伊藤英嗣: October 2011アーカイブ

retweet

DJ SHADOW.jpg  まず、異才フーゴ・バルの言葉を孫引いてみよう。

  「1913年の世界と社会はこんな塩梅だった。生は完全に閉じ込められ、枷をはめられていた...日夜問われるもっとも切迫した問いは、こうした状況を終わらせる強さを、なかんずく正気を持った力が何処かにあるだろうか? という問いだった。」(『時代からの逃走』序文より)

 そして、有名な彼の「音声詩」、つまり、「言葉のない詩」とは通常言語を捨てるために、人間の本来的な意識の下で発される「正気を持った力」として言葉を取り戻そうとする試みであり、溢れた言葉の「深奥」を探る為の「詩的魔性」を確認する行為だった。

  「詩的魔性」という意味では、現在、90年代的な音のリヴァイヴァルやその生き残り組の新譜が目立つ中、ロンドンのストリートが燃えた今年になって帰ってきた、「アブストラクト・ヒップホップの先駆者」として、ときに名称もされるDJシャドウの存在は欠かせない。90年代のヒップホップは、例えば、ア・トライブ・コールド・クエストのジャズをネタに取り入れたスムースさ、アウトキャストのアマルガム的な加速、ナズの硬質さなどがパブリック・エネミー以降の視界を変えて行きながらも、USのユース・カルチャーを語る際には「組成/混合としての音楽」のヒップホップを考えないことには、見えないものが多くあった。日本でも、ロック×ダンスのエクレクティズムの波と、ストリート・カルチャー×アート性としてのヒップホップは一部のトライヴのみならず、耳聡いリスナーの五感をフック・アップした。

 その中でも、96年のDJシャドウの『Endtroducing...』の新しさとその後も語り継がれる意義とは、細かく刻まれた美しくも抽象的なビートの上に幽霊のように幾つもの声やサンプリングがジャンプ・カット写法のように切り替えられながらも、通底はメロウな感触に貫かれている、というところだったのかもしれない。また、トリップ・ホップ、チルアウトなどとも緩やかに共振しながらも、その音はベックの『オディレイ』が刷新しただろうセンスの鋭さ、豊潤な音楽の歴史の遺物への敬礼というタームで括ることも出来たが、現在のディプロが行なうようなDJのフロアーに根差した現場感覚とサウンド・センスの絶妙な「間」を縫ったというのも大きかった。それは、アンクル、トマト×アンダーワールドにおけるアート的に且つアンダーグラウンド・カルチャーの水脈を叮嚀に拾い上げ、しっかりとアップ・デイトしてシーンへと掲げたクールネスにも準ずるだろう。DJシャドウのサンプリング、元ネタのヴァイナルの数々、音源にも注目が集まり、そのストイックなステージ・パフォーマンスでも、非常に魅力を持ったアイコンの一人だった。

 彼のその後は、コラボーレーション、リミックス・ワーク、カット・ケミストとの「Brainfreeze」など順当に活動を拡げ、02年のセカンド・ソロ・アルバム『The Private Press』はサンプリングをベースにしている点では、ファーストとほぼ変わらなかったが、その心の中に潜りこむような暗さが増し、内省が強くなっていたところがあったが、この美しい陰翳を愛するリスナーも少なくない。

 問題にはなったのが、何より06年のサード・ソロ・アルバム『The Outsider』であり、大きな賛否両論を生んだ。殆どの曲で客演、ボーカルを迎えたストレートなヒップホップ・アルバム。背景に自身が死を近くに感じたというエピソードがあるにしても、彼のビート・メイクとストイックなセンスを信頼していた人たちからしたら、この「拓け方」には、戸惑いも覚えた人も多かったが、アート性が先立っていて、入り込むことが出来なかった人たちには新しい入り口にもなった。

 そして、10年代、ダブステップ的なサウンド・メイクが基調になり、寧ろ彼の作る音が巡り廻り、求められるのではないか、という中で届けられた新譜『The Less You Know The Better』。簡単に邦訳すれば、「貴方が知らなければ、知らないに越したことがないよ」という諦念とシニックに通底したタイトルになっている。そのタイトル名通り、更に憑き物が落ちたように、明快なヒップホップ・アルバムへと舵を取っている。「Border Crossing」でのハードなギターの響き、PosdnusとTalib Kweliのライムが軽やかにステップする「Stay The Course」、「Sad And Lonely」にはメロウなR&Bの馨りが濃厚に漂う。Tom Vekの参加した「Warning Call」は懐かしい90年代のヒップホップの歴史背景が見え、従来通りのアブストラクト・ビートが冴える「Tedium」、「Enemy Lines」など含め、「10年代の音」として考えるよりも、DJシャドウが長いキャリアを重ねてきた結果、行き着いた場所がこういったバック・トゥ・ベーシックではなく、自分の中に幾つも眠るレコードの束、音楽を並列的に出来る限り絞らず、呈示するということであれば、これは90年代後半に出てきた一人の天才的トラック・メイカーが素のレコード・コレクターたる自分の顔を見せて、フロアーに皆を呼び込むための一通のインビテーション・カードになったのではないだろうか。作品としての纏まりの無さ、統一性のなさ、彼特有の美学の希薄さにフォーカスを当てるよりも、この音を聴いて、現場に足を運ぶことを促すものである。

 だから、もう「詩的魔性」は今の彼にはない。

 しかしながら、これまでの来歴を想えば、良いのかもしれない。

(松浦達)

retweet

RobCrow.jpg  インディー・ロック界のハード・ワーカー、ロブ・クロウの4年振りのソロ・アルバム。実はこのアルバムのリリースが発表されて間もなく、ピンバック(Pinback)の新譜が2012年初頭にリリースされることがアナウンスされており、ファンの多くの関心は、既に来年へと寄せられているに違いない(私もその一人)。しかしながら、あらかじめそんな朗報が流布されてしまうと、どうしてもこのアルバムを色眼鏡に通してしまう。ソロ作品が緩衝材としての役割を担っており、クリエイティビティを滾らせてピンバックの制作に至ったのではないか、とか。このアルバムが"ツナギ"だったらどうしよう、とか。かなり投槍に言ってしまえば、そんな憂慮は余計な気遣いで、迷走も何も無く、本盤でも安定してミニマルなインディー・ロックが鳴らされていることに変わりはない。

 ピンバックに漂う、美しい情景を喚起させるような音色やフレーズ、ポスト・ロックらしさは希薄になっており、本盤はかつてのヘヴィ・ベジタブル期のロブ・クロウを彷彿させる。どちらも大好きな者としては、この方向性へのシフトは大歓迎であろう。ヘヴィ・ベジタブルが一直線ながらも複雑な回転がかけられたボールであるなら、ピンバックは複雑な軌道を描きつつも、最後は素直にミットへ飛び込むボールなのだ。複雑な構成や展開など目の敵にしているかのような潔さが堪らない。

 更に言うなら、ポスト・ロックをドロドロに溶かして、ミニマルの鋳型へ注ぎ込むのが従来のピンバックであるのに対し、本盤はヘヴィ・ベジタブル期の自分自身が、ミニマルの鋳型に注ぎ込まれているような印象である。短い曲がせかせかと立て続けに雪崩れ込んでくる早急さは、まさにピンバック編成で再現されたヘヴィ・ベジタブルである。ピンバックの新作を控えている矢先に、原点回帰(原点でもないけど)のようなアルバムをリリースしてくる辺り、小気味良い捻くれ加減は健在である。

(楓屋)

retweet

GoldPanda.jpg  少し指が触れただけで壊れてしまいそうなほど繊細で、ガラス細工のようなソフィスティケーションが施された上品なグルーヴ。でもそれは、人を寄せ付けない圧倒的なオーラというよりも、聴き手に寄り添う優しさと温もりにあふれている。もちろんフロアで流れてもよさそうなセットリストにはなっているが、家でヘッドフォンを通して向き合う、もしくは大事な誰かと一緒に過ごす時間など、謂わば"日常"に根ざした環境で聴いたほうがしっくりとくる。これはやはり、現実に対するささやかな抵抗として音を鳴らし、独自の世界観を築きあげるゴールド・パンダの音楽性がそう思わせるのだろう。

 彼の音楽は"日常"を匂わせながらも、その"日常"に潜むストレンジな扉を開いた先に存在する"ここではないどこか"を見つめているが、今回の『DJ-Kicks』でも同じ場所を見つめている。ダブステップと2ステップを基本とし、時折テック・ハウスも織り交ぜるなど、DJとして優れたバランス感覚を見せつけながらも、すべての曲から"ゴールド・パンダ"の雰囲気が漂う。不思議なことに、彼の細長い指と手にかかれば、どんな曲もゴールド・パンダの曲になってしまう。この魔法のような感覚が、テクニック以上に『DJ-Kicks』では輝きを放っている。

 DJMIXは、クラブの空気を疑似体験できるのが売りだったりもするが、本作は文字通り"ゴールド・パンダの世界"としか言いようがない、まるでおとぎ話のなかにいるような錯覚に陥ってしまう。アシッドやエクスタシーのトリップとは別のトリップ、強いて言うなら、"ゴールド・パンダ"という新種のドラッグだろう。もちろん本作は音楽であるから、なにかしらの副作用を心配する必要もない。もしあなたが音楽でしかできない時間旅行がお望みなら、ゴールド・パンダによる『DJ-Kicks』を手に取るのもいいだろう。

(近藤真弥)

retweet

さて、オトトイの歌詞対訳講座第2期、無事始まりました!

こんな感じで進んでいきます。

まずは60年代。第1期でとりあげた「60年代を代表するバンド」はザ・ビートルズでしたが、第2期はザ・ビーチ・ボーイズ!

ビーチ・ボーイズといえば「スクエア」かつ「軟派」なイメージと、とりわけブライアン・ウィルソン(や亡くなったデニス・ウィルソン)が背負っている「内省的」で「アーティスティック」なイメージの両極端があると思います。ひとによっては前者、ひとによっては後者をより強調したくなるところでしょう(前者にこだわるひとは、もしかしたら後者のことは知らない可能性も?)。

日本には、山下達郎など、その両者をうまく消化したアーティストがいます。解散したフリッパーズ・ギターなんかも...。

最近の洋楽でいえば、ザ・ドラムスなんか、完全にそうですね。ファースト・アルバムが『Pet Sounds』まで(「Surfin' USA」とか歌ってた初期のころ含む)とすれば、今回のセカンドは『Smile』(制作から40年以上たった「初の公式リリース」まで、あと1週間を切りましたね:笑)~『Smiley Smile』っぽい...と言えなくもない。

今回は(「講座第1回」ということもあり、とくに「課題」はお願いしなかったので)ぼく(伊藤)による「Surf's Up」の対訳を紹介します。

これは、もともと『Smile』に入る予定だった曲ですが、結局(同じアルバムに収録されるはずだった別の曲と組みあわせて)70年代初頭のアルバム『Surf's Up』のタイトル曲になりました。

メイン作詞者はヴァン・ダイク・パークス。彼ならではの「アメリカ音楽」史や状況に対する視点(「ビジネス」に対する自嘲的皮肉含む)が、あまりにみごとに反映された歌詞だと思います。

>>>>>>>>>>

「Surf's Up」

ダイアモンドのネックレスをポーン(歩兵)代わりに使うチェス
手に手をとって ドラムのビートが聞こえる
堂々とした動きのバトンにあわせて
盲目の上流階級
オペラ・グラスでふりかえったきみは見る
C席のひとたちと流行の趨勢のあいだに勝ち負けは存在しない
途中にコラム...支柱が立ってるから ドミノ倒しは失敗してしまう

町中を調査して 舞台の背景をエアブラシで描こう
眠ってるの?

ぶらさげられたヴェルヴェットがぼくに覆いかぶさる
ほの暗いシャンデリアの光で目を覚ます
夜明けに溶けていくうたにあわせて
音楽ホール ぜいたくなおじぎ
あらゆる音楽は 今その存在価値を喪失している
ミュートされたトランペットの音のような声で自画自賛する歌手によって
途中にコラム...支柱が立ってるから ドミノ倒しは失敗してしまう

町中を調査して 舞台の背景をエアブラシで描こう
寝てるの 寝てるの ブラザー・ジョン?

鳩が塔の巣で羽をやすめている そろそろ
ストリートに水銀のような月が昇る時間だ
車が霧のなかをとおっていく
ランプを手に 二拍子で 倉庫にしまわれた曲を照らそう
「蛍の光」にあわせて大きな笑い声が起こる

グラスをかかげ 炎でよく焼いて
ワインはなみなみと 最後の乾杯であることは隠して
さよならの港で もしくは死を

悲しみに沈む気持ちが首をしめ 心臓が硬化していく ぼくは
信じがたいほどまでに 夢破れた男 泣くにはタフすぎる

サーフィンは終わり
潮流に乗りこもう
全力で向きを変え 合流しよう
若者たち そしてきみがよく与えた泉
ぼくはあの言葉を聞いた
素敵なやつ
子どものうたを

子ども 子ども 子ども 子ども 子ども
子どもは人類の父である
子ども 子ども 子ども 子ども 子ども
子どもは人間にとってお父さん
これは子どものうた
子どもが歌うのを もう聴いた?
そのうたは愛
子どもはやりかたを知っている
だから 子どもは人間にとってお父さん
子ども 子ども 子ども 子ども 子ども
子ども 子ども 子ども 子ども 子ども
ナナナナナナ
子ども 子ども 子ども 子ども 子ども
だから 子どもは人間にとってお父さん
子ども 子ども 子ども 子ども 子ども

(対訳:伊藤英嗣)

>>>>>>>>>>

なお、このタイミングで、先ほどまでこのカテゴリーにアップされていた「第1期の第6回(10年代のアーティスト)に関する記事」を、とりさげました。

ちょっといろいろ考えて、よくなかったかな...という部分があったので。

あっ、そこで「課題」の結果を発表していた、小口さん、太田さん、澤さんの対訳内容には、なんら問題ありませんでした! あくまで「権利」とかに関すること。基本、反省してます。だけど、ものすごくややこしい話ゆえ、ここでくわしくは述べません(まあ、機会があったら、また、いつかどこかで:笑)。

この回は、以上です!

2011年10月26日11時34分(HI)

*ツイッターにて、tadd igarashi(@taddihno)さんよりご指摘がありましたが、「surf's up」という単語には、たしかに、サーファーのスラングで「いい波がきた!」みたいな意味があります。そのまま訳すのも、より「皮肉」が強まっておもしろいのですが、ぼくはあえて上記のように訳しています。説明不足、申し訳ありませんでした! tadd igarashiさん、ありがとうございます!【10月26日夜追記】

retweet

Noel Gallagher'sHFB.jpg  ノエル・ギャラガーの1stソロ・アルバムを聴きながらストーン・ローゼズ再結成のニュースを追っていた。オアシスは「Sally Cinnamon」のシンプルなリフに導かれて、バンドとしての方向性を見定めた。"憧れられたい"というメロウな囁きの代わりに"今夜、俺はロックンロール・スターだ!"と高らかに宣言してみせた。そのオアシスも、今はもう存在しない。そしてビーディ・アイとノエルのアルバムが出揃った瞬間にローゼズが復活した。本当に不思議な巡り合わせだと思う。

 記者会見でレニが10数年ぶりに元気な姿を見せ、ジョン・スクワイアが笑っている。マニは正式にプライマル・スクリームからの脱退を告げ、「車輪が外れるまで、走り続けるぜ!」とイアン・ブラウンが宣言する。これから鳴らされるストーン・ローゼズのサウンドは「One Love」のあとに失われた5年間を埋め合わせるものなのか? 『Second Coming』の音像をさらに拡大させるものなのか? それとも...? すべては来年6月にマンチェスターで開催される復活ライヴのあとで明らかになるだろう。

 初めて自分のおこづかいでレコードを買った日から20年以上経つけれど、いま改めて"音楽はタイムレス"だと気付かされることが多い。1991年にクラブチッタ川崎で見たプライマル・スクリームのボビーは最高にセクシーでヘロヘロだった。それを20年後に再体験するなんて、誰が想像できただろう? 「ストーン・ローゼズのマニはプライマル・スクリームに入るんだぜ!」って、当時の自分に話しかけてみたい。きっと信じないだろうな。「話はまだ終わっていないよ。ストーン・ローゼズは2011年の10月に...」。僕は今、目の前で起こっていることが信じられない。

 ストーン・ローゼズが友情を取り戻した。そして僕の手には『Noel Gallagher's High Flying Birds』と名付けられた1枚のCDがある。9月、リアムはビーディ・アイとして日の丸をバックに「Across The Universe」を歌った。僕は最前列でそれを見た。全部、当たり前のことなのかな? 少し上手になったノエルの歌声を聴きながら、僕はそんなことを考えている。

 オアシスのアンセムを書き続けてきたノエルのこと。このアルバムにオアシスの面影を見つけるのも難しいことじゃない。「WonderWall」を彷彿とさせる「If I Had A Gun」、オアシス時代に書き貯めていたと公言されている「(I Wanna Live In A Dream In My) Record Machine」、そして(日本盤ボーナス・トラック2曲を除く)ラストを締めくくるのは「Stop The Clocks」というオアシスのベスト盤と同名の曲だ。それでも、このアルバムは当然のように"ノエル・ギャラガーのアルバム"として僕の耳と心を奪う。ギター、ベース、ドラムス&ヴォーカルというバンド・アンサンブルの束縛から解き放たれた楽曲は、"High Flying Birds"と呼ぶのに相応しく、自由に飛び回っている。冒頭の「Everybody's On The Run」から鳴り響くストリングス、全編を貫くアコースティック・アレンジ、そして切なくも力強いメロディと詩情。アルバム・ジャケットを見れば、ガソリンスタンドの照明という無様に光り輝く羽根を広げながら、一人の男が飛び立とうとしている。

 2011年の今、日本で音楽に興味を持たない人たちは、どんな気持ちで毎日を暮らしているんだろう? ひとつのバンドが解散したり、再結成したりすることに一喜一憂する僕たちをバカみたいだと思っているのかな? 最新の音楽を追い求め、今まで知らなかった過去の曲に感動し、聞き慣れた歌を飽きずに何度も再生している。それは少しでも「今、この瞬間」を良くするためだ。どんな時も音楽は「今」を変える。音楽は歌い、踊り、祝福する。僕はそれを「可能性」と呼びたい。

 ストーン・ローゼズはバンドとしての「今」を取り戻した。オアシスが残した曲は「今」も僕たちの心を奮い立たせる。そしてビーディ・アイに続いて、ノエルのアルバムが「今」から鳴り響こうとしている。

(犬飼一郎)

retweet

Coldplay-Mylo-Xyloto.jpg  彼らのライヴを今年のフジロックで観たときから、来る最新作が彼らにとって余裕の最高傑作になるであろうことを確信した。そのライヴから約2ヶ月後にリリースされたこのアルバムは、「Don't Panic」よりも「Politik」よりも「Square One」よりも「Life In Technicolor」よりも壮大で予感的で宇宙的で、飛び立つようなフィーリングに満ちた素晴らしい「Hurts Like Heaven」という曲で幕を開ける。その次に聴こえてくるのが重厚なベースラインがイントロの中核をなす「Paradise」。ノア・アンド・ザ・ホエールも早速カヴァーしたこの曲だが、前作ではこういう作風(というのはアコギ主体ではないへヴィーなバラッド)の曲がことごとくイマイチだったのに比べると、格段の進歩を遂げている。ブライアン・イーノが前作のアルバム完成直後に「早く次のアルバムを作ろう。もっと良い作品が作れるはずだから」と言ったのは、まさにこういうことだったのだ。そして、4曲目の「Charlie Brown」が早速今作のハイライト。このギターフレーズは最早反則に近いが、ついに彼らが「Yellow」「In My Place」に並ぶ名曲を手にした瞬間だ。

 彼らの多くのファンが言うように「ファーストの頃の良さを失わなければ」、あるいは「Charlie Brown」は誕生しなかったかもしれない。彼らの曲にわたしがピュアな感動を禁じえないのはこういうところなのだ。結局、音楽的に最初の地点に戻るなんてことを彼らは1ミリも考えていない。ただ、たとえ途中で道に迷ったとしても彼らは音楽への真摯な姿勢だけは見失わないので、アヴァンギャルドが恋しくなろうが、自分たちの過去の作風に退屈さを覚えようが、ソングライティングはその輝きを保ち続ける。最初「Every Tear Is A Waterfall」を聴いたときは「おいおい、こんな安直なのはナシだぜ」と思ったが、それはまったくの間違いだった。これは彼らが何周もしてたどり着いた境地だったのだ。2011年にここまでのアンセムがほかに何曲誕生しただろうか。印象的なシンセサイザーから始まり、最後まで高みに上り続ける展開はライヴの最後にはぴったりだ(実際に最新のライヴでは最後に演奏されている)。リアーナとのデュエット曲、「Prince Of China」は正直蛇足だが、クオリティは高い。「Up In Flames」もまた、前作を経たからこそ生まれた名バラッド。一気にテンションを取り戻す「Don't Let It Break Your Heart」~ラストの「Up With The Birds」にかけては、「アルバムって、こうだったらもっと興奮するだろ?」と彼らが思って、そのまま信念通りに作ったのがよく分かる流れだ。

 彼らに突出した美的センスがあるとは思えない。それは今作のアートワークを見ても分かることだ。とくに革命的なフレーズを思いつくわけでもない。さまざまな音楽的要素を集約しているわけでも、もちろんない。かといって安易なアンセムを量産しているわけでもない。彼らはメロディがすべてで、そのメロディの澄んだ美しさを批判する言葉は、わたしにはどうも説得力が欠けているように思ってしまう。そして子供のような無邪気な好奇心がある。これは強い。だって大抵の批判なんかやり過ごしてしまえるからさ。あとはクリスがなかなか頭のおかしなフロントマンだから、普通のバンドだったら立ち止まって足元を確認するところをそのまま驀進してしまうようなところがある。もちろん褒め言葉だ。

(長畑宏明)

retweet

REAL ESTATE.jpg「もし可能であるなら、私は私の音楽を自然の法則と同じであるようにしたいと思います。しかし自然には私の音楽よりもっと多くの変化があります。(中略)私の周りに音を集めて、それをほんの少し動かすだけでいいのです。音を自転車のように動かしまわる事は最も悪いことです。」(『ジ・オーストラリアン』紙 メルディス・オークスの質問に答えての武満徹氏の言葉。)

 自然の法則のように音楽はコントロール出来るのか。MGMTのセカンドやドラムスがサーフィンに向かった海とは何だったのか、今になって考える。そこからチルウェイヴ、ヒプナゴジック、果てはウィッチ・ハウスへと急激に音楽の潮流、言義的な意味で"シエスタ"的うねりへと向かう中での「波乗り」とはつまり、現実から離れた自然主義への回帰ではなく、情報の波を泳ぎながら、アノラック、ネオアコや旧き良きオールド・ポップを現代の形で再定義してみようとした試みともいえ、寧ろそこには本当の波は打ち寄せてきてはなかったのは、MGMTのライヴ・パフォーマンスでの穏やか且つチープなサイケデリアを感じた方なら分かるだろうし、ドラムスのセカンドの真摯なダークネスといった要素を含めても、見えてくるだろう。

 サーフィンをやったことがある方なら理解し得ると思うが、サーフィンをするには、自然における「波」という現象が起きないと「成立」しない。その波が起きる為には、海流、自然の地形、そして、何よりも風が吹かないと始めることさえも出来ない。それは勿論、人為的なレヴェルを越えてくる訳であり、天候次第でサーフィンは愚か、海に出ることも叶わなくなる。では、その「波」はアルビン・トフラーの第三の波「以降」のものなのか、というと、それも精緻には違う気がする。波を待つ―それでも、サーフィンに出ることが出来なかったから、ビーチで微睡もうという姿勢が音楽「効果」の一因子であるエスケーピズムやヘドニズムと抵触した。そこから、敷衍してみると、10年代におけるサーフィン・リヴァイバルとは、「波を待つこと」そのものと「ビーチ」での待機行為の暗喩だったのかもしれない。

 ビーチ・ポップ、インディー・アンビエントの括りで纏められたきらいもあるが、ブルックリンを拠点にするリアル・エステイトのファースト・アルバムは、象徴的な一枚だった。弛緩の中にふと浮かぶ甘美なサイケデリア、アメリカーナの景色を継いだ風景。その後、ギターのマシュー・モンダニルによるソロ・プロジェクトのダックテイルズも同様に高い評価を得たが、このたび、届けられたセカンド・アルバムの『Days』では、安眠希望者たちや儚い音楽の揺れを求める人たちが愛するレーベルの《ウッディスト》を離れ、《ドミノ》からのリリースになった。その遷移が端的に表わしているように、結論から言うと、少なくとも、もうビーチには彼らは居なくなり、音がより清澄になり、涼やかさが増した。そして、よりリアリステックに「日々(Days)」を見つめる視点が強くなった。同時に、「懐かしい新しさ」がここにはあり、例えば、ザ・ディセンバリスツが掘り下げたようなアメリカーナの井戸の下でハンド・イン・ハンドするようなそういった要素と、アズテック・カメラやオレンジ・ジュース、ペイル・ファウンティンズ、さらにはベル・アンド・セバスチャンのようなネオアコ系譜の種子が埋め込まれ、全体としては、前作よりも透き通ったフォルムを描く内容になっている。リード・シングル「It's Real」で伺えたように、メロディー・センスの向上も如実にあり、兎に角、叮嚀に編ま込まれた音楽という印象を受ける。

 彼らが居ただろうビーチから、広大な田園地帯へ向かったかのように、「風を待つ」という行為の位相が変わり、微睡むよりも目覚めておくことに主軸を置いた作品にシフトした。これをして、悪しきノスタルジーへの退行、もう喪われた良き(あったはずだろう)過去を巡っての若き懐古主義者たちの音楽と称するのも正しいとは思うが、逆説的に「もはやホームはない」ということに自覚的になっているユースが世界中に居るという証左でもある。ホームがなければ、その仮想化したホームを自分たちで夢想するしかないからでもあり、だからこそ、今作での「Younger Than Yesterday」、「Reservoir」辺りの曲に垣間伺えるビターなムードも分からなくはない。

 夢想内での田園に拡がる「自然」の中で柔らかく風を集めて、音楽として鳴らす。アレンジメントとリヴァーヴのかかった音の拡がり、加え、何よりも彼らの美しいハーモニーには相変わらず磨きがかかり、確実に聴き手の視野の刷新と感性のヒーリングを促すものになった。

(松浦達)

retweet

MANIC STREET PREACHERS.jpg  マニック・ストリート・プリーチャーズについて語るときほど、あれこれ考えをめぐらせることもないだろう。マニックスについて語るということは、自分を暴露するに等しい行為だからだ。それは、彼らがリスナーの心に足跡を残しつづけてきた証でもあるし、常に音楽シーンの最前線でサヴァイヴしてきた歴史でもある。だからこそ、マニックス像というものがそれぞれあり、数多くの議論も行われてきた。


 『National Treasures: The Complete Singles』は、そんなマニックスの歴史を知るには最適なベスト・アルバムとなっている。「Motown Junk」から最新作『Postcards From A Young Man』までのシングルを網羅しているし、これからマニックスを聴きはじめるであろう人々の入門書としても最適だ。しかし本作は、長年マニックスを支え続けてきたファンに対するプレゼントでもある。本作にはザ・ザ「This Is The Day」のカヴァーが収録されているが、この曲のMVが思い出を振り返るような作りになっており、ファンとマニックスの間だけで共有できるメッセージも込められている。こうしたダブル・ミーニング的なコミュニケーションはリスクが伴うもので、多くの誤解や批判も受けるはずだ。実際マニックスは、そうした誤解や批判を浴びてきたし、『Everything Must Go』で国民的バンドになってからも、それは変わらなかったと思う。それでもマニックスは、挫折や困難を乗り越えてきた。


 マニックスとは、世界一ダサいバンドであり、不器用なバンドである。良くも悪くも引き際というものをわきまえず、だからこそ傷つくことも多かったろうが、それでも見捨てることができないバンドだった。これは多くの人にとってそうではないだろうか? でなければ、"国宝"と名付けたアルバムを平然リリースできるような存在になれるはずがない。前述したように、彼らは多くの誤解や批判を受けてきたが、同時に多くの人にも愛されてきた。マニックスのフェイヴァリット・アルバムをひとつだけ挙げるとすれば、躊躇なく『The Holy Bible』と答えるが、そのときにしか生まれえない最大瞬間風速を閉じ込めてきたという意味では、リリースしてきたどのアルバムも一緒だ。だから正確には、『マニックス』と言うべきなのだろう。彼らの生き様や精神そのものが、ひとつの作品として人々の心を捉えているのかもしれない。


 ブックレットの最後のページ、メンバー3人の写真と共にバンドメンバーのクレジットがある。そこにはジェイムス、ニッキー、ショーンの他に、この名が記されている。


 「Richard Edwards」


 彼らはこういうヤツらなんだよね。マニック・ストリート・プリーチャーズは、いつまでも4人なのだ。



(近藤真弥)

retweet

StrangeBoys.jpg  テキサス出身のバンド、ザ・ストレンジ・ボーイズにとって3枚目となるアルバム『Live Music』。このアルバムが本当に素晴らしいのだ。ガレージ・ロックやカントリーを上手く融合した音楽は、挑戦的かつ牧歌的。へなへなで力が抜けたヴォーカル、親しみやすいグッド・メロディーを鳴らすギター、曲に寄り添うようなリズム隊、これらが織りなす安定感に満ちたグルーヴも、彼らの高い演奏能力を証明している。おそらくこの演奏能力と一体感は、ライブでより真価を発揮するはずだ。

 そしてなにより耳を惹かれるのは、ライアン・サンボルの歌声だろう。アレックス・ターナーとボブ・ディランが合わさったようなヴォーカルは、憂いを帯びながらも、明日は明日の風が吹く的な味わい深い魅力を放っている。独特で個性的な歌声なのは間違いないし人を選ぶかもしれないが、酒で酔っぱらったかのように歌うライアンの姿が目に浮かび、思わずニンマリとしてしまう。

 しかし、本作を聴いていると、秋から冬に変化する季節の変わり目の風景が見えてくる。落ち葉が空を舞い、カップルはお互いを温め合う。それを辛辣に見つめる僕...。おっと、少しばかり僻みが入ってしまったが、とにかく、『Live Music』はそんな想像を掻き立てるゆったりとした時間が流れている。寒さが続く、これからの季節にピッタリなアルバムだ。

(近藤真弥)

retweet

A JOURNEY DOWN THE WELL.jpg  通常クラシック・ミュージックと言えば作曲家と演奏家に分かれるのが常だが、このアーティストは自ら曲を作り、自ら演奏している。一言で言えば"モダン・クラシック"と称されるジャンルに属する音楽のようだ。だが普段我々が聴いているロックなどの音楽にもストリングスは意外と多用されており、今やその境目は曖昧になっているように感じる。

 2006年に結成され、トルコ出身のメンバー1人とスウェーデン出身のメンバー2人によって構成されている彼ら。本格的なクラシックならタイトルにも意味があるものだが、この作品ではEPのタイトルの単語を4つに分けて4曲収録するという珍しい試みをしている。中世ドイツに要約されるクラシックという音楽は、練習曲から様々なテーマをタイトルに掲げて1つの曲やシリーズなどで作られてきたものが大きい。だがそれも今では様々な進化を遂げ、コンテンポラリーなどのジャンルなどでめざましい音楽を今尚世に送り出し続けているのが現状だ。そんな中、敢えてコンテンポラリーの実験性に頼らず"モダン・クラシック"を奏でている彼らは逆に新鮮であり、ある意味この方が斬新な音楽に聴こえてくるのが不思議だ。

 ストリングス(ヴァイオリンやチェロ)を主体とし、そこにピアノやサンプリング風の音やノイズ音を混ぜ、美しく協和しながらもSilver Mt. Zionのような憂いを感じさせてくれる。歌のない音楽に不可欠な情緒をその洗練された旋律によって聴かせてくれるほか、本格派クラシックとして演奏もかなり上手で、音の強弱で更なる自由な表現を見せており、大袈裟に言ってしまえば近代におけるクラシックの在り方を提示しているとも考えられる。

 大まかに見てロシアのピアニスト、セルゲイ・ラフマニノフ以降のシーンは中世の例えば古い町並みの景色や古い自然を思わせるそんな情景をテーマにはしていない。もちろん自分で作曲し自分で演奏するという人も増えてきている。彼らの音楽において思い起こさせるのは現代を生きる人々であったり、ここではタイトルの通り3人という小さな集団が如何にしてオーケストラに成り得るのかの挑戦でもあり、多少の実験性を伴いながら(まるでそれはビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』のように)アンチ・テキスト・フォー・スクールの姿勢で人々の感情に訴えかけるある種の暗さを持っている。それはGY!BE関連にとどまらず、1/4 StickのRachel'sにも通じるところがあるだろう。彼らが示しているのは「今」なのだ。そして言葉を持たないという意味では英語圏でないヨーロッパは苦労が少ないのかもしれないが、ポップ産業がある以上"モダン・クラシック"をプレイしていくのはかなりニッチなジャンルだと言わざるを得ない。

 しかし「教科書に絶対に載らないクラシック」が何なのか、少しでも興味を持ってもらえたならこれを入門編の一枚として挙げたいと思う。たった4曲の中に詰め込まれた多くの要素、21世紀に入って届けられた異端的作品、これらをもっと多くの人々に一聴していただきたいと願っている。個人的にはアート・アニメーション作家のユーリ・ノルシュテインの作品『四季』(これはチャイコフスキーの音楽を用いているが)及びその他の作品(ソビエト生まれでロシアへの国の変革と葛藤を表している)の、小さな幸せと殺伐とした日々を描いたフィルムにも似合うのではないかと想像をかき立てられる作品だ。未だ中世の趣があるとされるチェコでも、最近の作品は昔に比べてだいぶ近代化している。そんな"モダン・クラシック"をこれを機に聴いてみては如何だろうか。きっと新たな発見があるに違いない。

(吉川裕里子)

 1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  |  7  | All pages