坂本慎太郎『ナマで踊ろう』(Zelone Records)

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 音楽も含めた "表現" は、ひとつの時限爆弾になり得る。発表当時はなんとなく流していた部分が、突如として心に突き刺さる棘となってしまう。例えば、《この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ》と言葉を紡ぐザ・ストリーツの「Empty Cans」が、10年の時を経てより深く私たちの心に問いかけてくるように。良くも悪くも、"表現" とは時代ごとにさまざまな解釈をあてがわれ、含意も変わる。それを良しとしない者も少なからずいるだろうが、場合によっては希望という名の可能性に繋がるのだから、一概に悪いとは言えない。表現とは "切り口" であって、"答え" ではないのだから。 "答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。決して誰かが教えてくれるものじゃない。


 坂本慎太郎は、実に多くの "切り口" を残してきた。明確な政治的主張をするわけではないが、ゆらゆら帝国時代に生み出した「ソフトに死んでいる」なんて、"今" に相応しい言葉を歌っている。


《いっけんやわらかい すごくなまあたたかい おわらない にげられない わすれたふりはもう やめよう よう よう よう よう》

(「ソフトに死んでいる」)


 とはいえ、ソロ・アルバムとしては2枚目の本作『ナマで踊ろう』は、文字通りの直球勝負。右傾化(というより筆者は "幼稚化" だと思うが)が著しいと言われる現在の日本に対する痛烈なメッセージ性を持ち、諸星大二郎や楳図かずおの漫画に通じる、SF的な寓話性を備えている。それは例えるなら、小さいころ両親に読み聞かせてもらった絵本のようなものだ。布団に入り、うとうとしながら聞いていたそのお話は、実は風刺や社会的教訓が込められたものであったという。このような側面が本作にはある。


 しかもそれは、歌詞だけではなく音にも通底するものだ。本作の初回盤にはアルバムのインスト・ヴァージョンが同梱されているのだが、そこで聴けるひとつひとつの音も "言葉" として伝わってくる。みんなで聴くより、ひとり部屋で寝転びながら聴いていたいトリッピーなサウンドスケープには、本作のコンセプトを築きあげることに腐心する坂本慎太郎の姿、それからファンク、ディスコ、ソウル、イージーリスニングなど彩度ある音楽的背景もうかがえる。もちろんコンセプトも重要ではあるが、本作はひとつの心地良い音世界を示してくれるという点でも、素晴らしい作品だ。


 ちなみに、クッキーシーンを中心に活躍する音楽ライターの近藤真弥、つまり筆者は、某誌で書いた本作のレヴューで次のように述べている。


「まるで地中から這い出てきたゾンビが演奏しているような音楽」(※1)


 これはおそらく、キノコ雲と骸骨というこれまたわかりやすいジャケット、それから「この世はもっと素敵なはず」で歌われる、《見た目は日本人 同じ日本語 だけどもなぜか 言葉が通じない》という諦念が入り混じった一節に影響されたからだろう。これについては今も変わらず抱いている印象だ。本作の1曲目「未来の子守唄」にしても、"未来の人間" というよりは、"未来の死者" が歌っているように聞こえてしまう。言ってしまえば本作は、未来の人々からすれば "過去" である私たちに向けられた、一種の恨み節なのかもしれない。とは言っても、繰り返しになってしまうが、"答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。そういった意味で本作は、"切り口" としての余白を残しており、聴き手を完全に突き放す作品ではない。このあたりに坂本慎太郎という男の優しさ、そして皆が同じ方向へ傾く画一的な熱狂とは別の連帯を求める意思を見いだしてしまうのは、筆者だけだろうか?



(近藤真弥)




※1 : ミュージック・マガジン2014年7月号のクロス・レヴューにおける坂本慎太郎『ナマで踊ろう』評より。

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