【合評】森は生きている『森は生きている』(P-VINE)

|
森は生きているjacket.jpg

 待ち望んでいた森は生きているの1stアルバム『森は生きている』がいよいよ発売された。森は生きているは東京を拠点に活動する6人組のバンドで、一枚のデモ音源が話題を呼び、各所でその名を轟かせていた。そんな森は生きているが今回出したアルバムは、日本の音楽シーンにおいて歴史的名盤になるであろうマスターピースだと、私は断言したい。


 彼らは"はっぴいえんど的"だと各所で言われているが、それは70年代初期のはっぴいえんどに見られた"ヴォーカルもまたサウンドである"という考えに通じる姿勢を感じるからだろう。当時、それまでの日本のポップスは歌に偏り過ぎていた。それは恐らく現代にも少なからず見られる流れで、森は生きているはそういった点で日本語ロックの新しい可能性を追い求める、非常に稀有な存在だと言える。


 だが、彼らの音楽そのものを"はっぴいえんど的"だと言うのは少し短絡的すぎる。彼らは自らの音楽を、メンバーの雑多な音楽をごった煮した「チャンポン・ミュージック」と称しているが(このネーミングは、各国の音楽をごった煮した細野晴臣による『トロピカル・ダンディー』『泰安洋行』『はらいそ』の"トロピカル三部作"が"チャンキー・ミュージック"と呼ばれていたことから想を得たのではないだろうか)、森は生きているのメンバーのほとんどが、非常にマニアックなヴィニール・ジャンキーである。それゆえ影響を受けている音楽は国もジャンルも多岐に渡る。しかし彼らの凄いところは、カントリー、アンビエント、アフロ・ジャズ、ブルースなど、数々のジャンルを吸収しつつもそれを一度咀嚼して消化し、現代でも普遍的に聴かれ得るポップ・ミュージックへと昇華しているところだ。それゆえひとつのバンドをピックアップされ、"リヴァイヴァル"や"フォロワー"などと言われると違和感が残ってしまうのは致し方ないのだが、今作は、そんな野暮な括りすらひょい飛び越えてしまった。


 全9曲から成る今作は、メンバー全員20代らしからぬ渋いサウンド・アプローチを持ちながらも、柔和なヴォーカルや青さの残る文学的歌詞が耳に残り、懐かしくもどこか青臭さを感じる。各所で鳴り響く管楽器やアメリカン・ルーツ・ミュージックを色濃く漂わせる鍵盤のアレンジなど、心地よいサウンドとともにノスタルジックな情景が運ばれる。また、抒情的な歌詞の中では「夢」がひとつのキーワードとして印象的に用いられ、今作の中で反芻して歌われている。


 私たちは信じられない現実に立ち会ったとき「夢みたいだ!」と形容するが、その逆で、リアルすぎて現実と錯覚してしまうほどの夢だって存在する。夢と現実は全く対極のものとして捉えられがちだが、思っているほど明確な境界はないのかもしれない。《いつか夢で見たような景色が あるような気がしたから 僕も行くよ》という「回想電車」の歌詞が象徴するように、森は生きているには、そんな曖昧な"夢"と"現実"の隙間に滑り込んで奏でているような浮遊感を孕んでいる。その浮遊感は思春期に音楽ばかりを拠り所にしていたような心情にも、少し似ている。


 また、今作の収録時間は約40分。ちょうど、レコードの収録時間と同じだ。アルバム・ジャケットを飾るモノクロの観覧車が象徴するのもレコードなのだろうか。人を乗せてくるくる回る観覧車と音楽を乗せてくるくる回るレコード、回るごとに景色が変わるその様は、観覧車もレコードも同じだ。それならば『森は生きている』というレコードは、くるくると回りながら変わりゆく風景を写し出し、人々にノスタルジックな感情を呼び起こす名盤だろう。


 森は生きているという素晴らしい音楽を奏でる若者たちが同時代を生きているなんて、こんな幸せな音楽体験は滅多にない。そんなことを当たり前に思わせてしまう彼らの音楽がこれからどう展開していくのか、楽しみで仕方ない。



(竹島絵奈)

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>




 近代化というのは、言ってしまえば欧米化である。近代以降の歴史は欧米を中心に築き上げられたと言っても過言ではない。そんな欧米化の波はここ日本にも及び、比較的スムーズにアメリカナイズが進んでいった。そうしたなか、日本では"自然克服"を重視する西洋思想が広まり、"共存"や"循環"を特徴とする東洋思想の色は薄れていった。それは例えば、従来の日本が持つ様式をふまえた"近代和風建築"なる括りがありつつも、石造構造を土台とする西洋建築の要素が色濃くなった日本建築史にわかりやすく現れていると思う。もちろん今でも、その地域の風土や気候に合わせる形で建てられた和風建築は存在するが、数は少なくなっている。周りを見渡せば、そのほとんどが石、今で言えばコンクリートに囲まれていることに気づくはずだ。


 岡田拓郎、竹川悟史、谷口雄、久山直道、増村和彦、大久保淳也の6人によって結成された森は生きている。彼らの音楽に出会ったのは、自主制作のCD-R「日々の泡沫」を下北沢にある《mona records》で手に取ったときだったか。先鋭性をアピールしたり、岡田拓郎が参加しているバンド發展のような実験的姿勢を強く打ち出しているわけでもない。しかし瑞々しい響きを持っており、同時に年季の入った音楽ファンも納得させる渋味を携えたサウンドには興奮させられた。一度聴けば惹きつけられる親しみやすいメロディーも印象的。そして、レコード・ショップで黙々とレコードを漁り、ピンときた作品を試聴する音楽好きの姿が浮かんでくる雰囲気と、バンド名のインパクト。


 実を言うと、この原稿の書き出しはバンド名を見て思い浮かんだもの。"関係ない"と一笑に付されるかもしれないが、森は生きているという名前は、先述した東洋思想の特徴である"共存"や"循環"を想起させる。さらに岡田拓郎は、オトトイのインタヴューでバンド名の由来についてこう発言している。


「僕らはドラえもんの話から名前をとっていて。単語じゃなくて文章をバンド名につけてるのってそんなにいないなあと思ったのでつけましたね。それとあとから決定打になったのが、森っていう字をローマ字表記にすると「mori」、ラテン語で「死」を意味する言葉なんです。それって単純におもしろいんじゃないかなあと思って」


「単純におもしろい」からとはいえ、ある種の死生観をバンドの一要素に含める感性は興味深い。またその感性は、過去/現在/未来といった我々が身を置く時間軸とは程遠い場所にあるサウンドスケープにも滲み出ている。バンドのホームページでも書かれているように、彼らの音楽は数多くの要素が結合して生まれたものだが、その姿はさながら、バラモン教でいうところの"輪廻"、つまり人は繰り返し生まれ変わるという死生観を思わせるような・・・。だが、それが理論や知識だけではなく、これらを基礎とするプリミティヴな音楽愛という極めて本能的な部分によって生じているからこそ面白いし、だからこそ彼らの音楽は、さまざまな影響元を探るように楽しむコアな者から、そうではないライトな音楽リスナーも虜にできる普遍性を持っている。


 "人の匂い"を漂わせ、日常にあるささやかな物語を掬いとる文学的な歌詞も特筆しておきたい。全9曲中7曲を増村和彦、残りの「帰り道」「日々の泡沫」を竹川悟史と岡田拓郎がそれぞれ担当している歌詞は、曲ごとに独立した風景を描きながらも、それらがアルバムとして纏まると、聴き手の中にひとつの街を現出させる。


 かつて、ゲーム会社スパイク・チュンソフトの前身チュンソフトは、1998年に『街』というゲームをリリースしている。このゲームは、8人の主人公がそれぞれ独立したストーリーを持ち、プレイ中に現れる選択肢のなかから行動を選んでいくサウンドノベル。『街』の面白いところは、選んだ行動が別の主人公に影響を及ぼすこと。主人公Aにとっては最適な行動でも、主人公Bにとっては不幸を招く結果、いわゆる"バッド・エンド"に行き着いてしまうといった具合に。


 こうした相互作用は、あなたが生活する日常にもたくさんある。例えば、あなたが美味しそうにラーメンを食べている姿につられ、他のお客さんもラーメンを注文したりとか。日常生活では、ゲームのように選択肢が見えることはもちろんない。しかし、それは見えないだけであって、人は常に選択をしながら生きているとも言え、そういった意味で人は相互作用によって常に繋がっている。本作においてその相互作用による繋がりは、「断片」「ロンド」以外の7曲に散りばめられた"僕" "私" "君" "少女"といったキーワードが目を引く心地よい語感の歌に仮託されている。


 さらにはジャケットの観覧車。観覧車は、いくつものゴンドラを巨大な車輪上のフレームに取りつけ作られている。その観覧車を象徴的に扱うジャケット・デザインは、相互作用によって人が繋がる日常を表象しているように見える。そんな表象を匂わせる本作は、人を孤独から解放し、聴き手の人生に華を添えてくれるだろう。


 もし、あなたが退屈な日常だと感じていて、本作を聴いたとしよう。そして、聴き終えてから周りの風景を見てほしい。退屈な灰色が鮮やかな色彩に変わっているはずだ。モノクロのジャケットもカラフルに見えてくる。もちろん聴き手であるあなたの想像力と生気によって。こう書いてしまうとまるで魔法のように聞こえるだろうが、本作にはその魔法がある。



(近藤真弥)

retweet