reviews: July 2011アーカイブ

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naomigorokikuchi.jpg  ボサ・ノヴァが緩やかにアメリカのミドルクラス・サイドのラウンジ・ミュージックへと回収され始めた1960年代初頭、本来持っていたブラジル発信の「ボサ・ノヴァ」の持つ先鋭性や反骨の要素因子は如何せん対象化されていたところがあったのは否めない。元来、ボサ・ノヴァはリオの海岸地方に住んでいたジョビンなどを筆頭に台頭した「うたごころ」も備えたものであり、同時期に行き交ったジャズ・サンバは、マンフレッド・フェスト辺りのジャズ側からのアプローチに伴うブラジルのリズム感覚に沿ったモダン・ジャズと言えた。としたならば、いまだに名盤扱いされている63年にレコーディングされた『Getz/Gilberto』という作品は、どのような場所での座標軸を定めるべきなのか、曖昧にされている領域があり、曖昧にされることでマスターピースに成り得ているともいえる。ボサ・ノヴァの歴史のコアを担う錚々たる面々、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ミルトン・バナナなどに混ざって、白人の当時は少し人気が凋落気味だったスタン・ゲッツがテナー・サックスを持ち込むというボサ・ノヴァとジャズの関係性の複雑さをポップネスに漂白した形で落とし込んだアルバム。世界的にはブレイクし、尚且つ、それまでボサ・ノヴァやジャズ・サンバに疎い多くのリスナーも「巻き込んだ」と言えば、響きはいいものの、この作品によって、ボサ・ノヴァの商業化に拍車化を掛け、必ずしもクールやアンクールでは語られない音楽形式(ボサ・ノヴァは形式ではなく、アティチュードだった)であるはずなのに、70年代に入り、緩やかなアンクールの称号がアメリカを中心にして消費されてしまったのは周知の歴史かもしれない。

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  今回、Naomi&Goroが菊地成孔とコラボレーションして、この『Calendula』をリリースする運びになったが、現在でも今作を巡って行き交う多くの音楽評は『Getz/Gilberto』的な磁場を巡るものだったりする。Naomi&Goroといえば、布施尚美女史と伊藤ゴロー氏からなる本格的に且つオーセンティックにボサ・ノヴァを追求するデュオであり、その世界観はほぼ確立もされている。そこに、あのプロデューサーとしてのセンスも長けており、ときに蠱惑的なサックスを吹くジャズメン、菊地氏の参加がどういった影響が起こるのか、正直、僕は不安が募った。しかし、結論から言うと、お互いがお互いを牽制し合っていないという意味に沿って、艶めかしい涼やかさを感じる内容になったのは好ましい。ここに、イージーリスニングやヒーリングの成分やCTI辺りの空気を見出せる人たちもいるのだろうが、もっと良質な音楽そのもの豊かさを取り戻そうとする蛮性もある。選曲にしても、書き下ろしの曲やジョビンなどの曲のみならず、流麗に再構築されたプリファブ・スプラウトの「The King Of Rock'n Roll」や叮嚀に纏められたホール・アンド・オーツの「One On One」、布施女史の声が柔らかく弾み、ピアノとサックスのミニマルな絡みが美しいブリジット・フォンテーヌの「Brigitte」などベタながら、興味深い11曲が収められている。欲を言えば、菊地氏絡みのワークであるならば、UA×菊地成孔のときのような「Over The Rainbow」のような大胆なアレンジがあっても良いと思ったが、そこを抑制の美で纏めたところは菊地氏がNaomi&Goroの良さを引き立て、尚且つ、彼らが菊地氏により有効なフィードバックをもたらすような「関係性」が「Getz/Gilberto的な何か」ではない形で良い方向性を向いているということを表象している気はする。個人的には、「イパネマの娘」のようなサービス・トラック(勿論、これが入口になってもいいと思うが)は入れなくても良いのではと感じたりもするが、"ボサ・ノヴァ×ジャズ"といった距離感へ訝しさを持つリスナーやフラットに軽やかで流麗な音楽を聴きたいリスナーにとっては「感性のクールダウン」を要求させるという意味で、2011年の「今」に相応しい音楽になったという気がする。

  不穏な時代こそ、こういった透き通った質感を持った音楽が個々の感性に風穴を開けて、空気を送り込み、"三月の水"を飲める逃避行へと導くべき路を示すとしたら、ひとまずこの作品の上梓を僕は喜びたいのとともに、大きな音で静かに聴きたい内容になったのには快哉を叫びたい。

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  最後に、このアルバムを聴いて、ジョルジョ・アガンベンの「インファンティア」という言葉を喚起した。インファンティアとは、「非言語的」ではある訳だが、言語がそこを前提として成立していくような「閾(いき)」ある。そこで、言葉は「閾」から、何かしらの新しい衝動を獲得して、言語的な何かに向かって生じるものである。だからこそ、「歴史を語る」にしても、美術表現にいたるのも、そもそもが「インファンティア」に発し、「インファンティア」に根付いているものなのだとしたら、この作品はしっかりとインファンティアに対峙していると思う。

(松浦達)

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Hudson Mohawke『Satin Panthers』.jpg『Butter』ではサイボトロンやアウトキャストなど、実に様々な影響を感じさせる音を鳴らして見せたハドソン・モホーク。そんな彼が届けてくれた最新EP「Satin Panthers」には、今まで以上に強烈なパワーが宿っている。

  本作から感じ取れるのは、エレクトロやヒップホップにR&Bはもちろんのこと、ダフト・パンクや初期レイヴを想起してしまう瞬間もある。つまり、『Butter』を超えるいろんな音が散りばめられているわけだが、個人的に本作が持つパワーは、初期レイヴの要素が大きな役割を果たしていると思う。しかし何よりも重要なのは、ハドソン・モホーク自身が我々を驚かせようと、意識的に他とは違う音楽を作っている点だ。しかもストイックな求道者のそれではなく、自分のなかにある趣向を躊躇なく表現する遊び心によるものだ。それはまるで、おもちゃ箱をひっくり返し、無邪気な笑みを浮かべて遊んでいる子供のようにも映るけど、そんなハドソン・モホークが生み出す音楽は「過剰」ですらある。しかしその「過剰」さは、ジャスト・ブレイズ(カニエ・ウエスト、ジェイ・Z、リル・ウェインなど)のような売れっ子プロデューサーがツイッターで本作を絶賛したように、世間ではすんなり受け入れられている。

『Butter』リリース時に、クッキーシーンのインタビューで「特にメッセージっていうようなものはないと思う」と前置きしながらも、「ただ僕が好きないろんな要素を混ぜ合わせて作った作品だし、もし何かそこから言えるとしたら、100通りの別なスタイルを混ぜ合わせたってOKなんだってことだけかな(笑)」と答えたハドソン・モホーク。「Satin Panthers」でもこの姿勢を貫き、さらなる進化を果たしている。そしてこの姿勢を貫きながら、もっともアルバムが待たれるアーティストへと成長した事実。この事実には、多くのアーティストが見習うべきものがある。「過剰」であることに躊躇する必要はないのだ。

(近藤真弥)

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V.A.『HARUTA EP』(Lowfer Records).jpg『Haruta EP』は、ダブステップがダブステップを自ら取り込み、進化していることを証明するコンピだ。

 国産ダブステップ・レーベルとして、6月にオープンした《Lowfer Records》が放った最初の一手に収録されている楽曲群は、ダークな2ステップが雛型となって生まれたのがダブステップとするならば、ダブステップから逸脱している。元々ダブステップは非常に高い順応性を持った音楽だけど、その順応性を主因として進んだ多様化のなかで、ダブステップはダブステップを超えてしまった。そして、この「ダブステップを超えたダブステップ」が、「ポスト・ダブステップ」と呼ばれる音の正体だと思う。しかし僕は、「ダブステップを超えてしまった」音を「ポスト・ダブステップ」と呼ぶことに、違和感を覚えてしまう。強いて言うなら、「ベース・ミュージック」ではないだろうか?まあ、なんとも曖昧な言葉ではあるが、現在進行形で進むこの混沌とした音楽を表すには、適した言葉だろう。

《Hessle Audio》からリリースされた『Hessle Audio: 116 & Rising』や《Planet Mu》の『14 Tracks from Planet Mu』といったコンピ、それからアフリカ・ハイテック『93 Million Miles』などがダブステップ以降のベース・ミュージックを上手く鳴らしているけど、『HARUTA EP』は、これらに匹敵するくらい現在のベース・ミュージックと未来を表している。曲単位では、ニュー・エレクトロとダブステップをごった煮したような相対性理論「Miss Pararel World (Loco Edit vvotaro retouch)」や、曲名が表すように、弾けるような爽快感が気持ちいいMononofrog 4sk「Soda Float」が、ヘヴィさを保ちつつも、国産らしい軽やかなグルーヴを生み出している。日本からも、こうして素晴らしいベース・ミュージックが生まれていることを我々はもっと知るべきだし、『Haruta EP』は、その第一歩として最適なコンピであるのは間違いない。

(近藤真弥)


追記 『Haruta EP』は、Lowfer Recordsのホームページで無料ダウンロードできる。


 

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PLASTICGIRLIINCLOSET.jpg  岩手発、最強の新世代ギター・ポップ・バンド、プラスチック・ガール・イン・クローゼットのセカンド・アルバムが到着。(夏ならではの?)切なさ、もの悲しさを鮮明にサウンドに乗せつつ、クリアに、そして優しく聴かせてくれる。ノイズ・ギター、ピュアなメロディ、真っ直ぐなヴォーカルなどが溶け合ったマジカルなサウンドは、ノスタルジックな要素が満載ながらも「現在」の音として新鮮に響く。そんな器用さが全く嫌味に聞こえない理由は、全12曲を一気に聴かせてしまうテンションの高さが、ちゃんと彼ららしさになっているからだと思う。そ・オてとにかくメロディが美しい。マイナー・コード主体でメランコリーの深い霧が全編を包み込むも、暗い印象は与えない。それが彼らの持ち味なんだろう。風を斬るような勢いのあるギターも、かっこよくキメることをどこか恥じらっているような控えめさが美しく見え隠れ。

(粂田直子)

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ねごと『ex.Negoto』.jpg『メルシールーe.p.』を初めて聴いたときに予兆は感じていたけど、『ex.Negoto』は、痛みを鳴らしている。『Hello!"Z"』「カロン」で見られたポップネスをそのままに、『メルシールーe.p. 』では聴く者の心を抉るようなエッジと感情の「揺らぎ」を表現したねごと。この一連の集大成としてリリースされた『ex.Negoto』は、文字通り傑作となっている。

 アタックが強いピアノとドラムが印象的な「サイダーの海」から始まり、「ループ」「カロン」、さらに「ビーサイド」を挟んでの「メルシールー」という疾走感溢れる前半は、彼女達の成長をドキュメントしているようで非常に感動的な流れだ。特に「ビーサイド」「メルシールー」で心を鷲掴みにされる瞬間は、何度聴いても「ゾクッ」とする。

 そして叙情的なピアノが心地良いミドル・テンポな「ふわりのこと」から、『ex.Negoto』におけるねごとの新たな一面が顕在化していく。アイディアと遊び心がたくさん詰まった、まるで初期XTCのようなユーモア・ポップを想起させる「七夕」。シューゲイザー的な轟音、といっても弱々しい最近のシューゲイザー・バンドのそれではなく、ソニック・ユースや、これに匹敵するハードさを持っていたから受け入れられたマイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどのバンドをちゃんと理解した音が鳴っている「Week...end」。「七夕」「Week...end」の2曲は、主に90年代オルタナへと通じるコアな音楽性を持っていることが証明されている(特に「Week...end」はそうだろう)。この要素は、耳が肥えた玄人リスナーを惹きつける大きな武器となるはず。

 アルバム全体を通して複雑で曖昧な感情を表現し、その結果として、『ex.Negoto』はすごく情緒的なアルバムになっているが、その情緒的な部分がどんどん露わになっていく「季節」「AO」「揺れる」が並ぶ終盤の流れ。この終盤は、我々が成長する過程で必ずぶつかってしまう「行き場所がない不安な感覚」と、それでもどこか楽観的に歩みを始めてしまう根拠なきポジティブシンキング。そして、これら両極端な感情の狭間に存在する「ナニカ」を内包しているように感じる。それはまさに「複雑で曖昧な感情」で、未来を形成する可能性にもなれば、簡単に絶望へと変わってしまう繊細で心許ない「揺らぎ」だ。結局のところ、我々はこの「揺らぎ」と死ぬまで付き合うことになるわけで、それだったら、より楽しく生きるほうがいいに決まっている。もちろんそれは大変なことだけど、壮大な青空を眺めているようなスケールを携えた「インストゥルメンタル」を聴くと、そう難しいことではないような気がしてくるから不思議だ。まあ、僕の若さがそう思わせてしまうのかも知れないが...。しかし、ねごと自身が既に『ex.Negoto』の地点から旅立ち遠く先を見据えているように、彼女たちはこれからも数多くの未来と可能性を、我々に見せてくれるはず。『ex.Negoto』は、そんな希望の始まりとして生まれた素晴らしいアルバム。

(近藤真弥)

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THE WOODEN BIRDS.jpgのサムネール画像  ヘッドフォンの両極で、ウォームで朴訥とした、木の匂いを感じさせるドラムとパーカッションがかたかたと軽快に鳴る。前作同様のこのスタイルが実に気持ち良い。ステレオ・ラブやピンバックがアコースティック編成になったようでもあるが、際立ってフォーキーであるところが唯一無二であるし、やはりアメリカン・アナログ・セット同様、何よりもメロディの立ち方が最優先されている。

  ウッデン・バーズは、90年代からオースティンにて活動していたローファイ・バンド、アメリカン・アナログ・セット(再始動を切実に求めてます)のフロントマン、アンドリュー・ケニーを中心としたバンド。本盤は二枚目のフル・アルバムにあたる。アメリカン・アナログ・セットでは、抑制されたビートや独特な音色のジャズマスターが緩やかなテンポで淡々と響き、じわじわと内省的なカタルシスが込み上げてくるような姿勢が、全てのアルバムで変わらず貫き通されていた。いわゆるリビングルーム・ライク、ベッドルーム・ライクなバンドであったのだが、こちらのプロジェクトでも、その姿勢は貫かれている。対照的であるのは、そういったアットホームな形式を崩さないまま、アメリカン・アナログ・セットの内省さから解放されたかのような、外に向いたスタイルであるという点である。友達を沢山招いて、自宅の庭でアメリカン・アナログ・セットの曲を演奏でもしたかのような雰囲気が漂う。それは前作がより顕著であったのだが、本盤にもその流れは汲まれており、かつてのアメリカン・アナログ・セットらしいナンバーもいくつか垣間見える(5曲目、9曲目なんて正に)。

 ハイハットからシェーカーに、ドラムはスティックからブラシに持ち替え、繊細にヴィブラートをかけたギターのメロディは伸びやかで柔らかい。とりわけ、各音の配置、アコースティック・ギターの豊かな響きは格別だ。ベン・ギバードやマット・ポンド(こちらは正式にメンバーとしてクレジットされている)などのゲスト陣に囲まれていながらも、相変わらずアンドリュー・ケニーはいまいち派手さに欠けているが、派手かどうかなんてことは些事たるものである。

(楓屋)

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The Blanche Hudson Weekend 『Reverence Severance And Spite』.jpg  根暗じゃないジーザス・アンド・メリーチェイン? ノイジーなガレージ・ロックをやりだしたストーン・ローゼズ? まあ、どんな呼び方でもかまわないけど、元マンハッタン・ラヴ・スーサイズのダレンとキャロラインが新たに始めたバンド、ザ・ブランシェ・ハドソン・ウィークエンドが『Reverence, Severence And Spite』という素晴らしいアルバムを上梓した。

 前述のジザメリやストーン・ローゼズ、そしてニュー・オーダーなど、イギリスが生み出してきた素晴らしいバンドの要素が見え隠れして、それは奇しくも、イギリスのインディー・ロックの歴史を眺めているようで、とても不思議な感覚に陥ってしまう。轟音のなかに潜む、どこか懐かしさを感じる人懐っこいメロディーも、この不思議な感覚への導火線となっている。

『Reverence, Severence and Spite』の、甘美で爽やかなノイズ・ギター・ポップは、正直派手なアルバムとは言えないし、なにかでかいトピックを生み出すバンドではないかも知れないが、こうした良い曲を生み出すカッコいいバンドが、多くの人の目にとまることを、心の底から願うばかりだ。だってこんな良いバンド、一部のインディー・ロック愛好家のものだけにするなんて、あまりにもったいないでしょ?「僕のもの、私のもの」ではなく、「私たち、僕たちのもの」にしていきましょう。

(近藤真弥)

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DIGITALISM『I Love You Dude 』.jpg  デジタリズムのセカンド・アルバムは、どの曲も輪郭がハッキリとしている。前作『Idealism』にも、ニュー・オーダーを想起させるギター・リフが印象的なアンセム「Pogo」があったように、元々歌心がある彼ら。『I Love You Dude』でもさらにその部分を強調してくることは予想できたが、歌ものトラックはメロディを強く打ち出し、インストの曲は、90年代のダンス・ミュージックのような音色とビートを刻んでいる。

  初期レイヴ的なグルーヴが面白い 「2 Hearts」。どこかフューチャリスティックな響きが聴く者を不思議な感覚へと導いてくれる「Circles」などは、歌ものトラックとして出色の出来だ。

 ケミカル・ブラザーズとThe KLF「What Time Is Love?」を混ぜ合わせたような「Antibiotics」。ハードフロアによってホワイトトラッシュされた以降のアシッド・サウンドが高揚感をもたらしてくれる「Maimi Showdown」といった曲は、前述の「90年代のダンス・ミュージック」を感じさせる。しかし、彼らの音に古臭さを嗅ぎ取ることはできないし、ましてやノスタルジーなんて皆無だ。

 近年の音楽シーンは、90年代の要素を取り入れた曲が多いけど、これは90年代の10年を通じて細分化され、そのことによって「置き去り」にされた音楽の再評価の動きだと思っている(例えば日本だと、小室哲哉の再注目がそうだろう)。細分化が進むごとに、その音楽が持つ精神性や哲学などが先走りし、結局は内省に向かいつまらないものになってしまった様々な音楽を、期限切れの時代性から解放することで、再び命を吹き込もうとする背景が、90年代再評価の動きにはある。だからこそ、それをうまく実行できているデジタリズムは、「まんま」な音は鳴らさない。あくまで「現在」という立ち位置から過去を逆照射することで同時代性を獲得し、そこにデジタリズム独自のセンスを加えることで、彼ら独特のポップ・ミュージックとなっている。『I Love You Dude』は、そんなデジタリズムの才覚が発揮された素晴らしいポップ・アルバムだ。

(近藤真弥)

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『テロルのすべて』.jpg 1945年8月6日、広島市に原子爆弾リトルボーイがB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。3日後、8月9日、長崎市に原子爆弾ファットマンがB-29(ボックスカー)により投下された。同年8月14日、日本はポツダム宣言受諾し、翌日8月15日に玉音放送により国民に発表された。

 『さらば雑司ヶ谷』『日本のセックス』『民宿雪国』『雑司ヶ谷R.I.P.』を発表している小説家・樋口毅宏が放つ五冊目は日本に核爆弾を落としたアメリカに対する一人の若者の復讐劇『テロルのすべて』だ。

 福島原発のメルトダウンを含む現在の原発問題は解決の行方が見えないままだ。かつて忌野清志郎はRC サクセション「SUMMER TIME BULES」で原発批判をした。地震と原発で揺れるこの2011年に誰もが起きないと思っていた事が起き、世の中の仕組みが、わたしたちの住んでいるこの国や企業の利権や思惑が放射能と一緒に知らされなかったものも放たれた。騙されていたのか? いやきっと知ろうとしなかった、あってもない事にしていたものが目の前に一気に目に見える形で現れ問題を突きつけている。

 地震の後に多くの小説家やミュージシャンは自分たちの言葉や音楽を失い、途方に暮れてしまった。樋口氏は読切り小説誌『FeeL Love』の「2011.3.11 そして、いま私が思うこと。」のコラムでみんな自分たちのしている事(小説)がそんなに大層な政治的なものだと思っていたのか? と小説を書くのは生活のためと少々の見栄が欲しいという旨に近い事を書かれている。こちらも読んでもらえると小説家・樋口毅宏という作家の姿勢がわかる。

"自分たちの都合のいいようにルールを決め、今なお世界の覇者気取りで澄ましているアメリカを、僕は心の底から軽蔑している。嫌いじゃない、大ッ嫌いだ。では、弱者が取るべき行動は何か。自分より弱者を見つけ、叩くことではない。強者の脳天に斧を振り上げることではないだろうか。そう。テロルこそもっとも有効な手段なのである。アメリカに、××を落とすのだ。注目の異才がどこまでも過激に紡ぎ出す、テロリズムまでの道のり。" (AMAZON 作品紹介より)

 僕が福島原発の爆発等の一連の流れをテレビで見ていて思っていたのはかつて長谷川和彦監督が作った『太陽を盗んだ男』のような作品がきっと出てくるだろうと思っていた。この作品まだ観たことない人は観てください。内容は中学の理科教師である城戸誠(沢田研二)が原子力発電所から液体プルトニウムを強奪しハンドメイドの原爆を作りそれで政府を脅迫するというもの。監督の長谷川氏は母親の胎内にいる時に広島で胎児被爆をされている。

 『テロルのすべて』の主人公はアメリカ・ボストンの大学で学ぶ、そこには世界屈指の優秀な学生ばかりだ。アラン・B・クルーガー『テロの経済学』によると「貧しくて教育レベルが低いひとがテロリストになる」というのは間違ったイメージで実はその真逆で「少なくとも中流以上。教育を受けてきたエリートがテロリストになる」と述べているが彼はその事に同意する。さまざまなテロ行為事件を起こした人物たちがそれに当てはまるからだ。彼もまたそうだった。

 主人公の宇津木が日本の大学に通っている時に唯一心を許せた友の名前は「長谷川誠」だ。この作品が長谷川和彦氏に捧げられているのは読むとわかる。

 文学における現実をどう描くか、希望と絶望をどう捉えるか。小説家は今どんな物語を書くのか。優しい、癒しだけが必要ではないと思う。悲惨な現状を前にしてもそれよりも悲惨な絶望を見ることで読む事で癒されてしまうということもあるし、世界の成り立ちに牙を剥き、勢いで突き進むスピードこそが救いになるということもあると僕は思う。

 地震の後の原発問題で誰かが長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』のようなアイロニーと強烈な意志を持った作品を作るだろうと思ったら樋口毅宏『テロルのすべて』でやっていた。今読了したけどゴジさんに捧げますって。意志は引き継がれる。と僕がtwitterでつぶやいたら樋口さんに返信していただいたのが、「僕がやらないで誰がやるのだろう?」だった。

 この夏、『テロルのすべて』と『太陽を盗んだ男』をどちらが先でも後でもいいから読んで観てほしい。このふたつを読んで観て何も感じない人はきっと幸せな人生を歩んでいくだろう、そして一生目に見えない誰かを踏み台にして(そんな想像力もないのだろうけど)痛みも感じずに暮らしていけばいい、そして一生僕の目の前に現れないでほしい。

(碇本学)

 

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 彼らのファーストがリリースされたときには、ケイジャン・ダンス・パーティやレイト・オブ・ザ・ピアやフレンドリー・ファイアーズもほぼ同時期にアルバム・デビューを果たし、音楽シーンは2000年代前半に匹敵する熱狂を取り戻した。エレクトロや民族音楽を貪欲に取り入れたバンドたちがリスナーにも批評家にももてはやされたが、グラスヴェガスはかなり毛色が異なった。フィードバック・ギターの中を突き抜けてくる過剰に「泣き」の入ったヴォーカルと、ノスタルジックな光景を思い起こさせるリリック。そして彼らのサウンドのパターンはたった1種類に過ぎない。余計なギミックは何も仕込まないし、アルバムの曲はだいたい同じに聴こえる。だからこそ、彼らの個性が見事に詰め込まれたファースト・アルバムは「見事にグラスヴェガス」だったし、セカンド以降のアルバムでどのような変化を遂げるのが想像もできなかった。むしろ解散しちゃったケイジャン・ダンス・パーティのほうが、セカンドで理想的なサウンドを手にしそうな予感があった。

 結論から書くと、グラスヴェガスのセカンド・アルバムはファーストよりウェルメイドなアンセムが並ぶ、不平不満のひとつも出させないような傑作になった。ファースト・シングルとしてリリースされた「The World Is Yours」の間奏でちらりとピアノ・パートが入るところあたりは評価が分かれそうだが、わたしはこのくらい振りきれてやっているバンドのほうが好きだ。ロンドンのハイセンスな若者が好みそうなクールさは欠片もないし、オアシスのようなラッディズムもあまり感じないが、アイドルワイルドやトラヴィスを長く愛し続けるような人たちにとってはぴったりのアルバムに仕上がっていると思う。メディアが騒ぎ立てたくなるような要素はほとんどないと思っていたが、NMEが" The 50 best albums of 2011 so far "にこのアルバムを選出していた。NMEがどういう媒体かは関係なしに、こういうのは嬉しいものだ。

(長畑宏明)

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