reviews: 2010年6月アーカイブ

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 軽快に跳ね回るメロディに、複雑な展開をするメロディ、ファルセットのヴォーカルと整ったハーモニー――アート・ポップ×プログレと表現されるその音楽性は、膨大な情報量とキャッチーさを同居させている。しかも、韻を踏んだり、ダブル・ミーニングを込めてみたりしたりした歌詞にはヴァンパイア・ウィークエンドもかくやの知性の高さとユーモアを感じるし...この「Schoolin'」という曲を形容するのに僕はほとほと悩んでしまう。それほど、オリジナリティがあるのだ。

 ビートルズやスミス、それにレディオヘッドやクラフトワークにスティーヴ・ライヒといった実験的なアーティスト、更にはマイケル・ジャクソンやRケリー、ビヨンセといったメインストリームまでを並列する影響源には驚くが、楽曲を聴くとなるほど、納得してしまう。このマンチェスターの4ピース、エヴリシング・エヴリシングはそんなバンドだ。

 これまでに4枚のシングルをリリースしただけのニュー・カマーだが、本国UKでの話題は凄いことになっている。毎年、その年のヒットを予測するBBC SOUND OF 2010にノミネート。また、参加したバンドはほぼ特大のブレイクをしていくNMEレーダー・ツアーではヘッドライナー、今後絶対無視できない存在であることは明白だ。

 1stアルバム『Man Alive』は秋のリリース予定。だが、その前に彼らを知るのに最適な日本企画盤EPがこの作品だ。冒頭に上げた最新シングル「Schoolin'」を筆頭に、『Kid A』時のレディオヘッドを思わせる「Making Some New Sense」やフューチャーヘッズばりに突っ走る「DNA Damp」など粒ぞろいの楽曲を収録。デルフィックやハーツ(Hurts)と並び、マンチェスターの新世代を担うこのバンド、サマソニのステージは絶対見ておいたほうがいい。
(角田仁志)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 スクリャービンの音楽に対する神秘主義に依拠した思想にこういったものがある。「音楽とは単なる娯楽ではなく、世界の背後に存在する神の智恵の表れであり、だからこそ、これを使って人々を法悦の境地へ導き、神との合一を経験させ、通常の人間を超越した存在へと解脱させることができる」。何とも、昨今のスピリチュアリズム界隈の気配とリンクしてくるものさえ感じるが、実際に生まれた彼の作品における交響曲第4番「法悦の詩」での調性の超越や交響曲第5番「プロメテウス--火の詩」では、鍵盤操作に応じて7色の光をスクリーンや合唱団員の白い衣装に映し出す「発光ピアノ」を考案するなど果敢なトライアルをしたのも事実で、加えて、とても光彩豊かな音を放っていた。特にスケールの大きさ故に、未完に終わった「神秘劇」では、さらに踊りやお香も加える構想でもあった。

 スクリャービンを参照にするまでもなく、スペクタクル、神秘主義とスケールの混ぜ合わせた大文字の音楽への希求を目指したバンドには枚挙にいとまがないが、ブリット・ポップと言われるムーヴメントの中で華麗に現れたクーラ・シェイカーはその一つだろう。

 ここで、ブリット・ポップについて補足説明をするに、狭義として93年~96年に起こったブリティッシュ・ビート懐古主義的なムーヴメント(でも、確かに95年8月のブラー「カントリー・ハウス」対オアシス「ロール・ウィズ・イット」シングル同時発売とかUKの公共放送でも流れていたので、やっぱり「社会現象」なんだろう。)を指す。

 とはいえ、ブリット・ポップを「音楽面」としてだけ捉えるのは浅愚というもので、アート・カルチャー側からのルネッサンスの様相もあった訳でもある。ただ、日本のバブルの時のように「何も残らなかった」現象性の高さ(その裏で秀逸な作品もあまた出たが)について、僕は蜃気楼のようなものを感じてもしまう。

 作品的には、94年のオアシス『Difinitely Maybe』、ブラー『Palk Life』、95年のパルプ『Different Class』、ザ・ブー・ラドリーズ『Wake Up!』、96年のザ・ブルートーンズ『Expecting To Fly』辺り、その他、ジーン(GENE)やシェッド・セヴン(SHED SEVEN)とかスリーパー(SLEEPER)などが犇き合っていたが、その狂騒の中で、燦然と96年のクーラ・シェイカーの『K』があった。クリスピアン・ミルズのスマートなルックス、アロンザのベースやインド文化や仏教のエッセンスを程良く入れながらも、シンプルなギターロックを鳴らす様など、全てが眩いまでに、格好良いロック・バンドとしての基準を整えていた。ディープ・パープルの「Hush」のカバーも手堅かったが、クリスピアンの神秘主義への傾倒、物議を醸した幾つもの発言、そして、バンド総体の不調和、セカンド・アルバムで膨大な制作費を投じた結果に辿り着いた表層的なサイケデリアの頃には、ブリット・ポップは完全に終焉を迎えており、彼等自身の役目も終える事となった顛末は周知だろう。

 その後、クリスピアンは3ピース・バンドで簡素なロックンロールを鳴らすザ・ジーヴァスを結成したり、他メンバーもバンド活動を行なうようになり、元々構成されていたクーラ・シェイカーとしての4人は離散することになった。

 しかし、まさかの06年の再始動、その年のフジロックでの鮮やかなパフォーマンス、レイドバックはしたものの、バンド名義としての手触りがしっかり感じられる07年のサード・アルバム『Strangefolk』は軽やかだった。セッションを楽しむような通気性の良さだけが刻印され、バンドとしての上昇気流も闇雲なヴァイヴも、もうそこにはなく、オーガニックで有機的な音楽を続けて行く、という意志に満ちていた。そのフェイズは更に推し進められ、今回の新作『Pilgrim's Progress』にも継承されている。ただ、これが決して悪くないのだ。「Hey Dude」、「Tattva」はおろか、ドライヴするロックという要素因さえないのに。

 このアルバムを聴いていると、70年代初頭のブリティッシュ・フォーク・トラッドのムード、また、フェアポート・コンヴェンション、スティーライ・スパン、ペンタングル、リンディスファーン、インクレディブル・ストリング・バンド、ドノヴァン、などの音が自然と想い浮かぶ。そこに、シタールやタブラといったインド風のまろやかなサウンドが加えられ、全体的に力が抜けており、エッジはない。ふと気付けば口ずさんでしまうような伝承歌のような可愛いらしいメロディーが並び、楽器にしてもチェロ、サントゥール、パイプオルガンやマンドリンなど多数を使いながら、基軸はアコースティック。かといって、ザ・コーラル辺りがふとみせるディープなサイケデリアもなく張り詰め方もなく、森の中で輪を囲んで楽しくセッションをしているような内容を喚起せしめる。実際、ベルギーのアルデンヌ・フォレストの中に建てたスタジオで余計な情報を遮断して、これらの音を一から固めていったのだという。

 ロック・バンドには、色んな転がり方がある。ずっとエッジを尖らせ、ラジカルに方向性を進めていくものもいいし、形態を変えながら、それでも、初期衝動を忘れないでゆくのもいい。但し、彼等のように、「緩やかに円熟してゆく」というのも一つの正解なのだと思う。遠景にモリコーネの影が視え、ジョージ・ハリスンの笑顔が浮かぶ。こんなに誰も非難せず、「仲間を要求する」音楽には久し振りに会った。

 ちなみに、スクリャービンの話に戻ると、彼は若い頃には後年の作品からは想像が付かないほどロマンティックな美しいピアノ曲を書き、一時は"ロシアのショパン"と呼ばれていた。逆に、クリスピアン・ミルズの書く曲がここに来て、もっとも美的な閃きが高いようなものになっているのも非常に興味深い。柔らかい質感にも芯が通った佳作だ。

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 安全なロックってどうなのよ! なんて感じながら、良くも悪くも当たり障りのない、このロック・ミュージックを聴いていて思うわけです。が、しかし、同時に、「これ、かっこいいじゃないか」と、思ってしまうのも確かで、全然好きじゃないよ、こんな音楽、などと毒づきながらも、なぜだろう、どうしよう、聴いちゃうんです。悔しいけど。

 ザ・ストロークスやベックと比べられているらしいけど、なるほど、確かに初めて聴いたときはストロークスに似ている、であるとか、ベックの『Modern Guilt』っぽいところもあるよなあ、と、僕も思った。けれども、ストロークスほど遺脱したロックではないし、ここ数年のベックほど作り込んでいない。ニューヨーク出身、ダーウィン・スミスのソロ・プロジェクト、ダーウィン・ディーズの『Darwin Deez』、これは良い。

 何が良いって平和的。高らかに不満をぶちまけるわけでも皮肉を発するわけでもなく、終始和やかに奏でられる音の全ては決して敵を作らないやさしさに満ちている。いわばこの音楽は無敵である。敵を作らなければ無敵なのです。ロックがカウンター・カルチャーである時代は終わったのです。なんてことを思わされ、気持ちが広々としたまま一気に聴ける本作。実にグッドじゃないですか。そもそもがシンガー・ソングライターである彼の紡ぐメロディは繊細で、ぶっきらぼうなところはなく、あくまで丁寧。エレクトロニック音やギター・サウンド、渋みのある歌声もやはり丁寧。時々見せるファルセットもまたしかり。アルバム全体の表情は豊かとは言えないけれど、1+1を4や5にするのではなく、1+1を2にすることの足し算の正当性をきっちりやり続けている真面目さがあって、良い意味で優等生的な音楽になっている。かつ、シンプルなロック&ロールへの敬意がうかがえるサウンドは清々しい心地に溢れ、だから聴いてしまうのだった。やはり、これは、良いのである。

 ただ、だからこそシンプル性で勝負してほしかったなと思ったのも事実。歌声にエコーを効かせ、大胆にハンド・クラップをサンプリングし、遠近感を巧く使ったミックスも功を奏しているけれど、それはアニマル・コレクティヴや他のバンドにも共通するもので、他のアーティストと比べた場合、埋没してしまう可能性も孕んでいる。今後は自分のアイデンティティは何なのかを探り、それを深く追求することが課題になるのではなかろうか。しかしそれを差し引いても良い出来。ダーウィン・スミスによるギター一本の弾き語りも聴いてみたくなった。きっと素晴らしいに違いない。とにもかくにも、まずは本作を堪能しようじゃないか。一曲目だけ聴いてストロークス・フォロワーなどと言う輩がいようものなら、ドロップキックをお見舞いさせて頂きます。

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 NYの不良達がロックンロールを燃料に縦横無尽と転がっている。4ピース・バンド、エレクトリック・ティックル・マシーンの記念すべきデビュー・アルバムからは、ヘッドフォンやスピーカーからはみ出すような熱気や奔放さが伝わる。骨太にギターが掻き鳴らされ、トーマス・オリビエが飛び跳ねるような声を張り上げるロックンロールもあれば、古き良き時代を継承した、サイケデリックでメロウなメロディラインが響く楽曲も垣間見える。吐き捨てるようなロックというよりは、馬鹿騒ぎに近いか。

 アルバムを通して聴いた後の気持ちよく汗をかいたような爽快感は、全力疾走後の余韻に酷似している。ボーナス・トラックのガス欠っぷりがまさに象徴的でたまらない。テンポ的には早い曲は多くないのだが、その勢いと躍動さから、どの曲も爆走しているような錯覚を体感する。その律儀で不器用なまでのストレートさを武器にして、どこまで飛躍できるか、これから非常に楽しみである。それはすなわち本作がアルバムとしての完成度が高いだけでなく、今後の更なる進化を期待せざるを得ないアルバムにもなっているということであろう。

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 シカゴを拠点に活動する宅録系シューゲイザー・バンド、パンダ・ライオット。本作は、2007年に自主レーベルPanda Riotからリリースされたファースト・アルバム『She Dares All Things』から、およそ3年振りの新音源(5曲入りミニ・アルバム)である。元々は2005年、マルチ・プレーヤーのブライアンとレベッカ(ヴォーカル)により結成されたユニットで、今作からはジャスティン(ベース)とメリッサ(パーカッション)も加入し男2女2のバンド編成となった。とは言え、基本的なサウンド・プロダクションに大きな変化なし。アルバム・クレジットを見ると、相変わらずシカゴの自宅スタジオにて録音からミックスまで、全てを本人たちが手がけているようだ。

 彼女たちの特徴は、なんといっても清廉で無垢な楽曲にある。ハーモナイザーで加工したと思しきレベッカの声が、ポップで耽美的、かつオリエンタルな風味も散りばめられたメロディに乗って、ふわふわと天上を舞う。さらにエンジェリックなコーラスが幾層にもレイヤーされていく、この世のものとも思えぬような多幸感は、コクトー・ツインズやラッシュ、最近ではスクール・オブ・セヴン・ベルズ辺りを彷彿させるものだ。タイトなリズム・マシンと流麗なシンセ、ファズやコーラス、リヴァース・リヴァーブなど様々なペダル・エフェクターを組み合わせた、ノイジーなグライド・ギターの組み合わせも心地良い。この辺りのサウンド・センスは、先に挙げたスクール・オブ・セヴン・ベルズはもちろん、M83やマップスらとの共通点も見出せるはずだ。

 捨て曲なしの名盤だが、中でも最終トラック「16 Seconds」は白眉。トレモロ・アームによって歪められた、たった3〜4コードの上でコロコロと展開していくメロディが聴き手を白昼夢へと誘う。

 昨今、絶賛リヴァイヴァル中のネオアコにも通じる清涼感あふれるサウンドは、うだるような暑さが続く、これからの季節にピッタリだ。

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 こんなこと、レビューで書くのはあまりにも当たり前すぎるし、何だか言い訳じみて聞こえてしまうのだが、やっぱりバンドは見た目じゃない。例えばザ・ドラムスの格好があまりクールじゃなかったとすれば「もったいない」と思うかもしれないが(実際は激クール)、バンド・オブ・ホーゼズの場合、彼らのような「冴えないアメリカン」がやっているからこそ信用できるということもあるのだ。音楽的には前作とほとんど同じ牧歌的なフォーク・ロックだが、それらは一層深い深い悲しみを湛えていて人々の心に染み込んでいく。「Is There A Ghost?」という大アンセムが一際光っていた前作と比べ、全体の楽曲のクオリティも格段に進歩している。「良いけど印象に残らない」という声を完全に払拭した傑作だ。ふむ、やはり音楽がパソコンやiPodで聴かれる時代になろうとも、みんな温もりを求めているんだね。「角の立っていないフリート・フォクシーズ」では失礼になってしまうか。「アメリカのコールドプレイ」ではどうだろう。これは決して揶揄なのではなく、(私がコールドプレイの大ファンであるという事実も踏まえながら)最大限の賛辞として彼らに送りたい。
(長畑宏明)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 紛らわしいので最初に説明しておこう。このリッシーというアーティストは、昨年デビューEP『Self-Taught Learner』が話題を呼んだNYのモデル兼SSWとは一切関係ない。

 本名はリッシー・モーラス、カリフォルニアのSSWだ。だが、同じくSSWといっても、音楽性は全然別。こちらはカントリーやフォークなどとロックのヴァイブをあわせたサウンドが特徴的だ。

 デビューEP『Why You Runnin』は、バンド・オブ・ホーセズのベーシストであるビリー・レイノルズがプロデュース。スティーヴィー・ニックスやシェリル・クロウを引き合いに出される、たくましさと麗しさを兼ね備えたサウンドにブロガーが反応、話題を巻き起こしてきた(特に、レディ・ガガ「Bad Romance」のカヴァーは必見!)。そして、この1stアルバム『Catching A Tiger』が到着した。トム・ウェイツやキングス・オブ・レオンを手がけたジャクワイア・キングがプロデュースし、全体的にはワイルドでトラディショナルな彼女の魅力が光る出来になっている。シングルとなった「In Sleep」では、広大で岩がちなLAの大自然が眼前に広がるようだし、ゴスペルの要素を取り込んだ「Bully」では彼女の力強く澄んだ歌声を聴くことができる。気高く、美しい作品だ。

 00年代にはニーコ・ケースやジェニー・ルイスがいた。そして、始まったばかりの10年代、僕らを魅了するアメリカーナの候補はこのリッシーだろう。ピアノ1本で広大な自然について歌いあげる、ラストの「In Mississippi」を聴くにつけ、豊かな金髪と青く澄んだ瞳のこのSSWに僕は期待してしまうのだ。

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 ポートランドを拠点に活動する6人組。<サブ・ポップ>移籍第一弾リリースで、彼らの名を世に広く知らしめることとなった前作『Furr』では、カントリーからハード・ロックまで飲み込んだサイケデリック・ロックを聴かせてくれたが、昨年リリースされた「Black River Killer」EPでは少し落ち着いた...例えばウィルコの近作のような手触りの、メロディの引き立った曲が多く見受けられた。

 そして5枚目のフル・アルバムとなる本作では、「Black River Killer」EPの路線を更に深めた、まさに独特のブリッツェン・トラッパー・サウンドを確立したと言えるのではないだろうか。前作で顕著だった雑多なポップ感覚は減衰し、よりルーツに寄り渋みを増したアレンジが印象的だ。ひたすら美しいメロディーとコーラス・ワークはフリート・フォクシーズにも通じるところがあり、彼らのファンにも聴いてみていただきたい。

 M8「The Tree」では、<ラフ・トレード>から作品をリリースしている女性SSWのアリーラ・ダイアンをフィーチャー。美しい歌声で作品に華を添えている。エフタークラングやホース・フェザーズとの活動で知られるヘザー・ウッズ・ブロデリックとピーター・ブロデリックの姉弟がストリングス・アレンジを担当。プロデュースは、ブライト・アイズやM.ウォードとの仕事で知られるマイク・コイケンドールとグレッグ・ウィリアムズが手がけている。
(山本徹)

*日本盤は7月7日リリース予定。【編集部追記】

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 「男は度胸、女は愛嬌」なんてことわざがあるけれど、カリフォルニアの4人組ガールズ・バンド、ダム・ダム・ガールズは「女は愛嬌? 何それ?」とツンとする。「ワタシ誰にも媚びる気ないし」と。黙って私たちの音楽聴きなさいよ的スタンス。いいねえ、クールだ。彼女たちのデビュー作を聴いていると、そんなツンとした表情が目に浮かぶ。中途半端な感情移入などしようものなら「あんたホントに分かってんの?」なんて一言も飛び出してきそう。ヤー・ヤー・ヤーズのニック・ジナーが参加。プロデューサーはリチャード・ゴッテラーの『I Will Be』。

 女性にとってカワイイがほめ言葉である日本にあって、彼女たちはかわいくない。欧米の女性にとってほめ言葉であるセクシーもまたダム・ダム・ガールズには似合わない。かといって彼女たちに魅力がないわけではなく、いわゆるツンデレだ。ぜひツンデレ好きの男性諸君に聴いて頂きたい。それはさておき。ジーザス&メリーチェインのファースト・アルバムを絶対に意識しているであろう本作(意識していないと言おうものなら嘘だと思う)。ジザメリのファーストは甘いメロディという、フィード・バック・ノイズを中和する要素があると思えるが、ダム・ダム・ガールズにはまるでそっぽを向いて歌っているような、ぶっきらぼうなところがあり、熱も抑制されている。メロディは甘美といえば甘美だけれど、それ以上にこのバンド、ツンツンしているのである。

 要は先に記したツンデレを感じるのだが、ツンデレとは「こんなそっけないワタシだけど実は受け入れてほしいのよ」という最上級の愛情表現である。それを感じるからこそ、ジザメリのファーストを暗いトーンにし、ガレージっぽくし、なおかつキルズのブルース・フィーリングを取り入れたような本作のダークな楽曲のどれもに顔を深く突っ込めば、そこにはオノ・ヨーコのアートでジョン・レノンが見たような「YES」の文字が浮かび上がる。

 婚活だとか女子力だとか、はたまたキュート・メイクだとかモテ・ファッションだとか、そういったものはこの作品にはないのです。装飾美なんてものもこの作品にはないのです。4人の女性が、ひねくれた、でも純粋な愛を奏でているだけなのです。シンプルに作られた本作は、何百通の長文ラヴ・レターより、「愛してる」という、そのたったの一言がとても素敵で、胸に響くものだということを語っているのです。ただし彼女たちはそっぽを向いているけれど。そんなところにツンデレ的かわいさをやっぱり感じてしまうんだな。歴史に残るような作品ではないけれど、かなりの快作。いや、改削作。

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 先日、オッカーヴィル・リヴァーとの共同名義でニュー・アルバム『True Love Cast Out All Evil』をリリースした(当サイトでも紹介されている)、ロッキー・エリクソン率いるサーティーンス・フロア・エレヴェイターズ(13th Floor Elevators)のトリビュート・アルバム。発売元は、いわゆる「シューゲイザー」系のイヴェントなどをロンドンで定期的に行なっている<Sonic Cathedral>で、これまでにもKYTEやスクール・オブ・セヴン・ベルズ、M83などニューゲイザー系のバンドや元ライドのマーク・ガードナーらが参加した『Cathedral Classics Volume One』のような良質コンピレーション・アルバムをはじめ、昨今話題の新人バンド、ザ・タンバリンズ、YETI LANEなどのカタログをリリースしている期待の新鋭レーベルである。

 参加アーティストの豪華さについては、リリース前からNMEなどで取り上げられ話題になっていた。例えば冒頭曲は、エリクソン本人がザ・ブラック・エンジェルズを率いてセルフ・カヴァーした「Roller Coaster」。他にも、エクスペリメンタルなガレージ・バンド、オール・ザ・セインツによる「Don't Fall Down」のローファイなカヴァーや、ブルックリンを拠点に活動し、MUTEから傑作セカンド・アルバム『Exploding Head』を昨年リリースしたダーク系シューゲイザー・バンド、ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズによるフィードバック・ノイズまみれのインダストリアルな「Tried To Hide」、ニューヨーク在住のシンガー・ソングライターCheval Sombreによる、アコースティックな「You Don't Love Me Yet」(彼を以前プロデュースしたこともあるソニック・ブームとの共演)、そして、元デス・イン・ヴェガスのリチャード・フィアレスによる新バンド、ブラック・アシッドがフライング・ソーサー・アタックばりの轟音で埋め尽くした8分越えの大作「Unforced Peace」(圧巻!)等々、一筋縄ではいかない楽曲が並んでいる。

 そんな中、個人的に最も印象に残ったのは、フランス人シンガーCharlotte Marionneauの1人ユニット、Le Volume Courbeによる「I Love The Living You」のカヴァー。エリクソンが1999年に発表した、アシッド・フォークの名盤『Never Say Goodbye』(ブラック・アシッドが料理した「Unforced Peace」も収録)のこの曲を、彼女の恋人であるケヴィン・シールズと共に披露した。ここでのケヴィンはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインで聴かせる轟音ギターは横に置き、ざっくりとしたアコギのストロークとメロディカの演奏に徹しており、そのシンプルなアレンジがシャルロットの少し掠れたロリータ・ヴォイスを引き立たせている。プライマル・スクリームやポール・ウェラーとの仕事で知られるブレンダン・リンチによる、控えめなミックスも秀逸だ。

 ともかく、本トリビュートはエリクソンの持つソング・ライティング能力に光を当てたばかりでなく、本家サイケデリックとシューゲイザーを結びつけた、Sonic Cathedralらしい非常にユニークな内容に仕上がっている。

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 近代においての歴史的な視線は声を常に、「声」の方へと、イデオロギーの方へと、呼び寄せてしまう。声は「物質としての声」であることを剥奪される事になり、一個の根源からの「声」へと還流してしまう。音楽という分野は、抽象的な何かを孕むからこそ、その経験を幻惑的で個的な体験へと転化する。いわば無媒介な根源の到来の場を提示する。例えば、それはジェフ・バックリィーやエリオット・スミス、アントニーの「声」にふと出会ってしまった感覚を想起すれば早いように、声には総てが宿り、またある種、何もかもが無い。

 しかし、「声としての音楽」を考察する際には、政治という領域を辿る懊悩が付き纏うのは周知だろう。ルソーは「言語起源論」の中で、声について語る際、それは政治という言説を形成するものに他ならないと言った。「声」の、また、音楽の体験はそれが個的なものであるにも関わらず、根源への参入の場でもあるが故に、共感の構造の内に共同体を形成させる。近代では、声の共有化の内に、換言すれば音楽の権能の内に機能する。芸術の非政治主義が政治主義そのものに転化する近代のパラドキシカルな構造を此処に可視出来る。

 98年という「近代」に、コール・ポーター、ジュディ・ガーランド、エディット・ピアフ、ランディー・ニューマンなどのポップ・ミュージックのレジェンドからモーツァルト、ヴェルディ、ワーグナーといったオペラの影響を折衷させる力技を試みた時から、ルーファス・ウェインライトは「声の政治性」に自覚的であり、また、ゲイであることの意味を包み隠さない真摯な表現を挑み、その後、必然的に『Want』二部作で豪奢なサウンド・ワークを極め、オペラとロックのダイナミズムを折衷させたパフォーマンスを行なうようになったのは周知だろう。ただ、僕はその過剰になってゆく彼の佇まいとオーバープロデュースとも言えなくもないクラシカルな重みにしんどさをおぼえてきてしまっていたのも事実だ。例えば、セカンドの『Poses』のようなささやかな小品のようなアルバムをまた作ってくれないか、という気になることも多くなっていた。

 6枚目となる今回のアルバム『All Days Are Nights:Songs For Lulu』は全編ピアノの弾き語りで大袈裟なアレンジもなく、全体的に悲痛なトーンで貫かれており、モティーフになったのはシェイクスピアの詩集『ソネット集』であり、昨年のベルリンで上演したロバー・ウィルソン監督の演劇『ソネット』の為に書いた曲の中からも選ばれている。そして、歌詞の内容は闘病の結果、この世を去った彼の母親への想い、妹でアーティストでもあるマーサ・ウェインライトへの呼びかけ、プライベートなものに終始しており、彼の美しい声も伸びやかというよりは、抑え込むように切々とした翳りがある。また、アルバムのタイトルに入っている「ルル」とはドイツ映画『パンドラの箱』でのルイーズ・ブルックスが演じた踊り子の名前であり、彼独特の美意識は徹頭徹尾、ここでも敷かれている。

 これは彼のモノローグにして自己浄化の為のアルバムだと思うが、ニック・ドレイクの諸作をふと想わせる儚さと剥き身の優しい悲しみが充溢していて、ふと涙腺が緩みそうになる瞬間が多々訪れる。ルーファス・ウェインライトという人は完璧主義者というイメージを個人的に持っており、それが故に、入り込めない壁も感じられたのだが、このアルバムから彼の「声」がしっかりと聞こえてくる。

 現代の音楽の地平で、あえて唯物論的に闘うとするならば、そこで発せられる声は、声である訳にはいかない。声は根源であれ、何であれの指示物たることを辞め、「声自体」としてあらねばならないとしたら、「全ての声は既に発せられてしまった」という事実に対峙しないといけなくなる。それは即ち、「新たな声の発見の禁忌」であると言い換えられるが、新たな声はそこに「新しさ」という属性が付与されているが故に、声を放逐してしまう。つまり、新しい声の探求とは、声という象徴性のもとに再び観念化し、寧ろのこと、声の統括能力を補正する機能を担うものになってくる。このアルバムでの彼の孤独で純粋で無垢な声は、まさに政治的でもある。

 このアルバムの閉ざされ方への否定が滞留する内においてのみ、客体は主体の軛(くびき)を逃れ、声は自らを開示するとしたならば、初めてルーファス・ウェインライトは重い観念の鎧を脱ぎ捨て、裸身になれたのかもしれない。

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 ロンドンのパンクスは、盗品や中古のギターを手にした。NYのキッズは、捨てられていたテクニクスのターンテーブルを持って帰った。ジャマイカでは、巨大スピーカーをセットした移動式ディスコがサウンド・システムと呼ばれるようになった。ひらめきと大胆な行動力。いつの時代も、そこから新しいサウンドが生まれる。そして、コンゴのコノノNo.1には自動車やラジオの廃品があった。自動車やラジオの廃品って!

 コンゴの伝統音楽に根ざす強烈なアフロ・グルーヴ。そのサウンドの核になっているリケンベと呼ばれる親指ピアノ(カリンバ)は、自動車やラジオの廃品から手作りされている。パーカッションも自動車のホイールキャップだという。リケンベにはちゃんとストラップがあって、見た目もかなりカッコいい。リケンベをアンプにつないで歪ませるなんて最高でしょ。ミニマルとも言えるシンプルなリフを、踊るためだけにデカい音で鳴らす。しかも大人数で。

 1stアルバム『コンゴトロニクス』から5年。なにやら物騒なタイトルの2ndアルバムが完成した。もはや作曲という概念すら軽く吹き飛ばす、ありったけのグルーヴに身をまかせよう。あえてリケンベを封印してパーカッションでぐいぐい引っぱる3曲目の「Thin Legs」や果敢にもアンプラグドに挑戦したラストの「Nakobala Lisusu Te」など新機軸も確かにある。ギターとベースが加わって曲の輪郭がはっきりした。でも、基本はやっぱりリケンベとパーカッション。そして雄大なコーラス。このアルバムを手に入れたら、ヘッドホンでも部屋でもクラブでも、とにかく大きな音で聴こう。きっと体を動かさずにはいられないはず。

 ビョークがアグレッシブな姿勢を見せた『Volta』。コノノNo.1は、その冒頭を飾る「Earth Intruders」に客演している。それは彼らの音楽が最高のダンス・ミュージックなのはもちろん、レベル・ミュージックとしての存在意義も孕んでいるからだと思う。自動車の廃品を拾い集めてまでも鳴らす必然があった音楽。ダンス・ミュージックとしてのポジティブな輝き。パンクやレゲエ、そしてヒップ・ホップと同じ生命力が躍動している。1969年以来、不安定な国内情勢や内紛でメンバーを失いながらも今、ここで鳴らされているという事実が熱い。グルーヴも力強さも不変だ。いろんな意味で奇跡のダンス・ミュージック。最高!

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 Ars Electronica 2006でのHonorary Mentionの受賞をはじめ、SUNN O)))、大友良英、山本精一など国内外のツワモノとのガチンコ共演、円盤ジャンボリーへの参戦など、東京、岐阜、新潟とメンバーがそれぞれ離れた場所に居つつもゆっくりと着実な歩みを進める3人組のフリーセッション型ノイズ・ユニットのみみづ(MIMIZ)が、初となるプレスCDをリリース。

 今作は、2008年の夏に行われた岐阜と新潟でのライヴ・セッションの模様を収録した全2曲。ギター、ミキサー、躍動的なアラブ打楽器のレクやハンド・ドラムなどを駆使して綿密に創り上げられていくノイズ、アンビエント、ドローン、エレクトロ、エクスペリメンタルな音像を、PCでリアルタイムに分解/再構築し、創り上げられていく。明確なメロディがあるわけではないが、それが心地良かったり、はたまた高揚させられたりと、発せられる音の数々につい食い入ってしまう。その独創的に創出される様は、宇宙や未来、と言うよりもこの世の次元とは全く違う、「異次元空間」という言葉が一番しっくりくる。ゆっくり、激しく、うねって、どよめく。ひとつの曲に様々な展開を見せる彼らのセッションを、目を閉じて聴くと、そんな別世界へと誘われるようだ。

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 聴きやすく、ポップだが、実のところ問題作と言える。あるいはアーティストの意図から離れ、リスナーの音への意識改革作とでも言うべき作品になっている。このエレクトロニック・ミュージックをスルーするのは勿体ない。

 個人的にオウテカが音楽の未来を背負っているかいないか、ということや、エイフェックス・ツインはテクノの神と呼ばれるということに興味がなくなり(先に挙げたアーティストの音楽は大好きだし、功績も理解しているけれども)、そんなときに見付けたこの作品は面白く興味深くあるのだ。ムームのリミックスを手掛けたことでも知られるアイスランドのアーティスト、ラックスピンの『I Wonder If This Is The Place』。

 まるでエイフェックス・ツインの『Selected Ambient Works 85-92』や初期オウテカ、スクエアプッシャーなどの音楽性をサンプルと見立て、取り込んでいるかのようなリミックス中心のこの音楽は、もはや先のアーティストの音楽性はスタンダード化し、素材として自由に使ってもかまわないものだと言っているかのよう。ドリルン・ベースもミニマルな奏でも、いまはもう大衆的な音楽性であり、珍しくないことを雄弁に語っている。

 過去の作品を聴けばラックスピンが敬意を払いつつ他のアーティストの音楽性を取り込んでいることは想像に難くない。だが、それこそエイフェックス・ツインをフリー・ダウンロードしているような本作が、実際にn5MDのサイトでフリー・ダウンロードできるということに皮肉を感じるし、このユニットの、敬意を払いつつも神格化されているアーティストを神格化しない姿勢が、本作そのものを「神格化の否定」という批評として成り立たせている。

 そうして涼しげで爽やかな、なおかつ甘美で透明な美しさを閉じ込めた音色を前面に押し出し、聴き手を魅了する『I Wonder If This Is The Place』。それは、オウテカ、エイフェックス・ツインの音楽性を大衆化、または娯楽化を促進させているという意味においても大きな意義を持ち、なおかつポピュラー・ミュージックとして十分、息をしている。

 無論、本作は単なる模倣に終始しない。やわらかなエレクトロニック音が耳にするすると入り、風船が尻もちをついたような豊かな弾力が攻撃性の一切を取り除く。とてもリスナー・フレンドリーな音楽として聴ける。それもまた、ビッグネームの音楽性は難解なものではなく、とても親しみやすいものだということを示し、やはり興味深い音楽だ。前述したようにフリー・ダウンロードできるのでぜひ聴かれたい。音に酔うことができる作品にもかかわらず考えさせられるものがある。

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 元々、07年に、人づてに「(自分が出た大学)のバンドの中でクールな新しい音を鳴らしているのが居る」というのを聞いて、関心を持ち、MySpaceでチェックしてみたら、そこには幾つかの音源と、如何にもなヴィジュアル・コンセプトが設定されていた。簡単に言えば、15世紀から16世紀にかけての、ルネサンス前の中世建築やアートに中指を立てたアントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリのような高貴さ、と「ゴート風」な全体像と言えるだろうか。それは、当時、全員が同じ大学で出会ったという事実から、「クラーク記念館」的なドイツ・ネオ・ゴシック様式に魅せられた「よくある学生」という感じもした。翌年に、ライヴを観たことがあるが、演奏は拙いものの、低温火傷を起こさせるようなパフォーマンスで細身のスーツ姿の四人の佇まい、バウハウスをラルク的な希釈的な解釈じゃなく、しっかりと鳴らしている感じには好感を持てた。それは、セカンド前のザ・ホラーズ辺りとも共振もしていたし、スーサイド、ジョイ・ディヴィジョンやインターポールの匂いを強烈に感じもしたし、歌詞世界はザ・キュアーのロバート・スミスではないか、と思った。同時に、漸く、堂々と胸を張って、こんな暗い音をスタイリッシュに鳴らす事が出来る日本のバンドが出てきた事に、シーンの変化の胎動も察知出来た。それは、当時のニューエキセントリック・シーンの盛り上がりの中で、ミドル・クラスの子たちが「敢えて音楽をやる」意味解釈が自分の中で再定義出来てきていたという背景もあった。

 この日本で所謂、ゴシック系の音を鳴らすのは実際的に難しい。ともすれば、すぐヴィジュアル系、耽美系と侵食し合ってしまうし、また、デモーニッシュなものが「現前」しているアメリカとかUKでは成立しても、そういった「デモーニッシュな何か」を持ち得ていない、この国だと「ただ暗いだけ」の音楽だけで片付けられる可能性もあるのは実際に海外のそういう人たちと話せば分かる。それは、ナイン・インチ・ネイルズやレディオヘッドのライヴに足を運んで、確実に少なくない数でいる「黒の誘惑」に魅せられた集団や、彼等の文脈で、意味が付与されているバンドの音の回収のされ方とも繋がってくる。勿論のこと、それは、各々の信条、生き様、宗教性にも連関してくるので僕は良いと思うが、日本という独特な国で基本的に、成立しにくいのはカタルシスが「別方向にある」という快楽指数の問題だけに依拠する。「神」は寧ろ、「八百万」なのだから。

 インターポールのストイシズムの美学とかは日本では「受けにくい」のはサマーソニックという大きいイベントのライヴで観ていても思ったし、大文字の「理解り易さ」を受容する磁場がマスを設定しているのだ、とも別解出来る。パワー・コードやヴァース・コーラス・ヴァースのカタルシスが仕掛ける感情のタイプキャスティングには勝てないということだろうか。

 でも、だからこそ、僕は彼等に期待していた。それは、「上品な翳り」があって、スタイリッシュでメロディーも締まったバンドとして。アンサンブルも引き締まっていて、それでいて何処と無く厭世感が漂っているというデビュー期のザ・ストロークスに似たような温度のニヒリズムと熱さに対して。

 局地的にバズが起こった08年のデビューEPの「Moralist S.S.」は、興味深かった。特に、表題曲の持つキャッチーさと、思索的な歌詞、そして、感情の襞の内側を潜行、内破していくかのようなエッジ。インタビューに依ると、フロントマンのKENTの意図で「S.S.」は大江健三郎の「日常生活の冒険」の斎木斎吉から取ったと聞いた時、そのベタさに苦笑いしてしまった。ベタさ、というのは、僕は大江健三郎というチョイスではなくて、「個人的な体験」でも「万延元年のフットボール」でもなく、「日常生活の冒険」というのが「らしい」な、という文脈だ。71年の作品で、或る程度、彼がオブセッシヴに性的なモティーフに駆られていた時期のもので、斎木斎吉は模範的なモラリストとして生きる事を予め設定されている。18歳でナセル義勇軍に志願したのを始めに、「当時の現代」を旅とタナトスをベースにサヴァイヴしていく青年像が彼の盟友であった伊丹十三氏を参照に描かれるという、大江作品群の中では比較的、地味で、評価的に決して高いものではない。それにKENTが敢えてインスパイアされたという捻じれ方に僕は逆説的な「出口なき、時代を生きる典型的な若者像」を可視化出来た。
その後、東京に居を移したり、メンバーの変遷がある中の混沌とした様相、09年のファースト・フルアルバムの『Part of Grace』の「幅の狭さ」、「音楽的な語彙の少なさ」もあり、自然と僕は期待より不安の要素が大きくなりつつあったのは否めない中で、届いた今回のEPはとても吃驚した。

 「Meru(メール)」というタイトルはサンスクリット語で言う須弥山という意味であり、インド宗教の世界観の名中で、その世界の中心にそびえ立つ山を指す。サンスクリット語とは、古代インドの有識者を対象にした 「人為語」であり、ヴェーダ語から発展し、紀元前4世紀頃パーニニによって文法が体系付けられたものであり、パーニニによって完成されたサンスクリットは、その後二回補修されただけで、二千数百年経った今も変化していないという独特の言語であり、そこから更に意味深い「Meru」という単語を孫引いてくる辺り、新しいモードに入っている事が如実に分かる。そして、KENTの意図に沿って、6曲のそれぞれにストーリーが付加されており、コンセプチュアルなものではないと言っているが、6曲を通してこそ、見えてくる世界観もある。

 例えば、リード曲の「devaloka」を通底するテーマは「無常への恐れ~仏教的世界観との出会い」といったものだが、流れるコードは耽美的なものであり、メロディーも思索に潜る雰囲気といい、それまでの彼等の延長線上にある曲と言っていいだろう。「Moralist S.S.」に続くピンポイント・アンセムとして、今後も要所で活躍すること紛う事ない。そして、この曲だけでも明確に分かるのが、リズムの重厚さへの意識的な変化だ。ニューウェーヴ的な翳りを纏い、金属的でエッジのきいたギターで駆け抜けるような繊細さからの脱却。それは、デビュー期から比較対象に挙げられていたザ・ホラーズが「Sea Within The Sea」でクラウト・ロックへの目配せを入れて、パースペクティヴを拡げた鮮やかさも彷彿させる、と言えるかもしれない。でも、僕は、彼等の変遷は、東洋的な、和的な変遷があるという気がしている。「Devaloka」や「Decline Together」に関しては、これは私的な感想だが、世界的に今も活躍するBUCK-TICKの95年の名盤『Six/Nine』の持つスマートな重さ、を思い出した。今井寿氏は彼らを評価していたと聞くが、BUCK-TICKという孤高の暗みを描いてきたバンドと、現代になって「共振」してくるのは非常に示唆深い。

 3曲目の「A Life As Something Transient」では冒頭からダヴィーなサウンドスケイプの中、BPMをグッと落として歌う部分には、『K』~『Peasants、Pigs And Astronauts』の際のクーラ・シェイカーのようなムードも一瞬感じたが、そういったスピリチュアルなムードを払拭するように、テンポを変え、鋭角的なギターで切り込む展開はとてもスリリングで、今のバンドの良い温度感が伝わって興味深いし、今の彼らにはまだ「Shower Your Love」は必要ない故に、納得できる。

 細かく列記していくことも出来るが、何よりも先に、今回のEPと、これまでと大きな違いは、METALMOUSEを共同プロデューサーに参加していることもあるのか、音響空間的な幅が出ているのに尽きる。これまでの彼等は優等生的に、真摯にバウハウスやジョイ・ディヴィジョン的なモティーフを輻射することに命を賭けていた所があった。しかし、それが逆に形式主義的になってしまう所は垣間見えたのも事実だ。僕は真面目な話、ポーティス・ヘッドのジェフ・バーロウと彼等が組めば面白いことになるのに、と思っていた時期があった。今作はそんな勝手な自分の思惑を跳ね除けるように、別の角度から応えるように、新しいリリーズ・アンド・リメインズ像を提供してきた。世界というシリアスな難物に対峙するとき、方法論を変えるのも、スピリチュアルに潜るのも一つの手としたならば、このEPで得た手応えをベースに更に彼等は先を描ける筈だろう。

最後に、2部構成の「Tara」における、オーウェン・パレットが築き上げたような壮大なサウンド・タペストリーには心底、僕は感動したし、その冒険心に拍手を送りたい。

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 今、アジカンは過渡期にある。

 いや、自らの置かれた状況の中に、何らかのアンチテーゼを見つけ、それらを止揚させることによって、常に新しい自分たちのスタンスを更新し、確立していっているこのバンドの場合、過渡期でない時の方がむしろ少ないのかも知れない。しかし、それでも僕はもう一度、今のアジカンは過渡期にあると言いたい。もちろん肯定的な意味で、だ。

 このアルバムの先行シングルとして、明らかに今までとは異なる実験的なアプローチの「新世紀のラブソング」、漫画・映画の同名作品とのコラボレーションであり、初めて後藤以外の人間による作詞の曲「ソラニン」、彼らのキャリア史上初のホーンセクションを大々的にフィーチャーした「迷子犬と雨のビート」の3枚がリリースされていた。

 これらのシングルで共通しているのは、言うまでも無く、どの曲も今までのアジカンとは違うスタイルを意図的に取り込んでいることだ。それらの楽曲を聴いて、僕は、ニュー・アルバムは、期待するのと同時に、少しとっつきにくいような、実験性に満ちたアルバムになるのでは、と少し不安になっていた部分も正直、あった。

 しかし、アルバムを一度聴いただけで、それはただの杞憂であることが、すぐに分かった。

 確かに、今までとは違うアプローチで鳴らされた曲も多い。しかし、例えば、陽性のアップビートで歓喜を鳴らす「迷子犬と雨のビート」も、どこか空虚なセックス・ソングを思わせるセクシャルなゆるやかさを持った「架空生物のブルース」も、タイトル通りのダンス・チューンの「ラストダンスは悲しみを乗せて」も、ブルックリンのインディ・ポップ・シーンを凝縮したようなシンセが鳴り響く軽快な「マイクロフォン」も、どの曲も全てがアジカン新機軸の斬新さを持ちながら、見事にギター・ロックあるいはパワー・ポップと言った地点に着地しているのだ。

 そう。思い返せば、アジカンはアーティストとしての表現欲を剥き出しにするあまり、リスナーを「置いてけぼり」にするような事は一度もした事などなかった。

 詞世界の面も触れておきたい。

 このアルバムの歌詞は、どれも完全に外に、社会に、今この瞬間の世界に向いている。内省はもう既に、しきった。自分が何者でもなくて、何も持ち得ないことも分かった。だからこそ、これから始めるのだ。痛みを背負ってでも、他者に、世界にコミットしていくのだ。そう言った、現実を見据えながらも陽性な、後藤正文の意志が、強く表れている。

 特筆すべきは、やはり「新世紀のラブソング」で始まり、表題曲の「マジックディスク」へと開かれていく流れだろう。「新世紀のラブソング」は、既にゼロ年代のムードに終わりを宣言する曲である。それは時代へのリセット・ボタンでは決してなく、コンティニュー・ボタンである。続く「マジックディスク」は音楽がハード・ディスクに、ダウンロード制に移行していく現代に呼応した、時代を象徴した曲である。これらの流れでこれまでの旧時代・旧体制に終わりを突きつけて、現実を恐れず見つめているのだ。

 「さよならロストジェネレーション」もまた、何も無い地平を嘆くのではなく、それを受け止めた上で、内省によって自ら築き上げた檻を出て、世界と向き合おうと歌う。これこそが後藤正文自らの世代の閉塞によるアンサー・ソングだ。「イエス」にいたっては、安直な共感も、孤独のバイブルも僕らにはいらない、とまで歌っている。

 内省の時代、自分探しの時代、ゼロ年代は長らくそうだった。それはそれで、悪い時代と言うわけではない。しかし、もうそれは終わりだ。確かに、自己を見つめることほど、大切で主体的なことはない。しかし、それによって自らを閉じ込めてしまっては、本末転倒だ。これからは痛みを背負った「個」でありながら、「個」のまま社会にコミットしていく時なのだ。そして、「そう、いつか君と出会おう」。

 アジカンはまたこのアルバムを出すことによって、過渡期を越えて、新たなアンチテーゼを自らの中に見つけ、更新されるだろう。この実験的ポップ・センスが向かう先を期待せずにいられようか。

 まだまだ10年代がどうなっていくかなんて、誰一人分からない。

 しかし、この先の見えない無秩序な社会に「個」のまま関わっていこう。『マジックディスク』を携えて。このアルバムは、それを乗り切るための、僕たちの羅針盤なのだ。

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 昨今のSATCを巡る熱狂というのは奔放な女性(女の子ではなく)の人生を生きる事が出来ない女の子(女性ではなく)の生物的なフラストレーションが歪な形で爆発したというコンテクストを敷けばいいと思うが、勿論、そこには「男」は介在しないのが面白い。そもそも、韓流ブームにしても、婚活ブームにしても、実はそこに「実在の男」は存在しなくて、彼女たちが描く「在るとしての、男」が幻像的に揺らめくだけであって、人間しか残らないという考えを援用した上で、ハイデガー的な解釈論が必要になる。

 けれども、凡庸な男性/女性への彼岸の目だけでは掴めない。寧ろ、その男性の「生の事実」だって、ふだんは茫漠としたままになっているか(生の朦朧性)、あるいはそこに埋没した耽落(Verfallen)のままにあるというのが現代の陥落でもあって、死や否定や負といった回路をいったん媒介にして、「現存在」(Dasein)という新概念として、次に投入する必然性が女性側に求められているとしたならば、今とは、リトル・ブーツにしても、ラ・ルーにしても、女性の感度は弱くなっていると言わざるを得ないのだ。現在のリリーアレンだってそうだろう。何故なら、朦朧と存前する男性に翻弄されているのは逆説的に女性側だからだ。

 そういう意味で言うと、2006年から熱狂的に男性/同性からも愛され、ファッション・アイコンとしての存在も大きくなっていたアフィの存在とは「在る、女性」そのままだった。

 MySpaceで発見されたという意味ではリリーアレンには近い部分があるのだが、彼女の場合はもう少しクラブ寄りでスタイリッシュさがあり、サブカルチャー的な雰囲気を忍ばせていた。ミルウェイズ、セバスチャン、フェッズといったフレンチ・ハウスのブレインが彼女を固めたという意味もよりクールな度合いを強めていったのも大きいだろう。

 素晴らしいEPを発表しながら、また、それらが全てクラブでパワースピンされるという状況にありながら、フルアルバムに関してはなかなか出る気配が無かったが、今回満を持して、『SEX DREAMS AND DENIM JEANS』という彼女らしいタイトルの作品が届けられた。これまでのシングルも勿論、全部入っており(特に「Pop The Glock」はポップさとキュートさを併せ持ったエレ・ポップの名曲)、リード・シングルのファレルとの「ADD SUV」も3曲目に入っており、他にもスージー・アンド・ザ・バンシーズの「香港庭園」のカバーなど、ファーストにして彼女のポテンシャルがいかんなく発揮されたものになっている。いかんなく発揮されたということは、つまりは、もう曲の表情はバラバラで、エレ・ポップもあれば、マッシヴなダンス・チューンもあれば、ヒップホップまでスキゾなこの数年間の実験結果を詰め込んだというものになっているということだ。それなのに、ポップ・ミュージックを聴く時のような軽やかさが全体を通底しており、散漫な印象は全く感応出来ない。

 今や、「一定方向のコース」を懸命に走り続けるパラノ型の資本主義的人間類型は、デッドエンドを迎えるしかない。そのあとに来るべき、アフィとは、ありとあらゆる方向に逃げ散っていくスキゾ・ガールとしたならば、ハードな管理下で懸命に自分の存在を捉えさせないようにする絶滅危惧種とも言える、「女の子」なのかもしれない。そしてまた、制度的な〈大文字の他者〉はもとから〈象徴界〉の次元であったとして、〈大文字の他者〉を脱構築することは象徴交換のヒエラルキーなきゲームを可能とするのではなく、〈象徴界〉それ自体を無化してしまうことだとしたならば、その結果として〈想像界〉的なアイデンティティに沈み込む「居直った子供」が現れるのは当然なのだ。アフィの居直りと逃げ方は多くの人を救う可能性を秘めている。レディー・ガガのような振り切り方じゃなくても、こういった形でちゃんと「女の子」はスマートに時代を泳いでみせるのだ。今年のダンスフロアーで彼女の声を聞かない日はないのではないだろうか。キュートで好戦的な快作。

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 ...えーと、このジャケットを見てもらえれば、あとはもう何も語る必要もない気もする。パロジャケ考現学を標榜した『すべてのレコジャケはバナナにあこがれる。』(安田謙一+市川誠・著)は僕も大好きな一冊だが、いつか改訂版を出される暁にはぜひともカラー・ページにて本作を紹介してほしい。『ミート・ザ・ビートルズ』に対する『ミート・ザ・レジデンツ』、ノイバウテンをパロったときのライアーズetc....に匹敵する、いい加減ながら適切で、悪意を漲らせつつそれに勝る愛情をもった引用。かつてレイプマン時代に「Kim Gordon's Panties」という曲を作って本人たちに大目玉をくらったアルビニ先生も、まさか10数年後にこんな素敵すぎるパロディの矛先となる羽目になるとは思わなかっただろう。ロック・ファンならアルビニ関連作品のベストは何かを議論すればそれだけで一晩過ごせそうだが、今後はこのジャケットも立派な候補になるかもしれない。もちろん本人は直接関わってないけど。

 <Important>というノイズ/アヴァン系のレーベル(それこそ、日本のメルツバウやアシッド・マザー・テンプル、灰野敬二といった方々までフォローしている)からリリースされた本作。ジャンルとしてはグリッチ・アンビエンドとなるのだろうか。ハーシュノイズで表現されたときにセンチメンタル、ときに無軌道なメロディと、シナプスが枝分かれを繰り返す様を顕微鏡で覗くような崩壊寸前のリズムによって構成された音楽は、耳に痛く突き刺さる瞬間も多分にあるが、包容感のある温かみも垣間見せ、捉えどころがないというのもそうだし、人間らしいといえばどこまでも人間らしい。かつて辣腕を振るい無茶苦茶の代名詞として、レーベルやシーンを横断しつつ溢れんばかりの悪意を振りまいた彼は、一方で恥ずかしすぎるほどセンシティヴな一面を時折覗かせた(僕はそんな彼の一面がとても大好きだ。キャリアで一枚挙げるなら迷わず『P.S. I Love You』を選ぶ)。

 不思議といえば不思議な、音のもつウォームな触感については、「このアルバムの曲は全てアナログ音源(アナログ・シンセ、AM/FMラジオ、マイク)によるものをコンピューターで構成し、2トラックのアナログ・テープでミックスとマスタリングを施した」という、ライナーノーツにある記述がそのまま要因を説明しているだろう。かつて元ネタとなったアルバムの裏ジャケで「Fuck Digital」を標榜したアルビニ先生の精神は、きちんとこういった形でリスペクトされている。単なるウケ狙いのパロディではなかったわけだ。

 意識が遠のきそうな教会音楽的低音のドローンからシンプルなメロディの萌芽が現れ出す「Dim Ego Prelude」で幕を開け、「Mild Pureed Ego」では連続的な進行のノイズが脳を揺さぶる。「Lou Reed Gimped」なんていう曲もある。このスタイルでこの曲名なら連想するのはもちろん例のアレだが、インダストリアルなノイズの狭間でサンプリングされた声が分裂神経症気味に鳴る様は、メタル・マシーンというよりはもう少し生物的な響きをもっている。15分以上に及ぶ「Periled Emu God」はノイズの音波に浸ることを許さない、漂流物が目まぐるしく通り抜けていくような展開が面白い。「Deep lid Morgue」は警報及びその被害報告が延々鳴り続くような鋭い騒音の連続で、最後の「Die Rumpled Ego」では悪夢的な金属音が讃美歌のような神々しさも兼ね備えている。変な音楽だ。

 面白いのは、今まで挙げたものも含めた収録曲のすべての意味深げなタイトルが、すべてKid606の本名「Miguel De Pedro」のアナグラムによるものだということ。彼がそうしたことで何を表現したかったのか、また、彼が自分の名前を並べ替えて全曲分のタイトルを搾り出す作業にどれくらいの時間を費やしたかまではわかりかねるが、ひとまずこのアルバムがジャケットの見た目より遥かに大真面目で、パーソナルな表現の顕われであることはそこからなんとなく検討がつく。たぶん彼の今回の試みはうまくいっていると思う。繰り返し聴けばチルアウトとしての効用も生まれそうな人懐っこさもここにはあるし。移り変わりの激しすぎるエレクトロニック・ミュージックのシーンにおいて、彼の放つ悪意は変わらず孤高なままで、何よりそのことに一番安堵した。

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 UKロック・シーンで最も気難しい男と呼ばれるマーク・E・スミス率いるザ・フォールがドミノに移籍してのアルバム。バズコックスを中心としたマンチェスター・パンク・シーンの一端を担いつつも音楽的にはポスト・パンクと言えるものをすでに体現していたということもあり、近年のポスト・パンク的バンドから尊敬される存在となったが、日本では相変わらずの立ち位置であると思う。聴く人は止められない。出たら買う、そんなかんじ。誰々が尊敬しているから聴け、みたいな言い方をよくされるバンドでもあるが、それでも手を出す人はそんなに多くないのかな、と思うが、こうして連続して日本盤も出るわけなので、それなりの広がりはあったのか。

 いつもどおりだがいつもどおりではないという感じで細かいところを言えば様々な変化はあるが、一聴して、フォールなんだ、これは。厭味な言い方をすれば、フォールによるフォールらしさの再現と言えなくもないが、それが唯一の存在であって誰も真似できないというところに大きな意味がある。フォールとは労働者による芸術の爆発であり、マーク・E・スミスはその体現者である、ということを今更ながら強く意識させる、いつになく粗野で生々しい録音。これがバンドである、と言わんばかりの音。タイトなバンド・サウンドにマーク・E・スミスの吐き捨てるようにぶっきらぼうなヴォーカル。90年代初頭にフォールは一度だけ来日しているのだが、そのときの、シンプルでクールで淡々としているのだけど段々と観ている方が熱くなってしまうような感覚を思い出した。つまり、いつもどおり「聴くべき」アルバム、だということだ。

 通して聴いていて、最後の方でふと聴き憶えのあるメロディー(?)にブチあたった。おお、これはワンダ・ジャクソンの「ファンネル・オブ・ラヴ」じゃないか。クランプス経由で知った人も多いと思われる妖しい魅力を持った曲なんだけど、ここではかなりアレンジされていて、唄い方もかなり崩しているが、「ファンネル・オブ・ラヴ」に間違いない。以前、彼らはキンクスの「ヴィクトリア」をかなりストレートにカヴァーしてたこともあったけど、今回、どういうつもりでこの曲を持ってきたのか、興味が湧く。

 前作は2007年だったし、同時にマウス・オン・マーズとのユニット、ヴォン・スーデンフェッドやゴリラズへのゲスト参加などもあったから、いいペースでの新作と言えるのではないか。フォールが新作を出したというと、なんか不思議な安堵感があるな。フォールの新作が出ないという時がいつかくるのだろうけど...。

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 6月2日に残響レコードより発売されたルミナス・オレンジの新作『Songs of Innocence』。ルミナス・オレンジの中心人物である竹内氏と、ベースに河野岳人(LAGITAGIDA , ex-マヒルノ、他)、ドラムに西浦謙助(相対性理論、進行方向別通行区分、他)、アヒトイナザワ(VOLA&THE ORIENTAL MACHINE)クリストファー・マグワイヤ(ex-くるり)、ギターに柳川勝哉(CAUCUS)をサポートミュージシャンとして迎えている今作。

 僭越ながら本当に大名盤であることに疑いの余地無し。

 「Sea Of Lights」や「Untold」などのソリッドで、フィードバックや轟音の持つ圧倒感と、リズムの持つ説得力と格好良さに綺麗な旋律が融合した曲や、「Autumn Song」や「Violet」などの、透明感のある竹内氏の歌声と、タイトなリズムに様々な打ち込みの音色とギターの紡ぐ浮遊感の隙間から印象的に響く日本語の歌詞(個人的にこの歌詞が凄い好き)の曲など、バリエーション豊富であっという間に引き込まれてしまうアルバム。

 唐突だけれど、ルミナス・オレンジを紹介する場面でよく出てくる言葉が「シューゲイザー」という単語だと思う。自分はシューゲイザーというジャンルが好きでノイズやフィードバックの幻想感にいつも憧れるのだけれど、このアルバムを聞いて、誰かに伝えるときに、シューゲイザーの大本命!みたいな紹介はしたくないなと思ったのです。それはこのアルバムがシューゲイザーか否か!といったそういうったつまらない矮小な問題ということでは全然なくて、ルミナス・オレンジをそういった意味を限定してしまう言葉で表現してしまうということは、表現の手法だけに焦点を当てているだけで、その本質を捉えて表現できていないように僕は思えてしまうからということ。ではどう表現するのかと言われれば、僕はオルタナティブという広義な意味合いをもった表現を使いたいと思う。オルタナティブって何だ?っていう話になるけれど、僕がここで言いたいのは、オルタナティブな音楽に潜んでいる危うさや焦燥感といった心の負の部分に共鳴する要素と、それらと同時に背中合わせで存在している無邪気さや純粋さのような要素が、このアルバムでは並列して存在し、そして素晴らしく表現されているということ。そしてまたそれらの要素が、竹内氏の持つオリジナリティ溢れるコード感や楽曲の展開、メロディラインなどのセンスが、素晴らしいサポートミュージシャン達と融和し、演奏力や完成度といったさまざまな面において説得力を持ち、圧倒的な強度と完成度で表現されているのだ。

 そしてなにより普遍的な魅力を持った音楽だと僕は思う。

 ジャンルやキャリア、流れとかそういったことに捕われずにっていう表現自体がもう既に捕われているのかもしれないし、定型文だし、押し付けがましいけれど、それでも僕は、この「今」のルミナス・オレンジの音楽と、個として還元された自分とが対峙したときに感じた切なさや感動を共感したいと思うのです。

 是非、聞いて欲しい一枚。

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 最初に彼らの音楽を耳にした時は、70年代の幻のサイケ・バンドの発掘音源か何かと勘違いしてしまったが、彼らは歴とした現代のバンドで、このアルバムは2010年リリースの作品。アヴィ・バッファローは、カリフォルニア州ロングビーチを拠点に活動する男女4人組で、驚くことにリーダーのアヴィドーはまだティーンエイジャーだそうだ。

 キラキラとしたギターの音色が印象的な、緩くレイドバックしたサウンドは、サブ・ポップの先輩バンドであるビーチウッド・スパークスやオール・ナイト・レディオを思い起こさせる。そして、その上に乗るアヴィドーの中性的なハイトーン・ヴォイスがアヴィ・バッファローの音楽の個性を決定付けている。まずはシングルにもなっている2曲目の「What's In It For?」を聴いてみて欲しい。胸を締め付けるようなメランコリックなメロディーは、一度聴いたら忘れられない。

 先述のビーチウッド・スパークスの『Once We Were Trees』と、オール・ナイト・レディオの『Spirit Stereo Frequency』は、ともに<サブ・ポップ>の00年代を代表する大名盤だが、このアルバムはその系譜を継いで、これからの10年を代表する一枚となるだろう。

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 『存在』というタイトルに違わず、巨大な存在感を感じる、そんな作品だ。

 60年代のブリディッシュ・ロックのブルース臭さと、アーケイド・ファイアばりのコーラス・ワークとシンフォニックなサウンド――アルバムをプレイすると耳に流れ込んでくるその音楽は、壮大なスケールで広がっていく。時にはシタールを加えたり、轟音でうなるギターを鳴らしたりしてサイケデリアを演出する。その一方でフォークやカントリーの要素も濃厚に取り入れることで、メロディは深みを増している。また、ゴスペルの崇高さを備えた「Chemistry」、ベックの「Loser」を思わせるようなビートとヴォーカルの「Silver」など、強烈な個性を放つ曲が並ぶ。そして全体的に漂う、プライマル・スクリーム風の「ヤバさ」。自然とアルバムを繰り返し聴いてしまうのは、何よりきっそこに魅了されてしまったためだろう。

 このデトロイト・ソーシャル・クラブはUK北部、ニュー・カッスルでスタジオ・エンジニア兼プロデューサーをしていたデヴィッド・バーン(David Burn)のスタジオ・プロジェクトとしてスタートしたもの。友人ミュージシャンを集め、6人のメンバーで活動を始めてから、そのライヴが評判を呼びNMEヤクラシュ・マガジンなどの媒体で取り上げられてきた。その後、オアシスやプライマル・スクリーム、レイザーライトなどとツアーを行い、UK国内でのバズを高めていったバンドだ。

 僕はこのアルバムを聴くたび、デトロイト・ソーシャル・クラブにはこのまま巨大なスタジアム・バンドになってほしいと願って止まない。オアシスが解散して約半年。大文字の「ロック」を鳴らすバンドがいなくなったUKでは、後任の可能性がありそうなのは3組だけ。アークティック・モンキーズとカサビアン、そしてミューズだ。だが、そのレースに、このバンドも加わり、ロックを求める人々を熱くして欲しい、そう思う。フジ・ロックでの初来日公演では、その器の大きさをぜひ確かめてみたい。

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 07年だったか、クラブでディプロに影響を受けたという日本人のDJで踊っていた時に、クドゥルを知った。クドゥルとは、主にドラムン・ベース、ダブ・ステップからの影響を受け、アフリカのアンゴラから発生して、アンゴラ系の移民によってポルトガルに伝来したハイブリッドでラフなダンス・ミュージック。ブラカ・ソム・システマの野卑な音を想い出せば早いかもしれないが、そのクドゥルとバイレ・ファンキを混ぜ合わせて、トライバルに煮込んだ「Soobax」という曲がとても印象に残り、後で誰の曲かを彼に確認してみたら、ソマリアのラッパーのケイナーン(K'NAAN)というアーティストだという事を知った。ソマリ語と英語が行き来するライムに躍動感のあるバックトラックが鳴り、PVにはソマリアのモガディシオのストリートを行く彼の姿とそれを取り囲み踊る街の人たちが奔放に映っていた。

 ソマリアという国は91年以降、内戦が激化する中で無政府状態が続いており、治安も良くなく、世界最貧国の一つでもある。また、ソマリランドとプントランドが面するアデン湾は海賊行為の多発海域としても名が通っている場所であり、国際問題としても槍玉に挙げられる事が多い。そこで、78年に生まれたケイナーンは12歳の時、内戦の激化前に民間旅行機でニューヨークに逃亡し、その後、カナダのトロントに移住し、そこをベースにラッパーとしての活動を進めた。英語はそこで独学で習得したと言う。

 彼の名前が本格的に浮上したのは06年の『The Dusty Foot Philosopher』であり、07年リリースのコンピレーション『Urban Africa Club』だった。後者に関しては『ツオツィ』という映画に曲提供をしていたゾラ等に混ざって、彼の名前がクレジットされており、そのライムの巧みさとバックトラックの猥雑さに注目がいった人も多いと思う。そこから徐々に世界中に「発見」されていき、A&Mが目を付け、メジャー配給としての09年の『Troubadour』でブレイクすることになった。但し、このアルバムにはメジャー配給ゆえの規制が掛かったのか、ストリートやゲットーミュージックに根差したシビアさは抑えられ、エドワード・サイード的なオリエンタリズム的な要素因を含むようになってしまうことになった点は否めないものの、ソマリアの現実を切り取り、世界へ伝えたという側面は評価すべきだろう。「T.I.A.」という曲にはボブ・マーリィーの「Simmer Down」がサンプリングされていたり、一部、タフ・ゴング・スタジオで録られていたり、「グライム以降」の生命力が溢れた曲もあったり、モス・デフやマルーン5のアダム・レヴィーンが参加した曲などグローバル対応になっているものの、強烈にレベルの気配が充ち満ちており、彼の確たる意志が貫かれている。アフリカのリズム、エチオピア音楽のサンプルの仕方もなかなか巧妙だ。

 ただ、ここで先述した「グライム以降」という表現には注意が要るかもしれない。グライムとは00年代のUKのガラージの流れを組んだ音楽形態とも言えるが思想形態とも言えるからだ。サウンド・テクスチャーとしてはテンポを落とした低音を強くしたダウンビートにラップが乗るものを一般的には指すが、ディジー・ラスカルや初期のM.I.A.の音を想い出せばいい。そこから、インスト面が強くなる事でダブ・ステップに繋がってくる訳だが、ルーツ的には90年代の初期のレイヴから派生したという考えもあり、僕も06年くらいにグライムやダブ・ステップのパーティーに行った時には、2ステップやジャングルも混ざっていた記憶があるから、その論に賛同出来る部分がある。当時は、蛍光色の服に身を飾ったお洒落なニューレイヴと差異化されて、Tシャツ一枚で「ただ踊る為に、踊りに来る」トラッシュな人たちが溢れていて、その切実なまでの音楽に対しての希求の熱量が心地良かった。異性を口説く訳でもなく、ファッション的にクラヴィングを気取る訳でもなく、ただウィークエンドで溜まった鬱積した感情を昇華する場所にグライムやダブ・ステップの低音は効果的に響いており、スクワット・パーティーすれすれの清冽なヴァイヴがあった。SkreamやDigital MystikzやBurialや、ふと混ざるマッシヴ・アタックのマッド・プロフェッサーがリミックスしたアルバム『No Protection』からの曲など独特の禍々しい麗しさが通底していた。そこではクールとは程遠いが、優美なダンスをアフォードされている人たちの姿はまるで、自分が辿り着けなかったウェアハウス的なユーフォリアも包含していた。その波を受けた形で、クドゥルとバイレ・ファンキのバイタリティと猥雑さを取り込んだのがケイナーンの音楽であり思想という訳だ。

 しかし、それが皮肉にも今年の南アフリカのW杯の某グローバル企業のオフィシャルのキャンペーン・ソングに搾取される形になってしまったのは何とも言いようがないところがあるが、ケイナーン自身が見据える視線にはいつかのボブ・マーリィーに似た透き通ったものはあるのは確かでもあり、「ONE LOVE」へ向けての祈念がある。今夏のサマーソニックで初めて日本に来るが、必ず素晴らしいパフォーマンスをしてくれる事だろうと思う。彼は時代の要請としてワールドワイドに「なった」のではなく、なる「べき」方向を選ばざるを得なかったという意味で、ソマリアの現状やゲットーミュージックの強度をこれからも伝道していくに違いない。ここには掛け声だけのラブ・アンド・ピースはない。

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 00年代のアーティストで「レディ・ガガより先にレディ・ガガをしていた」といえば、まずはローシーン・マーフィー(ガガの特徴といえるファッションに多大なインスピレーションというか、元ネタを提供している)。そして、スウェーデンのポップ・アイコン、ロビンの名前が挙げられるだろう。

 元々はスローでソウル・マナーな、いわゆる「90年代ポップス」で一度チャートを席巻したアイドルだった(デビューも早い。最初のアルバムは95年リリース。当時彼女は16歳!)彼女は00年代初めに一度自分の方向性を見失いかけたが、2004年にエレクトロに急接近。同じくスウェーデンを代表するエレクトロ・デュオ、The Knife(日本じゃ無視されすぎ...)の音楽性に大きく影響を受けた彼女は、自身による自身のためだけのレーベル<Konichiwa>(「こんにちは」のミススペル)を立ち上げ、大きくアーティスト指向を強めたセルフ・タイトルのアルバム『Robyn』を2005年に発表。2007年にワールドワイド・リリースされたアルバムは結果的に6曲もシングル・カットされるほどの超ポップな特大充実作となり、なかでも「With Every Heartbeat」はイギリスのチャートで1位に輝いた。華麗な転身による大逆転セールスの一方で「リアル・インディー・アーティスト」としても、ピッチフォークを始め多くの海外インディー系メディアの支持も集めた(意図的にメジャーを離れるアーティストが増えている、昨今の潮流の先駆けといえるかもしれない)。

 マドンナのヨーロッパ・ツアーの前座に起用、フィッシャースプーナーやロイクソップといったエレクトロ・シーンの大御所とのコラボ(特にロイクソップの去年のアルバム『Junior』に収録された「The Girl And The Robot」は涙が出るほどポップな名曲...)、何よりエネルギッシュ極まりない、リズムを強調しまくったライブ・パフォーマンスで盛んに話題を集めまくった彼女の次の一手は、「既に年内中にEP3枚をリリースする準備が整っている」と本人が豪語する、『Body Talk』シリーズ(最近はこういう三部作、四部作...ってのが多いですね。シングル曲DLがスタンダードな時代に対するアーティスト側のコンセプチュアルな抵抗。あるいは、リリース費用の問題もあるのかも。このミニ・アルバムも、CDのレーベル面をわざわざCD-RWをそっくり模したデザインにして、チープさを強調している)。彼女の創作意欲はここ極まれり。本作はその第一弾である。

 エレクトロ化以降の彼女の音楽性は《チャーミングでおバカ》と《トゥーマッチなほどシリアス》の対極する二つのバランスがとにかく素晴らしいのだが(前作でいえば前者の代表曲が「Konichiwa Bitches」、後者は「With Every Heartbeat」だろう。特に「Konichiwa Bitches」のPVは彼女の世界観を知るうえでも必見。僕は初めて見たとき泣きました)、今作でもそのバランスは過不足なく保たれている。感情をもった女アンドロイドについてチャーミングに歌った「Fembot」は、ついに待望のアルバムもリリースされたUffieが代わりに歌っても何の違和感もなさそうな、軽快なライミングの心地いいポップ・チューン。「私はあなたに全てを捧げた。だけどあなたは違う女を家に連れ帰った。(それでも)私は踊り続ける。」というサビの印象的すぎるフレーズが図太く攻撃的なブリープ・サウンドに載せて歌われる先行シングル「Dancing On My Own」は、そのまま彼女らしい独立独歩な姿勢を貫くことの所信表明のようでもある。それこそ、アルバム冒頭曲のタイトル「Don't Fucking Tell Me What To Do」が、彼女のすべてを言い表しているといえるだろう。

 前作でも好タッグを組んだスウェーデンのKlas Ahlund、Kleerupの他に、ディプロ、ロイクソップといった強力なプロデュース・チームに支えられた楽曲は、以降も今年31歳を迎える彼女だからこそ成立しうる、成功する/したことの難しさを歌った「Cry When You Get Older」、ダンスホール・レゲエにモロな影響を受けた(まんまな曲名の)「Dancehall Queen」、"退屈だからこの街から連れ出して。新しい音、クソ不真面目な音を聴かせて"とのたまう、これまた挑戦的なトライバル・チューン「None Of Dem」と、多様な趣向を凝らしつつ「Body Talk」の名に恥じない曲が続き、かと思えば一転してピアノとストリングスをバックに、悲しい愛について感傷的に歌いあげる「Hang With Me」、そしてスウェーデンの伝承曲であり、彼女がかねてから得意としたメロウなカバー「Jag Vet En Dejlig Rosa
(I Know A Rose So Fair)」で30分のミニ・アルバムはあっという間に幕を閉じる。

 あまりに充実しまくりな前作に比べるとさすがに半歩落ちるところはあるが、年内にこのクオリティー(あるいはそれ以上のものが...と期待したい!)のレコードがもう2枚出ることが決定的だとすれば、それはもはや驚異だ。ここまで読んでいただければおわかりのとおりのボンクラ気質のせいか、カイリー・ミノーグのようなエロ要素が希薄すぎるからか(ロビンは今年で31歳だから仕方ない...ボーイッシュなのもハマってるし...と言い訳もできるけど、42歳で今度出た新曲の、あのPVを出せてしまうカイリーが異常すぎる)どうにも日本ではウケが悪いが、いやいや。ボンクラだからこそ最高です。あくまでアイドル的スタンスのままインディー/DIY精神を発露しまくる、真に信用できる人だなー、と。

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 そう、「感情のバロメーター振り切っちまえ」だろ? ブルックリンにて結成された男女2人組のデビュー作『Treats』、それはノン・ブレーキ、アクセル深く踏みっぱなしの、ギターを全面に押し出したエレクトロ・ポップ・ミュージック。M.I.Aが立ち上げたレーベルから発表されたこともあってか、音楽性はM.I.Aに通じるが、しかし、この荒削りな音楽性は凄まじい。乱雑とキュートな様が入り混じったサウンドが絶え間なく打ち鳴らされ、吐息は絶え絶え、体温上昇、エレクトロニック・ビートは腹にくるほど力強く、理性なんていうややこしいものは、ブレイカーが落ちたみたいにストンと消えて、ああ、そうだよ、最高じゃないか。

 噛みついてくるノイジーなギター・サウンドの連続とそのリフ、叩きつけられるビート、そこに絡まるヴォーカルが生み出す音に燃えるんだ。グッとくるどころか、カッとなる。だからいい。音の全てに、完全に、迷いがない。端的に言って、耳をつんざく。曲ごとに歌い方を変えるヴォーカルがアルバム全体の表情を豊かにし、みだらに歌ったかと思えばウィスパー・ヴォイスや絶妙なコーラス、ヴォイス・パフォーマンスを魅せもするが、荒々しい電子音、ビート、ギターが乱雑性を醸し出し、本来の正当なバランスなどあったもんじゃない。決して素通りできない音の洪水が続く30分。いわば、音が、キレている。本作は他人事じゃあ済まないんだ。しかしこの聴き終えたときの清々しさは何であろう。

 いつの間にか僕らは社会性の中にあって、本能的欲求を閉じ込めざるをえなくなった。だからして作り笑いや愛想笑いなど、本能的なものすらコントロールするようになってしまったかに思える。バイアグラをかじり、睡眠剤を飲む行為も本能をコントロールしているという意味では本質的に同義だ。無論、それらは悪いことではない。しかし忘れてはいないだろうか。人間とは社会によって突き動かされるのではなく、感情によって突き動かされるべきであることを。

 この作品はそれを思い起こさせる。音がややチープであろうと、バランスがおかしかろうと、乱雑性を持つ『Treats』は、感情の一切を吐き出しているからこそ、僕らを打ち、聴き手の感情を引きずり出し、放心に似た清々しい気持ちに溢れるのだ。これほど勢いのあるデビュー作らしい音楽は中々ないだろう。一度バンジー・ジャンプでもしてみようじゃないか。そんな具合に聴いてみるのも悪くない。リアルを感じられるから。一回でいい。聴いてほしい。

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 東京を拠点に活動を続ける4人組、ザ・マンマルズ。彼等の1stミニ・アルバムとなるのが本作『Instant Classics』だ。

 キングス・オブ・レオンやザ・ストロークスを想起させるブルージィーなロックンロール・サウンドを武器に、数多のライヴで着実に力を付けてきた生粋のライヴ・バンドである。

 ライヴ・バンドというと音源にその魅力をパックしきれていない場合も少なくはないが、本作には叩き上げてきた現在のバンドの到達点が実に見事にパッケージされている。ドライヴするビートにリーディング調のヴォーカルを乗せた「(It's So Easy To) Leave You Alone」や、印象的なリフを持つアンセミックなビッグ・ナンバー「Escalator」といったライヴでの人気楽曲の完成度も特筆ものだが、「Down Town」、「You've Gotta Believe Her」でのモータウンやスタックスのクラシック・ナンバーを踏襲した彼等のルーツとも言えるソウル・ミュージックへの目配せも見落とせない。

 MODS MAYDAY 30周年への出演や、久保憲司氏によるアーティスト写真などトピックには事欠かない彼等だが、このリリースの先に何を見せてくれるのか今から楽しみで仕方がない。

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 オルタナ・カントリーの静謐なる先駆者でもあり、25年間に渡ってオリジナル・メンバーのまま活動を続けているカウボーイ・ジャンキーズ。彼らのみならずカナダ・ロック史をも代表する『The Trinity Session』(超低予算で教会を借り、マイクを一本だけ立てて14時間足らずで録音。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「Sweet Jane」の美しすぎるカバーも含むこのアルバムは、ピッチフォークの80年代トップ100アルバムにもリスト入りしている)を、ライアン・アダムス、ナタリー・マーチャントといった面々も交えて再演し、映像作品化もされた2007年の『Trinity Revisited』以降、久々となる新作は「Nomad(=流浪者) Series」と銘打たれた4部作の第一弾。

 バンドのギタリストであり、メインのソングライターでもあるMichael Timminsと彼の家族が三カ月に渡って中国の靖江市に滞在した日々からインスパイアされた、異なる世界で育ち、永遠に結ばれない男女の物語を歌ったコンセプト・アルバム、タイトルもずばり『Renmin Park(=人民公園)』...という設定もかなり目を引く、キャリアを通じてもかなりの異色作といえる。(海外のレビューではソフィア・コッポラの映画『ロスト・イン・トランスレーション』となぞらえて評価されているようだが、たしかにテーマは相通じているのかもしれない)

 本作では琵琶や二胡といった楽器が用いられるなど、バンド自身がかなり中国の音楽に接近している。かなり賛否あるだろうが、元々ゴシックでアンビエンタルなルーツ・ミュージック解釈を提示し続けてきた彼らの世界観と中国音楽の相性は抜群で、たとえば冒頭三曲目の"Sir Francis bacon At The Net"では、シリアルな中国/香港映画のスコアで多く用いられるような旋律でディストーション・ギターが唸りまくり、近年発掘ぶりが目覚ましいアジアン・アシッド・フォークの雰囲気そのもの。また、Michael自身がフィールド・レコーディングして中国から持ち帰った音素材がアルバム全編で効果的に 用いられており、サイケデリック/オリエンタルな演出に貢献している。もちろん、本来の持ち味である洗練された風通しのいい楽曲も多く収録されており、アルバム全体の粒がかなり揃っている。ホープ・サンドヴァル~ベス・ギボンズの系譜に連なるだろうMargo Timminsの冷ややかでアンニュイな歌声にも相変わらずウットリさせられる。

 また、中国ロック界の大御所ふたり、许巍(Xu Wei)と左小诅咒(Zuoxiao Zuzhou)のゲスト参加と、本人たちの楽曲の英詩訳カバー(それぞれ、「My Fall(我的秋天)」「I Cannot Sit Sadly By Your Side(我不能悲傷地坐在你身旁)」)も披露されている。カバーの出来も秀逸だが、リンク先を参照のとおりオリジナルも抜群にかっこよく(特に许巍は欧米のオルタナ・ロックの影響をモロに受けており、とても聴きやすい)、中国ロック・シーンのエデュテイメントとしても機能しているといえるだろう。

 バンド自身も相当熱を入れている様子の「Nomad Series」では来年11月までに残り三枚のアルバム・リリースを予定しているそうだが、次作『Demons』は、バンド自身とも交流が深く、先述の 『Trinity Revisited』にも参加し、昨年のクリスマスに亡くなったシンガー・ソングライター、Vic Chesnuttに捧げる彼の楽曲のカバー集になるとのこと。生前の彼も参加した『Dark Night Of The Soul』もまもなく発売の見通しだが、それと併せて今後のカウボーイ・ジャンキーズの活動も目が離せない。

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 1994年4月、アメリカのシアトルで27歳で自らの頭をショットガンでぶち抜いてその人生の終始を打ったアーティストがいた。そう「ニルヴァーナ」のカート・コバーンだ。彼の死によりグランジも終わり、新しいムーブメントや若者にとっての「神」であるかのような次世代の新しい指針が必要になった。何かの終わりは新しい何かの始まりでしかないのはいつの世もそうであるように。

 同じく4月、ノエルとリアムのギャラガー兄弟を軸にしたバンド「オアシス」は時代を作り上げたかつての少年、若者のカリスマになってしまったカートが神への供儀として捧げられ、失われた世界で「スーパーソニック」としてデビューを果たす。

 カリスマ自体が時代を作るわけではなく、カリスマは磁石のようなもので、彼らに惹かれるファンや支持者はある種の砂(鉄)として強力な磁場に吸い寄せられていく。その砂の流れが時代と言ってもいいのかもしれない。だからこそ時代の流れができあがった後に新しい磁場が発生すると砂はまた次なる時代の流れに向かっていく。役割を終えたものは自然と回収されるかのように神の元へ帰っていく。

 マイケル・ジャクソンの死による彼の再評価はこの新しいディケイドにポップな散乱銃による色とりどりなものが溢れる前兆として最後に咲き誇ったように僕には思えた。

 「オアシス」は三枚目のシングルとして「ニルヴァーナ」の「I Hate Myself and I Want to Die(自分が嫌いだし死にたい)」への反発として「Live Forever(永遠に生きる)」と歌った。この1994年にデビューアルバム『Definitely Maybe』を発売し英国初登場一位を記録し彼らの歴史が始まった。

 そしてそのデビューから16年の歳月が経った今、2010年に発売された『Time Flies』という彼らの歴代シングルを網羅している作品がリリースされた。バンドのリーダーでありソングライティングをメインで務めていたギャラガー兄弟の兄・ノエルの脱退によってオアシスという時代は終わり実質的にこの作品が最後の「オアシス」作品となるだろう。

 彼らが第一線でロックンロールバンドとして活動していた16年という歳月の中であまりにも大きく世界の流れが変わってしまった。その中でも彼らは言いたい事をいい、暴れてたりケンカをしたりと様々な問題を起こし、ロックンロールの最後の生き様を見せていたように僕には思える。そしてその限界が訪れたのが2010年だったということだろうか。彼らは、リアムやノエルはこれからも音楽を続けて行くだろうし、ビッグマウスは健在だろうが、彼らのようなバンドはもう現れないだろうと収録されている曲を聴きながら思う。

 洋楽ロック不振は海外バンドを呼ぶフェスのラインナップを見てもわかるように客を以前のようには集 められない、昔だったら考えられない日本のアーティストを呼ぶ事でなんとか集客を増やそうと努力しているのがわかる。音楽業界自体の落ち込みと若者の洋楽離れがそれにさらに拍車をかけている。

 そう意味でもオアシスというバンドのように日本でも売れるロックバンドというものはこれから少なくなっていくし、彼らの楽曲のように僕らですら口ずさめるようなロックが出てくるのかは疑問だ。

 彼らがこうやってビッグバンドとしての「オアシス」に区切りをつけて終焉したことで次世代のロックが、新しいムーブメントがゼロ年代終わり頃から萌芽しつつ、それらが今のテン年代に入り一気に実ろうとしている事と符号させる。

 しかし、彼らが残した楽曲はこうやって残る。いつしか彼ら自体が「Champagne Supernova」のようになってしまったなと思っていただけにこうやってきちんと終止符を打ったことは嬉しいような哀しいような複雑な気持ちになる。

  ノエルの脱退で浮かんだのは旧約聖書『創世記』に登場するカインとアベルの兄弟の話だった。彼ら兄弟が神ヤハウェに各自の収穫物を捧げた。兄・カインは農耕で取れた収穫物を、弟・アベルは羊を放牧し肥えた羊を。神はアベルの供物には目を留めたがカインの供物は無視(シカト)した。カインはそのことによる嫉妬でアベルを殺してしまったが、アベルの血は神に向かってこのことを訴えた。神ヤハウェはカインにアベルの行方を問うと「私は永遠に弟の監視者なのですか?」と答えた。

 ノエルはリアムを殺さずにすんだ。でも彼らの「オアシス」を殺すことで互いを生かすことを選んだ。そして「オアシス」は完全に僕らの、ファンのものとしてこの16年のロックンロールの記憶として残った。

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 例えばザ・ストロークスやフランツ・フェルディナンドがそうだったように、その年、時代のトレンドを象徴するアルバム...ザ・ドラムスのセルフ・タイトル・デビュー作はきっとそう評される作品になるだろう。

 今年、インディ・ロックのブライテスト・ホープといえばこのNYブルックリンの4ピースであることに異論を唱える人はいないはず。サーファー・ブラッドやベスト・コーストといったローファイ・バンドたちと作り上げてきた「夏ムード」の中心。NMEやクラッシュといったUKのメディアにおいても、USのピッチフォークにおいても、期待の新人リストのトップを総ナメ。ここ日本でも、アルバムのリリース一週間後に予定されたDUO MUSIC EXCHANGEでの初来日公演がソールド・アウトしてしまったことからも、驚くほどの人気の高さがわかるというものだ。

 すべての始まりは昨年の夏、ネットにアップされた3分足らずの1曲、「Let's Go Surfing」だった。話題は一気に広まっていき、世界中のリスナーのハートを掴んでしまった。シンプルなフレーズをリフレインするギターや軽快な口笛とハンドクラップが心地よい。まぶたの裏に浮かぶサウンドスケープは真っ青な空と海の、夏。だが、それはまだ始まりに過ぎなかった。なぜなら、続く3枚のシングルとEP『Summertime!』でもしっかりと、類まれなるセンスを証明したのだから。

 そして、待望のセルフ・タイトル・デビュー・アルバムが到着。事前の大きな期待にたがわない名盤といえるだろう。

 もちろん、代表曲「Let's Go Surfing」をはじめ、「Best Friend」「Forever And Ever Amen」といったシングル曲を配した、みんなが求めていたザ・ドラムスがのサウンドがある。フロントマンのジョナサン・ピアースはモリッシーばりに歌い上げ、ビーチ・ボーイズ譲りのコーラスワークがフックを作り上げる。ローファイなギターでドライヴするポップは本当に気持ちがいい。

 だが、それだけではなく、これまでの楽曲では見られなかった姿も浮かび上がってくる。「It Will All End Of Tears」では、ジョイ・ディヴィジョン「Love Will Tear Us Apart」を思わせるようなポスト・パンク風のビートが刻まれているし、「I'll Never Drop My Sword」では悲しみを帯びたヴォーカルが印象的だ。また、さんさんと降り注ぐ太陽が輝く海を思わせたシングル曲に対し、「Down By The Water」はまるで夜の海。ぐっとテンポを落とし、センチメンタルな雰囲気がぐっとムードを盛り上げる。これらの楽曲により、ローファイ・バンドとは一線を画すソングライティング能力があることを見せてくれる。「夏」ムード一色になりつつある2010年USインディにおいて、間違いなくシーンを象徴するアルバムだ。

 そもそも、フロントマンのジョナサン・ピアースとギターのジェイコブ・グラハムは幼少からの親友同士。かつてはゴート・エクスプロージョン(Goat Explosion)というシンセ・ポップ・バンドを一緒に組んでいたが解散。続いて、ジョナサンはエルクランド(Elkland)、ジェイコブはホース・シューズ(Horse Shoes)というバンドを組むも、それぞれ徒花として消えてしまう。その後結成されたのがザ・ドラムスというわけだ。3度目の正直とでも言うべきか、このバンドには一切嘘がない。正直だ。ビーチ・ボーイズにニュー・オーダー、ザ・スミス、オレンジ・ジュース、それにフィル・スペクターなど、彼らがリスペクトしてやまないレジェンドたちの影響を隠すことなく表現、モダナイズした楽曲を作ってきた。きっと、ジョナサンとジェイコブの堅い友情がこの奇跡のようなアルバムを生んだのだろう。アルバムの1曲目が、お互いが死んだときのことを想定し絆を確かめあうという内容の「Best Friend」で始まっているのも、きっとそのためだろう。

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「伝説」だからいいなんて、まったく思わない。60年代にはレッド・クレイオラと並ぶ「テキサス・サイケデリック」の両雄などと称されていたサーティーンス・フロア・エレヴェイターズ(13th Floor Elevators)の中心人物ロッキー・エリクソン。

 レッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンは、70年代末~80年代初頭のUKポスト・パンク/ニュー・ウェイヴ期に同地で裏方としてもアーティストとしても一時代を築き、90年代後半以降いわゆる「シカゴ系」のひとりとしてみたび盛りあがっていた。それに比べ、サーティーンス・フロア・エレヴェイターズのロッキー・エリクソンは、イマイチ地味ではあった。もちろん90年代のいわゆる「ローファイ」期にカルト的な人気を高め、スペースメン・スリー(もしくはソニック・ブーム)からマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(ケヴィン・シールズ)をへて現在にいたるノイズ派にも根強い支持を得てはいる。

 たとえば最近、いわゆる「シューゲイザー」系のUKレーベル、ソニック・キャシードラル(Sonic Cathedral)から、ケヴィン・シールズも参加したロッキー・エリクソン・トリビュート・アルバム『The Psychedelic Sounds Of The Sonic Cathedral』がリリースされている。このタイトルは、60年代サイケデリックの定盤と評されるサーティーンス・フロア・エレヴェイターズの傑作ファースト・アルバム『The Psychedelic Sounds Of The 13th Floor Elevators』をもじったもの。ポスト・パンク以降とのつながりで言えば、傑作セカンド『Easter Everywhere』もでかいと思う(ニック・ロウやザ・ポップ・グループを出していたワーナー傘下レイダー・レーベルから、後者の『Y』と同じ79年に再発)。

『The Psychedelic Sounds Of The 13th Floor Elevators』収録曲からバンド名をとったファイアー・エンジンズというポスト・パンク期スコティッシュ・バンドのサウンド自体は、どちらかといえば『Easter Everywhere』のほうに近い気がする。彼らの直後の世代にあたるスコティッシュ・バンド、プライマル・スクリームは『Easter Everywhere』冒頭収録曲「Slip Inside Your House」をカヴァーしていた。ちなみにレイダーは同年、レッド・クレイオラの新譜もリリースしていた。そのころはラフ・トレードのプロデューサーとしても大忙しだったメイヨ・トンプソンが、87年のプライマル・スクリームのファースト・アルバムをプロデュースしているのも、おもしろい。プライマルのボビーとか、アラン・マッギーって、「ポスト・ポスト・パンク派」って感じですな(ぼくと同世代。共感できる:笑)。

 閑話休題...というか、マジな話、ロッキー・エリクソンによる、このニュー・アルバムを聴くときには、今つらつらと述べてきたようなことはすべて忘れたほうがいい、ような気がする。というわけで、冒頭のフレーズに戻る。

 ここで聴ける、滋味にあふれた、そしてUS南部の大地とかを思わせるうたそのものが、あまりに感動的なのだ。オッカーヴィル・リヴァーとの組みあわせも、まさにずっぱまりと言えるだろう。

 最初アルバムをかけると、あまりに劣悪な音塊が飛びだしてくる。ああ、サイケですか? ローファイですか? みたいに、ちょっと鼻白んだのだが(いや、そういった音楽は、もちろん好きですよ。だけど、あまりにロッキー・エリクソンのパブリック・イメージそのまま、って感じで...)、2曲目からは、もう正統派ど真ん中。カントリーやR&Bからちょっとエキゾチックなノリまでを感じさせるサウンドは、ジョー・ヘンリーやニーコ・ケース、トム・ウェイツからドクター・ドッグまでを擁するアンタイ・レコーズにふさわしい見事さ。『True Love Cast Out All Evil(真実の愛は、悪しきものを追い払ってくれる)』というフレーズが、ニュー・オーリンズっぽいノリで、素直に頭に飛びこんでくる。

 ラスト・ナンバーでは、ふたたび劣悪な音質になるのだが、それこそ南部の埃っぽい町のAMラジオから聞こえてくるようで、まったく不自然さはない。この曲のフレーズの一部が「Waltzing Matilda」を思わせるところが、たとえばポーグスのセカンドのラストや映画『渚にて』を想起させ、泣ける。「God Is Everywhere」。普通だったら、宗教がかって好きじゃない...みたいに感じるであろう曲名も、心にしみる。

 オッカーヴィル・リヴァーも、いい仕事をした。ロッキー・エリクソンと彼らや、アンタイとか、UKのライセンシーであるケミカル・アンダーグラウンドとの出会いの素晴らしさも、この曲名のフレーズと響きわたって、ああ、とりあえず生きててよかった、なんて思ったりする。

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 エピステーメーは、ミシェル・フーコーの概念の一つだが、ある時代の社会や人々の生産する知識の在り方を特定付け、影響を与える、知の「枠組」のようなものであり、『言葉と物』での「エピステーメー」における、人の思考はそれが持つ思考体系、メタ的な知識構造に従順になるという構造主義的な見解を示しつつ、ある時代の社会を支配するエピステーメーから開放されるには「エピステーメー」の破壊でしか解決しないという描写があるが、そういう意味で言うと、ポスト・パンクに影響を受けたバンドが犇めいていたニュー・エキセントリックと呼ばれるムーヴメントに属していたバンドがセカンド・フェイズにあたってニュー・ウェーヴ的な意匠へよりギアを変える中、そのニュー・エキセントリック勢が放っていた無邪気な破壊衝動を更に知的に分析する巧妙なテクニックと熱を帯びたバンドにイタリアのディドが居る。

 既に早耳のリスナーの中では、ニュー・エキセントリック勢からの影響以外にも、そのビート感をしてザ・ラプチャーやレディオ4、LCDサウンドシステム、初期クラクソンズの影も見受ける事が出来ると言われているし、実際、サウンドの構築の仕方は70年代のオリジナルのポスト・パンクの香りと攻撃的な脱力性があるクールな格好の悪さは新しく何かを感じさせるし、歌詞の中では「世界が灰色に見える」、「僕らのジャンルって何なのか考えさせて」、「パーティーのためだったら雨だって止められる」といったナイーヴで繊細なものが散りばめられるのにも、今の温度がある。パフォーマンスに関しても如何にもな、アート的な佇まいでセンスが切れたものを見せてくれる。例えば、最初の頃の7インチのシングルにもジーズ・ニュー・ピューリタンズのリミックスを入れるなどぬかりが無い部分があり、確実に射抜くべき対象にブレはなく、その「ポスト-」性は同世代者への安易なコミュニティー意識や共振さえも厭うように、だからこそ、時代遅れとも言えるDFA以降の生音×ディスコ・ビートのスタイルを積極的に援用するのだ。

 デヴィッド・ボウイの「チャイナ・ガール」を想わせるようなチープさとザ・ラプチャーの「ハウス・オブ・ジェラス・ラヴァーズ」的なフロアー対応までいかない「藻掻き」が彼等の若さと誠実さと経験値の少なさだが、まだ今の段階では命取りになるようなものではなく、チャーミングささえも感じさせる。何にしても、「今」のバンドという気配が充溢しており、後ろも前も見ていないところは頼もしい。

 作品としては、真面目なバンドが現在進行形で影響を受けてきたものをそのまま嚥下して、適切な閾値でアウトプットしたというもので、バリエーションも豊かで鋭角的な曲からバウンシーな曲、ヴァンパイア・ウィークエンドのような玩具箱を引っ繰り返したような可愛らしさを持った曲など、現時点での引き出しの多さも言う事は無く、僕自身としては、ホット・ホット・ヒートやブロック・パーティー辺りに並べたい独特のギクシャクしたムードと、実験を優先している部分には好感を持っている。世界的にどれだけ波及していく音かどうかは正直なところ未知数だが、ディドがやろうとしているトライアルは決して無謀なものではなく、また時代への批評装置として有機的に機能するだろう可能性を秘めている。

 ジグムント・バウマンの言葉でいえば、今、生きている近代社会の特徴を「リキッド・モダニティ(液状化する社会)」と称することができる。その中で、ヴィジョンは、ソリッド(固体)ではなくリキッド(流体)になってしまう。それは「私たちが生きる近代は、全ての流体がそうであるように」、あらゆる想念は長い時間、同じ形にとどまらないからだと言える。バウマンの文脈で、あらゆる要求は、その要求に応えようとする提供者に犠牲を求め、提供者は犠牲の見返りとして幸福を感じることが出来る。しかし、幸福の追求が消費社会と結びついた現代では、マネーが仕掛ける構造の犠牲の意味になってしまい、表現も回収されてしまう事になったのは周知だろう。

 だから、ディドは明確なヴィジョンなど持たずにリキッドなサウンドスタイルを選ぶように「なってしまった」とも解析出来る。ハイパーグローバリズムが名付けたシステムの中での「最良の被害者」としての側面もダイレクトに見られるのにはいささか悲しくもあるが、必ず内破の導線を敷いてくれることを期待出来る、始めの一歩として基点はぶれていないところは応援したい。

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 グループ・イノウ(group_inou)を最初に観たのは代官山UNITでのスペシャ烈伝でのライブだったと思う、その時の印象が強くてそれ以来新譜が出れば聴いている。その日に「COMING OUT」「MAYBE」の二曲で完全にやられた。

 最高にカッコ良くてリズムが早くてこんなにヒップホップでまったく聴いたこともない曲で乗れまくっている自分に驚いた。そしてライムがアイロニーをすかさず入れている辺りもとてもキャッチーに響いた。

 ライブ中にMCのcpがステージから降りていて僕の前方二メートルもないくらいの場所に立っていた女性の真ん前に立ってずっと目を見て「君の彼氏は絶対に浮気してるさ」とひたすら連発していた。あまりにも現実味のない光景とそのライムが示すものの皮肉で僕はあまりにも面白くてずっと笑ってしまったのを今でも印象深く覚えている。

 前々作『FAN』収録「COMING OUT」「MAYBE」や前作『ESCORT』収録「RIP」は電光石火のごとくリズムとライムが聴く者の中にある感情を動かす言葉の強さとポップを兼ね備えていた。グループ・イノウの特徴の一つはそれらが挙げられると思う。

 最新作『_』はどうだろうか、アルバムタイトルは3曲目「STATE」の歌詞にある「俺たち なんだか 記号 ずっと前からアンダーバー」から取られているはずだ。

 このアルバムは全体的に非常にポップだ。「COMING OUT」「MAYBE」「RIP」のように一気に持って行くタイプの曲はオープニングナンバー「ZYANOSE」。

 全曲9曲はどの曲も粒ぞろいで前の二枚のアルバムよりもアルバムとしての完成度や強度は比較的に高いものになっている。

 5曲目「HALF」上での「全ては システマティックになってく 答えろ 試されていること分かるだろ?」は脳内リフレインを始めて僕はその言葉の意味を考えてしまう。グループ・イノウのライムはニッチというか心や感情の隙間に入り込んでくる。柔軟さと強さがある。

 なぜだろう、ここまで染みてくるのは、そして聴くものの中に入り込んでいろんなことを考えさせてしまうのは。そのライムが乗っかっているリズムや音はポップで体はそれに反応して乗れるし、ライブならばダンスして暴れて揺れるのには持ってこいだ。ライムの歌詞だけならば非常にシニカルなのに音に乗ると反比例するようにポップに聴こえてくる。そして聴こえて届くとシニカルなライムが強く響いてくる。

 彼らのライムの中には「光景」「景色」が何回も出てくる。今現在の「景色」や「光景」はやがて消えて行くし姿を変えて行く、だからこその「景色」や「光景」の変化に苛立つしそれを見ていた誰かのことを思い出したりする。だけどもその変化の中でしか僕らは生きていけない。

 「永遠」とは「一瞬」の中にしか存在していない。僕らは永遠の中に生きている、一瞬の連続だ。永久凍土に閉じ込められたマンモスは氷が砕ければマンモスもろとも崩壊する。

 グループ・イノウの音楽は「一瞬」を生きている、僕らと共に時間を進んでいくサウンドトラックになる。

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 彼らのファースト・アルバムのインパクトは、とても大きかった。「ラジオから流れてきて気持ちいいポップ・ミュージック」という意味で。最初の頃は、ラジオでかかるのを聴くたび、何度も(ぼくが大好きな)70年代の(ちょっとAORがかった)曲かと勘違いしてしまった。その後ザ・フィーリングス、そしてスカウティング・フォー・ガールズへとつづく道を切り開いたというか、この3バンドは、ぼくの中で非常に大きな存在となっている(ちなみに、あとで知ったのだが、この3バンド、関わったプロデューサーも共通していたりする)。キーンの場合セカンドでちょっと「悩み入った自省ロック」に傾いて残念だったものの、サードでふたたび(メランコリックではあっても、あくまで)「ポップ」方面に...。意味がありそうでなさそうでありそうな、『Perfect Symmetry』という素敵なタイトルがそれを象徴している。ファースト・アルバムのタイトルは『Hopes And Fears』。セカンドで"Fears"に流れたとしたら、サード以降、とくにこの8曲入りミニ・アルバムでは、むしろ"Hopes"なベクトルが目立っているというか...。

「夜行列車」という表題からして(いい意味で)ポップ・クリシェっぽい。ぼくなどが聴くと、たとえばオーケストラル・マヌーバーズ・イン・ザ・ダーク(Orchestral Manoeuvres in the Dark:通称OMD)など、80年代のエレクトロニック・ポップに通じる部分も感じる...というか、単に「けっこうOMD寄り」なのかな? キャッチーすぎるフレーズが耳に残るライトなポップ性とか、ちょっと「青い」感じとか...。ちなみにOMDは、1980年にファクトリーからマーティン・ハネット・プロデュースのシングルでデビューしたのち、モノクローム・セットもアルバム・デビューを飾ったヴァージン傘下ディンディスクと契約、さらにヴァージン本体に移籍して「エノラゲイの悲劇」「ロコモーション」(注:カヴァーではない。タイトルだけ頂戴したオリジナル)「イフ・ユー・リーヴ」など、素晴らしいヒット曲を連発したバンドだ...といったところで、キーンの話に戻ろう。ここにおける彼らの音世界も、もちろん「後ろ向き」なものではまったくない。音の感触や、細かいリズムのセンスなど、バリバリ今っぽい。

 3曲目と7曲目にはケイナーン(K'naan)、5曲目にはティガラー(Tigarah)という、かなり若さを感じさせるラッパー/シンガーがフィーチャーされている。ググってみた。前者はカナダ国籍ソマリア生まれの黒人男性ポエット/ラッパー/シンガー・ソングライター/マルチ・インストゥルメンタリスト、後者は日本国籍LA在住の黄色人女性プログラマー/グライム・シンガー・ソングライター。ティガラーのヴォーカルを聴きながら、これは絶対日本人ではないと思っていたため(いい意味で)意外だった。彼女がいわゆるバイレファンキに影響を受けていたということを知り、なるほど、と思った。でもって、ここまで(わざとらしく)隠していた(笑)のだが、5曲目「Ishin Denshin (You've Got To Help Yourself)」とは、OMD...ではなく(笑)YMO...イエロー・マジック・オーケストラ「以心電信(You've Got To Help Yourself)」のカヴァー!

 はっきり言っておくが、これはリリース当時から「クール」な曲ではまったくなかった。「君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)」が『ザ・ベストテン』クラスのヒットとなり(彼らが実際に出演したかどうかは憶えていない:笑)、その前の『Technodelic』がアヴァンギャルド性を最大限に発揮した超名作アルバムだっただけに、マニアはかなりひいていた(ところで、正直こういう類の「マニア」ノリって、ぼくは苦手です...)。そのうえNHKのキャンペーンとかでも使われていた、最高にポジティヴな歌詞を持つ曲。「虚飾をすてて、素直になろうよ」「誰かのために生きることが、自分のためになるんだよ」みたいな...(だけど歌詞をよくよく聴くと、一抹の皮肉みたいなものがスパイスのようにふりかけられてて、また、いい)。

 YMOの全レパートリーで一番好きかもと思うこの曲(日本語詞)が、いい意味で日本人とは思えないアクセントによって、キーンのミニ・アルバムで歌われる。アレンジもナイスだし。なんか涙が出るほどうれしい。全8曲の流れや、それぞれの曲の、ポップ・ミュージックとしてのクオリティも素晴らしい。最高、ですね。

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 霞立つ森を通り抜ける開放感。しぶきを上げる激流が過ぎた後に残る静寂。川の上流から下流まで流され大海へ辿り着き、そこで待ち構える広大な平穏。雲の切れ間から刹那的に零れる曙光。流麗なギターの音色から想起される寓話は限りない。今まで聴いたことのない、神秘的なソロギター集である。『Parables』とは、おとぎ話・寓話という意味だが、それは、本作が彼の指先だけで紡がれる物語であることへの暗喩であろう。

 本作はRFというエレクトロニカ・アーティストとして、ジョアンナ・ニューサム・バンドのメンバーとして、ザ・トイズやトリオ・モプムのギタリストとして、幅広く活動を繰り広げているライアン・フランチェスコーニによる本人名義での処女作である。そしてその処女作は大胆にも、アコースティックギター一本による、清廉で身を浄化するようなソロギター集となっている。既存の参加アルバムの色合いからは大きく変貌を遂げているが、彼の音楽性の源流、基盤であるブルガリアン・トラッド・フォークが今作の象徴となっているということは、より本作が等身大のライアン・フランチェスコーニを描写した記念すべき作品であるということを証明している。

 彼は、この種のアーティストにありがちな、どこかノスタルジーなコードを響かせることに酔っているだけの二流ギタリストではない。ギター雑誌の表紙に抜擢されても遜色のない、一流のギタリストである。清冽な雨のアルペジオは唯一無二であり、時間を忘れるほどに美しい。

 本作は4月1日にリリースされたアルバムなのだが、おそらく私にとって2010年の最名盤になりうる作品であったため、6月現在、恐縮ではあるが、レビューを書かせていただいた(ジャケットも秀逸!)。

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 元Qアンド・ノットUのドラマーであるジョン・デイヴィスが、ジョージー・ジェイムズというユニットを結成し、アルバム『Places』で突き抜けたポップ・ソングを聴かせてくれた時は新鮮な驚きを感じた。アルバム一枚を残してジョージー・ジェイムズは解散してしまったが、そのメンバーだった女性シンガー、ローラ・バーヘンが新たに立ち上げたユニットが、このTHE MYNABIRDSだ。

 アズール・レイやO+Sのメンバーとして知られるオレンダ・フィンクがゲスト・ヴォーカルとして参加し、 トム・ナトゥ(ジーズ・ユナイテッド・ステイツ)、ネイト・ウォルコット(ブライト・アイズ)といったサドル・クリーク周辺の腕利きミュージシャンが脇を固める。そして、ソロ・ミュージシャンとしても高い評価を受け、先日リリースされたダミアン・ジュラードの最新作などでもその手腕を振るっているリチャード・スウィフトがプロデュースを担当。

 ジョージー・ジェイムズの作品でも垣間見られた60年代ポップス〜R&Bへの愛が、よりストレートな形で表出した楽曲が並ぶ。ボビー・ジェントリーを思わせるローラのハスキー・ヴォイスを、あなたもじっくりと堪能して欲しい。

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 批評家であり思想家である東浩紀氏の処女小説『クォンタム・ファミリーズ』(以下『QF』)は09年の年末に、そうゼロ年代の最後にこの世にドロップされ、このテン年代(by 佐々木敦)の最初の年2010に第23回三島由紀夫賞を受賞した小説だ。

 例えば、批評家・思想家としての東浩紀を知らなくてもこの作品は存分に魅惑的だし、ある意味では世代間で分断されてしまっているジャンルとしてのSF、今やあらゆるカルチャーは世代間において分断されてしまっているように思える。その分断の中SFというジャンルが若い世代にもまた広がる可能性を秘めている小説であり文学である。

 ゼロ年代最後の年に若くして三作の長編を残して亡くなってしまったSF小説家の伊藤計劃がいた。『QF』と彼の処女作である『虐殺器官』は新しい時代のSFのスタンダードとして後世に語られる作品だろう。

 僕らが今、生きているこの世界は9.11以後の世界でテロリズムと言う言葉がもはや一般化し、グローバリゼーションという新しい宗教が完全に物事の根本を変えてしまった世界だ。そこで生活する僕たちにとって、物語は何を教えてくれるのだろうかという問いに対してこの二作のSF小説は想像することの萌芽を読者に与えてくれる。

 82年に死去したアメリカのSF作家であるフィリップ・K・ディック(代表作は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『高い城の男』『ユービック』等)が81年に発表した『ヴァリス』という作品と85年に村上春樹が出版した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という二作が『QF』の中で大きな役割を果たしている。

 主人公である葦船往人はこの二作品と村上春樹が以前に書いた短編について作品の中で言及し、それらがキーとして作品に関わってくる。上記の二作品を読んでいるとこの物語はさらに奥行きを増す。

 あらすじ・2035年から届いたメールがすべての始まりだった。モニタの彼方には、まったく異なる世界の、まったく異なるわたしの人生があるのだ。高度情報化社会、アリゾナの砂漠、量子計算科学、35歳問題、幼い娘、ショッピングモール、そして世界の終わり。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。

 例えば『35歳問題』は作中においては『ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげられなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。そして、その両者のバランスは、おそらくは三十五歳あたりで逆転するのだその閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。』と物語の序盤で書かれている。

 この問題が並行世界と結びついているのは言うまでもなく、誰もが思い描いてしまう《かもしれなかった》世界の物語の根本として提示されている。

 物語は往人がいた世界、娘の風子の世界、息子の理樹の世界が繋がり、往人は存在しなかった幼い娘の風子がいる世界へ人生がリセットされるかのように移動する。妻の友梨花や風子の世界で彼女が作りだした最初は単なるソフトウェアだった汐子と物語は繋がって行き、彼ら家族の物語が少しずつ集まり寄り添いながら展開していく。並行世界で出会うことのなかった彼らが互いに出会う時に物語が収束し始め世界の謎が少しずつ解かれていく。

 並行世界がひとつの世界に集まる時に家族は何をするのか、どこに向かうのか。そして物語を操っていたのは一体誰なのか、誰の思惑が反映していたのか、そして最後の第二部の後の物語外2が何を意味するのか、世界の終わりとは何なのか、ハードボイルドとは何か、読み終わっても全ての物語がキレイにわかるようにはできいないのかもしれない。それは読者によってどう受け止めるかが違ってくるタイプの小説だからだ。

 この『QF』から新しいSFの流れが始まるだろう。新しい何かを感じさせてくれる作品には過去の作品からのオマージュや影響がありながら現在と未来を見据えてた表現がある。だからこそこの作品がテン年代最初の『三島由紀夫賞』を受賞したことは新しい希望がこの作品の中にあると思う。

 東浩紀は明確な意志で小説家として物語る事を決意した作家だとこの『QF』は教えてくれる。

「ゲームのプレイヤーはそれがゲームであることを忘れたときにもっとも強くなれる」

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 今やグラスゴー・バンドではヴェテラン組となったティーンエイジ・ファンクラブの、2005年の前作『Man-Made』以来5年ぶり、通算8作目のオリジナル・アルバムとなる新作『Shadows』。その前作と同じく自身のレーベルPeMaからのリリースとなる作品は、メンバーのノーマン・ブレイクが「今までの作品とは違う綿密なアレンジが実現できた」と語るように、セルフ・プロデュースで自分たちが満足いくまでじっくりと作られたサウンドが印象的だ。とはいえ彼らの持ち味である温かいメロディーとさわやかなハーモニーはもちろん健在。前述のノーマン、ジェラルド・ラヴ、レイモンド・マッギンリーの3人のソング・ライターが仲良く4曲ずつ(日本盤はボーナス・トラックを2曲収録)というここ数作でのフォーマットも変わらず、それぞれが今までのキャリアでも最良の曲を書いていて、完成度の高いアルバムとなっている。

 昨年のサマーソニックでのインタヴューではアルバム・タイトルについて「ダウンビートな曲が多かったり、歌詞も少しダークな内容だったりするから」と語っていたノーマン。確かに轟音ギターや性急なリズムは影を潜めているし、歌詞にも「Past」や「Dark」といった単語が繰り返し出てくるが、それは年齢的にも40歳を越え多くの人生経験を経た彼らの優しさに満ちたまなざしであり、決して後ろ向きなことではないだろう。先行シングルとなった「Baby Lee」や、サマーソニックでも披露されていた「Sometimes I Don't Need To Believe In Anything」と「The Fall」、ゲスト参加のエイロス・チャイルドのピアノと彼らのアルバムには常連のジョン・マッカスカーのストリングスが美しい「Dark Clouds」、これぞギター・ポップ!という「When I Still Have Thee」からラストのバラード「Today Never Ends」まで、すでにクラッシックに響く収録曲からはしなやかさと力強さが感じられ、結果アルバム全体としてこれまでの彼らのどの作品以上に前向きな希望を感じされてくれている。

 派手なサウンドもギミックもないけれど、彼らの曲がこんなにも心の琴線に触れるのは、そこに音楽への愛情と歌心があるからに違いない。タイトルである「影」がひとときも体から離れないように、そっと寄り添い僕らの心を満たしてくれる永遠のポップ・アルバム。往年のリスナーから、この作品で彼らのことを初めて知る人まで、一人でも多くのポップ・ミュージック・ファンに聞いて欲しい。

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 2004年の結成以来、超絶なライヴ・パフォーマンスで着実にファンを増やし続けてきた、カナダはトロントを拠点に活動するホーリー・ファック。本作は、前作『LP』からおよそ3年振りのサード・アルバムである。

 バンドの中心となるのは、キーボード&エレクトロニクスを担当するブライアン・ボーチャートとグラハム・ウォルス。昨年のフジ・ロック・フェスティヴァルにおける彼らのライヴを目撃した人ならご存知のように、ステージではこの2人がフロントで向かい合い、テーブル状のスタンドに並べられた小型キーボードやエフェクター、グルーヴマシンなどを巧みに操りながら演奏を進めていく。いわゆるラップトップや、最初からプログラムされたオケなどは一切使わず、リアルタイムで鳴らされるブレイクビーツやアルペジエイター(シンセ等に内蔵された、アルペジオを自動的に作り演奏する機能)に生のドラム&ベースを融合させていくパフォーマンスは圧巻の一言だ。彼らはレコーディングもライヴ同様、リアルタイム演奏による「1発録り」をデビュー当時から貫いてきた。ライヴの勢いをそのまま封じ込めるサウンドは、もちろん今作でも健在だ。

 冒頭曲「1MD」は意外にもドラムレスのアンビエント・ソング。ボーズ・オブ・カナダやブラック・モス・スーパー・レインボー辺りを彷彿させるシンセの音色が次第に重なり合いながら、まるで洪水のように押し寄せる様はシューゲイジング・サウンドにも通じるものがある。続く「Red Lights」は、ゴリゴリのファンキーなベースがザ・ポップ・グループの「Thief of Fire」を思わせるダンサンブルなナンバー。この曲といい、先行シングル・カットされた「Latin America」や、ヒップホップ・ビートが腰にくる「Lucky」といい、これまで以上にリズムに重きを置いた楽曲が目立つ。これまでライヴのサポート・メンバーだったドラムのマット・シュルツが、正式メンバーとして加わった頃も大きいかも知れない。1つ1つの楽器の分離も良く、エレクトロニカ色が強く荒々しい音像だったファースト『Holy Fuck』、バンドを「塊」として捉えたような音像のセカンド『LP』に比べると、まるで霧が晴れたように「奥行き」を感じさせるサウンドスケープだ。

 もちろん、前作収録の「Lovely Allen」で展開した多幸感あふれるサウンドも、「Silva & Grimes」や「Stilettos」といった曲の中で、よりパワーアップした形で引き継がれている。疾走するリズム、フワフワと揺らめくパッド・シンセ。その間を行き来しつつ、次第に高みへと駆け上がっていくヒプノティックなシーケンス音は目眩がするほど気持ち良い。

 傑作『LP』さえをも、軽く超える作品を作ってしまったホーリー・ファック。彼らの勢いは、未だとどまることを知らないようだ。

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 ブライアン・イーノが78年に創った『Music for Airports』はなだらかな漣のようなサウンド・レイヤーが醸す美しさを静かに付与し、当時では不明瞭とも言えたアンビエントという概念を定着させただけでなく、空港内で機能する音楽が決してラウンジ的なものばかりではない、ある種の弛緩への緊張を要求されるものだということをリプレゼントしたが、実際には空港利用者には批判を受け、タイトル通り、空港内で定着するには至らなかった。結局は、フュージョンとかイージーリスニングとか流れるように柔らかく人の耳に極力、残るようで残らない音楽があの喧騒の中には「馴染む」という事なのかもしれない。

 それでも、僕は空港に行った時に、そういった音楽よりも(嫌いではないが)、イーノのアンビエント作品が聴きたくなってしまうのは何故なのだろうか。それは、一つ言うならば、多くの言語や様々な人が行き交う場所からこそ、耳が鋭敏化してしまい、その耳に流し込むには逆に精緻に隙間を組み立てた音楽こそが安穏をもたらすから、とも置き換えられる。百貨店で流れるオルゴールのような音楽に辟易した人も居ると思うが、実は、喧騒には緊張で対応しないと、不快に感じてしまう要素因もあるのだ。

 06年に日本語書が出た、Peter Morvilleの「アンビエント・ファインダビリティ」という本はイーノのアンビエントからインスパイアーされた書で、見つけやすい環境とWEB社会の進化性を多角的に分析した本だったが、世の中のアンビエント化とfindabilityを結びつけ、アークテクトを描こうとする力技が過度に働いたが故に、散漫になってしまった。とはいえ、その後のハイエンドな仮想社会を可視するには良い見取り図を提示したかもしれないが、今現在、アンビエントという言葉を再定義するのは広義におけるイージーリスニング的な感覚から言葉を置く事は出来ず、混沌から行間を見出す導線付けを必要とする、と言えるならば、MySpace以降に散見されるエレクトロニカ、IDM紛いの設計図だけが綺麗に描かれて、その中身が空疎なアンビエント的な音楽とは実は、自閉の末に中毒状態になっている性質も感得出来るだけでもある。つまり、表現することの郵便的誤配を怖れる以前に、郵便的であることに関してさえ、無自覚な気味の悪さを孕んでいるケースの少なくない数の兆候化を示している。それは、そういった音楽のロールモデルとして必ず挙げられる、ポスト・エイフェックス・ツイン『アンビエント・ワークス』下の、クラークがふと見せる穏やかな表情、そして、近年のオウテカが何処までも沈み込むように見せる内省的な美しさに、近付く為の試行に見えて、ただの退行である。

 その「退行への対抗」として、UKインテリジェンス・テクノの始祖的存在でもあり、Plaidと暖簾を分け、今はSomaをベースに置くTHE BLACK DOGが3年間で200時間の空港でのフィールド・レコーディングを含み、ダブステップや最新鋭のビート・センスを混ぜ、冒頭に挙げたイーノの名盤のアップデイトをはかった『Music For Real Airports』が面白い。タイトル通りを想い聴くと、肩透かしを合うくらい、基本ビートレスでかなりドープなシリアスな内容になっており、空港でのレコーディングされた音も破片的に浮かびあがるだけで、かなり挑戦的な姿勢を貫いている。この作品が流れる空港こそ、想像さえ出来ないが、でも、今や空港とは誰かの移動の為のトランジションではなく、数多の人たちの不穏の折衷点でもあり、あらゆる恐怖が渦巻く明確なメタファーであるとしたならば、例えば、アドルノ言ったような、以下のようなレトリックが当てはまる。

 つまり、この音楽は、「音楽について語っているだけ」に過ぎず、しかしながら、対位法的な問いがもはや宙空化する「葛藤」を明顕しているような世界の状態性を均質化せしめる。生の硬直性が、不気味とも言える規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じている領域を反照しているならば、音楽の中での生とは今や、こんなに混乱したものに「なる」ということだ。人々への音楽への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである訳で、空港やイーノをモティーフとしながら、異形のこういった音を作らないといけなかったUKインテリジェンス・テクノの旗手の20年のキャリアの積み重ねの果てのヘビーな心境を考えると複雑な想いにもなるが、これが「空港」という場所を経由して次へと繋がる一歩とするならば、この作品が提示するシリアスさは決して時代とずれていない。次の時代もクリアーにしない。ただひたすらに宙ぶらりんな現在形のクライシスを投げ掛ける。その投げ掛けられたクライシスにビートは必要なかったという訳で、だからといって、アンビエントといった概念もメタ的に回避するとしたら、この作品が本当に求められる場所は何処なのか。タイトルの"Music For Real Airports"の意味が錯綜する。

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 去年の2月、ナイン・インチ・ネイルズとしての活動を停止させると発表したトレント・レズナー。「ウェイヴ・グッドバイ」と称されたフェアウェル・ツアーも盛況に終わり(ツアーの一環として、サマー・ソニック09にも出演したのが記憶に新しい)、とうとう隠居生活に入る...わけでは決してなく、塚本晋也監督の映画『鉄男 The Bullet Men』のエンディング・テーマとして曲を提供したり、ナイン・インチ・ネイルズとしてのライブ映像を公開したりするなど、水面下で積極的に活動していました。そこで突如、発表されたのがこの新ユニット、ハゥ・トゥ・デストロイ・エンジェルズ。

 英国のインダストリアル・バンドであるコイルのシングルから名前を拝借したこのバンドのメンバーは、先述のトレント・レズナー、その妻となった元ウェスト・インディアン・ガールのマリクィーン・マーンディグ、古くから『With Teeth』、『Year Zero』、最新作である『The Slip』などの作品のプロデューサーとして長くトレント・レズナーと関わってきたアティカス・ロスの3人。プロジェクトの構想自体はナイン・インチ・ネイルズが活動を停止する前からあったようで、「(新プロジェクトの)関係者の一人と結婚している」と公言していましたし、トレント自体、長いあいだ女性ボーカリストと仕事がしたいと言っていたので、ついにそれが実現した形になるようです。

 さて、サウンドの方は乾ききった電子音、ところどころで突如として残虐に放たれるノイズ、この世の不条理を暴き出したかのような無機質なインダストリアル・マテリアル...と、明らかにナイン・インチ・ネイルズのそれを踏襲したものになっています。これは、トレントがFacebookでの質問に答えたところによると、「ハゥ・トゥ・デストロイ・エンジェルズとしてのセッションの、最初期のものをあえて公開したいと思った」ところであるから、とのこと。そう言った意味で、今の段階では、バンドのイニシアティブを取っているのはトレントと認識しても間違いではないでしょう。とは言え、ボーカルに関しては、トレントは「Parasite」といった曲で、所々でコーラスをしているくらいで、そのほとんどをマリクィーンが歌っています。やはり、これはフロントマンとしての役割は、妻に任せると言う形でしょう。ここでのマリクィーンのボーカリゼーションも、インダストリアルなリズムに乗りながらも、単語を淡々と歌い上げるスタイルで無機質な触感をさらに増していて、冷たく不気味に感じさせることに一役かっています。

 バンドの世界観としても、ナイン・インチ・ネイルズを脱ぎ捨てて、殊更にハッピーになっている...と言うものでもありません。既に公開されている、アルバム始まりの「The Space in Between」のPV。ホテルのような建物の一室で、トレントが血を流して死に絶えていて、マリクィーンも同じくベッドにもたれて、血を流しながら淡々と無表情で歌詞を歌いながら、出火が起こり、マリクィーンを、部屋全体を燃やしていくという相変わらずの痛快な悪趣味で、やはりこれも、往年のナイン・インチ・ネイルズのそれを思わせます。

 現時点では先述のように、どうしてもトレント主体のバンドと思ってしまいそうですが、それは、このEPが「初期の賜物」であるからで、今現在、彼らはフル・アルバムとしてのリリースのため作曲、プロダクションに励んでいるのでマリクィーンのオリジナリティがもっと発揮されることも考えられますし、個人的にもコラボレーションとしての作品を期待したいところです。そして、「フル・アルバムが発表されたあかつきには、2011年頃にツアーもしてみたい」とトレントも意欲的な姿勢を見せているので、まだまだ目が離せません。

 ちなみに、この作品、通常版は無料で配信されており、有料版(2ドル)では、よりハイクオリティな音源と「The Space in Between」HD音源もついてくるとのこと。まずは何はともあれ、そのサウンドを世界観をご堪能あれ。

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 セルフ・タイトル、セルフ・プロデュースでの堂々たる復帰。この音、この魅惑的な声。1曲目「Between The Lines」のギターを一発聴いただけでストーン・テンプル・パイロッツ(以下STP)だとわかる。本当に様々なことがあったけれど、やっと「おかえり!」と言える。

 2008年、それぞれ別々に活動していたメンバー達が、なんとSTPとして再集結することが発表された。これには正直驚いた。なんせヴォーカル、スコットの度重なる薬物問題で、解散する数年前からメンバー間には亀裂が入った状態で、当時は逮捕、リハビリ、脱走、暴力といった悪いニュースばかりが続き、何度もツアーが中止になり、これではバンドが崩壊しても仕方ないと思わざるを得ない状況だった。そんな中でも良い作品を作ってくれていたけれど、これほど悪い状況が重なればもう修復は無理だろう...と思っていた。しかも再結成ライブから今作発表までは約2年を要しており、その間ひやひやしたファンも多かったことと思う。けれどこうして無事に届けられた新作は、9年の歳月を軽々と飛び越え、再び戻ることがわかっていたかのように、堂々と誇らしげな音を鳴らしている。

 このところ90年代のグランジ/オルタナティヴを代表するバンド達が次々とカムバックして、当時どっぷりだった私には嬉しい状況となりつつあるわけだけど、やはりグランジ/オルタナティヴというと、そもそも音楽性で括られたのではないということもあり、90年代という時代の空気感を色濃く映し出したジャンルというイメージが強い。再結成にはつきものの心配事ではあるが、グランジ/オルタナティヴには特に、やはり90年代の匂いがついてまわるのだろうか? 今の音を出せるのだろうか? という懸念があるのは確かだ。USオルタナの代表として挙げられるSTPも、少なからず当時の時代の波に影響を受けていただろう。

 しかしこのアルバムを聴く限り、彼らにはもはや時代感など関係ない。むしろブルースやカントリーの要素がこれまでよりも更に強くなり、影響を受けたというビートルズやレッド・ツェッペリンを思わせる60〜70'sの空気も漂っている。それは回帰や方向性の変化ではなく、自分達の中に根差した音楽を、ジャンルや時代に捉われることなく、ただただ自由に表現しているだけなのだと思う。様々な問題や衝突、空白期間を乗り越えて、結局は(いい意味で)収まるところに収まって、今とても自由になったのではないか。そして、同じく再結成したオルタナ勢のスマッシング・パンプキンズやホールがヴォーカル以外総入れ替えになったのと違い、STPはオリジナル・メンバーで戻ってきたということが何より大きいだろう。この作品から、自信に満ち開放感溢れる音を感じるのは、自分達の根底に流れる音楽を素直に表現すること、この4人でしか出来ないことを存分にやったからに違いない。

 元々幅広く独特の音楽性を持つバンドだが、今作ではますます広がりを見せていて、印象的なギターリフで「これぞSTP」と思わせる楽曲郡から、解散中の活動からの影響であろうハードロック色の強い「Fast As I Can」、スコットの歌声とピアノが美しく絡み合う「Maver」、ボサノヴァ調の「Samba Nova」へと繋がっていき、聴き終わる頃にはまるで別の作品かと錯覚するほどだ。その流れは、時が止まった9年前からそれぞれの経験を持ち寄った今現在に辿り着く時系列のようで、彼らが別々に生きてきた日々を音楽という形で表現しているようにも思える。アメリカン・ロックの豪快さ・軽快さと幻想的で繊細な美しいメロディ、猥雑さと突き抜けるような透明感、そんな正反対とも思える様々な要素をスコットの七色の歌声によって混ぜ合わせ、くるくると表情を変えながら、しっかりと「今」の音を鳴らしている。

 バンドとは不思議なものだ。あんなに人間関係が壊れていたはずなのに、ひとたび音を出せばそのバンドの音になるのだから。悪いニュースを耳にして、この人はいつ死んでもおかしくないと思った事もあったけれど、こんな風に同じ音を出せるのも生きていればこそ。こうして再びバンドに命が吹き込まれ、自由に音楽を奏でている彼らに会えたことを、純粋に嬉しく思っている。

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 オリジナル・アルバムとしては、およそ3年半ぶりの新作。彼女にとって本作は、2つの重要な意味を持つ。1つは、キャリア20年(1990年に嶺川貴子とのユニットFancy Face Groovy Nameでレコード・デビュー)にして、初の作曲・編曲に挑戦していること。そしてもう1つは周知の通り、結婚、妊娠、出産という、女性にとって非常に特別な時期に作られたということである。

 収録曲の半分以上が彼女の作曲によるもの。「月刊サウンドデザイナー」7月号でのインタビューによれば、作業は主にGarage Band(アップル社が開発した初心者向けの音楽制作ソフトウェア)を用いて行なわれ、驚くべきことにほぼ全てのアレンジまでデモの段階で作り上げてしまったという。前作に引き続きレコーディングに深く携わった大友良英とジム・オルークは、「ちょっとしたメロディの欠片を彼女が1つでも作ってくれば、後はアレンジで幾らでも何とか出来る」というふうに考えていたが、いざスタジオに持ち込まれた彼女のデータには、ギターやピアノ、リズムの細かいフレーズまで書き込まれていたそうだ。これには流石の2人も舌を巻いたことだろう。おそらく、今まで数多くのレコーディング現場や曲作りの瞬間に立ち会ってきた彼女の中では、すでに「曲を作るための準備が整っていた」のだ。

 レコーディングにメインで参加したのは、カリィ、大友(ギター)、オルーク(ベース、キーボード)に加え、山本達久(ドラム、パーカッション)、山本精一(ギター)の5人。ほぼ固定メンバーによってレコーディングされたことにより、まるでライヴ・レコーディング・アルバムのような統一感がある。2003年の『Trapeziste』辺りから徐々に現代音楽やフリー・ジャズ的アプローチを取り入れていった彼女だが、これまでの作品は曲により菊地成孔や小山田圭吾、ヤン冨田などコラボする相手を変えた、カラフルでヴァラエティ豊かなサウンドだった。それのに比べると本作は一見地味に感じるかも知れない。しかし、聴き込めば聴き込むほど各曲に散りばめられた音響的なアイディアや、アレンジの仕掛けに驚かされる。この辺り、全てのミックスを自宅のプライヴェート・スタジオにて手がけたオルークの手腕による部分も大きいはずだ。

 それにしても、なんて伸びやかで開放的な声なのだろう。「偶然のアクシデントや、演奏のミスでさえ積極的に取り入れていく現代音楽やフリー・ジャズに触れることで、曲を作ることへの気構えがなくなっていった」カリィだが、そうした心境の変化はヴォーカル・スタイルにも如実に現れている。決めごとの多いロック〜ポップ・ミュージックの世界から解き放たれ、自由に音と戯れる彼女の声には「強さ」や「逞しさ」さえ感じるほどだ。

 本アルバムで彼女が作曲に取り組む気持ちになったのは、やはり結婚や妊娠、出産が大きく影響しているのではないか。そう安易に予想したのだが、実は今の夫と出会ったのは、曲を作り始めた後だったそうだ。「曲を作ってみようと思うようになったことが、結婚や出産という環境へ自分を導いたのかもしれない」とカヒミは言う。「生きること」と「表現活動」が密接に結びついている彼女こそ、真のアーティストと呼べる存在ではないだろうか。

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 ここまでやってくれると逆に気持ちいいですホント。最初はキワモノ的なヒップ・ホップだなと思いながら聴いていたけれども、にゃはとポジティヴに笑える瞬間に溢れている。それはエイベックスとのメジャー契約を破棄したECDこと石田義則のラップが「今日の残高」や「しがないバイト暮らし」「CD自分で作って売ってる」など、歌詞は深刻だが、貧乏な自分の自虐をスキップしているような声でひょうひょうと飛び越えていく姿が爽快であって、ある意味、達観していると思えるからだ。正直サウンド・プロダクションはチープに思えるものの、その分、ラップがすこーんと耳に飛び込んでくる。

 とにもかくにも、これ以上ないほど等身大の貧乏な自分を発する石田。少し前に流行った「負け組」「勝ち組」という言葉が死語と化した今、いわゆる勝ち組がもう枕を高くして眠れないことは皆さんご存知でしょう。その言葉に対するカウンターも何気ない語気で「マネーは紙だ。口に入れても腹は膨らまねえ」と石田は何食わぬ顔で発するものだから痛快で、これまた、にゃはと頬が緩むのだった。

 しかし思うのは、「共感」にも2種類あるということだ。おそらく「マネーは紙だ。口に入れても腹は膨らまねえ」といった旨のソーシャル・カウンター的な言葉は聴き手の共感を生むと思えるが、それは誰もが共感できる言葉に過ぎないとも言えるわけで、僕としては「誰も気付いていないが、否応なしに共感させてしまうもの」を発してほしいと思う。つまり石田義則にしか見えていない心情を、風景を、共感させてしまうレベルにまで引き上げて、高らかと発してほしいと思うのだ。

 アルバム後半では文学的なラップも聴けるが、いや、そんなお高いものじゃなくて、貧乏な自分をさらけ出している石田の目には、僕らには見えていないものが映っているはずで、一杯の酒がどう見えているのか、金とは何か、もっと言えば人生とは何か。それを彼の独自の視点で斬ってほしい。

 本作は決して駄作ではない。かといって、とんでもない傑作でもない。しかし本作を聴く限り、彼なら説教臭さなど微塵も感じさせず、ひょうひょうと、そして重みを宿して世を斬り、リスナーが発見を感じる「今まで気付いていなかったが共感させられるラップ」をやってのけてしまえると思う。にゃはと頬を緩ませるほどのユーモアを交えて。

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 三月に三枚目のフルアルバム『Toparch』を発表したMiyauchi Yuri氏は、実は同時期に『本日の音楽集』というアルバムをHP上で無料配布していた。「新作アルバムにまつわるリリースブログを開催したは良いものの、ブログのネタが浮かばないので、曲を公開した」というのがアルバム制作に至る経緯なのだという。前作は、窓辺から環境音を拾い集め、そのアンビエンスからメロディをインプロヴァイズしていった----といえばスタイリッシュに聴こえるが、徐々に「環境音とインプロヴァイズ」という当初のコンセプトは霧散し、最終的にはまるで彼の日記のようなアルバムに変貌していた。結果、そのラフさが人懐っこく、『Toparch』と同じくらい聴きこんでしまったことは大声では言えない。

 今回の『ほんじつのおんがく集 2』は少しコンセプトを変容させて臨んでいる。ミュージシャンでも素人でも誰でもいい「おんがく家」に録音してもらった音を用いて曲を作るという、一種のコラボアルバムになっている。録音された音は、子供の声でも環境音でもメロディでも何でもいい(詳しくは彼のHPを拝見した方が良いかもしれない)。

 そんなバックグラウンドが起因しているのかもしれないが、今作には親近感を抱くというか、私達との距離がない。すぐ傍でギターが爪弾かられている。風がそよいでいる。子供が笑っている。温度が伝わってくる。そしてパーソナルなのに自己完結しておらず団欒としている。

 私はこの日記のようなアルバムが好きだ。本作は、音楽なのか音の欠片が散りばめられただけなのか分からないし、時間も労力も大きく費やされているわけでもない。それでもこのアルバムには「なくてもいいけど、あったらすごくいい」という彼の理念が豊かに実っている。ごちゃごちゃと情報を堆積させただけの音楽が胡散臭く聴こえてくる。晴れた昼間や夕暮れに是非。

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 音がひょっこりと現れる。こてん、と尻もちをついて、ころころ転がる。時にはちいさな雲みたいにゆらゆら揺れる。キセルの音楽はいつだって人懐こくて、手を伸ばせば触れられそうなほど身近にある。約2年半ぶりのアルバム『凪』もまた、警戒心の無い小動物みたいに聴き手にとことこ寄ってきて、音との遊びに誘ってくる。このフォーク・ミュージックは辻村豪文と辻村友晴の兄弟ユニット、キセルにしか作れない。

 ほのぼのとした『凪』を再生した途端にジャケット同様の涼しげな草原が目を閉じれば瞼の裏に浮かんでくる。カーテンを開ければその風景が目の前に現れるんじゃないかと思ってしまえるほどに。ゆっくりと歩いているような速度の楽曲のメロディは和やか。ゆるやかな曲線を描いているようなメロディに肩の力が抜けた歌声が乗っていて、メロディと歌声に沿ったアコースティック・ギターのサウンドがふわっとヴォーカルの上で広がり、浮かんでは消えていく。まるでキセルの二人が草原にすとん、と腰を下ろして太陽と一緒に歌っているみたいだ。

 本作は過去の作品と比べると、かなり音数が減り、ほとんど装飾されていない。「穏やか」という意味を持つアルバム・タイトル『凪』がそのまま反映されている。思えばキセルの作品のタイトルは音楽性を表していた。ファースト・アルバム『夢』で夢の世界をさまよい、セカンド・アルバム『近未来』で未来を想像し、続く『窓に地球』で未来を描いた。そんな彼らが『旅』を終え、『Magic Hour』の体験を経て、ひとまわりも、ふたまわりも成長した。そうして行き着いたところがリズム・パターンの多彩であっても、あくまでシンプルに聴かせるフォーク・ミュージック『凪』だったことは、高田渡を愛するキセルらしい。彼らは様々な要素を取り入れることが音楽性の高さに繋がる風潮があるシーンの中で、装飾に頼らない音楽の大切さを訴えている。

 手作り感覚の、輪郭がはっきりとした音の一つひとつと漂うような歌声の相性の良さが、音数を少なくしたことでより強く表れ、特に、ひゅーん、ぽろろん、という何気ないサウンド・エフェクトが、ベース音を強調した3曲目「夜の名前」で効いている。なおかつベース音には程よく湿った土を踏むような弾力があって気持ちがいい。わずかにサイケデリックな辻村友晴作曲のインスト「見上げる亀」を中盤に挟み、哀感ただよう「星のない夜に」への流れは曲名どおり夜の到来を告げ、続く「夕凪」では人との別れを歌う。曲順もよく練られていて、聴き手を飽きさせず気付けばディスクが回るのをやめている。

 弾き語りに近い本作の中にいるキセルの二人には隠すものなど何もない。天気の話でもするような調子で音を奏でる。過去の作品よりも自由に、平和に、なにより分かるか分からないほど静かに感情を込めて。その姿勢がごく自然に出会いの喜びや別れの哀しみを音に宿らせ、キセルの核にあるシンガー・ソングライターとしての気質をより浮かび上がらせている。そして二人の人間性まで伝わってくるのだ。もしフォーク・ミュージックが人間性を映す鏡だとしたら、キセルは一音に自分を宿せるまでに成長した。もうキセルは『夢』の中にはいない。『近未来』にもいない。生活の中にいる。それが、彼らが選んだ場所なのだ。かわいらしくて素敵な、でもほんの少し哀感を含む音楽。劇的な感動はないけれど、誰もがやさしい気持ちになれる。誰もがほほ笑む。だから聴きたくなる。だから聴いてほしいなと思う。

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 ザ・ビートルズ『White Album』とジェイZ『The Black Album』をマッシュ・アップした、デンジャー・マウスの『The Grey Album』、それに、ヴァンパイア・ウィークエンドやジ・アーキテクチャー・オブ・ヘルシンキの楽曲に新たな命を吹き込んだザ・ヴェリー・ベストのミックス・テープなど、すぐれたDJの作品は、楽曲の新たな側面や新鮮な驚きを僕らに提示してくれる。

 そして、またユニークなミックス・テープがここに。ディプロとスウィッチによるユニット=メジャー・レイザーの『Guns Don't Kill People...Lazers Do』と、ラ・ルーのセルフ・タイトル・デビュー・アルバムをマッシュ・アップ(そして一部の曲ではゲストMCをフィーチャーした)し作られた『Lazerproof』だ。

 まず、ジャケット画像を見てほしい。メジャー・レイザーの画像にラ・ルーが取り込まれている。だが、エリー・ジャクソンはその画像に十分マッチしているばかりか、特徴的な髪型が見るものに強いインパクトを与えることだろう。実際の楽曲のイメージをこのジャケ写のとおり。リミックスというメジャー・レイザーの土俵上にありながら、ラ・ルーの個性は一切失われていないのだ。

 例えば、ラ・ルーのNo.1ヒット曲「In For The Kill」を使った「Independent Kill」と「In 4 The Kill Pon De Skream」の2曲を聴いてみるとよく分かる。トラックはほぼ原曲そのままでヴォーカルのパートをまるまる、ヒューストンのラッパーであるキャンディ・レッド(Candi Redd)が担当している。一方後者では、一部ビートを入れ替えてはあるものの、同曲のスクリーム・リミックス版をほぼそのまま使用。ラストのスリリングな展開はそのままだ。きっと、ラ・ルーの歌メロの良さやファルセットの歌声はそれだけ魅力的だということだろう。

 だが、もちろんメジャー・レイザーだって負けていない。「Colourless Artibella」や「Cover My Eyes」は完全にレゲエのトラックとして生まれ変わらせているし、「Bulletproof」はよりドラマティックなトラックになっている。特に、アルバム後半では『Guns Don't Kill People..Lazers Do』でみられた猥雑なダンスホール・レゲエのビートでトラックを陽気に彩っている。まったく先を予想させない、変幻自在のビートには脱帽するしかない。これだけのクオリティを見せ付けられると、M.I.A.をはじめとする、ディプロとスウィッチによる今後のプロダクション・ワークに期待が高まるばかりだ。

 こんなにクオリティの高いミックステープがフリー・ダウンロードだとは驚きだ。ゲストMCもアマンダ・ブランクやラスコ、グッチ・メインなど豪華な顔ぶれが揃っているし、スルーしてしまったら後悔すること必至だろう。

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 マーティン・スコセッシ監督のライヴ・ドキュメンタリー『Shine A Light』では、3人のゲストがストーンズと共演している。バディ・ガイはブルース・ナンバー「Champagne & Reefer」で貫禄を見せつけ、クリスティーナ・アギレラは楽しげに「Live With Me」をミックとデュエット。そして、ブルースを21世紀に継承するジャック・ホワイトは「Loving Cup」をいつになく緊張気味に歌う。「俺は不器用だから、ろくにギターも弾けない(I'm Stumbling And I Know I Play A Bad Guitar)」という歌詞に合わせた演出なら、すごいのに。

 『メイン・ストリートのならず者』には、その映画のタイトルにもなった「Shine A Light」とジャックの課題曲「Loving Cup」が収録されている。オリジナルは、ウォーホールがデザインしたジャケットがカッコいい『Sticky Fingers』に続くアルバムとして1972年に発売。このアルバムのジャケットにも注目しよう。ビートニクの時代からアメリカを撮り続けてきた写真家ロバート・フランクによる「追放された者たち」のポートレイトが最高にいかがわしくてぴったりだ。税金対策のために母国イギリスから「逃れた」ストーンズが、ピアニストとホーン・セクションを引き連れてメイン・ストリートに立った。ブルース、カントリー、ゴスペルそしてサイケデリックまでも飲み込んだ「流れ者たち」の音楽を鳴らすために。「ならず者」もカッコいいタイトルだけど、「放浪者」というイメージで聴くと印象が変わる。これは音楽のロード・ムービーだから。

 そして、この音楽のロード・ムービーには続編があった。リマスターされて、なんとCD1枚分11曲のボーナス・トラックを追加して登場! DISC1のオリジナル・アルバムはルーズな印象をそのままに、解像度がぐんとアップした。キースのリフに絡むミック・テイラーのスライド、そしてギター・ソロの繊細さが素晴らしい。「Sweet Virginia」のブルース・ハープは、ミックの息づかいまで聞こえそう。こもった感じを残しながらも、太さが増したビル・ワイマンのベース・ラインとチャーリー・ワッツのドラムを追っかけてるだけで18曲なんて、あっと言う間だ。

 そして、未発表曲とアウト・テイクで構成されたDISC2も聞きどころ満載。「Pass The Wine(Sophia Loren)」はラフでファンキー。壮大なバラード「Following The River」にはストリングス・アレンジでベックの親父デヴィッド・キャンベルが参加。「So Divine(Aladdin Story)」のイントロはまるで「Paint It Black」みたい。どの曲も完成度が高い。それもそのはずで、クレジットにはなんとドン・ウォズの名前がある。つまり、これは未発表曲を最新技術でアレンジし直したもの。発表するからには、歴史的価値よりもクオリティを重視する。そんなストーンズ(たぶん、ミック)の転がり続ける石ころっぷりは不変。要するに新曲じゃん!

 「ロックの名盤」だとか「ストーンズの最高傑作」だとか言われているこのアルバム。まだ聴いたことがないなら、自分の耳と心で確かめるべき。2枚組で3800円はちょっと高いけれど、その価値は充分にある。リマスタリングされた最新の音質から聴けるなんて、最高だと思う。未発表曲も新曲だと思って聴けば、余計な予備知識なんていらない。ただ楽しめばいい。

 ストーンズはこのアルバムの後、『山羊の頭のスープ』を煮込むためにジャマイカへ飛ぶ。ロバート・フランクはなぜかニュー・オーダーの「Run」のPVを監督している。放浪者たちの旅は楽しそうだ。

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「なんという上演か。世界がそこに含まれている」。

 マラルメの言葉を借りなくても、1988年から10年以上もの歳月をかけて撮った『映画史』という作品には世界が「含まれている」。たった4時間半程の中に、チャップリン、ヒトラー、ロッセリーニなどの亡影が交錯して、ゴダールの子供時代の顔がぼんやり浮かび、ストラヴィンスキー、バルトークといった交響曲が、断続的に切り入れられる。開扉と回避。相対と総体。緻密な網の目から零れ落ちる映像が沈黙する瞬間さえ、歴史が映り込んでいる。戦後、既に撮られ尽くされてきた様々な映画に対してのメタ認知を行なうべく、ヌーヴェル・ヴァーグ期の映画監督たちは紆余曲折して、実験・試行して、その後、彼等はそれぞれの道を往くようになったのは周知だろうが、ゴダールは一番の「被害者」でもあったのはあまり知られていない。

「被害者」という表現に関しては、69年『東風』辺りからのジガ・ヴェルドフ集団期の何作かを想い出すと早いかもしれない。50年代末期から60年代の半ばにあった軽やかさはそこに全く無く、息苦しささえ漂う自家中毒的な状況がそのままに転がっていた。また、結局、お蔵入りした『勝利まで』という作品などはアジテート映画を創ろうとしてパレスチナまで行き、しかも、そのパレスチナでフィルムにおさめた戦士たちは全員、殺されてしまうというトラジェディーも生み出すという悲惨な結果さえも「巻き込んだ」。その戦士の一人一人の「死」と対峙する中で、1976年の『ヒア&ゼア』が現前化した。そのヒアが、何でゼアが何なのか、ここで語るまでもないが、ここで大事だったのは「&」なのは確かだ。左的なロマン主義へ純然と埋没する自分を高次でアウフヘーヴェンすべく、メディアの可能性的な溝を埋める為に「間」を置いた。その「間」を突き詰めた『映画史』はだからこそ、悲痛ではないし、その後のゴダールの完全なる復活の狼煙を立てるには余りある評価を付加した。ナチス・ドイツ-ユダヤ人、イスラエル-パレスチナ人の断線を執拗に彼は追い続け、映像に刻印して、20世紀を「なかったこと」には絶対しない。そこに鏤められる幾つものモティーフ、セルフ・パロディーはゴダール自身のスティグマをどう治癒するかどうかではなく、どう膿ませるかどうかの実験でもあったと言える。「1968年のレフト・アローン」という言葉が醸した「アローン」は結局、その字義通り、彼を一人にさせた。ただ、独りにはならなかったという訳だ。

 だから、2004年には『アワーミュージック』という傑作を上梓したのだ。「アワー」にはゴダールは含まれており、世界も含まれていた。ダンテの新曲をモティーフにしながら、「女の子」を撮りまくるというクールネス。セクシャルな映画であり、映画館で観た僕はゴダールのカタルシスのポイントがロマンティシズムとエロティシズム以外の何物でもないことを確信したという意味は大きかった。

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 クエンティン・タランティーノの一時期のプロダクションの名前は「A Band Apart」と言い、これはつまり、ゴダールの64年の「はなればなれに」(原題:Bande A Part)を英語読みした訳だが、兎に角、ゴダールを語るには映画内・内文脈の葉脈を考えると、眩暈を起こしそうになるくらい、複層的に入り乱れている。

「複層的にしてズレてゆくフィルム片」という概念で輻射してもいいと思うくらい、ゴダールほど、アフォリズムとスキゾ的なクールさと思考停止に塗れて、それでいて、しっかり評価された上で、神棚にも祀られない監督も珍しい。ゴダール節とも言えるシーン内で急に音楽が盛り上がり、突然で途切れたり、全く俳優陣と関係ない部分で船酔いのように揺れる効果音など、それはカット・アンド・ペーストが当たり前になったモダン以前に彼は行なっていて、初期の短編などは、彼は自宅のバッハやヴェートーヴェンのレコードを援用して勝手にカットアップを行なっている節がある。54年~58年の短編(『コンクリート作戦』、『コケティッシュな女』、『男の子の名前はみんなパトリッシュ』、『シャルロットのジュール』、『水の話』)に関しては音楽以外にもアイデア一発で創られており、習作の域は全く出ていないものの、何故かその後の奔放無頼な活躍を期待させる萌芽はある。その後に、すぐ例のヌーヴェル・ヴァーグの決定打と言える『勝手にしやがれ』が来る訳で、ゴダールは自分で自分を試していたのではないか、とさえ僕は邪推してしまう。つまり、ゴダールとはゴダール自身をメタ対象化するのが巧い映画監督なので、自分がどう撮るかよりも、如何に映像に自分が撮られるかを意識しているところはあり、結果的に彼のフィルムというのはいつも批評的になってしまうのはシビアな意味で言うと、他の映画監督と比して「中に入り込めない」からだとも言える。だから、1959年の『勝手にしやがれ』のあのジャン=ポール・ヴェルモンドとジーン・セバーグとの冗長なベッドでの会話シーンなどは意図ではなく、投企だろう。あれによって、ストーリー全体の間延びした感じに「退屈」というスパイスを加味する事が出来て、歴史の中でも燦然と輝く物憂い温度感を全体に焼き付けた。ジャンプカット、即興演出、瞬時の映像のアドリヴの際立ち。

『小さな兵隊』以後のアンナ・カレーナ期の作品はただ、女として彼女を押し出そうという明確な意味があったが故に、作品のレベルとしては傑出してはこないが、ミシェル・ルグランと組んだ1961年の『女は女である』はカオティックな美と破綻したストーリー、自棄気味な音楽の絡み合い方が高度に結晶化されており、大きなハーヴェストだった。1965年の『気狂いピエロ』は別格としても、そこから自家中毒の捻じれをもたらしていく方向性を進まざるを得なかったのは先に書いた通りだろう。モダンをブレイクスルーする為にはポストを置けなかった。だから、彼はモダンを遡及した。遡及していった結果、『新ドイツ零年』、『映画史』、『アワーミュージック』という作品をものにして、2010年の新作がなんと『ソシアリスム』というタイトルだ。

 この『ソシアリスム』は果たして、老境に差しかかったゴダールにとってどのような意味を持つのか、考えて身構えると、それに応じた充実した重みを与えてくれる訳では無く、ゴダールの被害者性が表象される内容になっていると察せられる。今のゴダールに対峙することは、モダンをどう越えるか、モダンの前で立ち止まるか、ポストモダン側からモダンを見返すか、なんていった、幾つかの事項を脱化してくるストレートな映画へのパッションと今のヨーロッパを巡る懐疑の想いが幾重にも重ねられたものになっているに違いない。ゴダールはおそらく、全部忘れないのだ。そして、観る側はいつもゴダールを忘失してしまう。その「間」の点で、ゴダールはまだ生き続けるのだと思う。ForeverとはFor everと分けられる。ゴダールもいつも「瞬間という永遠」でフィルムを廻し続けているのだ。この作品をして、ゴダールは漸く大衆的な映画監督としての椅子に座る事が出来るのではないだろうか。彼の前に神棚なんて元々無かったのを皆が気付きだしているタイドと呼応した上での、老境の彼のアンコール的に見えた本編としての本当の意味を想い知らしめるだろう。

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 大感動の初来日からもうすぐ一年、サマーソニックでの再来日(東京のみ)も決定しているナダ・サーフから届けられた新作はカヴァー集。これまでもザ・ディービーズ(The dB's)やピクシーズなどの楽曲を取り上げてきた彼らだが、本作も音楽オタクを唸らせる通好みな選曲となっている。彼らが影響を受けてきたであろう大御所アーティストから、スプーンのような同世代バンド、ソフト・パックのような若いバンドの楽曲まで、音楽への愛がひしひしと感じられる選曲になっている。

 原曲のメロディの良さを活かしながら、しっかりとナダ・サーフらしさの感じられる演奏になっている曲が多いが、ムーディー・ブルースの「Question」のカヴァーのように、大胆にパワーポップ風にアレンジされている曲もあり、聴き手を飽きさせない。かつてスピンアートから作品をリリースしていたビル・フォックスなど、地味ながらも素晴らしいアーティストの楽曲が選ばれており、興味を持った方はこの機会に是非オリジナルと聴き比べてみてほしい。

 日本盤ではボーナス・トラックとして、昨年のナノ-ムゲン・フェスティヴァルでのライヴ音源と、アジアン・カンフー・ジェネレーション「ムスタング」、少年ナイフ「Bear up Bison」、スピッツ「空も飛べるはず」などのカヴァーが追加収録されている。

編集部より:近日中にインタヴューをおこなう予定です。この素敵なアルバム・タイトル(『If I Had A Hi-Fi』つまり「もしぼくがステレオを持っていたら...」)についても尋ねる予定ですし、それがアップされる際に、より詳細なカヴァー曲のラインアップも紹介します。

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 決して「にーにーにーぜろず」とか、言わないように。「トゥエンティートゥー・トゥエンティーズ」だからね。声に出して言ってみると、とってもカッコいい!そして僕は純粋に「トゥエンティートゥー・トゥエンティーズが帰って来た!」と声を大にして言えることが、とても嬉しい。スキップ・ジェームスというブルース・マンの「22-20 Blues」という曲から名付けられたバンド名であることは、みんなが知ってる通り。そんなブルースの世界に魅せられたキッズたちが、たった1枚の(最高の!)アルバムを残して僕たちの前から姿を消して6年になる。それは活動休止ではなく、解散という2文字で伝えられた事実。若くしてブルースの虜になった彼らは、21世紀のクロス・ロードの真ん中で「悪魔に魂を売る」こともなく、別々の道を歩むことを選んだ。そこに伝説はなかった。現実として、憔悴しきっているその姿がとても痛々しかった。

 6年前には想像もできなかったこと。それはクロス・ロードの先が、ひとつにつながっていたということ。たどり着いた先には、悪魔も神様もいない。もう一度、22-20sと名乗るために自分たちだけがいた。そして、この『Shake/Shiver/Moan』が最高だってこと。オリジナル・メンバーのマーティン・トリンプル(Vo/G)、グレン・バータップ(B)、ジェームス・アーヴィング(Dr)の3人にギターのダン・ヘアが新たに加入して、22-20sが本当に帰って来た。

 とてもカラフルなアルバム。ロックという音楽そのものがブルースを基礎として様々なスタイルを飲み込んでいくように、22-20sもそれぞれの6年の間に進化していた。揺らぐことのないブルースこそが核になっていることは間違いないけれど、より豊潤になった表現方法がどの曲にも色彩を与えている。2本になったギターの絡み合いが耳を奪う。前作よりもメロディアスになった歌が心に届く。
 シンプルなカッティングと不穏なサイド・ギターの響きが印象的な「Heart On A String」から、22-20sの第2章は始まる。全速力で突っ走るドライブ感がたまらない「Latest Heartbreak」、グルーヴするブルースのタイトル・トラック「Shake, Shiver, And Moan」、バーズを思わせるギター&メロディの「Ocean」と「Let It Go」、そして「4th Floor」や「96 to 4」のようにポップな曲もある。ラストの「Morning Train」は、アコースティックなアレンジが秀逸。どの曲も最高にカッコいい!「ぶっちゃけ、1st聞いてません」「ブルースって苦手かも」という方も「Ocean」だけでいいから聞いてみて!名曲だから。

 6年前には想像もできなかったこと。それは、こんなにも最高なアルバムで、もう一度出会えるという奇跡。1stとこのアルバムの曲を織り交ぜたライブは、どんなことになるんだろう?ひとつにつながったクロス・ロードの先には、フジロックの2日目もある。そして、その先もずっと続くはずの道が見える。22-20sの帰還を心から祝福したい。

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「エロい」と「セクシー」は違うらしい。チノの歌声を評して「エロい」と言う表現を使う側の意図としては、上品であろうが下品であろうがそんな品位などには余り意味を置かずに使っている筈である。時にピュアな怒り、時にナスティな下心を曝け出したりと自身の内面を抉り取ったようなボーカリゼイションであるが故に、受動する側の感情の襞を振動させる。そこには下品や上品などの隔てなど無い、解放された感性に満ちる妖しさが充満するのだ...。

 何よりその歌声を引立たせているのは彼らの音楽性であるのは言うまでもなく、オルタナ/メタル・シーンとは本当の意味で一線を画している事をこの凡そ4年ぶりのアルバムで証明してみせたのだ。そもそもチーム・スリープでピンバックのロブ・クロウらと共演したりとインディー音楽通の間でもその特異性は知れ渡っていたのだが。

 タイトで鋼鉄的なギター・リフは一聴すれば完全にUSラウド/メタルなのだが、キャッチーになり過ぎないダウナーなコーラスや、やや捻りを加えたリズム・パターンはそこらのキッズには勿体ないアダルトな内容。

 特に8曲目に収録されている「Sextape」ではドリーム・ポップや初期シューゲイザーなどの影響を公言するかの如く、浮遊感漂うメロディに歪んだギター・サウンドが揺らめいていて...もうこれは確信犯。更にはシングル曲「Rocket Skates」をフランスのシューゲイザー・ユニットのM−83がリミックスを手掛けた経緯もあることからも間違いない(アルバム未収録)。

 とは言えチノ本人よれば『ホワイト・ポニー』からの3作品の実験的なアプローチではなく、セカンド・アルバムの『アラウンド・ザ・ファー』に近い仕上がりとの談だが、確かに6曲目の「Prince」のイントロの質感は上記作品の「Mascara」を彷彿とさせるし、3曲目の「CMND/CTRL」では、ここ最近聴かれなかったあの頃のヒップな感覚が戻ったかのように心身をバウンスさせる。

 ベーシストのチ・チェンが回復しないままサポートに元クイックサンドのセルジオ氏が加わり制作されたが、これで万全の状態でチの帰還を迎え入れる体勢も整った。そして余談だがチノも痩せた!

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 実際のムーヴメントとして意味があったと思うが、06年程から起きたニュー・レイヴに個人的に積極的には乗ることが出来なかった。それは、「ファッショナブル過ぎる」という文脈ではなく、健康的なパトスが当時のクラヴに溢れていて、原色、蛍光色系の服で身を纏った若人がクラクソンズやCSS、ホット・チップ、等のクールなサウンドに合わせてスイングする様は気分的に悪くなかったし、ふと混じるマンチェスター・サウンド、アシッド・ハウスへのレファレンスを示した音にも懐かしさを感じたのも事実だ。ただ単純に、元々、レイヴとはもっといかがわしさを帯びており、歪みが少ない点が気にもなって、実際、表層的なカルチャーのうねりに還っていく中で、実効性を喪っていったのを傍目で見ている分に辛さを感じたというのが大きい。

 デリダがバイザー効果という概念を提示したが、そこでは「見る/見られる」の関係を分析していた。そもそも「亡霊」とは、魂と肉体の二項対立を考えたときに「精神は魂でも身体でもないと同時にその双方でもあるといった"モノ"となる」と命名しがたいモノとなる精神のことを差した。要は、彼は二項対立の図式で考えた時にそのどちらでもなく、どちらでもないという差異を発見する作業を行った。また、「人が知という名のもとに了解していると信じているものの管轄には属していない。それが生きているのか、死んでいるのかは知られていないのである」と言ったが、これこそが「共時性を解体し、錯時性にわれわれを引きもどす」という、バイザー効果の理由付けとするならば、僕は明確にニュー・レイヴをして「亡霊」を視るような錯時性を持っていた。だから、「喪に服すように、躍っていた」自分は常に時間に、引き裂かれていたと言える。

 また、プロディジーがニュー・レイヴに否を唱えていた理由も分からないでもない。元々のレイヴが持つ一夜限りの「絶望的ではない、饗宴」は希望を示唆しなかった代わりに、閉塞した「今日」の順延をせしめたと言えるものの、ニュー・レイヴには「明日」はあったが、「今日」が無かった気がする。<非・日常>がレイヴではなく、実のところ、クラウドが日常に虚飾を巻いて、その瞬間に自己の忘失を描こうという背景があるとして、記号に何らかの名称を付けるべきではなかった。

 僕はもう少し記号的なダンスをしたかったと言えば、少しメタ的になるかもしれない。その意味で、ニュー・レイヴ的な渦の中で、どうにも気分が滅入るのも確かに現前していた。

 そこでの異端の異端にして救いがクリスタル・キャッスルズだったところはある。カナダはトロントのアンダーグラウンド・シーンから出てきた安っぽいエレ・ポップを鳴らすユニット。ノイズ・バンド出身のボーカルのアリスとガレージ・メタル・バンド出身のイーサンのトラッシュでニート(Neat)な音は何もかもから浮いていたし、ニュー・レイヴ勢にも、デジタリズム、シミアン・モバイル・ディスコ、ジャスティス辺りのニュー・エレクトロ勢にも、「含まれる」ことがありながらも、全くの違和の塊としてはみ出していた。そもそも、彼等のフェイヴァリットはヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、ジョイ・ディヴィジョン、ソニック・ユースな故に、自然とはみ出すのは当たり前なのだが、「Crime Wave」辺りの耳触りの良さが誤配を生んでしまったのかもしれないし、かなり振り切ったライヴをするのと比して、音がコンパクトで小綺麗だったのも問題があったのだろうか。

 その後、必然的に、ニュー・レイヴ勢は停滞し、代表格のクラクソンズの次の一手を打ちだせないという状況下、シーンは明らかにシフト・チェンジした。アンダーグラウンド・シーンの充実と相反するように、表層的なレイヴの狂騒は疎外されていき、ロック×ダンスといったタームも衰微していった。そこで、届いた彼等のセカンドが実に美しい出来になっているのには、或る程度、想像は出来たといえ、嬉しかった。ローファイな質感と、シンセのたおやかさは磨きがかかり、咆哮系の曲よりも、ニューオーダーや初期のデペッシュ・モードを想わせる耽美なニューウェーヴ的な意匠の曲が断然、良い。「Celestica」などまさか彼等の曲とは思えないほどポップで、リトル・ブーツやラ・ルー辺りのサウンドさえも彷彿させる。しかし、打ち消すような変則ビートの曲やゴシックなムードも随所に挟み込まれ、異質感を耳に残す。アイスランドの教会、デトロイトのコンビニ裏のガレージ等を渡って録音されたというのも含めて、散漫さを否めないながらも、ロマンティックなまでに頽廃的な意志を前景化させた深化作と言える。

 個人的に、もっと傍若無人にフリーキーに振り切って欲しかったとも思う部分もある。だが、おそらく彼等の事だから、またそれさえも裏切るような展開を見せてくれる事を確信させてくれる透いたREBELに溢れているという点は評価したい。

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"See? Hamster on my mouse mat. (Sounds like a morrissey title...)"

 これはトレイシー・ソーン本人による5月30日のツイート。きちんとTwitpicで写真も添えられている(マウスマットのうえ、PCのマウスの隣で餌を齧っているハムスターちゃん)。たしかに"Hamster on my mouse mat "はモリッシーのアルバムのソングリストに並んでいても収まりがよさそう(イヤーな感じの歌詞が目に浮かぶ......)。大好物のドーナッツやハムスターの話題を彼女はたびたび挙げている。

 一方で、少し遡って5月14日には、グリーン・ガートサイド(スクリッティ・ポリッティ)から作品を賞賛するメールが届いて冷静さを失っている様子もツイートされている。英ガーディアン紙に掲載されたインタビュー上においても、彼女のドライな筆致で記されるユーモラスな一面は" one of the most entertaining musicians on Twitter "と評されているが、それにしてもモリッシーにグリーンにトレイシー。なんと素晴らしい2010年っぷりだろう。ポストパンク・ジェネレーション万歳!

 そんな彼女のソロ名義としては2007年リリース『Out Of The Woods』以来三作目となる本作は、先述のチャーミングな姿が一見ウソみたいな、渋みと苦みに溢れたアダルト・オリエンテッドな内容に仕上がっている。そのタイトルからして重い。『愛とその裏側』。ことプライベートにおいては、かの偉大なるエヴリシング・バット・ザ・ガール結成以降、長年パートナーとして歩みを共にしてきた(2009年、ついに結婚!)ベン・ワットと、彼の病気など七難八苦こそあれど愛に溢れた生活を過ごしてきたイメージのある彼女の今作における作風は意外といえるし、実に興味深い。

 冒頭の「Oh! The Divorces」は離婚について歌い("次は誰? 次は誰の番かしら?")、次の「Long White Dress」ではマリッジ・ブルーを("それって私の勝手な思い込み?")、さらに三曲目の「Hormones」では母子の在り方の難しさを歌っている("あなたの場合は思春期の、私の場合は更年期のホルモン・バランス。あなたはトンネルに入ったばかりで、私はそこから抜けるところ")。独り者の集うバーで失った若さを嘆きながら手入れの行き届いた爪を見つめ、見通しの立たない救いを求める「Singles Bar」のような曲も収められている。トレイシー本人曰く「40歳を過ぎてからの人生についての作品」とのことだが、不安定な大人の現実がここではことさら厳しく率直に描かれている。

 プロデュースは前作に引き続きイワン・ピアソンが担当。デルフィックやM83『Saturdays = Youth』といった作品のプロデュースや多彩なリミックス・ワークでも知られる、本来はエレクトロニック畑の人物だが、本作では過度の装飾は控えられ、シンプルなSSW作品としての方向性が徹底されている。ホット・チップのアル・ドイル(ナード軍団のなかでは比較的マシなルックスの、ギター担当な人)をはじめとしたゲストも素朴なアレンジに華を添えている。メジャーを離れ、ベン・ワットのレーベル<Strange Feeling>からリリースされたのも功を奏しているのかもしれない(ちなみにアメリカではインディーの一大勢力として盛り返しつつある<マージ>から)。

 歌詞の世界観が過酷だからといえ、本作は心の傷口をライターの火で炙る類の作品では決してない。トレイシーの低く通った歌声は昔より丸みを帯びて慈愛の響きに満ちつつも、28年前の『遠い渚』から変わらず優しく寄り添ってくれる(国内盤でボーナス・ディスクとして収録された5曲入りのデモ音源は、彼女の表現がブレてないことの証明という意味でも聴き応えがある)。同じポストパンク世代であるフォールの新作における変わらぬ破天荒さも爽快だったが、年齢にふさわしい彼女の成熟も愛おしすぎるほどに愛おしい。そして本作にはきちんと救いも用意されている。最終曲の「Swimming」は厳しい世の中に生きる人々の心の闇をほんの少し照らしてくれるような内容になっている。

"Right now we are just keeping afloat
 But soon we'll be swimming,swimming"
("今はただ流れに身を任せ、漂っていればいい。
だけどもう少し、もう少しすれば泳ぐようになるから")

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 心配御無用。安心すべし。もはやフィード・バック・ノイズの奏での中で、浮遊感のあるメロディと歌声を軸とする音楽性が定型化し、その音楽性を絵に描いたように押し出すバンドが溢れかえっていようとも、海外でも活動し評価を高めている日本の5ピース・バンド、コーカスがいれば大丈夫なのだ。コーカスもまた同じような音楽性だが凡庸なところはなく、これからのフィード・バック・ノイズ・ミュージックとでも言うべきサウンドを、新たな次元へと昇華するであろうと、彼らの「Going For A Lonesome Dream」EPを聴いて、僕はガッツ・ポーズをとったのだった。

 このバンドのサウンドを聴いたのは本作が初めてという腑抜けな僕だが、だからこそ衝撃度が高かった。懐に切り込むノイズ。かと思えば頭上でノイズが渦を巻く。しかもそのノイズの質感といったら無添加無農薬の野菜のようにサッパリとしていて、少々不格好な味がある。格好付けるのもいいのだが、やはり、不格好なロックは燃えるよねと、本作を聴いた僕は言う。英語を日本語のように平らな発音にした上手く使った歌声が功を奏し、すっと胸に沁み入って溶け込んで、僕はそのセンスの良さと清々しさに心打たれた。なおかつ、ときどきおどけた表情を見せるヴォーカルの余裕にニヤリとなり、「してやられた」と舌を巻く。静かに燃えるサウンドにユーモアを交えるという巧妙な「Going For A Lonesome Dream」EPは、フィード・バック・ノイズを武器とする多くのバンドの中にあって異彩を放っている。

 録音にROVOや大友良英を手掛けた近藤祥昭を起用。ミックスとマスタリングは藤井真生ということもあり、サウンドの質感、構築法に関して巧妙でエスプリが効いている。初めて聴いてもビュンと突き抜けるサウンドの心地良さは、じわじわと、ではない。瞬時に伝わる。それでもぜひ何度も聴き込んでほしいと思う。音の一つひとつが練られているのだ。

 音楽性は全く異なるけれども本作を聴いたとき、僕はザ・バーズのファースト・アルバムを聴いたときの気持ちになった。これから何か新しいことが始まる予感。未来はきっと輝いているだろう。そんなふうに思ったのだった。いや、きっと聴き手にこの作品はそう思わせてしまう力があるのだ。未来は「今」という無数に訪れる瞬間の連続によって成り立っている。だからこそコーカスは「今」を楽しませる。「今」の気持ちを豊かにする。しかして希望を感じさせる。僕は言いたい。この作品を「今」聴こう。「今」を聴き続けよう。

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 2010年は、USのインディ・ロックにおいて記念すべき年になるのではないだろうか? なぜなら、USのインディをメインにしたがるピッチフォークでベスト・ニュー・ミュージックを獲得する作品が続出しているから。それに、ヴァンパイア・ウィークエンドやMGMTといった事前に大きな期待を集めてきたバンドがクオリティの高い新作を発表し、チャートでも大成功を収めている。だが、まさかこのバンドもここまで凄いことになるとは僕はまったく予想していなかった。そのアルバムとは、ブルックリンを拠点とする5ピース、ザ・ナショナルの5枚目となるアルバム『High Violent』だ(この作品もピッチフォークでベスト・ニュー・ミュージックに選ばれている)。

 ザ・ナショナルの特徴を簡単にいうなら、ポスト・パンクの鋭角的なビート×ゴシックな雰囲気。それは『High Violet』でも存分に発揮され、漆黒の闇が作品のなかに広がっている。また、このアルバムでは、スフィアン・スティーヴンス(前作『Boxer』に続く参加)やボン・イヴェールなどのゲストミュージシャンが参加、非ロック的な楽器を導入することでカントリーやフォークなどのルーツ・ミュージックの深みを取り込み、オーケストラによってサウンドスケープのスケールをぐっと増している。いわば、アーケイド・ファイアとウィルコが一緒になり、ジョイ・ディヴィジョンの曲をプレイしているようなもの。間違いなくこれはアメリカ人にしかできないものだろう。

 加えて特筆すべきなのは、暖かい人肌の温もりだ。それを生み出しているのはリリックと歌声だろう。レナード・コーエンとトム・ウェイツ、ブルース・スプリングスティーンからの影響を感じられる、ロマンスやシニカルなユーモアを綴った文学的な歌詞は、ヴォーカルのマット・バーニンガー(Matt Berninger)のペンによるもの。『High Violet』でも、マットは溢れんばかりの感情が詰まったバリトンで高らかに歌い上げ、ハーモニーがそれを優しく包み込んでいる。

 アルバムは、穏やかなイントロから滑り出し、ダイナミックなドラマツルギーがほとばしる「Terrible Love」でスタートする。その後の曲もドラマツルギーに満ちたものばかりだ。うなるようなキーボードから一転、静寂をへてオーケストラとファズ・ギターがぶつかり合う「Little Faith」や、シングルにふさわしい力強いビートや高揚感がありアンセミックな「Bloodbuzz Ohio」、脈打つようなドラムが印象的な「Lemonworld」などが続く。そして、「England」でクライマックスを迎え、「Vanderlyle Crybaby Geeks」にて厳かにエンディングとなる。すべての曲をつなぐものこそ何もないが、このアルバムはまるで1本の映画。それも、摩天楼の一夜を描いたようなスペクタクルな内容で、ただただ気高く美しい。

 この『High Violet』は世界中の音楽メディアから大絶賛で迎えられた。しかも、セールスにおいてもビルボード総合チャート初登場No.3に輝くという快挙を成し遂げた。確かに、3rd『Alligator』(2005年)とそれに続く『Boxer』(2007年)では英米の音楽メディアでその年の年間ベストを総ナメにしていた。とはいえ、この快進撃には驚くばかりだ。結成から10年あまり。長いキャリアをかけてザ・ナショナルがたどり着いた、ひとつの到達点となるこの作品は、2010年のUSを代表する1枚になるはずだ。

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 このメイル・ボンディング(Male Bonding)はイギリスはダルストンの3ピースで、現在ザ・ビッグ・ピンクでドラムを担当しているアキコ嬢がかつてヴォーカルを務めていたバンド=プレ(PRE)の残りのメンバーによって結成されたバンドだ。

 だが、残り物というなかれ。2007年に活動を開始して以来、ペンズ(Pens)やダム・ダム・ガールズとのスプリット・シングルをリリースしたり、ヘルスやザ・スミス・ウエスターンズ(The Smith Westerns)、ザ・ソフト・パックなどとツアーを行なったりしてきた実力派だ。

 と、ここで「ん!?」と感じた方もいるかもしれない。そう、上記のバンドはすべてUSのバンド。このメイル・ボンディングはいつしか本国UKよりUSでの人気が高まってきた珍しいバンドだ。というのも、彼らの音楽を簡単に言ってしまえば、グランジ・リヴァイヴァルだからだ。ハスカー・ドゥやダイナソー・Jr.を思わせるジャングリーでノイジーなギターと、ラモーンズやバスコックス譲りのポップなコーラス&フックの効いたメロディのサウンドはUKよりUSのほうがしっくりくるし、USでは名門サブ・ポップと契約しているのも納得がいく。

 そんな彼らのデビュー・アルバムがこの『Nothing Hurts』。全13曲ながら、30分にも満たない長さだ。ギタリストでシンガーのジョン・アーサーは「長い曲は好きじゃない」とコメントしているが、まさにその通り。3分を超える曲は一切なし。直線的でポップなメロディが一気に駆け抜けていく。

 ザクザクと切り刻むようなギター・リフの「Year's Not Long」でアルバムはキック・オフ。以降、地響きのようなドラムがこだまする「Franklyn」、歌うようにメロディックなギターとツイン・ヴォーカルの「Weird Feelings」、ヴィヴィアン・ガールズをフィーチャーした「Worse To Come」など、ノイズと2分間の制約がありながら収録曲は非常にヴァラエティ豊かだ。歪んだ轟音が鳴り響くサウンドは、まるで90年代のシアトルにタイム・スリップしたように感じられる。決して斬新ではない。だが、人をひきつけられずにはいられないパワーと魅力がメイル・ボンディングにはある。

 自国びいきでイギリスのバンドには辛口評価のピッチフォークがこのアルバムをベスト・ニュー・ミュージックに選出。このままアメリカのインディ・キッズを熱狂させてほしいと願うばかりだ。

補足:日本盤は6月16日リリース予定となっています。

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 アップルズがSpaceとTimeをTravelするのだから、期待通りの直球アルバムであった。彼らが本来備えていたポップさが、電子音を介することによってよりカラフルに彩色されており、潔いほどの直接さが伝わる。車内のラジオで流れでもしたら、それだけでもうドラマティックな雰囲気を演出できるだろう(高速道路推奨)。

 甘酸っぱいメロディセンスや、ロブ・シュナイダーのハイトーンな声という要素らは、良い意味でAORを彷彿とさせる。曇りのない曲達はしかし、夢と希望だけを詰め込んだ理想世界を能天気に紡ぐわけではない。シニカルさというか、酸いも甘いも含ませたポップ感とでも表現し得るのか、馬鹿騒ぎに耽っているわけではない。考えてみれば、メンバーらも若くはない(ロブの声と外見のギャップをとやかく言うつもりはない)。直球サウンドであってもそこに簡素という文字はないのだろう。

 冷たいコーラや窓から注ぐ風のような、気持ちの良いアルバムだ。ここにきてキーボーディストを導入する創造への探求心にも頭が上がらない。ポップとは? という命題に対する一つの理想的な解答である。

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 90年代半ば頃からヴァージニア州フレデリックスバーグで活動をしていたスカイウェイヴのポール・ベイカーとジョン・フェドウィッツが、グループ解散後に結成したバンドによる約3年振りのセカンド(スカイウェイヴのもう1人のメンバー、オリヴァー・アッカーマンは、現在ア・プレイス・トゥ・ベリー・ストレンジャーズ<以下APTBS>のメンバーとして活動中である)。

 前作『Disapear』では、鼓膜を破壊するようなフィードバック(というよりハウリング)・ノイズにまみれたダークで不穏なシューゲイジング・サウンドを展開し、APTBSとの共通点を随所に感じさせた彼らだが、スクリーン・ヴァイナル・イメージやセリーヌ、ヴァンデルスらが所属するニューヨーク拠点のSAFRANIN SOUNDから、サウンドプールらを擁するボストン拠点のKiller Pimpにレーベルを移籍して作られた本作では、そこから一歩踏み出したサウンドスケープの構築に成功している。

 例えば冒頭曲「Stars Fall」では、フロントマン2人のハモリを強調し、続く「Never Make You Cry」ではJ−ポップも顔負けの哀愁メロディを披露。タイトな打ち込みビートとシンプルな循環コード、キャッチーな旋律やギター・リフがジーザス&メリーチェインを彷彿させる「Marianne」「It's Too Late」など、全体的にメロディの際立つ楽曲が並んでいるのだ。

 スカイウェイヴ譲りの爆音ギターも健在で、「Don't Leave Me Behind」では"アンプがふっ飛ぶんじゃないか?"と思うくらい歪みまくったギターを幾層にもレイヤー。ファズ、ディストーション、ワウの応酬はAPTBSとタメを張るほど凄まじい。

 この辺りのサウンドは、ニューヨークやロンドンでの人気に比べると日本での評価はまだまだ低いのが残念。特にペダル・エフェクター好きのギター・キッズにとっては、たまらなくツボなサウンドのはずなので是非チェックして欲しい。

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 本年度上半期、情けない男NO.1認定でございます。何なのこの情けないヴォーカルは! きらめくギター・サウンドは! まるで透明度の高い地下水脈を眺めているようだ。いまにも消え去りそうなファルセット。触れれば割れてしまいそうなガラスの歌声。哀感たっぷりのメロディ。言ってしまえばザ・スミスみたいな音楽なのだけど、だからといって素通りしてしまうのはもったいない。このバンドは弱々しい。だが、強気である。

 僕らは好むと好まざるにかかわらず、弱さを感じる音楽に惹かれてしまうところがある。実際、エリオット・スミスを代表に、弱々しさや情けなさが自然と滲み出てしまい、それが良さだと捉えられているアーティストは多い。しかし弱々しくもデンマーク出身の5ピース・バンド、ノーザン・ポートレイトのデビュー・アルバム『Criminal Art Lovers』は、開き直っていると言ってもいいんじゃないか。「俺たち弱々しいんだよ!」という逆ギレに似た男気を僕は感じてしまったのだった。もはや男気という言葉が仁義の世界でしか使われなくなってしまった時代にあって、情けなさというものを男気として押し出すこのバンドから僕は少しおかしな新世代感を覚えるのである。

 それが良い方向に働いているというのも、これまたおかしな話ではあるけれど、実際、サウンドの弱々しさが力強いというパラドックスがあり、「情けない音楽を作ろうとしている気迫」という男気を感じる。その気迫が生むサウンド・アンサンブルが絶妙で、繊細な美しさを持ち、するすると胸に沁みこむ音楽であるにもかかわらず、逆にスカッとするところもあるから不思議だ。本作の音が流れれば、曇り空など吹き飛んで、晴天と化すであろう。憂鬱などというものも吹き飛んで、瞬時に笑顔になるであろう。その爽やかなギターや決して肩がこらないリズム隊の清々しさといったら木漏れ日に文字通り力強い光を感じたときの気持ちになんだか似ている。

 男として生まれたからには堂々と生きたいものである。『Criminal Art Lovers』がまさにそうなのだ。ノーザン・ポートレイトは泣き出しそうな歌声で、情けなさを確信犯的に武器にする。ためらいなく武器にする。弱々しさを音楽性として捉えているそのさまの、開き直っている感じは堂々としていて新鮮だ。「情けなくて何が悪いんだ」とこのバンドは言っている。その強気な姿勢をこれからも貫き通せ。それが彼らの生きざまだ。ただ、ともすればザ・スミスそのまんまだと捉えられそうな音楽性は、もうちょっと薄くした方がいいと僕は思うよ。

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 地味ながらもいつも素敵な歌を届けてくれるシアトルのシンガー・ソングライター、ダミアン・ジュラード。最新作となる本作は、本国でのレーベル・メイトでもあるポップ職人、リチャード・スウィフトとの共同作業により制作された。これまでもケン・ストリングフェロー(ポウジーズ他)やデイヴィッド・バザン(元ペドロ・ザ・ライオン)などとのコラボレーションにより、様々な魅力を引き出してきたダミアンだが、本作でも新鮮な一面を覗かせている。

 ニール・ヤング直系の素朴なアコギの弾き語りを基調に、フィル・スペクター風のウォール・オブ・サウンド的なアレンジを大胆に導入し、フリート・フォクシーズやボン・イヴェールにも通じる美しいコーラス・ワークが効果的に挿入され、これまでの彼の作品の中でも最も洗練された手触りのサウンドに仕上がっている。

 マグリノリア・エレクトリック・カンパニー〜ソングス:オハイア、マーク・コズレック(レッド・ハウス・ペインターズ、サン・キル・ムーン)、ヘイデンといったアコースティックなSSWもののファンのみならず、普遍性を持ったポップ・ミュージックとして多くの人の耳に触れてほしい一枚。

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 音響、アンビエント、ミニマル・テクノ、ドローンなどあらゆる音楽ジャンルの垣根を自由自在に行き来し、エクスペリメンタルでフィーチャリスティックなサウンドを構築するブルックリンのユニット、グロウイング(Growing)が、早くも8枚目となるアルバムをリリース。しばらくデュオで活動していましたが、2009年の初来日ライヴではI.U.D.(ギャング・ギャング・ダンスのリジーとのユニット)やボアドラムとしても活躍する女性メンバーのセイディ・ラスカも加わって新生トリオとなって登場。デュオ当時の清涼的なアンビエンスやギターとエフェクターを駆使して生み出されるグルーヴとカラフルな音色にプラスして、ミニマルなリズム・マシーンとエフェクト・ヴォイスが効果的に入り混じり、更にとんでもないサウンドの極地へと到達して魅せてくれました。トリオ編成となって初のアルバムとなる今作は正に待望、そして期待通りの逸品。無数のエフェクトを駆使してサウンドを構築していくそのライヴ感と、更に強靭に磨き上げられたグルーヴィーなリズム・ワークで、もう完全ノックアウト。リズムを強くしたことによって、全体的にグロウイング史上最もポップな作品となり、もう病み付き系です。要ご注意を!

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14_TheHundredInTheHands_cover.jpg 洋服を選ぶセンスというものがあるように、今はもう、情報を選ぶセンスを持っていなければならないのだなと思う。音楽にも同様に言えて、いわゆる、おもちゃ箱をひっくり返したような音楽にしても、その箱に「何が入っているのか」が重要なわけなのだ。思うに、なんでも詰め込めばいいってもんじゃあない。そこにおいてNYはブルックリンの男女2人からなるユニット、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズの顔見せ的EP「This Desert」がWarpから発表されたのだが、いや、これ、すげえ、いいじゃねえか、と、なってしまったのだった。ほんとうに、センスが良いものしか詰め込んでいない。

 一口に言ってしまえばエレクトロ・ポップスで、もうひとつ言うならばブロードキャストのビートを強くしたような作品なのだけど、澄ました顔で風を切って歩くようなスマートなその音楽性は、選びに選び抜いた高級ブランドのスーツやら時計を身にまとっているみたいな、とでも言うか、エレクトロニック音も、ダブも、高級感を感じさせる部分のみを抽出し、取り入れ、エコーを効かせ、つまりはエレガント・ポップスここにあり、なのである。エレノアが時々歌うウィスパー・ヴォイスも確信犯的なエレガンスがあり、悔しいほどスタイリッシュ。ギター・リフはソリッドだが、あくまで聴きやすく熱を抑制している。アナタちょっと格好付け過ぎでしょうよ、というところもあるがそれがいい。

 そもそもNYはヴェルヴェット・アンダーグラウンドやテレヴィジョンなど、アートの匂いがするバンドを生みだした場所でもある。中でもアート文化が盛んなブルックリンにあって、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズはアートの匂いがするもののみ、自らの審美眼で選び、取り入れ、たちまち泥臭さなど微塵も感じさせないアーティスティックな佇まいの音楽を作ってしまう。同じくWarpのナイス・ナイスの新譜がおもちゃ箱になんでもかんでも詰め込んだ音楽だとしたら、ザ・ハンドレッド・イン・ザ・ハンズはバッグに香水やら趣味のいい財布を入れてる感じ。タイム感も抜群で、最近の流行の、あるいは話題のものを取り入れる。他のバンドを横目でにやりと笑いながら、さりげなく胸ポケットからサングラスを取りだす感じなんである。実際にサングラスかけてるし。

 とはいえ、秋に発表されるアルバムではメンバーのジェイソンいわく「僕たちの全体像が見える作品になっているはずだよ」とのこと。要はこのEPは彼らのひとつの側面に過ぎないわけだ。しかし、ここまで格好付けているからには、アルバムでは田村正和ばりに気取ってほしい(嫌味ではなくて)。さて、アルバムではどんなオシャレ・サウンドを詰め込んでくれるのか楽しみだ。スマートな音楽に違いはないのだから(嫌味じゃなくて)。

 ただ、ひとつふたつ言いたいのは、流行を追うだけのユニットには、なってほしくないし、ベックのセカンド・アルバムがそうであったようにダサおしゃれな一面も見てみたい。というか見たくてしようがない。しかしそれすらも難なくやってのけてしまうんじゃないかというエリート気質すら窺える。こんな良質なのに聴いていると悔しくなってくる音楽なんて中々ないよ。

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 まず、この変わったバンド名に驚き、引いてしまう人もいるかも知れない。恥ずかしながら筆者自身が実はそうで、名前は知っていたがしばらく彼らのことを敬遠してしまっていた。しかしジャパニーズ・シューゲイザー界隈での評価はすこぶる高く、その存在は気になる一方で、あるとき本作を偶然手にしてからというもの、今はことあるごとに聞き返してしまうほど中毒的にハマっている。

 死んだ僕の彼女、あるいはmy dead girlfriend(大阪のシューゲイザー系レーベルに所属するboyfriend's deadとは別)という名で活躍している彼らは、男3女2で構成されたバンドである。08年にNATURAL HI-TECHからリリースされた、少女スキップとのスプリット・アルバム「Sweet Days And Her Last Kiss」には、cruyff in the bedroomのハタユウスケ(ヴォーカル&ギター)がプロデュースを手がけた4曲が収録されているが、本作は、そんな彼らのファースト・ミニ・アルバムだ。

"イシュタム"と発音するアルバム・タイトルは、マヤ神話に登場する同名の「自殺を司る女神」から取ったものだろう。だとすれば、「死んだ僕の彼女」が「どのような死を遂げたのか」も否応なく想像出来てしまう。しかも本作の歌詞を見てみると、「腐乱した君の死体 最後の夜だとしても 一緒にいれてよかった」("WATASHI NO AISHITA MANATSU NO SHINIGAMI")、「汚れた 水の中 浮かんだ 右足」「浮かぶ死体 つまずいた」("12GATSU, POOLSIDE, UKABU SHITAI")など、不穏でグロテスク、一縷の救いも希望もないようなフレーズが並んでいる。

 だが、ひとたびアルバムを再生してみると、拍子抜けするぐらい穏やかで暖かなサウンドが流れ出す。ざらついたコード・バッキングとキラキラしたアルペジオが、ゆったりとしたリズムの上で混じり合う様子は、まるで春の木漏れ日のように心地良い。シューゲイザーだけでなく、ギャラクシー500やマジー・スターら、ヴェルヴェッツ直系のサイケデリアからの影響も強く感じさせる。男女混成ヴォーカルによって甘く囁くように歌われるメロディも、一度聴いたら病みつきになるほどポップだ。

 絶望的な歌詞と、夢見るようなメロディ。しかしこの組み合わせが実は曲者で、油断しているとまるで体に毒が回っていくように聴き手の希望を奪いさる。気付けば黄泉の淵で1人呆然と立ち尽くす自分がいる。永遠と続く死の世界で流れ続けているのは、きっとこんな音楽なのかもしれない。

 レコーディングとミックスを手がけたのは、元スパイラル・ライフの石田ショーキチ。彼らの類い稀なるポップ・センスを見事に引き出している。

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 USインディー・ファンの間ではすっかりお馴染みの、マット・ポンドPAの最新作。地元フィラデルフィア(=PA)を離れ、ブルックリンに越してから4枚目のアルバムとなる(時間が経つのは早い...しみじみ)。前作『ラスト・ライト』が、明るめのアップ・テンポな楽曲が多い比較的ロック寄りな作品だった(その中にもニーコ・ケイスとのデュエット曲「Taught To Look Away」のような、美しいバラードもあったが)のに対し、本作はメランコリックな響きを増した、どちらかというと初期の彼らの雰囲気に近い作品になっているように感じられる。相変わらずマット・ポンドの今にも泣き出しそうな歌声は味わい深く、彼らのサウンドの象徴となっているストリングスは、華やかに楽曲を彩っている。「代わり映えがない」「新しい刺激がない」と言われると否定は出来ないが、彼らの奏でるメロディーの美しさはひたすら聴き手の心に沁みるし、彼らの音楽を愛する理由はそれだけで充分だろう。

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 90デイ・メン(90 Day Men)、ザ・ポニーズ(The Ponys)のブライアン・ケイスを中心に結成された、同郷シカゴのボース(Boas)のメンバーも含むニュー・バンドのデビュー・アルバム。孤高に鳴り響く耽美的な世界観を見せていた90デイ・メンの影はほとんどなく、今作で聴けるのは全編を通してサイケデリックでシューゲなリヴァーヴの効いたギター&ヴォーカルと共に、勢いに満ちたガレージ・ロック~クラウト・ロックで捻じれながら最後まで突っ走る、紛れもないロックンロール・サウンド。前述のバンドやドローンやエクスペリメンタルなKrankyのレーベル・イメージとはかけ離れているものの、これはこれでメチャクチャカッコいい! 重厚なドラミングとレイヤードされたスモーキーなサウンド、そしてクールな熱量を爆発させたその音の佇まいに、ただただ痺れまくりです。音源でこれだけの重厚感とドライヴ感ってことは、間違いなくライヴはやばそう。来日を熱望せずにはいられません!

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 まず最初にアルバム・タイトル『僕の住んでいた街』がすごくいいなって思った。くるりは京都で結成されたバンドで現在は岸田繁と佐藤征史の二人がメンバーであり、メンバーが増えたり減ったり、サポート・メンバーも様変わりしている。日本だけには留まらずグラスゴーやマサチューセッツ、パリ、ウィーンなど海外でもレコーディングしている。

 このアルバム・タイトル『僕の住んでいた街』がバンドを結成してから14年の歳月を思わせる。いろんな人と出会い別れ、いろんな街に行って滞在し去り、また新しい街へ、時には昔住んでいた街にまた向かってみたりと今現在自分たちがここにいる理由やその過程があり、収録されている曲たちにも様々な景色がある。

 シングルのカップリングを集めた二枚組のアルバムで、一枚目の一曲目「東京レレレのレ」のみが新曲として入っている。この曲は盆踊り的なリズムでくるりらしい、なんだかくるりって天の邪鬼な事をするんだけどどこかしたらポップで時折ロックになったりとギアチェンジしていくバンドだなと前から聴いていて感じる事が多い。

 二曲目以降はシングルに収録された年代順に収録されている。流れで聴いていくとシングルやアルバムのリード曲ではないだけにさらに自由度が高い感覚を受ける。それは違う言い方だと冒険しているかもしれないし、リード曲にはならないがその分バンドの色が濃くなっている部分もある。

 アルバムやベストにも収録されている曲もたくさんあるが、それらだけを聴いていた人にもぜひ聴いてみてほしい。表に対しての裏というのではなく同じ時期に作られてもベクトルや意識が違うとこんなにも違うものができているんだと感じれるし、それ故にこのくるりというバンドの奥行きや音楽に貪欲な事に気付いてさらに好きになれるアルバムだ。

 個人的にはライブに行くといつも期待してしまう「すけべな女の子」や「The Veranda」「pray」「ガロン」「サンデーモーニング」「りんご飴」など好きだった曲以外にも今まで聴けてなかった曲がシングルで聴かないでも聴けるというのはいい機会だ。

「The Veranda」

 外の空気はきれいだろう
 梅の花びらしか 季節の到来教えてくれなかった

 春になったら変わるだろって
 言った通りになるのかな
 君からの便りもなく 一つの季節は過ぎてって
 しかめっ面したとき
 ちょっと思い出してまた消えた

 二枚とも17曲入りで収録できるギリギリまで曲が入っている。彼らのいろんな想いや時間が溶け込んでいる。このアルバムからくるりを聴き始めてもいいだろうし、今までアルバムでしか聴いてなかった人にもくるりの音楽の自由さを感じられるものになっている。

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19_DinosaurFeathers_cover.jpg ここ数年、こと音楽に関して世界中でもっとも熱気に溢れた都市が(少なくともインディー・ロックのファンにとっては)ブルックリンであることに全く異論はないが、それにしたってここまで目まぐるしい速さで流行がアップデートされると、いくらネットがあっても、現地に居を構えないと情報を追えないよ...と、弱音を吐きたくなるほど新陳代謝が活発な状態が継続されている。いいことだと思う。

 とはいえ、露骨すぎるアニマル・コレクティブのフォロワーみたいなのには個人的にはあまり興味が湧かなくて、そういう連中も一括りにされるネオ・サイケデリック勢のムーブメントのなかでも、極端にトロピカルに純化したバンド/ユニットを去年くらいから特に面白がって聴いている。そろそろ気候も夏めいてきて、そういう音楽がいとおしくなる時期にまた差し掛かってきた。

 その流れでも、たとえば去年話題になったレモネードは随分アッパーだし(デロレアンも彼らの曲をリミックス)、この5月に国内盤もリリースされるタンラインズ(tanline=日焼け跡の意。この単語を入力して検索するとイイ画像がたくさん出てくる)の"Pokemon Dancehall"とも評される緩くチャラいビートは、もはやイージー・リスニング的ともいえるほどトロピカルに特化している。

 一方で、少し前に頭角を現し、僕にとってもアイドルの一人であるメアリー・ピアソンを擁するハイ・プレイシズは、最新作『High Places Vs Mankind』で、空気よりも軽かった(当時、他の誰よりもトロピカルな音質を具現化していた)ビートを捨て、シューゲイズな音とトライバル要素の醸し出す、ひんやりした冷たい空気の満ちている作品を提示してきた。これまたブームになっているネオン・インディアン、ウォッシュド・アウトら"Glo-fi"(オフビート・トランス+シンセ・サウンドによるアンビエント)のシーンにも共振する内容ともいえるが、また一方でそのGlo-fiも既に時代遅れで、今はWitch House(Gothic Chillwaveなどとも)だとする動きも。トロピカル→ゴスは80年代のニューウェーヴをそのままなぞっているような流れではあるが、やっぱりあまりにも消費が速すぎてもう、何が何やら。

 このように、昼食のバイキングで皿に好きなものを盛って口に運ぶような感覚でその日聴くものを選 べそうなほど「ムーブメントのなかのムーブメント」は入り乱れている状態だが、そんななかで自分が繰り返し愛聴しているのがDinosaur Feathers。やはりブルックリン在住の3人組である。

 何が素晴らしいか。まずは手っ取り早く彼らのMySpaceで「Family Waves」という曲を視聴してみてほしい。イントロのちゃかぽこした音の鳴りから牧歌的なコーラス、そして目が覚めるような気持ちよすぎる転調と、ひねくれポップ好きにもきっと響くものがあるだろう、興奮必至の楽しすぎる4分間。

 その他の楽曲も陽に当たりながら思い思いに過ごす気怠げな人々の光景が印象的なジャケット同様にピースフルでありながらどこか突き抜ける瞬間の連続で、オーストラリアの素敵なバンド、アーキテクチャー・イン・ヘルシンキ(この人たちも<キツネ>のコンピに収録されたりしてるのに、なかなか日本で話題になってくれない...)や、<K>レーベル所属のバンド、レイク(昨年リリースされた『Let's Build A Roof』は傑作!!)にもどこか相通ずる、のどかな世界観とそれに相反するひねくれ具合の両方を見せてくれる。

 曲名に「Vendela Vida」(アメリカの作家。日本でも『行く先は晴れやかに あるいは、うろ覚えの詩が世界を救う』などの著作が訳されている)と冠したりもしているが、音からはスノッブ臭は皆無。奇跡的なバランスを保たれている(こういうセンスの気配りは、ヴァンパイア・ウィークエンド以降のマナー......、なのかな?)。ここまで挙がってきた名詞にひとつでも引っかかりを覚える方には是が非でも推しておきたい。

 このアルバムは今年の3月初頭に既に発売されていたが、セルフリリースなこともあって届くべきリスナーの耳にまでなかなか行き届かなかった印象がある。とはいえ、そういう事情なので残念ながら国内での入手はいささか手間取るかもしれない(Amazonなどでは入手不可)。iTunes Storeでも購入可能だが、フィジカルで入手するなら彼らのmyspaceあるいはホームページ経由での注文が一番早いかと。全曲視聴も可能。

 さらに、アルバムに先駆けて昨年リリースされた4曲入りEPは現時点でもフリーダウンロード可能なので、気になる方はまずはここで彼らの音を試してみてほしい。

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 上海に万博視察含め行ってきたので、その簡単な紀行を纏めてみます。

5月22日(土)

 日本も既に蒸し暑さを帯びる中、昼過ぎに関西国際空港へ。

 空港内の入りの寂しさは毎回の事ながら、特にお盆や正月やGW等を除いてのオフ・シーズンの閑散具合は心配にもなる。行き交う外国語は中国語かロシア語が多く、何をもって「景気」が良いとか悪いとか抜きにしても、こうした場所に来ると、明らかに「景気の良い国の景気の良い人たち」のパトスをダイレクトに見受ける事が出来る。

 今回、通称・上海万博は実は国際博覧会であって、万国博覧会ではない。万博は直近だと、ドイツのハノーヴァー万博以来開かれていない。その後に条約が改定され、旧一般博が登録博、旧特別博が認定博になった。「General Category」という意味では、登録博も変わらず、一般博だと、1970年の大阪、1992年のセビージャ(スペイン)、2000年のハノーヴァーと不定期開催だったのが、5年ごとになった。次回は2015年のイタリアのミラノで行なわれる予定だ。ちなみに、愛・地球博も上海も登録博になる。今回、僕自身の目的はそんなに大きいものは無く、バブルの様相を呈していた中国経済の臨界点、リミッター・ラインを、北京五輪、上海万博という大きな催しの中で示すのではないかという些かペシミスティックな興味に尽きた。不動産バブル、ITバブルの中での変節における人たちの蠢きとはどのようなものか、経済格差が極まってゆく過程で疎外されてしまうものは何か。

 チケットが取りやすかったのもあり、JALに搭乗。サービスは良好。

 機内のポップ・ミュージックのプログラムではザ・バード・アンド・ビー、ミュージック・ゴー・ミュージック、シー.・アンド・ヒム、エリカ・バドゥ、カーキ・キング、ニュー・ヤング・ポニークラブなどという締まったメンツ。メニューは魚のムニエル、サラダなどで、途中アナウンスで現地は曇り24度位との情報が入る。

 2時間程のフライト。夕暮れ時に上海浦東空港に着くと、曇天、斜めから景色を切り取るように強烈に雨が降る。定西路のホテルに入り、今回、万博の日本館で働かれている方にアポイントメントを取り、近くのレストランに食事に行き、色々と話を聞く。天候に左右されるのは大きいが、人気なのは中国館、日本館、日本産業館、フランス館辺りだそうだ。それぞれテーマの打ち出し方と体験型の形式が受けているみたく、特に、中国館に関しては予約整理券を取っても、なかなか中に入れないような混雑状況が続き、日本館も4~5時間待ちも普通にあるとのこと。今日に行こうと思っていた上海環球金融センター(492メートルの超高層ビル)も曇天で景観が良くないみたく辞めて、少し彼のマンションに寄る。今回の万博に際して、会社からあてがわれたマンションだが、なかなか立派な作りで広く、五人がシェアしている。夜になると、肌寒さと中国独自の「原色」のネオンが混じり、風情があった。活相のレベルが日進月歩で高くなっている。

5月23日(日)

 9時頃到着を目的に、地下鉄で中山公園駅から人民広場駅、そして、浦西地区の最寄駅まで、4元。駅に降りると、既に上海万博に行く人たちの息吹が凄い。

 入場料は160元(1元が約15円)という決して安くない値段であり、相変わらず凄まじい所得格差のある国でもあり、敷居の高さはある故に、結論から言うと、客層は、二日行って通して感じたのは、ニューリッチ層や不動産で利鞘を稼いだ層や品の良い家族たちの姿が多く、やはり学生の姿はかなり少なかったということだ。夏休み位になれば、修学旅行等で増えるのだろうが、日本人も殆ど会う事無く、また異国人もアメリカ人が多かった。そこから、ゲートを潜り、浦西地区に。兎に角、広く、地図の感覚で行くよりも一つ一つを歩くのはかなりな体力が要る。しかも、突貫工事のような部分もあり、導線付けも儘なっていないところもあった。

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上海万博の入場券

 最初に、60分待ちだったが、上汽GM自動車館に並んだ。上汽GM自動車館のテーマは2030年の自動車社会。大気汚染、電気自動車、色んなテーマの映像モティーフをウォーキングで観た後、シアターに入り、振動する自動車のシート形式の物に座り、覆い囲むようなスクリーンと呼応して、非常に高精度なストーリー(ラブ・ストーリー的な体裁は取っていた)を見せてくれ、なかなか楽しめた。ただ、3D形式だともっと迫力がありそうだったと思う。その後、スクリーンが落ち、パフォーマーの諸氏が近未来型自動車を操り、派手に演舞してくれた。ちなみに、今回、日本の一部ニュースで言われているような、予約券を巡っての暴動的なものは僕が見受ける分には無く、皆、しっかり列を護り、時間を厳守して、規律を保っていた部分には民度の向上を感じた。

 その後、韓国総合企業館(サムスン主体)、日本企業館と回った。

 前者は20分待ちで直ぐに入る事が出来たが、催しは非常によくある企業打ち出しもの。タッチパネルで触ってみたり出来るものの、結局、サムスンがこういうイノヴェイティヴなものをやっていて、技術力を持っている、というだけの展示。

 後者は1時間半待ちだったが、複数の企業のプレゼンが連鎖したものだった。ただ、個人的に面白かったのが、最初に為される総合的なプレゼンにおいて、ねぶた祭、舞妓さん、ガールズ・コレクションなど今の「大文字」の日本のイメージが重なる中で、都度、流れたのが相対性理論の「LOVEずっきゅん」だということで、これは明らかに広告代理店か何かの作為性を感じたが、今の日本の「クールネス」が定義出来る限界効用性も垣間見えた。帝人、テルモ、大塚製薬、ユニチャーム、日本郵政、トステム、INAX、キッコーマンといった各企業の催しに関しては過不足なく、非常に日本的で、逆に言うと面白みが無かった。それぞれ部屋を移り、10分程のプレゼン的な映像やアニメなどを見せてくれる。テルモは映像に3Dを使っていた点以外、然程魅かれるものはない、ステロタイプな企業イメージの更新を狙ったものだった。

 浦西ゾーンの路を歩く分には非常に空いている感じさえするが、パビリオンの混み方は凄く、石油館など3時間を超す待ち時間だったり、また基本、飲料等の持ち込みが出来ず、フードコートではビールが25元したりするのに、それなりに人が入っている。

 様々なモニュメントの展示されたテーマ館を巡り、日本から上海に初出店となる、はなまるうどんに行った。はなまるうどんのオーナーに聞くと、上海は初めてらしいが、その後、何処かの中国内の土地への展開を考えていると言っていた。「健康志向とジャパニーズ・フード・イズ・クール」の影響もあるのか、納豆、おくら、卵を混ぜたうどんが流行っていた。

 今日の視察はこれくらいにして会場を後にした。

 その後、南京西路の新光酒家という上海蟹の店へ行き、季節外れだが、茹で上海蟹を食した。紹興酒が毒消しになるとかで、合わせて食べるとなかなか美味しかった。

 そして、東方明珠塔(TV塔)へ向かい、高層から上海を見降ろした際に、蜂の巣のようなマンション群や高層ビルの乱立にこの街の不動産バブルに対しての論考を体系的に纏めたいとさえ想うくらい、ネオンの眩さと煌めきに眩暈を憶えた。上海の夜の先の深みには何か得体の知れない欲望や寂寥が渦巻いている気がしたのかもしれない。

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東方明珠塔の展望台からの黄浦江を見降ろした景色

5月24日(月)

 朝から晴天。30度を越えるとか。TVでは万博500万人突破とのニュース。今日は浦東地区へ。9時くらいに着いたが、入口時点からかなり盛況。荷物チェックも厳重。やはり、こちらに主要パビリオンである中国館などがあるからか、昨日の雰囲気とはまた違った巨大な熱がある。耀華路駅を降り、ゲートを潜ると、明らかに今までと次元が違う大きさとスケールの中国館が目に入る。入りたいが、予約券も含めて本日分は全てないみたく、団体客含めてもう既に長い行列が出来ていた。

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中国館

 日本館も行くが、4時間待ちということで諦める。早く電子予約券のシステムを取って欲しいものだ。サウジアラビア館に至っては5時間40分待ちという凄まじさ。こうなると、各国館を細々と廻るべきか、と思い、バスに乗ってCゾーンへ。イギリス館は40分待ちだったが、印象としてはカルチャーの表象をする訳でも視角に訴えかけるものでもなく、外観と比して、インスパイアーされるものは少なかった。外観自体は大量の触角の先にカラー光源があり、風向きなどで細かく変化をするのが面白かった。その後、昼食を食べ、スイス館へ。情報では屋上に庭園があり、ゴンドラがあり、遊園地のようになっているというのもあり、2時間程待ってみるが、ゴンドラが故障との事で、結局、展示物を巡るだけで終わった。映像もスイスの風景を写したもので大したものではなかった。

 万博内を行き来する無料バスに乗り、再び日本館の近くに。今回、少し話題になった北朝鮮館に行ってみる。報道通り簡素な作り。夕暮れ時になってきたので、もう空いている所も出てきて、イラン館、カタール館、パキスタン館と廻る。個人的にパキスタン館のロータスフォード(16世紀の建築)を復元した作り、自分達の国の文化の打ち出しの仕方には好感を持つことが出来た。

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日本館の様子

 今回、上海万博の「現場」に行ってみて思ったことは、中国という国の繁栄の強度と、また、比して、北京五輪と同じく「底上げ」されている強引な力技の部分も目立つという事だった。確かに、現地の方の民度や倫理観は上がっているし、かなりムードもアグレッシヴだ。富裕層の台頭もダイレクトに感じる事が出来たが、それは別文脈で言うと、金融経済と実体経済との乖離も感じさえした。つまり、金融経済上で成り立っている薄氷の要素因がある中、平易な例で言えば、160元の万博入場券、20元の寿司の人気と、10元そこらでお腹いっぱい食べられる街の庶民的なお店の差異が露顕してきた際にどういった民衆感情は喚起されるのだろうか。TVプログラムの万博に「無関係」な人たちはどうでもいい事と捉えているのか、今後はそういった深奥に切り込みたい。

 最後に。僕にはどうしても、上海万博に関してはあまり肯定的な意見を持つ事が出来ないのはそこにはロマンティシズムとか繁栄の象徴が代象されていたのではなく、貼り子細工の不気味なハイパーキャピタリズムの行く先を観たような気がしたからだ。無邪気にマスコット・キャラクターと戯れる子供、持参のバナナや林檎を食しながら、嬉々と行列を並ぶ現地の方。皆、懸命に働いて、中国という巨大な国の栄華をリフトアップして、その象徴的な万博の在り方を享受しているのかもしれないが、14億人という人口の罠が仕掛ける経済システムはそんなにフラットなものではない。

 会場から観る事も出来る蜂の巣のようなマンションに灯る生活者の影、今から建設されるだろう高層ビル、商業ビルなどの乱立の仕方は或る種、異様とも言えたし、また、そういったものは上向きの景気曲線と近似する筈なのだが、僕にはメガロマニアックな暴走都市のイメージを抱かせる事も行く度に増えてきた。莫大な量のエネルギーが渦巻いているのだが、何処か空疎でフィクショナルなのだ。万博以前/以後という短期的フェイズではなく、中長期的なスタンスで捉えていきたい。何度か調査を続けていこうと思っている。

参考
上海万博HP

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