伊藤英嗣: October 2011アーカイブ

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『ミッション 8ミニッツ』.jpg  あなた、日々得た情報を自分の言葉として話せる自信はありますか? 自分の好きな事柄に関することを掘り下げどんなに語ったとしても、それが自らの価値観を通したものでなければ、なんら響くことのない退屈な"独り言"に過ぎない。知識という"筋力"でもってなにかを語るのは、実はそう難しいことじゃない。情報過多な現代においては尚更だ。しかし、こうしたデータベースを元にしたコミュニケーションや議論は、そろそろ限界にきている。もはやこれらの多くは、自分の感性や嗅覚に自信がない臆病者の遠吠えだ。

『ミッション:8ミニッツ』は、『月に囚われた男』で話題を集めたダンカン・ジョーンズが監督を務めている。彼がデヴィッド・ボウイの息子だというのも多くの人に知られているだろう。シカゴで全乗客が死亡する列車爆破事件が発生し、その犯人探しのための極秘ミッションに米軍エリートのスティーブンスが選ばれ、彼は犯人捜しをはじめる。この犯人探しの方法が変わっていて、事故で犠牲になった人の事件発生8分前の意識に入り込み、その人物として犯人を見つけだすというもの。しかし8分後には必ず爆破が起こり、そのたびに意識は元のスティーブンスの体に戻ってしまう。この繰り返しに身を置くなかで、スティーブンスは極秘ミッションに対し疑問を抱いていくというのが大まかなストーリーだ。『月に囚われた男』同様今回も70、80年代SF映画の要素が色濃く出ていて、人間性を中心に置いた作りもダンカン・ジョーンズならでは。J・G・バラード、ウィリアム・ギブスン、キューブリックなど、キャッチ・コピーにもある"映画通"ならば、あれもこれもと指摘できるような場面が多数存在する。

 だが面白いのは、"映画通"が喜びそうな伏線を張り巡らせておきながら、最後の最後でそのすべてをひっくり返し、見事に"映画通"を裏切るようなラストになっている点だ。そういう意味では、「映画通ほどダマされる」というキャッチ・コピーもあながちウソじゃない。公開中なのでネタバレは避けるが、とりあえず"世界が創造される"とだけ言っておこう。そして、この"世界が創造される"ラストによって、僕は本作のメッセージを受けることができたのだ。

 列車爆破事件というテロや、そのテロを仕掛けた犯人の動機は9・11を想起させるものだし、話が進むにつれて明らかになるスティーブンスが置かれている状況は、反戦に対する暗喩とも受けとれるが、攻撃的な皮肉などはなく、むしろ優しく励ますような穏やかさがある。それは、過去を受け入れ前向きに生きることでしか未来は訪れないし、過去を生かすこともできないという達観に近い強さだ。最後の転送を得て達成したことをメタファーとした"生かす"も、人によっては楽観的すぎるとの声もありそうだが、希望に満ちあふれていることだけは確か。

 スティーブンスが辿りついた結末は、理屈や理性では届かないものだ。自らが望む結果を得られる"かもしれない"という不安を抱きながら最後の転送をし、彼にとって最高の結末に挑戦する。あれは一種のギャンブルに近いものだったと思う。劇中には最高の結末を約束する伏線は見られなかったし(転送シーンで近いものは見受けられるが、"成功"を約束するものではない)、まあ、だから強引すぎるなんて言われたりもするんだろうけど。でも、ここまで知識や情報が役立たずになるような映画はそうそうない。あのラストやグッドウィルへのメールなんて、事前に予想したとしても、映画に詳しくない人ほどたどり着ける予想だろう。観客には、知識と情報を捨てることが求められる映画だ。

「空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む」

 これはアインシュタインの言葉だが、『ミッション:8ミニッツ』もこれと似たようなメッセージを発している。いまや知識とそれを集める足だけでは、差別化を計るのが不可能になってきている。そこらの大卒なんかよりよっぽど知識を蓄えたガキなんてそこらじゅうにいるし、蓄えたものを人に伝える手段も豊富だ。こうした状況が"ネット"という一定の抑止力を持つ世論を生み出し、ポジティヴな働きをしたこともあった。マスなどによる特権性や囲い込みから解放された"知識"や"情報"の流動化はアンフェアな情報格差を少なくし、マスの存在価値を揺るがすまでになった。しかし、これらの過程を得るなかで、"知識"や"情報"はふたたび"権力"となってしまった。このことによって、多くの人が裏も取らずに"情報"を盲信するようになったし、場合によってはその"情報"によって殺される、つまり自ら命を絶ってしまうことだってある。そんなの馬鹿馬鹿しい。

 スティーブンスは何度も死ぬ。8分過ぎると元の体に意識が戻り苦痛を味わうが、無情にも転送は繰り返される。そのなかで彼なりに知識や情報を蓄え、徐々に"8分間"の状況も変わっていく。それによって成果も生まれるが、前述したようにスティーブンスは"かもしれない"という不安を抱えながら、最高の結末に挑戦する。それは、彼のなかにある"想像"が希望をもたらしたからできることだ。もしかしたら、現代において"想像力"は、強力なオルタナティヴになりつつあるのかもしれない。そんなことを、『ミッション:8ミニッツ』は思わせてくれる。

(近藤真弥)

 

2011年10月24日

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2011年10月24日更新分レヴューです。

JAMES BLAKE「Enough Thunder EP」
2011年10月24日 更新
JEAN PIERRE MAGNET Y SERENATA DE LOS ANDES 『Jean Pierre Magnet Y Serenata De Los Andes 』
2011年10月24日 更新
VARIOUS ARTISTS「Ghettoteknitianz E.P.」
2011年10月24日 更新
MAMA! MILK 『Nude』
2011年10月24日 更新

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SIGUR ROS.jpg  今回EMI系列から離脱してリリースされる運びとなった、アイスランドの秘宝シガー・ロス。以前『()』でグラミー賞にノミネートされた点でも世界的に認められたバンドであることは証明されているが、実はその2nd(インディーを含めれば3rd)アルバムは賛否両論だったように思う。筆者はどちらかといえばあまり賛成できなかった部類ではあったのだが、タイトルを聴く者それぞれに自由に付けてもらいたいという意向は斬新であったと同時にその後の彼らの趣向にも納得できるものとなっていった。

『Agaetis Byrjun』(= Good Start)に比べて『()』以降は特別な意味をなさないアルバム・タイトルとなっている。そして今回の『Inni』(インニイ)。"Inside"という意味が大きいが単に"The"という意味もある。後者で受け取ってしまえば今までとさほど変わらず、前者で受け取ればかなり変貌を遂げたものだということがうかがえるのだ。

 今回はバンド史上初のライヴ・アルバムということで、2CD+DVDの豪華版となっている。オープニングを飾るのはシガー・ロスの世界を全世界に初めて見せつけた『Agaetis Byrjun』から一曲。当然のことながら10分を超える大作である。そしてFat Catから限定リリースしたレア・シングル「Ny Batteri」までも収録。さすがシングルにしただけあって、改めていっそう強く印象に残る名曲だ。こんなふうに初期の曲を網羅した編成になっているのはかなり衝撃的だった。

 中盤になるにつれて、近年の曲も混じってくる。『Takk...』あたりからメンバーが結婚したり母国で幸せな生活を手に入れ始め、音にもその幸福感が滲み出るように明るい曲調、強いて言えばメジャー・コードかつミドル~ハイ・トーンを多用した楽曲が目立つようになる。そこには初期の頃に感じた"冷たさ"、"静寂の中から生まれる恐怖と興奮"はなくなっていた。それでも母国の大地を無邪気に駆け回るような"開放感"という新たな魅力が生まれていたのだった。

 後半は、再びダークな曲群が連なっている。3部構成とまでは言えないかもしれないが、徐々に真骨頂を見せてきたのだろう、これが本気の本領発揮した彼らの生き様とでも言うように、筆舌に尽くしがたい"世界"を表現している。その場にいなくても身震いがしてくる程の恍惚感と何かに打ちのめされているような悲壮感と、様々なものが入り交じって聴き手に襲いかかってくる。要するに、怖いのだ。シガー・ロスのライヴは文字通り観客を魅了する。それがこのたった2本のショウだけで存分に感じ取れてしまうのは、いくらキャリアがあるとはいえ出来過ぎではないだろうか。

 シガー・ロスの魅力というのは多々あれど、こうしてライヴを聴くと一番に、静けさと激しさが極端に表現されていることにあると感じる。静かなところは本当に無音に近い程静まり返り、ある種の緊張すらおぼえるのだ。それに対し激しい部分はこれでもかというくらい楽器をかき鳴らし...否、掻きむしり、完成された中で最大限にめちゃくちゃにしてくれる。知っての通りフロントマンのヨンシーはギターをピックや指で弾かず(一部かもしれないが)弦楽器用の弓を用いてプレイする。そうして奏でられる演奏に、ヴォーカルの声はどこまでも透き通り、ときにメインとして歌を歌い、ときにノイズに紛れた唯一の美しさとして際立って聴こえてくる。

 一つ付け加えると、案外誤解されがちな面ではあるが彼らは紛れもなくロック・バンドである。ビョークのように北欧独特の大自然のイメージこそ含まれているが、それでもモグワイやゴッドスピード・ユー! ブラック・エンペラーらと比較されておかしくない轟音ロックを奏でる人たちだ。モグワイがキュレートした今や伝説と化した2000年開催のAll Tomorrow's Partiesにも違和感なく出演していた人たちなのだ。そして特徴的なヨンシーのヴォーカルに評価が高いが、これがインストゥルメンタルでなく「歌」が入っているということが独自のポピュラリティを生み出していると考えられる。

 シガー・ロスが示したかったのは、あくまでいろんな楽器と声を全て含めての音の重ね方だったのではないか。最近でこそ歌詞に力を入れたり英語で歌ってみたりという試みが見られたものの、たとえヨンシーがシンガーとして評価されたとして、その他の楽器はそれをサポートするためにあるわけではないと思うのだ。今はソロ活動も精力的に行なっているが、この音源はそういった活動をする前(2008年)のもので、そこにはバンドとしての一体感が強く感じられる。以前レディオヘッドにサポート・アクトを任されたように、アイスランド語とはいえ「ポップ界」に組み込まれることを本人たちはどう感じていたのだろうか。決して"ポピュラー・ミュージック"ではないこの『Inni』という作品を聴く限り自分たちのやりたいことをしっかり提示しているように思う。だから多くの人々に知ってもらえる利点だけがプラスになり、それ以外の部分ではあくまで我が道を行き、どんな形であれちゃんと聴いて受け入れてもらえないならそれでいいと言えるような自信を感じさせてくれた。

 活動休止宣言から一転、活動再開を発表したシガー・ロス。これからも独自の世界観で新たな音楽を生み出していってほしいと切に願う。

(吉川裕里子)

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Madegg「Atul」.jpg  冒頭からこんなことを書くのもイヤらしいけど、『Players』のレビューで僕はこう書いている。

フライング・ロータスが主宰する《Brainfeeder》周辺の音楽にも通じるビート」

 このおかげで? というわけではないだろうが、なんとマッドエッグは、先日鰻谷燦粋でおこなわれたイベント《Brainfeeder 2》に前座として出演したのだ。「Crawl EP」のレビューでも書いたように、マッドエッグは才能あふれるアーティストだし、《Brainfeeder 2》出演も必然だったといえる。これをキッカケに、世界へ羽ばたいてほしいと思わずにいられない。

 さて、そんなマッドエッグの新作が「Atul」だ。このタイトルは、インドの美術作家アトゥール・ドディヤ(Atul Dodiya)からとったのだろうか? マッドエッグの音楽性は、ドディヤ特有の現実と幻想が混在したような絵画作品を彷彿とさせるし、そう考えても不自然じゃない気が...。まあ、それはともかく、本作はよりアグレッシブになり、フロア志向の曲も収録されている。特に「67 Floor」「Turn Sad」は、ドイツにおけるディープ・ハウス・リヴァイバルとも共振するトラックだ。といっても、そこはマッドエッグ。「67 Floor」は、おもちゃ箱から飛び出したようなノイズに、中盤あたりから交わるトライバルビートがウォブリーなスリル感を演出しているし、キラキラとしたシークエンスが特徴的な「Turn Sad」には、彼のいたずら心が滲み出ている。ビートレスな「Color Tapes」以降は、近年のビート・ミュージックを意識した「Grass」、サイケデリックな香りを漂わせる「Betweens」、海の底に沈んでいくような錯覚に陥る「We Finaly Promiced In The Aquarium」、古のIDMを現代仕様にアップデイトした「Everyone Go To This Mountain」まで、本作におけるマッドエッグは、多面的に感情を表現している。

「Atul」を通して聴くと、自分のなかの古い記憶が呼び起こされる。それは、母親の優しい声で絵本を読み聞かせてもらっていた、幼い頃の記憶と風景。他にも、砂場で友達と遊んでいる時間や、行ったことがない場所へ行く際の不安と好奇心といったものが不意に湧いてくる。そういった意味で「Atul」には、誰もが持っている幼い頃の物語を、成長記録という形で"現在(いま)"から見つめるような感覚さえある。これはある種のコンセプトだと言えなくもないが、そのコンセプトが聴き手の人生経験や個々の感性によって、様々な形に変化するのが面白い。そして、人生経験や個々の感性というフィルターを通して多様性を生み出そうとする点で、ジェームズ・ブレイクザ・フィールドといった才人と同じ方法論を実行しているとも言える。

 日本には、純粋に音楽と向き合い、その絶妙な距離感によって多くの支持を得てきたアーティストがたくさんいる。石野卓球、レイ・ハラカミ、七尾旅人などがそうだ。マッドエッグも、彼らと同じ領域に足を踏み入れつつある。

(近藤真弥)

 

※「Atul」は《Vol.4》のホームページからダウンロードできる。

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DRCMusic.jpg  近年のコノノNo.1の活躍やドキュメンタリー映画「ベンダ・ビリリ!」の公開によって、日本でも大きな注目を集めているコンゴの音楽。あいにく僕は今年のフジ・ロックには行けなかったけれども、コンゴトロニクス(コノノNo.1+カサイ・オールスターズ)With フアナ・モリーナ&スケルトンズの単独ライヴはしっかり楽しんだ。そう、「楽しんだ」という言葉がぴったりな最高のライヴだった。電気で最大限に増幅されたリケンベ(親指ピアノ)を中心に据えて打ち鳴らされる強靭でセクシャルなグルーヴ、大人数のメンバーが汗まみれになって放つピース・サイン、そして輝くような笑顔。

 世界中の音楽ファンを踊らせ、気鋭のミュージシャンたちをも魅了するコンゴの音楽。けれども、その音楽を生み出したコンゴは"楽園"などではない。コンゴ民主共和国は1998年から続く紛争で今もなお戦闘状態にある。10年間で540万人もの生命が奪われ、武装勢力による非人道的被害もあとを断たないという。DRC(Democratic Republic Of The Congo)ミュージックと名付けられたこのプロジェクトは、コンゴに暮らす人々が貧困から抜け出すことを支援する民間団体「オックスファム(Oxfam)」への援助金を集めるために、デーモン・アルバーンの呼びかけによって実現された。『Kinshasa One Two』の制作にあたっては、デーモンに声をかけられた11名のプロデューサー/ミュージシャンが今年の7月に首都キンシャサへ飛び、現地の50人以上のパフォーマーと共に5日間でレコーディングを完了。行動の素早さとリリースまでのスパンの短さが、"緊急を要するもの"という事実を何よりも雄弁に物語っている。

 そのようなコンゴにおける深刻な政治的(軍事的)背景、目を背けたくなるような現実とは裏腹に、力強い音楽に満ちあふれた素晴らしいアルバムが完成した。フェラ・クティと共にアフロ・ビートを文字通り牽引してきたトニー・アレンを"ルードなポップ・バンド"であるザ・グッド・ザ・バッド&ザ・クイーンに引き込んでしまうデーモンのセンスは、今回の"プロデューサーをプロデュース"する手腕でも冴え渡っている。ヴァンパイア・ウィークエンドからレディオヘッドまでを擁するXL Recordingsの総帥リチャード・ラッセル、ゴリラズの1stでデーモンのイメージする音像を見事に具現化してみせたダン・ジ・オートメイター、アルバムでは3曲ものプロデュースを担当するT-E-E-Dことトータリー・エノーマス・エクスティンクト・ディノサウルスなど錚々たるメンツが名を連ねる。時間的な制約と限られたレコーディング環境が逆に功を奏したのかもしれない。決して豊富とは言えないサンプリング音源をどう活かすか? という一点で参加者たちの自由なアイデアが発揮され、個性豊かなトラックが揃うことになった。

 アルバム・ジャケットとブックレットのデザインも印象的だ。材木や空き缶、鉄クズなどを組み合わせた手作りの打楽器が漆黒の闇に浮かぶ。すり減り、手垢で変色するほどに使い込まれたマラカスやリケンベ、奇妙な形のパーカッション。国内での戦闘が長引くほど、その楽器を持つ手にも力が入ったのだろう。そして、決して手放すこともなかった。アルバムに収録されているトラックからアート・ワークまで、コンゴの音楽と現地のミュージシャンたちに対するリスペクトが伝わってくる。デーモンが女性シンガーとのデュエットを聞かせるダビーなオープニング・トラック「Hallo」は初期のゴリラズのようだ。ダン・ジ・オートメイターがプロデュースを務める2曲目「K-Town」はアッパーなリフとスクラッチが最高にカッコいいヒップホップ。3曲目の「Love」のように、アフリカンなヴォーカル・トラックだけで構成された曲もある。パーカッシヴなグルーヴと独特のメロディがテクノ~ハウス、ダブステップへと連なるダンス・ミュージックのアプローチと絶妙なバランスで融合している。パワフルなヴォーカルをフィーチャーした荒削りなダンス・トラック「Three Piece Sweet Part 1 & 2」を手掛けたアクトレス(Actress)、息を呑むほど美しいアンビエント・トラック「Departure」を仕上げたクウェス(Kwess)など、新鋭のアーティストと出会う絶好の機会にもなるだろう。

 02年にリリースされたデーモン・アルバーン&マリ・ミュージシャンズ名義の『マリ・ミュージック』、ブラー『シンク・タンク』でのモロッコ音楽への接近、商業的にも大きな成果を上げたゴリラズでの様々なコラボレーション、そして『西遊記』をテーマにしたオペラの作曲などデーモン・アルバーンの未知なる音楽に対する好奇心は尽きることがないようだ。最先端の機材に囲まれた安全なスタジオを抜け出し、デジタル配信で済ませることもできる世界中の音楽と「現地」でふれあうこと。同情ではなく、行動で意思を明確にすること。それは"与える/与えられる"という恩着せがましいチャリティの定義を粉砕し、「西洋のミュージシャンがアフリカの音楽を取り入れました」的なお行儀の良さをも蹴散らす。鋼のようなグルーヴと最大限のボリュームは、人々が生きている証だ。楽器を手作りしてまでも鳴らさなければならない音楽がある。コンゴのミュージシャンたちが放つピース・サインを心して受け止めよう。

(犬飼一郎)

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SpaceDimensionController.jpg  いまやあなたは、流れてくる情報に対して返事をするしか能がない脊髄反射の塊になってしまった。ツイッターのタイムラインに反応し、自らの意見を主張したつもりになっている多くの者達。それらはすべて、誰かの意図に乗せられているだけの虚しい叫びに過ぎないとしたら・・・と、ずいぶん脅迫的な書き出しになってしまったけど、「The Pathway To Tiraquon6」の物語に入り込んでしまったら、それも無理はないということだ。

 本作は、来年リリース予定のデビュー・アルバムの前編にあたるそうだが、これは間違いだ。というのも、スペース・ディメンション・コントローラーことジャック・ハミルは、ネットレーベル《Acroplane》から『Unidentified Flying Oscillator』をリリースしている。初期エイフェックス・ツインやLFOの影響を窺わせるスペーシー・サウンドが特徴的なこのエレクトロ・アルバムは、《Acroplane》のサイトでフリー・ダウンロード可能なので、ぜひ聴いてみてほしい。

 さて、話を「The Pathway To Tiraquon6」に戻すとしよう。本作は、壮大な物語を描いたSF作品と言っていいだろう。ごちゃごちゃ説明するよりも、プレス・リリースに書かれている長文のほうがジャックの物語を伝えられそうだし、そのまま引用させてもらう。以下はプレス・リリースからの引用である。

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《これは、the Pathway to Tiraquon6(Tiraquan6への道・経路)の物語である。

西暦2257年、地球という惑星は、Pulsoviansという名で知られるエイリアンに侵略される。敵意剥き出しのエイリアンと遭遇するなんてまったく予想していなかった人類は、ここまでのスケールの攻撃に対する準備など全くできていなかった。

独自のテクノロジーを使い、エイリアン達は太陽エネルギーを吸い取り、この徐々に廃墟となっていく星で生きるための選択肢として、彼らは人類に、彼らの住む惑星Cosmo30で人間が奴隷のように働くという条件を出してきた。

人々の殆どがそのオファーを承諾したにも関わらず、そこには、地球から逃げ出し、宇宙の奥深くのどこかに新しい居場所を見つけようとした人々による小さな連合が存在した。彼らが脱出しようとしていたその時、PulsovianのリーダーであるXymah the Usurperが逃げ出すための船を不意打ちで襲ってきたが、多くの船がその攻撃から逃れることに成功し、宇宙の果てへと危険な旅に出発。その他の船は破壊され、地球の大統領と彼の官僚たちの船も破壊されてしまった。

何年もの間、生き残り自由の身となった人々は、政府も階級も、希望も存在しない宇宙の奥深くへ引きこもった。しかし、保安官であるMax Tiraquonが、人間が住むのに相応しい惑星を見つけるため、近隣の銀河系を独りで旅する任務を授かる。が、彼が探索を初めて1年後、彼のエレクトロポッドとの通信が途絶えてしまい、彼は宇宙のどこかに流されてしまったのだと誰もが思っていた。

それから数年後、正体不明の宇宙船がメインの大型船のレーダーで発見された。それはMaxだった。彼は、彼のエレクトロポッドの後ろに残された、蛍光を放つ小道を手がかりに船へと戻ってきたのである。帰還した彼は、空間格子Mikrosector-50に、地球と似た環境を持つ惑星が存在することを人々に伝えた。人間たちは直ちにその惑星へと向うコースを設定し、着陸すると同時に新しい住居を建てる計画を練り始める。Maxは、Tiraquon安全保障理事会を設立。家々の建設がTiraquonセキュリティ・バリア上で開始され、Mr. 8040と名づけられた兵士がそのバリアのパトロールに任命される。Mr. 8040は、スペース・ディメンション・コントローラー代理となり、その後、Mikrosector-50の建設中、何年にも渡り、うまく治安を維持し続けていた。ところがある日、バリアのQuandrasectorの中のライト・ビームを修理していたとき、Mr. 8040のエレクトロポッドの大部分がビームの中に叩きつけられてしまった。死を避けるため、Mr. 8040は、彼のエレクトロポッドのミクロン粒子加速器を全開にする。しかし、なんとそれが彼を2009年にタイムスリップさせてしまい... 》

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 といった具合だ。フィリップ・K・ディック顔負けなSF的設定は、物語や神話に対するアレルギーが色濃く残る現代において、時代錯誤に見える大仰なものかもしれない。しかし、それでも本作をスルーできなかったのは、クラフトワークを哲学として捉えた音を鳴らし、それを"テクノ"と呼んだホワン・アトキンスから続くテクノの歴史に連なる音楽だからだ。ホワン・アトキンスはもちろんのこと、前述したエイフェックス・ツインやLFO、デリック・メイ、ジェフ・ミルズ、808ステイトまで、数えだしたらキリがないほど多くの影がちらつく。だが、これら過去的要素はすべて現代仕様にアップデイトされ、モダンな音楽を生み出している。特に「Flight Of The Escape Vessels」「Max Tiraquon」は、ダブステップ以降の現代的なビート感覚と過去の歴史を接合した、究極のハイブリット・ミュージックとして高らかに鳴っている。

 そして、本作の物語についても言及しなければならないだろう。こうした壮大なコンセプトはジェフ・ミルズが得意とする手法で、哲学としてのテクノを標榜しているのも共通するが、ジャック・ハミルのそれは、現実を意識した非現実的世界だ。ジェフ・ミルズは圧倒的な状況と理論によって、聴き手を別の世界になかば隔離してから征服する。しかしジャックは、状況こそ作りあげるが、あくまで人類の視点から状況を描いている。"エイリアン"なんて言葉を対象物に選んでまで人類という存在を強調するのは、我々がもっとも多く接する生物であろう"人"を、聴き手の頭にすり込むためだと推察できる。このすり込みによって、聴き手は"日常"という現実を片隅に置かざるをえない。

 いままで述べてきたことを踏まえて考えれば、ジャック・ハミルは音楽に想像力(であり創造力)を取り戻そうしていることがわかる。すでに"価値"が定められたものを自動的に受け止めがちな現代において、あくまで自分の内面を出発点とした能動的表現方法は、ジャックなりの現代社会に対する抵抗ではないだろうか? ジャックもまた、想像力によって厳しいこの世界を乗り越えようとするひとりなのだろう。全11曲47分、EPと呼ぶには濃密な「The Pathway To Tiraquon6」を聴くと、そんな気がしてならない。

(近藤真弥)

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JOE HENRY.jpg  例えば、ニューオリンズの別名である(あまり良くない意味だが)"ビッグ・イージー"という言葉に沿えば、トクヴィルが想ったアメリカとは、何かしらの模範的な鎖と朴訥さ、残酷さに繋がれているともいえる可能性も含む。そこで、"ルーツ・ミュージック"を巡っていったときに仮想化されるのは、組織化された連帯としてのネーションなのか、それとも、慈恵の関係性の中で浮かび上がるフォークロア、トラディショナルとしての陽のあたる家なのか、考えるとき、複雑な気持ちが去来する。

 そこで、今、アメリカの"良心"と呼ぶことができるシンガーソングライターは、コナー・オバーストか、いや、ベイルートか、やはりノーベル文学賞に最も近いと言われる重鎮であるボブ・ディランか、多種多様な意見が出ると思うが、現時点で、ジョー・ヘンリーの存在を挙げる人は少なくないだろう。

 鑑みるに、オーネット・コールマンやミシェル・ンデゲオチェロ等が参加した暗鬱なフィルム・ノワールを彷彿させる詩情が詰め込まれた01年の『Scar』以降、00年代の躍進は目まぐるしかった。ジャズ的ではあるのだが、ブルージーな質感とダウン・トゥ・アースなボトムを重視した土臭い音風景の題材に選ばれた、黒人アーティストのリチャード・ブライアーというモティーフの断片―。その時点で、彼自身はデビューから15年を経ていたのだが、『Scar』は、確かなメルクマールになった。そして、R&Bのレジェンドといえるソロモン・パークの02年作『Don't Give Up On Me』のプロデュース、03年のレイモンド・チャンドラーの短篇集を想わせる高みまで到達した、03年の『Tiny Voices』においては、日本盤化されたのもあり、仄かなダークネス、エレガントな馨りには、世界のみならず、多くの日本のリスナーの心も掴むことになった。

 その後、ジャズ、R&Bに対しての意識をどんどん高め、ブルーズ、R&B、カントリー系のアーティストのプロデュース・ワークにも積極的に関わっていきながらも、"黒い音楽"に限りなく敬意を表し、自らの音楽性も"深化"させていった。例えば、アラン・トゥーサン、ランブリン・ジャック・エリオットでのワークスで魅せた手腕も記憶に新しいことだろう。自身の05年の『Civilians』では、ビル・フリゼール、ヴァン・ダイク・パークスの参加も功を奏し、ナイトクラブが似合うような、更に新しい世界観を手に入れた。09年のどっしりとしたブルーズ・アルバム『Blood From Stars』を踏まえ、約2年振りで届けられた彼の通算12作目となる『Reverie』の手応えは、これまでの彼の「重さ」を厭っていた人でも、気軽に暖簾を潜れるような健やかさもありながらも、長いキャリアの中で培われた土着性が滲み出ている奇妙な内容になっている。

『Reverie』では、これまでのようなジャジー、R&Bの要素は控え目であり、フォーキーであり、シンプルなサウンドに統一されながらも、歌詞は独自のリリシズムに溢れてはいるが、"抑制の美"と"弛緩の優雅さ"の狭間を往来している。全編を通じて、アコースティックな音の質感が通底しているのは、カリフォルニアの彼の家の地下室で、ベースのデイヴィッド・ピルチ、ピアノのキーファス・シアンシア、ドラムスのジェイ・ベルローズという基本、馴染みのメンバーで一気に3日間のセッションで録音したという事実に帰結してくるからかもしれない。"風通しの良さ"が、今までになくあるが、その風通しの良さは曲の中途で聞こえる鳥の鳴き声、外の音がフラットに「入っている」というラフさにも表れている。慮るに、彼は"凝る"アーティスト気質であるからして、今回はただ、そのままに"呼吸"をするように、当たり前に、"生活"するように音を密封して届けたかったのだろうと思う。しかし、その風通しの良さに彼の"声"が乗った途端、一気に叙情が倍加するのも面白い。

 いつの時代のサウンドなのか、とつい想ってしまうほど、現代的なサウンド・ワークではないが、逆に「時代を越える(タイムレス)」耐久性を得るのは、こういう作品ではないか、とも考えさせられる。マーク・リボーのギターやウクレレ、ダブリンのフィメール・シンガーソングライター、リサ・ハニガンのコーラスも効果的に入ってきながらも、際立つのは何よりもメロディーと彼の声、そして、歌詞世界の相変わらずの叙情性だったりもする。

 特筆すべきは、3曲目の「After The War」における流麗さ、9曲目の「Piano Furnace」でのスムースな雰囲気だろうか。これまで以上に、全曲をサラっと聴き通すことが出来るジョー・ヘンリーの作品という意味では示唆深いが、00年代を通して、ブルーズ、R&Bへの"重み"を追求してきた彼が10年代に入り、こういった一筆書きのように新作を上梓してきたというのは意味があると思う。過度に詰め込む情報量や歴史的背景よりも、自然の流れに沿うままに音楽を奏でる―それは、現代において、柔和に空気を揺らすのではないか、そんな気がする。

 揺れた空気越しに、音楽はまだ活き続ける。

(松浦達)

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RADICAL FACE.jpg  揶揄ではなくて、ベン・クーパーはこのファミリー・ツリー三部作を引っ提げ、もう映画監督にでも挑戦すればいいのではないかと思う。『Ghost』以来、エレクトリック・プレジデントのソングライターによる4年振りのソロ・プロジェクトは、ノースコート家という架空の家系を1800年代から1950年代まで追ったというモチーフで制作された、セピア色の長編映画をそのままアルバムに梱包したような三部作の第一作である。

 本盤は構想に4年、楽曲制作に1年余りが費やされているスケールの大きな作品となっているのだが、なんと楽曲制作の倍近くもソングライティングに時間を割いている。「ソングライティングに2年もかけるだなんて、小説家じゃあるまいし」と突っ込むのは実は自然なことで、ベン・クーパーには小説家志望だった時期もある。保存していた小説のデータが全て消滅したショックから、音楽活動を再開したという一説からも、彼の表現におけるスタイルがまず物語を描くことを前提とした気質であることが窺える。その熟考に熟考を重ねた物語のリリックはというと、見事としか言い様がないほどに聴き手の想像を膨らませる克明さを秘めている。徹底的にモチーフに忠実であり、ブックレットを読みながら楽曲を追っていくと、絵本に引きずり込まれていくような、不気味さを孕んでいる。セピア色にくすんだポートレートがブックレットの大半を占め、いずれも不穏な加工が施されている。最後の写真では、湖のほとりに建てられた小屋の前で親子が立ち並び、その頭上には家よりも巨大な蛾が止まっている。そして『君が死んだことが、ぼくには嬉しい』と殴り書きされていて、そのちぐはぐで不気味な違和感が、聴き手を物語の中へ落とし込む。

 前作の『Ghost』が短編小説なら、こちらは長編小説であり、それも一族の家系を辿り続けるのだから、スケールや風呂敷を如何様にでも広げられる大作にもなり得る。そのノースコート家がどのようにストーリー・テリングをされるのかというと、これが少しホラー的である。ノースコート家の幽霊、仰々しく換言すれば「死と再生と家族」がテーマとして取り上げられ、"ぼく"の視点から家族の凋落が不穏に記されている。何にしろ、母は"ぼく"を産んだ直後に亡くなり、やむなく姉が母の代わりに世話をするもののストレスで疲弊し始め、父は酒に溺れて自殺し、最後には死んだ兄が幽霊になって家を守る、という凄惨な物語である。これが悲劇として扱われているのではなく、「家族の間で巻き起こる不思議な出来事」として扱われている点が、シネマティックでありホラーチックである由来なのだと思う。血生臭い描写のすぐ傍らで、愛が語られるし、九曲目の幻想的なリリックなどはぞっとするほど美しく、"気味悪い一族の話"で完結していない。しかしながら、この背後からひたひたと這い寄って来るような不穏さ、一族の何世代もの話を取り上げる点、幽霊が家族を守るという、いわゆる"中学生が一度は妄想しそうなこと"――語弊を恐れずに言うならば、きちんとリリックを追って反芻した後、私はどことなく『ジョジョの奇妙な冒険』を連想した(心からの褒め言葉)。このアルバムを耳にしてブックレットを手にとれば、ほんの少しは共感が得られると思う。冗談じゃなくて。

 では、シンプルに制作された楽曲はソングライティングの副産物なのかというと、完璧主義者のベン・クーパーに限って当然そんなことはない。第一作は1800年代が舞台であるため、使用される楽器も当時から既に存在していたものに限定されており、その徹底の仕方には感服である。骨子となるのはアコースティック・ギターとピアノで、リズムにはドラム・キットではなく、主にフロア・タム、時折ハンド・クラップやシェーカーが用いられている。フロア・タムの録れ音などはかなりモダンに処理されていて、洗練されつつも古臭さはない。ドラマチックなメロディに幽玄なコーラスを重ねるスタイルはエレクトリック・プレジデント直系で、シンプルな構成の楽曲を彩る役割を担っている。第二部、第三部と時代が現代に近付くにつれて、使用される楽器も増え、楽曲の構成も複雑になっていくらしい。

 本盤は、誰の手も借りずに一人で制作した、という意味ではリビングルーム・ミュージックである。楽曲、リリック、アート・ワーク、PVまで、これらを統一された世界観に緻密に収斂させることは、バンドやユニットでは困難であろう。ミキシングやマスタリング、レコードの設立まで一人で精励したことは素晴らしいことであるが、かといって誰かの手助けがあれば世界観は薄まっていただろうし、そもそもベン・クーパー本人も、この長編小説のようなアルバムに他者の手を介入させることは望んでいなかったと思う。そう考えると、ラディカル・フェイスがソロ・プロジェクトというスタイルの理にとても適った存在であることが分かる。これでもう『エレクトリック・プレジデントの天才ソングライター』という看板は不要になった。

(楓屋)

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Nsyukugawaboys.jpg  山崎洋一郎が"最高のロックンロール・バンド"、と評したらしいが、そしてその通りだけど、何となくその言い方は一時期の狂騒を言い表したフレーズのようにも聞こえてしまうから、あんまり好かない。でも嬉しい。ここまで来た。「モテキ」効果かどうかは分からないが、アルバムも売れているらしいし、サブカルの枠を超えて話題になっている。サブカル村なんてクソくらえだから。サブカルはクソじゃないけれど、サブカル村の住人はクソだから。そして彼らが堂々と「ロック・イン・ジャパン・フェス」に出演したことは、今年のベスト・ニュースのひとつに違いない。観に行っていないから分からないけれど、そういうことにも変に意固地を張らず、ひるまず、飄々と出ていくのがじつに彼ららしいと思った。彼らには拒絶がない。後追いも何も関係ない。今回の新作『Planet Magic』は過去最高にポップで、個人的にも一番好きな作品である。こうやってメジャーになっていって、オリコン1位にくらいまで上り詰めてくれたら本気で嬉しい。でも消費されないで。誰かの音楽的アイデンティティーを向上させるためだけに使われないで。もっとみんなの人生の中心で鳴らされるポップ・ソングであって。日本のど真ん中のポップソングであって。

「プラネットマジック」も「Candy People」を凌ぐ名曲に違いないが、「ミッドナイトエンジェル」はいまだ成功を夢見るだけの日本中のバンドたちから嫉妬を買うであろう超名曲だ。彼らには才能がある。演奏力はない。でも頼むから「演奏が下手だけど、そこが良い」とか、そんな次元で収めるのは勘弁してくれ。

(長畑宏明)

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DeptfordGoth.jpg  デプトフォード・ゴスことダニエル・ウールハウス(Daniel Woolhouse)は、アクティブ・チャイルドのリリースなどで知られる《Merok》が送り出すニューカマーだ。サウスロンドン出身の彼は、ジェームズ・ブレイクを彷彿とさせるソウルフルな声の持ち主で、音楽的教養の高さも窺える。自らの歌声を躊躇なく加工しコーラス・パートに配置するなど、ジェームズ・ブレイクとの共通点を挙げていけばキリがないが、ダニエルはシリアスになりすぎず、ハッチバック的な人工美を強調したエレクトロニック・ミュージックを鳴らす。

 ちなみにアーティスト名にあるデプトフォードは、ロンドン中心部から少し離れた南東部に位置する小さな町の名前でもある。デプトフォード・マーケットには、古着や雑貨などを売る露店がずらりと並び、最近は現代アートに影響を受けた建築物が建ちはじめている。主にアフリカ系やアフロ・カリビアン系の移民が住んでおり、様々な感性が集まるハブのひとつとも言えるが、デプトフォード・ゴスの音楽も、いろんな音楽的要素で構成されている。

 世間ではポスト・ダブステップとして語られたりもするが、ダブステップをはじめとしたベース・ミュージックの要素は、ほんの僅かな割合でしかない。むしろ、80年代ニュー・ウェイヴを想起させる、ペット・ショップ・ボーイズ的なエレ・ポップが基調となっている。そこにアンビエント、R&B、ニュー・ディスコといったスパイスを加えることで、ダニエルは個性を発揮する。ある意味この雑食性が、アティチュードとしてのダブステップを表現していると言えなくもないが、「Youth II EP」を聴く限り、ベース・ミュージックに対するこだわりは感じられない。自由奔放で力みがないその音楽性は、特定のジャンルやカテゴライズを拒否するかのようだ。そんなデビューEPとなる本作は、ダニエルのインテリジェンスと将来性が詰まった、素晴らしい良盤だと言える。

(近藤真弥)

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