工藤鴎芽『Blur & Fudge』(Kamome Kudo)

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 3枚目のフル・アルバムにして、初の全国流通盤となる工藤鴎芽『Blur & Fudge』は、フィルム・ノワール的でありながらも好戦性にあふれている。


 1曲目の「Biology」では、木霊する叫び声とノイジーな音の塊に襲われる。そこから、ギターの鳴りが印象的な「世界は 世界は」への繋がりが彼女自身の内面鏡像をあらわにさせる。筆者としては、サロン・ミュージックをここで想い出しながら、80年代に隆盛した"サイバーパンク"という言葉が脳裏をよぎった。サイバーパンクとは、80年代のSF作品、ひとつのムーヴメントといえるが、社会において個人や集団がより大規模なネットワークに取り込まれてゆく状況、過程描写が典型的なものといえ、さらにそのネットワーク構造への反発が個としてなされ、どこかしらそういった二項軸をメタ化した特殊な内容のものが多かった。


 有名なところでは大友克洋『AKIRA』、リドリー・スコット『ブレードランナー』などがあり、現代は別種の意味でネットワーク化が人間をID管理化させていこうとし、また、疎外的に置くようにもなっている。共通倫理が護られているなかでは何も起こらないとしても、その「共通」はもう共通ではなく、誰かの強制に隷属しているだけではないのか、ということ。


 工藤鴎芽は予め、現代社会の規則性から疎外された場所で実存的な歌を作ってきた。3曲目には彼女が「大切な曲」と評する「花のにおい」がアルバム・ヴァージョンとして収められている。


《ずっと続いてゆく 不安が欲しい 夢の中まで 私の中まで 甘く漂いながら》

(「花の匂い」)


 続いてゆく不安、という安心。例えば、世間的に安定的な仕事を得て、家庭を持ち、生活をおくっている人たちはみんな安心なのかといえば、それぞれに葛藤や不安は根源的にある。小さいころから見ていた夢が「現実」になったら、現実はひたすら続く。その現実はもう夢ではない。この「花のにおい」には彼女の哲学、生きざまが凝縮されている。


 ギター・ノイズで埋め尽くされた4曲目の「ブラー」は、《One,Two》と外部へ向けてか、自身の内部への確認なのか、マイク・チェック的な呟きが何度も繰り返される曲。声が聞こえるか、サウンドのバランスはどうか、ではなく、この轟音のなかで何かしら問いかけをしようとすることそのものが大きいのかもしれず、強弱をつけた《One,Two》の声も突然、4分ほどすると消えてしまう。反転して、5曲目「ファッジ」は軽やかなピアノのリズム、スキャット、弦の入り方などが耳に残る佳曲だ。


 本作は、歌ものとインストゥルメンタル的なものの配置が的確に為されている。厳かな「Interlude」を挟み、昨年のEPでは1分11秒ヴァージョンとして発表されていた「梔子」(3.33Ver.)へつながる。EPの際はサイケデリックで歌詞もよく聴き取れない様相だった曲が、とても美しい旋律で奏でられる。優しく穏やかなヴォーカルに乗る"あなた"への想いがか細い糸の上でバランスを取るように。


《白い花の咲く季節になれば いつも想い出す事がある》

(「梔子」)


 電子音が混じった軽妙なギター・ロック「メトロ」から、胸打つバラッド「Technology」と、後半は冒頭に書いたフィルム・ノワールのような、という表現を迂回する。


《芝生を踏む裸足のまま夢中になって この世の中の果てはまだ知らなくてもいい 喜びとは途切れ途切れやってくる 手の中に今はないけれど》

(「Technology」)


 英語詩の10曲目「ルーシー」はバンド時代から演奏してきた曲であり、彼女の悲痛なほどの咆哮から過去の彼女の回帰を辿り、主体はブラー(曖昧)になってゆく。そのブラーに、アンドとして、ファッジというお菓子を連結させることで、曖昧/甘味の間に忍ばせるのはこれまでどおりの毒や虚無、不安なのだが、本編を締める11曲目の「虹」でこう歌うのが意趣深い。


《そのまま時が過ぎて そのまま時が過ぎて そのまますいこまれていったよ そのまますいこまれていったよ 虹に溶けた 話はまだ少し 幻 わかってても》

「虹」


 過去のキャリアを鑑みても好戦的な内容だが、そうした作品を初めての全国流通盤としたのは彼女の矜持なのかもしれない。



(松浦達)

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