JUANA MOLINA「Eras」(Crammed Discs)

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 近年は、多くの日本アーティストの称賛もあり、アルゼンチン音響派と呼ばれる音が隆盛していたなかでも、そのルックスや音楽性を含めて、このフアナ・モリーナは真っ先に挙げられるかもしれない。


 00年の『Segundo』におけるエレクトロニカとウィスパー・ボイスが混成し、フォーキーながら、不思議な浮遊感と音風景は、特に日本で多くの人に受け入れられた。しかし、"アルゼンチン音響派"という曖昧な括りでは見え難いところがあり、そういったなかで音を紡ぐアーティストはトン・ゼー、ムタンチスから、プログレッシヴ・ロック、ポスト・クラシカルまで幅広くもアヴァンギャルドな指向を持つ音への敬愛をときに示すように、予めの多様性が前提にありつつ、音の実験を推し進めてゆくものと「うたもの」としての足場を固めてゆくもの、そんな二分化が少しずつ出てきている。


 フアナ・モリーナはイギリスの《Domino》と契約し、06年の『Son』をリリース。より拡がってゆくなか、ただそのアルバムでは脱・バンド、仲間内と一人での作業を詰めてゆくような形態を強めていった。フェルナンド・カブサッキは不参加、アレハンドロ・フラノフも2曲のみの参加、あとはほぼ全ての楽器を自分で演奏している。続いての08年の『Un Dia』でもそのアティチュードは極められ、結果として、多重に重ねられた自身の声がよりミニマルにシェイプされ、ゆえに内省性と陶然の狭間を行き来するようなデモーニッシュなセンスが強められていた。


 この変化と実際のライヴ・パフォーマンスで見せる多彩な面も併せ、筆者はむしろ『Segundo』以降よりも、現在における彼女の動きや新作に興味が向いていた。11月に開催されるHostess Club Weekenderへの参加も決まり、約5年振りとなるアルバム『Wed 21』も迫るなか、リード曲としてこの「Eras」が届けられたが、もはやアルゼンチン音響派の枠を越えたサイケ・フォーク的な佳曲になっている。後方でぐにゃりと響く電子音や幾つもの楽器、パーカッション、そして、フアナの歌声はリフレインし、エコーする。ここで想い出すのは新作が歌声を重視し、ポスト・クラシカルを越えた無比の内容になっていたコリーン、またはムームだったりする。どちらも新作では、明らかに違った場所に向かった。


 ここでフアナの少し複雑な来歴を振り返ってみたい。離婚はしたが、父親がタンゴ歌手のオラシオ・モリーナであり、幼少期もジャズ、ボサノヴァなど多くの音楽に囲まれて過ごし、1976年の軍事クーデターにより、11歳のときに家族でスペインに渡り、その後パリで6年を過ごし、政権変化で母郷たるブエノスアイレスに戻ったあと、当初はコメディエンヌとしてTVのなかで活躍をした。


 彼女は最初から「音楽で、何かを語ろう」という姿勢ではなかったのは確かだろう。だからこそ、緻密な音響のなかで、小声で意味を逸れ、聴き取れないことも厭わず、ジャケットでも髪で顔を隠し、アーティストとして匿名的な場所から始めないといけなかったような気もする。


 それでも何かを語るために、音楽があるのか、という問いは撞着も帯びる。メッセージ・ソングと呼ばれる類いが差異を均してしまうということ。例えば、"We"という言葉に含まれない人のためにも音楽はあるとしたら、何かを語らずとも現前する意味はある。


「Eras」では後半、不気味なコーラスとともに静かに終わるが、00年代半ばから「音楽で、何かを語ろう」とし始めた彼女の得体の知れないメッセージ性が想わぬ方向へと舵を切ってきているということであり、アルバムが俄然楽しみになってくる。洒脱なイメージがまだ付随しているところもあるが、一層、オルタナティヴになってゆく彼女の在り方は注視していきたい。


(松浦達)

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