DEATH CAB FOR CUTIE『Kintsugi』(Atlantic / Warner)

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 00年代、本国アメリカでインディー・ロック、ここ日本でインディー・ポップという言葉が広く流布していったことに関して最も重要な役割を果たしたバンドのひとつ。創設時からのギタリスト、クリスは、このアルバムの途中で脱退することになった。それでも、デス・キャブ・フォー・キューティーというバンドは(少なくとも近い将来は)つづいていく。日本語からとられたアルバム・タイトル、金継ぎという言葉は、その象徴といえるだろう。


 ちなみに、たしかクリスの友だちがやっている西海岸のスタジオの名前にはオタクという言葉が使われている、と彼に聞いたことある。中心人物ベンは(州単位でみれば)地元シアトル・マリナーズにいたイチローに敬意を表する曲を、サウンドクラウドで発表したこともある。彼らが日本語を使っても、決して意外ではない。さらに言えば、それまでの活動を総括するような『The Photo Album』(2001年)、その名がヨーロッパ(やアジア)にも響きわたるようになったころの『Transatlanticism』(2003年)、メジャー契約1作目『Plans』(2005年)、ツイッターやフェイスブックといったSNSが世界規模で一般化していったころの『Codes And Keys』(2011年)など、彼らは常に自らおよびバンドが置かれた状況をアルバム・タイトルに冠してきた。


 金継ぎとは、割れた陶器の破片をつなぎあわせて新しいそれを作る陶芸技法のこと。まさに彼らや、ぼくらの世界の現状にふさわしい。


 少々話はとぶが、去る4月13日、ノエル・ギャラガー&ザ・ハイ・フライング・バーズのライヴを体験して興味深いことに気づいた。すべてのレパートリーがスタジオ・ヴァージョン以上に「曲そのものの魅力を際立たせた」アレンジとなっているではないか。ライヴでは、個々の楽器の演奏をここぞとばかり披露する形になりがちなのに、その逆。ライヴ・ヴァージョンのほうが、むしろあっさりした印象。もちろん生身の演奏者や歌唱者自身が眼前にいるという事実を加味すれば、決してくどすぎない、ちょうどいい塩梅となる。


 ラジオ→テレビ→インターネット、割れやすいアナログ盤SP→割れにくいアナログ盤EP→長時間収録可能なアナログ盤LP→デジタル盤/CD→音源データという形で、音楽に接するメディアは徐々に変遷を遂げてきた。


 なるほど、これこそが、今という時代にふさわしい「曲そのものの魅力を際立たせる」スタイルなのかもしれない。だからこそ、50年代から現在に至る多彩な音楽的要素を、すごく自然に混ぜあわせることができている。非ロック vs ロックとか、エレクトロニック vs アコースティックとか、そういった、くだらない対立項を超えて。


 デス・キャブ・フォー・キューティー『Kintsugi』に収録された、まさに珠玉といえる曲の数々の魅力の、「比較的あっさりした」際立たせ方に関しても、まったく同じことを感じた。


 クリスは、これで去ってしまう。中心人物ベンは、少し前に離婚を経験している。たしかに、ここには(とりわけ前半に)比較的悲しげな曲が多い。だが、それは昔からそうだった。実際バンド名自体が(ボンゾ・ドッグ・バンド関連のフレーズからとられた)デス・キャブ・フォー・キューティー(可愛い子たち向け死のタクシー)だぜ。


 もし彼らが自分たちの惨状を、エンターテインメント感覚ゼロで陰々滅々と訴求するタイプだったら、こんなこと歌えないよね?


〈きみは ぼくの放浪者 ちょっとさまよってる/海の向こうを/そのまま歩いて 戻ってくてくれないか/ぼくの徒歩旅行者 ちょっとした放浪者/きみに会いたい/きみはさまよう徒歩旅行者 放浪者/どれだけ きみが必要か......〉

(「Little Wanderer」)


 この曲では、その〈徒歩旅行者〉が、〈なんとか元気にやってるよ 東京では今 桜が咲いてる〉という便りをくれた場面で始まり、混みあって動きが鈍くなったネットワーク・サーヴィスのメッセンジャーでお互い<じゃあね>と言いあうところで、最初のヴァースが終わる。


 いつか、何年かあとにこのアルバムを聴いたときぼくは、微妙に雨天が多いけれど、もちろん晴れることもある、2015年春の空を思いだすだろう。




(伊藤英嗣)

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