reviews: February 2013アーカイブ

retweet

カジヒデキ.jpg

 自分が行ったことのない場所や届かないであろうものを想像するときに、音楽はとても視界を拡げてくれる。例えば、90年代後半のトーレ・ヨハンソンの手掛ける一連の音が僕にはそういったものを支えてくれた一部といえるかもしれない。カーディガンズ、BONNIE PINK、クラウドベリー・ジャム、そして、カジヒデキ。アコースティックな質感を保ち、清涼感と透き通ったポップ・センスが煌めくアレンジメントには、彼の出身地たるスウェーデンに気持ちが運ばれること。


 ストックホルムの景観、そこに根付く文化、間接的にでも映像を通じても伝わってくる静かにあたたかい数々の市井の息吹。また、現地の合唱集を聴いたり、イングマール・ベルイマン、ボー・ウィデルベルイなどの映画監督の作品を集めた特集を映画館で見たり、北欧雑貨や衣装のデザイニングに魅せられたり、多くのところから影響を受けた。


 今回、カジヒデキは「スウェーデンの冬」をコンセプトに作品を上梓したが、彼の重ねてきた長いキャリアでも変わらず、と言おうか、どれだけ時代が速く流れているように見えようが、芯が通っているのは流石だといえる。思えば、近年に夏のイヴェントで観た彼はあの佇まいで97年のヒット曲「ラ・ブーム ~だってMY BOOM IS ME~」を新曲やカバー曲と挟み、歌っていたが、全く不思議な感じはしなかった。


 映画『デトロイト・メタル・シティ』でのフィーチャー、リディム・サウンターとのコラボレーション、また、レビュワーや一音楽愛好家としての側面も昨今の再評価の後景を支えながら、この『Sweet Swedish Winter』はアーティスト、カジヒデキの新作として捉えるだけではなく、ポップ・ミュージックそのものの一瞬に宿るマジカルな躍動が時代など、関係なく収められているのは特筆すべきだろう。


 公式HPのブログでも、《「Sweet Swedish Winter」をもっと深く理解して戴く為に》という記事に本人の意図や想いが綴られているが、まず、出発点は01年の『Café Scandinavia With Love』の続編的なものを作ろうとしたと記されている。01年のその作品は過去曲のリ・アレンジを含めたインストゥルメンタル主体の、当時のカフェ、ラウンジ・ミュージックに呼応したそのタイトルどおり、柔らかく、心地良い音楽集だった。ただ、そこからカフェ文化やその取り巻く状況が多様的になり、コンセプトとして12年前のそれを引き継ぐのではなく、もっと自身の想い出や記憶と結びつけたひとつの作品として呈示できないか、という旨から少しずつ着想が拡がっていったという。


 結果として、"スウェーデンの冬"を巡る10篇の短篇小説集のようなものになっており、風通しのよさとともに、ノスタルジックさも少しは帯びながらも、触れると溶けそうな淡雪のような繊細な音が弾み、今の音が鳴っている。なお、バックをKONCOS、曽我部恵一バンドが支え、多彩な曲調、隙間を活かしたアレンジメントに絶妙なハーモニーやピアノ、エレクトロニクスなどが混ざり、音風景を変える。


 1曲目はこのアルバムの契機になったというフリーホイールの「Sweet Swedish Winter」のカバーで始まる。原曲も美しい佳曲だったが、比すると、カジヒデキの声が乗ることで、別種のものとして生まれ変わっている。ポスト・パンク、ネオアコが自身の根底のスピリッツにあると言うように、曲ごとにアズテック・カメラ、ペイル・ファウンティンズ、トラッシュキャン・シナトラズなどの影が過ぎりつつ、近年のテムズ・ビート・シーン界隈のラリキン・ラヴからヴァンパイア・ウィークエンドまでのセンスも消化されている節もある。そういったいわば、タイムレスなものと、同時代的なセンスを備えた、今作でのグッド・メロディー・メイカー振りはますます冴え渡り、どんな場所、どんな世代の誰でもがふとしたときに聴いても、清冽にして美しい空気が貫かれているのは嬉しい。


 歌詞も鮮やかで、スウェーデンの伝統的なお菓子で、日本でも認知度が高まっているセムラをモティーフにしたものから、これもまた、スウェーデンでは欠かせないサウナ、フレーズ群にも、トラム、いつものコーヒーショップ、カフェラテ、黄色い帽子を買いにいくこと、僕らが一緒に作った歌、と散りばめられている。


 最終曲は、冒頭からベルが鳴りながらも、「99%のクリスマス」と記されているとおり、1%を残す。ただ、その1%によって、スウェーデンの冬、その情景が幻像ではなく、誰もの傍らに感じられるかもしれない。


 カジヒデキは円熟せず、これからも走り続けるだろう、そんなことを感じる力作だと思う。



(松浦達)


retweet

INC.『No World』.jpg

 アンドリューとダニエルのエイジド兄弟(双子だそうです)によるインクは、冷徹に現実を見つめるリアリストなのだろうか? デビュー・アルバム『No World』を聴いていると、そう思えてならない。確かに、妖艶な耽美的ヴォーカルは聴き手を口説きにかかるような甘い香りを発している。しかし、そのヴォーカルを支えるビートが、そっけないくらいに乾いているのだ。


 曲そのものはよく出来ている。徹底的に音を削ぎ落としたミニマルなプロダクションだが、ベロシティーや音色といった細かいところにまで神経が行き届いており、ひとつひとつの音を丁寧に鳴らしているのがわかる。


 そんなウェルメイドな本作が醸しだすのは、孤独感である。この孤独感によって、聴き手は内面と向きあうことを促されるのだ。促されるまま内観を試みると、まあ、見たくもない側面を認識することになる。人が持つ醜悪とされている部分というか、強いて言うならそれは、聴き手自身の"エゴ"なのかもしれない。例えば、他者に対して向けられた排他的感情とか、人間関係におけるポジション・ゲームとか、日常を生きるうえで遭遇する理不尽としか思えない行為のほとんどは、自己利益を優先する"エゴ"がキッカケであることが多い。本作を聴いて見えてくるのは、そういう類いの"エゴ"である


 とはいえ、本作は"エゴ"を"悪"としているわけではない。むしろ、この世から"エゴ"をなくすことなどできないし、だからこそ、エゴを抱えながら生きていくというポジティヴな諦念が根底にある。少なくとも本作は、ここ最近よく見かける凡庸なドリーム・ポップとは違い、甘美な風景で聴き手を欺くような真似はしない。甘さのなかに厳しさや痛みを残しているし、その結果として、本作は甘さ、厳しさ、痛みが共立した歪なポップ・ミュージックとなっている。


 そうした歪さは、本作にスピリチュアルなフィーリングをもたらしている。だがそれは、肉体からの解放というより、肉体が内包する精神や魂といったものを深く掘りさげた結果だと思う。それゆえ本作は、人工美的サウンドスケープを描きながらも、生々しい響きを持っているし、その生々しさは写実主義的ですらある。そういった意味で本作は、現実と幻想が入り乱れるカオスなアルバムとも捉えられるし、スピリチュアルなフィーリングも、肉体的な束縛を感じさせる点では心解脱的である。


 筆者には、そんな作風が時代のムードと重なって見える。抜けださなければいけないサイクル、もしくは抜けだしたいサイクルがあるにも関わらず、そこから逃れられないという現実。価値観の多様化が進み、その価値観を誰もが発信者として主張できるようになったはずなのに、目の前の風景は変わらないという現実。こうした現代が抱えるジレンマを、本作はポップ・ミュージックという形で描写しているのかもしれない。



(近藤真弥)

retweet

PRURIENT『Through The Window』.jpg

 プルリエントことドミニク・フェルノウは、自身のレーベル《Hospital Productions》を中心に活動し、ヴァチカン・シャドウ名義などでも良質な作品を残しているアーティストだ。


 そんなドミニクがプルリエント名義でリリースした本作『Through The Window』は、メタリックなレトロ・フューチャー・サウンドが印象的で、インダストリアルの要素が顕著に表れている。そして、漆黒の宇宙空間を描くサウンドスケープは、目の前の現実とは違う別世界を創造しようと試みている。


 だが、ここ最近よく見かける甘美なドリーム・ポップとは違い、本作の別世界はユートピアというより、ディストピア的である。こうした作風になったのは、ブラワンことジェイミー・ロバーツの台頭などがキッカケで再び注目を集めている、インダストリアル・テクノの動きが関係しているかもしれない。《Resident Advisor》に掲載された『インダストリアルテクノの革命』の執筆者であるアンガス・フィンレイソンは、記事のなかでこう述べている。


 「今自分たちが置かれている世界の影響を受けたものではないかとつい勘繰りたくもなってしまう。(中略)現在の音楽シーンにまん延する破滅と憂鬱は経済破綻と政治システムの腐敗に幻滅している現代社会を映し出しているのかもしれない。」


 もちろん政治的意義を見いだすことに慎重な意見もあるが、見いだせるだけのナニカがあるのも事実なのだ。


 チルウェイヴ以降に数多く生まれた"甘美なだけ"のドリーミー・サウンドは、"現実から目を背けるだけの一過性の快楽"という壁を乗りこえることはできなかった。例えば、ニコが歌うヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「Femme Fatale」や、囁きに近い歌声が漂うジーザス・アンド・メリーチェインの「Just Like Honey」は、甘美なメロディーを奏でると同時に現実の厳しさも歌っていた。描いている状況はそれぞれ異なるが、決して"甘いだけ"ではないのだ。


 しかし、だからこそ、世紀を越えて聴き継がれているのではないだろうか? "甘いだけ"では、その甘さにコミットできない者は排除されてしまう。だが、甘さのなかに厳しさを描くことで、より多くの感情と機微を内包させ、その結果として多くの人が共有できる"普遍性"を獲得できる。この"普遍性"は、価値観が多様になった今だからこそ必要なのかもしれない。


 本作は、"甘美なだけ"のドリーム・ポップが溢れる現状は退屈だと言わんばかりに、甘い夢で覆われてしまった音楽シーンに対する痛烈なカウンターとして、もっと言えば、批評的(そして批判的)視点として機能する。この機能はインクなども備えているが、本作はその機能に特化した急進的かつスペーシーなテクノだ。



(近藤真弥)

retweet

THE CLOISTERS.jpg

 最近のロンドンの《Second Language》はモダン・クラシカルのみならず、優良な音楽を届けるレーベルとして存在感を着実に高めている。リリースされる作品そのものも素晴らしい内容のものが多いのもさることながら、蛇腹折りのジャケット、アートワーク、装丁、細部などパッケージングものとしての肌理の通った美意識も感じる姿勢も頼もしい。


 例えば、《Second Language》のカタログに並ぶ、ピアノ・マジック、リチャード・モウルトなどの作品でもIDM、ドローン、アンビエント・ミュージック、現代音楽までの幅を決して難解に抽象的に呈示するのではなく、心地良い音の実験とその過程を抽出するかのようで、例えば、ある時のシガー・ロスが運ぶ風に彼岸ではなく、陶酔をおぼえた経験を持つ方や、ラ・モンテ・ヤングの決められた時間軸を消失したかのような音の漣に感応したことがある方ならば、この『The Cloisters』にも堪らないものがあるのではないだろうか。


 プリンス名義をはじめ、あのレジェンドともいえるUKサイケ・フォーク・シンガーのマーク・フライとの共同ワークスなど多岐にわたるプロジェクトに関わってきた、英国南部の海辺の町ドーセットに在住するマイケル・タナーのこの新名義たるザ・クロイスターズのセルフ・タイトル作。


 クレジット欄にはレコーディングとミックス期間に2008年から2012年と記されており、4曲で42分弱、そのうち、2曲は17分半、15分半という長尺のトラックであり、緻密な構成と冗長にしすぎない巧みな音色の配置に相当な神経が巡らされていることはしっかり聴覚を研ぎ澄ませると、分かってくる。


 客演アーティストたちのハープ、ハーモニウム、ヴィオラ、チェロから静かに控えめに弾むピアノ、爪弾かれるギター、一部のフィールド・レコーディングが為されたのもあり鳥の囀り、遠くに木々の葉の擦れ合いまでが渾然一体となった音は透き通った麗しさに満ちている。


 1曲目「Riverchrist」は、なだらかに音に色が加えられ、ときに静謐さえも包含しながら、視界をじわじわと拓けさせ、刷新させてゆく。2曲目の「The Lock Keeper」では、角のないピアノの音色をベースにふと残像のように、幾つもの音や環境音が入り込む小品。自然の中に居るかのような始まりからの3曲目「Freohyll Nocturn / Hymn」では弦が活かされながら、自分のその日常に音楽が寄り添い、鳴っているそんな近さがあり、高踏さはない。それでも、マジカルな音絵巻が展開されるのもあり、壮大さはあるが、畏まったところはない佳曲になっている。


 懐かしさや郷愁、"在るはずもない"慕情、そんな言葉を附箋してもいいくらい、このアルバムに内包されている何かは人間が元来持っていて、忘れてしまったかもしれない、感情の内側を刺激してくる。


 逃避のための、微睡むためのそれでもなく、幾重にも重ねられ、それぞれの楽器や音色自体が空間や位相を慮るように、音楽と、日常を往来する引き延ばされる時間の狭間に足せばいいのは一生活者たる聴き手自身だという気もする。4曲目の「A Pelagic Recital」を聴いていると、たまたま自分が机に置いたコーヒーカップの音さえもそこに取り込まれる、そんな感じにさえなる。


 飽和気味にもなりつつあったモダン・クラシカルの趨勢にひとつの楔を打ち、新しい地平の向こうを見渡す充実した一作だと思う。



(松浦達)

retweet

OGRE YOU ASSHOLE.jpg

 不世出のバンド、ゆらゆら帝国を比較に出すのも精緻には違う、彼らのオルタナティヴな佇まいは唯一無比になってきたともいえるが、ただ、その歩み方をときに彷彿させるように、音の抜き差しの妙と日本語の発語、語彙までシェイプされてゆく在り方は一旦、昨年の『100年後』で極まった気もした。


 『100年後』のリリース・ツアーでもライヴ・パフォーマンスでも、過去曲も良かったが、ミニマルなリズムとサイケに浮遊するような新曲の持つ彼岸的な風情にトバされる快感が先立った。例えば、録音物として1曲30分ほどの作品をリリースしても今の彼らだと至ってフラットに捉えられる気がする。また、これまでサポート・メンバーだったベースの清水隆史が正式メンバーとなり、新しい四人体制となった中、次のアクションが気にもなっていたが、或る意味では企画盤の側面もありながらも、オリジナルとしても堪能できる今作『confidential』には確実な手ごたえとともに、進んでゆく意思が底流する。


 限定で発売されていた2枚の12インチ「浮かれている人 Twilight Edition EP」、「dope EP」から4曲、過去曲の再録音といっても、完全にリ・ワークといってもいいだろう4曲が収められた、アルバム単位での構成の精度が高まっていた近年の流れを一旦、保留しつつ、音楽的語彙をさらに披瀝せしめる、そんな多彩な内容になっている。


 まず、既に12インチで聴いていた人も居るだろうが、1曲目の「真ん中で」、8曲目の「バランス」では2010年のミニ・アルバム『浮かれている人』に入っていた原曲の外装を取り外し、前者はデモーニッシュに潜航するコーラスと、ミニマルな反復がメインになっており、後者はボッサ的にラフで緩やかなムードが漂っている。2005年の『OGRE YOU ASS HOLE』からの「また明日」は牧歌的な拓けたポップネスに再構築されながらも、刻まれるフレーズはミニマルで音響にも隙間が活かされており、そこに、不穏な歌詞が朗々と届く。


 同じく初期にあたる「バックシート」も今のモードの沿い、AOR調のスイートな様相に変化し、というように、初期からこれまでの軌跡をあくまで進行形のセンスと感性で捉え直しているせいか、完成度が高いあまり、その分だけ今後の心配もあった『100年後』の、その後も伺えるような要素も散りばめられており、この作品から入ってみる人がいても、全く問題ないとも思う。


 それぞれの曲に自在な色を帯びているが、特筆すべきは、『homely』に収録されていた「フェンスのある家」の変化かもしれない。トライバルなリズムにノイズとホーンが獰猛に鬩ぎ合うエレクトリック期のマイルス・デイヴィスを思わせる美しさが残るもので、聴いていて、とても心地良い。


 全編を通して、昨年にototoyの企画で出戸学氏が好きなレコード紹介をするUSTREAMをふと想い出した。そこでは、ファウストやノイ!といったクラウトロックから、ヨ・ラ・テンゴのベーシストのジェイムズ・マクニューのソロ・プロジェクトDUMPがNYパンク、GGアリンの「NYC Tonight」をディスコ調にかつポップにカバーしたもの、アーサー・ライマンまで全体的にムーディーかつ静かにビートが跳ねる曲が多く、メンバーも古いレコードを聴き漁っているというのもあり、その感覚が今作にもトレースされてもいるのかもしれない。


 冷ややかなイロニーと虚無。その背後に狂気めいた不気味さが渦巻いていたデカダンな美意識を備えた彼らも歳月とともになだらかに削ぎ落とされるように、予感としての「なにもないこと」をあくまで音楽で追求するようになってきた、そんな中で、外部からではなく、自らの内部から血を入れ替えようとする試みが功を奏した今作では、その「次」への道が既に整備されてゆく感覚をおぼえる。


《人気のない 朝になってく 視覚はないよ 日に溶けるかい 朝になってく 近くはないよ》(「バランス」)


 近くは、ない。


 彼らの音楽と存在がこうして研ぎ澄まされてゆくのは何よりも頼もしい。



(松浦達)

retweet

Toykolite.jpg

 ネットによって様々な垣根や壁が崩壊し、あらゆるカルチャーが異質なものと交わる可能性を孕んだ現在において、予想もしていなかった場所から面白い表現が生まれてもいちいち驚かなくなったが、インドネシアはボゴールを拠点とするバンド、トウキョウライトの音楽を聴いたときはさすがに驚いてしまった。


 インドネシアには、多くの大手日系企業が進出しているし、現地の大学には日本語学科があったりもする。また、日本のポップ・カルチャーをインドネシアに紹介する《CLAS:H》によるコスプレ・イベントが盛りあがりを見せるなど、日本とインドネシアは何かと関わりがある。それでも、現在の日本インディー・ミュージックと共振する、ジャストな音楽性を携えたデビューEP「Hello」におけるタイムラグのなさは、もっと注目されてもいいのではないか?


 肝心の音のほうは、ファンクネスを前面に押しだしたグルーヴが特徴的で、音の隙間やタメを重視しているが、こうした姿勢からは、R&Bやヒップホップの要素が窺える。この点は、シューゲイザーの影響化にあるサウンドを鳴らしがちな日本のインディー・バンドとは一線を画していると思う。


 そして、見た目とはかけ離れた(と言っては失礼だけど)、色気を漂わせるヴォーカルも魅力のひとつ。少し掠れた憂いのある歌声はバンドのサウンドとも相性がよく、聴き手を惹きつける存在感もある。初聴したときは、一瞬ブレッド・アンド・バターを想起してしまったが、バンドのフェイスブックには、U2やフー・ファイターズと並んで、椿屋四重奏、ザ・バンド・アパートの名前が「影響を受けたもの」で挙がっている。なるほど、これはまだまだ引きだしがありそうですね。今後の活動が楽しみ。



(近藤真弥)




【編集部注】「Hello」はトウキョウライトのバンドキャンプからダウンロードできます。

retweet

UP DHARMA DOWN.jpg

 2008年、タイのバンコクで様々なアーティストによるフリッパーズ・ギターの『Three Cheers For Our Side ~海へ行くつもりじゃなかった』のトリビュート・アルバムが話題になったのも記憶に新しいように、インドネシアのジャカルタではネオアコ系のバンドの音源に多く出くわすことがあったり、東南アジア界隈にて、グランジ、パンク的な音を出すバンドも増えてきてもいるが、中間層と敢えて限定すると、そこの層のネット・リテラシー能力や咀嚼の速さ、奏でる音楽の豊富さには驚かされることがある。まだ、世界的には新興国と称されるものの、その経済成長とともに舶来の音楽や文化がしっかりと絡まりながらも、美学を追求してもいるからだ。


 今回、取り上げるフィリピンのマニラをベースにするUP DHARMA DOWN(アップ・ダーマ・ダウン)は2004年から活動を始めたのもあり、キャリア的には短くなく、世界でも一定の評価も得ているバンドとして、これからますますの飛躍も期待されている。


 メンバーは、ヴォーカルとキーボードを請け負う紅一点のアーミ・ミラー、80年代のUK、ニュー・ウェーヴ的な清冽なギターを響かせるカルロス・タナダ、ベースのポール・ヤップ、ドラムのイアン・メイヤーからなる4ピース。サウンドの特徴としては、プリファブ・スプラウト、ブルー・ナイル辺りのメロウネスとブルー・アイド・ソウルの彩りにエキゾチックな旋律が柔和に結ばれる不思議な質感を持つ。コールドプレイキーンなどのバンドが持つ叙情性、アトモスフィアを包含しているところもある。


 ときに艶めかしいAOR的な振れ幅まで備えながらも、詰め込まれたというよりも、隙間の多い音響工作にギターのノイズ、ベース、ドラム、エレクトロニクスがしなやかに且つシンプルに「引き」を見せる。無論、そこではアーミ・ミラーの歌声の美しさも大きく、シャーデーのような穏やかな包容性もある。


 調べてみるに、バンドのオフィシャルHPではティアーズ・フォー・フィアーズのカート・スミス、ブルー・ナイルのポール・ブキャナン、ノー・マンのティム・バウネス、BBC UKのマーク・コールから賛辞のコメントが寄せられており、もう十二分に認められてもいるのがうかがえ、このサード・フル・アルバム『Capacities』も満を持して、ということになるだろう。


 具体的に、作品に触れていこうと思う。


 9曲というサイズながらも、1曲目の「Turn It Well」のMVでのムードからも伝わってくるものがあるように、前作の『Bipolar』に偏在していたビート主体のものから少しダビーで実験的な要素を孕んだもの、整合性よりも音楽的な語彙を増やそうとしていた様子からは舵を切り、どことなく夜の香りと気怠さがほのかに漂い、コンパクトにかつメロディアスに絞られた印象を受ける。リリックも彼ららしい、淡さとアンニュイさがある。


《Tonight We Stand By The Door / Waiting For Amends / I've Lived All This Time For Love / Tonight You Come》(「Park」)


《I'm So Tired Of Your Innocence》(「Night Drops」)


 なお、触れておかなければならないのはポール・ブキャナンが参加した曲「Feelings」を含めて英語詩だけではなく、「Luna」、「Indak」、「Kulang」、「Tadhana」はタガログ語で歌われているということだろうか。


 タガログ語とは、フィリピンの中で用いられる言語の一つであり、英語とともに当該国で公用語として用いられているものである。スペイン語やマレー語、アラビア語などの影響も受けつつ、発語感は滑らかさがある。語族的には、オーストロネシア語族。台湾、東南アジア、太平洋の島々、マダガスカルまで広がり、言語間の近似性があるために、文法的なものや語彙に関しては配列性を掴めば、理解しやすいものでもある。タガログ語にオリエンタリズム的な色眼鏡は寧ろ必要なく、長い歴史の中で育まれてくまれてきた豊潤さと音韻の合わさり方のスムースさに注視すべきだとも思う。実際、初めてこのアルバムを聴き通しても、分断はさほど感じないだろうとも察する。


 これだけ多くの情報が並列して入ってくる時代になっても、いまだ知らないものばかりだ。限りある想像を越えてゆくように、音楽は多くの国で芽吹き、可能性は溢れていることを教えてくれる一作だと思う。



(松浦達)

retweet

ねごと 5.jpg

 ここ最近のねごとは一気に大人びた印象をあたえるが、そんな彼女達の成長から生じる余裕を『5』は醸しだしている。前作の『ex.Negoto』は、ファースト・フル・アルバムということもあり、疾走感と前のめりなグルーヴが印象的だった。しかし本作は、精密とも言えるバンド・アンサンブルが目立つアルバムだ。


 「sharp ♯」「Re:myend!」などの既発曲には前作と地続きの側面もあるが、その他の曲群は、展開、音色、リズムといった細かい所にまで気を配ったものが多く、本作に至るまでの間に吸収したであろう技術が反映されている。アルバム全体を通してトリッキーなアレンジが施されており、聴き手を飽きさせないサービス精神は前作以上。さらには90年代USインディー・ロックを彷彿させる「メイドミー...」のような曲もあり、そのヴァラエティー豊かな内容は、ウェルメイドなポップ・アルバムとしてよくできている。しかし、こうした奔放さが、本作においては仇になっているように見えなくもない。


 例えば、本作には「たしかなうた」というロック・バラードが収録されている。これまでのねごとからすると、少し毛色が異なる「たしかなうた」は、ライヴハウスよりもスタジアムが似合いそうなスケールを感じさせ、ねごとの新たな側面を開拓しようとする4人の意図も窺えるが、正直、迫力不足なのは否めない。タイプとしては、オアシスの大名曲「Don't Look Back In Anger」系のアンセム・ソングに入るが、こういうタイプの曲は、送り手側がある程度の経験を積んでいないと、強い説得力を宿すのは難しい。


 ねごとは元々、メンバー全員の豊穣な音楽的背景が自然と反映されている曲を作ってきたし、それが他のバンドとは違う個性としてひとつの武器になっていた。だからこそ、本作ではその武器に磨きをかけることで、ねごとの音楽性を確固たるものにする選択肢を選んでもよかったのではないか? もちろんこの先、ねごとが順調にキャリアを積み重ねていけば、「たしかなうた」は強い説得力を持つアンセムになりえる。しかし、現時点ではその説得力が足りないように思えるし、そんな「たしかなうた」を本作に収めたことで、無理に背伸びしている印象を聴き手に抱かせてしまうと思う。



(近藤真弥)