穂高亜希子『みずいろ』 (F.M.N. SOUND FACTORY) 

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 現行のインディー・シーンを考える際、ネット上で増え続けるタグを無視することは不可能だ。ネオ・アコースティック、シティー・ポップといった歴史に根ざした用語からダーク・ウェイヴ、チルウェイヴ、ヴェイパーウェイヴ、多くの新用語が氾濫している。「今の若者は3行レコメンドさえ長くて読まないんだ」と口癖のように言う馴染みのレコード屋の店主に、いくらなんでも大げさでしょうと返すと、「80'sポスト・パンク、この一言でいいんだ。そりゃ君みたいにややこしい客もいるけど」と寂しそうに笑う。


 しかし、そういったタグが有効に機能しない場合もある。穂高亜希子の音楽はそのひとつの例だ。4人のミュージシャンがサポートして録音された本作は、投げかけられる言葉の切れ味、その歌を支える弦楽器の響きといい、合間に挿入されるアコーディオンやリコーダー、トランペットが鳴らす素朴な哀愁といい、一聴して素晴らしいと思ったが、文章でどう伝えようか悩んでしまった。アヴァンギャルドなことをやっているかといえば全くそうではない。親交あるSSWゆーきゃんに近いのか、それも少し違う気がする。ゆーきゃんの歌は線が細そうでも、やはり男性だからか、いざとなれば全身で立ち向かっていくようなパワーを感じるのに対して、穂高の歌はジブリ映画の主題歌のような優しい語り口で、しかしナイフで瞬時に喉元を切り裂くようなオーラを宿している。


 また、本作の推薦文を書いているJOJO広重は、穂高のシンプルな音楽、その隙間にこそノイズを聴いているのかもしれない。爆音で圧倒することだけがパンクではない。轟音で塗りつぶされた世界はある意味、広大な静寂と似ている。そして弾き語りにおける演奏の合間、歌い出しにも、悠久の時、無限に思えるような静寂が横たわっている。筆者だけかもしれないが、無限とゼロは同じではないかということを子どもの頃よく考えた。宇宙が果てしなく膨張していくなら、それは同時に何もないのと同じ。デヴィッド・ボウイ「Space Oddity」で暗黒の空間に投げ出され漂っていったトム少佐のような感覚、虚無。ジョン・ケージの「433秒」。


 穂高亜希子の音楽はそういった子ども時代の空想、それに続く青年期の様々な焦燥を思い起こさせる。しかし同時に、トム少佐を救うロープも投げかけるよう。いざというときに胆が据わっているのは女性のほうなのかもしれない。筋力でいえば女性は弱い。しかし、子どもや全ての男たちを守り癒す力を秘めている。医学的な見地からいえば、女性は免疫系の老化が男性より遅く平均寿命が長い。つまり攻撃ではなく防御に優れている。種の保存において最終的な主役は女で、男はしょせん働きアリだ。有史以前から"男性"に比して"女性"は断然強いのだ。



(森豊和)

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