October 2014アーカイブ

retweet

さて、この夏(というか初夏)に、元ビート・クルセイダース/元モノブライト/現ザ・スターベムズ(先日ニュー・アルバムのリリースも発表された。めでたい!)日高央(ヒダカトオル)と組んで、なんとなく復活したクッキーシーン編集長伊藤の「歌詞対訳講座」、むちゃくちゃ好評だったため、早くも次回の開講が決まりました。


日高&伊藤のコンビネーション・トーク、まだまだスタート地点ということで、今回の基本テーマもひきつづき「英語詞はもうこわくない!」。


「日本人が書いた英詞」というややこしいサブ・テーマ...つまり「邦楽編」だった第1弾を受けて、今回は素直に「洋楽編」となります!


日高にとって「洋楽の入口だった」というモンキーズにはじまって、ここ最近のバンドまで、(彼や伊藤の趣味を考えれば:笑)かなり幅広い人たちの歌詞をとりあげる予定です。


ちなみに「ザ・モンキーズからアークティック・モンキーズまで」というサブ・サブ・タイトルがついてます。前身の(伊藤単体講師体勢による)講座でもアークティックはかなり初期に(2011年のうち...だったような...)とりあげてますし、そのときも俎上にのせた曲のひとつについて伊藤は(フリーランス・ライターとして)ロッキング・オン誌最新号(いわゆる9月号)でも書いてますが、今回はまた別の歌詞について語ろうと思ってます(笑)。


くわしくは、主催してくれているオトトイの、このページをごらんください。


開催は11月後半と、まだまだ先のように思えるかもですが、実は前回はわりと早めにソールド・アウトしてしまいました...。興味のあられる方は、どうかお早めに...


楽しい時間になることは(ほぼ確実に)保証します!


よろしくお願いいたします!


2014823952分(HI

retweet

Gui Boratto『Abaporu』.jpg

《What a beautiful life... What a beautiful world... I can see light... I can feel love... I can see the sun...》


 こんな一節を多幸感あふれるサウンドと共に紡いだ「Beautiful Life」は、2007年を代表するフロア・アンセムとして今でも輝いている。この曲によってギー・ボラットの名は、テクノ・シーンのみならず幅広い層から認知された。ダンス・ミュージックとしての高い中毒性を持ちながら、メロディアスでロマンティックなサウンドも備えていた「Beautiful Life」は、頻繁にクラブへ足を運ばない人たちの耳も魅了し、ダンスフロアの熱狂にいざなってみせた。やはり、メロディアスなトラックは強い。「Beautiful Life」と同年に発表されたザ・フィールド『From Here We Go Sublime』もそうだったか、当時のギー・ボラットのサウンドは "シューゲイズ・ハウス" や "シューゲイザー・テクノ" なんて呼ばれていた。このことからも、いかに「Beautiful Life」が優れた万人性を持っていたかわかるというもの。


 その「Beautiful Life」を本稿の書きだしとしたのには、もちろんそれなりの理由がある。ギー・ボラットの最新作『Abaporu』は、「Beautiful Life」に通じる歌心とメロディアスな側面が色濃いのだ。前作『III』はアンビエント色が漂う静謐な作品だったが、本作ではファンキーでアッパーなギー・ボラットの姿を見ることができる。さすがに "シューゲイズ・ハウス"と呼ばれていた頃の音を見いだすことはできないが、「Take Control」などは、「Beautiful Life」を連想する者も多いと思わせる素晴らしいヴォーカル・チューン。どこか哀愁を漂わせ、聴き手の感情が持つ機微を刺激し、耳と心を幸福感で満たしてくれる。このあたりは、リリース元の《Kompakt》が得意とするサウンドだが、ギー・ボラットはそれを象徴するアーティストのひとりと言っていい。


 全体的には、享楽的かつ開放的、そしてトランシー。少なくとも聴いていて気が滅入ることはないはずだし、むしろ心がどんどん昂っていく様を感じるだろう。コインは表裏一体、というのも変かもしれないが、本作はダークでヘヴィーなポスト・インダストリアルの余韻が残る現在において一種の清涼剤となりえる作品だ。



(近藤真弥)

retweet

ARCA『Xen』.jpg

 ダンス・ミュージック・シーンでは、名義を使いわけ匿名性を醸す手法は決して珍しいものじゃない。とはいえ、その匿名性で遊んでいるかのような存在が、ここ数年の間で急激に増えたのは興味深いと思う。"u"を"v"に変えたチャーチズ(Chvrches)はまだ易しいほうで、たとえば日本だと、セーラーかんな子とおじぎという女性ふたり組のDJユニットぇゎモゐ(えわもる)、それからswaptvを中心とした§§(サス)というバンドがいるし、シフテッドが主宰する《Avian》から『Linear S Decoded』という秀逸なテクノ・アルバムを出したばかりのスウェディッシュ・デュオ、SHXCXCHCXSHなんてのもいる(Resident Advisorのインタヴューによると、「Hは無音なんだ。あとは、文字通り読めばいいだけ」だそうだ)。他にも、バンドキャンプで"vaporwave"のタグ検索をすれば、読み方がわからない匿名的な名前がごろごろある。なんだか、平野啓一郎が小説『ドーン』で提示した、場所や対人関係によって人格を分け、その場に適した自分が生じる"分人主義" 的感性に近いものを感じる。


 そんな分人主義的感性は、ベネズエラ出身のアルカことアレハンドロ・ゲルシが作りあげた本作『Xen』にも見いだせる。収録曲である「Thievery」のMVも含め、アルカのヴィジュアル面の多くを担うジェシー・カンダによる "分人" のほとんどが性別を超越した存在とされていること、そして、その存在が本作のジャケットでも大々的にフィーチャーされていることをふまえると、本作でアルカは自身のセクシュアリティーについて今まで以上にハッキリ表現しているように思える(アルカのセクシュアリティーについては、FADERに掲載された本作に関する記事が詳しい)。それは言ってしまえば、"分人"として自身の一側面を切り分けるのではなく、これまで切り分けてきた"分人"をかき集め、アレハンドロ・ゲルシという"個人"の物語を本作で表現したのではないか、ということ。


 そう考えると本作は、アルカのパーソナルな部分があらわになったという意味でのソウル・ミュージックである。こうした部分を考慮し、本作のタイトルが仮想マシンモニタの名称と同じであること、さらに冒頭で書いた分人主義的感性をふまえれば非常に面白い作品だと言えるし、ネット以降の状況と照らしあわせて社会学的に分析して楽しむのも一興だろう。だが、大きなシーンを生みだしたり、新たな潮流を作るような衝撃は去年発表の『&&&&&』よりも少ない。表題曲や「Sisters」といったビートが際立つ曲も、たとえばジャイアント・クロウの『Dark Web』を聴いたあとでは"斬新"と言い切れるものじゃない。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーを彷彿させる冷ややかでアンビエントな音像は、耳に心地よく馴染んで素晴らしいと思うが。



(近藤真弥)

retweet

KINDNESS_Otherness_J.jpg

 2012年のファースト・アルバム『World, You Need A Change Of Mind(世界よ...必要なのは変心)』は、その年のトップ10にあげられるくらい愛聴した。初期そして最近のフェニックスとの関係でおなじみフィリップ・ズダールとの共同作業による「クラブ・ミュージックとポップ・ミュージックの交差した地点」感が、なによりたまらんかったというか。


 この待望のセカンド・アルバムでは(ファーストのように、とくに「ひき/おしの強い特定の誰か」というより)世界中のさまざまな新進クリエイターたちとコラボレーションをおこなうことで、自らの世界を深めつつ、理想的なスケール・アップを遂げている。


 前作およびこの新作に共通する特徴といえば、ラテンやワールド・ミュージック的要素と並んで、いわゆるジャズのエッセンスを、実に心地よくとりいれていること。単なるムードというレベルを超えて(いくぶん変態的な)ポップ・ミュージックとジャズを深く融合させてアーティストは、昔からたくさんいた。前者側から後者に接近したものといえばスティーリー・ダンとか、その逆であればマイルス・デイヴィスとか...。ただ、その「混ぜ方」の印象は、彼らとかなり異なる。まさにニュー・フェイズ、今の時代にふさわしく新鮮なものとなっている。


 それこそ、マイルス・デイヴィスが伝道師となり、今や普通の日本語にまでなっている「クール」というセンスのとらえかたが、なんか昔と全然違うというか。

 

 たとえば、サイケデリック・ロックにはじまって最終的にはUKフリー・ジャズと区別がつかないほど、ややこしくもかっこいい音楽をやっていた、カンタベリー一派のソフト・マシーン。彼らの最高到達点と思える『Six』(1973年)あたりに通じる部分もあるのだが、80年代末~90年代初頭の、いわゆるアシッド・ジャズを思わせる「うたごころ」も、これでもかというくらい備えている。ただ、前者が持っていた「知的にかっこいい感じ」の記号性も、後者が持っていたよりモード的にファッショナブルなそれとも無縁な感じ。その塩梅が、たまらなく素晴らしい。


 元ライトスピード・チャンピオン/現ブラッド・オレンジことデヴォンテ・ハインズ、スウェーデンのエレクトロニック歌姫ロビン、デーモン・アルバーンらと共演経験もあるガーナ人ラッパーのマニフェストなど、コラボレーターの人選にも、それは見てとれる。


 結局のところ「クール」になりきれるはずもない。なにせ、芸名がカインドネス(人間らしい思いやりの心)だからね。とはいいつつ、そこに縛られたくもないんだろう。今回のアルバム・タイトルは『アザーネス(それ以外)』ときた...。この、ひねくれかたも含み、スーパー・グレイト、だ!



(伊藤英嗣)

retweet

2014年10月20日〜10月26日 更新分レヴューです。

AnD『Cosmic Microwave Background』
2014年10月20日 更新
THE JUAN MACLEAN『In A Dream』
2014年10月22日 更新
Kate『TODAY』
2014年10月24日 更新

retweet

a4123937601_2.jpg

 少し前、電車を乗り過ごしてしまい、気がついたら河川敷の景色を眺めていたことがあった。ヘッドフォンからは何気ない優しさで気持ちを射抜かれるような、Kate(ケイト)のこのアルバムが流れていた。ゆるやかな川、広い土手と空を舞う鳥たち。夕暮れ時の河原を歩く女子中学生や、のんびり犬の散歩をしているおじいさんにも、きっと誰にでも「こんな感じ」があるんだろうなあと思った。


 ケイトは、2009年より活動をスタートさせた3人組。個性的でありながら隙間のあるサウンドがどこまでも気持ちいい。2012年から約2年かけて制作された今作は、ひと言で言ってしまえばピアノをベースにしたインディー・ポップ・ミュージック。澄み切った青空のように爽やかな、極上のポップ・アルバムとなっている。メロディーの良さはもちろんのこと、何といっても心に響くのがヴォーカリスト、リン(中国人女性)の歌声。良い意味での青臭い彼女のヴォーカルはほんと、グッとくる。イギリス? 中国? アメリカ? ブラジル? 東京? その全てのようでどれでもない。まさしく異国を何ヶ国にも渡ってずっと旅してるような感覚。それが、いつのまにか聴く人それぞれの心象風景と重なってリアリティーを帯びていく過程こそが『TODAY』のスリルだ。『TODAY』というタイトルとヴォーカリストであるリンの優しいファルセット気味な声から、初めは毎日の生活に寄り添うような温かい音楽という印象を受けたが、聴いていくほどに煌びやかな、そして少しの過激さがなんとも頼もしく思えてくる。カラフルでポップなサウンドだけど前のめりな所もあって、耳に馴染みやすいグッド・メロディーなのにBGMになるつもりはさらさらなくて。むしろ、マンツーマンなコミュニケーションを迫られるようだ。


 歌詞も、"どこから来て何をするのか。99%の信頼と1%の裏切り。創作と秩序と破壊を行うのは神のみ。人間は考えて試して諦めるだけ。"という内容を歌った「99% Is Sincere for You」や、"多すぎることも少なすぎることもない。惑星が行ったり来たりする宇宙の物理法則に従っている"という内容の「Physical  Laws」など、ハート・ウォーミングな曲のイメージとはそぐわないものだったりする。そういったほんの少しの違和感といつか見た夢の断片を丁寧に繋ぎ合わせたような趣があちこちで顔を覗かせていて、それを発見するたびにハッと息を呑んでしまう。ともかく、『TODAY』にはまだ見たことのない景色が広がっているし、果てしなさを見せつける音世界に思わずゾクゾクする。聴けば聴くほどパンチを喰らわされる唯一無二の作品だ。



(粂田直子)

retweet

The ‎Juan MacLean『In A Dream』.jpeg

《この光は愛によって照らし出されたもの この場所にあるすべての愛によって たくさんの声に耳を傾けてほしい どうかもう一度だけ》

(「Tonight」)


 この印象的な一節が登場する「Tonight」が収められた、ザ・フアン・マクリーンのセカンド・アルバム『The Future Will Come』。このアルバムを聴いたとき、筆者はすぐさま、"ああ、彼らはディスコの歴史を理解しているな"と思った。それは、ディスコが主にゲイなどのマイノリティーによって支えられた音楽であり、広められたという歴史。もちろん、"情報"としてなら、検索エンジンに"ディスコ"と入力すれば誰でも知ることができる。しかし、"知る"ことと"理解する"ことは、似ているようで別物だ。理解するためには、その音楽が積み重ねてきた歴史や文脈を体得しなければいけない。歴史から逸脱した表現も魅力的ではあるが、その逸脱も歴史を理解していなければ到底不可能な芸当だ(一部の天才と呼ばれる者を除いて)。


 ザ・フアン・マクリーンは、自らが鳴らしている音楽の歴史や文脈をちゃんと理解したうえで、それをより多くの人がコミットできるポップ・ソングに変換する才に恵まれている。先に引用した一節だけでなく、彼らが紡ぐ言葉のほとんどは、この世に生きるなかで抱く疎外感や孤独に心を荒らされる繊細な感性の持ち主にとって、小さくない励ましとなるものだ。性的指向は関係なく。


 こうした彼らの魅力は、『The Future Will Come』から約5年ぶりとなる本作『In A Dream』でも健在だ。前作以上にジョルジオ・モロダー的なエレクトロ・ディスコ色が濃くなり、「Love Stops Here」などは、さながらニュー・オーダーのようである。そういった意味で本作には、ポスト・パンク色も存在すると言っていい。前作のラストを飾った「Happy House」のようなアンセムはないが、そのかわりアルバム全体としての統一感は前作以上。ロボティックで、熱を帯びながらもどこか冷ややかな質感のサウンドが終始貫かれている。このような作風は80年代のニュー・ウェイヴを連想させるもので、ここ最近の作品でいえば、ラ・ルーの『Trouble In Paradise』や、マニック・ストリート・プリチャーズの『Futurology』に近い。


 歌詞のほうも特筆しておきたい。熱すぎないクールなナンシー・ワンの歌声に乗る言葉は、人の感情にまつわる機微を孕んでいる。この機微は、《君のことを本当に愛してくれる誰かに会えるかもしれない》《そして結局ひとりぼっちでクラブを出る》と歌われるザ・スミス「How Soon Is Now?」でも描かれた、"期待と失望" に通じるものだ。簡単には説明できない、複雑にこんがらがった感情と哀愁。さすがに《そして死にたくなるんだ》(ザ・スミス「How Soon Is Now?」)とまでは歌わないが。



(近藤真弥)

retweet

AnD『Cosmic Microwave Background』.jpeg

 2013年も終わりに差しかかったころ、筆者はツイッターで「来年はハード・ミニマル」という予言めいたことを呟いた。この年は、イギリスのシフテッドが『Under A Single Banner』という、《Modern Love》などを中心としたポスト・インダストリアルの潮流とも共振できるハード・ミニマル・アルバムを発表したし、クラウズはティガ主宰の《Turbo》から、ダブステップ以降のベース・ミュージックとジャングル、そしてハード・ミニマルとインダストリアルを接続した『Ghost Systems Rave』をリリースしていた。それゆえ先に書いた予言を呟いたのだが、今年のダンス・ミュージック・シーンを見ていると、それもあながち的外れではなかったと我ながら思う。政治的メッセージが込められたパーク『The Power And The Glory』には、初期のジェフ・ミルズを想起させるハード・ミニマル・トラック「Dumpster」が収められ、現在16歳の新鋭ハッパは、マンニ・ディーと結成したハビッツ・オブ・ヘイトのシングル「Habits Of Heit」で、2010年代向けにダブステップを再解釈するなかでハード・ミニマルのエッセンスを取りいれている。パークはもともとハード・ミニマルに通じるトラックをいくつかリリースしていたが、ハッパのような新世代がハード・ミニマルに接近したのは見逃せない動きだろう。


 マンチェスターのデュオ、アンドによるデビュー・アルバム『Cosmic Microwave Background』も、こうした流れの上にある作品だ。本作を聴いて真っ先に思い浮かぶのは、初期のジェフ・ミルズ、サージョン、レジスといった、いわゆる90年代のハード・ミニマルやインダストリアル・テクノと言われるサウンド。このあたりは、長年のダンス・ミュージック・ファンにとって懐かしく感じるかもしれない。一方で、「Photon Visibillty Function」のグルーヴはハビッツ・オブ・ヘイトに通じるものとなっており、言ってみればダブステップを通過したインダストリアル・テクノとも言えるトラック。このトラックは、本作が過去のテクノを模倣しただけの懐古的作品ではないことを証明している。


 そして、ハード・ミニマルやインダストリアル・テクノにありがちなグルーヴ感の乏しさとも本作は無縁だ。ベース・ラインとリズムの組みあわせ方も秀逸で、アルバムとしての統一感を作りつつもグルーヴは多種多様。ゆえに本作は、ダンスフロアに相応しいのはもちろんのこと、リスニング・アルバムとしても優れている。


 激しくも冷ややかで、破壊的。そんなテクノ・アルバムに仕上がっているが、よくよく聴いてみると、アンドの巧みなサウンド・プロダクションを楽しめる深い作品。



(近藤真弥)



retweet

2014年10月13日〜10月19日 更新分レヴューです。

OGRE YOU ASSHOLE『ペーパークラフト』
2014年10月15日 更新

retweet

OGRE YOU ASSHOLE『ペーパークラフト』.jpg
《あなたの周りを気づけば占領》
(「見えないルール」)


《きれいな海 あふれる光 ハリボデの街もなんだかいい》
(「いつかの旅行」)


 このふたつの印象的な一節が登場する、OGRE YOU ASSHOLE(オウガ・ユー・アスホール : 以下 オウガ)の最新アルバム『ペーパークラフト』を聴いて筆者が想起したのは、1998年に公開された、アレックス・プロヤス監督による映画『ダークシティ』だ。


 『ダークシティ』は、舞台俳優としても知られるルーファス・シーウェルや、今では "ドラマ『24』のジャック・バウアー" と呼ばれがちなキーファー・サザーランドのコミカルな演技を楽しめるSFスリラー。ルーファス・シーウェル演じるジョン・マードックが、ある日バスタブの中で目を覚ますと、なぜか記憶をなくしていて、おまけに殺人犯として追われる身になっていた。ジョンは逃亡を続けるが、そのなかで彼は、いま自分のいる街がストレンジャーという謎の異星人たちによって作られたものであり、その街に住む人々の記憶も、人の心を知るというストレンジャーの目的のため操られていること、さらに、自分が生まれ育った "シェル・ビーチ" は存在しないという事実を知ってしまう、というのが大方のストーリー。そんなストーリーは観客に、"真実"とはなんなのか?、そして、ジョンと妻であるエマの関係を通して "人との繋がり" について問いかける。


 アレックス・プロヤスが『ダークシティ』に込めたメッセージ、それは、人々は記憶に生かされるのではなく、おのおのに沸き立つ偶発的感情や不確実な行為の積み重ねによって生かされ、互いを繋いでいくということ。ストレンジャーは、同じ記憶を全員で共有しながら生きてきた画一的存在として劇中に登場するが、そのような存在に打ち勝つジョンは、偶発的感情や不確実な行為によって生じる多様性の象徴と言える。現にジョンは映画のラストで、戦いのなかで得た、ストレンジャーと同様の街を作りかえる力でシェル・ビーチを作り、ジョンの妻としての記憶を失い "アンナ" となってしまったエマと、シェル・ビーチに向かって共に歩きだす。つまり、偶発的感情のひとつである "愛" を信じたのだ。


 そんな『ダークシティ』と類似する思想が、『ペーパークラフト』では描かれているように聞こえる。そうなると、腰を据えて聴かなきゃいけない重厚な作品と思うかもしれないが、クラウトロック、ファンク、ポスト・パンクといった要素によって築きあげられたミニマルでサイケデリックなサウンドスケープは、重苦しさを感じさせない。肉感的なベース・ラインとシンプルなリズムでグイグイ引っぱっていく「見えないルール」や、トライバルなリズムが印象的な「ムダがないって素晴らしい」などは、ダンスフロアで流れたら観客が踊りだすであろうグルーヴを持っている。もちろん、石原洋(サウンド・プロデューサー)や中村宗一郎(レコーディンク/ミックス・エンジニア)という長い付き合いを持つスタッフと練りあげられた音粒は、聴きこめば聴きこむほど味わい深さが増してくるし、さまざまな音楽的要素が上手く混在しているおかげで何度聴いても飽きがこないから、腰を据えて音楽に向きあうタイプの聴き手にも届くだろう。おまけに、リリースからある程度の時が流れても、ふと想いだしたように再生してしまう魔力も宿っている。だが、誤解を恐れずに言えば、さながらイージーリスニングのように聴けるのだ。ソファに寝そべりながら・・・なんてシチュエーションで聴いても本作は見事に機能する。少なくとも、レディオヘッドのような聴いていて死にたくなる暗さはまったく感じられない。


 とはいえ、歌詞に注目してみると、『homely』とそれに続く『100年後』の流れを汲んだシニカルな言葉選び、さらには『homely』リリース時のインタヴューで出戸学(ヴォーカル/ギター)が語っていた、「居心地がよくて悲惨な場所」(※1)というテーマが健在なのは明白。ゆえに本作では、"熱を帯びた音に冷ややかな言葉" という、非常に興味深い共立が実現している。その共立は聴き手の多様な聴き方や解釈を許す余白を備えており、この点は坂本慎太郎の『ナマで踊ろう』に通じる。片手間で音に耳を傾けるだけでも惹かれるが、そこから作品に深く入り込むと想像力が刺激され、「画一的な熱狂」とは異なる連帯を私たちにもたらしうるという意味で。このような余白には、現在の日本を当てはめることも可能だし、身の周りの人間関係を重ねても不自然ではない。過去に出戸学も言っていた、「そういう場所をどう思うかっていうのはみんな次第なんじゃないかな」(※2)という姿勢が残っているからだ。


 また、本作の歌詞が、『homely』や『100年後』と比べるといくばくか具体的になっている点も見逃せない。もちろん、いろんな解釈ができる曖昧さを孕んでいるのは確かだ。しかし、《みんなが未来や夢を語り合った 問題は誰を見捨てるか》(「他人の夢」)、《不気味だルールは》(「見えないルール」)など、オウガにしては "言い切った言葉" も目立つ。


 かつて出戸学は、弊誌のインタヴューにおいて、編集長の伊藤英嗣と次のようなやり取りをしている。


「伊藤 : 日本でも何でもいいんだけど、『居心地がいいんだけどどうなのか...』という部分にしぼって、ズバリどうなんですか? そこを脱出したほうがいいと思うのか、それともそこにずっと居つづけていいと思うか?

出戸:気づかなかったらいいと思いますけどね。気づいちゃったときは居られなくなるんじゃないすかね。そんな感じしますけどね。」(※3)


 もしかすると、本作を作る過程でオウガは気づいてしまったのかもしれない。だからこそ、"言い切った言葉" が多くなったのではないか? そう考えると本作は、バンドとして着実に深化を果たしながらも、共時性と通時性の共存という音楽の理想形に近づいた傑作だと言えるだろう。



(近藤真弥)



※1、※2、※3 :  クッキーシーンでおこなわれた『homely』リリース時のインタヴューより引用。


 1  |  2  | All pages