Shiggy Jr.『Shiggy Jr. is not a child』(mona records)

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 本当に面白い時代になったものだ......と書き始めるのはクッキーシーンでは二度目のことで、Youtubeの関連動画を駆け巡るような、音楽史観をかき混ぜる作品がメジャー/インディー問わず現れたり、ネットでシーンが可視化された分、日々音楽がアップデートされる様子を目に見えて感じていると、最早SNSで情報を簡単に共有できる時代に1000字以上というルールでここに書く意味とはいったい何だろうと思わされる。正直なところ、自分の知っている限りの蘊蓄を垂れ流したいという拙い邪念を取っ払ってしまえば、「読まなくていいからこのアルバムを聴いてくれ!」だけで済ませたい思いである。そんな無力感に抗うために今、この原稿を書いている。


 シギー・ジュニアは88~90年生まれのメンバーによって構成される5人組バンドである。『Shiggy Jr. is not a child』は、友達の家でホームパーティーをした楽しい記憶を蘇らせてくれる、夢見心地の25分間だ。先日渋谷でのライヴを拝見したが、実際に「パジャマでパーティー」というのはバンドとしてのテーマであるようだ。都会で暮らす若者が、「なんとなく集まって楽しいことしよう」という素朴でカジュアルな気持ちをそのまま音楽にしたような、そんな楽しさに溢れた居心地の良い風景であった。90年代渋谷系を通った人なら舌を巻かざるを得ないバンド・アンサンブル、そしてそれが土岐麻子擁したシンバルズを思い出させるためか、昨今の「萌え声系」バンドとの接続も感じ取れる歌唱も魅力的である。


 しかしシギー・ジュニアは、そういった「日本音楽史」的な先人達を引用されて語られながらも、そこに「コピペ感」をまったく感じさせないのが良い。たとえば同時期にリリースされた禁断の多数決のアルバム、『アラビアの禁断の多数決』とは対照的だ。彼らはほぼ全曲に渡って「海外からの輸入」を確信犯的に行い、それをJ-POPとして昇華している。彼らは現代を知っている。あらゆるサウンドが試されたロックバンドの土壌において真新しい革新的な音楽など作ろうものなら、一曲の完成にいったい何ヶ月かかるだろう。だとしたら、たとえそれがコピーだとしても、ポップスとしての機能が保証されているのであれば、楽曲を量産できるスタイルや技術を身に付けた方がよいのではないか。それを禁断の多数決は採用した。


 シギー・ジュニアが面白くまた不思議なところはその点である。確かにジュディ・アンド・マリーやシンバルズを引き合いに出したくなる気持ちも分からなくはない。が、シギー・ジュニアの鳴らすメロディーやコミカルなアレンジ、爽快感あふれる青春ロックには良い意味で歴史性が帯びていない。Youtubeの世の中であっても、ごく単純に「楽しさ」だとか「憧れ」や「寂しさ」からインスピレーションを受けたオリジナリティーを忘れていない。シーンとやらを横目で見ながら、といういやらしさもまったくない。Shiggy Jr. is not a child("シギー・ジュニアは誰かの子供じゃない")とはそういうことだ。ただ、タワレコで「2013年最後のシティポップ革命」とフレコミされていたのには少し考え込んでしまった。J-POP史における洗練されたアーバン・メロウな楽曲の系譜、すなわちシティー・ポップの範疇がこれほどまでに広くなったのは、ここ1~2年の話ではある。シティー・ポップと聞いて思い浮かべる今年のアルバムと言えば、一十三十一『Surfbank Social Club』や土岐麻子『HEARTBREAKIN'』、(((さらうんど)))『New Age』であるが、こういった70年代から80年代にかけての、都会の生活を心から楽しんでる風のカーステレオ・ミュージックへのストレートなオマージュ作品に対し、今インディーズで鳴らされている「シティー・ポップ」と括られがちな音楽はやはり、それらとは一線を画す距離感がある。森は生きているがシティー・ポップに括られている、と聞いたときも驚いてしまった。("森"は"シティー"にないでしょ!)


 個人的な話をすると、最近は住所不定無職の新作『Gold Future Basic,』を聴いて、ポップ・ミュージックとは誰のためにあるのかを考えていた。筆者は『Gold Future Basic,』を間違いなく傑作だと思っている。が、あの作品に私の考える「ポップ」を見出すことはできなかった。特定の人達だけに向けられた表現に思えてしまった。勿論、彼女らはそれを意図していないだろうが、前提を共有できる人だけに向けた音楽という、閉じた構造をそこに見てしまった。


 「ポップ・ミュージックとは誰のためにあるのか?」という命題にシギー・ジュニアは、「Saturday night to Sunday morning」のミュージック・ヴィデオで「それはすべての人のためにある」と回答している。典型的な日本家屋の和室にミラーボールを飾り、着飾らない格好で踊る。お泊まり会というテーマも日本の多くの若者が経験することだろう。だからこそ曲が終わってしまうのが寂しいのである。この楽しい時間がずっと続けばいいのにと感じさせてくれる。こんな事を褒めるのは変かもしれないが、30分弱というこのアルバムの尺は本当にちょうどいい。さくっと聴けて、さくっと幸せになれる、そして最後の「ばいばい」でほどよく現実に戻させてくれるのだ。


 昔と比べれば、遥かに便利になった現代でも何か物足りなさを感じる毎日に僅かでもポップを見出そうとする人々のささやかな日常の光景、あるいは分断されたポップ・カルチャーの先にあるほんの小さな希望のミラーボール。それこそ歴史を知らなくたって良い。知っていても楽しめる。そんな、誰にでも届く作品をシギー・ジュニアは作った。



(荻原梓)

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