reviews: January 2011アーカイブ

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destroyer.jpg デストロイヤーの新譜を聴いているはずだった。確かにコンポに入れたのはデストロイヤーの新譜であり、彼らにとって9枚目のアルバムである『Kaputt』であったはずだ。しかし、耳に入ってきたのは「コズミックな音像!」を身に纏い、流麗なアコースティックギターに乗った、デヴィッド・ボウイ(ルー・リードかな?)を思わせるダニエル・ベイジャーのヴォーカルであった。ひたすらにドリーミーである。サックスやトランペットの響きがまたひたすらにロマンティックだ。このコズミックなアレンジはこのアルバムにおける共通低音となって鳴り響いている。ほぼ全編に渡り、80sにおける緻密なロマンティシズム(それはピッチフォークが言うようにロキシ―・ミュージックであり、スティーリー・ダンでもある)を存分に取り入れつつ、浮遊感のあるシンセのループや、リヴァーブが深くかけられた幻想的な音像は2010年に大きな盛り上がりを見せ、今もその盛り上がりが持続しているチル・ウェイヴを思わせもする。

 話がそれるが、僕は今、昨年のアリエル・ピンクのアルバムについてノスタルジアなどという言葉はふさわしくないと思っている。無論、アリエル・ピンク登場以前でも、様々なアクトが過去から降り注いできた音をその身に受け、現代のものとしてそれを再創造してきた。だから、アリエルをノスタルジア云々ということに意味はないと言ってもそれはあたりまえだろうと思うかもしれない。だが、やはり昨年のアメリカのインディー・ミュージックシーンはあまりにもベタに「幸福であった過去」の音楽を無批判にトレースしているものが多かった。それはやはり肯定的にしろ、否定的にしろ、「ノスタルジア」と呼んでしかるべきであった。しかし、アリエル・ピンクのそれはあまりに破壊的・暴力的であった。それこそ、ポップ・ミュージック史全てを漁ろうとしているかのようだった。そして、これはもしかしたら、今後のスタンダードとなる姿勢なのかもしれない。そこには「ノスタルジア」は存在せず、ひたすら暴力的で無機質な「引用」と「配列」が繰り返されるのみであるのかもしれない。デストロイヤーのこのアルバムにも、アリエルと同様の過去の破壊願望が(このアルバムはコンセプチュアルだし、あそこまで極端ではないにしろ)ちらついて見える。ダニエル・ベイジャーはデストロイヤーの音楽性を「ヨーロピアン・ブルース」と評したことがあったが、これが彼らにとってのそれなのだろうか?

 1995年にカナダのバンクーバーでダニエル・ベイジャーはひっそりとデストロイヤーを誕生させた。セルフプロデュースによるデビュー作『We'll Build Them A Golden Bridge』で、バンドはバンクーバーのミュージックシーンにおいて一躍有名になった。ホームスタジオで録音されたそれはペイヴメントやガイデッド・バイ・ヴォイシズなどのアメリカのいわゆるローファイ勢と比較された。彼らはそこから休むことなく、ほぼ2年に1作のペースでアルバムを出し続けている。いわゆるMIDI(Musical Instrument Digital Interface)に触発されたオーケストラルでシンフォニックな『Your Blues』(2004年)はピッチフォークを始めとしたメディアから絶賛され、続く『Destroyer's Rubies』ではビルボードで最高位24位とヒットを記録。癖のあるヴォ―リゼーションはそのままに、スワンプなどアメリカ南部の土着的な要素を強く打ち出してきたことが功を奏した。そして前作『Trouble In Dreams』ではお得意のローファイサウンドを基調としながらも性急なドラムスとグラム風ギターでずたずたに引き裂いたものだった。

 さて、ここまで駆け足で彼らのキャリアを俯瞰したのは良いが、こう振り返ってみると、デストロイヤーというバンドは随分とその音楽スタイルに一貫性が無く、現役当時のデヴィッド・ボウイがそうであったようにまるでカメレオンのようにその音色を変え続けていることがわかる。この性質は100%、フロントマンであるダニエル・ベイジャーから来ている。彼はデストロイヤーのほかにもカール・ニューマンやニーコ・ケースとともに、ザ・ニュー・ポルノグラファーズ(アルバム『Together』ではベイルートのザック・コンドン、オッカヴィル・リヴァーのウィル・シェフ、セイント・ヴィンセントが客演していてびっくりした)というひねくれた遊び心が溢れるギターロックバンドをやったり、フロッグ・アイズやウルフ・パレードのメンバーとともにスワン・レイクというカナダのスーパーグループにも参加している(他にもハロー、ブルー・ローゼズなどにも参加)。このような多岐にわたる彼の活動、創作意欲がデストロイヤーの変貌し続ける音楽性の原動力となっていることは間違いない。

どこまでも不明瞭で、詩的、そしてなにより遊び心に満ちている歌詞もまた素敵である。

「Sounds, Smash Hits, Melody Maker, NME / All sound like a dream to me」

 例えばこの「女の子やコカインを追っかける」ようなミュージシャンを皮肉った曲、「Kaputt」。タイトルはイタリアのジャーナリスト/作家であるクルツィオ・マラパルテによって書かれた『Kaputt(壊れたヨーロッパ)』から来ているそうだ。そして、ダニエル・ベイジャーは、一度もその小説を読んだことがないらしい。なんだそれ。

 と思いきや、「Song for america」では、「I wrote a song for America. They told me it was clever. Jessica's gone on vacation on the dark side of town forever.」と歌いもする。彼はアーケイド・ファイアのようにアメリカについて言及するわけではないし(それどころか、上のラインはそれに対する皮肉も含むだろう)、それでもこのアルバムにはどこか、かの大国に対するそこはかとない想いがふと過る瞬間があるように思える。何とも言えないアンヴィヴァレントな心情がそのアイロニーでかつ、スピリチュアルな詞世界から、ふと零れ落ちる瞬間があり、非常に独特な彼の世界観を構成している。

 そして彼はこのアルバムで最も素晴らしい曲「Bay Of Pigs」において、こう歌う。

「Oh world!,you fucking explosion that turns us around.(中略)You travel light,all night,every night,to arrive at the conclusion of the world's inutterable secret.....And you shut your mouth....」

 どこにでもある景色、どこにでもある自然を描写し、彼はそこに何かを投影する。そして、最後に、世界について歌う。「世界の言い表しがたい秘密にたどり着く」ことによって「君」は沈黙する。「それの全てを見てしまった」せいで、沈黙せざるを得ないのだ。

 無論、全てを語ることなど誰にもできないし、全てを見ることなど誰にもできない。言うまでも無いことだ。だからこそ、彼のこのラインは非常に興味深い。おそらく「世界の言い表しがたい秘密」などは「存在しない」。また、それを全て見たと言っているがそこに広がっているのはブラックホールのような空間だろう。つまり、これも言うまでも無いことだが、「世界など無い」のだ。その「無い」ことへの想いが彼の口を閉ざす。だが、「無い」という答えを彼は知っているがゆえに彼は軽やかに、皮肉っぽく、言葉を紡ぎ続ける。誰よりもクレバ―であるからこそ、彼は対象の輪郭が明瞭な何かについて言葉を紡ぐことはしない。そこに向かってもあるのは袋小路だけだからだ。何かについて歌うということの困難さを彼は誰よりも知っている。これがデストロイヤーにとっての「ヨーロピアン・ブルース」なのかもしれない。

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 ゲーテが概念としての、デモーニッシュなものに触れるときは一般的な歴史における自然的なものを示唆した。特に、彼の自伝である『詩と真実』の中で、デモーニッシュなものに関して多く述べられている。そこでは、デモーニッシュなものはただ矛盾においてのみ運動し、顕現され、従ってどのような概念、如何なる言葉の下にも捉えられ得ないものであり、「主として人間と最も不思議な関係をもち、そして、道徳的世界秩序と相対立しないまでも、それと相交差する力を形作っている」という文脈を敷く。即ち、ゲーテによれば、デモーニッシュなものとは、寧ろ自然的なものであり、偶然的なものでありながら、尚且つ必然的なものであるという訳だ。また、彼によれば、デモーニッシュなものは先ずは「個人」に結び付いて現われるが、総ての個性的、特性的なものがデモーニッシュなのではなく、それは歴史的に重要なものにおいて出会うという形が常である、としている。ならば、いつの時代もデモーニッシュなものは社会的なものとして「経験」されるのが常なのかもしれない。

 09年の後半辺りからUSの早耳のブロガーの間で「ウィッチ・ハウス」という造語が行き交いだしたのは知っている人も多いと思う。その後、チルウェイヴとの繋がりを持つことにもなったが、どちらかというと、その奇妙なネーミングが示しているとおり、ジャンル、カテゴライズによって音楽そのものが帯びる不自由さへのアイロニーの姿勢を最初から含んでいた。昨年、ウィッチ・ハウスの代表格としてシーンを席巻したミシガンのセーラム(SALEM)に関しても目新しい音という訳ではなく、ゴシックな音に80年代風のニューウェーヴ要素を加えたダークな意匠が強いもので、その不気味なムードと幽玄的な女性ボーカルと沈鬱なラップが醸す「空気」こそが、ウィッチ・ハウス≒魔女のハウスという名称を体現していたと言える。一部では、UKのダブステップへの一つのリアクションと評されもしたが、どちらかというと、90年代初頭のトリップ・ホップを思わせる「低音」と「旧さ」が今、新しく解釈し直された上で、より現代的な閉塞を加えたという印象が個人的に強い。それでも、ブルックリンの若き俊才、バラム・アカブ(BALAM ACAB)辺りの人気も合わさって、ウィッチ・ハウスの周縁の暗渠に求心力を帯びてきたとも言える今、その源流を辿れば行き着くかもしれない映画監督デヴィッド・リンチが64歳にして本格的に「歌手」デビューするということは興味深い。
 
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『イレイザーヘッド』、『ツイン・ピークス』などで如何なくビザールなヴィジュアル・イメージを突き詰めていた彼の美意識、そして、ノイズを基調にしたサウンド・デザインとウィッチ・ハウスの親和度は高い気がしたが、この『Good Day Today/I Know』での「I Know」というオリジナル曲は、ポーティスヘッドの雰囲気を思わせるBPMが遅めのダークでヘビーな質感を持ったものになっており、仄かな共振さえも感じさせる。といえど、まずは皆が吃驚するのは、「Good Day Today」と思われる。リンチのヴォコーダー・ヴォイスが"軽快に"重なるシンプルなダンス・チューンだからだ。ちなみに、このシングルには表題の2曲のオリジナル曲以外に8曲のリミックスが収められており、「Good Day Today」のアンダーワールドのリミックスではカール・ハイドが全編歌い直したのもあり、ほぼアンダーワールドの曲になってしまっている。また、「I Know」のリミックスに関しては、サシャはリンチの持つ本来の世界観をよりスペイシーに広げたものに、スクリームは彼らしく強烈な低音が効いたスモーキーなものに、など各々の解釈が面白いものが揃っているが、白眉はベースメント・ジャックスのサイモン・ラトクリフの手によるものだろう。リンチの美学に対峙した上で、新しい不穏な美しさを付加することに成功しているだけでなく、しっかりと体を揺らせることができる緩やかなビートが心地良いトラックにしている。本体のベースメント・ジャックスの近曲の「Dracula」とも似ている要素があり、次作への展開の萌芽もここに見ることができるのではないだろうか。

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 なお、気になるジャケット・デザインはデモーニッシュなものにはなっているが、リンチの手によるものではなく、ピクシーズ、コクトー・ツインズや4ADレーベルなどのアートワークを手掛けたヴォーン・オリヴァーによるものであり、レーベルもUKのクラブ・ミュージックを主体にしているSunday Bestからというところからして、リンチが全面的にコントロール・フリークを発揮した作品ではなく、どちらかというと、これから軽やかな一歩を踏み出すために、自分にかかる期待やバイアスを敢えて避けたようにも思える。振り返ってみると、06年の『インランド・エンパイア』のサントラの時点で、リンチは「Ghost Of Love」を歌い、その後もポーランドのピアニスト、マレック・ゼブロフスキー、そして、スパークルホース、デンジャー・マウスと組んだりしていた訳で、音楽活動に興味が傾いでいたのは要所で伺えていた訳だが、こうしてデビューされてしまうと、様々な想いも巡る。

 例えば、ウィッチ・ハウスと呼ばれるものが召喚するデモーニッシュな何かが必然的に今、リンチ自身を「音像化」している過程内にあるとしたならば、ゲーテの示唆したように、歴史軸の中でこそ攪拌される遠心力を持つような気もしてくる。そう考えてゆくと、リンチの「個人的な欲求」が向かうべくして向かった部分と、歴史が呼んだ部分が合わさった意義深い作品なのかもしれない。だからこそ、完全なるセルフ・プロデュースによる"音楽家デヴィッド・リンチのアルバム"というのもそう遠い日ではないことを願ってやまない。

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 2011年に入ってここまで夢中になって聴いたアルバムは、いまのところテニスの『Cape Dory』だけだ。60年代のオールライトな空気と、いまのUSインディのハンドメイドな感触と、グラスゴーっぽい温もりのあるメロディがすべて見事に融合して、この『Cape Dory』というアルバムにはパッキングされている。全曲にシックスペンス・ノン・ザ・リッチャーの「Kiss me」なみの甘酸っぱさがあって、愛せずにはいられない。ちなみにデンバー出身だって。360日中300日が晴天なんだって。ビーチ・ハウスの『Teen Dream』が天上の音楽だとしたら、Tennisは夕暮れ時の砂浜で永遠にかけていたくなる音楽。問答無用の傑作です。

 音楽的要素だけなら目新しいものはないなーとか思うでしょ。普通に良さそうだけどなーとか思うでしょ。だけどテニスはほとんどのバンドが手にできなかった特別な空間をアルバムのなかに作り出したのです。心の底から大絶賛したいです。

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 凄い。やっぱりエイジアン・ダブ・ファウンデイションは凄い。結成が93年だから今年で18年目になるわけだけど、UKエイジアンとしてのアイデンティティを維持しながら、ここまで世界を刺激し続けることができる存在もなかなか居ない。93年にジャングルという当時の最先端にアプローチしながらシーンに現れたエイジアン・ダブ・ファウンデイションだが、『A History Of Now』でもグライムやダブステップのエッセンスを巧みに取り込んでいて、持ち味のひとつである咀嚼の上手さは微塵も衰えてはいない。しかも作品を重ねるごとに大人の余裕というか、説教臭くならずに主張を伝える術にも磨きがかかっている印象だ。かつての、エゴが前面に出ていたエイジアン・ダブ・ファウンデイションの姿はここにはない。代わりに、見つめるべき問題にしっかり指を指しながら対話を求める姿が窺える。

 銃声みたいな音がした後に「俺は銃を持っている。死にたくなきゃ従うんだ」と言われたら、みんな従うのだろうか? 誰かが「銃を見た」と言ったら、その銃は存在すると思ってしまうのだろうか? しかし、その従う者や存在すると信じている人達は、実際に銃を見たのだろうか? 存在するとしたら、自分の目で確かめろよ。そしてもしその銃があったら、どうすりゃいいか考えようぜ。と、少々乱暴な例えになってしまったけど、今作でエイジアン・ダブ・ファウンデイションが言いたいことは、「自分の目で見つめ、考えて生きろよ」ということ。結構当たり前のように聞こえるかも知れないけど、現代を生きる人でこうした生き方を実践出来ている人は少ないと思う。もし実践出来ている人が多かったら、民主党政権がここまで続くことはなかった...なんてね。でも、情報に脚色を加え、良くも悪くも情報を扱っていたはずの我々が、いつの間にか情報によって逆に脚色されているというのは事実だろう。

 音楽的進化と変化を重ねながら、時代に蔓延る問題を浮かび上がらせることも忘れない。しかも快楽的なノリまである。シリアスと快楽は水と油のようにも見えるが、エイジアン・ダブ・ファウンデイションは戦うために踊るのだ。今作ではストリングスを上手く取り入れていることもあって、どこまでも広がるようなスケール感と、「体ではなく心を踊らせる」音も手に入れている。洗練とエッジを両立させた理想的なアルバムであるのは確かだけど、ひとつ気がかりなのはライナーノーツにおけるチャンドラソニックの発言だ。

「誰かから与えられた考えじゃなくて、自分の頭で考えるようになってほしいね。自分を取り巻く物事の背景とプロセスをちゃんと把握して、理解してほしい。このアルバムを聴いて、世界を別の角度から見て、考えてほしいんだ。俺はそれで十分満足だよ」

 僕にとってのエイジアン・ダブ・ファウンデイションはこんな軟な存在ではなかった。少なくとも「十分満足」なんて言葉は吐かなかったはずだ。世界が混乱すればするほど輝くバンドで、だからこそ『Enemy Of The Enemy』という傑作が生まれたのだから。もちろん世界が安定へと向かっているなら話は別だが、残念ながら世界は複雑になり混迷を極めている。エイジアン・ダブ・ファウンデイションはそんな世界を音楽の力でもって変えようとしていたはずだし、僕もそこが好きなところでもあった。言葉の揚げ足取りと言われたらその通りかも知れないけど、興味深くエイジアン・ダブ・ファウンデイションを追っていた僕にとっては、「十分満足」という言葉が出てくるだけで、少なくないショックを覚えるのもまた事実なのだ。

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 いきなり私事で恐縮だが、今年に入って職場が変わり、そこで流れるラジオ局もJ-WaveからInter FMに。JUJUや平井堅の番組もちょっと好きだったが、岡村有里子さんのDJがやっぱり素敵ぃ~♪ と聴き惚れていたら、頻繁にプレイされているある曲が耳につく。あまりに流麗なコーラスワークっぷりに一発でノックアウトされ、声質と音づくりのオタクっぷりからしてロジャー・マニングjr.の新曲かな...? と思ったらそうではなかったが、調べたら過去にジェリーフィッシュのカヴァーもしている人たちみたいで、そんなに間違えてもなかった...どころか、そのカヴァーのあまりの出来のよさに本人たちのお墨付きまでいただいているみたい。すごいな。

 ウェールズ出身の三人組、ザ・ソニック・エグゼクティヴ・セッションズ(The Sonic Executive Sessions)。スタジオのオーナーとセッション仕事やTV音楽などをこなすミュージシャンによるユニットで、楽曲の完成度のあまりの高さにアルバム発表前からMySpace経由で一部では大変話題になっていたそうだ。待望となるアルバムのほうも、期待を裏切らなかったろう文句なしのポップ・アルバムだ。スティーリー・ダンとジェリーフィッシュのドリーム・ユニットによる巧みかつハッピーで活き活きとした演奏に乗せて、疾走感あるサーフィン期と夢見心地なペット・サウンズ期が融合したビーチ・ボーイズ風の甘いコーラスが気持ちよすぎる...とまで書いても大袈裟でなさそうな「You'll Never Happy」(ラジオで大プッシュされている曲だ)を筆頭に、多少ウェットな憂いを帯びたり、とびきりチャーミングだったりしながら、甘美なメロディが全編に詰め込まれている。メリーゴーラウンド的な多幸感はロジャー・マニングjr.のソロ近作にも通じるものがあるし、冴えわたるソングライティングとピアノ・ポップぶりはベン・フォールズやルーファス・ウェインライトを彷彿とさせる。パワーポップ然ともしながらAOR的な音づくりの丹精かつ端正な職人気質で、クイーンから初期のキリンジまで、日本の音楽ファンのツボを押しまくる展開の連続だ。フックの強さは実にラジオ・フレンドリーだし、どの世代が耳にしても郷愁に襲われるに違いない。

 似たような作風でもMIKAのようなキャラクターのアクの強さは望むべくもなく、技巧派スタジオ・バンドだけあってライブの予定も特にないそうだが、だからといって地味な印象は微塵も受けない。どうやら筋金入りのポップ職人らしく、メイン・ヴォーカルであり作曲も手がけているChristian Phillipsはあのコリン・ブランストーンの近年のアルバム制作にまで携わっていたとのこと。日本盤ボーナストラックにはStack-O-Vocalsバージョン(ビーチ・ボーイズがよくやっていた、ヴォーカルのみのミックス)も収録。スゴ腕コーラスっぷりを堪能できる一方、これを聴くことで改めて彼らの録音技術/芸術の精巧さを再発見できる。ここまで書いて、誰がこの作品を賛辞しても似たりよったりな文面になりそうなことに気づいたが、それだけ広いストライクゾーンに対応している証拠で、音の魅力が誰にでもわかりやすく伝えられるというのもポップの世界においてはすばらしい長所だと開き直れるほどミラクルな瞬間に満ちている。雨の日も笑顔になれそうな、しかめっ面した人々の耳にイヤフォンを捻じ込んででも聴かせたくなる好盤だ。

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 エイ・リリーとはイギリス人ミュージシャンのジェームス・ヴェラのソロ・プロジェクトである。デビュー作となる前作『Wake:Sleep』は、ラップトップをベースにした美麗なエレクトロニカで世界中でもブレイクしたが、4年振りとなる『Thunder Ate The Iron Tree』ではドラスティックな変化が起きている。まず、作詞・作曲・レコーディングをほぼ一人で受け持ったというジェームス・ヴィラが扱った楽器の多さに驚かされる。試しにブックレットに記載しているクレジットを羅列してみよう。

《singing, electric guitar, bass guitar, cello, marimba, glockenspiel, banjo, drum kit, pistachio shell shaker, rice shaker, djembe, gamelan bells, zheng, steel drums, kalimba, accordion, piano, organ, casio miniatures, yamaha miniatures, wooden frog, wooden cricket drum machine, synthesizer, all other percussion, lapsteel, autoharp, mellotron, tone chimes miniature harp, programming, acoustic guitar》

 オーソドックスな楽器からジャンベやバンジョー、メロトロンまでその幅の広さは、現代を代表するマルチ・インストゥルメンタリストであるトクマルシューゴに勝るとも劣らない。楽器の音同士を重ね、その隙間を活かしながら、且つ、歌も一つの楽器として的確に配置して、マジカルで上品なサウンドスケープを描き上げる彼の音世界には、芳醇な活きた音に充ち溢れており、玩具箱を引っ繰り返したかのような楽しさにも守られている。前作からはよりカラフルになり、EFTERKLANGのブラス・セクションも要所で活き、ポスト・クラシカルな音楽としては申し分のないサウンドスケープが拡がっているだけに、ここに、クリティークすべき言葉を置く意味があるのかどうか、とも考えてしまう。"既に音楽の中で、自分の音楽が語られてしまっている"と思えるところがあるからだ。

 我々が考えることが出来ないものや語ることが出来ないものの限界という言い方をするとき、空間的な表象を用いることを回避することはできない、といえる。となると、「トートロジー」という概念を持ち込むと、それは実は空間的表象形式としての別名かもしれなくなる。だからこそ、空間的ではない表象形式があれば、「トートロジー」の自家撞着形式から抜け出ることができる可能性もある。しかし、デリダの思想も関係させるならば、彼の解釈ではトートロジー的論理に取り込まれているがゆえに、それを自覚している自身の思想すら、己を裏切り、己から「ズレ」ることになる。そして、理性によって「ズレ」た他者の排除を、理性のトートロジー的言説の中から察知し、それを告発する自分の言説自体が自身に含む「ズレ」をも嗅ぎ分けるという鋭敏さを帯びてくるということになってくる。では、「エイ・リリーの音楽は、エイ・リリーの音楽だ。」(エイ・リリーの音楽は、エイ・リリーの音楽でしかない。)という凡庸なトートロジーは、この作品を前にどういった意味を持つのか、となると、僕は言葉より先立つ前提条件が幾つも見受けられるという点からして、開かれた他者性に向けられた特権を帯同した「差異」としての内容を孕んでくるように思える。形式の縁をなぞりながら、起こり得るエラーやバグも組み込まれている音楽として、既に音楽の中で存分に自分の音楽を語っているが、だからこそ、「内部」ではない外部から覗き込める隙間もあり、聴き手側に解釈の機微を預けられている要素も汲み取れる。

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 簡単に各曲に触れてみる。幾つもの楽器が鮮やかに重ねられ、多重コーラスが被さる「Joy」にはポリフォニック・スプリ―や『The Soft Bulletin』前後のユーフォリックなザ・フレーミング・リップスの影も見ることができる。メロウなトーンで始まる「Your Collarbone」は、生楽器の妙な組み合わせのため、コミカルな奥行きが生まれ、そこにアイスランド人女性シンガーEMILIANA TORRINIの気怠いボーカルが入り、彼の分厚い多重コーラスと行き来するというかなりエクスペリメンタルな曲。エフェクト処理されたピアノの旋律が美しい「Cheryl Cole」、『Tnt』期のトータスのような「Arc Hugo」、ラストの8分を越える「Rain Islands」は静謐な始まりから楽器と声が重ねられていき、荘厳な昂揚感をもたらす。といったように、10曲の中で、同じようなタイプの曲がない。

 このドリーミーで甘美な音像からは個人的につい、コリーンやマイス・パレード、またはタウン・アンド・カントリー、近作のフォー・テット辺りの音を思い出してしまうが、それらの名前よりも更にギャヴィン・ブライアーズやモートン・フェルドマンといった偉大なる現代音楽家の血筋も見て取ることもできる。ジェームス・ヴェラという人のポテンシャルと実験精神を見せつけた快作である。

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 あら? なんか微妙じゃないか、ホワイト・ライズの待望のセカンド。いや、ぜんぜん悪くはないし、特に目立った路線変更もないし、むしろアンセミックにはなってるし、ちゃんと暗いし。私の期待が過剰だったか。しかしその過剰な期待にも余裕で応えてくれるバンドじゃないか、ホワイト・ライズ! というわけでやっぱりこのアルバムに満点をつけることはできない。私はまえにクッキーシーンでホワイト・ライズのファーストをレビューしたとき、「キラーズ、エディターズに続く逸材だ!」と絶賛していたが、その二バンドのセカンドに比べると、やはり停滞感を感じてしまう。もうすこし前のめりで冒険してもよかったのでは? 

 具体的に言えば、キラーズはセカンドで果敢にもアメリカン・ロックへの接近を試みたし、エディターズはファーストからは想像できないほどの壮大なスケールをセカンドで獲得した。逆に考えれば、ホワイト・ライズの「Ritual」は手堅い成長作ともとれるし、本人たちも「キングス・オブ・レオンのようなキャリアが欲しい」とインタビューで語っていたくらいなので、私が「聴いた瞬間に叫びたくなるような大アンセム」を期待していたのがそもそもの間違いかも。どちらにしろ、もうサードが楽しみ。だってキングス・オブ・レオンだったらサードは「Because Of The Times」だからね。うむ、そう考えるとこのセカンドも良いぞ。ゴシックな英国ロックの系譜を引き継いでいるぞ。わくわくしてきたぞ。何だかよく分かりませんが、けっして変な方向に走ったわけではないので、ファーストが気に入った人なら聴いてみるべきだと思います。

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amos_lee.jpg
 キャレキシコというバンド名の由来が「カリフォルニア」と「メキシコ」を合わせた造語という部分からして、彼らの描く音というのは最初から、例えば、ルーツ・ミュージックやトラディショナル・ミュージックなどとの「距離感」によって図られるものであった。初期の『Spoke』や『The Black Light』といったアルバムでは、エンニオ・モリコーネが手掛けたマカロニ・ウェスタンの音楽のパスティーシュのような曲からマリアッチ、フォルクローレ、間に挟まれるインスト・ナンバーは緻密な音響工作が活きた浮遊感溢れるものになっていたり、とにかく、"Shady"な音楽であり、その印象から一部の人は架空映画のサウンドトラックという評をしてもいたが、実際、60年代や70年代の西部劇やB級映画に合いそうな雰囲気には溢れていた。

 しかし、03年の『Feast Of Wire』では歌の要素が増え、遊びの部分が減り、少しシリアスな様相を呈するようになっていた。それは、9.11以降の地平で無邪気な音楽をアメリカの中でそのままやるという難しさを孕んでいたかのようで、散文詩的な歌詞にふと挟まれるダークなトーンは、『Yankee Hotel Foxtrot』以降のウィルコやサドル・クリーク周辺のアーティストたちの温度ともシンクロしており、良質なアメリカン・ミュージックの担い手として注目を浴びることになったというのは、そもそもの彼らの起点からすると不思議なものだと思う。そういった流れを受けてのことか、05年のアイアン・アンド・ワインとの共作EP「In The Reins」ではオルタナ・カントリーへ接近し、06年の『Garden Ruin』、08年の『Carried To Dust』では、それまでにあった捩れたセンスが少なくなり、衒いのない良質な歌ものの要素が強くなった。バンドとしては「成長」していったのだろうが、その過程は、初期から追いかけている自分のような者からしたら、彼ら特有のウィットが欠けてゆくようにも思え、若干、寂寥も感じてしまったのも否めない。それでも、キャレキシコの主要メンバーでもあり、元・ジャイアント・サンドのジョーイ・バーンズのプロダクション能力とジョン・コンヴァティーノの持つサウンド・メイキングの巧みさには常に魅力を感じていた。

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 エイモス・リーの4作目となる『Mission Bell』では、ジョーイ・バーンズがプロデュースを手掛けているのだが、近年のキャレキシコの路線とエイモス・リーというモダンとルーツを行き来する正当なシンガーソングライターのアティチュードが健康的な形で融和し、良質でディーセントな音楽を結実させることに成功している。より表情豊かになったエイモスのボーカリゼーションを主軸に、ゴスペル、ソウル、フォーク、カントリー、ブルーズといった音楽的背景が叮嚀に束ね上げられ、オーセンティックなアレンジメントの下、ホーン、スライド・ギター、ピアノなどの楽器が有機的に絡み合う。

 同じブルーノートのノラ・ジョーンズが近作で多彩なアーティストとコラボレーションするなど自由度を高めた活動をしているのと比して、端整な佇まいとシルキーヴォイスでもってシーンに鮮やかにデビューし、その後もブルーノートの看板アーティストとしてポップの優等生的な道を歩んでいた彼が、深化の方向に歩みを進め、その成果がこうして出ているというのは頼もしく、映る。また、時にルーツ・ミュージックを求道するアーティストが陥りがちな「視野の狭さ」や聴き手を選ぶ「狭さ」はここにはなく、ソフィスティケティッドされた洒脱な空気を感じさせるものになっているというのは、ジョーイ・バーンズのプロデュースに拠るところも大きいのかもしれない。カントリー・ミュージックの重鎮であるウィリー・ネルソンの参加やソウルフルな歌声で独自の道を堅実に切り拓いているルシンダ・ウィリアムズとのデュエットなども活きている。

 余談になるが、今作を聴いていると、ルーツ・ミュージックを今の音に再構築する腕に長けたジョー・ヘンリーがプロデュースを手掛けていたら、どういったものになっていただろうか、ふと考えてしまうところがあった。もしも、エイモス・リーとジョー・ヘンリーが組むことがあっても面白いことになると思う。加え、例えば、ベックが行なっているレコード・クラブみたいな形で、エイモスが他のアーティストの曲をカバーしてゆくというのも良いかもしれない、とも思った。何故ならば、こうして作品を重ねることで、最初の頃のエイモスに付いてまわっていた匿名性の高い品の良さよりも、記名性の強いアクの強さが見えるようになってきたからこそ、もっと新しい試みを聴いてみたいという願望も出てきたからだ。

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 この『Mission Bell』は、今の渾沌したアメリカの音楽シーンの中で目立つ内容では決してないが、凛と背筋の通った志の高い作品である。同時に、ここでの「アメリカ」とは幻視されるべき旧き良きアメリカであるのかもしれない。そう考えてゆくと、「キャレキシコ」というバンドの存在とシンクロし、フィラデルフィア出身のエイモスがルーツを巡る過程で、幻像としてのアメリカが持ち上がったというのは興味深い。

 デビューからの流れがここで極まったような気もするだけに、今後、更に大いなるアメリカの歴史と向き合うのか、オルタナティヴに振れるのか、注目していきたい。

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 全2曲で約50分、ノンビート。アンダーグラウンドなシーンの中でも異端とされる存在であるVampilliaの最新作。1曲目の「sea」ではスワンズの女帝ジャーボウが美しい音像の中、ヴォーカルやポエトリー・リーディングで参加している(このアルバム・タイトルの名付け親でもある)。禍々しいオーラに満ちた彼らのヴィジュアルや音楽に触れた事がある人の中には意外と呆気にとられるかもしれないアンビエンスで幕開ける。正に楽曲タイトルを想起させ、壮大な空間を演出するストリングスを用いた美しい情景。ピアノが齎すセンシティヴでしっとりとした音が寄り添いながら、確実に生命の息吹を感じさせ原始的とすら感覚出来る時間。やがてピアノの独奏が中盤支配しこれからの暗黒展開を予見させるかの如く冷ややかな空気が張り詰め、その予感が的中。後半一転してへヴィなギターが畳み掛けてドローン・メタルな展開へと派生するが、冒頭のアンビエント・パートで披露した美麗な旋律は輪郭を暈したまま引き継いでいる。決して安らかなる幻想のみで終わることのない厳格な超自然を感覚させられ、悲哀を帯びた厳しさにただ蹲るだろう。"叙情的な"という形容もシチュエーション次第で当て嵌まるかも知れないが、この音楽そのものに「"都合の良い"物語性」は感じられない。荘厳なフィードバック・ノイズの中で舞うオペラ・ヴォイスや、鳴りやまぬ鍵盤の高らかな響きは、ドゥームやドローン、ノイズ音楽と称される類として聴けばメロディアスな要素を多分に含んでいて、ノンビートものはちょっと苦手という食わず嫌いなリスナーにも体感して欲しい。

 2曲目「Land」は、1曲目「sea」の録音時に使用した膨大な素材を元にメルツバウが自身のノイズを交えてミキシングした楽曲で、「sea」とは対照的に現代音楽のアプローチをもって心身に沁み込んで来る。ギシギシと軋む狂気を孕んだ抽象的なコラージュに脳内がジワジワと冒されて...やがて気が付くのは冒頭の「sea」と同じく2部構成というデジャヴ。後半はギターの轟音がドゥーミーに沈み、散り散りになった細かいノイズの欠片と共に夢の底へと堕ちていく...。ブラックメタルの持つダークネスは確りとルーツの一部として抱き、上っ面の流行やシーンとは一切迎合しない独自の姿勢と同時に、普遍的な美を追求した音楽を作り上げようとする志が窺えるからこそ目指している高みが他とは違うのだろうと感覚出来るのだ。メルツバウやアシッド・マザーズ・テンプルなど、数々のアンダーグラウンドシーンに於ける重要アーティストのリリースを引き受けるアメリカのImportantから全世界への発信となる今作。勿論世界での反応も気になる所だが、こういう問題作(話題性が強いという意味でも)になるべき作品を先ず日本国内がどういうリアクションを返すのだろう?という試金石でもあると感じる。つまりは、非常に素晴らしい作品を前にして真摯に受け入れられる"シーン"であるかどうか。

「よう考えたら最近居らんで、こんなマジなん」という自分のファースト・インプレッションは4回リピートした後の今も変わる事はない。今後の活動も益々精力的な大所帯な彼らは最早、数々の大物との共演を重ねた過去を武器にせずとも十二分に飛躍してみせるに違いない。ポストロックやシューゲイザ―ともリンクするサウンドは更に確信を突き、これを「マニアック」だなんて片付けていては、いよいよ日本も終わりだろう。

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 Humming Conchや12Kあたりのドローン系のレーベルからアルバムをリリースしているトーマス・フィリップスと、京都のアーティスト、マリヒコ・ハラによる共作。アンビエントでエクスペリメンタルでポスト・クラシカル的である――と、音楽性の説明こそ簡単だが、このアルバムの今にも掻き消されそうなほどに淡い旋律は、上記3つの音楽性が絶妙に織り交ぜられており、一言では言い表せない。
 
 ドローン、アンビエント、環境音が仄かに散りばめられつつ、長く響くピアノの音が印象的。限りなく静寂に近い音楽であり、しっとりしたピアノやドローンには主張性が全くなく、鍵盤に触れる音さえ聴こえてきそうなデリケートさである。2008年から制作をスタートさせたそうだが、変な話、音数と日数を対比して考えてみると、一つ一つの音に何日もの濃密な歳月を費やしていることになりかねない。かといって、本盤にそういった責任臭さや説得力といったものはない。あたかも数カ月で作成しているような、良い意味での軽やかさがある。
 
 ついでに本盤がリリースされたtenchというレーベルにも軽く触れておくと、tenchはWords On Musicの姉妹レーベルにあたり、ボルチモアに拠点を置く。本盤がレーベルからの2枚目のリリースとなる。いずれもHome Normalや12Kらの路線と同様でありつつ、美しさを避け、より穏やかな方面へ向かっている印象がある。

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