reviews: December 2011アーカイブ

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Drexciya.jpg デビュー当初は詳細なプロフィールもなく、ジェイムズ・スティンソンが心臓発作でこの世を去るまで保ちつづけたミステリアスな雰囲気もあり、デトロイト・アンダーグラウンドの象徴として伝説的存在となっているドレクシア。そしてこのたび、ドレクシアの音源がオランダのレーベル《Clone》の一部門である《Clone Classic Cuts》から復刻する。


 『Journey Of The Deep Sea Dweller I』は、デビュー作「Deep Sea Dweller」から、97年リリース『The Quest』までのトラックから厳選し収録した、ベストアルバム的内容となっている。ドレクシアの名を聞いて思い浮かべる音は、ディープなダーク・エレクトロだと思うが、本作は、そんなドレクシアのイメージに忠実な曲がセレクトされている。《Submerge》なども含む《UR》時代の音源は、マッド・マイクが「二度と再プレスはしない」と宣言しているそうだし、興味のある人は、このタイミングでぜひ手に入れてほしい。


 ちなみに"ドレクシア"とは、奴隷船から海に投げすてられた妊婦達の胎児が生き残り、文明を築いたというドレクシア人の神話が由来となっている。このコンセプトを一貫して守り抜いたドレクシアは、"深海"をモチーフとした作品群を数多くリリースしている。その多くは、殺伐とした暴力的グルーヴを生みだしており、ローランドTR-808 / 909が刻むビートは冷徹なまでに無機質で、アナログ・シンセによるチープな電子音は、殺気すら漂わせている。


 なぜドレクシアの音は、暴力的かつ攻撃的なのか? それはやはり、ドレクシア人の神話が大きく関係しているのは言うまでもない。ここで種明かし、というわけではないが、海に投げ捨てられた妊婦達は、アフリカ人だそうだ。勘の良いあなたならお気づきだろう。ドレクシアは、有史以来様々な形で存在する奴隷制度を引用し、誰しもが心の奥底に持つ無慈悲なまでの暴力性と攻撃性、そして、我々が"非現実"として目を背けているもうひとつの現実を告発しているのだ。


 "ドレクシアを聴く"という行為は、人類史の暗部を見つめるに等しい。その暗部には、現代社会を作りあげるうえで"不必要"とされ捨てられたものが、積みあげられている。そして、"不必要"とされ捨てられたものの上に、現在の日常が形成されていることを、ドレクシアは音楽という形で暗号化し、聴き手に語りかけてくる。謂わばドレクシアとは人類の業であり、あなた自身なのだ。そんなドレクシアが、今になって再浮上した。この事実を、もっとシリアスに捉えるべきではないか?

 


(近藤真弥)

 


 

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VA ETHIOPIAN GROOVE WORLDWIDE.jpg 90年代前後、日本では多くの世界の音楽、民族音楽がこぞって国内盤化、輸入盤として活性を呈して、それは「ワールド・ミュージック」という粗雑なカテゴリーで陳列されることとなった。しかし、同じくして、旧来の西欧音楽に倦んだ人たちやリスナーの耳を捉えたのと同時にエキゾチズム趣味として消費されることも否めない部分があった。何かの新しさをそこに視るのは、西欧優位価値観/非西洋圏へのバイアス・イメージ下での認知閾での未知を既知に置き換える児戯としての側面もあったからだろうか。「私」と「他者」を分かつエスパルマン(間隔化)、アルテル・エゴ(他我)に浮かぶ固形分化。再自己固有化の運動連続体で仄かに潜む偽装的な異国情緒。その「情緒」はワールドの中にいる私を脱化もせしめた。

 その中でも、94年に出たコンピレーション・アルバム『エチオピアン・グル―ヴ』の拡がりとその多様性且つ雑種でバイタルな音楽には唸らされた人たちが少なからず居たのは知っている人もいるかもしれないし、体感した人もいるかもしれない。ソウル、ファンク、ポリリズミックなグルーヴ、更には、ジャジー且つメトロポリタンな風情のアーバン・ポップ、アンビエンスまでを跨ぎながらも、アプレ・ゲール(WW2)以降で芳醇に培われたエチオピアというカルチャーの深度は国境を越える何かがあった。

 今回、紹介するエチオピーク・シリーズのコンセプターのフランシス・ファルセト選曲の2枚組のアルバム『Noise & Chill Out Ethiopian Groove Worldwide』は、2012年の座標軸としての一つの参照点を刻印する良質なものになっている。エルヴィス・コステロ、トム・ウェイツ、パティ・スミス、アルチュール・Hなどのアーティストたちも、エチオピアの音楽に魅せられたという事例に枚挙にいとまがないが、何故、魅せられるかという理由の一要素がこの作品には詰められている。今や、フェレンジ(外国人、エチオピア人ではない人たち)に門戸が拓かれた扉の向こうには90年代前後の未知から既知を置き換える文法の増設に留まらない。


 ディスク一枚目の〈ノイズ・サイド〉では、ダヴ・コロッサス(DUB COLOSSUS)の「Guragigna」のジャジーでオリエンタルなグルーヴにフィメール・ボーカルが可憐に躍る曲で幕を開ける通り、エチオピア人だけの音楽に限らず、フェレンジ、エチオピア人とフェレンジとの演奏の火花が弾ける。エチオピア音楽には、他のアフリカ音楽にあるようなこぶしの効きもあるが、もっと自由な領域で音楽を調理する頼もしさがある。5曲目のアレクソ(Alexo)はフランス人とエチオピア人の混ざったユニットで、「Tetchawetu!」のミニマルなビート、パーカッシヴな反復からクラールなど混ぜ、静かなトランシーさを齎す。3分半ほどの中の精緻な設計図には、音響的な面白さもある。7曲目のデレブ・ジ・アンバサダー(Dereb The Ambassador)の「Etu Gela」における歌唱もフィジカルで良い。13曲目のアラット・キロ(Arat Kilo)の「Addis Polis」内のスイングするスパイ映画のサントラのようなスリリングなうねりも軽快で、〈NOISE〉と名付けられている割には、切り立った部分よりもリズムの多彩さとその背景の各々のアーティストのエチオピアを巡る想いに心の琴線が揺さぶられる内容になっている。

 そして、何よりも二枚目の〈チルアウト・サイド〉が白眉だろう。エチオピア音楽には、獰猛性と多文化的次元の吸収力、咀嚼力が注視されがちだったが、実はメロディー・ラインや歌唱には日本で言う童歌のような、ブラジルで言う"サウダージ"のような郷愁を誘うものも少なくない。例えば、エチオピアのフィメール・アーティストのゼリトウ(Zeritu)の「Athidebegn」には刹那さと汎的に世界のポップ・ナンバーと比べても、遜色のないエレガンスとフィールドが見える。また、日本人としても、07年の『ペンタトニカ』も記憶に新しいサックス奏者の清水靖晃氏の参加(11曲目、Yasuaki Shimizu & Saxophonettes名義「Tew Semagn Hagere」)とその静かな解釈(日本語で歌っている)も絶妙だ。クラブ・ジャズ、イージー・リスニング、ヒーリング・ミュージックという意味が現代では変容しながらも、このコンピレーションに宿る"なだらかに還る近代感"は懐かしさも憶えるのは事実だ。その懐かしさはしかし、退歩ではなく、最近のフィル・スペクター再評価のように、商業音楽としての機能性の多寡よりも、音楽が包含する元来の語彙の多さを示すものになっている好ましさを感じる。

 この作品と結びつき、現代の渾沌の中で線引きとカテゴライズの中で窒息気味になりかけている様々な音楽や音楽そのものを愛好する人たちがクラスタリングの共犯関係を抜けて、このアルバム・ジャケットのようにハンド・イン・ハンドする絵を夢想したい。

 ここから、細分化された世界を繋ぐ微かに新しいグルーヴを感じる。

 

(松浦達)

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VA Diskotopia Vol1.jpg ここ1、2年のインディー・ミュージックを聴いている者ならとっくに気づいているかもしれないが、"インディー=ロック"という図式は、もはや存在しない。こうした溶解はジャンルだけに留まらず、従来の音楽的文脈にも及んでいる。もちろん"発祥地"と呼ばれる場所はいまでも存在するが、その場所で生まれた熱狂は、ネットを介してすぐさま人々の間で共有される。こうした"現場のクラウド化"は、今後さらに加速するだろうし、"クラウドこそが現場である"とするボーダレスな音楽シーンが、どんどん増えていくはずだ。

 こうした流れに敏感なレーベルやアーティストは既にいくつか存在するが、晴れてレーベル・コンピ『Diskotopia Various Artists Volume One』をリリースした《Diskotopia》も、そのひとつと言っていい。もともと《Diskotopia》は、2005年から大阪でパーティーをオーガナイズしていたそうだが、2009年には東京へ拠点を移し、2011年にレーベルを立ち上げるにいたったそうだ。まさに出来たてほやほやの新興レーベルと言えるが、XLR8RやFACTにいち早くピックアップされるなど、すでに世界的な評価を高めつつある。その大きな要因として挙げられるのは、先述のボーダレスな音楽シーンと共振する、多彩なリリース群だろう。本作を聴いてもわかるように、ベース・ミュージック、テクノ、ハウス、そしてチルウェイヴにも通じるハイブリットな音楽性が、《Diskotopia》を個性的な存在へと押しあげている。

 冒頭の話に戻るが、本作に宿っているとてつもない速さの溶解は、特定の狭いシーンだけの現象ではない。この溶解は、インディーやエレクトロニック・ミュージックはもちろんのこと、いまや世界中で起こっていることだ。そういった意味で本作は、"今"という興奮を記録したドキュメンタリーとして、輝きを放っている。音楽はいま、こんなにも面白いのだ。

 

(近藤真弥)

 

※本作は1月19日リリース予定。

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LameBora.jpg 映画で『おいしいコーヒーの真実』というものがあった。この映画では、エチオピアのコーヒー農家における困窮の問題に触れている。そこからフェア・トレードへ、更には実は"フラット化されていない"世界の病根へと眼が向けられる。但し、コーヒー農家とフェア・トレードの線を単純に結びつけるのは難しいものがある。そこには幾つもの「見えない壁」があるからであり、グローバリゼーションの仕掛ける構造自体の桎梏にも絡んでくる。

 会議、歓談、休憩、もてなし、兎に角、ほぼどんな国でも今やコーヒーは欠かせないものになった。「嗜好品」として、カフェインと目を覚ます作用、独特の香ばしい馨りがありながらも、そのコーヒー産業を巡る構造論と商流チャネルには数多の警鐘も鳴らされてきた魔物のような飲み物の象徴。今は、挨拶代わりにコーヒーを或る程度はどの国でも飲むことは容易く、また、豆が何処のものだとか色んな深み、コクに関してもそれぞれ一家言を持つようにもなってもきた。なお、コーヒーの国別消費高で高いのは断然、アメリカ、ブラジル、ドイツ、日本である。個人的に、日本人とコーヒーと言えば、つい「コーヒー・ルンバ」のような"紛い者としての異邦人感"を憶い出してしまうのと同時に昨今のカフェ・ブームが設定したコーヒーを介した洒脱性を考えてしまうが、今や自動販売機から、街を歩けば目に入るコーヒーショップまで日常生活に欠かせないものになっているのは確かだ。

 さて、コーヒーに纏わる歌たちをラメ・ボーラ(Lame Bora)というグループがプロジェクトとして、録音したのがこのアルバムであり、『Songs Of Coffee From All Over The World』(邦題は『世界のコーヒー・ソングたち』)とそのままのタイトルが付されている。コーヒー生産者のための歌から晴れやかなコーヒー賛歌、「コーヒー・ルンバ」のカバーと多種多様な国の有名な曲と彼らのオリジナル曲が入っている。エチオピアからイスラーム世界に広まっていったコーヒーに敬意を表してか、ラメ・ボーラにはアフリカのみならず、スペイン、トルコ、US、南米、そして、録音がされたドイツの音楽家まで総勢で18名が混じっており、多国籍的に賑やかなサウンドになっていて、グッド・ヴァイヴに溢れている。メンバーと担当パートに関してはちなみに、Fethi Ak(darbouka,bass-darbouka,bendir,def,java drums,talking drums,)、Erdem Balkan(violin)、Ahmet Bektas(ud,tambur,davul,cura,voc)、Omer Bektas(bendir,bongos,udu,zil,mouth perc.,voc)、Pit Budde(6&12 string guitar,dobro,sitar-guitar,voc)、Kazim Calisgan(balama,cura)、Roland Daza(quena,flute,zampona,sax,bombo,voc)、Carolina Gomes-Riono(voc)、Benno Gromzig(bass,double bass)、Klaus Jochmann(accordion,congas,djembe,udu,voc)、Josephine Kronfli(voc)、Carlos Mampuya(voc)、Hilmi Saleh(voc)、Jorge de Santos Sousa(voc)、Ulla Struck(voc)、Myke Tilasi(voc)、Gifford Urquizo(spanish guitar)、Tom Wegner(piano,guitar)がクレジットされている。

 見ての通り、ギター、ベースやバイオリン、サックスに加え、ジェンベという太鼓、ウード、ダルブッカ、アンデスの笛で有名なケーナなど様々な楽器群がふくよかな音の豊かさを確約しており、曲によって非常に多彩な色を見せるのに一役買っている。

 収められている17曲の中で主要曲に触れていくと、1曲目の「コーヒーとグラッパ」はポルトガルのルイ・ヴェローゾの80年代のヒット曲であり、元来のロック・テイストが強い曲を、ここでは軽快なラテン風にリアレンジメントしている。ふと考えさせられるのが4曲目の「労働歌を歌う女たち」。これは、エチオピアの首都アディス・アベバのコーヒー豆選定工場で勤務する女性従業員300人が手拍子と掛け声だけでソウルフルに唄う労働歌。彼女たちの生々しい声がどの国のある人たちの手の元のコーヒーに届くのか、思ってしまう。6曲目の「コーヒー・ルンバ」は日本でもかの西田佐和子女史を筆頭に、最近でも井上陽水氏のカバーもあり、人気曲だが、ここではアクの強くないフィメール・ヴォイスとボンゴ、フルートを軸にフォルクローレ的な流麗さで聴かせてくれる。

 10曲目の「ブラック・コーヒー」も1948年のサラ・ヴォーン、1953年のペギー・リーのもので憶えている方々も多いクラシックだが、ブルージーな重さを保ったフィメール・ボーカルと控え目な音響工作下で、ソロ・パートのギター部分で敢えてウードを使うなど変化に富んだ側面も見せる。12曲目「労働歌を歌う女たち」は、4曲目の男性ヴァージョンで、ほんの30秒ほどのコール・アンド・レスポンス的な遣り取り。ラメ・ボーラのMyke Tilasiが作ったオリジナル曲の14曲目「カハワ~コーヒーをたくさん栽培しよう」の撥ねるリズムと肩の力の抜けたムードも良い。やはり、ロック・ファンとして気になるのは、16曲目の「コーヒーもう一杯」だろうか。1976年の『欲望』に入っていたボブ・ディランの佳曲。もう少し砕けたものにできたろうに、アコースティック・ギターを軸にしたオリジナルに限りなく近い誠実なカバーが為されているのは、彼らの畏敬の念の表れか、それとも、ディランの原曲を解体に近い形でカバーするという行為が出来なかったのか、邪推も出来る。

 このように「コーヒー」を巡って、目の前のコーヒーの背景に拡がる世界を巡って、幾つもの楽器、幾つもの声がビタースイートに被せられてゆきながら、多次元・多文化主義的な視角から再構築されてゆく。このアルバムを聴きながら、捲るブックレット内の工場の中の袋詰めにされたコーヒー豆やコーヒー豆を選定する労働者の写真を観て、横に何気なしに置いて、飲むコーヒーをどんな味が改めてするのだろうか、そんなことを考えてしまうような奥深い"気付き"をもたらせてくれる内容になっている。

 そこに当たり前にコーヒーが飲める環境とは、とても幸せなことなのか、それとも―。

 

(松浦達)

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DEATH IN VEGAS.jpg ケミカル・ブラザーズとも交流のある、現在はソロ・ユニットのデス・イン・ヴェガスは97年にファースト・アルバム『Dead Elvis』を発表。99年に発表したセカンド・アルバム『The Contino Sessions』では、ボビー・ギレスピーやジム・リード、ドット・アリソン、イギー・ポップらをゲスト・ヴォーカルとして招いた。3作目『Scorpio Rising』ではリアム・ギャラガーやポール・ウェラー、ホープ・サンドヴァルを招いた。しかし、ただ招いたわけではない。デス・イン・ヴェガスはゲスト・ヴォーカリストのオルタナティヴな側面を発見し、提示することができた。特にリアム・ギャラガーをフィーチャーした「Scorpio Rising」はほんとうに素晴らしかった。リアム本人からも"fuckin' mega"という賛辞を受け、一時期、オアシスのプロデューサーを務める話もあったくらいだ。そして4作目『Satan's Circus』を挟み、オリジナル・アルバムとしては7年振りに発表した5作目『Trans-Love Energies』も面白いことになっている。

 アンディ・ウェザオールを敬愛しているのだからワン・ダヴのような楽曲が含まれていることは予想できたし、トゥー・ローン・スウォーズメンの『From The Double Gone Chapel』を思わせるダークな音楽世界が構築されているだろうことも予想はできた。が、本作では綱渡りしているようなリチャード・フィアレスのつぶやきに近い歌声が、アルバムのジャケットにあるように、楽曲にほんのり光を与えている。つぶやきが光を与えているというのも変な話だが、ツイッターがここまで普及した今、妙に共鳴してしまう。そのつぶやきは鮮明なエレクトロニック音との対比によって濃いものとして頭に降りてくる。

 リチャード・フィアレスがデス・イン・ヴェガス名義で初めて自身の歌声を披露していることには意味がある。「自分でやらないと本当の意味も感情も伝わらない」のだと。本作でもゲスト・ヴォーカルを招いているものの、ほとんどの曲をリチャード・フィアレスが歌っている。それは「自分の声」を自分で届けようとしている意識の表れだ。彼はこれまでゲスト・ヴォーカルのオルタナティヴな側面を次々と発見できた。しかし、今は自分のオルタナティヴを見付けようともがいている。その音は清々しい。

 そばに横たわっているものの中から何かを発見することをオルタナティヴと僕は呼ぶ。アウトサイドに逸れることがオルタナティヴだとして、もしそれが目的化されたらつまらない。音楽に魅了された全てのリスナーは他者との差別化を図るために音楽を聴いているわけではないんだから。「今、持っているものの中から何かを発見し、飛び出そう」「そうすることで新たな価値が生まれてくる」そんな言葉が本作から聞こえてきそうだし、僕はそう言いたい。誰かに新たな側面を発見されるのを待っている場合じゃない。本作で鳴っているのはそういう音だ。

 

(田中喬史)

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THE CREAMS.jpg 結成からわずか1年あまりで音源リリースにこぎつけてしまった、ザ・クリームズ。その記念すべきミニアルバムの名は、「Panache」。しかも、藤子名人やD.J.フルトノを筆頭に、毒色豊かな個性的すぎるアーティストの音源をリリースしてきた《Node》からだすということで、これまたびっくり。おそらく、バンドを率いるナオロックが同レーベルから『In The House』というミックスCDをリリースしてるし、その縁でしょうか?

 まあ、それはともかく、ザ・クリームズですよ! まず、ザ・クリームズは先述のナオロックが率いる4人組ガールズ・バンドで、2010年に活動開始。順調にライブ活動を重ねてゆき、晴れて「Panache」リリースに至る、といった感じでしょうか(だいぶはしょったけど)。そして肝心の「Panache」は、スカスカなガレージ・ロックと、ザ・ラプチャー以降のディスコ・パンクを掛けあわせたような、カッコいいヘタウマ音楽。80年代ポスト・パンクの影響を感じさせ、アイディアと才気が先走ったような音は、ザ・レインコーツやスリッツを想起させる。トンがったアングラ臭を漂わせているのも、本当にカッコいいです。

 また、ユーチューブで観れるライブ映像やフォトを見るかぎり、ファッションにもこだわりを持っているようだ。モッズ、パンク、サイケ、かつて音楽は、ファッションと密接な関係にあったけど、その関係をモダンにアップデイトし、現代に蘇らせようとしているのかも? 例えばラフ・シモンズが、90年代にデヴィッド・ボウイを再解釈したように。とはいえザ・クリームズは、もっと折衷的。ナオロックのブログで見れる画像を見ると、実に様々な時代がコラージュされている。音楽とファッションに詳しい者なら、思わずクスッとしてしまうので、ぜひ見てほしい。

 2011年は、日本のインディー・シーンが本当に面白かったと思うが、この盛り上がりは、2012年も続きそうですね。日本にも、こんな面白いポップ・ミュージックがあるんですよ、みなさん。これを聴き逃すなんて、もったいないとは思いませんか?

 

(近藤真弥)

 

 

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Underworld『1992-2012 The Anthology』.jpgのサムネール画像

  アンダーワールドについて、そして、カール・ハイドとリック・スミスについては、既に多くのことが語られている。Freurとして「Doot Doot」というスマッシュ・ヒット・ソングを出したが、バンドは売れなかったこと。このバンドが前身となってアンダーワールドが誕生し、《Sire》と契約するも、アルバムを2枚リリースしたのち、契約を打ち切られたこと。銀行員として働きながら、DJをしていたダレン・エマーソンがメンバーとなった1992年以降、やっと日の目を見てスターダムにのし上がったこと。そのダレン・エマーソンも、いまはアンダーワールドから脱退し、DJとして世界をまわっているが、カールとリックの長い物語は、今もなお続いている。

 今回リリースされた『1992-2012 The Anthology』は、廃盤となっているベスト盤『1992-2002』をアップデイトしたものだ。本作は全3枚組で、『Dubnobasswithmyheadman』~『Barking』までの楽曲が収録されたディスク1とディスク2は、アンダーワールドの世界に触れるための入門編として最適な選曲となっている。そして、レア・トラック集であるディスク3は、コアなファンも喜ぶマニアックなチョイスとなっていて、これまた面白い。ダレン・エマーソン加入後のアンダーワールドとしてのデビュー・シングル「The Hump」や、アンリリースド・トラック「Big Meat Show」、さらにはシングルのカップリングなども収録されており、彼らの歴史を知るうえで重要な役割を果たしている。

 こういった形でアンダーワールドという物語を振り返ると、深い感慨に耽ってしまう。ロックのメカニズムをダンス・ミュージックに持ち込んだ、『Dubnobasswithmyheadman』で音楽シーンに衝撃を与え、映画『トレインスポッティング』に使用された「Born Slippy」をキッカケに、世界的なスターとなるまでの狂騒。しかし、その狂騒によって、一時はメンバー間で口をきかないほどの不仲になるなど、数多くの困難も経験してきた彼ら。だが、その困難を乗り越え、今では盟友ダニー・ボイルと共に、音楽監督としてロンドンオリンピックに関わるまでの存在となった。去年のクリスマスイブ、宇都宮におけるDJで、石野卓球が「Dark & Long(Dark Train)」をフロアに投下しクラウドが熱狂したように、彼らの音楽は、未だ多くの人たちを興奮させるだけのパワーを持っているのは言うまでもないが、それ以上に、ふたりがこれまで歩んできた波乱万丈な人生を垣間見ることに、本作の魅力を感じる。まあ、その魅力は、『Barking』のレビューで書いた「複雑な感情と疑問」を解消してくれるものではないが、ひとまず、彼らの物語を楽しもうと思う。

 

(近藤真弥)

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NILS PETTER MOLVAER.jpg 例えるならば、会話や読書では、刺激反応はそれなりに少しずつのクロージャーを起こす。「知覚」が一旦は完結しながら切れ切れに進むように。それがメディア経由の音楽では、それを許さないような速度で適応でも防衛でもない状態を創成する。いわば、「間合の崩壊」。その「間合」を見るには、ヘルザ・シュトルムが命名した「半秒症」を援用してみてもいい。人間が複雑な情報に対応するには少なくとも半秒、0.5秒はかかるのだが、それをメディア・サイドが壁を越えてくる為に、「半秒に遅れずにする」という症状のことを指す。半秒以下での認知と視角。その単位はどう数えればいいのだろうか。そこでモジュレーションとしての音楽は、明らかにディーセントでいて、予定調和を逸れる。

 そんな予定調和を逸れてきた、ニルス・ペッター・モルヴェルというノルウェーのトランペッターが拓く道には常に「フューチャー」や「ポストモダン」などの冠詞が付随し、ジャズという様式美に打ち込みやDJ的なプロダクションでサウンド・メイクを試みたせいか、97年の《ECM》からの『Khmer』は、当時のシーンにとても大きな印象を与えた。

 97年前後、ロック・シーンでもダウン・ビートを入れたレディオヘッドマッシヴ・アタックのような音が世界に浸透しながら、ケミカル・ブラザーズ、アンダーワールド、プロディジーなどのロック方面からのダンス・ミュージックへのアプローチが行なわれるなど、兎に角、ハイブリッドな音が今を先へと連れてゆく、過去の遺産は攪拌すればいいとばかりのような空気感に清やかな彼のミュート・トランペットが響き、ブレイクビーツが入りクラブ・コンシャスでもあった『Khmer』が聴き手の感覚の幅を拡げたオルタナティヴなセンスは確かに新しかった。しかし、古参のジャズ・ファンからは「これはジャズではない」という言葉もあったし、フロアーからはビートが少し雑だという言葉もあり、その曖昧な中で「フューチャー・ジャズ」といったカテゴリーの中で、前衛のトランペッターの刻印をおされつつ、確実に作品は重ねられていった。

 初期の衝撃、名盤の誉れ高い00年の『Solid Ether』、02年の手堅い『Np3』などを経て、00年代では、アンビエント的な伸びやかさも目立つ作風となり、メンバーの固定もなされた中での前作にあたる09年の『Hamada』は、実験性もあったものの、主にギター、エレクトロニクス担当のアイヴィン・オールセットとタッグで詰み上げた「箱庭」的な枯山水のような世界観に対して静かな慕情の風情が合った。実際のライヴを観ても、ドラマーとしても馴染みのアウドゥン・クライヴェを入れてミニマルに展開される音風景の先には茫漠とした虚無も見えたりもした。時に、ミニマル・ミュージック系のアーティストやアンビエント系のアーティストが聴き手の意識を「此岸」から「彼岸」に持ってゆくという感覚ではなく、もっと浮揚する感情に名称化が出来ない感じともいえる。

 そこから、彼も何か思うところがあったのか、レーベルを移籍したのもあったのか、メンバーを一新している。アイヴィン・オールセットからノルウェーの気鋭たるスティアン・ヴェスタルフース、ドラマーにはアウドゥン・クライヴェからアーラン・ダーレンと構成が若返った。ヴェスタルフースはドローン・ミュージックを主体に、フィードバック・ノイズの鳴らし方からして、「重い翳り」を備えた作風で知られているが、ジャガ・ジャジスト(注:今現在の彼はHPを見ると、ジャガ・ジャジストへは関わっていない)の『One-Armed Bandit』に参加したり、というような意外な一面もある。その影響も多大にあるのだろう、この新作である『Baboon Moon』には不穏でダークなムードと、ドラマーのダイナミクスがこれまでになく、浮き出ている。モルヴェルのいつも通りの泣くようなミュート・トランペット、その響きを大切にするかのようなアンビエンスがありながら、ヴェスタルフースはエレクトリック・ギター、アコースティック・ギター以外にアナログ・シンセ、ハーモニウム、ハイワット・テープ・エコー、プリペアド・アップライト・ピアノなどの沢山の楽器を持ち込み、これまで通りの彼の作品として向き合うと、思わぬところからハーモニウムやプリペアド・ピアノが聴こえてきて、また、今までにないノイジーな裂け目がインプロヴィゼーションの合間に入り込んでくる。「ノイズ」と「分断」の不穏な美しさ、1曲目の「Mercury Heart」の2分目からメタリックなドラムが重く叩かれ、デモーニッシュな展開を見せるところから、3曲目の「Recoil」におけるハードボイルド且つプログレッシヴ・ロックの変形ともいえるような獰猛なグルーヴもいいが、6曲目の「Blue Fandango」の昨今のポスト・クラシカル勢の音との共振を感じさせるだけでなく、音響に凝った陽炎みたく立ち上る涼しきサウンド・トリートメントなどのアナログ機材から生まれてきた独特の質感は「新しい」と思う。

 といえども、完全なる従来のニルス・ペッター・モルヴェルという枠を越えた作品ではなく、寧ろアヴァンギャルドな要素の中に潜む「静謐さ」こそが、安心もさせてくれたりもするのは、これから彼とヴェスタルフースがライヴやセッションを重ねるにあたって、加え、エアラン・ダーレンの重厚なドラムも確実に新しいケミストリーを起こすことになるだろうと思うからだ。フューチャー・ジャズの旗手がアナログと前衛に戻った、という言葉は相応しくない、まだ過渡期と形容出来る作品である。何故ならば、8曲目の「Coded」辺りの音響空間を聴いたときの、これまで以上に彼のトランペットの美しき残響が深く染み入るのも本懐だと思うからだ。全9曲、ラストの「Baboon Moon」でゲスト・ヴォーカルとしてスザンヌ・サンドフォーの声がエコーしながら、ダイナミックに昂揚へと向かってゆくエンディングへの展開は圧倒的である。そして、一抹の寂しさを含んだ彼のトランペットで作品のカーテンを締める。

 9曲、43分。

 音の流れや構成を楽しむというよりも、ふと入り込んでくる違和感、ノイズ、アタック感の強いドラム、麗しいアンビエンスまでもが同居しながらも、かろうじて、モルヴェルのミュート・トランペットが世界観を保っているという文脈では「これから」を思わせる内容ではなく、「今、このメンバーでおさめておきたかった音」なのだろう。個人的に、次回予告的な作品ではないと思う。ライヴやセッションで『Baboon Moon』は幾らでも「改変」は出来る骨組みであると感じるからだ。「肉付け」されてゆく過程を楽しみにしたい。

 

(松浦達)

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KEEP SHELLY IN ATHENS「Campus Martius EP」.jpg はやっ! キープ・シェリー・イン・アテネから新作が届きました。その名も「Campus Martius EP」。そして本作はなんと、あの《Planet Mu》からのリリース。だからなのか、本作では今まで以上に、ダブステップ以降のビート感覚が強調されている。

 まず、1曲目のソーラー・ベアーズ「Cub(Keep Shelly In Athens Remix)」については、すでにネットで音源が出回っていたから、聴いたことがある人も多いはず。このリミックスは、過去のリリース群の音楽性を多分に引き継いだ、開放感あふれる壮大なエレ・ポップだ。そして、2曲目の「The Chains」以降が、本作においてもっとも注目すべき音が鳴らされている。

 「The Chains」は幾分チルウェイヴの影がちらつくものの、プロダクションやビートは、先述のダブステップ以降のビート感覚が色濃く出ている。「パコーン」と鳴るスネアしかり、音響に関する遊び心もいままで以上に発揮されていて、プロダクションの幅がさらに広がった印象だ。「Campus Martius」も、ビートの部分で遊び心が見える曲となっているが、こちらは、IDMのようなプログラミングが特徴的。いま挙げた2曲は、キープ・シェリー・イン・アテネにとってチャレンジングな作りで、今後の方向性を占う曲になりそうだ。

 「Struggle With Yourself」は、従来の音楽性を引きずった曲だが、それでもやはり、ゴシックな雰囲気が強調されたヘヴィなものとなっている。「胸キュン!」とも形容できるポップ・ソングを書いてきたキープ・シェリー・イン・アテネだし、"萌え"がなくなった本作の方向性が好きになれない人もいるだろう。しかし、ポップ・ミュージックとしての強度と野心は、間違いなく本作が一番。

 

(近藤真弥)

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VCMG.jpg 元デペッシュ・モード/ヤズー/イレイジャーのヴィンス・クラークと、現デペッシュ・モードのマーティン・ゴアによるユニット、VCMG。たぶんふたりのイニシャルがユニット名の由来だと思うけど、音のほうは、マーティン・ゴアがデペッシュ・モードで鳴らしている音に近い。

 本作はオリジナル・ミックスを含めて全5曲が収録されているが、まず、オリジナル・ミックスのほうは、『Sounds Of The Universe』のボーナス・トラック「Oh Well」を彷彿とさせる。この曲を聴く限り、VCMGはマーティン・ゴアがイニシアチブを握っているのかも。ハード・テクノに近い音を鳴らしているのもそうだし、ループを強調した曲の構成なんかも、マーティン・ゴアの好みが反映されている。どこかレトロチックな音は、近年のデペッシュ・モードに近い音だし、純粋なクラブ・バンガーとはいえないが、より多くの人に聴かれるものを目指したのであれば、これもありだと思う。

 収録されているリミックスでは、当代随一のパーティー狂DVS1のリミックスが秀逸。クラウドをぐいぐいと引っ張っていくグルーヴは、完全フロア使用のダンス・トラックとなっている。リミックス群は、オリジナルをよりフロア向けにしたものではあるが、アゲアゲというよりは、深く潜っていくディープなサウンド・メイキングが目立つ。ヴィンスとマーティンが選んだのかは不明だが、人選の妙といい、確かな審美眼を持つ人間が関わってるようだ。

 注文をつけるとしたら、もうちょいストイックになって、デペッシュ・モード色を排した音作りをしたほうが面白いと思いますよ。まあ、ふたりがこのレビューを見てるとは思えないけど、ヴィンスとマーティン、そこんとこよろしく。

 

(近藤真弥)

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