reviews: July 2012アーカイブ

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120816_nano_mugen.jpg 今年は少し遅めの開催だった印象のあるサマーソニックも終わり、「夏の洋楽」フェス・シーズンもそろそろ大団円ってな感じだが、その先陣を切って決行されたナノムゲンのエッセンスを濃縮した恒例コンピレーション・アルバムは、季節やトラックの新旧に関わらず、その素敵な輝きを失っていない(って、まだリリースから2ヶ月たってないわけで...。ポップ・ミュージック界では、時間の感覚がちょっと奇妙なことになっている...)。

 以前クッキーシーンが紙媒体で隔月刊だったころ、毎号コンピレーションCDをつけていた。聴いてくださったひとたちがどう思ったかはわからないけれど(いや、かっこつけずに言えば好評だった。それが目的で買ってくださっている...という話もときおり耳にしたり...。ありがとうございました!)、トラック借用交渉から曲順決定まで、毎号かなり膨大な時間と精神力をかけていた。単体の商品盤CDの選曲をやったり、クラブDJをやるときと同じくらいに。

 毎年『Nano-Mugen Compilation』シリーズを聴くたび、いつも当時のそんな作業を思いだす。とても大変だったけれど、楽しかった。ぼくは音楽バカだから。このシリーズの選曲者も、明らかにそうだと思う。「おお、このあとにこんな曲がくるのか!」「この流れ、意味あるね!」とか思いつつ、実に気持ちよく聴ける。クラブDJ的な選曲より「インパクト勝負」ではない分、賞味期限も長い。

 7月なかばにビッグな会場でおこなわれたナノムゲン・フェスのみならず、その前に各地のライヴハウスをまわったナノムゲン・サーキットの参加者たちによる珠玉のトラックが、CD2枚に全22曲ぎっしりつまっている。

 CD1の冒頭から(フェスとサーキット両方に出演した主催者)アジアン・カンフー・ジェネレーションにつづいて(後者に登場した)ブラッドサースティー・ブッチャーズが登場するところからして、いい意味で意表をついている。もしかするとブッチャーズって、ここに入っている洋楽バンドたち以上に「アジカンとは遠い」存在と思われているかも? まあ、ぼくはマーケッターではないので、アジカンのファン層がどんなものなのか、おぼろげにしかわからないけれど!

 3番手チャラの曲目が「オルタナ・ガールフレンド」というのも素敵だ。この(アーティストと曲名の)とりあわせは、なんとなく「理想的なアジカンのコア・ファン層(?)」にとって、すごくピンとくるのではないかとも思ったり...。ぼくはマーケッターではないので(...以下同上)。

 チャットモンチー、ザ・シェフ・クックス・ミー、80キッズ、フォノ・トーンズ(アジカン伊地知らによるバンド)、クアトロ、ストレイテナーなど、ぼくが「好き」と公言してはばからない日本のアーティストたちの音源もたくさん入っていて、まずはうれしい。そして彼らのトラックは、どれもグレイト。

 ちなみに、ストレイテナーの曲は「ネクサス(アコースティック・ヴァージョン)」。歌詞の《ここでリンクした》というフレーズが印象的だ。ぼくなどはこのタイトルを見ると、どうしてもウルトラマンネクサスを思いだしてしまうのだが(笑)、もう5年以上前になる放送当時のキャッチ・フレーズに「絆、ネクサス」ってやつがあった(nexus:きずな、結合、関連性のある一連のもの、集合体:Mac OS 10.5.8ビルトイン辞書より)。震災後、絆という言葉が使われすぎて(「言葉」を仕事にしている者としては)少々辟易してるところがあった。この曲の歌詞にも「絆」という言葉は出てこない。そういうところも、いいなと思う。

「これまで名前はなんとなく聞いたことあるかな? くらいの感じだったけれど(ちゃんと聴いたことなかったです。すみません...)このコンピを聴いて、かなり『好き』かもと思った」日本人アーティストは、秦基博、岩崎愛。こういう「発見」もあって楽しい!

 さて、ここからは、得意の(?)洋楽バンドに関する話です(笑)。

 以前このサイトでも述べたとおり、今年のナノムゲン・フェスでは、ファウンテインズ・オブ・ウェインモーション・シティ・サウンドトラックという、ぼくなどはまじで三度の飯より好きと言えるパワー・ポップ・バンド(と言えるのかな? 前者はより「ポップ」寄り、後者は「パワー」...? じゃないな、表面上オタクっぽいし...。まあ、「ハード・エッジ」寄り?)のそろい踏みを見ることができたという意味で、「洋楽フェス」としてもフジロックやサマーソニックに負けないインパクトが残せたと思う。ファウンテインズやモーション・シティの音源未体験で、「そこまで言うか? 本当にいいの?」みたいに興味を持ってくださった方は、是非このコンピを聴いてみてほしい。それぞれの最新アルバムからのリード・トラック(最もキャッチーな部類に属する曲)が、前後の流れもばっちりで入っているから。

 パワー・ポップ・ファンに人気の高いオズマ、USインディー・ファンなら要チェックのメイツ・オブ・ステイト、そして90年代のUKロック...というかブリット・ポップの立役者だったスウェードの曲も、もちろん収録。

 ジャンルがばらばらだって? そんなの気にするな! アジカンもそう思ってるかどうかは知らないけれど、ぼくはそう主張したい。あらゆる意味で。

 そして、スウェードの曲が「トラッシュ」であることもうれしかった! 実は、ぼくとしてはスウェードって(「好き」ではあるけれど)「大好き!」とまではいかない。とくに初期は「うーん、そこまで高評価に値するのかな?」とか思っていた部分もある。ギタリスト、バーナード・バトラーが脱退してからの、彼のソロ活動は「大好き!」なのだが...。この「トラッシュ」は、バーナード脱退後の曲。でも、ぼくはスウェードのレパートリーのなかで、これがいちばんのお気に入り(この曲だけ断トツで「大好き!」と言えるかも)。ふっきれたようにキャッチーなメロディーで、微妙なかっこつけも残しつつ、《単なるくずだよ/おれもおまえも》と歌われる部分に、ポップ・ミュージックの神髄の一形態が集約されているようで、しびれる。

 というわけで、聴きどころだらけの名コンピレーション。ナノムゲン・フェスやナノムゲン・サーキットに行けた人はもちろん、行かなかった人だって、「洋邦問わず幅広い、(オルタナ...いや、オルタナティブな)いい音楽にふれてみたい」という向きには、強烈にお薦めしたいアルバムだ。

 

(伊藤英嗣)

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FUN.jpg アリゾナのインディー・バンド、ザ・フォーマットの解散後にヴォーカルのネイト・ルイスが新しく組んだファン(Fun.)がここまでの成功を収めるとは。まずは、全米で俄かには信じられないほどの大ヒットを記録した「We Are Young」。プロムとか、ヒット・チャートのポップ・ソングばかり流れるクラブとか、あるいは学校からの帰り道に二人で歩く夜の道とか、そういうシチュエーションばかりが頭に浮かんでしまう超青春アンセムだ。ミーカ顔負けのキャッチーなアンセム、ただしミーカのような暗部はまったくなし、軽薄と言ってしまえばそれまでだが、これを全力で楽しめなくてどうするの、とわたしは思う。どんな時代であろうが、青春は永遠に青春であり続けるし、そのためのBGMはいつだって彼らのようなポップ・アクトが作り上げてきた(そして手ひどい批判を受けなりなんかする)。だが、すこし考えてみてほしい。彼らの書いている曲はとてもパーソナルな体験に基づいているように聴こえるし、ファンタジーとリアルの"とっても魅力的なあいだ"のことを歌っていて、そこに嘘はない。そういう意味ではヴァクシーンズやグループラヴとだって、共鳴し得るバンドだ。

 約1年前のアメリカのフェスの動画を観たときに、けっして多いとはいえない観客の前でネイトは声を張り上げて「We Are Young」を歌っていた。カニエ・ウェストのライヴに漂っているようなリッチな悪臭なんかぜんぜんなかったし、とても潔く爽やかで、同時に泥臭く牧歌的な光景だった。わたしは日本のポップ・アクトが青春をまったく正しく表現しないことにかなりがっかりしていた。恋愛には必ず悲哀がついてまわる。だが、その表層的な部分だけ取り上げて、結局自分のための歌しか歌わないような人ばかり日本ではレーベルと契約を結ぶ。妄想も含めて、恋愛は底なしにハッピーでアホになれるから最高なのに。そういうフィーリングを感じようと思ったら、これからはファンの『Some Nights』を聴くのがベストだと思う。「We Are Young」以外の曲もクオリティが高い(余計なヴォーカル・エフェクトとやたらに大仰なサウンドは愛嬌ということで)。何だかミュージカル映画のサントラみたいに聴こえないこともないけれど。

 こういうのを聴くと、アメリカもまだまだ元気でやってくれよな、と思う。ジメジメとした暗めのカルチャーはイギリスと日本だけで十分だ。アメリカのカラッとしたオールライトな空気がときどきは恋しくなるから。隅々まで楽しいアルバムです。是非。

(長畑宏明)

 

 

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Gorge Out Tokyo 2012.jpg 最近ネット上で話題の"ゴルジェ(Gorge)"は、インド~ネパール山岳地帯のクラブシーンで生まれた音楽だそうで、クライミング・カルチャーと深い関わりを持っている(蛇足だが、ゴルジェと同じスペルを持つ"ゴルジュ"という登山用語がある)。そんなゴルジェのオリジネイターとしてリスペクトされているのが、DJ Nangaなる人物。DJ Nangaが言うには、《Use Toms(タムを使うこと)》 《Say it "Gorge"(それがゴルジェと言うこと)》 《"Don't say it "Art"(それがアートだと言わないこと)"》という3つのルールによって形成された"GPL(Gorge Public License)"に準拠している音楽を、ゴルジェと呼ぶらしい。ゴルジェを鳴らす者は"ゴルジェ・ブーティスト"と呼ばれ、日本はもちろんのこと、アルゼンチンのMVVMやカナダのシアターXなど、"ゴルジェ・ブーティスト"は世界中に存在している。そして、そのゴルジェ・ブーティスト達が一堂に会したコンピレーション・アルバム、それが『Gorge Out Tokyo 2012』である。

 ゴルジェを初めて聴いたとき、中低域を強調した独特な音像と、過剰とも言えるウォブリーな歪みから、『Degenerate』期のヴェクスドの音を発展させたような音楽? と思ったりもしたのだが、その後ゴルジェと呼ばれる曲をいろいろ聴いていくと、実に多様な要素を伴った音楽であることがわかってきた。それは本作も例外ではなく、アレックス・パターソンのヴォイス・サンプリング・センスが憑依したようなウッチェリ「Dead End Gorge」や、シャックルトンの呪術的グルーヴを想起させるハナリ「Gorge is Gorge」、さらにはジャジー・ゴルジェと呼べる風合いに仕上がっているソビエツキー・ブレジネフ「La La Gorge」といった曲もあるなど、"バラエティー豊かな"という次元を遥かに超越した、言ってしまえばメチャクチャなコンピレーション・アルバムである。そもそも、先述の"GPL"を守りさえすれば何でもゴルジェと呼べるだけに、本作が"何でもあり"な作品となってしまったのは、必然といえば必然だ。ノイズ/インダストリアル・ミュージックとして解釈したほうがわかりやすい曲が多いという点では、ある程度の共通性を見いだせなくもないが、「それぞれのGorgeがそれぞれの場所と、それぞれの人にある」と、DJ Nangaがインタビューで語っているように、ゴルジェとは特定の音楽性を指すジャンル名ではなく、思想のようなものではないか。ジョー・ストラマーの名言をもじった言い方をすれば、"ゴルジェ・イズ・アティチュード"なのかもしれない。

 と、ここまでゴルジェと本作について書いてきたわけだが、実はゴルジェ、一部の人のあいだではマッチポンプ、つまり自作自演の音楽ではないかという声もある。正直筆者も、マッチポンプではないかと疑っている。だが、それがどうしたというのだ? 仮にゴルジェが虚構の積み重ねで作りあげられたものだとしても、面白い音楽がそこにあるという事実に変わりはない。それだけで十分だと思うのだが、どうだろう? 「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉があるように、人間とは依拠できる"規定"や"決定"、いわゆる"絶対的なもの"を常に求めているし、虚構であるというだけで偏見を抱いてしまいがちだ。しかし、そうした偏見を捨て、良いものは良いと認めてしまえばいい。実際にゴルジェという音楽は、とても興味深いものなのだから。

 

(近藤真弥)

 ※本作は《Gorge In》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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FOUR TET.jpg アラン・リクトの『Sound Art : Beyond Music,Between Categories』は今読んでも、発見が多いどころか、サウンド・アート研究の中でも特筆に値するものだと思う。2010年には邦訳書(『サウンドアート―音楽の向こう側、耳と目の間』監修:木幡和枝、訳:荏開津広、西原尚/フィルムアート社)も出ているので良ければ、参考にしてほしいが、音がそのまま聴覚的なものへ、映像が視覚的なものへと連結するのかという「当然」への疑義を呈しながら、時間軸の中で作品そのものの概念性の把握、状態性へフォーカスをあてる。この書では、ジョン・ケージ、池田亮司、サーストン・ムーア、スティーヴ・ライヒなどカテゴリーを越える多岐に渡るアーティストが取り上げられ、アートとしてのサウンドの「フレーム」を巡る考察を深めてゆくインスパイアも受ける。

 ロンドン出身のキエラン・ヘブデンのソロ・プロジェクトたるフォー・テットの00年代の駆け抜け方は鮮やかだった。元々、彼はポスト・ロック・バンドのフリッジでギタリストとして属していたのだが(注:現在は活動停止状態)、99年のフォー・テット名義でのファースト・アルバム『Dialogue』から、その実験性と先鋭的な在り方は注視を集めることになる。その後も、ジャズ・ドラマーとのセッションからブリティッシュ・フォークとエレクトロニカのエクレクティズム、フォークトロニカという音像の生成からレディオヘッド、ブロック・パーティー、エイフェックス・ツインなどのリミックス・ワーク、DJまで実に幅広く、ときに、スキゾに動き、更には、2010年の『There Is Love In You』では、ロマンティック且つビートと電子音の美しさに拘った開かれた転機作になったのも記憶に新しい。昨今では積極的にダブステップへの近接の意識とともに、ブリアルとコラボレイトし、独自のサウンド・メイクを魅せ、これまでのキャリアの来歴もさることながら、何より今時点のアクションに世界から多くの反響が寄せられるアーティストになっている。

 この度、自身主宰のレーベル《Text》からリリースされた『Pink』は前アルバム以降に12インチのヴァイナルで出されていたトラックをコンパイルし、なおかつ新曲の「Lion」、「Peace for Earth」が収められた企画、編集盤的な様相が強いが、アルバムとしての総体は進行形の熱量を保った内容になっており、アウト・オブ・ストックになっているものもあるので、ファンのみならず、フォー・テットの新作としても聴くことができると思う。性質上、これまでになくフロア・コンシャスでありながらも、ヘッド・ミュージックとしての機能性と美しさがあるのは唸らされるのと同時に、ミニマルにストイックに刻まれるビートに被せられる絶妙なウワモノ、そして、リズムの込み入り方もそうだが、叮嚀に細部まで美意識が行き届いているのは流石だといえる。

 なお、新曲に関してだが、「Lion」は淡々とした始まりからじわじわとパーカッシヴにトライバルな盛り上がりをしてゆくものの、そこにはオリエンタルな馨りよりも、いささかキュリアスなムードが漂うのも彼らしい機知が見える。「Peace For Earth」はタイトル名通りといおうか、アンビエント色の強い穏やかなトラックで電子音の粒子がドリーミーで優美な11分を越えるもの。

 この作品で感応できる反復と柔らかな差異、そこにはソニマージュ的にある種の視覚効果をもたらせながら、サウンド・アートとしての「それ」を思わせ、平面的なフレームを跨ぐ立体位相が浮かび上がる。しかし、「それ」をまた翻してくるのが彼なのだとも感じる新しい次への予感に満ちた過程作だという気がする。

 

(松浦達)

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LEGGYSALAD.jpg レギーサラダ(LEGGYSALAD)とはkevin mitsunagaによる電子音楽ユニットであり、彼は佐藤純一(FLEET)とyuxuki waga(s10rw)とともに、ブロードバンド前世代~ニコニコ動画ボカロ世代~ネットレーベル世代というインターネット3世代によるユニットfhána(彼らの初公式音源となった傑作アルバム「New World Line」についてはまたどこかで書きたい)のメンバーとしても活動している。

 レギーサラダにとって初のCD作品となる同作は、ビート・メイカーのSeihoによる「惑星への小旅行」をコンセプトにした、関西を中心にスタートしたインディペンデント・レーベル《Day Tripper Records》からリリースされた。このレーベルは「ダウンロード配信が主流の今こそ、あえて物として、手触りまでをも楽しめる作品を。」をコンセプトに、ネットで活動するアーティストの音楽をフィジカルにリリースしている。

 それではこのアルバム『Verda Planedeto』について考えてゆこうと思う。

 このアルバムのテーマが「切断」にあることは間違いないだろう。流れるように美しい旋律を奏でてゆくピアノ、深く優しくたゆたうストリングス、柔らかに棚引くシンセサイザー、様々な場所から抜き取られたボイス・サンプル、他にも数多くの音がそれぞれの連続性の中から細かく切り出され、空間に配置されている。その散らばった音の破片たちは時に音のレイヤーを形成し、時に自在に空間の中を飛び交い、まるで森の木々の葉の隙間から零れる木漏れ日のような、まさに『Verda Planedeto』(エスペラント語で「緑の惑星」)と呼ぶにふさわしいサウンドスケープを獲得している。

 『Verda Planedeto』にある無数の音の破片は極めて多様な表情を見せながらサウンドを組織し、また解体する。切断された音たちは反復する音の中に繋ぎとめられることによって新たなメロディを生み出しているだけでなく、「Reminiscences」におけるピアノの音のように沈黙と接続されることによって、メロディならざるメロディを形成し、滑らかなビートとともにグルーヴを創出することもある。いまや世界を席巻していると言っても過言ではないチルウェイヴを彷彿とさせるシンセ・サウンドから始まる「Sleeping Beauty」ではデデマウスを彷彿とさせるボイス・サンプルを用いているが、デデマウスのそれとは異なり、より空間に同化してゆくような使い方がなされており、あくまでばら撒かれた音の一つとして他の音たちと有機的に絡み合いながら曲を形作っている。「Awakening」をはじめとした、このアルバムで鳴っている電子音はアイ・アム・ロボット・アンド・プラウドのような聴き手を包み込むような暖かさを基調としながらも、時にマウス・オン・マーズにおけるそれのようなアグレッシヴな瞬間をちらりと覗かせることもあり、ばらばらに飛び交っているように聴こえるが、よく耳を・キませてみるとそれぞれの音の粒子が丹念に磨かれ、非常に巧妙に空間に配置されていることがわかる。また、ストリングスや、ピアノ、アコースティックギターなどの生音の反復が奏でる清涼でかつ喜びに満ちたメロディと確かな質感はスティーヴ・ライヒをはじめとするミニマル・ミュージックを思わせる。参照のためにざっと挙げたアーティストたちからもわかるように、このアルバムには非常に多くの文脈から構成されたエレクトロ・ミュージックの歴史が刻みこまれている(アンビエント・ミュージック、ミュージック・コンクレートの文脈からこのアルバムを聴くこともまた可能であろう)。この若さ(kevin mitsunaga は1990年生まれである)で意識的か無意識的かこれだけの情報量をつぎ込まれたものが、押しつけがましさや過剰さが一切感じられず、ナチュラルな形でまとめられていることに新世代の鮮やかな息吹を感じずにはいられない。

 私はこのアルバムのテーマは「切断」であると書いた。しかし、実はこのアルバムを通して聴けば分かるように、一曲一曲の切れ目は非常に曖昧であり、そこにはある種の「連続性」を感じることすらできる。また、とある音の断片が、それが最初に配置されていた曲とは異なった曲に再度配置され、その断片が基調となってまた違った展開が生成される、といった試みがなされている。このアルバムの中に点在する音の断片たちは出現と消滅を繰り返すのであるが、それが消滅するたびに新たな音楽を奏でるきっかけとなっており、ここにもまた一つの「連続性」が存在しているように思える。これらのことからわかるように、このアルバムは「切断」を基調としながらも最後にはある種の「連続性」に至っている。この相反する二つのキーワードが互いに絡み合い、空間に散りばめられた音の粒子たちを鮮やかに輝かせていることは、このアルバムにとって、そして音楽にとって極めて幸福なことのように思えてならない。

 

(八木皓平)

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NOVELLA.jpg 60年代サイケデリックを思わせるジャケット。しかしアメリカや日本的なイラストが描かれている。そういったところに今っぽさを感じるというか、例えるならグライムスのジャケットほどではないが、似たものを感じる。

 ローファイなサウンドでひたすら聴き手を引っ張っていくロンドンのスリー・ピース・ガールズ・バンド、ノヴェッラによるファースト・ミニ・アルバムである本作は、鮮烈極まりないフレーズを次々と繰り出し、キュートな歌声と相まって実に快楽的だ。メロディ・ラインのところどころにはブラーの『Modern Life Is Rubbish』やオアシスの『Definitely Maybe』、ストーン・ローゼズやビートルズを思わせるものがあり、決して新しくはないのだが(僕は新しさを価値基準にしていないが)、ブリット・ポップをガレージ・ロックに落とし込んだ音楽性が爽快に響き渡る。これがなんとも心地いい。

 技巧に長けたドラムが駆け抜け、痛快に鳴らされるノイジーなギター・サウンドには抑制の美があればダイナミックでもある。ラモーンズやヨ・ラ・テンゴの要素も強くあり、彼女たちは国や年代に囚われず、自由奔放に音の中で弾けている。いわば、とても今日的な音楽だ。

 特筆すべきは2曲目の「He's My Morning」。変拍子を交えたこの曲は、聴き手をずるずると引き込むような妖しさがある。「ただのガレージ・ロック」と言われかねない音楽性をからかうように自分たちの豊富な音楽体験を音楽に反映させ、それをあっけらかんとやってのけてしまうのが、ノヴェッラの真骨頂だろう。スーパーカーの『スリーアウトチェンジ』から青春の匂いがするように、このバンドも青春という、どこへでも行ける、未来は開けている、という感覚を持っている。そこにおける無邪気っぷりは素晴らしい。

 本作を「ただのガレージ・ロック」とだけ評するリスナーはいないであろう。このバンドにとって最も重要なことは、気だるいメロディと輝くメロディが交差する中で、歌声にギター・ノイズを絡ませるという、好きな事を好きなようにやるということだ。結局、それだけなのだ。が、しかし、衝動という言葉は似合わなく、彼女たちの場合、豊富な音楽的バック・グラウンドがあり、自然に滲み出ているがゆえの奥の深さがある。ギター・バンドにとってジャンルの交差の先に見える新たな景色を映し出してくれそうな音の鳴りが聴こえてくるのだ。プライマル・スクリームのような道を歩めるバンドだと思うし、そうなってほしい。ライヴ映像を観る限りだとスリッツになれる可能性も十分ある。

 バンド名と本作のタイトルは「短編物語」という意味。ゆくゆく発表されるであろうフル・アルバムはどんな長編になるのか気になるミニ・アルバムだと言えると同時に、ギター・バンドという枠で音を聴かせないギター・バンドだと言える。

 

(田中喬史)

 

【筆者注】JET SETTHE STONE RECORDSにて販売中。

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七尾旅人『リトルメロディ』.jpg  音楽とは不思議なもので、ロジックや言語では捉えきれない複雑なものを捉えることができる。だから筆者はよく「音楽とは魔法みたいなもの」と言うのだけど、そう言うと友人のライターや編集者には、「物書きとしてお金もらっておいてそれは言っちゃダメでしょ(笑)」と、軽くバカにされてしまう。

 そもそも、数多くいる音楽家のほとんどは、言語化できない曖昧かつ複雑な心情や感覚を表現するために、言葉だけでなく音やメロディー、さらにはリズムといったものを総動員して音楽を鳴らす。なぜならば、豊穣なものであればあるほど、直線的な表現では捉えきれないからだ。つまり音楽とは、言葉では説明できない複雑なものを複雑なまま、言語や理論といった壁を飛び越えて届けることができる手段であり、だからこそ、多くの人が音楽という文化に夢を馳せ、愛してきたのではないか。

  と、柄にもなくロマンチックがすぎることを言ってしまったが、前作『billion voices』以来2年ぶりとなる『リトルメロディ』を聴くと、そう思えてならないのだ。既にいくつかのインタビューで七尾旅人自身が語っているように、本作は3.11の影響が反映されたアルバムである。3.11直後、七尾旅人は友人のタブラ奏者であるユザーン(本作の13曲目「アブラカダブラ」に参加している)と一緒に福島へ行き、そこでライブを行うなど、3.11以降の七尾旅人は、考えるよりも行動を優先する姿勢が目立った。こうした行動の結果として生まれたのが、本作に収録された曲のなかでも屈指の名曲「圏内の歌」だ。正直、この歌が本作に収録されていると知ったときは、『リトルメロディ』は重苦しい雰囲気に支配された作品なのではないかと想像したのだが、聴いてビックリ。これまでの七尾旅人のアルバムでは一番ポップに響く作品で、メロディーもより親しみやすくなっている。「シャッター商店街のマイルスデイビス」に代表される前作の攻撃性は影を潜め、歌詞は平易とも言えるシンプルな言葉で綴られている。

 「きみのそばへ」と名付けられたノイズから始まり、放射能が降り注ぐ環境のなか、表向きは笑顔を浮かべながら生きる母親をテーマにした「圏内の歌」が続くことで、日本は変わってしまったことを聴き手は自覚させられるわけだが、後に続く曲は、男性の視点からカップルの一夜を描いたような「サーカスナイト」、男女の儚いラブストーリーを思わせる「湘南が遠くなっていく」といった具合に、日常の匂いを醸しだす"ささやかな歌"が多い。確かに本作には悲しみが横たわっているが、それは悲しみすらも受け入れ表現しようとする七尾旅人の真摯な姿勢に所以するものであり、3.11以降の現実を表現者として生き抜くため、出来るだけありのままの自己表現をしようと試みた結果ではないだろうか。少なくとも、本作の悲しみのなかに絶望や諦念は感じられない。

  それにしても、ウェンディー・カルロス風のエレクトロニック・サウンドにレイヴ・シンセ、さらにはガイガーカウンターを想起させる音が入れ乱れる「my plant」や、不穏な焦燥感を漂わせる「劣悪、俗悪、醜悪、最悪」「busy men」といった小品に混ざるかたちで、"ささやかな歌"が"在る"というのは興味深い。本作に収録されている小品の多くは、先述の3.11の影響をヘヴィーな形で反映していると思うのだが、そうした圧倒的な現実のなかに、小さいながらも美しい"ささやかな歌"は"在る"ことを、七尾旅人は伝えようとしているのではないか。それは言い換えれば、"人(ささやかな歌)"は"生きている(在る)"ということなのかもしれない。そういう当たりまえすぎて誰も歌わなかったことを、七尾旅人は本作において歌っているような気がする。あからさまな政治的メッセージもなければ、シニカルな風刺的表現もない。言ってしまえば、七尾旅人が3.11以降見つめてきた現実を表現しているだけとも言える本作から聞こえてくるのは、そんな身の丈から生まれた歌である。しかし、その歌がどんな言葉よりも力強いメッセージとなって、いまだ曖昧模糊なムードに覆われた現状に鳴り響く。こうした光景、それこそ「リトルメロディ」のように、ひとつひとつの"小さなメロディ"が集まり"大きなメロディ"となる帰納的光景が、本作にはある。

 

(近藤真弥)

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HERE WE GO MAGIC.jpg 最近驚くのは、50~60代のリスナーは音楽の定義付けが既に済んでいる場合が多いということだ。それはある種のこだわりだと思うが、音楽を既存の価値観で定義することは、音楽を聴く際に制限を設けることにも繋がる。音楽の定義付けとは音楽を聴いて浮かんでくる感情を水で薄める危険性があり、好き嫌いの二元論で判断してしまう危険性もある。だからこそ、というべきか、定義付けが済んでいるリスナーにこそ、このバンドを聴いてほしい。

 ブルックリンを拠点に活動する、シンガー・ソングライターのルーク・テンプルを中心とする5人組のロック・バンド、ヒア・ウィ・ゴー・マジック。スフィアン・スティーヴンスやデス・キャブ・フォー・キューティーのメンバーからも支持を受けている彼らの素晴らしさは、アフリカ音楽、クラウトロック、フォーク・ミュージックを、さも当然のように結びつけて鳴らせるところだ。そこにはあざとさが見当たらず、やりたいことをやったら多国籍的になってしまった、というステップの軽ささえ窺える。ともすれば実験音楽になりそうなのにポピュラー・ミュージックとして生きているのは、あらゆる国の音楽を愛している点と演奏方法へのストイックな姿勢が彼らの根底にあるからだろう。

 彼らのポップ性はファースト・アルバム『Here We Go Magic』とセカンド・アルバム『Pigeons』を比べた場合、明らかに『Pigeons』の方が上だ。音の表情は豊かになり、ファンキーなサウンドに溢れ、ポリリズムを錯覚させるリズムの多彩さがあった。つまり、進化した。そして今年発表されたサード・アルバムとなる本作『A Different Ship』は、ペイヴメントやレディオヘッドなどのプロデュースを務めたナイジェル・ゴドリッチということもあって、音の一つひとつが丁寧に磨かれ、立体的なミックスが施された空間の余白を大切にした浮遊感の美、静謐な音響美のある作品になっている。この作品はバンドにとって深化でも進化でもなく、変化だ。

 本作においてファンキーな鳴りが前作より影を潜めたのは残念だが、ソロ作も含めてルーク・テンプルの歌声は過去の作品以上に浮かび上がっているし、アフリカ音楽のリズムの上で西洋的な女性コーラスを優美に舞うようにしたミックスは異端。トリップ感も十分だ。ナイジェル・ゴドリッチの手によってヒア・ウィ・ゴー・マジックは自分たちの音楽に近視眼的にならず、自己相対化の目を持った。それが奏功し、大衆性を獲得している。デビュー当時からのファンからすれば、本作は、前作、前々作より土臭さや荒さがないゆえに、ヒア・ウィ・ゴー・マジックらしくない作品だと感じると思う。が、ナイジェル・ゴドリッチによって、シンプルで奥行きのある楽曲の構築が提示された本作は、いわばヒア・ウィ・ゴー・マジックのオルタナティヴを提示したものと言える。スルーしてしまうのはもったいない。

 過去の作品同様に、本作にもリズムの多彩さは十分ある。アフリカ音楽のリズムを取り入れている彼らの音楽は一聴、奇妙に思える。しかしリズムとは絶対的なものではなく相対的なものだ。サンバのリズムで踊れる日本人は10人に1人ほどらしい。それでブラジル人から「日本人はリズム感がない」と言われるようだが、では、阿波踊りを踊れるブラジル人がどれほどいるのかというと、それほど多くないことは想像に難くない。ヒア・ウィ・ゴー・マジックとナイジェル・ゴドリッチはそれを見抜き、普遍性のある、どのようなリズムでもよく馴染むように聴かせられるという技巧を身に付け、本作を発表した。実際に今年6月に開催されたHostess Club Weekenderでの彼らのライヴは強力なグルーヴがあり、誰をも踊らせるリズムがあった。圧巻だった。

 ヒア・ウィ・ゴー・マジックのメンタリティとして素晴らしいのは、奇妙でありながらも実験室に閉じこもるのではなく、あくまでポップ・ミュージックという、開けた場所に飛び込んでいく点だろう。楽曲の構築美に長けたナイジェル・ゴドリッチを快くプロデューサーとして迎えたのは、より多くの人に聴いてほしいという欲求があってこそ(ちなみにオファーしたのはナイジェル・ゴドリッチだ)。そしてより高い大衆性を獲得した本作がただのコマーシャル・ミュージックではなく、彼らにとって最も作品性の高い音楽になったことを嬉しく思う。なにより優美にひねくれたこの音楽は、音楽の定義付けという先入観が、がらがらと崩れていくサウンドに満ちている。

 

(田中喬史)

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THE VIEW.jpg 2012年の夏休み。僕はザ・ヴューの4thアルバム『Cheeky For A Reason』をくり返し聴いている。この夏のサウンド・トラックになりそうだ。殴り書きされたバンド・ロゴとモノクロのポートレート、不揃いのタイトル・フォント。オシャレでもなくて、ポーズさえも取らない4人のメンバーを写しただけのジャケットは、70年代後半頃のパンク/ポストパンク・バンドみたい。ドクター・フィールグッド『Down By The Jetty』、ザ・ジャム『In The City』、ストラングラーズ『Black And White』とか。そう言えば、スペシャルズの1stアルバムは、《2トーン》と名付けられたレーベル運営からメンバー構成まで文字通り「ブラック&ホワイト」を実行するスタンスを表していたっけ。ザ・ヴューの新作を手に取りながら、僕は改めてそんなことを思った。印象に残るモノクロ・ジャケットのアルバムは、サウンドもソリッドでダイレクト。アート・ワークが音楽を可視化する表現だとしたら、それは偶然じゃないはず。

 前作『Bread And Circuses』から約1年、思っていた以上に短いリリース・スパンでザ・ヴューが戻って来てくれた。ソニーからインディー・レーベルである《Cooking Vinyl》へ移籍したことが、彼らのフットワークを軽くさせたのかもしれない。プロデューサーには、アークティック・モンキーズやフォールズ、レイザーライトなどを手掛けたマイク・クロッシーを起用。そんなことからも、彼らの今作への意識をうかがい知ることができる。前作のサウンドを特徴づけていたストリングスは排除され、4人だけで鳴らされるロックンロール。キーボードやピアノは絶妙なアクセントとして楽曲を引き立てる。もともとラフ・トレードのA&Rマンだったジェームズ・エンデコットが立ち上げた《1965レコーズ》に所属していた彼らにとっては、いい意味での"インディー仕様"に戻ったサウンドだ。やっぱりジャケットのイメージどおり、ソリッドでダイレクト!

 アルバムは従来のザ・ヴューらしいメロディアスでアップ・テンポの「How Long」で幕を開ける。今作からの1stシングルに相応しいキャッチーなコーラスとポップなギター・リフに耳を奪われるけれど、イギリスの若手俳優マーティン・コムストンが(『Bread And Circuses』収録の「Grace」に続いて)出演するPVを見れば曲のイメージが一変するかもしれない。無邪気なラヴ・ソングかと思っていたら...、とんでもない! 自由な発想? 遊び心? それとも、挑戦的な態度? きっと、そのどれもが間違いじゃないんだと思う。バリエーション豊かな楽曲が並ぶ前半を聴き進めていくうちに、そんな気持ちが強くなる。

 カイル・ファルコナーとキーレン・ウェブスターによるソング・ライティング・チームは相変わらず絶好調。今作にはキングス・オブ・レオンをデビュー作からバック・アップしているプロデューサー/ソングライターのアンジェロ・ペトラグリアが3曲(「Hold On Now」「Bullet」「The Clock」)を2人と共作していることからもオープンなフィーリングが伝わってくる。そして、サウンドがシンプルになったからと言って、手っ取り早く"原点回帰"なんて言葉で片付けちゃいけない。5曲目「Bullet」、6曲目「Bunker (Solid Ground)」でのカイルの歌声は、スモール・フェイセズ時代のスティーヴ・マリオットや若き日のヴァン・モリスンを彷彿とさせるほどソウルフル。音数を抑えたギター・リフとタイトなリズム・セクションが"声"をいっそう際立たせる。唯一、キーレンがリード・ヴォーカルを披露する「Hole In The Head」が彼らの出自であるリバティーンズとの繋がりを思い出させるけれど、それはむしろ微笑ましいくらい。ミドル・テンポの楽曲が並んだ後半は、流れるような構成が本当に素晴らしい。3枚のアルバムを経て、彼らが着実に歩みを進めていることが実感できる。しかも、1stアルバム『Hats Off To The Buskers』の頃のフレッシュさ(輝き、と言い換えても良い)を損なわずに、だ。

 ローズ・ピアノの静謐な響きが印象的なラストの「Tacky Tattoo」(国内盤にはボーナス・トラック2曲追加)を聴き終えると、もう一度、PLAYボタンを押したくなる。オアシスみたいなスタジアム級のアンセムはいらない。リバティーンズが駆け抜けた儚いドラマもない。日本の夏フェスにも、ロンドン・オリンピックのセレモニーにも名を連ねていない。けれども、このアルバムは日本や世界のどこかで退屈な夏休みを過ごしている4人のキッズにバンドを始めさせるには充分だと思う。他に何が必要だろう? ザ・ヴューが鳴らすロックンロールは、そのモノクロ・ジャケットとは裏腹に僕たちの情景を鮮やかに染め上げる。

 

(犬飼一郎)

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高木正勝.jpg 高木正勝というアーティストは現代音楽の括りに入りながらも、そのポイエーシスをして、ロック/オルタナティヴ・ミュージックを愛する人たちからも注視されている。更には、映像面から多岐に渡る活動まで全身藝術家のそれを体現もする。しかし、彼の静謐のフレームの上を際どく鳴るピアノのタッチに、ふと耳を奪われてしまう人も多いと察する。個人的に魅かれるピアニストでは、グールド、ベネディッティ・ミケランジェッリ、ホロヴィッツ、ラフマニノフなどが居るが、彼らに「共底」するとしたら、ピアノが鳴っている音以上の「行間」を大事にしているような風情があるというのに収斂出来るのかもしれない。

 日本人的な「細部に神が宿る」のを愛する人たちが感情をアイデンティファイしやすいグールドの人気は言わずもがなだろうが、ミケランジェッリの『パガニーニ協奏曲』、ホロヴィッツ『第二ピアノ協奏曲』、ラフマニノフ『パルティータ』などを聴くと、アーティキュレーション、譜面からはみ出るような透明性と純度の高さを感じる。モダン・クラシカルの文脈下では、モダンにもクラシカルにも「分断」されない、仄かに宿る稚気と狂気性も然り、それぞれ即興的な演奏を或る程度は是としながらも、その実(速弾きがどうなどの余計なオプションが付随しつつ)、上品に且つ細やかに音が編み込まれている感覚が予め内包されている。昨今では、ダスティン・オハロランもそうだろうか。弱音、カンタービレ、構造的配置の妙。ちなみに、僕はリヒテルのタッチまでいくとナイーヴ過ぎてしまい、わずかに反撥してしまうのは彼が事実、内向性でヴァルネラヴィリティに溢れる人間だというのがある。

 数多の世界のピアニストたちの「指先」に見えるのは、精神性の脆く裸身の美しくも残酷な尖りで、それが時に聴き手には内部の古傷を抉るように癒すように、心に響くならば、高木正勝の分岐点ともなったといえる2009年の『Tai Rei Tei Rio』を巡る2010年のドキュメンタリー・フィルム、そのDVD『或る音楽』で、有名曲の「girls」を弾き語るときの音の揺れ、麗しいダイナミクスにはどうしても芳醇たる動悸をおぼえてしまった。それでも、彼自身は雄大なる太古、歴史を辿り、生命を巡る旅路にて現代音楽的な意匠という縛りではなく、原始的なレゾナンスの中で人間の鼓動に近付く行為に接線を敷く訳で、それはかの竹村延和の過去作『こどもと魔法』辺りの温度の近似点を保ちながらも、どんな年齢の人たち、例えば、大人のような子供、子供のような大人の琴線、そして、言語、意味共通圏域で通じているという各々の暗黙の錯覚をほぐす。今年は、アニメーション映画『おおかみ子供の雨と雪』のサウンドトラック、アン・サリーの唄う主題歌「おかあさんの唄」を手掛け、その映画自体の評価もさることながら、彼の描く、新しくも誰しも心の中に宿る故郷たる何かへのノスタルジア、慕情を掻きたてるワークスも美しかった。つまりは、音楽はリアリティが峻厳な状況に置かれても、やはり無力ではなく、しっかりと伝わる―そういった行為性の拡がり。

 この「Yu So Ra Me」EPは、第5回トヨタ夢のクルマアートコンテスト スペシャルムービーの音楽である「Sora」と「Yume」、そして、『Always '64 続・三丁目の夕日』のタイアップCM音楽「Yubi Piano」など4曲を収めた配信オンリーのものだが、彼のHPには但し書きとともに、絵を担当した さとうみかをによるpdf.形式のブックレットがリンクされており、各々でフリーに保存も出来るようになっている。You Tubeでの積極的な演奏風景の呈示含め、視覚的にも聴覚的にも、一層のこと、今の彼は自覚裡だろうが、表現、受容者、現実、それらを結び合わせるインタラクティヴな佇まいを進めている証左の一端を示す。

 「Sora」は昨今のモダン・クラシカルの音楽に沿い、子供の声やトイ・ポップ的な無垢さが接着された柔らかい曲、「Yume」は彼の端正なピアノが冴える子守唄のようなヒプナゴジックな質感を持つ曲。他の2曲も含めて、13分半ほどなのに、一瞬に思えるほどの果敢なさと凛然たる強度があり、同時に、昨今の加圧の掛かる音楽が多い中で自然の温柔な風のそよぎとともに届けられる色彩がある。

 このEPでの色彩を掴もうとすると、おそらく、ふと誰もが元来、潜めている「自然=本性(Nature)」に帰させるような、そんな訴求力が備わっていると思う。

 

(松浦達)

 

【編集部注】高木正勝「Yu So Ra Me」EPはiTunes Music StoreAmazon等で配信中です。

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