DAOKO『DAOKO』(TOY'S FACTORY)

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 SACOYAN(さこやん)という女性シンガーソングライターが、2011年に発表した「JK」を何度も聴いてから、この拙稿を書いている。この曲を初めて聴いたのは、もう4年近くも前のこと。楽しい気持ちがあふれていながら、どこか淋しさが漂うところに惹かれた。特に、〈万人に好かれたい 何処へでも行きたいな さそってよ たのしませるわ〉というフレーズが持つ一種の悲哀には、いま聴いても胸がギュッと締めつけられる。


 そんな「JK」の余韻を引きずりつつ出逢ったのが、2012年にLOW HIGH WHO?(ロウ・ハイ・フー)からリリースされた、DAOKO(だをこ)のファースト・アルバム『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』である(ちなみに、リリース当時は小文字で〝daoko〟という表記だった)。最初に、リアルと想像が溶解したような世界観に魅せられた。その次は、秀逸な観察眼を持つ鋭い言葉に、心をズッパシ刺された。


 DAOKOの歌声は、耳に心地よく馴染む甘美さを持っていた。しかし、その甘美さが孕んでいたのは、どこか鬱々とした感情。それでも繰りかえし聴いたのは、DAOKOのパーソナルな領域から発せられた言葉なのに、その領域から離れたところにいる者も感情移入できる余白があったからだ。この余白はおそらく、歌詞の一節と一節の間にある飛躍度の高さが要因だと思う。先述したように、DAOKOが描く世界観は、リアルと想像が溶解している。それゆえ、歌詞に文脈があまり感じられない。ひとつの物語や世界を丁寧に紡ぐというよりは、膨大な数の瞬間的感情や一場面を繋ぎあわせたような歌詞なのだ。いわば、感情と場面のコラージュ。こうしたコラージュの縫い目に筆者は、たくさんの矛盾を抱えるDAOKOの泥臭い人間性と魅力を見いだしてしまった。


 そんな『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』を聴いて脳裏によぎったのは、連続性と物語の文法を破壊しつくしたゴダールの映画、『勝手にしやがれ(原題 : A bout e souffle)』(1959)だった。この映画もまた、感情と場面のコラージュだからだ。ゴダールはそれを論理的にやってみせたが、DAOKOの場合は本能でやってのけているように聞こえた。だから筆者は、『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』を、「アニマルなゴダールみたいで面白い」という感じで楽しんでいた。この楽しみかたは、『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』以降にリリースされた、2枚のアルバムと1枚のEPでも同様だった。もちろん、作品ごとに特徴は異なっている。とはいえ、常に基調としてあったのは、感情と場面のコラージュだった。


 しかしこの側面は、メジャー・ファースト・アルバムとなる本作『DAOKO』では影を潜めている。リアルと想像が溶解したような世界観は健在だが、歌詞に整合性が見られるのだ。言うなれば、洗練されている。これまでの作品が、先に書いた〝膨大な数の瞬間的感情や一場面を繋ぎあわせた〟ものだとすれば、本作は〝12の感情と場面〟で構成されたアルバムだ。ゆえにこれまでの作品で目につきがちだった散漫さは解消され、聴き手にまっすぐ届くまとまりを獲得している。こうしたこともあって、本作はこれまで以上にDAOKOの言葉が明確に伝わってくる、キャッチーでポップなアルバムだ。この点は、インディーズ時代の〝daoko〟が好きな者の目には〝物足りない〟と映るかもしれないが、筆者は〝DAOKO〟になることで得られた〝深化〟だと感じた。


 その〝深化〟した言葉で特筆したいのは、「JK」「ぼく」「高い壁には幾千のドア」の3曲だ。まず「JK」は、晴れて高校を卒業したDAOKOの心情が反映されている。実はこの曲、本稿の冒頭でSACOYANの「JK」を引っぱりだすキッカケとなった曲だが、SACOYANの「JK」とは違い、DAOKOの「JK」は〝女子高生〟という記号に対するうっとうしさが出ているように聞こえる。〈春はなんで来ないんだろう? 私の制服は桜と共に散る〉という一節なんかは、〝大人になりたい〟という漠然とした憧れと、デビュー当初からずっとDAOKOの身にまとわりついていた〝女子高生ラッパー〟というレッテルに対する反抗心が共立してる気も...。とはいえ、歌詞全体は女子高生の日常的一幕を描いたものだが。


 次に「ぼく」の歌詞は、DAOKOによるメジャー・デビューのごあいさつみたいな内容。しかし、〈メジャーになった 何か変わったか〉〈狙って売れるなら苦労しないだろ?〉など、自身への問いかけみたいな言葉も飛びだす。それから、〈妄想して頂戴 そのぼくがきみのぼくだから〉という一節は、ポップ・ミュージックに付きものの〝安易な消費〟を受けいれる覚悟で満ちている。この覚悟は頼もしさを感じさせるほどで、DAOKOの負けん気の強さを垣間見れる。その負けん気の強さは、「ぼく」のラストを飾るフレーズ、〈代わりのだれかになんて 歌わせないよ〉にも表れている。


 そして、本作のラストにあたる「高い壁には幾千のドア」。この曲の歌詞は、DAOKOが自分に言い聞かせてるような内容だが、〈焦ることはない 君の時間軸に沿え〉という一節が示すように、聴き手を鼓舞する応援歌にも聞こえるから面白い。このような曲をラストに収録したのは、本作が〝ここからDAOKOとしての旅を始める〟というステートメントだから? と考えてしまったりもするが、どうだろう?


 また、DAOKOの言葉を彩る音も、非常に興味深いものだ。片寄明人(GREAT3)によるサウンド・プロデュース、さらにはねごとやサカナクションといったバンドと仕事をしてきた浦本雅史にサウンドエンジニアを任せた影響か、インディーズ時代の作品と比べてひとつひとつの音が明瞭になっている。それに伴い、DAOKOの声と言葉もいままで以上にすんなり耳に入ってくる。多彩な楽曲群を乗りこなすDAOKOの順応性も、実に見事だ。


 特筆したいのは、展開が激しいメルヘンチックな「ゆめうつつ」と、ワルツの拍子を取りいれた「流星都市」の2曲。共にボカロPとしても知られるきくおが参加した曲で、本作のなかでは一際エッジーだと思う。それに、「流星都市」がきくおの曲「月の妖怪」を想起させるのも嬉しいポイント。まあ、この点は、筆者が「月の妖怪」を愛聴しているというだけの理由なのだが...。


 このように本作は、DAOKOの言葉と声、さらにそれを支える楽曲たちが上手く噛みあわさった作品だ。特にDAOKOの言葉が帯びる鋭さと普遍性は、〝いまのところ史上最高〟と言ってもいいレベルだと思う。


 そして、DAOKOの言葉はさまざまな機微を孕んだ複雑な感情で満たされ、どこか鬱々しているのは確かだが、それでも本作は〝希望〟がもっとも光り輝いているということも強調しておきたい。少々陳腐な言いまわしになってしまうが、いろいろ大変な世の中だけど、それでも生きていこうというポジティヴな側面こそ、本作の魅力だと筆者は考える。強いて類似するものを挙げるなら、2012年の映画『桐島、部活やめるってよ』みたいなもの、かもしれない。


 そう考えると本作は、DAOKOの日常に近いことが描かれていながらも、DAOKOというひとりの人間を通して、2010年代の匂いと風景を切りとった作品とも言える。もちろんこれは、筆者の漠然としたひとつの推察にすぎないが、それでも確実に言えるのは、何十年か経って2010年代の音楽を振りかえろうとなったとき、本作は真っ先に名が挙がる作品のひとつであるということ。つまり本作は、2010年代という時代を象徴するサウンドトラックのひとつなのだ。



(近藤真弥)

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