前野健太『ハッピーランチ』(felicity)

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 いいメロディーがあって、心地よく刻まれるギター・カッティングがある。時に女性や子どもといった他者の視点で自らの半生を振り返って歌い、それがセルフ・セラピーになり、多くの人に聴かれる普遍的な"うた"となる。前野健太の新作について語るのは、これだけで十分かもしれない。でも、もう少し話をする。


 彼の歌を聴いていると、ミュージックファーストという名古屋の中古レコード店を思い出す。TV塔の近くにあるその店は小さいながら、レコード好きのツボをつかんだレイアウトで、ゆっくりレコードを掘るには最適だ。椅子に座って試聴もできるし、おまけに隣にはオシャレなカフェもある。この店にはマジックがある。探し物があったわけでもないのに、行くとつい何か買ってしまう。適切な値段、見やすい配置で商品が並べられ、一つ一つの音盤へのリスペクトが感じられる。


 店内ではたまに前野健太の曲が流れていて、後で聞いた話では店員の一人が前野の大ファンだそうだ。彼がどんな人でどんな生活をしているのかまったく知らないけれど、レコードが積まれたアパートの一室で、休日に寝転がって聴いているのかもしれない。季節が夏ならセミの音に混ざったメロディーに耳をすましビールを空けて、秋になれば鈴虫が弾き語りの曲に伴奏をつける。彼の恋人は「飽きないねえ」とためいきをつきながら、気がつけば昼食を作る最中に前野の歌を口ずさんでいる。そんな風景が目に浮かぶ。


 前作に引き続いてジム・オルークがプロデュース。彼を含むバック・バンド、ソープランダーズと共に録音された本作で、前野は表現力をさらに深めた。この世界への諦念を歌いながらも、その奥に凄まじいエネルギーを感じる。本作のリード・トラック「ねえ、タクシー」で前野はこう歌う。《私よりみじめな猫を探しても暗闇から逆に見つめられているようで》。ニーチェが述べたように「深淵を覗き込むとき深淵もまたこちらを見つめている」のだ。タイトルをひたすらささやき続けるループ・トラック「悩み、不安、最高! !」で、おそらくレコードにおけるA面とB面が分けられる。


 そのB面中盤の曲「愛はボっき」は本作のハイライト。前作のタイトル・トラック「オレらは肉の歩く朝」で見つめた自らの内面を、今回は他者との関係に投影している。コップに水が半分しか入っていないと考えるうつ病相から、まだ半分もあると前向きに捉えられる状態への移行、そして今ある愛情を大切に、瞬間を永遠に変える魔法を唱える。混沌とした悩みを吹き飛ばすために彼は「風は吹いてる」と歌う。震災、原発、秘密保護法といった具体的なキーワードを持ち出さなくても、我々の日常にすでに不安は潜んでいる。解決するための答は、我々の手の届くすぐそばを「風に吹かれて」漂っている。


 レコードの針を止めるために起き上がり手を伸ばす。ふと台所を見やり恋人のあきれた笑顔に気づく。美味そうな飯の匂いが漂う。



(森豊和)

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