NEVER YOUNG BEACH『Yashinoki House』(Roman Label / Bayon Production)

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 「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」とは、作家の山崎ナオコーラだったか。確かに彼女の小説は、どれもが平易な言葉で描かれている。題材も日常的なものがほとんどで、たとえば松山ケンイチと永作博美主演で映画化された『人のセックスを笑うな』(2004)は、1組のカップルが別れるまでの様を描いただけの作品である。しかし彼女の作品がすごいのは、そうした平凡と思われる日々にも興味深い驚きはたくさんあり、その驚きを見つけ楽しむためのコツが隠されているところだ。気にとめることが少ない雑談や、街を歩いているときに漂う匂いなど、コツはあらゆる場所にあることを教えてくれる。そんな彼女の作品が、筆者は大好きだ。


 実を言うと、5人組バンドnever young beach(ネヴァー・ヤング・ビーチ)のファースト・アルバム『YASHINOKI HOUSE』を初めて聴いたとき、山崎ナオコーラの作品が脳裏によぎった。『若者たち』(1995)期のサニーデイ・サービスを彷彿させる、たおやかで心地よいサウンドに乗せて紡がれる言葉が、驚くほど平易だったからだ。それでいて、文学的な詩情もある。〈伸びた髪が 風に吹かれてなんだかちょっと邪魔に感じたけど 金もないし 束ねて忘れる〉(「どうでもいいけど」)という一節なんて、わざわざ歌にするほどのことではない一幕とも思えるが、こうした言葉がいくつも連なると、色鮮やかな景色が目の前に現れるのだからなんとも不思議。このような不思議は、『AFTER HOURS』以降のシャムキャッツに通じるものを感じさせるが、シャムキャッツが「象さん」(2014)という曲で3.11以降の状況を見つめたうえで〝現実〟を歌ったのに対し、never young beachの言葉はどこか現実味がない。〝現実〟というよりは、他者への興味が薄い〝自分にとっての現実〟を歌っているように聞こえ、いわゆる逃避願望が色濃いのだ。これは、2000年代後半から数年間隆盛を誇ったチルウェイヴに見られた逃避願望と共振するもので、そういった意味で『YASHINOKI HOUSE』は、2010年代に生まれるべくして生まれた、モダンなポップ・ミュージックと言える。


 だが、どこか現実味がない本作を聴いていると、一抹の不安が生じてしまうのも正直なところ。最近、本作を聴きながら外でのんびりしていると、安倍政権の安保法制に反対するデモが目の前で始まるという場面に出くわしたのだが、このとき、目の前の緊張感あふれる現実と、本作の逃避願望が驚くほど断絶していることに、小さくない違和感を抱いてしまった。その瞬間、本作がもたらしてくれた恍惚感は一気に冷め、筆者はiPodの停止ボタンを押し、イヤホンを外した。


 これは本作が悪いというわけではなく、筆者が本作の楽しみ方を心得ていないせいだろう。しかし、そのうえで言わせてもらえれば、本作の逃避願望に心の底からコミットするのは難しいし、もっと言えば、逃避願望にコミットしている場合か? という気持ちもある。言われなくてもわかるようなことばかり撒き散らす説教くさい歌は嫌いだし、そんな歌にみんなが感動して涙するという画一的な光景も苦手だ。ましてやその感動を、〝さあ泣いてください〟とばかりに押しつけてくるヤツなんて...ファック。


 とはいえ、否応なしにハードな現実と向きあわざるをえない世情において、本作の逃避願望はあまりにもナイーヴすぎるし、夢がなさすぎる。ザ・ストリーツ『A Grand Don't Come for Free』(2004)や、ケイト・テンペスト『Everybody Down』(2014)、あるいはKOHH(コウ)『MONOCHROME』(2014)のように、ハードな現実からの逃避願望を描きつつも、そのハードな現実と向きあわなければいけないということも描いたような、表現としての味わい深さと強度も見られない。それでも本作と心中したいなら、すればいい。ただ、いま必要なのは〝逃避〟の表現ではなく、〝変化〟を求める理想と夢が込められた表現ではないか? 



(近藤真弥)

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