伊藤英嗣: October 2011アーカイブ

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Walkabouts.jpg  フォーク・ロックの中でも、暑苦しい砂漠や乾燥した大地など、どことなくアフリカの自然を感じさせるスケールの大きさを放つ、より土着的な路線へと寄り添っている。蜃気楼が浮かび上がる日照りの下で、キャラバンが砂塵の大地を黙々と行進しているかのように、腰を据えたリズム隊とざらついたアコースティック・ギターが印象的に光る。6年振りのフル・アルバムは、前作で見られたアフリカ音楽への傾倒がより深まっており、本盤ではアメリカンな荒野の情景があまり喚起されることはないものの、フォーク・ロックとして着実に進化を遂げ、結果として素晴らしい出来のアルバムに仕上がっている。

 ファンタジックなゲームなどで、突然舞台が砂漠のエリアに転じた時に、がらっと空気感や質感が変わる感覚や、「一体どんな敵が現れるのだろう」とドキドキを募らせてくれる感覚など、本盤を聴けばあの高揚感に酷似したものが溢れて来る。それには、ざらついたアコースティック・ギターや、遠く響く電子音と歪んだギターのフレーズ、更にはブラシで軽やかに叩かれたドラムや、深くエフェクトをかけたヴォーカルなど、細かい配慮がなされた小道具らの全てが欠かせない。彼らが過不足無く役割を果たし、舞台を華麗なものへ際立たせているからこそ、この空気感が成立できる。

 フロントマンのChris Eckmanが、他のプロジェクトにおける活動中にサハラ砂漠へ訪れた際、本盤を制作する足がかりを得たようである。実際に砂漠へ足を運んでいなければ、アルバムのタイトルは"Dustland"ではなく、ありがちな"Desert"になっていたのかもしれない。サハラ砂漠の砂粒が、実際は塵のようにきめ細かいものであったということを、現地を訪れて知ることができたのなら、きっと充実した収穫であったに違いない。地味ながら、渋みの増した名盤である。

(楓屋)

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VA Bangs&Works Vol2.jpg  正直、僕はジューク / フットワークに関して勉強中の身である。誰もが知識人になれる情報化社会の現代において「そりゃねえだろ?」という声も聞こえてきそうだが、嘘を貫き通すのは苦手なほうだし白状しておく。ただ、ジューク / フットワークの名が知られてけっこうな時が経つ現在も、ジューク / フットワークは未知なる部分が多いのは事実だろう。多くのアンダーグラウンド・ミュージックはポップ・フィールドへ進出する過程でモダナイズされ、良く言えば洗練、悪く言えばエッジの喪失を伴うわけだが、ジューク / フットワークは独自性を保ったまま世界に広まろうとしている。それはやはり、ジューク / フットワークがゲットー・ミュージックだからだと思う。そしてそこが、ジューク / フットワークの魅力のひとつであることは間違いない。

 『Bangs & Works Vol.1: A Chicago Footwork Compilation』に続くシリーズ2作目となる本作だが、マイク・パラディナスのジューク / フットワークに対する愛があふれる素晴らしいコンピとなっている。まず、ディスクロージャーやナイトウェイヴなどのUK流に洗練されたジューク / フットワークは一切収録されていない。あるのはゲットー・マナーに忠実なジューク / フットワーク、そしてそんなシカゴのゲットー・ミュージックへの愛情と敬意だ。基本的にBPMは160以上、既存のダンスとはかけ離れた"フットワーク"と呼ばれるダンス、そのすべてが今までにないものであり、だからこそ僕もジューク / フットワークに強い興味を惹かれるのだと思う。いろんな要素が小奇麗にまとまった幕の内弁当的な昨今のダンス・ミュージックも、"芸術的観点"からすればそれはそれで面白いものだし、僕も愛聴するアルバムはいくつも存在するが、ジューク / フットワークには「肉と飯だけあればいい!」というワイルドなシンプルさがあって、そこがまた良いのだ。エッジを丸めてオブラートに包むのではなく、むしろ自分達の鳴らす音に絶対の自信を持っているから、エッジを見せつける。

 また、ジューク / フットワークを聴いていると、オーティス・レディングの音楽を想起してしまう。もちろんオーティス・レディングとジューク / フットワークが似ているのではなく、現場の匂いやそこに根付く文化をビートやグルーヴといった音楽的要素で見事に表現している点に、オーティス・レディングの音楽を想起してしまうということだ。オーティス・レディングは、自らの声やメロディでもってアフロ・アメリカン文化の価値を見せつけたことは周知の事実だが、これと似たようなものをジュークにも感じる。ラップのように言葉でアピールするわけではないが、自分たちが会得したグルーヴとリズム感覚によって現地のゲットー文化を表現しているジューク / フットワークを聴いていると、感動に近い喜びを抱いてしまう。

 そしてジューク / フットワークは、ドラムンベース以来のビート革命に近い音楽だと思っているのだが、どうだろうか? ドラムンベースまでは、BPMやリズムといったビートの部分を中心に変化させてきたダンス・ミュージックだが、エレクトロ・クラッシュ以降はニュー・エレクトロ、ダブステップという音に特色を打ち出した音楽がダンス・ミュージックを彩ってきた。そうしたなかでビートの部分は、原点回帰的にシンプルな方向へ向かっていったが、そう考えるとジューク / フットワークは、本当に"新しい"と言える音楽だと思う。

 尚、現在日本にジューク / フットワークを広めるためのキャンペーンをやっているそうで、対象商品を買うと、ジューク / フットワークをわかりやすく解説した小冊子、さらに《Bootytune》を主宰するDJフルトノによるミックスCDがついてくる。そういうこともあって、このレビューでは僕がジューク / フットワークを聴いて感じたことを書いてみた。というのもジューク / フットワークは、とてもフィジカルで「踊ったもん勝ち!」なダンス・ミュージックだと思うので。要は能動的に、感じるがままに踊ったらいいのです! こんな締めでは「いままで書いてきたのはなに?」と怒られそうだが、本当にそうだからしょうがない。とにかく、本作をキッカケとしてジューク / フットワークの世界に触れてみてほしい。AKBで踊るのもいいが、たまにはジューク / フットワークでも、なんてね。では。

(近藤真弥)

 

※キャンペーンについては、下記のリンクを参照してください。

http://soundcloud.com/pdis_inpartmaint/sets/v-a-planet-mu-juke-footwork-jp

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RYAN ADAMS.jpg  ウィトゲンシュタインに拠ると、「価値に関わる問題」は論理の形式内に当て嵌めることが出来ないという。それは論理的言語によって記述出来ないものがあるということでもありながらも、「語り得る可能性のあるもの」/「語り得ない限界のあるもの」の間の沈静に触れる。その沈静を縫うのはやはり、人間というバグの多い生物たる感性の閃きだと思う。その閃きをモノにした、今回のライアン・アダムスのアルバムは麗しい。

《And nobody has to cry / To make it seem real / And nobody has to hide / That way that they feel》
(誰も泣くことはないんだよ 本物みたいにしよう、と / 誰も隠さなくていいんだよ 心の中で思っていることは 「Come Home」)

 90年代、アンクル・テュペロを筆頭に、分派しつつも現在進行形で邁進するウィルコという流れの中で浮上してきたタームに「オルタナティヴ・カントリー」という言葉があった。カントリー・ミュージックにパンク精神を背景にしたオルタナティヴという言葉が"付く"という歴史水脈と現代的代案の違和。その「違和」を堂々と繋げてきた存在として、10代で作ったウィスキータウンというバンドをすぐに解体したライアン・アダムスという一人のアーティストの動きは、常に大きかった。兎に角、気まぐれ、気分屋、ビッグマウスであり、多産される曲群、オアシスの「Wonderwall」などをカバーしたり、記憶に残った今のところの唯一の来日公演、05年のフジロック・フェスティバルでのステージ・パフォーマンス内での途中退場、やさぐれた部分であったり、掴みどころがないながらも、その詩情溢れる胸を打つ歌詞、彼の渋みを少し帯びた声質に魅了された人は多かった。ミュージシャンズ・ミュージシャン(エルトン・ジョン、U2のボノなどファンは沢山、居る)、日本でも局地では絶大に愛されながらも、その散文的な活動形態により、評価軸が決まらなかったともいえるアーティストの一人だと言えるだろうし、それは、いまだに「オルタナ・カントリーの鬼才」という枠内で括られてしまうように、なかなか難しい場所に彼は今も居る。

 09年にマンディ・ムーア(ポップ・シンガー、アクトレス)と結婚し、完全に「活動休止」に入った彼はもう戻ってこない、とも、ふと、顔を出すのではないか、憶測や期待が行き交いながら、メニエール病を患っていて、耳鳴り、眩暈症状があるから厳しいのでは、また、音楽の業界への幻滅を感じて、独自の活動(ボブ・ディランのローリング・サンダー・レビュー的な何か)を行なうのでは、というような声がRumorに混じっていた中、ふと今年になって、以前に組んでいたバンドのカーディナルズ名義でもなく、純然たるソロ名義として『Ashes & Fire』が届けられた。昨今のインターネット上でのヘヴィ・メタル系統のリリースを含みながらも、満を持して、正面を切ってリリースされたこのアルバムは、01年の『Gold』のようなストレートなロックの派手さはほぼ翳を潜め、無論、04年の『Love Is Hell』などとも違う「骨組み」が晒されたものになっており、斑が目立っていたこれまでの作品群より静かな火照りが一貫している。レコーディング、プロデュースはローリング・ストーンズやエリック・クラプトンなどと関わってきたベテラン中のベテランのグリン・ジョーンズ。そして、盟友といえるノラ・ジョーンズが数曲でピアノとして参加し、弦楽が入った曲もあるが、基本はライアン本人のギターを軸にアコースティックな質感を保ち、彼の内的感情の襞を覗き込む繊細さ、感傷とディーセントなヴァルネラビリティが青白い血管のように明確に浮き出ている。更に、インスパイアーの起源は、ローラ・マーリング(Laura Marling)の『I Speak Because I Can』というのも面白い。

 ジョー・ヘンリーの新譜もそうだったが、着実にキャリアを重ねてきたアーティストが10年代に入り、こういったシンプルな空気の揺れに感情を重ね合わせる方向に焦点を合わせてきているというのは個人的に考えるところがなくはない。今年のチルウェイブ、シンセ・ポップのうねりの中を掻き分け、いや、スルーして、70年代初めのジェームス・テイラー、キャロル・キング辺りのSSWムーヴメントの台頭を想わせる動きに近似した別路として、静かな波紋とリンクを広げていくだろうとも思うからだ。

 アメリカン・インディーの良心たるR.E.M.の解散など何らかのパラダイムの、終わりも感じることが多かった今年のシーンだったが、もはや全面的に視えない戦時混沌下での「唄い手(SSW)」としてのアティチュードが明らかにUSでも変わっていっていることを示す意味でも、このアルバムは「重厚な聴き応え」よりも聴き手を落ち込ませない、優しさと滑らかさがあるのは、佳い傾向だと思うとともに、ライアン本人も暫しの休息を経て、ゆっくりと自分の「内面」を見詰める時間が取れたのではないだろうか、と感じる。敷衍すると、これは、「大きい作品」でも、「シーンを攪乱させるような作品」でもなく、また、音楽メディアの趨勢からすると「地味」とも評されかねない、逆説的に或る種のオルタナティヴ性を孕んでいるという意味ではライアン・アダムスというアーティストの「誠実な、天邪鬼」が敢えて、真ん中を射抜いたともいえる内容に帰一している。そこに今こそ、気付く新しいリスナーたちが増え、更に彼の過去のカタログ群を追う契機になるような気もする。

 1曲目の「Dirty Rain」の爪弾かれるギターからして、清涼な70年代のSSWの残影がふと透き通った風のように吹き抜ける。4曲目の「Rocks」も曲名と比して、描かれる叙情は「明るくなり、一日を迎える」というささやかな慕情が織り込まれ、6曲目の「Chains Of Love」では2分半ほどながら、弦が絡み、ハンク・ウィリアムズ、ジョニ・ミッチェル、アコースティック・セット/レコード・クラブでのベックの持つような感情面への叮嚀な、肌理細やかさが発現する。サイケ・フォークでも、アシッド・フォークでも、オルタナ・カントリーでもない、フォーク時代のボブ・ディランのような、『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』、『ハーヴェスト』時期のニール・ヤングのような、シンプルながら深みのある小曲を重ねてゆく様にはじわじわと染み込む「小声」がある。ふと、入り込むストリングス、ピアノなどもライアンのボーカルとギターの主張を囲い込むまではいかず、柔和な彩りを添える。

 これをレイド・バックという見方で捉えることも出来るかもしれないが、00年代を"Like A Rolling Stone"のように転げた彼がこういった明鏡止水の作品を上梓したのは意義深くもあり、自分のこれまでの混乱を冷静に振り返り、今こそ描き出す優しさ、センチメンタリズムにリーチしたというのは感慨深い。

《Somebody save me / I just can't go on / If someone don't save me / By the morning I will be gone / Somebody save me〉
(誰か、僕を救ってくれ 僕はこれ以上、進めないよ / 誰かが僕を救ってくれなかったら 朝に僕はここから去るだろう 誰か救ってよ 「Save Me」)

 この「小さな声」が今、出来る限り多くの人たちに響いて欲しい、と思う。

(松浦達)

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MODESELEKTOR.jpg  ちょっと気持ち悪い赤ちゃんジャケが印象的な前作『Happy Birthday!』で、世界的な評価を獲得したモードセレクターの約4年振りとなるニュー・アルバム、それが『Monkeytown』だ。彼等が立ち上げたレーベル《Monkey Town》からのリリースとなる本作は、モードセレクターのラテラルな音楽性が見事に発揮された良盤となっている。

 『Happy Birthday!』もトム・ヨークとマキシモ・パークが参加するなど2人の独特なフックアップ・センスが光っていたけど、『Monkeytown』においてそのセンスはさらに広がりを見せている。「Pretentious Friends」で力強いラップを披露しているバスドライヴァー(Busdriver)や、「Berlin」でセクシーな歌声を聴かせてくれるミス・プラチナ(Miss Platnum)。《Warp》に所属するPVTや、前作に続いて参加のトム・ヨークなど、これら多彩なゲストを扱う2人の手腕も秀逸だ。

 ベルリン出身らしい硬派な音作りは健在だが、前作まで存在していた中毒性は抑え、よりドラマティックに興奮を繰り返す瞬間芸に比重が置かれているのは、時代を反映させた結果として生まれたのかも。人によってはこの瞬間芸を何度も聴いていると食傷気味になるかも知れないが、『Monkeytown』をキッカケとして、モードセレクターのハイブリットなエレクトロニック・ミュージックが多くの人に聴かれるべきなのは間違いない。

(近藤真弥)

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OGRE YOU ASSHOLE

そういう場所をどう思うかっていうのは
みんな次第なんじゃないかな


OGRE_201108_A1.jpg彼らは、またもや新しい境地に達した。

昨年リリースされたEP「浮かれている人」で表現されていた多彩なサウンドも、よりグルーヴィーになったビートも、さらに驚くほどの成長を遂げている。

4人組から、トリオとなってのニュー・アルバム『homely』は、音楽的なおもしろさにあふれているのみならず、そのテーマ性も実に興味深いものとなっている。

いや、こんな冷静ぶった物言いにはとても収まりきらない。この2011年の日本に生きる自分にとって、まったく人ごとではないレベルの問題意識に貫かれているような気がして仕方ない。

彼ら独特のユーモアと表裏一体をなす、そんな部分にも迫るべく、中心人物の出戸学に聞いた。

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Banvox.jpg  バンヴォックスが《マルチネ》からリリースした「Intense Electro Disco」は、初期衝動に満ちた素晴らしい作品だ。とにかく"壊したくて"サイレンを鳴らしたケミカル・ブラザーズ、ディストーションで巨大な要塞を築き上げ聴衆を蹂躙したジャスティス、「デカいスピーカーでベース聴こうぜ!」と、ぶっとい低音を快楽的に垂れ流したダブステップなど、本作には過去のダンス・ミュージックの最大瞬間風速がいくつも刻まれている。新しいものが誕生する喜びと興奮が、「Intense Electro Disco」には確実に存在する。


 ダンス・ミュージックはその昔、豊穣を願ったり神様へ祈りを捧げる儀式としての"踊り"であった。それぞれの土地や国が持つ固有のリズムやグルーヴという"らしさ"があったけど、"K-POP"や"J-POP"といった言葉に代表されるように、昨今のポップ・シーンは"らしさ"を強調した音楽が流行っているのに対し、ダンス・ミュージックは"らしさ"や"意味"を排除してきた面もある。例えば世間一般では"エレクトロ"と呼ばれるニュー・エレクトロだって、歴史的に見ればアフリカ・バンバータのような音楽を指す言葉だったからね。こうしたある種の乱暴さが、「ただエスニックな響きの曲をサンプリングして、西洋のビートにくっつけただけの曲は、ほんと音楽として醜悪だよね。それって現代の植民地主義なんじゃないかな」と、イギリスのガーディアン誌で発言したニコラス・ジャーのような面白いアーティストが出てくる要因でもあるが、乱暴な面がダンス・ミュージックにロマンとダイナミズムをもたらしたのは否定できないし、どうしても僕は、このロマンとダイナミズムに惹かれてしまうのだ。

 

 「Intense Electro Disco」を繰り返し聴いてしまうのもだからだと思う。だってさ、ニュー・エレクトロを基本としながらレイヴ、ハピコア、ダブステップ以降のベース・ミュージックまで飲み込んだバンヴォックスの音楽は、ネオンのようにキラキラした"現在(いま)"を力強く表現してるんだから。本能的獰猛さと理性的洗練がハイ・レベルに融合した奇跡的なダンス・ミュージック、強いて言うなら"ミュータント・ベース"と呼べる雑食性をまざまざと見せつける本作は、僕が音楽に求めるものが詰まっている。地球から宇宙全体を掌握するかのようなリーチを錯覚させ、すべての音がクラブへの"憧れ"として鳴っている。

  

 "憧れ"としたのは、彼が高校生だから(ツイッターのプロフにそう書いてました)。おそらく彼は、クラブに行ったことがないと思う。あるとしても、ズルをして深夜のクラブに入るようなことはせず、デイ・イベントなどに行くくらいだと推察できる。だとすれば、完全なDJライクになっていない曲群にも納得がいく。そして、クラブに対する"理想"が本作を特別な作品にしているという僕の直観も当たるのだが...。どうだろう?


 こうして原稿を書かせてもらうようになってから、1年以上になる。おかげさまでいろんな出会いに恵まれなんとかやってきたが、「伝えたい」というモチベーションを喚起させてくれるのは、数多くの作り手たちが作り上げた作品だ。それでも「これは!」という衝撃に遭遇できる機会は少ないが、「Intense Electro Disco」は間違いなく衝撃的だ。こんな出会いがあるから、音楽を聴くのはやめられない。


(近藤真弥)

 

※本作は《マルチネ》のサイトからダウンロードできる。

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  まず、ウィリアム・ブレイクという詩人の「無垢」を幻視者の"それ"として捉えては、何も始まってこない。同じく、作家の芥川龍之介の「歯車」は本当に見えたのかもしれないし、ブレイクの「老いたる無知」への辛辣な言及にこそ、意味があり、「閉ざされた知覚」内での象徴記号の自己/相互分裂の裂け目に無垢はあった。としたら、その裂け目から世界を覗いてみる。それも、ベッドルーム越しに。すると、見えた景色はどうも芳しくない。冬眠でもするしかないか。という訳で、『The Year Of Hibernation』と名付けられたアルバムの邦題は、『冬眠の年』だ(精緻には、"Hibernation"という単語は、休止状態という意味を含む)。しかも、《Fat Possum》というもっとも活発なレーベルの一つに背中を押されて。

 深くリヴァ―ヴがかかった中に、残響する、折れそうなか弱い声。ベッドルーム・シンガーソングライターが静かに音を重ねて紡ぎ上げたヒプナゴジック・ポップのような側面もありながら、チルウェイヴの「波には乗れない(乗ることを考えない)」ハミングするような「Afternoon」という曲を象徴とした、個が抱えた絶対不安下での現実内で、積極的に微かな光のような「夢」を求める一青年のツイート的ロマンティシズムと諦観。

 今年は、コナー・オバースト(ブライト・アイズ)、ベイルート、ケイト・ブッシュ、エド・シーランまで、新旧のシンガーソングライターが世界で新しい音を紡ぎ上げながらも、それぞれがキャリアに関係なく、時代の趨勢を鑑みてのことか、どことなく憤怒と悲哀の間で振れる"慈しみ"に揺れていたのが興味深かったが、この、アメリカはアイダホ出身の23歳の青年トレバー・パワーズによるソロ・プロジェクトのYouth Lagoon(ユース・ラグーン)は、コクトー・ツインズを聴き込んできた、尚且つずっと不安に苛まれた人生をおくってきた、という来し方を差し引いても、「特異」な場所から、自分の声を「世の中」に届けようとする。または、届けようともしていない。何故ならば、シド・バレットの『The Madcap Laughs』やベックの『Stereopathetic Soul Manure』、エリオット・スミス『Either/Or』が持っていた作品に宿る儚さと粗さが「個性」として、柔らかく結実しているからであり、ローファイ/ハイファイで分ける音楽的タームよりも、チープな音の浮遊感の中に「声」も同化させ、景色にさせる―そこで、ループを刻むビート、ふと入る電子音、フックよりも全体としての音像を意識した曲単位の意識よりも、子守唄みたく響く微睡みを優先する漠然とした方向へと舵を切りながら、自己完結のようにシャッターを下ろすサウンドスケープに終始しているからだ。

 この作品をピッチフォークが8.4点を与え、モデスト・マウス、ギャラクシー500の名前を挙げつつ、絶賛するというのは個人的に、分からない。「分からない」というのは、つまり批評というものが遂に「自己完結のシャッターが下りた、サウンドスケープ」にさえ詰めないといけない証左であり、そこで「街」は想像されていないところに、どうにも物悲しさと2011年の温度を感じる。

 曲単位で追っていこう。2曲目の「Cannons」の明るく拓けていくベッドルーム・クワイワに人気が集まっているようだが、タイトルそのままの6曲目の「Daydream」はその割にタイトなサイケデリック・ポップで興味深く、イントロがコリーンの諸作を彷彿とさせる9曲目の「The Hunt」もなかなか良い。しかし、突出したメロディーメイカーという訳ではなく、同時に、音響工作の匠では程良い緩さがあり、その曖昧模糊たる場所において、ヘッドホンで聴くと、まさにL⇔Rに様々な電子音、ビート、歪みが行き交い、浮世から離れたような声が遠くで「鳴っている」。チルウェイヴは、現実「逃避」に立脚していた節があり、その逃避は切実な「現実」を強く認識したが故の強度があり、ムーヴメントではなく、点と点が自然と結び合わさり、仄かに浮かび上がった現象として捉えるならば、ユース・ラグーンの描く音世界はもっと「彼岸」に近い。

 その「彼岸」を「冬眠」と置きかえられるほど、進行形のリアリティに疲弊している人たちには、このアルバムは静かな"空中キャンプ"を促すことだろう。

 哲学者のダニエル・C・デネットは云う。

 自由はちゃんと存在する。勿論のこと、完全な自由などはないが、でも、段段と自由が増してゆく方向に、生物はどんどん進んできた。自由意志はあるし、それは進化論の中でしっかり位置付けられる。そうなると、現代において、進化論の中での自由意志を、退化論への疑惑としての自由意思。そう置き換えても、差異はない。この作品に漂う「自由意思」は、僕は尊重したい。

(松浦達)

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Moomin.jpg  ドイツにおけるディープ・ハウス・リヴァイヴァルは、主にベルリンの《White》や《Aim》、それからハンブルクを拠点とする《Smallville》が興味深い動きをみせている。そして、そのうちのひとつ《Smallville》からデビュー・アルバムをリリースするのが、ムーミンことセバスチャン・ゲンズだ。

 彼は、前述した3つのレーベルからシングルを発表している。まさにシーンを代表するアーティストといえるが、ロマーン・フリューゲル『Fatty Folders』にも通じる、美しい流麗なミニマル・サウンドが『The Story About You』の特徴だ。海の波音からはじまり、徐々にキックがフェード・インしてくる「Doobiest」から「Sundaymoon」まで、ひとつの物語のように曲が紡がれていく。

 また、昨今のソフト・シンセ中心の音作りとは違い、ヴィンテージ機材が持つ個性的な音を巧みに使いこなしているのも素晴らしい。特に606、808、909といったダンス・ミュージックの定番ドラムマシンを使用したシンプルながらも綿密なビートは、4つ打ちが持つ快楽的な心地良さを存分に伝えてくれる。ラスティーのように、あえてソフト・シンセであることを強調したきらびやかなサウンドは、同時代性を含んだ"今"の音として興味深いが、ムーミンのハードにこだわったフェティシズム的サウンドも、抗いがたい魅力を放っている。

 故・中村とうようさんの「時間とは関係なくフレッシュな感銘を与えてくれる音楽こそ"新しい"音楽であり、それが自分にとっての未来なのだ」に従えば、ムーミンの音楽は"新しい"音楽といえる。今までになかったものではないし、むしろ原点回帰な音楽をムーミンは鳴らしているが、作ることを楽しむ姿が刻まれたサウンドは音数の少なさを感じさせず、多面的に感情が表現されている。原点回帰という意味では、USディープ・ハウスを漁り"知識"を得たうえで楽しむのもいいが、それよりも自らの感性を信じ身を任せることで真価を発揮するアルバム、それが『The Story About You』だ。

(近藤真弥)

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I BREAK HORSES.jpg  幻想的なエレクトロ・サウンドから始まり、妖艶で暗く憂い気な多重ヴォーカルが流れてくる。これがスウェーデンの宝石と呼ばれる珠玉のシューゲイズ・バンドだ。20年前のシューゲイザーに比べエレクトロの比率がやや高く、冒頭での曲間が繋がっている演出も音の世界へ更に没頭させてくれる。タイトル・ソング「Hearts」は特に轟音と呼ぶに相応しく、丁度良く心地いい程度にヴォーカルを掻き消すノイズにまみれた大名曲だ。その後もマイブラでもなくジザメリでもない、個性的なシューゲイジングをみせてくれる。何よりこんなにダークなのに高揚感があり恍惚へと導いてくれる、それこそが21世紀に鳴らされるシューゲイザーの良さであり、それが決して下を向いておらず天を仰ぎたくなる気持ちにもなる辺りがときにネオ・シューゲイザーと称される所以だと思われる。そして全体を通して起伏があるのも大変嬉しい。北欧にはただただ同じような曲が並ぶシューゲイザー・バンドがたくさんいるのが実際のところだが、彼らは音や声を重ねて重ねて時折これでもかというほどの盛り上がりを見せてくれており、それなのに終始優しい声で癒される、それはまさに静かなる衝動と言えるだろう。

 基本的にはバンド・スタイルを主としている。つまりエレクトロ・サウンドは入っているもののビートを打っているわけではない。昨今で言う"踊れるロック"というわけでもない。あくまで音の重なり合いのうちの一つの素材として使っているのが面白いところだ。またフィーメール・ヴォーカルに惹かれるリスナーも必聴だろう。力強さは一切ないが、そこが彼らの魅力でもある。実は個人的にはシューゲイザーもフィーメール・ヴォーカルもどちらかといえばあまり好きな方ではないが、それでもここまで彼らの音楽に惹かれる理由はこの作品の完成度の高さと期待をはるかに超えるノイジーなアプローチにあるのだろう。かといってノイズ・ミュージックとは全く違い美しいことこの上ない。そう今はもう、がむしゃらにディストーション・ギターをかき鳴らす時代は終わったのだ。

(吉川裕里子)

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Madegg「Bluu」.jpg  早くもマッドエッグの新作がリリースされた。しかし、これだけのリリースペースを保ちながら、常に新たな視点や試みを見せてくれるのは嬉しい限り。まず驚かされたのはジャケ。これ、ジェームズ・ブレイクの"アレ"じゃないのかな? 「Bluu」のほうがカラフルで素朴な感じがするけど、絶対意識してるよね?

 音のほうは、ビート・メイカーとしてのマッドエッグが前面に出ていて面白い。今までのリリース群から察するに、彼はビートよりも音そのものに強いこだわりを持っていると思っていたが、そのこだわりを保ちつつ、フライング・ロータストキモンスタのような"急進派"とされるヒップホップをマッドエッグなりに解釈したEPとなっている。収録楽曲も2~3分台の曲がほとんどで、聴き手に強い印象を残しながらもあっという間に終わってしまう。だが、この短い尺のなかに詰まった感情や風景は膨大なものだ。アレックス・パターソンの徐々に精神世界へフェード・インしていく緩慢な心地良さも素晴らしいが、瞬間的に「パッ! パッ!」と景色が変わっていくマッドエッグの演出方法もまた素晴らしい。全7曲ゆったりとしたグルーヴながら、次へ移行するスピードはとてつもなく速い。それでも突き放すようなことはせず、聴き手をしっかり掴んで離さない。まるで異世界を案内するコーディネイターのように音が鳴っている。

 このままビート・ミュージックの方向性を突き詰めるのかは不明だが、「Love 2」のようなセクシーなノリを携えた曲を聴くと、ぜひビートにこだわった曲作りをしてほしいと思わずにいられない。玉石混交となっているビート・ミュージックに新たな風を...。その風になれる素質は間違いなくあるんだから、マッドエッグには。

(近藤真弥)

 

※本作はマッドエッグのバンドキャンプからダウンロードできる。

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