアルバートの主張なのかもしれない。だとすれば、本作の寛容性あふれる雰囲気と奔放な音楽性にも納得がいく。それこそゴルジェのように、自分なりの解釈で多くの人がコミットできるムーヴメントなのだろう。実際シーパンクの周辺では、DSTVVのレヴューでも触れたザイン・カーティスの名を目にすることもある。そういった意味でシーパンクは、ネット以降の状況における新たな文化創造とコミュニティー形成のメカニズムを上手く生かした好例としても興味深い。



(近藤真弥)

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『Bankrupt!』.jpg

 ムック版のクッキーシーンにて彼らの来歴については書いたこともあるが、個人的に、彼らがこれだけの世界的にポピュラリティーを得るバンドになるとは想像していなかった。また、ライヴを観るたびにジャンクで決して演奏は巧いともいえず、フランスらしいスマートさとスノビズムに宿る何かは、かの国のボリス・ヴィアンからセルジュ・ゲンスブール辺りの精神的系譜を思うと、直情径行なところが可視できながら、ただ、憎めない、捻くれ者たちが集ったバンドという印象を拭えずにいた。


 振り返るに、ガレージ・ロック・リヴァイヴァル、またはポスト・ロック、エレクトロニカが求心性を高めている中での00年の『United』における時間感覚が明らかに消失したと思しきプロダクションと、80年代的な煌びやかさ、ゴスペル、アーバン・ポップスまでをもひとつの作品に押し込んだ力技はすぐにシーンに受け入れられたという訳ではなく、日本では特に、タヒチ80辺りのセンスがフランスの音楽のイメージ造成に付与していたのも否めなかった。セカンド『Alphabetical』での、反動としてのやや装飾過多で内省的ともいえる内容、06年のサード『It's Never Been Like That』はベルリンへの渡航を契機に、ヨーロッパ的なものを求めようとし、生身のままのバンド・サウンドながら、音の角は矯められており、品の良さも漂う繊細なロックンロールを提示していた。


 そして、第52回グラミー賞にて最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバム賞を受賞し、今やフェスでもヘッドライナーをつとめるポジションにもなり、世界中で愛される存在に押し上げた09年の前作『Wolfgang Amadeus Phoenix』。


 さて、そんな中、この約4年振りとなるこの『Bankrupt!』は、何かしら過剰でいびつな、同時代性はほぼ無関係に、成功した同じ轍を踏まない、彼ららしい作品になっているのは流石だといえる。


 前作からすぐにレコーディングに入ったというが、ニューヨーク、ロンドン、イタリア、パリなどバンドは別々の場所で過ごし、インターネット上のやりとりで楽曲をブラッシュ・アップしながら、結果的には2011年の春、カシアスのフィリップ・ズダールとパリに集まり、24ヶ月に及ぶレコーディングの果てに結実した。そのアイデアの断片は輸入盤のデラックス・エディションで聴ける71曲の未発表曲、デモなどを収録した中からも伺えるものの、本編が10曲とコンパクトに絞られることで、支離滅裂になりそうな帰着点の瀬戸際を縫っているのが分かる。


 リードとして発表された1曲目の「Entertainment!」から煌びやかなシンセが「Too Young」を彷彿させたが、それ以上の過度さで展開され、ディスコ・ポップのような華やぎを牽引せしめている。ただ、そのPVが北朝鮮と韓国をモティーフにしたものであったり、歌詞にしても、《What You Want And What You Do To Me / I'll Take The Trouble Let You Have My Mind(君が欲していること、君が僕にすること、君の頭のトラブルを引き受けていくよ》、《I'd Rather Be Alone(ひとりでいる方がましだね)》というフレーズも残るなど、一筋縄でいかない。


 音楽的な部分での影響では80年代に活躍したフランス人のジャクノ(JACNO)をトーマスは挙げているが、全体を通じて、80年代的なサウンド・メイクが際立っている。AORからブルー・アイド・ソウル、ニュー・ウェイヴの濃厚な色に幾重に織り込まれたエレクトロニクス、ズダールらしいアイデアが散見される。


 3曲目の「S.O.S. In A Bel Air」はこれまでの彼らのポップ・エッセンスが凝縮されたような佳曲であり、旧来のファンも喜ぶのではないかと思う。また、クールなバンドという巷間のイメージを逆手に捉えたバウンシーなR&B調の4曲目の「Trying To Be Cool」では、あえて《I'm Just Trying To Be Cool(僕はクールになりたいだけさ)》と歌う。ミニマルで繊細なサウンドスケープが詰めこまれた7分弱のタイトル曲「Bankrupt!」をひとつの分岐として、後半は少しトーンを抑え目にセクシュアルな気配も立ち上がってくる。10曲目の「Oblique City」では疾走感のあるギターポップで鮮やかに幕を引くのも見事だと思う。


 しかし、今、2013年において、この作品と比肩するものが見当たらない、弧然と、ある種、不気味な躁性とカオスが表前化したものになっているのは面白く、同時に、音楽と文学の対位も密に感じさせる。人工性と慣習から逃れるべき言葉と、その言葉を成立せしめる潜在性。アルバム・ジャケットのアンディ・ウォーホールのキャンベル・スープの絵のようなアートワーク。ありふれたもの、看過してしまいそうなものに、もう一度、"秘密"の埋め込みを試行すること。例えば、ドラッカー・ノワール、ブルジョワ、コカ・コーラのロゼッタ・ストーンなど意味深いフレーズが今作内には見受けられるが、彼らなりのイロニーと切実な想いが混濁し、既存の「固定」意味から、聴き手の想像力の「可塑」へ仮託される。


 人気バンドになった今でも、フェニックスとは、時代感覚や周囲の期待を傍目に、オルタナティヴとポップネスを共存させ、自由に自分たちの好きな音楽を追求するバンドなのだと感じさせてくれる1枚だ。



(松浦達)

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mattiola.jpg

 may.eを名乗る女性シンガーソングライターに出会ったのは、サウンドクラウドを徘徊しているときだった。その出会いはほんと偶然なんだけど、心にスルリと入ってくる歌声(ラップをしている曲も最高!)を聴いた瞬間、見事にやられてしまいました。


 オリジナル楽曲はもちろんのこと、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Stephanie Says」や、マイ・ブラッディー・ヴァレンタインの「When You Sleep」といったカヴァー・ソングにも惹かれた。既存の曲に新たな命を吹きこめる澄んだ歌声は、もっと多くの人に聴かれてほしいと心の底から願っています。


 とはいえ、そんな筆者の願いは本作『Mattiola』をキッカケに叶いそうな気がする。そう思わせるくらいに本作は良盤なのです。


 本作はmay.eにとってのファースト・アルバムにあたるもので、通販で買えるCD盤(現在は申し込みを締め切ったそうです)についてくるmay.e執筆の解説によると、「このアルバムはストーリー仕立て」だそうだ。確かに歌詞を読みすすめていくと、ひとりの女性が抱いた淡い恋心と、それによって生じる苦悩や幸福が鮮明に描写されているのがわかる。届いたCDに同封されていた手紙には、「私の日記のようなもの」と書かれていた。ということは、本作の物語にはmay.eのパーソナルな領域が少なからず反映されているのだろう。それゆえ本作を聴くと、他人の心を覗き見したような気持ちになってしまうのかもしれない。全曲may.eの部屋でレコーディングされ、さらにはiPhoneまで持ちだした宅録環境もそれを助長する。


 音楽的には、リヴァーブを多用したドリーミーなアシッド・フォークだ。ビーチ・ハウスに通じるモダンなドリーム・ポップの要素を感じさせながらも、ティム・バックリィやHarumi(そういえば、Harumiのアルバム『Harumi』をプロデュースしたトム・ウィルソンは、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのプロデュースもしている)などがちらつく、いわゆる60年代末から70年代の雰囲気を醸しだしている。このあたりの折衷的センスは今っぼいと思う。


 それから筆者の耳がおかしいと言われることを承知で言えば、本作を聴いて想起した作品のひとつに、トッド・ラングレンの『Runt』がある。1970年にリリースされた『Runt』は、1曲目の「Broke Down And Busted」が耳に入ると、聴き手と作品の距離が一気に縮まる不思議な親密感を持っているが、この親密感が本作にも存在する。音楽性はまったく違うけれど、だからこそ筆者は、本作と『Runt』をダブらせてしまったのかもしれない。



(近藤真弥)




【編集部注】『Mattiola』は《Tanukineiri》のサイトからダウンロードできます。

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DAVID GRUBBS.jpg

 「かつて宮殿が建っていた平原」、そう名付けられたデイヴィッド・グラブスの新譜をくり返し聴いている。僕が彼の名前を知ったのは、やはりガスター・デル・ソルでの活動を通じてだった。初めて聴いたアルバムは『カモフルーア』。シカゴ音響派だとかポスト・ロックと呼ばれるジャンル/ムーヴメントが注目を集め始めていた90年代後半のことだ。ジョン・マッケンタイアが率いるトータスやシー・アンド・ケイク、ジム・オルークのソロ・アルバムや数々のプロデュース・ワークなどなど...。現代音楽やジャズ的なアプローチを規範とした緻密なサウンド・プロダクションと知的な佇まい。静謐さと過剰さの巧みなバランス感覚。そして、周知のとおりデイヴィッド・グラブスとジョン・マッケンタイアの源流にはハードコア・パンク・バンド、バストロがあった。それは、僕にとって70年代後半のパンクからポスト・パンクへの流れをリアル・タイムで体験しているような感じだった。あからさまに何かの"アンチ"になっていないところが00年代に移り変わる頃の気分にぴったりで、「音楽はまだまだ進化するんだな!」ってワクワクさせられた。


 ガスター・デル・ソルの解散からソロになっても、デイヴィッド・グラブスには一貫したスタイルがある。それは彼のヴォーカリストとしての歌ごころ。僕が彼の音楽を大好きになった理由でもある。「音響派」って括られるバンドやミュージシャンの多くがインストをメインにしているけれど、デイヴィッド・グラブスは決して歌をあきらめない。「実験性」という名目で、声やメロディをサウンドのひとつのパーツとして扱うこともない。しかも、その歌声は朴訥だとさえ思えて、ちっともクールじゃない。ヴォーカリストとしては、技巧的ではなくて情緒的。けれどもそれが(今ではちょっと古びてしまった)「音響派」というタームからもはみ出して、個性と普遍性を両立させている。聴くたびに色彩を変えるサウンドと歌とのコントラストは、ソロとして6枚目となるこのアルバムでも鮮やかだ。


 実験的なサウンドに普遍的な歌を重ね合わせるというアプローチ。「実験的」って言葉は敷居が高くて、聴き手を限定してしまうことがあるのも事実。「革新的」やら「冒険的」って言い換えても同じこと。けれども、そこに誰の耳にも入り込みやすい「歌」を重ねてみたらどうなるだろう? 実はそれこそが二重の意味で実験的なのかもしれない。ポピュラリティを得ることもできるだろうし、音楽的な表現力の可能性もグンと広がるはず。たとえば、ジェームズ・ブレイクが1stアルバムで静かに歌い始めたときのように。ダンス・ミュージック・シーンのド真ん中を突っ走るアンダーワールドでも言葉を連射していたカール・ハイドが、ソロ・アルバムで儚いメロディを聴かせてくれたように。デイヴィッド・グラブスとはキャリアもジャンルも違うけれども、僕はこのふたりを思い出したりもした。


 "失われた何か"を連想させるタイトルどおり、アルバムにはゆったりと時が流れている。決して懐古的でも、悲観的でもないところがカッコいい。ヴォーカルが入っている4曲はどれもポップで、ちょっと笑えるし。「I Started To Live When My Barber Died(僕の床屋が死んだとき 僕の人生は始まった)」だとか「The Hesitation Waltz(ためらいワルツ)」だとか、なんのことやら! もちろん、サウンドも相変わらず最高だ。シンプルなアコースティック・サウンドから、人懐っこいメロディ、その出自を彷彿とさせるハードコア・ノイズや不穏なドローンまでが自由に飛び交う。「かつて宮殿が建っていた平原」では、デイヴィッド・グラブス自身の歩み、そしてポスト・ロックという音楽の過去と現在と未来が交差しているかのよう。ジャンルを飛び越え、歌い続けるデイヴィッド・グラブスの「実験」音楽は、今でも僕たちの既成概念を揺さぶる。それはとても心地良い刺激だ。このアルバムが多くの音楽好きの耳に届きますように!



(犬飼一郎)

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マッドエッグ『キコ』.jpg

 音楽を聴いたときの衝撃は、そのままの形をとどめることはない。初めて聴いたときの衝撃を味わおうと、何回も聴いているうちにその衝撃は薄くなり、興奮の度合いも下がっていく。とはいえ、これは決して嘆くことではない。ほとんどの音楽に当てはまることだし、興奮と衝撃を味わった過去の記憶は聴き手のなかに刻まれる。それに、過去の記憶に触れるための導線として繰りかえし聴かれるのだから、やはり"残す"という行為は尊い。


 しかし、ごく稀に、いつの時代、場所、状況で聴いても新鮮な気持ちにさせてくれる音楽も存在する。それはどういう音楽なのか? もちろん人それぞれ異なるが、その音楽は聴き手にとっての大切な宝物として、おそらく死ぬまで鳴りつづける。筆者にとって、マッドエッグの音楽とはそういうものだ。最新作である『Kiko』を聴いて、その思いを強くした。


 前作『Tempera』から約11ヶ月ぶりのアルバムとなる本作は、聴き手が見ている風景をガラリと変えてしまう音が詰まっている。過去の作品群では、フライング・ロータス以降のビート・ミュージックからの影響を感じさせるなど、他の音楽と共振するわかりやすい要素が目立っていた。しかし本作においてマッドエッグは、孤高とも言える境地に達している。ダブステップ、ヒップホップ、ブレイクビーツ、UKガラージなどを徹底的に溶解させ血肉とした音楽性には、他ジャンルと交わることがない孤独感を漂わせながらも、確固たる独自性を獲得した風通しの良さがある。


 だが、何よりも興味深いのは、多彩な音色が内包する豊穣な風景である。これまでもマッドエッグは、懐かしさを抱かせるノスタルジックなアトモスフィアや、先鋭的な音から生じるSF的風景を見せてくれたが、過去から現在、それから未来までをも自由に行き来する本作には、そのすべてがある。音に込められた感情も、喜怒哀楽には到底収まらない多様なものだ。さらに言ってしまえば、音が歌っているようにも聞こえる。こうした作品を作りあげる才能を開花させたマッドエッグは、トラックメイカーというより、シンガーソングライターなのかもしれない。くるくる回せば絵柄が変わる万華鏡のように華やかな本作は、そう思わせるだけの才気が迸っている。それにしても、この才気はどこまで伸びていくのか? それを考えると恐ろしくもあり、楽しみでもある。



(近藤真弥)

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AUFGANG.jpgのサムネール画像

 おそらく、多くの人に待望されていた一枚だとも思う。先ごろの来日公演も記憶に新しい、ピアニストのフランチェスコ・トリスターノ、00年に彼とNYのジュリアード音楽院時代に出会ったラーミ・ハリーフェ。ラーミ・ハリーフェといえば、レバノンの作曲家にしてウード奏者の父、マルセル・ハリーフェとの活動としても有名だが、ピアニストとしての評価も近年、高まっている気鋭の一人。そのラーミの幼馴染みが、フレンチ・エレクトロを代表するユニットたるカシアスに属し、ときにフェニックスでドラムも負うエイメリック・ヴェストリヒ。この三人による2ピアノ、1ドラム形式を取りながら、エレクトロニクスも含め、ダンサブルで肌理細やかなグルーヴを生み出すグループがアウフガングである。05年のバルセロナのソナー・フェスティバルを機に作られたというから、キャリアも8年ほどになる。


 セッション的には三者三様、設計技師のような緻密な感性も溶け込み、まだ固まりきっていない部分があったものの、この『Istiklaliya』は、そういった欠落を十二分に埋め合わせた快作となっている。ブラント・バラウワー・フリックのようなディープ・ミニマル的なトランスをもたらす曲もあれば、ジャズとテクノのクロスオーヴァーに果敢に挑んでいた初期のジャザノヴァのEPに通じる温度から、どことなく、アシッド・ジャズ的なノスタルジーを感じる人もいるかもしれない。


 電子音そのものがオーガニックで粒だっていなく、そこに流麗なピアノの音色が重ねられることで、しなやかに音空間が拡張される。これが《InFine》からリリースされていることも興味深い。思えば、独ミュンヘンの《Compost》がシリーズ・コンピレーション『Future Sound Of Jazz』をリリースしていたとき、当時のオーナーたるマイケル・レインボースは、その際の"ジャズ"とは既存のジャズのスタイルそのものを負っているのとは違い、それはあくまで、ジャズが輝かしかった60、70年代に奮闘していたミュージシャンの気高い精神性を意味すると言っていたが、トリスターノ自身もクラフトワーク、ジャン・ミシェル・ジャールの影響を受け、また、カール・クレイグと組んだ作品を出すなど、テクノ・ミュージックへの薫陶とカヴァー・センスはテクノ界隈でも認められている。それでいながら、ドイツの《Grammophon》という由緒正しい老舗のレーベルから、ブクステフーデ、バッハをヤマハCFXで再解釈した作品を出すという、まさに既存のスタイルを負うのではなく、温故知新、気高い精神性のもとで、歩みを進めている。


 今作は、9曲とゴースト・トラック「Overture」を入れて、55分ほどの自在な音絵巻が繰り広げられる。冒頭の「Kyrie」は、アンダーワールドの02年の『A Hundred Days Off』あたりを彷彿させる柔らかさとバウンシーなムードがフロアやライヴで映えることを既に確約しているとも思える佳曲。ツイン・ピアノがビートを刻むように熱を帯びてゆく次曲の「Balkanik」では、エフェクトの効果もあり、6分弱とは思わせない鮮やかなグルーヴが宿っている。無論、IDM的側面が強い「Abusement Ride」のような曲もあるが、そこでは朗々とヴォーカリゼーションも披露され、どこかデモーニッシュで不穏なままにリプレゼントされる。


 サイケデリックでトリッピーなムードが本作に通底するのも、ひとつの要因に挙げられるかもしれない。表面上はテクニカルに、スムースに組み立てられているように聴こえるが、「内実」では、奇妙な前衛的な実験と試行が何度もおこなわれている気配が残る。これまでの彼らは、それがライヴ以外の録音物では収まっていない感じもしていたが、断片的ながらも、確実に皮膚感覚に突き刺さる。


 現代音楽的なセンス下のケージ、ライヒから、ザッパが持つドロドロと煮込まれたアヴァンギャルド性、そこに、昨今のモダン・クラシカルの趨勢を織り込み、偶然と抽象性をアート的に高めたという感覚との共振。また、タイトル名も「African Geisha」や「Diego Maradona」など、野放図なところもあるが、その曲名から浮かぶ中での音楽を想像して聴くと、そうとも捉えられない。


 雪崩れるように、獰猛に音や構成が内破されてゆく8曲目の「Stroke」などは、否応なく昂揚する音そのものの快楽性も高い。奇妙なリズム展開、80年代前半のエレクトロ要素さえ感じるガラージ・サウンド、ここまで挙げてきたように、多くの音楽遺産の語彙群からのインスパイアも感じられるがゆえに、散漫なイメージを持つかもしれない。ただ、何も先入観を持たずに対峙すれば、多彩なイメージが輻射される。それでいいと思う。プログレッシヴに求心性を増した今作からアウフガングは真っ当に傍流を往けるのだという気がするからだ。まさしく、今そのものの時間論を越えるダイナミクスが詰まっている今作に喝采を送りたい。



(松浦達)

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PEACE『In Love』.jpg

 なぜか最近、英バーミンガム出身の4人組バンド、ピースのデビュー・アルバム『In Love』をよく聴いている。もちろんお気に入りなんだけど、何度聴いてもなぜ大好きなのかよくわからない。だからこの場をお借りして、本作にハマっている理由をいろいろ考えていきたい。


 まず、英ガーディアン誌が「インディーの未来」と祭りあげるように、筆者も本作にイギリスのロックを担える輝きを見いだしたと思ったのだが、それはピースというバンドには似合わないと思う。ザ・1975のようなスタジアム・サウンドを鳴らしているわけではないし、ガンガン前に出るアグレッシヴさがあるわけでもない。まあ、「未来」と言いたくなる気持ちはわかる。よく言われるように、イギリスにおいてロックは、これまで持っていた絶大な影響力を失いつつある。しかし、これはイギリスのロックがつまらないのではなく、ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラが言う「アメリカの子供たちにとって、ロックはどんどんニッチなジャンルになりつつある」(ミュージック・マガジン2013年5月号のインタヴューより引用)状況が、イギリスでも広がっているということだろう。だから筆者はイギリスのロックがつまらないとは1度も思ったことないし、ましてや"終わった"なんて、脳裏をよぎったことすらない。100歩譲ってイギリスのロックが本当に死にかけているとしても、救世主の役割が似合うのは、パーマ・ヴァイオレッツやザ・ストライプスだろう。なので、ピースを未来云々と捉えるのは少々無理がある。


 では、時代の先を行く音楽性に惹かれた? とも考えたが、それはもっと違う。ピースの音楽性はお世辞にも革新的とは言えない。ハッピー・マンデーズのような、いわゆるマッドチェスター・サウンドを基本としながら、C86やアノラックを想起させる瞬間もあるなど、言ってしまえば、新しさは皆無に等しい。収録曲の「Step A Lil Closer」と「Float Forever」の2曲が、この推察を助長する。「Step A Lil Closer」のサウンド・プロダクションは『Sandinista!』期のザ・クラッシュと類似するし、さらに驚くのは「Float Forever」である。この曲の歌いだしは、ザ・ビートルズの「A Day In The Life」にそっくりなのだ。初めて聴いたときは思わず口をあんぐりさせてしまったが、こうもあからさまにやられてしまうと、まさに痛快そのもの。


 ここまで、ピースにハマっている理由を消去法的にあれこれ考えてきたわけだが、最後に残ったのは、彼らは好きな音を躊躇なく鳴らせる快楽主義者の集まりだから、である。音楽は、送り手が鳴らしたい音と聴き手の求める音が必ずしも合致するとは限らない。特に、多くの人に届けることを目的としたポップ・ミュージックでは、そのジレンマが足枷になることも多々ある。とはいえ、そのジレンマがポップ・ミュージックに歪さをもたらし、それが面白さとなって多くの人に届けるための起爆剤となるのも、また事実なのだ。だからこそ筆者は歪な面白さに取り憑かれ、今でもポップ・ミュージックと腐れ縁の如く付きあっているのだが、ピースにはジレンマがまったくない。そりゃあ好きな音を自由に鳴らせるわけだから、当然と言えば当然だ。しかし、ピースが持つこの自由な雰囲気に、筆者は惹かれたのだと思う。THE BAWDIESや毛皮のマリーズがデビュー当初によく言われた"まんま"という揶揄、それからオレンジレンジの「ロコローション」に対するパクリ批判が横行した時代を遠い過去にしてしまうフリーキーさとでも言おうか、そうした怖いもの知らずな側面が本作にはある。


 ネットを介してあらゆる時代の文化にアクセスできる現況については至るところで語られているが、そうしたネット以降の感性は、新しい音が"今"と直結しない状況を作りあげてしまったのかもしれない。そんな状況のなか登場したピースは、新しい音が"今"なのではなく、面白い音が"今"なのだと告げている。てのは考えすぎでしょうか? いや、もしかすると確信犯かもしれない。「Follow Baby」までは平和/反戦運動のシンボルとして使われているピース・マークをモチーフにしたジャケット・デザインを貫いているし、もっと深読みすれば、そのうちの1枚である「Delicious」は、ストーン・ローゼズのトレード・マークとして有名なレモンに対するオマージュに思えなくもない(ピースはスイカだが)。そしてトドメは、レコード・ストア・デイ限定シングルの「California Daze」だ。このシングルのジャケットはなんと、スマイリー・フェイスである。あの黄色いスマイルを見て思いだすのは、やはりセカンド・サマー・オブ・ラヴだろう。偶然にしてはあまりにも出来過ぎだ。


 こうした奔放さが続くかは不明だが、とりあえず、この奔放さがピースというバンドを興味深い存在にしているのは確かだ。



(近藤真弥)

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LILLIES AND REMAINS「I Survive」.jpg

 昨年からの彼らの動きは活発で、目まぐるしかった。フロント・マンたるKENT自身の原点回帰のようで、原曲の持つ重さを上品にかつスタイリッシュに再構築してみせたカヴァー・アルバム『Re/Composition』のリリースでは、それまでのファン以外でも日本で独自の美意識を貫き続ける彼らの存在性により注視されるようになった。ハシエンダ大磯フェスティバルへの参加。世界的なバンド、PURPLEとのトリプル・スプリット・アルバム『Underrated』での充実した新曲の披露。例えば、その中でも「Final Cut」に関しては過去曲「Moralist S.S.」や「devaloka」などと並び、新しくもこれまでとこれからを架橋するもので、ライヴでも映えていた。


 そして、THE NOVEMBERSとジョイントしたイベント"Sigh"では、新たな同世代のバンドとしてひとつのシーンを着実に形成してゆく萌芽があった中、満を持して、ということになるだろうか、LILLIES AND REMAINSとしてのシングル「I Survive」が届けられた。まずは、公式HPで公開された新しいヴィジュアル・イメージに驚いた方も多いと思われる。基本、そのときのモードを刻印してきたといえるが、シックで冷ややかな質感はそのままに、鎖、KENTのリーゼントに革ジャンなどが静かな怒りを醸している印象を受ける。表題曲の「I Survive」は過去になくアグレッシヴなリフ主体のパンク・チューン。旋律のなめらかさや音響美は彼らの真骨頂といえるが、これまでがUKのポスト・パンク、ニュー・ウェイヴの色味が濃厚だったのを思うと、70年代のニューヨーク・パンク・ムーヴメントに属するバンドの音や詩情がよぎる。テレヴィジョン、リチャード・ヘル・アンド・ザ・ヴォイドイズ、デッド・ボーイズ、『Re/Composition』でもカヴァーしていたスーサイドなどの因子。特に、トム・ヴァーレインの持つ知的で内側に憤怒、失意が滾っている感覚をトレースできるかもしれない。


 70年代のニューヨークにおけるパンクとは音楽的による反抗心と芸術的な感性を取り戻すことが大きく、今回、具体的な曲名に「I Survive」、「You Won't Care」、「Real」と"YOU"を巡った痛みと、わずかな前を向こうとする気概がこれまでにない直截的な言葉によって紡がられながら、政治的・社会的・経済的情勢への反抗を軸としたロンドン・パンクではないというのが彼らの捻じれ方も示唆しているような気もする。


 また、優雅にスタイリッシュに美意識を音像の中に研ぎ澄ませてきた来し方や都度、大江健三郎、インドの宗教観、トランスパーソナル心理学などのテーゼ下に物質的社会への抗いをリリシズムとして書き替えようとしてきたとしたならば、今作では、よりシンプルなKENT自身の「個」の深奥に持つ(抽象的ではないが、哲学的な)感情の錯綜を帯びているのも感じる。


 表題曲に通底する空気で個人的に想い出したのは、レディオヘッドが昨今のライヴで披露し始めている新しい曲である「Full Stop」のムードだった。最近の少し難解なグルーヴを持ち始めている中で、リリックと展開が直截的になっており、《All The Good Times》という晴れやかなフレーズも残る。では、これは"退転"なのかというと精緻には違うと思う。例えば、「I Survive」には以下のフレーズが残る。


《Cause You're Alive To Feel Me , I Survive / Living With Great Pains , It's Normal Life. (君が僕を感じるのならば、僕は生き抜こう / 痛みとともに生きること、それが当たり前の人生だ》(「I Survive」)


 狭間には、《Too Late(遅すぎた)》、《Emptiness(空虚)》、《I Can't Reset(もう修復できない)》といった、そんな想いも吐露される。また、ネオアコ的な穏やかで柔らかな旋律にシンセが絡む「You Won't Care」では、《Before You Know It , Time Is Around You / How Can You Resist Time? It's Up To You.(君の知らない間に、既に時間は君を取り囲んでいる / どうやって時間に抵抗する?それは君次第だ)》と投げかけ、《How Does It Feel To Be Alone?(一人になるのはどんな気分だろう》と途方に暮れたように、繰り返す。ニュー・ウェイヴ的意匠と従来の彼らの色を受け継いだ「Real」でも憔悴の影が落ちている。


《I Know My Soul Is Not So Vibrant. / Just Waiting For Things That Inspire Me. / These Are Many Cracks In The Road We Stand. / So, We Couldn't Take A Life Worth Living. It's "REAL" / Girls, Money, Friendship Appeared In Our Life As A Bug. (今、僕の魂は活力がないのはわかっている / 自分をインスパイアしてくれるものを探しているだけだ / 僕たちの立っている道には沢山の罅が入っている / だから、価値のある人生を選択できなかったんだ それが"現実" / 女、金、人間関係がバグとして人生にあらわれてくるんだ)》(「Real」)


 ここで、ルドルフ・ウィトカウアーの呈示した「アレゴリー」と「シンボル」という概念を援用してみると、分かるものもあるかもしれない。例えば、平和には鳩や民衆の列、子供の笑顔、春には桜や光といったアレゴリーは可能なのかといえば、そうではない疑念も擡げてくる。無論、シンボライズされたそれらが指す意味領域は可視化できる。但し、アレゴリーとは過去の膨大な歴史の集約で今瞬間の現実の縁をまわるものであり、アレゴリーが貧困になるほどに想像力や認識到達力が褪せてゆくともいえる。この「I Survive」でのアーティスト写真、ジャケット、曲までアレゴリーに細部が整えられている。その細部は穿たれるべき外延なのか、知的技法の妙なのか、それは聴き手に預けられていると想える。リアリティと、個たる人間が抱える汎的な懊悩と喪失が散見しながら、3曲を通じて、何故か重さを感じないのは曲の強さもあるが、彼ら自身の歩みが決して順風ではなく、困難含みだったからかもしれない。


 今、この混沌とした瀬で、繊細なまでに「あなた」を見据え、生き抜くことを歌う。明らかな変化を遂げつつある彼らの一歩を刻印したシングルとして感慨深い。



(松浦達)


【編集部注】2013年5月15日リリース予定

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Slava『Raw Solutions』.jpg

 数えきれないほどの要素を交配したハイブリッド・ミュージックは、筆者がこのレヴューを書いているあいだにも数多く生まれている。そんな現状において、無理に単一タグで括ろうとするのは、もはやナンセンスなのかもしれない。


 いまや、メディアが新しい音楽に適当なジャンル名をつけ、先頭に立って扇動していくのは不可能に近い行為となってしまった。サウンドクラウドやバンドキャンプで音源を漁っていればわかるように、今はアーティスト自身がジャンルを決め、複数のタグをつけるようになった。それはおそらく、ひとつのジャンル名だけでは自身の音楽を説明できないからだ。しかし筆者からすれば、それでも説明できていないし、言ってしまえば、説明する必要もないと思っている。多くの評論家やレコード・ショップは困るかもしれないが、ジャンルという記号から音楽がするりと抜けだしていく様は、見ていて痛快な気分にさせられる。


 こうした音楽のひとり歩きは、間違いなく音楽文化を面白くしているし、新しい価値観と視点を孕んでいるという点では、音楽の在り方を更新したとも言える。筆者はそんな"今"を心の底から楽しんでいるが、本作『Raw Solutions』を上梓したスラヴァもまた、"今"を楽しんでいるようだ。過去にシカゴ在住経験があり(現在はニューヨークに住んでいるそうだ)、そのせいか、去年リリースしたEP「Soft Control」ではシカゴのジュークを取りいれていたが、本作におけるスラヴァは、そのジュークを見事に血肉とし、独自性を獲得している。


 とはいえ本作は、ジュークだけで構成されているわけではない。「I Know」はディープ・ハウス的エレガンスを漂わせているし、「Heartbroken」では、LAビート・ミュージックに通じる脱臼グルーヴを披露している。だが何よりも興味深いのは、「Crazy Bout U」である。壮大なシンセ・サウンドから始まり、次にジュークのリズムが流れこむ展開は、ゴールディーのドラムンベースを想起させる。おそらくゴールディーを意識してはいないと思うが、結果的にこうなったのは面白い。基本とするBPMが近いこともあり、以前からドラムンベースとジュークの相性の良さは指摘されていたが、ブルックリンのインディー・ミュージック・シーンに通じる本作でそれをあらためて実感できたのは嬉しい驚きだ。


 《Pitchfork》に『The New Electronic Brooklyn Underground』という記事がアップされたことからもわかるように、ここ数年の間でブルックリンのインディー・シーンには、テクノ、ハウス、ディスコといったダンス・ミュージックが流入し、盛りあがりを見せているが、本作はそこにジュークを持ちこむ本格的な契機になるかもしれない。そして、インディーというタグに新たな文脈を接続したモダン・ポップ・ミュージックとしても高く評価されるはずだ。



(近藤真弥)

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Vol.1.jpg

 デデマウスの昨年の新作『sky was dark』は自主レーベル《not》からリリースされ、多くの反響を呼んだ。そのレーベルからの第二弾は、変化球と言おうか、この今作である。RFについて説明しておくに、ギタリストの成川正憲氏が率いる六弦倶楽部と、元・レコードショップのバイヤーにしてDJ /コンポーザーのFarahのユニットである。DJが所属することで、ヒップホップ、ジャジー・ソウル、サンプリングの素材性を活かしつつ、生演奏での間合いと巧みな流れが作られる。そのRFと、デデマウス自身の影響の受けた楽曲群を彼らが演奏をしながら、初プロデュースしたというのが今作の内容で、"MIX CD"と呼ぶにしても、特殊な性質のものになっていると思う。


 1曲目は、プレフューズ73が01年にリリースした『Vocal Studies + Uprock Narratives』から、「Radio Attack」。当時のプレフューズ73ことスコット・ヘレンといえば、いわゆる、ボーカル・チョップという技法を巧みに使い、膨大な情報量をカット・アップしてみせる気鋭にして、ポテンシャルの見えない不気味さもあった。今でこそ、ラップのサンプリング、再構築の上で、切り刻むボーカル・チョップという手法は当たり前になったといえるが、そのときには斬新な前衛性と快楽性を止揚する何かが内在していた。無論、《Warp》系譜にして、エイフェックス・ツイン、スクエアプッシャーなどの血を受け継ぎながら。


 そんな原曲に対して、いきなりメンバー間の放送禁止用語の英語と楽しい談話から静かに演奏が始められる。RFの演奏に、電子音が混ざりあうことで、オマージュというよりも、現時点での新たな再解釈として、例えば、ザ・ルーツは有名だが、クラウンシティー・ロッカーズ、生音でオーガニックなヒップホップを紡ぐグループ、イタリアのスキーマ・レーベルに通底し、築きあげたスムースな温度への近接も感じられる。他方、日本ならば、Special OthersやNabowa辺りの音そのもので魅せるバンドの持つ空気感を想い出してもいいかもしれない。つまり、本作では選曲や原曲との差異を楽しむ、そういうものではなく、デデマウスとRFが組み、テクノ・クラシックから自身の曲までを緩やかに紡ぎ直そうという、そういう試行であり、ポップ・ミュージックを巡る贅沢な遊びをなぞる。


 YMO「Tong Poo」、ダフト・パンク「Revolution 909」、ジェフ・ミルズ「The Bells」という前半の流れもまさしく彼の音楽をよく知っている人ならば、納得の選曲になっているだろうが、そこにガット・ギター、ベース、ドラム、煌めいた電子音などが入り、化学反応と言おうか、緩やかな余地を残す。テクノ・クラシックと呼べる曲でも、なんらかのそういった、いとまがあるのも今作の特徴で、対話や瞬間の雑談も入ってきたり、つまり、弛緩内に緊張が内包されている。それも入れ子構造のように、緊張的でスリリングな演奏が、ときにそういった弛緩を喰い合うように、特殊な性質と称した語義と矛盾はなく、不思議とMIX CDの名が相応しい、そんな繋ぎの絶妙さも確かにある。


 6曲目のジャズ・スタンダード「My Favorite Things」では、成川氏のギターだけが雄弁に響く。MVでも公開された8曲目の「Squarepusher Theme」では、本作の裏テーマといえる、エレクトロニック・ミュージックでの生音のバンドによる咀嚼の方法論が浮かぶ。


 そして、プロデューサー名義たる彼の最新作からも「Floats & Falls」が選ばれているが、多摩センター用エディションとも違い、生演奏による黄昏とレイドバックの中にあのカット・アップされたサンプリング・ヴォイスが撥ね、曲元来の輪郭は残しながら、柔らかに融解してゆく。デデマウスが追求してきた音風景は或る意味で、『sky was dark』で完成形とまではいかないが、ひとつの到達点を迎えた節がある。郊外をテーマにした音絵巻、ブックレットの添付された物語とともに、コンセプトは極められ、その後のライヴ・ツアーにおける再像化とともに、よりダイレクトに映像と組み合わせたフィジカルで美意識の貫かれたパフォーマンスは鮮やかだった。


 そういった面で、急速に周囲からの求心性は高まりつつある中、本作のプロジェクトでは、自身もそこに参加しながらも、外部から、ときに自己対象性も無いまま、その場での音の中で気ままに戯れるように己の原点を確認しながらも、音楽そのものの楽しみをもう一度見出そうとしている。だからこそ、ジブリが好きな彼が『ハウルの動く城』から久石譲氏の「人生のメリーゴーランド」をピックしているのも"らしい"といえる。


 もしも、デデマウスを知っていた人やこれから知る人がこの作品に出会うことは、彼の来し方を想えるということでもあり、同時に、音楽とはステレオタイプや、決まった鋳型はない、そういう自由を感じさせてくれることだろう。有機的で贅沢な音の漣が空気を揺らし、じわじわと「音楽」を形成する、その過程からダイナミクス、それを体感できると思う。



(松浦達)

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InFiné By JMJ.jpg

 ジャン・ミッシェル・ジャールといえば、真っ先に1976年の『Oxygen』を想い出し、記憶を反芻する方も居るかもしれない。組曲形式にアナログ・シンセがスムースにかつトリッピーに聴取者のイメージを広げてゆく、今聴いても色褪せない作品。今や、ワールドワイドにフランスを越え、活躍し、ヴァンゲリスとも比肩するアーティストだが、ジャンの方がやや荘厳さやもったいぶったところが稀薄なのはあるかもしれず、「反復」がベースになり、フレーズが淡やかに変わる、その差異にふと魅せられるところを個人的に感じる。なお、このアルバムの邦題は『幻想惑星』だったのも意趣深い。


 そもそも、彼の父は周知のとおり、モールス・ジャール。『アラビアのロレンス』、『ドクトル・ジバゴ』を始め、ルキノ・ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』、日本の伴野朗の『落陽』まで幅の広さのみならず、多くの映画音楽を手掛け、音楽監督をしてきた巨匠だが、その父の影響を受けながらも、現代音楽そのものへの再考と試行、そして、その轍を確かに残してきた。


 また、ミュージック・コンクレートの始祖ピエール・シェフェールへの師事も大きかったといえるだろう。"ソルフェージュ"として、音程、リズム、和音などにおける楽典を援用した上での和声学、対位法などへの意識と、現代音楽/電子音楽の分岐で抽象性を帯びてしまいがちな概念に芸術、アートを編み入れ、それをあくまで実験工房内に籠もらず、巷間に届けた姿勢はやはり偉業であり、異形のアーティストと言えるかもしれない。


 100万人をも動員するライヴを行ない、W杯や世界的なイヴェントには欠かせず、作品は都度、リヴァイヴァル、再評価を得るなど、いまだ新しいファンも絶えない。


 そんな彼が64歳にして、《InFine》のカタログから12曲をセレクトするという意欲的な作品がこの『InFiné By JMJ』になる。


 《InFine》といえば、元・レーベル運営者のアゴリアをはじめ、アパラット、クラシック・ピアニストのフランチェスコ・トリスターノ、その彼も参加するアウフガングなど多岐に渡るアーティストが所属し、特殊なカラーを持つことで有名だが、フランスのリヨンをルーツにするアーティストも多く、ジャン自身もレーベルそのものへの想いに併せ、リヨンという場所における共振もあったという。


 簡単に、目立った曲を触れてゆくに、2曲目のマルコフ「Como Quisiera Decirte」。メキシカンのフェルナンド・コロナによるマルコフはキャリアも既に長く、相応に評価を受けているが、この曲ではミニマルなビート、タンゴ調のリズムの上に鼻にかかった彼の歌声が映える佳曲。ジャンは取材において、彼のラテンの要素と前衛的でアブストラクトな部分をうまく折衷したところに好意を示している。


 4曲目のアウフガングはニュー・アルバムも4月にEUではリリースされたが、トリスターノとラーミ・ハリーフェのツイン・ピアノ、ドラムなどを担当するエイメリック・ヴィストリヒという幼馴染み、同級生で結成され、フェスやイヴェントでのパフォーマンスの評判も高いトリオだが、この「Soner」はツイン・ピアノの旋律が美しく絡むテック・ハウスであり、クラシック。9曲目のアゴリア「Under The River」は2分半ほどのアンビエント色の強い曲である。


 本作では唯一、二曲選ばれているのがロヌ。ロヌとは、エルワン・カステックスによるプロジェクト名であり、マッシヴ・アタックなどからも注目される気鋭。トライバルなミニマル・テクノ「Tasty City」、スペーシーなIDM「Parade」で彼の振り幅の一端を伺える。


 この12曲を通して、それぞれのアーティストの個性も見えてくるが、ジャン自身の感性のアンテナの向こうとしている先がぼんやりと聴こえてくるようなのが、興味深い。それは、ゾンビー、エール、ファック・ボタンズ、ジャスティスなど、現代のアーティストたちの音に感銘を受ける、というエピソードからしても、エレクトロニック・ミュージックそのものへの貪欲な意志は衰えていないことがわかる。


 この『InFine by JMJ』でも、鋭利な知性と視線が通底しているように感じる。



(松浦達)

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「K Town Born:Holy City Raised」.jpg

 2012年10月には代官山ユニットで来日公演を実現し、日本でもジューク・レジェンドとして認知されているトラックスマンのEPが本作である。しかし本作はジュークだけでなく、コーキー・ストロング名義で作られたハウス・トラックも収められている。ジューク・ファンの間では、すでに高い評価を得ているトラックスマンのハウス・トラックだが、本作はその魅力を存分に味わえるEPだ。


 本作に収められた曲群のなかでは、「Marvin vs Strong」「Zulu Dance」「Wave」「Bra Bra Down」がハウス・トラックとなっている。シカゴ育ちのトラックスマンだし、シカゴ・ハウス特有のラフなプロダクションが前面に出ているのだろうと思うかもしれないが、意外や意外(といったら失礼か?)、オシャレな色気が漂うポップなハウスを作りあげている。もちろんシカゴらしいラフな質感もあるが、特にマーヴィン・ゲイの「Got To Give It Up Pt. I」をネタにした「Marvin vs Strong」は一際キャッチーなハウスであり、女子高生がiPodに入れていてもおかしくないトラックだ。それに「Wave」は、デヴィッド・モラレスのDJミックスで使われそうなニューヨーク・ハウスに仕上がっている。


 とはいえ、先述の来日公演ではナイトクローラーズの「Push The Feeling On」や、リズム・イズ・リズムの「Strings Of Life」をプレイしていたセンスからもわかるように、トラックスマンはサービス精神旺盛である。そんなトラックスマンの一面を知っていれば、本作の音楽性は素直に受けいれられるものだろう。


 本作ではそんなサービス精神が随所で発揮されており、そこが面白いところでもある。先程の「Marvin vs Strong」もそうだが、ジャジーなジュークの「Tha Good Beat」では、ディー・ライトの「Good Beat」という大ネタを使用している。また、タイトルで興味深いと思ったのは、「Your Computer Is Infected」。これ実は、パソコンがスパイウェアに感染したときのフェイク・アラートのひとつ。こうすることで製品を買わせる、いわば脅しの一種だが、もしかしてトラックスマンは、この脅しに引っかかったことがあるのだろうか? まあ、それはともかく、曲自体はヴォイス・サンプルの連呼とランダムなスネアが入り乱れるものとなっていて、ディープな雰囲気を醸しだしている。本作におけるジューク・トラックのなかでは一番好きな曲だ。



(近藤真弥)


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うみのて『In Rainbow Tokyo』.jpg

 ときに音楽は、送り手の意思とは関係ないところで社会的状況とシンクロしながら、時代の空気を鮮やかに描写してしまうことがある。そして聴き手は、その鮮やかな描写に感情移入できる余白を見つけ、自分が生きる日常の風景と同一化させていく。こうした経験は、それなりにたくさんの音楽を聴いていれば、何度かあるはずだ。少なくとも、ひとりの生活者として音楽にコミットし、日常における様々な要素が音楽になると考えているあなたなら。笹口騒音ハーモニカを中心に結成されたうみのてのアルバム『IN RAINBOW TOKYO』には、そんなあなた、つまり、生活者の視点から歌われたポップ・ソングが詰まっている。


 とはいえ本作は、去年の12月にリリースされた「もはや平和ではない EP」のジャケットみたいに、テレビの向こう側として見た風景も歌われており、それゆえ、笹口騒音ハーモニカの主観は、実を言うと薄い。むしろ、叫ぶような歌声からは想像できない、冷徹なまでの客観的視点を感じる。それこそ、本作と同日に発売された、笹口騒音ハーモニカのファースト・フル・ヴォリューム・シングル、「ロックンロール(笑)」の(笑)側の視点である。いわば本作は、叫びをあげる熱さと、叫ぶ者を見つめる冷静さが混在した歪なアルバムなのだ。


 しかし、(笑)のシニシズムが勝っているのかといえば、そうではない。わかりやすいところだと、本作のタイトルである『IN RAINBOW TOKYO』。お気づきの方もいるだろうが、このタイトルはレディオヘッドの『In Rainbows』を引用したもの(本作には「ATOMS FOR PEACE」なんて曲もある!)。さらに「WORDS KILL PEOPLE(COTODAMA THE KILLER)」は、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドを彷彿させる。言ってしまえば、本作におけるうみのては、過去の音楽に対する憧れを泥臭く発露しているように見える。


 鋭利な言葉で紡がれている歌詞も、異なる視点がカオティックに共立したものが多い。例えば、「WORDS KILL PEOPLE(COTODAMA THE KILLER)」(またの出番で申し訳ないけど、本当に名曲なのよこれ)。この曲には、傍観者の視点を描いた、《言葉が人を殺したよ 俺はそれをそれを見たんだ》という一節が登場する。だが同時に、《俺は今日人を殺したよ 頭の中で人をぶっ殺したよ》といった、殺す側の視点も描かれている。また、本作の歌詞のほとんどは、インターネットが普及し、人との関わり方が変化した現状を浮かびあがらせている。聴き手に最短距離で届くことを意識した言葉選びのセンスも秀逸だ。


 となると、政治的思想や哲学が根底にあるんだろうと推察してしまうのが心情というもの。しかし、笹口騒音ハーモニカいわく、「僕が言いたいことってあまりないと思うんです。」(《OTOTOY》のインタヴューより引用)だそうだ。ありゃありゃ。まあ、だからこそ、冒頭で「ときに音楽は、送り手の意図とは関係ないところで」と書いたのだけど。いや、もしかすると、こうしてあれこれ書かせることが狙いなのかもしれない。だとしたら、今頃このレヴューを読んでほくそ笑んでいるのだろうか。のらりくらりとかわすような態度を笹口騒音ハーモニカが貫くもんだから、邪推が止まらない。


 ただ、それでもふたつ、本作について確実に言えることがある。それは、本作が問題提議としての機能を果たしていること。そして、2008年の秋葉原無差別殺傷事件に触発され書かれた「もはや平和ではない」が、2013年の"今"でもしっかり響くということだ。東北地方太平洋沖地震が起きた、2011年3月11日以前からあった七尾旅人の「リトルメロディ」が、2011年3月11日以降にその意味を変質させたように、「もはや平和ではない」もまた、誰もが言葉だけで人を《高層ビルの屋上から》(「WORDS KILL PEOPLE(COTODAMA THE KILLER)」)突き落とせる現在において歌われることで、意味を変質させたのだと思う。こうした変質を良しとしない者もいるだろうが、音楽とはそういうものだ。聴かれる場所、時代、状況によって新たな解釈がなされ、その音楽が内包する意味も変化していく。音楽はそうやって常に塗りかえられてきたし、だからこそ、これまで数多くの音楽が鳴らされ、それらに対してロマンを抱き、愛する者がいつの時代も存在するのだろう。そして筆者は、これが音楽の魅力であり、魔法だと考える。そういった意味で本作は、音楽の魔法を宿したアルバムだと言えるのだ。



(近藤真弥)

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CAETANO VELOSO.jpg

 カエターノ・ヴェローゾのこの数年のオリジナル作を知っている方ならば、この流れも或る程度は想像できたことだろうが、ここまでの境地に至ったのには驚きを持ったとも思う。


 トロピカリズモ、MPBのレジェンドの冠詞を抜け、記憶に新しい05年の来日公演ではオリジナル曲を無論、演奏しながらも、『A Foreign Sound』におけるアメリカン・ポップ・トラディショナル・カヴァー作に沿い、優美にパフォーマンスしてみる様が印象的だった。当該作品でも、コール・ポーター、スティーヴィー・ワンダーからニルヴァーナまで幅広い選曲をあの年老いて、より艶やかさを増した声で歌われると、まったく、印象が変わったように受け止めることができた。


 カエターノといえば、即応的な時代背景と奇妙なシンクをした明確な作品を打ち出してきており、そのバイオグラフィーのみならず、一つの作品から当時の情景が浮かび上がる。ボサ・ノヴァのクラシックと何度もリイシューされ続けるガル・コスタとの1967年の『Domingo』はおそらく、遍くどこかのカフェで時間を潰しているときに必ず一度は出逢う音だろうとも思う。軍事政権たるブラジルからの亡命、ロンドンで繊細に紡がれた1971年の『In London』は必然的にといおうか、全英語詩になっており、コンパクトながらにじみ出る抒情性が胸を打つ。自身を含む新しいリスナーでは、90年代以降のワールド・ミュージックの再発掘、リヴァイバルの中での1997年の『Livro』での成熟と前衛性を兼ね揃えた様に魅かれたというのも多いかもしれない。


 例えば、ジョアン・ジルベルトの初来日公演の際にしてもそうだったが、日本の地球の裏側ともいえる音楽がこうして一種のファッション的にではなく、しっかりシンクロしたのはその音楽性の豊潤さにあるのではないか、という気がする。どこか遠い国の音楽、というイメージだけでは気分としてのエキゾチズムをなぞるだけで、おそらく、感性は表層を往ってしまう。


 しかし、オレンジ・ペコー、キリンジの堀込高樹、コーネリアス、坂本美雨、畠山美由紀など、05年の来日に合わせて、日本のアーティストが選曲したカエターノのスペシャル・コンピレーション『Caetano Lovers』に並ぶ名前とコメントには胸が躍る。その中でも、オノ・セイゲンが1978年の滋味溢れる『MUITO』から「Sampa」をピックアップし、寄せた文章は意味深いものだ。以下、一部、引用する。


 《言葉は記号、象徴でありコミュニケーションの道具であるが、言語が異なると通じない。しかしそれがいったん声、音として発音された時点で、相手にはその記号以上の意識、心が伝わる。身体表現として人間の無意識領域まで深く伝わる。これが歌で、音楽である。心が伝わる。カエターノの声はこれを証明している。》


 彼の「声」は中性的でセクシュアルで蠱惑的とも言われる。それがここ最近は、息子のモレーノ・ヴェローゾ、ギターのペドロ・サー、ベース・キーボードのヒカルド・ヂ・アス・ゴメス、ドラムスのマルセロ・カラードのセー・バンド(バンダ・セー)としての編成になってからは、シンプルなバンド・サウンドに彼の円熟した声と抽象的で難解な詩が乗るというオルタナティヴな航行が続いており、06年の『Cê』、09年の『Zii E Zie』、ライブ盤を経ての延長線上に、この『Abracaco』があるともいえるが、ジャケット・ワークから少し違うと感じる人も多いと察する。


 上半身裸身のカエターノを取り囲む、多くの手。そもそも、"ABRAÇAÇO(アブラサッソ)"も抱擁を意味する造語だ。11曲50分ほど、装飾は決して過多ではないながらも、セー・バンドのアンサンブルはより深化し、モレーノとペドロのプロデュース・ワークは単調になりがちなバンド・サウンドに奥行きをもたらすことに成功している。


 さらに特徴的になったのは詩だろうか。2012年8月で70歳を迎えたカエターノが紡ぐ両義性、隠喩、換喩、アナグラムには裏を読むにしても、余りある。1曲目の「A Bossa Nova É Foda」にしても、ボサ・ノヴァを巡るシンプルな唄かといえば、際どいラインを行き交う。例えば、《E tanto faz se o bar do judeu romântico de Minnesota》というフレーズが出てくる。ミネソタのロマンティストな詩人、つまり、具体的にはボブ・ディランのことであったり、後半にはミノタウロス、ジュニオル・シガーノ、ジョゼ・アルド、リオット・マシーダなどの名も並ぶ。それが技巧的でなく、耳にダイレクトに届くところが今作の面白さかもしれない。3曲目の「Estou Triste」では、抑制された旋律の中で、悲しみそのものを小声で歌う。


 《Estou triste tão triste E o lugar mais frio do rio é o meu quarto(筆者拙訳:悲しくて仕方がない きっとこのリオで最も寒い場所は僕の部屋だね)》


 一転、軽やかになる4曲目も"法の支配"を巡るリリックが簡素に多重性を持ち、綴られる。6曲目の8分を越える大作「Um Comunista」では、バイーア出身の革命家カルロス・マリゲーラを軸に、ひとつの物語を読むように、じわじわと音風景にリリシズムが混成する。光と闇、恐怖、死、ゲリラ、シビアな現実、長い時間を生きてきた彼のアタッチメントする領域はときに冷酷でさえある。そういった全体像に8曲目のタイトル(「Vinco」)のように「折り目」を入れられるバランス感覚が美しく、ただ、この彼岸性とロマンティシズムと押し迫ったリアリズムの拮抗を想い出すと、個人的にふと、奇遇にもボブ・ディランの『Tempest』を彷彿してしまったのも否めない。老境に差し掛かり、過去を振り返りながらも、まだ少しだけ前を視ている、視ようとしているときの淵には不思議なことに、枯山水の庭園に感じる美が静かによぎるような気もするからだ。


 キャッチーでも華々しい作品でもなく、ポスト・ロック的なアレンジメントが功を奏しているとも言い難い部分はあるが、セー・バンド以降では特筆して、カエターノ自身の「個(弧独)」が滲む。そして、そのセー・バンド三部作の完結とも言われているが、おそらく、ここを経てから、新しい地平に向かうときにきっと大きな意味を持つと思う。



(松浦達)

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Deadboy「Blaquewerk」.jpeg

 なんか最近、テック・ベースなるジャンル名をよく見かける。簡単に説明すれば、テクノ色が強いベース・ミュージックということになるのだろうか。筆者なりにいろいろ聴いてみた限りでは、ポスト・ダブステップと呼ばれる音楽に近い、というか曲によっては、ほとんど変わらない。ポスト・ダブステップには、2000年代半ば頃から定型化してしまったダブステップが、本来持っていた高い順応性を拡大解釈するという側面もあるから、そうした様々な試みのなかからテック・ベースも生まれたのだと思う。


 現にテック・ベースは、とても曖昧な音楽だ。例えば、ベルリンのレーベル《Dystopian》のリリース作品をテック・ベースとする者もいれば、モードセレクター主宰の《50 Weapons》からリリースされた、ベンジャミン・ダメージの『Heliosphere』をテック・ベースと呼ぶ者もいる。だが、いま例として挙げた音楽の間には明確な差異があり、言ってしまえば、全然似ていない。とはいえ、それが悩みになることはなく、むしろ先に述べた拡大解釈の成果とするべきだろう。


 その成果のひとつとして、デッドボーイによる「Blaquewerk」は面白いEPだ。デッドボーイは、サブマーズのシングルなどをリリースする《Well Rounded》の看板アーティストであり、スキューバやデルフィックのリミックスも手掛けるなど、いまや多くの注目を集める売れっ子。


 そんなデッドボーイは本作において、かなり大胆な横断性を披露している。アンセミックなディスコを鳴らす「On Your Mind」をはじめ、アート・デパートメントに通じるディープなハウス・ミュージックで聴き手を惹きつける「Geek'd Up」。さらに「Black Reign」では、『Homework』期のダフト・パンクを想起させるフィルシー・プロダクションでUKガラージを調理している。そして「Nova」はなんと、ジャングルである。雑食的音楽は数多くあれど、ここまでやられてしまっては、もはや笑うしかない。



(近藤真弥)

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ausrecollected.jpg

 06年の『Lang』で、東京出身のYasuhiko Fukuzonoのソロ・プロジェクトausの紡ぎ上げる音に興味が向いた。IDM、エレクトロニカをベースに、ときに物語性や寓話性も含み、想像力を刺激する。あの鮮烈なアルバム・ジャケットと曲名の見事さにも魅かれた。


 近年の電子音楽の歴史とは、都度の更新とともに、「無題」や「匿名」であることで意味も付されている分野だが、もはやクラシックとなった、1998年のボーズ・オブ・カナダによる『Music Has The Right To Children』を考えれば早いだろう。この作品は、幽玄に、白昼夢的に、なおかつ細かく刻まれるビートはヒップホップ的にと、小難しさと箱庭感があったそういったジャンルの刷新をはかるアルバムだったが、ausもその系譜に位置しながら、振れ幅の広さと可塑性はその後のキャリアで可視化出来る。


 そして、ツジコノリコや宮内優里らとの共振など、多岐に渡る活動の一端とこれまでの軌跡が垣間見えるのが、ausの06年から12年までのリミックス・ワークを集めたこの『ReCollected』になる。本作はリミックス集ながら、ausの記名がしっかり刻印され、それぞれのアーティストの色をパレットの上で混ぜ合わせてしまう、そんな地続きの「うつし絵」にも見える。


 今作の曲群のなかでも特筆したいのは、そのヴィジュアル・センスと耽美的なサウンドで世界的に知られている、ヴォーカルCaluとトラック・メイカーSenからなる日本人ユニットMatryoshkaの「Anesthetic」のリミックス。原曲を再解釈しただけにとどまらない、ノスタルジアを基底にした淡い音像で示されている。また、ポスト・クラシカルの中で人気/実力ともに高い、旧・東ドイツ出身のピアニストにしてコンポーザーのヘニング・シュミートによる「Schnee 2」のリミックスも美しいトラックになっており、有名無名問わず、ここでの15曲、15アーティストのそれぞれの原曲と比較してしまいたくなるとともに、まるで、近年の電子音楽のひとつのクロニクルを紐解く、そんな感覚もおぼえる。


 そして、3月から行われているヨーロッパ・ツアーでは前述のウルリッヒのみならず、マトモス、フェネスらと共演との報も喜ばしく、そう考えてゆくと、マイスペース隆盛の頃のいつか、シーンに数多く溢れたIDMやエレクトロニカを基軸に、いま一度、楽譜を書き直す段階に来ているとも思え、既に次の地平は整っているのかもしれない。


 『Lang』のときから、雄大な海に淡く照る太陽、その光を背に二人のシルエットがあった。詮索しようがしまいが、その二人は誰でもいいのだろうと思う。犬童一心という映画監督に言わせるまでもなく、そこに二人が居るということだけで、少なくとも不幸ではないかもしれず、海と太陽や自然を切り取ったジャケット越しに匿名的に思えたausはもはや、固有の記名性を持つアーティストになっていった。この『ReCollected』は、大味な電子音のロマンティシズムや箱庭的な表現、双方の溝を軽やかに越えてくる。




(松浦達)




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