reviews: February 2011アーカイブ

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bright_eyes.jpg 「ブライト・アイズの新作が出た!」ってことで、僕がツイッターでフォロワーさんと交わした会話に「あの手コキの歌、好きですよ!」という言葉があった。僕はもちろん激しく同意。その歌は2004年に「Lua」と同時にリリースされたシングル「Take It Easy(Love Nothing)」のこと。"最初は手でやってもらって、その次は..."って、いきなり歌い出すあたりが素敵。この2曲は全米チャートで1位と2位を独占した。ブライト・アイズは当時、ブッシュ政権の再選を阻止することを目的とした"VOTE FOR CHANGE"ツアーに参加。スプリングスティーンやR.E.M.とステージを共にしているが結局、そのときはブッシュが再選を果たしている。ブライト・アイズはその直後、ブッシュ政権を批判する「When The President Talks To God」をiTunesからリリースした。手コキの歌のあとに、真摯なプロテスト・ソングで国家に楯突く。僕はその時からブライト・アイズを本気で好きになった。僕たちにとっては両方とも切実な問題だから。

 前作『CASSADAGA』がリリースされたのは、ブッシュ政権下の2007年。荘厳ともいえるオーケストラ・アレンジと緻密なリズム・アプローチ(ジョン・マッケンタイアも参加)が印象的だった。カントリー/フォーク・ミュージックを現代へと継承するソング・ライティングも本当に素晴らしかったけれど、かつてのような「叫び」は抑えられている。安定感のあるサウンドは、ブライト・アイズがコナー・オバーストのソロ・ユニットからバンドへと変貌したことを印象づけた。その後、ブライト・アイズはデビュー以来初めてコンスタントなリリースを休止し、コナー・オバーストのソロやモンスターズ・オブ・フォークとしての活動へと移ってゆく。そしてブッシュが表舞台から姿を消すまでに、僕たちは2年も待たされることになる。

 2009年のオバマ政権誕生から、さらに2年。ようやくブライト・アイズとしての新作が届けられた。タイトルの『THE PEOPLE'S KEY』とは、クラシックやポピュラー・ミュージックで"Gメジャー"を表す言葉だという。ギターやキーボードを持っている人は、ポロンと鳴らしてみよう。"人々のキー"と呼ばれる理由がわかるかもしれない。アルバムはSF調のスポークン・ワードに導かれて幕を開ける。燃え上がるジャングルのようなアートワークも意味深だ。バンドは前作と同様にコナー・オバースト、マイク・モギス、そしてネイト・ウォルコットを中心に編成されている。曲ごとにカーシヴやザ・フェイント、ナウ・イッツ・オーヴァーヘッドなどから、気心の知れた仲間たちが参加。サウンドは前作よりもシンプルでタイトだ。カントリー/フォーク・ミュージックへと連なるフィーリングは希薄で、ミュートを効かせたギターのカッティングとシンセはむしろニュー・ウェーヴっぽくもある。そして震えるようなあの叫びは、ひと言ひと言を噛みしめる強い歌声へと完全に生まれ変わっている。

 その歌声には、古代の神話、近未来のヴィジョン、ヒトラーとエヴァ・ブラウン、そしてラスタファリアニズム(!)などの象徴的なキーワードがたくさん散りばめられている。特にラスタファリアニズムからの引用が興味深い。「Firewall」では、"Lions Of Judah"や"I And I"という言葉が使われ、「Haile Selassie(ハイレ・セラシエ)」というタイトルの曲もある。でも、不思議なことにサウンドとしてレゲエを取り入れたアプローチの曲はひとつもない。

 エチオピアには、「アフリカをひとつにするのは、黒人の王が即位する時だ」という予言どおりに、ハイレ・セラシエ1世が皇帝に即位したという歴史がある。ラスタファリアニズムの起源となったエピソードだ。その姿をバラク・オバマの登場になぞらえているって思うのは、深読みのしすぎかな。それでも僕はこのアルバムを聞いた後に、ボブ・マーリィの「Redemption Song」を思い出した。アコースティック・バラードとして永遠ともいえる力強さを持った名曲だ。前半では搾取されてきた人々の歴史が歌われ、後半では現代の核兵器を中心とする軍事的な科学へ懐疑的な眼差しが向けられている。過去と未来の真ん中に立った人々の歌だ。それは2011年の今、この世界そのものでもある。そしてブライト・アイズは「A Machine Spiritual (In The People's Key)」(Gメジャーの機械霊歌)で、こんなふうに歌っている。

《歴史がお辞儀をして、脇にどいた/ジャングルの中には紫の光の円柱がある/僕たちはやり直すんだ》

 少しだけ時は流れた。残念ながらもう手コキの歌はないけれど、ブライト・アイズが帰ってきた。きっかけは外国人の違法滞在を取り締まるアリゾナ州法SB1070号への抗議団体"THE SOUND STRIKE"の結成だった。異議を唱えよう。そしてまた、前へ進もう。僕は今、ギターを抱えて"人々のキー"を鳴らしてみる。「Redemption Song」もGメジャーだった。

(犬飼一郎)

*日本盤は3月2日リリース予定です。【編集部追記】

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radiohead.jpg 2月14日、レディオヘッドのニュー・アルバム『The King Of Limbs』が週末にリリースされることが突如発表になった。僕はそれをTwitterで知った。その後、彼らのtwitter公式アカウントから、日本語で「渋谷 ハチ公広場 金曜日18時59分」とツイートされ、様々な憶測が流れた。

 結局のところ、渋谷駅前を占拠する3基の巨大ビジョンで、ニュー・アルバムから「Lotus Flower」のPVが世界で最初に流されるということだったらしい。しかし、ライブ・パフォーマンスがおこなわるかもしれないなどといった憶測が流れ、そのことを否定するも渋谷のハチ公前に人が集まり混乱になる可能性が高いということで、日本のレーベル、ホステスから企画自体が中止になった事が発表された。 

 僕自身は午後六時に仕事が終わり、中止になった事を知らぬまま渋谷に向かっている電車の中でその発表について知った。とりあえず様子だけ見ようと思いハチ公広場に向かった。金曜日だった事もありたくさんの人が待ち合わせしていたが、なんとなく普段よりも欧米系の外人の姿が多かったように思えた。何も起こらないのならばと僕は家路を急いだ。 

 その後、もともと予定されていた時間ぐらいに『Lotus Flower』のPVがYouTube上にアップされ、一日前倒しでニューアルバムが「今すぐ発売」となって配信開始された。僕もTwitterのTLを眺めながら予約していたのでダウンロードを開始した。トラフィックがあまりに混みあっていたせいか最初はうまくいかずにいたが、数分後にはダウンロードできた。一通り全八曲を聴いた時に二曲目『Morning Mr Magpie』と七曲目『Give Up The Ghost』と八曲目『Separator』が特にいいなと思い、その後も何度も繰り返してアルバムを通して聴いた。 

 全体的にはなんというかしなやかなダンスを見ている体験を聴いたようなリズムというのだろうか、僕の中にゆっくりと溶け込んでいくような音だった。『Lotus Flower』のPVでトム・ヨークがダンスしているせいかもしれないがそんなイメージ。ちなみにそんなPV監督はブラー「Coffee & TV」などでも有名で、以前に僕もレヴューを書いた『リトル・ランボーズ』のガース・ジェニングス。 

 このアルバムに付属するもの全てがこのアルバム『The King of Limbs』ではないかと何度も聴きながら思う。そこで思い出したのが大塚英志著『定本物語消費論』だった。 

「1980年代の終わりに、子供たちは『ビックリマンチョコレート』のシールを集め、『人面犬』などの都市伝説に熱狂した。それは消費者が商品の作り手が作りだした物語に満足できず、消費者自らの手で物語を作り上げる時代の予兆であった。1989年に於ける「大きな物語」の終焉を出発点に、読者が自分たちが消費する物語を自分たちで捏造する時代の到来を予見した幻の消費論」(本の裏面の紹介文より)

「『ビックリマン』において子供たちは、一枚一枚のシールという目に見える商品を購入することを通じて、実はその背後にある『ビックリマン神話』を手に入れようとしていた。商品の実体はシールでも、ましてやチョコレートでもなく、<神話>そのものだったのである。『ドラクエ』や『ファイブスター物語』でもそれは変わらない。消費者は<神話>や<歴史>の全体像を知る手段として、その断片であるソフトやコミックを買うのだといえる」(文庫版 P66より) 

 音源のダウンロードではシールのような実物ではなくデータであるので目には見えないが、ネット上でリリースされることやTwitterでの告知やそれにまつわるツイートなどが可視化される。そして中止になっても知らないでハチ公前に集まった人達が期待していたのは<神話>や<歴史>をニューアルバムについての何かがハチ公前で起きる事が目の前で起こるだろうという期待、それは一種の<祭り>であった。大規模なものではないにしても、リアルタイムで流され拡散される情報によりレディオヘッドに期待する人、洋楽ロックに興味ある人がネットを通じてその祭りに参加しようと期待値を膨らませていた。その流れも今回のアルバムには付随してしまうものだった。 

 中止になったからこそすぐに前倒しでダウンロードを始める事で、この祭りは不満で潰される事なく哀しみの後の喜びのように届けられた。現実において彼らの音は届いた。だが、彼らが今まで作りだしてきた音楽にあるリズムとそのメッセージ性が、現実の中において、聴けば聴くほどにある種の形を僕の中で作りだして行く。 

 僕がそうやって<祭り>だったり<祝祭性>という言葉を使うようになったのは社会学者・鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』を読んでからだが、彼は本文を始める最初の「ふたつの「祭り」+1/お祭り化する日常」において、  こう書いている。

「夢を語る/騙ることが問題なのではなく、こうも容易くたくさんの夢を見ることができる時代に、なぜ私たちは夢から醒めることができないでいる、あるいは醒めようとしないでいるのかについて考えるのが、本書の役割であるのだから」(P12より) 

 さきほど引用した『定本物語消費論』の著者である大塚英志は、かつて『MADARA』という漫画の原作を手がけている。その作品はメディアミックスされ、今の角川書店におけるメディアミックスの基になっていると彼は主張しているのだが、そこにあった一筋縄ではいかない顛末の結果として『MADARA』という言葉をタイトルからはずし、"終わらす為に書いた"作品『僕は天使の羽を踏まない』の文庫後書きにて、こう書いている。 

「ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある」(文庫版 P282より) 

 僕がずっとレディオヘッドに感じていた事は、彼らの音楽は夢を見せるものではなく醒まさせる事にある音楽という事だ。ラストの八曲目『Separator』の最後で「wake me up」とトムが何度も歌っているように。

(碇本学) 

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radiohead.jpg「作者」が表現の全体を把握し、「読者」は作者の唯一のメッセージを読み取る「解読」を行っていた時代では、その主従関係のバランスとともに表現の隷属者であったのは作者なのか読者なのか、曖昧であった。しかし、今や「作者」がその特権的な位置を消失した現在において、読者はどのような視角を持って「作者」に対峙すればよいのだろうか? ミスリーディングされた道をそのまま辿り、適度な場所で自戒すればいいのか、複数の意味を見出せばいいのか、幾つでも選択肢は「拡がった」中で、審美眼は読者側に預けられることになった。これが、所謂、「作者の死」を巡る基礎概念だ。

 読者とは、あるエクリチュ-ルを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。(略)読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かに過ぎない。(ロラン・バルト『テクストの快楽』より)

「誰か」は「僕」かもしれないし、「君」かもしれない。そうだとしたら、『Kid A』とはまさに「誰も」であった。それはレディオヘッド自身を映した鏡面であったのかもしれないし、今更、新しい装置としてのロックを起動させるという意味を避ける為の潜航だったような気もする。

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 2月14日にオフィシャル・サイトでふとポストされた新しいアルバム『The King Of Limbs』のリリース告知と、その後の過度な盛り上がりと、レディオヘッド側のまどろっこしいマーケティング手法には個人的に少し消耗するものがあった。『In Rainbows』のときも、急遽、買い手側の言い値方式のリリースを敢行し、話題になったが、それは彼らがレコード・レーベルの契約に振り回されていない身分であるということよりも、セールス・ポテンシャルが強い自分たちを用いた実験のような、遊びのようなものが見えた。「システムとして新しい」、「既存のリリース・スタイルを変えた」など多くの賛美の声も寄せられたが、それは部分的な変化であり、全体様式としての影響とはまたセパレートして語られる知的な蛮行だったと思う。その"知的な蛮行"というイロニカルな要素がレディオヘッドの良い要素でもあった訳だが、今回の彼らの「仕掛け」はどうにも野暮ったく、"物語なき時代"における謎解きとしての面白さ以上の付加的要素を見ることができなかった。

 現代の状況においては、パラダイムに忠実であるか、パラダイムから自由であるか、といったことはもはや重要な問題ではないだろう。社会・経済的環境の変化、とりわけコンピュータやそのネットワークの加速度的な発達は、科学研究のスタイルにも、その中身にも大きな影響を与えている。すなわち、科学研究も含めた知識生産の様式(Mode)が大きく変化しつつある。というより部分的には、すでに変化してしまったのである。(M・ギボンズ、1998年)

 例のレディオヘッドのオフィシャル・ツイッターで2月17日にツイートされた「渋谷 ハチ公広場 金曜日 18時59分」を受けて、渋谷で大々的に流れるはずだったかもしれない(※企画が中止されたので、もはや真偽は分からないが。)トム・ヨークがダンスする「Lotus Flower」のモノクロームのPVは鮮やかで、また、曲も以前からライヴでは発表されていたものの、ダブ・ステップ経由のビート・メイクと幾層ものエレクトロニクスが神経症気味に絡みつく優美なアレンジに着地していたのは流石だと感じた。DEAD AIR SPACE(彼らのウェブサイト)のオフィス・チャートでAPPARAT「King Of Clubs」、ブリアル「South London Boroughs」、ローン(LONE)「Angel Brain」などの曲をポストしていたことからの影響も伺える音の肌理細やかさをそこには感じることが出来たからだ。そこに、《I'll set you free》、《Listen your heart》といったフレーズがトムのか細い声で紡がれる。個人的には、この曲を聴く分には、『Kid A』以上にバンド・サウンドとしてのダイナミクスを感じないのに不安になったが、アルバム自体はよりサウンド・テクスチャーの面で明らかに「細部に降りてゆく」ことは何となく想像していた。

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 このアルバムに至るまでの最近の経緯を簡単に追ってみよう。

 09年には、第一次大戦を戦った最後の元英陸軍兵、ハリー・パッチ氏の05年のTODAYのインタヴューをトム・ヨークが聞き、インスパイアされて作ったという「Harry Patch(In Memory Of)」と、「These Are My Twisted Words」という今回のアルバムに向けてなのか、レコーディングを行っていた最初期に録り終えた曲をダウンロード・リリースするものの、ストリングスが優雅な前者、ブレイクビーツに「Palo Alto」のような不穏なサウンドが被さるラフで実験性の高い後者といい、どちらも具体的なアルバムへの道筋を付けるという曲ではなく、単体としての意味が大きかった。2010年の1月にはLAでナイジェル・ゴドリッチとレコーディングを行なっているとの情報が入り、その後も、各々メンバーのコメントはどうにも歯切れが悪いものが多く、「出来上がっている」、「殆ど完成しそうなんだ」と、ファンはその都度、振り回されたまま、2010年内のリリースは無かった。しかし、周知の通り、トム・ヨークのフライング・ロータスの作品への客演やレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーなどと組んだアトムス・フォー・ピース名義でのバンド活動、ドラマーのフィル・セルウェイの滋味深いソロ・アルバム、ジョニー・グリーンウッドの手掛けた『ノルウェイの森』のサウンドトラック等の課外活動は盛んだった。

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 昨年、フジロックで観たアトムス・フォー・ピースのライヴで、トム・ヨークのソロ・パートで、弾き語りで今回の『The King Of Limbs』にも入っている「Give Up The Ghost」を聴いたとき、メロディーオリエンティッドなものをより離れ、全体の音像として聴かせるようなミュジーク・コンクレート(Musique Concrète)へより接近してゆくのではないか、という想いも少し抱いていた。その想いは半分、当たっていたような気もするものの、半分は外れていた。何故ならば、『King Of Limbs』の8曲、40分にも満たない内容の中で、展開されるミニマルに刻まれたリズムとより精度が極められたビートはまるで、ドナルド・ジャッドの『無題』の絵を見ているかのような気分にもなったからだ。

 例えば、音楽としての進歩体系の一つかもしれない「トータル・セリエズム」とは、音楽家サイドからは知的な音楽の構築姿勢として捉えることも出来たかもしれないが、大半の「保守」的な聴衆には、無規則な音の羅列に対して距離を置いてしまったのではないか、という疑念は歴史上、何度も検討されてきた。トータル・セリエズムの起点としては、「人間が聴くことが出来る情報処理能力の有限性」への懐疑があった。初期のトータル・セリエリズム楽曲の演奏は誤りが多く、それを聴く聴衆側の耳も誤解が多かったゆえに深刻化した問題を克服するために、「ポスト・セリエル」へとモードが転回されていく訳だが、ここで大きな点として、こういった音楽の発展らしき何かと比して「聴衆不在の音楽」としての背景も忖度せざるを得ない憂慮があった。今回、レディオヘッドの作品は『Kid A』とは違った形での(つまり、"拒絶"ではない)「聴衆不在」の音楽のような気もする。ミニマル・ミュージックがときに「ニュー・シンプリシティ」と言われるのに対して、彼らの音はより複雑になっているからこそ、この複雑さが何を規定してくるのか、今の僕には見えないのだ。

 前半4曲までには、ヨーロッパのディープ・ミニマル・シーンとの共振を感じさせるとともに、クラウト・ロック、つまりカンやノイ!辺りの60年代末から70年代初めにかけて西ドイツに登場した実験的バンド群のリズムからの影響も垣間見える。2曲目の「Morning Mr.Maggie」は、前作の「15 Step」がよりリズムを細かく刻まれ、音響的な"含み"を持たせたという印象も持ったが、ドラスティックな曲展開が「起こらない」という点で、カタルシスのポイントがサウンドのダイナミクスではなく、緻密に編まれた電子音そのものへの意識付けによって為されるとしたら、この書簡は届けられるのか、疑念を呈さざるを得ない。アドルノが言うような、「誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる音楽には、音楽家と聴衆との間に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている」としたならば、『King Of Limbs』の描く希望とは何なのか。それは、これまでの彼らのサウンド・ヴォキャブラリーが今の形で再構築された佳曲「Lotus Flower」や柔和なピアノ・バラッド「Codex」などが入る後半の4曲を聴いても、よく分からない。

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 この作品は、大文字の「ロック」を別に進化させるものでも、再定義を迫るものでもないが、音楽が音楽そのものとして語られるべき強度を持っているのは興味深い。そして、映画『ソーシャル・ネットワーク』の予告編でベルギーの少女合唱団スカラ(Scala & Kolacny Brothers)が朗々と歌っていた彼らの初期の代表曲「Creep」を対象化させる「速度」に溢れた作品である。この作品が「過ぎた」跡に、蓮花(Lotus Flower)が咲くとしたならば、それはそれで何て救いのないことだろう、と思いもするが、レディオヘッドというバンド体としての名義で音楽を「音楽」に戻そうとした意味で、今回は「聴衆の不在」ではなく、「非在」の場所を目指したのかもしれない。そう考えると、ライヴではどんな形で再現されるかどうかの観点は別にして、バンドとしてのダイナミクスや力学を感じないのも納得がいく。

 08年のダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ(Dan Le Sac Vs Scroobius Pip、UKのヒップホップ・エレクトロ・デュオ)のシニカルな歌詞を改めて噛み締めてみるにはいい時期なのかもしれない。この作品が「批評」される磁場に僕は興味がある。

《No matter how great they are, or were.Radiohead, just a band.》
(ダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ「Thou Shalt Always Kill」より)

(松浦達)

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frankie.jpg 彼らの何が素晴らしいって、まずはEPからジャケットに使い続けているモノクロの写真。今回はいかにもやんちゃそうなガキどもがカメラに向かって無邪気な笑顔を浮かべたり、ぜんぜん無邪気じゃない笑顔を浮かべたり、憂いのある表情を浮かべたりしている。これを見ただけで「2011年は楽しくなりそうだ」という気がしてくる。2010年後半に彼らがデビューして、イギリスではいよいよバンド・サウンドの復権が叫ばれるようになった。といってもヴァクシーンズやブラザーのようなラッディズムとはすこし違って、彼らの場合(特にヴォーカルのフランキーは)根はノーブルだ。フランキーのステージでの動きを見て真っ先に連想したのはモリッシーだが、週末のパブで野朗が大合唱していそうな曲の大衆性もまた、彼らを積極的にプッシュしたくなる理由のひとつである。
 
 そしてリリック。もう女々しくて、ウジウジしてて、後悔してて、開き直ってて、ほんま最高。自分から別れを切り出した相手に向かって、「なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からない。君を取り戻したい」とか。恋人との倦怠期に「これはただの肉欲なのか」とか。「お前が泣こうがわめこうが、ちっとも気にならない」とか。全部同じ1人の相手に向けられているのではないか、というほどリアルで、勝手にセンチメンタルで、情けない。だって、どれもこれも恋愛においてぜったいに優位に立てない男の話でしょ。恋人がいないとまともに生きて行けない究極の寂しがり屋でしょ。それを男4人のバンドで思いっきり歌い上げることで、また人生の同じところをグルグルまわるんでしょ。
 
 今回リリースされたファースト・フル・アルバム「Hunger」はEPからとくにサウンド面での変化はなく、いかにも彼ららしい強烈なフックを持った「ど」キャッチーな楽曲が並ぶ。構成もメロディの運び方も、どうやら彼らはぶれない芯をひとつすでに持っているようだ。今回もプロデューサーは元オレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズ。ちなみに「Want You Back」のアレンジが変わって、もっと名曲になった(「Ungrateful」を除く既発曲はすべて再レコーディングされている)は全てアルバム用に再レコーディング)。良いアルバムだ。空前のリリース・ラッシュですこし埋もれてしまった感のあるこのアルバムだけど、たぶん7作目くらいで「相変わらず良いね」と言われるようなバンドになると思う。

(長畑宏明)

*昨年来日時のインタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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james_blake_a.jpg これはダブステップ・アルバムではない。これはジェームズ・ブレイクというノース・ロンドン出身の青年が作り上げた、美しくもメランコリックな「ただのアルバム」だ。ジェームズ・ブレイクは、主に「ポスト・ダブステップ」というタームの中で語られている。昨年は素晴らしいファースト・アルバムを上梓してくれたゴールドパンダ。他にもマウント・キンビーやフローティング・ポインツなど、今やポスト・ダブステップは大きな一大勢力となって、我々の耳と心を賑やかにしてくれる。しかし、『James Blake』はポスト・ダブステップの中でも浮いた存在だし、寧ろ孤高に近い存在感を放っている。
 
『James Blake』は、良い曲が詰まったSSWアルバムに過ぎない。こう書くとあまり褒めていないように思われるかも知れない。だが、ダブステップが日常に侵食していることを証明するアルバムではあっても、「ダブステップ・アルバム」と片付けられるほど単純なアルバムではないはずだ。「Limit To Your Love」などはダブステップのトラックとしても機能しているが、その他の曲は歌そのものだ。

 僕自身の話になってしまうけど、クラブやライブハウスで様々な人に話を訊く限り、『James Blake』はダンス・ミュージックよりもインディー・ロックを好んでいる人が多く聴いている気がする。それは、何百人と集まる場所のアンセムとして鳴るタイプのような曲が多いわけでもないし、一人部屋で音楽と向き合って聴くような、謂わば聴き手と1対1の会話を求めてくるアルバムだからかも知れない。

 しかし、なぜジェームズ・ブレイクはここまでアルバムを待望されたアーティストなのか? それは、これでもかと心の中をさらけ出し、それを音楽という芸術として表現したからだろう。機械的に加工され、もはや中性的ですらある歌声や、ひんやりと冷淡な音とビート。その音やビートも「歌声」として機能させているプロダクション。どこか近未来的なヴィジョンと、現実的な匂いや呼吸を混ぜ合わせたようなハイブリット・ソウル。ジェームズ・ブレイクは、本質的な音楽の役割に忠実だっただけに過ぎない(「自己を表現する」というのは音楽だけではなく、小説や映画など「芸術」と呼ばれるすべての行為に言えることだが)。その役割を前提とした上での表現が、多くの人の琴線に触れたのだ。「自己を表現すること自体が」コンセプトとなってしまっている音楽が多いなか、『James Blake』の音楽的表現(芸術的表現)はかなり飛び抜けている。

「自己を表現することを前提とし、その自己をどうやって多くの人に届けるか?」

 ジェームズ・ブレイクはいま、こうした次元でポップ・ミュージックを鳴らしている。

(近藤真弥)

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anna_calvi.jpg 風が吹きすさぶ不穏なパノラマ――、それはまさに幕開けにふさわしい。オープニングのインスト曲、「Rider In The Storm」は、そんなヴィジョンを脳裏に焼き付ける。この曲が示唆するとおり、このロンドンの新星、アンナ・カルヴィ(Anna Calvi)のセルフタイトル・デビュー・アルバムはあまりに映像的でドラマチックだ。

 このアルバムは、全体を通してひとつの物語が展開されるコンセプト・アルバムではない。だが、ひとつひとつのシーンを克明に語りつくすような歌詞や、オーケストラ風の音のとり方で壮大さを表現したサウンドスケープは、彼女自らデヴィッド・リンチの作品を目指しただけあり、悪魔や欲望をテーマとした映画と呼ぶに相応しい。

 ジミ・ヘンドリックスに影響を受けたというギターは言葉より巧みにストーリーのディティールを語り、ニーナ・シモンやマリア・カラスの歌唱法を取り入れたヴォーカルは堂々と存在感を示す。プロデューサーはPJハーヴェイの仕事で知られるロブ・エリス。彼が、無駄を削ぎ落としたサウンドを煌びやかに輝くよう組み立てている。また、バックを支えるマルチ・インストゥルメンタリストのマリー・ハーペズとドラマーのダニエル・メイデン・ウッドの腕も確か。スキルの高さが、スト-リーの陰影を際出させ、迫真の演技を想起させるようだ。

 ここ数年、フローレンス・アンド・ザ・マシーンやマリーナ・アンド・ザ・ダイアモンズといった、非日常的な世界観を提示するポップ・アイコンが台頭してきた。彼女たちの音楽には、繰り返される貧しく苦しい日常を一瞬でも忘れさせるための妙薬、という側面があるといえるだろう。そして、このアンナ・カルヴィ。音楽的にはかけ離れているが、ひとときの夢にリスナーを浸らせてくれる、という役目においては同じだろう。

 確かに、BBC SOUND OF 2011のリストに選出されたことや、ブライアン・イーノが熱烈な援助を行なっているなど、熱心なリスナーなら食いつかずにいられない話題が彼女には尽きない。だが、何よりこのアンナ・カルヴィは、そういった余計な情報を一切排除して耳を傾ければ感じられる、類まれなる物語性によって真価をはかってほしい。

(角田仁志)

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michou.jpg 現在、最も注目すべきエモ/インディ・ロック・バンドを一組挙げろ、と言われたら、僕は何の迷いも無く、このカナダはオンタリオ州ウィンザー出身のミシュー(Michou)を挙げるだろう。

 彼らのmyspaceのバイオグラフィーには、「未来の科学者が1974年にタイムスリップし、ある実験を行った。それは1人の男性に別々の4人の女性を妊娠させ、4人の子どもを産ませるといったものだ。4人はそれぞれ男の子として産まれ、彼らの父親の跡を追っていく内に、深内部のある街に辿り着き、カウボーイになりギャング行為を行い、人々から恐れられるようになった。市民はギャングたちが現れる時に叫ぶ『ミシュー』というコールに怯えながら街を歩くこととなった。科学者は4人のギャングを2010年に呼び起こす。そこで彼らは、ポップ・センスに満ちた未来のインディ・ミュージックを生み出し始めた。そして、自分たちのバンド名を昔の合い言葉から取り『ミシュー』と名付けた」というストーリーが載せられている。幻想的なのかSF的なのか、何だかよく分からないが、凝ったヒストリーだ。

 さて、そんな彼らが今年、世界的にリリースするこの『カルドナ』は、まさに、先のバイオグラフィーにも書かれていた通り、極上のポップ・センスによるインディ・ロック、エモの新たな指針になることは、まず間違いないだろう。ここでは、僕たちの日常に寄り添う鼓動、歓喜と憂愁を包み込んだ躍動が奇跡的なバランスをもって鳴らされている。
 
 本国カナダでは既に2010年2月にiTunesでリリースされており、2010年度の新人賞を総なめ。"カナダのデス・キャブ・フォー・キューティー"という異名すら獲得している。
 
 しかし、僕は彼らを、「カナダのデス・キャブ・フォー・キューティー」という枠組みだけで見るのは、あまりに矮小すぎるように感じるというのが本音だ。もちろん、言うまでもなく、デス・キャブ・フォー・キューティーは素晴らしいバンドであるし、彼らのフォロワーとして捉えられることも、もちろん光栄なことだろう。それでも、このアルバムは、例えば、ミューのもつメランコリックながら包み込まれるような耽美さ、エリオット・スミスのもっていたフラジャイルながら突き刺さるような切実さ、ムームやシーベアーといったアイスランディック・アーティストのもつ素朴な温かみ、そういったものも多くみられる。そして、それらのテイストを取り入れながら、独自のポップ・センスを磨き上げたサウンド、それがミシューというバンドであるのだ。
 
 この端麗なメロディ、儚くも強かなボーカルが見せてくれる世界は僕たちの日常そのものでありながら、それを更に切なく、優しく、キラキラした世界に変えてくれる。2011年早くも素晴らしいインディ・ロック・アルバムが登場してしまった。

(青野圭祐)

*日本盤は3月9日リリース予定です。【編集部追記】

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gil_scott_heron_xx.jpg 昨年の大きかったトピックの一つといえば、13年振りのギル・スコット・ヘロンのカムバック作『I'm New Here』だろう。71年の名曲「The Revolution Would Not Be Televised」がいまだに標語としても警句としても、メディアに流れ続け、クラブ・シーンでは彼の70年代のアルバムが再評価されている、現代が誇る詩人の一人であり、プロテスト・シンガー(一部では"黒いディラン"とも言われる)。しかし、彼はレジェンドにもアクチュアルな存在のどちらでもない「狭間」の中をドラッグ禍や監獄に縛られながらも、50年ものキャリアを重ね、ロバート・ジョンソンが契約を交わしたかもしれないクロスロードを渡り歩き、60歳を越えて、「私は新しく此処に居る(I'm New Here)」と表明した。その姿勢に力を貰った人は多かったことと思う。

 それにしても、『I'm New Here』とは何だったのか、今でも考える。巷間で冠詞のように捧げられた、ラップの始祖としての本懐を奪取し、ヒップホップのモダナイゼーションを担ったともいえる核たる言葉の強さを備え、ブリアル以降のダブステップのようなサウンド・ディメンションを持ち合わせた現在進行形のシリアスな作品として捉えられることよりも、要所に挟まれるスポークン・ワーズとして数十秒で「語られる」行間にこそ、僕は、現代のブルーズとしての彼のソウルを感じたのは事実だ。今の彼にとっては、音楽の縁枠、形式美をなぞるよりも、「発語」された途端に意味を越えて、一気に空気を変えるような言葉の輪郭の鋭度に感応するべきだという気がする。だから、アルバムとしては「今」を射抜くようなものでも、タイムレスなものでもなく、オルタナティヴなひしゃげ方をしていた奇妙なフォルムを保っていた。そのひしゃげ方に、アーバン・ブルーズとしての萌芽も確実に見ることができた。

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 かのザ・ストリーツのマイク・スキナーがフィンとなる今回のアルバムで『Computer And Blues』というネーミングを付けて"しまった"ように、今やエジプトでの事もそうだろう、革命は「Be Televised」される時代になってしまった中で、ギル・スコット・ヘロンの《例え、どれだけ間違った道を進んでいようと いつでも後戻りしてみればいい 振り返ってみればこそ 全力で走ることができるかもしれない もう一度 新しい場所に辿り着くかもしれない》(「I'm New Here」)というフレーズは決して退歩ではない。コンピューターやネットワークが高度化し、管理の網が投げられる中を掻い潜り、より"一歩先"に実存が蒸発するまでの微かな希望的な予感に目を凝らせてみようと「I(個)」の意志が反射する光が現実という水面に撥ね返るのを捉えるために、「We(我々)」の想像力が何より必要だったということを示していた、とすると、彼の声が届くには我々がまだ「遠くに居過ぎた」気もしてくる。

 今回の『We're New Here』では、その「距離を埋める」かのように、『I'm New Here』をTHE XXのトラックメイカ―であり、DJであるロンドンの気鋭、JAMIE XXが大胆にアップデイト/リミックスしている(なお、ここでは素材は「歌」のトラックしか用いていないという)。サウンドもかなり刺激的なものになっており、重いベースが響くダブステップから、ブレイクビーツ、変拍子のリズム、ドープなミニマルまで、先鋭的なエレクトロニック・ミュージックの要素が強烈に迸りながら、そこに彼のしわがれた声がまるで亡霊のように行き交う。作品としてはフロアーに対応したという部分もあるが、彼の声を素材にした上で、「新しい声」を手に入れようとした結果の意味概念への志向性の矢印が見える。

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 意味概念への志向性―。

 フッサールの『論理学研究』での、意味概念の志向性理論への導入こそがブレイクスルーする「先」を示唆したかもしれないという点がある。対象自体から区別された「意味」と呼ばれる内容概念を導入し、「志向性」の本質的な特徴付けを付与したフレームワークの中で、彼の意味概念は、対象に対する作用の持つ独特な関係性としての志向性に対して不合理に陥らせず、適切な理解を可能にするものとしての「振り幅」を見せる。
「振り幅」内では、結果として「意味」と呼ぶものは、対象から区別され、イディアールな性格を持ち、作用に例化されることで対象的関係を作用に与え、等々の形で特徴付けられることとなる。例えば、作用の持つ対象的関係を、それが例化することによって対象的関係を与えるような《存在者》の導入によって説明するというのは、立場の明確化という意義はあれども、そのままでは無内容に近くなる。したがって、『論理学研究』における意味概念が思弁的な理論構成から要請される特徴付けを超えた、積極的な内実を持つならば、その解析面で鋭い視座を我々(We)が可視化しないといけない。特徴付けされた意味概念に対して。

 だからこそ、アルバム・タイトルは『We're New Here』なのかもしれない。その「We」はギル・スコット・ヘロン、JAMIE XX「以外」を視程に収めてくるとしたら、昨年から続くドキュメンタリーのような、シーンに再帰した彼の道程が今作にして帰着するという感動的な一面もある。JAMIE XXの手腕によるエレクトロニクスの端々が「語る」言葉とギル・スコット・ヘロン自身の「リアルな言葉」が混ざり合った美しい作品だ。我々(We)が感じるべき熱がここにはある。

(松浦達) 

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slack.jpg 正直この作品、彼にとっての3rdアルバムである『我時想う愛』は2ndアルバム『Whalabout』でスラックのファンになった人々にとっては賛否両論ではないかと思う。2ndにおけるスラックに顕著な奇妙に歪んだビートや、エクスペリメンタルなプロダクションは、スムーズでかつメロウなものに取って代わっている。つまり、非常に「聴きやすく」「キャッチー」になっている。あえて乱暴に言うなら、1stアルバム『My Space』収録の「I Know About Shit」「Deep Kiss」におけるジャジ―でソウルフルな路線をアルバム一枚に拡張したと捉えても良いだろう。しかし、そのトラック・メイクのクオリティは格段に上がっていて、「日常において零れ落ちたロマンティシズム」を非常に美しく表現している。

「そういうねじれた感じの曲もちゃんと入ってると思うんですけど、過去の作品はそれを大げさにやってたところがあったというか、もっと自然に出せると思うし、自分で聴いても、まだまだ甘いっすね。」

「もともと自分のなかには色んな面があるというか、別にユルいのだけが売りというわけでもないし、今回に関しては、キャッチーなものが出来たので、みんなも 聴きやすいんじゃないかと思いますね。元々の発想として、俺が聴きたいネタをみんなに聴かせたかったりもするし、自分の音楽センスを見せたいということもあるのかもしれないし、ラップもちょっと変わりましたね。」(*以上の発言は<CLUSTER>2月14日の記事より引用)

 己の変化を自覚しつつも、そこに対しての意識はいつも通り―これは彼の音楽の一つの本質でもあるのだが―「ゆるい」=slack。

 2008年に100枚限定で自主制作で発表した『I'm Serious(好きにやってみた)』によって、その存在が認知され、その翌年2月に1st『My Space』を上梓し、その音楽性はストーンズ・スロウ周辺のアクト(マッドリブやジェイディラなど)と比較された。また、非常にハイスキルでありかつ、日本語と英語の境界が曖昧な発音に満ちた彼のラップは独特のオリジナリティに溢れている。このアルバムには先ほども述べたように今作の音楽性の萌芽となるものがある。しかし、新譜におけるアダルトなムードに満ちたロマンティシズムというよりは、「ダラダラとした日常のワンシーン」と言ったようなダイアリーな意味合いが強く、非常にのんびりとした空気が漂っている。そしてなんと同年11月に2nd『Whalabout』を上梓している。このアルバムは前作における「ダラダラとした日常」の路線を踏襲しながらもメロウでスムーズな前作とは打って変わり、リズムは歪み、メロウネスよりもエクスペリメンタルなプロダクションが目立つようになった。また、リリックにおいても、《俺は自分の足でクラブに行き 自分でフレンズを選び 自分で曲を作る シーンのルールには興味もない Musicのみ Musicのみ》(「That's Me」)など、己のアティテュードを明確に打ち出すようなものが見られるようになった。無論、このようなリリックよりも「適当」などに象徴とされるスラックにおいて一貫しているワードのほうが断然多く使われていることは言っておかなければならないが。
このようなソロ活動の他にも彼は実兄のPUNPEE(彼は昨年、『MIXED BIZNESS』という素晴らしいMIX-CDをリリースした。そこにはヒップホップは勿論、椎名林檎、ゆらゆら帝国、トッド・ラングレンなどの曲が収録されていて、極めて雑食的な彼の音楽性を垣間見ることができる。スラックと並んで最も有望な若手である。)や高校の友人であるGAPPERとともに結成されたPSG(3人のメンバーの頭文字をとって名付けられた)というクル―のメンバーの一人でもあり、『DAVID』というアルバムをリリースしている(こちらも必聴!)。

 彼の過去をざっと俯瞰したところで、彼のよく使うワードであり、同時に彼のオリジナリティの根幹である「適当」というワードについて考えてみよう。

 このワードはある対象への必要以上のコミットメントを避けるアクションを示す。これによって、過剰なコミットメントから生み出されるストレスを回避することができるわけだ。「適当に敬意を 考え込むな」と彼が言うのはそのためである。彼のこの部分を読みとることができないと「メジャーの応援歌系ラップ」や「ヤンキー風味の歌詞」などと彼の表現が矮小化され、揶揄されてしまう(「解釈しようによって」はこれらの表現が該当する部分があるのは事実ではあるが...)。

 批評家の宇野常寛は彼の著書『ゼロ年代の想像力』において、国内における90年代はいわゆる「大きな物語」が失効したため、それが個人の人生を「意味づけ」することが無くなり、そこで生きる人間は「~する/~した」という行為を評価されることではなく「~である/~ではない」というキャラクター的実存において承認を得ようとし、東浩紀の言葉で言えば「動物化」し、その膨大に増幅されてゆく承認欲求が母性(それは自分が「~である」というだけで承認してくれるものである)のディストピア(「セカイ系」もその一端を担う)に陥ったと分析している。そこではさらに無数の「小さな物語」が乱立し、各々が「あえてベタに」己の帰属している「物語」を信じているために、そこはバトルロワイヤル状況に陥ってしまう。

 スラックの「適当」は己が「小さな物語」に属しているのを承知していながらも(《最低限で暮らしたい 意味はない別に やりたいからやってるだけ》「Sin Son(In)」)、その「小さな物語」にすらあまりこだわらないという彼のアティテュードを示している。己の「小さな物語」に寄りかかり過ぎると、それが何らかの形でバトルロワイヤル的な状況に関わってしまう時にストレスになってしまう。だから、彼はその「小さな物語」すらも非常に流動的なものとして捉え、固執することは無い。無論ヒップホップは彼の重要な「物語」で、それを捨てるわけにはいかないだろう。しかし、このレヴューの最初にも示したように、彼は自分自身の行っているヒップホップに対する認識もダラダラと「ゆるい」。つまり彼は、その都度対象に対してこだわりを見せるが結局、それもすぐにどこかに流れていってしまうのだ。スラックの表現における独自性とはこの「流動的な小さな物語」に見出すことができる。

 これが僕のスラックに対しての見方である。しかし、このロマンティシズムに満ちた新譜を聴いて少し疑問に思ったことがある。

《人は常にネガティヴ忘れないよ》(「But Love」)

《いつも思う死ぬ前にきっと もっと行けたなんて想うんじゃないか》(「いつも想う」)

《ふと思う時がある自分の足跡 時々思い描く先の世界を》(「Come inside Pro」)

 これらのリリックを聴いて、このアルバムにあるロマンティシズムと言うのはスラックが本当に「適当」であれば流すことのできた「内省」ではないだろうか。そう、「東京23時」などを聴いて「ロマンティシズム」だと思ったそれは実は「メランコリー」だったのではないだろうか。彼はこのアルバムの冒頭で「テキトー」と自嘲気味に言っているが、その「自嘲」は本当は彼の「適当」が上手くいっていないことへの意識から出たものではないのだろうか。今作を聴いて唯一心残りだったのがその一点である。そして、この答えは彼の次の作品を聴くことによって確かめたいと思う。これはスラック個人の問題ではなく、人間がはたして「流動的な小さな物語」を受け入れることができるかどうかの問題なのだから。

(八木皓平)

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echo_lake.jpg シューゲイザーを鳴らすバンドは今までも数多く出てきた。「マイブラを連想させる」「初期ライドのようだ」。こういう枕詞もうんざりするほど見てきた。このロンドン出身の新進バンド、エコー・レイクの音もマイブラであり、初期ライドそのままだ。ネオ・サイケの影響が出ているし、ひたすら甘く憂鬱なメロディを奏でている。

 前述したように、エコー・レイクはシューゲイズ・サウンドを鳴らしている。何を歌っているのか分からないヴォーカル。力強いとはいえない全体のグルーヴ。そして甘美なサイケデリック・サウンド。どれをとってもシューゲイザーそのものだし、はっきり言って革新的なサウンドとは言い難い。でも、『Young Silence』にはしっかりエコー・レイクとしての音が鳴っている。それは、エコー・レイクが吟味を重ねたうえで、こうしたサウンドを選んだからだろう。過去に登場したマイブラ・フォロワーバンドの多くが、メディアの比較論(もちろん、その比較対象はマイブラだ)から逃れるため無理やり差別化を図ろうとした結果、どっちつかずの凡庸なアルバムを残してフェードアウトしていった。しかし、エコー・レイクの音からはそうした差別化を図る無理な努力は感じられないし、寧ろ諦念に近い「これが好きなんです」が感じられる。

 僕にとってジーザス・アンド・メリーチェインは、カッコよくヴェルヴェット・アンダーグラウンドを出来た唯一の存在だ。実際ヴェルヴェッツからの影響を公言していたし、『Psychocandy』リリース時のジム・リードはこう語っている。

「"Cut Dead"は、とてもとてもヴェルヴェッツっぽい。だけど、それがどうしたっていうんだい? なぜそれがいけないんだい?」

 まあ、エコー・レイクの面々がこうしたことを実際に言うかは分からないけれど(アーティスト写真を見るかぎり、そんなことを言うような人達じゃないと思う)、マイブラっぽい音であることは全然悪いことじゃないと思う。僕から言わせれば、エコー・レイクはカッコよくマイ・ブラッディ・ヴァレンタインを出来たバンドだし、そうした影響元を隠さずに、それらの要素を上手く自分達のサウンドとして転化させている。

 ここで、先程引用したジム・リードの発言の続きを書いておこう。

「じゃあ"In A Hole"の場合はどんな風に聴こえる? あのサウンドは僕の考えうるいかなるバンドとも似ていないよ」

 この「In A Hole」にあたるのが、『Young Silence』においては「Buried At Sea」であり「Sunday Evening」だ。そして「Cut Dead」にあたるのが、「Everything Is Real」や 「Memory Lapses」といったところか。この2曲は『Loveless』の影響が色濃く出ている。エコー・レイクの未来はこれからだが、まずは『Young Silence』という魔法にかかってみてほしい。それはそれは素晴らしい桃源郷が待っている。少し俗っぽいところもある桃源郷だが、それがまた最高なのだ。

(近藤真弥)

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adhitia_sofyan.jpg インドネシアで音楽といえば、条件反射的にガムランが思い浮かぶ。神秘的な音色。ガムランといえばYMOの『テクノデリック』。70年代のインドネシア・サイケは結構熱い。オリエンタルでエキゾチックで...。

 こういう偏狭すぎるかの国への固定概念(すいませんでした)を取り払ってくれそうなのが、ジャカルタ出身のアディティア・ソフィアン(Adhitia Sofyan)による『Quiet Down』だ。みずからを"コーヒー・ミュージックを歌うシンガー・ソングライター"と呼ぶ純朴な見た目をした青年の奏でる音楽は、そのアルバム名のとおりに聴く人の心を穏やかにさせる。慌ただしい仕事からも街の喧騒からも離れた、手持ぶさたでアンニュイなひとりきりの時間をすごす人々へ彼の歌は捧げられている。

 普段はオンライン・マーケティングの仕事に携わっているという彼は、あるときからアコースティック・ギターを携えベッドルームで録音を開始する。そしてラジオ局のプッシュから火がつき、インドネシア国内の音楽フェスを回り、映画(『Kambing Jantan』という、ブログを原作にした作品。ブログ執筆者ご本人が扮する主人公の顔が激しくナードなところも込みで『電車男』を思わせる)にも曲が起用され大ヒット。まるでインドネシアにおけるエリオット・スミス(『グッド・ウィル・ハンティング』)ともいうべきサクセス・ストーリーを歩む彼だが、どれもこれも素晴らしい曲があってこその話だ。

 やさしく頬を撫でるゆるやかな風を思わせるギターの調べに乗せて、そっと語りかけられるように歌われる冒頭の「Adelaide Sky」。過ぎ去る時間や別離といったモチーフが、人肌や夕暮れどきの日差しがもつ温かみとともに押し寄せてくる。控えめなストリングスもさりげなく華を添え、郷愁が胸を静かに通り過ぎていく。唯一インドネシア語で歌われる「Memlihmu」では歌声はさまざまな表情を遠慮ぎみに見せ、"チキチキバンバン~"と癖になるフレーズが挟み込まれる。まるで自分の目の前で演奏されているかのようなアットホームな音色は終始リラックス・ムードに包まれ、ときにセンチメンタルなトーンや言葉が飛び出すものの、メロドラマ的に押しつけがましくなることなく、静かに寄り添ってくれる。流れていく景色を肘をついて車窓からぼんやり眺めているような、カップに入った飲み物の温度を取っ手ごしにじんわり確かめるような、そんな音楽だ。

 品のいい奥ゆかしさをもったミニマムな弾き語りは、一時期のニック・ドレイクやサイモン&ガーファンクルを想起させる。どんな想像や妄想をも許してくれそうな包容力に満ちた作品だ。背中を向けたジャケットのイラストもいい。そっぽを向いた彼はシャイながらも面倒見のいい音楽の気質を、コーヒー豆を思わせる背景の淡い茶色は「Sound Of Silence」とも「Quiet Is The New Loud」とも違う、彼にしか出せないのどかで芳しい香りを、それぞれ地味ながらもうまく表しているように思う。

(小熊俊哉)

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