reviews: June 2011アーカイブ

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 エド・マックによると、『PARA』は、バックストリート・ボーイズやイン・シンクなどにも影響を受けたアルバムだそうだ。もちろん3人が、楽器を放り出して踊り始めたわけではなくて、前作『Friendly Fires』の内省にも行きかけないほどのエスケーピズムは大きく後退し、80年代エレ・ポップとディスコの要素を基本とした、健康的なポップ・ソングが多い。これは前述したアーティストの影響はもちろんのこと、多幸感など前作の良さを引き継ぎつつ、より開かれたフィールドへ向かうため、さらなる音楽性の獲得に力を入れた結果だろう。この方向性は、ヘラクレス・アンド・ラブ・アフェア『Blue Songs』と似ていなくもないが、本作は、前作のシカゴ・ハウス的な如何わしい卑猥さからくるアクの強さが、すっぽり抜け落ちている。このアクの欠如をどう捉えるかによって、評価は分かれるはず。

 個人的には、アクが薄まってしまったのは残念でならない。先程「前作の良さを引き継ぎつつ」と書いたけど、僕にはその引き継ぎが、方向性の転換に近い大きな変化に見えてしまった。様々なサンプリングを多用し、ある曲のフレーズを別の曲で使用したりと、その実験的な姿勢を保ちつつ、開放的で万人性が高いポップ・ソング集に仕上げたのはすごいと思う。しかし行儀が良すぎて、体を揺らすには最適でも、陶酔に近い没入感というのは、まったく得られない。この変化というのは、ライナーノーツにあるエド・マックの発言を引用すれば、「今はブラック・アイド・ピーズやケシャみたいなのが流行ってるから、以前の感じを取り戻したいと思ってるんだよ。今はうんざりさせられるようなエレクトロ・ポップがたくさんあって(中略)でも僕らは、ポップ・ミュージックを違う方向に持って行かなきゃいけないって感じてるんだ」ということ。つまり彼らは、自ら挙げたアーティストを仮想敵に設定し、本作を作った。これは好きな音(ハウス、パンク、シューゲイザーなど)を自己流に解釈し、好き勝手やるという前作とは違うアプローチだ。

 いい曲が詰まったポップ・アルバムとしては素晴らしい出来だが、「飛ぶ」「ハマる」などのトリップ感を失わせることになった、メインストリームとの距離感から生ずる緊張を糧とした創作姿勢は、批評にすら「橋渡し」の役割を求められている現在において、少しばかり退屈に見えてしまう。



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《君が過ごした時間を感じることは無い 僕には君の過去に触れることができない でも僕は 生きてゆく 生きてゆく 生きてゆく 僕は今夜、過ぎ去った日々を生きるんだ》
(「Live Those Days Tonight 」)

 彼らは前作『Friendly Fires』において「Paris」=「ここではないどこか」を志向した。しかし、今作ではそれとはうって変わり、「今、この夜」を生きることをアルバム冒頭の1曲目で歌う。アルバムは全編このステイトメントに忠実に「今、この夜」を生きることを鳴らしている。前述した歌詞を読めばわかるように、彼らは過去が無かったかのようにふるまうわけではなく、過去に最大限の敬意を払いつつ、それと「同じこと」ではなく、「それと異なった形で同じように」、「今夜」を生きようとしている。それが「過ぎ去った日々を生きる」という言葉の意味なのだ。

 震災後、「暗闇」について思いを馳せることが多くなった。それは僕が、地震が引き起こした、大規模で長時間にわたる停電(とは言っても僕のいる地域は復旧まで2日かからなかった)の被害にあったからだ。その停電が引き起こしたのは「長い夜」だった。そこでは本を読むこともできず、ネットを観ることもできず、電池が充電できないため、メールをすることも電話をすることもできなかった。ラジオをつければ被害情報が繰り返され、神経がすり減る。大規模な余震も連発し、3月の中旬であったその頃は、暖房が無ければ凍えてしまうくらいの寒さだった。「この夜を生き延びることができるのか」が冗談ではなく、頭の中で繰り返された。

 日本中で「節電」が叫ばれ、街という街に夜が侵食した。その夜は「暗闇としての夜」であり、明かりを灯すことができない夜だった。「いつもの夜」と「暗闇としての夜」が混在した。「いつもの夜を取り戻せ」という声と今は「暗闇としての夜」が必要なのだという声が混在した。

 この「混在」の情報がメディアから放たれるたびに僕はその「混在した夜」をどう過ごせばよいのかわからなくなった。この「混在した夜」は「日常」を侵食した。そして、「日常」は「非日常」を生み出し、人々の振る舞いにさらなる混乱をもたらした。「日常を取り戻そう」という言葉は否応なく「非日常」を身体に刻みつけ、「力を合わせよう」といったどこにも向いていない「大きな言葉」が宙を飛び交った。

 震災後には様々なチャリティーソングが様々な形で発表されたが、そのほとんどが「暗闇としての夜」と向き合っていないように思えた。時が経ち、現在、「日常」から「非日常」の影は少しずつ取り払われつつあるが、それでもやはり「原発問題」を抱えている我々に「日常」が戻ってきたとは言い難い。「暗闇としての夜」がまた戻ってくるのではないかという恐怖も少しだが、確かにある。

 そしていつしか、僕は音楽を聴くとき、それが「暗闇としての夜」でも堂々と鳴り響くことができるかを考えるようになった。それを聴くことによって「暗闇としての夜」の中でも自分が鼓舞されるかどうかを。

 フレンドリー・ファイアーズのこの新譜はそんな「暗闇としての夜」の中でも、その輝きを失うことは無いように思える。前作にあったDFA周辺のディスコ・パンク色は影を潜め、ブルー・アイド・ソウル、ハウスミュージックなどの影響が前面に出ており、ソフィスティケイテッドなメロディをヴォーカルのエド・マクファーレンがソウルフルに歌い上げる。そして、そこで歌われるのは先ほど述べたように、全ての過去を踏まえ、それを記憶にとどめ続けながらも、今夜、自分たちは生きてゆくんだという揺るぎないメッセージだった。

「ここではないどこか」なんていうファンタジーが容易に通用しなくなった今(これは震災後の日本においてもとても大きな問題でもある)、彼らが「今、ここ」に焦点を当てるのは必然的とさえ言える。しかし、彼らはその「今、ここ」を「サヴァイヴする場所」として提示することをしなかった。「サヴァイヴ」に付随して起こる「バトルロワイヤル」は人々を疲弊させるばかりであるから。彼らはあくまでそこで「踊る」ことをサジェスチョンする。それは「暗闇」に押しつぶされることなく、「暗闇」を引き受けた上でなお、自分たちは踊りつづけるという決意であり、そのようにあって欲しいという「祈り」に満ちた音楽なのではないだろうか。

 僕らは色々なものを「喪失」してしまった。そこには取り戻せないものも数多く存在するし、そのことに心を悩ませ続ける人間も大勢いる。しかし、『パラ』はそんな想いを抱く人々の心にも届くはずだ。なぜなら最初に述べたようにこのアルバムは「昔と異なった形で同じように踊る」ことを歌ったアルバムだからだ。

「喪失」を知ってしまった僕らが「昔と同じように踊る」ことは不可能だ。だが、「今までとは違ったやり方で今夜、踊る」ことができる。


*2011年2月来日公演のときのインタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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 ここ数年、ミュージック・シーンで数多く見られる往年の名バンドの再結成。ラーズ、ピクシーズ、ペイヴメントなど90年代のオルタナ勢から、この夏のサマー・ソニックに登場するPiLやポップ・グループなどポスト・パンク期のレジェンドまで。もう「お金のためでしょ?」なんて意地悪な意見はナシ。確かにフェスや"期間限定"ツアーがビジネスとして成立している側面もある。でも、やっぱり彼らのライヴや新譜を耳にしてしまうと...月並みな言葉ではあるけれど、優れた音楽は時代性/ノスタルジアを軽く凌駕する。そして、"今"だからこそはっきりと見える普遍性があるのも事実。僕が見たピクシーズはメンバーの体型とは裏腹にタイトだったし、これからやって来るPiLの存在感は半端じゃないだろう。

 それにしても24年ぶり! カーズがまさかの再始動だ。僕が生まれて初めて買ったレコードはカーズの『Greatest Hits』だった。"ベストヒットUSA"で「Tonight She Comes」のビデオ・クリップを見て、そのレコードを選んだ当時の自分をほめてあげたい。2枚目に買ったレコードはトーキング・ヘッズの『Little Creatures』。この2枚が僕の人生を変えたと言っても過言じゃない。僕は今も、そしてこれから死ぬまでずっとロック/ポップ・ミュージックを聞き続ける。その楽しさを教えてくれたのは、カーズとトーキング・ヘッズだった。その頃は"オルタナ"だなんて、思ってもいなかったけれど。

 80年代に全米チャートをにぎわせるヒットを連発し続けたカーズ。そしてイーノとの邂逅を経て、『Remain In Light』という金字塔を打ち立てたトーキング・ヘッズ。中学生だった僕はモダン・ラヴァーズの1st『The Modern Lovers』を見つけて驚愕した。カーズのドラマー、デヴィッド・ロビンソンとトーキング・ヘッズのマルチ・プレーヤー、ジェリー・ハリスンが同じバンドに在籍していたなんて! しかもプロデュースは元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイル。これでバラバラだったイメージがひとつになった。おぼろげながら見えてきたのは、60年代中盤~70年代後半のニュー・ヨークを中心とするアンダーグラウンドの音楽シーン。それはヴェルヴェット・アンダーグラウンドからテレヴィジョン、ラモーンズにまで受け継がれる反逆と知性の爆発であり、僕に"Do It Yourself"という考え方を教えてくれた。つまり、パンクだった。

 バンド解散後はウィーザーの1st(ザ・ブルー・アルバム)や3rd(ザ・グリーン・アルバム)、ガイデッド・バイ・ヴォイセズの『Do The Collapse』など、プロデューサーとしての活動が目立っていたリーダーのリック・オケイセック。それらのアルバムからカーズや彼のソロ・アルバムを手に取った音楽ファンはどれくらいいるのかな? パワー・ポップが好きな人はもちろん、ストロークスのファンにもこの『Move Like This』を聞いてもらいたいと思う。すぐに覚えられるメロディ、シャープなギター・リフ、キラキラ輝くシンセ、そしてタイトで軽快なドラム。いつまでたっても手の届かない近未来からの「Hello Again」だ。そこで30年も前から鳴らされ続けてきたサウンドが、どれほど多くのバンドや音楽ファンに愛されてきたのかわかるはず。

 プロデュースはR.E.M.やスノウ・パトロールを手掛けてきたジャックナイフ・リーとカーズが半分ずつ。本質は何も変わっていないけれども、バンド編成が変わってしまった。オリジナル・メンバーでベーシスト/ヴォーカリストのベンジャミン・オールが2000年に癌で他界。ジャケットを飾るシルエットも彼を除く4人だ。ベンジャミンは、デビュー曲「Just What I Needed(燃える欲望)」や、今でもFMでよくオン・エアされる「Drive」などで美声をキメていたイケメン。クセのあるリック・オケイセックのヴォーカル(とルックス)との対比もカーズの魅力だった。『Move Like This』なら、「Soon」とか「Take Another Look」がベンにはぴったりかな。ワクワクするようなポップ・ソングとちょっぴり切ないバラードのバランスが気持ち良くて、何度もPLAYボタンを押す。"ポップ"という言葉も"オルタナティヴ"が広く知れ渡った今では、多彩なイメージを帯びるだろう。そこにカーズの軌跡と現在がある。

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 時は1991年、ニルヴァーナというバンドがアメリカで全世界的音楽革命を起こした。メジャー・デビュー・アルバム『ネヴァー・マインド』は言わずと知れた歴史に残る一枚となった。その頃、世界中の音楽関係者は「次なるニルヴァーナ」を求め、その結果見いだされたのがティーンエイジ・ファンクラブだった。その音楽はいわゆる「グランジ」ではなかったが、彼らの『バンドワゴネスク』は同じく商業=金を皮肉ったスリーヴでUKからの返答と相成った。

 さて2000年代、これという革命は起こらなかったものの、ニューヨーク出身のザ・ストロークスが一躍脚光を浴び、これまた世界中で人気を博した。そして音楽業界はまた「次なるザ・ストロークス」を探し始めたのである。そこで目に留まったのが同郷ミューヨークで活動するステファニー・ジャーマノッタという一人の女性歌手だった。

 ステファニーはニューヨークという土地において、なかなか皆の注目を集めることが出来ずにいた。ある日いつも通りピンク・フロイドやクイーンのカヴァーを披露することになったステファニーは、下着でステージに上がるという強攻策に打って出た。そのとき初めて皆が注目してくれたのだ。そしてステファニーにとって、これがのちの「露出」の原点となっていく。

 そんなステファニーは、もちろんザ・ストロークスとは音楽性が違っていた。しかし歌唱力と人間的魅力を感じたある関係者が何か別の方法で売り出そうと考え、ステファニーにこんなことを考案した - 「ダンス・ミュージックをやってみないか?」。

 そして、それに見合う新しい名前が決まった。クイーンの曲「レディオ・ガ・ガ」をもじったレディー・ガガという名前だった。

 60年代や70年代という時代には1年に一度程度のペースでアルバムが出されていた。だがしかし、ここ最近はストーン・ローゼズ、ナイン・インチ・ネイルズ、そしてミューまでもが4年半ぶりに新作を出す時代となってしまった。そんな中でレディー・ガガは毎年フル・アルバムをリリースしているのだ。何と凄い逸材が生まれたのだろう! 今回は早くも通算3作目となる新作だ。

 スロー・テンポで始まるこのアルバム冒頭部分は既にその瞬間から直後にやってくる竜巻を予感させる。もちろん期待は裏切らなかった。ガガ旋風の始まりだ。その後もアッパー・チューンが続いていく。これまでと敢えて違う点を挙げるとすれば言わば陰と陽、静と動、強と弱といった波が1曲1曲に感じられることだ。更にエレクトロ音のアプローチもよりハード・デジタルに移行し、新鮮に感じる。それでも尚ポップ・ミュージックという枠に括られるのはひとえにステファニーによる卓越したメロディー・センスとヴォーカリズムにあると思う。皮肉なのは「アメリカーノ」というかつてオフスプリングも使用したベタなアメリカ的タイトル曲が非常に民族的要素に富んでいること。最も現在のアメリカらしくない一曲にガガの才能を感じざるを得ない。

 ステファニーは米インタヴューで「私は女でも男でもない。両性具有だ」という発言をしている。実際、彼女(或いは彼)が本当に男か女かは未だ誰も知らないというのが現実なのだ。ヴィデオ撮影の際に男性器が見せそうになって撮り直したというエピソードまである。そのスタイルは、ゲイ(&レズビアン)・カルチャーに絶大な支持と衝撃をもたらした同郷のシザー・シスターズ、過激なショウでファンの目を釘付けにするヤー・ヤー・ヤーズにも似ている。だがステファニー曰く、ガガのショウは彼らとは一線を画し「ショックアート」と位置づけている。また、ステファニーが設立したファッション・チームは「ハウス・オブ・ガガ」と名付けられ、ハウスというのはドイツの「バウハウス」から拝借されている。

 ロック界やアンディー・ウォーホルの「ライフ」そのものに興味を示したステファニーは、彼らの生活に欠かせないドラッグに手を出すことになる。だがあくまでそれは「興味」と「好奇心」と「体験」への探究心から成るもので、深入りはしなかったという。ドラッグのBGMには必ず大好きなザ・キュアーの曲をかけていたとも言われている。ステファニーの心には幼い頃からロックが刻まれているのであった。初期の曲「ボーイズ・ボーイズ・ボーイズ」はモトリー・クルーの「ガールズ・ガールズ・ガールズ」へのオマージュとも取れよう。

 シュウ・ウエムラの付けまつ毛の目元にジギー時代のデヴィッド・ボウイとそっくりのアイ・メイクを施すなど、ボウイへのリスペクトは今でも続いている。更に音楽と芝居(演劇)を好むステファニーは当初、マイルス・デイヴィス、スティーヴ・ライヒ、チック・コリア、フィリップ・グラスらを排出したジュリアードへ進学する予定もあったという。

 こんな風に様々な音楽が溢れ返るニューヨークで生まれ育った彼女にとって、究極に斬新なものでなければ注目されなかった苦労の日々が、今やトップ・スターダムへとのし上がり、まさに今回のキャッチ・コピーの通り、「レディー・ガガは止まらない」。

 最後に、アメリカ音楽界で同じくトップ・スターダムへと登り詰めたコートニー・ラヴ。彼女は今、レディー・ガガの存在をどう思っているのだろうか?

 
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 世界的な音楽不況が叫ばれるなか、海外だけでなく、ここ日本でもチャートを席巻するほどのセールスを記録するレディ・ガガ。洋楽としては、日本におけるレディ・ガガのブレイクというのは現象と言えるものだし、商業面で張り合えるとしたら、AKB48くらいのものだろう。 

 ただ、レディ・ガガがここまで支持されている背景には、彼女のポップ・スターとしての才能だけではなく、彼女自身が内包する同時代性が関係しているというのは、大方の同意を得られるところだろう。実際彼女は、これまで音楽という枠を越えて様々な批評の対象にされてきたし、語られてきた。そのなかでも、マドンナとの比較は多かったと思うのだけど、『Born This Way』を聴いて興味が向いたのは、アルバム全体に漂う「雑さ」だ。この「雑さ」については、すべてを切り開くようなパワーや勢いと捉えることも可能だけど、『The Fame』『The Monster』にあった隙の無さに驚いた僕にとっては、『Born This Way』の雑な作りに対して疑問を抱いてしまったのだ(蛇足として、この隙の無さが、当時のレディ・ガガがマドンナと比較されてしまった要因のひとつだと思う)。ヒット・チャートに氾濫しすぎて飽和状態となっているエレクトロを、ダサくならず、あくまでスタイリッシュにやっているのは評価できるが、音だけを聴けば、起伏が少ないアルバムだし、「Hair」のようなバラードもアクセントにはなりえていない。 すべてがシングル・カット級の曲ながらも、アルバムというよりもシングル集的な印象が拭えないし、音のみで判断すれば、傑作とは言えない。

 それでも僕が『Born This Way』に強い興味を持ってしまうのは、歌詞が複雑で、それが内省的に吐き出されているからだ。『The Fame』リリース時、PopMattersなどで歌詞を批判されたことを受けてか、現代のアメリカが抱えるトピック、特にアメリカ社会やマイノリティとされる立場の人々をガガなりにピックアップし、それを弁証法など様々な形で歌っているものが多い。しかしその歌詞は、何かに立ち向かう急進的なものだが、同時に単調な曲とは裏腹に、パーソナルな呟きに近い、前述した内省的なものに聞こえる。

 ガガはステファニーと呼ばれることを拒否し、《レディ・ガガ=私》と自分自身を定義した。しかし、『Born This Way』には、ガガが捨て去ったはずのステファニーが戻っている。このステファニーの介入が、現在のレディ・ガガと、アイドル声優などに対するスラングとして使用されるようになった、「2.5次元」という言葉とシンクロしているように思えるから面白い。いままでのレディ・ガガは、ステファニーという器の消滅によって、彼女の歴史と精神を取り込む受け皿となっていた。だからこそ、レディ・ガガは「実在する幻想」でいられたし、リスナーもリアルなものとして受け取ることができた。しかし、『Born This Way』でのレディ・ガガは、アバターとしてステファニーの前に立ちはだかる者として対峙している。それは、シングル「Born This Way」のMVが示唆していたのかもしれない。おおまかに説明すると、まずは冒頭の、海老反りのようになったガガの背後に回ると、クレオパトラを思わせる姿をしたガガが登場し、そのガガが「ガガのようなもの」を次々と生み出していくシーン。僕は、この「ガガのようなもの」を生み出している者がレディ・ガガで、その前の死んだような表情で映し出されるレディ・ガガは、ステファニーではないかと踏んでいるが、このシーンは、レディ・ガガの「新たなレディ・ガガ」を作り出す苦闘を表しているのではないだろうか?このあとは、下着?姿のレディ・ガガ、ゾンビのような骸骨姿になったレディ・ガガ、成長した「ガガのようなもの」、そして「ガガのようなもの」を生み出そうとしたレディ・ガガが、代わるがわる登場する。最後は一筋の涙を流すレディ・ガガの後に、おちょくるかのように風船ガムを膨らますゾンビ・ガガが登場して、MVは幕を閉じる。

 ここで、同MVの冒頭でガガ自身が読み上げたと思われるマニフェストを、長くなるが、僕が直接MVから聞き取ったものを引用させてもらう。

《これは母なるモンスターのマニフェスト。山羊座にある宇宙の中の異空間を支配する政府で、素敵な魔法のような調和が誕生した。その誕生は有限ではなく、無限のものだった。そして母胎の月が満ち、未来の細胞分裂が始まった。この忌まわしい時は、一時的なものではなく、永遠のものだと思われた。こうして、新しい人種が始まった。それは人類に属する人種だが、偏見はなく、裁きも下さない、無限の自由を持つ人種。しかし時を同じくして、永遠の恋人が多元的宇宙を彷徨っていると、もう一つの恐ろしいものが誕生した。『悪』です。彼女は2つに引き裂かれ、2つの究極の力の間でもがき、選択の振り子が揺れはじめた。迷い無く、善の方に引きつけられるでしょう。しかし母は考えた。「どうしたら、こんな完璧なものを守れるか?悪なしで?」》
 
 このマニフェストにおける「こんな完璧なもの」はレディ・ガガであり、そのレディ・ガガを邪魔する存在という意味において、「悪」とはステファニーではないだろうか?つまり、レディ・ガガの中に眠っていたステファニーが目覚めることによって、レディ・ガガという完璧な存在が揺れている。そして彼女自身、レディ・ガガとステファニーの狭間に本当の自分を見出そうとしていて、そこにいるのが、「人類に属する人種だが、偏見はなく裁きも下さない、無限の自由を持つ人種」なのかも知れない。その人種が希望なのか、はたまた絶望なのかは『Born This Way』を聴く限り知ることができないし、そういう意味では「レディー・ガガは正しい」と断言はできないが、少なくとも本作は、彼女がレディ・ガガとステファニーという謂わば完璧な幻想と実在の間にある「ナニカ」を見つめている姿が窺い知れるアルバムだと思うし、その「ナニカ」の正体を知ったとき、彼女がどういったことをするのかは、すごく興味がある。

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 昨年の『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』というアルバム「以降」の彼らは相当、峻厳でシビアなフェイズに入ってしまったことを示してしまう結果になったのは、その後のライヴ・ツアーやそのアルバム内容の受容のされ方をして慮ることが出来る部分があったかもしれない。くるりというバンドが"さよなら"を言うのが"ストレンジャー"ではなく、"見知った人(つまり、近しいファンとも換言できる余地はある)"だったところに「捩れ」があり、骨身だけになったバンド・サウンド、B面集のベストでオリコンの一位を取った形態、昨年の京都音楽博覧会での旧メンバーとのセッションを含めて、07年の『ワルツを踊れ』までギリギリまで保たれていた様々な「音楽とのロマネスク」、ロラン・バルト的に言うならば、「自分自身が定義されることを好まないこと」が解体され、09年の『魂のゆくえ』からはくるりとしての切断面から音符が漏れるようになった途端、喪ってしまった要素は確実にあったと思う。

 それは、「ばらの花」をいまだ求める古参のファンの慕情なのかもしれないし、「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の終わりなき青い時間への希求なのかもしれなかった。それでも、彼らは今でも武道館という大きなステージで『図鑑』というジム・オルークという組んだエクスペリメンタルなアルバムから「青い空」を早弾きで、観客を突き放すように「そんなことは言いたくないのさ」と駆け抜けた。「温泉の中での気持ちの良さのまま、魔法の絨毯に乗って、シャツを洗って、麦茶を飲みながら」、日常に着陸したはずの彼らの続きは異質/忘我の縁のどちらを往くか、しか残っていなかったような気さえするのに、それでも―。そのストラグルする姿勢には複雑な感情が喚起された。

 何故ならば、例えば、「さよならアメリカ」の後景には、はっぴぃえんど(HAPPY END)があった訳で、現今、同世代のスーパーカーがリ・モデルされ、中村一義が「愛すべき天使たち」へ向けて歌を紡ぎ、向井秀徳が「ふるさと」を朗々と歌い上げる中での彼らの立ち位置は微妙になって然るべきだったのは自明とも言えた節がある。岸田繁ソロ名義での『まほろ駅前多田便利軒』のサウンドトラックで、ボーナス・トラック的にくるり名義として収められた「キャメル」のクロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング、ザ・バンドのようなダウン・トゥ・アースの曲も決して新ビジョンを拓くものでもなく、今年明けからのライヴでも披露されていたが、『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』の中に含まれていてもおかしくない肩の力の抜けたささやかに漸進するような曲であり、仄かに胸を暖める叙情性は含みながらも、「行間」の妙が少し粗雑に思えたのは個人的な感慨だった。震災直後に、アコースティック・セットで京都の磔磔というライヴ・ハウスで観た彼らのライヴも奇遇か、前にも後ろに進めない感じが刻印された印象を受け、その曖昧さが良いケミストリーを生みだすバンドだけに、その曖昧さに自縄自縛になっている「気配」に遣る瀬無さをおぼえた。だからなのか、どうなのか、今回、彼らは一部の義捐活動を除き、チャリティー・ソングという形式などは全く取らず、ホームページで岸田氏の原発や震災の現状を憂う日記が綴られ、夏に向けてのイベントやフェス参加の告知が為されただけだった。

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 しかし、この「奇跡」は今のくるりの一つの分水嶺になる曲になることだろう。

 是枝裕和監督の『奇跡』の主題歌ということで、「キャメル」に引き続き、純然たる新しいくるりの新局面の打ち出しではなく、CMで繰り返し流れている新曲の「旅の途中」でもないのだが、それでも、「奇跡」には、同じく映画主題曲でもありながら、現在でも代表曲の一つでもある「ハイウェイ」に繋がるような、柔らかな希望の予感と詩情に繋がれている。ここでは直接、"奇跡"は歌われてはいないが、《退屈な毎日も 当たり前のように過ぎてゆく 気づかないような隙間に咲いた花 来年も会いましょう》なんてフレーズが挟まってくる。いつになく優しくたおやかな岸田の声とアコースティック・ギターの響き、決して高揚はしないが、淡々と刻まれるリズム、透いたバンド・サウンド。『魂のゆくえ』からベタッとした身体性に訴えかけるサウンド構築を心掛けていたような節もある彼らはここではただ、音楽の持つ透明感に「回帰」しようとしているところが興味深い。この流れのまま、次へと踏み出すという感じではないだろうが、3.11以降ですっかり変わってしまった世の中で《さぁ ここへおいでよ 何もないけど どこへでも行けるよ 少し身悶えるくらい》と今、紡ぐ意味は非常に大きいものがあると思う。

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 ここには、くるりの身体的な「痕跡」とともに、「モードへの旋回」がある。そこで、形容される名前は、日常に連結した奇跡とも言える願望のような別名である気がしてならない。すぐに前に進まなくても、ここで来年も会えたらいい。

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  まずは、タイトル名とその鮮やかな色彩のジャケットに目を奪われる。

"LOVE & REVOLUTION"という大文字を見て、そこで何故&の次に"PEACE"が来なかったのか、僕などは彼の代表作でもある『Other Directions』のシックさと既存のジャズではない、その他を目指そうとするオルタナティヴなセンスをして、マル・ウォルドマンとは別文脈、語義で"レフト・アローン"的な何かを求めていた部分があるが、それは良い意味で裏切られた。そして、いわゆる、クラブ・ジャズの実質的な終焉を示した作品としては決定打となるだろう。00年代後半から雨後の筍のように溢れたクラブ・ジャズとしてカテゴライズされた、打ち込みが混じり、スムースなジャズ・テイストのサウンドの機能性の「限界」を打ち破るのは何よりその名称を嫌っていたニコラ・コンテだったというのも興味深い。

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 彼は、ミュージシャンであるが、コンポーザー且つ、DJとしての資質も強い。

 だからこそ、エディット感覚も優れており、今回でも多くのフィーチャーされたアーティストを束ね上げ、適する場所に配置するのも絶妙だ。ちなみに、前作の『Rituals』から引き続いた参加アーティストは、ボーカリストとしてはホセ・ジェイムズ、アリーチェ・リチャルディ、トランペットのティル・ブレナー、ファブリッツィオ・ボッソ、ピアノのピエトロ・ルッス、バリトン・サックスとフルートのティモ・ラッシー、ドラムスのテッポ・マキネン、コンガとパーカッションズのピエルパオロ・ビゾーニョなど鉄壁の面々が揃い、今作では、ジャイルス・ピーターソンも絶賛していた女性シンガーのナイラ・ポーター、パートタイム・ヒーローズ、ネクストメン、ダブレックス・インク等々でフィーチャーされてきたガーナ系イギリス人の女性シンガーのブリジット・アモファーから、2011年のグラミー賞のベスト・ジャズ・ヴォーカル・アルバムにノミネートされたのも記憶に新しい『Water』でデビューした気鋭の男性シンガー、グレゴリー・ポーターといった新顔が涼しげな風を吹き込んでいる。勿論、ボーカリスト以外にも、サックス・プレイヤーとしての実力も評価が高いマグヌス・リングレンやクワイエット・ナイツ・オーケストラのリーダーでトロンボーンを扱うピーター・フレドリクソンなど多岐に渡すメンバーがそれぞれに良い働きをしており、色彩豊かな作品内に奥行きとふくよかさを付与することに貢献している。

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 今作は、ヴォーカル・トラックが主軸になっており、ウォームでオーガニックな空気感が全編を漂う。まず、吃驚するのが、冒頭の「Do You Feel Like I Feel」だろう。これは、ニューソウル的な雰囲気もあり、非常にスムースで、グレゴリー・ポーターの歌声もダニー・ハサウェイのようでソウルフルだ。これまでベースとしては、モード・ジャズを推し進めてきたニコラ・コンテの姿勢を知る人からすると、「モード」ではなく、よりポップ且つソウルフルな温度を手に入れたかったのか、と思うかもしれない。しかし、"黒さ"とは無縁と言っていいだろう、センスの良さとエレガンスなサウンド・メイキングが醸しだす音風景にはどうにも洒落た夜のバーやカフェに合うようなムードとたおやかでメロウで程よいクールさが備わっている。レアグル―ヴへの目配せがされた上で、更にリズムの細かさやグルーヴにセンシティヴになったのが伺える結果として、アシッド・ジャズのような「Black Spirits」からパーカッシヴで躍動的な「Ghana」、静謐なピアノが柔らかく女性ボーカルと絡み合うフィラデルフィア・ソウルのような雰囲気さえある「Quiet Dawn」辺りの曲は印象的だ。また、イントロでシタールが響く「Scarborough Fair」といい、中近東の音楽やアフロ・ビートへの配慮がより強くなっているのも特徴だろう。なお、ファラオ・サンダースやサン・ラーのようなスピリチュアル性に対しても向き合っているところも要所で感じることができるが、精神的な内面に潜航し、ときに難渋さを帯びる何かがあるというよりも、精神性の深遠越しに、もっとリスナーやオーディエンス・サイドへ開けた視点へと変換するセンスが上回っているというのは如何にも彼らしい。クラブで流れる絵が浮かぶ「Bantu」みたいな曲もあるが、基本、この作品はフラットに生きる人たちの平穏なる日常に寄り添い、少しの安らぎと華やぎをもたらすサウンドトラックとしての意味が大きい気がする。そして、彼に興味が湧かなかった人やクラブ・ジャズ周辺の音になんとなく距離を置いていた人にも届くものになった点は、何よりも評価はしたい。

 ただ、ベンサム的な再考証の観点を入れるとして、現在の「不自由な自由」とは人間の行動が快楽の追求と苦痛の回避に基づいた「効用」の合理的最大化によって成り立っているとしたならば、その「効用」面での最大化に寄与する音として今回のニコラ・コンテの音は"透明な"社会の要請によって成り立った、如何にも汎的でグローバルな音になってしまったきらいもあるのは否めない。モード・ジャズ内で収まっていた頃の彼は、ある種の「自由な不自由」を満喫出来ていた。しかし、この作品で踏み込んだ「不自由な自由」の中で、今後、より彼の刻印が押された音を出していけるのか、そういった岐路に立つことにもなった気がする。ジャズ・レコードとしての耳で捉えるのではなく、ポップ・レコードとしての文脈とクラブ・ジャズの歴史の終焉を重ね合わせながら聴くと、感慨深くなるものになった。

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 グローバル・コミュニケーションやハーモニック313名義などで長年活躍しているマーク・プリチャード。J・ディラとコラボレーションした「Eve」で知られるスティーヴ・"スペイセック"ホワイト。この2人によるユニットが、アフリカ・ハイテックである。そのアフリカ・ハイテックが生み出した傑作アルバム『93 Million Miles』は、ダブステップ以降のハイブリット音楽が迎えたひとつのピークだ。ダブステップ自体が非常に順応性が高い音楽で、人によってはアティチュード的な視点で見るくらい曖昧なものだが、見事に2人は、その曖昧さと順応性をうまく活用している。

 僕が分かるだけでも、初期のレイヴやアシッド、ジャマイカン・ダンスホールにグライム、さらにはジェイムス・ブラウンのようなソウル・ミュージックの要素まで垣間見れる。他にもトライバル・ミュージックや、ジュークのような最新型ゲットー・ミュージックもあったりと、20年以上ダンス・ミュージック・シーンの最前線で活躍してきた2人の歴史と同時に、現在進行形で進んでいるモダン・ミュージックが交わることで生まれているのは、一歩先の未来。つまり、2012年以降のベース・ミュージックが進むべき道のブループリントが鳴らされている。正直、若いアーティストがこうしたアルバムを作り上げたら、より大きな衝撃をもって受け入れられたかも知れないけど、本作が傑作であるのに変わりはない。

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 あくまで個人的な意見である。2011年のシーンを決定づけるアルバムはグループラヴが今年の秋にリリース予定のデビュー盤であり、とびっきりホットで長くなりそうな夏にへヴィーローテーションされるべき曲は彼らの「Naked kids」か、もしくは「Colors」のほかにない。グループラヴがいったい何者なのか、ここ日本では彼らのプロフィールさえまともに紹介されていないが、どうやらロスを拠点に活動しているようだ。5人のうちロンドン出身のメンバーが一人いて、あとはアメリカ人で、ギタリストはイエスの元メンバーの息子だそう。そのサラブレットが所有している家のスタジオでグループラヴの曲もレコーディングされている。デビューして間もなくフローレンス・アンド・ザ・マシーンの前座としてアメリカ・ツアーをまわり、名を広めた。そしてNMEが選ぶ2010年の「ソング・オブ・ザ・イヤー」の上位に彼らの「Colors」がランクインされる(わたしは1位でも良かったと思っている。身震いがするくらいの名曲である)。そこから私のような「自分たちの日常を変えてくれるようなインディバンドがいないか、常に嗅ぎまわっている」音楽ファンたちのあいだでざわざわし始めたのである。
 
 アーケード・ファイアのファーストにあった祝祭のフィーリングを思い出してみてほしい。あるいはアークティック・モンキーズが「When The Sun Goes Down」のワン・フレーズで60年代を羨望の眼差しで追いかける必要なんかないくらいの興奮を私たちに与えてくれたあの瞬間を思い出してみてほしい。リバティーンズが信じがたいくらいにティーンを熱狂させた、フラジャイルだからこそ魅力的だったバンド・ドリームでも構わない。こんなにもエモーショナルでフリーな音楽を、あなたは愛せずにいられるだろうか。ソングライティングのアイデアがずば抜けていて、コーラスを務める女の子のキーボディストが最高にチャーミングで、ドラムがずっしり心臓に響いてきて、ほかに必要なものなんてある? いまのティーンには彼らがいるのかと思うと、わたしが3年以上も前にそれを卒業してしまったという事実が残念で仕方ない。とにかく今回紹介したこのEPに収録されている楽曲はどれも傑作で、とくに「Colors」は何だかもどかしくなるくらいの名曲です。もう称賛の言葉は使い果たしました。もう一度書きますが、彼らのニューシングルが夏にリリースされて、秋にはデビュー・アルバムの全貌がついに明らかになります

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 イギリスのメディアは、「ギター・ロック復権を象徴するバンド」みたいに騒いでるみたい(特に『NME』が)。バンドを徹底的に持ち上げて、シーンを作り上げようとするやり方は相変わらずですね、ぷぷっ。まあ、見習うべき部分もありますが。さて、このヴァクシーンズという4人組は、いい意味でそんなメディアの期待にそぐわない素晴らしいデビュー・アルバムを作り上げてきた。『ヴァクシーンズに何を期待してんの?』というアルバムタイトルも秀逸だが、主にロカビリー、ブルースの影響が窺える曲群も、グッド・メロディとロックンロールのグルーヴがうまく同居していて、リスナーの心を楽しませてくれる。特に親しみやすさすら感じるメロディは、ジェイ・ジェイ・ピストレット名義としてロンドン・フォーク・シーン界隈で活動していた、ジャスティン・ヤングのソングライティング・センスによるものだろう(ちなみに僕は、彼がジェイ・ジェイ・ピストレット名義でリリースした「Happy Birthday You EP」も持っているのだけど、これもなかなかの良盤)。

 リヴァーブが多用されたサウンド・プロダクションは、もろにチルウェイヴ、グローファイの影響を感じさせるが、イギリスにも数年遅れてそれらの要素が本格的に上陸してきたということだろう。国内盤のボートラ「We'Re Happening」の歌詞の一部を引用させてもらえば、≪俺たちこそ「今起こってる」ことなんだ≫といったフレーズがあるように、「自分達が好きなことをやる」のが姿勢。これは現在のUSインディー勢にも通じるフィロソフィーだが、ヴァクシーンズの場合、それは意識したというより、ほぼすべての新世代に共通する「趣味性の高い個人的な快楽」によるものだろう。そして、その新世代によって作られたアルバムが、全英4位という形で多くのリスナーに共有されているのはすごく興味深い。そんな『What Did You Expect From The Vaccines?』を聴くと、新しい価値観の胎動を感じる。


*インタヴュー記事はこちらに掲載されています。【編集部追記】

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 アメリカの詩人ローラ・ライディングは『語ること』の中で、我々には語られるべき何かがあって、それが語られるのを皆が待っており、不本意な「無知」の状態下で、それでも、人は古い人生、新しい人生、捏造された人生などを巡る物語に進んで耳を傾けると述べている。そして、尽きはしない好奇心の時間を何らかの形でも埋めてくれるものはないか、という熱量が動かすものはあるかもしれないが、それは結局代わりにはならないし、なれないと敷衍する。空虚は空虚のまま、「語られる」。だから、何をどう語られるか、静かに待ち続けるか、しかない。そんな待つための時間に合う音楽は、僕はポップであるべきだと思うときがある。

 トッド・ラングレンやXTCをはじめとして、彼らは大きな意味を求めない代わりに、語られるべき何かを「ポップ」という言語に置換して、多くの人たちの好奇心が募って何かを追いかける隙間の時間を埋め合わせてきた。しかし、ポップと呼ばれるものの背景でアーティストはパラノアックになってゆく過程に入っていった事例は枚挙にいとまがない。「伝統形式としてのロック」としてのそれは続くのに、何故に「ポップを響かせるのは難しいのか」。やはり、作り込む中で自家中毒的な状態に陥ってしまうからなのか、それとも、細部に神は宿るがゆえに、その宿らせるマジカルな瞬間を彼らも「待ち続ける」だけしかないのか、昨今、聴いていて胸が躍動するような現代のアーティストのポップな作品と出会う機会が減ってきているのは自分のアンテナの怠慢もあるにしても、絶対数としても、ポップを迂回しようとしている動きさえ感じる。

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 ベルギー出身の四人組の2年振りの新作。前作をソウルワックスが手掛けたこともあり世界的にもブレイクしたが、今作ではセルフ・プロデュースで、自分のスタジオで音作りを始めていったという。では、前作との変化はあるのか、というと、目立った点では、80年代的なギターとエレクトロニクスの折衷が見られる以外、引き続き、「ポップ」であることに忠実な内容になっており、素晴らしい。ここには、ジェリー・フィッシュ、ファウンテインズ・オブ・ウェインのようなパワーポップの煌めきもペイル・ファウンテンズやアズテック・カメラなどのネオアコ的な繊細なメロディーも、そして、稀代のポップ・メイカーであるエルトン・ジョンやブライン・ウィルソンへの畏敬の念にも溢れている。つまりは、弾んだムードと美しいメロディー、リリシズム、練り込まれたサウンドスケープの中で「音楽自体が愉しそうに戯れている」。

 これだけ健やかにオーセンティックなポップに対峙したという意味で、どちらかというと、少し真面目過ぎると思ってしまう人も居るかもしれない。例えば、スクイーズのようにもう少しのひねくれた部分を求める人からしたら、あまりにまっすぐなポップが全編で貫かれているのも否めない。ただ、例えば、「Skip The Rope」でのピアノが鳴り響く叮嚀なメロディーライン、ベル・アンド・セバスチャンのようなナイーヴさが映える「Fair Weather Friends」、「I Me Mine」の伸びやかな高揚感など、純粋に音楽としての心地良さが先立つ。

 時代を引っ繰り返すとかシーンをかき回す、とかそういった大それたアルバムではないが、この作品に出会った人はこれからもずっと大事にしていけるようなものになったと思う。様々な刺激的なサウンドが溢れ、犇めき、どうにもまっすぐポップに向き合うバンドは陽当たりがいい訳ではないのも実情だ。でも、ダス・ポップのような存在が居なくては困る。聴かず嫌いは抜きに、より多くの方に届いて欲しい快作。

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 人の「行為」によって「場」が形成される場合もあれば、「場」が人の「行為」を引き起こす場合もある。例えば、さして喉が渇いているわけではなくとも、水飲み場に行けば水を飲みたくなることがこの場合に該当する。

 メトロノミーが前作『Nights Out』で志したものの一つに、当時隆盛を誇っていた「ニューレイヴ」なるムーヴメントへのカウンターがあった。それは「ニューレイヴ」存在下においては、「クラブ」という「場」が人を脅迫的に「ダンス」という「行為」に駆り立て、「踊らなければならない」という空気を形成していたと、彼らが捉えていたからだろう。だからメトロノミーは前作で「踊らなくてもよい」という音楽を提示し、その張りつめていた空気に穴を開け、さらにそこから抜け出てくる空気を音像化した。だからこそ、彼らの音はあんなにも「どこにも向かっていない」のだ。彼らは「踊らなくてもよい」音像を確固たるコンセプトとして提示するために、一つのコンセプトを立てた。それが「報われない夜」というコンセプトだ。前作の1曲目「Nights Out」におけるシンセサイザーの異様な響きがそのコンセプトの始まりと終わりを同時に鳴り響かせる。その音は「報われない夜の予感」と「報われなかった夜」を同時に内包している。そして、その通りに主人公は女性と「報われない」時間を過ごす。そしてこの「報われない物語」はまた振り出しに戻る。彼らは期待と失望が「ループ」するナイトクラビングをこのように「報われない物語」としてまとめあげた。

 そして彼らは新譜『The English Riviera』を上梓する。前作のプログレッシヴなサウンドに古のアメリカのウエストコーストサウンドが溶け込み、宅録作業中心だった今までの方法からスタジオ録音中心の方法へと移行し、今作の音像は全体的に非常にメロウな仕上がりになった。

《この街は僕の一番古い幼馴染 僕らは上がり、落ちて行く いつもこの街を駆けずり回っている そしてこんなうわさを囁かれていたと思いこむ これよりマシなものは得られない》
(「The Look」)

 彼らは前作では「報われなかった夜」に「囚われていた」。前述したようにそのあらかじめ決定されていた運命を彼らは知っていたわけではなく、ただ「予感」としてそれを認知し、そこから抜け出るための淡い「期待」を抱いていた。しかし、その「期待」は打ち破られ、それは「報われない物語」として回収されてしまっていた。このアルバムでは、彼らは「街」に「囚われている」。

《あなたを連れ戻した時は また逃げ出すかと思ったけど まだここにいるわ》(「Everything Goes My Way」)と昔分かれた女性に囁かれ、同曲で《僕はもう逃げ出さない ああ、ここにいるよ どこへも行かないよ》と歌う。彼らが「街」に「囚われている」のはもはや自明である。

 その「街」の中で、「彼」は「彼女」がすやすやと眠る顔を見つめて《疲れるなんて見込みも吹き飛んでしまった》(「She Wants」)と安らぎを感じることもあれば、《僕は出掛けたくない 君は家にいたくない また口論になるだろうな》(「Trouble」)と「街」どころか「家」から出たくない思いに駆られている。時に思い切って《だけど、早く出て行かなきゃ》(「The Bay」)と思うものの、同曲で《この入江はとても快適な場所》であると感じており、結局「街」から出ることはできない。

 このままでは彼らは前作と同様の「報われない物語」から抜け出ることができない。しかし、ここで2曲目「We Broke Free」に注目してみよう。前作では1、2曲目のインストゥルメンタルナンバーが「報われない物語」を明確に表現していた。『The English Riviera』では「物語のはじまり」はどのように表現されているのだろう。

《用意はいいかい 君を街に連れ出そう とても素敵なものが見られるはずさ こんな宝が僕のものだなんてありがたい 僕らが立つこの丘のこの場所で ずっと君のことを思ってきた いつの日か手を携えてここまで登ってくることを こんな宝が僕のものだなんてありがたい》(「We Broke Free」)

 そう、彼らは「物語のはじまり」で「街」という「物語」の中に「君」という「宝」があるということを歌っているのだ。「街」から抜け出ることはできないが、その「街」の中にこそ、最も大切なものが存在しているのだと歌っているのだ。そしてこれも、前作における冒頭の2曲と同じように、「街という物語」の「終わり」も歌っているということは、最終曲である「Love Underlined」を聴けばわかる。

《時に辛いのかもしれない 目を見開いて僕を見つめ続けるのは でも今夜手を握り合っている間は 僕らは未だ際立つ愛の中なのさ》(「Love Underlined」)

 彼らはこのようにして「街」という物語を突き詰めてゆくことで前作では越えられなかった「報われない物語」を内側から食い破った。彼らの音を聴いて、その佇まいを見て、多くの人間は彼らが「どこにも属さないアクト」だと感じたかもしれない。しかし、彼らの素晴らしさは一点に止まり続けることによって「閉塞」を打破したということなのだ。「報われない物語」が、「報われる物語」になったのではなく、「報われるかもしれない物語」になった。この「物語」という言葉は「日常」という名前だったとしても、きっと差支えないだろう。

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