reviews: October 2011アーカイブ

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SEAHAWKS.jpg  緩慢な時の流れが支配する桃源郷へようこそ。ここは人工美のキラメキと恍惚が得られる心地良い空間。ふとしたことで心が傷つき、ちょっと気休めが必要な人には最適な場所。こんな書き方をすれば"現実逃避の音楽"と思われるかもしれないが、それでけっこうじゃないか。"現実逃避"は現実を意識しているからこそできることで、閉塞感が覆うこの世界で生きるための手段、または戦いが"現実逃避"だと僕は思うよ。クラブで快楽的に踊っている人々の多くは、戦っているんです。肉体を精いっぱい動かしたり、逆に直立不動だが心と感覚をトリップさせるチル・アウトなど、多くの意味を持つ"踊る"は、現実に対する立派な戦闘行為なのだ。しかし、設立当初はエイフェックス・ツインやソニック・ユースのサーストン・ムーア、近年はハッチバックなどのニュー・バレアリック / ディスコのリリースで知られる《Lo Recordings》を主宰し、自らもMLO名義で《R&S》や《Rising High》からのリリース経験もある、謂わばオリジナル・レイヴの生き字引きジョン・タイ(Jon Tey)と、ソニーのデザイナーとして活躍したのち、トイ・デザイン会社プレイビースト(Playbeast)を設立し、水木しげるとコラボレーションもしたピート・ファウラー(Pete Fowler)によるシーホークス(Seahawks)が鳴らすダンス・ミュージックは、聴き手の心を飛ばしてくれる"チル"だ。激しく肉体を動かすよりも、聴き手をゆっくりトランス状態へと誘うアンビエントな音楽、例えばKLF『Chill Out』を思い出してもらえれば、彼らが鳴らす音楽をある程度想像できると思う。

 といっても『Invisible Sunrise』は、KLF『Chill Out』をまんま引き継いだ音ではない。クワイエット・ヴィレッジ(レディオ・スレイヴ名義で知られるマッド・エドワーズと映像作家ジョエル・マーティンのユニット)のデビューを口火に盛り上がった、ゼロ年代半ば以降のニュー・バレアリックの文脈に位置する音だ。このニュー・バレアリックは、ダウンテンポなディスコ・ミュージックを中心としながらも、新たなチル・アウトを開拓しようとするメロウな音楽も登場するなど、非常に面白い現象だった。リンドストロームやプリンス・トーマスといった北欧のアーティストが活躍したシーンだったから、レコード・ショップや音楽雑誌は"大注目の北欧系ダンス・ミュージック特集! "みたいに紹介して、やたら北欧が神格化されていた記憶がある。まあ、僕はそんなアホらしいメディアの悪習を鼻で笑っていたが・・・。このシーンは北欧だけではなく、エロール・アルカンが元サイキックTVのリチャード・ノリスと組んで結成したビヨンド・ザ・ウィザーズ・スリーヴ(Beyond The Wizards Sleeve)もいたし、ハッチバックはアメリカ西海岸のアーティストだ。これらの例からもわかるように、ニュー・バレアリックは意外と世界的なムーヴメントであり、注目されていた音楽であるのは間違いない。一時の盛り上がりと比べたら現在はだいぶ落ち着いたが、去年はホット・トディー(Hot Toddy)『Late Night Boogie』といった良盤がリリースされるなど、着実に発展と進化を遂げている。『Invisible Sunrise』は、そんなニュー・バレアリックの最新型と断言できるアルバムだ。

 ウルグアイの《International Feel》からリリースされたマインド・フェアー(Mind Fair)「Kerry's Scene」のように、サイケデリック・フォークを取り入れたアシッディーなディスコという異端が出現したりもしているが、本作は正統派と言えるだろう。彼らはファースト・アルバム『Ocean Trippin'』でジャーマン・エレクトロの影響やニュー・エイジなシンセ・ワークを披露し、続く『Vision Quest One : Spaceships Over Topanga Canyon』ではジ・オーブ『The Orb's Adventures Beyond The Ultraworld』を彷彿とさせるチル・アウトを、そして今年の夏にリリースされたミニ・アルバム(ホット・チップのメンバーも参加している)「Another Summer With Seahawks」では、アコースティックかつトロピカルな音を展開してみせたが、『Invisible Sunrise』はこの3作の要素を残しつつ、インディー・ダンスのアプローチを強調したチャレンジングな音に仕上がっている。サンプリングを使用せず、ライブ・ミュージシャンを起用しレコーディンクするなど、鮮度にこだわる姿勢も素晴らしい。そこにサックスやエレピが交わることで、80年代AORのアトモスフィアが形成され、ほんの一瞬TOTOの姿が頭に浮かぶこともある。「Love On A Mountain Top」から「New Future Blue」まで、聴き手の耳を飽きさせない万華鏡のようなプリズム的音世界が本作には存在する。

 『Invisible Sunrise』を聴きながら街を歩いていると、現実の風景が倦怠感漂う灰色に見えるときがある。それは"山" "星" "火" "空" "海"といった、自然世界を象徴する記号が紛れている曲群のせいだろう。これらの記号で彩られた本作は、現実を塗り替えるための"世界"の創造を試みているのかもしれない。それは、"チル"が単なる"逃避"から現実を意識した"現実逃避"へと変貌し、生き辛い現実に対する"対抗手段"として一定の求心力を得るまでになった証左のように思えてくる。現にこうして目の前に、形を変えながらも"チル"は存在する。このことに僕は、希望を抱かずにはいられない。まあ、多くのリアリストにとって"チル"は机上の空論だし、人によっては疎ましい音楽かもしれないが、"想像の結果として現実が形成される"と考える僕にとって"チル"は、日常の行く先を指し示す立派な羅針盤だ。

 リーマン・ショックなどによって現実がディストピアと化した今、快楽主義は価値を失い敗北への道を辿っているし、特に3・11以降の日本では、その傾向が顕著だと思う。しかし、それでも"チル"という名の快楽を纏う『Invisible Sunrise』を無視できないのは、ディストピアとなった現実に対する"抵抗の音楽"を鳴らしているから。そしてこの"抵抗の音楽"は敗北を予感する諦念に満ちたものではなく、現実を変えるために知恵と想像力を振り絞ったポジティブなものであり、その試みは成功するという確信に満ちていることを、『目に見えない日の出』と名付けられた本作は、文字通り"日の出"という形で告げている。それは、人の形をした"ナニカ"が日の出の太陽へ飛び込む瞬間を描いたジャケからも読み取れる。実はこのジャケ、真正面から見ると太陽は背後に位置し、"ナニカ"が崖から飛び降りる様子に見えるが、ある角度からジャケを見ると、人の形をした"ナニカ"が太陽へ飛び込むように見えるのだ。この仕掛けは、リスナーに対し多角的な想像力を求めるメッセージだと、僕は捉えている。"ナニカ"が太陽へ飛び込む絵は、本作がトロピクス『Parodia Flare』と同様「現実と融和し和解しようとする新たな"戦う逃避行"」であることを、そしてその戦いはすでに始まっていることを明確に示している。

 いままで述べてきたことから察するに、2人はまったく絶望していないのだろう。まあ、こんな2人をシニカルな目つきで一笑に伏す輩も居そうだね。だが、そんな輩のペシミズムに付き合うほど、僕は暗くもないし陰険ではないからねえ。悪いけど、僕もまだまだ絶望しちゃいない。というわけで僕は、ディストピアに音楽(そして"チル")という可能性で対抗する本作に賭けてみようと思う。

 

(近藤真弥)

 

※2011年12月8日リリース予定

 

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LANTERN PARADE.  考えてみると、ショーペンハウアーは、デカルトやカントが「物質界」や「物自体」とみなしたところのものを、「意志」とみなした"転回"は今でも大きかった。視角の"転換"の問題としても。ただ、この「意志」には世界内での感知出来ないものを含み、その一部を「適当」に切り取っているということであり、当たり前ではないだろうか、というところと、「勝手で、適当な意志」で、世界とはどう縁取られるのか、という難渋な議題にぶつかる。世界そのものが「見えない意志」ならば、人間側が辿る形而上的な線の上には、モデル化、存在、感情の総体的カテゴリーの縄を解く自由な何かが見える。その何かを降りていくと、「意志」がやはり見える。

 「意志」の音楽家としてのランタン・パレード。

 先ごろ、《ローズ・レコーズ》のHPにてランタン・パレードこと清水民尋氏のフリーでダウンロードすることができたMIXの「秋よ来い」の1時間ほどの選曲と繋ぎはそれこそ、一時期の橋本徹氏界隈のサバ―ビア、フリーソウル系が好きな方が聴いたらたまらないメロウネスとともにディスコ、オールド・ジャズ、サンバ、ボサノヴァ、ニューソウルなどがシームレスに結ばれていた。

 基本的に、ランタン・パレードは04年デビュー以来、音自体は過去の膨大な音楽遺産からサンプリングの引っ張り方はいつも絶妙な洒脱さでバック・トラックだけ抽出して聴くと、滑らかなインナー・シティー・ライフの綻びと機微が見えるようなものが多かった。ただ、そこにハードコア・パンクをルーツに持つ彼のラップでもポエトリー・リーディングでもないトーキング・ワーズのような、ぼそぼそとした声が乗った途端に、メロウで透き通った甘美な視界に厳然たるリアリティと彼自身のいささか過激なステイトメントが融け込み、聴き手の感性を攪乱せしめてもいた。06年の『ランタンパレードの激情』、『太陽が胸をえぐる』辺りはまだネタのセンスと絶妙な言葉のシビアさが均衡点を保っていたように思えるが、同年のミニ・アルバム『清水君からの手紙』ではもどかしそうなまでに言葉を見極め、瀬戸際のフレーズ片を投げつける。

 《音楽 どうでもいい大人 暗躍 してる業界 膨大な広告費 大層な謳い文句 大衆は真に受け でも 使い捨て 結局 ブックオフで叩き売られ》(「不浄の音楽」、『清水君からの手紙』より)

 《身だしなみに気を付ける 余裕のある絶望 とってつけたように自己卑下する傾向 若者は退廃的なものにひかれる 若者は反抗的なものにひかれる どんなにやられても報復しない覚悟はある? 》(「臆病者が突き詰めるブルース」、『清水君からの手紙』より)

 といったように、"韻を踏んでいる"ような部分もあるが、完全なるラップではなく、完全に形式をそれた演説、もしくはスラム、独り言の切っ先の尖り方が目立ち、その流れの臨界点は07年に1,000枚限定でリリースされたミニ・アルバム『絶賛舌戦中』に帰着することになる。そのタイトル通り、言葉数はより増えて、音楽というフォルムを越えて、彼の内面に秘めた過激な想いと切なさが露呈するものになった。その反動なのか、同年の『とぎすまそう』は20曲のトラック名は総て無題(「とぎすまそう」)に統一され、言葉も少なめにフロア・ライクなハウス・アルバムとして80年代的なミラーボールを用意するようなムードに行く。08年の『Tokyo Eye And Ear Control』も、『とぎすまそう』と同系列の内容になっている。"架空のMIX CD"を夢想いたというその世界観は、Lantern Paradeの懐の深さを見せたがしかし、その多作振りと質の高さになかなか評価が定まらないのを個人的に歯痒く思ってもいた。

 ジャジー、メロウで、ディスコティックにスムースに躍ることができる『とぎすまそう』、『Tokyo Eye And Ear Control』を経て、原点回帰且つ総括的な彼の持ち札とセンスを見せた09年のミニ・アルバム『Melodies&Memories』、7枚目のフル・アルバム『ファンクがファンクであったときから』、ベスト・アルバム『a selection of songs 2004-2009』で、ほぼ休憩を取らず、駆け抜けてきた軌跡が一旦、小休止されることになる。13もの作品の中からレーベル・オーナーの曽我部恵一氏の手によって、19曲が選ばれたベスト・アルバムでも十二分に彼のリリカルさと硬質さ、ハウスなどダンス・ミュージックへの傾倒の要所は伺えるが、ここから個々の作品を振り返ってみるのもいいとも思う。

 そして、今年、2年振りに『Disco Chaotic Dischord』というアルバムでシーンに帰ってきたのとともに、徹底されたダンス・ミュージックの機能性と煌めきを持ったその内容、過去のネタのカット・アップの妙は流石だったが、遂にサンプリングを捨て、自らがギターを持ち、ドラムの光永捗氏、ベース、コーラスの曽我部恵一氏、ピアノの横山裕章氏、パーカッションの高田陽平氏とのバンド形式で、8月11日にレコーディングされたのが今作『夏の一部始終』である。バンド形式ということもあるのか、これまでの彼の四畳半的な風情とDJセンスから、はっぴぃえんどや初期のくるり、または、空気公団、星野源のソロ・アルバムのような柔和な雰囲気と素朴さへ引き継がれながら、短篇小説集的な10曲が美しくも悲しくソフトに奏でられる。

 ピアノの響きが感傷を引き寄せる1曲目の「この葉散る」では、《切ない運命の人でも 本当は惨めじゃないのか 前向きな言葉を紡いだけど それはただ ついてただけなのか》のような彼特有の諦念が混じったような歌詞が耳に残る。サニーデイ・サービス的な日常を優美に筆致する3曲目の「人生は旅だそうだ」も美しい。

 《朝 冷たい水で顔を洗う まだ目は覚めないままでいる いつものことを いつものように 繰り返していくことを》(「人生は旅だそうだ」)

 現在のフォーク・リヴァイバルの流れで今、青山陽一氏、徳永憲氏や前野健太氏などの動きとも共振する部分がありながら、貫かれている諦念とちょっとした前向き、それを程良い緩さで纏め上げたこのアルバムは、やはり異質でもある。元々、ランタン・パレードにはアーティスト内にもファンが少なくなくおり、昆虫キッズやイルリメ、ceroなどから称賛の声も受けているが、この作品は、よりもっと幅広いリスナーに届いて欲しい音楽だと思う。和の情緒とブリティッシュ・フォークの折衷点にフワッと薫る倦怠が混ざったといえる白眉は、6曲目の「優しい思い出」だろう。リリカルな情景描写と清水氏の声と控えめなバンド・アレンジにより抑え目な、夏の,水溜りを反射する光のような儚い曲。

 《倒れるときも前のめりなら それは素敵というか それは粋というか》(「優しい思い出」)

 前のめりに倒れるのも、素敵なことだと思う。

 ここで、ランタン・パレードに出会うのも粋なことだと思う。

 

(松浦達)

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HENNING SCHMIEDT.jpg  ドイツから《Flau》へ届けられた、ポスト・クラシカルなピアニスト、ヘニング・シュミートによる3枚目のフル・アルバム。「暑い夏を部屋の中で快適に過ごすための音楽」である第1作、「朝食前の雲を描いた音楽」である第2作と、コンセプトに従ったアルバムが続き、本盤もまた「雨が止んだ後の散歩」というテーマが設けられている。短いメロディをそのまま丁寧に閉じ込めたような、短編的で叙情的な作品となっており、収録時間54分に対し曲数は29曲に及ぶ。ポスト・クラシカルという言葉が放つ暗然とした物淋しさとは無縁であり、暖かい春の陽気の下で木立の中を歩くような、静閑でありながらも浮足立つような、心地よい平穏さが滲み出ており、晴れやかな心模様で散歩をしている情景が目に浮かぶ。

 まず曲名がとても素敵だ。「雨が止んで」という1曲目から始まり、「散歩向けの靴」を履いて「森の中」へ足を運んでいく。「昔訪れた湖」と「広大な牧草地」を経て、「古い庭園と古木」や「朽ちた門」を通り抜けたら「小休憩」が待っている。最後は「我が家」の家路へつく、という王道ながらも清々しい道筋を辿る。アルバムの後半から、徐々に余韻を残すメロディへと移り変わっていくピアノの音色が、ただただ美しい。

 前作までと比べ、プレイ・スタイルが大きく変化している。淡々としていて起伏に乏しく、メロディよりはリズムの配置に近い、いわゆるポスト・クラシカルを象徴するような前作までとは鮮明に異なる。本盤のピアノは演奏に仄かな変化が設けられ、美しいメロディが小気味よく跳ねるようになった。それは、これまでのテーマがナイーブでノスタルジックであったのに対し、本盤がポジティブで陽気なテーマに従ったためであろう。曲名やアート・ワーク、PVなどで世界観を統一したり、物語を付与したりすることは多いが、そのためにプレイ・スタイルまでも明確に変容させることは珍しいと思う。自分のスタイルを貫く、という姿勢ではなく、アルバムのテーマに自分が殉じているようにも感じ取れ、これこそ正にロックやポップでは楽しめない特別な渋みであろう。それでも尚、エレクトロニカ出身のアーティストがピアノソロを演奏したアルバムなどとは似て非なる、上質な響きを実らせている。

 しかしながらこのアルバムは、一歩踏み外せばイージー・リスニングにもなりかねないほどに、ちょっと心地良過ぎる。ここまで快適で眠気を誘う柔らかさを保つポスト・クラシカルは、心無い人達に無責任な批判をされかねない。素直で上質な作品でありながらも、意欲的で際どい作品。朴訥な音楽が好きな私としては、文句無しに高評価。

 

(楓屋)

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Keep Shelly in Athens.jpg  インディー・ロック界隈だけでなく、各方面で話題を振りまいているキープ・シェリー・イン・アテネ。EPをリリースすれば即完売することでも知られるギリシャ出身のデュオだ。日本では音そのものよりも即完売することが話題になってしまっていて、「ちょっとそれはどうなん?」と思わなくもないが...。

 それはともかく、キープ・シェリー・イン・アテネの音楽性はほんと面白い。一言で言えばエレ・ポップだが、そこにニュー・ディスコ / バレアリックやヒップホップを取り入れるなど、非常にミュータントな音を鳴らしている。そんな2人の音から連想するバンド名を挙げていけば、エールや初期ティアーズ・フォー・フィアーズ、ほんのスパイスとして『Songs Of Faith And Devotion』以降のデペッシュ・モードが加えられているといったところだ。これらの要素を細かく噛み砕き、チルウェイヴ以降のモダンなポップ・ミュージックとして昇華するセンスがキープ・シェリー・イン・アテネの強力な武器となっている。

 しかしなにより耳を惹かれるのは、独特なシンセ・ワークだろう。クールでひんやりとしたシンセ・ワークはダーク・アンビエントな雰囲気を漂わせているが、奥底にたおやかな温もりを潜ませるなど、複層的にレイヤーが織り込まれている。ひとつひとつの音が丁寧に重ねられていて、注意深く聴けば虹のように多彩な色を感じさせるシンセ・ワークは、カラフルなミルフィーユといったところか。このシンセ・ワークに陶酔的なグルーヴとダウンテンポ・ビートが交わることによって、光と闇の間を彷徨うゴシックな雰囲気を生み出しているのもユニークだ。

 まあ、ちょっと難癖つけるとすれば、アクセントとしてビートの出音を強くする瞬間を作ってもいいんじゃないかな? 例えばアタックを強調したキックを交ぜるとかさ。マッドチェスターを彷彿とさせるリズムの組み方は悪くないけど、ビートのパターンはヴァリエーションに欠ける。音色作りは申し分ないだけに、ビートの引き出しを増やしたら、もっと化けるかもしれない。と、最後は愛の鞭で締めさせてもらう。

 

(近藤真弥)

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FaltyDL.jpg  WOMBにおけるプレイも記憶に新しいファルティーDLの新作EP。最近ファルティーDLのような音楽のことを"フューチャー・ガラージ"と呼ぶそうだが、本作は未来だけでなく、過去の偉大な音楽の影もちらつく面白い作品だ。

 まず「Atlantis」は、初期《Warp》のリリース群を想起させる。ほんの少しレトロチックだが、彼にしては珍しく複雑ではないとっつきやすい曲。奇をてらったインパクトより、音によって空間を演出することに重点が置かれているように思う。ビートが比較的シンプルなのもそのためだろう。ハウス・セットに組み込まれても違和感がないトラックだ。一方「Can't Stop The Prophet」では、ストリングスや鳥の鳴き声など、実に様々な音がカットアップされ、四方八方に散らばっている。いきなりドラムンベースが始まる展開は、ニュー・エレクトロから突如トランスへと変貌するディジー・ラスカル「Holiday」を彷彿させなくもないが、「Can't Stop The Prophet」のほうが幾分抑制的でエレガントだ。この「Can't Stop The Prophet」の目まぐるしさを引き継いだ「My Light, My Love」は、本作中もっとも忙しいトラックかつ実験精神が発揮されたトラック。正直「落ち着けよ!」と思わなくもないが、これがまた楽しいんだよね。ラスティーハドソン・モホークもそうだけど、肩の力を抜いて自由にやれば、アイディアが詰まった風通しの良い曲が生まれる。聴き込めばいろんな仕掛けが施されていることに気づくが、謂わゆる"ながら"で聴いてもすごく耳に残るし、リスナーに1対1で聴くことを過度に求めていない。

 ここまでは彼が過去に見せてきたものとは違う一面が鳴っていて、いつものファルティーDLを期待していたリスナーは不安に思うかもしれないが、彼の名を聴いて思い浮かべるであろう音に忠実なガラージ・サウンド「The Sale Ends」で本作は幕を閉じるのでご安心を。とはいえ、そこはファルティーDL。セクシーといってもいいムーディーなグルーヴが聴き手を包み込む、文字通り彼にしか生み出せない極上ガラージ・トラックとなっている。

 全体を通して聴くと、すべての音が柔らかく洗練されているのがわかる。この手の音楽に多いハードで硬質な音を求めているリスナーは肩透かしを喰らうかもしれないが、"剛"よりも"柔"を選ぶことによって、ファルティーDLは色彩豊かな音楽を鳴らすことに成功している。メランコリーでどこか影を感じさせる場面もあれば、「Can't Stop The Prophet」のようにレイヴィーで刹那的な瞬間も演出するなど、展開の早さも秀逸だ。全4曲のEPとは思えない濃密な時間は、少しばかり息苦しさを感じることもなくはないが、それでもやはり、ファルティーDLの才能は特別だ。そう思わせてくれる良盤。

 

(近藤真弥)

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AOKI LASKA.jpg  懐かしさや安心感を覚える、優しくおおらかなヴォーカルから、よくいるシンガー・ソングライターと勘違いしてしまいそうですが...。ピアノをメインに据えたアオキ・ラスカの音作りは、清涼飲料水のように爽やかで好感度高し。彼女にとって初めての(全国流通の)ミニ・アルバムだけど、全く気負いがなく、あるのはシンプルで穏やか、そしてドリーミーで時にフォーキーなポップ。ふわふわなのに、意外にも腰の入った酔拳のような(笑)、グルーヴが奥底に息づいているのも彼女の魅力の1つでしょう。

 ルーズで甘い歌い口も調子良さげで実に快く、彼女のヴォーカリストとしての素晴らしさを認識させられます。その歌が持つ表情は、たおやかながらも渇いたクールネスを湛えた彼女独自のもの。そして、静けさの中に響く、両手からこぼれ落ちる繊細で美しい音の粒たち。酔いしれること必至なサウンド・ストーリーがここにあります。黄昏色に輝く(と私は思う)ラストも本当に素敵。

 

(粂田直子)

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Moscow Club.jpg  このモスクワ・クラブなるバンド、ユーチューブにアップされている彼らのライブ映像を観る限りでは、日本の4人組バンドらしい。このバンドを知ったキッカケはバンドキャンプなのだが、まず興味を惹かれたのは「909 State EP」のジャケ。ある程度音楽を聴き込んでいる方ならすぐにピンと来るだろうこのジャケは、808ステイト の大名曲「Pacific」を彷彿とさせるものだ。そりゃあ初めて見たときは、「なめとんのかコラァ!」と思ったさ。僕にとって808ステイトはとてつもなく重要な存在であり、その808ステイトをモチーフにしたとなれば、生半可な曲じゃ満足するわけがない。モスクワ・クラブというバンド名もなんか寒そうだし、音もサムいのかな? と思って聴いてみたら、意外や意外しっかり琴線に触れたもんだからビックリ。見た目で判断してはいけないとは、このことですね。

 「909 State EP」は「Pacific 724」「Ghost Dance」の全2曲が収録されたEP。「Pacific 724」はエレクトロニック・ミュージックを基調としたインディー・ダンス。前のめりなリズムが勢いを感じさせる曲で、秀逸なポップ・ソング。そして「Ghost Dance」は、ちょっとノイジーなインディー・ロック。透明感あふれるヴォーカルと親しみやすいメロディが爽やかな雰囲気を演出している。ティーンエイジ・ファンクラブや初期のスーパーカーが好きなら気に入るはず。

 まだまだ荒削りな面は否めないが、昨今のビーチ・ポップと共振する部分もあるなど、時代を捉えるアンテナも備えている。今後の活動が楽しみなバンドであるのは間違いない。

 

(近藤真弥)

 

※本作はモスクワ・クラブのバンドキャンプからダウンロードできる。

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Walkabouts.jpg  フォーク・ロックの中でも、暑苦しい砂漠や乾燥した大地など、どことなくアフリカの自然を感じさせるスケールの大きさを放つ、より土着的な路線へと寄り添っている。蜃気楼が浮かび上がる日照りの下で、キャラバンが砂塵の大地を黙々と行進しているかのように、腰を据えたリズム隊とざらついたアコースティック・ギターが印象的に光る。6年振りのフル・アルバムは、前作で見られたアフリカ音楽への傾倒がより深まっており、本盤ではアメリカンな荒野の情景があまり喚起されることはないものの、フォーク・ロックとして着実に進化を遂げ、結果として素晴らしい出来のアルバムに仕上がっている。

 ファンタジックなゲームなどで、突然舞台が砂漠のエリアに転じた時に、がらっと空気感や質感が変わる感覚や、「一体どんな敵が現れるのだろう」とドキドキを募らせてくれる感覚など、本盤を聴けばあの高揚感に酷似したものが溢れて来る。それには、ざらついたアコースティック・ギターや、遠く響く電子音と歪んだギターのフレーズ、更にはブラシで軽やかに叩かれたドラムや、深くエフェクトをかけたヴォーカルなど、細かい配慮がなされた小道具らの全てが欠かせない。彼らが過不足無く役割を果たし、舞台を華麗なものへ際立たせているからこそ、この空気感が成立できる。

 フロントマンのChris Eckmanが、他のプロジェクトにおける活動中にサハラ砂漠へ訪れた際、本盤を制作する足がかりを得たようである。実際に砂漠へ足を運んでいなければ、アルバムのタイトルは"Dustland"ではなく、ありがちな"Desert"になっていたのかもしれない。サハラ砂漠の砂粒が、実際は塵のようにきめ細かいものであったということを、現地を訪れて知ることができたのなら、きっと充実した収穫であったに違いない。地味ながら、渋みの増した名盤である。

(楓屋)

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VA Bangs&Works Vol2.jpg  正直、僕はジューク / フットワークに関して勉強中の身である。誰もが知識人になれる情報化社会の現代において「そりゃねえだろ?」という声も聞こえてきそうだが、嘘を貫き通すのは苦手なほうだし白状しておく。ただ、ジューク / フットワークの名が知られてけっこうな時が経つ現在も、ジューク / フットワークは未知なる部分が多いのは事実だろう。多くのアンダーグラウンド・ミュージックはポップ・フィールドへ進出する過程でモダナイズされ、良く言えば洗練、悪く言えばエッジの喪失を伴うわけだが、ジューク / フットワークは独自性を保ったまま世界に広まろうとしている。それはやはり、ジューク / フットワークがゲットー・ミュージックだからだと思う。そしてそこが、ジューク / フットワークの魅力のひとつであることは間違いない。

 『Bangs & Works Vol.1: A Chicago Footwork Compilation』に続くシリーズ2作目となる本作だが、マイク・パラディナスのジューク / フットワークに対する愛があふれる素晴らしいコンピとなっている。まず、ディスクロージャーやナイトウェイヴなどのUK流に洗練されたジューク / フットワークは一切収録されていない。あるのはゲットー・マナーに忠実なジューク / フットワーク、そしてそんなシカゴのゲットー・ミュージックへの愛情と敬意だ。基本的にBPMは160以上、既存のダンスとはかけ離れた"フットワーク"と呼ばれるダンス、そのすべてが今までにないものであり、だからこそ僕もジューク / フットワークに強い興味を惹かれるのだと思う。いろんな要素が小奇麗にまとまった幕の内弁当的な昨今のダンス・ミュージックも、"芸術的観点"からすればそれはそれで面白いものだし、僕も愛聴するアルバムはいくつも存在するが、ジューク / フットワークには「肉と飯だけあればいい!」というワイルドなシンプルさがあって、そこがまた良いのだ。エッジを丸めてオブラートに包むのではなく、むしろ自分達の鳴らす音に絶対の自信を持っているから、エッジを見せつける。

 また、ジューク / フットワークを聴いていると、オーティス・レディングの音楽を想起してしまう。もちろんオーティス・レディングとジューク / フットワークが似ているのではなく、現場の匂いやそこに根付く文化をビートやグルーヴといった音楽的要素で見事に表現している点に、オーティス・レディングの音楽を想起してしまうということだ。オーティス・レディングは、自らの声やメロディでもってアフロ・アメリカン文化の価値を見せつけたことは周知の事実だが、これと似たようなものをジュークにも感じる。ラップのように言葉でアピールするわけではないが、自分たちが会得したグルーヴとリズム感覚によって現地のゲットー文化を表現しているジューク / フットワークを聴いていると、感動に近い喜びを抱いてしまう。

 そしてジューク / フットワークは、ドラムンベース以来のビート革命に近い音楽だと思っているのだが、どうだろうか? ドラムンベースまでは、BPMやリズムといったビートの部分を中心に変化させてきたダンス・ミュージックだが、エレクトロ・クラッシュ以降はニュー・エレクトロ、ダブステップという音に特色を打ち出した音楽がダンス・ミュージックを彩ってきた。そうしたなかでビートの部分は、原点回帰的にシンプルな方向へ向かっていったが、そう考えるとジューク / フットワークは、本当に"新しい"と言える音楽だと思う。

 尚、現在日本にジューク / フットワークを広めるためのキャンペーンをやっているそうで、対象商品を買うと、ジューク / フットワークをわかりやすく解説した小冊子、さらに《Bootytune》を主宰するDJフルトノによるミックスCDがついてくる。そういうこともあって、このレビューでは僕がジューク / フットワークを聴いて感じたことを書いてみた。というのもジューク / フットワークは、とてもフィジカルで「踊ったもん勝ち!」なダンス・ミュージックだと思うので。要は能動的に、感じるがままに踊ったらいいのです! こんな締めでは「いままで書いてきたのはなに?」と怒られそうだが、本当にそうだからしょうがない。とにかく、本作をキッカケとしてジューク / フットワークの世界に触れてみてほしい。AKBで踊るのもいいが、たまにはジューク / フットワークでも、なんてね。では。

(近藤真弥)

 

※キャンペーンについては、下記のリンクを参照してください。

http://soundcloud.com/pdis_inpartmaint/sets/v-a-planet-mu-juke-footwork-jp

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RYAN ADAMS.jpg  ウィトゲンシュタインに拠ると、「価値に関わる問題」は論理の形式内に当て嵌めることが出来ないという。それは論理的言語によって記述出来ないものがあるということでもありながらも、「語り得る可能性のあるもの」/「語り得ない限界のあるもの」の間の沈静に触れる。その沈静を縫うのはやはり、人間というバグの多い生物たる感性の閃きだと思う。その閃きをモノにした、今回のライアン・アダムスのアルバムは麗しい。

《And nobody has to cry / To make it seem real / And nobody has to hide / That way that they feel》
(誰も泣くことはないんだよ 本物みたいにしよう、と / 誰も隠さなくていいんだよ 心の中で思っていることは 「Come Home」)

 90年代、アンクル・テュペロを筆頭に、分派しつつも現在進行形で邁進するウィルコという流れの中で浮上してきたタームに「オルタナティヴ・カントリー」という言葉があった。カントリー・ミュージックにパンク精神を背景にしたオルタナティヴという言葉が"付く"という歴史水脈と現代的代案の違和。その「違和」を堂々と繋げてきた存在として、10代で作ったウィスキータウンというバンドをすぐに解体したライアン・アダムスという一人のアーティストの動きは、常に大きかった。兎に角、気まぐれ、気分屋、ビッグマウスであり、多産される曲群、オアシスの「Wonderwall」などをカバーしたり、記憶に残った今のところの唯一の来日公演、05年のフジロック・フェスティバルでのステージ・パフォーマンス内での途中退場、やさぐれた部分であったり、掴みどころがないながらも、その詩情溢れる胸を打つ歌詞、彼の渋みを少し帯びた声質に魅了された人は多かった。ミュージシャンズ・ミュージシャン(エルトン・ジョン、U2のボノなどファンは沢山、居る)、日本でも局地では絶大に愛されながらも、その散文的な活動形態により、評価軸が決まらなかったともいえるアーティストの一人だと言えるだろうし、それは、いまだに「オルタナ・カントリーの鬼才」という枠内で括られてしまうように、なかなか難しい場所に彼は今も居る。

 09年にマンディ・ムーア(ポップ・シンガー、アクトレス)と結婚し、完全に「活動休止」に入った彼はもう戻ってこない、とも、ふと、顔を出すのではないか、憶測や期待が行き交いながら、メニエール病を患っていて、耳鳴り、眩暈症状があるから厳しいのでは、また、音楽の業界への幻滅を感じて、独自の活動(ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビュー的な何か)を行なうのでは、というような声がRumorに混じっていた中、ふと今年になって、以前に組んでいたバンドのカーディナルズ名義でもなく、純然たるソロ名義として『Ashes & Fire』が届けられた。昨今のインターネット上でのヘヴィ・メタル系統のリリースを含みながらも、満を持して、正面を切ってリリースされたこのアルバムは、01年の『Gold』のようなストレートなロックの派手さはほぼ翳を潜め、無論、04年の『Love Is Hell』などとも違う「骨組み」が晒されたものになっており、斑が目立っていたこれまでの作品群より静かな火照りが一貫している。レコーディング、プロデュースはローリング・ストーンズやエリック・クラプトンなどと関わってきたベテラン中のベテランのグリン・ジョーンズ。そして、盟友といえるノラ・ジョーンズが数曲でピアノとして参加し、弦楽が入った曲もあるが、基本はライアン本人のギターを軸にアコースティックな質感を保ち、彼の内的感情の襞を覗き込む繊細さ、感傷とディーセントなヴァルネラビリティが青白い血管のように明確に浮き出ている。更に、インスパイアーの起源は、ローラ・マーリング(Laura Marling)の『I Speak Because I Can』というのも面白い。

 ジョー・ヘンリーの新譜もそうだったが、着実にキャリアを重ねてきたアーティストが10年代に入り、こういったシンプルな空気の揺れに感情を重ね合わせる方向に焦点を合わせてきているというのは個人的に考えるところがなくはない。今年のチルウェイブ、シンセ・ポップのうねりの中を掻き分け、いや、スルーして、70年代初めのジェームス・テイラー、キャロル・キング辺りのSSWムーヴメントの台頭を想わせる動きに近似した別路として、静かな波紋とリンクを広げていくだろうとも思うからだ。

 アメリカン・インディーの良心たるR.E.M.の解散など何らかのパラダイムの、終わりも感じることが多かった今年のシーンだったが、もはや全面的に視えない戦時混沌下での「唄い手(SSW)」としてのアティチュードが明らかにUSでも変わっていっていることを示す意味でも、このアルバムは「重厚な聴き応え」よりも聴き手を落ち込ませない、優しさと滑らかさがあるのは、佳い傾向だと思うとともに、ライアン本人も暫しの休息を経て、ゆっくりと自分の「内面」を見詰める時間が取れたのではないだろうか、と感じる。敷衍すると、これは、「大きい作品」でも、「シーンを攪乱させるような作品」でもなく、また、音楽メディアの趨勢からすると「地味」とも評されかねない、逆説的に或る種のオルタナティヴ性を孕んでいるという意味ではライアン・アダムスというアーティストの「誠実な、天邪鬼」が敢えて、真ん中を射抜いたともいえる内容に帰一している。そこに今こそ、気付く新しいリスナーたちが増え、更に彼の過去のカタログ群を追う契機になるような気もする。

 1曲目の「Dirty Rain」の爪弾かれるギターからして、清涼な70年代のSSWの残影がふと透き通った風のように吹き抜ける。4曲目の「Rocks」も曲名と比して、描かれる叙情は「明るくなり、一日を迎える」というささやかな慕情が織り込まれ、6曲目の「Chains Of Love」では2分半ほどながら、弦が絡み、ハンク・ウィリアムズ、ジョニ・ミッチェル、アコースティック・セット/レコード・クラブでのベックの持つような感情面への叮嚀な、肌理細やかさが発現する。サイケ・フォークでも、アシッド・フォークでも、オルタナ・カントリーでもない、フォーク時代のボブ・ディランのような、『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』、『ハーヴェスト』時期のニール・ヤングのような、シンプルながら深みのある小曲を重ねてゆく様にはじわじわと染み込む「小声」がある。ふと、入り込むストリングス、ピアノなどもライアンのボーカルとギターの主張を囲い込むまではいかず、柔和な彩りを添える。

 これをレイド・バックという見方で捉えることも出来るかもしれないが、00年代を"Like A Rolling Stone"のように転げた彼がこういった明鏡止水の作品を上梓したのは意義深くもあり、自分のこれまでの混乱を冷静に振り返り、今こそ描き出す優しさ、センチメンタリズムにリーチしたというのは感慨深い。

《Somebody save me / I just can't go on / If someone don't save me / By the morning I will be gone / Somebody save me〉
(誰か、僕を救ってくれ 僕はこれ以上、進めないよ / 誰かが僕を救ってくれなかったら 朝に僕はここから去るだろう 誰か救ってよ 「Save Me」)

 この「小さな声」が今、出来る限り多くの人たちに響いて欲しい、と思う。

(松浦達)

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MODESELEKTOR.jpg  ちょっと気持ち悪い赤ちゃんジャケが印象的な前作『Happy Birthday!』で、世界的な評価を獲得したモードセレクターの約4年振りとなるニュー・アルバム、それが『Monkeytown』だ。彼等が立ち上げたレーベル《Monkey Town》からのリリースとなる本作は、モードセレクターのラテラルな音楽性が見事に発揮された良盤となっている。

 『Happy Birthday!』もトム・ヨークとマキシモ・パークが参加するなど2人の独特なフックアップ・センスが光っていたけど、『Monkeytown』においてそのセンスはさらに広がりを見せている。「Pretentious Friends」で力強いラップを披露しているバスドライヴァー(Busdriver)や、「Berlin」でセクシーな歌声を聴かせてくれるミス・プラチナ(Miss Platnum)。《Warp》に所属するPVTや、前作に続いて参加のトム・ヨークなど、これら多彩なゲストを扱う2人の手腕も秀逸だ。

 ベルリン出身らしい硬派な音作りは健在だが、前作まで存在していた中毒性は抑え、よりドラマティックに興奮を繰り返す瞬間芸に比重が置かれているのは、時代を反映させた結果として生まれたのかも。人によってはこの瞬間芸を何度も聴いていると食傷気味になるかも知れないが、『Monkeytown』をキッカケとして、モードセレクターのハイブリットなエレクトロニック・ミュージックが多くの人に聴かれるべきなのは間違いない。

(近藤真弥)

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Banvox.jpg  バンヴォックスが《マルチネ》からリリースした「Intense Electro Disco」は、初期衝動に満ちた素晴らしい作品だ。とにかく"壊したくて"サイレンを鳴らしたケミカル・ブラザーズ、ディストーションで巨大な要塞を築き上げ聴衆を蹂躙したジャスティス、「デカいスピーカーでベース聴こうぜ!」と、ぶっとい低音を快楽的に垂れ流したダブステップなど、本作には過去のダンス・ミュージックの最大瞬間風速がいくつも刻まれている。新しいものが誕生する喜びと興奮が、「Intense Electro Disco」には確実に存在する。


 ダンス・ミュージックはその昔、豊穣を願ったり神様へ祈りを捧げる儀式としての"踊り"であった。それぞれの土地や国が持つ固有のリズムやグルーヴという"らしさ"があったけど、"K-POP"や"J-POP"といった言葉に代表されるように、昨今のポップ・シーンは"らしさ"を強調した音楽が流行っているのに対し、ダンス・ミュージックは"らしさ"や"意味"を排除してきた面もある。例えば世間一般では"エレクトロ"と呼ばれるニュー・エレクトロだって、歴史的に見ればアフリカ・バンバータのような音楽を指す言葉だったからね。こうしたある種の乱暴さが、「ただエスニックな響きの曲をサンプリングして、西洋のビートにくっつけただけの曲は、ほんと音楽として醜悪だよね。それって現代の植民地主義なんじゃないかな」と、イギリスのガーディアン誌で発言したニコラス・ジャーのような面白いアーティストが出てくる要因でもあるが、乱暴な面がダンス・ミュージックにロマンとダイナミズムをもたらしたのは否定できないし、どうしても僕は、このロマンとダイナミズムに惹かれてしまうのだ。

 

 「Intense Electro Disco」を繰り返し聴いてしまうのもだからだと思う。だってさ、ニュー・エレクトロを基本としながらレイヴ、ハピコア、ダブステップ以降のベース・ミュージックまで飲み込んだバンヴォックスの音楽は、ネオンのようにキラキラした"現在(いま)"を力強く表現してるんだから。本能的獰猛さと理性的洗練がハイ・レベルに融合した奇跡的なダンス・ミュージック、強いて言うなら"ミュータント・ベース"と呼べる雑食性をまざまざと見せつける本作は、僕が音楽に求めるものが詰まっている。地球から宇宙全体を掌握するかのようなリーチを錯覚させ、すべての音がクラブへの"憧れ"として鳴っている。

  

 "憧れ"としたのは、彼が高校生だから(ツイッターのプロフにそう書いてました)。おそらく彼は、クラブに行ったことがないと思う。あるとしても、ズルをして深夜のクラブに入るようなことはせず、デイ・イベントなどに行くくらいだと推察できる。だとすれば、完全なDJライクになっていない曲群にも納得がいく。そして、クラブに対する"理想"が本作を特別な作品にしているという僕の直観も当たるのだが...。どうだろう?


 こうして原稿を書かせてもらうようになってから、1年以上になる。おかげさまでいろんな出会いに恵まれなんとかやってきたが、「伝えたい」というモチベーションを喚起させてくれるのは、数多くの作り手たちが作り上げた作品だ。それでも「これは!」という衝撃に遭遇できる機会は少ないが、「Intense Electro Disco」は間違いなく衝撃的だ。こんな出会いがあるから、音楽を聴くのはやめられない。


(近藤真弥)

 

※本作は《マルチネ》のサイトからダウンロードできる。

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  まず、ウィリアム・ブレイクという詩人の「無垢」を幻視者の"それ"として捉えては、何も始まってこない。同じく、作家の芥川龍之介の「歯車」は本当に見えたのかもしれないし、ブレイクの「老いたる無知」への辛辣な言及にこそ、意味があり、「閉ざされた知覚」内での象徴記号の自己/相互分裂の裂け目に無垢はあった。としたら、その裂け目から世界を覗いてみる。それも、ベッドルーム越しに。すると、見えた景色はどうも芳しくない。冬眠でもするしかないか。という訳で、『The Year Of Hibernation』と名付けられたアルバムの邦題は、『冬眠の年』だ(精緻には、"Hibernation"という単語は、休止状態という意味を含む)。しかも、《Fat Possum》というもっとも活発なレーベルの一つに背中を押されて。

 深くリヴァ―ヴがかかった中に、残響する、折れそうなか弱い声。ベッドルーム・シンガーソングライターが静かに音を重ねて紡ぎ上げたヒプナゴジック・ポップのような側面もありながら、チルウェイヴの「波には乗れない(乗ることを考えない)」ハミングするような「Afternoon」という曲を象徴とした、個が抱えた絶対不安下での現実内で、積極的に微かな光のような「夢」を求める一青年のツイート的ロマンティシズムと諦観。

 今年は、コナー・オバースト(ブライト・アイズ)、ベイルート、ケイト・ブッシュ、エド・シーランまで、新旧のシンガーソングライターが世界で新しい音を紡ぎ上げながらも、それぞれがキャリアに関係なく、時代の趨勢を鑑みてのことか、どことなく憤怒と悲哀の間で振れる"慈しみ"に揺れていたのが興味深かったが、この、アメリカはアイダホ出身の23歳の青年トレバー・パワーズによるソロ・プロジェクトのYouth Lagoon(ユース・ラグーン)は、コクトー・ツインズを聴き込んできた、尚且つずっと不安に苛まれた人生をおくってきた、という来し方を差し引いても、「特異」な場所から、自分の声を「世の中」に届けようとする。または、届けようともしていない。何故ならば、シド・バレットの『The Madcap Laughs』やベックの『Stereopathetic Soul Manure』、エリオット・スミス『Either/Or』が持っていた作品に宿る儚さと粗さが「個性」として、柔らかく結実しているからであり、ローファイ/ハイファイで分ける音楽的タームよりも、チープな音の浮遊感の中に「声」も同化させ、景色にさせる―そこで、ループを刻むビート、ふと入る電子音、フックよりも全体としての音像を意識した曲単位の意識よりも、子守唄みたく響く微睡みを優先する漠然とした方向へと舵を切りながら、自己完結のようにシャッターを下ろすサウンドスケープに終始しているからだ。

 この作品をピッチフォークが8.4点を与え、モデスト・マウス、ギャラクシー500の名前を挙げつつ、絶賛するというのは個人的に、分からない。「分からない」というのは、つまり批評というものが遂に「自己完結のシャッターが下りた、サウンドスケープ」にさえ詰めないといけない証左であり、そこで「街」は想像されていないところに、どうにも物悲しさと2011年の温度を感じる。

 曲単位で追っていこう。2曲目の「Cannons」の明るく拓けていくベッドルーム・クワイワに人気が集まっているようだが、タイトルそのままの6曲目の「Daydream」はその割にタイトなサイケデリック・ポップで興味深く、イントロがコリーンの諸作を彷彿とさせる9曲目の「The Hunt」もなかなか良い。しかし、突出したメロディーメイカーという訳ではなく、同時に、音響工作の匠では程良い緩さがあり、その曖昧模糊たる場所において、ヘッドホンで聴くと、まさにL⇔Rに様々な電子音、ビート、歪みが行き交い、浮世から離れたような声が遠くで「鳴っている」。チルウェイヴは、現実「逃避」に立脚していた節があり、その逃避は切実な「現実」を強く認識したが故の強度があり、ムーヴメントではなく、点と点が自然と結び合わさり、仄かに浮かび上がった現象として捉えるならば、ユース・ラグーンの描く音世界はもっと「彼岸」に近い。

 その「彼岸」を「冬眠」と置きかえられるほど、進行形のリアリティに疲弊している人たちには、このアルバムは静かな"空中キャンプ"を促すことだろう。

 哲学者のダニエル・C・デネットは云う。

 自由はちゃんと存在する。勿論のこと、完全な自由などはないが、でも、段段と自由が増してゆく方向に、生物はどんどん進んできた。自由意志はあるし、それは進化論の中でしっかり位置付けられる。そうなると、現代において、進化論の中での自由意志を、退化論への疑惑としての自由意思。そう置き換えても、差異はない。この作品に漂う「自由意思」は、僕は尊重したい。

(松浦達)

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Moomin.jpg  ドイツにおけるディープ・ハウス・リヴァイヴァルは、主にベルリンの《White》や《Aim》、それからハンブルクを拠点とする《Smallville》が興味深い動きをみせている。そして、そのうちのひとつ《Smallville》からデビュー・アルバムをリリースするのが、ムーミンことセバスチャン・ゲンズだ。

 彼は、前述した3つのレーベルからシングルを発表している。まさにシーンを代表するアーティストといえるが、ロマーン・フリューゲル『Fatty Folders』にも通じる、美しい流麗なミニマル・サウンドが『The Story About You』の特徴だ。海の波音からはじまり、徐々にキックがフェード・インしてくる「Doobiest」から「Sundaymoon」まで、ひとつの物語のように曲が紡がれていく。

 また、昨今のソフト・シンセ中心の音作りとは違い、ヴィンテージ機材が持つ個性的な音を巧みに使いこなしているのも素晴らしい。特に606、808、909といったダンス・ミュージックの定番ドラムマシンを使用したシンプルながらも綿密なビートは、4つ打ちが持つ快楽的な心地良さを存分に伝えてくれる。ラスティーのように、あえてソフト・シンセであることを強調したきらびやかなサウンドは、同時代性を含んだ"今"の音として興味深いが、ムーミンのハードにこだわったフェティシズム的サウンドも、抗いがたい魅力を放っている。

 故・中村とうようさんの「時間とは関係なくフレッシュな感銘を与えてくれる音楽こそ"新しい"音楽であり、それが自分にとっての未来なのだ」に従えば、ムーミンの音楽は"新しい"音楽といえる。今までになかったものではないし、むしろ原点回帰な音楽をムーミンは鳴らしているが、作ることを楽しむ姿が刻まれたサウンドは音数の少なさを感じさせず、多面的に感情が表現されている。原点回帰という意味では、USディープ・ハウスを漁り"知識"を得たうえで楽しむのもいいが、それよりも自らの感性を信じ身を任せることで真価を発揮するアルバム、それが『The Story About You』だ。

(近藤真弥)

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I BREAK HORSES.jpg  幻想的なエレクトロ・サウンドから始まり、妖艶で暗く憂い気な多重ヴォーカルが流れてくる。これがスウェーデンの宝石と呼ばれる珠玉のシューゲイズ・バンドだ。20年前のシューゲイザーに比べエレクトロの比率がやや高く、冒頭での曲間が繋がっている演出も音の世界へ更に没頭させてくれる。タイトル・ソング「Hearts」は特に轟音と呼ぶに相応しく、丁度良く心地いい程度にヴォーカルを掻き消すノイズにまみれた大名曲だ。その後もマイブラでもなくジザメリでもない、個性的なシューゲイジングをみせてくれる。何よりこんなにダークなのに高揚感があり恍惚へと導いてくれる、それこそが21世紀に鳴らされるシューゲイザーの良さであり、それが決して下を向いておらず天を仰ぎたくなる気持ちにもなる辺りがときにネオ・シューゲイザーと称される所以だと思われる。そして全体を通して起伏があるのも大変嬉しい。北欧にはただただ同じような曲が並ぶシューゲイザー・バンドがたくさんいるのが実際のところだが、彼らは音や声を重ねて重ねて時折これでもかというほどの盛り上がりを見せてくれており、それなのに終始優しい声で癒される、それはまさに静かなる衝動と言えるだろう。

 基本的にはバンド・スタイルを主としている。つまりエレクトロ・サウンドは入っているもののビートを打っているわけではない。昨今で言う"踊れるロック"というわけでもない。あくまで音の重なり合いのうちの一つの素材として使っているのが面白いところだ。またフィーメール・ヴォーカルに惹かれるリスナーも必聴だろう。力強さは一切ないが、そこが彼らの魅力でもある。実は個人的にはシューゲイザーもフィーメール・ヴォーカルもどちらかといえばあまり好きな方ではないが、それでもここまで彼らの音楽に惹かれる理由はこの作品の完成度の高さと期待をはるかに超えるノイジーなアプローチにあるのだろう。かといってノイズ・ミュージックとは全く違い美しいことこの上ない。そう今はもう、がむしゃらにディストーション・ギターをかき鳴らす時代は終わったのだ。

(吉川裕里子)

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Madegg「Bluu」.jpg  早くもマッドエッグの新作がリリースされた。しかし、これだけのリリースペースを保ちながら、常に新たな視点や試みを見せてくれるのは嬉しい限り。まず驚かされたのはジャケ。これ、ジェームズ・ブレイクの"アレ"じゃないのかな? 「Bluu」のほうがカラフルで素朴な感じがするけど、絶対意識してるよね?

 音のほうは、ビート・メイカーとしてのマッドエッグが前面に出ていて面白い。今までのリリース群から察するに、彼はビートよりも音そのものに強いこだわりを持っていると思っていたが、そのこだわりを保ちつつ、フライング・ロータストキモンスタのような"急進派"とされるヒップホップをマッドエッグなりに解釈したEPとなっている。収録楽曲も2~3分台の曲がほとんどで、聴き手に強い印象を残しながらもあっという間に終わってしまう。だが、この短い尺のなかに詰まった感情や風景は膨大なものだ。アレックス・パターソンの徐々に精神世界へフェード・インしていく緩慢な心地良さも素晴らしいが、瞬間的に「パッ! パッ!」と景色が変わっていくマッドエッグの演出方法もまた素晴らしい。全7曲ゆったりとしたグルーヴながら、次へ移行するスピードはとてつもなく速い。それでも突き放すようなことはせず、聴き手をしっかり掴んで離さない。まるで異世界を案内するコーディネイターのように音が鳴っている。

 このままビート・ミュージックの方向性を突き詰めるのかは不明だが、「Love 2」のようなセクシーなノリを携えた曲を聴くと、ぜひビートにこだわった曲作りをしてほしいと思わずにいられない。玉石混交となっているビート・ミュージックに新たな風を...。その風になれる素質は間違いなくあるんだから、マッドエッグには。

(近藤真弥)

 

※本作はマッドエッグのバンドキャンプからダウンロードできる。

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DJ SHADOW.jpg  まず、異才フーゴ・バルの言葉を孫引いてみよう。

  「1913年の世界と社会はこんな塩梅だった。生は完全に閉じ込められ、枷をはめられていた...日夜問われるもっとも切迫した問いは、こうした状況を終わらせる強さを、なかんずく正気を持った力が何処かにあるだろうか? という問いだった。」(『時代からの逃走』序文より)

 そして、有名な彼の「音声詩」、つまり、「言葉のない詩」とは通常言語を捨てるために、人間の本来的な意識の下で発される「正気を持った力」として言葉を取り戻そうとする試みであり、溢れた言葉の「深奥」を探る為の「詩的魔性」を確認する行為だった。

  「詩的魔性」という意味では、現在、90年代的な音のリヴァイヴァルやその生き残り組の新譜が目立つ中、ロンドンのストリートが燃えた今年になって帰ってきた、「アブストラクト・ヒップホップの先駆者」として、ときに名称もされるDJシャドウの存在は欠かせない。90年代のヒップホップは、例えば、ア・トライブ・コールド・クエストのジャズをネタに取り入れたスムースさ、アウトキャストのアマルガム的な加速、ナズの硬質さなどがパブリック・エネミー以降の視界を変えて行きながらも、USのユース・カルチャーを語る際には「組成/混合としての音楽」のヒップホップを考えないことには、見えないものが多くあった。日本でも、ロック×ダンスのエクレクティズムの波と、ストリート・カルチャー×アート性としてのヒップホップは一部のトライヴのみならず、耳聡いリスナーの五感をフック・アップした。

 その中でも、96年のDJシャドウの『Endtroducing...』の新しさとその後も語り継がれる意義とは、細かく刻まれた美しくも抽象的なビートの上に幽霊のように幾つもの声やサンプリングがジャンプ・カット写法のように切り替えられながらも、通底はメロウな感触に貫かれている、というところだったのかもしれない。また、トリップ・ホップ、チルアウトなどとも緩やかに共振しながらも、その音はベックの『オディレイ』が刷新しただろうセンスの鋭さ、豊潤な音楽の歴史の遺物への敬礼というタームで括ることも出来たが、現在のディプロが行なうようなDJのフロアーに根差した現場感覚とサウンド・センスの絶妙な「間」を縫ったというのも大きかった。それは、アンクル、トマト×アンダーワールドにおけるアート的に且つアンダーグラウンド・カルチャーの水脈を叮嚀に拾い上げ、しっかりとアップ・デイトしてシーンへと掲げたクールネスにも準ずるだろう。DJシャドウのサンプリング、元ネタのヴァイナルの数々、音源にも注目が集まり、そのストイックなステージ・パフォーマンスでも、非常に魅力を持ったアイコンの一人だった。

 彼のその後は、コラボーレーション、リミックス・ワーク、カット・ケミストとの「Brainfreeze」など順当に活動を拡げ、02年のセカンド・ソロ・アルバム『The Private Press』はサンプリングをベースにしている点では、ファーストとほぼ変わらなかったが、その心の中に潜りこむような暗さが増し、内省が強くなっていたところがあったが、この美しい陰翳を愛するリスナーも少なくない。

 問題にはなったのが、何より06年のサード・ソロ・アルバム『The Outsider』であり、大きな賛否両論を生んだ。殆どの曲で客演、ボーカルを迎えたストレートなヒップホップ・アルバム。背景に自身が死を近くに感じたというエピソードがあるにしても、彼のビート・メイクとストイックなセンスを信頼していた人たちからしたら、この「拓け方」には、戸惑いも覚えた人も多かったが、アート性が先立っていて、入り込むことが出来なかった人たちには新しい入り口にもなった。

 そして、10年代、ダブステップ的なサウンド・メイクが基調になり、寧ろ彼の作る音が巡り廻り、求められるのではないか、という中で届けられた新譜『The Less You Know The Better』。簡単に邦訳すれば、「貴方が知らなければ、知らないに越したことがないよ」という諦念とシニックに通底したタイトルになっている。そのタイトル名通り、更に憑き物が落ちたように、明快なヒップホップ・アルバムへと舵を取っている。「Border Crossing」でのハードなギターの響き、PosdnusとTalib Kweliのライムが軽やかにステップする「Stay The Course」、「Sad And Lonely」にはメロウなR&Bの馨りが濃厚に漂う。Tom Vekの参加した「Warning Call」は懐かしい90年代のヒップホップの歴史背景が見え、従来通りのアブストラクト・ビートが冴える「Tedium」、「Enemy Lines」など含め、「10年代の音」として考えるよりも、DJシャドウが長いキャリアを重ねてきた結果、行き着いた場所がこういったバック・トゥ・ベーシックではなく、自分の中に幾つも眠るレコードの束、音楽を並列的に出来る限り絞らず、呈示するということであれば、これは90年代後半に出てきた一人の天才的トラック・メイカーが素のレコード・コレクターたる自分の顔を見せて、フロアーに皆を呼び込むための一通のインビテーション・カードになったのではないだろうか。作品としての纏まりの無さ、統一性のなさ、彼特有の美学の希薄さにフォーカスを当てるよりも、この音を聴いて、現場に足を運ぶことを促すものである。

 だから、もう「詩的魔性」は今の彼にはない。

 しかしながら、これまでの来歴を想えば、良いのかもしれない。

(松浦達)

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RobCrow.jpg  インディー・ロック界のハード・ワーカー、ロブ・クロウの4年振りのソロ・アルバム。実はこのアルバムのリリースが発表されて間もなく、ピンバック(Pinback)の新譜が2012年初頭にリリースされることがアナウンスされており、ファンの多くの関心は、既に来年へと寄せられているに違いない(私もその一人)。しかしながら、あらかじめそんな朗報が流布されてしまうと、どうしてもこのアルバムを色眼鏡に通してしまう。ソロ作品が緩衝材としての役割を担っており、クリエイティビティを滾らせてピンバックの制作に至ったのではないか、とか。このアルバムが"ツナギ"だったらどうしよう、とか。かなり投槍に言ってしまえば、そんな憂慮は余計な気遣いで、迷走も何も無く、本盤でも安定してミニマルなインディー・ロックが鳴らされていることに変わりはない。

 ピンバックに漂う、美しい情景を喚起させるような音色やフレーズ、ポスト・ロックらしさは希薄になっており、本盤はかつてのヘヴィ・ベジタブル期のロブ・クロウを彷彿させる。どちらも大好きな者としては、この方向性へのシフトは大歓迎であろう。ヘヴィ・ベジタブルが一直線ながらも複雑な回転がかけられたボールであるなら、ピンバックは複雑な軌道を描きつつも、最後は素直にミットへ飛び込むボールなのだ。複雑な構成や展開など目の敵にしているかのような潔さが堪らない。

 更に言うなら、ポスト・ロックをドロドロに溶かして、ミニマルの鋳型へ注ぎ込むのが従来のピンバックであるのに対し、本盤はヘヴィ・ベジタブル期の自分自身が、ミニマルの鋳型に注ぎ込まれているような印象である。短い曲がせかせかと立て続けに雪崩れ込んでくる早急さは、まさにピンバック編成で再現されたヘヴィ・ベジタブルである。ピンバックの新作を控えている矢先に、原点回帰(原点でもないけど)のようなアルバムをリリースしてくる辺り、小気味良い捻くれ加減は健在である。

(楓屋)

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GoldPanda.jpg  少し指が触れただけで壊れてしまいそうなほど繊細で、ガラス細工のようなソフィスティケーションが施された上品なグルーヴ。でもそれは、人を寄せ付けない圧倒的なオーラというよりも、聴き手に寄り添う優しさと温もりにあふれている。もちろんフロアで流れてもよさそうなセットリストにはなっているが、家でヘッドフォンを通して向き合う、もしくは大事な誰かと一緒に過ごす時間など、謂わば"日常"に根ざした環境で聴いたほうがしっくりとくる。これはやはり、現実に対するささやかな抵抗として音を鳴らし、独自の世界観を築きあげるゴールド・パンダの音楽性がそう思わせるのだろう。

 彼の音楽は"日常"を匂わせながらも、その"日常"に潜むストレンジな扉を開いた先に存在する"ここではないどこか"を見つめているが、今回の『DJ-Kicks』でも同じ場所を見つめている。ダブステップと2ステップを基本とし、時折テック・ハウスも織り交ぜるなど、DJとして優れたバランス感覚を見せつけながらも、すべての曲から"ゴールド・パンダ"の雰囲気が漂う。不思議なことに、彼の細長い指と手にかかれば、どんな曲もゴールド・パンダの曲になってしまう。この魔法のような感覚が、テクニック以上に『DJ-Kicks』では輝きを放っている。

 DJMIXは、クラブの空気を疑似体験できるのが売りだったりもするが、本作は文字通り"ゴールド・パンダの世界"としか言いようがない、まるでおとぎ話のなかにいるような錯覚に陥ってしまう。アシッドやエクスタシーのトリップとは別のトリップ、強いて言うなら、"ゴールド・パンダ"という新種のドラッグだろう。もちろん本作は音楽であるから、なにかしらの副作用を心配する必要もない。もしあなたが音楽でしかできない時間旅行がお望みなら、ゴールド・パンダによる『DJ-Kicks』を手に取るのもいいだろう。

(近藤真弥)

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Noel Gallagher'sHFB.jpg  ノエル・ギャラガーの1stソロ・アルバムを聴きながらストーン・ローゼズ再結成のニュースを追っていた。オアシスは「Sally Cinnamon」のシンプルなリフに導かれて、バンドとしての方向性を見定めた。"憧れられたい"というメロウな囁きの代わりに"今夜、俺はロックンロール・スターだ!"と高らかに宣言してみせた。そのオアシスも、今はもう存在しない。そしてビーディ・アイとノエルのアルバムが出揃った瞬間にローゼズが復活した。本当に不思議な巡り合わせだと思う。

 記者会見でレニが10数年ぶりに元気な姿を見せ、ジョン・スクワイアが笑っている。マニは正式にプライマル・スクリームからの脱退を告げ、「車輪が外れるまで、走り続けるぜ!」とイアン・ブラウンが宣言する。これから鳴らされるストーン・ローゼズのサウンドは「One Love」のあとに失われた5年間を埋め合わせるものなのか? 『Second Coming』の音像をさらに拡大させるものなのか? それとも...? すべては来年6月にマンチェスターで開催される復活ライヴのあとで明らかになるだろう。

 初めて自分のおこづかいでレコードを買った日から20年以上経つけれど、いま改めて"音楽はタイムレス"だと気付かされることが多い。1991年にクラブチッタ川崎で見たプライマル・スクリームのボビーは最高にセクシーでヘロヘロだった。それを20年後に再体験するなんて、誰が想像できただろう? 「ストーン・ローゼズのマニはプライマル・スクリームに入るんだぜ!」って、当時の自分に話しかけてみたい。きっと信じないだろうな。「話はまだ終わっていないよ。ストーン・ローゼズは2011年の10月に...」。僕は今、目の前で起こっていることが信じられない。

 ストーン・ローゼズが友情を取り戻した。そして僕の手には『Noel Gallagher's High Flying Birds』と名付けられた1枚のCDがある。9月、リアムはビーディ・アイとして日の丸をバックに「Across The Universe」を歌った。僕は最前列でそれを見た。全部、当たり前のことなのかな? 少し上手になったノエルの歌声を聴きながら、僕はそんなことを考えている。

 オアシスのアンセムを書き続けてきたノエルのこと。このアルバムにオアシスの面影を見つけるのも難しいことじゃない。「WonderWall」を彷彿とさせる「If I Had A Gun」、オアシス時代に書き貯めていたと公言されている「(I Wanna Live In A Dream In My) Record Machine」、そして(日本盤ボーナス・トラック2曲を除く)ラストを締めくくるのは「Stop The Clocks」というオアシスのベスト盤と同名の曲だ。それでも、このアルバムは当然のように"ノエル・ギャラガーのアルバム"として僕の耳と心を奪う。ギター、ベース、ドラムス&ヴォーカルというバンド・アンサンブルの束縛から解き放たれた楽曲は、"High Flying Birds"と呼ぶのに相応しく、自由に飛び回っている。冒頭の「Everybody's On The Run」から鳴り響くストリングス、全編を貫くアコースティック・アレンジ、そして切なくも力強いメロディと詩情。アルバム・ジャケットを見れば、ガソリンスタンドの照明という無様に光り輝く羽根を広げながら、一人の男が飛び立とうとしている。

 2011年の今、日本で音楽に興味を持たない人たちは、どんな気持ちで毎日を暮らしているんだろう? ひとつのバンドが解散したり、再結成したりすることに一喜一憂する僕たちをバカみたいだと思っているのかな? 最新の音楽を追い求め、今まで知らなかった過去の曲に感動し、聞き慣れた歌を飽きずに何度も再生している。それは少しでも「今、この瞬間」を良くするためだ。どんな時も音楽は「今」を変える。音楽は歌い、踊り、祝福する。僕はそれを「可能性」と呼びたい。

 ストーン・ローゼズはバンドとしての「今」を取り戻した。オアシスが残した曲は「今」も僕たちの心を奮い立たせる。そしてビーディ・アイに続いて、ノエルのアルバムが「今」から鳴り響こうとしている。

(犬飼一郎)

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Coldplay-Mylo-Xyloto.jpg  彼らのライヴを今年のフジロックで観たときから、来る最新作が彼らにとって余裕の最高傑作になるであろうことを確信した。そのライヴから約2ヶ月後にリリースされたこのアルバムは、「Don't Panic」よりも「Politik」よりも「Square One」よりも「Life In Technicolor」よりも壮大で予感的で宇宙的で、飛び立つようなフィーリングに満ちた素晴らしい「Hurts Like Heaven」という曲で幕を開ける。その次に聴こえてくるのが重厚なベースラインがイントロの中核をなす「Paradise」。ノア・アンド・ザ・ホエールも早速カヴァーしたこの曲だが、前作ではこういう作風(というのはアコギ主体ではないへヴィーなバラッド)の曲がことごとくイマイチだったのに比べると、格段の進歩を遂げている。ブライアン・イーノが前作のアルバム完成直後に「早く次のアルバムを作ろう。もっと良い作品が作れるはずだから」と言ったのは、まさにこういうことだったのだ。そして、4曲目の「Charlie Brown」が早速今作のハイライト。このギターフレーズは最早反則に近いが、ついに彼らが「Yellow」「In My Place」に並ぶ名曲を手にした瞬間だ。

 彼らの多くのファンが言うように「ファーストの頃の良さを失わなければ」、あるいは「Charlie Brown」は誕生しなかったかもしれない。彼らの曲にわたしがピュアな感動を禁じえないのはこういうところなのだ。結局、音楽的に最初の地点に戻るなんてことを彼らは1ミリも考えていない。ただ、たとえ途中で道に迷ったとしても彼らは音楽への真摯な姿勢だけは見失わないので、アヴァンギャルドが恋しくなろうが、自分たちの過去の作風に退屈さを覚えようが、ソングライティングはその輝きを保ち続ける。最初「Every Tear Is A Waterfall」を聴いたときは「おいおい、こんな安直なのはナシだぜ」と思ったが、それはまったくの間違いだった。これは彼らが何周もしてたどり着いた境地だったのだ。2011年にここまでのアンセムがほかに何曲誕生しただろうか。印象的なシンセサイザーから始まり、最後まで高みに上り続ける展開はライヴの最後にはぴったりだ(実際に最新のライヴでは最後に演奏されている)。リアーナとのデュエット曲、「Prince Of China」は正直蛇足だが、クオリティは高い。「Up In Flames」もまた、前作を経たからこそ生まれた名バラッド。一気にテンションを取り戻す「Don't Let It Break Your Heart」~ラストの「Up With The Birds」にかけては、「アルバムって、こうだったらもっと興奮するだろ?」と彼らが思って、そのまま信念通りに作ったのがよく分かる流れだ。

 彼らに突出した美的センスがあるとは思えない。それは今作のアートワークを見ても分かることだ。とくに革命的なフレーズを思いつくわけでもない。さまざまな音楽的要素を集約しているわけでも、もちろんない。かといって安易なアンセムを量産しているわけでもない。彼らはメロディがすべてで、そのメロディの澄んだ美しさを批判する言葉は、わたしにはどうも説得力が欠けているように思ってしまう。そして子供のような無邪気な好奇心がある。これは強い。だって大抵の批判なんかやり過ごしてしまえるからさ。あとはクリスがなかなか頭のおかしなフロントマンだから、普通のバンドだったら立ち止まって足元を確認するところをそのまま驀進してしまうようなところがある。もちろん褒め言葉だ。

(長畑宏明)

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REAL ESTATE.jpg「もし可能であるなら、私は私の音楽を自然の法則と同じであるようにしたいと思います。しかし自然には私の音楽よりもっと多くの変化があります。(中略)私の周りに音を集めて、それをほんの少し動かすだけでいいのです。音を自転車のように動かしまわる事は最も悪いことです。」(『ジ・オーストラリアン』紙 メルディス・オークスの質問に答えての武満徹氏の言葉。)

 自然の法則のように音楽はコントロール出来るのか。MGMTのセカンドやドラムスがサーフィンに向かった海とは何だったのか、今になって考える。そこからチルウェイヴ、ヒプナゴジック、果てはウィッチ・ハウスへと急激に音楽の潮流、言義的な意味で"シエスタ"的うねりへと向かう中での「波乗り」とはつまり、現実から離れた自然主義への回帰ではなく、情報の波を泳ぎながら、アノラック、ネオアコや旧き良きオールド・ポップを現代の形で再定義してみようとした試みともいえ、寧ろそこには本当の波は打ち寄せてきてはなかったのは、MGMTのライヴ・パフォーマンスでの穏やか且つチープなサイケデリアを感じた方なら分かるだろうし、ドラムスのセカンドの真摯なダークネスといった要素を含めても、見えてくるだろう。

 サーフィンをやったことがある方なら理解し得ると思うが、サーフィンをするには、自然における「波」という現象が起きないと「成立」しない。その波が起きる為には、海流、自然の地形、そして、何よりも風が吹かないと始めることさえも出来ない。それは勿論、人為的なレヴェルを越えてくる訳であり、天候次第でサーフィンは愚か、海に出ることも叶わなくなる。では、その「波」はアルビン・トフラーの第三の波「以降」のものなのか、というと、それも精緻には違う気がする。波を待つ―それでも、サーフィンに出ることが出来なかったから、ビーチで微睡もうという姿勢が音楽「効果」の一因子であるエスケーピズムやヘドニズムと抵触した。そこから、敷衍してみると、10年代におけるサーフィン・リヴァイバルとは、「波を待つこと」そのものと「ビーチ」での待機行為の暗喩だったのかもしれない。

 ビーチ・ポップ、インディー・アンビエントの括りで纏められたきらいもあるが、ブルックリンを拠点にするリアル・エステイトのファースト・アルバムは、象徴的な一枚だった。弛緩の中にふと浮かぶ甘美なサイケデリア、アメリカーナの景色を継いだ風景。その後、ギターのマシュー・モンダニルによるソロ・プロジェクトのダックテイルズも同様に高い評価を得たが、このたび、届けられたセカンド・アルバムの『Days』では、安眠希望者たちや儚い音楽の揺れを求める人たちが愛するレーベルの《ウッディスト》を離れ、《ドミノ》からのリリースになった。その遷移が端的に表わしているように、結論から言うと、少なくとも、もうビーチには彼らは居なくなり、音がより清澄になり、涼やかさが増した。そして、よりリアリステックに「日々(Days)」を見つめる視点が強くなった。同時に、「懐かしい新しさ」がここにはあり、例えば、ザ・ディセンバリスツが掘り下げたようなアメリカーナの井戸の下でハンド・イン・ハンドするようなそういった要素と、アズテック・カメラやオレンジ・ジュース、ペイル・ファウンティンズ、さらにはベル・アンド・セバスチャンのようなネオアコ系譜の種子が埋め込まれ、全体としては、前作よりも透き通ったフォルムを描く内容になっている。リード・シングル「It's Real」で伺えたように、メロディー・センスの向上も如実にあり、兎に角、叮嚀に編ま込まれた音楽という印象を受ける。

 彼らが居ただろうビーチから、広大な田園地帯へ向かったかのように、「風を待つ」という行為の位相が変わり、微睡むよりも目覚めておくことに主軸を置いた作品にシフトした。これをして、悪しきノスタルジーへの退行、もう喪われた良き(あったはずだろう)過去を巡っての若き懐古主義者たちの音楽と称するのも正しいとは思うが、逆説的に「もはやホームはない」ということに自覚的になっているユースが世界中に居るという証左でもある。ホームがなければ、その仮想化したホームを自分たちで夢想するしかないからでもあり、だからこそ、今作での「Younger Than Yesterday」、「Reservoir」辺りの曲に垣間伺えるビターなムードも分からなくはない。

 夢想内での田園に拡がる「自然」の中で柔らかく風を集めて、音楽として鳴らす。アレンジメントとリヴァーヴのかかった音の拡がり、加え、何よりも彼らの美しいハーモニーには相変わらず磨きがかかり、確実に聴き手の視野の刷新と感性のヒーリングを促すものになった。

(松浦達)

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MANIC STREET PREACHERS.jpg  マニック・ストリート・プリーチャーズについて語るときほど、あれこれ考えをめぐらせることもないだろう。マニックスについて語るということは、自分を暴露するに等しい行為だからだ。それは、彼らがリスナーの心に足跡を残しつづけてきた証でもあるし、常に音楽シーンの最前線でサヴァイヴしてきた歴史でもある。だからこそ、マニックス像というものがそれぞれあり、数多くの議論も行われてきた。


 『National Treasures: The Complete Singles』は、そんなマニックスの歴史を知るには最適なベスト・アルバムとなっている。「Motown Junk」から最新作『Postcards From A Young Man』までのシングルを網羅しているし、これからマニックスを聴きはじめるであろう人々の入門書としても最適だ。しかし本作は、長年マニックスを支え続けてきたファンに対するプレゼントでもある。本作にはザ・ザ「This Is The Day」のカヴァーが収録されているが、この曲のMVが思い出を振り返るような作りになっており、ファンとマニックスの間だけで共有できるメッセージも込められている。こうしたダブル・ミーニング的なコミュニケーションはリスクが伴うもので、多くの誤解や批判も受けるはずだ。実際マニックスは、そうした誤解や批判を浴びてきたし、『Everything Must Go』で国民的バンドになってからも、それは変わらなかったと思う。それでもマニックスは、挫折や困難を乗り越えてきた。


 マニックスとは、世界一ダサいバンドであり、不器用なバンドである。良くも悪くも引き際というものをわきまえず、だからこそ傷つくことも多かったろうが、それでも見捨てることができないバンドだった。これは多くの人にとってそうではないだろうか? でなければ、"国宝"と名付けたアルバムを平然リリースできるような存在になれるはずがない。前述したように、彼らは多くの誤解や批判を受けてきたが、同時に多くの人にも愛されてきた。マニックスのフェイヴァリット・アルバムをひとつだけ挙げるとすれば、躊躇なく『The Holy Bible』と答えるが、そのときにしか生まれえない最大瞬間風速を閉じ込めてきたという意味では、リリースしてきたどのアルバムも一緒だ。だから正確には、『マニックス』と言うべきなのだろう。彼らの生き様や精神そのものが、ひとつの作品として人々の心を捉えているのかもしれない。


 ブックレットの最後のページ、メンバー3人の写真と共にバンドメンバーのクレジットがある。そこにはジェイムス、ニッキー、ショーンの他に、この名が記されている。


 「Richard Edwards」


 彼らはこういうヤツらなんだよね。マニック・ストリート・プリーチャーズは、いつまでも4人なのだ。



(近藤真弥)

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StrangeBoys.jpg  テキサス出身のバンド、ザ・ストレンジ・ボーイズにとって3枚目となるアルバム『Live Music』。このアルバムが本当に素晴らしいのだ。ガレージ・ロックやカントリーを上手く融合した音楽は、挑戦的かつ牧歌的。へなへなで力が抜けたヴォーカル、親しみやすいグッド・メロディーを鳴らすギター、曲に寄り添うようなリズム隊、これらが織りなす安定感に満ちたグルーヴも、彼らの高い演奏能力を証明している。おそらくこの演奏能力と一体感は、ライブでより真価を発揮するはずだ。

 そしてなにより耳を惹かれるのは、ライアン・サンボルの歌声だろう。アレックス・ターナーとボブ・ディランが合わさったようなヴォーカルは、憂いを帯びながらも、明日は明日の風が吹く的な味わい深い魅力を放っている。独特で個性的な歌声なのは間違いないし人を選ぶかもしれないが、酒で酔っぱらったかのように歌うライアンの姿が目に浮かび、思わずニンマリとしてしまう。

 しかし、本作を聴いていると、秋から冬に変化する季節の変わり目の風景が見えてくる。落ち葉が空を舞い、カップルはお互いを温め合う。それを辛辣に見つめる僕...。おっと、少しばかり僻みが入ってしまったが、とにかく、『Live Music』はそんな想像を掻き立てるゆったりとした時間が流れている。寒さが続く、これからの季節にピッタリなアルバムだ。

(近藤真弥)

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A JOURNEY DOWN THE WELL.jpg  通常クラシック・ミュージックと言えば作曲家と演奏家に分かれるのが常だが、このアーティストは自ら曲を作り、自ら演奏している。一言で言えば"モダン・クラシック"と称されるジャンルに属する音楽のようだ。だが普段我々が聴いているロックなどの音楽にもストリングスは意外と多用されており、今やその境目は曖昧になっているように感じる。

 2006年に結成され、トルコ出身のメンバー1人とスウェーデン出身のメンバー2人によって構成されている彼ら。本格的なクラシックならタイトルにも意味があるものだが、この作品ではEPのタイトルの単語を4つに分けて4曲収録するという珍しい試みをしている。中世ドイツに要約されるクラシックという音楽は、練習曲から様々なテーマをタイトルに掲げて1つの曲やシリーズなどで作られてきたものが大きい。だがそれも今では様々な進化を遂げ、コンテンポラリーなどのジャンルなどでめざましい音楽を今尚世に送り出し続けているのが現状だ。そんな中、敢えてコンテンポラリーの実験性に頼らず"モダン・クラシック"を奏でている彼らは逆に新鮮であり、ある意味この方が斬新な音楽に聴こえてくるのが不思議だ。

 ストリングス(ヴァイオリンやチェロ)を主体とし、そこにピアノやサンプリング風の音やノイズ音を混ぜ、美しく協和しながらもSilver Mt. Zionのような憂いを感じさせてくれる。歌のない音楽に不可欠な情緒をその洗練された旋律によって聴かせてくれるほか、本格派クラシックとして演奏もかなり上手で、音の強弱で更なる自由な表現を見せており、大袈裟に言ってしまえば近代におけるクラシックの在り方を提示しているとも考えられる。

 大まかに見てロシアのピアニスト、セルゲイ・ラフマニノフ以降のシーンは中世の例えば古い町並みの景色や古い自然を思わせるそんな情景をテーマにはしていない。もちろん自分で作曲し自分で演奏するという人も増えてきている。彼らの音楽において思い起こさせるのは現代を生きる人々であったり、ここではタイトルの通り3人という小さな集団が如何にしてオーケストラに成り得るのかの挑戦でもあり、多少の実験性を伴いながら(まるでそれはビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』のように)アンチ・テキスト・フォー・スクールの姿勢で人々の感情に訴えかけるある種の暗さを持っている。それはGY!BE関連にとどまらず、1/4 StickのRachel'sにも通じるところがあるだろう。彼らが示しているのは「今」なのだ。そして言葉を持たないという意味では英語圏でないヨーロッパは苦労が少ないのかもしれないが、ポップ産業がある以上"モダン・クラシック"をプレイしていくのはかなりニッチなジャンルだと言わざるを得ない。

 しかし「教科書に絶対に載らないクラシック」が何なのか、少しでも興味を持ってもらえたならこれを入門編の一枚として挙げたいと思う。たった4曲の中に詰め込まれた多くの要素、21世紀に入って届けられた異端的作品、これらをもっと多くの人々に一聴していただきたいと願っている。個人的にはアート・アニメーション作家のユーリ・ノルシュテインの作品『四季』(これはチャイコフスキーの音楽を用いているが)及びその他の作品(ソビエト生まれでロシアへの国の変革と葛藤を表している)の、小さな幸せと殺伐とした日々を描いたフィルムにも似合うのではないかと想像をかき立てられる作品だ。未だ中世の趣があるとされるチェコでも、最近の作品は昔に比べてだいぶ近代化している。そんな"モダン・クラシック"をこれを機に聴いてみては如何だろうか。きっと新たな発見があるに違いない。

(吉川裕里子)

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『ミッション 8ミニッツ』.jpg  あなた、日々得た情報を自分の言葉として話せる自信はありますか? 自分の好きな事柄に関することを掘り下げどんなに語ったとしても、それが自らの価値観を通したものでなければ、なんら響くことのない退屈な"独り言"に過ぎない。知識という"筋力"でもってなにかを語るのは、実はそう難しいことじゃない。情報過多な現代においては尚更だ。しかし、こうしたデータベースを元にしたコミュニケーションや議論は、そろそろ限界にきている。もはやこれらの多くは、自分の感性や嗅覚に自信がない臆病者の遠吠えだ。

『ミッション:8ミニッツ』は、『月に囚われた男』で話題を集めたダンカン・ジョーンズが監督を務めている。彼がデヴィッド・ボウイの息子だというのも多くの人に知られているだろう。シカゴで全乗客が死亡する列車爆破事件が発生し、その犯人探しのための極秘ミッションに米軍エリートのスティーブンスが選ばれ、彼は犯人捜しをはじめる。この犯人探しの方法が変わっていて、事故で犠牲になった人の事件発生8分前の意識に入り込み、その人物として犯人を見つけだすというもの。しかし8分後には必ず爆破が起こり、そのたびに意識は元のスティーブンスの体に戻ってしまう。この繰り返しに身を置くなかで、スティーブンスは極秘ミッションに対し疑問を抱いていくというのが大まかなストーリーだ。『月に囚われた男』同様今回も70、80年代SF映画の要素が色濃く出ていて、人間性を中心に置いた作りもダンカン・ジョーンズならでは。J・G・バラード、ウィリアム・ギブスン、キューブリックなど、キャッチ・コピーにもある"映画通"ならば、あれもこれもと指摘できるような場面が多数存在する。

 だが面白いのは、"映画通"が喜びそうな伏線を張り巡らせておきながら、最後の最後でそのすべてをひっくり返し、見事に"映画通"を裏切るようなラストになっている点だ。そういう意味では、「映画通ほどダマされる」というキャッチ・コピーもあながちウソじゃない。公開中なのでネタバレは避けるが、とりあえず"世界が創造される"とだけ言っておこう。そして、この"世界が創造される"ラストによって、僕は本作のメッセージを受けることができたのだ。

 列車爆破事件というテロや、そのテロを仕掛けた犯人の動機は9・11を想起させるものだし、話が進むにつれて明らかになるスティーブンスが置かれている状況は、反戦に対する暗喩とも受けとれるが、攻撃的な皮肉などはなく、むしろ優しく励ますような穏やかさがある。それは、過去を受け入れ前向きに生きることでしか未来は訪れないし、過去を生かすこともできないという達観に近い強さだ。最後の転送を得て達成したことをメタファーとした"生かす"も、人によっては楽観的すぎるとの声もありそうだが、希望に満ちあふれていることだけは確か。

 スティーブンスが辿りついた結末は、理屈や理性では届かないものだ。自らが望む結果を得られる"かもしれない"という不安を抱きながら最後の転送をし、彼にとって最高の結末に挑戦する。あれは一種のギャンブルに近いものだったと思う。劇中には最高の結末を約束する伏線は見られなかったし(転送シーンで近いものは見受けられるが、"成功"を約束するものではない)、まあ、だから強引すぎるなんて言われたりもするんだろうけど。でも、ここまで知識や情報が役立たずになるような映画はそうそうない。あのラストやグッドウィルへのメールなんて、事前に予想したとしても、映画に詳しくない人ほどたどり着ける予想だろう。観客には、知識と情報を捨てることが求められる映画だ。

「空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む」

 これはアインシュタインの言葉だが、『ミッション:8ミニッツ』もこれと似たようなメッセージを発している。いまや知識とそれを集める足だけでは、差別化を計るのが不可能になってきている。そこらの大卒なんかよりよっぽど知識を蓄えたガキなんてそこらじゅうにいるし、蓄えたものを人に伝える手段も豊富だ。こうした状況が"ネット"という一定の抑止力を持つ世論を生み出し、ポジティヴな働きをしたこともあった。マスなどによる特権性や囲い込みから解放された"知識"や"情報"の流動化はアンフェアな情報格差を少なくし、マスの存在価値を揺るがすまでになった。しかし、これらの過程を得るなかで、"知識"や"情報"はふたたび"権力"となってしまった。このことによって、多くの人が裏も取らずに"情報"を盲信するようになったし、場合によってはその"情報"によって殺される、つまり自ら命を絶ってしまうことだってある。そんなの馬鹿馬鹿しい。

 スティーブンスは何度も死ぬ。8分過ぎると元の体に意識が戻り苦痛を味わうが、無情にも転送は繰り返される。そのなかで彼なりに知識や情報を蓄え、徐々に"8分間"の状況も変わっていく。それによって成果も生まれるが、前述したようにスティーブンスは"かもしれない"という不安を抱えながら、最高の結末に挑戦する。それは、彼のなかにある"想像"が希望をもたらしたからできることだ。もしかしたら、現代において"想像力"は、強力なオルタナティヴになりつつあるのかもしれない。そんなことを、『ミッション:8ミニッツ』は思わせてくれる。

(近藤真弥)

 

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SIGUR ROS.jpg  今回EMI系列から離脱してリリースされる運びとなった、アイスランドの秘宝シガー・ロス。以前『()』でグラミー賞にノミネートされた点でも世界的に認められたバンドであることは証明されているが、実はその2nd(インディーを含めれば3rd)アルバムは賛否両論だったように思う。筆者はどちらかといえばあまり賛成できなかった部類ではあったのだが、タイトルを聴く者それぞれに自由に付けてもらいたいという意向は斬新であったと同時にその後の彼らの趣向にも納得できるものとなっていった。

『Agaetis Byrjun』(= Good Start)に比べて『()』以降は特別な意味をなさないアルバム・タイトルとなっている。そして今回の『Inni』(インニイ)。"Inside"という意味が大きいが単に"The"という意味もある。後者で受け取ってしまえば今までとさほど変わらず、前者で受け取ればかなり変貌を遂げたものだということがうかがえるのだ。

 今回はバンド史上初のライヴ・アルバムということで、2CD+DVDの豪華版となっている。オープニングを飾るのはシガー・ロスの世界を全世界に初めて見せつけた『Agaetis Byrjun』から一曲。当然のことながら10分を超える大作である。そしてFat Catから限定リリースしたレア・シングル「Ny Batteri」までも収録。さすがシングルにしただけあって、改めていっそう強く印象に残る名曲だ。こんなふうに初期の曲を網羅した編成になっているのはかなり衝撃的だった。

 中盤になるにつれて、近年の曲も混じってくる。『Takk...』あたりからメンバーが結婚したり母国で幸せな生活を手に入れ始め、音にもその幸福感が滲み出るように明るい曲調、強いて言えばメジャー・コードかつミドル~ハイ・トーンを多用した楽曲が目立つようになる。そこには初期の頃に感じた"冷たさ"、"静寂の中から生まれる恐怖と興奮"はなくなっていた。それでも母国の大地を無邪気に駆け回るような"開放感"という新たな魅力が生まれていたのだった。

 後半は、再びダークな曲群が連なっている。3部構成とまでは言えないかもしれないが、徐々に真骨頂を見せてきたのだろう、これが本気の本領発揮した彼らの生き様とでも言うように、筆舌に尽くしがたい"世界"を表現している。その場にいなくても身震いがしてくる程の恍惚感と何かに打ちのめされているような悲壮感と、様々なものが入り交じって聴き手に襲いかかってくる。要するに、怖いのだ。シガー・ロスのライヴは文字通り観客を魅了する。それがこのたった2本のショウだけで存分に感じ取れてしまうのは、いくらキャリアがあるとはいえ出来過ぎではないだろうか。

 シガー・ロスの魅力というのは多々あれど、こうしてライヴを聴くと一番に、静けさと激しさが極端に表現されていることにあると感じる。静かなところは本当に無音に近い程静まり返り、ある種の緊張すらおぼえるのだ。それに対し激しい部分はこれでもかというくらい楽器をかき鳴らし...否、掻きむしり、完成された中で最大限にめちゃくちゃにしてくれる。知っての通りフロントマンのヨンシーはギターをピックや指で弾かず(一部かもしれないが)弦楽器用の弓を用いてプレイする。そうして奏でられる演奏に、ヴォーカルの声はどこまでも透き通り、ときにメインとして歌を歌い、ときにノイズに紛れた唯一の美しさとして際立って聴こえてくる。

 一つ付け加えると、案外誤解されがちな面ではあるが彼らは紛れもなくロック・バンドである。ビョークのように北欧独特の大自然のイメージこそ含まれているが、それでもモグワイやゴッドスピード・ユー! ブラック・エンペラーらと比較されておかしくない轟音ロックを奏でる人たちだ。モグワイがキュレートした今や伝説と化した2000年開催のAll Tomorrow's Partiesにも違和感なく出演していた人たちなのだ。そして特徴的なヨンシーのヴォーカルに評価が高いが、これがインストゥルメンタルでなく「歌」が入っているということが独自のポピュラリティを生み出していると考えられる。

 シガー・ロスが示したかったのは、あくまでいろんな楽器と声を全て含めての音の重ね方だったのではないか。最近でこそ歌詞に力を入れたり英語で歌ってみたりという試みが見られたものの、たとえヨンシーがシンガーとして評価されたとして、その他の楽器はそれをサポートするためにあるわけではないと思うのだ。今はソロ活動も精力的に行なっているが、この音源はそういった活動をする前(2008年)のもので、そこにはバンドとしての一体感が強く感じられる。以前レディオヘッドにサポート・アクトを任されたように、アイスランド語とはいえ「ポップ界」に組み込まれることを本人たちはどう感じていたのだろうか。決して"ポピュラー・ミュージック"ではないこの『Inni』という作品を聴く限り自分たちのやりたいことをしっかり提示しているように思う。だから多くの人々に知ってもらえる利点だけがプラスになり、それ以外の部分ではあくまで我が道を行き、どんな形であれちゃんと聴いて受け入れてもらえないならそれでいいと言えるような自信を感じさせてくれた。

 活動休止宣言から一転、活動再開を発表したシガー・ロス。これからも独自の世界観で新たな音楽を生み出していってほしいと切に願う。

(吉川裕里子)

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Madegg「Atul」.jpg  冒頭からこんなことを書くのもイヤらしいけど、『Players』のレビューで僕はこう書いている。

フライング・ロータスが主宰する《Brainfeeder》周辺の音楽にも通じるビート」

 このおかげで? というわけではないだろうが、なんとマッドエッグは、先日鰻谷燦粋でおこなわれたイベント《Brainfeeder 2》に前座として出演したのだ。「Crawl EP」のレビューでも書いたように、マッドエッグは才能あふれるアーティストだし、《Brainfeeder 2》出演も必然だったといえる。これをキッカケに、世界へ羽ばたいてほしいと思わずにいられない。

 さて、そんなマッドエッグの新作が「Atul」だ。このタイトルは、インドの美術作家アトゥール・ドディヤ(Atul Dodiya)からとったのだろうか? マッドエッグの音楽性は、ドディヤ特有の現実と幻想が混在したような絵画作品を彷彿とさせるし、そう考えても不自然じゃない気が...。まあ、それはともかく、本作はよりアグレッシブになり、フロア志向の曲も収録されている。特に「67 Floor」「Turn Sad」は、ドイツにおけるディープ・ハウス・リヴァイバルとも共振するトラックだ。といっても、そこはマッドエッグ。「67 Floor」は、おもちゃ箱から飛び出したようなノイズに、中盤あたりから交わるトライバルビートがウォブリーなスリル感を演出しているし、キラキラとしたシークエンスが特徴的な「Turn Sad」には、彼のいたずら心が滲み出ている。ビートレスな「Color Tapes」以降は、近年のビート・ミュージックを意識した「Grass」、サイケデリックな香りを漂わせる「Betweens」、海の底に沈んでいくような錯覚に陥る「We Finaly Promiced In The Aquarium」、古のIDMを現代仕様にアップデイトした「Everyone Go To This Mountain」まで、本作におけるマッドエッグは、多面的に感情を表現している。

「Atul」を通して聴くと、自分のなかの古い記憶が呼び起こされる。それは、母親の優しい声で絵本を読み聞かせてもらっていた、幼い頃の記憶と風景。他にも、砂場で友達と遊んでいる時間や、行ったことがない場所へ行く際の不安と好奇心といったものが不意に湧いてくる。そういった意味で「Atul」には、誰もが持っている幼い頃の物語を、成長記録という形で"現在(いま)"から見つめるような感覚さえある。これはある種のコンセプトだと言えなくもないが、そのコンセプトが聴き手の人生経験や個々の感性によって、様々な形に変化するのが面白い。そして、人生経験や個々の感性というフィルターを通して多様性を生み出そうとする点で、ジェームズ・ブレイクザ・フィールドといった才人と同じ方法論を実行しているとも言える。

 日本には、純粋に音楽と向き合い、その絶妙な距離感によって多くの支持を得てきたアーティストがたくさんいる。石野卓球、レイ・ハラカミ、七尾旅人などがそうだ。マッドエッグも、彼らと同じ領域に足を踏み入れつつある。

(近藤真弥)

 

※「Atul」は《Vol.4》のホームページからダウンロードできる。

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DRCMusic.jpg  近年のコノノNo.1の活躍やドキュメンタリー映画「ベンダ・ビリリ!」の公開によって、日本でも大きな注目を集めているコンゴの音楽。あいにく僕は今年のフジ・ロックには行けなかったけれども、コンゴトロニクス(コノノNo.1+カサイ・オールスターズ)With フアナ・モリーナ&スケルトンズの単独ライヴはしっかり楽しんだ。そう、「楽しんだ」という言葉がぴったりな最高のライヴだった。電気で最大限に増幅されたリケンベ(親指ピアノ)を中心に据えて打ち鳴らされる強靭でセクシャルなグルーヴ、大人数のメンバーが汗まみれになって放つピース・サイン、そして輝くような笑顔。

 世界中の音楽ファンを踊らせ、気鋭のミュージシャンたちをも魅了するコンゴの音楽。けれども、その音楽を生み出したコンゴは"楽園"などではない。コンゴ民主共和国は1998年から続く紛争で今もなお戦闘状態にある。10年間で540万人もの生命が奪われ、武装勢力による非人道的被害もあとを断たないという。DRC(Democratic Republic Of The Congo)ミュージックと名付けられたこのプロジェクトは、コンゴに暮らす人々が貧困から抜け出すことを支援する民間団体「オックスファム(Oxfam)」への援助金を集めるために、デーモン・アルバーンの呼びかけによって実現された。『Kinshasa One Two』の制作にあたっては、デーモンに声をかけられた11名のプロデューサー/ミュージシャンが今年の7月に首都キンシャサへ飛び、現地の50人以上のパフォーマーと共に5日間でレコーディングを完了。行動の素早さとリリースまでのスパンの短さが、"緊急を要するもの"という事実を何よりも雄弁に物語っている。

 そのようなコンゴにおける深刻な政治的(軍事的)背景、目を背けたくなるような現実とは裏腹に、力強い音楽に満ちあふれた素晴らしいアルバムが完成した。フェラ・クティと共にアフロ・ビートを文字通り牽引してきたトニー・アレンを"ルードなポップ・バンド"であるザ・グッド・ザ・バッド&ザ・クイーンに引き込んでしまうデーモンのセンスは、今回の"プロデューサーをプロデュース"する手腕でも冴え渡っている。ヴァンパイア・ウィークエンドからレディオヘッドまでを擁するXL Recordingsの総帥リチャード・ラッセル、ゴリラズの1stでデーモンのイメージする音像を見事に具現化してみせたダン・ジ・オートメイター、アルバムでは3曲ものプロデュースを担当するT-E-E-Dことトータリー・エノーマス・エクスティンクト・ディノサウルスなど錚々たるメンツが名を連ねる。時間的な制約と限られたレコーディング環境が逆に功を奏したのかもしれない。決して豊富とは言えないサンプリング音源をどう活かすか? という一点で参加者たちの自由なアイデアが発揮され、個性豊かなトラックが揃うことになった。

 アルバム・ジャケットとブックレットのデザインも印象的だ。材木や空き缶、鉄クズなどを組み合わせた手作りの打楽器が漆黒の闇に浮かぶ。すり減り、手垢で変色するほどに使い込まれたマラカスやリケンベ、奇妙な形のパーカッション。国内での戦闘が長引くほど、その楽器を持つ手にも力が入ったのだろう。そして、決して手放すこともなかった。アルバムに収録されているトラックからアート・ワークまで、コンゴの音楽と現地のミュージシャンたちに対するリスペクトが伝わってくる。デーモンが女性シンガーとのデュエットを聞かせるダビーなオープニング・トラック「Hallo」は初期のゴリラズのようだ。ダン・ジ・オートメイターがプロデュースを務める2曲目「K-Town」はアッパーなリフとスクラッチが最高にカッコいいヒップホップ。3曲目の「Love」のように、アフリカンなヴォーカル・トラックだけで構成された曲もある。パーカッシヴなグルーヴと独特のメロディがテクノ~ハウス、ダブステップへと連なるダンス・ミュージックのアプローチと絶妙なバランスで融合している。パワフルなヴォーカルをフィーチャーした荒削りなダンス・トラック「Three Piece Sweet Part 1 & 2」を手掛けたアクトレス(Actress)、息を呑むほど美しいアンビエント・トラック「Departure」を仕上げたクウェス(Kwess)など、新鋭のアーティストと出会う絶好の機会にもなるだろう。

 02年にリリースされたデーモン・アルバーン&マリ・ミュージシャンズ名義の『マリ・ミュージック』、ブラー『シンク・タンク』でのモロッコ音楽への接近、商業的にも大きな成果を上げたゴリラズでの様々なコラボレーション、そして『西遊記』をテーマにしたオペラの作曲などデーモン・アルバーンの未知なる音楽に対する好奇心は尽きることがないようだ。最先端の機材に囲まれた安全なスタジオを抜け出し、デジタル配信で済ませることもできる世界中の音楽と「現地」でふれあうこと。同情ではなく、行動で意思を明確にすること。それは"与える/与えられる"という恩着せがましいチャリティの定義を粉砕し、「西洋のミュージシャンがアフリカの音楽を取り入れました」的なお行儀の良さをも蹴散らす。鋼のようなグルーヴと最大限のボリュームは、人々が生きている証だ。楽器を手作りしてまでも鳴らさなければならない音楽がある。コンゴのミュージシャンたちが放つピース・サインを心して受け止めよう。

(犬飼一郎)

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SpaceDimensionController.jpg  いまやあなたは、流れてくる情報に対して返事をするしか能がない脊髄反射の塊になってしまった。ツイッターのタイムラインに反応し、自らの意見を主張したつもりになっている多くの者達。それらはすべて、誰かの意図に乗せられているだけの虚しい叫びに過ぎないとしたら・・・と、ずいぶん脅迫的な書き出しになってしまったけど、「The Pathway To Tiraquon6」の物語に入り込んでしまったら、それも無理はないということだ。

 本作は、来年リリース予定のデビュー・アルバムの前編にあたるそうだが、これは間違いだ。というのも、スペース・ディメンション・コントローラーことジャック・ハミルは、ネットレーベル《Acroplane》から『Unidentified Flying Oscillator』をリリースしている。初期エイフェックス・ツインやLFOの影響を窺わせるスペーシー・サウンドが特徴的なこのエレクトロ・アルバムは、《Acroplane》のサイトでフリー・ダウンロード可能なので、ぜひ聴いてみてほしい。

 さて、話を「The Pathway To Tiraquon6」に戻すとしよう。本作は、壮大な物語を描いたSF作品と言っていいだろう。ごちゃごちゃ説明するよりも、プレス・リリースに書かれている長文のほうがジャックの物語を伝えられそうだし、そのまま引用させてもらう。以下はプレス・リリースからの引用である。

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《これは、the Pathway to Tiraquon6(Tiraquan6への道・経路)の物語である。

西暦2257年、地球という惑星は、Pulsoviansという名で知られるエイリアンに侵略される。敵意剥き出しのエイリアンと遭遇するなんてまったく予想していなかった人類は、ここまでのスケールの攻撃に対する準備など全くできていなかった。

独自のテクノロジーを使い、エイリアン達は太陽エネルギーを吸い取り、この徐々に廃墟となっていく星で生きるための選択肢として、彼らは人類に、彼らの住む惑星Cosmo30で人間が奴隷のように働くという条件を出してきた。

人々の殆どがそのオファーを承諾したにも関わらず、そこには、地球から逃げ出し、宇宙の奥深くのどこかに新しい居場所を見つけようとした人々による小さな連合が存在した。彼らが脱出しようとしていたその時、PulsovianのリーダーであるXymah the Usurperが逃げ出すための船を不意打ちで襲ってきたが、多くの船がその攻撃から逃れることに成功し、宇宙の果てへと危険な旅に出発。その他の船は破壊され、地球の大統領と彼の官僚たちの船も破壊されてしまった。

何年もの間、生き残り自由の身となった人々は、政府も階級も、希望も存在しない宇宙の奥深くへ引きこもった。しかし、保安官であるMax Tiraquonが、人間が住むのに相応しい惑星を見つけるため、近隣の銀河系を独りで旅する任務を授かる。が、彼が探索を初めて1年後、彼のエレクトロポッドとの通信が途絶えてしまい、彼は宇宙のどこかに流されてしまったのだと誰もが思っていた。

それから数年後、正体不明の宇宙船がメインの大型船のレーダーで発見された。それはMaxだった。彼は、彼のエレクトロポッドの後ろに残された、蛍光を放つ小道を手がかりに船へと戻ってきたのである。帰還した彼は、空間格子Mikrosector-50に、地球と似た環境を持つ惑星が存在することを人々に伝えた。人間たちは直ちにその惑星へと向うコースを設定し、着陸すると同時に新しい住居を建てる計画を練り始める。Maxは、Tiraquon安全保障理事会を設立。家々の建設がTiraquonセキュリティ・バリア上で開始され、Mr. 8040と名づけられた兵士がそのバリアのパトロールに任命される。Mr. 8040は、スペース・ディメンション・コントローラー代理となり、その後、Mikrosector-50の建設中、何年にも渡り、うまく治安を維持し続けていた。ところがある日、バリアのQuandrasectorの中のライト・ビームを修理していたとき、Mr. 8040のエレクトロポッドの大部分がビームの中に叩きつけられてしまった。死を避けるため、Mr. 8040は、彼のエレクトロポッドのミクロン粒子加速器を全開にする。しかし、なんとそれが彼を2009年にタイムスリップさせてしまい... 》

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 といった具合だ。フィリップ・K・ディック顔負けなSF的設定は、物語や神話に対するアレルギーが色濃く残る現代において、時代錯誤に見える大仰なものかもしれない。しかし、それでも本作をスルーできなかったのは、クラフトワークを哲学として捉えた音を鳴らし、それを"テクノ"と呼んだホワン・アトキンスから続くテクノの歴史に連なる音楽だからだ。ホワン・アトキンスはもちろんのこと、前述したエイフェックス・ツインやLFO、デリック・メイ、ジェフ・ミルズ、808ステイトまで、数えだしたらキリがないほど多くの影がちらつく。だが、これら過去的要素はすべて現代仕様にアップデイトされ、モダンな音楽を生み出している。特に「Flight Of The Escape Vessels」「Max Tiraquon」は、ダブステップ以降の現代的なビート感覚と過去の歴史を接合した、究極のハイブリット・ミュージックとして高らかに鳴っている。

 そして、本作の物語についても言及しなければならないだろう。こうした壮大なコンセプトはジェフ・ミルズが得意とする手法で、哲学としてのテクノを標榜しているのも共通するが、ジャック・ハミルのそれは、現実を意識した非現実的世界だ。ジェフ・ミルズは圧倒的な状況と理論によって、聴き手を別の世界になかば隔離してから征服する。しかしジャックは、状況こそ作りあげるが、あくまで人類の視点から状況を描いている。"エイリアン"なんて言葉を対象物に選んでまで人類という存在を強調するのは、我々がもっとも多く接する生物であろう"人"を、聴き手の頭にすり込むためだと推察できる。このすり込みによって、聴き手は"日常"という現実を片隅に置かざるをえない。

 いままで述べてきたことを踏まえて考えれば、ジャック・ハミルは音楽に想像力(であり創造力)を取り戻そうしていることがわかる。すでに"価値"が定められたものを自動的に受け止めがちな現代において、あくまで自分の内面を出発点とした能動的表現方法は、ジャックなりの現代社会に対する抵抗ではないだろうか? ジャックもまた、想像力によって厳しいこの世界を乗り越えようとするひとりなのだろう。全11曲47分、EPと呼ぶには濃密な「The Pathway To Tiraquon6」を聴くと、そんな気がしてならない。

(近藤真弥)

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JOE HENRY.jpg  例えば、ニューオリンズの別名である(あまり良くない意味だが)"ビッグ・イージー"という言葉に沿えば、トクヴィルが想ったアメリカとは、何かしらの模範的な鎖と朴訥さ、残酷さに繋がれているともいえる可能性も含む。そこで、"ルーツ・ミュージック"を巡っていったときに仮想化されるのは、組織化された連帯としてのネーションなのか、それとも、慈恵の関係性の中で浮かび上がるフォークロア、トラディショナルとしての陽のあたる家なのか、考えるとき、複雑な気持ちが去来する。

 そこで、今、アメリカの"良心"と呼ぶことができるシンガーソングライターは、コナー・オバーストか、いや、ベイルートか、やはりノーベル文学賞に最も近いと言われる重鎮であるボブ・ディランか、多種多様な意見が出ると思うが、現時点で、ジョー・ヘンリーの存在を挙げる人は少なくないだろう。

 鑑みるに、オーネット・コールマンやミシェル・ンデゲオチェロ等が参加した暗鬱なフィルム・ノワールを彷彿させる詩情が詰め込まれた01年の『Scar』以降、00年代の躍進は目まぐるしかった。ジャズ的ではあるのだが、ブルージーな質感とダウン・トゥ・アースなボトムを重視した土臭い音風景の題材に選ばれた、黒人アーティストのリチャード・ブライアーというモティーフの断片―。その時点で、彼自身はデビューから15年を経ていたのだが、『Scar』は、確かなメルクマールになった。そして、R&Bのレジェンドといえるソロモン・パークの02年作『Don't Give Up On Me』のプロデュース、03年のレイモンド・チャンドラーの短篇集を想わせる高みまで到達した、03年の『Tiny Voices』においては、日本盤化されたのもあり、仄かなダークネス、エレガントな馨りには、世界のみならず、多くの日本のリスナーの心も掴むことになった。

 その後、ジャズ、R&Bに対しての意識をどんどん高め、ブルーズ、R&B、カントリー系のアーティストのプロデュース・ワークにも積極的に関わっていきながらも、"黒い音楽"に限りなく敬意を表し、自らの音楽性も"深化"させていった。例えば、アラン・トゥーサン、ランブリン・ジャック・エリオットでのワークスで魅せた手腕も記憶に新しいことだろう。自身の05年の『Civilians』では、ビル・フリゼール、ヴァン・ダイク・パークスの参加も功を奏し、ナイトクラブが似合うような、更に新しい世界観を手に入れた。09年のどっしりとしたブルーズ・アルバム『Blood From Stars』を踏まえ、約2年振りで届けられた彼の通算12作目となる『Reverie』の手応えは、これまでの彼の「重さ」を厭っていた人でも、気軽に暖簾を潜れるような健やかさもありながらも、長いキャリアの中で培われた土着性が滲み出ている奇妙な内容になっている。

『Reverie』では、これまでのようなジャジー、R&Bの要素は控え目であり、フォーキーであり、シンプルなサウンドに統一されながらも、歌詞は独自のリリシズムに溢れてはいるが、"抑制の美"と"弛緩の優雅さ"の狭間を往来している。全編を通じて、アコースティックな音の質感が通底しているのは、カリフォルニアの彼の家の地下室で、ベースのデイヴィッド・ピルチ、ピアノのキーファス・シアンシア、ドラムスのジェイ・ベルローズという基本、馴染みのメンバーで一気に3日間のセッションで録音したという事実に帰結してくるからかもしれない。"風通しの良さ"が、今までになくあるが、その風通しの良さは曲の中途で聞こえる鳥の鳴き声、外の音がフラットに「入っている」というラフさにも表れている。慮るに、彼は"凝る"アーティスト気質であるからして、今回はただ、そのままに"呼吸"をするように、当たり前に、"生活"するように音を密封して届けたかったのだろうと思う。しかし、その風通しの良さに彼の"声"が乗った途端、一気に叙情が倍加するのも面白い。

 いつの時代のサウンドなのか、とつい想ってしまうほど、現代的なサウンド・ワークではないが、逆に「時代を越える(タイムレス)」耐久性を得るのは、こういう作品ではないか、とも考えさせられる。マーク・リボーのギターやウクレレ、ダブリンのフィメール・シンガーソングライター、リサ・ハニガンのコーラスも効果的に入ってきながらも、際立つのは何よりもメロディーと彼の声、そして、歌詞世界の相変わらずの叙情性だったりもする。

 特筆すべきは、3曲目の「After The War」における流麗さ、9曲目の「Piano Furnace」でのスムースな雰囲気だろうか。これまで以上に、全曲をサラっと聴き通すことが出来るジョー・ヘンリーの作品という意味では示唆深いが、00年代を通して、ブルーズ、R&Bへの"重み"を追求してきた彼が10年代に入り、こういった一筆書きのように新作を上梓してきたというのは意味があると思う。過度に詰め込む情報量や歴史的背景よりも、自然の流れに沿うままに音楽を奏でる―それは、現代において、柔和に空気を揺らすのではないか、そんな気がする。

 揺れた空気越しに、音楽はまだ活き続ける。

(松浦達)

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RADICAL FACE.jpg  揶揄ではなくて、ベン・クーパーはこのファミリー・ツリー三部作を引っ提げ、もう映画監督にでも挑戦すればいいのではないかと思う。『Ghost』以来、エレクトリック・プレジデントのソングライターによる4年振りのソロ・プロジェクトは、ノースコート家という架空の家系を1800年代から1950年代まで追ったというモチーフで制作された、セピア色の長編映画をそのままアルバムに梱包したような三部作の第一作である。

 本盤は構想に4年、楽曲制作に1年余りが費やされているスケールの大きな作品となっているのだが、なんと楽曲制作の倍近くもソングライティングに時間を割いている。「ソングライティングに2年もかけるだなんて、小説家じゃあるまいし」と突っ込むのは実は自然なことで、ベン・クーパーには小説家志望だった時期もある。保存していた小説のデータが全て消滅したショックから、音楽活動を再開したという一説からも、彼の表現におけるスタイルがまず物語を描くことを前提とした気質であることが窺える。その熟考に熟考を重ねた物語のリリックはというと、見事としか言い様がないほどに聴き手の想像を膨らませる克明さを秘めている。徹底的にモチーフに忠実であり、ブックレットを読みながら楽曲を追っていくと、絵本に引きずり込まれていくような、不気味さを孕んでいる。セピア色にくすんだポートレートがブックレットの大半を占め、いずれも不穏な加工が施されている。最後の写真では、湖のほとりに建てられた小屋の前で親子が立ち並び、その頭上には家よりも巨大な蛾が止まっている。そして『君が死んだことが、ぼくには嬉しい』と殴り書きされていて、そのちぐはぐで不気味な違和感が、聴き手を物語の中へ落とし込む。

 前作の『Ghost』が短編小説なら、こちらは長編小説であり、それも一族の家系を辿り続けるのだから、スケールや風呂敷を如何様にでも広げられる大作にもなり得る。そのノースコート家がどのようにストーリー・テリングをされるのかというと、これが少しホラー的である。ノースコート家の幽霊、仰々しく換言すれば「死と再生と家族」がテーマとして取り上げられ、"ぼく"の視点から家族の凋落が不穏に記されている。何にしろ、母は"ぼく"を産んだ直後に亡くなり、やむなく姉が母の代わりに世話をするもののストレスで疲弊し始め、父は酒に溺れて自殺し、最後には死んだ兄が幽霊になって家を守る、という凄惨な物語である。これが悲劇として扱われているのではなく、「家族の間で巻き起こる不思議な出来事」として扱われている点が、シネマティックでありホラーチックである由来なのだと思う。血生臭い描写のすぐ傍らで、愛が語られるし、九曲目の幻想的なリリックなどはぞっとするほど美しく、"気味悪い一族の話"で完結していない。しかしながら、この背後からひたひたと這い寄って来るような不穏さ、一族の何世代もの話を取り上げる点、幽霊が家族を守るという、いわゆる"中学生が一度は妄想しそうなこと"――語弊を恐れずに言うならば、きちんとリリックを追って反芻した後、私はどことなく『ジョジョの奇妙な冒険』を連想した(心からの褒め言葉)。このアルバムを耳にしてブックレットを手にとれば、ほんの少しは共感が得られると思う。冗談じゃなくて。

 では、シンプルに制作された楽曲はソングライティングの副産物なのかというと、完璧主義者のベン・クーパーに限って当然そんなことはない。第一作は1800年代が舞台であるため、使用される楽器も当時から既に存在していたものに限定されており、その徹底の仕方には感服である。骨子となるのはアコースティック・ギターとピアノで、リズムにはドラム・キットではなく、主にフロア・タム、時折ハンド・クラップやシェーカーが用いられている。フロア・タムの録れ音などはかなりモダンに処理されていて、洗練されつつも古臭さはない。ドラマチックなメロディに幽玄なコーラスを重ねるスタイルはエレクトリック・プレジデント直系で、シンプルな構成の楽曲を彩る役割を担っている。第二部、第三部と時代が現代に近付くにつれて、使用される楽器も増え、楽曲の構成も複雑になっていくらしい。

 本盤は、誰の手も借りずに一人で制作した、という意味ではリビングルーム・ミュージックである。楽曲、リリック、アート・ワーク、PVまで、これらを統一された世界観に緻密に収斂させることは、バンドやユニットでは困難であろう。ミキシングやマスタリング、レコードの設立まで一人で精励したことは素晴らしいことであるが、かといって誰かの手助けがあれば世界観は薄まっていただろうし、そもそもベン・クーパー本人も、この長編小説のようなアルバムに他者の手を介入させることは望んでいなかったと思う。そう考えると、ラディカル・フェイスがソロ・プロジェクトというスタイルの理にとても適った存在であることが分かる。これでもう『エレクトリック・プレジデントの天才ソングライター』という看板は不要になった。

(楓屋)

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Nsyukugawaboys.jpg  山崎洋一郎が"最高のロックンロール・バンド"、と評したらしいが、そしてその通りだけど、何となくその言い方は一時期の狂騒を言い表したフレーズのようにも聞こえてしまうから、あんまり好かない。でも嬉しい。ここまで来た。「モテキ」効果かどうかは分からないが、アルバムも売れているらしいし、サブカルの枠を超えて話題になっている。サブカル村なんてクソくらえだから。サブカルはクソじゃないけれど、サブカル村の住人はクソだから。そして彼らが堂々と「ロック・イン・ジャパン・フェス」に出演したことは、今年のベスト・ニュースのひとつに違いない。観に行っていないから分からないけれど、そういうことにも変に意固地を張らず、ひるまず、飄々と出ていくのがじつに彼ららしいと思った。彼らには拒絶がない。後追いも何も関係ない。今回の新作『Planet Magic』は過去最高にポップで、個人的にも一番好きな作品である。こうやってメジャーになっていって、オリコン1位にくらいまで上り詰めてくれたら本気で嬉しい。でも消費されないで。誰かの音楽的アイデンティティーを向上させるためだけに使われないで。もっとみんなの人生の中心で鳴らされるポップ・ソングであって。日本のど真ん中のポップソングであって。

「プラネットマジック」も「Candy People」を凌ぐ名曲に違いないが、「ミッドナイトエンジェル」はいまだ成功を夢見るだけの日本中のバンドたちから嫉妬を買うであろう超名曲だ。彼らには才能がある。演奏力はない。でも頼むから「演奏が下手だけど、そこが良い」とか、そんな次元で収めるのは勘弁してくれ。

(長畑宏明)

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DeptfordGoth.jpg  デプトフォード・ゴスことダニエル・ウールハウス(Daniel Woolhouse)は、アクティブ・チャイルドのリリースなどで知られる《Merok》が送り出すニューカマーだ。サウスロンドン出身の彼は、ジェームズ・ブレイクを彷彿とさせるソウルフルな声の持ち主で、音楽的教養の高さも窺える。自らの歌声を躊躇なく加工しコーラス・パートに配置するなど、ジェームズ・ブレイクとの共通点を挙げていけばキリがないが、ダニエルはシリアスになりすぎず、ハッチバック的な人工美を強調したエレクトロニック・ミュージックを鳴らす。

 ちなみにアーティスト名にあるデプトフォードは、ロンドン中心部から少し離れた南東部に位置する小さな町の名前でもある。デプトフォード・マーケットには、古着や雑貨などを売る露店がずらりと並び、最近は現代アートに影響を受けた建築物が建ちはじめている。主にアフリカ系やアフロ・カリビアン系の移民が住んでおり、様々な感性が集まるハブのひとつとも言えるが、デプトフォード・ゴスの音楽も、いろんな音楽的要素で構成されている。

 世間ではポスト・ダブステップとして語られたりもするが、ダブステップをはじめとしたベース・ミュージックの要素は、ほんの僅かな割合でしかない。むしろ、80年代ニュー・ウェイヴを想起させる、ペット・ショップ・ボーイズ的なエレ・ポップが基調となっている。そこにアンビエント、R&B、ニュー・ディスコといったスパイスを加えることで、ダニエルは個性を発揮する。ある意味この雑食性が、アティチュードとしてのダブステップを表現していると言えなくもないが、「Youth II EP」を聴く限り、ベース・ミュージックに対するこだわりは感じられない。自由奔放で力みがないその音楽性は、特定のジャンルやカテゴライズを拒否するかのようだ。そんなデビューEPとなる本作は、ダニエルのインテリジェンスと将来性が詰まった、素晴らしい良盤だと言える。

(近藤真弥)

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Justice.jpg『†(クロス)』からもう4年近くになる。"衝撃的"という言葉が相応しいこのアルバムをリリースしたジャスティスは、文字通り"王者"となった。鼓膜を破壊するかのような爆音を撒き散らし、"ニュー・エレクトロ"と呼ばれたその強大なインパクトは、世界中を席巻するほどの大きな潮流となった(多くの人が"エレクトロ"と呼ぶのは承知しているが、僕にとって"エレクトロ"は、アフリカ・バンバータのような音を指す言葉だから、"ニュー・エレクトロ"と呼んでいる)。この強大なインパクトは、"東京エレクトロ"なるシーンが生まれたことからもわかるように、ここ日本にまで及んだ。80Kidzは縦横無尽に暴れまわり、さらには《XXX》のオーガナイズで話題を集めたDJキョウコ、デザイナーやモデルとしても活躍するマドモアゼル・ユリアなど、ファッション・アイコンとなるフィメールDJまで登場し、注目を集めた。そして、ニュー・エレクトロの波は、多感な10代の心も奪っていった。その代表的なパーティーである《Too Young DJ's》は、DJも10代の者がほとんどで、ニュー・エレクトロはもちろんのこと、ニュー・エキセントリックや当時のインディー・ロックに影響を受けた若者の支持も得た。このティーンエイジ・パーティーの流れは、2006年の夏、当時14歳のサム・キルコインの行動がキッカケだった。年齢を理由に観たいバンドを観ることができなかった彼は、未成年のみ入場可とするイベントを開催し、ティーンエイジャーの支持を得る。また、この勢いはドイツなどにも波及し、2007年には、リン・ラーラ・フーがハンブルクにあるクラブ《キール》で、《アイスクリーム(I-Scream)》というパーティーを始める。このパーティー自体は1年程で幕を閉じたが、インディー・ロック・ファンの間では知られるビート・ビート・ビートを無名時代からフィーチャーするなど、ドイツのインディー・シーンの発展に尽力した。

 これら一連の現象が面白かったのは、日本に居てもタイムラグを感じることなく、むしろ、世界と連動するリアルタイムなものとして発展を遂げていった点だろう。日本では風営法改正の影響もあったのだろうが、僕自身このスピードに宿る熱狂に取りつかれたひとりだし、エレクトロ・クラッシュのように、数年遅れで受け取るのではなく、自分たちで作り上げていくような感覚と参加意識が斬新に感じられた。そして、無名の若手バンドやアーティストを紹介するプラットフォームとしても機能していた。そのおかげで、知らなかった数多くのバンドを知ることができたし、音楽を聴く際の色眼鏡もなくなった。アメリカでは80年代から、当時のインディー・ミュージックに10代のファンが付きはじめたのをきっかけに、21歳以下限定のライブやイベントも散見されたけど、これと似たようなことが、ゼロ年代に起きたのだ。しかもそれは、遠く離れた海の向こうの話ではなく、ここ日本でも実感できる、目の前の出来事として。当時僕は、「ああ、セカンド・サマー・オブ・ラブ期のマンチェスターも、こんな感じだったのかな?」とか思いながら、ビートに身を任せ、誰ともわからぬ人達と笑って過ごしていた。そして、こうした数多くの場面にかならずと言っていいほど影をチラつかせていたのが、ジャスティスだったというわけだ。ジャスティス以降もニュー・エレクトロと呼ばれるアーティストは登場したが、その多くは、もはや忘れ去られた存在となっている。その点ジャスティスは、ニュースなどで名が出るたびに、多くの視線と注目が注がれた。それに値するだけの存在感を、ニュー・エレクトロのブームが去った現在も、ジャスティスは放ち続けているのだ。

 そのジャスティスが、満を持してリリースしたアルバム『Audio, Video, Disco』。「一時代を築いた王者が向かう次なる行き先は?」という期待と共に本作は聴かれるだろうけど、1曲目の「Horsepower」を聴いて、ぶったまげた。これ、プログレです。どこまでも大仰で、チープなデジタル臭を漂わせる不思議な音。アディダスのCMで使用された「Civilization」も同様だが、こちらは幾分『†(クロス)』の音楽性を引きずっている。本作はトリビュート曲も多く、「Ohio」はクロスビー、スティルス&ナッシュへ、「Brianvision」はブライアン・メイへのトリビュートだそうだ。正直、一聴しただけではわからないトリビュートではあるが、彼ら特有の解釈がユニークに鳴らされている。「On'n'on」は中期ビートルズのようだし、「Parade」ではクイーンの影響も窺わせるなど、2人にとっての音楽的文脈を披露しているようで面白い。

 本作は、80年代以前の音楽を独自の世界観で鳴らし、自由にやりたいことをやった、王者の風格と余裕を見せつけたアルバム...と、書けば聞こえはいいが、この余裕がどうしても虚栄に見えてしまう。細かいところまで仕掛けを施した前作に比べれば、意図的に軽さを演出し、リスナーの想像力に依拠する音作りは、完璧であることを放棄した白旗宣言に思える。人によっては、ザ・プロディジーが『The Fat Of The Land』のあとに「Baby's Got A Temper」をリリースしてしまったときのような、腑に落ちない気持ち悪さを抱いたとしても不思議じゃない。これらを踏まえれば、「クソだし二度と聴きたくない」と斬り捨てることも可能だが、それでも本作を繰り返し聴いてしまうのは、映画『トロン』を想起させるフューチャリスティックな音楽が先を予感させてくれるからだし、なにより、聴衆を圧倒し跪かせた前作から一転して、リスナーにサプライズを提供しようとするサービス精神と曲の構成は、前述した白旗宣言が、聴衆に手を差し伸べはじめたジャスティスの姿を映しだすように思えるからだ。本作を持ち上げることも、非情に突き落すこともできない僕にできることは、彼らが差し伸べてくれた手を取ることだけだ。

(近藤真弥)

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TheKooks.jpg  これはデビュー当時、「肝心なときにあれが勃たなくてよ」と歌っていた天然パーマのヴォーカリスト擁するイギリスのポップ・バンドが、見事に極上のAORを奏でるまでに至った証のアルバム。そのデビュー・アルバムはイギリス国内だけで200万枚近く売れた。今回の新作は全英初登場10位ですこし苦しんでいるけれど、バンド勢が軒並み商業的不調の中、よくトップ10入りしたと思う。ヴォーカルのルークは同じナルシストでもレイザーライトのジョニーほど神経質ではなく、もうちょっとテイク・イット・イージーであんまり先のことを考えていない風(それで実際は詩人)なのが良い。今回のアルバムは性急にギターをかきならす種類の楽曲は一歩後退していて、バンドの理想的な成熟を堪能することができる。そう、「クークスがいないと生きていけない」とか、「彼らも頑張ったんだね」とか、そういう感情移入の仕方はぜんぜんない。何だったらしたり顔で「クークスは良いバンドだね、ふむふむ」なんて言っている奴は音楽的スノビズムの象徴くらいに思っていて嫌っていた。でも音楽って、ポップ・ソングって、何が素晴らしいかというと、別になくても生きていけるし、でもそんなものに夢中になって、ときには涙まで流してしまうから。自分の生活に彩りが増したことに気付く瞬間に、音楽を聴く意味があると言っても個人的には過言ではない。もちろん切実な想いで聴く音楽も存在するけれど。

「Is It Me」の間奏パートのギターとそれを必死に追いかけるようにして刻まれるベースのフレーズ(この曲のチャート・アクションは散々だった。ほんとうにギター・バンドは厳しい...)。「Junk Of The Heart(Happy)」の気だるい風に歌われる「君を幸せにしたんだ」というコーラス。このアルバムにはそういう称賛されるべきパートが散りばめられているので、ちょっと落ち着いて孤独を思い知らされるような気分のときに、何となく耳を傾けたい。そしてもちろん名作である。

(長畑宏明)

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Zomby.jpg  本作を支配しているのは、大麻の煙でむせかえりそうなほどのスモーキーなサウンドだ。実際クラブでも、踊り狂うよりは大麻を吸って女の子と過ごすほうが好きらしい。まあ、こうしたキャラ設定だと言われればその通りかもしれないが、独特な雰囲気に満ちた『Dedication』を聴く限り、真性のワルなのは間違いなさそうだ。

 音のほうは、前作『Where Were U In '92?』のようなレイヴ・サウンドもあり、ゲーム好きのゾンビーらしいチップ・チューン「Black Orchid」なども存在するが、そんな比較的明るい曲でさえ(もちろん『Dedication』に収録された曲のなかではだが)とことん不気味に、まるで井戸の底から聞こえてくるかのような錯覚すら覚える。「Things Fall Apart」にいたっては、パンダ・ベアの呪術的なヴォーカルも相まって、終末感漂うレクイエムのように響く。

 アルバムを通して聴くと、なにか巨大な状況をつくりあげるかのように音が存在し、そのどれもが殺気を発していることがわかる。その状況はどこか孤独な空気を醸し出し、危険物と化した『Dedication』を封じ込めるための箱に思えてしまう。だが、この箱に封じ込められた『Dedication』は、我々を恍惚へといざなうトランシーなグルーヴを内包している。現実を幻想化し、それを想像力と狂気によって表現するような、シュールレアリスムと言ってもいいグルーヴだ。

 正直、本作を聴いて癒しや心地良さを得ることはできない。圧迫されるような息苦しさもあり、好んで近づこうとは思えない音楽を鳴らしているが、それでも、我々の心を奪ってしまう魔性的な魅力がどす黒く光っている。だからこそ、ゾンビーはどこまでも異端であり、ダブステップという器のなかで語るには無理が生じてくる。これは無視すべきでないアルバムではなく、無視できないアルバムなのだ。

(近藤真弥)

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WorldStandard.jpg  結成28年目にして10枚目となる本盤も、彼らが細野晴臣プロデュースでデビューした時から変わらない、無国籍なスロウ・ミュージックがプロフェッショナルな演奏家達によって奏でられている。全14曲の内、ほとんどの楽曲が中心人物の鈴木惣一朗によって手掛けられており、神田智子による唄が7曲の中に織り込まれている。近年、他のアーティストのサポート・メンバーやプロデュースなどにばかり活躍の目が向けられていた鈴木惣一朗であるが、今年は《Stella》という新たなレーベルを設立させ、今後、彼自身の活動が更に飛躍するであろうという期待を匂わせつつある。『おひるねおんがく』『おやすみおんがく』という二枚のコンピレーション・アルバムを《Stella》からリリースした後、本盤はレーベルでの3枚目の作品として着実に仕上げて来た。

 ギター、アコーディオン、バンジョー、スティール・ギター、ヴァイオリン、クラリネット、トイ・ピアノ等、ほぼアコースティックな楽器編成と、豪華なメンバーによる演奏が、リビング・ルームでこぢんまりと録音されており、その上質さは朴訥さで程好く包み込まれている。ほとんど職人芸であるが、本盤も、まるで自分一人のために唄ってくれているような居心地の良さ、肌触りの良さを味わえる。

 今年、もう何度も耳にした「東日本大震災を経て制作された」というフレーズは、当然本盤にも合致する。この一文があるだけで、何かそのアルバムに神秘的で良心的な価値と、時として陰鬱さや重厚さといった価値が付与されてしまっていた気がする。そして、あたかも深遠で特別な価値があるものと見なされ、「面と向かって聴かねばならない、大切なメッセージの込められた音楽である」という不透明で危うい責任を強要する文章を、何度か目の当たりにした。このアルバムのタイトルが『みんなおやすみ』なんてものだから、東日本大震災と関連付けられる文章がTwitterあたりで散見されることは容易に想像できる。

 本盤にはそういった余計な要素を持ち込まないでほしい。これは逃避のための「おやすみ」ではない。ワールドスタンダードの短い歌詞の中で伝えられていることは、窓の向こうで雪が降り、知らない街にも灯りが灯り始め、愛のあるこの世界は素晴らしく、眠り、目覚めればまた日の光―ということだけである。邪推も憶測も不要である。優しく爪弾かれる「きらきらぼし」にきな臭い世間体を持ち込むべきではないと思う。

 最後は「みんなおやすみ」と、余韻も残さず、静寂さを纏ったままにフェード・アウトしていく。はっと気付けばアルバムが終わっており、アルバムをもう一周する頃には、大人も子供もゆったりとした眠りへ誘ってくれる。『花音』にも匹敵する名盤。

(楓屋)

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YukoIkoma.jpg  なぜ芸術や科学がこんなに頼りになるのか。この世界においては、学者と技術者、それに芸術家さえ、科学と芸術家そのものさえ、きわめて強力に既成の主権に奉仕しているのだ。(中略)それは、芸術がそれ自身の偉大さ、それ自身の天才に到達すると、たちまち芸術は脱コード化や脱領土化の連鎖を想像する。
(『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』下巻 P. 284より。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳 河出文庫)

 冒頭文を深く読み込めば、芸術が「既成の主権」に奉仕しているとはいえないのは分かるが、脱コード化を辿る中で、現在は、過去にセルジュ・ゲンスブールが言ったような、「何が"イン"で"アウト"か? (Qui Est In, Qui Est Out?)」という時代では無くなってきているのは確かだ。

 「イン」に組み込まれる音楽の体系は、例えば、マイケル・ギボンズのモード論下では、カリカチュアライズと類型化の模型ともいえ、「アウト」は無責任な創り手側の簡略化、短絡とすると、聴取者側は「イン」と「アウト」ではなく、「ダウン・アンド・イン」―つまりは、アヴァン・ポップの地平に自然と降り立つことになるといえるかもしれない。ダウン・アンド・イン―アヴァンギャルドではあるけれども、周縁を歩く訳でもない、Larry Mccafferyの著書を紐解くまでもなく、アヴァン・ポップの為すべき価値が求められることになる訳だ。何故に、レディオヘッドのギターリストのジョニー・グリーンウッドがクシシュトフ・ペンデレツキに興味を向けて行ったのか、コリーン、ハウシュカ、マックス・リヒター辺りの音楽が世界の現代音楽の好事家のみならず、幅広いリスナー層に受容されたのか、それは、例えば、ブライアン・イーノやマシュー・ハーバート、或るいは、トクマルシューゴの実験工房を覗き込みたいというミュージシャンのみならず、聴き手サイドの願望の投射ではなかったのか、そういうことさえも夢想することができる。もはや、「主流」が無くなったのなら、傍流には、「カラクリの自然」が求められる。「カラクリの自然」を模写するには、「オートマタ」という場所に行き着く。オートマタとは、カラクリ人形のことである。

 今回、Mama!milkの生駒祐子女史は、オートマタ作家の原田和明氏と組み、繊細にして柔らかなチェンバーポップに挑んでいる。原田和明氏の音に纏わるDesk Bell、Des Monte、Fragile Organ、Hand Xylophoneなどの連作が軽やかなノスタルジーとトイ・ポップと交接する。その箱庭内にて、生駒女史の足踏みオルガンの持つ耽美性が絡み合う。同時に、「ゲスト・ミュージシャン」には、Decoy、Matryoshka、Spoon In Space、Teddy Bear、The Shoes Of Fred Astaireといったレトロで可愛い小物、楽器が彩りを添える。玩具箱を引っ繰り返した後の、新しいカオスの地図を室内楽的に纏め、様々にして繊細な音色が響く、そのインプロの流れを追いかけるだけでも、眼福ならぬ「聴福」がある。

 具体的に、本作はPartⅠ~Ⅴまでの五部構成になっている。3曲目の「Waltz For Lily Of The Valley」には、清みきったベルの音と足踏みオルガンの優美な融和が純喫茶での一杯のコーヒーが醒めるまでの、対話、時間を護る柔らかさがあり、7曲目の「Serenade For Wind Bell」には煌めく音空間があくまで上品に紡がれる。12曲目の「Rendez‐Vouz」も美麗ながら、ファストなスリップストリーム(傍流文学)への敬虔さがあり、全体を通して、23曲で45分にも満たないが、麗しいサウンドが運んでゆく場所には、パスカル・コムラードの『Traffic D'Abstraction』のようなサウンドが密かに微笑んでいるような、つまり、ベル・カント・オルケストラの近似を揺蕩う。

 そもそも、タイトル名からして『Suite For Fragile Chamber Orchestra』(フラジャイル室内楽団のための組曲)であるからして、推察しても然もありなんだろう。これはポストコンテンポラリー・フィクションとしてのオートマタ楽団員たちと、生駒女史の白昼夢なのだろうか。僕は決してそうではない、と思う。昼下がりのナルコレプシー的な音空間の縁を巡りながら、静かに「アートの力」を再定義しながらも、「中心」のギミックを避け、トマス・ピンチョンが仕掛けたような過大な「重力」がかかった「虹」を渡るような街路を往く。

 その「街路」には、全面的な節電下の日本で、ほんの僅かだけ光を喪った、光をもう一度、捉え直すだろう。重度の情報エントロピーに疲れた人たちに向けて、この作品は何らかの福音になると思っている。「壊れものとしての人間」は、「壊れものとしての音楽」を扱う際の配慮はこれだけ肌理細やかになるということを示した力作だと思う。

(松浦達)

 

【筆者注】2011年11月11日発売

生駒祐子オフィシャルHP

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James Blake「Enough Thunder EP」.jpg  静かな高揚感を携えた「Once We All Agree」で幕を開ける「Enough Thunder EP」。本作はソウル・ミュージックの要素が目立ち、『James Blake』にあったベース・ミュージックの要素は後退している。そして、「Order / Pan」で見せたマッドな面が窺える。このマッドな面に関しては「We Might Feel Unsound」に顕著で、ジュークを匂わせるビート、そこへ不気味な音響処理とジェームズの歌が交わっていくこの曲は、『James Blake』以降の実験が実を結んだ名曲と断言していい。だが、この成果で満足しないジェームズは、「Not Long Now」でさらなる実験精神を見せつける。リバーブをかけるタイミングや長さ、注意深く耳を傾けないと分からないディレイなど、隅々まで神経が行き届いた、狂気に近い完璧主義が支配する。しかし、ソウル・ミュージックの要素がもっとも色濃く出た、ボン・イヴェールとのコラボ曲「Fall Creek Boys Choir」では、心に訴えかける素直な感情が露わになる。優しく抱擁するようなピアノが美しい「Enough Thunder」や、ジョニ・ミッチェル「A Case Of You」のカヴァーも同様で、今まで以上にパーソナルな面が表現されているのも、「Enough Thunder EP」の特徴だ。

 本作を聴いても分かるように、ジェームズ・ブレイクの音楽には、ソウル・ミュージックもあればミニマル・テクノもある。ブルース、ゴスペル、アンビエント、ベース・ミュージックなど、数えだしたらキリがないほど、様々な音楽が鳴っている。だからこそ、ジェフ・バックリィの系譜で捉えることもできるし(僕も最初はそうだった)、ダブステップの文脈で聴く者もいる。しかし、個々の経験や価値観といったフィルターを通せば、また違うものに見えてくる。この見えてくるもの、つまりイメージを増やすことに、ジェームズは力を注いでいるのではないだろうか?

『Looping State Of Mind』におけるアクセル・ウィルナー(ザ・フィールド)もそうだが、ジェームズ・ブレイクは、イメージの連鎖によって聴き手の興味を引き寄せる。それはビートではなく、音の連続によって生み出すグルーヴ、"音によるリズム"と言ってもいい。最初は、音の中にジェームズ・ブレイクという"主体"を感じ取ることができるが、音を聴いてイメージを浮かべる、そしたら次の音がやってきて、また新しいイメージを浮かべるといった具合に、前述したイメージの連鎖によって、どんどん"主体(ジェームズ・ブレイク)"から視線がずれていく。そして、浮かべたイメージが積み重なったとき、新たな主体が目の前に現れる。それは"聴き手という主体"だ。ジェームズ・ブレイクの音楽は、"聴き手という主体"と"聴き手"が向き合っているかのような心理状態を作り出す。このまったく新しい音楽的体験に、我々は衝撃を受けてしまったのだ。聴き手の想像力、人生経験、正直な心、そして、これらを聴き手から引き出すジェームズのアイディア。すべてが必要不可欠で、どれが欠けても成立しない。そういった意味で、ジェームズ・ブレイクは"不完全な音楽"を鳴らしてきたと言える。

 いま思えば、『James Blake』のジャケはかなり示唆的だ。あのぶれた顔は、「あなたがいなければ完成しない」というメッセージだったのかもしれない。「あそこに写っているのは、聴き手であるあなただ」と。

(近藤真弥)

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Jean Pierre Magnet Y Serenata De Los Andes.jpg  柳田国男のフォークロア(民俗学的観点)とは、文学や哲学のそれとは無縁の、ルポルタージュの路を進むところに意味があった訳であり、そこでフォーカスを当てるのはフラットに日々をおくる一生活者の体験から演繹された着想だった。そして、彼は「ハレとケ」という言葉を見出したが、「ハレ」とは簡単に言えば、祭祀、行事、非日常的な躍動に係ること、「ケ」はそのまま普段の生活を指す。「ハレ」の場でこそ、普段の生活者たちの日常にふと挟み込まれる儀式、祭祀によって、人は社会、共同体内で規律化している欲望を解放することが出来る。

  このたび、06年のファースト・アルバムにボーナス・トラックとして「Jinetes Del Ande(アンデスのカウボーイ)」の1曲を加え、再リリースされることになったジョアン・ピエール・マグネト・イ・セレナータ・デ・ロス・アンデスのセルフタイトル作『Jean Pierre Magnet Y Serenata De Los Andes』。この作品が何よりも興味深かったのは、トラディショナルなアンデスの各地での祭りやパーティー、宴会で演奏されてきた曲を基軸において、現代的に構成され直している点だろうか。アンデスの音楽文化は、やはり戦争の歴史と切っても離すことが出来ないが、スペインからの侵略を受ける前のアンデスの本来的な文化と西洋文化が入り込んでからの折衷により拡がりを増した、その折衷の最良点を探しあてたかのようなこの作品に溢れている華やかさは、いつかの日本で、ファンファーレ・チォカリーアやタラフ・ドゥ・ハイドゥークスといったジプシー・ブラスに魅了されていた人たちにも届くものがあるとも感じる。メンバーとしては、ペルーのジャズ・シーンの中でも、大御所となったジャン・ピエール・マグネト。ギタリストのラモン・スタグナーロ、パーカッションのアレックス・アクーニャ。いずれも腕の立つアーティストばかりであり、彼らのキャリア上に行き交う名前も凄い。マグネトならば、エバ・アイジョン、スタグナ-ロはサンタナ、ルイス・ミゲル、アクーニャはエルヴィス・プレスリー、ダイアナ・ロス、ポール・マッカートニーなど数知れないビッグ・ネームとの重要な共演を果たしている。巷間的には、ペルーのアンデス音楽といえば、どうしても、サイモン・アンド・ガーファンクルの『コンドルはとんでゆく』に代表されるようなイメージ、要は、ケーナ(笛)、チャランゴ(弦楽器)、ギターの哀感を誘う印象を持っている方も多いと思うが、この楽団では、ケーナも使っていない。もっと言えば、伝統楽器のチャランゴ、ボンボ(大太鼓)なども出てこない(出てきても、そこまで大きく扱われない)。その代わりに、サックス、アルパ(ハープ)、バイオリン、ギターというコンテンポラリーな楽器がメインに置かれる。

  一曲目の「Princesita Huanca(ワンカの王女)」から、パーカッションの響きにサックスが重なり、朗らかながら洗練されたハレとしての音が撥ねる。無論、アンデス音楽の大衆音楽の中心を占めるワイノという一拍子の舞曲の影も確かに見える。ワイノが汲みあげてきた生活者たちの「ハレ」のための音楽、舞踏のための音楽。そこには、普通の生活をおくる老若男女が関わらず、ときに日常の柵から放たれて、自由に、明日の生活へと繋げてゆくための 姿勢、つまり、世界中のどこでも変わらない絵が浮かぶ。四曲目の10分30秒を越える「Llamas En Libertad(自由なリャマ)」も素晴らしい。ギターが軽快に爪弾かれながら、バイオリンが優雅に交わり、独特の展開を見せる。五曲目の「Susurros Del Titicaca(ティティカカ湖の囁き)」もエクアドルで用いられるパンフルート、ロンダドール(パンパイプ)の響きから、サンポーニャ(アンデス地方に伝わる笛)による合奏曲シクリアーダへと流れ込んでゆく。サックスは勿論、チャランゴ、アルパも加わり、冒頭の印象が全く変わってしまう。

  ペルーの伝統音楽への敬意を最大限に示しながら、「変奏」を行なおうとしている実験精神がどの曲にも伺えることが出来る。といっても、ただ鳴っている音そのもの、楽器同士の連なりに耳を澄ませているだけでも、非常にアヴァンギャルドなアレンジメントがときに感じられる部分があり、それも面白い。また、ペルーのアンデス音楽に決して詳しくない人でも、スッと入り込める「人懐こさ」も特徴といえ、国境や民族性を越えて、どんな人間でも、内部に本来宿っている、規制化される前の原意識に近付く。

  ライヴ映像を見る分には20人にも及ぶ編成で祝祭的に且つアッパーに演奏しているのも含め、この音は「そのままの音像」として受けとめる以上に、身体で噛み締めるものともいえる。09年のライヴ盤『En Vivo』でもそれは感じることが出来るが、作品内でのふと見える室内楽的様相と派手なパフォーマンスの距離感、そこに滲み出るアンデスの伝統、それらが組み合わされながらも、ジャケットのアートワークが示すような寓話性の高い場所へと聴き手を運んでゆく。ただし、それは、ファンタジーとしての異境の音楽ではなく、現実と地続きの中で「ハレ」のために用意された音楽でもある。

(松浦達)

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V.A「Ghettoteknitianz E.P.」.jpg  もはや"ダブステップ"という言葉は、レコード・ショップがジャンル分けする際の便宜的な用途でしか使われなくなりつつある。ダークな2ステップがダブステップの元祖とするならば、ある意味"終わった"と言えるかも知れないが、ダブステップは自らの名を捨て、現在も"ベース・ミュージック"として進化を続けている。そんなベース・ミュージックのなかでも、ジュークは比較的純度が高いというか、ゲットー・マナーが残っている。ディスクロージャーやナイトウェイヴなど、イギリスらしい洗練を施したジュークを鳴らす者もいるが、《プラネット・ミュー》などの努力によって、ゲットー臭漂うジュークもしっかり世に出回っている印象だ。

 コンピレーション・シングル「Ghettoteknitianz E.P.」は、DJラシャド、トラックスマン、DJエアル、DJマニー、ガントマン、DJスピンという人選からも分かるように、シカゴ・ゲットー・スタイルに忠実なトラックが収録されている。リリースはもちろん《プラネット・ミュー》から。ほんと、最近の《プラネット・ミュー》は次々と面白い作品をリリースしている。ジュークは突然変異の音楽であると同時に、シカゴのアンダーグラウンド・ミュージックの流れを引き継いだ正統派の血も流れている。だから、DJラシャド&DJマニー「R House」のように、古のハウス・ミュージックと接続することで、過去に対する敬意を表明しても全然不思議じゃない。ちなみにこの曲は、シカゴの《キャッチ・ア・ビート》からリリースされた、リズム・コントロール「My House」の有名なスピーチをサンプリングしている。原曲は聴いたことないけど、このスピーチが使用されている曲は聴いたことあるという人も多いはず。

 そして本作であらためて感じたのは、ジュークの高い雑食性だ。DJダイアモンド『Flight Muzik』で証明したように、ジュークも他のベース・ミュージックと同様様々な音楽を取り込む懐の深さがある。マシーンドラムなど、主にシカゴの人間ではない門外漢によって新たな解釈や洗練が成されてきたが、チープで下品な(もちろん褒め言葉だ)ダンス・トラックでありながら、アシッドやソカ、ファンクやR&Bまで匂わせる「Ghettoteknitianz E.P.」は、ジュークの今後の発展を約束してくれると共に、新たな潮流を生み出す可能性も感じさせる。

 近年のベース・ミュージックは、ポップな感性に迎合することなく発展を遂げてきた。もちろんジェームズ・ブレイクのように、アウトプットする段階でポップ化を果たすアーティストはいるが、海を渡る段階で改ざんされるようなことは少なくなったと思う。それは、ネットによって世界との距離が縮まったことが主因なのは言うまでもないが、様々な手段で現場から発信される音楽をそのまま聴ける現状を踏まえれば、"細分化"の名の元に90年代を通して行われた、くだらない水増しや骨抜きによって虐げられた音楽の復讐が始まっているように思える。そして、このことを繰り返し主張する急先鋒はベース・ミュージックである、というのは考え過ぎだろうか?

(近藤真弥)

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Mama!milk『Nude』.jpg  鑑みるに、故・ピエール・シェフェールが考えあげた思考の"外部"に音楽があり、システム系を解体しようとする試みの歴史とは如何せん、傍流だったのかもしれない。RECから再生へ至る過程内に潜む音楽そのものの鳴りだけではない可能性を模索していた中で、彼は「12音の現代音楽に辟易していた。」と晩年のインタビューで語っていたように、前衛・革新性とは今は単純な、語られるべき言葉に過ぎないのか、近年、クラシカルな記号化をなぞる音楽の一つの流れが「決められた、偶発」に巻き戻されてしまうのは何故なのか、考えることがある。

  そこで、この10年代で再び、ポップに音楽として「語る」ためにはRECから再生の中にこそ含まれる体温や気配が大事になってくるような気もしてくる。だからこそ、自覚的になっているアーティストたちは、勇猛果敢にヴァン・ダイク・パークス『ソング・サイクル』のような循環構造の中で、出来る限り外とのジョイント、拓けようという実験を試み、ライヴ・パフォーマンスの場所もときにカテドラルやテンプルを選ぶというのも複合的な意味での正しさを含んでくる。つまり、新しさを求めるために、共通言語内で語られていた現代音楽を何らかの既存のジャーナリズムや歴史文脈を通じて、「翻訳」される時代は終わったとしたのならば、無限に検索すれば溢れ出る情報の波から音楽を逆説的に自己内感性でシステマティックに区切ってしまうことにもなる。しかし、そのジレンマが良い、と言えるだけの余裕があるほど、「"私"の音」に対して聴き手は自覚的になっていられるのか、疑問にも思えてもしまう。匿名署名であるほど、その音は自明になってくる余地があるからだ。

  キャリアも長くなり、個人活動も盛んな京都を拠点とするMama!milkの7枚目となる新しいアルバム『Nude』は、その意味ではRECから再生の間に含まれる、アルバムタイトル通りの"裸"の火照りを感じさせる内容になった。元・デタミネーションズのトロンボーン奏者の市原大資氏、リトル・クリーチャーズのドラマー栗原務氏を加えたクァルテット・スタイルでの東京のLIFTというギャラリーにおけるライヴ録音盤。選曲としても、旧作から、新曲、ふと挟まれるバッハの曲を含め、彼らの現在進行形の姿と総括的な意志を見せたものになっている。穏やかながらも、凛とした佇まいを保つ彼らの音楽は時折、ミシェル・ルグランやアストル・ピアソラ、エンニオ・モリコーネのサウンドトラックの一部に見受けられるようなジェントルな馨りを纏いながらも、昨今、隆盛するポスト・クラシカルと呼ばれる音楽との共振を感じさせる。

  但し、この作品では、どちらかというと、ポスト・クラシカルといったカテゴリー内でのアーティストの音がどうにも匿名的に、尚且つ、署名が見えない音になってしまう傾向が多いのと比して、Mama!milkの試行の歴史が重ねられた結実としての確かな「"私"の音」が聴こえる。全体を通じて、艶めかしく各楽器が絡み合ってゆくアンサンブルには例えば、優雅な野蛮と呼べるものを感じることもできるし、表題曲「Nude」を軸にした変奏曲群、「Nude Var.1」、「Nude Var.2」、「Nude Var.3」では特に性急でジャジーなグルーヴがあり、「an ode in march」にはホープフルな音の連なりが耀き、「the moon on the mist」での寄せては返すような音の漣も美しい。加え、ライヴ録音という性格からか、確かな息遣いとともに、現場でのインスピレーションに依拠した機転も伺え、彼らがインタビューで触れていた「生々しさ」、「刹那の瞬発力」という言葉も納得できる、ふと既存のレールを外れるときに帯びる危うさにこそ、魅力がある作品ともいえる。彼らの音楽はときに架空映画のサウンドトラック、環境音楽的でディーセントなものとしての捉えられている部分もあるが、清水恒輔氏のコントラバスのディープな響き、生駒祐子女史のアコーディオンの伸びやかな奏でには、最初から翻訳され得ない現代音楽の体系を抜け出るものがある。そこを抜け出た「会場」にはライヴ・ハウスだけではなく、過去に彼らが実演の場として巡ってきた客船、旧き劇場、寺院、美術館、喫茶店など、普通に生活を紡ぐあらゆる人たちの息吹が集う場所が浮かんで見える。ノマドにフレキシブルに自分たちの音楽スタイルを堅守してきた彼らがこういった形で続き、しっかり3.11以降の中での音楽の響きを再確認するように、このような音をパッケージングしたという姿勢には喝采をおくりたい。

(松浦達)

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The Field.jpg  前作『Yesterday And Today』は、賛否が分かれる作品だった。優しさが込められた硬質なリズム、魅惑的なヴォイス・サンプル、アンビエントやシューゲイザーが散りばめられた美しくも儚いテクノ、これらの要素が生み出す唯一無二なトランス感を携えたファースト・アルバム『From Here We Go Sublime』に比べると、多くの人にとって重要作と呼べるものではなかった。その原因として挙げられるのは、中途半端なクラウト・ロックを取り入れたことによる、トランス感や恍惚的なグルーヴの後退だろう。新たな創作に向かうチャレンジ精神が先走り、聴き手に対する配慮も欠けていた。駄作とは言わないが、自らの音楽に没頭するあまり、内省的でハッキリとしない宙ぶらりんな作品になってしまったのは否めない。しかし、本当の才人は過去も改変できるようだ。

 ザ・フィールドことアクセル・ウィルナーによるサード・アルバム『Looping State Of Mind』は、前作で果たせなかったことを見事に達成している。前作に引き続きクラウト・ロックを取り入れているが、きめ細やかなニュアンスとヒプノティックな要素を混ぜることで、独特な雰囲気を醸し出している。この雰囲気はチルウェイヴに通じるものだが、一番印象に残るのはやはり、以前同様ループだ。本作でループが担っている役割は、ウィルナーが音楽を通してリスナーに近づくための手助けだ。彼の頭の中にある考えと聴き手を取り持つ、謂わば仲介者として機能している。このループは面白いことに、リカルド・ヴィロラボス「Fizheuer Zieheuer」ほどではないにせよ、それぞれのループは起伏が乏しいノイズに近いものとなっている。しかし、複数のループが合わさり"曲"になった途端、散文的なそれらは、感情豊かな一体感を生み出している。『Looping State Of Mind』でウィルナーは、音と音の繋がりによってグルーヴを生み出し、それを感覚的にリスナーへ届けることに成功している。この成功は同時に、前作の意図を紐解く鍵として機能し、『Yesterday And Today』を"クールな失敗作"へと変貌させている。

 そしてなにより、本作でウィルナーが開花させた知性を称賛すべきだろう。『Yesterday And Today』でも、音楽的教養という"筋力"は窺えたが、その"筋力"にウィルナーの人格は宿っていなかったし、曲に対する理解も聴き手に依存しすぎていて、頭でっかちなものだった。だが本作でのウィルナーはインスピレーションに忠実で、説明しすぎていない。自らの創作に妥協せず、より多くの人に届けるためのアイディアがいくつも存在する。

 知識を駆使した『Yesterday And Today』も悪くないが、孤立したその知識は、共有されにくいものだった。しかし、『Looping State Of Mind』に孤立は存在しない。孤立した知識を分かりやすく伝えるという真っ当な知性が、本作を名盤の域に押し上げている。

(近藤真弥)


※国内盤は10月19日リリース予定。

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CYHSY.jpg  クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーが帰ってきた。まずは、お約束どおりに手を叩いて「ヤ~!」と言った人は手を挙げて! もちろん、僕もそのひとり。前作『Some Loud Thunder』から約4年。その間にメイン・ソングライターであるアレック・オンスワース(Vo/G)のソロ名義『Mo Beauty』や別プロジェクトであるフラッシー・パイソンのデビュー作もあったから、"シーンから姿を消した"という感じでもなかったけれど、ちょっと心配だった。ロビー・ガーティン(G/Key)とタイラー・サージェント(B)のアンインハビタブル・マンションズのアルバム・リリースもあったし。もうバンドとしてのモチベーションはなくなってしまったのかな? そんなふうに感じていたのは、僕だけではないはず。だから、こうやって無事に新作がリリースされたことが素直に嬉しい。

 彼らの登場でいっそう大きな注目を集めることになったブルックリン・シーンも、今ではあの頃と様子が違っている。ヴァンパイア・ウィークエンドは2nd『Contra』で、トーキング・ヘッズもなし得なかった全米ヒット・チャートのNo.1に輝いた。MGMTはポスト・パンク/ニュー・ウェーヴへの憧憬と造詣の深さを感じさせる2nd『Congratulations』をリリースして賛否両論を浴びた。アニマル・コレクティヴからはパンダ・ベアというアニマルがすくすく育っているし、TV・オン・ザ・レディオは(ベーシストのジェラード・スミスを癌で失うというとても悲しい出来事はあったけれど、)バンドとしても、デイヴ・シーテックのプロデュース・ワークも評価が高まるばかりだ。ブルックリンを拠点としていたバンドたちは、時間枠の制限を持つひとつの場面(シーン)から、ロック/ポップ・ミュージックを鮮やかに彩る大きな流れへと成長している。それは必然だ。

 クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーというバンド名が縮まったりしなくて、本当に良かった! ブランクがあったり、メンバーが変わったり、訴えられたりするとバンド名が変わることがたまにある。長いバンド名の場合は短縮されることが多い。ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンが単なるブルース・エクスプロージョンに変更して、結局もとに戻ったり。カルトの場合は、サザン・デス・カルト→デス・カルト→カルトだったはず。サザンにならなくて良かったな、とか。ブラザーがビバ・ブラザーになったのは勢いが増したから良いけれど、バンド名の変更は迷いを感じさせることがほとんど。クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーという長ったらしい名前のまま、お帰りなさい! 『Hysterical』のクオリティと変わらぬ彼らの本質に敬意を表して、(以下CYHSY)とか略すのもやめよう。迷いのないサウンドが高らかに鳴っている。

 『Hysterical』のプロデュースはモデスト・マウスやザ・ウォークメン、エクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイ(!)を手掛けてきたジョン・コングルトン(John Congleton)。彼自身も《Kill Rock Stars》からアルバムをリリースしているペイパー・チェイスというバンドのメンバーだ。今後、さらに要チェックの才能だと思う。アルバムはクリアなトーンのギターとストリングス調のシンセがキラキラと輝きながら混ざり合う「Same Mistake」で幕を開ける。ドラムとベースはタイトさを増し、アレックのヴォーカルはいつになく力強い。《開かれた道で 僕たちは同じ失敗をする》というコーラスも開き直りではなく、覚悟と確信を感じさせる。

 《狂ったように 幸運を求める声 弱さを克服して 僕たちはとにかく成長しなくちゃ》(「Hystrical」)

 2曲目のタイトル・ソング「Hysterical」ではシニカルさは微塵もなく、そう宣言される。そして1曲目の「Same Mistake」と呼応するように《僕は同じ失敗を繰り返してみたい》とさえ歌われている。シンセを前面に配置しながらも、メロディー・ラインがよりくっきりと描かれたサウンド・デザイン。歪んだギターがうなり、フロア・タムが野太いビートを叩き出す。ダイレクトな言葉とサウンドが「狂騒的」に鳴り響く。

 ニュー・ウェーヴっぽい「Maniac」、壮大なアウトロが最高にカッコいい「Into Your Alien Arms」、ドラムレスで子供の頃の記憶を歌うアコースティック・ソング「In A Motel」など、前半だけも聞き所が満載だ。ちょっと一息、アルバム・ジャケットを見てみると・。レディオヘッドの『OK Computer』を思わせる白を基調にしたイメージと滲んだ色彩のコラージュ。白が「根源」を連想させるものであるとすれば、色のあるもの/形のあるものは、"そこへ向かうのか?"それとも"そこから生まれたのか?"という想像がふくらむ。『Hysterical』は後者かもしれない。そう思えるフレッシュな感覚が心地良い。

 後半もまったくテンションが下がることはない。ポップなギター・リフとシンセが宙を舞う「Yesterday, Never」、ミドル・テンポで雄大なメロディの「Siesta (For Snake)」、多重コーラスとドラム・ロールで盛り上がる「The Witness' Dull Surprise」など、ライヴ映えしそうな曲が並ぶ。かつてのロー・ファイっぽさやサイケデリック・サウンドからの意識的な脱却ではないだろう。クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーが持っていた本来の「ポップさ」が今、理想的な形でアルバムに凝縮されている。

 《手を叩こう! でも、なんだか悲しい気分 手を叩こう! だからって、どうにもなるもんじゃないけど 手を叩こう! だけど、僕にはお金がない》(「Clap Your Hands」)

 デビュー・アルバムの1曲目は、自分たちのバンド名を歌い上げながらもユーモラスでシニカルだった。アレックの声質とヴォーカル・スタイルから、同じくニュー・ヨーク出身のトーキング・ヘッズ(デヴィッド・バーン)と比べられたりもした。いま、時は流れた。いくつもの音楽シーンが移り変わり、R.E.M.も約30年に渡るバンド活動を終えた。僕たちの日常はどうだろう。世界を見渡しても、日本を見つめてもシニカルではいられない。2011年、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーは、このアルバムでその名にふさわしい傑作を作り上げた。来年1月には来日公演が決まっている。僕たちは彼らの演奏に負けないくらい手を叩かなくちゃ。そして、大きな声で「ヤー!」と叫ぼう。2011年のことは忘れないけれど、2012年が良い1年になるように。皮肉でも冗談でもなく、「狂ったように」叫ぼう。

(犬飼一郎)

 

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KUEDO『Severant』.jpg  ブリアルの登場によって影に隠れてしまったのは否めないけど、Vex'd 『De Generate』の不安定なウォブリー・サウンドは、間違いなくインパクトがあった。その攻撃的なプロダクションは、ダブステップだけではなく、様々なベース・ミュージックに影響を与えている。

 そのVex'dの片割れ、ジェイミーVex'dによるKuedoのファースト・アルバム『Severant』が、《プラネット・ミュー》からリリースされる。これがほんと面白い良盤なのだ。アルバム全編を通して、TR-808というローランドのドラムマシンを使い倒しているが、ジェイミーVex'dの持つプログラミングの才と幅広い音楽性によって、実に多彩なビートが鳴っている。アフリカ・バンバータのエレクトロを進化させたかと思えば、ジュークを取り入れた曲もあり、そこへデヴィッド・ボウイ『Low』を想起させるクールなシンセが交わることによって、独特な世界観を創り上げている。このフェティシズムと言ってもいい領域に対抗できるのは、ハードフロアのTB-303に対する忠誠心くらいではないだろうか。

 年を重ねるごとに、ダブステップは高い順応性を発揮し、インディー精神を取り込んだステイ・ポジティブなども台頭してきている。この自由な音楽性が、ダブステップをはじめとするベース・ミュージックの魅力だけど、ジェイミーVex'dはあえて制限を設けることで、本作を完成させたように思う。それは統一感をもたらす代わりに、"単調"という産物も生み出しかねないが、前述したジェイミーVex'dの幅広い音楽性と、それを独自の解釈で表現することができるアイディアと技術によって、何回聴いても飽きないスルメ・アルバムに仕上げている。力みがない風通しの良さと同時に、最先端のビート・ミュージックまで詰まった『Severant』は、リスナーに斬新な感覚をもたらすはずだ。必聴。

(近藤真弥)

 

※本作は10月17日リリース予定。

 

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Jonas Bjerre.jpg チェコの映画祭にもノミネートされたデンマーク発話題のフィルム、スカイスクレイパー(現地ではSkyskraberと書くらしい)。このサントラを手がけたのは、2007年から拠点を英国ロンドンからデンマークのコペンハーゲンに移したミュー(Mew)のフロントマン、ヨーナス・ビエールだ。初のスコアとなる今回の作品は、インストゥルメンタルと、普段シンガーとして活躍している彼の魅力的な歌声とが存分に聴ける作品となっており、日本語に翻訳されているものはないようなのでフィルムの中身はわからないが、聞くところによるとコメディ・タッチの作品になっているとのことで、バンドでもメジャー・コードの曲をたくさん書いてきただけありサウンド的にはハッピーになれる音楽を鳴らしている。また、デンマーク人ということでアルファベットにも独特の筆跡を持つヨーナスは、それを活かしてアートワークにも直筆のかわいらしい文字を自ら書いている。

 ミューとの違いはドラムやギターに頼らずに作られていること。ミューは3ピースになってからより一層個々の魅力や個性が際立ってきたように思えるが、今回はコンポーザーとしての彼、シンガーとしての彼、プロデューサーとしての彼が詰まったスコアになっていると言える。もちろん曲らしい曲だけでないのがスコアという形でのリリースの特徴ではあるけれど、ヴォーカルが入った曲の中にはミューを超えると言っても過言ではない名曲も含まれており、一つのソロ・アルバムとしても聞く価値は充分にあるはずだ。

 今年前半に見たヨーナスの印象からすると、意外にも自然な笑顔が印象的だった。それは4ピース時代のミューでは考えられないことだ。それだけ時代が変わり、彼自身も年齢を重ね、今は若い頃に比べて幸せな生活を送っているのではないか、それがおのずと音に現れてきているのではないか、そんな風に感じられる。そして何よりヴォーカルに自信が感じられるのだ。これはまだイギリスに住んでいたときに作った『And The Glass Handed Kites』には無かった要素だし、そのアルバムでベスト・デニッシュ・メイル・シンガー賞を受賞するなどの功績を残してからは徐々にシンガーとしての彼が開花していったように感じる。それから母国での生活が始まり、デンマーク国内で積極的に音楽活動を行なってきて、その結果がデンマーク映画のサントラを手がけるまでに至ったのだろう。今やコペンハーゲンを代表するビッグ・ネーム・バンドへと成長したのだ。

 アメリカにミューを観に行ったときには客席から「ジョナス、ジョナス!」とファンの声が聞こえてきたりしてなかなか理解されるのが難しかったかもしれない。しかしサイド・プロジェクトのApparatjikも評判が良く、徐々にヨーナス個人での活動が目立つようになってきているようだ。これもある意味運命なのだろう。その運命を上手く自分のものにしてしまうところは彼の不思議な能力というかアーティスト気質の成せる業なのだろう。こうして今本当に波に乗っている彼、皆が待ちわびている本家ミューの新作については「2012年までには作りたい」と米インタヴューで語っていた。これまで自身の暗い一面を出してきたミューの作品だけに、果たしてそこから完全に解放されたのか、或いはまだハッピーな曲を作る(歌う)ことに葛藤があるのか、それはまだわからないが、少なくとも少し寂しげながら心温まるチューンをこのスコアで鳴らしてくれていることは間違いなく、それがバンドにどう影響するのか或いは全く影響はないのか、そこら辺の動向も非常に楽しみにさせてくれる。どう転んでも美しい彼の楽曲は果たしてこれから何処へ向かっていくのだろうか?

(吉川裕里子)


 

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菊地成孔DCPRG.jpg  まず、彼の7月27日の日記「impulse! との契約に際して」から引用させて頂く。

「(筆者注釈:6月6日の)リキッドのライブ盤が世界に出る事に成る。なのでオレはまず、久しぶりでリキッドのマルチを一通り全部聞き(今までのライブ配信は、ミックスにすら立ち会わず、無編集だった)、それから膨大な時間をかけて、トラック別に全部聴きなおした。その結果、リキッドのライブが、ライブ会場での盛り上がりとは裏腹に、結構ダメな演奏である事が解り、悲しむというより、青くなった。これはマズい。これはインターナショナルデビュー盤というより、マイルスのダメなときのブートというに相応しい。(中略)編集は困難を極め、何とか使える所だけを繋き...」
 
  以前、クッキーシーンにて、「デート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン、三年振りの活動再開に寄せて」 という記事を書かせてもらったので興味がある方は、それを読んで欲しいと思うが、新生DCPRG(※以下、デート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンはDCPRGと記す。)は、少しずつギアを上げてゆくようにライヴ活動やライヴ音源の配信をしながら、遂には(今でこそだが)ジャズの名門中の名門であるレーベルの《インパルス》と契約を結び、初マテリアルとしてこの2枚組のライヴ盤をリリースすることになった。

  菊地成孔という00年代を饒舌に且つ周到に本質と意味を避けながら、ドーナツの真ん中だけを食べるように、ドライヴしたイコンを語る為には長い文脈を要する(また、本人が一番、多く語っているのもある)。アメリカの小説家のトム・ウルフの言葉を借りるならば、「自己という概念-自分自身に規律を課しつつも、喜びを先送りし、性欲を抑え、攻撃や犯罪行為を思い留まるという自己-学習、練習、慎み、大きな障害に対峙しても諦めない拘り」に対して、ブートストラップでフックアップして、賢さと根性を通じた「成功」という古びた概念は次第に薄れつつある、という意味では、彼は成功者であり、敗者として在る。執筆家としての過剰なまでのテクスト量、ジャズメンとしてのスキゾな捩れ、そして、アカデミック分野への参入、映画、プロレス、ファッション、グルメなどの領域についても踏み込み、もはや、見護る周囲が彼を通じて視えたその先の景色とは、「自己という古びた概念」及び「ベタな成功の道筋への概念」を焼却したものだったとしたら、00年代という時代のサブ(カウンター)・カルチャー(死語に近いが)とはマクロな意味で、あったのか、なかったのか、という話に帰結するが、神話解体の意味で言えば、まだ幸せな時代だったのだとは思う。何故ならば、9.11以降の流れを汲みながら、一気にSNSや高度ネットワーク化が進み、仮想内としても繋がることは出来るようになり、日本では「失われた10年」が、更に10年積み上げられたのにも関わらず、まだ時間差で牧歌的に小文字の詐術性にもメタに乗ることが出来ていたという意味でも。「本質」を抉ることよりも、視角の新しさ、それがあれば、日常を愉しくやり過ごせるのではないか、そういう意味では、菊地氏のコンセプト立てと導線引きは巧妙であったし、そこへの過剰なまでのテクストと文脈の敷き方、招待状、レスポンスはもしかしたら、「もっと世界は広いのではないか?」という錯覚的な陶酔を各々の心理内に埋め込んだ。そして、10年代、言わずもがな、「見えない戦時下」に入り、DCPRGは再起動をし始めることになり、菊地氏は宇多田ヒカルのプロデュース、ホット・ハウス、K-POPのマッシュアップなどハイブロウとポップ・カルチャーへの域内の滞在時間が多くなり、ポピュラリティの母数が更に膨らんだのと同時に、厳しい周囲の審美眼の中で、00年代には少ない数は居ただろう「敢えて―」ではなく、「ベタ」にアディクトしてみてもいいかもしれない、という新規参入者も増えているとも感じる。彼には、「物語」は無いが、アラン・ギバードの言葉でいえば、「心理エンジニア」としての役割は巧みだ。そのエンジニアリングで、微調整された制御された行動や欲望が解放へ繋がる気分になる、という、その「気分」が大事なのだろうか。蒸発、気化するものだとしても。ポスト・フォーディズムの効率化が極まった中での、彼の非効率的なエネルギー機関としての意味は大きいとは思う。ただ、10年代は、00年代と違い、明らかにパラダイムは変わっていくことだろうし、既に変わっている兆候があるのも事実だ。

"The New Wave Of Jazz Is On Impulse!"というのが元来のスローガンの《インパルス》の60年代を想い返してみると、いずれはCTIのオーナーとして成功を為すクリード・テーラーが立ち上げたという奇妙な脈絡を汲まずとも、フリーキーでアシッドだった。テーラーはすぐに抜け、後を継いだボブ・シールとジョン・コルトレーンの蜜月の季節。その熱気を受けながら、民族音楽の要素が混じったり、スウィング・ジャズ、型式よりも実験性にシフトを置いた動きのカオスは、その後は、数多のレーベルそのものの困難の歴史(※現在は、ユニヴァーサル傘下の《ヴァ―ヴ》の一部)がありながらも、現代にはまた、過去のカタログの再販のみならず、ヨーロピアン・クラブ・ジャズの旗手のニコラ・コンテも属することになるなど、違ったうねりも生まれてきている。

  そこで、《インパルス》とDCPRGのタッグで、グローバル・リリースされるこの『Alter War In Tokyo』だが、冒頭の日記にて菊地氏自身が言及している通り、かなり後でのエディット、編集作業に気を揉んだであろう内容になっており、ライヴの演奏そのもののパッショネイトな部分よりも、その編集面での巧みさとコンパクトさがDCPRGの特異性に対しての再像化を結び合わせている。それぞれの違うリズム・パターンとBPM、拍数の同時進行といったエレクトリック・マイルス時期の音をビッグ・バンド形式として、現代に蘇生させるという試みよりは、テオ・マセロ的なハサミの入れ方に意識を向けるべきだろう。この日のライヴでは、アート・リンゼイがゲストとして参加していたが、そのリンゼイのギターが特に突出はしない形で、DCPRG全体が放つライヴの場所でこそ放つカオティックな音の熱を瞬間パッケージングとしたというよりは、「加工・精製」に苦労した印象がやはり強い。

  初期を通じて、DCPRGの名刺代わりの曲であった「Catch22」のあのポリリズミックに雪崩れるようにバラバラに各楽器が鳴りながらも、昂揚してゆくグルーヴもこのライヴ盤越しには伝わり辛い(それを感じたい人は、メンバー構成は違うものの、03年のライヴ盤の『Musical From Chaos』のディスク1を聴くと良いかもしれない。)。第二期DCPRGのユーフォリックな「Structure I La Structure De La Magie Moderne / 構造 I(現代呪術の構造)」も箱庭感がある。2枚目のラストの「Mirror Balls」の大団円に収斂する感じは美しいと思う。

 菊地成孔DCPRG(契約上だろうが、今はこういう名称になっている。)としての大きなスタートのフィジカル音源としては、正直、厳しいものはある。ただ、この後に控えるオリジナル・スタジオ録音盤には期待はしたい。昨年の京都のボロ・フェスタで「体感」した、彼らの音は十二分に強度を持っていただけに、ポテンシャルが確かな音源としてパッケージングされるのを望んでいるのもあり、イコンとしての菊地成孔はもう「過ぎた」かもしれないとしても、DCPRGという組織体の音は今、必要だと思う。

(松浦達)

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MADEGG「Crawl EP」.jpg  以前クッキーシーンでもレビューした、マッドエッグの最新EP。やっぱり彼は、本当に才能があると思います。「Crawl EP」も、エレクトロニック・ミュージックの可能性を広げるような、非常に面白い作品となっている。

 R&B風のプロダクションが印象的な「Crawl」。それぞれ孤立した音がひとつの輪になっていく「Fallen Color」。自分の懐かしい思い出が蘇るような温もりを感じさせる「Filmatra」。実験精神溢れるアンビエントを基本としながら、それぞれ違う視点から音作りをしていることがわかる。

 特に「Crawl」は、今後のマッドエッグの方向性のヒントになる曲だと思う。スモーキーな雰囲気漂う、セクシーなブラック・ミュージックに仕上がっているこの曲を聴いたとき、「ヴォーカルを招いて歌わせても素晴らしい曲になりそうだ」と思った。プロデューサーとしての客観性も窺えるから、全曲ヴォーカルをフィーチャーしたアルバムを作ってほしいのだけど...いかがでしょうか?

 (近藤真弥) 

 

※本作はマッドエッグのバンドキャンプからダウンロードできる。

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