reviews: February 2012アーカイブ

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PETER BRODERICK.jpg ポスト・クラシカル、アンビエント色の強い1stアルバム『Float』や、才気高いSSWとしてヴォーカル曲にスポットを当てた『Home』をはじめ、寿命を削るようなハード・ワークによって生み出されたアルバム達を、一度振り返った、あるいは一つの節目として栞に挟んだアルバムである。ソロ・ワークとしても、他のアーティストとの共作やサポート・メンバーとしても、ここまで強い創作意欲をプロモーションへ振り分けたのは、彼の短くも濃いキャリアにおいて初めてである。

 本盤には、彼が培った幾多の音楽的側面と、奇抜なアイデアによる挑戦意欲が散りばめられている。URL先を踏めば、アルバム内の楽曲は全て試聴可能であり、歌詞やセルフ・ライナーノーツ、アート・ワーク、演奏したインストゥルメンタル(担当する楽器の多さは、正にマルチ・プレイヤーである)までもが詳細に記されている。フリー・ダウンロードによってデータ化された音楽に向けて、彼が投じた一つの意見のようなアルバムであるが、説教臭さは無く、非常に内省的な音楽性が終始貫かれている。彼の持つ素養の中でもエレクトロニカ、アンビエント、ポスト・クラシカルらが最も強調されており、ピアノやギターのアルペジオによる反復をベースに、透明感のあるヴォーカルや、美しい無数のレイヤーを重ねている。スピード感のある「With The Notes On Fire」のような曲もあれば、ミニマルな音数と構成にフォーキーなメロディを乗せた「Blue」や、徐々に膨らむレイヤーがシネマティックな「Asleep」など、今までの彼には無い非統一感があり、翻せば音楽性のバラエティに富んでいる。ここには、SSWとしての彼も、サウンド・トラック・メイカーとしての彼も、マルチ・プレイヤーとしての彼も内在している。

 アルバム名が放つ異物感は、本盤が類い稀なる問題作・挑戦作であることを想起させる。しかしながら蓋を開けてみれば、本盤は順調に活躍し続けた彼にとっての集大成的作品であり、変な高慢さとは無縁の、実はとても素直なアルバムである。以前から親交の深いニルズ・フラームがプロデュース、レコーディング、ミックス、マスタリングを手掛けており、姉のヘザー・ウッズ・ブロデリックなど、ゲスト・アーティストも多彩である。アルバムの周囲を飛び交う堅苦しい言葉を抜きに、ずっと聴き流していたくなる催眠性がある。

 

(楓屋)

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Nzca.jpg 元メトロノミーのガブリエルも参加するユア・トゥエンティーズのメンバー、マイケル・ラベットのソロ・プロジェクトであるナスカラインズ。そのナスカラインズのファースト・アルバム『Nzca / Lines』なんだけど、すごく面白い。音源をいただいてから何度も聴いているが、ふと思いだして聴きたくなるスルメアルバムだ。

 全編浮遊感が心地良いエレ・ポップで、ディスコやエレクトロといった音楽をモダンに仕上げた所謂レトロ・フューチャリスティックな方法論で作られているが、そんな一言で括るにはもったいない魅力が本作には存在する。プロモ資料には"インディーR&B"なんて言葉も出てくるし、イントロが鳴った瞬間クラフトワークの「Tour De France」を想起してしまう「Compass Points」みたいな曲もある。他にも古き良きIDMやファンク、アンビエント、そしてもっとも面白かった頃のチルウェイヴ、つまり、リバーブの奥に潜む多様な音楽性が魑魅魍魎と美しく渦巻いていた頃のチルウェイヴ。そういう意味では、"チルウェイヴ以降のエレ・ポップ"として語ることもできるだろう。

 だがアルバムを通して聴くと、そんな単一的ジャンル分けはどんどん無効になっていくことがわかるはず。様々な要素が複雑に絡み合いながらも、あくまで音数が少ないシンプルかつ精巧なポップ・ソング集として聴き手の心を刺激してくれる。だから特定のバンドやアーティストを挙げて例えるのは難しいが、実験精神とインテリジェンスを感じさせるサウンド、そしてファルセットが特徴的な美声という点ではホット・チップと共通するかもしれない。

 "どこか聴いたことあるようで今までなかった音楽"にはそうそう巡りあえるものではないが、本作は間違いなく"ありそうでなかった音楽"だ。あらゆるものから切りはなされた空間で鳴るミステリアスな音楽。それが『Nzca / Lines』である。

 

(近藤真弥)

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LEONARD COHEN.jpg 「ほとんどの人たちは死に対する用意ができていない。自分たち自身の死だろうが、誰か他人の死だろうが。死に誰もがショックを受け、恐怖を覚える。まるで不意討ちだ。何だって、そんなこと絶対にありえないよ。私は死を左のポケットに入れて持ち歩いている。そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしてる? いつわたしのもとにやってきてくれるのかな? ちゃんと心構えしておくからね」(チャールズ・ブコウスキー著『死をポケットに入れて』中川五郎訳:河出書房新社)

 「クッキーシーンに載るミュージシャンでは最高齢かも。」と、前作のライヴ・アルバム『Songs From The Road』を取り上げた時に書いたけれども、レナード・コーエン自身がその記録を塗り替えようとしている。御年77歳! スタジオ・レコーディングとしては『Dear Heather』以来、8年ぶりとなる新作『Old Ideas』が素晴らしい。40年以上にも渡る長いキャリアの中でリリースされたオリジナル・アルバムはこれで12枚目。むしろ寡作と言ってもいいだろう。でも、時間をかけてじっくり制作されたアルバムは、どれも傑作だ。今作のプロデューサーには、マドンナやブライアン・フェリー、ロッド・スチュワートなどを手掛けてきたパトリック・レナード(一部のリリース情報では、彼が"実の息子"と紹介されているけれど、それは間違い。レナード・コーエンの息子はアダム・コーエンであり、アダムの3rdアルバムをプロデュースしたのがパトリック。それが縁で今作のプロデュースに至る。確かにややこしいな!)をはじめ、コーエンの公私に渡るパートナーでもあるアンジャニ・トーマスなど4人の名前があがっている。バリエーションを持たせるのではなく、シンプルでアコースティックなアレンジに統一されたサウンドは、さらに深みを増したコーエンの歌声に寄り添うように響く。

 冒頭に引用したのは、ブコウスキーが71歳の時に書いた日記からの言葉。力強く、ユーモアいっぱいの彼らしい言い回しだけれども、日常につきまとう"老い"と忍び寄る"死"に対する思いは真摯だ。この日記が書かれてから3年後に、彼がこの世を去ってしまったことを知っている僕たちにとってはなおさらだろう。"聖と性"―そんなふうに例えられることが多いレナード・コーエンの歌。『Old Ideas』と名付けられたこのアルバムでも、彼がデビュー以来ずっと歌い続けてきた神への問いかけや人間の欲望に加え、やはり"老い"や"死"を意識した言葉が多く綴られている。

《私には未来はない / 残された日々はわずか / 現在の生活は楽しくない / しなければいけないことばかり / 過去を懐かしんでずっと生きられると思っていた / でも暗闇に取り付かれた》(ダークネス)

《時にはハイウェイを目指したもの / 鏡は正直に老いを写す / しかし狂気は、いくら別れようとしても / 深く身を隠し、去ろうとはしない》(クレイジー・トゥ・ラヴ・ユー)

 老齢に差し掛かり禅を学んだというレナード・コーエンにとっても、"老い"と"死"は逃れようもなく、恐れ(畏れ)や混乱が色濃く滲み出ている。それでもこのアルバムは、暗く陰鬱なものではない。むしろ"死"すらも見据えた言葉と歌が、リアルに生き生きと迫ってくる。トータルで約40分という決して長くはない10曲を聴き終えた時に気付くことは、"死"を身近に意識してこそ浮き彫りになる"どう生きるか?"という思いだ。それは年齢も人種もジェンダーも関係ない。"聖と性"、それを同じ響きを持つ日本語に言い換えるなら、"生"そのものだろう。思い出して欲しい。ジェフ・バックリィ、ルーファス・ウェインライトからスネオヘアーまでがカヴァーした代表曲「ハレルヤ」の一節を。

《多分、天には神がおられるのだろう / だけど、僕が愛から学んだことは、先に銃を抜いた相手をどうすれば撃ち倒せるかということだけ / それは夜に聞こえてくる叫び声じゃない / それは光を見たという誰かのことでもない / それは冷たく、傷ついたハレルヤ》

 "主をほめ讃えよ"という意味を持ち、賛美歌でもある「ハレルヤ」を、たとえ冷たくても、傷ついていても僕たちの手もとにたぐり寄せたレナード・コーエンの歌。彼が歌い続けてきたことの本質はこの新作でも変わらず、よりいっそう研ぎ澄まされている。『Old Ideas』のリリースに合わせて、いま活躍しているミュージシャンやバンドが彼の曲をカヴァーする"Old Ideas With New Friends"という企画をチェックして欲しい。ニュー・ポルノ・グラファーズのA.C.ニューマン、今年のI'll Be Your Mirror USAでついに復活を果たすアフガン・ウィッグスのグレッグ・ダリをはじめ、カルツやブラッドフォード・コックス、コールド・ウォー・キッズ、マウンテン・ゴーツなど、クッキーシーンが激オシしたいメンツばかりが勢揃い! 10年代のキッズにはレナード・コーエンを発見する絶好の機会。年季の入った音楽ファンは、10年代のインディー / オルタナティブ・ミュージックの豊かさに気付くはず。レナード・コーエンの歌は、こんなふうに歌い継がれていくのだろう。

 『Old Ideas』というタイトル、それは「ジジイのひらめき」でも「古ぼけた考え」でもなく、「私がずっと歌い続けてきたことだよ」とレナード・コーエンはほくそ笑んでいるかもしれない。

 

(犬飼一郎)

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LOOPS OF YOUR HEART『And Never Ending Lights』.jpg ザ・フィールドことアクセル・ウィルナーの新名義ループ・オブ・ユア・ハート。そのループ・オブ・ユア・ハートのファースト・アルバムが『And Never Ending Lights』である。ウィルナーは様々な音を重ねる偏狂的こだわりでもって、メロディーやフックを丁寧に配置し音楽を作りあげていくが、その基本的姿勢は本作でも変わらない。しかし、音に対するアプローチの仕方は、ザ・フィールドでのそれとは異なるものであることが本作を聴けばわかるはずだ。

 ウィルナーといえばやはりループだが、本作ではミニマル・テクノ的インパクト、例えば、聴き手をたじろがせる唐突な展開や飛び道具は皆無である。その代わり、流麗な川の流れを想起させる甘美なグルーヴが聴き手を楽しませてくれる。クラウト・ロックの反復性にドローン、そこへふと現れては消えるささやかなメロディーが主な構成要素として見受けられるが、なにより素晴らしいのは、それらの音がダイナミックかつエモーショナルに鳴らされているということだ。

 本作に収録されている曲群は、音を幾重にもオブラートで包み、そのオブラートを一枚一枚剥がしていくことでカタルシスを演出しているが、謂わばそれは、"消失→構築→開放"の繰りかえしである。そしてこの"消失→構築→開放"というサイクル(ウィルナー的に言えば、それこそループ)は、そのままウィルナーの心に直結する。つまり、このサイクルこそアクセル・ウィルナーという人間そのものを代弁している。ウィルナーは己を"消失"させることで初めて、自らを音楽として表現できる。だからこそ、彼の生みだす音楽は聴き手を欲するし、"消失"によって主を失った音楽に聴き手は、自分自身を見いだすことができるのである。

 このことは、1月28日に代官山ユニットで行われたザ・フィールドの来日公演で感じたことでもある。序盤のヒプノティックなループとジャムのように展開していくサウンドは、ザ・フィールドという存在をステージ上から消す役割を担っているように思えた。そんな音に観客は歩み寄ることを求められ、気がつくと、自分を中心として音が周回しているような錯覚に襲われる。このトリックは『Looping State Of Mind』まで一貫して導入されていたが、『And Never Ending Lights』もほぼ同様のトリックを用いている。ただ先述したように、アプローチの仕方が違うというだけだ。ほんとに素晴らしい本作の欠点を強いて挙げるとすれば、この類似性にあるだろう。つまり、アクセル・ウィルナーという才能の偉大さからすれば、本作の出来は当たり前の範疇であるということだ。まあ、そんな問題は些細なことでしかないのだが。

 

(近藤真弥)

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CHRISTIAN NAUJOKSjpg.jpg レディオヘッドの昨年の『The King Of Limbs』では、ディープ・ミニマルの影響を少なからず受けていた要素はあったが、ライヴではツイン・ドラム構成のダイナミクスも揃い、オーガニック・ミニマルの持つ有機的で小刻みに徐々にズレる拍の分だけ、フィリップ・グラスやスティーヴ・ライヒ、ラ・モンテ・ヤングの音を聴いているときに起こる拍の頭に関して、ふと脳内でそれが飛んでしまう感覚を孕んでいたとしたら、今回、ドイツのエレクトロニカ、ミニマルなどで有名なローレンスが主宰するレーベル《Dial》から満を持してリリースされるクリスチャン・ナウヨクス(Christian Naujoks)の2010年の話題になったファースト・アルバム『Untitled』を経てのセカンド『True Life / In Frames』は、そのレーベルから出ているとはいえ、"オーガニック・ミニマル"と称するには難しいだろう、クロスオーバーとしてポスト・クラシカルの次を見通した意欲的な静かな現代音楽の桎梏への距離感で為されている作品である。

 ちなみに、電子音もプリセット音も全く入ってこない。タイド・アンド・ティックルド・トリオなどのワークでも注目を集めるトビアス・レヴィンをプロデューサーとして招き、ハンブルグ・フィルハーモニーの全面協力の下、2011年の8月にハンブルグのクラシック・コンサート会場のライスハレ(Laiszhalle)でライヴ録音されたのもあるのか、生々しさと緊張感に息を飲む内容になっている。楽器もアコースティックのものでピアノ、マリンバと絞られ、曲によって入る彼の中性的な歌声が衣擦れのように響く。だからといって、アンビエント、ジャズ的なムードではなく、やはりオーガニック・ミニマルからポスト・クラシカルの幅を揺れ、名前が付けることが出来ない隙間を鳴らす。隙間を鳴らす、彼のピアノの低温の旋律と、マリンバの細かいリズムの軽快さが、ストイックで酸欠してしまいそうな音空間に空気が吸える場所をしっかり確保もしている。

 今、ロック・ミュージシャンの一部が現代音楽に目を見据えている動きもジャズ・ミュージシャンがロック・ミュージックへの目配せをしているのも含めて、"クロスオーバー"という簡単なタームでおさまるものではなく、音楽的な絵図を描き、新しいヴィジョンを突き進んでゆくアーティストにとっては、ジャンルは最初からあってないようなもので、その「ある概念」を具像化してしまうとなると、どうしてもこういった"カテゴリーが後から付いてくる"いささか前衛的ながらも、「美しい音」を作ってしまうということなのだろう。「美しい音楽」というよりも、「美しい音」。

 ここまで書いてきたが、決して、敷居が高く、小難しい作品ではないのは強調したい。9曲の内、5分を越えるのは3曲だけ、あとは全部、4分以下で、冗長さもなく、自然の流れでも聴き通せるし、カフェやラウンジで流れていてもBGMとしての機能性もある。2曲目の「On To The Next」には、竹村延和氏や高木正勝氏の一時期のストイックな音に対しての彫像美が特に出ていると思う。リズムが細かく優しく重ねられながら、ときには、いつかのシカゴ音響派におけるトータスの初期、イン・ザ・カントリー、そういった音を想い出す人も多いかもしれない。彼のボーカルがフィーチャーされた3曲目「Moments Ⅰ」、9曲目「Moments Ⅱ」にはセンシティヴな現代の「うたもの」としての平熱感がある。その「うたもの」は日本でいえば、空気公団やさかなの在り方にも近い、そのままの空気の揺れと共振するものだ。そして、ライヴ録音での響きの良さ、余韻がそれにまたワンネスという魅惑を忍び込ませる。チルアウト、アフターアワーズ・ミュージック、もしくはヒプナゴジック・ミュージックとして枕の傍らに置いておくのもいいかもしれないが、ただ、個人的に思うに、このライヴ録音でのストイックな静かさで必要なのは「雑踏」の音だろう。何故ならば、無菌室のようなところで紡がれた麗しさに物足りなさをおぼえる人も、透き通った音像の向こう側に自分の日常とは違う逃避を視る人も居るとは思うからだ。しかし、この作品を聴きながら、騒々しい通り(ストリート)に出てみたときに、風景とこの静寂は馴染み、仄かに視界を変えてくれるような気がする。いつも通りの日常だとしても。

 8曲目のタイトルは「Dancer」であり、こういった音で日常を舞うのもいいと思う。凛とした姿勢の正しい音が詰まっている。

 

(松浦達)

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チャットモンチー.jpg 冒頭からチャットモンチーと関係ない話で申し訳ないが、最近刊行されたピーター・フック著『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』に出てくるとある一文が好きだ。それは、バーナード・サムナーに「おまえはさ、過去に生きることが好きだよな」とからかわれたことに対する、フッキーなりの返答みたいな一文だ。

 「たぶん、それは正しいと思う。俺は、ついそれにこだわってしまうところがある。まあ、それを忘れて先に進むことなんかできない、ってことなんだけど。」(『ハシエンダ マンチェスター・ムーヴメントの裏側』447頁)

 この一文は、当時のマンチェスター・ムーヴメントを生きた者達だけでなく、シビアな日常を曲がりなりにも必死に生きる人々に届く最高の言葉だと筆者は思っている。いまこうして書かせてもらっていることも、"過去"がなければありえなかったわけだが、当然"過去"は、楽しいことだけじゃない。それでも"過去"を受けいれ前に進むということが、"生きる"ということではないか? 最近そう思うようになってきた。

 高橋久美子の脱退。長年チャットモンチーを追いかけてきた者ならば、このニュースに驚きを隠すことはできなかったはずだ。筆者もそのひとりであるが、このニュースを聞いたとき、「解散してもおかしくない」と思った。どんなバンドも脱退やメンバー・チェンジは経験するものだし、重要なフロント・マンだけが不動で、あとは流動的なバンドも数多く存在する。しかし、チャットモンチーはあの3人でなければ駄目なのだ。それは、ビートルズやレッド・ツェッペリン、スミスにストーン・ローゼズといったバンドといっしょで、言葉で説明できない特別な"ナニカ"を抱えたバンドに対して抱いてしまう感情だ。

 この感情を言葉にするのは、正直難しい。もちろん技術的には新メンバーを入れたりすることも可能だが、チャットモンチーは、そうした音楽性云々を超えたバンドであり、多くの人の"人生の一部"として入りこんでしまっている。だからこそ、解散の道を選んでもおかしくなかったが、ご存じのように、チャットモンチーはチャットモンチーであることを選んだ。

 『チャットモンチー BEST ~2005-2011~』は3週連続リリースの最後を飾る作品だが、本作はチャットモンチーの"過去"を象徴している。普通は"過去→現在"といきそうなものだが、チャットモンチーは「満月に吠えろ」という渾身の"今"から、新たなスタートを切った。そしてアニメ主題歌である「テルマエ・ロマン」が続き、そして最後に本作と、"現在→過去"という見せ方をしている。それはやはり、"3人のチャットモンチー"があったからこそ、今再び前に進めるのだという2人の決意表明のように思う。その決意からは、悲しみに酔ったノスタルジーではなく、その悲しみを受けいれチャットモンチーであることを選んだ力強さがある。だから本作だけでなく、試しに"「満月に吠えろ」→「テルマエ・ロマン」→本作"の順で聴いてみてほしい。『YOU MORE』収録の「バースデーケーキの上を歩いて帰った」で終わる本作だが、《繰り返し 希望と絶望》と歌われる曲が一層心に響くはずだ。そして、それでも歩みを止めない覚悟に、眩しい未来が待っていることもわかるはずだ。

 

(近藤真弥)

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sleepy.ab.jpg 日本最北の地方、北海道は札幌からのスリーピーは、その身体を芯まで突き刺すような極寒の冬の透き通る夜のような、ダイナミックでありながら幾重にも重なった緻密な音世界で、現代の邦楽ロックシーンにおいて、他のどのバンドが立つことも許されていない独自の立場を確立している稀有なバンドの一つと言えるだろう。北欧やスコットランドといった同じく厳しい冬をむかえる国々のアーティストやシーンのエッセンスを咀嚼するだけなのでなく、むしろ自らの土地、北海道の憂愁な甘美の恍惚や切り刻まれていくような情景の数々を素朴ながらも強かに見つめ、それをあくまでポップ・ソングとして打ち鳴らす彼らは、美食の地としても知られる北海道の食品がそうであるように、自然と共に、時にはさやさやとそよぐ風のように、時にはけたたましく窓に打ち付ける豪雪のように呼吸する、その自然な感性が彼らをその独特の地位に居続けられる大きな理由であるとも言えるだろう。

 特にアルバム『Paratroop』で、彼がそれまでの作品から常に保ってきた、壮大な自然からくる幻想的な世界を清冽なまでに何倍も増幅して力強く打ち鳴らすことに成功した彼らは、続くアルバム『Mother Goose』で自らを寓話としてさらに展開していくポップ・センスと地の強かなポスト・ロック的な感性を折衷していたことは記憶に新しい。

 その『Mother Goose』から(DVD作品を除くと)、ほぼぴったり1年を経てリリースされる「アンドロメダ / Lost」は、彼らのキャリアでは初めての両A面のEPである。2曲を見る前に、結論的に言うと、どちらの曲も、彼らの壮大な自然を見据える強かな感性をもってさらに、強固なまでに打ち鳴らされるオルタナティヴ・ソングでありながら、極寒の季節の中で誰かと隠れてうずくまっていた時の温かい体温を思い出しながら、また一人ゆっくりと歩き出していくような、切なさと優しさ、そして、どこに辿り着くかも分からないまま歩いているような乖離に満ちており、彼らの止まることを知らないバンドの表現としての成熟していく経過を見ることができる。

 「アンドロメダ」は、CDをプレイヤーに入れてプレイボタンを押すとすぐに聴こえてくる、「アクアリウム」を思わせるような津波秀樹の重厚なドラムと冬の夜空を切り裂くようなディレイのかかった幻想的な山内憲介のギターが重なったイントロだけで最早、別世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。しかもその上におもむろに歌い出される成山の言葉は、《さっきまでの世界と違って見えたの》である。こう書くと、逃避的な曲のように思えるかも知れないが、もちろん、そんなことはなく、秋から冬にかけて見られる星座、アンドロメダの中に取り残されてしまったような純粋な目をしたまま立ち尽くして見えた光景を焼き付けるかのような自分自身を歌う曲である。ここで歌われているアンドロメダは、夢想するような理想の世界ではなく君が消えた後に、まがまがと見えてきた現実である。その忍び寄る優しげな不安を体現するかのようなサビでの深淵のサウンドスケープは、『Paratroop』のそれよりさらに幽玄で揺らめくように光っている。

 「Lost」は、初期の頃から見られた、彼ら特有の静謐な世界を柔らかくなぞるようなサウンドで、「アンドロメダ」の覆い込むようなそれとは対照的である。しかし、歌われているのは、「アンドロメダ」よりも、別離の色が強く、「アンドロメダ」は離別が突き刺さっているのに対して、「Lost」はその柔らかな音作りに合わさって、傷口にゆっくりとしみ込んでいきながらも、それを実感した上でも今も遠い春から歩き出そうとしているようで、アウトロのレトロな音構成から万華鏡のようにきらめくコーラスが入ってくるまで優しく感傷を讃えているようだ。

 サウンドは、今までの彼らのエッセンスを更に効果的に研ぎすませた上で、詞に関しても今までの曲に比べると、アブストラクトなものでなく、間接的ではあれども、さらに心の奥に染み渡っていくのも、彼らの成熟具合が感じられる。今作は限定生産のEP作品であるから、きたるアルバムに対して《不安の中眠る》のでなく、期待を抱えつつ冬を越えていたいと思わせられる快作だ。

 

(青野圭祐)

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PERFUME GENIUS.jpg シアトル在住のSSW、パフューム・ジーニアスの前作『Learning』は、なにかとネガティヴな印象で語られることが多かった。無理もない。彼はドラッグ漬けという、苦しみ続けた半生を持ち、立ち上がるため、母親のベッド・ルームでざらついたオーケストレイションと、か細くも芯のある歌声によって苦悩を前作で鳴らしたのだから。それはとてもパーソナルかつ、特別めずらしいわけでもない表現欲求・手段でありながらも、癒しと同時に哀しみが強烈なリアリティを持って鳴り渡り、聴き手の弱い気持ちを見付けだすものだった。それは僕らに甘美な心地を与え、苦痛を耐えやすいものにする。いわば、僕らは現実を捨て去りパフューム・ジーニアスの世界に浸ることのみならず逃げ込むことさえできた。

 しかし彼は、自分自身も、そして聴き手も逃げ込める音楽を作ることを目的化していなかったし、これからもしないだろう。「堕落している自分」をキャラクター化する気もさらさらないことが、このセカンド・アルバム『Put Your Back N 2 It』ではっきりした。本人いわく、「絶望、背徳、中毒症状がもたらす虚無といったものが飛び交う世界」とのことだが、重くはなく、そんなに大げさな音楽ではない。本作では、「過去の堕落した自分自身にはもう戻らない」という意思のもとで、音がぐっと歩を進めるように鳴っている。打ち込みが静かに鳴り、クリアになった音響が磨り合い、時に小気味よくステップし、ギターもピアノも歌声も、圧倒的でも絶望的でもなく、素朴な美しさを持っている。要は、親しみやすくポップなのだ。それは彼にとって今の等身大の姿としての音なのだろう。パフューム・ジーニアスは常に自分を飾らない。彼が鳴らす音は彼自身の心情とリンクしていて、パーソナルな姿として響き渡る。

 スフィアン・スティーヴンスアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズの影が見えればマーキュリー・レヴの『Deserter's Songs』を思わせるところもあり、なおかつ本作ではシガー・ロスのような、聖域へと徐々に導かれていくようなサウンドが全曲貫かれている(過日行なわれたHostess Club Weekenderでのライヴでは音の探究者としての姿も見えた)。しかし前作より、純粋に曲の骨格はポップ・ソングとして聴ける側面があり、アルバムをポジティヴな空気で包んでいる。まるで裸足で森の中を散歩しているような邪気の無さ。ここにあるのはそういう些細だけれども閉じこもらない音の数々と歌なのだ。

 もはやパフューム・ジーニアスに堕落的・絶望的というイメージはいらない。単純にイメージに囚われない、音楽としての美しさがある。それは例えば、もはや神聖かまってちゃんを非リア充というイメージの縛りで聴く必要なんてほとんどないことと同じだ。本作を期にアーティストをキャラクター化することで聴こえてくるものとこないものを考えてみるのも面白い。これはジャンルにも言えることだ。

 

(田中喬史)

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NEW AGE STEPPERS.jpg ニュー・エイジ・ステッパーズの4thアルバム『Love Forever』がリリースされた! 3rdアルバム『ファウンデーション・ステッパーズ』から約30年。まさかの復活だ。レゲエ / ダブにパンクを融合させたこのプロジェクトの中心であり、プロデュースを担うのは、もちろんON-Uサウンドの総帥エイドリアン・シャーウッドとスリッツのアリ・アップ。嬉しい驚きに胸がいっぱいになる反面、悲しくて大きな事実がひとつ。みんなが知っているとおり、アリはこのアルバムのリリースを待たずに一昨年、乳がんで亡くなってしまった。ニュー・エイジ・ステッパーズとしては、これがラスト・アルバムになるのだろう。そして、ライヴでのアリのパフォーマンスを見る機会も永遠に失われてしまった。けれども、このアルバムを聞いていると、そんなことが嘘みたい。しなやかで優しく、時に挑みかかるようなアリの歌声は、"生命力"そのものだから。

 僕が最初にレゲエに出会ったのは、ローリング・ストーンズの『ダーティ・ワーク』に収録されている「Too Rude」だった。ポップ・ミュージック / ロックの楽しさに目覚めて間もない頃、ストーンズが『ダーティ・ワーク』をリリースした。当時のストーンズはミックとキースの不仲が囁かれていて、バンドも空中分解寸前だったらしい。なるほど、いま聞き返してみてもアルバムは散漫な印象で、ストーンズのディスコグラフィーの中でも注目される作品じゃないかもしれない。それでも当時は、ストーンズの"新作"という意義がとてつもなく大きかった。14歳だった僕は、何度も何度も夢中で繰り返し聞いた。『ダーティ・ワーク』の中で、いちばんのお気に入りになったのが「Too Rude」。ゆったりとしたリズムで意地悪な女の子のことを歌うキース。脱力したヴォーカルとリヴァーヴが強めにかかったアレンジが不思議で、僕にはとてもポップに聞こえた。その曲がカヴァーだってことには気付いたけれども、"レゲエ"だなんてわかってなかった。ただ単純に「良い曲だな。キース、最高!」って思っていただけ。それはある意味、今も変わらない。

 やがて僕はパンクの洗礼を受けて、クラッシュの1stアルバムに辿り着く。"ポリスとコソ泥"っていうナイスな邦題の「Police And Thieves」は最高にカッコいいレゲエ・ナンバーだ。リー・ペリーとジュニア・マーヴィンのカヴァーであるこの曲をリー・ペリーがボブ・マーリィに聞かせたのは有名な話。セックス・ピストルズの「勝手にしやがれ!(Never Mind The Bollocks)」にすぐに飽きてしまった僕は、P.I.L.の『Public Image』を手に入れた。ジャー・ウォブルの極太ベースとキース・レヴィンの鋭利なカッティングが飛び交う隙き間だらけのサウンドが新鮮で、ピストルズの100倍は好きになった。ピストルズの解散後、ジョン・ライドンがジャマイカへ旅していたことや初期のP.I.L.のサウンドにはレゲエ / ダブの影響が強いことを知った。ようやくレゲエが何だかわかってきたみたい。ボブ・マーリィを聞く準備ができたみたい。そして、聞いてみた。もちろん最高だった!

《New Wave, New Craze / New Wave, New Wave, New Phrase / I'm sayin' / The Wailers Will Be There / The Damned, The Jam, The Clash, Maytals Will Be There / Dr. Feelgood Too》

 ボブ・マーリィのライヴ盤『Babylon By Bus』に収録されている「Punky Reggae Party」にはこんな一節が歌い込まれている。クラッシュの「Police And Thieves」を聞いたボブからのアンサー・ソングだ。ストーンズに惚れ込まれて、パンクスと一緒にパーティを始めるレゲエという音楽。少しだけ時間を巻き戻せば、スカが軽快なビートを刻み、UKではスペシャルズやマッドネスが受け継いでいた。パーティをのぞいてみるとダブ・サウンドが壁を揺らし、ダンスホールやラヴァーズ・ロックが鳴り響いていた。ちょっと遠回りしたけれど、僕はそこでスリッツとポップ・グループを見つけた。そして、その後すぐにニュー・エイジ・ステッパーズと出会い、夢中になった。

 この新作にはマーク・スチュアートはいない。ドラムはブルース・スミスじゃないし、アスワドやクリエイション・レベルのメンバーも参加していない。けれども、彼らが名を連ねた1stアルバムを思い起こさせる。それは『Love Forever』というタイトルが、1stアルバムに収録されていたビム・シャーマン(ON-Uからアルバムをリリースしているジャマイカのレゲエ・シンガー。ニュー・エイジ・ステッパーズの2ndと3rdにも参加)のカヴァーと同じだから、というだけではないだろう。レゲエ / ダブをベースにファンク、テクノ、ヒップホップまで実に多彩なサウンドが鳴っている。エイドリアン・シャーウッドのミックスも、アリのヴォーカルも自由で楽しい。ニュー・エイジ・ステッパーズが体現しているのは、レゲエという音楽の"寛容性"だ。多くのバンドやミュージシャンが音楽性の幅を広げるためにレゲエを"取り入れる"のに対して、アリ・アップとエイドリアン・シャーウッドは、レゲエに"受け入れられた"のだと思う。まず、誰かを受け入れること。受け入れ続けること。それが『Love Forever』の意味だと気付いた。アリが伝えようとしていたメッセージは、最初から変わっていない。「レゲエって聞いたことないな」という人にこそ聞いてもらいたいアルバム。特に女の子におすすめ。ひとりでも多くの人が、この素敵な音楽と出会えますように!

 

(犬飼一郎)

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ITAL.jpg 去年はダンス・ミュージックの勢力図を塗りかえるほどの活動を見せてくれた《Planet Mu》だが、トロピクスキープ・シェリー・イン・アテネの作品をリリースするなど、インディー・シーンにおいても存在感を発揮している。そんな《Planet Mu》が、今年も注目されるであろうことを確信させるアルバムをリリースした。アイタルの『Hive Mind』である。

 アイタルは少し変わった経歴の持ち主で、ワシントンDCにてブラック・アイズなるバンドに在籍していたそうだ。ワシントンDCといえばハードコアの聖地とされているが、この原稿を書いている途中で、とあるバンドが頭をよぎった。それは、LL・クール・J「I Can't Live Without My Radio」をカヴァーした、ワールド・ドミネーション・エンタープライゼスである。ワールド・ドミネーション・エンタープライゼスによる「I Can't Live Without My Radio」は、セカンド・サマー・オブ・ラブの影響力のデカさを物語る曲とされ、ハードコア・バンドによるヒップ・ハウスとしてオールド・スクール・パーティーでよく流れる曲でもある。

 当時のバレアリック精神は音楽性にも表れていて、レディ・ガガをネタにした「Doesn't Matter(If You Love Him)」でのヴォイス・サンプル使いはジューク / フットワークを想起させるし、他にもハウスやディスコといった要素がチョップド・アンド・スクリュード(ヒップホップにおけるアメリカ南部発祥のリミックス手法)に影響を受けたようなプロダクションのもと、サイケに鳴らされている。こうした己の好奇心に忠実な雑食性は、本作ではダンス・ミュージックとして表現されてるが、そんな本作が"USインディー"として語られているのも面白い。

 そして、アイタルが本作で披露している方向性が、ジョン・タラボット『Fin』ブリアル「Kindred」にも表れているのが興味深い。これらのアーティストは出自こそ違えど、己の欲望と好奇心のまま音楽を取りこむ姿勢では共通しており、この姿勢が結果として、同一のベクトルを披露することに繋がっている。このことがジャンルの溶解を示唆するものなのか、それとももっと大きな変化、例えば音楽の捉え方そのものの変化を宣言するものなのか、それはもう少し様子を見る必要がありそうだが、本作にはその変化が行きつく先のヒントが隠されているように思う。

 

(近藤真弥)

 

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