reviews: August 2011アーカイブ

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Tropics『Parodia Flare』.jpg"チルウェイヴ"という言葉が生まれ、多くのリスナーはそこに"現実逃避"を求めた。ウォッシュド・アウトやネオン・インディアンなどが注目を集めるようになり、同時に様々な議論のネタになった。"現実逃避"のみを対象とすれば、『Bon Iver』で「ボン・イヴェールこそが居場所」としたジャスティン・ヴァーノン。"歌声"という聖域を犯しながら、そこに新たなソウルを宿して見せたジェームズ・ブレイクなども"現実逃避"的な音楽を鳴らしている者達だろう。他にもブリアルやアニマル・コレクティブなど、ここ数年で枚挙にいとまがないくらい"現実逃避"的な音楽は生まれ続けてきた。

 僕自身こうした流れをポジティブに捉えている。というのも、従来の逃避、つまり現実に背を向け見て見ぬフリをしてきた逃避とは少し違うものを感じるからだ。様々なものが複雑になりフラット化していくなか、多くのものが見えづらくなってしまった現代において何かしらの仮想敵を前提としたカウンター・カルチャーは形成されにくくなった。それは一見すると敵がいない平穏な世界に見えなくもないが、ご存じの通り世界は閉塞感で窒息死寸前だ。悪くなる一方なのに、その原因が見えてこない。そんな状況で"現実逃避"という手段は前向きでポジティヴな意味合いを纏っていくのは自然であり、希望を残しながら戦うためには必然の流れだった。謂わば"現実逃避"とは、己の中に渦巻く感情や思考などをアーティスト自身にとっても分かりやすく外在化するために都合の良いキーワードであり、そこに内包される音楽は何でもよかったのだ。つまり、現実に対してネガティブ・トランジション(攻→守への切り替え)をするための殻として、"現実逃避"が担ぎ出されたと考えられる。

 そして、22歳のイギリス人マルチ奏者Chris Wardによるトロピクスのアルバム『Parodia Flare』は、次の段階であるポジティブ・トランジション(守→攻への切り替え)への移行を素晴らしい音楽と共に宣言してくれる。レコードショップでは"チルウェイヴ"の棚に並べられるかもしれないが、秘境的な雰囲気と極上のサイケデリアを生み出すと同時に、透明度が高い音像と開放的なユーフォリアが鳴らされている。甘く心地良いメロディが特徴的な「Going Back」「After Visiting」。アズ・ワン「Soul Soul Soul」を想起させる「On The Move」など、叙情的かつトワイライトでムーディーなグルーヴがアルバム全体を覆っている。しかし、カーテンの向こう側で申し訳なさそうに音を鳴らしているのではなく、むしろ聴く者を優しく励ますような親近感が、力強く前向きなエネルギーとなって前面に出ている。往年の《Planet Mu》リスナーも唸らせるアンビエントな電子音に、淡いセピア写真のようなギター・サウンド。管楽器などの生音を上手く調和させているプロダクションも特筆すべき点だろう。USインディー的なチルウェイヴとは違うどこかヨーロッパ的な空気もあるけど、トロピクスは《Planet Mu》が新たなインディー層を取り込む際に間違いなく重要な働きをするはずだ。

 冒頭で説明した意味における"現実逃避"は終わってしまったかもしれない(例えば、"ウォッシュド・アウト『Within And Without』は現実逃避(チルウェイヴ)を終焉させる"みたいな意見も多かった)。しかし、それではあまりにも救いがないように思える。激しさを伴ったものではないものの、ゆっくりと着実に1歩1歩前進していく非常に堅実な「抵抗」とダイナミズムが、『Parodia Flare』には刻まれている。そしてそれは、自分たちのエンパイアを築き上げながらも、現実と融和し和解しようとする新たな「戦う逃避行」の始まりに見えなくもない。『Parodia Flare』とは、そんな希望へと向かうアルバムだ。

 

(近藤真弥)

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Hard-Fi 『Killer Sounds』.jpg  ハード・ファイの日本における評価は低すぎる。何なら世界における評価も低すぎる。彼らはときにアークティックよりも称賛されるべき存在だと個人的には思う。スウィングトップにジーンズ姿で「おれは週末のために生きている」なんてジャストなフレーズを繰り出すリチャードの姿は、カリスマ以外の何物でもない。歌はびっくりこくくらい下手だけど。労働者階級のキッズの代弁者であり、たくましき野心の持ち主である彼らの新作は、スチュアート・プライス(マドンナ、キラーズ)やアラン・モウルダー(マイ・ブラッディ・バレンタイン、ヤー・ヤー・ヤーズ)、グレッグ・カースティン(リリー・アレン)らをプロデューサーに招き入れた意欲作。なかでもスチュアートの起用は意外だった。やはり前二作よりも四つ打ちのリズムとシンセサイザーは目立つが、プロデューサーの色にハード・ファイの個性が圧勝しているので、いままでのファンが困惑の色を浮かべるようなことはあまりなさそう。

 初っ端から「お前はいったい何の役に立っているんだ?」と問いかける「Good For Nothing」がとんでもない。これで今年ナンバー1アンセムのポジションはおそらく最後まで揺らがないだろう。新世代のレベルミュージックと言っても良い。しばらく鳴りを潜めていたと思ったら見事に現代のクラッシュになって帰ってきた。彼らの曲を聴いていると何か行動を起こしてやろうという気になる。そういえばこの前のイギリスで起こった暴動って、何かBGM的なものはあったのかな。別にあんな略奪だらけのクソみたいな暴動に彼らの曲を使ってほしいなんて思わないけどさ。いや、でもあれもティーンの叫びだぜ? モラルがないとか、政治的意図がないとかいうけどさ、ないよねそんなもん。持つような環境じゃないんだから。それで未来がないんだから。ずっと精神的に虐げられて、何の形でも良いから自由を掴みたかったんじゃないかな。そんなキッズの希望になるような音楽を作れるのはコールドプレイじゃなくて、アークティック・モンキーズとかビーディー・アイとかハード・ファイなんだから、もっと彼らをまともな方向に連れて行ってやって欲しい。

 相変わらずアルバムの曲にはコール&レスポンスの要素が満載。ライヴハウスが新作のナンバーで熱狂の渦に包まれるところを一刻も早く目撃したい。一際シンセ色が強い「Love Song」とか盛り上がりそうじゃない。イギリスのキッズも決して希望を失わずに「Good For Nothing」を全力でシンガロングして、自分たちはぜったい「Good For Nothing」な人間になんてなってやるものか、と思ってほしい。ぬるま湯みたいなこの国で育った私がこんなこと書いても1ミリの説得力もないかもしれないが、なぜかわたしもハード・ファイのようなバンドが持つ精神性と共鳴する部分が多いから、最終的にはこういう音楽が勝利を収めるんだ、と思って今日も生きていこうと思う。

(長畑宏明)

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ICEAGE『New Brigade』.jpg  とんでもない新人がデンマークから出てきたので、ここに紹介しておこう。その名はアイスエイジ。屈指のノイズ・レーベルEschoと、デニッシュ・バンドOh No Onoのメンバー2人が運営するTambourhinocerosとの共同リリースとなるデビュー・アルバム『New Brigade』は、国内リリースからわずか数ヶ月でUS、UKへと飛び火した。USではブルックリンの名門《What's Your Rapture?》がディストリビュート、UKではNMEが10点中9点を付けている。

 久し振りに聴いたヴォーカルが隠れるほどの楽器の爆音に圧倒されながら、90年代のUSインディー・ハードコアを思い起こさせる超絶不協和音の轟音に包まれていく。実験音楽的要素ももちろん充分に兼ね備えており、ただのパンクと片付けてしまうのは勿体ない。とは言いながらも最高にパンク精神が詰まった作品であることは間違いのない事実だが。そして同時に、歌詞や歌にはほとんど意味をなさないのだろう、ここにメロディーはほぼ存在しない。仮にあったとしても、それを上手く歌うわけなどない人たちだ。

 以前ロックを完全否定したRadioheadがそのとき『Kid A』で「Ice Age Coming, Throw Me In The Fire」と歌ったのは嫌な偶然だ。氷河期ならぬロック・バンド、アイスエイジがこうして出てきてしまったのだから。そんな彼らは4人全員がまだ10代と非常に若いけれど、曲として、またアルバムとしての完成度の高さからするとそれを感じさせない実力を既に持っているようだ。これはコペンハーゲン、Junior SeniorやMew以来或いはそれをも超える逸材かもしれない。

(吉川裕里子)

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BEIRUT『The Rip Tide』.jpg  クッキーシーンのムックでも執筆されている黒田隆憲さんの『プライベート・スタジオ作曲術』を読んでいる。『プライベート・スタジオ作曲術』は、黒田さんが国内外で活躍するミュージシャンの自宅兼スタジオを訪問して、彼らが音楽と出会ったきっかけから作曲方法、スタジオ機材へのこだわりまでを紹介するという内容。音楽が好きな人なら「この曲は、一体どうやって生まれたのかな?」と一度ならず考えたことがあるはず。

"音楽が生まれる場所を訪ねて"という副題どおりに、ミュージシャンでもある黒田さんがそんな素朴で深い思いをひとりひとりに聞いている。そして、16名のミュージシャンが真摯に答えている。スタジオならではの独特な時間の流れを捉えた写真、"部屋本"としても通用するほどオシャレな装丁。じっくり読むのも良い、パラパラめくるだけでも楽しい、とても素晴らしい一冊だ。僕は『プライベート・スタジオ作曲術』を読みながら、ベイルートの新作『The Rip Tide』を聞いている。

 2007年にリリースされた前作『The Flying Club Cup』がフランスのフォーク・ミュージック(民衆の音楽)からインスパイアされたことは、容易に想像できた。ジャケット・デザイン、ブックレットに収められたセピア色のスナップ、そしてアルバム・タイトルといくつかのショート・ストーリー。フレンチ・ホルンを擁したブラス・バンドの演奏にザック・コンドンの歌声が重なり合い、いにしえのパリの町並みや人々の喧噪を描き出す。デビュー・アルバムもバルカン半島の音楽に影響を受けたものであったように、ベイルート(ザック・コンドン)が鳴らす音楽は、いつでも"異国情緒"にあふれている。それは移動を伴うロード・ムーヴィーというよりも、その土地のゆるやかな時間が流れる短編映画のようだ。

"潮の流れがぶつかり合い、激しい波が起こる"という意味を持つ『The Rip Tide』と名付けられたこの最新作は、今までのように特定可能な"どこか"に影響を受けた音楽ではない。前作で特長的だったオーウェン・パレットによる流麗なストリングス・アレンジは鳴りを潜め、シンプルなバンド編成で奏でられるメロディはいつになく明瞭だ。アーケイド・ファイアやブライト・アイズを彷彿とさせる一面を見せながらも、やはりザック・コンドンはギターを手に取らない。ウクレレを抱え、ピアノに向かい、豊かなメロディを生み出してゆく。特定できる"どこか"から、彼自身が今いるべき"ここ"へ。たっぷり吸収してきた異国の音楽が、ベイルートだけのフォーク/アコースティック・ミュージックとして高らかに鳴り響く。

 ザック・コンドンの生まれ故郷である「Santa Fe」と名付けられた曲はあるけれど、曲名と演奏者のクレジット、そして「East Harlem」の歌詞しか表記されていないブックレットも実に素っ気ない。布張りで製作されたジャケットは、日記帳かフォト・アルバムみたいだ。そこには"目に見えない風景=音楽"だけが収められている。イメージの広がりは、音楽にだけ託されている。

 僕は『プライベート・スタジオ作曲術』という素敵な本のページをめくりながら、ベイルートの不思議なフォーク・ミュージックに耳を傾けている。「この音楽はいつ、どうやって生まれたのかな?」って、いろんな想像をふくらませながら。

 

(犬飼一郎)

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The Rapture『In The Grace Of Your Love』.jpg  ポップ・アルバムとしては良いアルバムだと思う。高揚感に溢れた「Sail Away」や、ピアノ・リフが印象的な超絶キラー・トラック「How Deep Is Your Love?」など、リスナーを楽しませ踊らせる技は匠レベルと言える領域に達している。アルバム全体を通して、緩やかながらもしっかりとしたディスコ・ビートとグルーヴを維持できているのも素晴らしい。しかし、それだけでは物足りないことを隠しようのない事実として告白せざるをえない。

 瞬間的な爆発力の連続で聴く者を文字通り吹っ飛ばした『Echoes』。反復の美学を独自のポップ・センスと掛け合わせ「ハマる」ダンス・ミュージックを披露してみせた『Pieces Of The People We Love』。この2枚の名盤には、あくまでポップに鳴らしより多くのリスナーへ届けようとする姿勢と共に、音楽シーンに対するポスト・パンク的なささくれ立った批評精神が混在し貫かれていた。この姿勢と批評精神こそが、ゼロ年代を通じて音楽から歴史性が消失しフラット化が進行していくなかでザ・ラプチャーをオルタナティヴな存在たらしめていた。

『In The Grace Of Your Love』においてポップ・センスはより広がりを見せ、安定感や風格といったものも醸し出している。ダンス・ミュージックに対する愛情も相変わらずだし、クンビアを取り入れるなど時代に対する嗅覚も衰えていない。しかし、過去2作にあったクリエイティヴィティー、つまり、何か新しい音楽を生み出そうとする開拓意識とは程遠いところに、『In The Grace Of Your Love』は存在する。6年近く待たされた結果がこれならば、正直僕はがっかりだ。本作が「ザ・ラプチャーに対してリスナーが求めている音」だと言うならばそれまでかもしれない。でもそれが、ザ・ラプチャーでなければいけない明確な理由はどこにもないように思える。彼ら自身本当にこれで満足してしまったのだろうか?

(近藤真弥)

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Fountains Of Wayne.jpg  ああ、これはすごく良い。前作はパワーポップの「パワー」の部分が強くて、それも従来とは違う曲の魅力を引き立たせていたからすごく好きだったんですが、今作はセカンドみたいな雰囲気ですごくいまの気分にフィットしました。そういう意味ではパワーポップの「ポップ」の部分が強いアルバムかもしれません。でもつくづく良い曲を書くバンドだな、と感じ入ってしまいました。けっして地味にコツコツと、というタイプのバンドではないと思います。サードでは「Mexican Wine」や「Stacy's Mom」などのアンセムもバリバリ書いていたし、ただの良質なパワーポップバンドとは一線を画したポジションにいるバンドですよね。そして今作はもう一度自分たちの足元をきっちり見た、という印象が強いです。

 最初は勢いよく「The Summer Place」でスタート。思わず笑みがこぼれてしまいました。そのあとの「Richie And Ruben」がすっごく好きです。これがセカンドとか、あるいはサードの「Hey Julie」みたいな雰囲気で、一番好きなFOWがまたここに戻ってきたんだ、という感じがしました。4曲目の「Someone's Gonna Break Your Heart」や11曲目の「Radio Bar」も新しいフェイバリットになりそうです。彼らは私にとってアメリカに望むすべてのことを叶えてくれる存在です。夏に心地よい風が吹いて、笑顔がキュートな娘(ときにそのお母さん)と恋をして、世界で一番美しい夕暮れがあって、というようなイメージです。もちろんそうじゃない部分も評価するべきなのでしょうが、彼らはやはりアメリカの宝だと思います。アイドルとか他のポップバンドのために惜しげもなく曲を書いてあげるアダムも大好きです。このくらいのペースで良いからまだまだアルバムを作ってください。2011年に最高のプレゼントをありがとう。

(長畑宏明)

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Acid Relief.jpg  このアシッド・コンピは同時に、東アフリカにおける飢餓の危機に対する救援活動資金を集めるためのチャリティー・コンピでもある。参加アーティストもLFOにBen Simsなど、実に豪華な面々が揃っている。

  9月1日にリリースされたこのコンピは、冒頭で述べたようにアシッド・サウンドを基調としながらも、ミニマル・テクノやエレクトロな曲もあったりと、バラエティ豊かな興味深い内容となっている。約1年前Paul Mac自身がSoundcloudに上げていた「Acid Jam」、プロモ盤として出回っていたBen Sims「Barrow Boy Acid」など、正直純粋な新曲とは呼べないものも収録されてはいるが、確かな実力を持ったアーティストが参加しているだけに、アシッド好きにとっては豪華オールスターアルバムとしても楽しめるはずだ。

 アルバムを最初から最後まで聴いていると頭がおかしくなって今にも発狂しそうな気がしないでもないが、それこそアシッド・サウンドの真骨頂と言えるものだし、そもそも「アシッドで人助けしよう!」という心意気が最高じゃないか! しかもこれは音楽のアシッドであって、ドラッグではないしね。

(近藤真弥)

追記: 寄付はJustgivingのサイトから、アルバムはこちらのサイトからダウンロードできる。

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The Sunshine Factory『Sugar』.jpg  ハハハハハ! こりゃ笑いが止まらない。だって、骨の髄までマイ・ブラッディ・ヴァレンタインとジーザス・アンド・メリーチェインの因子が染み込んでいるから。

 英マンチェスターを拠点とするネットレーベル《BFW》からリリースされた『Sugar』は、どこまでも美しく壮大で、爽快な青空が頭に浮かぶ非常に風通しの良い甘酸っぱいアルバムとなっている。どこかマッドチェスターを想起させるビートに、『This My Truth Tell Me Yours』期のマニック・ストリート・プリーチャーズ的なメロディとギター・サウンドなど、90年代UKロックの多大な影響を窺わせるのも特徴的だ(これでアラバマ州を拠点としているのだから、ほんとに面白い)。特に「Twisted And Clover」は、イギリスのロックへ向けたオマージュに聞こえなくもない。この優れた編集能力を独自の創造性に繋げる術を身に付ければもっと面白いバンドになりそうだが、ドライヴしていくようなカッコいいグルーヴは一聴の価値あり。

 しかし、今年リリースされたフィンランド出身のShine2009による『Realism』などもそうだが、マンチェスター以外の土地から古のマンチェスター・サウンドの要素を取り入れた音楽が次々と誕生しているのはすごく興味深い。ダンスフロアでは90年代回帰の潮流があったりするけど、それに関係する流れなのか、はたまた別の何かなのか...。気になる。

(近藤真弥)

追記: 『Sugar』は《BFW》のサイトからダウンロードできる。

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OrgaYou.jpg  この『Homely』を聴いて感じるものは、何故かジャック・フィニィの『盗まれた街』の読後感だった。クラシックSFなので、周知の方も多いだろうが、アメリカの田舎の町で、自分の親や知り合いを「彼らは本人ではない」と言いだす住民が増え始める。そういった状況に対して、主人公である医者とその愛人は、調べてゆく中で人間に豆の莢(さや)のようなものを見つける。これ(異星人)が人間を「侵略」し、その人間に「取って代わっている」ということが分かってから、少しずつ現実が軋み始める。

「よく見知った」人たちが「全く違う誰か(異星人)」になってゆく過程内で、誰が脳を侵略されているのか分からないまま、で、芝居かリアルか分からない境界線が曖昧になったままで、他者への不信と恐怖が主人公たちを心理的に追い込み、愈よ"となりの町(ここではない、どこか)"へと逃げだそうとする際に、見知った街の「知人たち」が大勢で追跡してくるというラスト・シーンで「沸点」を迎えながらも、後を引く皮膚感覚がある。こういう侵略を隠喩に置くとして、それまで「そう」と思っていたものが「そう、ではないこと」、「そう、と演じられていたこと」に向き合い始め、人間が認識の閾値を切り替えるとき、心理的な恐慌が静かに沸き立つ。何故ならば、そもそも自分としての誰かは、いつも自分で、自分のことを知っている「つもり」になっている訳で、その前提条件を規律や方策、ときに法律、暗黙の積み重ね、書面、絆、などの様々な可視・不可視的な要素と因子で「確認」しては、追認する。しかし、自身のことを想おうとするほどに、いつの間にか他者との「関係性」の曖昧さを綴っていることになる。

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 自分というものが、元来、他者との比較においてしか芽生えないということはラカンに指摘されずとも、その「知っている」という自分の中での取り決めごとが病的なレヴェルではない、緩やかな「かもしれない」に浸食されてゆくとき、静かに視界・認識が歪む。その歪みを『盗まれた街』のようなSF的な怖さではなく、サイケデリックな現実の"その隣"として、オウガ・ユー・アスホールはこれまでも柔らかく描写し、聴き手側の固定観念のバランスを仄かに崩してきた。

 前作にあたる昨年のミニ・アルバム「浮かれている人」での、デモーニッシュ且つ独特の"揺れ"と言語感覚は多くの人たちの切実なリアリティをカラフルに屈曲させた。奇妙なコーラス・ワークに乗っての《次のイメージを出来ない 怖さの方によって 進んだ その先を選び分けるんだろ 伝わる物陰で 曖昧な日を過ごして 潜った その先を書き替えて立ってたよ》(「タンカティーラ」)というように、街を「盗んでしまう」センスは極まっていたが、今作では、サイケデリックなバランスや柔らかいAOR調の曲や後期フィッシュマンズのような彼岸のような洗練されたリズム、ダヴィーなサウンド、ゆらゆら帝国が最後に見せていた「引きの美学」にミニマルなビートが反復されるようなものなど、よりサウンド・ヴァリエーションは増えながらも、締まったストイックな印象を受ける内容に帰着している。

 ムーディーで洗練された展開さえを見せる9曲の音世界はまるで、都会のカフェで流れていても、現代のシティーポップスとして収められても違和がないくらいスムースな質感もあるがそれでも、日本のロック・ポップスに必ずといっていいくらい仕掛けられている分かり易いフック・ラインがほぼない、という点からして、シームレスに9曲が繋がっている空気感があり、その空気感も、昨今のトレンドのハイファイでクッキリ輪郭の立った音ではないところも興味深い。強いて言うならば、2曲目の「ロープ」が象徴するように、カンやファウスト辺りのクラウトロックの影響が伺える曲もいいが、女声ナレーションで始まる3曲目の「フェンスのある家」、4曲目の「ライフワーク」のAORやイージーリスニング的な舵取りを途中で、静謐な過激さで微妙に音像を変成させてしまうポイントが今作の肝かもしれない。

 なお、触れておくと、このアルバムのレコーディングに入ってから、ベースの平出氏がバンドを脱退しており(1曲では、彼名義のベースがあるが、他はギターの馬渕氏がベースを弾いている)、前作と同じく彼らの長野の地元スタジオで録音されている。インタビューでは、ギター/ヴォーカルの出戸氏は飄然と、「居心地の良さと悲惨な感じの同居を目指した」、「確実に何かが朽ち果てていっている感じ、それを更に俯瞰で見ていながらも、その朽ち果てている中に自分も居るシリアスさもある」というようなことを言っているとおり、実のところ、今までの彼らのキャリアを振り返ってみると相当、異色性をおぼえる人も居ると思うくらい、「捉えづらさが明確化している」内容にもなっている。決して、前ミニ・アルバムの『浮かれている人』との地続きの感覚はない。今回のアルバムの曲は、3月の震災前に書かれたようだが、震災後、数箇月経ち、問題は山積していながらも、フラットに仄暗く日常は進んでいる。

 そのような「日常」に近接しているところが大きくあり、これまで、非日常への近道を探すことで日常からの遠回りを見せていた彼らの世界観が淡いファンタジーやエスケーピズムへ機能していたと言えるとしたなら、『Homely』における"揺れ"は、より日常の内側で籠る熱が圧縮されている気さえおぼえる。

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 つねづね、ビルト・トゥ・スピル、モデスト・マウスやアニマル・コレクティヴなどUSインディに目配せし、シンクロ(共振)してきた彼らのことだから、昨今の一つの潮流であるチルウェイヴへの意識も少しは含まれているのかもしれないが、決してこれは、代名詞的な"ヒプナゴジック・ポップ"ではなく、バンドとしての一体感と人力のリズム、グルーヴに拘ったものでもあり、その気骨こそが彼らをより先へとフロート・オンさせてゆく逞しさを感じる。

 派手な意匠がない分だけ、賛否両論を分けそうな作品になったが、オウガ・ユー・アスホールというバンドがますますオンリーワンであり、オルタナティヴな存在だということを示した意味で、僕は積極的に評価したい。

《やわらかい所に 埋まっていくように 注がれていった このままでいたいな 変わらない所に 集っていくように 囲まれていった このまま横になるよ》(「ライフワーク」)

(松浦達)

 

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FlenchFilms.jpg 英米で生まれたムーブメントを独自の解釈で鳴らす北欧のバンドは多い。90年代には、最北のパワーポップとでも言うべきザ・ワナダイズがいたし、近年は、ザ・ブライツのレヴューでも触れたネオアコ新世代のザ・ソネッツやノーザン・ポートレイト、シューゲイザー勢からはザ・レディオ・デプトが昨年『Clinging To A Scheme』をリリースし、それまでの(北欧という)異郷からの轟音という枠組みを脱し見事に時代性とリンクした音像を鳴らしたことも記憶に新しい。

 そして特に昨年、ザ・ドラムスなどの登場により活況だった米国の新世代サーフィン・ムードに呼応するように現れたのが、このフレンチ・フィルムズだ。直訳すると「フランス映画」というバンド名であるが、彼らの出身はフィンランドの首都ヘルシンキ。フィンランドと言えば、ムーミンだったり、サンタクロースだったりと、まったりとした雰囲気の印象を持たれやすいが、ミュージック・シーンだけみると、他の北欧4国より大きなアーティストが現れていない印象があるだろう(事実、クッキーシーンが2007年に刊行した『北欧POP MAP アイスランド、ノルウェイ、デンマーク、フィンランド編』でも、別枠のスウェーデンを除いても他の3国より明らかに取り上げられているアーティストの数も少なかった)。

 さて、このフレンチ・フィルムズ。一聴したところ、やはり先に挙げたドラムスのフィンランド・ヴァージョンというような印象を受ける。「Golden Sea」や「Convict」などを聴くと、シンプルなコードと軽快なリズムにコーラス、ローがきいた野太いヴォーカルが、ドラムスを想起せずにはいられない。アルバム全体を覆う雰囲気もUSインディのサーフィン・ムードに共振するような快活なものになっている。もちろんそれらのUSインディ勢が影響を受けた'80sのUKの雰囲気も取り入れられており、のっぺりした哀愁漂うヴォーカルはモリッシーっぽいし、ジャングリーなコード感はオレンジ・ジュースを思わせる。

 ここまでだと、ドラムスなどのアーティストと何の違いがあるの?と思われてしまうかも知れないが、そういったアーティストが鳴らす海が、陽光が降り注ぎたじろぎながらもサーフィンしたくなるようなものであるのに対して、彼らフレンチ・フィルムズの海はどこか田舎のノスタルジックな憂愁漂う感傷的なものであることだろう。秋を迎え郷里に帰ってきた時に、ふと立ち寄った海とでも言うような、センチメンタルで内省的なものであることはUSインディ勢が飛び込んだ海とは決定的に異なっている。海を目指しずんずん突き進んで鳴らされた高揚と言うよりは、『海へ行くつもりじゃなかった』のに、辿り着いてしまった海で途方に暮れながら鳴らした哀愁という感じだろうか。

 これは、彼らにとって慣れた海がカリフォルニアや東海岸のそれではなく、北欧の寒々しい海であることも(無意識にせよ)たぶんに影響していることも考えられるし、フェイバリットとしてザ・キュアーを挙げていることからもそういった内向きの感性を獲得したのかも知れない。

 同じ海を同じ時代に歌っても彼らのそれは、感傷を隠し切れていない。むしろ過度に英米を意識せずに自らの海を見つめ続け、フィンランドの海と言えばフレンチ・フィルムズというような存在になってほしいものだ。ヘルシンキのビーチ・サイドより現れたこの若者たちがフィンランドの顔になれることを願わんばかりである。

(青野圭祐)

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