伊藤英嗣: October 2011アーカイブ

2011年10月17日

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2011年10月17日更新分レヴューです。

THE FIELD 『Looping State Of Mind』
2011年10月17日 更新
CLAP YOUR HANDS SAY YEAH 『Hysterical』
2011年10月17日 更新
KUEDO 『Severant』
2011年10月17日 更新
JONAS BJERRE 『Songs And Music From The Movie Skyscraper』
2011年10月17日 更新
菊地成孔DCPRG 『Alter War In Tokyo』
2011年10月17日 更新
MADEGG「Crawl EP」
2011年10月17日 更新

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いつも良質な寄稿を寄せてくださっている草野さんから、ライヴ・レポが届きました。

私はまだ渋谷WWWに行ったことがないのですが、近頃では様々な公演が行われている旬なハコでもあります。

これからどんどん定着していくのでしょうか。

そんな場所で、2011年9月23日、2ndアルバム『イギーポップと讃美歌』を出したばかりであるオワリカラの貴重なライヴが行なわれたということで、是非ご一読いただけたらと思います。

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Justice.jpg『†(クロス)』からもう4年近くになる。"衝撃的"という言葉が相応しいこのアルバムをリリースしたジャスティスは、文字通り"王者"となった。鼓膜を破壊するかのような爆音を撒き散らし、"ニュー・エレクトロ"と呼ばれたその強大なインパクトは、世界中を席巻するほどの大きな潮流となった(多くの人が"エレクトロ"と呼ぶのは承知しているが、僕にとって"エレクトロ"は、アフリカ・バンバータのような音を指す言葉だから、"ニュー・エレクトロ"と呼んでいる)。この強大なインパクトは、"東京エレクトロ"なるシーンが生まれたことからもわかるように、ここ日本にまで及んだ。80Kidzは縦横無尽に暴れまわり、さらには《XXX》のオーガナイズで話題を集めたDJキョウコ、デザイナーやモデルとしても活躍するマドモアゼル・ユリアなど、ファッション・アイコンとなるフィメールDJまで登場し、注目を集めた。そして、ニュー・エレクトロの波は、多感な10代の心も奪っていった。その代表的なパーティーである《Too Young DJ's》は、DJも10代の者がほとんどで、ニュー・エレクトロはもちろんのこと、ニュー・エキセントリックや当時のインディー・ロックに影響を受けた若者の支持も得た。このティーンエイジ・パーティーの流れは、2006年の夏、当時14歳のサム・キルコインの行動がキッカケだった。年齢を理由に観たいバンドを観ることができなかった彼は、未成年のみ入場可とするイベントを開催し、ティーンエイジャーの支持を得る。また、この勢いはドイツなどにも波及し、2007年には、リン・ラーラ・フーがハンブルクにあるクラブ《キール》で、《アイスクリーム(I-Scream)》というパーティーを始める。このパーティー自体は1年程で幕を閉じたが、インディー・ロック・ファンの間では知られるビート・ビート・ビートを無名時代からフィーチャーするなど、ドイツのインディー・シーンの発展に尽力した。

 これら一連の現象が面白かったのは、日本に居てもタイムラグを感じることなく、むしろ、世界と連動するリアルタイムなものとして発展を遂げていった点だろう。日本では風営法改正の影響もあったのだろうが、僕自身このスピードに宿る熱狂に取りつかれたひとりだし、エレクトロ・クラッシュのように、数年遅れで受け取るのではなく、自分たちで作り上げていくような感覚と参加意識が斬新に感じられた。そして、無名の若手バンドやアーティストを紹介するプラットフォームとしても機能していた。そのおかげで、知らなかった数多くのバンドを知ることができたし、音楽を聴く際の色眼鏡もなくなった。アメリカでは80年代から、当時のインディー・ミュージックに10代のファンが付きはじめたのをきっかけに、21歳以下限定のライブやイベントも散見されたけど、これと似たようなことが、ゼロ年代に起きたのだ。しかもそれは、遠く離れた海の向こうの話ではなく、ここ日本でも実感できる、目の前の出来事として。当時僕は、「ああ、セカンド・サマー・オブ・ラブ期のマンチェスターも、こんな感じだったのかな?」とか思いながら、ビートに身を任せ、誰ともわからぬ人達と笑って過ごしていた。そして、こうした数多くの場面にかならずと言っていいほど影をチラつかせていたのが、ジャスティスだったというわけだ。ジャスティス以降もニュー・エレクトロと呼ばれるアーティストは登場したが、その多くは、もはや忘れ去られた存在となっている。その点ジャスティスは、ニュースなどで名が出るたびに、多くの視線と注目が注がれた。それに値するだけの存在感を、ニュー・エレクトロのブームが去った現在も、ジャスティスは放ち続けているのだ。

 そのジャスティスが、満を持してリリースしたアルバム『Audio, Video, Disco』。「一時代を築いた王者が向かう次なる行き先は?」という期待と共に本作は聴かれるだろうけど、1曲目の「Horsepower」を聴いて、ぶったまげた。これ、プログレです。どこまでも大仰で、チープなデジタル臭を漂わせる不思議な音。アディダスのCMで使用された「Civilization」も同様だが、こちらは幾分『†(クロス)』の音楽性を引きずっている。本作はトリビュート曲も多く、「Ohio」はクロスビー、スティルス&ナッシュへ、「Brianvision」はブライアン・メイへのトリビュートだそうだ。正直、一聴しただけではわからないトリビュートではあるが、彼ら特有の解釈がユニークに鳴らされている。「On'n'on」は中期ビートルズのようだし、「Parade」ではクイーンの影響も窺わせるなど、2人にとっての音楽的文脈を披露しているようで面白い。

 本作は、80年代以前の音楽を独自の世界観で鳴らし、自由にやりたいことをやった、王者の風格と余裕を見せつけたアルバム...と、書けば聞こえはいいが、この余裕がどうしても虚栄に見えてしまう。細かいところまで仕掛けを施した前作に比べれば、意図的に軽さを演出し、リスナーの想像力に依拠する音作りは、完璧であることを放棄した白旗宣言に思える。人によっては、ザ・プロディジーが『The Fat Of The Land』のあとに「Baby's Got A Temper」をリリースしてしまったときのような、腑に落ちない気持ち悪さを抱いたとしても不思議じゃない。これらを踏まえれば、「クソだし二度と聴きたくない」と斬り捨てることも可能だが、それでも本作を繰り返し聴いてしまうのは、映画『トロン』を想起させるフューチャリスティックな音楽が先を予感させてくれるからだし、なにより、聴衆を圧倒し跪かせた前作から一転して、リスナーにサプライズを提供しようとするサービス精神と曲の構成は、前述した白旗宣言が、聴衆に手を差し伸べはじめたジャスティスの姿を映しだすように思えるからだ。本作を持ち上げることも、非情に突き落すこともできない僕にできることは、彼らが差し伸べてくれた手を取ることだけだ。

(近藤真弥)

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TheKooks.jpg  これはデビュー当時、「肝心なときにあれが勃たなくてよ」と歌っていた天然パーマのヴォーカリスト擁するイギリスのポップ・バンドが、見事に極上のAORを奏でるまでに至った証のアルバム。そのデビュー・アルバムはイギリス国内だけで200万枚近く売れた。今回の新作は全英初登場10位ですこし苦しんでいるけれど、バンド勢が軒並み商業的不調の中、よくトップ10入りしたと思う。ヴォーカルのルークは同じナルシストでもレイザーライトのジョニーほど神経質ではなく、もうちょっとテイク・イット・イージーであんまり先のことを考えていない風(それで実際は詩人)なのが良い。今回のアルバムは性急にギターをかきならす種類の楽曲は一歩後退していて、バンドの理想的な成熟を堪能することができる。そう、「クークスがいないと生きていけない」とか、「彼らも頑張ったんだね」とか、そういう感情移入の仕方はぜんぜんない。何だったらしたり顔で「クークスは良いバンドだね、ふむふむ」なんて言っている奴は音楽的スノビズムの象徴くらいに思っていて嫌っていた。でも音楽って、ポップ・ソングって、何が素晴らしいかというと、別になくても生きていけるし、でもそんなものに夢中になって、ときには涙まで流してしまうから。自分の生活に彩りが増したことに気付く瞬間に、音楽を聴く意味があると言っても個人的には過言ではない。もちろん切実な想いで聴く音楽も存在するけれど。

「Is It Me」の間奏パートのギターとそれを必死に追いかけるようにして刻まれるベースのフレーズ(この曲のチャート・アクションは散々だった。ほんとうにギター・バンドは厳しい...)。「Junk Of The Heart(Happy)」の気だるい風に歌われる「君を幸せにしたんだ」というコーラス。このアルバムにはそういう称賛されるべきパートが散りばめられているので、ちょっと落ち着いて孤独を思い知らされるような気分のときに、何となく耳を傾けたい。そしてもちろん名作である。

(長畑宏明)

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Zomby.jpg  本作を支配しているのは、大麻の煙でむせかえりそうなほどのスモーキーなサウンドだ。実際クラブでも、踊り狂うよりは大麻を吸って女の子と過ごすほうが好きらしい。まあ、こうしたキャラ設定だと言われればその通りかもしれないが、独特な雰囲気に満ちた『Dedication』を聴く限り、真性のワルなのは間違いなさそうだ。

 音のほうは、前作『Where Were U In '92?』のようなレイヴ・サウンドもあり、ゲーム好きのゾンビーらしいチップ・チューン「Black Orchid」なども存在するが、そんな比較的明るい曲でさえ(もちろん『Dedication』に収録された曲のなかではだが)とことん不気味に、まるで井戸の底から聞こえてくるかのような錯覚すら覚える。「Things Fall Apart」にいたっては、パンダ・ベアの呪術的なヴォーカルも相まって、終末感漂うレクイエムのように響く。

 アルバムを通して聴くと、なにか巨大な状況をつくりあげるかのように音が存在し、そのどれもが殺気を発していることがわかる。その状況はどこか孤独な空気を醸し出し、危険物と化した『Dedication』を封じ込めるための箱に思えてしまう。だが、この箱に封じ込められた『Dedication』は、我々を恍惚へといざなうトランシーなグルーヴを内包している。現実を幻想化し、それを想像力と狂気によって表現するような、シュールレアリスムと言ってもいいグルーヴだ。

 正直、本作を聴いて癒しや心地良さを得ることはできない。圧迫されるような息苦しさもあり、好んで近づこうとは思えない音楽を鳴らしているが、それでも、我々の心を奪ってしまう魔性的な魅力がどす黒く光っている。だからこそ、ゾンビーはどこまでも異端であり、ダブステップという器のなかで語るには無理が生じてくる。これは無視すべきでないアルバムではなく、無視できないアルバムなのだ。

(近藤真弥)

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WorldStandard.jpg  結成28年目にして10枚目となる本盤も、彼らが細野晴臣プロデュースでデビューした時から変わらない、無国籍なスロウ・ミュージックがプロフェッショナルな演奏家達によって奏でられている。全14曲の内、ほとんどの楽曲が中心人物の鈴木惣一朗によって手掛けられており、神田智子による唄が7曲の中に織り込まれている。近年、他のアーティストのサポート・メンバーやプロデュースなどにばかり活躍の目が向けられていた鈴木惣一朗であるが、今年は《Stella》という新たなレーベルを設立させ、今後、彼自身の活動が更に飛躍するであろうという期待を匂わせつつある。『おひるねおんがく』『おやすみおんがく』という二枚のコンピレーション・アルバムを《Stella》からリリースした後、本盤はレーベルでの3枚目の作品として着実に仕上げて来た。

 ギター、アコーディオン、バンジョー、スティール・ギター、ヴァイオリン、クラリネット、トイ・ピアノ等、ほぼアコースティックな楽器編成と、豪華なメンバーによる演奏が、リビング・ルームでこぢんまりと録音されており、その上質さは朴訥さで程好く包み込まれている。ほとんど職人芸であるが、本盤も、まるで自分一人のために唄ってくれているような居心地の良さ、肌触りの良さを味わえる。

 今年、もう何度も耳にした「東日本大震災を経て制作された」というフレーズは、当然本盤にも合致する。この一文があるだけで、何かそのアルバムに神秘的で良心的な価値と、時として陰鬱さや重厚さといった価値が付与されてしまっていた気がする。そして、あたかも深遠で特別な価値があるものと見なされ、「面と向かって聴かねばならない、大切なメッセージの込められた音楽である」という不透明で危うい責任を強要する文章を、何度か目の当たりにした。このアルバムのタイトルが『みんなおやすみ』なんてものだから、東日本大震災と関連付けられる文章がTwitterあたりで散見されることは容易に想像できる。

 本盤にはそういった余計な要素を持ち込まないでほしい。これは逃避のための「おやすみ」ではない。ワールドスタンダードの短い歌詞の中で伝えられていることは、窓の向こうで雪が降り、知らない街にも灯りが灯り始め、愛のあるこの世界は素晴らしく、眠り、目覚めればまた日の光―ということだけである。邪推も憶測も不要である。優しく爪弾かれる「きらきらぼし」にきな臭い世間体を持ち込むべきではないと思う。

 最後は「みんなおやすみ」と、余韻も残さず、静寂さを纏ったままにフェード・アウトしていく。はっと気付けばアルバムが終わっており、アルバムをもう一周する頃には、大人も子供もゆったりとした眠りへ誘ってくれる。『花音』にも匹敵する名盤。

(楓屋)

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YukoIkoma.jpg  なぜ芸術や科学がこんなに頼りになるのか。この世界においては、学者と技術者、それに芸術家さえ、科学と芸術家そのものさえ、きわめて強力に既成の主権に奉仕しているのだ。(中略)それは、芸術がそれ自身の偉大さ、それ自身の天才に到達すると、たちまち芸術は脱コード化や脱領土化の連鎖を想像する。
(『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』下巻 P. 284より。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳 河出文庫)

 冒頭文を深く読み込めば、芸術が「既成の主権」に奉仕しているとはいえないのは分かるが、脱コード化を辿る中で、現在は、過去にセルジュ・ゲンスブールが言ったような、「何が"イン"で"アウト"か? (Qui Est In, Qui Est Out?)」という時代では無くなってきているのは確かだ。

 「イン」に組み込まれる音楽の体系は、例えば、マイケル・ギボンズのモード論下では、カリカチュアライズと類型化の模型ともいえ、「アウト」は無責任な創り手側の簡略化、短絡とすると、聴取者側は「イン」と「アウト」ではなく、「ダウン・アンド・イン」―つまりは、アヴァン・ポップの地平に自然と降り立つことになるといえるかもしれない。ダウン・アンド・イン―アヴァンギャルドではあるけれども、周縁を歩く訳でもない、Larry Mccafferyの著書を紐解くまでもなく、アヴァン・ポップの為すべき価値が求められることになる訳だ。何故に、レディオヘッドのギターリストのジョニー・グリーンウッドがクシシュトフ・ペンデレツキに興味を向けて行ったのか、コリーン、ハウシュカ、マックス・リヒター辺りの音楽が世界の現代音楽の好事家のみならず、幅広いリスナー層に受容されたのか、それは、例えば、ブライアン・イーノやマシュー・ハーバート、或るいは、トクマルシューゴの実験工房を覗き込みたいというミュージシャンのみならず、聴き手サイドの願望の投射ではなかったのか、そういうことさえも夢想することができる。もはや、「主流」が無くなったのなら、傍流には、「カラクリの自然」が求められる。「カラクリの自然」を模写するには、「オートマタ」という場所に行き着く。オートマタとは、カラクリ人形のことである。

 今回、Mama!milkの生駒祐子女史は、オートマタ作家の原田和明氏と組み、繊細にして柔らかなチェンバーポップに挑んでいる。原田和明氏の音に纏わるDesk Bell、Des Monte、Fragile Organ、Hand Xylophoneなどの連作が軽やかなノスタルジーとトイ・ポップと交接する。その箱庭内にて、生駒女史の足踏みオルガンの持つ耽美性が絡み合う。同時に、「ゲスト・ミュージシャン」には、Decoy、Matryoshka、Spoon In Space、Teddy Bear、The Shoes Of Fred Astaireといったレトロで可愛い小物、楽器が彩りを添える。玩具箱を引っ繰り返した後の、新しいカオスの地図を室内楽的に纏め、様々にして繊細な音色が響く、そのインプロの流れを追いかけるだけでも、眼福ならぬ「聴福」がある。

 具体的に、本作はPartⅠ~Ⅴまでの五部構成になっている。3曲目の「Waltz For Lily Of The Valley」には、清みきったベルの音と足踏みオルガンの優美な融和が純喫茶での一杯のコーヒーが醒めるまでの、対話、時間を護る柔らかさがあり、7曲目の「Serenade For Wind Bell」には煌めく音空間があくまで上品に紡がれる。12曲目の「Rendez‐Vouz」も美麗ながら、ファストなスリップストリーム(傍流文学)への敬虔さがあり、全体を通して、23曲で45分にも満たないが、麗しいサウンドが運んでゆく場所には、パスカル・コムラードの『Traffic D'Abstraction』のようなサウンドが密かに微笑んでいるような、つまり、ベル・カント・オルケストラの近似を揺蕩う。

 そもそも、タイトル名からして『Suite For Fragile Chamber Orchestra』(フラジャイル室内楽団のための組曲)であるからして、推察しても然もありなんだろう。これはポストコンテンポラリー・フィクションとしてのオートマタ楽団員たちと、生駒女史の白昼夢なのだろうか。僕は決してそうではない、と思う。昼下がりのナルコレプシー的な音空間の縁を巡りながら、静かに「アートの力」を再定義しながらも、「中心」のギミックを避け、トマス・ピンチョンが仕掛けたような過大な「重力」がかかった「虹」を渡るような街路を往く。

 その「街路」には、全面的な節電下の日本で、ほんの僅かだけ光を喪った、光をもう一度、捉え直すだろう。重度の情報エントロピーに疲れた人たちに向けて、この作品は何らかの福音になると思っている。「壊れものとしての人間」は、「壊れものとしての音楽」を扱う際の配慮はこれだけ肌理細やかになるということを示した力作だと思う。

(松浦達)

 

【筆者注】2011年11月11日発売

生駒祐子オフィシャルHP

2011年10月10日

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2011年10月10日更新分レヴューです。

VARIOUS ARTISTS『R-way Junction』
2011年10月10日 更新
SUBMOTION ORCHESTRA『Finest Hour』
2011年10月10日 更新
RUSTIE 『Glass Swords』
2011年10月10日 更新
ROMAN FLUGEL 『Fatty Folders』
2011年10月10日 更新
A WINGED VICTORY FOR THE SULLEN『A Winged Victory For The Sullen』
2011年10月10日 更新
 
神聖かまってちゃん『8月32日へ』
2011年10月10日 更新

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 さてさて、いよいよ来週からオトトイ歌詞対訳講座の第2期がはじまります。そんなタイミングで講師であるぼく(伊藤)自身から告知するのも結構遅いとは思うんですが、最近なにかとドタバタで(って、そればっか? すみません...)。

 この対訳講座、だいたいこんな感じで進めていきます。

 まず、ぼくが「テーマ」となるアーティストの曲(10〜14曲くらい)の歌詞(おもにネットで拾ってきたものが多いですが日本盤をぼくが持っているものはそれとつきあわせたり、自分でちゃんと聴きくらべたりして、チェックを入れています)と、その10〜14曲くらいが入ったCDRをお渡しします。

 なお、後者はあくまで「講義の素材」としてお聴きいただくものなので、そのCDRは、次の回にご返却いただきます(リッピング? なんのことだか...:笑)。

 そこから1曲選んで、自らの対訳を「課題」として提出していただきます。しめきりは、講座の1〜2週間前。メールで送っていただきます。

 そのなかで、いいものをいくつかと、ぼく自身による数曲の対訳をお見せしつつ、講座が進みます。1アーティストあたり(最終回をのぞいて)10曲以上を素材にするということは、必然的にそのアーティストの(とくに歌詞をとおして見た)傾向を解説することになります。

 ぼくとしては、毎回新書本1冊の本を書くくらいの内容をこめて進行しているつもりです。講座料金のほうが少々お高い(とはいっても、専門学校や多くのカルチャー・スクールの料金に比べれば決して高くない? どちらにしても、すみません...)けれど「曲が聴けて、(新書1冊くらいの内容の話を)ライヴで楽しめる」と考えていただければ...。

 「ライヴ」なので、当然受講生の方々の「レスポンス」も重要。かなり、わきあいあいと進めてる感じです。

 第2期の「テーマ」予定は以下のとおり。

10月:60年代:The Beach Boys
11月:70年代:Pink Floyd
12月:80年代:R.E.M.
1月:90年代:Primal Scream
2月:00年代:LCD Soundsystem
3月:10年代:Various Artists

 お申込は、こちらから。

 最初に言ったとおり、もうあまり時間がなくて申し訳ありませんが(なにせ、今、ピーター・フック著『ハシエンダ』監修翻訳作業の修羅場にかかってまして...。すみません!:汗)、何卒よろしくお願いします!

*なお、第1回のみ「課題提出」はありません。それをやっていただいている時間がないのと、最初はみなさんのノリを確認したい、ということがありますので。もちろん「復習」用に第1回もCDRはお渡しします!  【10月11日(月)22時追記】

*先ほどアップした内容に誤りがあったので、校正しました(汗)! 先ほど「第1期の『テーマ』予定は以下のとおり」などと書いてあった部分、正しくは(当然)「第2期の『テーマ』予定は以下のとおり」です。しかし、俺、かなり頭へろへろになってるな...。すみませんでした!  【10月12日(火)0時追記】

2011年10月11日21時22分(HI) 

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オトトイの歌詞対訳講座、6月のテーマは「80年代を代表するバンド」トーキング・ヘッズ&ニュー・オーダー、7月は「90年代を代表するバンド」ペイヴメント&オアシスだったんですが、それらは伊藤が(日本盤CDのために)過去おこなった対訳をお見せしつつ、それをもとに進めていきました。

そして8月は、「00年代を代表するバンド」ファウンテインズ・オブ・ウェイン&アークティック・モンキーズ! 意外に見すごされている気もしますが、どちらも歌詞が(歌詞も)最高に素晴らしいんですよね。

「友だちのお母さんに恋しちゃった小学生(くらいの男の子)」について歌った「Stacy's Mom」、全然コーヒー持ってこないデニーズ...いや、ハリーズのバイトに文句たらたらの「Halley's Waitress」(ちなみにこの「店名」、「数十年に一度しか地球に接近しないハレー彗星にかけたもの」だと作者のクリスに以前聞いて、さらに大笑い!)など、ふざけた歌詞もたくさんあります。だけど、どれもどこかピンとくる。妙に共感できる。

そんな歌詞のひとつが、これです!

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「Strapped for Cash」

えっと あれは土曜の夜 キッチンで
スペイン放送のオネエちゃん達を品定めしていたら
ムショがえりのポールから電話がきて
奴は言う なあ よく聞けよ 何か足りないものがあるんだけどな
俺は返す 取り掛かってるところだよ マジで すぐだって
数日中に金はおまえのものさ オーケー?

ちょっと現金がないだけ
深く考えるなよ ベイビー 時間をくれよ
ほんの少し金が足りないだけ
マジに一時的なことだから 心配するなって
現金がないのさ

そういうことで 馬で一儲けしようと西に出向いたのに
馬たち一頭残らず顔からコケやがって
タージマハルでも散々だったさ
ツキの無さとただ酒のせいだな
それで今は身を潜めてる わかるだろ? 目立たないようにしてるのさ
しかし あとどのくらい 奴の電話をかわせるかわかんねぇな

言ってるだろ
ちょっと金がないだけだ
俺が おまえにそんなことするはずないだろ?
現金が足りないのさ
ほんの少しだけ時間をくれよ ちゃんと返すって
なあ
現金がないんだ
金がない

6人組のボディビルダーがフォードのピントに乗ってやってきた
次の瞬間 奴らが窓から乗り込んでくるのがわかる
おまえを待たせるのは嫌なんだ 今は大変な時だってわかるしさ
で VISAとMASTERカードだったらどっちがいい?

というのは 少しばかり現金が足りなくてさ
くつろいでてよ すぐに戻ってくるから
ちょっと金がないだけなんだ
心臓発作おこすほどのことじゃないよ

(対訳:小口瑞恵)

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うう、ひとごとじゃない...(汗)。

そして、アークティック・モンキーズ。講座では、歌詞を通して「彼らの姿勢の特殊性」について研究しましたが、彼らのファースト・アルバムは(アラン・シリトーの小説からタイトルをひっぱってきただけあって)、「ストーリー集」としても絶品!

たとえば「When The Sun Goes Down」は、悪辣な「ポン引き(売春婦のもとじめ)」について歌われたもの。この曲をテーマにした短編映画『Scummy Man』で、それが見事に描かれていました。

ただ、歌詞だけを見ても、それが「ポン引き」について歌われたものだとはっきりわからない...というわけではない!

この歌詞には《And he told Roxanne to put on her red light》という一節があります。「ポップ・ミュージック中毒者」であればご存知のとおり、ポリスに「Roxanne」という曲があります、その曲は「(ロクサーヌという)売春婦に向かって歌いかけている」ものだと言われているんですが、こんな一節で始まっています。《Roxanne, You don't have to put on the red light》。まあ、その曲を知らないと、このフックの意味はわからないんですが...。

セカンド・アルバムでは、デュラン・デュランの「Save A Prayer」の一節を歌いこんだ曲もありましたが、彼らは本当に「ポップ・ミュージックが好き」なんだと思います。よりロックンロール的なノリで。

先述の「姿勢」というのも、結局そういうこと。そして、それをあまりに見事に現したのが「A Certain Romance」。以前インタヴューしたとき、作者のアレックスは、(ファースト・アルバムでは)大抵の曲がなんらかのストーリーを持っているけれど、この曲だけは違ってもっと抽象的...と言っていました。

「A Certain Romance」の冒頭では、こんなことが歌われています。《そいつらはクラシック・リーボックを履いているかもしれない/やたら古いコンヴァースとか/すそのしまったジャージの裾を靴下に入れてるかもね/だけど俺が言いたいのはそんなことじゃない/重要なのは、このあたりにロマンスなんかありはしないってこと》。いかにも「地方都市」という感じの風景ではないでしょうか?

そして、この一節。《やつらに言ってみる?/その気になったら、一晩中やつらに力説してみようか/だけど、やつらは聞きやしない/だって、やつらはもう考えが凝りかたまってるし/ああいうふうにやっていけば まあそれでいい、と思ってるから》。

たとえばストーン・ローゼズの『I Am The Resurrection』、そしてオアシスの『Live Forever』。それぞれ80年代と90年代を代表する名曲ですが、これらには明らかに「やつら対俺たち」という構図が見てとれます。この曲にも、明らかにそれがある。そんな対立項がはっきり現れているのが、次の一節です。《あいつらは本当にどうかしてる/新しい曲があっても、それを「着うた」にすることしか興味がない/シャーロック・ホームズじゃなくてもわかるだろう/だけど俺たちの仲間がいる、このあたりは、ちょっと違うんだよ》。

さらには、こんな一節も...。《そうじゃない!/どうして俺の好きなようにさせてくれないんだ/こんなんじゃ どうしようもない/いやだ、俺はあんなふうには生きたくない!/絶対にいやだ!》

以前は、これを必ずライヴの最後にやって、アンコールなしで去っていった彼ら。限りない共感をこめつつ、涙が出るほどかっこよすぎ! と思います。

この回は、以上です!

2011年11月8日21時28分(修正版アップ)(HI)
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