reviews: April 2011アーカイブ

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SCREAMADELICA.jpg よりクリアーに世の中を見渡すために、理論武装のカードとして所謂、"ヘッド博士の世界塔"からハウスへの文脈を敷くことがクールな時代があった。日本におけるバブルという、在った筈の時代(僕自身が物心付いたときには、既に残骸しか残っていなかったので、後追いでの動きしか分からない)では、より自意識を<外部>に置けるかどうかに意味が持ち上がってくるような磁場があり、そこには引用と解釈のタグ付けで膨れ上がった思想書を持っておくことで、何らかの護符として役割があった。というのは"逃げ切れなかったであろう"大文字のポストモダニストたちの回顧録だとしても、インディ・ロックがどうにも追い詰められていた瀬において、マイノリティとしての結束が赦された場所はハウス・カルチャーの<内部>にあったのは間違いないとも言える。

 ナイトクラヴィングやフロアーに対して距離がある人や非フロアーの人たちでさえ、90年から91年にかけてリリースされた四枚の12インチ・シングル、「Loaded」の昂揚、「Come Together」の肯定性、「Higher Than The Sun」のサイケデリックな陶酔、「Don't Fight It,Feel It」でのソウルフルな熱量には動かされたものはあったことだろうし、そして、これらの作品にアンドリュー・ウェザーオール、ジ・オーヴ、元PILのジャー・ウォブル、808ステイトのグラハム・マッセイたちが参加していたように、プライマル・スクリームというバンドがネクスト・フェイズに入っていた気配に躍動をおぼえた人も多かっただろう。スコティッシュ・ポップ、アノラックの温度を濃厚に感じさせた瑞瑞しいファースト・アルバム『Sonic Flower Groove』、一転してのガレージ・ロック方面に振れたセカンド『Primal Scream』での軌跡からの軽やかな脱却と、セカンド・サマー・オブ・ラヴ的な全方位性を持ったラヴ・アンド・ピースへの傾倒。その先には、実際のクラブがあったとしても、または、ベッドルームがあったとしても、ロック/ダンスが折衷されたユーフォリアをリプレゼントしたものが91年の『Scremadelica』という怪作だった―。

 というレジュメを敷くにはあまりに拙速過ぎるかもしれない。ストーン・ローゼズ、インスパイラル・カーペッツ、ハッピー・マンデーズらの築きあげた「愛の夏」とはまた違った形の距離と熱を持っていたからこそ、今でも『Screamdelica』の周縁には数えきれないほどのアーバン・ブルーズもロック・スピリットも散らばったままだからだ。

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 例えば、アシッド・ハウスが西欧のドラッグ・カルチャーと密接に結びつきながらも、(暗黙裡に)そういったカルチャーが根付いていない日本で今でも熱烈に愛される『Scremadelica』とは果たして何なのか、と考えると、そう簡単なものではない気がする。

 思い返すに、スーパーカーがシューゲイズから抜けて、大胆な打ち込みを取り入れ、バレアリックな融和点を見出した『Futurama』から「Strobolights」辺りの煌めきや、いまだにクラブでパワースピンされるくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」といった、"何処へでも行ける"という感覚が要請した00年代前後の景色が示唆するものは、タイム・ラグの問題だけではなく、基本、シーンと呼ばれるカテゴライズが無縁化し易い島国のカルチャーの時差と換言出来るかもしれないからだ。"文化が遅れてやってくる(根付く訳ではなく)"、それはもしかしたら包摂と排除の論理からすると、シビアなラヴ・アンド・ピースへの審美眼(とシニシズム)を持っているからこそ、との着地点を探し出せる可能性があったとしても、現在進行形で局地化を余儀なくされた「大きな物語」の中で再生される幾つもの挿話にいまだに胸躍らされているトライヴを居る訳で、そうなると、00年代以降で決定的な「共通言語」としてのロック・ポップが無くなったと憂う「結論を急ぎ過ぎる人たち」(多くは年を取るのを急ぎ過ぎた層に限定される傾向がある)の嘆息と仄かな距離感とも繋がってくる。

"それ"は、個人的には「在った」と思っていたものが「在ったように見せかけられていた」だけだったのだというフィクション感覚に依拠してもくるのが厄介でもあるが、何かがあるように語るとき、その背景には何もないかもしれない、という疑念が同居していないといけないとしたら、今、10年代に入ってロック/ダンスについて正面から語るとき、どのような意味があるのか、または、どこまで斜めからの視野に入れるべきか、悩んでしまう。同時に、ロックへのピュリズムや教条主義がときに同調圧力として働いてしまう動態を引き離すためにダンスという装置性が求められたという事柄も考慮に入れなければならない。この場合、ロック/ダンスは「引き裂かれる」ものではなく、アンビバレントなものであるというのが大事な点になってくる。容易にクリアランスは出来ないこういった難題への一つの処方箋として、今、『Scremadelica』について考えてみる時間は無意味ではないと思う。

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 しかし、僕はリアルタイムで接したものではなかったのもあるが、この作品に対してアップリフティングされたというよりも「なにもないから、ある」という表面から滲み出るプライマル・スクリームというバンドの身軽さとヘナヘナな意志に胸打たれたもので、どう捉えるべきなのか、いまだに分からない部分がある。理論武装して語るハウスや論的な整理をするインディ・ロックでもない場所に佇む、"シングルを集めたコンピレーション集"という体裁を持っていたからこそ、今まで語り尽くされることが無かった作品だからこそ視えないのか、色々と考える。

 勿論、アンダーワールド、ダフト・パンク等の名は挙げるまでもないにしても、ロック/ダンスのフィールドからも、例えば、フランツ・フェルディナンド、ザ・ラプチャー、フレンドリー・ファイアーズ辺りが出てくると直ぐに参照点として挙げられざるを得ないメルクマールであるのだが、今、世界各地で行なわれている再現ライヴの映像を観る分には、もっと理論の枠組やロック/ダンスへの直接的な影響から逸れてゆく何かがある。ノスタルジーでもなく、プログレッシヴでもない、しかし、ゴスペル・コーラス、ブラス・セクションがステージの上で混じって豪奢に『Scremadelica』というメタベタな作品がダイレクトに適度に加齢化して、老若男女入り混じったクラウドの前に提示される光景は感動的としか言いようがなくて、僕がプライマル・スクリームという組織体に持っていたフラットな意識さえも超えてくる。それを感応するために「20年」という歳月があった、と言えるならば、あらゆるものが柔らかく「年をいった」ということなのかもしれないし、"愛の夏"へ近い何らかのフレーズが遅延され続けていた感覚に漸く自分の中の季節が追い付いたとも継ぎ足せる余地もある。

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 今の季節において、アシッド・ハウスが必要かどうか、など勘繰ることは野暮だろう。

 但し、急激な勢いでリヴァイヴァルなのか再発見なのか分からない形で、ディスコやハウスが発掘される引力を「引き剥がす」表層をサーフしてゆく91年の空気を刻み込んだこのリアリティは音楽が元来備えていた筈の「愛に近いムード」を埋める何かを持っていた作品でもあるから不思議にも感じる。そう考えてゆくと、遅れていたのは、(自分を含めた)フロアーや現場に溢れる愛に近い何かや憎悪やアルコールやセックスや倦怠をかき混ぜたその「向こう側」に昨日とは地続きではない違う朝が迎えられると思っていた人たちだったのかもしれない。

 全体性には収斂しなくても、一部として全体性に繋がることが出来るという導線を敷いて、対峙してみる『Screamadelica』は、峻厳な文化状況にある日本のみならず、緩やかに終わりの終わりに向かうグローバリゼーションの急進化の波で、個々の享楽性さえもコロニアル化されてゆく"抑圧"をかわす光がある。だからこそ、アシッド・ハウスに影響を受けた形でも全面的にダンスの持つ全能感のみに触れておらず、セカンド・ライン風のリズムが目立つ「Movin' On Up」にしろ、切ない南部ロック風のバラッド「Damaged」が入ってくることの意味も大きい。天上へと昇る(Higher Than The Sun)ためにはいつ何時、地へ落ちるかもしれない、という憂慮も必然と同居することになる。ここには、まだ日常に連結される形でのパレードの続きはあるということなのだ。

 やはり、『Screamdelica』はまだ誰のものでもなかったのかもしれない(そして、誰のものでもあったのかもしれない)。ゆえに、混沌たる今の時代下で"20年目の『Screamadelica』"は「あなた」が決して戦わず、感じること(Don't Fight It,Feel It)の意味の再定義を静かに求めてくる。今夏は愈よ日本でもサマーソニックでパフォーマンスを観ることができる。

(松浦達)

*プライマル・スクリーム『スクリーマデリカ(20周年アニヴァーサリー・エディション)』通常盤およびDVD付豪華仕様の完全限定生産盤の二種類が発売中。また、COOKIE SCENE MOOK第2弾でもSide AAにて表紙及び特集記事を掲載しています。【編集部追記】 

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moby.jpg モービーというアーティストは、その懐の広さと「浅さ」において世界でブレイクしているアーティストの中でも珍しい類いに属すると思う。ブライアン・イーノのような高尚さにも、ペット・ショップ・ボーイズのような汎的なポップネスにも引き裂かれないまま、エレクトロニック・ミュージックの「真ん中」に立ち、アンビエントにもフロアにも可能なサウンドを作り続けて、今でも世界中では99年の『Play』は勿論、「Porcelain」などはあちこちで「馴染んでいる」。打ち込みベースの中に、ゴスペル、ブルーズ、R&Bのエッセンスを混ぜ込むことで、国境やジャンルの垣根を越えて、多くの人に届いたのは周知のことだろう。

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 09年の『Wait For Me』から2年振りとなる今作では、彼がアメリカの空港に居るときに淡々と流れるアナウンスメントである"Unattended luggage will be destroyed(置いたままの荷物は処分されますよ)"からインスパイアされたタイトルになっており、一時滞在場所である空港やホテルなどに居る時に感じる"destroyed"な気分の催眠性についてのサウンドトラックのニュアンスが強く、ツアーの最中にホテルの真夜中に書いた曲を集めた所為か、アップビートが際立つ訳ではなく、淡々としたビートが印象に残るような、どちらかというと、『18』に寄った様なたおやかなムードがある。もしかしたら、エアポート系のラウンジ・ミュージック枠で括られてもおかしくないくらい、まろやかなサウンドスケープの中で彼らしい人肌通った電子音と音響設計が為され、自身の声以外にも、ふと、ニューヨークを拠点に活動するエミリー・ズジックや美しいソプラノを持つスウェーデン人のアンナ・マリア・フリーマンなどの女性ボーカルがカット・インしてくる。

 僕自身は、彼が昨年にブログで今作のサウンドのインスピレーションになったアーティストにシルヴァー・アップルズ(初期)、OMD、デヴィッド・ボウイなどの名前が挙がっていたことから、ディスコやダンス方面へのシフトではなく、アンビエントな流れに沿い、そう、05年の佳作『Hotel』のディスク2(アンビエント・サイド)に繋がってくるような「何か」を想っていたが、その予想は遠からず近からず、といったところだろうか。例えば、昨今、隆盛しているチルウェイヴ・グローファイが別名として"ヒプナゴジック・ポップ"と言われるように、緩やかに入眠を誘い出すような柔らかさが特徴になっており、それをときに覆すような尖りがふと見えるのもモービーの本懐ともいえる。昨年のロイクソップ『シニア』辺りとの共振も感じるものの、もう少しこちらの方が大味で明らかに風呂敷が広い。その大味ゆえに、世界中の多くの深夜のベッドルーム、また、午前2時以降のクラブで流れるべき音になった気もする。

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 目立った曲に触れると、1曲目の「The Broken Places」は「Porcelain」直系のサウンド・シークエンスが美しいものになっており、引き込まれる。3曲目の「Sevastopal」ではビートが跳ねるベタなダンス・チューンだが、踊らせるという機能性よりは、もう少しチルアウト的な雰囲気を孕む。12曲目の「Stella Maris」は白眉だろう。まるで電子化された讃美歌のように前述のアンナ・マリア・フリーマンの声が加工されながらも、荘厳とした音響空間の中を泳ぎ、流麗な静謐を紡いでいる。

 多くの都市生活をおくるインソムニア、インソムニア予備軍に「効く」音楽のみならず、モービーというアーティストが幅の大きいステップだとしても、"深夜2時のためのサウンドトラック"を作ろうとしたときに、これだけメロウなものになってしまうという証左を示した意味でも興味深い作品になっており、もう、「Go」と言わなくても、「Blue Moon」が待っている境地に彼も辿り着くことが出来たということなのだとしたら、加齢と草臥れは明らかに感じるものの、それ以上に音楽によって還ってゆく場所を「確保」出来たような気概に満ちた美しい作品になったと断言できる。

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 歳を重ねて、ビート・センスやサウンド・メイクの先鋭性は無くても、こういった作品をふとドロップしても許容されるシーンの「成熟」ならば、寧ろ、好ましささえ感じる。「不眠のまま、踊ることもできる」し、「踊りながら、夢を見ることもできる」―そういったアンビヴァレンスを備えた、なかなか良い作品だと思う。

《Oh when  you had  no time to give Oh when I had no life to live But my mind was low(あなたに時間がなく 僕には生き甲斐がなくても 僕の心は平静だった)》(「After」)

「過去形」のアーティストになりつつあったモービーは、今作でほんの少し同時代的な温度を取り戻した。しかし、微妙にズレがあるのも彼らしい。

(松浦達)

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All-Tiny-Creatures.jpg これだけカラフルでハッピーな音楽を、ヒゲだらけのお兄さん方に演奏されては堪らない。オール・タイニー・クリーチャーズは、ペレを前身バンドとするコレクションズ・オブ・コロニーズ・オブ・ビーズ(CoCoB)や、ヴォルケーノ・クワイアーなどで活躍している、トーマス・ウィンセクが率いる新たなバンド。本盤が1stフルアルバムとなる。ゲスト参加しているヒゲだらけのお兄さん方は、ボン・イヴェールことジャスティン・ヴァーノン(ヴォルケーノ・クワイアー繋がり)、プレフューズ73との親交が深いヘラド・ネグロことロバート・カルロス・ラング、メガファウン(ジャスティン・ヴァーノン繋がりであろう)と、親交のある者同士である。そのためか、アルバム全体を通して開放的で颯爽としており、良い意味で肩の力が抜けているようにも思える。
 
 アルバム前半は、トライバルなリズムが軽快に駆け回り、ミニマルな反復からじわじわと清々しさや多幸感といったカタルシスが得られる。幾重ものコーラスに覆われたウィスパー・ヴォーカルがポップに漂う。後半へ進むにつれて、徐々にビートが薄まり、反比例するようにサイケデリックなアンビエンスが噴出し始める。踊れるトライバル・ビートは消え、ずぶずぶとサイケな世界へ溺れていく。
 
 この一連の流れが、実に違和感なく紡がれている。ハッピーな雰囲気が、緩やかにサイケデリックでトランシーになっていく様は、非の打ちどころがないくらい見事である。また、本盤の主軸となるのは、終始印象的に響いている、プリミティブで生々しいドラムの音であると思うのだが、だからこそその主軸が後半に霧消してしまうことで、深いところに引きずり込まれてしまうような、サイケデリックの妙に溺れられるのだろう。楽器の鳴り方も電子音の配置も、クールでインテリジェンスな配慮と調和が施されている。50分程度の、あっという間の白昼夢である。

(楓屋)

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Cat'sEyes.jpg ゴシックな雰囲気とサイケデリアを、刺々しいホワイト・ノイズに包んだ『Primary Colors』。ザ・ホラーズが09年にリリースした名作には、不穏な空気と言い知れぬ恍惚が同居していた。

 あれから2年、フロントマンのファリス・バドウィンのソロ・プロジェクトが届けられた。相手はヴァンクーバーのオペラ歌手兼マルチ・インストゥルメンタリスト、レイチェル・ゼフィカ。黒服に身を包み並んだ二人には禍々しくも麗しい雰囲気が漂う。かつて、ホラーズのPVを監督したクリス・カニンガムが美実を手がけたからということもあるだろう。だが、そこには背筋がすっと寒くなるような妖しさと、それでいて見つめずにいられない美しさがある。
 
 このプロジェクトのインスパイア源となったのは、ジョー・ミークとフィル・スペクター、そして映画『ダーティー・ダンシング』だそうだが、ひとたびプレイ・ボタンを押して流れ出すのは余りにも流麗なポップネス。ファリスのテナーとレイチェルのソプラノは滑らかに溶け合い、オーケストラに彩られたメロディは息を呑むほど洗練されている。ノイズを撒き散らすディストーション・ギターは、物語の暗部を描いているのだろう。アルバム全体としては、まるでディズニー映画の1シーンに迷い込んだよう。そんな印象をリスナーに与えてくれる。

 このノスタルジーを感じさせるポップなプロジェクトを経て、ホラーズは次にどのような動きを見せるのか楽しみでしょうがない。

(角田仁志)

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tape.jpg ストックホルムの音響トリオによる5枚目のアルバムが、同じくスウェーデンのHapnaよりリリース。テープと日本との関連といえば、テニスコーツの名盤『タンタン・テラピー』のプロデュースが真っ先に挙げられる(演奏の安定感も抜群であった)。彼らを看板バンドとするHapnaもまた、日本人アーティストの角田俊也氏をレーベルにおける最初のリリースとしているあたり、日本との接点は多いようだ。
 
 三人のメンバーの内、ヨハン・バットリングとトーマス・ハロンステンはジャズ界隈を出自としている。残るアンドレアス・バットリングもまた、ジャズ的な語彙は備えているに違いない。こういったポスト・ロックは「ジャジー」という表現で括られる傾向があるが、「ジャズ」と「ジャジー」は、ニュアンスからして似て非なるものだ。たとえば往々にして、前者はインタープレイ・ライクで内省的な音像がイメージされ、後者は繊細なアルペジオや軽妙なテンション・コードなどをイメージするものであろう。また、スタンダードなジャズは、ジャジーなポスト・ロックのように、同じフレーズを延々とループすることを好まない。息づかいを感じる距離での、いわばアドリブ合戦であって、「平坦なループによって得られるカタルシス」は、ジャズの文脈には縁遠い。
 
 そのため、ジャズを出自とするプレイヤーがポスト・ロックへ転身するということは、培ってきた蓄えでもって飛躍(博打?)してしまうような、「だ、大丈夫なの?」といったはらはら感を伴っているものだと思う。そりゃ、アカデミックでテクニカルな演奏ができるのにもかかわらず、人力ループに徹するなんてことは、とてもクールである裏腹、抑制された本人はジレンマに駆られることだってあるだろう。テープの生楽器(特にドラムス)は、本当に「ジャズ出自」を思わせる叩き方と鳴り方であって、「ジャジー」を起点としたアーティストとは全く異なる、説得力のある楽器隊だ。中空を舞うような電子音も、添える程度に制されているのが良い。
 
 前作『ルミナリウム』での、浮遊感ある電子音がたゆたいながら、フリーキーな演奏を繰り返し演奏するようなエクスペリメンタルさは剥落した。本盤『リベレイションズ(天啓とでも解釈できるか)』では、トータスあたりが時折覗かせるような不穏な空気は纏わず、もっと素直に気持ちの良い音を鳴らすだけ鳴らしている。どちらかといえば、タウン・アンド・カントリーなどの清涼感を想起させる。災害時、日本政府はスウェーデンからの支援要請を一度断ったようであるが、お願いだから来日公演してくれないかな。

(楓屋)

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belong.jpg CarparkやTable Of The Elementsなどからのリリースでも知られているニュー・オリンズ発の男性デュオ、ビロングが実質初となる1stアルバムをリリース。空間を埋め尽くすフィードバック・ノイズの中で漂うソフトでメランコリックなヴォーカルと辺りを真っ白に照らすような眩しいシューゲイズ・ギターと淡々と刻むドラムマシーンからのリバーヴのかかったビート。それらが絶妙なサジ加減で掛け合わさり、どこまでも透明的でフワフワでモヤモヤな音像なんだけれど、ちゃんと1本筋の通った面白い音世界を構築しています。歌とビートの役割も大きく、これまでのノンビートで甘美な荘厳シューゲ・アンビエント・ノイズのサウンド・イメージを更にポップに押し広げた作風。ちょっぴり懐かしいようなローファイ感とデリケートなアンビエント・ノイズがあちこちに巻き散らかれていて、睡眠導入時にもぴったりな聴き心地の良い作品です。

(星野真人)

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ggd.jpg メキシコの詩人オクタヴィオ・パスに『クロード・レヴィ=ストロース』という本があり、この中で「レヴィ=ストロースを人類学の新しい流れのなかに位置づけようとは思わない」と述べ、その文章にはベルグソンとプルーストとブルトンという異質な3人が棲んでいると指摘をしたとともに、『悲しき熱帯』については、彼の意識とは「同一性」ではなく「類縁性」に向いているということを仄めかす。同一と反復の中で繰り返され、再定義され続ける「芸術」と呼ばれる分野にもそれは介入する。ギャング・ギャング・ダンスは、その名前とは比して、同一性と反復の構造を越えて、答えが出ない「問い」を求めようとする。そこでの「問い」はだからこそ、何かへの連帯を求めるのと同時に、何かから離れてゆく。

 アニマル・コレクティヴ、バトルス、TV・オン・ザ・レディオ辺りの活躍もあり、盛り上がりをみせるニューヨークのシーンの地下水脈沿いに、様々なアイデア、センス、異国情緒をトライバルなダンスとポップネスをフリーキーに折衷させた08年の『Saint Dymphna』は当時、多くの人たちに喝采をもって受け入れられた。何よりもマルチカルチャリスティックで、"ムードとしての"エキゾチズムではなく、ボードレールやヴィクトル・ユーゴの詩群の断片的に宿るロマンティックな馨りと内側から迸るような「静かな混沌」と呼べるものが美しく発火していたのが良かったのかもしれない。クラクソンズやホット・チップなどのアーティストからも称賛を受け、00年代後半のユーフォリアさえ帯びていたニューヨークのブルックリンを中心としたインディ・シーンの重要な存在の一つへとギャング・ギャング・ダンスを引っ張り上げたのは記憶に新しい。

 思えば、前身バンドとなるDEATH & DYINGを経て、01年に結成された彼らは、アニマル・コレクティヴ、ブラック・ダイスと共にブルックリンの雄と称されながらも、比して、ライヴ・パフォーマンスの確かさなども周囲に認められていったものの、如何せんポピュラリティを得るというよりは、独自のコア・ファンによって愛されていき、その輪が拡がってゆくという表現をすればいいのか、ブルックリン・シーンの中でも一際、「異端」の場所に居続けていた気さえするが、前作でのブレイクを踏まえて、この三年間の中で、より洗練を極め、「成熟」した。その結果、アヴァンギャルドとポップネスのバランス感覚の鬩ぎでは、より後者側に傾ぎ、叮嚀なサイケデリアが持ち上がってくるスマートなポップ・レコードを上梓することになったという流れは面白い。

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 今回、4ADとアルバムの契約を交わし、初めてとなるこの新作『Eye Contact』では、ポップ・シーンへの浮上を感じさせる求心性に溢れている。例により、紅一点のリジー・ボウガツァスのボーカルもシャーマニックな響きを含みながらも、縦横無尽に駆け巡り、生演奏のインプロヴィゼーションとエレクトロニクスの混ざり方も非常にクールだ。従来どおりのエキゾチズムも含まれながらも、「攪拌」されたまま、聴き手に預けられる。過去作に溢れていたサウンド・コラージュの妙やフリーキーさは少し後退した分だけ、既存のファンには物足りなく思ってしまう部分も多いかもしれないが、つまり、これは「地下」の音楽としての強度を保持し続け、アンダーグラウンド内の秘たる祝祭的なつながりに身を寄せるのではなく、ニューヨークという混線した都市の真ん中に向けて目を開けて("Eye Contact")、ダイレクトに音の波を掴もうとした意味が大きい印象を受ける。彼らが目指そうとした場所がよりポップなフィールドであり、インタビューで「Adult Goth」という曲はシャーデーに影響を受けた、とリジーが述べていたりするように、巷間のイメージ以上に彼らの音楽は明瞭な拓き方をしていることが分かる。

 11分を越えるスペーシーなシンセが特徴的なトリッピーで壮大な冒頭曲「Glass Jar」から、途程にインタルード的なものも含まれるからか、存外、コンパクトな内容になっているが、それでも、エチオピアン・グルーヴ、インド音階などを巧みに嚥下し、同一と反復を抜けて、何かから離れるための「問い」を出そうとする様は感動的だ。

 その「問い」の中にはグローバリゼーションが世界のあらゆるローカル、民族音楽を「液状化」させた現象に対しての、決然たる<非>たる意志が込められているような気もする。今作によって、ギャング・ギャング・ダンスは、これまで以上に多くの人たちを踊らせることになるだろう。ブルックリン・シーンの充実の一端を感じさせる力作だと思う。

(松浦達)

 

*日本盤は5月25日リリース予定です。【編集部追記】 

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fleetfoxes.jpg 2008年、海外主要音楽メディアの年間チャートを独占、まさに世界的大成功を収めたフリート・フォクシーズの新作。御多分に漏れず、大成功からの重圧に苦しんだようで、3年という月日の後完成された作品とは、我々リスナーのみならず、メンバー達にとっても待望だったのではないだろうか。
 
 思い起こせば僕にとって、彼らの奏でる音楽との出会いとは突然だった。それは、冒頭に述べた、海外メディアの高評価を受けてからの紹介や、2007年にクラクソンズのデビュー・アルバムが発売されている事からも明らかなように、電子音に踊らされて、ニューレイブというムーブメントの熱量にあてられてしまっていたからだろう。そんな状況下において、ある種、「冷静さ」を取り戻させてくれたのは、彼らのアコースティックな楽器を主体とした牧歌的なサウンドであり、美しいコーラス・ワークであった。

 思うに、彼らの音とは、「ボブ・ディランやビーチ・ボーイズを一人称で語りたいのだけれど語れない」というリスナーに対して最も響いたのではないだろうか(それらのアーティストの熱心なリスナーが彼らのファン層ではない気がしている)。中心人物である、ロビン・ベックノールドがナップスターで手に入れたボブ・ディランやビーチ・ボーイズを(16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルの作品をジャケットに用いたり、音楽性、ルックス含め、どこか浮世離れしたように思えたが、とっかかりが実に現代的で面白いなと思うと同時に、シアトル出身という何の脈略もないような部分を繋ぎ合せたものがインターネットサービスであった事に随分と納得した)まわりには語れる友人がいなかったというエピソードからも、それらは、自らとの対話との中で多くを育み、やがてフリート・フォクシーズというバンドを介して、世に放たれた結果、想像以上の人達を巻き込みリスナーのもつ、その時間軸さえ超越させてしまったのだろう。
 
 さて、前置きが長くなったが、今作は前作に比べ、全体的な雰囲気は継承しながらも、方向性を例えるならば、掘り下げて土に還るというよりも、その土に新たな種が植えられて、やがて大きな森林が形成されていくような、そんな豊かさを聴きとる事ができる。それは、例えば、カントリーやジャズといったアプローチが使われる中でヴァイオリンやサックスの音色が印象的に響き、一つ一つの音は、前作よりも輪郭がはっきりしている。それは、ロビン・ベックノールドの歌声も同様で、美しいコーラス・ワークは枝葉のように宿る事は変わらないけれど、あらためて、彼の歌声がこのバンドの魅力の大きな部分を占めている事にも気付かされる。そして、力強く躍動感溢れるアコースティックギターのストロークは前作では聴かれなかった音で、バロックという言葉を枕詞に、後にはポップでありロックと評される壮大な響きでじわりと高揚感を得た前作よりも、より直接的に我々の胸に訴えかけ、より明確に高揚感を覚える。しかしながら、最初に、自然を比喩としながらも今作を紹介したように、彼らの持つ、「牧歌的」な雰囲気は決して損なわれず、無理なく広げた表現の幅は実に好意的に、そして不思議と新鮮に響き、大成功を収めたアルバムの次作としては、理想的な作品となったのではないだろうか。

 次なる希望は、今作のテスト・プレス盤を通して、震災への義援金とした心やさしい、まだ20代の彼らがかねてより日本通との噂のもと、ここ日本でその雄姿を早く見たいという思いである。

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the act we act.jpg 名古屋アンダーグランド秘蔵っ子7人組バンド、ジ・アクト・ウィ―・アクトが、まだかまだかと渇望されていた1stアルバムを遂に発表!

 目まぐるしく縦横無尽に叩きかけるカオティックでアヴァンギャルドでノー・ウェイヴィーなハードコア・パンク・サウンドをバンドのバックボーンに、フリー・ジャズやインプロを彷彿させる咲き乱れるサクスフォンと高揚を促すジャンべの連打、そして文学的なリリックを迸るように発する緩急に満ちたヴォーカリゼーションとが突然変異的に激しくぶつかり合い、とんでもないエネルギー放出しながら駆け上がっていく。7つの音が高速回転しながら振り回すその音の塊の数々を前に、ただ圧巻させられるばかりです。ファストに突っ走る瞬発力とスロウにエンジン・ダウンして魅せる表現力にも脱帽。ライヴ感もバッチリ。

 以前に筆者は彼らのライヴを体験しましたが、今作を聴けば聴くほど(筆者は夢に出てくるくらい:笑)ライヴを見たくて仕方ない衝動に襲われます。

(星野真人)

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supercar.jpg 4月20日にリリースされたこの『RE:SUPERCAR 1-redesigned by nakamura koji-』に続き、6月15日には『RE:SUPERCAR 2-redesigned by nakamura koji-』がリリースされる。そして、ナカコー、フルカワミキ、田渕ひさ子、牛尾憲輔(agraph)から成るLAMAが結成された。ここにきてスーパーカー関連の動きが活発になってきている。今作は、ナカコーが『スリーアウトチェンジ』『JUMP UP』『OOYeah!!』『OOKeah!!』からセレクトした楽曲を「リデザイン」したものと、既発、未発表曲のデモ集が収められている。
 
 スーパーカー名義では、解散後初となるこの新しいマテリアルに対する捉え方は、おそらく二分される。97年にデビューし、日本ののちのロックシーンに大きな爪痕を残したスーパーカーの音を、リアルタイムで体験、共有してきた世代と、先駆者として、これから新しくスーパーカーを聴くことになる者。後者にとっては 、原曲とバージョンが異なるとはいえ、前期の彼らの楽曲を纏めて知ることができるきっかけとして、このアルバムを手に取る方たちもいるのかもしれない。
 
 ベストではなくナカコーが手を加えることによる作用、そして果たして「リデザイン(再構築)」とは?特に前述した、既にスーパーカーを知り、当時それぞれの形で彼らの音楽に想いを重ねてきた方たちは、そんな期待と疑問が入り混じった複雑な感情を多かれ少なかれ抱えながら、アルバムを耳にすることになるのでは ないだろうか。結果、ナカコーのとったリデザインの形とは、スーパーカーの魅力の1つであるメロディを主軸に据えさせたまま、エレクトロ寄りのサウンドでコラージュされたものであった。且つそれは曲間をCDJのそれのように繋げられていることで、統一感が意図的に演出されているといえる。バンドサウンドと異なるアレン ジでも、揺らぐことなく瑞々しい輝きを放ち続けるメロディは、スーパーカーを初めて知る方たちにとっても新鮮に響くだろう。音のアプローチ、統一感という意味ではiLLの『Dead Wonderland』に共通するものを感じたりもして、ナカコーらしさが見てとれる。このナカコーの趣向を、「スーパーカーの作品として」どう評価するかは、作品の完成度云々ではなく、スーパーカーというバンドに対する個人的感情に依る部分もあるだろう。
 
 興味深かったのがDISC2の、既発、未発表曲デモ集である。途中でカットされたり断片的なものも多いが、40曲ものデモ音源により、彼らの当時の空気を感じることができる資料的作品として楽しむことができる。だがそれよりも特筆するべきことは別にある。ナカコーはスーパーカー初期の頃から「スーパーカーは僕の一 部に過ぎない」といった旨の発言をしていた。その発言でうかがえるような様々な音楽性を孕んだ楽曲を、当時からスーパーカーとしても残していたということである。「I wanna stay」の前半部分ではスワンズにも通じるようなジャンクさ加減が強烈だし、その他にも、初期の頃からクラウト・ロックに影響されたようなアプローチを行っていたことも見受けられる。この期に及んでスーパーカーの音楽的な懐の深さを思い知るとは想像していなかった。改めて、いかに彼らが当時のシーンにおいてオーバー グラウンドでありながら先鋭的な存在だったかがわかる。

(藤田聡)

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Jonsi_Go_Live.jpg 誰もが期待してやまない今一番注目のアーティストの一人、シガー・ロスのヴォーカリスト、ヨンシー・パーギッソンのソロ。オリジナル・フル・アルバムに次いでライヴ盤をCD&DVDという形で今回リリースした。

 アコースティックで始まるのは実際に観た来日公演と同じ。どこまでも澄みきって伸びる声。圧倒的に魅了される。そして協会のごとくシンフォニーが鳴り響く。それから徐々にバンド・サウンドに変わっていくが、聴けば聴くほどに不思議な音ばかり。楽器の使い方がヨンシーのライヴではひと味もふた味も違っているということだ。このあとも幻想的なコード進行と驚くべき唯一無二の歌唱力で聴く者を魅了する。代表曲「ゴー・ドー」(注:国内盤正式表記は「ゴー・ドゥー」だが、ライヴ中でヨンシー自身が「ゴー・ドー」と曲紹介をしていた)ともなればオーディエンスも最高潮。しかし全体的にどの曲も拍手と歓声が大きいのは、ライヴ経験者の筆者も驚いた。ヨンシーのライヴはおとなしいと思われがちだが、この作品を聴けばわかる通りかなり激しい一面も持っている。特に顕著なのはバンド隊だが、ヨンシーもシガー・ロスに比べ思い切り歌い上げる強さを持っているのだ。それがこの作品によって皆にも伝わってほしいと願っている。

(吉川裕里子)

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americaa.jpg アメリカの国勢調査局の発表によると、09年のアメリカ国内の貧困層人口の割合は過去15年で最悪の14.3%となり、4,360万人となった。これは人口比でいうと、7人に1人という高い割合であり、オバマ政権下の歯止めがきくような気配はない。原因としては依然として高い失業率、教育や社会保障に関連した予算が大幅削減されていることも大きいが、年金や医療制度の崩壊も含めて明確な処方箋が打ち出せていないところに結局は収斂する。更には最近では、3,000万世帯はあるという銀行口座を持たない、或いは殆ど利用しない層に向けての大規模小売店が仕掛ける金融サービスが活況を呈しているという。(ワシントン・ポストUSAより)

 経済的与件でも切り詰まり、公的教育システムも万全に機能しているとは言えない。そんな「不平等性」はより個々の心理次元の中に落ちていき、満遍のない茫漠とした少しの無力感や悲観と交換されてきてもいる表面を滑っている。それを例えば、アレクシス・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』内の「境遇がすべて不平等である時には、どんな不平等も目障りではないが、すべてが斉一な中では最小の差異も衝撃的に見える。完璧に斉一になるにつれて、差異を見ることは耐え難くなる。平等への愛着が平等そのものとともに増大するのはだから当然である。」という言葉に沿うと、最新作でR.E.M.が踏み込んだ一歩の方がとても意義深かったのだとも思う。

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 では、現代のオバマ「以降」のアメリカがときに色濃く見せる沈鬱とした横顔を考えるときに、ルーツや伝統、自国の水脈を掘り下げて、もう一度「新しいアメリカ像」の焦点を結び合わせることこそが迫られているのも自明になってきてしまうが、その自明は"自明でない"形で特に、アーティスト・サイドには「共有」されてもくる。何故ならば、埋もれているルーツの破片を拾い上げて、アメリカという近代が生み出した国家制度によって保守された「自由の別名」に対して、向き合うための導線が必要になってくる気がするからだ。

 例えば、フリート・フォクシーズが新作『Helplessness Blues』で現代のアメリカに対して幻滅の姿勢を取るために、自分たちの中の内省や翳りに接触した結果、トラディショナル・フォーク、ブルーズ、フィル・スペクター的なコーラス・ワークなどをソフィスティケイティッドさせることで明らかに遠心性を持ってしまっていた。また、ブルックリン・シーンと呼ばれていたものの中でのパンダ・ベアの待望されていた『Tom Boy』やギャング・ギャング・ダンス『Eye Contact』の生真面目さや、また、LCDサウンドシステムの終わりとともにでもないが、ドロップされたタイヨンダイ抜きのバトルスの新しい音がどうにも焦点を結ばない様相を呈していたのとともに、今、「在ったはずのアメリカ」に対して、フランツ・カフカ的な"不全としてのアメリカ"の視座を持ち込んだサウンドが増えているのは、明らかにブッシュという仮想敵が居た中での不遇たる連帯の側面ではなく、ポスト・オバマのもたらした市場原理社会の進捗に伴う個の疎外が想像以上に希望的な上昇曲線を描かなかったことに幻滅ではなく、「当惑」したまま、音楽として何を鳴らすか、に向き合わざるを得ない状況になっている証左でもあるような気がする。

 だからなのか、〈ウッディスト〉周辺で"熱狂的に微睡む"(Siesta)方法を模索する流れや4年振りの新作『C'mon』でなだらかな音の波の中にルーツ的なアメリカン・ロックへの敬慕の念を込めたスローコア、サッドコアの第一人者のロウの佇まい、そして、ファースト・フルアルバム『Perch Patchwork』でサウンド・ヴァリエーションが豊潤になり、ヴァイオリンやフルートが絡みながらもパーカッションが強く打ち出され、リズム・パターンは多彩になるとともに、チェンバー・ポップ、モダン・サイケデリックな要素やトラディショナル・フォーク・マナーに沿った曲まで「跨ぐ」地力が備えたマップス・アンド・アトラスィス(Maps & Atlases)辺りに個人的に、軽やかさを感じたのもぼんやりと理由が浮かぶ。

 そして、既に、チルウェイヴ/グロファイの回収先も見えてきてさえいるUSインディ・ロックの先には、凛然としたアメリカーナ音楽が亡霊のように浮かび上がってきているのは、ディセンバリスツの「再認識」をして、そして、ハードコア精神の循環は、ビースティー・ボーイズの「若返り」辺りの動きを見ても、気付くところはあるかもしれない。未来に回帰するためには、過去に進まないといけないということなのだろうか。"メイク・サム・ノイズ"を掲げる際の「ノイズ」の中に今のアメリカの不全状態がぼんやりと揺蕩う幻影が見えるときがある。

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「私が言っているのは、これから先は芸術に形式などなくなるということではありません。新しい形式が生まれるだろう、そして、その形式は、混沌を認める、混沌を何か別のものにはすり替えないとはしないものになるだろう、ということです。」
(トム・ドライヴァーによるサミュエル・ベケットへのインタビュー、『コロンビア大学フォーラム』1961年夏号)

 このベケットの言葉に沿うならば、今のアメリカの音楽シーンにおけるゴドーとは何で、「何を待たないといけない」のか緩やかに持ち上がってくる。エルネスト・ルナンの言に沿うと、総ての個々が国としての多くを共有していて、それをお互いすっかり「忘れてしまっている」現況を更に忘れさせようとするのではなく、ふと思い出させるような何かが求められることになるだろうということで、例えば、ポップ・アイコンたるブリトニー・スピアーズがラスコと「共振」したり、ジェームズ・ブレイクがピッチフォーク以外でも着実に持て囃されるような、緩やかな(ダブ)ステップを踏みながら、近付いている距離感をして、はかることは出来る。そういう意味では、今はアメリカは「欠けている」ことに対して「欠けている」。トクヴィル的に言えば、アメリカとして束ねられていた「統治性」としてのシステムがベネフィット優先ではなく、リスクの優先されたヘッジに向いている中で、だからこそ、ヘッジ優先された音楽は「老成」せざるを得ないというわけだ。その文脈に沿うと、ザ・ナショナルやブライト・アイズなどのストイシズムも分かる気がするし、アーケイド・ファイアの目指した郊外にはグローバリゼーション≒アメリカ化ではないという意地も見えたのも繋がってくる。

 愈よ、アメリカにおいて、スタンダールが『赤と黒』の巻末に捧げた"To the happy few"の「few」が試されるフェイズに入ってきたと言えるのかもしれない。果たして、現代アメリカで弾かれてしまう人たち(few)に届けられるような毅然とした耀きがある、何かが新しく始まる予感の音楽は生まれてゆくのか、その答えを「待つ」のではなく、「追いかけたい」。先には、今年のある種の象徴にもなるだろうフル・アルバムを控えたウォッシュド・アウトのバンド名の意味そのもののような形にならないことを希う。

(松浦達)

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monobright.jpg「むこう1年以上のライヴ&リリース予定を事前に発表する」。その「予定」が、かなり余裕を持ったものならまだしも、ツアーをガンガン敢行するうえ、1年のあいだにアルバム2枚をレコーディングするというハード・スケジュール...。だけど「強烈な表現意欲」があれば、なんとかなるだろう! ...それが、2010年初頭に始まったモノブライトの「DO10!!(「怒濤」と読めるわけですな:笑)」プロジェクトだった。

 20年前、いや10年前と比べても、インターネットによるネットワークが極度に発達。草の根的な情報伝達の速度も精度も高まった「現在」ゆえ、それはなおさら興味深い試みと思えた。

 さらに、そのプロジェクトが始まった段階ではメンバーさえ予想だにしなかったであろう出来事も起こった。突然解散を遂げたビート・クルセイダースの中心人物ヒダカトオルの電撃加入。もともとレーベル・メイトとして、ある程度の交流はあったと思われるのだが、なんとも大胆な...。平均年齢20代後半のオリジナル・メンバー4人より15歳ほど年長の「新メンバー」。洋楽ファンであれば、元ザ・スミスのギタリストとして80年代に一斉を風靡したジョニー・マーが、10歳もしくはそれ以上の年齢差を無視してモデスト・マウスに短期加入、そのあと(へたしたら20歳以上の年齢差がある)ザ・クリブスに加入した(ちなみに、どちらもそれまで「中堅以上」の存在感を持っているバンド)という前例を知っている。にしても、まだまだ「レア・ケース」。

 そんなヒダカが加入して5人組となった新生モノブライトの初アルバムにして、DO10!!プロジェクトの大団円とも言える作品(モノブライトとしは通算4作目のフル・アルバム)が、この『ACME』だ。

 素晴らしい。ひとことで言って「ダイレクトさ」が大幅に増している。

 たとえば彼らはファースト・アルバムで「デイドリームネイション」という曲をやっていた。ソニック・ユースの同名アルバムからとられたタイトルだが、もちろんオリジナル曲だ。「オマージュ」であることはよくわかる。歌詞の内容もサウンドも、アルバム『Daydream Nation』が本気で好きなら「なるほど」とうならせられてくれる。にしても、たとえばソニック・ユースが「なんとなく好き」だったり「それっぽいサウンドが好き」なひとがこれを聴いても、なぜこのタイトル? と首をかしげるであろう程度にはひねくれて(オマージュ的な「焦点」が無意識に? ぼかされて)いた。

 自戒をこめて言うが、それはある意味で(あまりよくない意味での)オタク性にもつながりかねない。ぼくのいう「いいオタク」とは、そうじゃなくて...といった(ぼくが自分自身にも対して感じる:笑)もどかしさが『ACME』では大幅に解消されている。

 どこかで見たことがあるアルバム・タイトルにしても、「Timeless Melody」とか「Come Together」といったタイトルのオリジナル曲をやっているという事実にしても、モノブライトのメンバーは彼ら(ジョン・スペンサーや、ラーズや、プライマル・スクリームおよびビートルズ)がきっと好きなんだろうなあと勝手に納得しつつ、すべて完全に「モノブライトのもの」になっている。それだけのパワーがびんびん感じられる。

 そして極めつけは、「スロウダイヴ」というタイトルのオリジナル曲で、スロウダイヴ(というバンド)~マイ・ブラッディ・ヴァレンタインを思わせるサウンドを、実に高度なレヴェルで打ちだしていること。アルバム・ヴァージョンではイントロのピアノのフレーズがイーグルス「Desperado」を思わせるおかしさ(これはたぶん偶然)も含み、2メニーDJ'sの域に達していると評することさえ可能だ(笑)。いや、ぼくはマジでそう言ってる。彼らは(たとえばシューゲイザーという言葉などにまつわる)ロックの「イメージ」ではなく、「音楽そのもの」を愛している。そしてジョークのセンスも、2メニーDJ's並にベタな魅力を発揮している。アルバム1曲目のタイトルは、「淫ビーDANCE」(笑)。これに対して「インディー・ダンスというジャンルに対する冒涜だ!」とか憤るひとは、たぶんモノブライトの良さが一生わからないだろう(いや、それはそれで別に構わないけど:汗)。

 こんなふうに、彼らの音楽は、けっこうきわどい毒も含んでいる。

 たとえば3曲目、「No Cotrol」。マイナー・キーのハードコア・ポップ・パンク・アレンジで、歌詞は「父親が娘に抱いてしまう性欲に関して、それを乗りこえたいと思っている娘の側から描いた」ストーリーとなっている。桃野は"この歌の主人公である少女が「それでも光を見つける」姿を描いている"とは言っているが、歌詞の字面だけを負っていると、正直あまりにえぐい...。しかし、これがバンド・サウンドと共に歌われると、桃野が「光」と言う意味も了解できる。

 音楽って、そういうもんでしょ?

 ちなみに、ぼくには息子しかいない。だから、すべての父親が娘に性欲を抱く瞬間があるのかどうかはよくわからない。ぼくの息子は中学生。結構大きくなってきた。思春期にさしかかって「自分の世界」を持ちはじめ、以前より手間がかからなくなったけれど、その分さびしくもある(なんというか「子どもの世話」をするのって、とくに子どもが小さいころは、癒しになったりする部分もあるよね?:笑)。そして、ぼくには娘がいない。

 だからつい数ヶ月前、GREEというゲーム系SNSで美少女アンドロイド育成オンライン・ゲームをはじめた。『萌えCanちぇんじ!』ってやつ。まあタイトルがそれだから(それ需要を見こんで作ってるゲームだから)といえばそれまでだが、ヴァーチャルな娘を育てるつもりで始めた二次元アンドロイドに対して欲望を抱いてしまう瞬間があることを、否定したらうそになる。極めて現代的かつ不健康な状況だ(ちなみに、フィリップ・K・ディックによる大昔の小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の主人公的な悲しさも、ときどき感じる...)。

 でもって、その二次元アンドロイドには「みう」という名前をつけた。妻の名前が「み」で始まるひらがなだからオマージュ捧げつつ(でも彼女には、ぼくがこんなのやってることは当然言ってない。恥ずかしいでしょ。普通に:笑)ネコの鳴き声みたいだし。最初「そら」にしようと思ったけど、それはよくある感じ? じゃあ「うみ」? それもいいけど、いまいちインパクトに欠ける。なら、ひっくりかえして「みう」だ! というわりと安直なネーミングだった。にしても、毎日「彼女」を見て/育てて(笑)るうち、かなり愛着もわいてきた。

 そんなころ、『ACME』の音が届き、まず曲名表を見て驚いた。「Miu」なんて曲が入ってるじゃないですか! いわゆる「ライト・ネオ・アコースティック~シティ・ポップ」ふうアレンジも、珍しくリラックスした桃野のヴォーカルもいい! これはもう個人的に「みう」ちゃんのテーマだ! 「Miu」ってのは桃野が好きな(好きだった)女の子の名前だったりするのかな? とか妄想しつつ、後日届いた、桃野による全曲解説(CDブックレットに掲載予定)を見たら「タイトルは海を業界用語風にしたという、ただそれだけです(笑)」。いやー、やられた...なんて、ひとりインタヴュー(ひとりボケ&つっこみとも言う)。

 ヒダカの加入により、いい意味でパワフルになった『ACME』。高橋幸宏っぽいポップさと透明なイメージ漂う「夜明けのバル」なんて曲もある。にしても、ファウンテインズ・オブ・ウェインやモーション・シティ・サウンドトラックに通じる部分がこれまで以上に前面に出て、パワー・ポップという言葉を付すのも可能とさえ感じる(彼らのアルバムはいつも素敵に「幕の内弁当」的)。

 モノブライトの音楽は、ライヴで盛りあがるのも最高だ。『ACME』全曲演奏ライヴなんてのがあったら、さぞかし「ダイレクトな気持ちよさ」を感じるだろう。ただし、『ACME』は、上記のような「ひとりぼっちの歪んだ楽しみ」にも、不思議とよく似合う。

(伊藤英嗣)

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beadyeye.jpg「好きなものは、いくつあったって全然困らないぜ!」そんな当たり前のことを堂々と表現したアルバムだ。

 2009年8月のノエル脱退によるオアシスの空中分解。それから1年ちょっとで、こうしてアルバムが届けられたことに驚いた。そして、とても嬉しかった。後期のオアシスでは、メンバーの手による曲も増えていたけれど、やはり希代のソングライターでありバンドの精神的支柱でもあったノエルの脱退は大きすぎる代償だ。ジョイ・ディヴィジョンがイアン・カーティスを失ったこと、バウハウスからピーター・マーフィーが抜けたこととも違う。良くも悪くもオアシスは大きくなりすぎていた。近年、伝え聞こえたリアムの不遜とも言える立ち振る舞い、ノエルの威光のもと不相応にも見えたアンディとゲムの存在感。ノエルがステージで頭のおかしい客にぶん殴られたり...。アルバムが出るたびに「メンバー全員で頑張った!」って言っても、僕たちの耳と目はごまかせないよ。いずれにしても、オアシスは崩壊していたかもしれない。そうじゃなくても、僕の興味は消え失せていたと思う。"存在すること"だけが目的になったオアシスなんて、見たくないから。

 これはオアシスじゃない。リアムのソロ・アルバムでもない。ビーディ・アイという生まれ立てのバンドが踏み出した初めの一歩だ。『Different Gear,Still Speeding』って、すごく良いタイトルだと思う。今の彼らをそのまま言い表している。オアシス解散(休止?)からアルバムのリリースまでの短いスパン、ボーナス・トラックを含めて全15曲から漲るポジティヴなフィーリング、続々と発表されるツアー日程。そのフットワークの軽さは、オアシスでは考えられなかったこと。今までの功績やら楽曲のクオリティやら、あれこれ...って、考えすぎないのが、リアムの良いところなのかも。アンディ、ゲム、そしてクリス・シャーロックが大賛成しているところが目に浮かぶ。「Beatles And Stones」でリアムが吠えるように《とにかくロックンロールしたいんだ!》って、ただそれだけ。そして、僕たちはそんなバンドを待っていたんだ。

 アルバムは、最高にカッコいいワウが鳴り響く「Four Letter Word」で幕を開ける。このギターはアンディでしょ。アンディがギターに戻ったことは大きな力になるはず。ライド~ハリケーン#1で、アイデアいっぱいのギターと数多くのソングライティングを実践してきた彼本人が、いちばん納得している編成だと思う。誰がどの曲を書いたか、なんて大事なことじゃない。そして今、彼らが立ち向かっているのはオアシスでもない。相変わらずバカ正直にビートルズ、ストーンズ、フー、そしてラーズへと突き進んでいる。スティーヴ・リリーホワイトのプロデュースも大正解。ラーズ『The La's』やポーグス『If I Should Fall From Grace With God』での手腕を期待されての起用だろう。エレクトリックとアコースティック・ギターのバランス、ヴォーカルとコーラスのきめ細かいエフェクトが秀逸だ。ピアノやビンテージ・シンセの響きもいいアクセントになっている。プロデューサーとして、音を作るのではなく、きちんと捉えている。だからサウンドが重たくならずに、メロディが活きてくる。リアムは「The Beat Goes On」で宣言する。《生命はまだ尽きていない。俺の心のどこかで、ビートは鳴り続けている》OK! ギアを入れ直して、スピードはそのままだ。

 そして何よりも僕が嬉しかったのは、リアムのミュージシャン・シップがはっきりと伝わってきたこと。いい曲を書き、歌う。それは当たり前。オアシスの時は、ノエルの書く曲の中で「声」と「キャラクター」で押し切っていた部分が感じられた。僕にはそれが時々、物足りなかった。ビーディ・アイは違う。リアムが愛しているのは、"ロックスターである"ことじゃなくて、ロックンロールそのものだということ。そして、そんなロックンロールを愛してやまない僕たちにも、同じような愛情を注ぐことができるということ。いち早く来日公演を発表したり、サマーソニックへの出演を約束したり。そして、この震災の際に伝えられたメッセージに元気づけられたファンも多いはず。僕もその一人だ。さらにロンドンではビーディ・アイの呼びかけでベネフィット・ライヴが開催された。"声"を上げて、すぐに"行動"すること。いまリアムが何を見て、何を感じているのか、わかるような気がする。

 これを書いている今、5月の来日公演が9月に延期されるという知らせが入ってきた。僕たちは、まだ「大丈夫」って言えない状況なんだ。ビーディ・アイがスペシャルゲストとして登場するサマーソニックの無事な開催を祈ろう。9月のライヴも特別なものになるはず。その時はリアムに負けないくらい大きな声で迎えよう。ビーディ・アイに、ロックンロールに「ありがとう」って伝えるために。


(犬飼一郎)

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beadyeye.jpg 3月に旅行で訪れたイギリスで観た彼らのライヴは、それはそれは素晴らしかった。リアムもバンドもポジティヴなヴァイブで満ち溢れていたし、オーディエンスだってオアシスの曲をプレイしてくれとかそういうこともなくて、それどころか「The Roller」や「The Beat Goes On」では大合唱が巻き起こって、ライヴが終わった後も野朗どもは「Liam! Liam! Liam!!」と大騒ぎしながら満足そうに帰っていった。この時点でわたしはたいしてアルバムを聴きこんでおらず、正直「彼らのライヴを生で観られる」という興奮はあったものの、オアシスのライヴに臨むときのような、その日一日が終わることを惜しんで止まないような期待感はなかった。だがそのライヴで明らかになったのは「より強固になったオーディエンスとバンドの結び付き」であり、「ビーディ・アイというバンドが今後のわたしの人生において計り知れない意味を持つこと」であった。

 バンド結成後に最初に解禁になった音源は今作にも収録されている「Bring The Light」だったが、第一印象は決して胸がぞわぞわするような類のものではなく、「こういうのだったらプライマル・スクリームの方がもっとうまくやれるのに」という、むしろ逆のものだった。今ではこの曲のイントロで血流が一気に速くなるが、そのときはオアシスの再結成を待ち望む気持ちがただ強くなっただけだった。リアムががに股で立ち、マイクに喧嘩を売るような姿勢で歌っているのは鳥肌が立つほど格好良い。でもそれだけだったらわたしは彼らのデビュー作「Different Gear,Still Speeding」を何十回もリピートしない。これは特にソングライティングの面から言って、年間のベストの一枚に数えられても不思議ではない傑作だ。

 確かにあまりに単純すぎる箇所もいくつか見受けられるし、あくまでサウンドの話をすれば、オアシスでやってきたこと以上のことは、たぶんない。わたしは彼らに何を期待していたのだろうか。何も期待していなかったのだろうか。そうかもしれない。ただリアムの声がこの世界に響き続けるという一点のみで、ビーディ・アイの動向を追い続けていたのかもしれない。だが、いかにもアンディらしい作風のアルバム随一のバラッド「The Beat Goes On」にも、オアシス時代にステージ上でリアムが1番誇らしげに歌っていたように感じた「Bring It On Down」を思い出す「Four Letter Word」にも、ノエルだったらどうアレンジしただろうかと気になってしまう「The Roller」にも、結局はオアシスの曲以上に依存してしまっている。そう、オアシスやビーディ・アイの曲はどうしても依存してしまう性質なのだ。

 オアシスと一緒にするのは間違いか。彼らは新人バンドなのか。このデビュー作の成功はノエルに対する勝利宣言なのか。違う。おそらくノエルは再びこの4人の元に帰ってくる。それを待ちわびているわけでもない。ビーディ・アイに何か決定的な物足りなさを感じているわけでもない。ただわたしはこのアルバムを聴きながら、オアシスのことをよく考える。このアルバムは良い。ビーディ・アイもバンドとして絶好調だ。リアムの声だって若返ったみたいだ。でもオアシスは近い将来復活する。ビーディー・アイで十分なわけはない。やっぱり後ろ向きな印象を与えてしまうかもしれないけれど、わたしは「いつかはみんながおれたちの歌を歌っているんだろう」という「The Beat Goes On」の歌詞を見て、それがノエルへのメッセージのようにも思えて泣いちゃいそうになる。

 最初に書いた「ビーディ・アイというバンドが重要な意味を持つ」というのは、このアルバムで得た感動のことでもあるし、バンド自体が放つ輝きのことでもあるが、オアシスのことでノスタルジックになっている時期に聴いて余計染み込んだ歌、ということでもある。やっぱり好きなバンドのことになると脈略のないことを書いてしまうが、「アルバムは文句なしに素晴らしい」し、「それでもオアシスのことを文脈から消し去る必要もない」し、「ビーディ・アイとオアシスの違いを必死になって探して、それを愛する必要もない」ということで、このレビューをそろそろ終えたいと思う。

(長畑宏明)

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denki.jpg「契約のために」


「Due To Contract」を訳すとこんな意味になるわけだけど、実際はどうか知らないし、特に注目しているわけでもない。だって、そういう掴みどころがないのが電気グルーヴだと思うから。


 電気グルーヴは、いい意味で人の期待を裏切ってきた。祭り上げられそうになるとジョークをしてみせ、悪ふざけを求められると真面目に丁寧なことをする。でもそれは、電気グルーヴが確かな音楽的力量を持っているからこそできることではないだろうか? 今回のベストアルバムを聴いて思ったのは、「普通に良い曲を作ってきたんだな」ということ。気持ちいい符割りの「N.O」や「Upside Down」はもちろんのこと、歌モノではない「Nothing's Gonna Change」にまで歌心が宿っている。僕は「ギターに歌わせる」バーナード・サムナーのプレイが大好きなんだけど、電気グルーヴの音にも似たような「歌っている音」というのがたくさんある。


 まりんによる全曲リマスターなどのトピックはあるものの、それ以外に目を引くようなトピックがないのも事実だ。しかし、この『電気グルーヴのゴールデンヒッツ Due To Contract』というのは、メロディーメイカーとしての電気グルーヴの姿を鮮明にしたという意味では意外と重要なアルバムになるのではないだろうか? それが狙いなのかは不明だが、選曲も比較的おふざけが少ない曲が多いし、まりんのリマスターも大きく変化させるというよりも、現在のリスニング環境を考慮した「微調整」といった手を施している印象だ。しかもそれが、より電気グルーヴの歌心とメロディセンスを分かりやすくさせているし、本当に素晴らしい仕事をしている。これから電気を知る人の入門編としてはもちろんのこと、メリーノイズ(卓球さんが昔組んでいたバンド)の頃から追いかけている熱心なファンが聴いても、面白い発見がある良いベスト・アルバムだと思う。

(近藤真弥)

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ana.jpg 福岡出身のバンド、アナはレーベルも京都の「SECOND ROYAL」に移籍し、彼らの第二期の幕開けとなる三年振りのアルバム『HOLE』が発売になった。

 彼らは渋谷系に影響を受けているバンドであり年齢的にも僕と同学年で今年三十代に入る。数年前に彼らのライブを初めて観たとき、渋谷系にまったく影響を受けず、真剣には聞いてなかった僕でさえもオザケンやコーネリアスの影響を絶対に受けていると思わせられるシンセとサンプリングによるエレクロ・ポップを鳴らしていた。

 この『HOLE』と前作『FLASH』が出るまでの三年間のあいだに、彼らはライブをしながら拠点であった福岡から東京に上京した。ボーカルである大久保君は『FLASH』までの時期を<中・高校時代に聴いてたもの、90年代モノの影響をひきずってやっていた>とインタビューで語っている。

 それは90年代に思春期を過ごした世代にハマろうがハマらなくても流れていた音楽、脳裏にしっかりと刻みつき、あるいは脳裏の奥の方にわずかに残るものだった。彼らが鳴らす音楽はそれらを呼び起こした。だからそこに加わったシンセにサンプリングに彼らのライブパフォーマンスをライブで観たものはポップな音楽で踊り、ある意味では哀しい歌詞や少しのアイロニーも混ざった歌詞にかつて過ごした時間や人との想い出を揺り起こされた。

 第二期の前に第一期が上京と所属していたレーベルとの契約解消によるフリーへ。そして「SECOND ROYAL」所属のRufusの上田修平氏との縁から三人でやってきた彼らが自分たちでアルバムを出そうとしていた際に彼にプロデューサーを依頼し「SECOND ROYAL」からやるならうちのレーベルから出しましょうとレーベル所属が決まり彼らの第二部が動き出した。そこまでにあった人と人の繋がりや彼らがやってきたものが目に見えて繋がり出した時に『HOLE』というアルバムが輪郭を増して作られ出す。

 地元の福岡から上京し東京へ、そして三人で作っていた所にプロデューサーが加わり、前の三作とは制作環境が変わった中で曲が作られていく。アルバムを通して聴くと少しばかりノスタルジックな部分、歌詞もそうだが感じながらも同時代性とでもいうか同じような感覚を感じられる。まあ、前三作も歌詞的にはノスタルジックな部分はかなりあったけども。

《永遠と垂直に交わった時間の中で/時は去り 君が行き 僕はとまどった/見送っているようで僕らは見送られては/また誰かとの距離を歩いてくよと》
(「TEI」)

《君をおもい眠れない夜が何年続いたとしても/きっといつか土の下で眠るそんな日々がくるってことを/泣かないでほしい せつなさの上で眠る日に》
(「ノルウェイのあれ」)

《だれかと不意にあいたくなったろう/今夜も街へ消えていくのだろう/目にしみるような煙にまみれた/部屋にたちこめたため息よりはましさ》
(「夜は幻」)

 どんだけ孤独なんだよっ! とツッコみたくなるような歌詞も彼らのポップサウンドにのるとノスタルジーを感じさせつつも踊ってしまいたくなる。時というものの中で僕らが掴みたくても掴めないもの、どうしようもない巨大な力の前で失ってしまうものたちと僕達の人生はいつも一緒だ。全てはギリギリのバランスの中で成り立っているように思える、本当の事とか隠されている事とか嘘だとか、僕らは3.11の大震災の後では確実に変わってしまったと思う。僕はそうだった。あなたはどうだろうか?

 この『HOLE』からアナを聴きだしてもとてもバランスのいいポップなアルバムだと感じると思う。数年前から聴いていた僕もアナの変わらない部分と変わっていく部分のバランスが聴いていて非常に心地いい。彼らが影響を受けた核となる音楽たちと環境が変わり出会いと経験の中で手にした想いやテクニックや音楽性が溶け合っている。

 アナ=穴=HOLEというある意味でのセルフタイトル。まあ、こういうの本当に好きだなって思いながらも第二期のスタートをきった彼らの音源を聴いてライブで彼らを見てほしい。単純にいえば素敵なポップミュージックがそこには鳴っている。

 このアルバムがアナの新しい名刺代わりになる。オザケンやコーネリアスが好きな、好きだった人には特に聴いてほしいと思う。僕が彼らを聴くようになったのはアナを聴いてだから逆に先祖返りをしてしまったけど、90年代という時代から続くものが今どういうものに変わっているのかというだけでも彼らの鳴らしている音が同時代性を感じさせるものだと思う、特に70年代後半から80年代前半生まれ。きっと90年代的な表現に影響を受けた世代の表現がこれからもっと花咲くだろう。90年代に思春期を過ごした世代が三十代に入って表現の世界でももっと目立つようになると思うから。ポップでノスタルジーでアイロニーも含んだ散乱銃で色彩を失いつつある世界中をカラフルに。

《風が街のほうから季節を運んでは/幾千もの幾千もの通りすぎてた日々に/例え過ぎた言葉とメロディーを繋いでは/宛てもなく何枚もの返事を書き続けているのさ》
(「PLANET」)

(碇本学)

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bebechio.jpg「今までで一番シンプルな気持ちで、良い作品が出来たなって思ってる。きばらずに良い事言えたし、そういう意味で焦りのない良い表現が出来た。」(Vo&Gt 早瀬直久。以下同じ)

 大阪在住の二人組、ベベチオの3年ぶりの2ndフルアルバムは素朴なメロディと共に無垢な言葉がしっかりと心に響いてくる好盤。ただ、前作までと異なり、アルバムタイトルにデカダンスという、どちらかといえばマイナスなムードの言葉を使っていることもあり、全体のイメージはモノクロだ(と思ってたら、ジャケットもモノクロだった!)。

「デカダンスって言葉自体が全部悪い意味じゃなくて...。例えば退廃的な気分とか虚無を帯びてるとか、そういうことも美化していこうって思っていて。上手いこといかへんから今日はデカダンでいこう、みたいな。そういうのが暮らしには絶対必要。良いことばっかりあって、急にダメなことがあった時にドンて落ちるんじゃなくて、予めそういうのを解っておくことが暮らしには必要なことやとずっと思ってて。でもそれをわざわざ表現するのも違うのかなって思ってたけど、今回、そこを美化していくことも必要やと思ったんです。で、リビングに大きいタンス、でっかいタンスがあったら邪魔じゃないですか?でもそこに何を入れるかが、生きるスペースに関わってくると思うんですよね。」

 ある「想い」という縦軸は貫かれているんだけど、曲のスタイルという横軸に関してはバラエティさもあり、聴きやすかったりもする今作。3年振りということもあり、音作りで新しい試みなどはあったのだろうか。

「曲の作り方は今までと変わってないですね。僕の中である程度アレンジしてから相方の平良(Ba)に聴かせてます。音作りっていうところで言うと、今回は音を結構抜いてますね。一回入れたやつを削る作業が多かった。抜いた方が曲の輪郭が見えやすくなるから。着飾るよりもシンプルなものが大事やし。」

そして、アルバムの最大の魅力が、早瀬直久の精神からチューブを絞り出すようにぬらりと滑り出す、その歌声にある。一定の距離感を保ちながらも、誰にともなく告白するような生々しい歌声は、濡れているようで枯れている。発狂横の美しさと優しさ、そして強さ。

「自然にしてても人となりは表現の中に出ると思うけど、僕の場合、意識して出そうとしてるから余計にそうなってると思う。曲に強さがあるっていうのは...俺、まあまあ強いんちゃいます?(笑)」

(粂田直子)

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birthday.jpg 80年代、音楽評論家の渋谷陽一氏がバンド・エンドの批判論を展開していたが、それは要約すると、「綺麗事」で完結してしまう中で本当にその善意とメッセージは検討されているのか、ただ、盲目的に信じようとしてしまっていないか、不幸の肯定への懐疑、道徳的な言葉の発信元とはどうなのか、根本的な「解決策」には繋がらないのではないか、という瞬間の絶対性に対してもっと相対的な論理に出発点を置き、共約出来る正義などない場所から表現は始めるべきではないか、というものではあったが、果たしてどうなのだろう。

 今、メタ的にポーズを取ることは容易である分だけ、情緒に流されてしまえる鈍化の状態に「是非」を置くことは禁忌とされている状況でのPRAYやHELPの本質はもう少し違うところにある気がするのは、今は80年代の余裕よりもテンション(緊張)が要求される時代背景に依拠する。

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 僕は、この2011年3月から4月に行き交った数多の善意と優しさに持ち上げられたりもしたが、その行方を辿れない内にオブセッシヴな形でそれらが切り詰まってゆく状況の閉塞も感じた。「連帯」の下に、手と手を繋ぎ合う気分で終わってしまわないのか、頻発するキャッチーな惹句や警句が舞う。しかし、例えば、マルセル・モースは、ドイツ語の「ギフト」には、贈与したものと毒の二義性があることを示したが、贈物をもらうこと、何らかの善意の中に招かれることそのものが、致命的な「毒がまわる」ということの関係因子はもう少し考える為の意味があるかもしれないならば、THE BIRTHDAYの新しいシングル「なぜか今日は」の示すヴィジョンには"明るい暗闇"があって、今ここの瞬間で聴く手をリフト・アップする力があり、頼もしく映る。
 
《なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする でも 裏側には何かがある気がする でも》
(「なぜか今日は」、以下同)

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 バズコックス、アディクツ、ドクター・フィールグッド、ダムド、更にはザ・クラッシュなど、パブ・ロック、パンク・ロック、ガレージ・ロックの影響を受けて、ジ・ミッシェル・ガン・エレファント(以下、TMGE)がタイトなスーツ姿で「ビートニクス」をなぞる初期の格好良さはまるで、「路上(On The Road)」で「裸のランチ(The Naked Lunch)」を食べているような格好良さがあり、銀行強盗風のマスクを被った男がスーパーに立つジャケットが印象的な96年の『High Time』辺りのタイプライターマシーンをハンマーで叩き割って、そこから文字を拾い上げるようなバンドとしてのアティチュードに心底、痺れた。90年代後半のいささかハイなムードの中で、決してオンではなかった直球でスタイリッシュな8ビートはセンスが先行していたきらいもあるが、「世界の終わり」というこれ以上無い程の明確な表現を引っ提げて、シーンに登場してきて、「ロックンロール」という言葉通り、複雑で込み入った時代の中をどこまでも粋に、加え、スマートな知性とエネルギッシュなスタイルでロールしてきて、一ファンとしては、その姿はいつも頼もしくもあり、「日本の」ロック自体がつまらなく思える時など、その存在性はシーンを見渡す時の良い指針になっていた。もっと言うならば、とかく浮つきそうになるロック・シーンにおける一つの重石のような役割としても彼らを観ていたりもした。

 ちなみに、個人的に彼らのライヴには幾度となく行ったが、やはり強烈だったのは「意味」ではなく、「乾いたリリシズム」を備えて野放図に宛先不明の手紙を郵便箱に投函していた時期であり、「起きてくれ、ルーシー」という掛け声には多分、片道切符を切るべきロックンロールの清清しさがあった気が今でもしている。だから、『ギア・ブルーズ』を境目に、より真摯に、鋭角的に「意味」に深く潜り込んでいき、最終的には「太陽」を「つかんでしまった」とドアーズのような境地にいったのは巷間(マス)の要請か、彼ら自身の誠実さ故なのか、分からなかったが、誰かをサルベージするものがロックという大文字ではなく、ロール、スウィングさせる"効き"にこそ、美しい非・予定調和があると思うような自分からすると、その次作『カサノバ・スネイク』からのシリアスな流れにしんどさもおぼえてしまったのとともに、ラスト・ライヴでの「過剰なサービス精神」に少し寂寥も感じもしてしまったのも事実で、「トゥッティ・フルッティ」と口笛を吹かせてくれるような音の行間が欲しかった。その後、アドルノ的なニュアンスでいえば、ポピュラー音楽は様々な手札を用いて聴衆に生じる複雑な思考を阻害し、聴取方法までも「規格化」することで聴衆の自律的思考を阻害するとして、このような聴取の「退行」の下、聴衆の自立性の喪失と狭まったコミュニティへの追加の帰属意識を固めてゆく意味で、その「確認」のために、TMGEというスティグマ(聖痕)に悩まされていた一人としては、まだ的確な言葉で彼らを対象化することが出来ないでもいる。

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 TMGEは03年に解散する。

 ROSSOやRAVEN、THE MIDWEST VIKINGSやMIDNIGHT BANKROBBERS、他バンドへの参加、スカパラへの客演などを経ながら、まるで意味から解き放たれたバンドを求める為に、ボーカル/ギターのチバユウスケはTMGEのドラマーであるクハラカズユキ、元フリクションでROSSOのメンバーとしても参加していたギターのイマイアキノブ、元てるる...のベースのヒライハルキの四人で06年にTHE BIRTHDAYというバンド形式を取り、それがメイン活動になる。THE BIRTHDAYでは、技巧主義に走るよりも「直感的なイメージ」が優先され、ローリング・ストーンズの転がり方のように、なだらかに続いてゆく道を歩む途程で、自然とキャッチーな「アリシア」、「カレンダーガール」、「涙がこぼれそう」、「愛でぬりつぶせ」という佳曲も生まれていった。

 しかし、僕は彼らの無邪気なロックンロールにそこまでアディクト出来ないでいたのは「正し過ぎる」という点に収斂するかもしれない。ブライアン・イーノが『A YEAR』で書いていたように、かつて「美学」には正しい一つの流れがあって、様々な作品はそれとの距離関係を持っているかの、測定作業でもあり、ときにその正しさの再規定の作業でもあった訳だが、今や日本でロックンロールをするにはシーンの"gravity"から無縁であるか、過去のレリックに敬礼をするか、の二項に引き裂かれているきらいもある中、双方への目配せもある彼らの音は「手術台の上で蝙蝠傘とミシンが出会う」予感ではなく、「愛でぬりつぶせ」と歌ってしまう大きさに自分の中の小文字が錯綜してしまうときがあり、"ザ・ブルーハーツ以降の甲本ヒロトの真面目さ"と同位相で、チバユウスケという人がロックへのパースペクティヴが殉教に近いものになっていった感じさえ受けた。ゆえに、THE BIRTHDAYの周辺に行き交う批評や賛辞、揶揄も含めて、総てが気分としての「ロック」という大文字の概念内で行なわれる密室内での共犯にしか思えないことが増えて、そこで僕は何を想えばいいのか、は分からないまま、新作は出たら聴く、でも、殆どライヴに足を運ぶことは減っていった。フィリップ・K・ディックの作品にあるような、「アウトサイダーの優越性」に対してもっとも敏感であった筈のチバユウスケが静かに優しくなってゆく軌跡を観るのは少し切なく、ましてや、TMGE時代の盟友のアベフトシを2009年に亡くし、ますます背負ってゆくものが増えてきたと思えてきた折、この「なぜか今日は」は、会心の作になった気がする。

 2010年9月にイマイアキノブが抜け、存続が危ぶまれたが、新メンバーとしてこれまでTHE BARRETT、MY LITTLE LOVER等数々のバンドで名を馳せてきたギターリストのフジイケンジが加入したのもあり、一気に次のヴィジョンに踏み込んだ手応えと軽快さを感じるシングルになった。バリエーション豊かな3曲が収められている中でも、ギター・リフが牽引する抜けたロック・チューンになった鮮烈な表題曲は特に素晴らしい。「Stupid」辺りの速度感のあるフレーズの羅列と、疾走感、程好い軽さ。その「軽さ」は、ときにTHE BIRTHDAYというバンドに付き纏う周囲のディレンマもあったが、この拓け方と並行して、オルタナティヴなザラッとした質感と緊張感のある詩的な言葉が乱射される様は「綺麗な歪んだ温度」を感じる。

「今日(今、ではなく)」を歌うことが難しい時代になったとは思う。

 希望的なのか絶望的なのか「何か」が待っている明日へ向けての投げ掛けを行なうか、それぞれに「何か」が残っている昨日へのノスタルジーをストロークの広い表現で囲い込めば、リプレゼントできる糊しろは想像の域を越えてくるかもしれないが、《なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする だけど裏側には何かがある気がする でも なんか今日は でも きっと今日は でも なんか今日は でも きっと今日は》の「でも」と「きっと」の狭間に仄かな光が視えるのも確かであり、「デッドエンド」を認識することから始まり、その「デッドエンド」を解明しようと懸命にロックンロールしてきたチバユウスケがこういう<場所>に辿り着き、また新たなメンバーとともに音楽活動をロールさせてゆくという行為性の中にはおそらく、想像し得ないチア/ジャッジが混じってくるのだろう。そうだとしても、ここには「ロック」と区切ってユースの自意識をコロニアル化するような商法で罷り通っている界隈の安心を対象化して捉え直し、はたまた、そこで囲まれざるを得なかった精神的逼迫のコンテクストと一線を引く強かさがある。

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 THE BIRTHDAYは綴る。
 
《シンデレラに羽が生えて 飛び立ってった クツは忘れっぱなし でも 幸せだって》

 そういう幸せの形が"今日"ならば、響く気がしている。私的なセンチメントやリリシズム、そして、綺麗事を越えて、ここにはささやかなもっと大きな何かに繋がる"HELPへのPRAY"がある。

(松浦達)

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b-valentine.jpg サンダンス映画祭やカンヌ国際映画祭など世界各地の映画祭で注目された今作。壊れかけた夫婦には、『ラースと、その彼女』のライアン・ゴズリング、『ブロークバック・マウンテン』のミシェル・ウィリアムズ。10年以上も脚本を練り上げたデレク・シアンフランス監督による、愛が終わる痛みを巧みな演出で紡いだ切ないストーリー。

<ストーリー:結婚7年目を迎え、娘と共に3人で暮らすディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)夫妻。努力の末に資格を取って忙しく働く妻シンディに対し、夫ディーンの仕事は順調ではない。お互い相手に不満を募らせながらも、平穏な家庭生活を何とか守ろうとする2人だったが、かつては夢中で愛し合った時期があった...。>

 ディーンとシンディとフランキーの家族。庭で飼っていた犬がいなくなる所から物語は始まる。娘のフランキーが犬の名前を呼んで探している。やがて父のディーンを起こし探すがいない。二人は仕事明けで寝ていたシンディを起こし朝食を作ってもらい食べ出す。この娘のフランキーがすごく可愛い。父の陽気さを受け継いでいるように明るい女の子だ。

 やがて犬が道路沿いで死んでいるのをシンディが発見し、ディーンに伝えるが二人は娘には伝えずにで父は「あいつはハンサムだったからハリウッドに映画犬になりに旅立ったんだよ」と伝えるが娘には死んだ事を知らせずに庭に埋葬する。飼い犬を失った哀しみを晴らすために隣町のラブホに行って酒を飲みまくって久しぶりに二人きりになろうと提案するディーン。朝から仕事がある彼女はそれを嫌がった。途中に立ち寄ったスーパーでシンディは大学時代の恋人のボビーとすれ違い、軽く話す。その事を車で夫に話すと彼は不機嫌になってしまう。

 ラブホに着いて食事をしながら会話をしているとやはり口論になってしまう。苦学末に資格を取って働いているシンディには向上欲もなく家族と過ごすのが一番だと思っているペンキ塗りをして満足なディーンが不満だった。シンディは音楽やいろんな才能があった彼に「自分を高めるような仕事をしてほしい」とディーンに言う。ディーンは「父親として、夫としてこれ以上何を求めるんだ」と。彼女へのある種の劣等感で酒を止めれない彼。喧嘩の末にディーンはシンディを求めるが彼女はバスルームにこもってしまう。

 それから二人がどうやって出会ったのか何があったのかが物語られる。現在に続く始まりの時。互いが互いに恋をした時代。ディーンが一目惚れしたシンディに、シンディは彼の飄々さに惹かれた。そして彼らは家族になった。

 過去の描写はフィルムで撮った少し荒々しい映像で現在との対比もありつつも現在は24時間の事だけど過去は数ヶ月を描いている。過去と現在。ラブホで起きたディーンはいなくなったシンディを追いかけて彼女の職場に出向くのだが...。

 冒頭の犬がいなくなるシーンではディーンがシンディに犬小屋の周りの柵になんで鍵をしなかったんだと怒る所がある。映画を観ていて物語が彼と彼女の終わり、月日を重ねて堆積した崩壊への感情や想いを観ていたらなぜ犬が出て行ったのかわかる気がした。彼らの家の庭にいた犬は彼らの愛情のメタファーだったように感じる。犬は逃げ出して道路で死んでしまった。彼らの間には互いへの想いや愛情はあるけども互いに求めるものが違ってしまった。しかもそれはもう話し合っても修正できないものになっていた。だから犬は死んだのだ。家から飛び出して死んでしまった。

 出会い互いに惹かれ合い恋をすることはある、しかし恋をするだけで誰も愛には辿り着けない。なぜなら愛など存在しないからだ。子供ができて家族になったからといって愛だと盲信する。本当の愛を探すものはいつも...という野島伸司脚本『世紀末の詩』の百瀬教授の台詞が浮かんだ。

 この作品は『(500)日のサマー』の思春期のちょいとした別れみたいなほろ苦さみたいなものよりも確実に痛くどうしようもない月日の堆積からの別れを現在と過去を描いているだけに哀しい。両方共に現在と過去を描いている。『(500)日のサマー』は古谷実『シガテラ』に近い気もする。最後でそういう思春期の思い込みなんて時が過ぎればただの思い出になって過ぎて行くんだという皮肉すらある。ほのかに甘く痛い思い出。当時は辛くても時間のみが癒してくれる、あるいは別の誰かが現れたらそれも薄れるという哀しい人間の性。

 主演のライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズは現在32歳ぐらいだが若き頃と現在を演じるために体重を増やしたりとかなり現在と過去で時間が経ったのがわかるほど変わっている。この作品においてミシェル・ウィリアムズがセックスシーンをきちんと演じている部分がこの作品の哀しみが増す要因だと思う。あれがあるからこそ切なさが増しより心に届いてしまう。こういう作品においてきちんと俳優がセックスシーンで絡む部分があると彼らの気持ちが伝わりやすくなると思う。なんかベッドで二人が寝ててやりましたよ的なしょうもない描写は観てる方はさめざめする。

 映画の最後のシーンは独立記念日の日で街中でも花火をあげていてそれがエンディングの映像と重なる。流れるグリズリー・ベアの音楽とエンディングの花火の明かりに照らし出されるかつてのディーンとシンディの美しさが時の残酷さのようだった。

 確かに彼らの思い出は花火のように輝いていた。だからこそその瞬間の瞬きに二人はかつて酔い未来を夢見た。だけど互いに過ごした時間の中で変わってしまったものと変わらないものが交わらなく決定的に二人の中にあった何かを感情をもはや紡ぐ事はできなくなった。

 一人で観に行くのもいい。でも恋人同士や夫婦で観に行ってもいいだろう。彼らはなぜ別れて行ってしまったのかを観たカップルで話し合う事は無駄ではないはずだ。

(碇本学)

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pandabear.jpg「何か...サンプラーをいじってどうこうすることには少しうんざりしてきちゃって―今回は寧ろ、ニルヴァーナやホワイト・ストライプスみたいなギターとリズムに焦点を当てた音楽に影響を受けたかな」(パンダ・ベア)

《さあ、僕を信じて/少しのあいだだけど、君を守ってあげるから―ねえ、だから出ておいで》(「You Can Count On Me」)--強烈なリバーブを掛けられた空間でリフレインを繰り返すコーラス。そこにハンドクラップ、ドラム、時折入ってくるざわめきの残響の起こすディレイが後続の音と繋がって多層的なフィードバックを生じさせて行く―『Tomboy』を再生すると先ず、私たちはある種呪詛的なフィーリングを見出すだろう。

 加えてサマーブリージンへの目配せからか、このアルバムの全編はフロウティングな柔らかいビートや、更にフォグに暈す所謂「Hypnagogic Pop(=入眠時のポップ)」的なヴァイブスに包まれている。さきに引用した「You Can Count On Me」のように少しダークでセンチメンタルな世界観はそのままに、要はフリー・フォークのセオリーに則った多幸感にアンビエントとオフビート・トランスを合わせてチルアウトしていくように展開して行くのだが、パンダ・ベアの新譜に於いてはそれはでも、このような「計算されたダンス・ポップの妙」を加味してもやはり予定調和であると言えなくもない、といった一抹の不安を或いは抱くのではないだろうか。

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 例えば「サマー・オブ・ラヴ」がそうであったように、件の911テロ事件やイラク戦争といった社会的な不安が多くの人々を包んだような00年代をして「浮遊の時代」と呼ぶことがあるが、そうした時代の持つ「浮遊感」に対して若者達は「集まり」、「パーティーを始めた」のは記憶に新しい。それが所謂、破れたスキニーをガムテープで留め、ライダースを着込んで"良かった昔なんてない"と逆説的な「現在」の否定を図る所作(=「ワット・ア・ウェイスター」)であったり、パッション・ピットゴールド・パンダのように個人的な動機(動悸)を胸にベッドルームとダンスホールを繋ぐアーティストの発現であったりする。そして10年代に入り間を縫うように「グローファイ/チルウェイヴ」というタームが浮上するのだが、それは置いておくとして、"MP3ダウンロードという聴き方"を経てより「個人的」なものとなった「音楽体験」からすると、「今」のインディーズ・シーンでヴァイナルやカセット限定のリリースが多い理由もだからわからないでもないし、「世界のある場所で起こってきたこと、いまも起こっていることにより正確な観点を与え、意識化すること」を掲げたワールド・ワイドなレーベルであるサブライム・フリークエンシーズの存在を想起せずには居られないのも事実である。

 アラン・ビショップの言葉を引用するまでもなく、「現在」に於いて音楽を聴くということは寧ろ、任意の地域の切り取る「窓」としての「周波数」をキャッチすることに近いのかも知れない。ヒシュバやチョビ、或いはルークトゥン。サハラではどういうわけかフランジャーを効かせた音が跋扈しているといった具合に、ラジオを通して「出会う」、「ケオティックな体験」の希求が現代は確かに認められる。いや寧ろ、「同じふたつのことを言う人間」はつねに「他者」であるからして(=『終わりなき対話』)、音楽とのフィジカリーな邂逅という意味ではだから、彼にとって4作目となる本作で「如何にも」なフリー・フォークが「今」、鳴っているのも不思議ではないような気もする。そして「彼は敢えて同じことをする」。

「もし"Tomboy"のイメージを僕に当てはめるとしたらそうだな、ボルチモアのラジオの音源を集めていたミドル・スクール時代を追体験するような感じだね」(パンダ・ベア「Paw Tracks」掲載ページより抜粋)

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「乾いた水を飲まされて喉がからからになっても、君をまちがえてのみこんだりしませんように」(「月のひざし」)--では水が引いた「そこ」にあるものは、地下室で"黙示録的な呪詛"を謳う若者だろうか、それとも「足場」としてのノスタルジアに対する傾斜か。或いは、ふたたび"裏庭から水が湧き出て"来る、という可能性も考えられる―さて、この「アクティヴ・チャイルド(Active Child = お転婆娘)」と名付けられたアルバムをどのように評価したものか。

 夜明けとともにパーティーが穏やかにチルアウトしていく凪の瞬間のように「多層的な」不安を尻目に、「Tomboy」は無邪気に走り去って行くだろう。行き着く先で「彼」はサーフィンをするのか、植民地の音楽に傾倒するのか、はたまた「鏡の向こう」を見つけてしまうのか―どちらにせよ、彼の動向からまだ暫くは目が離せないのだろう。

(黒田千尋)

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lilliesandremains.jpg 共同プロデューサーにMETALMOUSEを招き、初期のゴシック的なニューウェーヴ直系のサウンドから新たな音響の膨らみと実験性を獲得した昨年の力作EP「MERU」を経て、約二年振りとなるセカンド・フル・アルバム『TRANSPERSONAL』が指し示す世界観は面白いことになっている。アルバムのタイトル名は1960年代から起こり始めた心理学における新しい潮流のことを言い、人間性心理学における自己の「トランセンダント(超越性)」という概念に関して更に突き詰めた形のもので、如何せん、昨今、隆盛しているスピリチュアル、ニューエイジ系との共振も感じさせる部分もあるが、自己を越えた何ものかへと「統合」される考えやメソッドを模索、援用するというのは『MERU』で見られたボーカルのKENT氏の三島由紀夫の『豊饒の海』にインスパイアーされながら、傾いだ仏教、東洋思想("天上"という記号性が付随していたりもした)と、その後のインドへの渡航で得た「"人間としての個"を巡る再考」がはかられた結果の必然的な流れともいえるだろう。実際、歌詞内でもマテリアリズムや過度な個人主義社会への警鐘のフレーズなど個の超越に基づいた精神性の奪還を目するものが散見される。

 ただ、その際に存在論的または方法論的に、暗黙の合意を条件付けした上で「意識」を語っていないかどうか、という危惧も同時に生まれてくるのがトランスパーソナル心理学の一側面であるが、そのスピリチュアルな要素(不確かな内面性)の湿度を乾かすようなサウンドのモード(確かな外面性)が巧く活きており、メッセージ性の堅苦しさが先走った印象は受けない。80年代のシンセが押し出されたヒューマン・リーグ、デペッシュ・モード辺りのニューロマンティックス的な華やかなクールネスからポスト・パンクの色がより強まり、ビートへの感覚が更に逞しく強化されたことにより、ストイックな疾走感を得ているという捩れによって、奇妙な説得力を持ったスキームを提示することに成功している。そして、彼らを語る場合に兎角、参照にされがちだったザ・キュアー、バウハウス、ジョイ・ディヴィジョン等に備わっていた暗みも多少は継承されているが、そういった目配せや冠詞自体はもはや疎遠ともいえ、より堂々と彼ら独自の孤高の「シリアスな黒い色香の漂うポップネス」を手にしたようになったのは頼もしい深化だと思う。

「MERU」の時点ではいささか纏まりがなく思えた音像の点も滑らかに改善され、エレクトロニクス要素が良い形でポップなエッセンスとして機能しながら、引き算と抑制されたメロディの下、KAZUYAのエッジのあるギター、KOSUKEのアタック感が強まったドラム、NARA MINORUの静かな熱を帯びるベース、KENTの蠱惑的なボーカルの一体感はなかなか今の日本にはない筋の通った毅然たる美意識を貫く意志を感じさせる。

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 日本のロック・シーン(日本に限られるものでもなく、また、"シーン"というのもあるのか、難しいが)で取り交わされる少なくない数の"大きな言葉の「ロック」"とは、兎角、抽象的に精神論とともに、サウンド、歌詞にしても、その政治性自体の持つ押しの強さであったり、アーティストのパーソナル・ストーリー沿いに作品論まで広い視野の中で攪拌されて語られてしまうきらいがあり、そういった磁場と実際に鳴っている音楽そのものは切り分ける「べき」だと思うのは、どんな音楽であっても、大文字の他者へのアンテナの鈍感さが散見され得る限りは、共通する筈の言語往来の場での「第三者」がスルーされてしまうならば、その受け入れるアティチュードは意味よりも「意味しているもの(シニフィアン的なもの)」を補う可能性を持っていることが好ましい気がするからだ。賛同(または、批判)と意味の「壁」に向かって、投げ掛ける音というのは結果的に自家中毒気味の相互閉塞を待備せしめてしまうときがあり、その際のアーティストのリスナーの「関係性」は密室内での確認作業に堕してしまう。その「確認」という行為とは更新はされてゆくが、刷新される必然を持ち得ない場合がある。それはオルテガの言うように、大衆(聴衆とこの場合、置き換えてもいいかもしれない)とは新しい慣習のようなもので、「大衆とは心理的事実」であるが、この大衆の動きや思考の反映が、それがシーンの選択した「信念」と捉えられてしまうと、難渋な誤配の問題が起こるという事と繋がってもくる。要は、「名もなき意思」が社会に刻印される紙一重のラインには線引きして、音楽は語られるのが健全であると僕は思っている。

 そういう意味でいうと、リリーズ・アンド・リメインズ(LILLIES AND REMAINS)がこの『TRANSPERSONAL』で踏み込んだ(敢えて言うが)深遠なスピリチュアリティと80年代のサウンド・マナーで引き裂かれた、また、地上と地下を鬩ぐ「隙間(crevice)」の境地には、そういった相互確認を迂回するタフさがあり、その分だけ、"共通する言語の磁場での「第三者の個」"へ向けた希いのような何かが込められている気がする。

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 彼らは、一部メディアが言うようなアンダーグラウンド・シーンの中の先鋭などと括られてしまう分かり難いバンドでもないし、日本のバンドらしくない音をクールに鳴らしている、なんて標語よりも、もっとマスへと拓けてゆける反逆精神のポテンシャルを秘めていると個人的に思う。まだまだこれからも「新たに始まってゆく」バンドだろうし、更にフォーカスは絞られてゆく気もする。だからこそ、この作品内で例えば、「Effectual Truth」や「You're Blind」等の曲でときに見せる拓けたポップネスや全体を覆うまろやかな音響工作には初期からのファンは微妙な印象を持ったかもしれなくても、彼らが従来の闇を彷徨し続ける道を択ぶのではなく、マッシヴな形で闇の中を内破していこうという要素が強く視えるという文脈に沿えば、「個を越える」為の変革の企図が「これまでの自分たちを越えてゆこう」とする意欲に繋がったという点を何より評価すべきなのではないだろうか。

(松浦達)

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2562.jpg 2562ことデイヴ・ハウスマンズは、とある雑誌のインタビューで、尊敬するアーティストとしてマラやシャックルトン等の名を挙げていた。理由は、これらのアーティストはトレンドに左右されずに、自分の音を生み出したからだそうだ。そしてデイヴ・ハウスマンズも、トレンドに左右されない一貫とした音作りの美学を持っている。しかし同時に優れた柔軟性を持ち合わせており、だからこそ『Fever』という様々な音楽が交差し混じり合ったアルバムを完成させることができたのだろう。

 デイヴ・ハウスマンズは、2562のほかにも様々な名義を持っている。ア・メイド・アップ・サウンド名義では、強い影響を受けたと公言するデトロイト・テクノ色が濃い作品をドイツの〈フィルポット〉からリリースしているし、ドッグデイズ名義では、〈フライン・ハイ〉からヒップ・ホップ・トラックをリリースしている。こうした幅広い音楽性を持ち合わせているデイヴの本領は、『Aerial』や『Unbalance』 でも十分発揮されていたが、『Fever』はそれをさらに押し進めたような印象がある。前2作は「ダブステップをやる2562」という分けた感じが残っていたけど、『Fever』ではデイヴが普段好んで聴いているファンクやソウル、それから今まで以上にデトロイト・テクノ的な音とアグレッシブさが前面に出ている。重たいリズムとメランコリーはあるけども、それ以上に汗をかいて笑顔で踊っている姿が目に浮かぶ、聴いていて楽しいアルバムとなっている。特に「This Is Hardcore」以降の流れは、ジャンルなど関係ない純粋な音楽へと変貌を遂げていく過程が鳴らされているようで、本当に素晴らしい。デイヴ・ハウスマンズが、また一歩ジャンルやトレンドに囚われない存在へと近づいたことを証明する一枚だ。

(近藤真弥)

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merengue.jpg 近年はキリング・ボーイのデヴュー盤のエンジニアをはじめ、多くのアーティストに楽曲提供もしてきた多才なメロディー・メイカー、クボケンジの本バンド、メレンゲの約2年振りの新作、ミニアルバムはギリシア語で困惑を意味するタイトルを冠した『アポリア』だ。

 例えばグラスゴーのティーンエイジ・ファンクラブや国内のバンドではスピッツのように、新作をリリースする度に決して大きくは変わらないが、そのそれぞれに新たな試みが見られる、基本のベースに様々な色の塗り方(時には、それは前の作品に残った色と今の色が混ざっていたりもする)をして更新されながら提示してくれるバンドがあって、メレンゲもそういったアーティストの一つだろう。

 また、クボの豊満なメロディー・センスと恋する心をやさしく繊細になぞっていきながら、でもどこか外からは見えにくい場所にハッキリと爪痕を残していくように刻み付ける歌詞、それらで構成される世界を堅実に支えながらも、よりビビッドに色彩を濃く滲ませるようなタケシタツヨシとヤマザキタケシによるリズム隊...これらは最早、メレンゲ印と呼んで差し支えないだろう。

 そして、盟友であるフジファブリック(クボにとっての親友であった志村正彦が急逝した後に開催された彼らの主催イベント、「フジフジ富士Q」でもフジファブリックをバックにクボがカバー参加していたことも記憶に新しい)から山内総一郎とゴーイング・アンダーグラウンドから河野丈洋、メレンゲのサポートメンバーでもあるプレクトラムから藤田顥(メレンゲと度々共演していたシロップ16gのサポートをしていた経験もある)と曽我部恵一ランデヴーバンドから横山裕章、それに皆川真人、おおはた雄一といった豪華な顔ぶれがゲストに集結した今作でもメレンゲ印はそのまま、彼らが次のステージに進もうとしているのがリアルに伝わってくる作品だ。

 『アポリア』は、まずCDを取り出す前に手に取ってみた時から、そのジャケットと彼らの世界のシンクロ具合に驚かされる。これは、漫画家、浅野いにお(アジアン・カンフー・ジェネレーション『マジックディスク』収録のシングル曲「ソラニン」のオリジナルの作詞者でもある)によるものだが、先日、エロティックス・エフに連載されている新作、『うみべの女の子』の単行本を初めて発売した浅野とデヴュー当初から海や海辺の風景を一つのテーマとも言えるように歌ってきたメレンゲは経歴的にも絶妙にマッチしていて面白い。
 
 午後の海辺の潮の匂いのする曲を多く歌ってきたメレンゲであるが、今作で見える景色は、ジャケットが示すように、夕方(『初恋サンセット』)が終わり、陽が落ちて、辺りが暗くなってきた頃の海が見える家のベランダから見える風景だろうか。

 とは言え、メジャーデヴュー以降の各アルバムの一曲目は「夕凪」、「きらめく世界」、「午後の海」がどれも夕方の景色を、「カメレオン」が夕方~翌朝のそれを描いているのに対して、今作の幕開けを飾る「旅人」は、明確な時間設定を示す言葉がタイトルにも歌詞中にも現れない。ただ、少しベクトルを変え、この1曲目たちをもう一度、精査してみると面白いことが分かる。「夕凪」は僕を映し出す、もう一人のボク、そしてその隣にいるキミとの関係を歌っているが、ここでのキミは虚像としてのボクが持っている清算不能になってしまった弱さである(あるいは、弱さを振り払った偽物のボクに魅力を感じる人物とも取れる)。どちらにせよ、虚実併せ持った存在としての僕が浮き彫りになっている。「きらめく世界」は、一見、タイトル通りのキラキラと輝く《海の見える小さな街》で遊ぶ2人を映し出すキュートな曲に思えるが、《どこにでも落ちてる使い捨ての愛に命を吹き込む午後6時の魔法》という歪んだ一節のおかげで、これがフェイクの恋心に包まれた君と僕の関係であることが浮き彫りになる。採算のつかなくなった僕は、「カメレオン」になって自分を隠し、自身を騙そうとするが、実存さえも失いかけ、慌てて君に会おうと《急いでカーテンを開け急いで僕は外に出る》。「午後の海」では、清算も採算も必要なくなり、<<僕らは永遠じゃない/消えちゃうまで触り合ってたいだけ>>とフェイクの刹那に耽溺しようと試みる。ここで、その先の世界が「旅人」だとすれば、《思い出ばっかで膨らんだ気球/割れないのが自慢/迎えに行くよ/待っててね》という一節が、より鮮やかに響きはしないだろうか。つまり、これまでの虚実や耽溺が報われなくダメになってしまった後、自分自身をもってもう一度、あるいはまだ見ぬ、君と出会う覚悟を決めたのである。

 これは彼らの曲では初めてプレリュード「untitled」と共に収録されている「夢の続き」の一節、《体中の全部で優しかった君だけ思い出そう/忘れるはずがない/そんな夢の続きもある》や、一昨年の彼らのアニバーサリー・ライヴにも同じタイトルを冠されていた、新たなアンセム「アルカディア」の《後ろは見ちゃうけど/かならずそばに居て/なんでこんな僕にも/優しくされるんだな》という一節にも如実に現れている。

 今までの思い出を詰め込んだリュックを背負って、たまにそのリュックの中のフォト・アルバムを眺めてセンチメンタルにもなりながら、戸惑いもしながら、それでも君に出会うこと。『困惑』というタイトルをもった今作は、それを讃えたアルバムのようだ。その点で、今までの夕方の景色からは少し時間が過ぎた、夜が訪れた後の世界を映し出していると言えないだろうか。

 サウンド面を見ても、「旅人」は今までの1曲目との違いが顕著に出ている。「夕凪」を除いて、今までのどの幕開けの曲も、軽快なシンセとギターの豊かなメロディが絡まったアップ・チューンで、(これは「夕凪」も含め)どの曲もシングル曲になるようなポップさを持っているのに対して、「旅人」は確かにポップではあるが、シンセの音は微かにバックで鳴っている程度で、実直なリズム隊のビートが印象的なミドル・チューンである。色鮮やかな幕開けというよりは、むしろゆったりとしたグラデーションのような始まりである。ディレイと揺れるギターが印象的な横ノリの「夢の続き」も、カントリー調の土の匂いのする「ルゥリィ」も、今作では最も緩急がついており盛り上がりも明確な「ムーンライト」も、どの曲も派手さはないけれど落ち着き成熟したサウンドが魅力的だ。またビートたけしと玉置浩二の「嘲笑」の原曲に忠実なアレンジのカバーも収録されており、それも含めて彼らの新たな一面を見ることもできる。

 たった一つ残念なのは、権利等の関係もあったからか、どうしてもアルバムの毛色に合わなかっただろうからか、前アルバム『シンメトリー』の約4ヶ月後にリリースされていた、新垣結衣に提供した名バラードをセルフカバーしたシングル「うつし絵」が収録されていないことではあるが、それがあっても、ネクスト・ストップへ進み出そうとする彼らを追える今作は、あと数年経って以降の作品をリリースしてから見返した時に重要なターム・ポイントになっているはずだ。

 是非、この春の夜は、この海沿いの街の湿った気怠い夜更けを映し出すアルバムを聴きながら、少し湿った夏の風を待っていたい。

(青野圭祐)

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telebossa.jpg 一括りに「ドイツの音楽」と言っても、第二次世界大戦後は「フランクフルト・サウンド」として知られるジャズ・シーンが隆盛しており、60年代末70年代初頭にかけて「クラウト・ロック」が西ドイツをベースに世界に向けて影響を広げていた時期には、"ベルリン派"として知られるタンジェリン・ドリーム、アシュ・ラ・テンペルに代表されるサイケデリックで実験的なバンドの存在も大きかったが、その後の世界的なシェアの度合を考えると、西部ライン地方のクラフトワーク、カンなどのロック産業文化へ向けての警鐘と明るさが並存したバンドが秀でていたと言えてしまうのは仕方のないことかもしれない。

 何にしても、「一枚の壁」の前後までといおうか、ベルリンという豊穣である筈の都市は混迷や模索を余儀なくされた。機能の緩やかな衰退と、経済的停滞、治安の悪化もあり、「一枚の壁」によって囲まれた空虚な形質を外側へ向けて発信する「記号」を孕んだまま、音楽のみならず文化都市としても、北部の経済都市であるハンブルクやライン川の河畔に位置する産業都市ケルンといった場所に主管が移っていくことになり、"外れてゆく"場所になっていった。

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 しかし、1989年に壁が壊れるまでのベルリンはだからこそ、持たざるユースを中心した文化的な閉塞を内側からブレイクスルーしてゆくような意思も育て上げていき、例えば、70年代後半から80年代初めの英国のパンク、ニューウェイヴのムーヴメントと西ドイツが「共振」し、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(Neue Deutche Welle、"ドイツの新しい波"の意)を作り上げることになったが、ハンマービートが印象的なDAFやノイズ、インダストリアル・サウンドの革新を進めたアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、ジャーマン・エレポップの才人ホルガー・ヒラーなど多種多様なアーティストたちが芽吹き始めた際に、そこでのキーとなった都市はベルリンであった。産業化したロックや形骸化したアートに対しての〈反〉たるアティチュードを掲げるために、オルタナティヴな音楽実験の場の文脈下でベルリンは様々なアーティストたちによって「試された」。廃品置き場から拾ってきた鉄板を使ってのパーカッション作り、地下でのノイズ・パーティー、アヴァンギャルドとしか言いようのない演奏スタイル、兎に角、あらゆる試行がそのまま眼前の現実と連結される形で、文化状況の閉塞を打ち破るような狂騒が静かに渦巻いていった。それは、"Die Geniale Dilletanten"(天才的ディレッタント)と形容もされ、1981年のベルリンの壁近くのポツダム広場のテントではディー・テートリッヒェ・ドーリスのヴォルフガング・ミュラーが主となったイヴェントが催されるなど、ディレッタントがときに帯びるネガティヴな意味を越えて、確実に時代に楔を打ち込んでいった。

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 そして、壁が壊されて20年以上経ち、緩やかにグローバリゼーションが文化の均質を迫る中、ベルリンという辺境は再び「中心」に戻ったのか、というと、そうでもなく、テクノ・ミュージックとアヴァンギャルド・ミュージックの模索が為されるカウンター性を持った都市の意味を近年、更に強めている。今回、紹介するベルリンで結成され、活動するテレボッサ(TELEBOSSA)も"とてもベルリン的な、雰囲気を持ったディレッタントなユニット"と言えるだろう。
 
 テレボッサという如何にもな名前を持ったユニットを担う一人は、ブラジル南部のクリティーバ出身で、ヨーロッパで舞台音楽を中心に活動をするシンガーソングライター、シコ・メロ(CHICO MELLO)。最近でも、彼の84年のエクスペリメンタル・ミニマルの名盤『Agua』が再発され、話題になったのも記憶に新しい。もう一人は、ドイツ出身のチェリストにして、Kapital Band1のメンバーでもある前衛的な音楽家ニコラス・ブスマン(NICHOLAS BUSSMANN)。一部ではカエターノ・ヴェローゾを彷彿とさせるとも言われるシコの歌声は非常に評価が高い。中性的という要素では確かに感じる部分があるが、個人的にマルコス・ヴァーリやセルソ・フォンセカ辺りのスムースな透明感も見える。その彼がボサノヴァを軸にした軽やかな弾き語りをベースに、ときにモンゴルのホーミーといった歌唱までみせ、そこに、ニコラス・ブスマンのドイツの伝統的な室内楽の形式に則ったチェロや、まろやかなエレクトロニクスが絡んでくる。

 本作に収められた7曲では、オリジナル曲以外にも、ブラジル音楽の古典である「Seculo do Progresso」や「Amoroso」等カバーを含んでいるが、比較的、奇を衒わない形におさまっている。それでも、要所でエクスペリメンタルなアレンジが為されており、ブラジル音楽のトラディショナルなセンスとヨーロッパ音楽のクラシカルな深みが「ミニマル」の枠内で絶妙に溶け合い現代的な野心に溢れた面白い内容になっているのは二人の気鋭の現代音楽家の面目躍如と言ったところだろうか。

 この日本での先行発売を経て、5月にはドイツの〈Staubgold〉から世界リリースがされることで、盛り上がりを見せている「ポスト・クラシカル」と呼ばれる音楽の中でも、テレボッサの研ぎ澄まされた美しさは俄然、注目を浴びてくるだろう。ベルリンという"辺境の中心"から生まれてくる音楽にはまだまだ眼が離せない。

(松浦達)

*一部レーベル記述に誤りがありましたので修正しました。【編集部追記】 

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