沖ちづる「景色」(むこうみずレコード)

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 女性シンガーソングライター、沖ちづるのことを知ったのは、去年の秋ごろに観たライヴだった。2014年春から本格的に弾き語りでのライヴ活動を始めたという知識以外は何も得ずに観たそれは、拙さを残すパフォーマンスではあったが、どこか孤高の雰囲気を漂わせるものでもあった。また、撫でるようにギターを弾く姿も印象的で、しかもその姿が家の前をよく通る野良猫の仕草みたいだったから、思わず笑ってしまった。そのような姿に魅せられ、会場で売られていたミニ・アルバム「はなれてごらん」(ライヴ会場限定販売の作品。現在は販売終了)も購入。それからは、不思議と彼女の歌声が頭から離れなくなり、ふと気づけば「はなれてごらん」を再生してしまうという日々が続いた。


 そうした日々を送っているうちに、彼女はファースト・シングル「光」をリリース。このシングルのジャケットでは、どこか遠くを見つめる彼女の横顔を拝めるが、たくさんの作品が棚に並ぶCDショップのなかでも、そのジャケットは一際目立っていた。というわけで購入したのだが、表題曲に登場する次の一節を聴いて、筆者は沖ちづるの才気にあらためて感嘆した。


 〈君の声を 私の声を 醜くていい 醜く歩け 信じろ自分を 信じろ声を わたしが君を見つけるから〉(「光」)


 この曲、先に書いた「はなれてごらん」にも収録されているが、何度聴いても色褪せない名曲だと思う。繊細ながらも芯が通った力強さがある。その力強さは、言うなれば表現者としての覚悟なのかもしれない。


 そんな感嘆をもたらしてくれたファースト・シングルから約4ヶ月、彼女は新たな作品を作りあげた。それは、「景色」という名がつけられたミニ・アルバム。本作は全5曲で約14分という短い作品だが、そこに込められた情緒は色鮮やか。


 まず、1曲目の「景色」。彼女は基本的に身のまわりのことを歌にしているが、そのうえで言ってしまえば、この曲には3.11以降の日本を覆う、〝絶対的なものなどありはしない〟という空気の影響が少なからずあると思う。特に、〈このさきまつのは だれもいないかもしれない このさきみるのは うつくしい海ではない〉という一節を聴くと、津波で流されてしまったさまざまな存在に想いを馳せてしまう。また、全体的に諦念を漂わせるのも興味深いが、そうした曲に「景色」と名付ける感性に、他の人には見えづらい側面が見えてしまう鋭さと、それゆえ生じる孤独感が滲んでいるところも目を引いてしまう。このような諦念や孤独感はもしかすると、無鉄砲に夢や理想を追い求めることが難しくなった日本の世情も関係していると思えるが、どうだろう? いずれにしてもこの曲は、〝今〟に通じる同時代性をまとうと同時に、その同時代性を抜きにしても、多くの人の心に響く普遍的なナニカを持った名曲であるのは確かだ。


 一方で彼女は本作において、〈やさしいきもち ことばにできるでしょう〉(「わるぐちなんて」)とも歌ってみせたりと、諦念や孤独感だけを吐きだしているわけではない。さらに「街の灯かり」では、〈いつか終わるから嘆くこともないよ いつか失うから捨てることもない〉と言葉を紡いでいる。なんだか、どうせ死ぬからこそ好きなことをやっていこうという、彼女なりの励ましのようにも聞こえる。この「街の灯かり」も、本作に収められた曲のなかでは群を抜く名曲。そして筆者からすると、〈この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ〉という名フレーズが飛びだす、ザ・ストリーツの「Empty Cans」に通じる価値観を感じさせる曲でもある。


 本作での彼女は、こうあってほしいという理想を掲げることもなければ、ああなりたいという夢を熱く語ることもない。そのかわり彼女は、本作に触れた人を自分なりの夢や理想へ向かわせるささやかな希望を見せてくれる。そしてその希望は、誰にでもわかる言葉で紡がれた、彼女にしか歌えない歌に乗って、私たちに届けられる。こういう歌を、もっともっと聴きたい。



(近藤真弥)

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