reviews: March 2011アーカイブ

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strokes_a.jpg 結論からいうと、とても評価の難しい作品になったと思う。

 先行のシングル「Under Cover Of Darkness」はキュリアスな音響工作とある種、彼らのトレードマークの一つであるシャッフル・ビートのセンスの活きた佳曲だったが、その延長線にあるとは言い難い多彩なサウンド・ヴァリエーションと些かスキゾに引き裂かれた10曲には、これまでよりクリアーでハイファイな録音で、レゲエ、ニューウェーヴ、ポスト・パンク、シンセ・ポップ、レイドバック気味のロックンロール、ハードコアなどが混然と収められている。そして、メンバーの独自色がこれまでよりも色濃くあらわれるようになった。緩急、アップダウンを行き来し、より表情が豊かになったジュリアンのボーカル、実験的なフレーズが増えたアルバートとニックのツイン・ギター、ニューウェーヴ風のニコライのストイックなベース、リズムに対してより厳格になったファブのドラム、と、いつかのガレージ・ロック・リヴァイバルの先陣を切っていたバンドの音とは思えない大胆な舵取りが為されている。

 00年代に入り、ハイファイに振れ気味であったロック・シーンに低熱の「ローファイ」な「倦怠」で切り込んだときの彼らの現れ方は鮮やかでもあったが、佇まいとクールネスとは比して、その後の軌跡は決してスマートとは言い難いものも含まれていた。

 例えば、ベーシックな意味で「ザ・ストロークスの新しさ」とはTHISをITと言い換えるための知性であり、同時にクエスチョン・マーク(?)を投げ掛けたこと(Is This It?)だと推察することもできるが、その「THIS」とは90年代以降のオルタナティヴ・シーンが自家中毒的な状態に陥り、ロック・ポップスの持つ手続きが必要な形式よりも、よりダイレクトな機能を持つヒップホップや先鋭的なR&Bにイニティアティヴを奪われ、エレクトロニカやポスト・ロックといったものが積極的に多くのリスナーの耳の鋭さを鍛え上げ、ダンス・ミュージックがユースのウィークエンドをスイングさせるようになった90年代後半から00年代に差し掛かる状況論ともリンクしていたとしたならば、彼らの「IT?」という一言はニューヨークという場所に根付くアンダーグラウンド性とパンク・スピリット、そして、アート・ロックのシェイプを再定義させるまさしくオルタナティヴ、代案としての美しさがあった。勿論、彼らの"優等生的なガレージ・ロック"にはハイプと紙一重の危うさもあり、様々な毀誉褒貶も纏わることになったものの、セカンドの『Room On Fire』以降、急速に自己対象化とフリーキーなエクスペリメンタルな模索の入り口を潜り、並行して各々ソロ活動が盛んになっていくにつれ、実際、ザ・ストロークスが背負ったシーンからの過剰な役割期待というのは、奇妙な形で分散したような一面もあり、前作からここまでの「5年間の沈黙」と合わせて、どうにも彼らの混沌は「停滞」に近似するのではないか、という周囲の危惧や憂慮によって縛られてしまっていた節もあった。

 09年初頭から入った今作のレコーディングでは、曲作りの難航、ジョー・シカレリをプロデューサーに招いて進めた音源のボツ、バンドとしてのレコーディングにジュリアンが立ち合わない、といった紆余曲折が目立ち、機能不全のままバンドが進んでいる感じさえ受けた人たちも多かったことだろうし、元来、ジュリアンがコントロール・フリーク振りを発揮していた旧来の場所から離れて、アルバート、ニック、ニコライ、ファブといった四人が率先してアイデアを持ち寄り、そこにジュリアンが「参加」する形というこれまでと違う民主主義的連帯の中で各々のイメージやアイデアが詰め込まれた分だけ、より捉え辛いザ・ストロークス像が立ちあがってきてしまった点もあるかもしれない。

 なお、歌詞世界はビートニクのようなものから、形式的にラブソングと言えるものや"We"(異性や人間関係のメタファーと言えるだろうか)を象徴として含んだものまでシンプルながら多重のイメージを喚起させる。軍隊に入る男が、様々な人間関係に別れを告げなければいけない切なさを含んだ「Under Cover Of Darkness」を筆頭に、《Living in an empty world(からっぽの世界で生きているんだ)》(「Games」)、《Waiting time is to blame(非難を負うべき時間を待っている)》(「Call Me Back」)、《We talk about ourselves in hell to forget the love we never felt(僕たちが決して感じたことのない愛を忘れるために 地獄で僕たちは僕たち自身について話そう)》(「Life Is Simple In The Moonlight」)など不全や内省にこんがらがっている感じのフレーズの断片が特に刺さってくる。

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 現今、チルウェイヴ/グロファイの波は緩やかにまだ続き、USインディーシーンの対岸では「正統なるアメリカーナ音楽」が亡霊のように浮かび上がってきている折、ディセンバリスツが改めて発見されたり、アリエル・ピンクみたく未来に回帰するための過去に進んだノスタルジックな音がオンになり、ローファイがじわじわと染み入る中、この表層を滑ってゆくようなサウンドの呈示は分が悪いかもしれなく、カーズ、ポリス辺りに繋がる80年代風のサウンド・メイクにも是非が問われるところだとは思う。

 それでも―。僕はこの作品に距離を置く気持ちにならないでいるのは、これまでの一挙手一投足に過大なバイアスと熱狂が常に付き纏っていた彼らがもっとフラットに愛すべきロック・バンドになったという文脈に準拠する。そして、何よりライヴで例えば、「Hard To Explain」や「Last Nite」などの旧曲とともに、これらの曲が混じってくることを考えると、自然と昂揚するものがあるというのが大きい。

『Angles』とは、2011年のザ・ストロークスの純然たる新しいフェイズというよりも、手探りのままで過程をなぞる作品の意味を抜け、あくまで"バンドとして"続いてゆくための未来への橋渡しをする大事なものになったのではないか、という気がする。

《Trying to find the perfect life(完璧な生き方を探すために挑んでいるんだよ)》(「Metabolism」)

(松浦達)

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salyusalyu.jpg 3.11の影響でリリース日が遅れたのもあるが、後出しジャンケンになってしまった感は否めないので、好き勝手に書かせてもらおうと思います。Salyu本人が(それまでほとんど放置状態だった)ツイッターで夜中にアナウンスした途端、すさまじいバズを巻き起こした新プロジェクト、その名もSalyu×Salyu(サリュ・バイ・サリュ)。本人いわく、2年以上前から水面下で動いていたプロジェクトらしいが、あのコーネリアス=小山田圭吾が全面プロデュースということで、今まで彼女の存在を無視してきた音楽評論家やメディアが、手のひらを返したように人物像や過去作品を調べていましたね。おせーんだよ。

 振り返れば、2010年のSalyuはリミッターが外れたように働きまくっていた。まず、小林武史の黄金律をスロットル全開にした名曲「新しいYES」と、3年ぶりのオリジナル・アルバム『MAIDEN VOYAGE』のリリース。夏には鮮やかなポップ・シフトを見せた新曲「Life」で大衆音楽に接近し、フル・バンドまたはコンボ編成による2度の全国ツアーをやり遂げ、夏フェスをはじめとする様々なイベントへ出演。七尾旅人やMiss Mondayの作品へのゲスト参加、バラエティー番組を含む多数のメディア露出、そして、いまだにカルト的信者を多く持つリリィ・シュシュを新曲と共に"再生"させ、中野サンプラザにて一夜限りのコンサートを開催。あまりのワーカホリックぶりに、彼女のベクトルが一体どこに向かっているのか理解できなかったほどだ。

 しかし、その"神出鬼没"なフットワーク、あるいはアグレッシブな"身体性"は、本作『s(o)un(d)beams』で見事に昇華されたと言えるだろう。かねてから「自分の声は楽器だ」と語ってきたSalyuだが、まさに面目躍如。鍵盤の8鍵すべてを押さえることで生じる不協和音を、人間の声に置き換える「クロッシング・ハーモニー」なる理論に端を発し、Salyu自ら小山田にアプローチを仕掛けたという。ドイツのエレクトロ・バンド、ラリ・プナ(Lali Puna)のカヴァーである「Hostile To Me」を除く全編で小山田が作曲を手がけているが、歌詞を寄せた面々が興味深い。坂本慎太郎(元ゆらゆら帝国)、七尾旅人、国府達矢、いとうせいこう...いずれも曲者ぞろいであるが、国府はSalyuの過去作品でも小林武史とは違った前衛性を常に提示してきた才人なので、相性は文句なし。坂本の予期せずして震災をイメージさせる言葉が並んだと話題の最終曲「続きを」は、すでにアンセムの風格さえ漂わせている。

 小山田の手によって、記号的にカットアップされたSalyuの声たち。4人のSalyuによる輪唱とハンドクラップがピアノとリズミカルに絡む「ただのともだち」を筆頭とし、"航海"をキーワードに『MAIDEN VOYAGE』との連続性を窺わせる「Sailing Days」、プレフューズ73のようなヴォーカル・チョップ手法の「歌いましょう」、トロピカル・テイストにキュートな言葉遊びが映える「奴隷」、クラシック&ボサノヴァ調の「レインブーツで踊りましょう」、スラップ・ベースとヴォーカルの掛け合いがたまらない「Mirror Neurotic」など、収録された楽曲はどれも"声"が主役だが、エクスペリメンタル一辺倒に振り切るのではなく、きわめて楽しげなポップ・ソングに仕上がっているのが特長。"歌いましょう"や"踊りましょう"といった、能動的なアクションを促すタイトルもSalyuには珍しい。"声"にフォーカスした楽曲---というと、やはり『MAIDEN VOYAGE』のラストを飾った「VOYAGE CALL」を思い出す。歌詞こそ存在しないが、伸びやかな高音ヴォイスと溢れんばかりの開放感が押し寄せるあのナンバーは、シンガーとしてのSalyuが別次元のレヴェルに到達してしまったことを何よりも物語っていた。そうして「声の実験」に流れ着いた本作は、またもや初期のファンからは賛否両論だと聞くが、彼女の飽くなき探究心とチャレンジングな姿勢は、メインストリームで活躍する多くのアーティストも見習うべきだ。

 ただ...。いや、もちろん手放しで絶賛できる傑作ではあるが、周囲が大騒ぎするほどの「斬新さ」は感じられなかった。つまり本作は、Salyuにとっての『メダラ』に当たるアルバムなんじゃないかと。これまで何度もビョークからの影響を公言してきた彼女だけに、"声"にフォーカスし、ヒューマン・ビートボックス(Salyuも近年興味を持っているらしい)を大々的に取り入れた『メダラ』は、人間としての表現の可能性/身体性の限界という面でも大きなヒントになったんじゃないかと思う。となると、音のマエストロ=小山田圭吾の立ち位置はマシュー・バーニーか? デビュー当時より「和製ビョーク」と呼ばれ続けてきたSalyuが、もはや本家にも匹敵する(何度も言うが)"身体性"を獲得した『s(o)un(d)beams』は、この稀有な才能における新たな"自我"の目覚めなのである。

<続きを/もっと見たい>。

(上野功平)

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salyusalyu.jpg 声に惹かれて震える。そんな経験があなたにはあっただろうか? 僕にはあった。それがSalyuだった。Salyuが一般的に(世間に知られ始めたという意味で)認知されたのはプロデューサーである小林武史とミスチルの桜井和寿を中心とした「ap bank」の活動資金や融資金を集めるために結成されたバンド「Bank Band」の曲『to U』からだと思う。

 今から十年前のゼロ年代初頭に小林武史の盟友とも言える映像作家・岩井俊二監督作『リリイ・シュシュのすべて』において物語のキーパーソンとしての歌手「リリイ・シュシュ」としてSalyuは世に出る形になった。作中では映画内のプロモーションビデオに現れる形のみだった。三十代半ばから二十代後半の世代は九十年代に思春期を過ごし、今やある種のジャーゴン的な使われ方にすらなって今の二十代前半や下の世代に全く通じなくなったミニシアター系や単館系映画を多感な頃に観た世代にとって映像作家・岩井俊二は非常に影響を受けたクリエイターだったことは言っておきたい。

 その後、Salyu名義として彼女は小林武史プロデュースでデビューする。僕は正直彼女がSalyuとしてデビューしたことを知らなかった。COUNTDOWN JAPAN 04/05でなにげなく彼女のステージを観た。Salyuはまだシングルを二枚ぐらいしか出してなくその次の年に発売される曲になった『彗星』を聴いて僕は虜に、その声に一気に持って行かれた。彼女が「リリイ・シュシュ」だとわかったのは曲数がなくて普通に「リリイ・シュシュ」の曲を歌っていたからだった。

 僕はあまり女性ボーカルに惹かれたりすごく追いかけたりしたことがなかった。ただ『彗星』という曲がきっかけだったが彼女の天性の声に惹かれてしまった。それから彼女のライブやツアーはできるだけ観に行くようになった。当初は新宿ロフトでのスプリットライブ等にも小林武史はキーボードとして必ずいるような感じで彼がsalyuに対しての期待も凄いのだと感じていた。Salyu自体の人気も『to U』以後には確実に出てきたのだけどファーストアルバムツアーの後のアコースティックツアーの辺りから少しずつだが人気が出ているのを肌に感じるようにはなっていた。Bank Band『to U』の前から彼女のツアーのラストではSalyu ver.『to U』で締めていた。小林武史とのクリエイションの中で彼女はさらにボーカリストとしてアーティストとして成長し、自分の考えをいかに表現するかを体現しながら楽曲を発表していく。一度は小林以外のプロデューサーと組んだりしながらも去年の終わりには『リリイ・シュシュ』プロジェクトが再始動もしたりしている。

 Salyuとしてではなく自らをププロデュースする形でのsalyu×salyuとして音楽プロデューサーにコーネリアスを、作詞には元ゆらゆら帝国の坂本慎太郎に七尾旅人にいとうせいこうという布陣でリリースされるのが、すいません前フリが長過ぎましたがSalyu×Salyu『s(o)un(d)beams』 という新しいアルバムです。

 Salyuの公式サイトでのコーネリアスとの対談インタビューによるとこのプロジェクト自体は二年以上前から始まっていた。Salyuが4年くらい前に出会った"クロッシング・ハーモニー"に感銘を受けた事が始まっているそうだ。一曲のカバー曲以外はコーネリアスが曲を。この二人が組むと声と音がこんなにも実験的でありながらもポップでしかもSalyuの声が非常に意識的に声の強さを出す事に成功している。引き出せているように聴いていて感じる。Salyuの声を「日本のビョーク」というミュージシャンの人もいるぐらいなのだが、コーネリアスの楽曲と自身の声に非常に意識して展開させたこのアルバムはその発言に頷けるものとなっていると思う。小林武史というプロデューサーに見出され世に出たSalyuは自らをプロデュースしたSalyu×Salyuプロジェクトは彼女を新しい次元にステップに見事に立たせたのだと思う。このプロジェクトは続けて欲しいし、小林武史とまたsalyuとしての楽曲作りにも期待が高まる。

 一曲目『ただのともだち』(詞・坂本慎太郎)、六曲目『奴隷』(詞・坂本慎太郎)、七曲目『レインブーツで踊りましょう』(詞・七尾旅人)、九曲目『Mirror Neurotic』(詞・いとうせいこう)がオススメな楽曲ですが、トータルの楽曲をコーネリアスがしているのでアルバムとしての完成度も非常に高いものになっています。

 これをライブでぜひ観たいと思うそんな素晴らしいアルバムです。

(碇本学)

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human_league.jpg イアン・クレイグ・マーシュとマーティン・ウェアという二人のコンピューター技師と、当時整形外科病院に働いていたフィル・オーキーの3人で始まったヒューマン・リーグ。それが1977年のことだから、今年で34年目になるわけだけど、変わってない。なんというか、「ヒューマン・リーグ」という言葉を聞いて思い浮かべる音がそのまんま鳴っている。確かに、昔の美しい姿と厚化粧はもうない。フィル・オーキーは海老蔵みたいな丸坊主になっているし、スーザンとジョアンヌも若作りに勤しんでいるおばさんに見えなくもない。でも、『Credo』にはあの声がある。フィルの女を口説くような歌声と、お世辞にも上手とは言えない女性コーラス。それだけで僕は、『Credo』というアルバムを好きにならずにはいられない。

 内容としては、これぞヒューマン・リーグというエレ・ポップが詰まったものとなっている。既に数多くのリミックスが作られている「Night People」や「Never Let Me Go」も良いが、個人的にはTB-303風の音が鳴っているアシッド・ディスコ・ソング「Electric Shock」が最高だ。初期のような実験的エレ・ポップもありながら、ここまでアグレッシヴなアルバムを作ってくるとは、正直想像できなかった。前述したように、34年目になる大ベテランがここまでエネルギーに溢れているとは...。やはりそれは、自分達がエレ・ポップの先駆者であるという自信が源になっているのだと思う。自分達のキャリアに誇りを持ち、それをまざまざと見せつけてくるような迫力がある。

 ヒューマン・リーグというのは、一種の芸だ。クラフトワークもそうだけど、ステージに4人立っている姿も含めてクラフトワークなのであって、ヒューマン・リーグもフィルだけでは駄目なのだ。横には必ず微妙な踊りをするスーザンとジョアンヌが必要で、その踊りすらもヒューマン・リーグたらしめているのだ。そうしたヴィジュアルも音楽としたコンセプトは今も見受けられるし、それは現在もヒューマン・リーグという芸は有効であることを証明している。もっと言えば、今あるすべてのポップ・ミュージックは、ヒューマン・リーグの影響下にあるということだ。だからこそ、昔から変わらないヒューマン・リーグの『Credo(信条)』が、ここまで心に響くのかも知れない。そして、キャッチーなエレ・ポップとコンセプトを貫き通す力強さと度胸があるヒューマン・リーグ。そんなヒューマン・リーグが、僕は大好きだ。

(近藤真弥)

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bertoia.jpg 2007年の結成から3年経って発表されたベルトイア(Bertoia)のデビューアルバム『Modern Synthesis』は極めて正しく「シューゲイザ―」と呼称されるそのジャンルの歴史を踏まえた上で作られている。ここにはラッシュがあり、マイ・ブラッディー・バレンタインがあり、ペイル・セインツがあり、ギャラクシー500があり、スロウダイブがあり、チャプターハウスがあり...とその音楽的記憶が豊かに反映され、我々が「シューゲイザ―」という言葉を聴いた時に存在していて欲しい旋律、アレンジ、ハーモニーが存在している。これらが美しく折り重なるよう緻密な配慮が行き届いた音像が、豊潤なハーモニーを生み出している。無論、これは予想通りのものがそこにあると言う意味ではなく、むしろこうあって欲しいという集合的無意識が見る夢がその音像に奇跡的に反映されているということだ。

 昨今の欧米のポップミュージックシーンにおいてシューゲイザ―の影響下におかれたバンドが乱立していることは周知の通りだ。最近ではアソビ・セクス、ザ・ペインズ・オブ・オブ・ビーイング・ピュア・ハートなどのアクトが素晴らしい作品を上梓したが、多くのシューゲイズ・バンドにマンネリ感が漂っていることは否めず、個人的には去年の暮あたりから食傷気味であった。そんなときに届けられたのがこのベルトイアである。シューゲイザ―という歴史が堆積させてきたデータベースから抽出してきたそのファクターを巧みに配置させ作り上げられたそのサウンドは先ほども述べたように由緒正しいシューゲイザ―であり、それは僕を食傷気味にさせるどころか、その出会いを心から喜ばしく思うような作品であった。

 その理由はなんだろうか。まず確認しておきたいのは多くのシューゲイズサウンドが逃避主義的と言われる理由はそれが「ここではないどこか」という超越性を志向し、リスナーをその次元にトリップさせるという力学が働いているからである。それに対して、ベルトイアのシューゲイズはそのような「外在する超越性」ではなく、日常のワンシーンに思いがけなく、物静かに刻み込まれているような「内在する超越性」にリスナーを「気付かせる」働きを持っているように思える。これがベルトイアが多くのシューゲイズバンドとの間に横たわっている大きな差異である。ベルトイアの音楽がいつだってどこか優しく寄り添っていてくれるようなサウンドであるのはそのおかげである。

 ここで少しその「超越性」=「理想」という言葉について纏めてみる。プラトンにおいては「本来の世界」であるイデア界はその不完全な写しである現象界よりも上位に位置している。つまり我々が知覚している現象界にとって本来の世界であるイデア界は「ここではないどこか」に存在しており、この2つの関係はイデア界が「上」、現象界が「下」の上下の関係として捉える事ができる。しかし、これでは近代科学を考えることはできないと考えたデカルトは「理想」を上ではなく、「私」という存在の「内」に「観念」として読み変え、それは完全な存在としてあるとした(上下から内外へ)。だが、その「観念」は不完全な「私」から生み出されたものなので必然的に完全な存在の観念を産めないのである。「私の意識のうちにあるものは、いわば、ものの像であって、これにのみ、本来、観念という名は当てはまる」という『省察』内での彼の言葉はそのように受け止められるべきである。彼にとって「内」は「精神」であり、「外」は「物体」であるとされ、その2つを繋げることによって近代科学を成立させるという夢を持っていた。

 このように「理想」が「観念」に変化したものの、それはなお、「理想」を維持し続けている。であるから、僕らがベルトイアの音楽を聴いてその時に内在する己の「理想」を日常になんらかの形で投影することも可能ではないだろうか。

 話を変えて、もう少しその音楽性について見てゆこう。前述したようにここにあるのはあまりにも優秀なシューゲイズサウンドだ。だが、それを説明しただけでは彼らの音楽性を描写したことにはならない。なぜならヴォーカル&ギターを担当しているmurmurはギターポップ・ソロユニットmurmur、打ち込みや音響を担当している根岸たくみはフォークトロニカ・ユニット、swimmingpoo1としても活動しており、この2人の音楽性がこのアルバムに置いてスパイスとして効いており、それがベルトイアの独自性をより確固たるものにしている。

 murmurのメロディセンスはシューゲイザ―を聴いているだけでは培えないものであり、そこには彼女が影響として挙げているようなトッド・ラングレンや、デスキャブ・フォー・キューティーなどが―無論、直接的な影響としては感じられないが―遠く反響しているのかもしれない。ソロユニットmurmurは参照点は数多くあるが、何よりも思わず渋谷系を想起してしまう爽やかな音楽を奏でていて、時折見せるそよ風のような安らぎがベルトイアに物静かな気品をもたらしている。そして、ベルトイアにおける音響、音のレイヤーの構築の秀逸さは根岸たくみによるところが大きいのではないだろうか。彼のswimmingpoo1(日本のボーズ・オブ・カナダとつい言いたくなってしまう素晴らしいユニット)における世界観が直接反映されているわけではないものの、その躁にも鬱にも振り切れない独特のドリーミングな音像はこのベルトイアにも盛り込まれているのは確かだ。また、ベースの歌うようなラインはややもするとギターノイズばかりが先行し、単調になってしまうシューゲイズサウンドに彩りをもたらしているし、ドラムの安定感はしっかりとベルトイアの世界観を底から支えている。このリズム隊あってこそのベルトイアであろう。そして、個人的にはギターにはいたく感動させられた。いわゆるシューゲイズ的なギターサウンドだけではなく、時にダイナソーJr.における掻き毟るような切ないギターが鳴り響く瞬間があり、これには驚かされた。

 少々語り過ぎてしまったが、まだまだ彼らの魅力を伝えきれた気がしない。いくら言葉を紡いでも追いつくことは無いだろう。彼らが産声を上げる瞬間を目の当たりにできたことを心から嬉しく思う。彼らはシューゲイザ―のネクストステージだ。

(八木皓平)

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dodos.jpg 並外れたテクニックで1曲1曲に膨大な量の情報を詰め込み、その一方で耳にすんなりしみこむメロディが鳴っている。混沌と素朴の同居――00年代中期より活動しているフォーク・デュオ、ザ・ドードースの魅力はそこにあると僕は感じている。

 その点において、08年の2nd『Visiter』で彼らはひとつの頂点を極めた。だが、翌年早くもリリースされた『Time To Die』で失速。ザ・シンズやバンド・オブ・ホーセズを手がけたフィル・エクをプロデューサーに迎え、聴きやすさとメロディを徹底的に磨き上げ、ヴィブラフォン奏者をメンバーに加えて音の厚みを増してみたものの、お行儀良く型にはまったサウンドは彼らの魅力を殺してしまっていた。
 
 それから3年。スタジオセッションを繰り返し、『Visiter』のプロデューサー(ジョン・アスキュー)と再びタッグを組み、ニーコ・ケースがコーラスで前面参加した『No Color』は快哉を叫ぶべき作品となった。

 叩きつけるような力強さで刻む西アフリカ風のビートが徐々に加速していくオープニングの「Black Night」から一部の隙もないアルバムの完成度が伺える。ニーコのコーラスと流麗なヴァイオリンが彩りを添える「Sleep」や、アンセミックなリフを備えた「Don't Try And Hide It」など、続くトラックも充実している。この2人には洗練なんかいらない。生のダイナミズムが必要だったのだ。『Time To Die』を経て辿り着いたこの作品でしみじみそう思う。シーンなんか気にせず、スタイルを貫いて欲しい。彼らが拠点とするサンフランシスコは、グレイトフル・デッドの時代からガールズが活躍する現在まで、独自のスタンスを持つバンドを育んできた地なのだから。

(角田仁志)

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led.jpg 日本のインストミュージックの流れそのものを修正する気概に溢れた、圧倒的に想像力豊かでエモーショナルな音。2000年に結成された7人組のインストバンド、L.E.D.のセカンドアルバムは規格外の唯一無二っぷり。エレクトロニカ、アンビエントからジャズ、ファンク、ヒップホップまで様々な要素を追い求め、独自のフィルターを通して再構築、オリジナルな位置に辿り着いている。インストバンドだから歌詞はない(今作には原田郁子をフィーチャーしたバンド初のヴォーカルトラックがあるんだけど、これが本当に素晴らしい!!!)けど、バンドが今どういう感情なのか、それをどういう音にして、そこからL.E.D.の世界観をどう表すのか、という彼らの集中力からは強いポジティビティーを感じる。

 世間一般にメッセージ性の強いロックが上で、インストミュージックが低く見られることが多いけど、フォーマットではなく、聴き方が重要なんだと思う。あらゆる要素を飲み込んで、ステイタスのあるものをドレスダウンさせる。彼らの音楽に和やかさだけではないエッジがあるのはその為。

(粂田直子)

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mew.jpg とにかくミューというバンドは何て器用なんだろう。今までに5枚のアルバムをリリースし(日本ではサード以降の3枚)、メンバー脱退もありながら徐々にまた順調に成長してきたミュー。14年間の総括となる。これは一つの区切りでもあるだろう。常に違う色のアルバムを出してきた彼らだが、これがまたよく上手くまとめられている。4枚目のアルバムだけは全体が繋がっている為あまり選曲に入っていないものの、フォースはそれだけで素晴らしいので併せて聴いてほしい(今作では別れて入っているのが惜しい!)。それ以外の部分となると、このアルバムに顕著な通り実験性の強いポップ・バンドであり、個々それぞれが主役になれるバンドだ。日本未発表と新曲で3曲また新しいミューが聴ける上、これまでの曲たちもまるでライヴを体験しているかのように、セットリストとあまり変わらないセレクトが成されている。これだけで一つのアルバムとしての完成度が非常に高いという点は、驚かされるばかりだ。新曲は「イントロデューシング・パレス・プレイヤーズ」に近いギターの効いた曲に仕上がっている。最初に「アム・アイ・ライ?・ノー」、最後に「コンフォーティング・サウンズ」というところも、ミューの原点が『フレンジャーズ』にあることを感じさせられた。

 一方DVDの方はというと、これはこれで幼い頃の古い貴重な映像や手の込んだ最近の映像まで、お気に入りの黒い服装で存分に楽しめる一品。動物好きな彼らならではの見所もあればアニメに強い彼らの見所もある。国内盤のみでリリースされた曲もあり、また「パンダ」や「ミカ」などの映像はここでしか見られないだろう。総括的に言えばこれも一つの軌跡である。例えばデンマークでベスト・シンガー賞を受賞した直後に作ったヴィデオが「ザ・ズーキーパーズ・ボーイ」。シンガーとして、バンドとしての一面を前面に出している。顔をフィーチャーしたフォース・アルバムからは「ホワイ・アー・ユー・ルッキング・グレイヴ?」が収録。表情から見て取れる彼らがわかるだろう。そんな風にベスト盤CDもDVDも付いた大きな作品。ここからまた次の彼らが待っている。

(吉川裕里子)

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british_sea_power.jpg 断言しよう。いまのところ2011年に、この作品に匹敵する傑作はリリースされていない。何かの呪縛から逃れたあとのようなサウンドの自由なフィーリングも、矢面に立たされながらでも、ときには疑心暗鬼になりながらでも、自分の感情を正直に吐露したリリックも、「Living is so easy」での《全部簡単だっていうけどさ...》なんていう諦めも、すべてがあまりに素晴らしい。多くの現代に生きる「オールライトじゃない」人たちは、この作品を聴いて身震いするか、あるいは哀しみとも喜びとも表現できないような涙を流すに違いない。たとえば「We Are Sound」では《僕らこそがサウンドだ。僕らこそが光なんだ。真っ暗闇の夜に入っていこう。》と歌われている。こんな力強い彼らの宣言に、喝采を挙げずにはいられないだろう。最近までイギリスではバンドが立たされている状況は悪化の一途を辿っていて、もはやチャートの上位に入る希望など持てるわけがなかった。もちろん、「バンド」という形態以外でも素晴らしい音楽はいくらでもあるし、現実に「ノー!」を突きつけることだけが良いというわけでもない。ただ、そんな状況で、非現実の世界に想いを馳せたり、自分たちの音楽をいまのトレンドにすり寄せたりすることは一切せずに、ファンが待ち望んでいた姿で彼らは見事にシーンに戻ってきてくれた。
 
 前作のチャート・アクションは散々たるものだった。それでも彼らはけっして希望を捨てようとはしないし、「誰がコントロールされているのかは分からないけれど、どっちでもいいなんて、言わないでくれ!」と叫ぶ。マニックスの最新作が出たときのクッキーシーンのインタビューでも、ジェームスは「すべてに醒めて嘲笑うような風潮に憤りを感じる。」と話していた。さらに印象的だったのはポール・ウェラーが「いまの若者は立ち上がって闘うべきだ。」と言ったことに対して、フランキー・アンド・ザ・ハートストリングスのメンバーが「そんなこと言ってるから、ポール・ウェラーは若者とコネクトできないんだ。」と某誌のインタビューで話していたこと。もちろんこれでBSPがポール・ウェラー側だ、とか、フランキーはけしからんとか(実際にわたしは彼らのアルバム・レヴューも書いている。大好きだし。)いうつもりは毛頭ない。あるいはそこまで現実は単純ではないのかもしれない。だからこそ、このアルバムは《僕たちは見当違いのところにいる》というフレーズがある「Heavy Water」という曲で締めくくられる。そして忘れてはならないのが、同曲で唯一の救いが「君」だということ。《今度また君に会えたらどんなにうれしいだろう 水が激しく落ちてくるのを見たかい? 加重超過の空から 天国から そして君の瞳から》。世界と対峙した先にあるのは、いつも2人をつなぐ愛だ。

(長畑宏明)

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one_am_radio.jpg インド系アメリカ人のリシケシュ・ヒアウェイによるプロジェクト、ワン・エーエム・レディオ(The One AM Radio)による07年の彼自身三作目となる『This Too Will Pass』は物哀しいレコードだった。燃えたぎる家屋を背景に「これもまた過ぎ去るだろう」と無執着を宣言したジャケット。内省的なラップトップ・フォークはストリングスやホーンと絡みながら美しく淡々と綴られる。真夜中に古ぼけた蓄音機から流れてくる冷静ながらもやりきれない独白を耳にするような、不思議な感覚にとらわれていく。"午前一時のラジオ"という名のとおり、これまでの彼はさしずめ夜の使者だった。

 それから4年の月日を経て届けられた最新作『Heaven Is Attached By A Slender Thread』が声も失うほどすばらしい。みずからの可能性を決めつけなかったリシケシュは、この作品において自分の持ち味を殺すことなく、大きく息を吸いながら真の自由を獲得したようだ。

 前作がニック・ドレイクの系譜に連なるSSW然としたものだとすると、本作の肝は奔放なビート・メイキングにある。ミニマルな躍動感が楽曲に陽性の生命力をもたらしている。これはそれまでライブのサポート担当だったメンバーを正式に加入して"バンド"として生まれ変わったこと、そして名プロデューサーであるトニー・ホッファーの貢献が大だろう。トニーの辣腕ぶりは挙げていくとキリがないので彼のページを参照していただくとして、ベルセバの近作やベックからフェニックス、ジャック・ペニャーテ、果てはフィッシャースプーナーまで、関連作品のいずれにも通じるのは(各アーティストのキャラを活かしつつの)独特のリズム構成と音の抜けのよさ。この作品でもドラム・マシーンの一音一音が気持ちよくビシバシ決まって、中毒性たるや半端ない。またゲストとして、昨年おおいに話題をさらった小デブでナードな革命児バス(Baths)と、同じくアンチコン所属のエイリアスがイイ仕事を聴かせ、さらにデヴィックス(Devics)のヴォーカルであるサラ・ラヴも可憐な歌声で華を添えている(余談だけど、デヴィックスの『The Stars Of Saint Andrea』や『Push The Heart』も夜に聴きたくなるダークで気だるいレコードだ。マジー・スター好きは必聴。昔、本当にお世話になりました...)。

 かといって、ヤケッパチのごとくバカ騒ぎするような作品では決してなく、本来の持ち味だったジェントルな憂鬱ぶりは健在だ。彼独自のメランコリックでひねくれた旋律はここでも冴えわたり、アンビエンタルな音づくりにストリングスもうまい具合に配置されているし、リシケシュの歌声も変わらず柔らかい。気高さを保ったまま甘酸っぱいポップな大衆性を獲得したこの作品を2010年代仕様のAORとも位置づけられるし、昨今のトロピカル風味なバンドの愛好者や、辛抱強くポスタル・サーヴィスの新作を待ち望んでいるような人たちにもきっと歓迎されるだろう(日本盤のボーナス・トラックには"片割れ"のディンテルと、Boy In Staticによるリミックスも収録)。

 活動拠点であるロサンジェルスの空虚な夜をテーマにしたという本作には、幾多のドラマとともに希望と絶望のムードがそれぞれ同居している。讃美歌のような冒頭のエレポップ「Sunrise」では再起の象徴である朝日が登るのを待つひとについてうたわれているが、この曲を題材にした写真コンテストも開催中で、投稿作をズラっと眺めることができる。こうして太陽の写真を連続して見つめていると、月並みすぎるが明けない夜はないのだと考えずにはいられない。マルチネ・レコーズによる『MP3 Killed The CD Star?』には「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」なんて曲が収録されているが、このアルバムも音や境遇や主義主張は違えど、同じ視座に立っているように思える。

(小熊俊哉)

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we_are_enfant_terrible.jpg 皆さんつまみフェチですか? 唐突で申し訳ないですが、僕はつまみフェチです。例えば、TB-303という機材をいじっているとき。レゾナンスをかけて音をビキビキさせていくときの高揚感はたまりません。それからDJをやるときも、デリック・メイになりきりEQを大胆に使って音を変化させるのも大好き。ジェフ・ミルズのように繊細なタッチで微調整していくのもストイックでカッコいいけど、僕はつまみをひねった瞬間にエフェクトがかかって、お客さんが「ウォー!」と歓声を上げる場面を見ると、どうしてもニンマリしてしまう。つまみだけじゃなく、楽器に触れたことがある人なら誰もが経験しているあの興奮。適当にギターを弾いていたら、偶然カッコいいリフが弾けて「俺天才!」みたいな。これを「初期衝動」という人もいるけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルのデビューアルバム『Explicit Pictures』には、そんな瑞々しい姿が刻まれている。

「我々は恐るべき子供」と名乗るこのフランス発の3ピースバンドは、ガレージや8ビットにニュー・エレクトロ、引き合いに出せるバンドとしては、ザ・ラプチャーやヤー・ヤー・ヤーズだろうか? そしてその名の通り、ウィー・アー・エンファント・テリブルが出す音は子供じみている。もちろんこれは褒め言葉だ。人にもよるだろうけど、子供というのは基本的に暴れたくて仕方がないものだ。それは「大人になる」という過程で植えつけられる抑圧などが行き届いていないからだと思うけど、このバンドはかなり奔放な存在感を放っている。ライブではゲームボーイを使って生演奏してみたり、ドラムにいたっては座って演奏することがほとんどない。抑え切れない衝動に突き動かされるように、だんだん腰が浮いていく様子は観ていて笑えたし、なぜか痛快ですらあった。

『Explicit Pictures』の前には3枚のEPがリリースされているが、『Explicit Pictures』とEP群に大きな変化の差はない。まあ、多少は幅広さが備わっているが、ジャンクな感覚で好きなことを混ぜ合わせたごった煮ロックである。正直、演奏が上手いわけでもないし、フランスといえばフェニックスを思い浮かべる人もいるだろうけど、彼等と違ってウィー・アー・エンファント・テリブルは、野蛮でスマートとは言えない。じゃあ、ウィー・アー・エンファント・テリブルの魅力は何なのかというと、それはアティチュードとしてのロックンロールをやっていることだ。

 音としては、「ロックンロール」と聞いて大半の人が思い浮かべるような、ギターがガンガン鳴っているようなものではない。しかし、「楽しいからやっている」という感覚と共に、意味がないようでいて皮肉が効いている歌詞(特に「Filthy Love」は意外とキツい内容に思える)から覗かせる鋭い視点は、現代の本質を射抜くかのようだ。僕にとってのロックンロールは意識的か否かは問わず、いかに時代を見抜いているかが重要だったりするけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルは、現代の本質に近いところで音を鳴らしているのは確かだと思う。

 一聴した感じはチャカポコとしたヘンテコな音だが、騙されてはいけない。彼らにとってのファーストアルバム『Explicit Pictures』には、恐るべき子供の本性が隠されている。

(近藤真弥)

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