VARIOUS ARTISTS『A Girl Walks Home Alone At Night』(Death Waltz)

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 先日、映画監督デヴィッド・リンチの作品群を久々に観てみた。そのなかで、〝どうして筆者はリンチ作品に強く惹かれるのか?〟ということをあらためて考えさせられた。結論から言うと、筆者がリンチの映画に惹かれるのは、イライラさせるカッコつけがないからだ。『エレファント・マン』(1980)におけるジョゼフ・メリックがそうだったように、リンチは見せたいものをできるだけそのまま映像にしてみせる。それは一種の暴力性ともいえるセンスだが、こうした虚飾に塗れてないところは、リンチ作品が持つ魅力のひとつだと思う。


 その魅力が孕むのは、自分のなかにある風景や感情をぶちまけるという粗々しい表現欲求だけだ。だからこそリンチは、『イレイザーヘッド』(1977)でシュルレアリスムの極致を見せたかと思えば、『ワイルド・アット・ハート』(1990)ではまっすぐな愛の物語を描き、ラストでニコラス・ケイジにエルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」を歌わせたりもする。


 ただ、これまで世に出たリンチに関する文章などで幾度も言われているように、リンチは古典に詳しい〝知識の人〟でもある。それは『ブルーヴェルヴェット』(1986)で、ボビー・ヴィントンが1963年に発表した同名曲がフィーチャーされていることからも窺いしれる。いわばリンチは、感情という根源的な表現欲求と、その欲求を上手く形にできる教養と理性を併せ持った男だと言える。


 さて、そんなリンチの作品群を久しぶりに観たのは、とある映画を観てしまったせいである。その映画とは、イギリス出身の女性映画監督アナ・リリ・アミリプールが作りあげた長編デビュー作、『A Girl Walks Home Alone At Night』(2014)。日本では、今年9月に『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』という邦題で公開予定の作品だ。


 本作の内容は、売春やドラッグなどが蔓延る架空の街バッドシティーを舞台にした、ヴァンパイアの少女と人間の青年によるラヴストーリー。全編モノクロの映像が漂わせる退廃的な空気、さらには架空の街を舞台にすることで生じるシュルレアリスム的要素は、それこそリンチの『イレイザーヘッド』を連想させる。さらには、人間の青年に「I am Dracula」という、映画『魔人ドラキュラ(原題:Dracula)』(1931)でベラ・ルゴシが吐くセリフをそのまま言わせるあたりは、アナもリンチと同じく古典に詳しい〝知識の人〟であることを匂わせる。


 また、ヴァンパイアの少女がなぜヴァンパイアとして生まれ、人を喰らうのか、といった説明がされないのも本作の面白いところ。言葉少なめに、イメージのコラージュと最低限の音楽で語ろうとするそのスタイルは、フランスの鬼才レオス・カラックスに通じるが、アナの場合、ラヴストーリーであることが示されるシーンを途中で何度も挟むなど、観客を置き去りにしないよう注意している。


 そうしたシーンのなかで特に秀逸なのは、ヴァンパイアの少女が人間の青年を家に招きいれ、甘美な一時を楽しむシーン。このシーンはまず、ヴァンパイアの少女がムードを出すために、ホワイト・ライズ「Death」のレコードを再生するところから始まる。すると、「Death」のリズミカルなベース・ラインに導かれるかの如く、人間の青年が部屋に飾られたミラーボールを回す。


 続いてカメラは、ヴァンパイアの少女をとらえたワンショットに切り替わる。最初はヴァンパイアの少女だけを映しだすが、そこへ人間の青年が忍び寄るようにフェードインしてくる。次に、ヴァンパイアの少女は振りむき、人間の青年を視野に入れる。ここでふたりはじっくり見つめあい、抱擁を交わして口づけ...とは行かず、抱擁とは言いきれないなんとも中途半端な触れあいで、このシーンは終わってしまう。しかし、こうした中途半端な触れあいだからこそ、このシーンは観客の心を揺さぶる。そして、その揺さぶりに華を添えるのが、「Death」の歌詞にある一節。もしかするとアナは、この一節に、ヴァンパイアだとバレたくない少女が抱える葛藤を仮託したのかもしれない。


〈恐怖が僕の心を掴んで離してくれない(Fear's Got A Hold Of Me)〉

(「Death」)


 このシーンが終わると、風船を手にした謎の人物による踊りが挟まれるのだが、それがあまりにも唐突なため、観る人によっては意味不明なシーンに思えるはずだ。


 しかし、人間の青年と一夜を共に過ごしたヴァンパイアの少女が見た夢だと仮定すれば、風船の意味にも一応の説明がつく。夢占いにおいて風船は、実現が困難な願いを象徴しているそうだ。つまり、風船の夢を見た場合、その夢を見た者は強い不安やストレスを抱えているということになる。この説に従えば、風船を手にした謎の人物が踊るシーンは、ヴァンパイアの少女に潜む不安やストレスを表すものだ、とも言える。ストーリーの流れをふまえればありえなくもない解釈だと思うが、どうだろう?


 ちなみにヴァンパイアの少女は、好意を抱く人間の青年に対して、ヴァンパイアであることとは別に秘密を持ってしまう。この秘密がラストの伏線にもなっているのだが、筆者はあのラストを観たとき、〝それでも一緒にいる〟という力強さと純粋さを見せつけられたようで、見事にノックアウトされてしまった。『ワイルド・アット・ハート』のニコラス・ケイジみたいに、人間の青年はベタなラヴソングを歌いはしないが、それでもふたりが〝愛〟を信じたのは確かだ。この〝愛〟を見せられたとき、筆者は『A Girl Walks Home Alone At Night』という映画に、映画としてのスタイリッシュな魅力だけでなく、好意を寄せあいながらもなかなか結ばれない者たちのドラマ、いわゆる泥臭さを見いだしてしまった。そう、バッドシティーという架空の街で描かれている風景は、観客たちが住む現実と共振するのだ。


 こうした幻想と現実の共立は、さながら子供のころ親に読みきかせてもらったおとぎ話である。誰かの創作話でありながら、大人になってから思い知る社会的教訓が込められている、そんなお話。そう考えると本作は、変えようのない違い(本作の場合はヴァンパイアと人間)を抱える者たちが結ばれるからこそ、愛や団結は尊いということを教えてくれる映画なのかもしれない。


 とまあ、長々と映画の内容について語ってしまったが、今回取りあげたのは、『A Girl Walks Home Alone At Night』のサントラである。このサントラはすべて既存の曲で構成されており、本作のために書きおろされた新規曲はない。しかし、だからこそ、アナの音楽に対するこだわりと深い造詣を垣間見ることができる。先に書いた「Death」のように、ゴシックでダークなロック・チューンもあれば、ベルリンのフリー・エレクトリック・バンドによるテック・ハウス「Bashy」もあったりと、曲群の多彩さには驚かされる。こうなったのはおそらく、本作が〝音楽とセリフ〟よりも、〝音楽そのもの〟で登場人物の心情を語ろうとする映画だからだろう。それゆえ、ムードを統一するような選曲ではなく、シーンごとに最適な曲を選んだ。それが結果的に、多様なサントラに繋がったと思われる。


 くわえて、このサントラの多様さが、ネットを介してあらゆる時代の文化にアクセスできる現在を表象しているのも興味深い。「ムードを統一するような選曲ではなく」と先述したばかりで申し訳ないが、本作のサントラは異なるムードを持つ曲たちが集まりながらも、同時に〝ひとつの物語〟と言える一貫した流れを感じさせる。いわば、音楽史における文脈を一端剥がしたあと、音楽リスナーとしての個人史をもとにした文脈の再構築がおこなわれているような感覚。そこには再構築による歪な繋ぎ目がなく、とても自然な形でさまざまな要素が溶解している。


 もちろん、このような感覚は映画自体にも反映されているが、そういった意味で本作と本作のサントラは、2010年代の表現や文化を考えるうえで重要なヒントになる作品だ。



(近藤真弥)

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