伊藤英嗣: June 2012アーカイブ

2012年6月25日

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2012年6月25日更新分レヴューです。

SUN KIL MOON『Among The Leaves』
2012年6月25日 更新
CZECHO NO REPUBLIC『Dinosaur』
2012年6月25日 更新
清竜人『MUSIC』
2012年6月25日 更新
DISCLOSURE「The Face EP」
2012年6月25日 更新
DE DE MOUSE「Faraway Girl」
2012年6月25日 更新

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31x9Xi6MIrL._SL500_AA300_.jpg シガー・ロスが活動再開し、夏フェスへの来日公演も控えているという嬉しい状態のなか、まさに待望のニュー・アルバムがリリースされた。インストゥルメンタルはもはや癒しに近い感覚で幾らでも聴いていられる、異空間を創り出している類い稀なるサウンドだが、音が小さい気がした。いや、気のせいではなかった。実際、音量が小さかった。何故か? その答えはすぐに解った。ヴォーカルが異様に大きかったからだ。このバンドは果たしてレディオヘッドかビョークか!? いやいや、そんなはずはない。確かに鳴らされる音楽は異端を極めていたし、ヨンシーのヴォーカルだってそう、ポップさなど何処にもない。『残響』以前に戻ったような、それでいて進化しているような。暗いピアノも心地よい。

 ヨンシーのソロとの差別化を図りたかったのか、あるいは昨年過去の曲を多く演っているライヴ盤を出したことが影響しているのか、シガー・ロス史上でもかなり原点を見つめている言わばアヴァンギャルドな作品で、相当な実験性に富んでおり理屈では説明がつかない音が多々見受けられる。でもそれこそが本来のシガー・ロスだと思う。私たちはそれを待っていたのだ。彼らには永遠にキャッチーであってほしくないし、頭で聴くより耳で聴きたいと思うからだ。

  『Valtari』が持つ最大の魅力はオーケストレーションとアレンジにあると思われる。大胆に使っているわけでもないのに以前よりも大自然を感じさせるほど開放感に満ち溢れているのは、ヴァイオリンやヴォーカルやその他諸々の楽器の使い方にある筈だ。これを"躍動感"と言うとしたら非ロック的だけれど、あえてこの言葉を使ってみるならオルタナティヴなものである。タイトル曲「Valtari」は、悲壮感漂う幻想的なインスト曲で8分以上に及ぶ。今回短くても5分以上の8曲入りということでおよそ想像も付き易いだろうが、オープニングとエンディングがあまりに雰囲気が良すぎて物凄く引き込まれるアルバムに仕上がっている。これだけ作品を出しておきながらこの完成度には目を見張るものがあるし、いわゆる熱意や意気込みといったものが異常なまでに凝縮されてビシビシ伝わってくるトンデモナイ作品だ。

 さてこうして簡潔にまとめてみたものの、これはシガー・ロスの全作品の中で一、二を争う傑作となるだろう。"夏フェスの予習"という考えもいいが、単純に、埋もれない内にこの名盤を手に取って欲しい。あと、一つ付け加えるならこの作品はとてもとても暗いので要注意だ。

 

(吉川裕里子)

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CREAM DREAM『Love Letter』.jpg  とどまることを知らないインディー・ダンスの盛りあがり。そんなインディー・ダンスの熱狂と共振する面白いアーティストが現れた。その名もクリーム・ドリームである。

 クリーム・ドリームことテディー・ケルクは、ニューヨーク出身の19歳。テディーはこれまでに、70年代ディスコをモダンにアップデイトした「Paradiso」、ハウス色が強い「Total Babe」、トリルウェイヴに通じるトラックを収めた「Spliffy Beats Vol.1」の計3枚をセルフリリースしているが、これら3枚から窺えるテディーの音楽性は、過去から現在までを網羅し接合するものだ。もともと70年代ディスコ/ファンク/ソウル/ハウス/ヒップホップを好んで聴いていたテディーは、年齢的にもポスト・インターネット世代と呼べるだけに、従来の歴史/文脈を超越した網羅的姿勢で音楽に接するのはあたりまえといえばあたりまえだ。

 そんなテディーの姿勢は、ファースト・アルバム『Love Letter』でも変わらない。従来のディスコ/ファンク趣味に加え、90年代前半のNYハウス、さらには「Musique」期のダフト・パンク顔負けのフィルター・ハウスがアルバム全体を支配している。折衷的なバレアリック精神を通して、スターダストの大名曲「Music Sounds Better With You」を今に蘇らせたような・・・。そうした意味で本作は、90年代の雰囲気が漂う懐古的作品だと言える。しかしその懐古は、現実に対し諦念を抱いたすえの懐かしみではなく、時代の流れによって切り捨てられたものへの憧憬である。

 本作を聴いていると、日本でいう"バブル"と呼ばれていた時期の風景が目に浮かぶ。出会いを求めダンスフロアにくりだし、そこで見つけたお目当ての異性(もちろん同性もアリだ)のために高い酒を買ったり、ブランド品の袋を両手に抱えながらショッピングに勤しんだり・・・。だがそんな享楽的風景も、今では風前の灯火。せいぜい赤文字系の雑誌で見かけるくらいだろう。それでもテディーは、人々を踊らせようとする。笑顔であふれる煌びやかなダンスフロアの幻影、そして、"踊ろう"と連呼される「Dancin'」に顕著な切実さを抱きながら。その切実さは、"排除しない"という音楽の本質と交わることで盲目的ノスタルジーから解放され、"いまここで楽しもう"とする強さに変換される。そう考えると『Love Letter』とは、現在と未来に宛てた恋文なのかもしれない。少なくとも、過去への郷愁というネガティヴなものではない。「Bad Girl」で叫ばれる《Oh Yeah!》には、そう思わせるに十分なポジティヴィティーがある。こういう音楽がもっともっと増えてほしい。もっともっと。

(近藤真弥)

※本作は《Mishka》のバンドキャンプからダウンロードできる。

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中村一義『対音楽』.jpg フランスの作家ロマン・ロランは多方面への活動で世界的にも知られているが、彼は知性と行動の限りを尽くして「穏やかで平安たる世界」を願った一人であり、例えば、「ジャン・クリストフへの告別」にあるように、若者、次の世代への前進とバトンを渡すことにも命を尽くした。そのロマン・ロランが"傑作の森"という言葉を使い、1804年の「交響曲第三番」からの10年、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの中期と言われる時期では困難たる人生と時代の中で古典派の保つ様式としての美しさとロマン主義のエクレクティックなダイナミクスと藝術の力が持つ強さを「音楽」というのを通して、顕そうとした。なお、どうしてもクラシック音楽家とは、宮廷や貴族などの支えの下に成立する、せざるを得なかった中でベートーヴェンは音楽家とは、芸術家であるというスタンスと大衆へ拓かれたものとしての意味合いを持つ作品を届けだした嚆矢であり、その矢の先に、今、2012年になっても、エリーティズムではなく、誰でも近付ける一つとしてクラシック音楽はあることになり、自然とその旋律に魅せられるアーティストやリスナーは様々な分野から絶えない。1804年の「交響曲第三番 変ホ長調『エロイカ(英雄)』」と対峙して、紡がれた3曲目に収められている「きみてらす」は柔らかく、優美な、でも、「ここにいる」を状況が裂いた部屋で歌っていたときの彼とは違う、すぐそこにいる、近さがあるスロウな佳曲。交響曲第三番自体がフランス革命内のナポレオン・ヴォナパルトに捧げられたのともに、その後の彼の皇帝即位に対して憤怒をしたと言われる歴史過程を経たのを踏まえ、今の温度で《遊ぼうよ、ベートーベンとボナパルト...。遊ぼうよ、いつでもいるよ。》(「きみてらす」)と透き通った彼の声で二人の融和を促す。何かを信じて産み落とされた作品はその時点で、瞬間を閉じ込める。ゆえに、その瞬間に枝葉が付いていったとしても、すぐそこにある。

 中村一義というアーティストがベートーヴェンの交響曲第1番から第9番に向き合い、100s時代を越えて、ソロ名義ではほぼ10年振りともなる作品をレコーディングすると聞いたとき、想像が出来なかった。彼は「入り込んでしまう」と、何処までも行ってしまうアーティストであり、『金字塔』から『太陽』、そこから『Era』という作品で「時代」に向き合う飛距離に僕は戸惑った過去もあり、どういったものになるのか、分からなかったからだ。自分自身で総ての楽器を重ね、ビートルズへの愛あるメロディーとあのハイトーン・ヴォイスと幾層にも含みのある歌詞、人懐っこくこもったサウンドながらも、孤然とした雰囲気―それを天才と称する音楽ジャーナリズムの短絡よりも空は広く、普通に太陽を浴びて、光を感じたかったのだと分かり、個人的には一気に親近感を持つことが出来た1998年の『太陽』はだから、当時、巷間としては"天才"たる中村一義との差異でバズというのは起きたとはいえなかった。メッセージ性と即効性が強く求められていた日本では曖昧なポジションにあったが、今回の『対音楽』にはその『太陽』に近く、あくまでも違う温度があるから、不思議なメレテ・タナトも感じる。つまりは、擬死化の技法として今年の2月にリリースされたシングルの「運命」で刻まれる撥ねるビートの中で字を変え、繰り返される《思い出せ》、《想い出せ》というフレーズ。それは彼にとって、デビュー出来なかったら死ぬとの想いで始まったキャリア、その後の100sのメンバーとの出会い、ユニティが出来上がる中での「原点」とは何かへの問い-「世界の」を付けないといけなかった彼の生まれ育った小岩のフラワーロードへ戻ったときに、「世界」を外すために、中村一義自身が中村一義たるものを想い出す/思い出す作業がこの『対音楽』にはちらほら見えるからだ。ベートーヴェンとの"VS"という大風呂敷よりも、アコースティック・ヴァージョンで既に披露されていた「愛すべき天使たちへ」には「交響曲第八番 ヘ長調」が寄り添い、静かにストリングスが響くように、膨らみと簡素な彼の信念が詰まった9曲+1曲になっていると思う。

 言わずもがな、表現者のみならず、あの大震災から色んなものが変わり、自覚するものが増えたのは止むを得ない。エネルギーの問題、マスメディアの構造、自然の脅威、人為的なシステムの脆弱性、生きる人たちの強さや弱さ。

 ここ、クッキーシーンで書いた「ウソを暴け!」のアルバム・ヴァージョンから始まり、全体を聴き通すと、そのテクストも参考にしてほしいが、王様は裸で居るという事実への接近をほどくが、その王様には名前はなく、その王様に名前をつけるのはこれからの世代なのかもしれない、というのは遠からずという気がした、ということだ。中村一義というアーティスト・ネームへの訴求力はある一定の層にはあっても、今のユースはどうなのかという意味で、僕のような初期から彼を知っている人のみならず、これからの世代のための作品の側面も伺えると思える。アイドル・グループと無機的なビート、ボカロなどに占められた日本のチャート・シーン、緩やかな音楽と呼ばれるものの斜陽、パッケージング文化の終焉の寂寥も漂う空気を憂うみたいなことは、僕はしたくない。ペシミズムは重ねていけばいくほど、メランコリアを導引し、呼吸をしににくする。やはり、彼も「銀河鉄道より」で表明する《誰もが唄っていた愛を、希望を、まだ憶えているのなら、あの銀河鉄道を呼んで。消えることのなかった愛を、希望を、また唄えるのなら、君とあの時を行こう。》(「銀河鉄道より」)みたく、行くということの大切さを尊重したいと思う。

 なお、軽快で「ペニーレーン」的軽やかさにビーツを刻んだ、「おまじない」にしてもそうだが、46分ほどの総体に詰め込まれたエントロピーは高いが、存外、スッと聴き通せるのは彼の優しさも見える。難解なものに、もっと好戦的なものにしようとすればできたはずだが、小難しい純文学よりも漫画を愛する姿勢、それはポピュラー・ミュージックとして『対音楽』が普通に多くの場所で聴かれることを希う証左でもある。実質的な本編のラスト曲、「交響曲第九番ニ短調(合唱付き)」と組まれた「歓喜のうた」での讃美歌では不在たる実在、実在たる不在へ(In-der-Welt-sein)―世界内存在たる裸の自分を置き、空に舞い上げる。

《ちゃんと生きるものに、で、ちゃんと死んだものに、
「ありがとう。」を今、言うよ。「ありがとう。」をありがとう。この歓びを。》
(「歓喜のうた」)

 ちゃんと死んだものへの感謝の意。もう、そこにいないものにも歓びを捧げること。無論、ちゃんと生きるものへの歓喜をこの曲で示し、2011年6月23日にライヴで収められたボーナス・トラックの「僕らにできて、したいこと」のピアノと彼の声だけの4分ほどの曲が讃美歌とは対比して、鎮魂歌として残響する。この曲はちなみに、ピアノソナタ第八番の「悲愴」がフックされている。つまり、こういうことだ。

《『忘れない』を忘れずに。》
(「僕らにできて、したいこと」)

 現代を生きて、生き残った彼は忘れないを忘れずに、今こそ「僕は僕として行く」背景にこれまでの世代/これからの世代への深慮が可視できる。『対音楽』には、タイトル通り、音楽に真摯に対しながらも、音楽を通じて、いつからか変わってしまった、変わらざるを得なかったなんとなく灰色がかった世の景色を受け止めながらも、晴れ間を探す、そんな凛たる美しさと優しさがある。あの日を忘れないでいられるように、と。

《ほら、君がいて僕がいる。世界はそれが起点なのに。》
(「流れるものに」)

(松浦達)

※本作は2012年7月11日リリース予定

 

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きゃりーぱみゅぱみゅ『ぱみゅぱみゅレボリューション』.jpg きゃりーぱみゅぱみゅ待望のフル・アルバム、その名も『ぱみゅぱみゅレボリューション』。きゃりーに"レボリューション"なんて・・・と思いながら聴いたわけですが、結論から言うと、きゃりーの時代を読みとる批評眼が発揮された計算型ポップ・アルバムである。

 プロデュースはもちろん中田ヤスタカ。音楽面ではこれまでの活動で培ってきた経験を前面に押しだしている。歌謡曲やヨーロピアン風味、さらには"ダサい"の一歩手前でとどまる絶妙なチープ感。これらが交わったエレ・ポップは遊び心であふれている。それでも乱雑とした印象がないのは、バランス重視の丁寧なプロダクションを施し、職人的とも言えるコレクティヴな音像を作りあげているから。派手な音色に隠れがちだが、本作では中田ヤスタカの細かい芸や技が随所で効いている。

 そして歌詞。本作における歌詞はかなり重要度が高い。語呂合わせ重視の無意味に近い歌詞の根底には、"日常"とされる風景がある。《交差点》《街》が登場する「PONPONPON」をはじめ、《竹下通り》《クレープ》というまさに原宿な「ぎりぎりセーフ」。他にも胸キュンラブソング「スキすぎてキレそう」など、現実的風景が目に浮かぶ歌詞が多い。これはおそらく、実在性が低いヴィジュアルを持つきゃりーと対するように書かれているからだ。この二項対立のあいだに、感情から遠く離れたきゃりーの歌声は"余白"として存在し、聴者の感情移入を誘発する。その結果、郊外に住む聴者には大都会への憧憬を抱かせるアーバン・ポップとして、都市部に身を置く聴者にとっては親近感を匂わせる街のサウンドトラックとして機能する。これは、中田ヤスタカがきゃりーの本質を理解し、きゃりーも自身のヴィジュアルと歌声の差異によって生まれる効果を知っているからこそできる芸当だ。

 しかし、ここまで書いてきたことができるだけなら、数多くの凡百ポップ・ソングとなんら変わらないし、本作の方法論そのものは新しくない。ではなぜ、きゃりーぱみゅぱみゅは多くの人を惹きつけるのか? それは"無意味"をひたすら追求し、身にまとっているからではないだろうか。

 多くの人が疑問を抱きながらも、消費主義はいまだしぶとく生き残っている。消費主義のもとでは、社会によって"必要(とされるもの)"と規定された物が凄まじいスピードで消費され、自分にとって価値のある大切な物であっても、社会から"無意味"の烙印を捺されたものは容赦なく排除される。

 そんななか、「私には似合わないと決めつけない。着たい服なら堂々と着ることが大切」(『TVホスピタル』2012年7月号のインタビューより)と語るきゃりーは、あくまで自分の価値観を判断基準にしている。そこには"流行"もなければ"迎合"もない。あるのは自らカルチャーを生みだそうとする気骨だ。きゃりーが追求していることは、"これがなければ生きていけない"とされるものではない。しかし、"あれば楽しく生きられるもの"ではある。だからきゃりーが次なる表現手段として音楽を選んだのは必然なのかもしれない。音楽もまた、"あれば楽しく生きられるもの"だから。そんなきゃりーの姿勢は偶然か否か、本質的意味を過剰なまでに要求される現在においてオルタナティヴな輝きを放っている。"過剰な意味"には"過剰な無意味"を、というのは言いすぎだとしても、きゃりーが身にまとう"無意味"が、ある種の痛快さを伴いながら多くの人に広がっているのは事実だと思う。

 

(近藤真弥)

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SUGA SHIKAO.jpg デカルトからフィヒテまででもいいだろうか、近代哲学での認識論での主体とは客体を捉える自我の枠で、「自分」があることは可能というのがデフォルトだった。しかし、その"デフォルト"というフレーズが当たり前に今や倒れる危機を差すミーニングをも含んでくる現今、身体性の中の「自分」とはいささか野蛮な檻内での囲い込みだという気がする。自分―この私が把握している「客体」とは、絶対ではなく、相対でもなく、対照でしかなくなってくるということで、そこでファンクネスは身体を取り戻すための奪還行為であり、認知資本主義の趨勢における安易な理性批判としたら、このスガシカオの「Re:you」と「傷口」が呈示するものはプログラミングされた簡潔なイメージや二分式での反/正/非を越えるラフさと身体性としての認識主体が客体に及ぶまでの途程で、投げ出してしまう。

 スガシカオの「独立」に関しては、オフィス・オーガスタのHPにおける彼と代表の森川氏の記された言葉を反芻するとして、その後の地道なTwitterやライヴ、Blog、FACEBOOKでの動きを鑑みても、「もう、時間がない」という彼の決死の覚悟は感じられる中、配信オンリーという形でリリースされたこの新曲は原点回帰という言葉だけで片付けられるものではなく、また、同時に完全に新しいスガシカオ像を再写するというものではないが、これまでのスガシカオを知っている人ならば、手触りに独特のぬめりがあるのを感じることだろうし、これからスガシカオというアーティストを知る幸福な(敢えて、書くが)という方にはとても良い毒になることだろう。

 「夜空ノムコウ」の歌詞のイメージ、「Progress」のイメージ、チャートに常連の成功者としての彼は実は特異でもあり、という説明は今さら抜きにしても、ただ、商業主義と作品主義のディレンマが刻印されたのが2011年の『SugarlessⅡ』のどことなく漂う物悲しさと揺らぎ、引き裂かれた印象を結びつけていたのかもしれない。

 デビューしてすぐの関西系の夕暮れどきのローカルのバラエティー番組で場繋ぎのようにチューリップ・ハットを目深に被って、ギターを持って「黄金の月」を歌っていた姿を克明に憶えている僕としては、メジャー・デビュー・シングルのタイトルどおり、その後、鮮やかにヒットチャートをかけぬけてゆく姿にも魅かれた。併せ、サングラスを掛け、佇まいも洒脱さを極め、シティー・ミュージック的な括りでパワー・スピンされ、更には村上春樹氏の著書『意味がなければスイングはない』での彼について触れたテクスト、詩人としての評価、MCの面白さ、ロンドン公演など、多くの尾びれが付いていきながらも、00年での彼の自己評価は低いが、『4Flusher』的な騙しを密かに期待もしていた。平易に言えば、フェスでの「19歳」もライヴでの「Thank You」のダイナミクスも体感しつつ、デビュー・マキシ・シングルの「ヒットチャートをかけぬけろ」の3曲目に意図的みたく収められていた"「ひとりぼっち」の2分以降"を求めていたところはある。静謐で繊細なリリカルな声とギターの絡まりからはじまり、そのままいくかと思えば、2分目以降、一気に罅割れる音風景に叫び声で《君もぼくも とてもとてもひとりぼっち 空も海も 永遠にひとりぼっち 愛の歌も やがてやがて ひとりぼっち》の残響が刻むときの「愛の歌」というフレーズ。

 彼は根底、どういうテーゼに見えても、愛の歌を紡ぐ。彼が徹底的にファンクというジャンル、言葉に拘るのも身体性としての愛的な何かを求めるからだろうし、J-POPという不自由で曖昧なカテゴリーの中で多くのメジャー・アーティストとメディアに出ながらも、ときに道化的な佇まいで、冒頭に書いたようにときに「自分」であることを投げ出す現代的な有り様と、それを受け止める器用さを打ち破るための路への再帰がこの2曲には視える。独立の際の「50歳までに、スガシカオの集大成になるようなアルバムを完成させたい」、との言に沿えば、スライ・アンド・ザ・ファミリーストーン『ライフ』、プリンス『パレード』、岡村靖幸『家庭教師』、はたまた、ディアンジェロ『ヴードゥー』か、などを個人的に夢想してしまうが、こういった新曲が出てくることで少しずつ輪郭は出来てくるのだとも察する。

 なお、「Re:you」のタイトル名は公募し、一万以上もの中から選ばれたものだが、作詞・作曲はもちろん、アレンジメント、全楽器の演奏、プログラミング、エディット、レコーディングまで一人で行なったというのもあり、デモ的な質感も残した疾走感のあるファンク・チューンになっており、個人的に「かわりになってよ」辺りの闇雲な速度を髣髴とさせる。タイトル名に準拠した形での小文字への「you」への返信かどうか、ただそのメールには内容は書かれていない気がするリリックは彼特有の鋭度がある。《夕方から バイトは飲食店で 25時終わり 部屋でネットをひらく 誰かが "もう死ぬね..."って書いたログ 本当に死んだかは どっちでもいいんだけど》という始まりから、《キズひとつない 透きとおった心 ウソっぽくない? それ・・・》というサビに雪崩れ込み、Break Downの咆哮どおり、日常に生きる中での過度な自我へ対してのオルタナティヴな形での「どうでもいい」を恢復させる。"私"が自律文法で成り立っている訳ではない、「他者」との断絶によっての繋がり、コミュニケーションを見出すために、セックスやウソにも向き合い、言い切ってしまう粗雑さまでの閾内で、全部、独りで作り上げたがゆえのいささか歪な籠もったサウンド・ワークが重なり、小文字の「you」へ向けて問いかける。ただ、そこは現代的ツールのTwitterの独り言、Facebookのシェアとは関係性の力学が違う。「私」だらけになった世に、主体/客体の未分化を促すところがあるからでもある。対比しての、ミドル・チューン「傷口」では君と僕の連関の隙間を縫う。しかし、最後の決然としたフレーズが現在の彼、今後の彼をしっかり切り取る。

《あの日の輝きに 保存をかけたとして ひとつも消さずに 未来には たぶん行けない 捨てずに未来にはたぶん行けない》(「傷口」)

 それぞれの抱く「あの日」から時計の針は進んだのだろうか、傷口は癒えたのだろうか。"たぶん"そうではないと思うが、捨てなくても未来はあるのは確かで、その確かさを噛み締めるために一つ一つ傷口に名前を付けていけばいいのかもしれない。何故ならば、名前が付いた傷口ならば、理由(Re:you)は残るからだ。

 

(松浦達)

 

※本作はiTunes Music Storeで配信中

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KIRINJI.jpg キリンジがメッセージ・ソングというものに対峙するときに、彼らの立ち位置を示すかの切ないバラッド「エイリアンズ」的なパサージュを想わざるを得ないことも含む気がする。ヴォルター・ヴェンヤミンに引っ張られるまでもなく、パサージュとはアーケードを意味するフランス語であり、元来の意味は「通り道」というコンテクストで捉えたらいいのだろうが、そこを抜けて、都市の遊歩者たる彼らが2012年のリリース形式として配信限定で、二ヶ月連続で、5月の「祈れ呪うな」、そして、この「涙にあきたら」を表象するのは大きい。

 日常が非=日常的な変異を起こす現今の日本において、まるで今回のブライアン・ウィルソンがプロデュースした生存するオリジナル・メンバーでのビーチ・ボーイズの新譜『That's Why God Made The Radio』とのシンクロを示すかのような、絶妙なポップ・ソングの輪郭をなぞるこの曲では、清冽で優しい曲になっており、そこにレイド・バックもトゥー・マッチな険しさもなく、キリンジ期間限定特設HPで作詞・作曲を手掛けた堀込泰行氏がコメントを寄せている、"いろいろと不安定な世の中ですが、友人は大事にすべきだなと思ってつくりました。(中略)友人や知人と一緒にいるときに聴いて、楽しい気分になってくれたら嬉しいですね。もちろんお一人様も大歓迎です"という脈絡に沿い、あちこちで生活をおくる通り道を弾むスキップの歩幅に合う曲になっている。常に良質なシティー・ミュージックに添い、XTC的な捻くれをも保ちつつ、絶妙なエレガンスを固有の美意識と時代を読解する意識でコーディネイトして、配信のタイミングとフィジカルの間の往来に拘っていたキリンジの動きとは察するに、パッケージングとの差異内で何より電波が通じる限り、先に曲を出来る限り、多くの人たちに届けたいという意思背景が伺えた。この「涙にあきたら」はいまだに多くの辛苦、艱難、またはかろうじてネットでの繋がりを抱えている人たちに向けて、実店舗に足を運べない人たちの傍らにラジオ、スマートフォン、iTunesなどを通じて響く何かを希求したのではないか、とも感じる。

 「祈れ呪うな」の時点では東日本大震災、福島原発の事故への「自戒」といささかシビアな認識とともに、曲への想いを綴っており、今回もその延長線でもあるのだが、バランスとしてのこの「涙にあきたら」での跳躍感は心強い。"生き生きとしたもの"を辿るプロセスでリファレンスされた「都市」のための音楽とエレキ・シタールを含んだ多少のサイケな彼ららしいアレンジと、まるで音/楽を二分化して、「楽」の部分にフォーカスをあてた背景には個人的にラヴィン・スプーンフル、ゾンビーズ、アソシエーションなどのお歴々のエッセンスの凝縮とコーラス・ワークの透明度がいつかのaikoを招いた「雨は毛布のように」的な口ずさみたくなる旋律を保持しつつ、今の温度にしっかりと共帯する。音楽が備える役割期待の一つに日常を持ち上げる力学があるとしたら、ここでの彼らが描く《涙にあきたら いつでもここにおいで》や《楽しいお酒を呑むのだ》というフレーズの断片は確実にあまたのニュースや現実に涙が止まらなかったであろう方々の胸の奥にじんわりと染み入り、気持ちを和らげるとも思う。誰もが静かに大切にする家族、仲間やフレンズとともに、この曲は相互主観の端境を渡り、涙には飽きることはないが、飽きた涙が停まったときに、取り戻せるのは前向きな遡行を描くようなラインがある。

 そんな前向きな遡行が照らし出す涙には、塩辛さや深い重みよりも甘やかな毎日の背を押す。その毎日には、様々な境遇の人たちが居ても、そろそろ涙に飽きた「ここ」での待ち合わせ場所が待っている。

 「涙にあきたら」の傍らで、今日、そして、明日、ずっと先が雨でも星のない夜でも、皆で遊び、小さな灯りを燈せるようなものであればいいな、と願いたい。

 

(松浦達)

2012年6月18日

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2012年6月18日更新分レヴューです。

LUKE ROBERTS『The Iron Gates At Throop And Newport』
2012年6月18日 更新
0.8秒と衝撃。「バーティカルJ.M.ヤーヤーヤードEP」
2012年6月18日 更新
赤い公園「ランドリーで漂白を」
2012年6月18日 更新
HILARY HAHN & HAUSCHKA『Silfra』
2012年6月18日 更新

2012年7月

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  • ファウンテインズ・オブ・ウェイン

    何千年も昔、人は星を空に開いた穴だと思っていた

  • モーション・シティ・サウンドトラック

    ただ「ファック」って言わなきゃいけないときがあるのも事実なんだ

2012年4月

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  • マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン

    全部がただひとつの音に聞こえるようなレコードを作りたいと思っていた

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