reviews: 2010年5月アーカイブ

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 困ったな。こりゃ傑作だ。もともと内輪ノリのパーティー・ミュージックとして作られたこの音楽を、傑作と言ってしまうのは少々ためらうのだけど、アバやカーペンターズを思わせるメロディにキュンときてしまうからしようがない。

 笑顔のようなやさしい音色。音でゆっくりマッサージされているような奏で。そこに美人女性ヴォーカリスト、ガラ・ベルの破綻のない歌声が乗っている。これが気持ちいい。カリフォルニアを拠点とする男2人女1人の3ピースバンド、ミュージック・ゴー・ミュージックのデビュー作『Expressions』を聴いていると、朗らで和やかで体がぽかぽかしてくるよ。この人懐っこさはメンバーいわく「自分達の本当に親しい友人達に聴かせるため」に作られた音楽だからこそ醸し出されるのかもしれないが、親しい友人じゃなくても、お、いいじゃん、という具合に、鼓膜をやさしく揺らしてくれる。ファッション誌で紹介されていてもおかしくないオシャレ感もある。

 こう書くと、「なんだよ、単なるスウィートなポップスかよ」と思われるかもしれないが、侮るなかれ。ただのポップスだと信じ込むこと、これは怖い。70年代を意識しているという彼らは、ファンクからハード・ロック、プログレッシヴ・ロックなど、数々の要素を難なく取り込んでいる。とはいえ、それ自体はめずらしくない。取り込み方が面白いのだ。センス良く、ぱっぱと洋服を着こなすようなステップの軽さでもって様々な音楽要素を我が物にし、さあどうですかという表情でファッション・ショウのモデルが歩いているみたいな、良い意味でスノビズムを楽しんでいるところがある。気取っているけどそれを上手く隠す術を持っているものだから、まったく、にくい。

 冷静な判断力に基づいた客観的な視点で様々なジャンルをサンプルと見立て、音楽の適材適所に配置するそのセンスはユーモアがあり、ポップ感に溢れ、DJ的なサンプリング能力に恐ろしいほど長けている。そんな確信犯じみたところは最近流行りのエレクトロ・ポップスや、サイケデリック・ポップスには無いもので実に新鮮なのである。ジャンルの融合ではなく、様々なジャンルの音を自分達の音楽に切り貼りする。そこに職人的な気質すら見えるのだ。

 手のひらにすっぽり収まって、持ち歩けそうな、とってもポップなポップ・ミュージックなのに、その実、計算された音楽性に背筋を正され、スピーカーと睨み合いながら聴いても面白い。何度聴いても飽きがこない。聴き手にリピート・ボタンを繰り返し押させてしまう本作は、夜を通り越して朝まで聴いてしまう。参ったな。やはり傑作だ。

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 サリンジャーの哲学とは青さを「青」のまま定義せずに、彼岸の視点からユースフルな遣り切れなさを筆致した点に尽きると思う。かの『ライ麦畑でつかまえて』にしても、実は通底するキーワードはまがまがしさ(phony)だ。既存のヒーロー崇拝主義に対して冷水を浴びせ、アンチを唱える事で、また一種の神秘性を自分のナラティヴに持たせることに対しても懐疑的な視点を持ち、意味ありげなアフォリズムめいた独白をカットアップさせ、クールに「見せかける」所作は発表当時よりも現代社会のシステム構成論が堅固になっていくにつれ、より響くようになったが、主人公コールフィールドのヴァルネラヴィリティとは結局、何をサルベージして、何を突き放したのか、見定めないと、サリンジャーの仕掛けた単層的な罠に自意識側が飼い慣らされたままになってしまう。

 だから、勘違いされているきらいがあるが、90年代後半に風のように現れて熱狂を攫ったベル・アンド・セバスチャンはサリンジャー的なイコンでは決してなく、98年の「This is Just A Modern Rock Song」という批評的で挑戦的なタイトルの曲内で歌われる「ぼくはドストエフスキーほど悲愴でもないし マークトウェインほど賢くも無い」という真面目なシニシズムを額面通り受け止めるべきであって、そこに余計な青さを付加する必要性など無かった。つまり、R.E.M.が標榜するヴァルネラヴィリティとは、知的体力の強靭さを奪回せしめるように、参照点や教科書はそう簡単ではなく、一元的である筈がない。

 前置きが長くなったが、憂鬱の、未成熟の、多義的な、「青さ」を確保し続けてきたプロジェクトとして、時に、過剰になってしまうサウンドの振れ方をして、アンクルは常に反射鏡的な存在だったし、僕はその「浮き方」をいつもストリート・カルチャーに収斂させることなく、良質な一音楽として語れない(語らない)評論磁場にも少しだけ辟易もしていた。

 アンクルとは、つまり平易に言えば、大人が懸命にふざける、という所作であり、自分の足許を見られてはいけないというスタイリッシュな逃避意識が逆説的に「シーン」内で括られ、「名札」を付けられてしまうアイロニー的な装置化をどう軽やかに越境してゆくかを考え続けたジェームズ・ラヴェルの切実な内面と嗜好性に準拠した大人の実験工房なのだ。

 アブストラクト・ヒップホップを地表化させる為に、Mo'Waxレーベルを立ち上げ、常に話題になった客演アーティストのフックアップと、ベック以降のセンスをゴリラズ的なエクスペリメンタル性で煮込んだ音像は常に先鋭性を持ちながらも、異端であり、時に、ストイック過ぎるきらいもあったが、いつも刺激的だった。98年の『サイエンス・フィクション』でのリチャード・アシュクロフトやトム・ヨーク、マイクD等の招聘を掻き消す(寧ろ、拒絶する)ような、非・意味的な在り方は、マッシヴ・アタック『メザニーン』やレディオヘッド『OK Computer』的な深く重い音がデフォルトになっていた当時のシーンには、多大なる影響を与えた。DJシャドウとのタッグを離れての03年の『Never Never Land』はオーガニックでメロウな滋味深いものになったが、そこで客演していたクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オムのモードに引っ張られたのか、07年の『War Stories』ではストーナーロックへと舵を切り、不穏でダークで分裂的な様相を極め、初期にあったストリート・カルチャーに目配せをしていたプロジェクト性は実質的に、記号化しており、ジェームズ・ラヴェルの個人的な関心に準拠した展開を見せていった。そのアンクルの展開は自然とストリートの音楽がグライムやダブ・ステップといった音楽の流れと結びつき、エッジを極めるのと比して、シーンとの接合点がぼやけていき、センスが先走る孤高のプロジェクトと化していった点は否めない。

 今回、デビューから12年目にして、通算4作目になる『Where Did The Night Fall』は清冽でサイケリデリックでクオリティの高い内容で、アンクルが築き上げてきたサウンド・ワークの集大成とも言える洗練を持つが、どうにも「90年代的な音」になった。それは、マッシヴ・アタックの佇まいと同じく、世界は別に変わらないから、スタイルを変える必要もない、という大人の諦念と寛容が彼岸的な観点から切り取られているとも換言出来る。アートワークはウォーレン・デュ・プリーズとニック・ソーントン・ジョーンズが担当しているが、これはトマト×アンダーワールド的な感じも思わせるし、10年代的なゴリラズのヴァーチャル的な凄味を持ったハイエンドなワークを越えるものではなく、サウンドもダヴィーで多国籍な音楽の上澄みを掬いあげているが、フライング・ロータス辺りのビートが提出されている今、どうにも野暮ったさが残る。そう、ウェルメイドなのだが、どうにも居心地の悪い作品になっている。3D、デーモン・アルバーン、ボビー・ギレスピー辺りの亡霊がちらつく磨き抜かれたサウンドスケイプはだがしかし、アンクルが試みてきたオリジナリティも確かに明滅するという理由を相対化はしない。

 10年代に入り、混沌としてきた今に、この作品を積極的に敢えて評価する意味は僕には正直、あるのかどうか分からないし、そんな意味など考えなければ、存分に「クール」なアルバムとして楽しめるし、今現在のロンドンの持つ多次元文化主義的な雰囲気を持っているのも含めれば、個人的には好きな音が集まっていると言えるのだが、どうにも批評し辛いのは、簡単にサイケだとかアフロだとか言うには切実な、phonyがあるからだ。

「ここは高みではなく、淵だ」ということを示す圧倒的な整合性は遂にここまで来たし、まだまだ往くだろうという確信が伝わってくる充実したものになった。その過程であり、結実では無い。

 ジェームズ・ラヴェルという人が、90年代の幸せだった(だろう)カルチャーの生き証人でもあり、00年代をどうにかサヴァイヴしてきた重みを強烈に感じさせる作品として、意義は深い。

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 本当に終わりなのか!?

 LCDサウンドシステムとしては最後の作品になるとアナウンスされているこの『This Is Happening』を聴いて以来、僕の頭からその疑問が消えない。それくらい、素晴らしいアルバムだからだ。

 ディーヴォ風のコミカルでポップなサウンドから、コーラスでは天駆けるようなキーボードがインする「Drunk Girls」は「North American Scam」に負けずとも劣らない充実したシングルだ。他にも、タイトなコンガとイーノの実験性がぶつかりヒートアップする「Pow Pow」、ファンキーなベース・ラインにのせてアイロニカルにヒットについて歌う「You Wanted A Hit」など、ミニマルなビートのループで構成された9曲にはグルーヴ感が息づく。間違いなく、これらの曲はフロアで人々を踊らせることになるだろう。

 そして、印象的なのはジェイムスのヴォーカルだ。メロウに歌い上げる「Dance Yrself Clean」や、ハイテンションでまくしたてる「Drunk Girls」、ボウイばりにセクシーに歌い上げる「I Can Change」など、広いレンジの表現力をみせる。現在40歳にしてのこのパワーに驚かされるばかりだ。だからこそ、この作品は「通過点」に過ぎないのではないか、と思えてしょうがない。

 そもそも、21世紀最初のディケイドは、ジェイムス・マーフィーの功績の上に成り立っている。DFAとしてザ・ラプチャーやレディオ4、最近ではロックンロール・リヴァイヴァリストのフリー・エナジーを輩出した。DJやプロデューサーとしての活躍もある。そして、2002年にLCDサウンドシステムとしてシングル「Losing My Edge」でのデビュー以来、2004年の『LCD Soundsystem』、2008年の『Sound Of Silver』など作品は高く評価され、ダンス・ミュージックのドップ・クリエイターとして君臨し続けた。今ではありふれたものになった、ディスコ・パンクやダンス・ロックもLCD抜きに語ることなんか出来ないじゃないか。

『This Is Happening』はLCDがオリジネイターとしてまだまだ革新的であることを十二分に示す作品だし、本誌のインタビューにおいてジェイムスはLCDとしての活動を終えることに感傷的な表情を一切表していない。これからフジを含むワールド・ツアーに出て精力的にライヴを行う予定なわけだが、ツアーが終わる一年半後が早くも気になる。初めて自分自身の写真を使用したジャケットでの前のめりのファイティング・ポーズに、期待が募るばかりだ。まだまだ彼にはダンス・ミュージックを牽引していける力があるのだから。

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 初めてトロントを離れ、シカゴでレコーディングを行なった約5年ぶりとなるニュー・アルバム。主要メンバーに加え、ゲスト・アーティストとしてリサ・ロブシンガーやジェイソン・コレットなど12人招き、プロデューサーにトータスのジョン・マッケンタイアを迎えた。これらから「新しいことに挑戦する」というブロークン・ソーシャル・シーンの本作にかける気合が窺える。

 シューゲイザー・テイストでドラマチックに展開する曲があれば、弾き語りに近くとも、どんどん音数を増やし、ソフトなサイケデリック感を醸し出す曲あり、はたまた打ち込みと浮遊感のある女性ヴォーカルが際立った曲ありと、ヴァラエティに富んでいる。室内楽的な響きすらある曲も収録されているのだ。しかも、どの曲も全く隙がなくクオリティが抜群に高い。これには感心し、驚きもした。ただ、難を言えば、ヴァラエティの豊かさゆえに焦点が見付からず、掴みどころがないと思ってしまったのも事実。それでも通して聴かせてしまう。その所以は、ずばりメロディの良さにある。

 なめらかな曲線を思わせるメロディが、突如、折れ線グラフのようにぎこちないが、しかし茶目っ気に溢れた味のあるメロディに移り変わり、良い意味で次の展開が分からないそのメロディ・メイクのセンスが音楽と聴き手の距離を近づける。ヴァラエティ豊かで凝った音響を構築する本作は、どんな種類の楽曲であってもポップに聴かせてしまうという意味で、ブロークン・ソーシャル・シーンのメロディ・メイカーとしての素質を浮き上がらせている。勢いがあった前作でファンになったリスナーは、その勢いが薄れたことで少々残念に思われるかもしれないが、ブロークン・ソーシャル・シーンは良くも悪くもリスナーを裏切る音楽を創作するアーティストであると僕は思う。

 かつてジョニ・ミッチェルが「リスナーに否定されるかもしれないけど、音楽家は常に変化する勇気を持つべきだ」と言ったように、ブロークン・ソーシャル・シーンもまた、変化する勇気を持っている。変化したいからこそ環境を変え、シカゴでのレコーディングを決行したのだろう。この音楽から「僕らにはまだ先があるんだよ」という声が聞こえる。「ここで終わらせるつもりはさらさらないんだ」と言っている。彼らの作品は常に野心的だ。でも、とびきりポップ。大人の遊び心と野心を持ったポピュラー・ミュージックなのである。

編集部より:日本盤は5月26日(水)リリース予定。

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 2008年に昼下がりのフジロックで見たジェイミー・リデルのパフォーマンスには本当に驚かされたものだ。(おそらく)本人の資質以上に、過剰なほどエンターテイナー然としたパワフルなソウル・アルバム『Jim』の世界観そのままに、締まりのきいたバック・バンドの演奏に合わせて感情豊かに歌いあげたかと思うと、ラップトップをいじくりだしてバンドの演奏や自らの声を取り込み分解・再構築し、電子音とともにループさせながら放出。小気味いい音の刻みは観客を熱狂させた。<ワープ>の誇る鬼才がどういったセンスの持ち主なのかをショーケース的にも魅せる、圧巻のステージング。この人は何でも出来てしまうんだな、と関心させられた。

 テクノ畑からR&B的な歌ものに転向し異色の道を歩んできた彼は、この2年で更なる変化を迫られたようだ。大きかったのはパリからNYへの転居、そしてベックが最近熱心に取り組んでいるRecord Clubのレコーディングへの参加。その光景はベック自身のホームページで観ることが出来るが、たった一日でクラシックな名盤を丸ごと再現するこの企画は、ジェイミーに限らず参加しているどのミュージシャンもそのセッションを心底楽しんでいる様子が印象的だ。その経験がよほどのインスピレーションを生んだのだろう。彼はそのとき組んだミュージシャンと共に自分の変化を表現することを選んだ。

 既に各メディアで報じられているように、本作『Compass』においてはベックやジェイミー作品の常連メンバーであるチリー・ゴンザレス(むしろ、本当はこの人こそがもっと語られるべきだと僕は思うけど)の他に、レスリー・ファイスト、ウィルコのパット・サンソーンといったRecord Club人脈でもある豪華ミュージシャンの参加が話題となっているが、サウンドの肝となっているのはドラムのジェイムス・ガドゾン(かつてクインシー・ジョーンズのバンドにも参加、過去にはマイケル・ジャクソンやマーヴィン・ゲイともプレイ)と、ベースのダン・ラスチャイルド(シェリル・クロウやMIKA等のライブで演奏)が主に担っているボトム・ラインだろう。

 前作『Jim』が軽快で晴れやかなソウル・サウンドなら、本作の前半に収録された楽曲はねちっこくディープなファンク的要素が滲み出ている。太く柔軟な音の出せるリズム隊とブレイク・ビーツに支えられ、奇抜でハイファイなエレクトロ・サウンドと卓越した生楽器の演奏が飛び出し、そして表現力を増したジェイミーの歌声がもつ存在感は、さながら過去のレジェンド・シンガーのそれに匹敵するようですらある。白眉はやはり、ジャクソン・ファイヴへの露骨なリスペクト精神みなぎる「Enough's Enough」だろう。イントロのひしゃげたキーボードの音色はある種のノスタルジーを喚起させ、ファイストとニッカ・コスタによるコーラスは楽曲にチャーミングな幅をもたせている。最高にファニーな一曲だ。

 アルバムの後半における暗く静謐で、ときにフォーキーなナンバーからは、これまた本作の制作に参加しているグリズリー・ベアーの面々からの影響が色濃く反映されている。既に<ワープ>の20周年BOXにおいてもジェイミーは彼らの「Little Brother」をリミックスしてその愛を表明していたが、ここまで影響を受けるとは正直、意外だった。前作までのファンは、あまりにも赤裸々な彼の姿を前にして、ここで一度面喰ってしまうかもしれない。

 2年間のあいだに彼に訪れた最たる変化が「愛する女性との別れ」であることは容易に検討がつく。この、人間の制作意欲を最も駆り立てる普遍的なテーマは、作中の歌詞においてところどころ匂わせられている。たとえば、先行シングルでもあるエレクトロ・ソウル「The Ring」では"She is just a dream, he is just a dreamer"と身も蓋もないフレーズが何度もリフレインされる。日本国内のメディアの一部は「最高のエンターテイメント」といった賛辞をところどころ寄せているようだが、本作はそういった単純明快な類のものでなく、(青臭い表現を許してもらえば)深く悲しい困難と対峙したジェイミーが、自らの心が次に赴くべき行き先への道しるべとなる「コンパス」を探し求めるあいだの葛藤を複雑なサウンドで描いている。娯楽として楽しむにはやや重苦しくプライベートな作品だ。

 そういう流れがあるにせよ、僕個人としては(クレジットはジェイミー本人になっているが、実質上の)ベックのシリアスすぎるプロデュースは、先にリリースされたシャルロット・ゲンズブールのアルバム『IRM』に引き続き、少し生真面目すぎる気がしないでもない。シャルロットの作品でも彼女及び彼女の父親であるセルジュ(特にベックが無人島レコードと位置付ける名盤『メロディ・ネルソンの物語』)への偏愛ぶりは過剰なほど伝わってきたが、もう少しポップに消化・発露できたのではないかという不満は残った。ここ最近のベックの活動で、かつて「何でも出来てしまった」頃の彼が溢れんばかりにもっていたユーモア・センスがいささか減退傾向にあるのは正直、寂しく思う部分もある。

 とはいえ、ジェイミーの真摯な姿勢には心から拍手を送りたい。一か月の短いスパンでほとんどの楽曲が収録されたとは俄かには信じがたい、緻密でダイナミック、そして彼にしか表現できないハイブリッドな音世界がここでは展開され、さらに今後のさらなる成長をも予感させる。一曲目の「Completely Exposed」で彼は自らの心を(その曲名どおり)完全に曝け出すことを決心し、最終曲の「You See My Light」で愛という名の光明をもう一度見つけなおしてアルバムは幕を閉じる。強い既視感を覚える成長物語ではあるが、だからこそなんとも素敵じゃないか。

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 マンハッタン・ラヴ・スーサイズの主宰レーベル、Squirrelに所属するメルボルン出身の3人組サンデイ・リーズをはじめ、「マイブラ・ミーツ・グランダディ」と評されたこともあるシドニー出身のアイズ・オブ・スペース、チェロを含む6人編成のポストロック・バンド、ラウラなど、オーストラリアには"シューゲイザーの遺伝子"を受け継ぐ良質なバンドが多く存在する。07年にシドニーで結成された、このザ・ブラック・ライダーもその1つだ。彼らは元モーニング・アフター・ガールズの中心メンバー、エイミー・ナッシュとスコット・ヴォン・ライパーによる2人組で、08年からブラック・レベル・モーターサイクル・クラブやザ・レヴォネッツ、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカー等と共に精力的にライヴを行なっていた。日本でも、今年の初め頃からMySpaceの音源がシューゲイザー好きの間でたびたび話題に上がっていたが、今作は、そんな彼らの記念すべきデビュー・アルバムである。

 逆回転ギターのヒプノティックなループに導かれてスタートする冒頭曲「To Never Know You」から、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインの気違いじみたインスト曲「Glider」を連想させるイントロがたまらなくカッコ良い「Let It Go」までは、いわゆる"シューゲイザー・マナー"に則ったギター・サイケデリアを鳴らし、その手のファンを喜ばす。が、以降はさらにディープな世界へ。シャッフル・ビートとオルガンがサイケデリックに絡み合う「Grass」や、ザクザクとかき鳴らされるアコギが印象的な「Gone Without Feeling」などは、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカー辺りのブルーズ・ロックを彷彿させるし、スプリング・リヴァーブにどっぷり浸かったような「The Greatest Fall」や、ひび割れたヴォーカルと口笛が妖し気な「Sweet Come Down」などは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやギャラクシー500、あるいは久しぶりの新作『Through the Devil Softly』を昨年リリースしたホープ・サンドヴァル&ザ・ウォーム・インヴェンションズなどに近い感触もある。最近よくあるニューゲイザー系のバンドの1つ、などと油断していると、あっという間に異次元へと連れ去られてしまう危険な作品なのだ。

 なお、本作にはブラック・レベル・モーターサイクル・クラブのレア・シャピロとピーター・ヘイズ、ブライアン・ジョーンズタウン・マサカーのリッキー・マイミー、元スワーヴドライヴァーのグラハム・ボナーら豪華メンツが参加し、全面的にバックアップ。新人バンドとは思えぬ力作に仕上がった。

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 正直に言って、デッド・ウェザーの1stアルバム『Horehound』は熱心に聞き込んだお気に入りの1枚というわけではなかった。ホワイト・ストライプス、ラカンターズに続いて登場したジャック・ホワイトの第3のバンド。ザ・キルズのアリソン、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのディーン・ファーティタ、ラカンターズからはリトル・ジャックが参加。またしてもスーパー・バンドと言えるメンツが揃った。さて、ここまで豪華なメンバーでどんな音を鳴らすのだろう?ジャックがドラムを叩き、アリソンのヴォーカルが叫ぶ。ブルースを基調としたカッコいい曲が揃ったアルバムだったけれど、そこには想像を超える発見が少なかった。3つめのバンドを結成してまでも鳴らしたい必然性が、あまり感じられなかった。

 だけど、そんな印象もライブを体験した後では、大きく変わる。「ジャックがドラムを叩く姿を見てみたい」という下世話な好奇心も手伝って、僕はZepp東京に向かった。3月31日、デッド・ウェザー一夜限りの来日公演。真夜中の水の底のような暗闇と青のライティングに浮かび上がる凶暴なノイズとブルース。自由なジャムやメンバーのパート・チェンジを繰り返しながら、一瞬も目をそらすことのできない熱い演奏が続く。ジャックは、手数こそ多いが、おかずは少なめで叩きまくる。そのドラムは、ギターと同じように吠えまくっていた。ヒップ・ホップ、クラウト・ロックという言葉さえもアタマをよぎる壮絶なグルーヴ。「第3のバンド」という思いは、2時間後に完全に吹っ飛ばされていた。

 ステージの青いライティングは海。そして、臆病者たちの色。『Sea Of Cowards』と名付けられたこの新作を聞きながらそう思った。アルバムは、来日公演でもプレイされた「Blue Blood Blues」から始まる。シンセサイザーとキレのあるスネアのイントロに導かれて、中盤で一気に爆発する「The Difference Between Us」やブルースとクラウト・ロックが合体した「I'm Mad」、そしてアリソンとジャックのヴォーカルが二重人格のように絡み合う「Die By The Drop」など、ライブでのグルーヴをそのまま封じ込めたナンバーが並ぶ。ディーンのギターとリトル・ジャックのベース・ラインは前作よりも存在感を増し、アリソンのヴォーカルと同調する。

 鋭角な言葉と一体になったリフの嵐。死の天候の中で、仮面を被った4人の臆病者たちが進む海。そこに放り込まれた僕たちは、ジャックの思い通りにブルースに翻弄される。その姿はたぶん、踊っているようにしか見えないだろう。

編集部より:日本盤は5月26日(水)リリース予定。

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 先日、友人のバンドのライブを見に行った。「ホワイト・ストライプスと同じステージに立ったよ」。汗を拭いながら冗談っぽくそんなことを言う彼の後ろには、薄暗い小さなステージが見えた。新宿URGA。ジャックとメグが日本で初めてライブをしたステージは、僕たちにこんなにも近かったんだ。もちろん、僕はその瞬間には立ち会っていない。でも、そのステージに上がる2人の姿が一瞬、見えたような気がした。そこには何ひとつ違和感がなかった。

 2007年の『Icky Thump』発表とその後のツアー以来、活動を停止しているホワイト・ストライプス。みんなが知っているとおり、ジャックはラカンターズやデッド・ウェザーとしてサイド・プロジェクトとは言えないほどの名作アルバムを作り上げ、ライブ活動も休みなく続けている。メグの不在がこんなにも長く続くとは思っていなかった。間もなく発売されるデッド・ウェザーのアルバムはもちろん楽しみだけど、ホワイト・ストライプスの活動再開がいちばんうれしい知らせになるんだろうな。ホワイト・ストライプスにとって初めてのライブ・アルバムとなる『Under Great White Northern Lights』を聞いて、僕はそう思った。そしてドキュメンタリーに描かれているジャックとメグの姿に涙がこぼれた。

 このライブ・アルバムとドキュメンタリーには、結成10周年を記念した2007年のカナダ・ツアーの様子が克明に刻みこまれている。ジャックとメグの間合いだけで成り立つスリリングで圧倒的な熱量の演奏。時に暴走するかに思えるジャックの演奏にも、メグはプリミティヴなビートでしっかり応えている。崩れ落ちる寸前、爆音の中で確かめ合う2人の眼差し。そして2人だけのブルースは成立している。

 ドキュメンタリーでは、ジャックとメグの「眼差し」そのものと言える関係が描き出されている。小さな町でのシークレット・ギグ、何気ない会話を交わす2人のオフ・ショット、旅先での様々な出会いなどから、ホワイト・ストライプスが音楽に立ち向かう姿が明確になる。もはや姉弟というギミック、恋愛という関係性すら超越してしまったブルースが結びつけた運命。それは呪縛かもしれない。だからこそ2人が離ればなれにならないためには、お互いの存在を確認する「眼差し」が大切なんだということ。

 ジャック・ホワイトがロックの歴史に永遠に名を残すことは、間違いない。そのジャックの才能に見出され、圧倒されながらも、音楽そのものに「選ばれてしまった」とも言えるメグの姿が愛おしく、切ない。やっぱりメグがいないとホワイト・ストライプスじゃないから。お互いの運命に寄り添うような2人だけのラスト・シーンがとても美しい。

 日本の小さなライブ・ハウスで、まだそれほど有名じゃないホワイト・ストライプスのギグが始まる。自信満々のジャックに手を引かれて、ステージに上がるメグ。そして、視線を交わしながらブルースを鳴らし始めた2人。いつかきっと、そんな感じで戻って来てくれるはず。もう一度、ホワイト・ストライプスの音楽が鳴り響く日を待っている。

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 まさか、これほどまでの完成度だとは!

 デロレアンは2000年代初頭から活動を開始した、スベインはバスク地方の4ピースだ。これまでに『Delorean』(2004年)と『Into The Plateau』(2007年)という2枚のアルバムをリリースしているが、その内容は当時の80'sリヴァイヴァルのシンセ・ポップ・バンドが雨後の筍のように現れた中において、決して突出した内容とはいえなかった。

 しかし、昨年リリースされた3曲(とボーナス・トラック)入りの「Ayrton Senna」EPで彼らはまるで別バンドになったかのように大きく変わった。90年代のハウスやテクノとニュー・オーダー風のシンセ・ポップを下敷きに、ファンキーなベースやストーン・ローゼスを思わせるようなギター、女性コーラスなどを組み合わせた楽曲。それは完璧なダンス・ミュージックだった。その幾重にも層を成す音のレイヤーの重ねぶりは、カット・コピーの『In Ghost Colors』を思わせる充実ぶりなのだから。しかも、このころからザ・ビッグ・ピンクやレモネードなどの楽曲をリミックスし発表、その完成度の高さも追い風になり、徐々にネットメディアやブログを通じて彼らの名前が広まっていった。

 そして、ついに届けられた3枚目のアルバムが『Subiza』だ。昨年の夏にレコーディングされたこのアルバムはもちろん、「Ayrton Senna」EPの延長上といえる音楽性。だが、そのレイヤーの数と複雑さは更に増している。例えるなら、アニマル・コレクティヴの『Merriweather Post Pavillion』。だが、アニコレが密室的でサイケデリックなのに対し、デロレアンは開放的でエキゾチック、まるで地中海の海辺の風景をそっくりそのまま切り取ったかのようで、ただただ美しい。

 ダブステップのビートを配した「Stay Close」でアルバムは幕を開け、続いてオールドスクール・ヒップ・ホップ風の「Real Love」、レイヴの高揚感をたたえた「Infinite Desert」など、トラックごとにビートやサウンドは様々な表情をみせる。だが、シンセやギター、キーボードに加え、ハンドクラップやサンプリングされた子供の声などのマテリアルを配したサウンドは一貫してイノセントでポップだし、シンガーのエクヒ・ロペテギ(Ekhi Lopetegi)の澄んだ歌声がとても心地よい。そう、バリアレック・リヴァイヴァルやインディー・ダンス...といったカテゴリーの枠には決して収まらない、広大なスケールのダンス・ミュージックが『Subiza』には広がっている。

 もうすぐ夏が来る。だが、こんなに心躍る夏のサウンド・トラックを手に出来た今年の僕たちはとてもラッキーだ。

編集部より:日本盤は6月23日(水)リリース予定。

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「不安も苦悩もないけれど、何かが足りない」。そんな思いに、ふと駆られたら「360°Sounds」EPを聴こう。イルリメは日々の中で忘れていた種の楽しみの心地や、すっと胸がすく気持ちを、粘土をこねるように音にして、ひょいっと僕らの前に差し出してくれる。そして聴くと思い出した気持ちになる。音に込められた豊かな心地を僕は忘れていたんだ、と。

 ジャンルで言えばヒップ・ホップなわけだけど、それはあまり関係ない。ファンク、エレクトロニカ、テクノ、ジャズなど様々なジャンルの音楽性を持つイルリメが、最終的にヒップ・ホップというカタチに落ち着いているだけで、重要なのは谷川俊太郎の詩のように石ころだろうと愛だろうと、かわいらしく、でもそれらのありのままの姿を提示するところにある。ジャンルなんて関係ない、という言いは時として陳腐なものになりがちだけど、いや、やっぱり関係ないんだと、本作を聴いていると思えてしまう。

 人気曲「トリミング」を再録。「とらべるびいつ」はYSIGのモーリス氏が参加。「Hello Mellow」はキリヒトの「君にメロメロ」をサンプリングした楽曲。それらを含むEP、全5曲。爽やかな声質の、韻を踏むことを過剰に意識しないリズミカルなライムがメロディアス。雪が溶けるように耳にすうっと入ってくるサウンドは心地が良くて、強すぎず弱すぎずのビートが高ぶった感情の温度を静かに下げてくれる。ここには怒りや哀しみを思わせるサウンドの一切がない。だから寝間着で聴いてもいいようなリラックスした音楽であるとともに、聴き手は高度な音楽性をも同時にリラックスしたまま聴けるのだ。

 この音楽は傍観者の視点で客観的に眺めるよりも、音の中に身を置いた方がずっと楽しい。本作をiPodに入れて外を歩けば、いままでどこかに置き忘れていた、あるいは見過ごしていた楽しみに気付けるんじゃないか。そんなふうに思えるほど360°の視界が開けてくる。そしてまた、本盤は個人の気持ちをふわりと浮かせることにおいても重要な意味を持つようになった今日的な音楽だと僕は思う。もちろん悪い意味じゃない。ヒップ・ホップだからといって毛嫌いしている方にこそ聴いてほしい。本盤は、ヒップ・ホップはアメリカ黒人音楽だとか、ジャパニーズ・ヒップホップは邪道だとか、そういうことは全然関係ないんだと思えるポップ感に溢れる。

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 マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、チャプターハウスが再結成に沸くなか、当時のシーンのなかで後続(特にエレクトロ方面)に与えた影響、という意味では恐らく最も大きいスロウダイヴの編集盤。コクトー・ツインズから耽美さを薄め輪郭を曖昧にして、幻想を生み出す1st『Just For A Day』、メロディが際立ち甘美さが増した2nd『Soulvaki』、エレクトロ方面に大幅に移行した3rd『Pygmalion』、そしてシングル3枚、EP2枚から。
 
 音源を振り返り感じさせられることがある。乱暴に言うと、バンド・サウンドでいうところの、彼らの音楽に影響を受けたシガー・ロスを筆頭とする(シガー・ロスを筆頭としてしまうのも語弊があるが、あくまで音の感じとして...)いわゆる音響系とも呼ばれたバンド群は、"荘厳さ"を伴ったり、"壮大さ"を纏ってい る印象がある。洗練されたイメージ。
 
 しかし実は彼らは違う。ぜひ初期のシングル3枚、そして前述の『Just For A Day』のジャケットを見て欲しい。まさにそんなイメージ。霧で覆われた洞窟から抜け出せないでいる音。現実と幻のあいだにあるような、まるで三途の川で流れているかの感覚は、1曲目から最後まで一貫しているといえる。そんな世界を覗きたくて、この音源に手を伸ばす。浸る、というより、覗く、漂う。
 
 90'sオリジナル・シューゲイザーの再評価がされて久しいが(90年代後半から2000年前後にはどのCDライナーノーツを見ても、そんな言葉は死語として避けられるか、否定的な文脈で語られていたように思える)、当時の市場の規模は小さく、普遍的に語られるべきバンドなんて実際ほんの一握りだと思っている。そんななかでも、現在のシーンを考えても最も知られて欲しいバンドだと思っている。

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 ミシガン州のカラマズーを拠点に活動するクラッシュ・シティ・セインツは、ジョシュア・ガーマンとクリス・ワーハマキの2人のギタリストに、レコーディングやライヴ時のメンバーで、紅一点女性ヴォーカルであるエイプリル・モリス、マット・マッサッチ、ネイサン・ガーマン(ジョシュアの弟)の3人を加えた5人組。本作は、彼らが07年にリリースしたシングル「Returner」の全収録曲と、08年のファースト・アルバム『The People Were Even Stranger』からチョイスした8曲に、書き下ろしの新曲「Broke」を加えて新たにマスタリングし、クインス・レコードよりリリースされた世界デビュー作である。

 米国には初期リリーズを筆頭に、轟音番長スコット・コルツの1人ユニットであるアストロブライト、先日奇跡の来日を果たしたフリーティング・ジョイズ、もうすぐファースト・アルバム『COLOUR TRIP』をリリース予定のリンゴ・デススターなど、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(MBV)の影響をダイレクトに受け、それを何の衒いもなくアウトプットするバンドが数多く存在する。「僕らはケヴィン・シールズへのリスペクトを、一度たりとも忘れたことはない」と公言するクラッシュ・シティ・セインツも、その一つと言えるだろう。「『Isn't Anything』に対する返答」と自負する「Every Face Is A Mirror」をはじめ、『Loveless』移行期のケヴィンが書きそうな切ないメロが印象的な「Council Of Elders」、さらにはMBVの「Only Shallow」を思わせるリフと、コルム・オコーサク(MBVのドラマー)ばりの機関銃ドラムが効いた「Returner」など、「どんだけ好きやねん!」と思わず突っ込みたくなるような、ぶっちゃけて言えば"まんまMBV"な楽曲がズラリと並んでいる。それでも憎めないどころか、たまらなく愛しい気持ちになってしまうのは、先に挙げたバンドと同様、そこにはMBVへの"狂おしいほどの愛"が込められているからだろう。ちなみに本作の中で重要な要素となっているのが、紅一点エイプリル・モリスのヴォーカル。MBVのビリンダ・ブッチャーというよりは、カーヴのトニ・ハリディやコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーにも通じる耽美で妖艶な歌声が魅力だ。

 シングルやアルバム収録曲、書き下ろし曲の寄せ集めなので、アルバムとしてのトータル性が希薄なのは正直否めない。しかし、彼らのソングライティング能力の高さを知るにはマストな一枚と言えるだろう。今後が楽しみのバンドだ。

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 ほとんどの音楽は、聴く前から大体どのような音なのか、なんとなく分かっているものが多いと思えるが、もし、破滅覚悟の気持ちで、そして暗闇に身を投げる度胸でもって未知の音楽体験をしたいと思う人がいるならば、僕は迷わずこの作品を薦めたい。本作もまた、破滅する覚悟を持つアーティストの音楽だ(クッキーシーン読者にそういう音楽を求めている方が多いか分からないけれども...)。  

 聴けばたちまちのうちに心揺さぶられ、飲み込まれ、放心寸前の心地が胸の深くから湧いてくる。唯一無二のビート・メイカーかつ西海岸アンダーグラウンド・シーンきってのプロデューサー、マッドリブが別名義で創りだした『Slave Riot』、それはまさに、今まで以上に緊迫の色が濃いインストゥルメンタル・ミュージック。重心を低く保った重量感のあるグルーヴにはまり、四方八方から聴こえてくるパーカッションが思考の弛緩を誘う。ファンキーなベース音や妖しげなサックスとストリングスが鼓膜に飛び込み、その魅惑的な音の全てが辺りの重力を歪ませる。一瞬でも気を許せば夢遊病者と化すであろうサウンドに痺れる53分。一気に聴かせる。

 これはちょっとBGMとしては聴けないな、という感じであり、面と向かって一対一で聴くべき音楽だ。決して歌心に溢れているとは言えないが、「え?」っとなったり「お?」っとなったり、はたまた「ん?」っとなったりと、奇妙キテレツな音色に溢れているものだから突発的な新鮮性に驚き、ざわめき、聴いているうちにもっともっと音が欲しくなる。中毒性がある音楽とはこのことかよと驚愕した。クールでいて危険な香りがエキサイティングであり、狂乱、乱雑、それらが醸し出す不謹慎とも言える快楽に焦がされる。しかも耳を近づければスウィング感が十分あるのだ。

 マッドリブはイエスタデイズ・ニュー・クインテット名義でクラブ・ジャズ的な音楽も、ジャジーなヒップ・ホップも発表しているが、この作品でフリーに突入し、自由という名の束縛の中で自分は一体どれだけできるのかと賭けに出た。それが伝わるからなおさら痺れる。僕は乱れろと言いたい。マッドリブの過度期にあたるであろう本作で乱れなさいと。そうして訪れるは狂乱の渦に焼かれる快感。痺れが止まらない。

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「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」
「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」
「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」
 
 これらは「虹色の戦争」の歌詞の一部分で初めて聞いた時からこの歌詞の部分のインパクトがすごくて頭の中で巡る、巡る、めぐる、廻る、メグル、巡って脳内リフレインした。

「貴方が殺した自由の歌が僕の頭に響く」「貴方が殺した自由の歌は貴方の心に響いていますか?」「貴方が殺した命の歌が僕の頭に響く」って巡る。

「世界の終わり」の『EARTH』のアルバムのジャケットはバンド名「世界の終わり」をローマ字表記したもので「SEKAI NO OWARI」とある。

SEKAI
NO
OWARI

 で「NO WAR」って部分が虹色でデザインされていて、それがメッセージだったと気付いたのは買ってしばらくしてだった。すごいネーミング。

「世界の終わり」のイメージって最終戦争とか、大事な人が奪われたりいなくなったりこの世界が崩壊して彩りを失うことを意味するのに、ローマ字にして虹色で「NO WAR」が隠されている。この精神は何だろうかと僕は思った。それによりさらに彼らに興味を持った。何度も繰り返してアルバムを聴いた。

 世界を終わらさないための「NO WAR」であるのが本当の意味での彼らのバンド名なのか、意図的なダブルネーミングか。だとするとこのバンドはかなりひねくれててアイロニーもたっぷりだ。期待値が上がってくる、どこまで行くのか。

 どこまで本気で世界を変えようとしているのか、戦おうとしているのか、ポップなメロディにそれに反するような歌詞や言葉がそれらに乗って聞き手の中で巡り、その意味を考えてしまう。

 ツイン・ギターにピアノにDJという四人編成でそのDJはピエロのお面を被っている。しかも名前は「LOVE」で二代目だそうだ。メンバーのインタヴューを読むとヴォーカル・ギターの深瀬慧は中学もほとんど行かず、その後に二年間アメリカに留学するつもりが二週間でパニックになり、その後精神病院に入り退院し音楽を始めている。

 その後、プロ・ミュージシャンになるよりもライブハウスを作るよう方が簡単だとバンド結成よりも前にライブハウスを作り活動を始めた。そこに集まったメンバーが今の四人であり、深瀬の学歴もなく、将来に対しての不安や夢も希望もない状態、そして「死にたくない」というもの、それらの危機的な絶望的な状態からの「生きる」という理由を探し、もう一度歩き出すために考えに考えた末の決断がライブハウスを作りバンドを始めることだった。

 ライブハウス「EARTH」にはスタッフが15人いるらしい。彼らはひとつのコミュニティである。「世界の終わり」というクリエイティブカンパニーでもある。

 同じ意志を持ったコミュニティとして世界と向き合おうとしているような感じがする。この感覚はとても正しいのでないかと思う。グローバリゼーションが破壊したある意味での経済活動やインタネーットの普及で変わってしまったクリエイティブの表現の中で僕ら個人は戦うものが多すぎるし、孤独だ。

 その孤独を武器に世界に自らを表明する創造的表現をしていくのか、あるいは集団としてカンパニーという仲間と共に世界に向かい合うかという選択ぐらいしかないのかもしれない。

 大きなレコード会社だとかを抜いてしまい、自分たちのカンパニーで今までだったらレコード会社がしていたことを自らの手でやり、活動していくというのが「テン年代」(by 佐々木敦)のスタンダードな音楽活動になるのかもしれない。

 それがスタンダードになるのなら彼らの鳴らす豊潤な音楽と刹那的にも思える歌詞の相互作用により多くの支持を得ていくバンドになるだろう。このアルバム『EARTH』はその「世界の始まり」になるはずだ。極めて「テン年代」的な、このディケイドを代表するバンドになる可能性が高いと思う。彼らがこの先どう展開していくのかが楽しみだ。

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「ガールズ」や「ドラムス」など検索し難いバンド名が流行中(?)の昨今だが、このバンドもちょっと検索し難い。彼らの名はマーチング・バンド。スウェーデンのリンシェーピン出身の、エリックとジェイコブという2人の青年によるユニットだ。本作は、各方面で絶賛されたファースト・アルバム『スパーク・ラージ』に続く2ndアルバムで、エド・ハーコートやカメラ・オブスキュラ、コンクリーツの作品で知られるヤリ・ハーパライネンがプロデュースを手がけている。美麗なピアノで幕を開ける「ANOTHER DAY」から、ほとんど産業ロック(?)なギター・ソロがフューチャーされた「OKEY」まで、前作よりもアレンジの振れ幅が広がり、聴き手を飽きさせない構成になっている。もちろん彼らの持ち前のキラキラした美メロは健在で、二人のヴォーカルのハーモニーもバッチリ。同郷のローニー・ディア辺りにも通じる、丁寧に作り込まれた楽曲群は、インディー・ポップ・ファンのハートを鷲掴みにして離さないだろう。

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「書を捨てよ、町へ出よう」とはいったもんで、引き籠ってばかりじゃあ頭でっかちになるばかり。おまけに人との会話も億劫になってしまうから困ったもので、「書を捨てよ、町へ出よう」に賛成だ。町へ出て、色々なことを体験した方が良い音楽作れそうだし。ところがどっこい、数学博士でもあるダン・スナイスことカリブーは、まさに部屋に閉じ籠る音楽オタクなのだった。

 オタク属性特有の「できれば分かってほしいけど、分かってもらえなくてもかまわない」という、音のこだわりをもってして、もともとは純粋と言えるエレクトロニカを奏でていたが、作品を発表するたびに音楽性は変化し、それはエレクトロニカ・シューゲイザーであったりサイケデリック・ロックと表してもいい作品だったりした。そのどれもに彼の音マニアとしてのこだわりとシューゲイザーへの愛が刻印されていた。

 本作『Swim』はダンス・ミュージックではあるものの、それは表面上だけで彼の音マニアとしてのこだわりは絶対的なまでに貫かれている。しかしダンス・ミュージックという非常に分かりやすい要素を取り入れたことで、彼の「分かってもらえなくてもかまわない」というオタク的スタンスは崩壊し、リスナーの「うん、分かる、分かる」という共鳴を生んだ。と同時に、同じオタク属性の、音マニアからも支持を受ける結果となった。もしリスナーを強引にクラバーと機材オタクに別けたとしても、本作はその両極端のリスナーを同時に包容してしまうほどに作り込まれた音とダンサブルな音に溢れる。そこにこの音楽の魅力がある。

 同じく音マニアのフォー・テットと比べてみるに、両者の違いはジャズをルーツに持つフォー・テットが豊かな演奏技術に裏打ちされた音楽性を押し出す中、カリブーは部屋に引き籠り、うんしょ、うんしょと、脳内世界を具現化しようとしている感じである。いわば、仮にフォー・テットが体育会系ならばカリブーは理系である(実際に数学博士なわけだが)。ひょろひょろで肌は青白く、太陽は僕の敵という感じの、絶対クラブに行かなそうな音楽オタクが脳内で奏でるダンス・ミュージックがここにある。それはピンク・フロイドの1stのように甘美であり、わずかに狂気の香りがする。

編集部補足:日本盤は6月16日(水)リリース予定。

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 今作はノルウェー出身の新世代シューゲイザー・バンド(ニューゲイザーではなく)、セレナ・マニーシュの4AD移籍後、初のアルバム。

 最初にアルバム全体を通して聴いた時に、前作との作風の変化に驚きました。端的に言うと、セルフ・タイトルを冠した前作よりも、はるかに耽美的で閉鎖的。

 もともと、シューゲイザーからの影響を公言していたけれど、それを執拗に押し出すのではなく、あくまでサウンドの一要素として取り入れていた彼ら。中心人物でありギタリストのエミール・ニコライセンと、その妹でありベーシストのヒルマ・ニコライセンは音楽家一家に生まれたこともあり、ロック以外の音楽からも影響を受けており、その雑多なバック・グラウンドをヴァイオリンやオルガンのパートもいるこのバンドで鳴らすことによりカオス的になり、それが結果的にシューゲイザー・サウンドとして成り立った、と言った感じでした。デビュー・フル・アルバムである前作を聴いた感触としては、シューゲイザーと同時に80'sポスト・パンクやゴス周辺のようなカラーを前面に打ち出しているな、と思いました。

 このアルバムは、その前作から垣間見えていた、そういった要素をより色濃く表したアルバムと言えましょう。もちろん、あえてジャンル区分をするのなら、やはりシューゲイザーとなるとは思いますが、その一方でザ・ホラーズにも決して引けを取らないような耽美的なサウンドに仕上がっています。確かに、前作の雰囲気からこう言ったサウンドになることは、少しながら予測はできたとは思いますが、自分のような多くのリスナーはやはり困惑してしまうのでは、と心配してしまうところでもあります。これはやはり耽美派の総本山とも言える4ADに移籍したこともたぶんに影響しているのでしょう。

 厚い雲がたれこめて、雷鳴が鳴り始め時のような不穏なこのアルバム幕開けを飾るインスト曲「Ayisha Abyss」。その嵐が去った後に、まだ降り止まぬ雨の中を駆け抜けて行くような「I Just Want To See Your Face」。やはりこの始まりの二曲の展開が、アルバム全体を表すカラーであり、自分達のスタンスを今一度示しているかのようです。中盤の「Melody For Jaana」や「Blow Yr Brains In The Morning Rain」の酩酊感は隣国、デンマークのザ・レヴォネッツもたじろぐほどで、「Honeyjinx」はソニック・ユースの「Shoot」を彷彿とさせます。

 書けば書くほど、カオスさが浮かび上がる今作。アルバム全体を通して聴くと、前作よりまとまった印象を受けますが、かといってリスナーに歩み寄った、聴きやすいサウンドかと言えば、そうではなく、あくまで今の自分達のスタンスを突きつける色合いが濃いように思います。今作の歪つなまでの酩酊した耽美さも良いですが、前作ではシューゲイザーやポスト・パンク的ながらポップ・ソングをところどころに散りばめていた彼らなだけに、次作は再びそう言ったサウンドも思い返してくれると嬉しいな、と感じたり。

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 2009年にリリースされたアルバムも素晴らしかった、イッツ・ア・ミュージカル(It's A Musical)や、ボビー・ベイビー(Bobby Baby)名義でも活動しているスウェーデン人女性ヴォーカリストエリノア・ブリクシ(Ellinor Blixt)と、いわゆるエレクトロニカ・アーティスト、F.S.ブルム(Blumm)というドイツ人ベテラン・ギタリストによるデュオ、ボビー・アンド・ブルム名義まさかの2作目。続編が出るとは思わなかった。

 良質なインディー・ポップを量産しているMorr Musicの諸作の中でも異色といえるほど、リラックスしたムードに溢れた良盤だ。決して生演奏だけにこだわった作品ではないのだけど、部分的には室内楽と言ってもいいような、落ち着いたエレガントな雰囲気にあふれている。

 F.S.ブルムのエレクトロニカ系のプロダクションは、リバース再生などが所々にちりばめられているがかなり抑えめな印象だ。フェンダー系のギターの音もノン・エフェクトじゃないかというほど生々しいクリーン・トーンで録られている。

 エリノアのヴォーカルのかすんだ質感もすごく良い。イッツ・ア・ミュージカルの時の様な張った唄い方も良いのだけど、このアルバムでの深呼吸の様なリラックスした唄い方の方が彼女の本来の持ち味だと思う。

 流す程度に聴いていたら、「Seascape」の最後、ベースの余韻がフェード・アウトせずに、10秒以上しっかり収められているのを、じーっと聴いてしまった。一度に鳴っている音数も少ないので、ひとつひとつの音に自然と意識が向くのだろう。「Take A Sip(NO.2)」後半の、16分音符5個取りのシーケンス・パターンも、ポリリズムを強調するでもなく、音量抑えめでそれだけが際立たないよう注意深くに配置されている。エレクトロニカ的と思える箇所はほとんどなく、アルバム通じてライヴ・バンドのようなナチュラルさだ。全編通じてチェレスタの音がすごくきれいに録られているのが印象的なのだが、これって本物なんだろうか。実物を見たことがないんだけど。

 このアルバムを入手したのは、4月半ば、異様に雨の多い春だったのだけど、ある日、部屋で鳴るこのアルバムをBGMにベランダに出てぼんやり三軒茶屋の景色を眺め、この曇った空のちょっとけだるい感じと相まった、ナチュラルでリラックスした雰囲気に浸っていた。しばらくすると、iTunesが別のアルバムを再生し我に返った。以来、何人かの友人に聴かせたところ、晴れてる日に緑道を散歩するときにこういうのを聴きたいだの、自転車に乗ってちょっと遠出してみたくなるだの、喫茶店で死ぬほど聴いたボサノバなんかがかかるよりこういうのがかかると良いのに、などという感想を僕にはずかしげもなく語ってみせた。なんか木漏れ日っぽい音楽だよね、と言った人もいた。いい歳こいた人間を、こういう感情に駆り立てるのだとしたら、これほど危険な音楽はない。

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 いとうせいこう氏がヒップホップ黎明の時期に発表した「Mess/Age」という曲は知っている人も多いだろうが、それは70年代の後半にNYで誕生して、USで80年代以降に台頭したヒップホップの持つ内在的なややこしさ、切実さ(例えば、人種差別の壁や経済格差の問題)を形式的に、ラングとパロールの対立軸を脱構築して、問題性から日常的抽象性にスライドさせた意義として大きかった。

 社会的に共有される言語上のコードと、個人的側面の言語運用の解析をした結果、日本ではゲットー的な何かとは、「仮想化」されるべきものでしかない部分もあり、ハードな表現するには、どうにも「大文字の他者(Grand Autre)」が許さなかった。としたならば、小沢健二&スチャダラパーの「今夜はブギーバック」やフィッシュマンズ「Baby Blue」の「何も言ってなさ」が現在進行形でずっと残り続ける意味は容易に解析出来るだろう。

 つまり、日本という磁場で「何かを言う」には「何も言わない」周到な自意識の回避が付き纏うということである。集団的な自意識をポスト・コロニアル化してくる大きな言葉や物語に当惑している時間よりも先に、積極的に「Mess=混乱」「Age=世代」として切り分けるしかない導線の上での綱渡りを試行する為には積極的に「黙る事も雄弁」であり、ラカン的に、どうやっても言葉では現実そのものは語れないが、同時に、人は言語を用いないと現実を切り取れないからだ。人が言葉と出会う事は、「不可能なもの」だ。

 98年にデビューしたSpangle call Lilli lineが10年以上に渡って創り上げた音像には美しさと静寂が同居していて、エレクトロニカとバンド・サウンドの有機的な組み合わせとポスト・ロック性、は軽佻浮薄な日本の音楽シーンの中でエコーのように現前し続け、その雄弁な沈黙の行間から滲み出る意味はとても批評的だった。また、例えば、僕のような、シカゴ音響派勢で言うトータス『Tnt』、ザ・シー・アンド・ケイク『Oui』、サム・プレコップ(Sam Prekop)『Sam Prekop』、タウン・アンド・カントリー『It All Has to Do with It』辺りの質感を愛する者にとっては、彼等のセンスの良さと、声の小ささにはいつも胸躍らされたし、日本では貴重な存在だという認識を持っていた。

 12年目に入った今年、その沈黙がどんどん大きな声にアンプリファイドされていっている事を感じる。先ず、相対性理論の永井氏をプロデューサーに迎えてのシングル「dreamer」のポップさと麗しさは今までにない開け方があり、それまで門外漢だった人たちも多く巻き込んだ。ちなみに、僕は相対性理論というバンドも小声の素晴らしさを持つバンドという印象があり、そこに鏡像性を持ち込むか、「対象a」的に捉えるかしかない部分があり、オタクやサブカル文脈で回収される意味が分からない所があるのだが、今回、永井氏とSpangle call Lilli lineの化学反応がとても良い形で、健康的な奥行きの深さをもたらすことになったのは、素直に嬉しかった。そして、セカンド・アルバム『Nanae』以来、8年振りに組んだ益子樹氏と組んだ新作の『View』はとてもユーフォリックで祝祭的な輝きを放っている。アッパーで派手な幕開けを示す「eye」、カントリー調のリラックスした「Shower Beige」。その他、これまでの彼等の持ち味が存分に発揮された曲が陽的に提示されているが、いつも通りの浮遊性とポップ感に、今回は大人の成熟、色気が加わっているのは大きい。今までに比べ、ボーカルの大坪女史のキーを抑えた歌唱が効いているのかもしれないが、全体に独特の艶美さがある。そこに、益子氏が意図しただろうストリングスが大胆に絡んでくる快楽は大きい。ともすれば、アルバム・リーフ、カイト(Kyte)の新作との共振さえ感じるこのドリーミーなムードはなかなか稀有なサウンド・センスを持っていると思うし、これだけポップに開けながらも、やはり限りなく小声な佇まいも素晴らしい。

 6月にはtoeの美濃氏と組んだアルバム『forest at the head of a river』が早速リリースされる。その前に、リキッド・ルームでのライヴがあるが、そこで当面のライヴ活動自体の中止を宣言しているので、とても自覚的な形でのこのリリース・ラッシュと作品の方向性の舵取りを決めたのだろうが、この充実振りを看過するのは勿体ないと言える。

『View』には劇的に世の中を変える大袈裟な仕掛けもこれみよがしなフェイクもないし、大きな意味は無く、彼等の来し方をずっと愛してきた人にはささやかなプレゼントのような作品かもしれない。ただ、3D映像用の眼鏡のような現実を仄かに浮かび上がらせるスペクタクルがある。そのスペクタクルは巷間に溢れるダイナミズムの力学を忌避する類のものであるのは言うまでもないだろう。

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 シカゴ音響派でこそないが、ボニー"プリンス"ビリーことウィル・オールダムといえば、あの界隈における仙人のようなSSWである。外見も仙人さながらなのだが、フォークやカントリーから半身ぐらい乖離した(脱線しすぎるとかえって胡散臭くなる。その塩梅が素晴らしい)独特の孤高感と距離感がまた仙人的なのだ。悟りや真理に指先で触れたかのような神秘さまで孕んでいる。
 
 ここ数作において、曲に明るみが増したり、トータスとカヴァーアルバムをドロップしたりなど、彼のサウンド・スケープには静かな変容が伺える。今作もまたカイロ・ギャング(事実上エメット・ケリー)とのコラボレーションという名目(オリジナル盤のアーティスト表記はBonnie 'Prince' Billy & The Cairo Gang)ではあるが、エメットは既に二枚のアルバムに参加している。極端に言えば「なにも今更そんな名義で出さなくても、エメットがいるのは当然というか...」という心境で新譜に臨んだのだが、確かに違う。コラボ名義でドロップする意義が大いにある。
 
 今作では、ほっこりする暖かさが見え隠れしている。彼らの談笑がどこからか聴こえる。ボニー特有の内省的な姿勢は健在しているが、彼らの間でその厭世を相互理解したような、一種の温もりがある。「仲間しか知らない秘密基地」の共有意識に似ている気がする。
 
 実は歪んだギターがそれなりの割合を占めている。やはりクリーンな音色の方が美しさを想起させるのが常なのだが、どうしてかボニーの楽曲は、ロジックを跳躍して美しく響くことがある。元々私達自身が歪んでいるから、なにかとシンクロする部分でもあるのだろうか。なんにせよ、言語化できない神秘性が潜んでいる。

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 ラヴ・イズ・オールのポップの定義は明確だ。キャンキャン歌う女の子のヴォーカルが飛び跳ねる。とどのつまりはその一点。「もっとハイに! ポジティヴに!」と言わんばかりの歌声とギター、ベース、ドラムス、サックスのスピードに乗った演奏が突っ走る。一切ロウに入ることのないハイなテンション。夢にまで記憶が残る鮮烈なサウンド。もしこの音楽を辞書でひくなら出てくる単語はストレート。

 その姿勢はアロハやオーウェンなどで知られるレーベル、Polyvinylに移籍し、発表した3rdアルバムとなる本作『Two Thousand & Ten Injuries』(初国内盤化)でもぶれていない。デビュー当初はポスト・パンク・リヴァイヴァルと評され、2ndアルバムではガレージと評されたスウェーデン出身、男4人女1人の彼ら。ポスト・パンクやガレージの要素を残しつつ、エレクトロの要素を取り入れ、わずかにシューゲイザーも取り入れ、なおかつ凝ったサウンド・エフェクト、立体的なミックスが功を奏し、本作では、もはやムーヴメントに収まらないほど音楽性のふり幅は広がった。が、しかし、やはり真っ先に耳に飛び込んでくるのはキャンキャン、ポップな女の子ジョセフィーヌのヴォーカルだ。

 アート・ブレイキー並のドラミング、フリー・ジャズを思わせる歪んだサックス、すっとんきょうなギターが、ジョセフィーヌの歌声に絡みつき、整頓されないまま飛び出てくる。ぶっきらぼうだがそれがいい。愉快痛快とはまさにこのこと。あえて例えれば、ヤー・ヤー・ヤーズの1stアルバムをキュートにしたような作品だ。

 ラヴ・イズ・オールはトーキング・ヘッズにも、TVオン・ザ・レディオにもなれる素質を持っている。しかし彼らはそうならなかった。それはあくまでも自分たちのアイデンティティは、苦労も苦難も高らかに笑い飛ばしてしまうシンプルなポップ性だという自覚がはっきりしているからなのだ。ゆえに聴くたび真っすぐ耳に飛び込み、スカッとするしグッとくる。メロディをわずかに崩し、ちくりと刺す程度の毒っ気ある歌声を忍ばせているところもグッド。ネガティヴな物事のみではなく、ネガティヴ思考が渦巻く現代にあって、本作はネガティヴ思考をも実にチャーミングに蹴散らしてしまうのだ。そこにまた、スカッとする。

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 ドゥルーズの言い回しに「逃走線」という言葉がある。

 諸々の逃走線は社会野のリゾーム、地図作成法となっており、それは脱領土化の運動と同じものであり、自然への回帰では全くない。もっと言うならば、欲望の編成行為のエッジと言える。故に、諸々の逃走線は必ずしも革命的であるわけではなく、反対に権力装置が縛りまとめるものである。そこで、彼は「戦略」を持ち出す。戦略とは、逃走線に対し、その統合や方向付け、そして、収斂や分岐に対して、二次的でしかない訳だ。欲望とはまさに、諸々の逃走線の中にある、流れの統合と分離である。欲望は逃走線とは、区別される。アントニオーニの「欲望」を想い出すまでもなく、そもそも欲望はとても不条理なものであり、その不条理なものを装置的に囲い込むのが社会システムと言えるとしたならば、マシュー・ハーバートが試みてきた数々の実験と果敢なチャレンジはどのような成果をもたらしたか、を敷衍して考える余地はあるかもしれない。

 現在進行形で常々動く、彼の長い歴史の説明は寧ろ必要がないかもしれない。

 ただ、簡単に纏めると、ビョークの『Vespertine』のプロデューサーに起用されてから、その後のリミックスでの優秀な仕事、ドクター・ロキット、レディオ・ボーイ名義など様々なものをスキゾに縦横無尽に渡りながら、ハーバート名義での3作目の01年の『Bodily Functions』でシーンを揺らがしたのは記憶に新しい。この作品により、クリック・ハウス文脈からも称賛を受け、また、生活音を取り入れコラージュをする手腕、プリセット音を使わない職人的な音作りや美麗なサウンドレイヤーへの意識への高さからも、注目を浴び、彼を絶賛していたジャイルス・ピーターソンの名前を挙げるまでも無く、世界的な評価を得た。特に、「Audience」に至ってはよくFMで聴いた(日本でも、かのKREVAも自分のラジオでお気に入りでかけていた)。その後、室内楽的ビッグバンドへ接近した03年の『Goodbye Swingtime』、05年の食品産業へのアイロニーを込めた『Plat Du Jour』、06年の会心作『Scale』など常にぶれのない姿勢を続けてきた。

 余談だが、僕個人としては、彼の音響工作の妙とダイナミクスの力学を端的に示すのは『Bodily Functions』も勿論なものの、実は、リミックス・ワークを纏めた02年の『Secondhand Sounds』といまだに思っている。何故なら、リクルースからセルジュ・ゲンズブール、更には自身のワークまでを跨ぎ、独特の揺らぎと美麗さを極めたサウンド・コンクレートの為され方はここに凝縮されており、ある種、以前/以後の彼の音像を「規定」した作品群がおさめられていると言えるからだ。それにしても、どのワークにしても、どこまでも美麗でソフトな手触りの音、ダブやクラシックやジャズを参照点にした上手な咀嚼の仕方には唸らされる。

 また、彼は、「音」自体の側面以外にも、ハンバーガーや世界的アパレル・ブランドの商品を潰してそれをサンプリングして、即興的にビートを構成するパフォーマンスや明確に反グローバリズムを発言する活動家としてピックアップされる部分があったのは否めない。そして、ジャーナリズム・サイドも、その姿勢を面白がり、付随するサンプル数や品物の種類や過激な発言を敢えて抽出するようなところがあったのに対して、僕は妙なもどかしさも感じていた。何故ならば、バルトーク的に「音の政治性」というコンテクストを敷けば、もっと皆が彼の創る音楽の美麗さに最短距離で近付けるかもしれない、と思っていたからなのもある。

 そんな中、ソロ三部作と銘打って、彼はマシュー・ハーバート名義で「世界」ではなく、遂に「自分」と対峙する事になった。今回は、「1人の男」をコンセプトとして、彼の人生の「とある一日」を描写したものになっており、ソングライティング、演奏、サンプリング、レコーディング、ミキシングに至るまでの全制作過程をハーバートが完全に1人でこなしている。今後も、1か所のクラブで一夜の間にサンプリングされた音源だけを用いた第2弾『One Club』と、1匹の豚が生まれてから屠殺されて食べられるまでをサンプリングで音楽に仕立て上げた第3弾『One Pig』が順次リリースされる予定となっている。

 さて、第一弾の『One One』はどうなのか。結論から言うと、これがしかし、良い意味でいつものハーバート以外、鳴らせない音が鳴っている。エレガントにダルで、捻じれた音の位相が微妙に緩やかに変わってゆき、曲名は徹頭徹尾、マンチェスターやバレンシアという地名に統一された記号的な有り方という、センスは相変わらずな部分がある。しかし、一つ、これまでと違うのはパーソナルでメランコリックに、よりミニマルな様相になっているということだろうか。反・グローバリズムや常々、コンセプトを標榜して世界へ音を届けようとしていた彼が、自分自身と向き合った結果、どうにも零れ出る自省のムードがベッドルーム・シンガー・ソングライターのそれに似て、非常に面白い。

 僕は、この『One One』での、一人の人間としての、マシュー・ハーバートが紡ぎあげる狂おしいサウンドの先に、何故か、オウテカの新作『Oversteps』の美しい静謐性に似た感覚を想い出してしまった。オウテカの新作も非常に緻密に編まれた優美でメロウな内容だったが、その音の隙間から滲み出るものには今までにないマッドネスを感じた。そういう意味で言うと、余計なバイアスを除いて音だけに耳を澄ますと、柔らかく日常が歪んでくる、そんな相変わらずのフリーキーさも備えているところがやはりハーバートの本懐だと思う。これから続くONEのシリーズを期待させる充実した内容の力作だろう。

 逃走線上にまだまだ、彼は戦略を練る。

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 シューゲイザー? レイヴ? それともシュー・レイヴ?

 日本でのみセカンド・アルバムとして発表された前作『Science For The Living』のイギリス版というコンセプトの下に制作が開始され、新曲も加えたこのアルバム『Dead Waves』を聴くと、上記の形容のどれもが彼らカイト(Kyte)のサウンドを捉えきれていないことが、すぐに分かるでしょう。今作は本国では彼ら初のフル・アルバムとしての、デビュー盤となっています。

 まず一聴しただけで、今までのどの作品よりも電子音を大々的に取り入れていることに驚かされます。いや、前作のタイトルが『Science For The Living』だったり、今作にも収録されている「The Smoke Saved Lives」や「Designed For Damage」といった曲のタイトルを見ただけで、文系・文科系の数のほうが多いだろうインディ・シーンにおいて、明らかに理系っぽい異質な雰囲気を漂わせていた彼ら。今作は、その理系的スタンスが見事に活きたエレクトロニックなサウンドの攻めのデビュー作と言えましょう。

 前作では序盤の流れのなか、ゆるやかな印象すらあった「The Smoke Saved Lives」。今作では再録され、力強いボーカルと、より動と静が強調したサウンドを手に入れて、アルバムの幕開けを飾ります。続いて今作を象徴するような、新曲「Ihnfsa」の吸い寄せられるような吸引力をもったイントロを聴いただけで、気がつけばリスナーは既にカイトの世界に引き込まれています。アルバム全体に過去に発表した曲の新録を散りばめながらも、明らかにそれらを上回りながら、新曲でもその世界観を余すところ無く見せつける本作。シューゲイザーやレイヴは感じさせるものの、そのどれもが、限定的な範囲にとらわれず、しなやかに鳴らされています。旧来のファンも取りこぼすことなく、新たなフィールドを開拓していく彼らの積極的な姿勢が強く表れているでしょう。

 ところで、日本での単独公演は軒並みソールド・アウト、去年のサマー・ソニックでの来日でも力強いパフォーマンスを繰り広げてくれた彼らですが、まだまだ本国では、そのUKシーンでは異質なサウンドからなのか目覚しいほどの人気は確立していないようです。前作をふまえたデビュー・フル・アルバムとなる今作が、本国ではどう受け入れられるのでしょうか。気になってしまう作品です。

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 オランダのデザイナであるディック・ブルーナがミッフィーことうさこちゃんを生み出したのは1955年。今年で生誕55周年ということで、福音館書店からは色(所謂ブルーナ・カラー)を初めとして絵本が大幅に改訂され、本展が開催されることとなりました。

 展示はまず、デザイナとしての仕事の紹介から始まります。あくまでミッフィーが主役の展示会という性質からコンパクトにまとめられていますが、ペーパーバックの<ブラック・ベア>シリーズの宣伝ポスターや本自体の装釘に見られるシンプルかつ洒脱なデザインから、後の仕事への繋がりが見えてきます。また、友人の誕生日が書き込まれたカレンダーも人柄が偲ばれるものでした。

 そしていざミッフィーのコーナーへ。何と言っても、不採用のものも含めた原画(原画なのです!)が豊富に展示されていることが素晴らしいです。ブルーナがどのように描いたのか、線の具合や修正の様子も含めて間近に観てとれます。ブルーナ・カラーと称される色を直に観られるのは特に興味深いです。また、最終テイクに到るまでの異なったバージョンを同時に展示しています。そのため、絵やデザインだけでなく、ストーリーやテーマについてもバランス良く紹介されています。

 最後のコーナーでは、多くの方がメッセージを寄稿しており、個性的なミッフィーが展示されています。また、ブルーナ・カラーの家具に新装版の絵本が収納されており、実際に触れて読む事が出来ます。

 会場を出るとグッズコーナーがあるのですが、展示で盛り上がったところに充実したアイテムが揃っているため、大変な危険地帯となっています。特に祖父江慎デザインのグッズは遊び心に溢れています。ここまでなら出せる、という線を決めていかないと大変な事になってしまいます。

 そして、本展については、福音館書店による新装版と密な関係にあるように思います。特に、図録および改訂版の装釘を手掛けた祖父江慎の役割はとても大きいものです。ブルーナの意図や翻訳の意味を考えた上で、フォントまで作成しています。そこに、ブルーナへの敬意を感じました。同時に、Twitterで読めるその過程の楽しそうな事と言ったらなく(4月近辺を読んで下さい)、読んでいるこちらもとても楽しい気分になります。

 東京会場は10日で終了しましたが、今後全国を巡回します。今回見逃した関東の方も横浜会場へ是非。中国と九州が各地から遠いのと、東北地方では全く行われないのが残念ではあるのですが、行ける方にはお勧めします。

 なお、東京会場では開催最初の週末に、先着申し込みでミッフィーと記念写真というイベントがありました。お子様と行かれる方は会場毎の情報を確認して行かれた方が良いと思います。

【参考サイト】
 ゴーゴーミッフィー展公式サイト
 ゴーゴーブログ
 祖父江慎 on Twitter
 福音館書店うさこちゃん誕生55周年記念キャンペーンサイト(2010/05/31まで)
 福音館書店キャンペーン担当者 on Twitter(2010/05/31まで)

【巡回スケジュール(2010/05/10現在確定分/大阪会場以外は図録による)】
 東京:松屋銀座(8階大催場) 2010/04/22-05/10
 札幌:大丸札幌店(7階ホール) 2010/05/26-06/07
 神戸:大丸ミュージアムKOBE(大丸神戸店9階) 2010/07/21-08/04
 名古屋:松坂屋美術館(松坂屋名古屋店南館7階) 2010/08/07-09/05
 横浜:そごう美術館(そごう横浜展6階) 2010/09/11-10/11
 福岡:福岡県立美術館 2010/10/16-12/05
 松本:松本市美術館 2010/12/10-2011/01/23
 香川:金刀比羅宮高橋由一館 2011/01/29-2011/04/30
 大阪:会場未定 2011/05/
 広島・ひろしま美術館 2011/07/16-2011/08/28

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 音楽を聴いていて、うかつにも笑ってしまったとき、やられたと思う。だけど笑ってしまうと思うのだ。これを聴いたら。近年、ここまでアクの強いヴォーカリストがいただろうか。アルバム2曲目、「A Walk On The Bleach」のイントロ、エレクトリック・ギターを爪弾くか細い音と、2拍、4拍を刻むハイハットの薄いバックに、唄うライアン・サンボルの声を聴いて、片岡鶴太郎のやる浦辺粂子のモノマネ(古いか)を思い出して笑ってしまった。そうして、彼の声にひかれ、なんとなく繰り返し聴いているうちに、いつのまにか彼らの音楽への真摯で挑戦的な姿勢に胸を打たれていた。

 このテキサスはダラス出身の6人組の音楽に触れたのは、この『Be Brave』が最初で、もう10年近く活動していることを知って驚いた。なるほど、カントリーやフォーク・テイストの、いなたい、だけどぐっとくるグルーヴ感(聴いてるより印象よりはるかに難しい)も、うなずける。実はこのレヴューを書く前に、渋谷に『Be Brave』以前のリリースを探しに行ったのだが入手できなかった。そればかりかこの『Be Brave』さえなかった。彼らがどういう道を辿ってきたのか知る術がないのが非常に残念だ。

 ここ最近、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ(Anthony And The Johnsons)やアリラ・ダイアンのリリースで好調のラフ・トレードからリリースで、僕がレコードの5倍はいいだろうと推測している、ライヴのクオリティの高さが認められたのではと思う。ネオ・フォークなんて呼ばれている人たち、エミー・ザ・グレイトやアリラ・ダイアンのファンにはもちろん自信を持っておすすめできるのだが、批判を恐れず言えば、ボブ・ディランのファンにこそ聴いてほしい。ボブ・ディランを長く聴いてきたファンには、きっと僕と同じように、ライアンの声を笑った後には、彼らのすばらしい演奏にじっと耳を傾けてくれるはずだ。

 これからも、このアルバムをかけるたびに、その「うた」の純粋さに胸打たれ、アルバムが「Friday In Paris」にさしかかる頃には、もうほとんど泣きそうになるくらいの感動を覚えるのだろう。いつしか、ライアンのおかしな歌声を笑っているのは、そんなこっぱずかしい感動への照れ隠しではないかと、疑いはじめるのだ。

 ラフ・トレードのページで試聴できます。

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 Jonas A(ミューのヨーナス・ビエーレ)、Martin
A(マーティン・テレフェ)、Magne A(アーハのマグネ・フルホルマン)、Guy A(コールドプレイのガイ・ベリーマン)の4人から成る覆面バンド、アッパラッチク(Appa-rat-chik)。エレクトロ・サウンドを駆使してバキバキな音から浮遊感たっぷりな音、綺麗で可愛い音までを美メロに合わせて聴かせてくれる。とても4人の力とは思えない迫力と圧倒的な音圧で魅了されるこの作品は、オープニングのミューのヴォーカルから次々と変わるヴォーカルで色とりどりの色彩を持ち、比較的アップテンポながら中にはシガー・ロスのように自然を感じさせたりオウテカやボーズ・オブ・カナダのように喜びや悲しみを感じさせたり、音そのものがまるで生きているようだ。デジタル・サウンドとヴォーカルだけでここまでのことが出来るのかとうっとりすると同時に感動でうずくまってしまいたくなる傑作。マイスペースにも"Keep it secret"と書かれているが、覆面にしておくのが本当に勿体ないと思えてならない。もっと多くの人に知ってもらって聴いてもらいたいと思う。

補足:現状このアルバムはMP3配信のみ(2月1日に開始されています)。CDは今のところ6月15日リリースが予定となっています。

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「インディー・ロック界のスターが集結したスーパー・グループ!」と、鳴り物入りでデビューして以来、着実に良質なポップ・アルバムをリリースし続けてきた彼ら。07年の4thアルバム『Challengers』以降、A.C.ニューマン、デストロイヤー(&他いろいろ)、そしてニーコ・ケイスのソロ作品など、各メンバーの課外活動を経て、満を持して5枚目のアルバムがここに届けられた。

 本作は、各自の活動の中で培われた要素がバンドに還元された一枚だと言えるだろう。例えば、随所に導入されたストリングスのアレンジはA.C.ニューマンのアルバム『Get Guilty』の流れを汲んでいるし、相変わらずパワフルで美しいニーコの歌声は昨年のソロ作『ミドル・サイクロン』を経て、切ない響きを増したように思える。ダン・ベイハーの書くメロディは、デストロイヤーやスワン・レイクで聴く時よりも仄明るく、力強く響くし、映画監督でもあるキーボーディストのブレインが監修した「Our Hands(Together)」のミュージック・ビデオも面白い。このように、メンバーそれぞれの持ち味、それぞれの表現が組み合わさる(文字通り『Together』する)ことで、作品に深みが生まれている。そして、そんな『Together』の輪はメンバーの間だけに留まらない。ベイルートのザック・コンドン、オッカヴィル・リヴァーのウィル・シェフ、セイント・ヴィンセントことアニー・クラークなど、現代のUSインディー・ロック・シーンに欠かすことのできない面々がゲスト参加。

 このように、完成度・話題性ともに高く、この作品がこれまでより多くの注目を集めることは間違いないだろう。ポップ・ミュージック・ファンで、この作品を好きにならない人はいないのでは?とさえ思えてしまう。「ストリングスやホーンが使われている」「何重にも重なったコーラス・ワークが美しい」という音楽的な側面だけではなく、あらゆるものを引き寄せ巻き込むエネルギーを持った、そんな一大ポップ・シンフォニー。

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 コートニー・ラヴという人は本当に! スキャンダラスな話題ばかりを振り撒いて、すっかりゴシップクイーンに成り下がってしまったかと思っていたら、いつのまにこんなアルバムを作っていたのか! しかも12年ぶりのホールの新作とは! 曲作りをしている、レコーディングをしているという話だけは伝わってきていたが、ホール復活どころか再び歌ってくれるのかどうかすらわからなかったこの数年、彼女の声を待ち侘びていた者としては、どんなに悪い噂が彼女を取り巻こうとも手放しで迎え入れたい気持ちだ。

 なのに、首から下のマリー・アントワネットの肖像といい、「ジェーン・グレイの処刑」の画といい、随分と不吉な暗喩を含んでいそうなジャケットには、華々しいカムバックの雰囲気は感じられない。昨年末にカートの忘れ形見フランシスの親権を再び剥奪されるという、最近で一番悪いニュースであったに違いない事件の後に『Nobody's Daughter(親なき娘)』というタイトルを冠してしまうなど、この作品には悲痛で哀しい彼女の数年が刻み込まれているのだ、ああどれほどつらい日々を送って来たのか、と私は思った。実際、前作『Celebrity Skin』を包み込んでいた、ロサンゼルスの波のようにキラキラとした希望の光は見当たらず、どこか陰欝で暗い雰囲気が漂い、コートニー独特のポップさも派手さも鳴りを潜めている。意外にもファースト・インプレッションは暗く哀しい作品というものだった。

 しかし、シンプルなギターのストロークと彼女の声がいつまでも耳に残る。ヘッドフォンを外しても頭の中で彼女が叫ぶのだ、「あたしは生きる、あんたはどう?」と。昔と少しも変わらない、ハスキーで投げやりにも思える歌声には随所に彼女の鼓動が息づいていて、咆哮とも叫びともつかない生への渇望に満ちたその声が、これまでのどの作品よりも生々しく、そして痛々しく私達に届く。無駄なものを一切入れずストレートに作られたサウンドは、より彼女の声を引き立たせてリアルなものにし、心の深いところに容赦なく真っ直ぐに入ってくる。美しい言葉とスラングが混在した歌詞には絶望や希望が交差し、混沌としながら愛を欲する彼女の内面がとても私的に記されている。タイトルトラックである「Nobody's Daughter」はコートニーの手を離れてしまったフランシスのことだとすぐにわかるし、「Honey」にはカートへの想いが綴られている。「Samantha」で娼婦に自身を重ねつつも、「Letter To God」では"Can you help me?"と神に救いを求める。その叫びは痛々しくこそあれ、弱さは少しも感じられない。これは哀しい作品なんかじゃない。生きようとする強い意思の表われた、まさに復帰にふさわしい作品だ。これこそが彼女の傷だらけの生き方なのだ。悲劇のヒロインなどコートニーには似合わない。

 コートニー・ラヴという人を知ってから15年近く経つ。彼女の声が好きで、ルックスが好きで、破天荒な生き方が好きで、ずっと彼女を追いかけてきた。しかしここ数年、耳に入ってくるのは心配なニュースばかり。ゴシップやトラブルにまみれ、彼女の姿は見えなくなりかけていた。私の好きなコートニーはどこかへ行ってしまったのか...と思いかけた時、この力強いアルバムとともに彼女は戻ってきた。苦しい時ほど歌えと言わんばかりに。見失いそうだった彼女は今しっかりとここで歌っている。失って失って傷つけ傷ついてきた彼女は、それでも生きるのだと再び前を向くことを選んだ。そして今の彼女にはホールという居場所がある。支えてくれるメンバーがいることで、もっともっと自由に歌えるはずだ。コートニーにはソロアーティストとしてよりも、もちろん女優やパーティーに顔を出すセレブとしてなんかよりも、バンドを率いるフロントマンとしてステージに立つのが似合っている。下着のようなドレスから白く長い手足を放り出して、ギターを掻き鳴らしがなる姿はこれからもずっと私の憧れだ。

 彼女を好きじゃない、むしろ嫌いだという人は多いかもしれない。ほとほと愛想を尽かしたという人もいると思う。けれど自分にまとわりつく数々の雑音を、ここまで力強いパワーで跳ね返せる人はそうはいない。どうか彼女の外側で起こる出来事に目を向けるのではなく、内側から生み出される力を感じてみて欲しい。私達が思っている以上に必死に、一生懸命に、純粋に生きているのがわかるはずだから。

 PLAY THIS RECORDING VERY VERY LOUD PLEASE. - 彼女がこうライナーに記した通り、ぜひ大音量で彼女の鼓動を聴いて欲しい。

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 1999年の結成以来、言葉を持たない音楽を、言葉以上のメッセージに変換して、世界各地のあちこちで魅了しつつ、インストゥルメンタル・ロックの可能性を押し広げてきたMONO。今作はそんなバンドの結成10周年を記念して、24人のオーケストラ(Wordless Music Orchestra)を従えてニュー・ヨークで演奏されたライヴを音源、映像を完全パッキングした2枚組の作品。オーケストラを従えて制作された最新作『Hymn To Immortal Wind』からの曲を中心に、「Where Am I」や「Are You There」など過去の作品からの名曲も交えた全10曲、90分のセットリスティング。最新作の曲は、オーケストラルなアルバムを完全再現して圧倒し、過去の曲はオーケストラとの協奏により新たな命が吹き込まれ、どの曲もクラシカル・ミュージックが持つ荘厳なスケールと、MONOというバンド本来の持つ静寂と激動による爆発的なダイナミズムが合わさり、とてつもないエネルギーの創造に成功している。録音には元Minus The Bearでも知られる敏腕エンジニアのマット・ベイルズが担当し、バンドとオーケストラの息遣いのみならず、会場の張り詰める空気感やオーディエンスが高揚する様を、生々しく、余すことなく収録。バンドが体現したかったであろう、シネマティックで音像的な世界観と、その場で起きた歓喜の連続を、より一層耳と目で堪能することができる作品です。

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 いきなりだけど、アーチー・ブロンソン・アウトフィット(Archie Bronson Outfit)の2006年にリリースされた彼らにとってのセカンド・アルバム『Derdang Derdang』は本当に素晴らしい作品だった。クリーム以来のハード・ロック/ガレージ・ロックの伝統である重たいギター・リフと煙ったい空気。髭ヅラ野郎ども(見た目もわかってる)のスリーピース演奏は重々しくも一体感が生む躍動感に満ち溢れていた。楽曲のツブが高いレベルで揃っていることもあり、個人的にも当時のお気に入りの一つだった。こんな格好いいバンドをバーで発見したというドミノの社長、ローレンス・ベルはさすが、大した彗眼の持ち主だ。

 彼らにとって不幸だったのは、リリースされた時期がちょうど00年代におけるガレージ・リバイバルのピーク・タイムだったことで、だからこそ注目は浴びたが、悲しいかな作品の良さに見合った評価はそれほど得られなかったように思う。日本でも残念ながらそれほど彼らの名前を聞く機会はなかった。そのシーンで突出した成功を見せた、レーベルの同僚でもあるアークティック・モンキーズの『Humbug』が好きな人たちには、ぜひあのアルバムも聴いてみてほしい。どちらが上とかは言わないけど、結構気に入ってもらえると思う。

 そんなこともあってかどうかはわからないが、次の作品を産み出すのに彼らは4年近くかかってしまった。そして、彼らの音は変わった。

 どう変わったかはPVを見比べるとイメージしやすい。まずは先に挙げた『Derdang Derdang』からの一曲「Dart For My Sweetheart」のPVを見てみよう。モノクロの映像。ずいぶん密接したバンドの演奏。それに合わせて踊り狂うグルーピー。チープなアニメーションも実に60年代的でわかりやすい。

 では次に、最新作『Coconuts』からシングル・カットされた「Shark's Tooth」を。宇宙船に乗りこみ、バイキング風の妙な衣裳を身に纏う3人。惑星に着陸してなぜか演奏を開始。大地は裂けて未来都市が突然聳え立つ。ベースからビーム! 両手からもビーム!(ホット・チップ「I Feel Better」のPVもアホすぎて素敵だったが、今年はビームがPV業界のトレンドなのかもしれない) 今様な映像はエフェクトも凝りまくってる。にしても、変なPVすぎだろ。

『Coconuts』ではプロデュースをティム・ゴールドワージー(Tim Goldsworthy)が担当。DFAレコーズの共同オーナー、U.N.K.L.E.の元ドラマーにして、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアや、カット・コピー『In Ghost Colours』、ラプチャー『Echoes』など、エポック・メイキングな作品の数々を手掛けてきた一方、過去には学校を中退して英国中でマイブラの追っかけをしていたという愛すべき人物である。

 バンドの音は彼の経歴と実に忠実に、とてもわかりやすく変化した。ニュー・ウェーブ的で金属質なエフェクトとけたたましいノイズが幾重にも張り巡らされ、ヴォーカルにも全編エコーがよく効きまくっている。楽曲はグっとダンサブルになった。ただ正直にいえば、特にアルバム中盤の数曲においては試みの全てが成功しているとも言い難く、過度期の作品と見なすべきかもしれない。(昔からのファンからは特に)賛否両論となりそうな作品だが、個人的には彼らの大胆な人選と遊び心をぜひとも支持したい。

 音像がブルージーな路線からディスコ・パンク気味に変化しても、リフ主体の獰猛でトライバルなサイケデリック・ロックの本質は変わっておらず、もっとも重要な魅力である「単純にかっこいい」部分はそのまま貫き通されている。冒頭の数曲の熱気は生半可な気分で流行に乗ったバンドには出せない迫力があるし、ジャケットの青くて丸い何かがコロコロ転がっていく画が浮かびそうな「Chunk」はほのぼのとしていて可愛らしい。暴走するノイズに乗せてひたすら叫びまくるだけの「Wild Strawberries」にしても、ヴェルヴェッツ・マナーに則ったキック・ドラムの連打に合わせて朗らかに歌われる「Run Gospel Singer」にしても、本当にかっこいい。かっこいいというその事実以上にあと何か必要だろうか。来日公演は必要だ。ぜひ生でライブ見てみたいです。凄そう。

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 絵本の表紙のような、物語の始まりを感じさせるハンドメイドなジャケットがまず眼を引く。ノスタルジアが湧き上がるこの作品につけられたタイトルは『風向計』。収録曲からは『かいじゅうたちのいるところ』を思わせるようなノスタルジアが広がり、南風がそよいでくるようだった。

 このフリーランス・ホエールズ(Freelance Whales)は、2008年に結成した、NY・クイーンズを拠点とするニュー・カマー。NYの路上や駅でのバスキングを繰り返して実力をつけてきた5人組だ。ネットにアップされた楽曲がブロガーに注目され、ピッチフォークやNMEなどで取り上げられて話題を集めてきた。そんな彼らがリリースしたデビュー・アルバムがこの『Weathervanes』だ。

 アルバムを貫くのは、オーガニックで土着的なサウンドと人肌の温もりあるエレクトロの融合。言いかえれば、スフィアン・スティーヴンス+ポスタル・サーヴイスといったところだ。バンジョーにグロッケンシュピール、ハーモニウム、ギター、チェロ、ドラムなどによる素朴なサウンドに、シンセサイザーやテルミンによる電子音を加えている。シンプルなメロディと豊かなコーラスで構成されたシングル曲「Generator 1st Floor」でアルバムは幕を開ける。その後、パッション・ピットの「Sleepyhead」を思わせる「Starring」や、スフィアン・スティーヴンスのアルバムに収録されていてもおかしくないような「Broken Horse」など、ヴァラエティ豊かな楽曲が並んでいるが、そのどれもがトウィーなセンスとセピア色の郷愁をたたえている。リード・ヴォーカルのユダ・デイドン(Judah Dadone)はファルセットの優しい歌声を聴かせてくれるし、男女混声のコーラスはとても和やかだ。だからきっと、13曲45分を聴き終えるころには、あなたの表情も優しくなっていることだろう。

 そういえば、彼らが所属しているのはレ・サヴィ・ファヴのメンバーが運営するレーベル=フレンチキス・レコーズ。パッション・ピットやドードースといった、ポップネスとダンサブルな要素を兼ね備え、インディ・リスナーの注目となったバンドがいるところだ。このフリーランス・ホエールズも続くことができるか? アルバムを聴きながら見守ろうじゃないか。

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「情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴を持っている。情熱の根源には、たいてい、汚れた、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外から刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。」(エリック・ホッファー『魂の錬金術』)

 旧くはブライアン・ウィルソンが表象していたようなパラノイアじみたポップへの意識の深さ、または、70年代のトッド・ラングレンの見せていた無菌室的なポップ、CTI界隈のスムースな音像、日本で言うならば、はっぴぃえんど、大瀧詠一、山下達郎、高野寛、青山陽一など各諸氏、初期のキリンジ辺りが体現するロマンティックながらも、どうにも聴き手側の勝手な同一化を拒む透徹とした佇まい、「YOU&I」を描きながら、それをメタ認知で筆致しつつ、緩やかに完璧に固められたサウンド・ワークの背景に潜む創り手の凄まじい情念に触れてしまった様な人は多い事と察する。僕自身、高度に構築された「ポップ」というのに或る種、畏敬と畏怖を同時に感じてしまうのは、スッと耳を流れていくように思えて、良いステレオ・システムやライヴで聴くと、その楽器のバランス、アレンジの緻密さにアーティスト側の過激なラジカリズム(急進性)を垣間見えるからだ。下手な大文字の「ロック」よりも業の深さが滲み出ているとでも言えるだろうか。そういえば、かのエリック・クラプトンがジョアン・ジルベルトのコンサートを観に行った際、彼の「正確で複雑なリズム感覚」にインスパイアされた、という逸話などもそこには付加出来るかもしれない。クラプトンのあのリズムのジャスト感というのも時に凄いものがある。

 今や結果的に、田中拡邦氏のソロ・プロジェクトとなってしまったが、彼がファースト・アルバム『Mamalaid Rag』時のインタビューで、ボサ・ノヴァと言えば、アストラッド・ジルベルトを挙げていて、サンタナのAOR方面への傾斜期の『Festival』というアルバムの「Give Me Love」への愛を語り、アレンジメントの例として、ギル・エヴァンスの名を挙げていたのも非常に面白かった。それは、とても、「旧き良き、アメリカ」へのオマージュと共に、一本筋の通った美意識が貫かれている頼もしさを明確に受け止める事が出来たからなのもあるし、その純然たる覚悟に感銘を受けたというのもある。

 思えば、初期の彼等のライヴを観た際に、たまたま同席した40代の女性が「彼等を聴くと、もう死語かもしれないけど、シティー・ミュージックって言葉を想い出すのよね。」と言っていたが、僕は少し違う角度から、彼等の音楽には「仮想化された都市へのアーバン・ブルーズの捧げ方の麗しさ」と「"白い"ブルーズへ向けたノスタルジアの現代的な再現」を忖度していた。特に、インスト曲内で、ジャム的になだれ込む演奏は、CCRの影さえちらついた。

 しかし、周知かもしれないが、ママレイド・ラグの道程とは、とても困難を極め続けた。02年のメジャー・デビュー当時からの老成した佇まいの音と、その音楽性の純度の高さ、プロフェッショナリズムと比して、セールス的な評価とのアンバランスさと、田中氏の凄まじい職人気質と音質への拘り、コントロール・フリーク振りが時に、玄人、好事家筋の審美眼内で回収されてしまうきらいもあり、どうにも凡庸なイージー・リスニング的な括りの中で語られてしまう事も多い存在であったとも言える。03年の5曲入りの「きみの瞳の中に」(ここに収録された「泣きたい気持ち」は今でも、"60年代の3分間ポップ"の躍動感を閉じ込めた、屈指の名曲だと思う)、タイアップもついた04年のシングル「そばにいたい」辺りでは一瞬、シーンで地表化する気配も見えたが、「完全なる手触りの音」を求める為にマイクの立て方、8トラックのアナログ・レコーダーを取り入れ、レコーディングの模索を試みる中で頓挫した結果(その一瞬の成果は05年のシングルの「街灯/ふたりで目覚めたら」で味わえる)、スタジオ・ワークに戻り、作った06年のセカンド・アルバム『Mamalaid Rag2』は決して、悪くないものの、既発曲の多さに埋もれてしまった感もあり、不完全燃焼的なムードと、今後の展開を予期せしめるような物悲しさも備えていた。そして、バンド形式から田中氏のソロ・プロジェクトとなり、稀なライヴと客演等がありながらも、本体の音信が途絶えつつある中で、08年にレコーディングに入り、シングルとして、「Ophelia」、「空に飛ぶ想い」、「すてきなダンス」という完成度の高い音源を次々と発表した。

 そんな中、今年に入って、満を持しての4年振りの『Spring Mist』が届けられた。良い意味で本当に変わっていない、田中氏のポップ・マエストロ振りが発揮されながら、今までで一番、軽やかで爽快感に溢れた内容になっている。02年のメジャーでの最初のミニ・アルバムが「春雨道中」という象徴的なタイトルだったからして、また紆余曲折を経て、「春(Spring)」に戻ってきたというのも手応えも感じる事が出来るし、自らの過去を既にある種、対象化して、新しい道を進もうという多種多様なサウンドへの試みも詰まっていて、言うことが無い。ジェームス・テイラーやジャクソン・ブラウン辺りを彷彿させるフォーキーでトラッドなウォームな肌触りの曲から、これまでの流れを継承したジョン・メイオール&ザ・ブルーズブレイカーズ、レオン・ラッセル、エリック・クラプトン辺りを現代的な解釈にした曲、ナイアガラ・サウンド的な曲、宅録的な様相を持った曲、ストリングスが絡んだ流麗なバラッド、ザ・ホリーズ、初期のザ・ビートルズ、ポール・マッカートニー&ウイングス辺りを参照にしたビート感溢れた曲など、これまで以上にバリエーションに富んだ内容ながら、全体を通した一貫性はムラが無く、通気性が良い。このアルバムには、潔癖症的なまでに音楽への確かな情熱に裏付けられた美学が充溢している。

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 様々なイメージの断片が交錯しつつ、どうしようもなくポップ。京都出身だが現在は東京で活動している小野暁のサード・アルバムは、彼が経てきた様々な体験が理想的な形で結実した作品となった。

 ほぼ彼ひとりによる多重録音ファースト・アルバムにつづいて、ライヴ・バンドを率いてレコーディングされた2007年の前作は『The Days Of Perky Pat』と題されていた。フィリップ・K・ディックの短編から引用された言葉。「小説の内容との関係性を強く感じてつけたというより、言葉が想起させる非現実的な日常といったイメージに強く惹かれた部分が大きいと思います」と彼は語っていた。実際、表面的に「フィリップ・K・ディック的な音楽」というより、彼の世界の奥底にある「泣きたくなってしまうほどの暖かい人間性」に通じる部分があると感じた。

 そのときおこなわれたインタヴューで彼は、とくに影響を受けたソングライターとして、プリファブ・スプラウトのパディー・マクアルーンとXTCのアンディー・パートリッジを挙げていた。一方、テニスコーツの準メンバーとして、さらにはマヘル・シャラル・ハッシュ・バズへの参加歴でも知られていた。『The Days Of Perky Pat』にはセカンド・ロイヤルのレーベル・メイト、ルーファスやコレット、そして(BMXバンディッツの一員として来日した際に共演したことが縁となり)パールフィッシャーズのメンバーも参加していた。こういった様々な要素がようやくまとまりかけていたのが前作だったとすれば、今回の『Tales From Cross Valley』ではプロデューサーにデヴィッド・ノートンを迎えることで、その多面的な魅力が自然にまじりあい、過不足なく表現されている。

 スコットランドはグラスゴーで活動を開始、ロンドンをへて、現在は東京をベースに活動しているデヴィッド・ノートン(David Naughton)は、ティーンエイジ・ファンクラブ、ベル・アンド・セバスチャン、モハーヴィ・スリー(Mojave 3)、ライラック・タイムのスティーヴン&ニック・ダフィー、そして最近ではセカンド・ロイヤル期待のニュー・フェイス、ザ・ニュー・ハウスといった人たちと関わってきた。『Tales From Cross Valley』では彼自身がベースをはじめとする様々な楽器を手がけ、ニック・ダフィーやメトロ・オルガンなど彼ゆかりの人たちも参加している。京都のユニット、ナイト・テラー(Night Teller)をフィーチャーし、彼らがヴォーカルをとっている曲さえあるのだが(ソングライターでありヴォーカリストである個人名を冠したユニットとしては異例...)それさえ難なく溶けこんでいる。

 牧歌的とも都会的とも言いきれない、人なつっこいんだけど、不思議なひっかかりのある世界。楽しい、でもどこかに悲しみをたたえている。ちなみに彼はモンティ・パイソン/ニール・イネスの大ファンで、ラトルズのカヴァーをライヴでずっとやっていたらしい。ちょっとクセのあるヴォーカルも、なんとなくその系譜。オシャレというより、洒落ている。そこが好き。

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 数々のエレクトロニック・ミュージシャンがメロディ志向や生楽器の大胆な投入、またはダンス・ビートの強調へ向かう中、そんなことはおかまいなしと突き進むオウテカ。音を徹底的なまでに研ぎ澄ませ、繊細でいて複雑な一つひとつの音が持つ情報量に圧倒される本作『Oversteps』は、まったく、ほんとうに、作り込まれた一音が尋常じゃない。それだけでオウテカは聴き手を自陣に一気に引き入れる。もうその時点で勝負ありだ。

 初期の傑作『Amber』や、かなりIDM的な『Incunabula』と比べられることが多い本作であるが、とぎれとぎれのポップ性を散りばめ、精密な構築美と、乱暴とも言える破壊美。その両極端の美しさを同時に鳴らしてしまう点は、いやはや、耳を刺激し、昏睡と覚醒をも同時に誘う音の強度が増したことと相まって、過去最高なんじゃないかと叫びたくなる。しかも隙あらば背中を狙って叩きのめしにくるような緊張感があるからたまらない。ランダムなビートが渦巻くこの音楽に顔をうずめてしまえば理性など吹っ飛ぶよ。とにかく、最高潮に興奮する。すなわち、カッコいい。

 しかしこのふてぶてしさといったらなんだ。カリブーや、同レーベルWarp所属のクラークなどがダンス・ビートを強調した作品を発表する中にあって、オウテカは『Oversteps』を目の前にしたリスナーに向かって不敵に笑ってみせる。踊るのか? それとも鑑賞するのか?

 すなわち、音楽が与える人間の原初的欲求と、近代の「鑑賞する」という概念欲求を同時に煽る音を鳴らしている。しかもそれをリスナーが選択できる余地を与えるかのごとく、ノン・ビートの楽曲を交えるという、巧妙なトラップを設けているからエスプリが効いているというか、にくいというか...。

 とはいえ、べらぼうに難しい音楽ではない。紛れもなく美しく、ポップであり、聴き終えたときの清々しさといったら過去の作品にはなかったものだ。「暗すぎる」「冷たすぎる」と批評された00年代の作品を、爽快で、清々しくある本作で痛快に払拭し、光を一点に込めたような音が次々と溢れる音楽性が大胆なまでに開花した。『Incunabula』や『Amber』よりもイノセントな匂いたっぷりに。それはおそらく、音が持つ最も美しい奏でを抽出し、なおかつ楽曲にスペースを残し、様々な音を泳がせるという意味で、無意識的にマイルス・デイヴィスの『Kind Of Blue』にも通じる美をも獲得した結果だろう。

 『Oversteps』は彼らの次なる一歩の記録である。それは実に鮮やかだ。オウテカを敬遠している方にも薦めたい。素晴らしいよ。

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 宇宙? 夜空? それとも誰かの心の闇? ピンクのトゲトゲの球体が宙に浮いている。よく見ると小さな窓が開いていて、中から光がこぼれている。ザ・シンズのジェームス・マーサーとデンジャー・マウスのユニット、ブロークン・ベルズの初めてのアルバムは、そんなジャケットが象徴するように浮遊感あふれる美しい歌がたくさん詰まっている。

 このアルバムを入手してからすぐ、 YouTubeでライブの映像を見た。僕はデンジャー・マウスが動いている姿を初めて見て、とてもビックリした。ドラムを叩いてる! 考えてみれば当たり前のことかも知れない。いくつもの名作アルバムでトラック・メーカーを努めてきたんだもの。ドラムが叩けて当然でしょう。でも、やっぱり僕には新鮮だった。ジェームス・マーサーとデンジャー・マウスにとって、ブロークン・ベルズは「コラボ」や「ユニット」というお互いの線引きをはっきりさせた関係性ではなく、ひとつのバンドなんだという印象を持った。2人の音楽性を有機的に絡め合わせること。だから、こんなにも親密でソフトな歌がいくつも生まれたんだと思う。ナールズ・バークレイやゴリラズの『Demon Days』、ベックの『Modern Guilt』のような斬新なビートのアプローチは控えめ。ジェームス・マーサーが紡ぐ極上のメロディに寄り添うようなサウンド・アレンジが心地良い。

 ロックの歴史は数多くの優れたメロディ・メーカーによって作られてきた。その歴史はこれからも変わらずに続くだろう。そして、いつの時代も耳を傾けさえすれば、素敵な歌が聞こえてくるはずだ。数年前、ヒップ・ホップからやって来たデンジャー・マウスは、「ジャンルなんて関係ねーよ」と僕たちに教えてくれた。ロックだろうとヒップ・ホップだろうと、そこにある言葉とビートが基本。白も黒も混ぜてみろと。そこから、ほんのちょっと歴史は動いたのかもしれない。

 もうみんなが知っている。デンジャー・マウスは美しいメロディをもっとキラキラさせる魔法を持っている。ちょうど、ピンクのトゲトゲの球体からこぼれる光のように。

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 10'sを牽引する可能性を秘めているオールディ・ワールディ(沼田壮平)によるファースト・フル・アルバム。邦楽の匂いが完全に剥落しており、けれどオルタナティヴの教科書をなぞっただけのような洋楽志向もない。日本人にとっての新たなパラダイムにもなり得るアルバムかもしれない。

 中性的な声と荒々しいギターと優しいメロディの共生。転じて涼やかなポップ・ソング。そして他の日本人アーティストと比べて、とにかく一聴した時の情報量が膨大だ。重厚なコーラスもアコギのじゃりっとした音も、それらは虚飾になることなく楽曲を彩色させており、どこから切っても世界基準に準拠した質感のそれである。

 日本のロックはといえば、左右に配置された二本のギターとドラムとベースとヴォーカルだけで楽曲が構成されており、良くも悪くも余計な音がない。それは既に日本独自の方法論と化しつつある。オールディ・ワールディは、その格式から逃れようとしている数少ないアーティストの一人と言えるだろう。アレンジの卓越さにしろ、情報量にしろ、両者の間には歴然とした差があると思うのだが、シンプルさを好む日本人に必ずしも享受されるわけではないようだ。勿論、音楽が情報量の多さや派手さを基盤としたものでないことは認知しているつもりだが。

 この新作も前作と同様に、ロック、ポップ、フォーク、ヒップホップと無造作に楽曲が揃っており、彼の多様な側面を覗かせる。統一感がないといえばそれまでだが、それは溢れて止まらない個性の洪水を汲み取るには、ロックやポップという一つの器だけでは足りないからである。事実、ビルト・トゥ・スピルを彷彿させるような13曲目を聴き終わった後に得られるカタルシスは凄まじい。

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 ブログのコメントに書かれた一言で人は自殺してしまうし、悩みを口に出せずに飲み込んでしまうこともある。無防備なままでは生きていけない、なんて言われても、つい頷いてしまうことがあるかもしれない。決して、人間は、強くない。僕もそうだ。不安や怯えやわだかまりが、常に亡霊のように付きまとう。でも、前作も欧米で高い評価を得たグラスゴー出身のギター・バンド、フライトゥンド・ラビットの通算3作目となる『The Winter of Mixed Drinks』を聴いたその瞬間、僕は震えるほど嬉しくなった。本作を聴くことは、音楽性の高さと同時に、偽りの無さを、音に宿った体温を、なによりもやさしさを肌に触れ合わせるほど親密に感じることなのだから。

 聴いていると音が寄り添ってくるようだ。前作同様、ザ・ナショナルや、シガー・ロスのヴォーカリスト、ヨンシーなどのプロデューサーでもあるピーター・ケイティスがプロデュースを務めたことで、地に足が付いた落ち着きの、その一息つけるような音の余白が奏功している。余白を埋めるシューゲイザー風味のギター・サウンドや弦楽器によるストリングスの優雅なオーケストラ・アレンジの中で、スコット・ハチスンの、ほんの少しひねくれていて、でも程良く苦みが効いた声で歌われるうたの全ては丁寧に言葉を選びながら和やかに発せられ、絡まった気持ちの糸をほどいてくれる。それが嬉しくて清々しくて気持ちが良くて、感情の不安定な揺れはするすると抜け落ちて消えてしまう。

 特に「The Wrestle」や「Skip The Youth」においては、ポップにして哀感を含んだグラスゴーらしい胸の深くに染み込むメロディ、それとともに歌声やコーラス、ストリングス、アコースティック・ギター、新メンバーとして加わったゴードン・スキーンのマンドリンやキーボードなど、数々の音が幾重にも重なり、ちいさく渦を巻き始め、それは次第に大きくなり、やがて高くへ解き放たれたその刹那、希望と言っても差し支えのない光に満ちたサウンドに包まれて、放心、昏睡、あるいは心酔。甘美な音と心地が溢れ出す。

 攻撃的な音の一切がない本作は、打ちつけられるようなビートを奏でても、フィード・バック・ノイズを奏でても、どれを取っても無防備だ。触れれば壊れそうなほどに無防備なのだ。しかし、いや、だからこそなのか、僕は、そしておそらく誰しもが、この音楽が鳴っている間は警戒心など丸めて窓から投げ捨てて、あけすけになることを許される、そんな音の中に身を置いてしまう。

 そうして気付く。無防備でいることは強さなのだと。全てを抱擁してしまうやさしさなのだと。僕はその強さに、涙をこらえた。『The Winter of Mixed Drinks』は僕らの弱さを肯定する。武装しても、敵を作るだけなんだ。

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 本作『Port Entropy』はトクマルシューゴの最新作にして、これまでのキャリアの一つの集大成であり、現時点での紛れもない最高傑作である。正直、感動した。圧倒された。

 たとえば。彼と同時代を生きるバンドであるダーティ・プロジェクターズもキャリアの初期をひとりぼっちの、ややコミュニーケーション不全的なローファイ・ポップからスタートさせたが、『Rise Above』にて女性シンガーと強靭なバンド・メンバーを従えるスタイルに転向、絶妙な配置をすることでストレンジなソウル・ミュージック像を提示し、そのスタイルを次作の『Bitte Orca』で完成させた。

 しかし、トクマルはライブにおいては(もちろん、私生活などにおいてもそうだろうが)多くの仲間に支えられつつも、ことアルバム制作においては「ひとりぼっち」に拘り貫いたまま、以前からの彼のスタイルである箱庭型トイ・ポップを洗練に洗練を重ね、理想的な形で提示している。ある種絵本的な、純度の高い音の妄想空間がここでは広がっている。

 これまでどおりのプライベートな音像でありながら実にリスナー・フレンドリーな肌触りであり(こちらの慣れもあるのかもしれないが)、Ele-Kingのサイトに掲載されている岩崎一敬氏の本作へのレビューにおける「初期の作品で描かれていた風景は、どちらかと言えばトクマルの脳内を覗いているような感覚があった。新作は彼がCDの中に箱庭をつくった、そんな感じだ」という一節は実にこの作品についてよく言い表している。手招きにつられて部屋に入って、そのまま居座っても笑って許してくれそうな居心地のよさというか。

 先にリリースされたEPにて既に発表されていた「Rum Hee」は、彼が前作アルバム収録の冒頭曲「Parachute」以上に「真っ当な」ポップ・ソングを書けるようになったことを証明した、印象的なフレーズのリフレインとリズム・パートのダイナミズムが心地いいナンバー。「River Low」や「Drive-Thru」といった曲では手癖ともいえる小慣れたメロディとともに彼の十八番的なトイ・ポップが展開されている。以前の作品ではやや線の細さも目立ったが、本作は「Straw」のような音圧の太さの目立つ楽曲も収録されていている。

 にしても、多種多様の音が鳴っている。先日、彼が特集され話題になったNHK「トップランナー」番組中でも披露された、観客も交えた非楽器による即興演奏には観ていて圧倒されたが、あのとき見せた鮮やかな手つきでもって膨大な数の楽器・非楽器が演奏、録音された様子が目に浮かぶようだ。

 カラフルな音色の有機的な配合とその整頓具合、近年のブルックリン勢にも通じるひねくれた感覚・曲進行、そして自身の夢から着想を得ることが多いという風変わりな歌詞、爽やかな歌声。アルバムは一寸の隙もなく、37分弱という収録時間も繰り返し聴き返すのにちょうどいい。彼の音楽が既に広く世界中の賞賛と支持を集めているのは周知の通りだが、それらがまったく過大評価ではないことはこの作品に耳を傾ければ簡単に理解できる。

 ただ、贅沢をいえば。この作品は傑作であるが、想定外の作品かというとそうでもない。

 先日、本人がパーソナリティーを務めたUstreamでのプロモーション番組において、(何ともミスマッチで愉快なゲストであった)ロマンポルシェ。の掟ポルシェ氏が彼の音楽性について「Charaみたいな」と、ポロっとこぼしていたのが僕にはとても印象的であった。

「Charaみたいな音楽」の良し悪しも、実際にトクマルシューゴの音楽がそういう音楽なのかどうかもここで論ずるするつもりはもちろんないが(僕はそこまでとは思いませんよ!)、彼の幼馴染にしてライブにおけるバンド・メンバーでもある盟友、シャンソンシゲル氏のデザインした本作のジャケットにせよ、過去の作品と比べてもやや安全な「オシャレ」に迎合しすぎている気がしないでもない。

 もしそうだとして、音楽が広く聞かれるための選択としてそれももちろん間違いではない。しかし、iTunes Store上で既に公開されている彼の選曲したプレイリストや、本人が日頃から言及している、敬愛する音楽家やバンドの名前を眺めてから本作を聞き返すと、どうも本人の資質や志向性とは別の安全すぎる方向に進み、リスナーからもやや無難な消費のされ方をしているように映る。

 もっと露骨に書けば「たまには毒も吐いてよ、トクマルさん!」というか。前にも"草食系男子コンピ"『Sweet Voices - Gentle Boyfriends』に楽曲が収録されたりもしていたが、なんかそういうのだけじゃなくて! スマートな姿勢だけでなく、もっと感情や皮肉も露わにしたシンガー・ソング・ライターとしてのトクマルシューゴだって見たい。そういう性格ではないのかもしれないけど、結構似合うだろうし面白いと思うんですが。

 それに比べると最近活動を再開した、彼と彼の幼馴染によるバンド、ゲラーズの風通しのよさとメンバー間の緩いノリのほうに僕はどうしてもシンパシーを抱く。先日観たライブにおいても、楽器の弦はすぐに切れ、MCもグダグダで、演奏も勢い任せであったが、そのぶん「何が起こるかわからない」空気がフロアに満ちていた。その危なっかしい刺激こそが、音楽のもたらす感動と直結しているようにも思う。

 それこそ、彼のようなコントロール・フリークの箱庭型ポップ職人であれば(だいぶ例えは古くてすいませんが)、過去にはトッド・ラングレン『魔法使いは真実のスーパースター』(敢えて邦題で)や、XTCの『Big Express』のような、過剰にアイディアを詰め込みすぎてリスナーを突き放すような歪すぎる怪作も世に放たれている。本来は優れたメロディ・メイカーでもある彼らが放った、ああいった狂気の沙汰のようなスリリングなポップ・ミュージックも、彼なら涼しげな表情のまま平然と作り上げてしまいそうで、才能が図抜けているだけにどうしてもそういう方向にも期待してしまう。

 繰り返すが、本作は彼の現時点での最高傑作であり、一寸の隙もない充実した音楽作品である。彼の現行のスタイルは完成間近で、円熟期すら迎えつつある。トクマルシューゴはそのルックスもあって、小沢健二以来の、日本の音楽シーンにおける待望の「王子様」だと言い出す人も出てくるだろう。王子様なら多少のご乱心を見せてもファンは笑って支持してくれるのではないか。ひとまず足場が固まったなら、次はポップ・ジーニアスの壊れた姿も一ファンとして見てみたい。

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 ブルックリン・シーンと呼ばれるものの成熟と岐路を指し示していたのが、何よりも09年のアニマル・コレクティヴの躍進と世界的な高評価だったと僕は思う。Tv On The Radio、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー然り、どうにも「始点」自体が捻じれたバンドが推し進めていった方向性の中で、結実した深みをして、ジャッジする瞬間にピークは過ぎる訳で、ダニエル・カーネマンの言説に沿うまでもなく、そもそも体験の記憶は(集合的な)「主観」によって変えられる。例えば、苦痛の大きさが10として、時間が、5分経過し、終了時の苦痛の大きさが8の場合、仮に苦痛の量を58とする。苦痛の大きさが10で、時間が10分の経過で、終了時の苦痛の大きさが3だった場合、仮に苦痛の量を103とする。苦痛の時間が長く、全体の苦痛の量が大きくても、最後が3だった場合、最後の苦痛が98だった場合より、「より、ベターな記憶」が残る。

 ならば、集合的無意識の誤作動がブルックリンを取り巻く磁場に確実にあった筈で、それは決して他の音楽シーンが退屈で面白くなかった訳では無く、昨年のアニマル・コレクティヴが「My Girls」で描いたサイケデリアの曲線が例えば、コーチェラや苗場に虹を架けるような美しさを持ってして、09年のサウンドスケイプは「本当」に描けるのだろうかという疑義に繋がる。要は、もうブルックリンは熟していた。

 ブルックリンという都市は、経済的に人口区分するならば、区内の労働者人口は44%であり、その他は区外、つまりはマンハッタン等に出る。また、移民の流入率の高い都市でもあり、混在した文化要素が流入するメルティング・ポットでもあり、音楽にも自然と雑成分が高くなるからこそ、面白いバンドが出てくる背景がある。

 そういう文脈で言えば、イェーセイヤーはブルックリン的な混沌と人種の多様性を象徴するバンドであり、ピーク・エンドを弁えたスタンスを持っている。初期構成としてはヴォーカリスト、マルチ・インストゥルメンタリスト、ソング・ライター、聖歌隊という奇妙な構成を保っていたサイケデリックなバンドだった。07年の『All Hour Cymbals』はじわじわと草の根的に世界に伝播していき、その熱量の高いパフォーマンスは多くの人を魅了したのは周知だろう。既に、昨年の時点でPV含め、局地的なバズを起こしていたリード・トラックの「Ambling Alp」では、フレンドリー・ファイアーズ「Paris」以降の感覚論で、野卑なダンス×パーカッシヴな躍動感をリプレゼントしていた。

 今回の、満を持してのセカンド・アルバム『Odd Blood』は明快に「ポップ」な振り切れを為している。ファーストの頃のミステリアスでレイジーなムードは後退したが、その分、アレンジがソフィスティケイティッドされ、3分前後から5分程の曲まで「間延びのしない」タイトな内容になっている。これは或る意味で、MGMTの話題のセカンド『Congratulations』とサウンドの洗練のされ方が似ているのもあり、参照点が違うだけの"失われた双子作"とも言えるかもしれない。MGMTがアノラックやネオアコやブライアン・イーノに目配せしつつ、ソニック・ブームを招く「旧さ」と並行して、彼等は今回、メンバーの変遷を経て、ティアーズ・フォー・フィアーズやピーター・ガブリエルの仕事で有名なジェリー・マロッタのホーム・スタジオを三ヶ月借りたなどのエピソードを踏まえるに、こちらも「旧さ」で言えば、ニュー・ウェイヴの影響が強く、バネやリズムはア・トライヴ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルの「それ」を彷彿とさせる。このサウンド・ワークの明快さが吉と出ているのは特に「O.N.E.」かもしれない。ディスコ・ビートを援用しながら、バウンシーにクラウドを鼓舞させるコンパクトなキラーチューンになっている。ブッシュ政権下でのヒッピーイズムの申し子たちが、オバマ政権下で唱えるサイケデリアはどうにも煌煌とした鮮やかさがある分だけ、資本主義を「意識」してしまったという歯切れの悪さも含んだ、非常にウェルメイドな作品になった。今年のフジロックで満を持して、彼等はパフォーマンスを行なうが、どういったものを見せるのか、個人的に興味をそそられる。00年代のUSインディー・シーンを牽引してきたLCDサウンドシステムが自発的に役割を終える中、何らかのバトンの方向は彼等の近くを廻るかもしれない。

編集部注:日本盤は5月19日(水)にBeatよりリリース予定。

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 何かに名前をつけるとそこに意味が生まれてその名前による因果が始まる。名前とはそのものを解放し呪縛する。そして名前はひとつだけではない、例えば親から付けられた名前は変わらないが(法律的には変える事は可能だがほとんどの人はしない)、その人と対する人との関係性で愛称は変わるし、呼び名も変わる。

 古川日出男著『MUSIC』の冒頭は「その猫にはまだ名前がない。いずれは名前が付けられる。その雄猫にはスタバと。しかし、いまはまだ名前がはない」と始まる。夏目漱石著『我輩は猫である』の冒頭は「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ」と始まる。

 前者は名付けられるが、小説は猫の視点だけで語られてはいない。後者は名付けられないままに、その我輩と自ら名乗る猫が語り手として小説を語る。

『我輩は猫である』は有名な「猫小説」である。ならば『MUSIC』は「猫小説」であるか否か。もちろん「猫小説」だ。

『MUSIC』の前史には三島賞受賞作品『LOVE』という作品がある。もちろんこの『LOVE』も「猫小説」であり、対となるのは直木賞候補になった「ベルカ、吠えないのか?」という著者の作品で犬たちの系譜の小説で第二次世界大戦から冷戦終了までを犬の視線でその一族史で語る「犬小説」だった。

『LOVE』は目黒川が流れ東京湾に注ぐ流域の目黒区、品川区、港区が舞台となっている。僕は以前目黒川の始まりである国道246で区切られた世田谷区と目黒区の目黒川の始りから東京湾まで歩いた事がある。天王洲アイルまで、その後そのまま東京タワーまで歩いていった。東京タワーに歩いていったのは僕の理由があったからだったが。

 僕は歩きながら小説の中に出てきた品川駅が港区にある事を確かめたり、国立自然教育園に立ち寄ったりした。歩いて僕が感じたのはここはかつて海だったんだという事。

「LOVE」=「愛」は明治維新以降に英語が入ってきてその訳として「愛=あい」という言葉が当てられ定着した言葉。だから「愛」という漢字は存在していたが「愛=あい」という意味ではなかった。

 首都・東京は海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語。だからきっと「LOVE」なんだと僕は思った。その続編にもなり、数名の同一人物のその後が描かれているのが『MUSIC』だ。

『LOVE』の文庫のあとがきに古川さん本人が『LOVE』『ゴッドスター』『MUSIC』は同じ系譜にあると書いている。『LOVE』が新潮文庫から発売されたことでこの三作は新潮社から刊行されている。

 古川日出男新潮三部作とも言えるかもしれないが、僕はこの三作の舞台がさきほど書いたようには海を干拓し侵蝕していった、近代以降の土地、そこを舞台にした物語である共通から「古川湾岸三部作」と名付けたいと思う。

 ただし新作『MUSIC』は東京と京都という二都が舞台になりさらにスケールを拡げている。京都には僕が目指した東京タワーではなく京都タワーが存在している。もちろんシンボルは物語の中で重要な意味を持つ。

 作者の古川日出男氏は「朗読ギグ」やイベント等で自身の作品を朗読している。彼の作品の特徴は声に出して読むことで文体が、単語がさらに強化される「小説」である。そこには何があるのか? そうリズムがある。

 文体のリズムがあり、声を出して読むことでそれは「音楽」にもなりえる言葉の強さがある。古川さんと「朗読ギグ」をしたZAZEN BOYSの向井秀徳さんが作る音楽のように言葉とリズムがせめぎ合い新しい音楽と文学を創造する。そして作品を読んでいくと古川さんの小説と向井さんの音楽が共鳴していることに気付く。彼らは共犯者なのだと僕は読みながら感じて嬉しくなった。

『MUSIC』はスタバだけの物語ではなくスタバと邂逅する人物たちの物語でもある。彼らはもちろんスタバと邂逅するし(一人はスタバと名付ける名付け親だ)、そして物語の主軸になるスタバが「MUSIC」を鳴らし、ニャつがどしどしと蹴って歩いて横断して連鎖させて地面という譜面に音符を書きなぐる、もちろんその肉球で。

 スタバと邂逅する人物たちも彼らも彼らの行動や思惑で音符を、そして各自の物語が、音符が鳴り響いて音楽が生まれて「小説」になる。この作品はそういう小説であり音楽だ。ハーメルンの笛吹きのような猫笛で数十匹の猫を引き連れていっていても、物語の始まりにはスタバがいる。そうこれは現在進行形の僕らの時代の「猫小説」なのだ。

 物語の最後は畳み掛けるように終結していく。様々なピースが、音符がそこに集結して一気に鳴らす。文体のリズムは音楽だとも思うし、そういうことを意図的に書いているのが古川さんの小説の特徴だ。ジャンルのクロスオーバーみたいだ。

 古川さんらしいというかお得意でもある言葉遊びみたいな単語の使い方やルビ。それが物語の展開にしてもそこから起因している所が大きいし、だからやっぱり読みながら、読み終わって思うのは古川文学は、古川さんは小説を「マジメにふざけて」やっているということだ。

 そこには覚悟とか自信とか自分にしか出来ない事をやろうという明確な意志がないと無理だからだ。新しい何かを生み出そうとする明確な意志だ。それが「マジメにふざける」ことができる本質というかコアだ、そう核だ。だからこそ僕は惹き付けられる。

 あなたが今現在最高にエッジが効いてて、音楽が鳴り響き、笑っちゃうぐらいにふざけている小説が読みたいのならこの『MUSIC』がある。

 笑ってしまうぐらいにカッコいいのか、カッコいいから笑ってしまうのか、どっちなのかわからないけどそれは新しい時代を作る最先端を疾走するエッジの効いた音楽も小説も一緒だと思う。

 古川日出男作品を読むと無性に歩きたくなる。僕らの人生に「物語」が溢れていることを教えてくれる、あるいは再認識させてくれる。そこには著者が歩いて見たその景色の肌触りが小説を通して僕らに伝わってくるから。

 僕らは歩いて生き、生きて歩いていく。

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 冬だった。僕はコートの襟を立て、首をすくめ、西荻窪駅の改札口を出た。駅前は会社帰りのサラリーマンや女子高生、買い物帰りの主婦で溢れている。彼らや彼女達のしゃべり声、電車の音が嫌に耳についた僕はCDウォークマンのイヤホンを耳に突っ込もうとバッグに手を入れた。その瞬間、かすかではあるが、バイオリンの音色が聞こえてきた。

 どこかの店がラジオでも流しているのかなと思ったが、駅の路地を出るとバイオリンを持ったひとりの白人男性が立っていた。年は三十代半ばに見える。すらりと背が高く、高級そうな黒い紳士服を着用し、顔は端正だ。彼の仕草、振舞いは、まるでクラシックのコンサート会場から飛び出てきたようだった。演奏を一通り終えると彼は丁寧にお辞儀をし、周りに集まった人々に文字が書かれている青い紙を手渡していた。集まっていた人々と言ってもわずか5人程度だが。

 紙には「ヤレック・ポヴィフロフスキ」と書かれている。名前のようだ。僕は全く知らない。経歴も書かれていて、首席で有名な音楽大学を卒業し、権威ある賞も取って、かなりのエリートなのだが、「音楽をコンサートホールに閉じ込めてはいけない」という持論から様々な国を転々とし、路上で演奏をしているとのことだ。笑顔を忘れず、聴き入っている人々に愛想良く振舞う彼の紳士的な佇まいに好感を持った僕は足を止め、しばらく演奏に耳を傾けた。

 新宿駅を出た辺りでロック・バンドやどこかの国の民族音楽を演奏する人たちを目にするが、たったひとりでバイオリンを弾く人は見たことがなかった。外で演奏するということは、当然騒音も入ってくる。車の音。電車の音。人のしゃべり声。決して音が大きいとは言えないバイオリンを外で弾くことは、周りの雑音によって音がかき消される可能性が高いわけで、ある種、自殺行為のように思えた。それゆえ、ジョン・ケイジのように雑音をも音楽として捉え、自分の音楽に取り込むような演奏をするのか、もしくは即興演奏をするのかな、と思ったのだが、全くそのような素振りは無く、有名なクラシックの楽曲を楽譜どおりに演奏していた。三分か二分に一度の割合で、ガタンゴトンと電車の音が不器用に聞こえて来る。その度、バイオリンの音はかき消される。全くと言っていいほど聴こえない。僕は外でバイオリンを弾く意味を解せなかった。

 そこで一通り演奏が終わったとき、僕は片言の英語で尋ねてみたのだ。「なぜ外で演奏するんですか?」と。きっと皮肉に聞こえたのだろう。彼の表情は一変した。文字通り全身のジェスチャーを交え、「何を言っているんだ! どこで演奏したっていいじゃないか。僕はただ、みんなに聴かせたいだけなんだ!」。そう説明してくれた。いや、訴えたと書いた方がベターかもしれない。僕は英語が苦手であるから意訳ではある。ただ、彼の表情は真剣だった。

 そうなのだ。元々音楽は生活に密着したカタチで存在し、鼻歌や口笛や、それこそ人がなんとなくリズムに乗って膝を叩く音が音楽であったりした。音楽評論家の小泉文夫氏は代表的な例として「わらべうた」を挙げている。どこで演奏したって、どんな音を奏でていたっていいのである。つまり、「音楽=CD」「音楽=コンサート会場で聴くもの」という概念は音楽を商業または芸術として捉えて初めて出てきたものなのだ。音楽はCDやライヴだけではない。小波の音を音楽として聴く人がいるし、東南アジアにはにわとりの声を音楽として聴く人が存在する。僕らは、いや、もしかしたら僕だけかもしれないが、音楽はCDに収録されているもの。ライヴ会場で演奏されるもの。そんなふうに音楽を物凄く限定された世界に押し込めてはいないだろうか。

 もちろん音楽が芸術、そして商業として捉えられたことで発展してきた部分は大きい。CDもレコードもラジオもなかったら、僕らはここまで音楽に夢中になることはなかったかもしれない。だが、発展したがゆえに、芸術や商業として捉えられるようになったがゆえに、リスナーに優劣を付ける風潮があるのも事実だ。なんだか、それが、哀しいのだ。

 ヤレック・ポヴィフロフスキ。彼が西荻窪駅前で奏でたバイオリンの音色は人々の心に届かなかったかもしれない。無視して通り過ぎた人も多くいただろう。それでも彼は今も世界のどこかでバイオリンを弾いている。「音楽をコンサート会場に閉じ込めてはいけない」「音楽とは自由だ」という意思を込めて。

 だが、その演奏に聴き入っていた僕の右手には、見事にパッケージングされたCDという名の商業音楽が、「NO MUSIC NO LIFE」と書かれた黄色く眩しい袋とともにあった。

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