reviews: September 2010アーカイブ

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Superchunk.jpg なんて真っ直ぐでブレや曇りの無い音なのだろう。本格的な再始動の口火を切ったた昨年のEP「Leaves in the Gutter」、そして感動的だった昨年末の来日公演、それぞれで共通して感じたのは彼らの音楽に対する変わらぬ熱量だったのだが、実に9年振りのフル・アルバムとなる本作ではそれがさらに濃縮され、一気に解放されたような爽快感を感じる。

 アルバム冒頭の先行シングル「Digging for Something」からほぼ全編に渡って疾走感のある、彼らならではの印象的なギターリフが散りばめられた楽曲が並んでおり、全体的なイメージはパンク色の強いマタドール在籍時代の初期の作品に近いのだが、ストリングスやホーンを取り入れたアレンジやコーラスワーク、すぐに口ずさみたくなるようなキャッチー、かつ泣きのメロディラインなど90年代後半以降の作品にある要素も随所に見られる。どこを取っても聞き覚えのあるスーパーチャンクのサウンドなのだが、初期のエネルギッシュな勢いと熟成されたサウンドの融合が実現している本作は不思議なくらい新鮮に響いてくる。これはもうスーパーチャンク・サウンドの完成形と言ってしまっていいのではないだろうか。

 アルバム最終曲(日本盤は別途ボーナストラック収録)「Everything at Once」でマックはこんな風に歌っている(※僕の個人的な見解も入った意訳です)。「これはあることないこと全て一緒くたになった歌だ。フィードバックやドラム、それらのノイズを感じることで全てが一つになる」。この曲の歌詞がこのアルバムの素晴らしさを表現しているように感じる。彼ら4人が集まり、一斉にノイズを奏でるだけ。単純なことだが、そこから生まれる音楽のマジックを彼らは本作で証明してくれている。メンバー自身も本作の出来に自信を持っているようで、マックからは早くも次回作の製作に関するコメントも出てきている。今後の彼らのさらなる活躍に期待大。

(川名大介)

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goro_ito.jpg 自宅録音="宅録"の匂いを持つ作品がとても好きだ。例えばポール・マッカートニーの初ソロ作『マッカートニー』や、細野晴臣の初ソロ作『HOSONO HOUSE』、エミット・ローズによる同名のファースト・アルバムに、中村一義『金字塔』、それからトッド・ラングレンの『サムシング/エニシング?』やレニー・クラヴィッツ『レット・ラヴ・ルール』、ベニー・シングス『ベニー・アット・ホーム』に、R.スティーヴィー・ムーア『Phonography』等々、それこそ数え上げたらキリがない。いわゆるプロ・ユースの大きなスタジオを使わず、ベッドルームの傍らでカセットMTR(さすがに今はラップトップが主流だが)を駆使しながら、作詞・作曲はもちろん全ての楽器を自分で演奏しつつ、エンジニアリングやミキシングまで自前で行なった、そんなアルバムにたまらなく惹かれてしまう。もちろん、上記の作品の全てがそのような手法で完成されたというわけではないのだが、どのアルバムにも共通して流れているのは、まるでアーティスト本人から個人的な手紙をもらったような、親密でパーソナルな空気である。そして、伊藤ゴロー名義での初のソロ・アルバム(サウンド・トラックは除く)となる本作にもまた、そのような空気が濃密に流れているのだ。

 伊藤ゴローという名前に聞き覚えがなくても、ナオミ&ゴローの"ゴローさん"と言えばピンと来る人は多いかも知れない。そう、彼は「世界的に見ても、今、最もジョアン・ジルベルト直系のサウンド」と絶賛されるボサ・ノヴァ・デュオのギタリストであり、これまでにMoose Hill名義で2枚のアルバムをリリース、World Standardこと鈴木惣一朗やKAMA AINAこと青柳拓次、高田漣といった名うての音楽家から熱烈なラヴ・コールを受けて、様々なコラボレート・アルバムを作り上げてきた日本屈指のミュージシャン/コンポーザーである。またプロデューサーとしても、原田知世やtico moonのアルバムを手がけ、原田郁子への楽曲提供(「鳥の羽、鳥の影」)や映画『雪に願うこと』(根岸吉太郎・監督作品)の音楽担当など様々な分野で活躍しているので、彼の音楽を一度はどこかで耳にした人もきっと多いはずだ。筆者が彼の音楽に初めて触れたのは、2001年にリリースされたMoose Hill名義のファースト・アルバム『wolf songs』だったのだが、ほぼ全編アコギによるシンプルなインストゥルメンタル・アルバムでありながら、豊潤で濃厚な彼の音楽性にすっかり魅了されてしまい、以降の作品はことあるごとに追い掛けてきた。そんな熱心なファンにとって本作は、まさに「待ちに待ったアルバム」なのである。

 まず驚くのは、アルバム全編にわたって伊藤本人がヴォーカルを取っていること。それもナオミ&ゴローのときのように、ヴォーカリスト布施尚美の後ろでウィスパー・ヴォイスを聴かせているのとは訳が違う。まるで1つ1つの言葉を確かめるような誠実で繊細な歌い方は、例えばショーン・レノンやエリオット・スミス、ギルバート・オサリバンそして初期のハリー・ニルソン辺りを彷彿させる。また、転調を繰り返すヒネリの効いたコード進行や、ポップで洒脱なメロディ・ラインからは、レノン=マッカートニーへの強い憧憬が伺える(「ボサ・ノヴァのギタリスト」というイメージを強く持っている人は意外に思うかも知れないが、彼は熱心なビートルズ・ファンでもあるのだ)。中でも冒頭曲「Happiness」や「Down In The Valley」における、メジャー・コードとマイナー・コードを行ったり来たりしながらふわふわと彷徨うメロディ・ラインは絶品。シンプルで室内楽的なバンド・サウンドも、本作の色合いを決定付けている。

 日本とロンドンで録音が行なわれ、高橋幸宏やショーン・オヘイガン(ハイ・ラマズ)、ビョークのエンジニアとして知られるヴァルゲイル・シガードソンら多彩なゲストが参加した本作。しかし冒頭で述べたように、決してゴージャスなアルバムではなくて、"宅録的"とも言えるような親密でパーソナルな空気が流れている。例えば『Cloud Happiness』というタイトルからは、大きくて広い空を独りぼっちで漂い続ける雲を連想させる。満ち足りているが、同時に深い孤独を抱えているような。それは、このアルバムが持つハッピー・サッドな雰囲気や、開かれていながらも緻密で箱庭的な世界観を見事に象徴しているのだ。

(黒田隆憲)

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charlatans.jpg 僕は新しいものが大好きで、レコードショップに足を運んでは、面白そうなレコードを掘っている。その一部をクッキーシーンでレヴューさせてもらったりしてるけど、今回はシャーラタンズ。僕はシャーラタンズを熱心に聴き込んでいるわけじゃないけど、新作『Who We Touch』は凄く良い。シャーラタンズは言わずと知れた、マッドチェスターによって出てきたバンド。一応僕自身親父とお袋の影響で、マッドチェスターはギリギリ、リアルタイムで体験している(といっても、2歳か3歳くらいだったんで、当時の記憶としてはほとんど覚えてないけど)。それでも、808ステイトとか、ア・ガイ・コールド・ジェラルドにジェイムス、少し遡ってストーン・ローゼズとかは覚えている。嫌と言うほど聞かされたから。しかしなぜかシャーラタンズだけは記憶になく、僕がシャーラタンズの存在を知ったのは、ケミカル・ブラザーズ『さらばダスト惑星』でティムの声を聴いたのがきっかけ。そこから『Between 10th And 11th』を聴いたりして、好きになっていったんだけど、初期のアルバム以外は、友達にアルバムを借りて聴くくらいだった。

 だけど、『Who We Touch』を聴いてから、今更ながらシャーラタンズにハマってしまった。まず、『Who We Touch』に漲るピュアな空気と音楽に驚かされる。ティムのヴォーカルもそうだけど、これおっさんに出せるようなアルバムではないよ。全体的にサイケ色が強くて、すべての音が、煌びやかな輝きを放っている。ティムのヴォーカルは、すごく若々しいんだけど、「Your Pure Soul」などで覗かせる大人の色気にはドキッとする。かと思えば、「Love Is Ending」のような、荒々しい曲もある。僕が好きな、シャーラタンズ特有のうねるグルーヴもあるし、はっきり言って、ツボしかありません。なぜシャーラタンズが、長く活動していながら、ここまでの新鮮さや瑞々しさを保っていられるのか? それは過去のアルバムを聴き返して分かったんだけど、シャーラタンズのアルバムには、同じものがひとつとしてない。常に変化を求めて音楽を作っている。人間生きていれば変化するのは当たり前だけど、自分で変化する方向を定めて、その変化を、ちゃんとアルバムに良い形で反映させるのは、よほどのタフネスがなければできないことだ。

『Who We Touch』には、そんなシャーラタンズの力強い足跡が刻まれている。僕はストーン・ローゼズの太く短い偉大なる伝説に惹かれるし、実際ローゼズが大好きなんだけど、シャーラタンズの怠惰に陥らずに一歩ずつ歩き続ける姿に惹かれたりもする。マニックスの新譜もそうだったけど、僕より上の世代が、シニシズムに走らず、愚直なまでに前身する姿。僕も見習わなきゃいけないかも。「世界は複雑だから」という言葉が、ある種の言い訳として作用し始めている今、シャーラタンズのように(それからマニックスのように)、理屈ではなく、シンプルな気持ちで生きていくやり方というのが、カウンターとして機能しているのが面白く感じる。「シャーラタンズが生きていける世界は、もしかしたらまだまだ悪くないのかも知れない」。アルバムで鳴っている音とは裏腹に、そんなちょっとした希望が宿っている、熱いアルバム。それが『Who We Touch』。

(近藤真弥)

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hanne_vatnoey.jpg 僕がポップに何より期待するのは先行きの見えなさ、突飛な行動や展開、スキャンダラスなざわめきとそれに付随する甘美なメロディ。華々しい旋律が浮き沈みの激しい物語に拍車をかけ、現実から聴き手を浮遊させる。いい意味で何度でも期待を裏切ってほしい。振り回してほしい。振り回されたい。その先に発見があり、自分の知らない世界に気づかされる。それくらいパワフルでなければ深いお付き合いなんて出来やしない。人生は短いし、残念だけど手持ちは少ない。せめてレコードを手にするときくらい、いつだって違う景色を見せてほしい。

 キングス・オブ・コンビニエンスやロイクソップなども輩出したノルウェーの都市、ベルゲン出身の新進SSWハンネ・ヴァトネ(Hanne Vatnoey)のデヴュー作は、そんなワガママな期待に120パーセント応えてくれる最高のポップ・アルバムとなっている。音楽ジャンルの狭い垣根を軽々飛び越え、アートワークどおりのガーリーな魅力を内包した、終着点の遠く見えないジェットコースターに乗ってしまったかのような51分弱の(まさしく)マジカル・ミステリー・ツアー。めまぐるしく変わる曲展開と彼女のスウィートな歌声に一発で虜になってしまう。

 11歳で作曲を始め、一度は映像作家を志したというハンネ。両親から最愛の友となるピアノを与えてもらい、歌うことの悦びに目覚めつつも、それから26歳となった彼女はどうもあんまり素直には育ってくれなかったようだ。冒頭の楽曲「Hello」で"ABCすら間違えるおバカな女の子"と自嘲ぎみに歌い、メルヘンチックなオーケストラル・アレンジとともに"言いたいことがあるの、いっしょにいて"と続ける様はたまらず可愛い。イジワルな笑顔を浮かべながら、やさしく腕まで組んでくれそうな人懐っこさとサービス精神も彼女は備えている。とはいえ、ここまでなら(バイオグラフィーも込みで)よくあるSSW作品。彼女の天才っぷりは2曲目から全開となり、そこからは独壇場となる。

 ハンネの妄想世界を好サポートしているのはKato adland。ジャズ・ヴォーカルやパンクなどスタイルの試行錯誤を重ね、やや迷走状態にあった若き俊才ソンドレ・ラルケが一気に突き抜けて天性のポップ・センスを開化させた『Heartbeat Radio』(個人的にも昨年のベスト作!)をはじめ、ノルウェーのインディー・シーンで大活躍している名プロデューサーであり、自身もMajor Seven and the Minorsという名義で活動している人物だ。セルジュ・ゲンスブールを露骨にパロった「Histoire de Melody Olsen」なんて曲を作ったり、自分のアルバムに『Music to Watch Nerds By』なんて名前をつけたりする(内容のほうもタイトルを一ミリも裏切ってない)、ラウンジ・ポップもエレクトロニカもハード・ロックもなんでもこなすジャンル横断型のポップ狂でもある彼は、ヒネくれた妄想を次から次へと膨らますハンネのファンタジーを具現化するため、様々なエッセンスを楽曲に注ぎ込み、『Me And My Piano』というタイトルからもついつい連想しがちな凡百のピアノ・ポップと大きくかけ離れた夢の音世界を作り上げている。

 ミュージカルのプレリュードを思わせるズンタタと鳴る重いリズムから、ストリングスの美しい響きとバリトン・サックスの咽びが楽曲を飛翔させていき、次々と転調を繰り返す「Running Guy」(歌詞中の"Melancholy and Joy"というシンプルなフレーズ、この作品のすべてを表している!)、フルートとグロッケンのやさしい感触から、シンクロナイズされた電子音とトランペットで飾られたファンファーレが鳴り響く「Boo Boo」、80'sシンセ・ポップを思わせる加工された爽やかなオブスキュア・ヴォイスが印象的なイントロからは到底予測しえない終盤の狂想曲っぷりが印象的な、タイトルどおり少女の頭のなかで巻き起こる混乱について歌った「In My Head」など、怒涛のポップ・チューンが一気に続く。

 東京駅でフィールド・レコーディングされた構内アナウンスのざわめきとともに、甘えん坊のように歌うキャッチーな「Take Me To Tokyo」では曲間に8-bit的なシンセまで鳴り響く(そのTokyoへのわかりやすいイメージ、好き)。遊び心満載な"ひっくり返したおもちゃ箱"ソング「Oh La La」ではブリープ・シンセとマリンバがブギーをかまし、「Hasta La Vista」ではフラメンコのリズムまで飛び出し、一気に駆け抜ける。ここまでやりたい放題だと実に痛快だが、「The Green Door」やタイトル曲の「Me And My Piano」では、ピアノ・ポップのマナーに忠実に、軽やかな指運びで鍵盤を弾き、ジャジーでしっとりと歌声を聴かせる。ハスキーな声は表現力に満ち満ちている。

『Me And My Piano』はプログレ的な工夫と芳醇で才気走ったメロディ、何よりハンネがもつ茶目っけタップリな少女性と、複雑な要素をサラっと聴かせる類まれなセンスが存分につまった、本当にカラフルでグルーヴィーなアルバムだ。ハンネ自身もフェイバリットに挙げているノラ・ジョーンズとケイト・ブッシュがそれぞれ持つ魅力の両方を兼ね備え、チルディッシュ風味のエレクトロニカと小洒落たジャズ感覚、端正ながらぶっ飛んだアレンジ...といった、いかにも北欧的なセンスも存分にまぶされたこの作品は、カジュアルに音楽と暮らしたい女の子から口うるさい玄人音楽ファンのオジサマまで、幅広く訴えかける求心力とスケール感をもっている。こんなに素晴らしいノルウェーからの届け物がどこよりも早く日本でリリースされているのは喜ばしいことだし、11月にはベストのタイミングで来日公演も決まっている。うーん。泣きたいくらい嬉しい。自分のためにオーダーメイドしてくれたんじゃないかと言いたくなるような作品だから。最高のポップはいつだって巡り会うたびそんな錯覚を引き起こしてきた。聴いてもらえばきっと、あなたもそう思ってくれるだろう。

(小熊俊哉)

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negoto.jpg やっと日本から、こういうバンドが出てきた。今の若者って物事をシニカルな目線、シニシズムなスタンスで構えている人が多いように思う。それはそれで面白いことも起こりえるし、ひとつの観点としてはありだけど、今の日本では、そのシニシズムが「世界は良くならないけど、その世界で精一杯生きていくんだ」というところで止まってしまっているように見える。だから街を歩くと、停滞感にも似た、どんよりとした空気を感じるのかなと、個人的には思う。

 すべての曲で歌詞を書いている蒼山幸子の歌詞世界も("NO"と"夕日"では、それぞれベースの藤咲佑と、ギターの沙田瑞紀もクレジットされている)、現代の若者らしいシニシズムというのが垣間見えるが、それが内省的な方向ではなく、ちゃんと外に、ポジティブなエネルギーとして放出されているのが素晴らしい。若者特有の怖いもの知らずな勇気がそうさせているのかは分からないけど、とにかく前を向いて走り抜くような疾走感は、聴く者に爽やかな空気をもたらしてくれる。だけど、そんな爽やかさに対する影のように、「透き通る衝動」や「NO」という曲も存在している。これらの曲に潜む「危うさ」が、僕がねごとに興味を持ったキッカケでもある。それと、「ループ」の歌詞ってどう読んでもトリップについて歌っているように聞こえてしまう。まあ、それは僕の馬鹿な想像がそうさせるだけなのかも知れないが。「ワンダーワールド」のような遊び心も面白いけど、「夕日」をなぜ英語で歌ってしまったのか? 正直、英語で歌う蒼山幸子の声は微妙です。

 音は、スーパーカーやナンバーガールにソニック・ユースなど、本人達も好きと公言しているバンド達の影響が強い。正統派のギター・ロックを基本として、シューゲイザーに『GOO』期のソニック・ユース、浮遊感のあるエレ・ポップなど、鳴らしている音楽から察するに、音楽的教養なんかも高い気がする。しかも、年齢のわりにライブなどの場数も多く踏んでるから、サウンドがタフで、力強さがある。藤咲佑と澤村小夜子のリズム隊が鳴らす土台が安定感抜群。特に、藤咲佑が鳴らす存在感溢れるベースは、ねごとのグルーヴの中枢と言ってもいい。収録されている曲のほとんどが、ライヴで何度も演奏されている曲だということもあるんだろうけど、メンバー全員演奏能力は高いし、この先どんどん幅広い音楽性を見せてくれることを期待させてくれる。そんな輝かしいモラトリアムが、アルバム全体を覆っている。

 たぶんアイドル的なガールズ・バンドとして見られるだろうし、「全員平成生まれ」とか、そんなどうでもいい謳い文句も手伝って、しばらくはいろんな色眼鏡と戦うことになるかも知れないけど、ねごとは大丈夫だと思う。だって、彼女達は「生きている」から。彼女達は、日本では数少ないロックンロールの「ロール」ができるバンドだ。少なくとも、それができる大きな可能性が、「Hello!"Z"」には詰まってる。眩し過ぎて、聴くのにサングラスが必要かも知れない。瑞々しい輝きに満ちたミニアルバムだ。

(近藤真弥)

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parachute_musical.jpg 僕にとってポップ・ミュージックとは一回聴いただけで耳にぽーんとポップに入ってくるものである。いわばレコ屋の試聴機で聴いた途端、条件反射的にレジに持っていってしまう音楽のことなのだ。いやいや、音楽は聴くたびに新たな発見があるのだから何度も聴くべきだ、という言い分もよく分かるのだけど、何かを発見する目的で何度も聴くわけではないからなあ...。発見とは「結果的に」生じるものなんだから。

 その文脈において、コールドプレイやクイーンと比較されることもあるナッシュヴィルを中心に活動する4人組のピアノ・ロック・バンド、パラシュート・ミュージカルの音楽は、まさにぽーんと耳に入ってくる。なんだかそういうバンドが最近減った気がするのだ。ポップ・ミュージックは眉間にしわを寄せて聴くものではなくて、あくまでも大衆娯楽であるべき。ピアノの室内音楽的な響きを大切にし、クラシック音楽の要素を取り入れつつも、そこにラテンやジャズ、ロックを取り入れる音楽性は大胆不敵。音楽はエンターテイメントであるべきというメンタリティがある。
 
 彼らの国内盤デビューとなる本作は、08年リリースの『Everything is Working Out Fine In Some Town』に2010年リリースの最新シングル「No Confort」をプラスした日本オリジナル仕様。ナッシュヴィルの人気プロデューサー、デレク・ガーテンによるもの。流暢なピアノの音色と対比してエモーショナルなヴォーカルが活きている。時に叫び、時に泣いているような歌声は、わざとらしい衝動性がなく、自然と滲み出てしまった衝動の温度差が楽曲に色彩の豊かさを与え、ただのピアノ・ロックと表するのは勿体無い。衝動とは、衝動を出すぞと意気込んだ時点でフェイクになるのだから、自然と滲み出るものでなくてはならない。もはやギターを叩き割る行為が擬似衝動的なパフォーマンスと化していると感じる僕だが、本作にはパフォーマンスとしての衝動はないのである。加えるに、ヴォーカルはエモーショナルでありながらも跳ねるパーカッションやコーラスが茶目っ気たっぷり。かつ、足音や人の喋り声もサンプリングする。そんな茶目っ気がエンターテイメントの色を濃くしている。アルバム通してひとつの劇を観ているよう。ロック・オペラ的な側面も持っている。
 
 とにもかくにも、本作の良さはポップ感と衝動性だ。ピアノを打楽器として叩きつけるように弾き、衝動を表すバンドは多くいるが、パラシュート・ミュージカルは違う。綺麗にピアノを弾きながら叫ぶ姿は、人間が持つ二面性を、ピアノとシャウト、という二面性で提示する。流暢なピアノによる穏やかな感情とシャウトが持つやりきれない感情。その相反する感情を同時に出しているところにこの音楽の良さがある。そしてそれが、自然と滲み出てしまっているところが良いのである。

 当然ながら音楽とは何かを表現するものだ。技巧に長けていながらも、人間性を表現している本作にグッと惹かれた。このバンドはピアノ・ロックと表されるが、音楽を聴く際、僕らはジャンルを聴いているのではなく人間性を聴いている。とどのつまり、人間の可能性を聴いている。その可能性は無限であり、広がっていく。だが、ピアノ・ロックというジャンル名は無限ではなく、広がらない。人間はカテゴライズできないのだと訴える本作は、音と聴き手の関係性もまた無限であることを示す。あくまでもポップに。

(田中喬史)

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spitz.jpg「コンスタンティン・ツィオルスキーが宇宙時代のマルクスとしたら、ヴェルナー・フォン・ブラウンとロバート・ゴダードはレーニンとエンゲルス、アーサー・クラークはトロツキーではないか」という例えをしていたある作家の言葉があって、トロツキーが無性に読みたくなって、書店に行くと、光文社の新訳文庫で、「永続革命論」が出ていた。

 ここでのレーニンとの意見の対立を経ての、スターリンの粛清を受けるというのは「革命論」として現代的には「興味深い」ながら、トロツキニストの真価はこれから発揮されるのだろう、とも思った。それを読みながら、同時に頭に浮かんだのはキャリアとしては、20年を越えるバンドがいまだにストレートなギターロックで「恋する凡人」と自己卑下的な視線で疾走しながらも、「これ以上は歌詞にできない」ことを「歌詞」で綴るスピッツというバンドは何なのだろうか、ということだった。

「理論」としての、トロツキーはとても「一つの絵画を見る」ように美しい。しかし、それが「行動」に移される真際、破綻を来たす。学生運動が華やかなりし頃の「当時の青年たち」の内、スターリンを心酔していた人は結構偉くなっていったり、大企業の中枢とかインテリゲンツァ的なポジションでひっそりと「存在する」が、はて、トロツキーを読んでいた人たちは「何処へ」向かったのだろう。

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「メンシェビキ(少数派)」の意味を考えていたら、如何に今が不毛な時代なのか、ミスチルがツアーを行なう際にドームを常にフルハウスにする時代に、敢えてと言うより、当たり前にライヴ・ハウスを巡るスピッツは既に「大きいバンド」だが、「メンシェビキの為の集会」を設定する意図が明確にある。マルクスやドストエフスキーが「再評価」される世の中はとても味気なく、「日常のロマンティシズム」に埋もれている時間があるならば、「ロマンティシズムとしての日常」を箱庭化してしまえばいいだろうに。「拡大された装置」に乗る為に音楽は「誰も」に開かれている訳でもない。

 1995年の巷間的なブレイク曲「ロビンソン」でスピッツは「誰も触れない二人だけの国」を創出したが、それは今で言う「オタク」的な意味なものではなく、「Sandplay Therapy(箱庭療法)」的な配置を意図した。庭の「枠」があるために、箱庭による自己表現が可能であり、セラピー的効果があることで、鋭角的に表現を出来る、ということだ。当時はミスターチルドレン、ザ・イエローモンキー、L⇔R、ウルフルズなどと「J-」の枠の中で括られ、今で当てはまるとしたならば、彼等は草食系、または文科系のリスナーを陶然とさせていた。小室系やJ-POPの邦楽バブルのブレイク後の渾沌の中で、ミスターチルドレンがロックと殉教するように『深海』に潜っている間、"逆風に向かい 手を広げて 壊れてみよう 僕達は希望のクズだから"(「インディゴ地平線」)と彼等もブレイク後のヘビーな環境変化に対峙しながら、藻掻いていたが、全く「位相」が違った。それは現在、ミスターチルドレンが主体になる「ap bank」というフェスティヴァルと、スピッツが軸になる「ロックロックこんにちは!」というイベントくらいの幅で。

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 少し説明しておこう。「ロックロックこんにちは!」とは、都度、スピッツがメインを取り、彼等自身が興味深いアーティストやバンド、仲の良い人たちを招聘することが多いイベントだが、記念的なものを含めてほぼライヴ・ハウスでしか行なわれない。場所は仙台と大阪。今年は、仙台は「ロックのほそみち」と名前を変え、東京でも「新木場サンセット」という形で展開されていたが、これも「ロックロックこんにちは!」との連関性と見ればいいだろう。

 過去には、くるり、クラムボン、POLYSICS、GRAPEVINE、奥田民生、syrup16g、ORANGE RANGE、フジファブリック、いきものがかり、サンボマスター、ザ・ボウディーズなどなど多岐に渡るメンツが揃うが、何処となく「馴れ合い」的な意味を避けるようなオルタナティヴ性の強いフックアップを行なっている。僕もこのイベントは何度も足を運んだが、印象深かったのは2006年の大阪でのイベントの10年目を祝っての野外での大規模な形のものだった。奥田民生、KRAVA、ジェイク・シマブクロ、真心ブラザーズ、吉井和哉、レミオロメン、そして、ミスターチルドレンといったビッグ・ネームがサラッと並んでいたが、それぞれがスピッツという存在へ独自のリスペクトを見せながらも、フラットなライヴを行ない、トリをおさめたスピッツもあくまで自然体で気負いのないパフォーマンスを行なった。しかし、完全に「装置」的になってから以降のミスターチルドレンがあれだけ、何かしらの「アウェイ性」を持っていたライヴというのは初めて体験したかもしれない。スピッツはやはり「代案(オルタナティヴ)」であり、彼等は「本案」が故に、受けて側はその時は「代案」を求めていたのだった。

「代案」としての彼等の歴史の紆余曲折はあまりに長く、纏めるには個々の作品論、「本案」としてのシーンを見渡さないといけないが、イベントやフェス以外でアリーナ公演を単独ですることをしなかった彼等が2009年にさいたまスーパーアリーナと大阪城ホールで行なったのも、その06年のイベントと同じく意義深かった。このアリーナ公演では、当時の新作『さざなみCD』から主に、「チェリー」、「ロビンソン」といったヒット曲を挟みながら、ふとオルタナティヴ期の1992年の『惑星のかけら』の「ハニーハニー」をやり、シングルとしても独特な立ち位置にある「渚」などかなりアグレッシヴな部分も伺えた。

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 そして、この2010年に彼等は独自の「けもの道」を設定した。

 基本、アーティスト、バンドとしてのルーティン的な流れの、シングルやアルバムを出して、プロモーションをして、ライヴを行なうという行為を対象化して、新曲群も入れながら、ツアーを行ない、その最後にアルバムを出すという表明をしたのだ。案の定、ツアーは「その時点では、まだ名前さえもついていない新曲」が披露されたり、と、かなりファンの間でも話題になったようだが、今年の6月リリース「つぐみ」というシングルでは、次のアルバムでもスタジオ・ヴァージョンで入る「恋する凡人」という新曲のライヴ・テイクが敢えて収められていたり、試行の痕が垣間見えた。

 近年、どうにも大型のタイアップと彼等自身が担うイメージの問題もあったのか、「魔法のコトバ」辺りからA面サイドに当たるシングルが以前に無い生温さとポップ過ぎる部分にもどかしさをおぼえていた層からすると、そのシングルのカップリング、2曲目に収められる曲の実験的な部分を感受する事で、溜飲を下げるしかなかったのは正直、否めないだろう。何故なら、以前、ブレイク後でしっかりと固定的なファンの母体もある中で、正々堂々と「メモリーズ/放浪カモメはどこまでも」というオルタナティヴなシングルをメインストリームへ提出していたバンドだったのだから。殊更、「メモリーズ」ではあの鼻にかかるような透明感のある草野氏のボーカルは完全に加工されていた。

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 元々からして、アート・スクールの学生の延長線的な佇まいでシュールレアリスムのような世界観を、多大に影響の受けたザ・ブルーハーツ的パンク精神で貫くというモードで始まったバンドであり、初期の頃の草野氏の歌詞にはアンドレ・ブルトンの詩のような「死的な何か」が充溢していて、ベーシックな部分では相変わらず「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いの美しさ」をリプレゼントしてきた。それを、ベースの田村氏、ギターの三輪氏、ドラムの崎山氏との4ピースのスタイルで、バンドとしての一体感を持って、ロックを続けてきた過程は今も基本、変わらない。サポートは入っても、スピッツは4人で「成立」する。

 今回のツアーでは「初恋クレイジー」や「愛のことば」といった旧曲のチョイスもかなりエッジが入ったモードに入っている事が伺えたが、新しいシングルの「シロクマ/ビギナー」はなかなか面白い内容になっている。「シロクマ」はアコースティックな質感と抜けの良さ、爽やかなポップ・チューンでその中でふと「地平線を知りたくて ゴミ山登る」という草野氏独特の歌詞が挟まれるという「らしい」曲になっており、両サイドA面になる一方の「ビギナー」はスケールの大きいメロディーの「立ったサビ」での高揚含めて「手続きを取り易い」スピッツのバンド・サウンドの色が強く出た、近年のA面曲に相応しいクオリティになっている。

 そして、これは触れておかないといけないだろう。今回のシングルではこの2曲以外に、ライヴ・テイクが入っている。1曲が「シロクマ」、更にもう1曲が「ナイフ」なのだ。

「ナイフ」とは、1992年のミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』というオーケストレーションを大胆に取り入れた実験的な作品に収録されていた。原曲自体も浮遊感溢れるアレンジの中で「3月の君のバースデイには ハンティングナイフのごついやつをあげる」という草野氏のシュールな歌詞が活きている佳曲だ。この「ナイフ」のライヴ・テイクがまた素晴らしい。危うさと程遠い程の長いキャリアと重ね、確固たる地位を得ても、まだこの蜻蛉のような繊細さと無為性を醸し出すというのはなかなか出来ない、と思う。僕などはベタなので、咄嗟にアンドレ・ブルトンの「ナジャ」での「美は痙攣的なものであるにちがいなく、さもなくば存在さえしない」という言葉を想い出した。既にアナウンスをされており、リリースを控える今度のアルバムも楽しみだが、このシングルで正々堂々とCMで流れる曲と「ナイフを混ぜる」確信犯的な所がある限り、今のスピッツは非常に面白い立ち位置に居るのではないか、と思う。代案で埋め尽くされた世の瀬に「目を閉じて不完全な部屋に帰るよ」というスタンスには意味も強度も繋がりもない。ただ、「深度」がある。

(松浦達)

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calexico.jpg カリフォルニアとメキシコをマッシュアップした実在の町の名前を持つ2人組、キャレキシコ。オルタナ・カントリーの伝説的存在として20年近くに渡ってパンク、ガレージ・ロックにルーツ・ミュージックをミックスしたサウンドを鳴らし続けたジャイアント・サンドのメンバーが中心となって結成されてから10年以上がたつ。ジョーイ・バーンズ(ボーカル/マルチ・インストゥルメント)とジョン・コンヴァーティノ(ドラム)は、その名のとおり、アメリカとメキシコの音楽を様々なアプローチで混血させてきた。ブルース、カントリー、テックス・メックス、マリアッチ、そしてフォーク。「ルーツ・ミュージックや民族音楽は、ちょっと苦手だなぁ」という人も耳を傾けて欲しい。だって、このライブ・アルバムは無料でダウンロードできるんだから! ルーツ・ミュージックや民族音楽は、ストリートから生まれたサウンド。食わず嫌いはもったいない。身体に馴染むビートやメロディ、楽器の響きがきっと見つかるはず。

 キャレキシコは1st『Spoke』から現時点での最新作である6th『キャリード・トゥ・ダスト』までTouch & Go傘下のQuarterstick Recordsに在籍してきた。以前、僕が紹介させてもらったミ・アミは1stだけをこのレーベルからリリースして、2ndではThrill Jockeyに移籍していた。ということは、Touch & Goが閉鎖された今、キャレキシコはどのレーベルとも契約していないってこと? だからこのライブ・アルバムは「僕たち元気ですよ! ツアーに出ますよ!」って言う挨拶がわりなのかもしれない。バンドのウェブサイトには9月~10月のアーケイド・ファイアとのアメリカ/カナダツアーがしっかり告知されている。ひと安心。

 このアルバムは2009年にドイツのニュルンベルクで行われたライブをパッケージしたもの。バンドは中心となる2人にペダル・スティール、トランペットなどの奏者を加えた7人編成。観客との一体感や熱気を感じるというよりも、自分たちの音楽を真摯に演奏するバンドの姿が目に浮かぶようだ。全10曲中7曲が『キャリード・トゥ・ダスト』から。でもそのスタジオ盤に慣れた耳にも、この深さと広がりは新鮮で感動的だと思う。「Red Blooms」は、ディレイを駆使したポスト・ロック的な響きが強調されている。疾走感を増す後半でボブ・ディランの「シルヴィオ」が歌い込まれる「Victor Jara's Hands」も最高にカッコいい!ブルース・ハープとアコギ1本で、時にはバンドを従えてフォークからブルース、カントリーまで自由に歩き続けるディランの影がここまで届いていることにも納得だ。ディランの作品としては不遇の時代とも言える88年の『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』からのピック・アップっていうのも素敵。名曲だから。

 さあ、このリンク先へジャンプして、ダウンロードを始めよう。スティーブン・ソダーバーグの『トラフィック』やコーエン兄弟の『ノーカントリー』の世界へようこそ。不気味なほど澄み切った青空とハイウェイ、不法入国、麻薬の取り引き、砂ぼこりと熱い太陽、そして夜の闇。ワイルドなんだけれども、人々の目はどこか覚めている。キャレキシコの音楽が鳴り響くここではない、どこかへ。

(犬飼一郎)

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white_denim.jpg テキサス州オースティンの3人組、ホワイト・デニム。彼らのサウンドのベースになっているのは、初期ストロークスやホワイト・ストライプス譲りのガレージ・ロックだ。だが、そこにプログレ、ファンク、フォーク、カントリー、更にはソウルやダブの要素までブチ込む貪欲な雑食性で奇妙なサイケデリアを生み出している。もし、レッド・ツェッペリンがアメリカ中西部でトリップしたならこんなふうになっていたんだろうか?、と思わせるような突然変異種のバンドだ。

 そんな彼らは、08年にデビュー・アルバム『Workout Holiday』、09年にセカンド『Fits』をリリース。これまでは速いペースで、充実した作品を制作してきた。

 そして今年はというと、案の定新作が届けられた。しかも、フリーDLでの配布に踏み切っている。現在、バンドのオフィシャルHPにてこの音源は配布中。トップページに掲載されたコメントによれば、この作品はあくまでもオリジナル・アルバムではなく、次のアルバムが出るまでの間ファンに楽しんでもらうためのものだそう。肝心のアルバムは来年になるようだ。

 とはいえ、この『Last Day Of Summer』は手抜きのラフな作品なのかといえば、決してそうではない。前2作と比較して肩の力が抜けているような印象は確かにある。だが、その結果として、これまでの2作に漂っていたムサ苦しさや男臭さがぐっと軽減。その代わり、フックのあるヴォーカルの掛け合いや、トロピカルなビートなどが前面に出てきてぐっと聴きやすくなっている。楽曲のユニークさにおいても、ミニマルなリフを延々と繰り返すインストがあったり、うねうねと曲がりくねるメロディに曲の世界に引きずり込まれたり、はたまた曲によってはサックスを導入して新たなサウンドを模索している充実ぶりだ。『Last Day Of Summer』とのタイトルどおり、ぎらぎらと照りつける日差しが和らぎ、涼しさが姿を現そうとするひとときを切り取った、くらくらするようなサウンドスケープが広がる作品だ。

 全12曲、ポップにベクトルを向けた作風に、今後の期待が高まるばかり。この作品でまだ練習レベルなのだから、これから取り掛かるアルバムは素晴らしいものになるのだろう。この音源で多くの人がこのバンドの期待を共有して欲しいものだ。

(角田仁志)

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DCPRG.jpg 「人類の歴史は、自然の一部でありながら、自然を対象化するようになった生物の一つの種が、悲惨な試行錯誤をかさねながら、個人の一生においても、社会全体としても、叡智をつくして、つまり最も人工的に、みずからの意志で自然の理法にあらためて帰一する、その模索と努力の過程ではないかと思うことがある」
(『曠野から』中公文庫 31頁 川田順造)

 サブ・プライム、リーマン・ショック以降の金融危機が起こり始めた際、戦争が起こるのではないか、と考えた人もいたが、戦争で経済が良くなるには幾つもの条件付けが必要であり、昨今の戦争ではその便益も曖昧になってくるのはポール・ポーストの「戦争の経済学」に詳しい。「戦争」というのは政治的なツールとして使われ、時に国家間の軋みから個へと降りてゆく惨憺たるものでもあるが、経済的に捉える観点も時にドライに必要でもある。損得勘定で言えば、昔の戦争特需的なイメージは現代では抱かない方が良い。

 1999年のデート・コース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデン(DCPRG)結成における菊地成孔氏の筆による最初の企画書ではレナード・リュイン「アイアン・マウンテン報告」、モンティ・パイソン、マイルス・デイヴィスの『On The Corner』というモティーフを散りばめ、戦争に関する音楽としての意味付けをした。その「戦時下でのグルーヴ」は、妙なことに全く「ポストモダン」も何も分からないクラヴァーに受け入れられ、ROVO(彼らとはスプリット・シングルを出したりしていたが)や渋さ知らズ等の枠内に収められた。或る種の層からするとベタで苦々しさもおぼえるエレクトリック・マイルス時期の「そのままの音」とポリリズムを「敢えて」の表象の宛先不明性。また、それぞれのパートの微妙なタイムのズレをして、その「行間」でこそ観客を踊らせた様は、00年代は「敢えて‐」の時代に入ってゆくのだな、とライヴに足を運ぶ度に、感じた。

 大友良英氏が居た『REPORT FROM IRON MOUNTAIN』周辺の第一期は兎に角、菊地成孔氏のイメージするバブルな時期のディスコ的な「ミラーボール」を仮象化する事に傾心し過ぎていたところは否めない。その後もライヴでの定番となる「Hey Joe」や「Mirror Balls」はスタジオ録音では非常に無機的で表層的だったが、CDJを絡めての独自のファンクネス、ポリリズムによるバウンシーな「揺らぎ」は十二分にあった。ライヴで再構築される様は現場に居たら感得出来たが、その集大成として2003年のライヴ盤の『MUSICAL FROM CHAOS』にて十二分に確認は出来る。場所を変えて5テイク収められた「Catch22」、マイルス・デイヴィスの『Bitches Brew』の「Spanish Key」の丁寧なカバー。散逸するリズムと放り投げられる或る種のベタな渾沌。兎に角、菊地氏はこのDCPRGにおいては「渾沌」というモティーフを用いる。それが、彼の他の幅広い活動の中でも異例なくらいに、「憂鬱と官能」といったターム以上の「記号性」でもって、半ば「戦時下の為のダンス・ミュージック」という強引さで結びつけられる。大型フェスティバルから小さなライヴハウスまでを跨ぐ強引さで、兎に角、疾走(失踪)を試行した。

 以前、大阪でのトーク・ショーに足を運んだ折、「結婚以後のスラヴォイ・ジジェクに興味は無くなったのは何故ですか?」と質問を彼にしたことがあったが、その質問は僕自身が間違っていた事を今でも考え直す。ジジェクにおける「結婚」というタームの捉え方というよりも、一時期、「一番、インタビューしてみたい、話してみたい人はジジェク」と言っていた彼自身の問題として、アナモルフィック・リーディング的に捉える「べき」だと思ったのもあり、今回、DCPRGが3年振りに活動を再開するにあたって、「主体」自体は、実在の正の場を正の実体と誤って認識してしまうというものに対して「負」を仮置きして、その大きさによって捕捉される作用性自体を考えないといけない、と思ったのもある。

 00年代を猛スピードで駆け抜けた、菊地成孔という人の在り方は多かれ少なかれ皆が周知だろうし各々の感性の神話ベースに吸収され、本人自体が多くを語っているので詳細は割愛するが、「遅れてきたポストモダニスト」としてのその饒舌な語り口のトリックスター性は、スタティック(静的)なユースのイコンでもあったし、停滞を余儀なくされていた論壇界でも軽やかに風穴を空け、遂には大学といったアカデミックな場所にも求められる事になり、ハイブロウもサブ・カルチャーもモードも行き来しながら、兎に角、「今、何故にゴダールやマイルス・デイヴィスを語る必然性があるのか?」という疑念を持つ層さえ捩じ伏せ、「敢えて‐」のイズムを貫き通した。だからこそ、想像を絶するほどの批判や非難も受けただろうし、同族嫌悪のインテリゲンツァは無視することを決め込んだり、彼自身が予期設定した「戦場」ではあらゆる亡霊(revenant)が行き来していた。その意味で、第二期の始めとしての『Structure et force(構造と力)』はおそらく、そのマッシヴで好戦的な部分が最も現れた作品であり、実際のライヴで「structure I la structure de la magie moderne /構造I(現代呪術の構造)」などはイントロ部分で歓声があがり、一気にフロアーが沸いた。その沸き方の野暮ったさとリズムと踊りが噛み合わないギクシャクとした感じはDCPRG、もしくは菊地成孔氏自体を巡る磁場自体を巡る何かを孕んでもいた。ヘーゲル哲学がある種の人たちを「熱狂」させ、そうすることで、「本当」に大事な懐疑精神から目を背けさせてしまうかのような。

 07年の今のところ、スタジオ録音作品として最後になる、カフカの未完の作品である「アメリカ」をモティーフにした『Franz Kafka's Amerika』では遂に「踊ること」自体が困難な音像を生み出してしまい、「宛名のない手紙」が投函される形で、「役割を終えた」と活動の休止に至ったのは仕方なかった事なのかもしれない。オバマ前のマッドなアメリカを「夢想」する限界性はどう考えても、滞留を余儀なくされたからだ。

 そして、3年。ポスト・オバマの閉塞、ソブリン・リスク、チャイナVSアメリカ、オイル・マネー、日本という先進国の底抜け、と世界的な複合不況を引き寄せる要素とそこから派生する予期不安を刈り取る為に今、DCPRGという装置を推し進めようとするのか、それとも、完全なる戦時下においてのダンスを今こそ定義したいのか、明確な理由はまだはっきりとはしない。だが、「敢えて‐」で00年代をサヴァイヴした菊地成孔氏がもうそれでは無理だという「危機の数は13」とばかりに鎧を脱ぎ捨てての、再開なのか、今後の動向が気になると共に、ライヴ、ニューアルバムへの視座などどういう展開になるのか、1929年のニュールンベルグ党大会における、巨大出力PAスピーカーを埋め合わせる意図を孕むのか、米国国防総省(ペンタゴン)と英国王室庭園(ロイヤル・ガーデン)を目指す為のラングはあるのか、注視したい。

(松浦達)

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