reviews: April 2011アーカイブ

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lilliesandremains.jpg 共同プロデューサーにMETALMOUSEを招き、初期のゴシック的なニューウェーヴ直系のサウンドから新たな音響の膨らみと実験性を獲得した昨年の力作EP「MERU」を経て、約二年振りとなるセカンド・フル・アルバム『TRANSPERSONAL』が指し示す世界観は面白いことになっている。アルバムのタイトル名は1960年代から起こり始めた心理学における新しい潮流のことを言い、人間性心理学における自己の「トランセンダント(超越性)」という概念に関して更に突き詰めた形のもので、如何せん、昨今、隆盛しているスピリチュアル、ニューエイジ系との共振も感じさせる部分もあるが、自己を越えた何ものかへと「統合」される考えやメソッドを模索、援用するというのは『MERU』で見られたボーカルのKENT氏の三島由紀夫の『豊饒の海』にインスパイアーされながら、傾いだ仏教、東洋思想("天上"という記号性が付随していたりもした)と、その後のインドへの渡航で得た「"人間としての個"を巡る再考」がはかられた結果の必然的な流れともいえるだろう。実際、歌詞内でもマテリアリズムや過度な個人主義社会への警鐘のフレーズなど個の超越に基づいた精神性の奪還を目するものが散見される。

 ただ、その際に存在論的または方法論的に、暗黙の合意を条件付けした上で「意識」を語っていないかどうか、という危惧も同時に生まれてくるのがトランスパーソナル心理学の一側面であるが、そのスピリチュアルな要素(不確かな内面性)の湿度を乾かすようなサウンドのモード(確かな外面性)が巧く活きており、メッセージ性の堅苦しさが先走った印象は受けない。80年代のシンセが押し出されたヒューマン・リーグ、デペッシュ・モード辺りのニューロマンティックス的な華やかなクールネスからポスト・パンクの色がより強まり、ビートへの感覚が更に逞しく強化されたことにより、ストイックな疾走感を得ているという捩れによって、奇妙な説得力を持ったスキームを提示することに成功している。そして、彼らを語る場合に兎角、参照にされがちだったザ・キュアー、バウハウス、ジョイ・ディヴィジョン等に備わっていた暗みも多少は継承されているが、そういった目配せや冠詞自体はもはや疎遠ともいえ、より堂々と彼ら独自の孤高の「シリアスな黒い色香の漂うポップネス」を手にしたようになったのは頼もしい深化だと思う。

「MERU」の時点ではいささか纏まりがなく思えた音像の点も滑らかに改善され、エレクトロニクス要素が良い形でポップなエッセンスとして機能しながら、引き算と抑制されたメロディの下、KAZUYAのエッジのあるギター、KOSUKEのアタック感が強まったドラム、NARA MINORUの静かな熱を帯びるベース、KENTの蠱惑的なボーカルの一体感はなかなか今の日本にはない筋の通った毅然たる美意識を貫く意志を感じさせる。

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 日本のロック・シーン(日本に限られるものでもなく、また、"シーン"というのもあるのか、難しいが)で取り交わされる少なくない数の"大きな言葉の「ロック」"とは、兎角、抽象的に精神論とともに、サウンド、歌詞にしても、その政治性自体の持つ押しの強さであったり、アーティストのパーソナル・ストーリー沿いに作品論まで広い視野の中で攪拌されて語られてしまうきらいがあり、そういった磁場と実際に鳴っている音楽そのものは切り分ける「べき」だと思うのは、どんな音楽であっても、大文字の他者へのアンテナの鈍感さが散見され得る限りは、共通する筈の言語往来の場での「第三者」がスルーされてしまうならば、その受け入れるアティチュードは意味よりも「意味しているもの(シニフィアン的なもの)」を補う可能性を持っていることが好ましい気がするからだ。賛同(または、批判)と意味の「壁」に向かって、投げ掛ける音というのは結果的に自家中毒気味の相互閉塞を待備せしめてしまうときがあり、その際のアーティストのリスナーの「関係性」は密室内での確認作業に堕してしまう。その「確認」という行為とは更新はされてゆくが、刷新される必然を持ち得ない場合がある。それはオルテガの言うように、大衆(聴衆とこの場合、置き換えてもいいかもしれない)とは新しい慣習のようなもので、「大衆とは心理的事実」であるが、この大衆の動きや思考の反映が、それがシーンの選択した「信念」と捉えられてしまうと、難渋な誤配の問題が起こるという事と繋がってもくる。要は、「名もなき意思」が社会に刻印される紙一重のラインには線引きして、音楽は語られるのが健全であると僕は思っている。

 そういう意味でいうと、リリーズ・アンド・リメインズ(LILLIES AND REMAINS)がこの『TRANSPERSONAL』で踏み込んだ(敢えて言うが)深遠なスピリチュアリティと80年代のサウンド・マナーで引き裂かれた、また、地上と地下を鬩ぐ「隙間(crevice)」の境地には、そういった相互確認を迂回するタフさがあり、その分だけ、"共通する言語の磁場での「第三者の個」"へ向けた希いのような何かが込められている気がする。

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 彼らは、一部メディアが言うようなアンダーグラウンド・シーンの中の先鋭などと括られてしまう分かり難いバンドでもないし、日本のバンドらしくない音をクールに鳴らしている、なんて標語よりも、もっとマスへと拓けてゆける反逆精神のポテンシャルを秘めていると個人的に思う。まだまだこれからも「新たに始まってゆく」バンドだろうし、更にフォーカスは絞られてゆく気もする。だからこそ、この作品内で例えば、「Effectual Truth」や「You're Blind」等の曲でときに見せる拓けたポップネスや全体を覆うまろやかな音響工作には初期からのファンは微妙な印象を持ったかもしれなくても、彼らが従来の闇を彷徨し続ける道を択ぶのではなく、マッシヴな形で闇の中を内破していこうという要素が強く視えるという文脈に沿えば、「個を越える」為の変革の企図が「これまでの自分たちを越えてゆこう」とする意欲に繋がったという点を何より評価すべきなのではないだろうか。

(松浦達)

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2562.jpg 2562ことデイヴ・ハウスマンズは、とある雑誌のインタビューで、尊敬するアーティストとしてマラやシャックルトン等の名を挙げていた。理由は、これらのアーティストはトレンドに左右されずに、自分の音を生み出したからだそうだ。そしてデイヴ・ハウスマンズも、トレンドに左右されない一貫とした音作りの美学を持っている。しかし同時に優れた柔軟性を持ち合わせており、だからこそ『Fever』という様々な音楽が交差し混じり合ったアルバムを完成させることができたのだろう。

 デイヴ・ハウスマンズは、2562のほかにも様々な名義を持っている。ア・メイド・アップ・サウンド名義では、強い影響を受けたと公言するデトロイト・テクノ色が濃い作品をドイツの〈フィルポット〉からリリースしているし、ドッグデイズ名義では、〈フライン・ハイ〉からヒップ・ホップ・トラックをリリースしている。こうした幅広い音楽性を持ち合わせているデイヴの本領は、『Aerial』や『Unbalance』 でも十分発揮されていたが、『Fever』はそれをさらに押し進めたような印象がある。前2作は「ダブステップをやる2562」という分けた感じが残っていたけど、『Fever』ではデイヴが普段好んで聴いているファンクやソウル、それから今まで以上にデトロイト・テクノ的な音とアグレッシブさが前面に出ている。重たいリズムとメランコリーはあるけども、それ以上に汗をかいて笑顔で踊っている姿が目に浮かぶ、聴いていて楽しいアルバムとなっている。特に「This Is Hardcore」以降の流れは、ジャンルなど関係ない純粋な音楽へと変貌を遂げていく過程が鳴らされているようで、本当に素晴らしい。デイヴ・ハウスマンズが、また一歩ジャンルやトレンドに囚われない存在へと近づいたことを証明する一枚だ。

(近藤真弥)

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merengue.jpg 近年はキリング・ボーイのデヴュー盤のエンジニアをはじめ、多くのアーティストに楽曲提供もしてきた多才なメロディー・メイカー、クボケンジの本バンド、メレンゲの約2年振りの新作、ミニアルバムはギリシア語で困惑を意味するタイトルを冠した『アポリア』だ。

 例えばグラスゴーのティーンエイジ・ファンクラブや国内のバンドではスピッツのように、新作をリリースする度に決して大きくは変わらないが、そのそれぞれに新たな試みが見られる、基本のベースに様々な色の塗り方(時には、それは前の作品に残った色と今の色が混ざっていたりもする)をして更新されながら提示してくれるバンドがあって、メレンゲもそういったアーティストの一つだろう。

 また、クボの豊満なメロディー・センスと恋する心をやさしく繊細になぞっていきながら、でもどこか外からは見えにくい場所にハッキリと爪痕を残していくように刻み付ける歌詞、それらで構成される世界を堅実に支えながらも、よりビビッドに色彩を濃く滲ませるようなタケシタツヨシとヤマザキタケシによるリズム隊...これらは最早、メレンゲ印と呼んで差し支えないだろう。

 そして、盟友であるフジファブリック(クボにとっての親友であった志村正彦が急逝した後に開催された彼らの主催イベント、「フジフジ富士Q」でもフジファブリックをバックにクボがカバー参加していたことも記憶に新しい)から山内総一郎とゴーイング・アンダーグラウンドから河野丈洋、メレンゲのサポートメンバーでもあるプレクトラムから藤田顥(メレンゲと度々共演していたシロップ16gのサポートをしていた経験もある)と曽我部恵一ランデヴーバンドから横山裕章、それに皆川真人、おおはた雄一といった豪華な顔ぶれがゲストに集結した今作でもメレンゲ印はそのまま、彼らが次のステージに進もうとしているのがリアルに伝わってくる作品だ。

 『アポリア』は、まずCDを取り出す前に手に取ってみた時から、そのジャケットと彼らの世界のシンクロ具合に驚かされる。これは、漫画家、浅野いにお(アジアン・カンフー・ジェネレーション『マジックディスク』収録のシングル曲「ソラニン」のオリジナルの作詞者でもある)によるものだが、先日、エロティックス・エフに連載されている新作、『うみべの女の子』の単行本を初めて発売した浅野とデヴュー当初から海や海辺の風景を一つのテーマとも言えるように歌ってきたメレンゲは経歴的にも絶妙にマッチしていて面白い。
 
 午後の海辺の潮の匂いのする曲を多く歌ってきたメレンゲであるが、今作で見える景色は、ジャケットが示すように、夕方(『初恋サンセット』)が終わり、陽が落ちて、辺りが暗くなってきた頃の海が見える家のベランダから見える風景だろうか。

 とは言え、メジャーデヴュー以降の各アルバムの一曲目は「夕凪」、「きらめく世界」、「午後の海」がどれも夕方の景色を、「カメレオン」が夕方~翌朝のそれを描いているのに対して、今作の幕開けを飾る「旅人」は、明確な時間設定を示す言葉がタイトルにも歌詞中にも現れない。ただ、少しベクトルを変え、この1曲目たちをもう一度、精査してみると面白いことが分かる。「夕凪」は僕を映し出す、もう一人のボク、そしてその隣にいるキミとの関係を歌っているが、ここでのキミは虚像としてのボクが持っている清算不能になってしまった弱さである(あるいは、弱さを振り払った偽物のボクに魅力を感じる人物とも取れる)。どちらにせよ、虚実併せ持った存在としての僕が浮き彫りになっている。「きらめく世界」は、一見、タイトル通りのキラキラと輝く《海の見える小さな街》で遊ぶ2人を映し出すキュートな曲に思えるが、《どこにでも落ちてる使い捨ての愛に命を吹き込む午後6時の魔法》という歪んだ一節のおかげで、これがフェイクの恋心に包まれた君と僕の関係であることが浮き彫りになる。採算のつかなくなった僕は、「カメレオン」になって自分を隠し、自身を騙そうとするが、実存さえも失いかけ、慌てて君に会おうと《急いでカーテンを開け急いで僕は外に出る》。「午後の海」では、清算も採算も必要なくなり、<<僕らは永遠じゃない/消えちゃうまで触り合ってたいだけ>>とフェイクの刹那に耽溺しようと試みる。ここで、その先の世界が「旅人」だとすれば、《思い出ばっかで膨らんだ気球/割れないのが自慢/迎えに行くよ/待っててね》という一節が、より鮮やかに響きはしないだろうか。つまり、これまでの虚実や耽溺が報われなくダメになってしまった後、自分自身をもってもう一度、あるいはまだ見ぬ、君と出会う覚悟を決めたのである。

 これは彼らの曲では初めてプレリュード「untitled」と共に収録されている「夢の続き」の一節、《体中の全部で優しかった君だけ思い出そう/忘れるはずがない/そんな夢の続きもある》や、一昨年の彼らのアニバーサリー・ライヴにも同じタイトルを冠されていた、新たなアンセム「アルカディア」の《後ろは見ちゃうけど/かならずそばに居て/なんでこんな僕にも/優しくされるんだな》という一節にも如実に現れている。

 今までの思い出を詰め込んだリュックを背負って、たまにそのリュックの中のフォト・アルバムを眺めてセンチメンタルにもなりながら、戸惑いもしながら、それでも君に出会うこと。『困惑』というタイトルをもった今作は、それを讃えたアルバムのようだ。その点で、今までの夕方の景色からは少し時間が過ぎた、夜が訪れた後の世界を映し出していると言えないだろうか。

 サウンド面を見ても、「旅人」は今までの1曲目との違いが顕著に出ている。「夕凪」を除いて、今までのどの幕開けの曲も、軽快なシンセとギターの豊かなメロディが絡まったアップ・チューンで、(これは「夕凪」も含め)どの曲もシングル曲になるようなポップさを持っているのに対して、「旅人」は確かにポップではあるが、シンセの音は微かにバックで鳴っている程度で、実直なリズム隊のビートが印象的なミドル・チューンである。色鮮やかな幕開けというよりは、むしろゆったりとしたグラデーションのような始まりである。ディレイと揺れるギターが印象的な横ノリの「夢の続き」も、カントリー調の土の匂いのする「ルゥリィ」も、今作では最も緩急がついており盛り上がりも明確な「ムーンライト」も、どの曲も派手さはないけれど落ち着き成熟したサウンドが魅力的だ。またビートたけしと玉置浩二の「嘲笑」の原曲に忠実なアレンジのカバーも収録されており、それも含めて彼らの新たな一面を見ることもできる。

 たった一つ残念なのは、権利等の関係もあったからか、どうしてもアルバムの毛色に合わなかっただろうからか、前アルバム『シンメトリー』の約4ヶ月後にリリースされていた、新垣結衣に提供した名バラードをセルフカバーしたシングル「うつし絵」が収録されていないことではあるが、それがあっても、ネクスト・ストップへ進み出そうとする彼らを追える今作は、あと数年経って以降の作品をリリースしてから見返した時に重要なターム・ポイントになっているはずだ。

 是非、この春の夜は、この海沿いの街の湿った気怠い夜更けを映し出すアルバムを聴きながら、少し湿った夏の風を待っていたい。

(青野圭祐)

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telebossa.jpg 一括りに「ドイツの音楽」と言っても、第二次世界大戦後は「フランクフルト・サウンド」として知られるジャズ・シーンが隆盛しており、60年代末70年代初頭にかけて「クラウト・ロック」が西ドイツをベースに世界に向けて影響を広げていた時期には、"ベルリン派"として知られるタンジェリン・ドリーム、アシュ・ラ・テンペルに代表されるサイケデリックで実験的なバンドの存在も大きかったが、その後の世界的なシェアの度合を考えると、西部ライン地方のクラフトワーク、カンなどのロック産業文化へ向けての警鐘と明るさが並存したバンドが秀でていたと言えてしまうのは仕方のないことかもしれない。

 何にしても、「一枚の壁」の前後までといおうか、ベルリンという豊穣である筈の都市は混迷や模索を余儀なくされた。機能の緩やかな衰退と、経済的停滞、治安の悪化もあり、「一枚の壁」によって囲まれた空虚な形質を外側へ向けて発信する「記号」を孕んだまま、音楽のみならず文化都市としても、北部の経済都市であるハンブルクやライン川の河畔に位置する産業都市ケルンといった場所に主管が移っていくことになり、"外れてゆく"場所になっていった。

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 しかし、1989年に壁が壊れるまでのベルリンはだからこそ、持たざるユースを中心した文化的な閉塞を内側からブレイクスルーしてゆくような意思も育て上げていき、例えば、70年代後半から80年代初めの英国のパンク、ニューウェイヴのムーヴメントと西ドイツが「共振」し、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(Neue Deutche Welle、"ドイツの新しい波"の意)を作り上げることになったが、ハンマービートが印象的なDAFやノイズ、インダストリアル・サウンドの革新を進めたアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、ジャーマン・エレポップの才人ホルガー・ヒラーなど多種多様なアーティストたちが芽吹き始めた際に、そこでのキーとなった都市はベルリンであった。産業化したロックや形骸化したアートに対しての〈反〉たるアティチュードを掲げるために、オルタナティヴな音楽実験の場の文脈下でベルリンは様々なアーティストたちによって「試された」。廃品置き場から拾ってきた鉄板を使ってのパーカッション作り、地下でのノイズ・パーティー、アヴァンギャルドとしか言いようのない演奏スタイル、兎に角、あらゆる試行がそのまま眼前の現実と連結される形で、文化状況の閉塞を打ち破るような狂騒が静かに渦巻いていった。それは、"Die Geniale Dilletanten"(天才的ディレッタント)と形容もされ、1981年のベルリンの壁近くのポツダム広場のテントではディー・テートリッヒェ・ドーリスのヴォルフガング・ミュラーが主となったイヴェントが催されるなど、ディレッタントがときに帯びるネガティヴな意味を越えて、確実に時代に楔を打ち込んでいった。

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 そして、壁が壊されて20年以上経ち、緩やかにグローバリゼーションが文化の均質を迫る中、ベルリンという辺境は再び「中心」に戻ったのか、というと、そうでもなく、テクノ・ミュージックとアヴァンギャルド・ミュージックの模索が為されるカウンター性を持った都市の意味を近年、更に強めている。今回、紹介するベルリンで結成され、活動するテレボッサ(TELEBOSSA)も"とてもベルリン的な、雰囲気を持ったディレッタントなユニット"と言えるだろう。
 
 テレボッサという如何にもな名前を持ったユニットを担う一人は、ブラジル南部のクリティーバ出身で、ヨーロッパで舞台音楽を中心に活動をするシンガーソングライター、シコ・メロ(CHICO MELLO)。最近でも、彼の84年のエクスペリメンタル・ミニマルの名盤『Agua』が再発され、話題になったのも記憶に新しい。もう一人は、ドイツ出身のチェリストにして、Kapital Band1のメンバーでもある前衛的な音楽家ニコラス・ブスマン(NICHOLAS BUSSMANN)。一部ではカエターノ・ヴェローゾを彷彿とさせるとも言われるシコの歌声は非常に評価が高い。中性的という要素では確かに感じる部分があるが、個人的にマルコス・ヴァーリやセルソ・フォンセカ辺りのスムースな透明感も見える。その彼がボサノヴァを軸にした軽やかな弾き語りをベースに、ときにモンゴルのホーミーといった歌唱までみせ、そこに、ニコラス・ブスマンのドイツの伝統的な室内楽の形式に則ったチェロや、まろやかなエレクトロニクスが絡んでくる。

 本作に収められた7曲では、オリジナル曲以外にも、ブラジル音楽の古典である「Seculo do Progresso」や「Amoroso」等カバーを含んでいるが、比較的、奇を衒わない形におさまっている。それでも、要所でエクスペリメンタルなアレンジが為されており、ブラジル音楽のトラディショナルなセンスとヨーロッパ音楽のクラシカルな深みが「ミニマル」の枠内で絶妙に溶け合い現代的な野心に溢れた面白い内容になっているのは二人の気鋭の現代音楽家の面目躍如と言ったところだろうか。

 この日本での先行発売を経て、5月にはドイツの〈Staubgold〉から世界リリースがされることで、盛り上がりを見せている「ポスト・クラシカル」と呼ばれる音楽の中でも、テレボッサの研ぎ澄まされた美しさは俄然、注目を浴びてくるだろう。ベルリンという"辺境の中心"から生まれてくる音楽にはまだまだ眼が離せない。

(松浦達)

*一部レーベル記述に誤りがありましたので修正しました。【編集部追記】 

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