reviews: April 2011アーカイブ

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SCREAMADELICA.jpg よりクリアーに世の中を見渡すために、理論武装のカードとして所謂、"ヘッド博士の世界塔"からハウスへの文脈を敷くことがクールな時代があった。日本におけるバブルという、在った筈の時代(僕自身が物心付いたときには、既に残骸しか残っていなかったので、後追いでの動きしか分からない)では、より自意識を<外部>に置けるかどうかに意味が持ち上がってくるような磁場があり、そこには引用と解釈のタグ付けで膨れ上がった思想書を持っておくことで、何らかの護符として役割があった。というのは"逃げ切れなかったであろう"大文字のポストモダニストたちの回顧録だとしても、インディ・ロックがどうにも追い詰められていた瀬において、マイノリティとしての結束が赦された場所はハウス・カルチャーの<内部>にあったのは間違いないとも言える。

 ナイトクラヴィングやフロアーに対して距離がある人や非フロアーの人たちでさえ、90年から91年にかけてリリースされた四枚の12インチ・シングル、「Loaded」の昂揚、「Come Together」の肯定性、「Higher Than The Sun」のサイケデリックな陶酔、「Don't Fight It,Feel It」でのソウルフルな熱量には動かされたものはあったことだろうし、そして、これらの作品にアンドリュー・ウェザーオール、ジ・オーヴ、元PILのジャー・ウォブル、808ステイトのグラハム・マッセイたちが参加していたように、プライマル・スクリームというバンドがネクスト・フェイズに入っていた気配に躍動をおぼえた人も多かっただろう。スコティッシュ・ポップ、アノラックの温度を濃厚に感じさせた瑞瑞しいファースト・アルバム『Sonic Flower Groove』、一転してのガレージ・ロック方面に振れたセカンド『Primal Scream』での軌跡からの軽やかな脱却と、セカンド・サマー・オブ・ラヴ的な全方位性を持ったラヴ・アンド・ピースへの傾倒。その先には、実際のクラブがあったとしても、または、ベッドルームがあったとしても、ロック/ダンスが折衷されたユーフォリアをリプレゼントしたものが91年の『Scremadelica』という怪作だった―。

 というレジュメを敷くにはあまりに拙速過ぎるかもしれない。ストーン・ローゼズ、インスパイラル・カーペッツ、ハッピー・マンデーズらの築きあげた「愛の夏」とはまた違った形の距離と熱を持っていたからこそ、今でも『Screamdelica』の周縁には数えきれないほどのアーバン・ブルーズもロック・スピリットも散らばったままだからだ。

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 例えば、アシッド・ハウスが西欧のドラッグ・カルチャーと密接に結びつきながらも、(暗黙裡に)そういったカルチャーが根付いていない日本で今でも熱烈に愛される『Scremadelica』とは果たして何なのか、と考えると、そう簡単なものではない気がする。

 思い返すに、スーパーカーがシューゲイズから抜けて、大胆な打ち込みを取り入れ、バレアリックな融和点を見出した『Futurama』から「Strobolights」辺りの煌めきや、いまだにクラブでパワースピンされるくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」といった、"何処へでも行ける"という感覚が要請した00年代前後の景色が示唆するものは、タイム・ラグの問題だけではなく、基本、シーンと呼ばれるカテゴライズが無縁化し易い島国のカルチャーの時差と換言出来るかもしれないからだ。"文化が遅れてやってくる(根付く訳ではなく)"、それはもしかしたら包摂と排除の論理からすると、シビアなラヴ・アンド・ピースへの審美眼(とシニシズム)を持っているからこそ、との着地点を探し出せる可能性があったとしても、現在進行形で局地化を余儀なくされた「大きな物語」の中で再生される幾つもの挿話にいまだに胸躍らされているトライヴを居る訳で、そうなると、00年代以降で決定的な「共通言語」としてのロック・ポップが無くなったと憂う「結論を急ぎ過ぎる人たち」(多くは年を取るのを急ぎ過ぎた層に限定される傾向がある)の嘆息と仄かな距離感とも繋がってくる。

"それ"は、個人的には「在った」と思っていたものが「在ったように見せかけられていた」だけだったのだというフィクション感覚に依拠してもくるのが厄介でもあるが、何かがあるように語るとき、その背景には何もないかもしれない、という疑念が同居していないといけないとしたら、今、10年代に入ってロック/ダンスについて正面から語るとき、どのような意味があるのか、または、どこまで斜めからの視野に入れるべきか、悩んでしまう。同時に、ロックへのピュリズムや教条主義がときに同調圧力として働いてしまう動態を引き離すためにダンスという装置性が求められたという事柄も考慮に入れなければならない。この場合、ロック/ダンスは「引き裂かれる」ものではなく、アンビバレントなものであるというのが大事な点になってくる。容易にクリアランスは出来ないこういった難題への一つの処方箋として、今、『Scremadelica』について考えてみる時間は無意味ではないと思う。

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 しかし、僕はリアルタイムで接したものではなかったのもあるが、この作品に対してアップリフティングされたというよりも「なにもないから、ある」という表面から滲み出るプライマル・スクリームというバンドの身軽さとヘナヘナな意志に胸打たれたもので、どう捉えるべきなのか、いまだに分からない部分がある。理論武装して語るハウスや論的な整理をするインディ・ロックでもない場所に佇む、"シングルを集めたコンピレーション集"という体裁を持っていたからこそ、今まで語り尽くされることが無かった作品だからこそ視えないのか、色々と考える。

 勿論、アンダーワールド、ダフト・パンク等の名は挙げるまでもないにしても、ロック/ダンスのフィールドからも、例えば、フランツ・フェルディナンド、ザ・ラプチャー、フレンドリー・ファイアーズ辺りが出てくると直ぐに参照点として挙げられざるを得ないメルクマールであるのだが、今、世界各地で行なわれている再現ライヴの映像を観る分には、もっと理論の枠組やロック/ダンスへの直接的な影響から逸れてゆく何かがある。ノスタルジーでもなく、プログレッシヴでもない、しかし、ゴスペル・コーラス、ブラス・セクションがステージの上で混じって豪奢に『Scremadelica』というメタベタな作品がダイレクトに適度に加齢化して、老若男女入り混じったクラウドの前に提示される光景は感動的としか言いようがなくて、僕がプライマル・スクリームという組織体に持っていたフラットな意識さえも超えてくる。それを感応するために「20年」という歳月があった、と言えるならば、あらゆるものが柔らかく「年をいった」ということなのかもしれないし、"愛の夏"へ近い何らかのフレーズが遅延され続けていた感覚に漸く自分の中の季節が追い付いたとも継ぎ足せる余地もある。

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 今の季節において、アシッド・ハウスが必要かどうか、など勘繰ることは野暮だろう。

 但し、急激な勢いでリヴァイヴァルなのか再発見なのか分からない形で、ディスコやハウスが発掘される引力を「引き剥がす」表層をサーフしてゆく91年の空気を刻み込んだこのリアリティは音楽が元来備えていた筈の「愛に近いムード」を埋める何かを持っていた作品でもあるから不思議にも感じる。そう考えてゆくと、遅れていたのは、(自分を含めた)フロアーや現場に溢れる愛に近い何かや憎悪やアルコールやセックスや倦怠をかき混ぜたその「向こう側」に昨日とは地続きではない違う朝が迎えられると思っていた人たちだったのかもしれない。

 全体性には収斂しなくても、一部として全体性に繋がることが出来るという導線を敷いて、対峙してみる『Screamadelica』は、峻厳な文化状況にある日本のみならず、緩やかに終わりの終わりに向かうグローバリゼーションの急進化の波で、個々の享楽性さえもコロニアル化されてゆく"抑圧"をかわす光がある。だからこそ、アシッド・ハウスに影響を受けた形でも全面的にダンスの持つ全能感のみに触れておらず、セカンド・ライン風のリズムが目立つ「Movin' On Up」にしろ、切ない南部ロック風のバラッド「Damaged」が入ってくることの意味も大きい。天上へと昇る(Higher Than The Sun)ためにはいつ何時、地へ落ちるかもしれない、という憂慮も必然と同居することになる。ここには、まだ日常に連結される形でのパレードの続きはあるということなのだ。

 やはり、『Screamdelica』はまだ誰のものでもなかったのかもしれない(そして、誰のものでもあったのかもしれない)。ゆえに、混沌たる今の時代下で"20年目の『Screamadelica』"は「あなた」が決して戦わず、感じること(Don't Fight It,Feel It)の意味の再定義を静かに求めてくる。今夏は愈よ日本でもサマーソニックでパフォーマンスを観ることができる。

(松浦達)

*プライマル・スクリーム『スクリーマデリカ(20周年アニヴァーサリー・エディション)』通常盤およびDVD付豪華仕様の完全限定生産盤の二種類が発売中。また、COOKIE SCENE MOOK第2弾でもSide AAにて表紙及び特集記事を掲載しています。【編集部追記】 

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moby.jpg モービーというアーティストは、その懐の広さと「浅さ」において世界でブレイクしているアーティストの中でも珍しい類いに属すると思う。ブライアン・イーノのような高尚さにも、ペット・ショップ・ボーイズのような汎的なポップネスにも引き裂かれないまま、エレクトロニック・ミュージックの「真ん中」に立ち、アンビエントにもフロアにも可能なサウンドを作り続けて、今でも世界中では99年の『Play』は勿論、「Porcelain」などはあちこちで「馴染んでいる」。打ち込みベースの中に、ゴスペル、ブルーズ、R&Bのエッセンスを混ぜ込むことで、国境やジャンルの垣根を越えて、多くの人に届いたのは周知のことだろう。

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 09年の『Wait For Me』から2年振りとなる今作では、彼がアメリカの空港に居るときに淡々と流れるアナウンスメントである"Unattended luggage will be destroyed(置いたままの荷物は処分されますよ)"からインスパイアされたタイトルになっており、一時滞在場所である空港やホテルなどに居る時に感じる"destroyed"な気分の催眠性についてのサウンドトラックのニュアンスが強く、ツアーの最中にホテルの真夜中に書いた曲を集めた所為か、アップビートが際立つ訳ではなく、淡々としたビートが印象に残るような、どちらかというと、『18』に寄った様なたおやかなムードがある。もしかしたら、エアポート系のラウンジ・ミュージック枠で括られてもおかしくないくらい、まろやかなサウンドスケープの中で彼らしい人肌通った電子音と音響設計が為され、自身の声以外にも、ふと、ニューヨークを拠点に活動するエミリー・ズジックや美しいソプラノを持つスウェーデン人のアンナ・マリア・フリーマンなどの女性ボーカルがカット・インしてくる。

 僕自身は、彼が昨年にブログで今作のサウンドのインスピレーションになったアーティストにシルヴァー・アップルズ(初期)、OMD、デヴィッド・ボウイなどの名前が挙がっていたことから、ディスコやダンス方面へのシフトではなく、アンビエントな流れに沿い、そう、05年の佳作『Hotel』のディスク2(アンビエント・サイド)に繋がってくるような「何か」を想っていたが、その予想は遠からず近からず、といったところだろうか。例えば、昨今、隆盛しているチルウェイヴ・グローファイが別名として"ヒプナゴジック・ポップ"と言われるように、緩やかに入眠を誘い出すような柔らかさが特徴になっており、それをときに覆すような尖りがふと見えるのもモービーの本懐ともいえる。昨年のロイクソップ『シニア』辺りとの共振も感じるものの、もう少しこちらの方が大味で明らかに風呂敷が広い。その大味ゆえに、世界中の多くの深夜のベッドルーム、また、午前2時以降のクラブで流れるべき音になった気もする。

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 目立った曲に触れると、1曲目の「The Broken Places」は「Porcelain」直系のサウンド・シークエンスが美しいものになっており、引き込まれる。3曲目の「Sevastopal」ではビートが跳ねるベタなダンス・チューンだが、踊らせるという機能性よりは、もう少しチルアウト的な雰囲気を孕む。12曲目の「Stella Maris」は白眉だろう。まるで電子化された讃美歌のように前述のアンナ・マリア・フリーマンの声が加工されながらも、荘厳とした音響空間の中を泳ぎ、流麗な静謐を紡いでいる。

 多くの都市生活をおくるインソムニア、インソムニア予備軍に「効く」音楽のみならず、モービーというアーティストが幅の大きいステップだとしても、"深夜2時のためのサウンドトラック"を作ろうとしたときに、これだけメロウなものになってしまうという証左を示した意味でも興味深い作品になっており、もう、「Go」と言わなくても、「Blue Moon」が待っている境地に彼も辿り着くことが出来たということなのだとしたら、加齢と草臥れは明らかに感じるものの、それ以上に音楽によって還ってゆく場所を「確保」出来たような気概に満ちた美しい作品になったと断言できる。

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 歳を重ねて、ビート・センスやサウンド・メイクの先鋭性は無くても、こういった作品をふとドロップしても許容されるシーンの「成熟」ならば、寧ろ、好ましささえ感じる。「不眠のまま、踊ることもできる」し、「踊りながら、夢を見ることもできる」―そういったアンビヴァレンスを備えた、なかなか良い作品だと思う。

《Oh when  you had  no time to give Oh when I had no life to live But my mind was low(あなたに時間がなく 僕には生き甲斐がなくても 僕の心は平静だった)》(「After」)

「過去形」のアーティストになりつつあったモービーは、今作でほんの少し同時代的な温度を取り戻した。しかし、微妙にズレがあるのも彼らしい。

(松浦達)

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All-Tiny-Creatures.jpg これだけカラフルでハッピーな音楽を、ヒゲだらけのお兄さん方に演奏されては堪らない。オール・タイニー・クリーチャーズは、ペレを前身バンドとするコレクションズ・オブ・コロニーズ・オブ・ビーズ(CoCoB)や、ヴォルケーノ・クワイアーなどで活躍している、トーマス・ウィンセクが率いる新たなバンド。本盤が1stフルアルバムとなる。ゲスト参加しているヒゲだらけのお兄さん方は、ボン・イヴェールことジャスティン・ヴァーノン(ヴォルケーノ・クワイアー繋がり)、プレフューズ73との親交が深いヘラド・ネグロことロバート・カルロス・ラング、メガファウン(ジャスティン・ヴァーノン繋がりであろう)と、親交のある者同士である。そのためか、アルバム全体を通して開放的で颯爽としており、良い意味で肩の力が抜けているようにも思える。
 
 アルバム前半は、トライバルなリズムが軽快に駆け回り、ミニマルな反復からじわじわと清々しさや多幸感といったカタルシスが得られる。幾重ものコーラスに覆われたウィスパー・ヴォーカルがポップに漂う。後半へ進むにつれて、徐々にビートが薄まり、反比例するようにサイケデリックなアンビエンスが噴出し始める。踊れるトライバル・ビートは消え、ずぶずぶとサイケな世界へ溺れていく。
 
 この一連の流れが、実に違和感なく紡がれている。ハッピーな雰囲気が、緩やかにサイケデリックでトランシーになっていく様は、非の打ちどころがないくらい見事である。また、本盤の主軸となるのは、終始印象的に響いている、プリミティブで生々しいドラムの音であると思うのだが、だからこそその主軸が後半に霧消してしまうことで、深いところに引きずり込まれてしまうような、サイケデリックの妙に溺れられるのだろう。楽器の鳴り方も電子音の配置も、クールでインテリジェンスな配慮と調和が施されている。50分程度の、あっという間の白昼夢である。

(楓屋)

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Cat'sEyes.jpg ゴシックな雰囲気とサイケデリアを、刺々しいホワイト・ノイズに包んだ『Primary Colors』。ザ・ホラーズが09年にリリースした名作には、不穏な空気と言い知れぬ恍惚が同居していた。

 あれから2年、フロントマンのファリス・バドウィンのソロ・プロジェクトが届けられた。相手はヴァンクーバーのオペラ歌手兼マルチ・インストゥルメンタリスト、レイチェル・ゼフィカ。黒服に身を包み並んだ二人には禍々しくも麗しい雰囲気が漂う。かつて、ホラーズのPVを監督したクリス・カニンガムが美実を手がけたからということもあるだろう。だが、そこには背筋がすっと寒くなるような妖しさと、それでいて見つめずにいられない美しさがある。
 
 このプロジェクトのインスパイア源となったのは、ジョー・ミークとフィル・スペクター、そして映画『ダーティー・ダンシング』だそうだが、ひとたびプレイ・ボタンを押して流れ出すのは余りにも流麗なポップネス。ファリスのテナーとレイチェルのソプラノは滑らかに溶け合い、オーケストラに彩られたメロディは息を呑むほど洗練されている。ノイズを撒き散らすディストーション・ギターは、物語の暗部を描いているのだろう。アルバム全体としては、まるでディズニー映画の1シーンに迷い込んだよう。そんな印象をリスナーに与えてくれる。

 このノスタルジーを感じさせるポップなプロジェクトを経て、ホラーズは次にどのような動きを見せるのか楽しみでしょうがない。

(角田仁志)

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tape.jpg ストックホルムの音響トリオによる5枚目のアルバムが、同じくスウェーデンのHapnaよりリリース。テープと日本との関連といえば、テニスコーツの名盤『タンタン・テラピー』のプロデュースが真っ先に挙げられる(演奏の安定感も抜群であった)。彼らを看板バンドとするHapnaもまた、日本人アーティストの角田俊也氏をレーベルにおける最初のリリースとしているあたり、日本との接点は多いようだ。
 
 三人のメンバーの内、ヨハン・バットリングとトーマス・ハロンステンはジャズ界隈を出自としている。残るアンドレアス・バットリングもまた、ジャズ的な語彙は備えているに違いない。こういったポスト・ロックは「ジャジー」という表現で括られる傾向があるが、「ジャズ」と「ジャジー」は、ニュアンスからして似て非なるものだ。たとえば往々にして、前者はインタープレイ・ライクで内省的な音像がイメージされ、後者は繊細なアルペジオや軽妙なテンション・コードなどをイメージするものであろう。また、スタンダードなジャズは、ジャジーなポスト・ロックのように、同じフレーズを延々とループすることを好まない。息づかいを感じる距離での、いわばアドリブ合戦であって、「平坦なループによって得られるカタルシス」は、ジャズの文脈には縁遠い。
 
 そのため、ジャズを出自とするプレイヤーがポスト・ロックへ転身するということは、培ってきた蓄えでもって飛躍(博打?)してしまうような、「だ、大丈夫なの?」といったはらはら感を伴っているものだと思う。そりゃ、アカデミックでテクニカルな演奏ができるのにもかかわらず、人力ループに徹するなんてことは、とてもクールである裏腹、抑制された本人はジレンマに駆られることだってあるだろう。テープの生楽器(特にドラムス)は、本当に「ジャズ出自」を思わせる叩き方と鳴り方であって、「ジャジー」を起点としたアーティストとは全く異なる、説得力のある楽器隊だ。中空を舞うような電子音も、添える程度に制されているのが良い。
 
 前作『ルミナリウム』での、浮遊感ある電子音がたゆたいながら、フリーキーな演奏を繰り返し演奏するようなエクスペリメンタルさは剥落した。本盤『リベレイションズ(天啓とでも解釈できるか)』では、トータスあたりが時折覗かせるような不穏な空気は纏わず、もっと素直に気持ちの良い音を鳴らすだけ鳴らしている。どちらかといえば、タウン・アンド・カントリーなどの清涼感を想起させる。災害時、日本政府はスウェーデンからの支援要請を一度断ったようであるが、お願いだから来日公演してくれないかな。

(楓屋)

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belong.jpg CarparkやTable Of The Elementsなどからのリリースでも知られているニュー・オリンズ発の男性デュオ、ビロングが実質初となる1stアルバムをリリース。空間を埋め尽くすフィードバック・ノイズの中で漂うソフトでメランコリックなヴォーカルと辺りを真っ白に照らすような眩しいシューゲイズ・ギターと淡々と刻むドラムマシーンからのリバーヴのかかったビート。それらが絶妙なサジ加減で掛け合わさり、どこまでも透明的でフワフワでモヤモヤな音像なんだけれど、ちゃんと1本筋の通った面白い音世界を構築しています。歌とビートの役割も大きく、これまでのノンビートで甘美な荘厳シューゲ・アンビエント・ノイズのサウンド・イメージを更にポップに押し広げた作風。ちょっぴり懐かしいようなローファイ感とデリケートなアンビエント・ノイズがあちこちに巻き散らかれていて、睡眠導入時にもぴったりな聴き心地の良い作品です。

(星野真人)

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ggd.jpg メキシコの詩人オクタヴィオ・パスに『クロード・レヴィ=ストロース』という本があり、この中で「レヴィ=ストロースを人類学の新しい流れのなかに位置づけようとは思わない」と述べ、その文章にはベルグソンとプルーストとブルトンという異質な3人が棲んでいると指摘をしたとともに、『悲しき熱帯』については、彼の意識とは「同一性」ではなく「類縁性」に向いているということを仄めかす。同一と反復の中で繰り返され、再定義され続ける「芸術」と呼ばれる分野にもそれは介入する。ギャング・ギャング・ダンスは、その名前とは比して、同一性と反復の構造を越えて、答えが出ない「問い」を求めようとする。そこでの「問い」はだからこそ、何かへの連帯を求めるのと同時に、何かから離れてゆく。

 アニマル・コレクティヴ、バトルス、TV・オン・ザ・レディオ辺りの活躍もあり、盛り上がりをみせるニューヨークのシーンの地下水脈沿いに、様々なアイデア、センス、異国情緒をトライバルなダンスとポップネスをフリーキーに折衷させた08年の『Saint Dymphna』は当時、多くの人たちに喝采をもって受け入れられた。何よりもマルチカルチャリスティックで、"ムードとしての"エキゾチズムではなく、ボードレールやヴィクトル・ユーゴの詩群の断片的に宿るロマンティックな馨りと内側から迸るような「静かな混沌」と呼べるものが美しく発火していたのが良かったのかもしれない。クラクソンズやホット・チップなどのアーティストからも称賛を受け、00年代後半のユーフォリアさえ帯びていたニューヨークのブルックリンを中心としたインディ・シーンの重要な存在の一つへとギャング・ギャング・ダンスを引っ張り上げたのは記憶に新しい。

 思えば、前身バンドとなるDEATH & DYINGを経て、01年に結成された彼らは、アニマル・コレクティヴ、ブラック・ダイスと共にブルックリンの雄と称されながらも、比して、ライヴ・パフォーマンスの確かさなども周囲に認められていったものの、如何せんポピュラリティを得るというよりは、独自のコア・ファンによって愛されていき、その輪が拡がってゆくという表現をすればいいのか、ブルックリン・シーンの中でも一際、「異端」の場所に居続けていた気さえするが、前作でのブレイクを踏まえて、この三年間の中で、より洗練を極め、「成熟」した。その結果、アヴァンギャルドとポップネスのバランス感覚の鬩ぎでは、より後者側に傾ぎ、叮嚀なサイケデリアが持ち上がってくるスマートなポップ・レコードを上梓することになったという流れは面白い。

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 今回、4ADとアルバムの契約を交わし、初めてとなるこの新作『Eye Contact』では、ポップ・シーンへの浮上を感じさせる求心性に溢れている。例により、紅一点のリジー・ボウガツァスのボーカルもシャーマニックな響きを含みながらも、縦横無尽に駆け巡り、生演奏のインプロヴィゼーションとエレクトロニクスの混ざり方も非常にクールだ。従来どおりのエキゾチズムも含まれながらも、「攪拌」されたまま、聴き手に預けられる。過去作に溢れていたサウンド・コラージュの妙やフリーキーさは少し後退した分だけ、既存のファンには物足りなく思ってしまう部分も多いかもしれないが、つまり、これは「地下」の音楽としての強度を保持し続け、アンダーグラウンド内の秘たる祝祭的なつながりに身を寄せるのではなく、ニューヨークという混線した都市の真ん中に向けて目を開けて("Eye Contact")、ダイレクトに音の波を掴もうとした意味が大きい印象を受ける。彼らが目指そうとした場所がよりポップなフィールドであり、インタビューで「Adult Goth」という曲はシャーデーに影響を受けた、とリジーが述べていたりするように、巷間のイメージ以上に彼らの音楽は明瞭な拓き方をしていることが分かる。

 11分を越えるスペーシーなシンセが特徴的なトリッピーで壮大な冒頭曲「Glass Jar」から、途程にインタルード的なものも含まれるからか、存外、コンパクトな内容になっているが、それでも、エチオピアン・グルーヴ、インド音階などを巧みに嚥下し、同一と反復を抜けて、何かから離れるための「問い」を出そうとする様は感動的だ。

 その「問い」の中にはグローバリゼーションが世界のあらゆるローカル、民族音楽を「液状化」させた現象に対しての、決然たる<非>たる意志が込められているような気もする。今作によって、ギャング・ギャング・ダンスは、これまで以上に多くの人たちを踊らせることになるだろう。ブルックリン・シーンの充実の一端を感じさせる力作だと思う。

(松浦達)

 

*日本盤は5月25日リリース予定です。【編集部追記】 

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fleetfoxes.jpg 2008年、海外主要音楽メディアの年間チャートを独占、まさに世界的大成功を収めたフリート・フォクシーズの新作。御多分に漏れず、大成功からの重圧に苦しんだようで、3年という月日の後完成された作品とは、我々リスナーのみならず、メンバー達にとっても待望だったのではないだろうか。
 
 思い起こせば僕にとって、彼らの奏でる音楽との出会いとは突然だった。それは、冒頭に述べた、海外メディアの高評価を受けてからの紹介や、2007年にクラクソンズのデビュー・アルバムが発売されている事からも明らかなように、電子音に踊らされて、ニューレイブというムーブメントの熱量にあてられてしまっていたからだろう。そんな状況下において、ある種、「冷静さ」を取り戻させてくれたのは、彼らのアコースティックな楽器を主体とした牧歌的なサウンドであり、美しいコーラス・ワークであった。

 思うに、彼らの音とは、「ボブ・ディランやビーチ・ボーイズを一人称で語りたいのだけれど語れない」というリスナーに対して最も響いたのではないだろうか(それらのアーティストの熱心なリスナーが彼らのファン層ではない気がしている)。中心人物である、ロビン・ベックノールドがナップスターで手に入れたボブ・ディランやビーチ・ボーイズを(16世紀の画家ピーテル・ブリューゲルの作品をジャケットに用いたり、音楽性、ルックス含め、どこか浮世離れしたように思えたが、とっかかりが実に現代的で面白いなと思うと同時に、シアトル出身という何の脈略もないような部分を繋ぎ合せたものがインターネットサービスであった事に随分と納得した)まわりには語れる友人がいなかったというエピソードからも、それらは、自らとの対話との中で多くを育み、やがてフリート・フォクシーズというバンドを介して、世に放たれた結果、想像以上の人達を巻き込みリスナーのもつ、その時間軸さえ超越させてしまったのだろう。
 
 さて、前置きが長くなったが、今作は前作に比べ、全体的な雰囲気は継承しながらも、方向性を例えるならば、掘り下げて土に還るというよりも、その土に新たな種が植えられて、やがて大きな森林が形成されていくような、そんな豊かさを聴きとる事ができる。それは、例えば、カントリーやジャズといったアプローチが使われる中でヴァイオリンやサックスの音色が印象的に響き、一つ一つの音は、前作よりも輪郭がはっきりしている。それは、ロビン・ベックノールドの歌声も同様で、美しいコーラス・ワークは枝葉のように宿る事は変わらないけれど、あらためて、彼の歌声がこのバンドの魅力の大きな部分を占めている事にも気付かされる。そして、力強く躍動感溢れるアコースティックギターのストロークは前作では聴かれなかった音で、バロックという言葉を枕詞に、後にはポップでありロックと評される壮大な響きでじわりと高揚感を得た前作よりも、より直接的に我々の胸に訴えかけ、より明確に高揚感を覚える。しかしながら、最初に、自然を比喩としながらも今作を紹介したように、彼らの持つ、「牧歌的」な雰囲気は決して損なわれず、無理なく広げた表現の幅は実に好意的に、そして不思議と新鮮に響き、大成功を収めたアルバムの次作としては、理想的な作品となったのではないだろうか。

 次なる希望は、今作のテスト・プレス盤を通して、震災への義援金とした心やさしい、まだ20代の彼らがかねてより日本通との噂のもと、ここ日本でその雄姿を早く見たいという思いである。

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the act we act.jpg 名古屋アンダーグランド秘蔵っ子7人組バンド、ジ・アクト・ウィ―・アクトが、まだかまだかと渇望されていた1stアルバムを遂に発表!

 目まぐるしく縦横無尽に叩きかけるカオティックでアヴァンギャルドでノー・ウェイヴィーなハードコア・パンク・サウンドをバンドのバックボーンに、フリー・ジャズやインプロを彷彿させる咲き乱れるサクスフォンと高揚を促すジャンべの連打、そして文学的なリリックを迸るように発する緩急に満ちたヴォーカリゼーションとが突然変異的に激しくぶつかり合い、とんでもないエネルギー放出しながら駆け上がっていく。7つの音が高速回転しながら振り回すその音の塊の数々を前に、ただ圧巻させられるばかりです。ファストに突っ走る瞬発力とスロウにエンジン・ダウンして魅せる表現力にも脱帽。ライヴ感もバッチリ。

 以前に筆者は彼らのライヴを体験しましたが、今作を聴けば聴くほど(筆者は夢に出てくるくらい:笑)ライヴを見たくて仕方ない衝動に襲われます。

(星野真人)

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supercar.jpg 4月20日にリリースされたこの『RE:SUPERCAR 1-redesigned by nakamura koji-』に続き、6月15日には『RE:SUPERCAR 2-redesigned by nakamura koji-』がリリースされる。そして、ナカコー、フルカワミキ、田渕ひさ子、牛尾憲輔(agraph)から成るLAMAが結成された。ここにきてスーパーカー関連の動きが活発になってきている。今作は、ナカコーが『スリーアウトチェンジ』『JUMP UP』『OOYeah!!』『OOKeah!!』からセレクトした楽曲を「リデザイン」したものと、既発、未発表曲のデモ集が収められている。
 
 スーパーカー名義では、解散後初となるこの新しいマテリアルに対する捉え方は、おそらく二分される。97年にデビューし、日本ののちのロックシーンに大きな爪痕を残したスーパーカーの音を、リアルタイムで体験、共有してきた世代と、先駆者として、これから新しくスーパーカーを聴くことになる者。後者にとっては 、原曲とバージョンが異なるとはいえ、前期の彼らの楽曲を纏めて知ることができるきっかけとして、このアルバムを手に取る方たちもいるのかもしれない。
 
 ベストではなくナカコーが手を加えることによる作用、そして果たして「リデザイン(再構築)」とは?特に前述した、既にスーパーカーを知り、当時それぞれの形で彼らの音楽に想いを重ねてきた方たちは、そんな期待と疑問が入り混じった複雑な感情を多かれ少なかれ抱えながら、アルバムを耳にすることになるのでは ないだろうか。結果、ナカコーのとったリデザインの形とは、スーパーカーの魅力の1つであるメロディを主軸に据えさせたまま、エレクトロ寄りのサウンドでコラージュされたものであった。且つそれは曲間をCDJのそれのように繋げられていることで、統一感が意図的に演出されているといえる。バンドサウンドと異なるアレン ジでも、揺らぐことなく瑞々しい輝きを放ち続けるメロディは、スーパーカーを初めて知る方たちにとっても新鮮に響くだろう。音のアプローチ、統一感という意味ではiLLの『Dead Wonderland』に共通するものを感じたりもして、ナカコーらしさが見てとれる。このナカコーの趣向を、「スーパーカーの作品として」どう評価するかは、作品の完成度云々ではなく、スーパーカーというバンドに対する個人的感情に依る部分もあるだろう。
 
 興味深かったのがDISC2の、既発、未発表曲デモ集である。途中でカットされたり断片的なものも多いが、40曲ものデモ音源により、彼らの当時の空気を感じることができる資料的作品として楽しむことができる。だがそれよりも特筆するべきことは別にある。ナカコーはスーパーカー初期の頃から「スーパーカーは僕の一 部に過ぎない」といった旨の発言をしていた。その発言でうかがえるような様々な音楽性を孕んだ楽曲を、当時からスーパーカーとしても残していたということである。「I wanna stay」の前半部分ではスワンズにも通じるようなジャンクさ加減が強烈だし、その他にも、初期の頃からクラウト・ロックに影響されたようなアプローチを行っていたことも見受けられる。この期に及んでスーパーカーの音楽的な懐の深さを思い知るとは想像していなかった。改めて、いかに彼らが当時のシーンにおいてオーバー グラウンドでありながら先鋭的な存在だったかがわかる。

(藤田聡)

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