WANDA GROUP『A Slab About Being Held Captive』(NNA Tapes)

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 《NNA Tapes》からリリースされた『A Slab About Being Held Captive』は、ナース・ウィズ・ウーンドの『Echo Poeme: Sequence N° 2』を模したかのようなジャケットに包まれ、盤面には "Lupo" ことアンドレアス・ルビック(去年までDubplate & Masteringのエンジニアだった)による "Loop_O / Calyx" の文字が小さく刻まれている。A面に針を落とすと、分厚く重苦しい低音が鳴り始め、すぐに凄まじい高音のノイズ・エレクトロニクスで充満される。この時点で大抵のリスナーは不快を覚えるだろう。ノイズが鳴り止むと、静かな風景へと移動する。近くで水の流れる音と人の喋り声が聞こえる。鳥の鳴き声も挿入される。そこにあるようで無いような、不明瞭な音質である。その間、不気味な低音がずっと唸っている。巨大な飛行物体が近づいてくる音が聞こえ、どこかへ去ってゆく。そこから数分間、なにも起きない。後半に差し掛かると喘ぎ声とグロテスクなエフェクト、金属音が立て続けにあらわれ、激しいカットアップとインダストリアル直球の轟音が繰り返される。目紛しく場面は展開し、最後、スッと音圧がフェードアウトすると、不気味な低音は消え去る・・・。


 ワンダ・グループ、本名ルイス・ジョンストンの名前が最初に世に知れたのは、2010年に《Leaving Records》から『Caveman Smack』という名のカセットテープを発表した時である。その時はデム・ハンガーという名義を使用していた。このカセットに収められた奇々怪々としたサウンドスケープは、当時賑わっていたロサンゼルス界隈のビート・ミュージック(フライング・ロータス『Cosmogramma』やティーブス『Ardour』、トキモンスタ『Midnight Menu』は同年発表である)を確実に意識していた。「意識していた」というのは「距離感を見定めていた」ということであり、言い換えれば商業主義に染まりだした気運とは一歩距離を置こう、ということである。とにかく音粒が細かく、大量の情報を1曲に詰め込む。泥臭くゲットー的で清潔さはまるでない。今でこそ《Dirty Tapes》や《bootlegtapes》、D/P/Iや日本のcanooooopy(キャノーピー)といったカットアップ・シーンのパイオニアたちは注目を浴び始めているが、ルイスはそれに通ずる青写真をもうこの時すでに描いていたのである。彼はその年の末にベルギーの新興レーベル《Vlek》の第1弾リリースの役目を全うすると、早々とデム・ハンガー名義での活動は終え、その後はワンダ・グループでの活動をメインとする。ワンダ・グループは、多くのドローン/アンビエント作家が醸すような陶酔性と同時に、過度にパフォーマンス・アート化しないノイズ・ミュージックの可能性を突き詰めたようなサウンドで、インダストリアルが持っていた狡猾な精神と反社会性を帯びている。


 持田保氏が著した『INDUSTRIAL MUSIC FOR INDUSTRIAL PEOPLE!!!』によれば、77年から始まったインダストリアル・ミュージックという音楽の特徴は下記のとおりである。


"その音楽形式をザックリと表現するなら「ズタズタになるまでロックを解体し、ノイズ(エレクトロニクスから具体音まで)を導入する」であり、また音楽同様か、もしくはそれ以上にアート・テロリズム的なメディアへの情報戦略が重要視された。"


 近年、こうしたインダストリアル・ミュージックに源流をみてとれるような音楽が世界中から観測できる。それは、《Opal Tapes》や《Vlek》《Alter》《Further Records》といった硬質で灰色のイメージをまとった地下テクノ/ハウスの音楽たち、あるいは阿木譲氏が「コンテンポラリー・モダン・ミュージック」と提唱する《Editions Mego》《Modern Love》《Blackest Ever Black》《Downwards》《PAN》といった、主に英国やドイツのレーベルが発信する、暗闇の奥から鬱屈とした怨念を吐き出したかのようなアンビエント/ドローンとテクノの境界をゆく電子音楽であったり、ざっくざっくと切り刻んでコラージュした、サウンドクラウドやバンドキャンプに無数に巣くうヒップホップを土台としたサンプリング・ミュージック群であったりする。これは、インダストリアル・ミュージックが当時のロックに反撥する流れで生まれたムーヴメントであることの相似形として、物と情報が行き届き過ぎた結果の副作用として限定生産を行い(50部限定はザラ)、曲自体はインターネットで無料ストリーミング再生が可能であることがしばしば(従来のメディア・複製権利観を揺るがす)、そのサウンドは大衆性とは程遠い場所で鳴っている(聴衆の選別)。これらの音楽は、総じてインダストリアルとして括ってしまうのが惜しいくらいに多様な進化を遂げており、周辺文化を侵蝕しながらもどこか共通した理念を持つ運動体としてテン年代に広がりつつある。例えば、これらの音楽はカットアップをよく行う。カットアップは古くは1910~20年代のダダに始まり、50年代ではガイジンやバロウズが、70年代には彼らから直々に継承したアーティストら(インダストリアルの中心人物たちを含む)が用いた技法である。カットアップとはその名の通り、切ることである。意味を断つことであり、既成概念の否定である。同書の言葉を借りるなら「高度情報社会に対するアクション装置として」のカットアップは、いまや世界中の至る所で試され、一貫して仄暗く陰鬱とした表象で自らを覆い、時には聴く者の気分をどん底に、時には高揚させたりする。


 針をB面に落とす。何かが激しく摩れる音がする。遠くからまた不気味な轟音がやってくる。ホワイトノイズ、灰色雑音が織り重なったようなキメの細かい音の群れは、嘗てのグリッチ・エレクトロニカを思わせなくもない。が、これといったメロディーは皆無。高周波のモスキート音が鳴りだすと、もはやドローンとも似つかない何かになってくる。気分は悪くない。一つ一つの音を、風景を構成する要素の一部だと思ってしまえばヒーリング効果さえあるのでは。ただしこれをBGMに眠りたくはないが。しかし・・・いったいこういった音楽が我々に訴えるものとは何だろう。私は、この音楽を人に勧めたいとも思わないし、理解してもらおうとも思っていない。そしてこんな音楽に入れ込んでいる孤独と背徳に苛まれながらも、そんな自分を楽しんでいる節がある。なぜかこういった音楽を嫌いになれない。ああ、奇妙な音楽を聴くようになってしまったものだ・・・と思いながら、私はまた針を落とすのである。外は政治だとか社会問題の話で煩い。隙を見せればすぐ邪魔しにくる。新手の宗教か何かだろうか。やんややんや言わないでほしい。まったく、音楽だけあればいいじゃないか・・・ただ、そうもいかないらしい。面倒な世の中だ。



(荻原梓)

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