MARIANA BARAJ『Sangre Buena』(Beans)

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 ポスト・コロニアル的な観点から現代の多文化次元主義について翻訳しようとすると、どうしても難渋な複眼性を帯びざるを得ない。近代以降は、伝統が何かしらの権力装置に強制された上で「標準」を課され、それをネーション内に組み込んでしまい、それをまた集態的に受け入れざるを得ない磁場が少なからずあり、ナショナリティ、自然性、固有性は回復可能なのか、という憂慮も持ってしまうからだ。


 そこで、哲学者のデリダのいうところの「絶対的翻訳」、または透明な普遍性、一般化に対する抗いへの言葉がどう生まれてくるのかに意識は募るが、安定した言語、文法や人工的に均質された何かへの視座は厳しい要素を孕むのも道理であり、たとえば、フォルクローレを考えるとき、ラテンアメリカ諸国の長い歴史に培われた民俗性に根付く大衆のための音楽をそのまま、ブレなく翻訳し、伝えることは不可能にも思える。


 このマリアナ・バラフは、アルゼンチンのフォルクローレをベースにフュージョンやロック色を取り入れ、アルゼンチン音響派との共振もありながら、オリジナルの文体を作ってきたアーティストだが、留意しておくに、アルゼンチン・フォルクローレとは、国内で白人が人口の大半を占め、地域によって多少の差はあるものの、そこでは基本的にスペイン系の特徴といえる6/8拍子が多く、ガウチョの音楽とリズムの影響も見える。


 マリアナ・バラフは、1970年にアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスで生まれ、サックス奏者のベルナルド・バラフを父に持ちながら、ジャズだけではなく、広汎な音楽への好奇心を拡げてゆく。若くしてアルゼンチン・フォルクローレのパイオニアであり、研究家としても有名なレジャ・バジャダーレスになによりも敬愛を示しているが、レジャといえば、フィールド・レコーディングからペドロ・アスナール、リト・ネビアなどとの交流を含め、多岐に渡り、アルゼンチン・フォルクローレの複数翻訳を試みたアーティストだった。その継承者として彼女の名前を見受けることもある。


 彼女は02年のファースト『Lumbre』の時点で、既にある一定の文法を保っているが、それは伝統と現代的な即興のケミストリーと言おうか、ただ、ラフなサウンド・プロダクションはまだまだこれからを感じさせたが、07年の『Margarita y Azucena』では緻密に作り込んだサウンドに欧州などからも高い評価を受けるようになる。


 しかし筆者としては、端整にアルゼンチン・フォルクローレを礎に、ジャズや西欧諸国の音楽とのソフィスティケイティッドをはかる作品群に、冒頭のように翻訳の困難を感じてもいた。どんどんクロスオーヴァーしてゆくのはいいが、ポスト・コロニアル的に伝統が透明化し、ポピュラー化してゆくのは勿論、是非はあるだろうが、彼女のポテンシャル的にそのバランスが拮抗したものを作りだせるのではないかと思っていたからで、この5作目となる『Sangre Buena』で、THE BOOMが沖縄やブラジルに、デーモン・アルバーンがマリに、ピーター・ガブリエルがアフリカに巡ったように、その逆位相にアルゼンチンからメトロポリタン的に複数翻訳可能な新しいポップスを届けるのに成功していることはなにより喜ばしい。"フォルクローレ"という括りで、まだこの音楽を捉えるにはスムース過ぎるがしかし、1曲1曲に込められた意図を汲み取ると、これが契機となり、アルゼンチンの元来のフォルクローレに世界中から、いや、アルゼンチン本国のアーティストたちに目を向けてほしいというような忖度もできる。


 1曲目は、アルゼンチン北部とボリビアのフォルクローレのリズムであるティンクを使った軽やかな「La Hora」。あなたを巡る、優しい言葉を歌声が攫う。2曲目は踊りだしたくなるガトのリズムを用いた、大御所たるチャケーニョ・パラベシーノのゲスト参加もあり、彼の「OLA!」の掛け声、ヴァイオリンの響きまで今後、ライヴでも盛り上がりそうな雰囲気を受ける。今作は多くの伝統的なリズムにより細心を払い、1曲内のテーマもはっきりしているがゆえ、どこから聴いても感じられるものがあり、ラブ・ソングはむろん、日常的なもの、詩的なものまでバランスよく配置されているのもいい。


 彼女の父がサックスで参加した6曲目のストレートなポップ「Especial」における、少し憂い気味に愛的な何かの不思議に関して歌う情感と、「Sangre Buena」のラスギー・ドブレのリズムに伸びやかに同じく愛的な何かへの逡巡を投げかけるシンプルな2曲に特に心魅かれたが、要は、リズムのアルバムであり、アルゼンチン・フォルクローレの再更新をはかるアルバムにして、やはり、リアナの「声」のアルバムとも思ったからである。マリアナの「声」を翻訳するには、おそらく、難解な翻訳装置も理論もいらないだろう。この作品はそういう意味で、グローバル・ポップスとしても秀逸でありながら、表層だけをなぞっていては何も見えない、そんな奥深さもあるオルタナティヴさを持っている。



(松浦達)


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