reviews: 2010年7月アーカイブ

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 アシッド・フォーク調のバッキングに乗って、愛らしいカレン・Oの歌声が聴こえてきた瞬間、はっと息を飲んだ。オープニングを飾るヤー・ヤー・ヤーズによる「The Love I'm Searching For」、ムーグもディストーション・ギターもヴァイオリンも、印象的なコーラス・パートさえも大胆に削ぎ落としたこのアレンジからは、ヤー・ヤー・ヤーズの表現者としての優れた手腕を感じるとともに、世に出てから15年経った今も全く色褪せないレンタルズの楽曲の普遍的な魅力がひしひしと感じられた。

 トリビュート・アルバムには2つの楽しみ方がある。ひとつは「そのアーティストの影響を受けたアーティスト達による、それぞれの解釈での楽曲の再構築」を楽しむこと。そしてもうひとつは「カヴァー・バージョンを通しての、オリジナル・バージョンの魅力の再確認」という楽しみ方だ。このアルバムは、その両方を十二分に楽しめる作品になっている。例えばモーション・シティ・サウンドトラックのように原曲に忠実なアレンジで盛り上げてくれるバンドもいれば、コープランドのように楽曲の新しい側面を覗かせてくれるバンドもいる。

 参加アーティスト陣も豪華で、アッシュのような中堅どころからトーキョー・ポリス・クラブのような若手バンド、<ラフ・トレード>のコンピにも参加していたエジンバラのアバーフェルディや、<サブ・ポップ>のポップ・デュオ、ヘリオ・シークエンスまで、幅広い個性的なラインナップで聴き手を飽きさせない。

 ラストのアジアン・カンフー・ジェネレーションによる「Hello Hello」(レンタルズのレイチェル・へイデンがコーラスで参加!)や、ボーナス・トラックのレンタルズとアジカン後藤氏による「A Rose Is A Rose」の日本語バージョンはさすがの仕上がり。とにかくレンタルズ、そしてマット・シャープというアーティストへの愛がひしひしと感じられる、そんなトリビュート・アルバムだ。頭三曲がレンタルズのファースト・アルバム『レンタルズの逆襲』と同じ並びになっているところも、イイネ!

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 2008年に双葉社より刊行され、2009年度本屋大賞を受賞しベストセラーとなった湊かなえのデビュー作『告白』の映画サウンドトラックです。

 なんといっても特徴的なのが、これに収録されているアーティストの並びです。

 これが初の日本映画への楽曲提供となったレディオヘッドに、渋谷慶一朗、Boris、相対性理論のやくしまるえつこと永井聖一による共作曲に、AKB48、The xxなどなど、明らかに異様なこの顔ぶれ!(笑)。

 秀逸なミステリィに必要不可欠なポイントとして挙げられるものの一つに、プロット(構想)の組み方の巧さがあると思います。プロットが生み出すテンポの緩急が、非常に重要だということです。そのテンポの緩急、受け手側の感情意識の流れを引き立てるように、そして物語の展開に呼応するように選曲されたサウンドトラックだと思います。

 AKB48が流れたと思いきや、レディオヘッドや渋谷慶一朗のクラシック要素を含んだ楽曲が流れるという、この不気味でシュールな感覚。この一見不自然で、違和感を感じるのだけれど、どこまでも現実的であるという部分が『告白』という作品とリンクしているように思います。

 サントラとして聞いても非常に面白いのですが、個人的には是非映画も見てほしいと思います。『下妻物語』『嫌われ松子の一生』などを手がけた中島哲也が脚本、監督を担当し、主演の松たか子の演技も非常に良いです。是非!

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 統一感のあるスタイリッシュなジャケットでお馴染みのドイツのレーベル、<Sonic Pieces>より、夏に向けての新作が届けられた。電子音がアコースティックギターの周りをたゆたうように泳ぐ音楽を届けているフランク・シュルゲ・ブラムと、Goldmundあたりよりもさらにクラシカルなピアノ・ソロアルバムで好評なナイルス・ファームによる共作。

 ポスト・クラシカルな雰囲気はなく、Mountainsあたりのエクスペリメンタルでフリーフォームなスタイルを築いている。内容が近似しているのは、どちらかといえばBLUMMのアルバムであろうか。五月雨系のアコースティックギターは伸び伸びと爪弾かれており、可愛らしいベルや、ピンポン玉が床を跳ねる音など、小さなものがひそひそと談笑するような、こまごました音が配置されている。それらが各々、フリーフォームでアブストラクトに自分のペースで静かに動きだす。そこに潤沢なピアノとギターとが基盤となることで、エクスペリメンタルでありつつも優しい子守唄のような温かみが生みだされている。

 全ての楽器や電子音が気持ちの良い音を鳴らしたいだけ鳴らしている。それらからメロディの欠片が抽出され、全体として大きなメロディが浮かび上がってくる。リビングにある雑貨だけで作れそうなプライベートな音楽だ。とても肌触りが良い。

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 例えば、『(500)日のサマー』で、主人公が聴いていた「There Is A Light」。また、ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートやザ・ドラムスといったバンドの音楽性。そう、現在のUSにはザ・スミスの影があちこちに見られる。英国的なセンスが強く、活動していた時代には見向きもされなかったものの、今のUSインディのキーワードとして、ザ・スミスは大きなものになっている。

 さて、今回紹介するワイルド・ナッシングも明らかにスミスの系譜を受け継いだアクトだ。ジャック・テイタムという青年のソロ・プロジェクトなのだが、この青年、エイブ・ヴィゴダのサポートでギターを弾き、トロピカル・パンク・バンドのフェイスペイント(Facepaint)やジャック&ザ・ホエール名義でシンガー・ソングライターとしても活動する、という多彩な活動をしている青年だ。いや、それだけの活動ぶりと音楽ギークなところがなければこのデビュー・アルバム『Gemini』は生まれていないだろう。

 スミスを思わせるキャッチーなメロディに、マイブラ譲りのホワイト・ノイズ。それはまるで美しき白昼夢。ウォッシュト・アウトやリアル・エステイトなどUSインディ界を巻き込んだ夏ムードもGlo-Fi/Chillwaveのテイストも含みつつ、キラキラとした電子音とファルセットのヴォーカルとコーラス、そして軽快なギターのカッティングのサウンドがただただ耳の奥で光っては消えていく。淡い水彩画のような優しいタッチで、80年代のインディのエッセンスを凝縮し昇華させた良作だ。

 ケイト・ブッシュの「Cloudbusting」をカヴァーしたり、PVでは60年代の映画を引用したりと、通のツボをつくセンスも含め、このジャック君はモリッシーの遺伝子を受け継いでいるといえるだろう。僕には彼が、インディ界のオタク中のオタク、ブラッドフォード・コックスの「次」じゃないかと感じられてしょうがない。

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 矢継ぎ早に次ぐ矢継ぎ早、攻撃的な轟音ファンタジー!

 ひとたび音が轟き渡れば、普段意識しない血流の流れや、胸の鼓動が早まるのを感覚するほどに心身が研ぎ澄まされる。耳にすれば圧倒的に聳え立つウォール・サウンドと、不思議な世界観を紡ぐ言葉でありながらパーソナルに響く詩によって、ハイにもなるし、メロウにもなるが、その何れもが"それ(音楽を聴くという行為)"に追随するリアクションを取る以外に成す術がないのだ。

 茨城県出身の3人組(ナカヤマ/Vo&Gt、ハル/Ba、ホソヤ/Dr)というバイオ以外の詳しい情報は明確ではない。瞬時にインパクトを与えるドールの顔のアップが目を引くアートワークといい、ルドルフ・ウィトカウアー『アレゴリーとシンボル』にインスパイアされたと思われるが、フロントマンのナカヤマ氏のバンドの中核を担う絶対的な個性を誇るセンスは、ぎらつく野心も同時に感じさせる。とにもかくにもスメルズ・ライク・オリジナル・スピリット。そしてシンプルな楽器編成でありながら、緻密で高度に組合わさる業の応酬は、さながら少林寺の演武を開いた口が塞がらず眺めているかの様に、人間業ではないのでは?と、現実から非現実の扉を打ち鳴らされる轟音で押し開く。その力強さはハル嬢とホソヤ氏のバキバキとタイトでありながらしなやかに"うねる"柔と剛が入り混じるグルーヴも一因しているのは間違いない。

 加えてエモ、ポスト・ロック、オルタナなど90年代以降のロックを基調としているのも間違いない。メロディの美しさも特筆すべき点で、急上昇&急降下を繰り返す唯一無二のスリルを体感させ、落ちそうで落ちずに超低空でグライドする緊張感を伴った爽快感。自由奔放な日本語が踊るナカヤマ氏の伸びやかな歌も、安易に和のテイスト漂わせればよしといったものではない。全7曲を通して物語が出来上がり、我々は激しくも甘美な堂々巡りに迷い込む。時に美轟音に雪崩れ込む展開に身を委ねていると、ENVYらが切り開いたポスト・ロックとポスト・ハードコアの境界線を貫いた新境地に、新たに揺れ動かぬ普遍性=ポップを携えて見事に時代を出し抜いた彼らの自信に満ちた笑顔が脳裏に浮かぶ。

 ライブを観た者なら分かるのだが、ただ歌っている訳ではない。ただ叩いている訳ではない。ただ鳴らしている訳ではないのだ。全てのサウンドを踊るように演奏している。結果、全てのサウンドが踊るように灼熱を放った。踊るとは、全身全霊で体現する事なのだ。そして掻き鳴らされる、そのサウンドも全身全霊で踊っている。そんなサウンドを耳にした我々もまた、全身全霊で踊る他ない。

 エモーションなんて言葉は後日談に使えばいい。後日談を当分語れぬ程の感動が現在を進行するポスト・ロック世代が求めるポスト・ポスト・ロック。彼らはとっくに先へ行っていて、不肖達をずっと先で待っている。俺たち=今の時代なのであれば、時代はもうこれ以上彼らを待たせてはいけない!

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 ドゥルーズ=ガタリはリゾームという概念によって体系的な形態から外れたものであってもそれは混沌ではなく多様体という別の秩序によって成立していることを示した。要は、伝統的な知や組織体の態は、ツリー式とみることができ、それは、物事を幹、枝、さらに小さい枝へというように、そして、また、このツリーから外れた知は混沌としたものとして扱ってきた。

 しかし、これに対し「リゾーム(地下茎)」とは幹や枝といったものはなく、これは、中心を持たず多様な流れが縦横無尽に横断し交差し連結しているからして、このリゾーム的な形態は決して混沌ではなく、言語もリゾームであると言えることになる。つまり、リゾームは、ツリー型の反対に位置する多様体というもう一つの秩序だった組織や知のあり方であるとしてリゾーム的なあり方を復権させようとせしめる。

 リゾーム/ツリーの二項対立は、スキゾ/パラノ、脱コード化/再コード化、分子的状態/モル的集合、遊牧性/定住性、平滑空間/条里空間といった様な二項対立の図式として表れてくる訳だが、この対概念は仕切りではっきりとした区切り(横断線や逃走線)がある訳ではなく、グラデーションのように互いに浸透し合っている。

 このような秩序を持ちつつ、「他と連結してゆくリゾーム」をベイトソンの用語を用いて「プラトー」と呼ぶが、プラトー的な佇まいを常に保持してマイペースに遊牧する日本のバンドにsleepy.abがいる。

 北海道、札幌在住のスタンスを崩さずに、全国のフェスにイベントに積極的に参加しては、その一瞬で空気を下げるような、凍度と優しさを持ったサウンドで着実にリスナーを確保していた彼等の、オリジナルとしては、本当に満を持しての2年8ヶ月振りのアルバム、にしてメジャーへの移籍での昨年の『Paratroop』が想ったより巷間に影響を与えることが出来なかったのは、セッション的で攻撃的な部分を押し出しすぎたあまり、彼等特有の浮遊感や寂寥やリリシズム、センチメントが霞んでしまい、キャッチーな「メロウ」などはパワープレイされたものの、どうにも過渡期的な作品だったからかもしれない。

 そもそも、今、sleepy. abは歴史が長いバンドで前身バンドの形式を含めれば、10年を越えている。シューゲイジングさえ出来ずに、自分の不眠症を治す為に自分で音楽を紡ぎ始めたボーカルの成山氏のぶれなさはそのままに、今は「黙示録」的な大文字の世界観はグッと減り、抽象的ながら、深みのある言葉が増えていった。とはいえ、相変わらず、水槽の中の揺蕩う、光のようなサウンド・テクスチャーが展開されつつも、これまでに無いラウドな様相も閉じ込めて、更に、独自の彼等の持つ物悲しいトリッピーな浮遊感も充溢しているような展開になってきた中、今回の彼等初となるシングル「君と背景」はこれまでにない「拓け方」と「光」が溢れている。それでいて、SIGUR ROS、KYTE辺りの浮遊感、初期のCOLDPLAYのような透明感、また、柔らかく組まれたサウンドスケイプはまるで『空中キャンプ』以降のフィッシュマンズのような、メロディーの繊細さはスピッツ的というと、過大評価が過ぎるだろうか。ただ、ここには昨今の所謂、「J-」ものが持つ過剰な郵便性や過度な振り切りがなく、あくまで「宙空を揺らせるだけのサウンド」が鳴っている。

 想えば、セカンドの頃の「メロディ」が彼等の中でも分岐点になった曲で、それによって大きく彼等の存在性は注目されるようになったが、あれは要はRADIOHEADの「High And Dry」のようなもので、抒情的なギターロックを繊細に奏でようとするとき、それまで「自己内」で完結していたものが、ふと他者性を見つけてしまった、そんな類いの曲であった。でも、RADIOHEADは今や、その曲を殆どライヴではしないが、彼等は必ず「メロディ」は演奏する。それは、sleepy. abという主体が多分、(Something Like A) sleepy. abを客体化出来ていない証左だったのかもしれないが、確かめるように、「メロディ」を演奏する時、確実にその場が皆にシェアされているようなアトモスフィアが発現した。反射鏡のように帰ってくる光を自分が受け止めるように。しかし、今回で言えば、「メロディ」的なものを越えようとした「メロウ」を更に新しい形で改変して、今回の「君と背景」は確実に彼等の名刺的なアンセムに交代するかもしれない。「メロウ」は自覚的に「緩やかなる、全体性の消失」を歌っているからこそ、強かった。今回は「君」が「散る」様に繋がりと光を示唆する。但し、それはポジティヴなラブソングめいたものではない。漸く、彼等が「彼等の出す音像」に十二分に意識的になった事を感じさせる手応えがある。「喪失と再生」、なんか他のバンドが幾らでも歌ってくれる。

単純な生活を
簡単につないでく
不安をめくった先の未来を
君はずっと選べない
(君と背景)

 例えば、BUMP OF CHICKNENの新曲は何故、あんなにぬるくなってしまったのか、RADWIMPSはそこまで「君」にセカイを反射させるのか。彼等が言葉数を増やして、君を描くのに比して、sleepy. abはどんどん「行間の多さ」が増える。「ねむろ」と言っていた彼等の緩やかな意思が丁寧に編み込まれている事が感じ取れるがしかし、此処には実は、僕も君もいないのだ。歌詞内の「君」は記号として「君」であって、別に君で何でもいい訳で、それは人間じゃない何か、かもしれない。そして、「想う僕」だって恣意的だ。青く想えるような曲でも、人生を見据えているような前向きな曲でも、何処かぼんやりと空疎な感じが付き纏い、決して楽観的でも前向きでもない。それが良い。

 透明的で気怠い成山氏のあの独特の声と、それを支える確固とした柔らかなバンドサウンド。得も言われぬ希望的な、何かを待備させるが、精緻には、ただ、それは「希望、ではない」のだ。

 絞られた歌詞、ミドル・テンポのリズム、4分程の音の揺らぎ。前作含めて過去から追いかけてきた人も、新規参入者も拒まない茫漠とした「空間」がここにはあって、椅子はあるが、誰が座るのかどうかも分からない。ただ、確実にこのシングルによって、全く独自のポジションを確立したと言える。不眠症は癒えなくても、君は描けるのだ、背景として。

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