reviews: August 2010アーカイブ

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kirinji.jpg 十二角形の意味を持つタイトルが掲げられた前々作『DODECAGON』では、打ち込みを多用し文字通り"角ばった"サウンドを聴かせていたキリンジ。前作『7-seven-』を経てリリースされた2年振りの新作『BUOYANCY』は、浮力や浮揚性の意味を持つタイトルが示すように、角が取れて丸みを帯びた物体が、あっちへプカプカ、こっちへプカプカと漂いながら、あらゆる要素を取り込みつつ大きくなっていくようなイメージだ。これまでの彼らのアルバムの中でも、最も振り切れた内容と言って良いだろう。
 
 基本的なサウンド・プロダクションは前作の延長上にある。『DODECAGON』でエレクトロニカ的手法にどっぷりと浸った彼らは、『7-seven-』で再び生楽器によるアンサンブルへと回帰しつつも、通常のアレンジを逸脱するような譜面を書くようになる。本作ではそれがさらに突き詰められ、月並みな言い方ではあるが「テクノ/エレクトロニカを通過した視点での、ポップ・ミュージックの再構築」がなされている。それは、先行配信されたシングル「セレーヌのセレナーデ」における幻想的なコーダ部分などを聴けば一目瞭然だ。また、バンジョーやブズーキ、スティールパンのような"背景の見えやすい楽器"を、敢えて背景から切り離して演奏する、ということをかなり意識的に行なっていることは特筆すべき。要するに、バンジョーをカントリー&ウェスタンっぽくなく弾くこと、スティールパンをカリブ音楽っぽくなく演奏することで、時空を超越した響きを生み出しているのだ。この話を彼らから聞いたとき、筆者が瞬時に思い出したのがハイ・ラマズだ。彼らもバンジョーやマリンバといった楽器を、背景から切り離して用いていた(そういえば彼らの98年のアルバム『Cold And Bouncy』のタイトル、本作にちょっと似ている気がする‥‥)。
 
 閑話休題。サウンド・プロダクションだけでなく、楽曲そのものも従来のキリンジ・サウンドとはかけ離れたものが多い。本作を作るにあたって兄の堀込高樹は、「これまでの自分の作曲スタイルを、出来るだけ打ち壊すよう心掛けた」と語っていた。確かに、彼の得意とする70年代後半のポップ・ミュージック的な楽曲は影を潜め、これまで聴いたことのなかったような楽曲が次々と登場する。中でもアルバム中盤に登場する「都市鉱山」は、もろ80年代ニュー・ウェーヴ・サウンド。イアン・カーティスやロバート・スミスを彷彿させるような、しゃくり上げるヴォーカル・スタイルにも高樹自らが果敢に(?)チャレンジしており、一瞬、「本当にこれがキリンジの曲?」と我が耳を疑ったほどだ。また弟の泰行も、レゲエとフォークロアを融合し歌謡曲風味に仕上げた「Round and Round」など新境地に到達。自らのソロ・プロジェクト、馬の骨での経験がフィードバックされた結果だろう。
 
 とはいえ、キリンジの持ち味であるメロディや和声の美しさは、どの曲にもしっかりとまぶしてある。先行シングルにもなった冒頭曲「夏の光」では、「牡牛座ラプソディ」や「アルカディア」「Drifter」といった名曲群に匹敵する美メロと、桜井芳樹(ロンサム・ストリングス)によるEBowギター+シンセ・ストリングスのウォール・オブ・サウンドが、聴き手に圧倒的な多幸感と高揚感をもたらす。
 
 おそらく、「キリンジ印」の楽曲を量産し続けたとしても、向こう10年は安定した地位を約束されているだろう。にも関わらず、自ら確立したスタイルを迷いなく打ち壊し、新たなスタイルをつかみ取ろうとするバイタリティは感動的ですらある。

(黒田隆憲)

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klaxons.jpg ちょー最高! このアルバムさえあれば無人島に島流しにされても構わない、というくらい最高。「これはリスナーの求めているクラクソンズのサウンドじゃない」というバンドとレーベル双方の判断で、一度は出来上がったセカンドもお蔵入り。程なくしてもうアルバムなんて作るクリエイティヴィティもモチヴェーションも失われてしまったんじゃないか、という最悪のスランプに陥ってしまうが、いや、おれたちはポップ・ソングをやってなんぼなんや! という単純明快にして大正解な結論に辿り着いたクラクソンズの復活第一声が、ニュー・アルバム中盤に配された「Flashover」だった。

 アルバム全体を聴いてみても前作とさして変わりないサウンドだが、現在のロック・シーンを根底からひっくり返してしまうくらいの強度を新たに獲得している。私がかつてキラーズやジェットのセカンドに感じた興奮を、彼らのセカンドにも感じることができる。やっぱりクラクソンズは無敵だぜ、と彼らを(何だったら彼らの母国であるイギリスの音楽シーンを)全肯定してしまいたくなるようなアルバム。おそらく最初から最後まであなたのテンションは下がらず、興奮しっぱなしのまま最初の「Echoes」をリピートすることになる。「Echoes」、これは2010年を代表する大アンセムだ。いまのところぶっちぎり。叩きつけるようなピアノと頭を揺らさずにはいられないダイナミックなドラミング。そのサウンドの中核を担うはギュインギュインのベース。ギターも負けじとばかりにホットなフレーズを繰り出す。
 
 さっき私は誤解を招くようなことを書いた。イギリスの音楽シーンのなかでクラクソンズは異端のはずなのに、なぜ「イギリスの音楽シーン万歳」という話になるのか。彼らが新しいメインストリームになるからだ。フェスのトリを任せるならクラクソンズしかいない、という時代の到来を予感させるくらいスケールのでかいセカンドだからだ。そして今作の日本盤の帯に書かれた「衒いのないロック作品」というコピーそのまんまだからだ。だからキラーズやジェットの名前も引用した。こりゃもうバカでかい会場でライヴを観るしかない。グリーン・ステージか、マリン・スタジアムか。クラクソンズはリスナーの期待に見事に応えた。もしかしたら批評家のあいだで賛否両論あるのかもしれないが、そんな意見はこの際おまけで構わない。ナイスすぎるよ、ロス・ロビンソン。

(長畑宏明)

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herajika.jpg 「ヘッドホンをすれば現実は夢になる」。そういうことなのだろう。ロマンチストだろうとなんと言われようとかまわない。音楽は時として魔法に成りうる。なんて言ったところで陳腐な言いとして受け止められるのがオチだけれどもやっぱりあるのだ。綺麗事だと捉えられそうな言葉を、音によって説得力を持たせ、表現してしまう音楽が。東京を拠点に活動し、インディーズ・シーンで話題になっている男2人女3人の5人組のヘラジカ(herajika)。彼らの音楽を聴くと確信を持ってそう思える。本作「Herajika Test 01」は、3曲入りのデビュー盤。ディスクユニオンの通販では発売日に完売した。

 エレクトリック・ギターやアコースティック・ギター、ドラムに加え、トイ・ピアノやピアノ、メロディオンなど様々な楽器を扱う箱庭的音楽性はトクマルシューゴと比較される。けれどもトクマルシューゴよりも良い意味でわずかに土くさく、洗練されていないがゆえの素朴さが、ちいさいスタジオで、あるいは部屋で演奏されているような身近な雰囲気を醸し出し、同じ目線でやさしく耳に入ってくる。あえてジャンルで言えばフォークということになるかもしれない。
 
 アコースティックを基調とした本作は大袈裟なところはなく、お高くとまらず背伸びもせず、コロコロと鳴る可愛らしいトイ・ピアノの音色も手伝って聴き手を童心に帰してしまう。いわゆるおもちゃ箱をひっくり返したような音楽だけれど、ひっくり返したというよりは、箱に詰まったおもちゃを一つひとつ丁寧に取り出し、見たこともないおもちゃに驚かされるような音が鳴る。また、美しい音を寄せ集め、音楽を創出するのではなく、いくつもの何気ない音と音をハーモニーによって茶目っ気たっぷりな音にしてしまうところがこのバンドの真骨頂なのだと感じる。例えばノイジーなエレクトリック・ギターが入る場面であっても、そのギターはフェミニンな歌声によって中和され、攻撃的なところも耳障りなところもなく、さらりとした質感に変わり必要最小限に鳴っている。さほど工夫していないコーラスも演奏と一体になればとてもキュートな色を含み、違和感が全くない。どんな音もぴたっぴたと、はまっていて、職人的気質すら窺がえるのだ。

 ヴォーカルもメロディの中核として存在感が広く、聴き手に安堵の心地を与え、その心地が聴いていくうちに染み込むように広がっていく。そうして見えるヘラジカの音楽を通した景色。それは些細に彩られた日常の楽しさ。視点を変えれば目に映る風景は変わるとはよく言われる。それは音楽を聴けば感情が変わるからだ。ヘラジカはあらゆる音が持つ可能性を可愛らしさとして創出する。それはたぶん、ヘラジカのメンバーに見えている風景はとても素敵でカラフルで、どんな種類の音であろうと音を認めているからだと思える。いわば演奏で、たとえ荒削りな音であろうとなんであろうと、音というものの全てを認め、音を取り込み洒落た感じにしてしまう。要はどんな音も肯定する音楽をやっている。そして遊び心に溢れる音が、聴き手をも肯定する。その循環が感情をプラスの方向へ向けてくれる。だからこの音楽を僕は信じる。そして聴いてほしいと強く思う。

 何かの映画で「音は心の中で音楽になる」という言葉があった。「ヘッドホンをすれば現実は夢になる」という言葉もあった。そんなふうに、音楽を聴く行為とは、音楽から何を受け取っているのか、ということが最も重要でもあるのだ。ヘラジカが鳴らす音は聴き手を傍観者にしない。常に気持ちをふわりと浮かばせる。驚くほどあっさりと浮かばせる。

(田中喬史)

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natacha_atlas.jpg ベルギー・ブリュッセル生まれで現在はワシントンD.C.在住。モロッコ、エジプト、パレスティナ、イギリス人の混血、そして音楽のルーツは北アフリカやらインディア、アラビックという既にその存在自体がミクスチュア(死語と言わないで~)な彼女の2010年最新作。キャリアはもう20年くらい経つ大ベテランの彼女のバイオをおさらいするのもなんだが、イギリスでエスノ・ダンス・ミュージック・グループ、トランス・グローバル・アンダーグラウンドで活動していた彼女のイメージが強烈で、彼女のソロ作品の多くはリズミカルで踊れるサウンドが特徴。

 然し、コンテンポラリなR&B風にもチャレンジしたりと現代音楽への融合を試みてきた彼女だが、08年にリリースした『アナ・ヒナ』でルーツに立ち帰るように披露したアコースティックな作風に続き、今作もエレクトロ・サウンドは控えめに、ジャズ風味のピアノとエスニックな生楽器が織りなすオーケストレイションにしっとりと音を耳で感じ取れる。ストリングスは重厚にアブストラクトなベースを作り出して、艶やかに情感たっぷりに歌い上げるのだから、うっとりしない手はない...。

 ただ、前作に続いてのアコースティックな編成とは前述したが、アラブの歌謡曲中心で構成されたものとは違って、今作ではアラブ古典やオリジナル曲の他にもニック・ドレイクやフランソワーズ・ハーディの曲をナターシャ風にカヴァーしてみせたり、全編に渡りワールド音楽とジャズ、そしてダーク&ポップに彩られているのである。そしてインターミッションを随所に設け、作品全体を通してまるで映画や演劇を鑑賞するような楽しみ方を提示し、コンセプティヴな作りを感覚出来るのだ。

 そのコンセプトの元は、インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(インド国家の作詞作曲者でもある)の詩にインスパイアされたという辺り、日本にも馴染みのある彼の哲学の片鱗にも音楽を通して触れられるし、そんな東洋の神秘がまた西洋から届けられるというこのミラクルと言うかミステリーを存分に楽しんでほしい。溢れ出るアシッド・フォーク勢とは全く違った夢見心地を味わえる。

(田畑猛)

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computer_magic.jpg かなり唐突だけど、オタクって自分の趣味にちょっとでも理解を示してくれる女の子と知り合うとすぐ恋心を抱いてしまいますよね。あの心理ってなんだろう。自分のことをわかってくれそうだから? 会話が弾みそうだから? アイアン・メイデンのライブに付き合ってくれそうだから? でもオレたち、冴えないんだぜ? それってほとんどバズコックスの「Ever Fallen In Love」の世界じゃん! 相手が誰でも"You Shouldn't've Fallen In Love With"だよ! バズコックスってボンクラの味方だよね。

 冴えないくせにオタクって贅沢で、ただ相手がオタク気質をもってるだけでは満足できず、ルックスについても高いハードルを設定したりする。その一方で、自分より明らかに濃ゆい異性を見つけると、スンナリひれ伏たりもする。素直になれなくて。「かわいいは、正義」とはよく言ったものだけど、かわいいガチヲタって本当に神々しい。僕もそういうコは好きだ。見つけるたびに興奮して、間違って話しかけられると挙動不審になる。公の場でそんなふうになっては困るし、競争率が高くても戦える気がしないので、ネットを駆使して自分のアイドルは自分で探すに限る。

 そんなわけで見つけたのが、ブルックリンで活動する(またかよ)とびきりのオタ女子Danielle Johnson。愛称・ダンジーちゃんによる一人ユニットがこのComputer Magicである。まずはルックス。彼女のfacebookを見てみよう。整った顔立ち、可憐な金髪、野暮ったい服装。何点つける? 僕は120点くらい。こういうちょっと野暮いのが好きなんですよ...。MySpaceのアルバムも最高。なんか如何にもって感じですよね。こういう人がいっぱいいたのが90年代ってイメージ。憧れるわ。僕もこの世界観の住人になりたい。いっしょに変なポーズとりたい。
 
 アメリカのナードなリスナーのあいだでは、好きな曲をミックスにして自分のブログに載せるのが何年も前から流行っていて(日本だとそういうのにウルサイ人多いよね)、ダンジーちゃんもご多分に漏れず作ってます。スター・トレックに始まり、ザ・クリーン、ELO、クランプス、ブライアン・ジョンストン・マサカー...。グダグダだったり暑苦しかったりひときわポップだったり。これって完全ボンクラ趣味じゃないッスか...。媚びようと思ってもなかなかココまで出来んぞ?

 そんな彼女が作り出す音楽は、自身が愛する『バーバレラ』や『2300年未来への旅』『アルファヴィル』といったレトロ・フューチャーなSF映画や、古き良き任天堂ファミリーコンピュータへの憧憬がモンド・ミュージックを思わせるシンセの音色にたっぷり詰まった(ブライアン・ウィルソンが標榜したのとはちょっと違う)ティーンエイジ・シンフォニー。Computer Magicとしては今年に入って活動開始したばかりということで技術的にはメチャクチャ拙いが、そういう拙さがいつだってポップを魅力ある姿に変えてきたはずだ。そして、意識的なのか無意識的なのか、音のほうはチルウェイヴとも密接にリンクしていて、気だるい空気と密室的ぎこちなさはウォッシュト・アウトやデザイアといったあのシーンの代表格にも通じるものがある。インターネットとテレビゲームが中心の世界で笑ったり呻いたり愛を叫んでいたりするような音楽。

 何より、散々書いてきたボンクラ的世界観が音に如実に顕われているのがイイ。「Teenage Ballad (High School)」というそのものズバリなタイトルの曲では"I'm Just wanna be free"とサビで連呼しているが、そこまであっけらかんとしたフレーズをこんなゆるフワな音で歌われたら...! ベスト・コーストのド直球っぷりにも驚いたけど、自堕落であること、自分らしくあることにここまで寛容な音楽には久しぶりに出会った気がする。個人的には、元フェルトのローレンスがデニムの次に結成したゴーカート・モーツァルトでのピュアすぎる楽曲を聴いて以来...かな(ちなみに現在、ローレンスはクスリの摂りすぎで相当具合が悪いそうだ。心配...)。

 適当にクリックしていると、すぐこういうお下品でスカムなtumblrに飛んだりして彼女のホームページは厄介なのだが(間近の記事だと、このスリッパはちょっと欲しい)、このEPもそちらでフリーDL可能。キッズが完全武装しているこのジャケ写は誰かの他の作品でも使われてたような。気のせいでしょうか...。いずれにせよ、ダンジーちゃんはこのまま朗らかでいてほしいものだ。スーファミのF-ZEROを朝までいっしょにプレイしたい。妄想しながらパソコンの前にずーっといたら目が乾いて痛くなってきたので、そろそろ寝ますね。

(小熊俊哉)

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mirrors.jpg 最近、イギリスが好きな僕としては、USインディに影響を受けすぎているイギリスのバンドが多すぎて、少し寂しかったのだけど、見つけました。僕にとっての「これぞイギリスや!」というバンドを。ミラーズです。シンセサイザーが3人に、エレクトロニック・ドラムが1人の4人編成。イギリスに住む親戚に教えてもらったのだけど、いろいろ調べてみてビックリ。なんと、元マムラのジェームスによるバンドでした。でも、自主制作でリリースした「Look At Me」に、Moshi Moshiからリリースされた「Into The Heart」と、良い曲ではあるんだけど、特別な要素というのが見当たらなかった。水で薄めたデペッシュ・モード的な感じで、元々マムラが好きでもなかった僕としては、だんだんと興味を失っていたんだけど、「Ways To An End」で、化けたと思う。

 まず、かなり売れ線な曲調になっている。といっても、安易な構成にはなっていなくて、U2のヴァイヴと、デペッシュ・モードのダークさに、プライマル・スクリーム「Swastika Eyes」を思わせる、ロマンティックなシンセのシークエンスが気持ち良い。最近で言えば、ホワイト・ライズとか、ハーツに近いのかも知れないけど、ミラーズは、闇から光へ広がっていく感じ。

 僕は、ペット・ショップ・ボーイズを聴いていると、田舎町から都会へ飛び出すような、高揚感と不安を感じるんだけど、ミラーズの音にも、高揚感と不安を感じる。でも、その高揚感と不安は、ミラーズの場合「未来への高揚感と不安」に聞こえる。何故かは分からないけど、純粋な希望には聞こえない。それが素なのか、それとも仮面なのか、本当は複雑なバンドなのかも? 僕としては、抑制的な美が、良い意味で矛盾になっているような気がするのだけど。その矛盾に、ミラーズのソウルを感じる。ミラーズは、絶対スタジアムで観たいバンド。そこで初めて、ミラーズの本質が、見えてくるはずだから。それが実現するまで、追っかけていたいバンドです。日本でも、「ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ!」の大合唱が、聞けるといいな。

(近藤真弥)

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salyu.jpg ご覧のサイトはMUSICAではありません。紛れもなくクッキーシーンのサイトでございます。--------そんな前置きも必要なぐらい、違和感のあるチョイスかもしれない。しかし、クッキーシーンの読者こそSalyuを聴くべきだ! と、今こそ声を大にして言いたいのです。7月に発売された七尾旅人の傑作アルバム『billion voices』にて、「one voice (もしもわたしが声を出せたら)」と「検索少年」の2曲で美声を響かせていたので(七尾のレコ発ライヴにもスペシャル・ゲストとして飛び入り)、そこではじめて彼女の存在を認識したリスナーも多いだろう。ワンマンではジェフ・バックリィやジョニ・ミッチェルなどのシンガー・ソングライターから、ビートルズやU2といったロック・バンドまで幅広くカヴァーすることも有名で、その歌唱力の素晴らしさはもはや説明不要。

 本作「LIFE」は彼女にとって14枚目のシングルであり、恩師である小林武史がプロデュースを務めた、"真夏"の季節感と疾走感溢れる、太陽のように眩しいポップ・ソングだ。カップリングの「CURE THE WORLD」は、自ら書き下ろしたという歌詞にflumpoolやYUKIの諸作で知られる百田留衣が曲を乗せた、切ないバラード。こちらはラジオや映画などで多くの音楽を手がける、マルチ・アーティストのトベタ・バジュンも編曲に名を連ねている。初回限定盤には、今年3月にリリースされた3rdアルバム『MAIDEN VOYAGE』に伴う春の全国ツアー最終日の模様を収めたダイジェストDVDが、通常盤には3つ目のトラックとしてSalyu×国府達矢が12thシングル「EXTENSION」以来およそ1年ぶりのタッグを組んだ、散文的で変拍子なピアノ・ソング「タングラム」がそれぞれ収録という、どう見積もってもダブル買い必須のニクい演出。

 自身初のブラス・セクションを導入したという表題曲の「LIFE」は、本人も認める通りまさに"新境地"と断言できる(ジャケット撮影では水着にまで初挑戦)。レインボー・カラーのウィッグをまとった女の子たちがサーフィンに繰り出すというミュージック・ビデオからも窺えるように、サザン・オール・スターズやTUBEもかくやの軽快なサマー・チューンに仕上がった。どこまでも突き抜ける高音ヴォイス、ギターとストリングスとピアノが幾重にも絡むオーケストラルなアレンジ、ポジティヴでまっすぐな歌詞......まるですべてがSalyuの味方をしているかのよう。前述のツアー・ファイナルで小林武史を招いて初披露されたのだが、幻想的なリリィ・シュシュ時代より彼女を追い掛けているファンからは「Salyuらしくない」との否定的な意見も多かったこの曲。おそらく、そんなことは本人がもっとも強く自覚していただろう。メジャー・フィールドにおけるポップスの歌い手としての意識、アーティストとしての脱皮。それは、「うた」が"大衆性"を獲得するための第一歩に他ならない。

 「色んな物差しが/この世界にあるよ/私のはかり方は/あなたとふたりのバランス」という一節は、近年の「会いたいよ/出会えてよかった/生まれてきてくれてありがとう」などと臆面もなく歌う、自己憐憫と承認欲求にまみれた数多のJ-POPナンバーを軽々と突き放す。というか、Salyuの音楽性を「J-POP」とカテゴライズしてしまうのは、あまりにも安易だ。国内屈指のシンガー・ソングライターである安藤裕子が、最新アルバムにあえて『JAPANESE POP』という衝撃的なタイトルを名付けたように、ケータイで音楽が消費され、違法ダウンロードが横行し、平成生まれのお仕着せアイドル達が蔓延る日本のマーケットに対して、Salyuや安藤、あるいはSuperflyの越智志帆など昭和生まれのアーティスト達は危機感を抱き、本気で抗っている。そんな彼女達が、古き良き時代の音楽への愛情とDIYスピリットを糧に、我々の元へ「うた」を取り戻そうとしている姿には興奮を禁じ得ない。それは、冒頭の七尾旅人だけでなく、山本精一のようなアンダーグラウンドが根城の男性アーティストまでもが、新作で「うたもの」へ回帰したという事実とも間違いなく共振する。

 Salyuはインタビューでよく自分の声を「楽器」と表現している。だからメンテナンスが必要なのだと。そう考えると、本作「LIFE」から迸る陽性のヴァイブは、心身ともに充実のコンディションであることは想像に難くない。「この宇宙(そら)はLIFE(ライフ)の先にある/心に描いてみたいな」--------そう、これは日本の音楽の未来であり、大きな希望。秋には今年2回目の全国ツアーが決定しており、早くも次のアルバム制作にまで取り掛かっているという。かつてなくワーカホリックな彼女の最新モードを、再びステージで目撃できるのが楽しみだ。

(上野功平)

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micmacs_a_tire_larigot.jpg 01年に世界的にブレイクした『アメリ』の提示したファンタジーで囲い込んだ作為性、仕組まれたブラック・ユーモア、模範的教科書には成り得ない寸前のロマン、そして、ヤン・ティルセンの程好いサウンド・トラックはどれも及第点を越えるが故に、味気なかった。つまり、ディズニー映画が時にマッドな領域を超えて、勧善懲悪を全うする為に「仮想敵」を集団的な自意識の中に植民地化して、夢でオチを作るような所作からすると、『アメリ』の描く素朴な残酷さは僕にはナイーヴが過ぎた。

 そういう意味で言えば、主人公であるAmélie Poulainのアナグラムから、Oui à l' ami Le Penになるという指摘も踏まえると、「ジャン=マリー・ル・ペン」の存在を想い出すのは少しクールな気がする。彼が右を向いている間に、例えば、アブダル・マリックを代表とした「スラム」という音楽がパリの郊外の暴動と「共振」して、ダブ・ステップやグライム的な下辺音楽を待備せしめたというリアリズムに振り回される内に、ゼロ年代におけるフランスのファースト・レディーにカーラ・ブルーニが「なってしまう」という皮肉が受容されてしまうことがどうも偶然に思えないからだ。カーラは元々、70~80年代フレンチ・パンク、ニュー・ウェイヴ・シーンの人気バンド、テレフォヌのリーダーのルイ・ベルティニャックがファースト、セカンドをプロデュースしていたこともあって、スーパーモデルなどといった側面以外に、音楽的センスの良さは様々な国の人たちに認証されるところはあった。それが、サードでのドミニク・ブラン=フランカールを招いての「失速」と言ってもいいだろう、ビッグなバランスが象徴していた。ゲンズブールの国はいつもフェイクが似合う。
 
 そこで、実質的なリリースは09年にはなるが、日本公開として10年代の幕開けを『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネの新作『ミックマック』が「冒険」と「ブラック」という原点に回帰したのはとても興味深いと言える。権力装置への「装置」を外す試みとして、今回、レンタル・ビデオ店の店員のバジルは発砲事件の関係で頭の中に流れ弾が入ったままになってしまう。この「流れ弾」はある種のシンボルであり、一つのメタファーだ。何故なら、昔に地雷で父親の命を奪われたバジルにとってその弾を構成している巨大な兵器産業へのアゲインストを心掛ける契機になる訳で、バジルは廃品回収をしながら底辺的な暮らしをおくる共同生活仲間と共に「結託」をする。しかし、その「結託」とは「連帯」ではない。一つの目的の為に、お互いがお互いの特技を許し、託し合いながら(一人はスーツケースに体が入ることが出来るほど体が柔らかい、など)、まるで日本で人気の漫画の「ワンピース」のような活劇のような瞬間さえ浮上させるときもあるロマンティックなピカレスク・ロマン。

 『アメリ』が持っていた過剰なファンタジー性、つまり、ジュネのイマジネーションの飛距離は今回も活きているが、もう少しシビアな形での軟着陸を示している。それは、流れ弾が頭に入ったことで様々な意識が膨れ上がるバジルをモティーフにしながら、肥大し、暴走してゆくように。時には、バジルの「妄想」はフリーキーでバレアリックで、「世界そのもの」の解析を試みるようなものになる。

 今、大人が描く世界がとても味気ない「セカイ」か、3D仕掛けのフェイクのリアリスティックな世界になってゆく中、この作品で描かれる世界はチャイルディッシュで悪意もあって、どちらかというと、残酷で救いのないファンタジーだ。ただ、それは子供が視たままの「世界」であり、例えば、それは、ホッブズがリヴァイアサンを「発見」したのが、社会に「自然状態」というフィクションを想定できたからだったという部分に連結することは出来ないだろうか。国家も法律もない社会における、裸の人間として、フィクショナルに踊ってみせる所作。このラインでのブースターは生命原理に回帰する。生命原理はバイタリティと訳すのも良いだろう。

 その根源的なバイタリティに満ち足りた映画がこの『ミックマック』だ。予想通りの夢も現実もないが、フランクな映画というファンタジーがもたらすカタルシスがここに溢れている。

(松浦達)

*日本版 公式サイト
http://www.micmacs.jp/

*9月4日より東京のみで先行公開。9月18日より全国ロードショー。【編集部追記】

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jamaica.jpg 思えば、意味がなくても、ビルドゥングス・ロマンの夢に乗れなくても、「強度」(世界を濃密に体感すること)さえあれば人間は生きていけると説いた日本の社会学者は、今は何を啓蒙しているのか。例えば、ニーチェは、意味が見つからないから良き生が送れないのでなく、良き生を送れないから意味にすがると言ったが、ニーチェの本を読み、強度を勘違いして「無意味な生」をセルフ・ヒーリングされている人たちは、十分に「意味的な存在」であり、反ニーチェ的であるとしか言いようがないのも残念だ。00年代以降は「強度」のように世界を濃密に分かり合えるように、「濃度」としてグラデーションの境目を見極める視力が必要になったのは「グラウンド・ゼロ以降、ビルが荒野に視えてしまう」という錯覚さえ孕んだ感性や表現を保持しないと、何一つ意味も浮上しないという事が自明の理になったからだ。だから、90年代の最高の産物であるアンダーワールド「Born Slippy」はどんな場所でも、どんな環境でも間に合うように、星を降らせた。

 07年辺りに勃興したニューエレクトロは殆どが「意味」の音楽だった。但し、ゆえにフロア・ユースとヘッドホン・リスナーにとっては、乖離している部分があり、例えば、デジタリズムは後者サイドでふと街の景色と混ざり合う時にその本領を発揮する代わりに、フロアにおいては単調で盛り上がりに欠ける「荒さ」があったのはステージを観た人なら分かり得るだろう。シミアン・モバイル・ディスコなどはその双方の橋を上手く渡せていた器用さがあったが、セカンドは目配せをしてしまったが故に地味になってしまい、どうにも座りの悪いものになってしまった。そんな中で、ジャスティスのあのコンプレッサーがかかった音と硬質で過剰なサウンドスケイプはヘッドホンには耳触りで、フロアでは一方通行のマッシヴな悪意のような熱だけが放射された「強度」の音楽を示唆した。彼等は、周囲が想っている以上に「センス」のユニットでもなかったのは、放埓なステージ以外のオフまでをおさめたDVD「A Cross The Universe」を観れば瞭然で、どちらかというとロック的(旧態的な)な捨て鉢さがチャームのユニットであったから、次はダフト・パンクのようなバズを産むか、潜航期間が長くなるかという選択肢しか見えない気がした。

 そんなジャスティスの新曲と勘違いした人も多かったかもしれない「I Think I Like U」のギター・カッティングの軽快さとマッシヴなデジタル・ビートは久々に何かをブレイクスルーをする新しさを持っていた。ジャマイカというアントワン・ヒレール、フロー・リオネからなる二人組。プロデュースにはジャスティスのグザヴィエもクレジットされており、全体にジャスティス的なコンプレッサーが強めの音が続くが、合間にフェニックスやタヒチ80のようなフレンチ・ギター・ポップの血も受け継がれており、全体のイメージはとてもクールとしか言いようがないものになっている。

 ジャマイカとして影響を受けたアーティストは、トッド・ラングレン、AC/DC、ポリス、ニルヴァーナというのも、何だか微笑ましい、「大文字」に挑む頼もしさがあると同時に、ルーリードの名前も出してしまう所はフランスの鬼っ子たちの憎めなさなのだろうか。同時代的な共振をヴァンパイア・ウィークエンドに感じると言いながら、歌詞に散りばめられたロマンティックなフレーズはフレンドリー・ファイアーズが希求したパリを既に内包したフランスという出自を逆手に取って、甘美で、故に頽廃的なからくりも見える。国内盤のボーナス・トラックに入っているデモ・ヴァージョンなどを聴くと、瑞々しさが先立つ内容になっており、シンプルなネアオコ~ギターポップへの近接も感じるが結果、出来上がったこのアルバム『No Problem』を貫き通したモードは、グザヴィエの過剰さと彼等の意図が加わって、意味から強度を抜けて、深度へと一気に降下していく乱暴さを再構成しているものになった。ラフなまま振り切らず、タフなものに仕上げ直すという捻じれ方は流石、フランスという国から出てきたという矜持とも言えるかもしれない。パリに行かなくても、ここに居れば星は見えるから、「あの子は綺麗ではなかったね、ただ若かっただけさ」と、ニヒルに言い捨てるジャマイカはやはり、クールだ。そのクールはスノビズムも孕むが。

(松浦達)

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here_we_go_magic.jpg ぶっきらぼうなのに丁寧だ。計算されているようでされていない。とかく音は複雑で、それでいながらシンプルだ。ヒア・ウィ・ゴー・マジックはブルックリンのシンガー・ソングライターのルーク・テンプルによるソロ・ユニットとして始まり、ファースト・アルバムはダーティー・プロジェクターズなどをリリースしたテキサスのレーベル、Western Vinylから発表された。そして、現在はバンド編成となった彼らにとって二枚目となるアルバムが、この『Pigeons』である。

 09年にグリズリー・ベアやザ・ウォークメンらとともに北米・ヨーロッパをツアーし、音楽の完成度と人気が一気に高まり、発表された本作は、間違いなくルーク・テンプルのメロディが中心になってはいるが、ジャム・バンド的な演奏あり、ガムラン的な要素あり、ヴァン・ダイク・パークス的なところありと、実に面白い。

 ファンキーで程よいグルーヴ感を鳴らすベースもあれば、クラウトロックを思わせるところもある。ジャケットが暗示するように様々な要素が交じっているが、スフィアン・スティーヴンスからも絶賛されているルーク・テンプルの気持ちのいいメロディによって楽曲に一本筋が通っているから乱雑ではなく、ポップスとして大きく息をしている。実験的な音楽なのにドリーミーで甘美。するっと耳に入ってくる。まるで眠りに誘っているような奏では、夢の中でこの音楽を聴けたらな、と思わせ、思考の弛緩を誘い、「眠り」というもうひとつの現実を表現しているかのようだ。

 意識と感情が無に近くなる眠りの世界とは、村上春樹が『アフター・ダーク』で描いたように、もうひとつの現実で、人間が最も無防備に、無意識になれる状態でもあり、そこに感情はない。もし、無意識の世界に落ちてしまいたいと思ったら、僕はこの音楽を薦めたい。いわゆるサイケデリックと呼べるサウンドではあるけれど、本当に心酔し、自分の意識を失って、この音楽の住人になってしまいそうな作品なのだ。聴いているうちに溢れてくる豊かな心地。その心地は千差万別であろう。10人いれば10人の心地良さがあるのだろう。そうして思うことがある。無意識とは無限の創造なのだと。人間そのものが無限なのだと。だから音楽とは無限なのだ。そして音楽とは人間への圧倒的な肯定なのだ。本作は、気持ちよく麻酔を打たれてしまう危険なスウィート・トリップ・ミュージック。

(田中喬史)

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magic_kids.jpg 今年のUSでは「夏」ムードのアクトがひしめいている。その多くは、いわばビーチ・ボーイの子供たち。特に、ザ・ドラムスやベスト・コーストなど、シーンを代表するバンドはシンプルなサウンドと甘いメロディでノスタルジアを演出しているものが多い。

 このテネシー州メンフィスの5人組、マジック・キッズもきっと同じムーヴメントにくくられるのだろう。彼らの曲を聴いて、まっさきに思い浮かぶのは間違いなくビーチ・ボーイズのはずだ。コンパクトながらスウィートなメロディとキャッチーなコーラスワークが曲の中心になっているのだから。

 だが、彼らの手法は異なる。ゴージャスで躍動感があるのだ。このデビュー・アルバム『Memphis』は、もし『Pet Sounds』『Smile』(当時は完成しなかったけど)のあとにブライアン・ウィルソンが作品を作っていたとしたらこんなじゃないだろうか、と感じさせる作品だ。つまり、実験性とポップネスが絶妙のバランスで同居しているということ。スフィアン・スティーヴンスやスコット・ウォーカーを思わせるオーケストラや、フレイミング・リップスのサイケデリアなど、多彩な要素をふんだんに盛り込んでいる。リヴァーブがかったドラムが刻むビートはオモチャのようでイノセンスを感じるし、あまたの楽器のレイヤーを分厚く重ねたサウンドには角がない。いわば、オモチャ箱をひっくり返したような楽しさがある。

 例えば、「Hey Boy」でのフィル・スペクター風の桃源郷の2分間に、「Superball」のバロック・ポップぶり、「Good To Be」での初期エルヴィス・コステロに通じる軽やかにドライヴするリズムなど、一貫してレトロな雰囲気が漂う。だが、ただのコピーから更に一歩先に進んだオリジナリティがある。だから、肩肘張らずにみずみずしい恋愛を描いたリリックが活き活きと伝わってきて、何度聴き返しても新鮮に輝きだす、そんなエヴァーグリーンな魅力をもった作品だ。たった28分ながら、あまりに美しく若々しい、メンフィス流の「夏」がここにある。

(角田仁志)


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woodstock.jpg
 Zガンダム、マリオ。そして、今回は引用ではなく、ひとつの漫画について書くことにした。これで僕がどんな人間か、少し化けの皮が剥がれてきただろう。
 
 『ウッドストック』コミックバンチに連載されていた作品で(コミックバンチは、週刊から月刊となり、「@バンチ」という名で、2011年の1月21日に新創刊するそうで、『ウッドストック』もそこで連載が続くらしい)、浅田有皆という漫画家が書いているロック漫画だ。僕と『ウッドストック』の出会いは、とあるコンビニの漫画コーナーに置かれていたコミックバンチがキッカケだった。表紙に「新連載スタート!」というフレーズと共に、『ウッドストック』の名があった。まずは立ち読みで試しに読んでみた。すると、凄く強烈な熱が、僕を襲ってきた。なんていうか、熱気バサラの、「俺の歌を聞け!」という熱気に近い「俺の絵を見てくれ!」という感じ。立ち読みだけで済ませられず、オレンジジュースと一緒にレジに直行して買ってしまった。家に帰っても、何度も読み返してしまった。それ以来僕は、『ウッドストック』の虜になってしまった。
 
 僕は『BECK』が苦手だ。もちろん「ハロルド作石はロックを分かってない」とか言うつもりもないし、ハロルド作石は、ロックが好きだからこそ『BECK』という漫画を描いたのだろう。ただ、僕は、『BECK』で描かれているロック観が苦手だというだけの話。僕にとって、『BECK』というのは「波乱万丈の物語」だ。仲間が集まってバンドを結成して、夢に向かって突っ走るけど、挫折を味わったりして、それでも、力を合わせて困難を乗り越え、立ち上がり歩いてゆく。でも、現実ってそう都合良くできているわけでもなくて、一回の挫折で終わってしまうことが多いし、最初ギターを抱えて大きな音を鳴らすと、「俺もロックスターになれるんじゃないのか?」と思うけど、大概はすぐに、ハッピー・マンデーズが歌ったように「誰もが英雄になれるわけじゃない」と悟ってしまう。僕もギブソンのレスポールを抱えて歌ったり、ローランドのJUNO106とTB-303でダンス・ミュージックを作ったり、ジェフ・ミルズに憧れて、ターンテーブルを3台買って、「リトル・ウィザード」を名乗ったりしていたけど、その全てが趣味に終始している。僕がひねくれているだけかも知れないけど、僕には、『BECK』がどうしても綺麗事だらけに見えてしまって、読んでいて息苦しくなる。
 
 もちろん『ウッドストック』にも、挫折から立ち上がって困難を乗り越えるみたいな物語はあるんだけど、たまに「無」が訪れる。本当に退屈な、何も面白くはない場面が『ウッドストック』にはある。「それって漫画としてどうなの?」という声も聞こえてきそうだけど、僕はそこに「リアル」を感じる。ロックとは瞬間風速的に突然降って来るものなのだ。ジーザス・アンド・メリーチェインのリード兄弟は、5年間無職という何もしてないなか、美しいノイズを鳴らした。ロックとは、鳴らすものではない。ロックのほうから、「俺を鳴らせ」と囁いてくるのだ。だからこそ、僕にとってロックというのは、特別な存在なのだ。
 
 僕は、音楽について書いているとき(今回はロック漫画だけど)、劣等感に苛まされる。その劣等感は、「ライターは基本的に、音楽界においては負け犬」という僕自身の考えからきている。僕がこうして、音楽について書いているのは、「この音楽を聴いてほしい。もっとこのアーティストを知ってほしい」という思いがあるから。しかし同時に、音楽について書くということは、「自分の音楽観を、他人の作品を借りて主張すること」だと、僕は思っている。この行為は、僕にとってズルイことでしかない。謂わば、アーティストがゼロから作り上げたものを、後出しジャンケン的に好き勝手解釈するものだから。もし、「今の音楽界はクソだ。こんな音楽があれば、音楽界も良くなるのに」と思ったら、自分で曲を作り、詩を書いて歌う。しかし、僕は、何かを生み出す才能がない。だけど、それでもあきらめきれず、僕はこうして言葉を紡いでいる。劣等感に苛まされながらも、自分の音楽観を主張するために。だけど、「文字」という形で、どれだけ頑張っても、「音楽そのもの」には敵わない。何故なら、「音」という形あるものではないものを聴いて、自分の心に浮かぶ風景や匂い、それこそが、音の立派な主張であり告白だからだ。つまり、究極的に言って、音楽というのは「言葉」なのだ。嫌味なインテリ風の奴らは、「それは自己矛盾であり思考停止だ。何故書き続けるのですか?」と言うかも知れない。もしそう言われたら、僕は、「音楽が好きだから」としか言えない。未練タラタラなのである。しかし、その未練が、そんなに悪くないのだ。
 
『ウッドストック』は、僕の考えとシンクロするところがたくさんあって、感情移入してしまう。というか、僕みたいに、音楽に夢を見て、日々音楽について考えている人ならば、心の中にある純粋なものを掻き毟る何かが、『ウッドストック』にはある。浅田有皆自身は、劣等感から『ウッドストック』を描いているわけではないと思う。自身がリアルタイムで体験したと思われる、80・90年代の日本インディ・ロック・シーンを背景に、純粋に「こんなバンド居たらいいな」という思いで描いている。しかし、その「こんなバンド居たらいいな」という思いを、漫画という形で主張しているところに、僕は自分と同じ匂いを感じてしまう。
 
  「主人公の成瀬楽が作り上げたバンドである『チャーリー』は、マイスペ世代的な成り立ちをしていて、若者に受け入れられやすいだろう」「"4REAL"や"ロウパワー"など、ロック・ファンならニヤリとしてしまうバンドが登場する」とか、ウィキペディア的にレビューを書くことも出来たけど、『ウッドストック』には、そんな陳腐な説明を不要とする、感情に訴えかけてくる力がある。音楽に夢を見たものならば、一度は体験するであろう喜びや快楽、挫折や受け入れ難い現実。そして、希望なき退屈。その全てがある。ぜひ読んでみてほしい。読み終わった後、こう思えるはずだ。「音楽を信じてきてよかった」と。
 

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coral.jpg お!? 何だか耳障りがいいぞ? というのが本作を聴いての第一印象。2007年リリースの前作『Roots & Echoes』がかなり骨太でブルージーなフォーク・ロック・サウンドに傾いていたこともあるのかもしれないが、アクが抜け、時に爽快感さえ感じさせるカラフルでサイケデリックなサウンドは「何だか渋い」ザ・コーラルというバンドのイメージを覆すのには十分なのでは。彼らの熱心なファンからすると物足りなさを感じるようなコメントも出てきているようだが、個人的には本作の路線を断然支持したい。

 それぞれの楽曲についても、マイナー・コードが基調となったコーラル節は健在だが、これまで以上によく練られており、完成度の高い3分間のポップ・ソングに仕上がっている。1曲目「More Than Lover」のヴァース→サビ→盛り上がりが最高潮に達するブリッジに至る流れだけでノック・アウト。各楽曲の並びも緩急がしっかりついており、アルバムトータルとしてのまとまりも良い。この辺りはプロデュースを担当したジョン・レッキーの手腕だろうか。アレンジャーとして彼らの初期の作品のプロデュースを担当していたイアン・ブロウディやちょっと意外なショーン・オヘイガンの名前も。

 前作リリース後にギタリストのビル・ライダー・ジョーンズが脱退、そしてシングル集の発売を経てバンドとしての活動に一つの区切りをつけた感のある彼らの新たな出発となる作品、なんていうとかなり陳腐に聞こえるが、本作はそんな謳い文句がピッタリなくらい、彼らの前向きでポジティヴなエネルギーで溢れている。ファーストの頃のインパクトには欠けるかもしれないが、バンドとして成熟したその姿は実に頼もしい。

(川名大介)

*日本盤は8月25日リリース予定です。【編集部追記】

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buffalo_daughter.jpg やめときなよ、それに手を出しちゃいけないよ、というものが、バッファロー・ドーターにはない。ヒップホップをやろうがマスロック的なアプローチを見せようが、それらの音楽性を取り込み、まさにこれだよと言わされてしまう説得力が宿った楽曲に、やっぱこれだよねと言うしかないのだった。とにもかくにも、93年に結成したシュガー吉永、大野由美子、山本ムーグの3人から成るバッファロー・ドーターの、ドラムにザゼン・ボーイズの松下敦、6曲目のヴォーカルに羽鳥美保を迎えた4年ぶり、通算6枚目の本作『The Weapons Of Math Destruction』も、ニュー・ウェイヴへの愛情たっぷりに、そして愛情を、壁をぶちやぶる力に変換して突き進む姿勢を貫く。
 
 いやむしろバッファロー・ドーターそのものが、音楽という漠然とした観念としての壁への解答であり否定であったのかもしれない。ポリシックス、あるいはコーネリアスよろしく、メロディ、リズム、音の質感、音の配置、その全てを依存の音楽プロットに当てはめず、定型化させることなく新鮮性に溢れたサウンドを常に表現してきた。そんなバッファロー・ドーターの『The Weapons Of Math Destruction』、タイトルは数学破壊兵器の意。そして物理がテーマ。物理とはありとあらゆる現象にひとつの集約点を設けることでもあるのだが、同時にどうすることもできない現象に伸るか反るか、という判断を行なうことでもある。バッファロー・ドーターは、のった。しかし反ってすらいる。
 
 前進していても力学はマイナスに働き、殻を破ろうにも痛みがともなう。つまりは過去を見つめなければならず、自分たちの過去の音楽を見つめながらも自らの音楽を破壊するかのように様々な要素を取り入れ、楽曲をばらばらに解体させた上で自分たちの解釈で音楽を創作し成り立たせる。その音楽はあまりにも素晴らしく、いわば、ばらばらに砕かれた音というものを強い重力によって一体化させているような印象すら受け、その様にカッコいいじゃないかとシャウトのひとつもしたくなるのだ。要は、否応なしに興奮が腹の底から湧きあがりガツンとくるのだ。
 
 そうして次々と踊り出てくるオルタナティヴな音の数々が野生的に飛び跳ね、一体となったときの重量感に溢れた圧迫の迫力に打ちのめされる。メロディを聴くというよりは音そのものが吐き出す声を聴く作品だと思えるが、歌が入った楽曲のメロディは抑制の美を静かに聴き手に与え、トリップ寸前の昏睡の色が濃くもある。いや、それは全曲に言えることだ。抑制された美的サウンドを解放すれば、音は力みなぎり、エコーを聴かせた音も、コーラスも、エレクトロニック・サウンドも生楽器も、水を得た魚というやつくらいに活き活きと音響空間を泳ぎ回る。すなわち公式からの解放。アルバム・タイトルにあるように数学破壊的。それらを生意気なほどチャーミングに、しなやかにやってしまう。
 
 破壊、構築、解放によって成り立つ本作は、それまで漠然と信じていた音楽というものが通用せず、そしてバッファロー・ドーターにとって本作は、この音楽性には強く、この音楽性には弱く、あるものに対してどれだけの耐久性があり、ある方向へどれだけ傾くかというような、種々の細かい特質が明らかになったのではないだろうか。ギャング・オブ・フォーを思わせるギター・サウンドに関しては絶対的な強度を持ち、ヒップホップに関してはアメリカ黒人的でなくとも、バッファロー・ドーターなりの尺度のものが構築できるのだと。そしてそれは、新たなオルタナティヴの方向へ傾くのだと。そうして分かるのは、もう決してこのバンドはどんな空虚にも安息にも耐えられないということだ。もう後戻りはできない。そもそもメンバーは後戻りする気などないのかもしれない。空虚に浸ることのナルシシズムなんてものも、さらさら興味がないかもしれない。それは過去の作品を聴けば明らかなのだ。
 
 オルタナティヴであることとは、本来の正当な秩序から外れ、別の方向の高みへ昇ることなのではないかと、本作を聴いていると思えてくる。いや、もはや「本来の正当な秩序」というものがなくなった今、逆説的にバッファロー・ドーターがオルタナティヴのレファンスに成りうる傑作が本作なのではないか。そう思えるほどに最高なのだ。さりげなく、しかし激しく胸に火をつける。ほんとうに、素晴らしい。ただ聴いているだけじゃ物足りない。もっと音が欲しくなる。ライヴを観なきゃと思う。観なきゃいけないんだと思わされる。チケットを買いに自転車のペダルを深く踏んだ。

(田中喬史)

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philip_selway.jpg 「であること」と、「すること」は丸山眞男の「日本の思想」という本に詳しいが、「である」ことに充足していると、本質が流動的に変質しているケースがある。例えば、家族「である」ことというのは「前提条件」ではなく、「十分条件」であり、更に言うならば、父親「である」ことというのは、人類の発明の一つと言えるからだ。霊長類でも、父親が育児に参加するのはタマリンやマーモセットだけであり、更にもっと突き詰めると、「自分が父親であること」という認証は究極的にどうなされるのか、DNAを鑑定しても、よく分からないのかもしれない。意識の面で父親を「する」というのは、不確定なものであり、とても抽象的になる反面、母親という存在は具体的に「子供を産む」という形を取り、輪郭付けられ易くなる。つまり、父親を「する」という事には、幾つもの障壁が待備させられている。

 今回、レディオヘッドのドラマーであるフィリップ・セルウェイが初のソロ・アルバムを作り上げたが、タイトルからして『Familial』であり、「母親の死」に向き合うことから始めた部分も含め、家族を巡っての、また既に3児の父親である彼のセルフ・アイデンティティを巡っての昇華作業の中で生まれた作品と訝るのは容易いだろう。また、内容も父親「である」ことを再確認しながら、母親の子を「する」という行為性を見つめ直している点からも、自己浄化の空気感がある。

 寡黙な彼のソロと言ったら意外に思えるかもしれない。ただ、伏線はあった。振り返ってみるに、01年4月、クラウデッド・ハウスのニール・フィンが中心となったジョニー・マーやエディー・ヴェダーらがニュージーランドのオークランドで5夜に渡り、ライヴを行なった際、その中に彼の名前を見受けることが出来た。その後、この模様は『7 Worlds Collide』としてライヴ盤として纏められたのは周知だろう。更に、このプロジェクトが再集結して、09年末にはウィルコのメンバーが加わるなどしてリリースされた、2枚組のスタジオ・アルバム『The Sun Came Out』では初めてその繊細な「歌声」も披露していたのは記憶に新しいと察する。その声はとても素朴で、決して巧いと言えないが、僕はアーサー・リーやエリオット・スミスのような柔らかい翳りを感じた。

 結果的に、『Familial』は、その声に最低限の楽器が加えられたシンプルでフォーキーな質感を残すアルバムになった。基本は爪弾かれるアコースティック・ギターが全面に押し出され、時折、レディオヘッドを思わせる奥行きのある音響空間も浮かび、フォークトロニカのような曲もある。一曲目の「By Some Miracle」のカウントを数える所から、一気に彼の世界観が広がる。「家族への想い」、「母親の死への悼み」まで人柄が伺える優しい視点が通底しており、よくあるシンガーソングライターの作品のような痛々しさはなく、どちらかというとウォームな雰囲気があるのも彼らしい。派手さは無いが、ロン・セクスミスの諸作やマグネット、ホセ・ゴンザレス辺りの音や紡ぎだす世界観が好きならば、必ず琴線に引っ掛かるものがあると思う。

 「レディオヘッドのドラマーのソロ・アルバム」といった余計な冠詞は全く必要が無い、フラットな繊細さに満ちたアルバムであり、この作品を通す事によって、彼はレディオヘッドのメンバー「である」ことの桎梏を相対化して、一つの家族を持つ人間であり、父親を「する」ことの儀式を経ようとしたのかもしれない。基本、彼が自分自身に向き合ったアルバムなのだが、外部者としてウィルコのグレン・コッチェとパット・サンソン、元ソウル・コフィングのベーシストのセバスチャン・スタインバーグ、リサ・ゲルマーノなどの参加もささやかに色味を加えていることで、立体感が増しているのも良い。

(松浦達)

*日本盤は8月25日リリース予定です。【編集部追記】

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ghost_society.jpg 今、全てのシューゲイザー・ファンと北欧ファンに捧げたいのがこれだ。ゴースト・ソサエティ。デンマークのブルー・ファウンデーションのメンバーによるバンドだ。彼らはゲスト・ヴォーカルに同じくデンマーク出身で友達のミューのヨーナスを迎え、実にクリエイション的でマイブラとニュー・オーダーを足して割ったようなアルバムを作り上げた。ヨーナスは言う。「ゴースト・ソサエティは薄汚れた地上で私的なノイズ、美しさ、耽美な曲、愛と希望に覆われた圧倒的な存在。あなたはこの素晴らしい音楽を手にとるべきだ」と。この女性ヴォーカルと男性ヴォーカルによるアンニューイな雰囲気は、聴く者すべてを幻想の世界へと導いてくれる。

 ただ筆者が思うに、ヨーナスの歌う「トゥイステッド・マインド」はいわゆる普通の音程である。つまり、ヨーナスは友達とはいえデンマークのベスト・シンガー・オブ・ジ・イヤーに表彰された人物で、音の低音と高音の差に最大の魅力がある。正直、彼を起用する意味はあったのだろうかと疑問に思えてならない。だがアルバムの真ん中に位置されたことでアルバムそのものに変化を与えてはいるのでその点では評価したい。とにかくデンマークというお国柄をよく反映させているアルバムだ。シューゲイザーの宝庫であるデンマークならではが生み出した名作。もちろんミューの『フレンジャーズ』とそれ以前の作品にも通じるところがあり、彼らのファンにも聴いてもらいたい。

(吉川裕里子)

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ishino_takkyu.jpg 僕は、スーパーマリオブラザーズというゲームが好きなんだけど、どこが好きって、プレイしている人だけではなく、そのプレイの様子を見ている周りの人まで楽しくなるところ。赤い帽子に、特徴的なヒゲ。ファミコンでの荒いドットでも、何故か一度見ただけで覚えてしまうマリオというおっさん。Bダッシュで走る姿、ブロックを叩いてコインが出る音、キノコを食べて大きくなるときの音。全てがいちいちツボに入って、自然と笑顔になる。

 石野卓球の音は、変わらない。変わらないというのは、音そのものではなく、その音に込められてる「何か」。僕は、その「何か」というのは、「想像の快楽」だと思う。石野卓球のファーストシンセは、ローランドのSH-2。ツマミをいじっているときの悪戯心や、悦に入っている様子。そんな石野少年の姿が『CRUISE』には窺える。もちろん、現在の石野卓球は40代に入ったおっさんで、少しばかりお腹が目立ってきてはいる。しかし、そのメタボなお腹には、今も変わらない夢や想像、悪戯心。そして、それらの裏に隠された努力家な一面や、汗と涙がたくさん詰まっている。

 『CRUISE』が今までの石野卓球のソロ作品と違うところは、大人の色気、エロスと言っていいのかも知れないけど、そういった、大人の男の余裕が感じられる。すごくあっけらかんとしていて、素っ裸な音。そんな素っ裸な音が、すごく気持ちいい。そして、その気持ち良さしか『CRUISE』にはない。純度100%の気持ち良さ。しかし、それで十分なのだ。明るいキック、パキッとしたハイハット、心地良いベース、キラキラとした浄化的なシンセ。それらが交わるとき、アシッディでふわふわとした世界へと導いてくれる。その世界とは、静岡にある石野少年の部屋である。

 マリオは、ファミコンからスーパーファミコン、ニンテンドー64にゲームキューブ、そしてWiiと、ハードの進化と共に、姿は洗練され、動きも豊かになっていく。しかし、それでもプレイする者を惹きつける根本的な気持ち良さ、プレイする者だけではなく、見ているだけの者すら惹きつける気持ち良さは、変わらない。そして僕は、そんなマリオと石野卓球が重なって見える。石野卓球が生み出す音も、石野卓球を愛する者だけではなく、石野卓球を知らない者まで惹きつける魔法がある。その魔法というのは、言葉では説明できない、すごく感覚的なもので、理屈では説明できないもの。そんなことを言ってしまったら、レビューを書くものとしては、失格だろうか? しかし、これが、僕が石野卓球の音を聴いて思うことだ。

 石野卓球も、メリー・ノイズ、人生、電気グルーヴ。音を生み出す場所も、自分の部屋から、スタジオに移った。要は、「想像力と創造力」なのである。カール・クレイグは、ドラムマシンを所有していなかったときも名曲を生み出した。オービタルは、4トラックのカセット・レコーダーから文字通り「Chime」を鳴らした。季節が流れて、世界が変わろうとも、表現すべきものは変わらない。石野卓球とは、そういう人なのだ。石野卓球は、自分の「想像」しか「創造」しない。その想像に、多くの人が惹きつけられ、惹きつけられた者は「夢」を見る。その「夢」が、今度は「それぞれの可能性」に化ける。もっと言うと、その可能性を肯定する七尾旅人という人も居る。ギンズバーグは、『ファン・ゴッホの耳に死を』という詩の中で、「デトロイトはゴムの樹と妄想から百万の自動車をつくった」と書いた。しかし僕は、「石野卓球は音と想像から百万の可能性をつくった」と思う。その可能性は今も作られ、求められている。これは奇跡だと僕は思う。七尾旅人の曲から引用すれば、「なんだかいい予感がするよ」。能天気だって? 笑いたい奴は笑えばいいさ。


(近藤真弥)

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pin_me_down.jpg このアルバム、踊れます。って、そりゃそうですよね。何と言っても、この英米混合2人ユニットのギターを担当しているのは、かのラッセル・リサックなんだから。「誰?」と言う方はクッキーシーンをお読み下さっている皆様方の中には少ないとは思いますが、もう一度おさらいをすると彼は、現在、活動休止中の英国発ニューウェーヴ・リヴァイヴァル・ムーヴメント(最早、この言葉自体が過去のものになってしまった感すらあるが)を先導したブロック・パーティにおいて、その特徴的なアシンメトリー・ヘアーを振り乱して一心不乱にテレキャスターをかき鳴らしていたギタリスト。そのラッセルが米国のミレーナ嬢と組んだのが、このPin Me Down。

 ブロック・パーティのフロントマンのケリーがソロ活動を活発化し、そのサウンドが肉体的でありながら彼のウィットさも随所に垣間見えるダンス・ミュージックに傾倒したものだったのに対し、彼らPin Me Downは同じくダンス・ミュージックでありながらも、打ち込みのリズムに、ニューウェーヴと言うよりもポスト・パンク色がきいたラッセルの鋭利なギター・サウンドで隙間無く埋められたソリッドなサウンド。その彼のギター・プレイの上にのるミレーナの歌声とのコンビネーションは相性バッチリで、その挑発的な歌詞も相まって、踊らずにはいられないだろう。ラッセルのギターは、ブロック・パーティと言う時代を代表する大きなプロジェクトからいったん離れる事で、久し振りに童心に戻った子供のように自由奔放に鳴らされているのも、微笑ましい。
 
 もう一つ、特筆すべき点は、彼らはかのフランス発のエレクトリック・ダンス・ミュージック専門レーベル、キツネ所属バンドである事だ。確かに、彼らのサウンドはどこか北アイルランドのツー・ドア・シネマ・クラブのような鋭角で突き刺さりながらも、どんどん高揚していくような手法の曲も多い。一曲目の「Cryptic」は過去のキツネのコンピレーションである『Kitsune Maison Compilation 5』に収録された経緯もある。

 とにかく踊れて、高揚できるサウンドの彼らだが、僕はもう少し、奥行きを感じたかったと言う感想を抱いたのも本音であることを蛇足ながら書いておこう。さすがに、ブロック・パーティのような世界を期待するのは野暮であろうが、踊れる、アガれる以上のビジョンも見せてほしかったと言う思いもある。ラッセルのギターは決して、ブロック・パーティでしか活きることない訳ではない。ところが、彼のそのクールながらエモーショナルなギター・スタイルは、ケリー・オケレケの隣でかき鳴らされている時が、やはり際立つのだとも思えてしまう。しかし、だからこそ彼ら、Pin Me Downがこれからどんなビジョンを僕たちに見せてくれるのかもゼヒ期待していきたいだろう。

(青野圭祐)

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smilelove.jpg 時々思い出す。夏の空気がぼんやりと横たわり始めたころ、コーカスのライヴを観るために缶ビールを片手に立っていた僕の前をするりと横切り、前座としてステージに立った4人組のことを。その4人組は何気なく歌い、何気なくドラムをベースを、そしてギターを奏でた。その笑顔のようなやさしさを持った演奏は苦労して考えて創出されたというより、どこからか自然に自由に湧き出てきたというおおらかな雰囲気があった。僕にはその演奏が、音楽性うんぬんではなく、何か、あるひとつの、重要なことを雄弁に語っているかのように思えた。
 
 スマイルラヴ(smilelove)のオフィシャル・サイトでフリー・ダウンロードできるその日のライヴ音源を聴くたびに、僕は再び思い出す。コーカスやルミナス・オレンジでも活動している川上宏子がリーダーを務めるスマイルラヴのライヴのことを。その人懐こさが窺える名前が付けられたバンドは、個性というものが何かをゆったりと、朗らかに、そして雄弁に語り出す。僕らの意識は常に感情の中にいる。それが人を動かせ、立ち止まらせる。その連続の中に住み、いままで生きてきた中で出会った人々、そして選んだ選択の総和が個性なのだと、音が、歌声が語っていると僕には思えた。時代は変わったと言われる。価値観も常に変わり続ける。だがどんな時代であっても、このバンドの個性というものだけは、まるで青春の空気を身にまとうように醸し出される。スマイルラヴはそれを知的な理解に訴えず、概念にたよらず、埃をはらうくらい簡単に音にしてしまう。その音楽は、口に含んだビールの苦みをやわらげた。辺りの無秩序な制約がほどけていく音楽。

 装飾を薄くした音楽性はペイヴメントを彷彿させる。複雑性の一切を排除し、シンプルなフレーズがループする。音楽を通して演奏者の感情の昂ぶりや哀愁が真っすぐ胸に程よく当たり、やがて染み込み、不思議なくらいあっさりと消えていく。感情の移り変わりが季節の移り変わりと同じくらい自然に表れ、気が付くとまた別の楽しみの心地として浮かび、消え、また浮かんでは消えていく。ある人はスマイルラヴの音楽とともに眠るであろう。聴きながら街を歩くであろう。空を眺めるであろう。この音楽は、聴き手が音を受け入れる準備を必要としないのだ。準備などしなくとも、そっと、静かに、そして明るく、音が聴き手を受け入れる。
 
 聴いていると、音楽とは、楽器や楽譜によって成り立っているわけではなく、アーティストが吸い込んできた空気や見てきた風景によって出来あがるのだと思えてくる。音楽は理屈じゃない、とまでは言わない。しかし時として、感動は理屈を超える。笑顔に理屈がいらないように。このバンドはそんな説得力を持っている。人間は不変ではないが、スマイルラヴの笑顔のやさしさを感じる音、それだけは変わらない。たぶん、ずっと変わらない。

(田中喬史)

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squeeze.jpg
 "きみがぼくのベッドを直してくれた 指のあとが残っている
 これが愛、なのだろうか 冷静になればなるほど
 愛とはたやすく見つけられるもの そう、それが愛というものなのだから"
 (「Is That Love」)

 「シンプルにいい曲を書く」人たちというのはいつの時代も(一部を除いて)冷遇されてしまうようで、00年代以降に80年代ニューウェイヴは散々再評価されているのに、その当時に「80年代のレノン/マッカートニー」と賞賛された、クリス・ディフォードとグレン・ティルブルックを擁するスクイーズの日本での扱いに、後追い世代の僕はいつもこっそりむくれていた。素敵な曲ばっかりなのに!(とはいえ、日本におけるNW再評価のきっかけのひとつとなった、音楽評論家の小野島大氏監修による「UK New Wave Renaissance 2004」シリーズの一環で、彼らにとって三枚目のアルバム『Argy Bargy』が再発されたことには今でも本当に感謝している)

 音楽ファンがひときわ愛する映画『ハイ・フィディリティ』の原作者であるニック・ホーンビィも文学界のディフォード&ティルブルックを目標にしてきたというし、初期のブラーもマーク・ロンソンもリリー・アレンもカサビアンも、いわゆるイギリス臭い大御所ミュージシャンやバンドの大半は彼らの影響下にあるといっても過言でない。アメリカにおいても、ファウンテインズ・オブ・ウェインはモロだし、エイミー・マンのアルバムにもかつてクリスとグレンは参加し(『I'm with Stupid』、最高!)、ディアハンターも昔、自身のMySpaceで音楽性が結構異なる彼らの名前を挙げてリスペクトしていたり(彼らのブログの過去ログを読み返すとわかるが、ブラッドフォード・コックスは相当の英国ロックオタク)、つい最近だとシンズがもっとも有名な曲のひとつ「Goodbye Girl」をカヴァーしている。こんな話をしだしたらキリがない。それほど彼らは偉大で、優れた曲をいくつも残している。

 バンドの解散後もグレンとクリスは00年代に各自ソロ名義で秀逸な作品をいくつか残してきたが、このたび何度目かの再結成を果たし、そしてバンド名義としてはなんと12年ぶりに発表されたのが本作である。

 『Spot The Difference』、「間違いを探せ」と題された本作は往年の名曲をバンド自らの手で再録したアルバム。で、間違いを探そうにも、冒頭の疾走感溢れる「Another Nail in My Heart」からラストの「Up The Junction」に至るまで、基本的にオリジナルのアレンジに恐ろしく忠実であるのが特徴だ。当時アメリカでも大ヒットした「Tempted」もご丁寧に当時と同じくポール・キャラックがヴォーカルを担当しているし、「Slap and Tickle」の時代を感じさせるイントロのチープなキーボード・サウンドもうまい具合に再現されている。メイン・ヴォーカルを務めるグレンの歌声もそれほど衰えてはいない。一見後ろ向きな所作にも見えるが、ファースト・アルバムのプロデュースを担当したヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルから、名作『East Side Story』でのエルヴィス・コステロとデイヴ・エドモンズ、さらに後期の作品に至るまでの音を今になってわざわざ完コピするというのは、たとえばと元XTCのデイヴ・グレゴリーがビートルズの「Strawberry Fields Forever」を宅録で完全再現したのと似た、英国バンドらしい極端さと捻くれたユーモアも感じさせる。その反面、曲順の滑らかさに「ベスト・ヒットをうまい具合にまとめているなぁ」と感心していたら、単純に収録曲をアルファベット順に並べていただけだった! というテキトーさもまたいい。今もバンドがそれだけ勢いに乗っているということだろうし、音の方からもそれが伝わってくる。

 こうして聴き返すと彼らのもつメロディの豊潤さとポップの奥深さに改めて唸らされるわけだが、間違い探しを原典抜きで行うというのもヘンな話なので、未聴の方々には(先述のジョン・ケイルのプロデュースによるファーストはバンドの魅力を正確に伝えきれていないし、超兄貴みたいなジャケもややダサいのでひとまず後回しにして)二枚目の『Cool For Cats』から時代順に聴いてみることをお薦めしたい。それこそ今でいえばニュー・ポルノグラファーズ辺りのファンの琴線にも触れまくるフックをもつ尖った、いかにもニューウェイヴなパワーポップ集である『Cool~』から、その次々作である(当初はポール・マッカートニーもプロデュースを手掛けるという話があった)『East Side Story』のもつ「うた」の魅力に至るまでの流れは感動的だし(この流れはポストパンク時代の流行の変遷を先取っていたといえるかもしれない)、ブリット・ポップの勃興で再評価されることとなる80年代後半~90年代の作品も聴き応えがある。また、クリスが手がけてきた小粋で味のある歌詞の魅力については、かねてからグレンの来日公演をサポートしているミュージック・プラントのブログ「Song by Song」にタイコウチ氏による素晴らしい対訳が紹介されているので、そちらをご参照いただければ。

 ちなみに、グレンはLove Hope and Strengthという、山登りを通じてガン撲滅のための寄付を募る団体に参加しており(他の参加ミュージシャンも凄いメンツ!)、富士山でのトレッキングのためにただいま絶賛来日中。一方、バンドのほうはアメリカではチープ・トリックやイングリッシュ・ビートとツアーを周り、そして11月からはイギリスに戻ってライトニング・シーズと...って! なんかどの組み合わせも(ちょっと世代を感じるけど)豪華...。日本にもそれでぜひ来てほしいですよ?

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arcade_fire.jpg 僕がクルマの免許を取るずっと前のある日曜日。当時、世界最強だと言われていたマイク・タイソンが日本で試合をすることになった。試合開始のゴングは午後だったと思う。僕はレコード1枚分のおこづかいをポケットに入れて、市営バスに揺られていた。「試合開始までに帰れるかな。タイソンの試合はすぐに終わっちまう」。そんなことを考えながら、僕はバスを降りてからレコード屋まで急いだ。

 アーケイド・ファイアの『ザ・サバーブス』を聞いて、歌詞を読んで浮かんできたいくつかの記憶のうちのひとつ。不思議と懐かしさはなく、「その時、僕はそこにいた」という確信だけがある。ニュー・ウェーブ、パンクのエッセンスを器用に取り入れたサウンド、ブルース・スプリングスティーンのストーリーテリングを継承するような情景描写に、何かを発明したような新しさはない。それでも全16曲という決して短くはないこのアルバムを繰り返し聞いている。

 何種類か用意されたアートワークには、どれも無人のクルマが停まっている。色褪せる直前の住宅の写真は、何かが失われることを予感させる。遠い記憶ではない。それは、ほんの少し前の出来事だ。過ぎ去る時間の中で、僕たちは何を失うんだろう? この不気味な住宅は、帰ってくるべき場所なのか? それとも出て行くための場所なのか?

 「葬式」と名付けられた1stアルバム、現代の宗教観と資本主義を描いてみせた2ndアルバムを経て、いまアーケイド・ファイアは「郊外」に目を向ける。アメリカ大統領選が終わり、時代は変わったかのように見えた。でも、本当にそうだろうか? 変わったこと、変わらなかったこと。僕たちは結局、その両方を受け入れて生きて行かなくちゃならない。ある人はこのクルマに乗って出て行くだろう。そして、またある人はこのクルマで帰ってくるかもしれない。最初っから、どこにも行けない人もいるだろう。きっと誰の心の中にでもある「郊外」の風景。アーケイド・ファイアは、「時代」や「アメリカ」という背景を抜きに、僕たちの心に問いかける。歌の普遍性は前2作を超えている。

 結局、僕はマイク・タイソンの試合を見ることができたのか憶えていない。憶えているのは、帰りのバスの中でトーキング・ヘッズの『ネイキッド』をレコード屋の袋から出して、心ゆくまで眺めていたこと。窓の外を通り過ぎる友達が住んでいるマンション、電信柱、広い駐車場、古ぼけた商店の看板。「そろそろ降りる準備をしなくちゃ」。いま僕は、そこからどれくらい遠く離れた場所にいるんだろう?

(犬飼一郎)

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yakenohara.jpg ここまで清々しくて初々しくて、楽しいサウンドを滴り落ちるほど贅沢に取り入れた音楽も中々ないであろうよ。DJ、ラッパー、トラックメイカーなど、やけのはらの活動は多岐にわたり、近年はバンド、ヤングサウンズ(younGSounds)に参加。また、七尾旅人とともに「Rollin' Rollin'」を発表したことは記憶に新しい。ファースト・ソロ・アルバムの本作『This Night Is Still Young』は、「Rollin' Rollin'」のアルバム・ミックス・ヴァージョンを収録。同じく七尾旅人がヴォーカリストとして参加した「I Remember Summer Days」を収録し、ライヴで共演の多いドリアンがキーボード、アレンジとして参加している。
 
 大胆なまでの打ち込みを軸とするアルバムだけれどエレクトロニカ的な志向すら持つ七尾旅人と打ち込みの相性が良いのは必然で「Rollin' Rollin'」のアルバム・ヴァージョンも気持ちのいい仕上がり。もちろん淡々としていながらもチャーミングなやけのはらの声と電子音の相性も抜群だ。DJとして数々のイベントや、多数のパーティーに出演してきたやけのはら自身が言うように、ラッパーというよりはDJ的な視点で作られた本作は、間隔の広いヒップホップのリズムと、ころころ転がっているような電子音と涼しげなサウンド・エフェクトを中心に、女性のヴォイスや弦楽器、子供の声がサンプリングされている。さらには管楽器やエレクトリック・ギター、ボコーダーを使った音なども取り入れ、ドリアンがキーボードを鳴らすタイミングも絶妙だ。それらは夏の空気や海辺で人々がたわむれる雰囲気を描写する。様々な音、ジャンルが混じっているが、乱雑な印象はない。DJ的な視点で作ったというだけあって適材が適所で鳴らされ、必要最小限に音をとどめているがゆえにすっきりまとまり、それが本作の爽快な音に繋がっている。
 
 棒読みに近いラップは朗読とまではいかなくとも詩を読んでいる感覚に近く、過剰な主張や激動はない。韻を踏むことすらあまり意識していないと思える。まるで話しかけてくれているようで、そして詩的で、爽やかなサウンドということもあってリゾート・ミュージックとして聴こうと思えば聴ける作品だ。しかし、それだけで終わらないメッセージ性もある。

"俺達が見ている景色が夢だとしたら
最高にアホらしく笑えて スリル満点の夢にしよう
一瞬のまやかしだとしても 錯覚や幻想だとしても
信じていたいと思える何かを見つけたんです
この夏はきっと終わらないって なんとなくそう思った"
(「Summer Never Ends」)

 閉塞感に満ちていると言われる世の中にあって、何か面白いものを見付けようというメッセージ。その何かが、まさに『This Night Is Still Young』。それは都会の鉄の匂いをさえぎって香る。やはり清々しくて初々しくて、楽しい。

(田中喬史)

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sky_larkin.jpg 表立った大きなムーヴメントこそないものの、ロス・キャンペシーノス! やジョニー・フォリナーなど、イギリスのバンドでありながらペイヴメントの系譜を受け継ぐようないびつなUSインディ・マナーのスタイルを貫くバンドがいくつもいる。そして、特に上記2組に顕著なのだが、彼らは頻繁に楽曲を製作・リリースしていく傾向がある。

 このリーズの3人組、スカイ・ラーキンもその例に漏れていない。アイデアは沸いて出てくるのだろう、昨年デビュー・アルバム『The Golden Spike』を発表したばかりだというのに、早くもセカンド・アルバム『Kaleido』をリリースしてしまった。

 と、そのスピードだけを見ると驚いてしまうが、路線は全く変わっていない。紅一点のヴォーカル、ケイティ・ハーキンのさえずるような歌声と、ブロークン・ソーシャル・シーンを思わせるようなメロディの3分間ポップという性質まったくそのままだ。

 だが、このアルバムには「変化」はないが、「成長」がある。クリブスを始めとするアクトとのツアーで鍛えられたのだろう。以前には安定感がなく危なっかしかったサウンドが、今はがっしりとしたバンドアンサンブルにかわっている。「Still Windmills」や「Kaleido」でのタイトなプレイはもちろん、例えば、「Anjelica Huston」ではアーケイド・ファイアを髣髴させるようなスケールが垣間見られるし、キーボードを主体とした「Year Dot」でのファニーでラウドなコーラスはファイト・ライク・エイプスを思わせるよう。プレイヤビリティの向上がそのまま作品に反映され、クオリティの向上として現れている。

 ソングライティング能力は実はかなり高いし、今後に一層の期待を抱かせてくれる作品だ。このバンドをまだ聴いたことがない、という人であれば、僕は迷わずこちらのアルバムを薦めるな。

(角田仁志)

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we_are_scientists.jpg 今回EMIを離れ自主レーベルからのリリースとなった為話題性こそ少ないものの、これは今年の名盤の一つである。キースのギターはバラエティに富み、メロディー・ラインはファーストの頃に戻ったようにしっかりとしている。音楽的にもセカンドの80年代サウンドより純粋にギター・バンドとしてギターを奏でており、1曲1曲は短いが彼らの持ち味が濃縮されている。もちろん自慢のコーラス・ワークも健在。更に日本のファンのために日本のSNS、Mixiコミュニティにビデオ・メッセージを送るなど驚きのサービスが満載の彼ら。国内盤にはアコースティック・ヴァージョンも多数収録されている。

 完璧なロック・アルバムとなった今作サード・アルバムは、以前インタヴューで語ってくれたような"音の隙"をも作られている。それはつまりドラマーのマイケルが脱退してからも3ピース・スタイルを持続するにあたり音が弱くなっているわけではなく、むしろ4ピース・バンドと思える程の重圧感があり、しかしながらギターだけで埋まらないようベースやドラムが上手く入り込む場所を作っているということだ。よりパワー・アップしたWASをこれを期に是非騙されたと思って聴いてほしい。

(吉川裕里子)

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sebastianx.jpg まるで、太陽を飲み込んだような歌声だ。春夏秋冬、冬の寒さと春の暖かさを通りすぎて、真夏の太陽を待ち焦がれるような、とにかく、この歌声はサンサンと輝いている。そう、これは待ち焦がれた太陽だ。と、言いながら前作までこのバンドの音源を聴いても、僕にはまぶしすぎたようで、Sebastian Xだなんて、スパルタンXみたいだなと思ってたぐらいで、そのサンサンと輝く、ド級に力強い歌声に拒否反応を示していたのも事実。例えるなら、ジョジョの奇妙な冒険の第三部は「絵が気持ち悪くて...」と言って損をしていた読者みたいな話。わかりにくいかな。まあ、つまり、マイナス印象からの、にわかリスナーなんです。とは言ってもこのバンドの結成はおよそ2年、今作が2枚目のミニアルバムなわけで、そもそもが間もないわけだけど、いったいこれからどうなっちゃうのよ、というような期待の若手(新世代バンドと言うべきか)なのである。
 
 このバンドの成り立ちは2年前より少しさかのぼって、前身バンドでのハードコアな曲長からはじまったようで、なるほど、そう言われるとヴォーカルである、永原真夏の歌声はハードコアになじむ! 実になじむぞ! と、ついつい、わかる人にしかわからないジョジョネタを前段落にひっぱられ文章に織り交ぜてみたりしたが、伝わるかな?でも、しょうがないんです、このアルバムを聴いていると楽しくて仕方ないのだから。僕だって少しは遊びたくなるってもんだ。
  
 さて、そんな曲の大半は、楽器の弾けない永原真夏がアカペラ等を駆使して持ち込み、ドラム、ベース、キーボードのギターレスのメンバーで具現化されているらしく、時折、調子っぱずれに歌われる歌声も、実はそんな独特な工程からきているのかもしれない。それは一聴すると、歌声と楽器隊がまるでケンカしているようにも思える曲群なのだが、よくよく聴くと実は仲良くじゃれあっているだけで、今作のリード・トラック「世界の果てまで連れてって!」ではホーン隊までも加わり、よりいっそう楽しげである。実は、それが、稚拙な僕の耳に、このバンドの魅力を気づかせるきっかけになったわけで、その音数を増やす方向性とは個人的に大歓迎である。もっともっと、彼女の歌声を音の渦に投げ込んで、じゃれあって、楽しんでほしい。勝手な妄想ですが、上原ひろみのピアノとじゃれあったら最高だなと思ったりもする。

 今作に話を戻すと、ここではのっけから「フェスティバル」と歌い、前述したリード・トラック「世界の果てまで連れてって!」が続き、その後もアップテンポな曲が続くのだが、後半につれ歌声もグッと引き締まり、ハキハキと歌われる歌詞がストレートに響いてきて、あれれ、いつに間にかほろりときたりする。なんだか、楽しいと言ったり、ほろりときたり。兎にも角にも、この一枚を通して喜怒哀楽動かされまくりなのである。ただあっけらかんと太陽のように明るいだけではなく、心に強く響くアルバムなのである。仮に、僕のようにマイナスにふり幅を向けたリスナーがいたのならば、あらためて手にとって聴いてみてほしいし、前作からのファンの皆さんとは、僭越ながら手に手をとり高らかと笑いあいたい気分である。

(佐藤奨作)

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sakura.jpg 重苦しいのも当然、痛々しいのも必然。情念が籠った歌とサウンドなのだから。御歌とギターの升あけみ、御殴りドラムのロデムの前身バンドからの駆け落ち(♀×2)編成だが最近流行りのマス・ロッキンなタイプとは違って、如何わしさが薫る和風ガレージ色にクラっとしてしまうロック・デュオ。今年は話題の神聖かまってちゃんらと対バンしたり、そんな彼女たちが今迄にリリースした音源、通称『白盤』と『黒盤』に続いて今回の6曲入りのミニ・アルバムは画の通り『赤盤』を発表したのだが、これが初の全国発売と相成った。

 そのイメージ・カラーの如く今作品は"赤裸々"に剥き出しに、耳から心臓を突き刺す様に、聴く者が持ち合わせる感性の急所まで最短距離で音が飛び込んでくる...。然し、撲殺でもあり絞殺でもあり、毒殺でもあり刺殺でもあり! 何れにしても曲がスタートした刹那、瞬く間に空気を一変させるのだ。然しその何れもがその行為自体の快楽性などを唄ったものではなく、衝動に駆られた理由や背景を物語った上で全編に渡り二人称が登場した、パーソナルに響く世界。でもやっぱ魅力的な女の子って肉食だな~って思わせたり、端々に感じさせるのはエネルギーに満ちた若さと可愛さだったり。懐かしいたて笛の音色とエレピでほっこりさせるM-5の「目はうずまき特急列車」なんて、なんてキュートなんだ!とか。

 平たく言えばホワイト・ストライプスmeets初期の椎名林檎と言った様が想像し易いとは思う(ヴィジュアル的に)が、敢えてそう評する向きを不肖が嫌わないのは強ち間違いではないと思うし、この音楽をして"アングラ"なんてレッテルを貼るのは凄く勿体なく思うのだ。確かにアッパーではないにしても十分にポップだし。所々耳馴染みのあるフレーズが聴こえたりする部分にもニヤリとさせられる。特にM-3の「歩こう」はナックの「マイ・シャローナ」を彷彿とさせるリフに乗せて、メロディはストレンジに捻くれながらも、エッジは尖らせたままストレートにロック!言葉を届ける甲高いヴォーカルはノイジーなサウンドに映え、その通り名の通りに殴りつけるようなドラムは、一心不乱故に楽曲の持つシリアスな感情と共鳴しながらグルーヴを生み出して、、、って、この辺りは生(LIVE)を見てもらえれば一発で感じる事が出来るだろう。音源で感じ取れるドロドロ感が半端ないから。

 とにかくラストのトラック「サイレン」という爆音ハイライトで締め括る粋の良さを含めて、今後も注目したいロック・バンドである。

(田畑猛)

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empire_empire.jpeg ミシガンで結成された4人組ロックバンド、エンパイア!エンパイア!(アイ・ワズ・ア・ロンリー・エステイト)のファーストアルバム。
 
 一聴してわかるのが、90年代中期から後半にかけてサニー・デイ・リアル・エステイトやミネラル周辺のバンド達によって確立された当時の「エモ」と呼ばれた音楽的エッセンスが集約されていること。00年代にメインストリームで鳴らされていた代表的なエモ・スクリーモと呼ばれたバンドたちが感情を激しいシャウトなどで表現していたとするなら、それ以前のアンダーグラウンドで鳴らされていた音楽は、私的な例え方をさせてもらうなら「負け犬の遠吠え」である。屈折した者たちが鳴らす痛々しさ、切実さが全編にわたって伝わってくる。
 
 そんな空気が彼らのアルバムにも詰め込まれている。ギターのひたすら反復するアルペジオ、タメ気味なドラム、そしてボーカルの不安定さまでいわゆる90年代エモのマナーにのっとっている。これを「焼き直し」だと思われるかどうかは人それぞれだろうが、ゲット・アップ・キッズが新作を出したとはいえリヴァイヴァル・ブームのようなものが起こる気運など感じられないこの状況で、このような音楽が生まれることは興味深い。時代を遡り当時の音楽を語るうえでの、現代における「踏絵」(このシーンを語るならばまずこれを聴くのが早い、と言う意味での...)と位置づけてもいいと思う力作。

(藤田聡)

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sunahara.jpg 例えば、石野卓球がDJではドープなデトロイト・テクノでロング・プレイするときに、そこにはホアン・アトキンス、カール・クレイグ、デリック・メイからジェフ・ミルズへのリスペクトを孕んでいるのは勿論として、アンダーグラウンド・レジスタンスへの視座をより意識している時が必ずあって、「Hi-Tech Jazz」が挟まれた時のクラウドの熱量を捉えた時に浮かぶ「ダンス」はガブリエル・アンチオープの『ニグロ、ダンス、抵抗』におけるそれを彷彿とさせる。

 捕捉しておくに、この書物は奴隷制の変遷をたどった制度史ではなく、17~19世紀という近代国家の黎明期にあって、カリブ海地域を舞台に、いかに「ダンスという行為=文化表象」を通じて人種や民族、ジェンダーが配置され構成されてきたかを分析すること、そして更に、支配と従属のなかに生きてきた奴隷=ニグロにどのような「抵抗の道程」があったのかを明らかにするものであり、S・ホールのような、奴隷制プランテーションに対してそれを生産様式の関係性だけで捉えるのではなく、イデオロギーの次元の関わりをも重視している。ヨーロッパ中心主義的な史実の「書換え」をもダンスという文脈で行なう。奴隷にとっては、ダンスは単なる娯楽ではなく、それは、政治的な意味を持ち、抑圧からの逃亡を可能にするものであり、更にはニグロの定義を更改する。彼らは完全にはマスターに従属した存在ではなかった。

 彼は、電気グルーヴというペルソナではシビアに道化を演じながら、ソロ作品でハードなものからミニマルまで跨ぐ嗅覚にはいつも「現場」を可視化している優しいシビアさがある。それは、一晩で消費されてしまうアルコールの量や求愛の数、そして、鳴り止む音楽と、汗。フロアーが空けた後に戻るそれぞれの日常の辛苦を弁えているということでもある。だから、音楽は「永遠と一瞬を止揚する」なんて甘えた認識よりもその音楽が鳴っている瞬間が永遠であればいい、というスタンスを取っているように思える。そうでないと、あれだけのハード・スケジュールで日本以外の世界も含めて小さな箱もDJで回らないと思う。

 その彼が電気グルーヴ内でも一時期、全幅の信頼を置き、今でも時折繋がりを持ち、奇妙な事に捩れながらも、シリアスなスタンスが似てきているというのが、砂原良徳だった。無論、饒舌でスタイリッシュな石野氏と比して、彼はどちらかというと、テーマ設定の中で「音」を作る職人的なタイプだったので、ツアーやDJといったものより、リミックス作業やプロデューサー業に傾いでいたし、石野氏よりは寡黙に居場所を確認している所があった。その一理として、01年の『LOVEBEAT』が、隙間の沈黙さえも音にしてしまった部分があり、越えられない壁を自ら作ってしまったからとも言えるかもしれない。モンド・ラウンジ、クラフトワーク、飛行機といったテーマから逸れて「一」から構築した音の強度は容赦がないくらいに、クリアーでハイファイであり、また雑多な音を拒むストイシズムを帯びていた。踊るには少し緩やかなエレクトロニック・ファンク、リズムと最小限の音を纏った清冽な意志に貫かれた音の粒子。また、エイフェックス・ツイン、オウテカ、ボーズ・オブ・カナダなどのポスト・エレクトロニカ勢との完全なる共振が行なわれた実験室での未必の悪意は、「LOVE BEAT(ビートを愛する)」ではなく、「LOVEBEAT(愛のビート)」というイロニーを提示した。

 その後、ほんの僅かなリミックス・ワークを除き、以降、沈黙をする。沈黙の間、エレクトロ・クラッシュ、乙女系ハウス、ニューレイヴ、ドラムンベース、フレンチ・エレクトロなど幾つもの音が壁一枚隔てたクラブで分化され、鳴りながら、トライヴは決して噛み合うことなく、散逸され、その中、リバイバルでアシッド・ハウスからジャーマン・テクノ、勿論、デトロイト・テクノまでが巡り巡っていた。猥雑な喧騒を傍目にスタジオで彼は音を研ぐように、次の作品への模索を繰り返していた。

 09年にはサウンド・トラックとしてあくまで試作品的なモードを示してみせていたが、今年に入って彼の漸く「次の視点」が現れていると言えるEPがこの「Subliminal」になる。来るべきアルバムへのパイロットになるのか、彼の事だからまだ分からないが、十二分に密度が詰まった4曲が詰まっている。ここには明確な逃げ場がなく、かといって、誰もが参入できる入口もない。途中参加が赦されるような生ぬるい音像でもない。『LOVEBEAT』時より鋭角的に切り詰められながらも、ふくよかさも増した音は聴き手の安心や予定調和を拒む。ファンタジーというのはデ・ジャヴを何度もインストールし直すだけの非創造者側の怠慢だと定義付けるとしたならば、この作品のファンタジー性は、マッドなリアリズムを切り取り、曝す。YMOが野外で緩やかなパフォーマンスをする今、チルドレンの彼はまだ日和らない。「音の政治性」を認識したとても辛辣な作品だと思う。

 「Subliminal」は具体的に、ダンスを想起させる音像ではないかもしれないし、踊れる音楽ではないかもしれない。しかし、「ダンスが催される空間」の意味は再定義せしめる。その場では身分が可視化され、その差異を画定し続ける政治・社会的な戦略の場でもあり、一方、再創造として仮構された起源としてのダンス文化をヨーロッパにもアフリカにも回収できないようにせしめる。そして、「ダンス」が娯楽や祝祭に関わった振舞いであった以上に、政治的・社会的・文化的なマイノリティの主体化を賭した行為だということをリプレゼントする。

(松浦達)

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best_coast.jpg 『あなたに夢中』―これほど臆面もなくストレートなタイトルは久しぶりに見た気がする。数々のEPやシングルを発表し2009年より注目を集めてきたLAのベスト・コーストのデビュー・アルバムはそのタイトルに違わず、飾らない言葉とストレートで甘いメロディが詰まった作品だった。

 シンガー/ソングライターのベサニー・コセンティノとマルチ・インストゥルメンタリストのボブ・ブルーノによるデュオの特徴は、ジャングリーなギターとスウィートなメロディにある...なんていうと、ヴィヴィアン・ガールズやダム・ダム・ガールズといった最近のガールズ・バンドが頭に浮かぶかもしれない。だが、ベスト・コーストの魅力はシンプルさにある。

 まず、リリックは驚くほど単純明快。基本的には、「あなたと私がいて幸せ」、という笑ってしまうほどピュアなテーマを、中学生英語並みにシンプルな言葉で綴っている。だが、スペクター風のもやがかかったようなプロダクションと、ドゥー・ワップのポップなコーラス、そして初期パンクを思わせる直線的なメロディの組み合わせが簡素な愛の言葉にロマンを与えた。電話を待つ甘酸っぱく切ない気持ちを込めた「Boyfriend」や、ギター・ノイズとロールするドラムで胸の高鳴りを表現した「Crazy For You」にはきっと10代の青春を思い出すだろうし、一緒にいられる幸せを歌った「Happy」でのラモーンズ風の疾走では力強いビートが心臓の鼓動とリンクするようだ。「60年代のポップを多く聴いてきた」というベサニーのペンによる楽曲は多くの人に共感を呼び起こす。

 海や夏といったフレーズがキーワードとなり、リアル・エステイトにサーファー・ブラッドといったサーフ・ロックや、ウォッシュト・アウト、ワイルド・ナッシングといったチルウェイヴ系アーティストが活躍する現在のUS。このシーンにおいて、ザ・ドラムスと並んで大衆にアピールする存在といえる。今回もアンセム化必至のコンバースのキャンペーン・ソング「All Summer」でも、キッド・カディとヴァンパイア・ウィークエンドのロスタムというユニークな2人に囲まれながらメインをとっているし、今年の夏女はベサニーで決まりだろう。

 それにしても、スウィートな楽曲とアルバム・タイトルは彼氏であるウェイヴスのネイサンに向けたものなのか、それとも溺愛する猫に向けたものなのか、そこが個人的には気になってしょうがない。

(角田仁志)

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chilly_gonzales.jpg これはかなり面白い。洒落ているが気取っていない。ダンサブルだが、ただのダンス・ミュージックというわけでもない。彼の作品を聴くのが初めてだった僕でも興味深く聴けたし、本作で初めて彼の作品を聴く方も十分楽しめると思う。ボーイズ・ノイズをプロデューサーに迎えた本作『Ivory Tower』、それは単にひとつのジャンルとして片づけることの出来ないサウンドだとアルバムを通して聴くと分かる。

 カナダ出身、フランスはパリを拠点に活動しているゴンザレス。ビョークやダフトパンクからも絶賛されている彼はピアニストでもありラッパーでもあり、プロデューサーでもありと、多くの顔を持つ。ジェーン・バーキンやファイストをプロデュースし、ジェイミー・リデルの新作にゲスト参加した彼の、良い意味でわずかにねばり気のあるピアノは同じフレーズを繰り返すことが多い。しかし、瞬間的にさらっとした音色やフレーズを奏で、ベースやコーラス、電子音が曲の中で動いていようと何だろうと、ピアノが常に中核にある。歌があればラップもあり、歪んだ電子音も強調されているが、やはりというべきか、ピアノの音色が移り変わるごとに楽曲の雰囲気は瞬時に変わり、その瞬間は心拍数が上がるスリルに似たものがあって面白い。とはいえ見惚れてしまうような美しい「Final Fantasy」という曲もあるから良い。

 以前(今もあるのかもしれないが)、渋谷にはパラパラという動作を共有することで連帯感を高めるダンス・ミュージックがあった。そして、それに対するカタチでムーディーな、大人が楽しめるようなハウスがDJカワサキを筆頭に登場した。しかし本作『Ivory Tower』は、踊るためだけのものや大人っぽさといった、何かに特化した、あるいは何か別の音楽へのカウンター的な作品ではないと感じる。

 もし本作をダンス・ミュージックと位置付けるならば、かつて一部(あくまでも一部だが)のレイヴ・カルチャーがただ騒げればいい、といったものとして働いていた、それに対してのアンチである鑑賞を目的としたIDM。それらを内包しつつも、より実験性を高めた実験音楽的な側面を持つ大衆音楽としてリスナーの耳を楽しませるものとして息をしている。このアルバムの楽曲をライヴで披露するときは音源以上にダンス・ビートを強調するのだろうけど(ちなみに、9月にはピアニストとしての来日公演が決定している)、作品においては滑らかで聴きやすく、かつ、耳をそばだてれば興味深いサウンドに満ちている。

 しかし過剰に快楽を与えないところが面白い。快楽によって踊り、または真摯に音楽を聴く行為はある種の救いとして働くが、本作を聴く限り、リスナーを救おうという意志があまり見られない。「ただ楽しめばいいじゃないか!」という声が音楽から聞こえてこないのである。もしかしたら、楽しむこととは、「楽しもう!」と、あらかじめ意気込むものではなく、聴いている最中に、そして結果として、楽しみの心地とは湧いてくるのだということをゴンザレスは知っているのかもしれない。また、彼がダンス・ミュージックを行事的なパーティーで披露する姿が目に浮かばなくもある。爆発的な快楽を与えず、いつ、どこで聴いても興味深く感じられる本作は、計算的化された、とでもいうべきか、パーティーの行事性へのアンチとなりうる音楽なのではないか。そうだとすれば、本作は音楽そのものが持つ、どのような場面でも耳を楽しませてくれるという現在の聴衆の聴取欲求を肯定する。そんな快作でありパーティー的快楽への焦点をずらした異色作でもあると思う。本作は感情の発露のみではなく、ポジティヴな感情の発生として働く。 

(田中喬史)

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i_am_kloot.jpg
 もう駄目だ。もう死にたい。というところが、ない。とどのつまり、ネガティヴな印象を打ち消してしまう音なのだ。歌の強さである。歌の存在感の広さである。決して過剰にポジティヴなわけではないが、歌声はトム・ウェイツやボブ・ディランなど大御所アーティストを彷彿させる。元リバティーンズのピート・ドハーティにも絶賛されているジョン・ブラムウェルの声が苦みを帯びて淡々とうたわれる。その様に悲しさがあり、暗さもあるのだが、歌はもちろんのこと、ギターもドラムも己の感情を抑制した音の全てが胸を静かに、しかし強く打つ。

 マンチェスター出身の3人組、アイ・アム・クルートが発表した5作目となる『Sky At Night』。プロデューサーにはUKで権威ある音楽賞「マーキュリー・プライズ」を受賞したエルボーのガイ・ガーヴェイ(彼はマッシヴ・アタックの新作にも参加)とクレイグ・ポッターを迎えた。メロディもまた素晴らしく、奥行きを十分作ったミックスも手伝い、神聖な森の中でどこからともなく聴こえてくるようで耳を傾けてしまうのだった。そして訪れる胸がすく気持ち。聖域を見付けてあぶり出してくれるようで何度も聴いてしまえる。ソロの、純粋なギター一本のみの弾き語りも聴いてみたくなった。声がアコースティックな感触にはまりにはまっている。

 演奏スタイルは弾き語りに近い。が、しかし、バンド・サウンドとして重心が座っている。幻想的でもドリーミーでもない。その目の前に立って音を奏でているような親密性がより自然に耳を音に傾けさせる。丁寧に選ばれたアコースティック・ギターの音色。残響音までしなやかに伸びていくストリングス。ドラムはあくまで丁寧だ。時にドラマチックに盛り上がる楽曲の構成が暗闇を思わせる音の空間にぽっと明かりをつける。ジャケットにあるような光が感じられ、ジョン・ブラムウェルもまたジャケットに映る木のように、か細くとも堂々と立っている姿が目に浮かぶ。

 木とは本来曲がりくねり、奇形であるが、アイ・アム・クルートは垂直な木なのである。それはひたすら天に向かっている垂直の木のように、偽りの弱さがないゆえ、とても強い。僕らは何気なく死にたいと、口にしてしまうことがあるが、その死にたいという言葉を太宰治と同じレベルで言える人間は少なく、ほんとうならば、弱さを口にできるのは、強く生きた者のみなのである。弱さを見せられる強さ、というものもあるが、アイ・アム・クルートは弱さを発露するのみではなく、弱さを抱えながらもジャケットに映る木のように強く立っている。彼らならビル・エヴァンスが鍵盤の上で亡くなったように、死の直前まで音を奏で続けるだろう。それは音楽が全てである音楽家としての強さなのだ。このバンドには、生きていること自体が強さを、または弱さを醸し出す姿勢がある。そんな本作に、妙に反省させられる。

(田中喬史)

*日本盤は9月8日リリース予定です。【編集部追記】

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sslyby.jpg 「ボリス・エリツィン(初代ロシア連邦大統領)、誰かがまだあなたを愛している」、USインディー・ロックの熱心なリスナーなら、この長くて変な名前をどこかで目にしたことがあるだろう。本作『レット・イット・スウェイ』は、彼らの三作目となるニュー・アルバムだ。 

 人気ドラマ『The O.C.』の劇中曲として使用され、ブレイクのきっかけとなった「Oregon Girl」をはじめ、キャッチーなメロディーとチープなサウンドでローファイ~インディー・ポップ好きのハートを鷲掴みにしてきた彼らだが、本作では一回り成長した、より完成度の高い楽曲を聴かせてくれている。それは、彼らのバンドとしての成長に加え、プロデュースを担当したデス・キャブ・フォー・キューティーのクリス・ウォラの功績によるところも大きいだろう。(良い意味での)青臭さや勢いを残したまま、よりクリアにメロディーの良さが伝わるサウンド・メイキング。同じくクリスが手がけたシアトルのバンド、テレキネシスの昨年のデビュー作にも通じるものを感じる。

 もちろん、一度聴いたら忘れられないグッド・メロディーは健在で、初期ウィーザーやティーンエイジ・ファンクラブ、ナダ・サーフなどを引き合いに出すまでもなく、ポップなロック・バンドが好きな人ならきっと一発で彼らのことを気に入るだろう。2010年、最新のギター・ポップ名盤がここに誕生した。

(山本徹)

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patrick_pulsinger.jpg パトリック・パルシンガーが新しいアルバムを出すと知って、前作『Easy To Assemble.Hard To Take Apart』のようなアルバムでなければ良いなあと思っていたのだが、それは杞憂に終わった。もちろん内容を悪いと思っているわけでは決してなく、傑作とさえ思っているのだが、彼のそれまでの輝かしいキャリアを振り返ると、やはり数々のシングルで見せたテクノ、アシッド・ハウスや、スラッツン・ストリングス&909(Sluts'n'Strings & 909)名義で出した名作『Carrera』の様なサウンドを個人的には望んでいたのだ。

 一聴してダンサブルでありつつも整理されてない感じがFour Tetの『There Is Love in You』に似てるようにも思えたが、Four Tetの音楽が雑踏のような温度があるのに対して、パルシンガーのそれは地下室のようなひんやりとした質感がある。アルバム中「A To Z」は歌メロがクラフトワークの「The Robots」を思わせるし、「ライズ・アンド・フォール」の2:16のディレイの使い方、「グレイ・ガーデンズ」の盛り上げ方など、古典的な手法が多いと思うのだが、この雑然としつつもひんやりとした質感こそが彼の個性だと思う。

 アルバム中、6組のアーティストがフィーチャーされているが、正直言ってフェネス以外はほとんど知らなかったので調べてみた。残念ながら音源を含んだ詳細がわからなかったアーティストもいるので一部になるが参考まで。

 「グレイ・ガーデンズ」でフィーチュアされている、フランツ・ホウツィンガー(Franz Hautzinger)はデレク・ベイリーや AMMの面々とも共演しているトランぺッター。音源をyoutubeで探してみたのだが、これを聴くとエレクトリック期のマイルス的。プロフィールを読んでもっとインプロしてるかなと思っていたのだけど。

 「ライズ・アンド・フォール」のジー・リッツォ(G Rizo)はエレクトロ系の女性ボーカリスト。本人のMySpaceにYouTubeのライヴ映像がリンクされている。かなりパワフル。

 エレクトロ・グッツィ(Elektro Guzzi)はオーストリアの3ピース・インスト・バンド。ステファン・ゴールドマンのMACROからアルバムが出ている。ギター、ドラム、ベース、という構成ながら、サウンドはテクノ。そのアルバムにもパルシンガーは関わっているようだ。これもmyspaceがある。

 このアルバムを入手してからもう何度も繰り返し聴いている。このクオリティのリスニングにも耐え得るダンス・ミュージックというのもありそうでなかなかないものだ。コンスタントな活動を期待したい。

(田中智紀)

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nsukugawa.jpg 増子真二(ボアダムス、DMBQ)をプロデューサーに迎え、やっとこさ完成したセカンド・アルバム。まずはN'夙川ボーイズの説明から始めよう。彼らはその名の通り、神戸の夙川を拠点に活動する3人組ロック・バンド。誰が何を弾くかは特に決まっていない。演奏は私がいままで観てきたバンドのなかで1番下手。そもそも私が彼らに注目したきっかけは「Candy people」という超がつくキラー・チューンを聴いたから。そう、彼らは誰でも一生懸命練習すれば身につく演奏力をかなぐり捨てた代わりに、誰もがうらやむ「ジザメリがJ-Popを演奏しているような」刹那的に美しいバンド・サウンドを手にしていたのだ。ほとんどの日本のバンドが特筆すべき個性を必死になって探し回っているのに、彼らにはそれがとっくに備わっていた。今作からは「アダムとイヴがそっと」が新たな「Candy people」になるだろう。

 かつて私はペイヴメントのファーストを聴いたときにまったく意味が分からなかった。「金もないのにこんなもん買っちまった」とまで思った。しかし、当時の若者がリアルタイムで彼らの登場を目の当たりにした衝撃とは、まさに私がいまN'夙川BOYsを聴いて感じたものと同じだったのだと思う。それと最後に「MA.DA.KA.NA」、名曲!

(長畑宏明)

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d_rradio.jpg 収録時間40分弱に対し19曲という短編集のようなD_rradioの4thアルバムがディストラクションよりリリース。 

 清澄なドローン・サウンドが波のように起伏を繰り返し、遠くではシンセによるストリングスのオーケストラが鳴り響く。短い映画音楽が穏やかに流れるサウンド・トラックのようだ。雲の上を歩くような夢見心地の陶酔感に溺れられる。本盤は、サウンド・スケープは水で滲んだように不鮮明だが、ジャケットまでも含めて、古色蒼然とした映画の連なりを彷彿させる世界観で統一されている。 

 全て集約させることで壮大な物語が初めて浮かび上がってくるように、一つの枠内に収まっている。枠内に収まるというのは、似た曲ばかりで凡庸という意味ではない。かといって似た曲を寄せ集めてアルバムを作っても棚差しされないし、抑制された音楽にはならない。一つの物語をあらゆる側面から眺めた結果として、初めて統一された音楽性、世界観が産声を上げる。 

 蛇足だが、彼らのMySpaceの音楽ジャンル欄は、3つともpopで統一されている。「それは彼らがポップな音楽をやっているのではなく、ポップでファンタジックな映画世界を対象としているだけに過ぎない!」と強引に理由付けることもできるが、単純に彼らがストイックになりすぎず、脱力しながら創作に取り組めている良い兆候だと解釈した方が良いだろう。

(楓屋)

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0.8.jpg 誤解を恐れずに言えば、このバンドの個性は今度の新作(今回はEP)で確固たるものになるだろう。ファーストの時点での彼らのサウンドはメインストリームとハード・コア、あるいは洋楽とJ-POPの間にあるフェンスの上で何とかバランスを保っている、というものだった。既存の枠に収まらないだけに、曲は大衆ポップス以上にメロディアスでそこらへんのアヴァンギャルド・バンドよりエキサイティングだったのだが、どんな言葉を尽くしても説明できるものではなかった。だから私もファーストの時点では、とりあえず「バラッドが素晴らしい」とか、そういうことしか書いていなかった。そして待望のEPがリリースされた。今回は確信を持ってこう言える。塔山忠臣とJMの2人のボーカルが、何よりも素晴らしい。芯の通った塔山忠臣のロッキン・ヴォイスにJMの透き通ったファルセットが乗っかるとき、私は抗えない。「めちゃくちゃ良い曲だ!」と叫びたくなる。つまりこれは今回のEPに収録されている「Fork Guerrilla」のことなんだけど。またバラッドが気に入ってしまった。もちろん、アークティック・モンキーズを早回しにしたような「ビートニク・キラーズ」だって、ちょっと怖くて切なくて最高。うん、切なくて怖い、というのは0.8秒と衝撃のサウンドを30パーセントくらい説明できているかもしれないな。

 このバンドのルーツは掘れば掘る程どんどん「本当の音楽好きが狂気乱舞しそうな」ものが出てきそうだが、私はアーケイド・ファイアのあとに「ビートニク・キラーズ」を聴いたり、あるいはM.I.A.のあとに「21世紀の自殺者」を聴いたりする。つまり私にとって彼らは脈絡が無いから「超魅力的なバンド」なのだ。頑張って聴く必要はない。あなたは必ずこのバンドが好きになる。アークティック・モンキーズ...もっとぴったりの引用があれば良いんだけど。

(長畑宏明)

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sanah_brasko.jpg とても、とてもいいルックス...。美しいジャケットに心底惚れ惚れする。憂鬱げに視線を逸らしながらも、バックに陣取るキラキラした色合いをした幾何学模様のおかげでポジティブな気分も演出した、秀逸なバランスを保ったデザインだろう。

 簡単にスノッブと一蹴しづらくさせる想像力をかきたてるのは、この「夢見る女の子」ポーズを支える手の配置だろうか。たとえば同じポーズをとっているカメラ・オブスキュラ『Let's Get Out of This Country』と比較すると一目瞭然だが、人間の関節の構造からすると腕の角度がややおかしい。肩の描写を意図的に省くことでこのジャケットのファンタジーは成立しており...可憐さをアピールしておきながらも、いざ腕をほどくと(カルトな人気を今でも誇る、カナダ出身ながらヨーロッパに思い焦がれた退廃的耽美派SSW)ルイス・フューレイの『Sky Is Falling』みたいなろくろ首が間違えて出てきそうで、このアルバムが一筋縄でいかないのであろうことを予感させているようだ。

 本作はシドニー出身のサラ・ブラスコ(Sarah Brasko)の自身三枚目となるアルバムである。本国オーストラリアでは既に昨年の時点で発表されて爆発的な人気を誇っていたそうで、それもあってようやく今年8月にヨーロッパやアメリカでリリースされ、日本でも入手しやすくなった。

 音のほうもジャケットやそういった評判を裏切らない、折り紙つきの素晴らしい内容になっている。陰りをもったオーガニックなオーケストラ・サウンドとピアノの旋律に、ロリータ・ビョークとでも呼ぶべき彼女の歌声に耳を傾けていると、アルバムのタイトルどおりに夜を想起させられる。眠れない夜の夢見がちな妄想を形にしたような。プロデュースを手掛けたのは"口笛ソング"で日本でもお馴染みピーター・ビヨーン&ジョンのビヨーン・イットリング(Bjorn Yttling)で、録音はストックホルムで短期間のあいだに行われたようだ。ビヨーンのプロデュース・ワークといえば本作とも少し似た音楽性のリッケ・リー(Lykke Li)もそうだし、これまたカメラ・オブスキュラの近年の傑作『My Maudlin Career』での印象的なストリングス・アレンジも彼の仕事。本作でも多少メロドラマ的ですらある大胆なアレンジ・ワークを見せつつ、暗さ一辺倒には陥らない舵の取りぐあい、洗練のされ方はスウェディッシュ・ポップに通じるものもあるし、サラもきっと抱いているであろうヨーロッパ的な世界観への憧憬もうまく表現している。この音が大ヒットするというのは羨ましい話ですね、オーストラリア。

 いい意味で浮世離れした、ある種のアンニュイさとピュアネスはエル・ペロ・デル・マー(El Perro Del Mar)に通じるものがあるなぁ...と思ったら既に彼女とツアーを一緒に周っていたり、「Over & Over」という曲でアウトロの節回しにトーキング・ヘッズの「Road To Nowhere」のそれをさりげなく引用したり(跳ねる曲調にも少し通じるものが)、既に発表されていた本作のデラックス・エディションではボーナス・ディスクとしてアニー・ホールやサウンド・オブ・ミュージックの楽曲に、ザナドゥのカヴァーが収録されていたりと、ポップスとその歴史に対して敬意や愛情を思わせるトピックに事欠かないのも好印象。一級品のメロディが書けるのも頷ける。最近はホリー・スロスビー(Holly Throsby)やサリー・セルトマン(Sally Seltmann、元ニュー・バッファローにしてファイストの大名曲「1234」の作曲者。こちらも今年リリースされた『Heart That's Pounding』もソングライティングが冴えまくった傑作!)といった同郷の優れた女性SSWたちとレコーディングに取り掛かっているそうだ。リヴィング・シスターズもそうだが、こういう仲良しっぷりは大歓迎。今後の活動にも期待がもてる。

(小熊俊哉)

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kirino.jpg 男性が上位であり女性が従属物であること(家父長制)の否定から始まったフェミニズムが「フェミニズム」という政治的力を持つ大きな団体として社会進出をするとき、そこから漏れ出るものが出てしまうのは『統一』に拘る限りは必然となる。だが、マイノリティである女性を救い上げることを目的として集まった女たちであったはずなのに、フェミニズムを組織化したい多数派が押し出す『統一』というスローガンの下に零れ落ちてしまうフェミニストが出てしまうというイロニーについてジュディス・バトラーは触れている。

 そんな「統一」を拡散させるように、桐野夏生は「個」の内部に降りてゆく。彼女はサスペンス作家の括りになる場合もあるし、最近では、実際の事件をモティーフにした『残虐記』や今夏映画化される『東京島』という社会性を帯びた作品も増えてきた。ただ、僕自身としては彼女の決定打は泉鏡花文学賞を取った『グロテスク』だと思う。文庫本の解説で、文芸評論家の斎藤美奈子が書かれている悲惨で、絶望的で、陰惨な出来事の連続なのに、「読後感は妙に爽やか」だと言う言葉も首肯するところがある。高村薫が現代のドストエフスキーと称されているが、文体は抜きに心理描写の執拗さでは、彼女の方が近い気がする。そして、「ナラティヴ」がまだ持ち得る対・現実への可能性の「何か」を見せてくれる意味での飛距離が長い。
 
 例えば、個人的にこの作品の読後感は、ドストエフスキー『白痴』や大江健三郎『われらの時代』を一気に読みきった時の感覚やスミスのアルバムを聴き通した眩暈のような感覚、ランズマンの『ショアー』を観た感覚に近いと言えるだろうか、兎に角、人間の「深いところ」まで降りていって(井戸掘り)、逆説的にカタルシスと爽快感があるところが「絶望を見つめ尽くした故の希望」なんて態の良いレヴェルではなく、胸に響く。

 主軸となる人物は四人。外国人を父に、日本人を母に持つハーフである「わたし」。その妹であり、誰もが憧れと羨望のまなざしを向けるほど美しいユリコ。懸命な努力の上で、学力で他者より高みに立とうと必死で藻掻く和恵。優秀な成績をとって周囲に一目置かれる存在のミツル。その四人が、エスカレーター形式で歪な差別構造のある中高大一貫私立学校での出来事を軸に、それぞれの人生が展開していく。この作品の一つの主題である「女性社会のヒエラルキー構造」というのは兎角、ややこしいのはよく知っている。ましてや、美/醜、異性、地位を巡っての駆け引きの陰湿さと周到さは自分達男性の矮狭な想像力や感応力では追いつかない「生物として本能的なもの」だとも思う。
 
 美しくて、若くて、家柄が良くて、お金があって...という女性の持つ刹那さと引換えの富裕や「なにもない」が故に、懸命にサヴァイヴする女性の果敢なく根源的な美麗さ。こういったファクトを受容すると、男性は、仕事とか地位とかで様様な生理的なコンプレックスや先天的な何かを置換出来る生き物だという「社会的事実」に時々救われる気分になるがでも、その分、男性性の持つ触れれば壊れるような脆弱さと頑迷さもよく分かるのだが。男性の苦悩は、「抽象性」に抜け、女性のそれは「具体性」に抜ける、なんて凡庸な物言いをしていた人が居るが、それは「一部層」に限ったことであり、男性のエンヴィーや悪意の根深さは存外、タナトスが巻き付いている。

 上記の、ニンフォマニアでセックスを通じて、男を介しながらも快楽と頽廃の一線上を持ち前の美貌で渡り歩きながらカタストロフィーへと傾いでいくユリコ、東電OL事件のモティーフとして昼は一流企業に勤め、夜は街娼をする和恵、悪意と理論武装で俯瞰的に現実を捉えながら、ユリコの影を常に意識して生きてきた姉(自分)、東大医学部へ行き、常に上昇運動を続けようとしたあまり世間的な価値からドロップしてしまい、横軸としての承認獲得の為、宗教に走って大きな事件を起こすミツル、はたまた中国の内陸地から密入国してきたチャン、それぞれ「真っ当」でなく、(そもそも「真っ当」とは何か僕はよく判らないが)、どれにもアイデンティファイ出来ないどころか、都度これでもかとばかりにどす黒い憎悪や悪意やシニシズムや絆の縺れが重層性を持ちながら、絡まり、点と点が線を結ぶように、しかし、その線が図形を浮かび上がらせないレベルの曖昧な模様でドライヴしていきながら、壊れてゆく。

 アイデンティティの確立を巡る、数多の刻苦と駆け引き、ストラグルは悲愴ですらあるが、人間の本質はこんなものじゃないか、と思わせる本能的な滾りに充ち満ちてもいる。

 基本構成は、姉(自分)の手記がメインだが、ユリコ、和恵、ユリコと和恵を殺したとされるチャンの上申書などが絡まっていき、それこそ、各自が各自なりの感情の文脈沿いに言葉と主観性を持って、露悪的な自己顕示欲、他者への冷徹にして歪んだ視線を向け続け、そして結果的に、どれが真実で、どれが間違っていて、なんて事自体を「問う」行為性そのものがナンセンスで無的なものだと(読み手側は)思い知らされるような着地へと向かう中、「藪の中」にある人間(的生物)の持つエグみと果敢なさと、醜いまでの美しさが滲み出てくる最終的な消失点において、視界が「変わる」ように薄いヴェールに包まれた幾つものブルーの残影が具視化されるとき、妙なカタルシスがあり、「こんな世界」に生きている事を恥じるでも、避けるでもなく、当たり前のものとして受け止められる様な気分になることが出来る。

 強いて言う事では無く、イジメとか差別とか権謀術数とか性差とか弱肉強食とか駆引きとか妬みとか悪意とかもうそんなのは生きていくにあたって「前提」でしかなく、それら数多の負性を掻い潜って生きなければならない様態こそが「人生」であって、だから明朗で底の浅い希望的観測なんて深遠な絶望しか惹起しない。ちなみに、別に自分がそうとかではなく、エリートとかインテリとか高学歴社会の方がその実、凄まじい差別や醜い確執抗争があるのを実際よく知っているし、実際、知り合いに聞いた某・私立一貫校でのヒエラルキーの敷かれ方はこの小説よりもっと生々しかった。

 この小説を読んで、新しい視界は開けないだろうし、相変わらず世界は何処までも憂鬱で、時折とても美しく「視える」ときもあるだけのものだろう。但し、表面的にブラッシュアップされた事象や小綺麗にコーディネイトされた(ような)人間の生きる背景には色々な渦巻くものがあるんだよ、という事を教えてくれる重石のような作品として今でも有効な暗みを孕んだナラティヴを描いていると思う。

 人間は安心するために群れるのではなく、より孤独になるために集まるのかもしれない。

(松浦達)

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menstruation_machine.jpg <生理マシーン>とは、女性特有の肉体現象である生理を再現するマシーン。装着すると腹部に微弱な電流が走り、タンクからは模擬の血液が流れる。
 
 女の子になりたい、女の子の気持ちを本当に分かりたいという欲求を持つ男の子タカシ。そのため、女装するだけではなく、<生理マシーン>を作成する。本作は、彼を主人公とした楽曲とミュージックビデオ。ビデオではスプツニ子本人がタカシに扮する。その上で女装してマシーンを装着し、女友達と街に出て遊ぶ模様が描かれている。 
 
 この作品の大きな特徴は、<生理マシーン>がスプツニ子によって作成された実在するマシーンで、そのプロモーション作品でもあるということ。楽曲の制作もビデオの監督もスプツニ子本人により手掛けられている。全てを観ないと評価しにくい一面はあるが、背景を知らなくてもそれぞれを楽しめるようになっている。私には、楽曲でのヴォーカルのキャラクターごとの使い分けと、映像で吉祥寺をブレードランナー的に描いている点が面白かった。とはいえ、後者については<生理マシーン>の存在自体が私の見方を変えてしまっているのかも知れない。
 
 ジェンダーを鋭く衝いている作品なだけに、センセーショナルなものとして捉えられる事は避けられない(実際に発表後には英語圏で毀誉褒貶が激しかった模様)が、これは彼女の抱いているテーマであり、自覚しているからこそ持ち得る軽やかさが良いと思う。

 スプツニ子(愛称・スプ子)はロンドン在住の芸術家。英国の大学で数学を専攻し、フリープログラマーを経、大学院でDesgin Interactions(コンセプチュアルなデザイン論)を修める。本作はその卒業展示で発表された作品で、発表後に英語圏で話題となった。その際、彼女が男性だと誤解されたという逸話がある。

 また、本作はダウンロードの形で販売されているのだが、利益を全額次作に投入している点も興味深い。ブログ等で表明されているアーティストの利益についての考えも地に足が付いているものだ。余談になるが、やはり自らのポリシーの元、独自に活動しているまつきあゆむと旧知の仲というのも面白い巡り合わせだと思う。

 

(*参考リンク)

http://www.sputniko.com/

http://www.sputniko.com/works/sputniko/menstruation-machine

http://n-a-u.jp/video/nau00027-sputniko.html

(サイノマコト)

 

*販売方式についての記述を一部修正しました【9月7日(火)追記】

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caetano_veloso.jpg「僕の音楽は音楽が嫌いなジョアンという詩人の詩の音楽から来ている」(ポートレイト)

 アメリカ大陸の中で、ブラジルだけが何故、「8年も」遅れて発見されたのか、考える事がある。コロンブスでもカブラルの所作でもなく、偶さかポルトガルの漂着船に発見され、しかも当初はインドと間違われた、という歴史の認識はブラジル人のみならず、その音楽にも影響を与えてきたのはカエターノ・ヴェローゾの最初のソロ・アルバム『Alegria,Alegria』を聴けば明瞭に分かる。カブラルの船よりポルトガルの王様へ宛てた手紙のパロディー、シニシズムから、幾つもの暗喩的な暴力性と幾つものカット・アップ。

 今更、トロピカリズモというムーヴメントの説明は不要かもしれないが、60年代が終わろうとする頃、既に彼はジルベルト・ジルやガル・コスタなどと「ロック」はアメリカの帝国主義が不可避的に生み出した反体制的なムーヴメントという「ベタ」に認知していた。だからこそ、レフトフィールド≒ロックという狭い檻を破る為に、68年に彼は第三回国際歌謡フェスティバルで「E Proibido Proibir」を敢えて歌う。「禁じることを、禁じる」という歌。勿論、この歌は拒絶されることになるが、それは「禁じることに禁じられていた」些か無邪気な人たちには違和として響かなかった証左であり、それはグラムシ的に言う「有機的な知識人」が言葉を発した時に起こる影響の震度を明確にしていた。

 僕はいつも思うのだが、60年代のヌーヴェルヴァーグ、ファクトリー、などのマス・カルチャーとアンダーグラウンドな藝術と臨界点を解析して、ヴェルヴェッツやゴダールの「クールネス」を再評価していく波はいまだ尽きないのだが、本来、語り得るべきものはトロピカリズモだったのかもしれない、ということだ。カエターノは、公のバラエティ番組で"「バナナ」(ステレオタイプ的な熱帯)を持っていること"を歌うというオーバープロテストな行為を行なうが、これはオズワルド・ジ・アンドラージの捉えたブラジルを対象化する意味を含意した。"悲しき熱帯"で生まれ、ロックというモダンネスに魅かれたカエターノは案の定、非・モダンネスの反駁を受け、ロンドンへ亡命を余儀なくされる。

 71年の作品では、ポルトガル語を封じて、英語で内省的で悲哀に満ちた世界観をフォーキーなサウンドで提示する。ほぼ同時期のニック・ドレイクの『Bryter Later』との「共振」が今聴くと、感じられるのが興味深い。

 帰国してからの作品群の中で、やはり白眉なのは75年の『Joia』になるだろう。ビートルズの「Help」の弾き語りカバーを含めながら、混迷の時期を抜け、当時の妻であるデデーと息子のモレーノと映ったジャケット画も象徴するように、この時のカエターノはトロピカリズモで必然的に受けたスケアリーも過剰なまでの知的オブセッションも無くなっており、全体的に透き通った美しさが通底している。しかし、作品として評価していくならば、70年代~80年代の概ねの作品は実験精神が先立つというよりは彼の「日記」的な側面と不安定な音楽的な試みが同居した作品群が多いのは否めない。1985年の彼がNYでライヴを行なった際に知り合ったアート・リンゼイでの化学反応がとても良いものをもたらした。

 アート・リンゼイとは少し説明すると、1970年もほぼ終わるころ、ニューヨークのアート・シーンの中でハードコアバンドのDNAを請け負いつつ、ラウンジ・リザーズでのギタリストも受け持っていた「前衛の前衛」たるアーティストで、今でも坂本龍一との交流やソロ作品で見せる多角的な側面をして、マルチな才人だが、彼とカエターノが組んだ1989年の『Estrangeiro』は兎に角、素晴らしく、90年代以降のカエターノの躍進を「確約」させるに余りある内容だった。リズム・パターンの多様さ、「ネオ・トロピカリズモ」を表象した曲などこの先進性はベックなど90年代のオルタナティヴ・ミュージックの潮流を青田刈りしていたとも言え、更には指針にはなっていた。並列上に様々な音楽要素を並べ、位相を少しずつズラす「センス」の音楽。

 80年代以降のブラジル音楽の新進勢がもはやUSよりニューウェーヴ勢のキュアー、U2、ザ・スミスなどUKの音楽の影響を受けてきたものが多い中でのカウンターへのカウンター。そういう意味で言えば、カエターノという人は常に「カウンターへのカウンター」を意識している。ニルヴァーナ的なグランジへの解釈を00年代に確認してみたり、近年のライヴでは良い意味で「非・構成」的なものになっていたり、「出来あがったもの」には「出来あがってきてないもの」を、「出来あがってきていないもの」には「出来あがったもの」を配置する。オルタナティヴという音楽が『Odelay』によって、沸点を迎え、97年にレディオヘッドの『Ok Computer』で墓標を建てられようとした同時期の『Livro』という作品は、オルタナティヴの先を行くマルチ・カルチャリスティックでエクレクティックな内容であり、それは必然的に「代案は本案に回収される」というイロニーを脱構築する早さがありながらも、決してポストモダン的な小文字の音楽ではなかった。

 「退屈することにも退屈している」僕のような人間には、カエターノ・ヴェローゾという人の倦んだインテリジェンスはとても魅力的であり、今でも刺激的だ。05年の来日公演で観た彼はアンドロジナス的な風情を保ちながら、紡がれる音楽はとても蠱惑的で身震いするようなセクシーさがあった。それ以来、来日公演は残念ながらまだ叶っておらず、また、モレーノたちと組みだして、ラフなロックをやりだしてからの動きは僕は正直、乗り切れないところがあるのだが、今年、ボブ・ディランのライヴを観た時に、彼が今プリミティヴなロックへ戻った理由が分かった気もした。つまり、今彼はグローバリゼーション、帝国の時代において、総てが一瞬で皆と「共有」されてしまう磁場へ対抗する為、ライヴでこそ映える「一回性」のダイナミクスに賭けているのではないか、ということだ。事実、カエターノの最近のライヴ映像を画面越しに観ても、伝わるものは少なく、「現場」に居合わせることで漸く感じるパトスがあると思う。配信でイメージが大きくなっていくアーティストが多い中で、反・イメージの肉体性で挑む彼はまたしても、「カウンターのカウンター」に依拠する。自意識で凝り固まった音楽的なコロニアルを「内部」から拡張してくれるという意味で、ライヴという場の美しさを弁えているのは世界で今、有数のアーティストなのかもしれない。

 発見が「8年」遅れたからこそ、彼はその「8年」先を行く。この10年代に愈よ70歳を越えるにあたり、どのような在り方を示すのか、僕は常に追いかけていきたい。

(松浦達)

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versus.jpg 一昨年の奇跡の再結成・来日に感涙した方も多いであろう、ヴァーサスの実に約10年振りとなるニュー・アルバムがここに届けられた。 

 最初に、ヴァーサスについて簡単に説明しておこう。ヴァーサスはリチャード・バルユットを中心に1990年に結成されたバンドで、ティーンビート、キャロライン、マージといったレーベルから5枚のアルバムと多くのシングルをリリースし、90年代のUSインディー・ファンの間で高い人気を博した。2000年に大傑作『Hurrah』をリリースした後にバンドは解散。メンバーはそれぞれ個々の活動を始める。ちなみにヴァーサスに在籍していたリチャードの弟のジェイムス・バルユットは自身のユニット、プラス/マイナスで精力的に活動、00年代を代表するUSインディー・バンドの一つとして高い評価を得ることになる。 

 10年振りとなる本作『オン・ザ・ワンズ・アンド・スリーズ』でも、ヴァーサス・サウンドの根幹となる部分はほぼ変わっていない。絶妙な男女ヴォーカルの絡みに、どこか不穏な雰囲気を醸すコード進行、そして無二のグッド・メロディーの連続。静かに始まり徐々に盛り上がり豪快にバーストする「Invincible Hero」で幕を開け、「Afterglow」EP辺りに近い、暖かい雰囲気を持つ「Gone To Earth」など、ヴァーサスにしか書けない楽曲が並んでいる。往年のファンには懐かしく、若いファンには新鮮に響く、そんな作品になっているのではないだろうか。 

 2000年代に入って10年。多くのバンドが現れ、ジャンルは細分化され、いくつかのムーヴメントが沸き起こっては淘汰されていった。シーンは大きく様変わりしたように見えて、そんなに変わっていないようにも思える。良いものはずっと変わらずに、私たちの耳と心を捉えて離さないだろう。

(山本徹)

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 本作は8トラックのホーム・レコーディング狂であり、宅録ロック界の才人/怪人としてかねてから一部で知られていた(アニマル・コレクティヴに才能を見出され、彼らが主宰するPaw Tracksからも過去作はリリースされていた)アリエル・ピンクが、暗黒耽美レーベルからストレンジでハイグレードなロック/ポップスの梁山泊へとレーベルの性質を変えつつある4ADに移籍し、自身初のスタジオ録音されたフルアルバムである。70年代のAORや80年代のエレポップの影響を感じさせる洗練されたコード・プログレッションと、スタジオ録音とは一聴信じがたいくぐもった酷い録音が特徴で、依怙地なまでにドラムの録音レベルは低い。ダサい青春映画のフレーバーもあるし、サイケもソウルもパンクもロカビリーも、イーグルスもカート・ベッチャーもここにはある。彼は(彼と同じように、山のように夢の島のように宅録音源をこさえまくった)R・スティーヴ・ムーアの熱烈な信望者であったが、単純なフォロワーとしての従来の彼の立ち位置から本作は完全に脱却させ、多くのリスナーにとっての購入指針となっているピッチフォークで9.0の高得点を叩き出し、アルバムリリースから日も経って既に日本でもその存在は周知となりつつある。ちなみに、ジャケットは少しダムドの『Machine Gun Etiquette』に似ている...のかな。

 それにしてもインターネットとは便利なもので、今回のアリエル・ピンクみたいに(若干のハイプも込みで)祭り上げられたアーティストのデータや感想なら特に山ほど転がっており、適当に検索をかけてうまいこと繋ぎ合わせれば上記のような情報をさも自分が初めて発見したように書くことができるし、感想だって後出しジャンケンでよければ目配せの利いためざとい内容をサラっと書くことができる。アーティスト/バンド(名)についての多少の知識と常識的な言語能力、ヒマを持て余すほどの時間、あとは辞書をひけばなんとなく理解できるていどの英語力とお人よしな性格があれば、今は誰でも音楽ライターになれるのかもしれない。

 実際、00年代に登場したビッグネームのなかには上記のような作業を音楽制作にそのまま転化させた"優等生"はたくさんいた。もっと規模の小さい動きでなら山ほどあった。無難なセンスで音楽を作り上げ、無難な誉め方をされ、良心の名のもとに作り手と聴き手の共謀関係が働き、共有言語を用いて生温かいコミュニケーションを楽しみ、内輪で視野の狭い審美眼を競いあうのが今も昔もインディーの世界の暗部であり、そのぬるま湯に心地よく浸ったことも、辟易させられ自己嫌悪に陥ったことも何度だってある。そして、このように告発することすら既に何万回何億回と繰り返されたことであり、≪視野の狭い審美眼を競いあう≫ことの対象となり...うーん、ややこしい。

 ムダに毒づいてしまったが、しかし、アリエル・ピンクの音楽は不思議とそういったものとは一線を画しているように僕には聴こえる。単に思い入れの違いでしょと言われればそれまでだが、この人も先述のような雑食性と膨大な音楽知識の再構築の仕方が器用といえば器用ではあるけども、その裏には小奇麗に飾ることとは真逆の執念めいたものが見え隠れする。あるていど音の整頓が施された本作においても、フリーク・アウトしまくった過去の宅録音源においても、理解しづらいとっつきづらさが聴きこむことで不思議と心地よい人懐っこさへと変わっていく。ファッションとして音楽を楽しむというか、流行の先端を追ったりニッチなCDをひっそり聴いたりしてニヤニヤ悦に浸ることよりは、もう少し有意義でふくよかで人間味のある快楽をもたらしてくれる。この人懐っこさはなんだろう。フライパンで焦がしたネズミの匂いと、冷蔵庫の隅に放置された腐ったバナナの甘みみたいなものが共存する彼の音楽のどこから人懐っこさが?

 彼が宅録人である前に一流のナード・ロッカーであるのは、趣味の悪い学園映画のワンシーンを切り取ったようなPVもある意味で鮮烈だった本作二曲目の「Bright Lit Blue Skies」からも伺うことができる。これはロッキン・ラムロッズ(Rockin' Ramrods)というボストンのガレージパンク・バンドの66年に発表された曲のカヴァー(ちなみに、ダムドも覆面バンド-ナード・ロッカーとしての所作であるところの-"Naz Nomad and the Nightmares"名義でこのバンドの「She Lied」という曲をカヴァーしている)。FACTマガジンで発表されている彼選曲によるMIXもそう。たとえば、一曲目のНИИ Косметики というバンドの「unknown」という曲。曲名どおりでバンド名も知らないし、そもそも読めない。以降に並ぶ名前もふつうのリスナーには聞き馴染みのないであろう名前がずらっと並んでいる。僕だってほとんどわからない(そして、このMIXは最低なことにほとんど終始グダグダで俯いたままてらいもなくキラキラしていて、今みたいな真夏に冷房のない部屋で聴いていたらそのまま溶けてしまいそうだ)。

 興味深いのはそんなリストにプリンスの名前が並んでいることだ。何年か前にアリエル・ピンクの過去のアルバムである『Scared Famous』をCD屋で視聴して陽気に狂ったイントロの10秒で購入を決め、ついでに冒頭曲の「Hardcore Pops Are Fun」というタイトルがカッコいいというだけの理由で『House Arrest』もいっしょに購入し、一週間か二週間、二枚のアルバムをひたすら交互に聴き返していたが、そのとき連想した名前がやはりプリンスだった。アルバムでいえば『Parade』や『Sign O the Times』。ミュージシャンシップや作曲の手腕は比べるまでもなくプリンスのほうが上だが、宅録でしかなしえないファンキーなドライブ感覚や、ときおり瞬間最高風速的に魅せる陽性なメロディの豊かさ、そしてドメスティックな閉塞感とそれに相反する風通しのよさには似通ったものをおぼえた。

 この時期のプリンスといえば、渋谷陽一氏の言説を僕は条件反射的に思い出してしまう。『Sign O the Times』が23年前にリリースされたときに封入された渋谷氏による解説にこんな記述がある(関係ないけど、この解説の冒頭で渋谷氏が「音楽評論家なんて職業は尊敬されることも少ないし、収入も少なく、どう考えても割のいいものではない」といったことを述べているのが、23年後の今となっては実に味わい深い)。

「プリンスを支えるラジカリズムは単純な前衛主義ではない。人より先に変わったことを演りたい、時代をリードしたいというエリート主義ではない。彼をラジカルな音に向かわせるのは彼のシンプルでストレートな、しかし限りなく激しいコミュニケーションの意志以外の何ものでもない」

 後追いの身としては、プリンスと彼のコミュニケーション渇望についての一連の議論はあわよくばギャグとも受け取ってしまいかねないくらいに青臭くベタな内容だとも思ったりした。十分売れてるしチヤホヤされてるじゃん、みたいな。しかし、この文章の主語をアリエル・ピンクに置き換えてみたら...。ピンとこないでもない。なるほど、彼がプリンスに憧れないはずがない気もしてくる。

 そして極めつけはアリエル・ピンクのこのインタヴューだ。

Q.Are you still aware of what people think of you? Do you still care?
A.I think I've got a very good read on my fanbase. I think I do enough research that I'm the expert on who listens to me.

 困った。彼みたいな音楽をやっている人間でも、別に仙人のような浮世離れした思考に陥るわけでもなく、それどころか、フツーの人と同様にウケを狙っているのだ。普通にモテたいだけなら、ルックス自体は整っているのだから、ヘンな音楽を作っているヒマがあればそのだらしなく伸びきった前髪を今すぐ切って、布袋寅泰といっしょにスーツを買いに行ったほうが間違いなく早い。05年の初来日時には便所に籠ってひたすら体に消臭スプレーをかけまくり、自分のバンドのメンバーに手洗いをきちんとしたほうがいいと陰口を叩かれる男が、まともなコミュニケーションに飢えているという事実。そして彼は、ステージではいっぱしのロックスターのように客席に我が身を投じるわけだ。なんだろう。涙が出そうになってくる。

 そんな不器用の結晶である彼のせめてもの成長の証となるのが本作である。既に誰かが何度も論じているように、宅録時代の音源と比較して恐ろしく聴きやすくなりながら、最低の腐臭と人見知りしまくってそうな(あるいは人を小馬鹿にしていそうな)ハニカミ笑いは健在のまま。以前より楽曲にあるていどの尺をもたせたことでキャッチーさと物語性も有することになるが、どの物語も下劣なホラー趣味や常人には理解しがたい愛情表現について歌っているものばかりで、プレス・リリースに書かれた"最高級のイタリア産大理石に吐き散らされたゲロ"という表現がまったくもってお似合いだ。

 特に3曲目以降は彼の独壇場で、不穏でけばけばしく猛烈なテンションによる演奏(曲終盤の展開の目まぐるしさがすばらしい)とともに、御屋敷のマダムや彼女に仕えるメイドへのよくわからない愛情を歌った(素っ頓狂に裏返る声や、"チアーアップ! ポン!" の口角泡が最高に人をくった)「L'estat」や、キーボードの旋律/浮遊感は極上なのに歌詞のほうは"僕は黒魔術師 みんなの血も吸っちゃうよー"で、だからなんだよと首を絞めたくなる「Fright Night」、はみ出し者のホームレスやゴシップへの賛歌や恨み節ともいえる「Beverly Kills」(この曲なんてうねまくるベースも最高だし、まともな人間が演奏したらスティーリー・ダンみたいになりそうなのに、残念ながら恐ろしくグチャグチャだ...)、70年代の黒魔術系ハード・ロックへのリスペクトを思わせる、5分間に渡る激しいリフの反復とうめき声のようなサビのフレーズがインパクト大な「Little Wig」、先行リリースされた際には「お前がまともな曲を作るんか!?」と多くのファンの度肝をぬいたソウルフルな「Can't Hear My Eyes」...と続き、最後は"革命なんて嘘さ"と嘯く、B級ガレージ・サイケ調の「Revolution's A Lie」で緩めのジャム演奏が気だるく続いてアルバムは終わる。

 珠玉は先にシングルカットもされた5曲目の「Round and Round」で、曲名どおりにあらゆる≪既に何万回何億回と繰り返された≫思考や妄想の袋小路に陥ることへの諦念が滲み出ている。呻いている様、救済を求める様、自らを責める様...。イントロのコーラスからブツブツつぶやく惨めさを挟んでサビの神々しさに至るまでの何もかもが美しい。世界の暗部をニヒルに曝け出すことで、膝小僧をかかえたくなる孤独にそっと肩をたたくようなやさしさを、AORとソフトロックのいびつすぎる奇形児といえるこの楽曲はもっている。

 さまざまな音楽的要素を消化吸収し、演奏の達者なバンドを従えながら、どれもこれも一番イヤな方向に機能するよう仕向けられ...。そんな作品がなぜか求心力を生み、結果として彼は彼の望んだとおりにヒップ・スターとなった。僕にとって本作は先述のダムドの覆面バンドや後期ユートピア、ラトルズ、XTCのデュークス・オブ・ストラトスフィアから80年代~現代までのカレッジ・ロック、近年のマックス・ツンドラ...挙げればキリがないが、そういったナード・ロックの系譜に記すべきひとつの到達点である。そのボンクラでナーディな資質と音の鳴りをもって新進の若い世代が彼を「Father Of Chillwave」と評価するのも必然で、その音楽の汚らしさも愛らしさも不器用さも何もかも突き抜けすぎていて共感せざるをえなくて、だからもう...。最後は検索するまでもなく使い古された言葉で締めるしかなく、恥ずかしくて仕方がないのだが、この音楽を愛しているとしか...。そうとしか言えない。

(小熊俊哉)

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local_natives.jpg 格好付けていないのに格好良いというのは実にカッコいいことなのだなと思う。サウス・バイ・サウスウエストで話題となり、海外メディアから注目を集めているUSの5人組インディー・ロック・バンド、ローカル・ネイティヴスの海外デビュー作『Gorilla Manor』。ロサンゼルスはシルヴァー・レークを拠点に活動する彼らのサウンドは過剰にならず、抑制された熱が生み出す音の数々が渋い。が、しかし、ユーモアたっぷりに弾ける曲あり、ドラマチックに盛り上げる曲ありと目まぐるしく移り変わる。
 
 それは楽曲単体にも言えて、ほんのりとエコーを効かせ、音の輪郭をぼやけさせることがあれば、民族音楽的なパーカッションが躍動の色を濃くし、鋭くギターが切り込むなど、多種多様。まるで聴いていると密林の中に迷い込んだかのようだ。しかしそれでも、あくまでもポップでステップを踏みたくなる衝動に駆られる。そして、綺麗なのだ。
 
 ローカル・ネイティヴスの狙うところは具体的に分からないが、とても遊び心のある音楽を作ろうとしたのではないかと感じる。もちろん真摯に音と向き合っているとも感じるが、聴いていて純粋に楽しいのである。ハーモニーに対する解釈が抜群に深い。コーラスはばっちりきまっているし、エレクトリック・ギターのアルペジオや、かけ声に似たコーラスもまた、きまっている。ややノイジーなサウンドすら和音として奏でてしまうところには正直おどろいた。
 
 音量レベルの駆使、ダウン・テンポからアップ・テンポへ、その移行も絶妙で、トリップを誘う数々の音も手伝って魅了された。8曲目のトーキング・ヘッズのカヴァーも良い。本作が絶賛されているのも頷ける。それにしてもこの完成度の高さは素晴らしい。かなり垢抜けている。まだ早いが、この先、どこへ進むのか気になってしようがない。彼らならどのような方向へも進めるだろう。個人的には本作の音楽性をより深く追求してほしい。きっととんでもない作品になるはずだ。それにしてもジャケットもカッコいいな。

(田中喬史)

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mowmowlulugyaban.jpg まず、確認してみよう。セクシュアリティとは、次のように定義されている。「性にかかわる欲望と観念の集合で、自然と本能ではなく、文化と歴史に帰属する」(女性学事典,岩波書店,2002) 。加え、アメリカ心理学会の見解では、「セクシュアリティの構成要素」を4つに纏めている。

 まず、性的指向のある特定の性(gender)を持つ人に対する持続的な魅力(例えば、情緒的魅力、恋愛対象としての魅力、性的魅力を注ぐ対象としての魅力)ゲイ、ヘテロ、バイセクシュアル、これらに加え、異性と同性の双方に魅力など感じない「Aセクシャル」というものもある。第二に、 生物学的性としての、性器における男女差。セクシュアリティを構成するものとして、生物的な性も含むが、これらも男女の二分法だけで考えていけないのは周知だろう。第三に、性自認(gender identity)。これは、自分が男性である、あるいは女性であるという自己意識のこと。戸籍上の性、養育上の性、身体の性、社会的性役割が一致していると認識されている状態に比して、性別違和感を持つ人もいる訳で、この違和を一つの疾患単位としたのが、「性同一性障害」という概念。性同一性障害とは、「生物学的には完全に正常であり、しかも自分の肉体がどちらの性別に属しているかをはっきり認識していながら、その反面で、人格的には自分は別の性に属していると確信している状態」を指す。つまりは、身体の「性別」と心の「性別」が引き裂かれている状況内でも、身体性と精神性の溝に対して強い不一致を感じている人も多い。第四に、社会的性役割(gender role)。社会的に規定された性役割や身体理解などの文化によって後次につくられた「性差」。

 「君は大嫌い でも君のパンティーは好き」と歌う「パンティー泥棒の歌」での「君」はセクシュアリティを帯びていないのは上記の見解の枠内に落とし込めば、容易に解析出来るだろう。だからこそ、下着という「記号」にロジカルなパッションをリプレゼントする訳であり、例えば、くるりが昔に「男の子と女の子」で「いつも女の子のことを考えている」というメタ・ベタな「無」を弁えて、別に、男の子は「いつも」女の子のことを考えていないとすると、女性の下着に拘り、クールにジャム・セッションする後ろにはNO NYの影だって不思議に視えてしまうのは当然で、モーモールルギャバンは昨今の「セカイ系」バンドではなく、引き目のメタ俯瞰で「世界」を観ている。その世界の中に在る自己も冷静に責めているナイーヴなバンドだ。

 「裸族になれば優しくなれるのかもね」(「裸族」)

 第一次世界大戦での経験もあり、1920年にフロイトは『快楽原則の彼岸』(Jenseits des Lustprinzips)において、それまでの「性の本能」、「自己保存本能」の二元論からエロスとタナトスの二元論へと転回した。前者は生の衝動、後者は死の衝動と言えるだろうか、つまり、人間を含めた「生物」といったものは、「生の本能」によって物事を作り出し、建設して行くかにみえるが、その深層内で、それをぶち壊して、「無」に再帰していこうとする死の本能に裏打ちされている訳であり、人間という種においてそこから派生して、一般的欲動には性欲動(リビドー)と攻撃性(アグレッション)という欲動に分類される。

 そうすると、「対象関係論」においての攻撃性、つまり「死の欲動」がモーモールルギャバンの佇まいには在ると言えないだろうか。

 彼等の音はどちらかというと、ジャンクな音ではなく、整合的な破綻を示すスウィング感のあるドラムに合わせてのディスコ的なベースのうねるグルーヴをトーンとしながら、ノン・ギターなものの、ピクシーズ、ナンバーガールといったバンドが見せていた鋭角的な疾走感も強く、また、鍵盤の効果が大きく、独特のローファイさと隙間に溢れたサウンド・プロダクションであり、新進系のバンドの中では演奏技巧力やスムースな演奏スタイルは抜きん出ていると思う。但し、パフォーマンスとその歌詞に過剰なアテンションが集まっているのも周知だろう。ドラムでボーカルのゲイリー・ビッチェの上半身裸で汗だくになってハイテンションに「パンティー」コールを皆に煽る様、そのゲイリーに影響を与えたのが銀杏BOYZだから、そういった青春パンク的なものに回収されてしまう、衝動的なバンドなのか、と言えば、僕は精緻には違うと思っている。

 ドラムを叩きながら、セクシュアルなこと、下世話でどうしようもないことを乱射砲のように叫ぶゲイリー、紅一点のユコ・カティーのシビアな目線、低音のグルーヴを受け持つベースのT-マルゲリータのトライアングルが浮かび上がらせる熱量はとても低温火傷しそうな知的な佇まいさえあるからだ。これはただ「無邪気」だけでは出ないアウラがある。

 『野口、久津川で死す』から、メジャーデビュー・ミニアルバム『クロなら結構です』までの速度と存在の大きくなり方は性急過ぎる気もしたが、自らJ-POPを名乗り、その文脈で、過激にJ-POPを嘲笑うかのように、駆け抜ける中、ふと今回、「悲しみは地下鉄で」という曲でタナトスに張り詰められたディプレッシヴなバラードが入っていて、「僕は死ねばいい」とダウナーに真面目に歌う。

 色モノとして彼等を捉えるには、その色がmono(chrome)であるという視座で捉えると、カラフルなステージと比して、まだスタジオワークは単一色なのがよく分かってくる。このグラデーションが噛み合ってきたとき、「下着」や「テンション」に頼らなくても、正統なポジションと評価を得ると思う。

(松浦達)

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wolf_parade.jpg この音の堂々ぶりたるや頼もしい。それにも増してふてぶてしい。とはいえ、彼らの持ち味のひとつである力の抜けたところもあり、メロディのセンスも良く傑作だ。
 
 アーケイド・ファイアやモデスト・マウスから絶賛されているカナダはモントリオールのウルフ・パレード。彼らの2年振り、3作目となる『Expo 86』。それはかなりの力強さを持ったサウンドがまさに堂々と溢れてくる。前作では様々な音楽要素を駆使し、起用に扱っていたところがややあったが、本作ではどんな音楽要素も飲み込み、はちきれんばかりの迫力がある。まるで音でぱんぱんに詰まった箱から様々な音が堪え切れないとばかりに飛び出てくる。それは時にアクセントになり、時にアクロバティックに宙を舞う。へヴィなギター・サウンドもカッコよく、煌めく電子音も楽曲の表情を豊かにしている。変拍子も良い。怒りのパワーをポップに昇華しているところも巧いのだ。そこにひねくれた歌声が乗っているから楽しい。
 
 特に「Pobody's Nerfect」での切り込んでくるギターと良い意味でぬけた歌声のアンバランスな感覚がユーモアたっぷりでいて痛快。そして豪快。ギター・ソロも決してナルシスト気味になっていないから気持ちがいい。コーラス(かけ声?)もまた痛快なのだ。そしてアルバム冒頭曲からして、今、バンドが良い状態であることが分かる。「行くぞ!」という声が聞こえてきそうなほど突っ走る。全曲通してひたすらに走り続けている本作は、バンドのエネルギーをそのまま何かに変換せずに押しだしている。だからいいのだ。聴くと昂ぶるのだ。一皮むけたという感じなのである。
 
 いわば素をそのまま出している。熱く、濃く、しかしユーモアを忘れずに。出す音の一切に迷いがない。全ての音が一体となったときのカタルシスは凄まじいものがあり、素を出すことに躊躇がなくなったことはアーティストとしての、表現者としての成長だと僕は思う。本作はウルフ・パレードにとってひとつの転機になるのではないだろうか。全てを出しつくした上で、この先どう出るのか。いや、先を考えるのは野暮かもしれない。彼らは今に全力を注いでいる。その姿は美しさすら感じさせる。

(田中喬史)

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books.jpg コンスタントに無難な良作を作っていくアーティスト。それに対し、駄作も発表するけれど、とんでもない傑作も生み出してしまうアーティスト。どちらが魅力的かと言われたら僕は迷うことなく後者と答える。が、しかし、00年にニューヨークで結成し、プレフューズ73とも関わりがあり、9月にはオール・トゥモローズ・パーティーズへの出演を控える2人組、ザ・ブックス。彼らは僕にとって前者であった。箱庭的なフォークトロニカを実に上品に作り、これからも無難に良作を発表していくのだろうなと思っていた。そこにきてこれだ。『The Way Out』。約5年振り、4作目となる本作に、無難なところはなく、大暴投覚悟の勢いがある。
 
 まるでiPodをシャッフルで聴いているようなヴァリエーション豊かな楽曲の数々。初期のフォー・テット的なサウンドが現れたかと思えばポエトリー・リーディングもある。ダンス・ビートを強調し、やりたい放題やらせてくれとばかりにサンプリングしまくった曲もある。その予兆は前作からも窺えたが、まさかここまで出してくるとは思ってもいなかった。DJシャドウ的かと言えば違う。プログレ的かとも一瞬思ったがそれも違う。アクフェンの『My Way』を彷彿させるところもあるが別物だ。などと思っていると綺麗な歌ものも混じっているから捉えどころがないのだが、逆にその捉えどころの無さが興奮を沸き起こす。アコースティックなサウンドにファンクやロックの要素をぶち込んでいるところなど、アコースティックにこだわってきた彼らにとって新境地と言えるだろう。
 
 例えば「I Didn't Know」や「A Cold Freezin' Night」はまさになんでもあり。ずたずたにカットアップされた女性や子供の声がファンキーなベースとヴィブラフォン、エレクトリック・ギター、チェロと絡み合い、やがて音は膨れ上がり、意識がひゅんと飛んでしまうトリップ感がある。「I Am Who I Am」の、ノイ! のビートとドリルンベースが混じったような低音は体にずっしりくるし、吹き飛ばれそうな勢いだ。
 
 この変化は、フォークトロニカと呼ばれる前作(ブライアン・イーノにも絶賛された)が、彼らにとってひとつの極点であり、彼ら自身が満足しきった作品だと感じたからではないだろうか。そうして満足感に浸らず、新たな音楽性を提示する姿勢は音楽家としての高い志しがあってこそ。ただ、どんなに破天荒な楽曲であろうと、彼らの核にあるアコースティック・サウンドが持つ温もりへの愛情が窺えるから、暴力的なところがないゆえ構えず聴ける。アルバム冒頭で語られる「新しい始まりへようこそ」という言葉どおり、ザ・ブックスが表現する新しいサウンドに飛び込んでほしい。


(田中喬史)

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kenseth_thibideau.jpg 彼のバンド参加遍歴(ツアー含む)を羅列していくと、ハワード・ハロー、プリンツ、ルマ・サキット、スリーピング・ピープル、タレンテル等のテンポラリー・レジデンス周辺や、ピンバック、スリー・マイル・パイロットと、実に多彩だ。そんなテンポラリー・レジデンスにとって不可欠な存在であるケンセス・シビデューの初ソロ名義のアルバムがリリースされた。


 レーベルもそうだが、彼の残した軌跡から、本盤もポスト・ロック、マス・ロックの系譜に属するものだろうと勝手に頭から決めてかかっていたのだが、以外にもローファイで抑揚の抑えられたインディーロックだった。フラットながらもグルーヴを感じさせるドラムの上で、ディレイで彩られたギター、サイケデリックでスペイシーなシンセ、囁き声が漂う。どことなくテンポラリー・レジデンスの音楽性を咀嚼した跡もあるが、ここにあるのは純粋培養された彼の本質だけである。


 反復というアルバム名を象徴するように、本盤は平面的な美的感覚を備えており、贅肉がなく、淡々としている。けれども決して歩みを止めないような頼もしさもある。バンドの脱退と加入とを繰り返した彼だからこそ辿り着けた境地のようにも受け取れた。

(楓屋)

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haruka_nakamura.jpg 静かな風に揺られ、小雨の冷たさを感じながら微妙に景色が移り変わる。聴いた途端、そんな心地になる奏でに心を奪われた。坂本龍一や高木正勝などに絶賛されている東京在住の日本人アーティスト、ハルカ・ナカムラ(haruka nakamura)。良質なアンビエント・サウンド、エレクトロニカをリリースしてきたレーベル、Kitchen.から約2年振りに発表したセカンド・アルバム『Twilight』、それは室内音楽的でいて、なおかつ手作り感覚の味がある。「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」と本人が言うように、ピアノを中心とした演奏が眠りに落ちるほど自然に、聴き手の気持ちを夕日が沈む儚い瞬間の中に導いていくアンビエント・サウンドだ。


 鍵盤に水滴を丁寧に落としているようなピアノの奏で。残響音にも気持ちが込められたサックス。やさしいドラムの音色がリズムとしてではなく、ぽっかり空いた心の隙間を肯定するように鳴っている。瞬間的に演奏の表情が変わることはなく、季節が移り変わるほど、気付くか気付かない程度に表情が変わっていくから聴き手も微妙な感情の揺れを体感できるから面白い。ジャジーでありながらもクラシック的な香りがする演奏からエコーがかけられた女性ヴォーカルの、妖しく魅惑的な歌声は可愛らしくもエロティック。過度な主張や激動はないが、ピアノ、サックス、ドラム、ギター、そして歌声が穏やかに絡み合い、夕方から夜までの物語を紡ぎ出す。そのストーリーを貫いているがゆえ、演奏にぶれがなく、音の世界観に包まれてしまう。だがその世界観は哀しみの色を帯びているのだ。


 人は出会い、わずかに理解し合い、多く誤解し合い、無数に邪推しあう。無垢な美しさの中にも日常における違和感が存在し、「The Light」での歌声は清涼感に満ちているのに孤独も同時に紡ぎ出す。日常の喜びと同時に哀しさも含んでいるのだ。この音楽を聴くことは現実逃避には成りえない。本作はフィクションではないのだ。ありのままの生活を切り取った本作は胸に刺さるところもある。音楽に吸い寄せられ、音の中に身を置き、清々しさを感じ、また、涙しそうになりもした。
 前作は本作より装飾されていたが、装飾を脱いだ本作は、前作以上に親密で、裸の姿を押し出したと言っていい。それはとても孤独な音、そして姿だ。しかし音楽を聴くこととは孤独を慰めるためだけにあるのではない。時と場合によっては孤独だからほっとすることもある。音楽はもともと人々が団結するために生まれたが、その本来の意味から離れ、儚さと孤独を提示する本作を聴くと、孤独というひとりの時間が、とても尊く、必要なものだと感じられる。


 「陽が沈んでから夜が来るまでの淡く美しい、その時間へ捧げる」という、音による風景描写が心理描写に繋がった本作。それは感性豊かな者ではないと決してできない。嘘のない感受性を聴いてほしい。

(田中喬史)


*最初にアップされた原稿では、ハルカ・ナカムラを女性と誤解した部分がございましたので、訂正した原稿をあらためてアップさせていただきました。大変申し訳ありませんでした。【8月12日追記】

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move_on_ten.jpg やはりオウテカはリスナーを愛している。だが同時にあまのじゃくだ。彼らの音楽を語る際、その複雑性ゆえに難しく捉えられること多々。僕もまた難しく捉えるひとりではあるけれど、今年発表された『Oversteps』同様、本作「Move Of Ten」EPも、リスナーを戸惑わせることなく00年代の作品より親しみやすい。つまり、よりポップなのだ。ミニマル・テクノもマントロニクスのようなリズムもカジュアルに着こなしているところがクール。迫ってくるのではなく音の全てが個別に耳に入ってくるシンプル性があり、それが一つひとつの音が持つ表情の豊かさを聴き手がはっきり感じ取れるものとして働いている。
 
 『Oversteps』に比べ、本作はビートが効いた楽曲が並ぶが、ダンス・ミュージックを意識しているオウテカなりの、人を踊らせるリズム、サウンドがある。徐々にビートの弾力を変化させるところや音の質感を変え、ファズを効かせたように歪ませるのも、聴き手を飽きさせたくない、驚きを常に与えたいというリスナーへの愛情として僕は受け取った。特にストリングスで不穏な空気を醸し出したかと思うと、次の瞬間、ぐっと絞られた電子音にスカッとし、協和音も不協和音も躍り出てくる。その瞬間的に移り変わる音色が聴き手の感情を揺さぶり、時に乱れさせ、清々しい音と危険性を感じる音を交互に、または同時に鳴らしてしまうのは彼らのひとつの特徴だ。本作でそれを押し出し、乱れ、踊ることの快楽を与えられることに興奮する。
 
 それはディファ有明で行われたライヴでも窺えた。スリリングでいて馴染みやすく、踊れる。彼らの核にあるものはダンス・ミュージックであると、ライヴを体験し、本作を聴くとより強く感じる。本作「Move Of Ten」EPは、『Oversteps』ほど音そのものの情報量が豊富だとは感じなかったが、ライヴ盤感覚で聴ける作品でもあると思う。
 
 それにしてもメロディを重視した『Oversteps』を発表した後でリズムを強調した本作を短いスパンで発表するところに「僕らはメロディ志向になったわけじゃないんだよ」というメッセージが透けて見える。メロディ、あるいはリズムといった側面だけではなく、あくまでも多面性のある音楽をやりたいしやっているんだ、というオウテカの意志があるのではないか。オウテカは『Oversteps』と「Move Of Ten」EPで、彼らが持つ多面性の中で、メロディとリズムという2面性を分かりやすく提示した。それはオウテカにとって音楽性を整理するという意味もあったのかもしれない。そうだとすれば「人間の脳を刺激したい」と言うオウテカだ。このまま終わるはずがない。むしろ創作意欲は脂ぎっている。まだまだ早いが彼らが次にどうでるのか楽しみだ。それまでの間、『Oversteps』とともに本作「Move Of Ten」EPを楽しもうじゃないか。無論、この作品そのものも格好良い。

(田中喬史)

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hanson.jpg 1曲目の「Waiting For This」から最高にご機嫌でスウィンギンなポップ・ナンバー。まさに私たちも「これを待ち望んでいた」。サウンドはモータウンを基軸としているものの(フランク・ブラザーズのベーシストが半分の曲で参加)、かつてアメリカを嬌声の渦に巻き込んだデビューの頃の溌剌とした印象はぜんぜん失われていない。渋みを増すことはせず、ひたすら音楽的な技術と、自らのバンドが持つ天性のメロディ・センスに究極まで磨きをかけた結果、誰もがハンソンのことをテイラーも参加したティンテッド・ウィンドウズ以上に優れたポップ・バンドだと認めざるを得なくなった。大人になったのではない。彼らは本質的には何も変わっていない。そもそも彼らのサウンドは「若さ」と「アイドル性」を抜きにしてもきちんと語られるべきものだったのだ。すでに日本盤も発売されているし、彼らのサウンドの素晴らしさを再確認するにはうってつけのアルバム。最初ははまるかもしれないけれど、何度も聴いたら飽きるんじゃない、って? 彼らが歩んできたキャリアはそんなに薄っぺらいもんじゃないぜ。たしかにミッキーがドラムを叩いていたって不思議はない音だろう。だが、ハンソンはそんなに簡単に醒めてしまう夢ではない。

(長畑宏明)

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liveing_sisters.jpg 好きとか、思い入れとか、それ以上の好意を示す言葉あるとすれば、それは愛という漠然とした言葉になるのかもしれないなと思う。ザ・リヴィング・シスターズのファースト・アルバムは、古きアメリカン・ミュージックへの愛情に満ちている。まったくこの柔らかさといったらなんであろうか。綿毛に包まれているような心地の良さ。フォーク、カントリー、ジャズを愛しているといわんばかりの音楽性は懐古的と言えばそうなのだけど、ふわふわしたサウンドにすっとオルタナティヴな響きが入ってきて品の良いスパイスみたいに香る。

 ザ・バード&ザ・ビーのイナラ・ジョージ、ラヴェンダー・ダイアモンドのベッキー・スターク、そしてシンガー・ソングライターのエレニ・マンデルの女性3人によるグループ。彼女たちの『Love To Live』、それはシェルダン・ゴムバーグとの共同プロデュース。再生した途端、体に暖かい明かりを灯してくれるウィスパー・ヴォイスやコーラスには甘い解放感があり、サックスもギターもさりげなく朗らかで眠りの昏睡に似た感覚がある。ベッシー・スミスとナンシー・ウィルソンのカヴァー2曲を含む全10曲。気付けばディスクが回るのをやめている。

 彼女たちにはこの作品を作らなければならない理由があったと思える。アメリカン・ミュージックをルーツとする3人それぞれのリヴィング・シスターズ以外での音楽活動を、自分で肯定できることを目指し、つまりは過去を肯定できなければ現在を肯定することはできないわけで、どの楽曲も肯定という名の愛情に満ち溢れているものだから、ああ、ほんとうに、彼女たちはアメリカン・ミュージックをリスペクトしているのだなという気持ちが音を通して伝わってくる。それが心地いいのだ。

 セクシャル・ハラスメントのつもりはないけれど、歌声にどこか処女性を感じさせるところがあり、清楚というかイノセントな響きが感じられる。なおかつロマンティックで瑞々しい美しさに意識が埃を払うくらい簡単にさらわれてしまうよ。それは甘美なトリップ感。歌声だけでも素晴らしいのである。伴奏も素晴らしく、職人的な巧さがある。遠近感を意識したミックスや間の取り方も絶妙だ。いわば自らのルーツ・ミュージックへのオマージュ的作品として位置づけできるのだけど、茶目っ気あふれるサウンド・エフェクト。重なっていく音の層。凝ったアレンジ。そのどれもが新鮮性に満ちている。より高みへ登ろうとする意識があって現在の音楽シーンから外れてはいるものの、それがなによ、という気質も窺えて聴いていて嬉しくなる。ぜひこのメンツでセカンド・アルバムも発表してほしい。やっぱり音楽に愛って大切なんだなあ...。

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gutevolk.jpg 押しても引いてもびくともしない。小鳥である。光である。無垢である。あくまで西山豊乃なのであって、彼女のソロ・ユニット、グーテフォルク(Gutevolk)は、約3年振り、レーベル移籍第一弾の3作目となる『太陽のシャンデリア』においても小鳥のようであり、光のようであり、押そうが引こうがびくともしない個性が確立されていることを示す。やはり無垢なのだった。
 
 ウィスパー・ヴォイスとともに強すぎず弱すぎずの電子音が静かに跳ねて、ストリングスが気持ち良さそうに伸びていく。そこに鐘の音色やヴォイス・パフォーマンス、水の中で弾ける泡の音色をサンプリングし、刺のないメロディとともにゆったりと流れていく。もしクリスティンがいた頃のムームが2010年に作品を発表していたら、本作のような音楽になるのではと一瞬思った。
 
 細野晴臣や高木正勝、矢野顕子などから絶賛されている彼女の音楽はいわゆるフォークトロニカと言えるが、室内音楽的なファースト・アルバム、大胆なまでに電子音を強調したセカンド・アルバムに続き、『太陽のシャンデリア』では過去2作の良い部分を取り出し、余計な音を削ぎ落とし、必要な音だけ鳴らしているから耳にひっかかるものがない。次から次へと顔を出してくる音が西山豊乃の歌声に寄り添い無個性だった景色にひとつの集約点が生まれていくようだ。美しい記憶の断片を拾い集め、音にし、それは谷川俊太郎の詩のように美しい。さながらジャケットに描かれている木に小鳥が集まって音を奏でているみたいでもある。
 
 そんな音に包まれれば邪気なんてものは消えてしまうし、特に彼女のロリータ・ヴォイスと言っても差し支えのない歌声を聴いていると、その歌声の破綻の無さも手伝って、ゆっくりと風船がしぼんでいくように体の力が抜けていく。まるで全てを肯定されているような心地。それこそが彼女の真骨頂ではあるけれど、イージー・リスニング的にだけ聴けるものではなく、ほら、踊りましょうよ、という具合にややダンサブルなビートを交えている曲や、ビートをずらしているところ、ひねたアコースティック・ギターの音色すらあり、ちょっとした刺激を与えてくれる。それが面白くて楽しくて興味深くて耳をそばだててしまう。お釣りで一万円札が返ってきたときのような驚きを忍ばせているから何度も聴ける強度を持っている。
 
 そこにグーテフォルクの成長が窺えるから嬉しい。音楽に遊びを入れられる余裕が今の彼女にはあるのだ。チルアウト的な音楽だと捉えられそうだけど、そう捉えるリスナーに、ふふふとちいさく笑う彼女が音の奥にいるのが見えてきそう。「実はね」と。「実はけっこう複雑なことしてるのよ」と。そんな余裕もまた無垢だ。西山豊乃自身が「現時点の最高傑作」と呼ぶ本作。これはチルアウト的ミュージックの極点、あるいはカウンターになりうるかもしれない。この作品を聴いて受け身で癒されるだけじゃ何も起きないなと思いもした。面白いことやらなきゃ何かが起こる以前に何も響かないのだと。


(田中喬史)

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no_one_knows_about_persian_cats.jpg ポップミュージックの規制厳しいイラン。首都テヘランを舞台に若者たちの音楽への情熱と自由への希求を描く。実在の事件、場所、人物に基づいて、名作『亀も空を飛ぶ』のバフマン・ゴバディ監督が当局に無許可でゲリラ撮影を敢行した作品。

 ストーリー・ネガルと、そのボーイフレンドのアシュカンはともにミュージシャン。インディ・ロックを愛する彼らは、自由な音楽活動ができないテヘランを離れてロンドンで公演することを夢見る。そのために2人は危険をかえりみず、偽造パスポートを取得しようとする。2人は音楽のためなら何でもござれの便利屋ナデルを頼るのだが...。

 出演者のほとんどは実在のミュージシャンたち。主役の2人は、撮影が終了したわずか4時間後にイランを離れた。この物語は彼らの実際の経験に基づいている。コンサートもCD発売も許されていないミュージシャンを撮影するために、ゴバディ監督は、当局に無許可でゲリラ撮影を敢行。テヘランの市井の人々の逞しきユーモアと若者たちの音楽への情念...そして自由への溢れんばかりの痛切な想いを映画に込めて。ゴバディ監督も本作を最後にイランを離れた。と、以上公式サイトから参照。

 セルフドキュメンタリーのようなモキュメンタリーのような作品の印象を受けるのは実際のミュージシャンたちが簡単なプロットを元に即興で演技をしているのだけど、それは彼ら自身でもあり、彼らの言葉や思想となんら変わらないからだろう。 庵野秀明監督『式日』という作品で「監督」役を実際の映像作家である岩井俊二氏がそれを演じたようなことに似ている。小説のことは小説家にしかわからないと言うような、映画監督の事は映画監督に、ミュージシャンのことはミュージシャンにしかわからないのかもしれない。

 「ここではない何処かへ」行きたいという希望、ここでは息をするのも苦しい、音楽が好きで自由にやっていたい、だけどもそれを政府は許してはくれないという苦悩とすべての35ミリの機材は当局に帰属しそれらを使うには当局の許可が必要な映画監督の気持ちが重なっている。

 バフマン・ゴバディ監督がスタジオでアンダーグランドのミュージシャンと知り合う。しかし政府は彼らがまるで悪魔崇拝する危険な人間だと中傷して彼らのことが国民に知られないようにしている。
 
 監督はイランにいる本当の若者を撮ろうとした。実際にネガルとアシュカンは拘留されて釈放されたばかりで18日後にはイランを離れる予定だった。その短い間に撮影されたイラン映画史で初めて反体制的な若者に対する政府の厳しい対応を公然と批判した作品になっている、検閲されていないテヘラン、許可を得ていない撮影がそれを可能にし世界にイランにいる若者の姿を伝える事ができている。

 ミュージシャンたちの音楽と共に流されるテヘランの映像が、今まで見た事のない街の風景が色鮮やかに映し出されてくる。少しばかりPVを何本も見ているような感じにはなるのだが、ロック、フォーク・ロック、リズム&ブルース、ヘヴィメタル、ラップと多様な音楽が鳴り響く。

 現在イランで最も広く聴かれているラップミュージシャンのヒッチキャスと便利屋のナデルのやりとりを観ていてラッパーってのはどこにいても同じような事を言うんだなって思ったりした。社会問題を歌うラッパーって世界のどこにいてもなんだか意識的には似てるし、それがラップの根本なのかもしれないなあって思った。僕のイメージだとTHA BLUE HERBのMCのBOSS THE MCみたいな人だなって。

 ネガルとアシュカンがコンサートをするためにいろんなバンドに会ってメンバーを集めていく。その中の一人はストロークスのTシャツ着てるし、アシュカンは夢を語る時にアイスランドに行ってシガーロスを観るんだと言う。どれだけ政府や当局が何かを押さえつけようとしても彼らはネット等で国外の事を知っているしそれ故に自分たちの国の不自由さにムカつき抵抗しようとする。

 しかし、国内で音楽活動ができないのなら国外に出て行く彼らは音楽という翼で世界に羽ばたこうとする。映画を撮り終えて彼らは国外に出て行った。監督も現在はイランを離れている。

 しかし彼は去年の東京フィルメックスで来日予定だったがヴィザの発給が間に合わない理由で中止されている。そして本作が公開されるプロモーションのために来日しようとしたがパスポートの更新ないし査証欄増補が認められずに来日を拒まれた。現状においては彼はイラン国民として来日されている事自体を拒絶されている、それはイラン政府の意志でありそれに消極的ながら加担してしまっている日本政府の意志であるとのこと。イランの政治が現状のまま続く限りもはや国帰ることはできない。帰国すれば即逮捕され不当な扱いを受けることが明白に予測できるからだ。

 閉塞された国から飛び出していく事でしか伝えられないものがこの映画にはあり、現時点では戻る事ができない彼らが世界に伝えるのは自分たちと同じような若者がイランにはたくさんいて閉塞した中でも音楽活動し音楽を楽しんでいる人達がいる。それを阻もうとする政府があり、その現状が世界に伝えられていないということを彼らの音楽とテヘランの街の風景と疾走感がヴィヴィッドに映し出されている。

 だがネガルとアシュカンは中流階級というか裕福な家の出だと思うし、彼らはこの国から出て行くことができる。テヘランの若者を描いているが彼らのように自由に自らの意志でこの国を出て行くことができない若者達の方がたくさんいる。「ここではない何処かへ」行きたくても行けない若者はそこに留まり現状の政府に対して行動し政治を変えていくこと以外に方法はないのだろう。

 いつだって、そこから羽ばたいていく者とそこに留まる者がいる。選べる者と選べない者がいる。僕が気になるのは羽ばたいていった彼らではなくそこに留まりこれからもそこで生きていく多数の彼らの物語だったりするのだけど。それが観れるのは現時点では無理だろう。だからこそ今は出て行った人達が語ることで少しでも現状が変わるきっかけになるのならばこの作品が世界で観られる事に非常に意味がある。

(碇本学)

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gold_panda.jpg  『Companion』リリースに伴ってのインタヴューで名前の由来を聞かれたゴールド・パンダは「好きな物を2つくっつけたら、って彼女が言ったから」と、"インダストリアル・メタルバンドみたいだからやめた〈ピンク・ワーム〉"に次いで出てきた〈ゴールド〉と〈パンダ〉をそのまま採用したのだと返していた。ゴールドも動物名も現代のシーンにおいては頻出単語であるとの追撃に対しては「彼らとは音楽性が似てないから」と断って、「別にいいや」とあっけらかんと応える彼のことがわたしは、気になってしょうがない。



  「ドラムマシンのビートにオリエンタルなサウンドをミックスした音楽を今後も作り続けて行きたいね」(CINRA/ 16 Apl,10)

彼の住んでいたイースト・ロンドンはタワー・ハムレッツという場所は、インド、パキスタン、バングラディシュ系の人間が犇めくコミュニティのある、曰く子供は「モスクから流れる音楽を聴きながら育つ」ようなところで、インド人であった彼の祖母の影響で「サンライズ・ラジオ」というインドのラジオ・ステーションから流れてくる音楽によく耳を傾けていたという。そうなると彼が「Quitters  Raga」、或いはアルバム・リリース後にドロップされた「You」 EPに於いてエスニック対する傾倒が見られるのもさもありなん、である。



 彼のオフィシャルな肩書きは「UKはイースト・ロンドンのダブステップのプロデューサー/リミキサー」で、クリエイション・レコーズのスタッフでもあったマーク・ボーウェル、ディック・グリーンが00年に設立し、現在はハー・スペース・ホリデイ、エスパーズ、ビート・コーストらを従えるUKの名門インディ・レーベル、ウィチタ(Wichita)がマネジメントをとっている。レーベル・メイトであるシミアン・モバイル・ディスコやブロック・パーティー、またはリトル・ブーツのリミックス・ワークで先に、プロデューサーとしての彼の名前を耳にした方も多いかもしれない。ただし「ダブステップのプロデューサー」という括りは彼の目は懐疑的に映るようだ。確かに、彼の持ち合わせるジャジー・ヒップホップ、オピエイト(Opiate)然としたアブストラクトなビート、メロディックにシンコペイトしたリズムとそれに合わさる東洋的なエキゾチズムは、その「複雑」性からして、既存の「ダブステップ」なる概念とは素朴に重ねることが出来ない。例えば新気鋭のダブステップ勢として同列に語られることの多いパンクス・サウンドチェック、ヘッドマン、ラスコ、デッド・フェーダー等を見ていると一目瞭然だが、カラーの全く違う彼らの場合、「ダブステップ」は異なるジャンルをミックスしていくためのプラットフォームに過ぎないのかもしれない。

 ダブステップのセカンド・フェイズに位置付くポップなトラック・メイキング、メロディックでシンコペーションの強調された変則的なリズム、ミニマルで、センチメンタルなアプローチに、フォー・テット、サーレム(salem)的インディー・エレクトロ、クリス・クラーク、リチャード・D・ジェイムズの繊細なテクスチャ、或いは美しいアンビエント。ノー・フューチャー(NO FUTURE)一派としてテクノ・ユニットであるサブヘッド(subhead)の一人でもあった彼は、相方フィル・ウェルズの死をきっかけに、「自信はなかったけど、もう少し音楽をやってみようと思った」という。「音楽は僕の憂鬱な気分を揚げてくれるから、だから音楽を作ってるんだ(Hard To Explain/ 28 Feb,10)」。

 「チルアウト」や「センチメンタル」といったアティチュードを通底して持ちつつ09年後半以降、US,UKインディー界を湧かせている彼らについては、既に水面下での遣り取りはあったものの、それは言わば噴火寸前の活火山のようなもので、明らかな熱量を帯びておきながらも広く伝搬されることはなく、一部のインディ・ファンの間で沸騰していただけだった。それが『Companion』を始め10年代にリリースされたアルバム群によって愈よ、顕現化されてきたように思う。

 そもそもわたしは「ニュー・レイヴ」、「ニュー・エキセントリック」といった一連のムーヴメントには全く「乗れ」なかった。アフロ(ビート)への傾倒やら、シンセサイザーをフィーチャーしたハイトーンで無機質な音楽はどうも「祭り」の「喧噪」のようで、カラフルな衣装を身に纏って無邪気に踊(っていたと思われ)るキッズ達を傍観していたら、多文化主義の孕む強烈なリジェクトといえばイスラム系の女性が信仰を「露」にすることを「マス」に認可されなかったことが記憶に新しいが、アフロビート、若しくはハイライフを語るにつけ、その独特の「昏さ」ばかりが見えてきてしまって、過剰なセンチメンタリズムに浸ることの方が多かったからだ。宗教的・歴史的側面を引用するまでもなく例えば、「愛する人が欲しかったら、クラブに行けば良いかもね。でも君は踊ることが出来なくて倦んでしまうだろう。そして家に帰って、泣きたくなるんだよ」と歌ったモリッシー宜しく、「祭り」は楽しいばかりのものでは本質的にはない。

 先に挙げたムーヴメントを「パーティーの喧噪」と記述したが、だから「パーティー」の後に「チルアウト」というタームが来たのも当然の流れであるように感じるし、踊り疲れて捌けていく客の波を縫ってDJブースのセンターに付くわたしは俄然、元気になる。「音楽体験は本来、個人的なもの」なのだ。因みに、先に引用したスミスの「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」ではこう続く-「今っていつだい?いつになったら僕は、人から愛されるっていうんだい?」。

 「そんな瞬間」は多分訪れないからして、「個人的な動機」を胸に「不可能」性に着いて踊るのは、私は悪くないと思っている。


(黒田千尋)

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