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LAMBCHOP.jpg ジャケットを見て違和感を覚えた人にこそ聴いてほしい。そしてラムチョップを聴いたことがない人にも。

 ラムチョップはカントリー&ウエスタンのメッカと呼ばれるアメリカはナッシュビルのバンド。この地は1925年から今も続いているカントリー・ミュージックの有名番組「グランド・オール・オープリー」の発信地だ。そういった場からラムチョップが誕生したのは当然のように思う。彼らは古き良きカントリー・ミュージックの良心であり、オルタナティヴな存在でもある。新譜が発表されるたびに「これ以上のものはもう作れないだろう」というほど最高と呼べるものだった。が、しかし、スタジオ・アルバムとして11枚目となる本作『Mr. M』もまた、最高傑作と呼べるもので、この先何年も作品を発表するごとに傑作の呼び声を傑作にとどめず最高という言葉で彼らの作品は塗り替えられていくのだろう。フロントマンのカート・ワグナーが全精力をつぎ込んだと語ったとおり、デビューから約20年経った今も創作意欲は尽きることを知らない。そんなところも最高であるし、この作品も勿論のこと最高だ。

 触れる程度に寄り添うアコースティック・ギターの音色が背中をなでるように、また、リズミカルに鳴り、余白にオルガンの音色が条件反射的なタイミングで響き楽曲に色をつける。ゆったりとした歩調で進む楽曲の数々を聴けば気持ちの昂ぶりとともに落ち着きが芽生えるというパラドックス。そして訪れる哀しみに気付く。それは、本作は、共演したこともある故ヴィック・チェスナットに捧げられているからだろう。ロンドン・ストリング・アンサンブルとトスカ・ストリング・カルテットによるストリングスが醸し出す哀しみに覆われるがラムチョップは決して絶望に暮れている訳ではない。静かに強く歩を踏み出しているかのごとく音を鳴らす。聴いているとその様に背中を押される思いだ。

 もし、このレヴューを読んでいる方の中に黒人性も含めてカントリー・ミュージックに何らかのエキゾチシズムを持ってはいるが、敬遠気味の方がいるとしたら本作を聴くのはとても幸せなことだと思う。カントリーを深く、そして身近に感じられるのだから。音楽評論家の萩原健太氏が「カントリーを敬遠しているリスナーにはポコを薦めたい」と語っていた記憶があるが、僕ならば迷わずラムチョップの本作を薦める。ポコ以上に親近感を覚えるはず。ラムチョップがこれまでの作品でローファイなロックや音響派など、様々な要素を自らの音楽に落とし込み、それらを通過した上で必要な音だけ鳴らしているのが本作であり、通過したがゆえに「今」として鳴っているのだ(ヨ・ラ・テンゴのメンバーもお気に入りの00年に発表された『Nixon』と聴き比べると面白い)。

 カート・ワグナーの渋味のある、滑らかな歌声は瞬時に聴き手を虜にし、場合によっては訳も分からず涙する人もいるであろう哀愁とやさしさがある。朴訥とした歌声ながらも音の弾みを穏やかな視線で見詰めるカートが傍にいる錯覚すら感じるかもしれない。ラムチョップの音楽は遠い場所からは絶対に聴こえてこない。聴き手はすっと音の中に入っていける。カントリー好きは勿論、カントリーはそれほど好きではない方も、彼らの音楽を聴けばカントリー・ミュージックに対するエキゾチシズムや何かしらの違和感はあっさりと抜け落ち、自然に自分の中にカントリーの存在が生じてくる(まさに初めてラムチョップを聴いた時の僕がそうだった)。本作で鳴っている音は想像力との会話によって異国との距離を近くする。勿論、カントリー云々を抜きにしても素晴らしい作品。一生聴ける。

 

(田中喬史)

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JOSEPHINE FOSTER.jpg フェデリーコ・ガルシア・ロルカは、ここ日本でも人気の高いスペインの詩人/劇作家だが、1933年に訪問したブエノス・アイレスで『ドゥエンデのからくりと理論』という講演を行なった。そもそも、「ドゥエンデ」とは、"dueno de casa"というフレーズが省略されたものであり、想像上の精霊としての意味に加え、定義的には曖昧な部分も振れるが、スペイン南部のアンダルシーアにおける「神秘的ながら、どうとも言いがたい魅力」というものでもあり、具象的には歌、舞踏、芸術を指す際の言葉と捉える視角でも良いと思う。ロルカは当該講演で、ドゥエンデについて言及した。あらゆる芸術にドゥエンデは宿ることが可能だが、もっとも広く宿るのは、当然のこと、音楽であり、舞踊であり、朗誦される詩だ、と。

 ジョセフィン・フォスター&ザ・ヴィクトール・エレーロ・バンド(Josephine Foster & The Victor Herrero Band)が2010年にリリースした『Anda Jaleo(アンダ・ハレオ)』は様々な意味で話題になったのも記憶に新しい。冒頭のロルカが採譜・編曲の上で束ね、録音した1931年のスペインの民謡集「Colleccion De Canciones Populares Espanolas」では、彼が実際にピアノを弾き、舞踏家のラ・アルヘンティニータが歌うという内容で、もはや古典といってもいいものだ。その中から、11曲を選び(今回の国内盤には1曲が追加されている)、グラナダで一発録音された作品である。アメリカ人の女性SSWとして独自のキャリアを重ね、ときに、アメリカの19世紀の詩人エミリー・ディッキンソンの詩に曲を乗せた2009年『Graphic As A Star』といい、その活動に一定の評価を得ているジョセフィン・フォスターの伸びやかにして清冽たる声。そこに、公私とものパートナーであり、バンドのヘッドたるヴィクトール・エレーロの寄り添うようなハーモニーと軽快なスパニッシュ・ギターの響き、メンバーの彼の弟、友人がパーカッションなどを重ね、「混種」しながら、民謡の持つ重み、土臭さも巧みに描写せしめていた。

 まるで、かのフランスの詩人アンドレ・ブルトンが抱いていたという"もっとも強いイメージ"とは、"もっとも高度な気ままさを示しているもの"、そういう雰囲気に近いだろうか。スペインの民謡集に宿る歴史も慮りながら、しっかりと今の時代に伝承する心遣いに満ちた内容だった。

 同じメンバーでのこの新作『Perlas(ペルラス)』では、ニュー・フォークの追い風を受け、スペインの各地に伝わっている伝承歌をジョセフィンがチョイスし、自作曲も一曲入れ、アナログ・テープに一発録音したものになっているが、『Anda Jaleo』と簡単に比較対象は出来ないが、柔らかな陽射しが差してくるようなウォームな空気はこちらの方が強いかもしれない。

 昨今、ベックやローラ・ヴェイアーズなどトラディショナル・ソングを掘り起こし、今の温度で再表象しようとする動きが世界の各地で少しずつ起きているが、それはグローバリゼーションへの反撥や商業主義への距離感といったものではなく、各国に眠る芳醇たる歴史に耳を傾ける必要性が出てきているということだとしたならば、偏狭なナショナリズムではなく、味気なく平質化されるカルチャーへの「原資(エレメント)」の呈示行動なのではないか、とも思いさえする。とともに、未来を生きる子供たちに向けた視座も包含されているだろう。日本には明瞭に「温故知新」という言葉があるが、それもあるとは察するし、各表現者たちが自覚的に自分たちの表現のルーツや背景を見返し、そして、前へ進もうとするための禊ぎの時代と形容してもいいのでないか、と思う。

 新しい音楽に新しい時代が反映されるというのはあり、文化の変遷により、忘れ去られてしまう曲も止むを得なく出てくるのを時代のせいにするのも分からないでもないが、こうした試みによって伝承歌が至って、当たり前に2012年の生活に「関わる」というのもとてもいい気がする。ロルカ沿いにドゥエンデが見えてくるような二作になっている。

(松浦達)

 

筆者注)日本国内盤は『Anda Jareo(アンダ・ハレオ)』と『Perlas(ペルラス)』のダブル・アルバム仕様のため、前作の『Anda Jareo』にも触れさせて戴きました。何とぞ、ご了承下さい。

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THE GREEN KINGDOME.jpg コンスタントに傑作アンビエントを届けてくれる、デトロイト出身のマイケル・コットンことザ・グリーン・キングダムによる4枚目のフル・アルバム。プロジェクト名を変えたり、ダークなアンビエント路線やポスト・クラシカルへ浮気をしたりせず、ひたむきに荘厳なアンビエントを制作し続ける彼の姿勢が、本盤を傑作たらしめた。リリース元の《Nomadic Kids Republic》は《Home Normal》のサブ・レーベルに位置し、マップス・アンド・ダイアグラムスやBvdubなど、本家よりもさらに内省的なドローンやアンビエントを制作するアーティストが国内外から集まっている。

 エレクトロニクスは囁き声のように微かなビートから、淡く滲んでいくレイヤーまで、マクロにもミクロにもアルバム全体を埋め尽くしている。アコースティック・ギターやストリングスは、電子音の隙間へと丁寧に配置されている。それらが持続音や環境音へ溶け込む手法は、今では多くのアーティストにやり尽くされたものの、掛け値なしに美しいことは断言したい。彼のアンビエントは情報量が多く、縦横無尽に多様な音が駆け巡っていながらも、一つ一つの音が小さく繊細であるため、いわゆるフォーク・トロニカにも通じる細々した朴訥さも僅かながらに秘めている。《Home Normal》は勿論のこと、12kやテイラー・デュプリー周辺に関心のある方には、是非聴いて欲しい。エレクトロニクスと生楽器が共生するアンビエントが好きな方の琴線に触れるであろう「あの音」が鳴っている。

 

(楓屋)

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Yosuke_Yamaguchi_cover_art.jpg 『Ç86』と聞いてピンと来た方もいるだろう。このタイトル、ギタポの教典として今もなお語り継がれているコンピ『C86』から拝借したものだ。とはいえ、収録されているのはまんま1984~86年頃の音楽ではなく、チルウェイヴを通過したポップ・ミュージックであるのは強調しておきたい。他にもオカルト・ユー(タクワミの変名)「Y」、ウーマン・イン・ザ・デューン「Eats (Sending Out An SOS)」は昨今盛り上がりを見せるニュー・ディスコ/バレアリックに通じるインディー・ダンスだし、アルバム後半にはイル・デイズ「Hallucinatory Soap Bubbles(Lo-Fi Ill Mix ver.)」、エクスコウ「17」といったエクスペリメンタルなエレクトロニカもあり、実に様々な楽曲が収録されている。そしてエクスコウはなんと、マッドエッグの変名である。「17」はローな音像が耳に残るマッドなシンセウェイヴなんだけど、マッドという意味では、「17」こそマッドエッグの名にふさわしい気もするが・・・。それはともかく、本作には最先端のインディー・ミュージックが収録されているということだ。

 でも『Ç86』と銘打っているだけあって、当時のリアルタイマーを揺さぶる要素もある。本作を企画した首謀者モスクワ・クラブの「Our Pastime」はニュー・オーダーを想起させるメロディー・ラインが特徴的で、スロウマリコ(名前の由来はスロウダイヴでしょうか?)「Dolly Almost Touched You」なんて、もろジーザス・アンド・メリーチェインだ(ただこの曲に関しては、元ネタを知らずにそうなってしまった感もある)。さらにはジョイ・ディヴィジョンの影がちらついてしょうがないフィギュア「Given」なんてのもあったりする。本来バンドを引き合いに出して例えるのは好きじゃないが、そんな筆者を引き合い魔にしてしまうくらい"元ネタ"と呼べるものがたくさんあり、言及せずにはいられなかった。おまけに『C86』収録曲のカヴァーまでついてくるし、首謀者モスクワ・クラブと、本作を企画するにあたって参謀に近い働きをしたエレン・ネヴァー・スリープスは、C86時代の音楽(そしてC86世代に影響を与えた音楽)に特別な思い入れがありそうだ。

 ちなみに本作は東京、千葉、神奈川、愛知、大阪、鳥取、京都、福岡、北海道を拠点とするバンド/アーティストが参加している。ここまでバラバラだと単なる寄せ集めになりそうなものだが、不思議と本作には一体感に近い熱気がある。そして何より、自由気ままに音楽を楽しむ者が集まったことによる賑やかさ! この熱気と賑やかさは、送り手と聴き手の間でインタラクティブを確保するのがイージーになった"今"を祝っているかのようである。そんな本作は、音楽の在り方の変化を世に示す声明であり、未来へ向けたブループリントになりえる。てのは、筆者の考えすぎ? だが、商業化に走り過ぎたメジャーに対するアンチ・キャンペーンの一環として生まれた側面もあるのが、本家『C86』である。そして音楽産業の限界が叫ばれる今、その『C86』の名を拝借したコンピが生まれたのは果たして偶然なのか。まあ、考え過ぎてこじつけるのは僕の悪い癖。でも、こうして存在してしまっているという事実に、筆者は真理を見出してしまうのである。

 

(近藤真弥)

 

※本作はリンク先からダウンロードできます。

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LLLL.jpg 本稿を書くにあたっていろいろ調べてみたのだけど、どうやらLLLLは東京を拠点とするデュオらしいのだが、それ以外は一切の詳細が不明というミステリアスぶりである。ちなみにバンド名は、「視覚的に決めた名前ですので、"フォーエル"もしくは"エルエルエルエル"とで、まだ決めかねています」と、ツイッターで本人とやり取りした際に教えてもらいました。まあ、それはともかく、本作をバンドキャンプで発見したとき、記号のようなバンド名に目がいったのは言うまでもない。

 本作はLLLLのデビューEPにあたるが、《The Fader》に取り上げられるなど、早くも話題になりつつある。そんな本作をマイ・ブラッディー・ヴァレンタインに例える声もあれば、最近注目のトリルウェイヴと呼ぶ声もあるが、マイブラやトリルウェイヴ、そのどれもが本作にはあるし、他にも様々な音楽的要素が混在している。

 トランシーな音像、そしてサイケゴシックな雰囲気というのは本作のカラーを決定づけているが、グルーヴはベース/ビート・ミュージック以降を感じさせるし、ディレイとリバーブは明らかにチルウェイヴを通過したものだ。しかし一方で、シンセ・リフとウィスパーな女性ヴォーカルの絡み方は90年代のアニソンを思わせる。ちなみに筆者は本作を聴いて、アニメ『天空のエスカフローネ』の世界観が、一瞬だけだが頭によぎった。メタリックな質感を持つパッド音は近年のJ-POPやゲーム音楽に近いものだし、"日本ならでは"の要素が随所で窺えるのも面白い。そしてこの多面的な音楽性は間違いなく、日本のインディー・ミュージックにもポスト・インターネット的感覚が存在する証左となっている。

 

(近藤真弥)

 

※本作はLLLLのバンドキャンプからダウンロードできます。

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少年と自転車.jpg ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌは、以前に日本で聞いた「帰ってこない親を施設で待ち続ける子供の話」を元にして、この映画は生まれたという。

 ベルギーという国のイメージは例えば、日本から見ると、ブリュッセルの風光明眉な都市風景、ベルギー・ビール、チョコレートやワッフルなどが先立つのだろうか。実際、GDPを見てみれば、一人当たりの数値は世界でも非常に高い。しかし、「モノを生みだす」国というよりは貿易に依拠している小さな国のため、失業率は非常に高い。勿論、工業とサービス業が発展している北部とそうではない南部の開きはある。ダルデンヌ兄弟は所謂、失業率が特に高いというワロン地域の工業都市リエージュで生まれている。

 これまで、彼らが録ってきた映画はドキュメンタリーから始まり、シリアスな様相を含んできた。3作目となる1996年の『イゴールの約束』では、自転車の見習工をしながら、絶対父性に縛られた少年をモティーフに、そのイゴールの父であるロジェの不法入国者の斡旋業に関わる中で巻き込まれてゆく峻厳な現実にどうしようもなく強さを得ないといけないイゴールの姿が鮮烈に映る作品で、世界でも注目を集めた。

 1999年の『ロゼッタ』でも底辺の生活をおくる少女ロゼッタを通し、生々しくも痛みを帯びた視界を進む姿を切り取ってみせた。2002年の『息子のまなざし』は、特にこの日本でも多くの人たちに受け容れられた作品なので周知の方も多いだろうが、彼ら特有の貼り付くような、独自のカメラ・ワークや演技/映画の枠を越えてくるかのような手法が認知され、少年犯罪を巡っての究極の問いが投げかけられるもので、人間のカルマから尊厳までを考える中で、国境というものよりも家族や個という"ユニット"に降りてゆかざるを得ない難題を示したのかもしれない。いざ、「公」がそのユニットに介入するとしても、葛藤や苦悩は個に内在化されてゆくばかりで、そのサルヴェージを行なうのは実は社会でもなく、身近なユニット内における承認や断罪を探る可能性ではないか、という行為を求めるということ。

 思えば、スーザン・モラー・オゥキン(Susan Okin/フェミニスト、アメリカの政治 学者)は過去、以下のことを述べていた。

「どれほどわたしたちは、子どもを育てる者たちが、その選択のために、彼女たちのその他の可能性を広げる機会を制限してしまうか、そして、社会の諸価値や方向性にほとんど影響を与えることができなくなること、ということを気にかけているだろうか。どれほどわたしたちは、家族というわたしたちの最も親密な社会的集団が、しばしば日々の不正の学校であることに気を配っているだろうか。」(Okin 1989: 186)

 "「不正」の学校"という言葉をどう捉えるかは難しいが、家族という制限された親密圏での自由から広義の社会における自由の橋を渡るには、公私二元論だけでは分けられないジレンマも当たり前に包含する。昨今、日本でも事件としても取り上げられることが増えたネグレクトやDVを受けた子供たちの歩み。加害者としての親、被害者としての子供、いや、相対的にそれは入れ違うのか、構造としても複雑だ。

 このダルデンヌ兄弟の新作『少年と自転車』(原題:Le Gamin Au Velo)での主人公のもうすぐ12歳になる少年シリル(トマ・ドレ)は父親に捨てられ、児童養護施設に入っている。彼は、ダルデンヌ兄弟の冒頭の言葉のように、父親が迎えに来るのを「待っている」。しかし、電話も繋がらなければ、居住場所も分からない。

 施設を抜け出し、自分で父を探しに出るときに偶然、美容院を経営するサマンサ(セシル・ドゥ・フランス)という女性に出会う。彼の懇願もあったが、彼女は週末だけシリルと自分の家で過ごすことになる。その間も自転車で、街を走り、父親を探す。ちなみに、この作品内での「自転車」も象徴的な記号になっている。ついにと言おうか、彼は父親と会うことが出来るが、「もう会いに来るな。」と激しい拒絶を受ける。

 シリルの悲嘆と屈折に沿うように、サマンサは「良識ある大人」として彼に道徳観や慈しみを直截的に向き合い、行動、言葉で教えてゆく。一緒に自転車で河原を進むカットなどはとても光が差していて、微笑ましい。途中、施設出身者の不良が出てきてシリルを犯罪に巻き込もうという展開や所々に挟まれる闇が不安定な年齢の少年の内部を描き、彼の生きる現実を表わす箇所もあるものの、これまでのダルデンヌ兄弟にしては、エンディングに含みを持たせた優しさも見える内容になっている。

 父親が購入し、サマンサが買い戻したシリルの自転車と彼女の自転車を「交換」して、お互いが並行して走る先に見えるものはそう簡単に拓けた未来ではないかもしれない。トマ・ドレの繊細な感情の機微を含んだ演技も相俟って、一少年の成長譚と簡単に片付けることの出来ない現代的な投げかけを持った内容になったと思う。エンディング曲のベートーヴェンのピアノ協奏曲『皇帝』が柔らかな余韻を残す。

 

(松浦達)

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HIRAGA SCHIE.jpg 一口に「共感を得る」と言っても、いくつか種類がある。一般論を口にすれば共感は得られるのだろう。逆に、誰も気付いていないが聴き手の深層にある心理を口にすることで他者の心理をすくい上げることも共感を得ることに繋がる。ファースト・アルバム『さっちゃん』を経て発表された、SSW平賀さち枝の6曲入りのミニ・アルバム「23歳」はまさに後者で、共感がキー・ワードでもあるのだ。

 シンプルにギターを弾きながら、あどけない声で自らの心情を辺りの空気に溶け込ませるように歌う彼女の姿には気負いがなく、窓から外を眺めながら歌を口ずさんでいるようでもある。その等身大の姿が目に浮かび、平賀さち枝は過剰なアーティスト気質を持っているのではなく、聴き手という立場から音楽を奏でているのだろう。だからして彼女の歌は聴き手である僕らの気持ちにすらりと収まり、リンクする。軽やかなピアノ。雄大なベース。刺の無いメロディ。それらが本作をただのフォーク・ミュージックだと言わせないかのように鳴っている。そして歌詞を読めば、彼女に見えている風景は僕らにも見えている風景であることに気付く。しかし平賀さち枝は心情と風景を細部まで描写する。そこには僕らが今まで気付かなかった、生活の中のちいさな幸せが含まれていて、思わず微笑んでしまうだろう。

 そんな、ちいさな幸せに共感する。本作にはどこかの政治家が言った「死ぬ気になれば何でもできる」「夢を諦めるな」という掛け声だけの言葉よりもずっと勇気づけられるものがあるのだ。それゆえ、彼女のフォーク・ソングには普遍性が宿っている。

 本作のラストには「パレード」という曲が収録されているが、ここで言うパレードとは仰々しいものではない。音楽に憧れて岩手県から上京した平賀さち枝にとって、東京の街を歩く人々はさながらパレードのように見えたのだろう。中ジャケにはそれを暗示するような写真がある。私事だからといって恐縮はしないけれど、田舎から上京してきた僕は彼女が見た東京に対する思いに共感させられてしまったのだった。きっとそう感じるのは僕だけではないはず。

 ショピンやグッドラックヘイワのメンバーが参加した本作にはジャズの要素が含まれている。しかし、平賀さち枝には彼女が持つあどけなさとは裏腹に、どのような音楽性であっても歌声を華麗に聴かせる力がある。そういったところに共感を超えて、憧れすら抱いてしまう。だが、僕らは憧れている場合ではないのかもしれない。聴くたびに、都市の中で彼女のように自分の歩調を失うことなく生きなければならないという思いが音楽を通して浮かんでくる。その意味で、本作には強さがひっそりと存在する。そこにまた、共感と同時に勇気をもらえる。

 

(田中喬史)

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Shackleton.jpg 結論から言うと本作は、デヴィッド・ボウイ『Low』である。ボウイが『Low』で描いたヨーロピアン的世界観は今尚その影響力を発揮しているが、そのヨーロピアン的世界観を支えているのは、『Young Americans』から顕著だった黒人化を果たしたリズムである。こうした両面性は、クラフトワークやカンといったゲルマン・ミュージックに当時のボウイが影響を受けていたことによるものだが、そんな『Low』からは、"西欧人による西欧的な本質的表現"という意味で"オクシデンタリズム"と呼ぶべき思想の蹂躙性を感じとれるし、その蹂躙性に通じるものが、2枚組となった本作にはある。

 まず『Music For The Quiet Hour』は、全5曲が収録された組曲形式の作品となっている。暗黒の電子音によるエクスペリメンタルなアンビエントは、スロッビング・グリッスルと『Breaking The Frame』におけるサージョンを掛け合わせたような、不気味でドープな雰囲気を生みだしている。しかし「Music For The Quiet Hour Part 2」以降は、お得意のトライバル・パーカションに不穏なヴォイス・サンプルも登場するなど、シャックルトン節が炸裂する。シャックルトンは影響を受けた音楽にカンといったクラウトロック系のバンドを挙げているが、クラウトロックのゲシュタルト崩壊的快楽は、『Music For The Quiet Hour』において重要な要素だと思う。そういった意味で『Music For The Quiet Hour』は、シャックルトン流クラウトロックとも解釈できるだろう。

 そして『The Drawbar Organ EPs』は、3枚に分けてリリースされたEPをひとつのアルバムとしてまとめたものだ。統一的な『Music For The Quiet Hour』とは違い、『The Drawbar Organ EPs』は雑食的な作品だが、散漫になっていないのはさすがといったところ。『Music For The Quiet Hour』では"度々"登場するガムランの旋律やアフリカン・ビートも、『The Drawbar Organ EPs』では"頻繁"に登場し、シャックルトンにしては比較的フロア仕様のトラックが収録されている。そんな『The Drawbar Organ EPs』は、カットアップ的手法で作られた横断的アルバムだと言えるが、インタビューでも自身が認めているように、シャックルトンの辺境音楽に対する造詣は深くない。辺境音楽の音そのものに興味はあっても、歴史や伝統には無頓着だし、それは本作に歴史や伝統をふまえた表現が見受けられない点からも容易に察しがつく。

 先に筆者は、『Low』における"オクシデンタリズム"の蹂躙性に通じるものが本作にはあると書いた。だがボウイは、彼なりのルーツといったものにこだわりを持ち、『Pin Ups』では自らのルーツを再確認、『Young Americans』ではアメリカに乗りこんでレコーディングするなどし、その追求は『Let's Dance』に繋がるわけだが、その過程でボウイは蹂躙性を捨て去ってしまった。一方のシャックルトンは、ボウイが捨て去った蹂躙性を引き継ぎ、己の音楽的探究心と欲望に身を任せたような音楽を鳴らしている。その音楽は、ニコラス・ジャーに言わせれば「それって現代の植民地主義なんじゃないかな?」(ガーディアンのインタビューにおける発言)となるのかもしれないが、シャックルトンの蹂躙性は、ポスト・インターネット世代が持つ良い意味での軽薄さと共通するものであり、そういった意味で本作は、ダブステップ・コーナーの片隅ではなく、グライムスやトリルウェイヴ勢の作品と一緒に並べられてもおかしくないし、それだけの同時代性がある。

 

(近藤真弥)

 

 

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Good luck.jpg イタリアのインディー・ロックを代表するジャルディーニ・ディ・ミロが4枚目のフル・アルバムをリリース。エレクトロニクスやオーケストレーションを派手に導入した2008年の『Dividing Opinions』と、サウンド・トラックとして制作された2009年の『Il Fuoco』とを経て到達した本盤は、紛れもなく痛快なギター・ロックに化けている。上記の2作に漂っていた壮大かつ不穏なアンビエントは削がれ、一転してミニマルな楽曲が光り、"引き算のロック"のぎらりとした魅力を存分に発揮している。ポスト・ロックやスロウコアの文脈でばかり語られるのは、とても勿体ない。

 ギターの硬質なトーンやフレージング、演奏技術の高さ、楽曲の複雑な構成はポスト・ロックを想起させ、不穏さを纏ったアルペジオと、緩やかに広がっていく空間系エフェクト、ルッチーニのロウなヴォーカルはスロウコアを体感せずにはいられない。本盤はそれに加えて、ギター・ロックの持つダイナミックさを兼ね備えているのが最大の魅力である。ストレートな8ビートにバッキングとコーラスが乗っかり、ベースはルート音をタフに弾き続けている「Time On Time」や「Ride」の不思議な疾走感なんてとにかく最高だ。そう思えば、深く歪むギターとダークなアルペジオが対照的な「Flat Heart Society」は前作までの延長線上のようであり、6分の楽曲にこれでもかと多様な展開を織り交ぜていることには唸らせられてしまった。技巧派のイメージが強かったジャルディーニ・ディ・ミロだが、これはちょっと認識を改めなければいけない。ライヴが観たい!

 

(楓屋)

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THE PONY.jpg  最近では韓国に行くと、まずはソウル中心街内の弘大(ホンデ)にアート・シーンの芽吹きがあり、ライブ・ハウスやアトリエも包含し、NYのかのThe Factoryを思わせる磁場も仄かに出来あがってきている。そこにある弘益大学という芸術系大学の子たちや集まっているアーティストと話を交わすと、例えば、日本のオルタナティヴな音楽や文学への愛好、西洋の音楽でもエッジなもの、アンダーグラウンド・シーンにも詳しく、またはバンクシーのことで盛り上がったりもする。彼らは容易にネットなどを経由して、ボカロにも中田ヤスタカ辺りのエレクトロニック・サウンドにも敏感で居ながらも、ダブステップ、ジュークまでを平質にリテラシーする能力の高さも凄いが、よくよく鑑みれば、《Pastel Music》レーベルの昨今の動きの活発さも思うと、K-POPではなく、K-ALTENATIVEともいえるような目覚ましい台頭をしてきているのも当たり前なのかもしれない。

 Daydream、Ninaian、Jowallなどのポスト・ロックを通過した鮮明なアンビエンスを描くバンドも着実に評価が定められてきてもいるが、このたび、紹介したいのはボーカルのチェ・サンミン、ギターのキム・ウォンジュン、ドラムのグォン・オソク、ベースのユ・スンボからなる4人組のThe Ponyの3年振りとなるEP「Little Apartment」。既に、ホンデ・シーンの気鋭として知っている方も居るかもしれない、独自のセンスで少しずつ期待を掴んでいるクールなバンドだ。

 2009年の第一集では、00年代のストロークス、リバティーンズを筆頭としたガレージ・ロック・リヴァイヴァルの波に影響を得た荒々しさを帯びたサウンドに程好いポップネスと明瞭なフック、性急な青さを含んだ佳作だったが、このEPでは試行錯誤の痕と次へ向けての冒険心を詰め込んだものになっている。

 主に音楽的語彙でいえば、80年代後半のネオアコからシューゲイズ・サウンドを照応しながら、ダウナーなイメージを鏡面の内側に向けて刻むという3年前とは違った憂いも反射した青さが映えている。ヴォーカルのチェ・サンミンの声がプライマル・スクリームのボビー・ギレスピーのような気怠さと細さも帯びているからなのか、このEPに収められている5曲は、それぞれ微妙な色の違いと差異はあれども、甘美な背徳感が心地好くも背面に張り付いている。

 1曲目の「ソウル市の春」の無機的な電子音とドラムマシン、淡々とした展開からじわじわと陶然たる音の拡がりに浮遊感が加わる、その様にはジョイ・ディヴィジョンの残影が明らかに見える。一転、2曲目「君の家」は大胆にシンセが取り入れられたポップなナンバーになっているがしかし、振り切るよりは抑制のコードを這って行く辺り、ヴェルヴェッツ・チルドレンらしいところも伺える。続いての3曲目「ラジオ」はセカンドの頃のホラーズ辺りのアート・ロックとの近似を示し、4曲目「アンニョン」は轟音のギターがサウンド・アトモスフィアを形成し、高らかに響く昂揚感を保持し、5曲目の「誰の部屋」はザ・キルズ辺りへの接近も見え、上品な頽落と言えるだろうか、ヴァルネラブルに低熱の路を潜航してゆく。

 5曲という枠で全体的に、骨身だけのサウンドに得も言われぬ陰翳と聴き手の意識を刺激するサイケデリアを手に入れた過渡期としてのEPの意味は大きいが、来るべき第二集に向けて、成長痛かもしれないこの深化は彼らのポテンシャルを試す段階のものでもある。韓国から国境を軽やかに越えて、全世界に響くサウンドが世の中に充溢してきているだけに、こういったインディーズ・シーンから着実にオルタナティヴな胎動が出てきているのも注視に値すると思うとともに、彼らの動向も追いかけたい。

 

(松浦達)

 

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